モーリッツ・ヴァーグナー、 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトおよび

Ⅲ部 シーボルトの「日本博物館」構想について――日本を「展示」する――
モーリッツ・ヴァーグナー、
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトおよび
ミュンヘンにおける民族学の制度化
1
リヒツフェルト・J.・ブルーノ
(山 本 恭 子 訳)
はじめに
1862年4月23日、バイエルン王マクシミリアン2世ヨーゼフ(1811~1864、在位:
1848~1864)は、旅行家であり自然科学者でもあるモーリッツ・ヴァーグナー(1813~
1887)を、ミュンヘンの民族誌コレクションの初代管理責任者に任命した(図1)。この
国王の命令は、ミュンヘン民族学博物館が誕生した時とみなされている。博物館学芸員と
してのモーリッツ・ヴァーグナーは、長年にわたってほぼ忘れ去られた存在であった。彼
が地理学者であり生物学者であることは、少数の者しか知らなかった。数年前に行ったい
くつかの研究活動によって、ようやくモーリッツ・ヴァーグナーは博物館学芸員としても
再びその名を知られるようになり、それと共にミュンヘンの博物館での制度化された民族
学の歴史も始まった。また彼の主張と助力によって、特にフィリップ・フランツ・フォ
ン・シーボルト・コレクションが1866年にミュンヘンに運ばれたが、それが同博物館のた
めに購入されたのは1874年になってからのことだった。
1.紀行作家およびジャーナリストとしてのモーリッツ・ヴァーグナー
モーリッツ・ヴァーグナーは、1813年10月3日にバ
イロイトで生まれた。父ローレンツ・ハインリッヒ・
ヴァーグナーは高校教師で、教養の高い人物だったが、
そのリベラルな政治思想のゆえにしばしば問題を起こし
た。そのために1820年にアウグスブルクに配置転換され
た。母ユーリエ・クリスティーナ・ヴァーグナーは、エ
ネルギッシュで活動的な性格だったとされている。一家
の暮らしぶりはつましかった。
モーリッツ・ヴァーグナーは、若い頃から既に動物学
や植物学の知識を身につけており、コレクションの作成
や動植物の観察を行っていた。また早くから文才も発揮
していた。父親と学校当局との意見の相違や生徒である
図1 モーリッツ・ヴァーグナー
(1813~1887)。フランツ・
セラフ・ハンフシュテングル
(1804~1877)によるポート
レート(ミュンヘン市博物館写真
コレクション)
モーリッツ・ヴァーグナー、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトおよびミュンヘンにおける民族学の制度化
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彼と教師とのトラブルなどにより、モーリッツは15歳の時に退学を余儀なくされ、銀行事
務員教育を修了した。同時に彼は植物学と動物学に関する知識を深めたほか、新聞や雑誌
に文学的な記事や政治的記事を掲載した。
1835年、彼は事務職を得ていたマルセイユから、その5年前にフランス人に征服された
アルジェリアを短期間訪れ、博物学的な調査を行うに至った。そうしたことから、彼は北
アフリカで博物学的・政治的な観察を行うために、同地を長期間訪れることを決意した。
ヴァーグナーは、エアランゲンで動物学の教授職に就いていた兄ルードルフ・ヴァグナー
(1805~1864)の支援を受けて、ミュンヘンとエアランゲンにおける自然科学的調査を通
じて熱心に旅行の準備を進め、フランス軍に割り当てられていたアルジェリア調査のため
の学術委員会委員になるに至った。ヴァーグナーはドイツの新聞のために多数の記事を書
いたが、有能な観察者かつ語り手であることが証明されたため、彼の寄稿文は大いに関心
を集めた。その報酬によってこの旅行が容易になったため、彼はアルジェリアに1838年ま
で滞在できた。
ドイツ帰国後、彼はアルジェリアについて三巻からなる著作を執筆した。ヴァーグナー
は、自然、地理、民族学という観点から同国を総体的に捉えようとした最初の学術的滞在
者だった。
その後モーリッツ・ヴァーグナーは、日刊紙「アルゲマイネ・ツァイトゥング」の編集
部に入り、アルジェリアから寄稿した。同時に自然科学への造詣を深め、エアランゲン大
学の名誉博士号を取得した。
1840年、彼は兄ルードルフの後を追ってゲッティンゲンに移り、ほぼ自然科学のみに没
頭した。彼は地質学を学んでいたため、この時期に、当時の卓越した学者でありこの世代
の学術界の「ゴッドファーザー」だったアレクザンダー・フォン・フンボルト(1769~
1859)と個人的に知り合ったが、彼にとってフンボルトは生涯にわたる手本となった。
1843年から44年にかけて、モーリッツ・ヴァーグナーは、ロシア南部、コーカサス地
