人との関わり~友情・愛・人間関係~

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人との関わり~友情・愛・人間関係~
パトリック 山田 益男
§1 人間の属性
人は他者との関係を絶って一人では生きていけない存在であるといえるでしょう。人
はこの世に生を受けた時点から、他者との関わりを持って生かされています。赤子は母親
から乳を与えられ、温かい寝床を整えられ、家族に見守られて命を保ちます。産み落とさ
れた時点での人の自活力は動物の中でも極めて低いと言われており、この時点で放置され
れば赤子はたちまち死んでしまいます。親に望まれないで生を受けた赤子が捨てられ死亡
するという不幸な出来事の対策として、かなりの数の国に「赤ちゃんポスト」というもの
が設けられていると聞きます。幼児期も家庭においては家族と、保育園、幼稚園、学校で
は保母や教師や友達と一緒に遊んだり、学んだりして育ちます。大人からしてよいことと
悪いことの区別、社会で守るべきルールを教わり、兄弟や友達と遊んだり、喧嘩をしたり
する中で共に楽しく生きるためには我慢したり、分け合うことが必要であることを学びま
す。人はこの他者との関わりの中で社会性を身に着け、成長していきます。
赤ちゃんに限らず、他者との関係が良好でないと人は傷つき健康に生きてゆくことが困
難な存在であると言えます。特に幼児期に大人から十分な愛が注がれないと人格がゆがん
でしまいます。青少年の非行の原因は多くの場合、その家庭環境に問題があるといっても
過言ではありません。
人はいじめやハラスメントによっても傷つきます。親から暴力を受けている幼児、学
校で友達や教師からいじめを受けて傷つく生徒の存在は、現代日本の大きな社会問題とな
っています。幼児期に限らず、高校・大学においても教師と生徒・学生という立場の差か
らパワーハラスメントが起きたり、職場においては上司と部下という関係の下でパワハラ
等の事象が起きています。
以上、人間関係が良好でない例を見てきましたが、人は他者との良好な関係の中で、
励まされ、勇気づけられて前に進むことができます。私たちは挫折した人間が周りの人の
善意に励まされ、立ち上がる姿をまま目にいたします。先の東日本大震災の後、多くの事
例の中で人との結びつきを示す「絆」という言葉が盛んに使われました。日本人は危機に
際して他者の励ましや支援が大きく人を力づけ、生きてゆく勇気を呼び起こすことを実感
しました。
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以上のような社会現象をみただけでも人が健全に生きるためには、年齢を超えて周囲
の人との良好な人間関係が大きな要件となっていることは確かなことといえるでしょう。
§2 主イエスの掟
では、主イエスは人が生きる過程で他者とどのような関係を持つようにと教えられた
のでしょうか。
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」とのファリ
サイ派の人の問いにイエスは次のように答えられました。「『心をつくし、精神をつくし、
思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめで
ある。 第二もこれと同様である、
『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』
。これら
二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。」
:マタイ 22:36~40
当時のユダヤ社会ではモーセ五書の律法(トーラ)によって、生活の隅々にまで細かく
規定がなされていましたが、主イエスは、「神と隣人を愛せよ。」という1つの律法にまと
められました。この「律法全体と預言者とが、かかっている」という言葉の意味について、
聖パウロはガラテヤ 5:14 で「律法全体は、
『隣人を自分のように愛しなさい』という一句に
よって全うされるからです」と解説し、またローマ 13: 10 でも「愛は隣人に悪を行いませ
ん。だから、愛は律法を全うするのです。」述べています。
キリストの救いと、その愛の律法によって、私たちはいちいち旧約聖書のモーセの律法
に照らして行動する必要はなく、
「隣人を自分のように愛する」という心をもっていれば自
然に立法の趣旨に沿って行動ができるということをパウロは述べていると理解されます。
また、マタイ 5 章 43-44 節では「あなたがたも聞いているとおり、
『隣人を愛し、敵を憎
め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のた
めに祈りなさい。
」といわれ、主イエスは隣人だけでなく敵をも愛せよとおっしゃっていま
す。本日のテーマ「人との関わり」 についての主イエスのお答えは、ヨハネ 13 章 34 節に
記されているように「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
」であるこ
とは間違いないことと思えます。しかも、自分と友好な関係にある者だけでなく、敵対す
るものをも愛せよと言われています。私たちは、主イエスが言われる「互いに愛し合いな
さい」といわれる「愛」の意味を正しく理解することが重要であると思います。
§3 「愛」という言葉の意味について
安土桃山時代に日本にキリスト教が伝えられました。当時のキリシタン達は、キリスト
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の教える「愛」を「ご大切」という言葉に置き換え使用していました。 当時の日本に、
「愛」
という言葉がなかったわけではありませんが、宣教師たちはその言葉を採用しなかったの
です。戦国武将直江兼続が兜に愛の文字を用いていますが、戦場で用いる武具に「愛」の
文字は私たちの感覚には馴染まないように思えます。当時「愛」という言葉は、人に対し
て使う場合、目上の者が目下の者に対して使う言葉で、親が子に、あるいは男が女に(逆
の場合には使われませんでした)対する行為について用いられており、相手を対等な人間
として認めて尊重するということではなく、
「かわいがり、離すまいとする」
「かわいがる」
さらには「もてあそぶ」という意味合いがあり、上位にある者が下位にある者に対して持
つ思いでした。ですから、キリストの教え・聖書の教えである「愛」
(惜しみなく与える愛:
ギリシャ語の「アガペー」
)を、当時の日本語の「愛」という語に置き換えて、表現するわ
けにはいかず、
「カリダアデ」というポルトガル語を、そのまま使うこともしましたが、宣
教師たちが着目した日本語は、
「ご大切」
「大切に思ふ」だったということです。
当時の宣教師たちはこれらの言葉でもって、キリスト教における、