方、アルメニア、ペルシャ西部に2度目の長期旅行を行った。この時もまた、彼は植物
学、動物学、地質学上の問題に没頭し、この旅行中に西方のユーフラテス川の源を発見し
た。彼はこの旅行の成果を4巻からなる旅行記で公表した。
その後の1847年から1850年までの 革命期間中、彼はアルゲマイネ・ツァイトゥングの
特派員としてスイス、バーデン、フランクフルト、ウィーンを歩き回って武力衝突を目の
当たりにする中で、生命の危険を感じたこともしばしばあった。他の知識人同様、革命の
失敗に失望した彼は、その目を北米に転じた。ヴァーグナーは1852年、オーストリア人の
友人カール・フォン・シェルツァー(1821~1903)と共に北米に渡った。3年間の予定で
行われたこの旅行の目的は、いわゆる自由の国アメリカ(USA)と中米で学術調査をする
ことだった。ヴァーグナーは中米ではもっぱら博物学に没頭したが、熱帯の植生にも魅了
された。1855年、二人は帰欧し、成果を公表した。彼らは、この旅行から膨大な博物学的
コレクションも持ち帰ったが、その中には無脊椎動物だけで4万種が含まれており、その
うち約300種は未知のものだった。
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国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
1855年、ヴァーグナーはミュンヘンに居を構え、持ち帰ったコレクションを同地で分類
することに注力した。バイエルン王マクシミリアン2世ヨーゼフは、広く旅してきた彼ら
に注目した。この王は、バイエルンを精神文化的な大国にすると同時に学問を振興すべく
尽力していた。君主である王は1855年、しかるべき支援方針を決定し、学術委員会を設置
した。さらに王は、移住と入植という問題に興味を示した(ここでいう入植は、帝国的な
意味での植民地の設立ではなく、移住者の他国への進出という意味である)。モーリッツ・
ヴァーグナーも、自身の最初の旅行以来、やはりこれらの問題に関心を抱いてきた。かつ
て彼はドイツ人の国外移住者と他国出身の移住者の入植地を尋ね、移住者について報告書
を書いたことがあった。こうしたことからヴァーグナーは、君主の希望によって鑑定人と
して任用され、1856年1月、このテーマについて2通の建白書を提出した。だが、ドイツ
人国外移住者の将来の目的地になり得る国々に訪れるというヴァーグナーの計画は実現し
なかった。
しかしその一方で、この時期のヴァーグナーにはまだ長距離旅行に対する関心がほとん
どなく、むしろ以前の旅行の学術的な分析評価を行えるようになるよう願っていた。この
目的のために、財政的支援が彼に提供された。早くも上述した学術委員会の第1回会合の
席上、「民族地理学研究所」すなわちしかるべき博物館の開設について論じられた。だが、
この件は却下された。
オーストリアは1857年、調査船ノヴァーラの世界一周航海を計画した。この計画では、
ヴァーグナーの友人、カール・フォン・シェルツァーに主導的な役割が与えられた。シェ
ルツァーは、同行者としてヴァーグナーを推挙し、バイエルン王もヴァーグナーともう一人
のバイエルンの研究者の参加に向け尽力した。だがこれはオーストリア側から拒絶された。
その代わりに、バイエルン王はモーリッツ・ヴァーグナーが再び中米を旅行することを
承認した。ヴァーグナーは、パナマ、エクアドル、コスタリカを旅して回り、改めて博物
学的・地質学的な研究を行うと共に、インディアンに関する調査および国外移住者の状況
という問題を追跡した。さらにパナマでは考古学的発掘も実施した。パナマ地峡の地質学
的および地形的記録を作成した後、彼はパナマ運河の最も理想的な線形を描いたが、これ
に基づいて後々の1881年から1914年にかけてパナマ運河が建設された。この米国旅行と以
前の米国旅行を通じ、ヴァーグナーは当時最も中米に通じた識者となった。病に倒れ、資
金もが尽きたヴァーグナーは1859年9月、自身の業績が認められることを期待しながら欧
州に戻った。
2.管理責任者としてのモーリッツ・ヴァーグナー
しかし、業績が認められるとの期待は外れ、彼は経済的に窮地に陥った。そこで民族誌
コレクションの管理責任者または「ミュンヘン自然史博物館」の補助管理責任者に採用さ
れる可能性に賭けた。
実際に、1861年から1862年にかけて民族誌コレクションの管理責任者のポストの創設が
モーリッツ・ヴァーグナー、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトおよびミュンヘンにおける民族学の制度化
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計画され、モーリッツ・ヴァーグナーはその職に推薦された。
確かにヴァーグナーは、直近の米国旅行以来、民族誌学者としてよりも、地理学者とし
て知られていた。民族誌コレクションは専門的な保守管理が至急必要だった上、当時はま
だ民族学が「地誌学および民族学」という名称の下でしばしば地理学の一部とみなされて
いたということもあり、世界を広く旅してきたヴァーグナーをこのポストに任用するのは
もっともだとする意見が一般的だった。こうしてヴァーグナーは、王の命令により、1862
年4月23日にミュンヘンの民族誌コレクションの初代管理責任者に、また1862年5月2日
にルートヴィヒ・マクシミリアン大学哲学科の地理学兼民族誌学名誉教授に任命された。
その後ほどなくして、彼はバイエルン科学アカデミーへの入会を認められた。
ミュンヘンに民族誌博物館を設立するという計画は、フィリップ・フランツ・フォン・
シーボルトがルートヴィヒ1世に宛てた書状で設立を提案した1835年から存在していた。
理由は不明だが、当時この計画は実現されなかった。この時点では、真の民族誌コレク
ションはミュンヘンに存在してはいなかったが、少なからぬ個人のコレクションが各所に
散在していた。ヴァーグナーは、ヴィッテルスバッハ家が所有していた、または同家の依
頼によって入手された民族誌的な内容の様々なコレクションを、非公開のコレクションに
まとめ上げ、それらを他の学術コレクションや芸術的コレクションと区分することに心魂
を傾けた。それが完全に達成されたのは、マクシミリアン2世のお気に入りだった事業、
すなわちバイエルン国立博物館の設立が王の没後に実現された1867年以降になってのこと
だった。そのために、それまで存在していた個々のコレクションは解体され、国立博物館
用に選別された部分が選り出された。ホフガルテン北側のギャラリー棟の開放されたス
ペース(図2~4)に、ヴァーグナーは民族誌のコレクションの一部を集め、既に1866年
からそこに展示されていたシーボルト・コレクションにそれらを統合した。1868年9月、
図2 ミュンヘン、ホフガルテンにある
北ギャラリー棟。1868年から1926
年までの間「民族誌コレクション」
(1917年に「民族学博物館」と改称)が所在
していた(撮影筆者)
図3 北 ギ ャラリー 棟
(アーケード)の1900
年ごろの様子
(五大陸博物館アーカ
イブ)
図4 北 ギ ャ ラ リ ー 棟
(アーケード)の現在
の 様 子。この 建
物は第二次世界
大 戦中に破 壊さ
れ、1950年 代 初
めに再建された
(撮影筆者)
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国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
「ギャラリー棟民族誌コレクション」という名称の新博物館が開設された。ミュンヘン民
族学博物館の誕生である。
新博物館の中心の一つは、シーボルトが日本滞在中に収集したコレクションだった。
1863年にシーボルトがバド・キッシンゲン滞在中に行われたマクシミリアン2世ヨーゼフ
の引見の際に自身のコレクションの購入を提案した後、君主はそのようなコレクション
の購入に乗り気になっていた。中でも、王は1964年のオランダ旅行中、他の民族誌コレ
クションのほかにライデンにあるシーボルトの日本博物館も訪れ、大いに称賛していた。
1864年3月10日のマクシミリアン2世急逝後、シーボルトは1864年11月1日に後継者ルー
トヴィヒ2世(1845~1886年統治、生没年1864~1889)宛てに書状を送り、その中で自身
のコレクションの国による購入を求める売り込みを改めて行った。これを受けて、王は審
議官兼事務局長のフォン・ベーツォルトと管理責任者モーリッツ・ヴァーグナー名誉教授
をヴュルツブルクに派遣したので、彼らはコレクションを鑑定した。彼らの報告の結論は
極めて好意的なものだったため、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは若干の交
渉の後、コレクションをミュンヘンに運び、ギャラリー棟のスペースに展示できることと
なった。ただしその費用はシーボルトが自ら負担した。シーボルトの没後、モーリッツ・
ヴァーグナーは、アカデミー理事長ユストゥス・フォン・リービヒ(1803~1873)と同
様、アルゲマイネ・ツァイトゥングへの寄稿記事中で、非常に熱心にシーボルト・コレク
ションの購入を説いた。またヴァーグナーの寄稿記事のうち1本は、意見書という形でも
議員に提出された。ついに1874年、バイエルン議会はコレクションを博物館のために購入
することに同意した。
新博物館の開館後、モーリッツ・ヴァーグナーは、このコレクションの拡充に尽力した。
これを受けて、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子、アレクザンダーとハイ
ンリッヒは、相当数の日本の収集品を博物館に寄贈したが、ハインリッヒ・フォン・シー
ボルトの膨大なコレクションを爵位の授与と引き替えに寄贈することが失敗に終わったた
め、このコレクションはウィーンへと渡った。カール・フォン・シェルツァーは、ミュンヘ
ンの友人が保有するノヴァーラの学術踏査の収集品を博物館が入手するよう手配したほか、
1869年に自身が行ったシャム、中国、日本への旅行から、シャムと中国のさらなる収集品
をミュンヘンに送った。1880年には、1854年から1857年までシュラークイントヴァイト兄弟
がインド亜大陸と西チベットを調査し収集したコレクションが寄贈され、博物館の貴重な
収集品が増加した。またヴァーグナーが自由に使える予算はわずかだったにもかかわらず、
その多様な人脈のおかげで、近東、インド、中国、アフリカ、現在のインドネシアである
東インドの収集品のさらなるコレクションが、新博物館に収められた。
新博物館には、欧州の先史時代の品々も収蔵されていた。こうしたことから、モーリッ
ツ・ヴァーグナーは1864年、アカデミーの依頼により、シュタルンベルク湖に浮かぶロー
ゼン島で先史時代の遺構の発掘も行った。
管理責任者のこうした活動にもかかわらず、博物館の開館後数年間は一般の人々からも
モーリッツ・ヴァーグナー、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトおよびミュンヘンにおける民族学の制度化
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専門家からもほとんど注目されないように思われた。その原因の一つは、室内の状況が粗
末なものだったことや収蔵方法が劣悪であったことにある。特に冬期には、暖房のないス
ペースでの作業はほぼ不可能だった。また19世紀後半のミュンヘンでは、民族学は多数の
人々の興味を引くものではなかった。これは、特に協会やアカデミックな機関、またこれ
に専心する人物が存在していなかったことや、大学の無関心な態度にも原因があった。大
学で地誌学と民族学の名誉教授を務めていたモーリッツ・ヴァーグナー自身も二、三の講
義しか行っていなかったし、その講義では民族誌も博物館のコレクションも微々たる役割
しか果たしていなかった。またその一方で、植物学、地理学および動物学に強く引かれる
ものを感じていたモーリッツ・ヴァーグナーは、民族誌に関する仕事に費やす時間を減ら
し、その代わりにダーウィンの学説を巡る議論や自身の移住理論の推敲に没頭していっ
た。彼は民族誌コレクションを単に大まかに地域別に区分していただけであり、これらの
収蔵品については、それ以上の体系的な作業は行わなかった。
モーリッツ・ヴァーグナーは、チャールズ・ダーウィン(1809~1882)の著書と彼の進
化論に感動し、信念を持った最初の支持者の一人に数えられ、ダーウィンと連絡を取って
いた。しかし彼は、系統選択についての仮説の修正を続け、それを自身の移住理論(隔離
説)によって補強した。この理論についてヴァーグナーは既にアルジェリア旅行の時から
例証を集めていたのだが、ダーウィンの説の影響を受けて初めてそれを言葉で表現しよう
と考えたのだった。この理論によれば、系統選択による繁殖は、「個々の個体の本来の分
布域からの空間的隔離が事前に行われた場合」に限って可能になるとされていた(Smolka
1994:122)。
この理論についてより詳細に述べれば、本書のコンテクストから外れ過ぎるかもしれな
い。興味のある向きは、ヴァーグナーの没後に刊行された著作「空間的隔離による種の起
源」
(バーゼル1889)およびフィリップ・ヴァグナーの簡略な説明(2008:25~27)を参
照されたい。とはいえこの理論は、ヴァーグナーが後世の人々に宛てた真の遺産(レガ
シー)なのかもしれない:「彼の理論は、しばしば20世紀のダーウィンと呼ばれるドイツ
系米国人生物学者エルンスト・マイヤー(1904~2005)によって再び取り上げられ、今日
2
では異所的または地理的な種の形成として知られている」(Appel 2012:17)。
モーリッツ・ヴァーグナーは、最後の旅行で病を得て
ミュンヘンに戻った。その後目の疾患に苦しむことが多
くなり、さらに加齢と共に喉頭や肺の疾患、神経痛、膀
胱疾患が加わった。しかし彼の人生を一変させたのは、
1870年10月3日ミュンヘン駅で列車から転落し、大腿骨
頸部を骨折したことだった。その時から、彼は松葉杖を
使ってかろうじて移動する状況となった。病苦は精神的
にも影響を及ぼすことが多くなった。彼は引きこもり
がちになり、孤独感を強めていった。1887年5月31日、 図5 2013年、ミュンヘンの旧北墓地
彼は拳銃で自ら命を絶った。ミュンヘンの旧北墓地に
にてモーリッツ・ヴァーグナー
の記念銘板の除幕が行われた
(撮影筆者)
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国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
ある墓は、第2次世界大戦中に破壊されたため、もはや存在しない。2013年には、墓の代
わりにモーリッツ・ヴァーグナーを偲ぶ石碑(図5)の除幕が行われた。
註
1 以下の講演は、独自のアーカイブ研究に基づいているのではなく、私が文献目録に記載した作品中の
記述をまとめたものである。
2 ヴァーグナーの移住理論との批判的論争およびそれに基づくフリードリヒ・ラッツェルの人文地理
学については、Jakob, R.; L. Trepl o.J. 参照。
参考文献
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Jakob, Rainer; Ludwig Trepl: Moritz Wagners „Migrationsgesetz der Organismen“ in seiner Bedeutung für
die Entwicklung einer expansionistischen Staatsideologie. [Der Artikel wurde in zwei Versionen ins
Internet gestellt:] www.wzw.tum.de/loek/publikationen/abstracts/87.pdf.(= 5. Januar 2006)
; www.wzw.
tum.de/loek/publikationen/abstracts/87.-de.pdf.(= 11. Januar 2006)
(Lehrstuhl für Landschaftsökologie.
Technische Universität München, Wissenschaftszentrum Weihenstephan)
Ratzel, Friedrich: Wagner, Moritz. In: Allgemeine Deutsche Biographie, Band 40, Leipzig 1896, S. 532-543.
Smolka, Wolfgang J.: Völkerkunde in München. Voraussetzungen, Möglichkeiten und Entwicklungslinien ihrer
Institutionalisierung(ca. 1850-1933).(LUDOVICO MAXIMILIANEA, Universität Ingolstadt-LandshutMünchen: Forschungen; Band 14)
(Münchener Universitätsschriften: Universitätsarchiv.)Berlin 1994.
Wagner, Moritz. In: Dietmar Henze: Enzyklopädie der Entdecker und Erforscher der Erde, Band 5, Graz 2004, S.
436-442.
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In: Münchner Beiträge zur Völkerkunde. Jahrbuch des Staatlichen Museums für Völkerkunde München. Band
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Wagner, Philipp; Aaron M. Bauer & Wolfgang Böhme: Amphibians and reptiles collected by Moritz Wagner,
with a focus on the ZFMK collection. In: Bonn zoological Bulletin 61(2),December 2012, S. 216-240.
Philipp Wagner; Aaron M. Bauer &Wolfgang Böhme: Amphibians and reptiles collected by Moritz Wagner, with
a focus on the ZFMK collection. In: Bonn zoological Bulletin 61(2),December 2012, S. 216-240.
(ぶるーの りひつふぇると・五大陸博物館〈ミュンヘン国立民族学博物館〉)
モーリッツ・ヴァーグナー、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトおよびミュンヘンにおける民族学の制度化
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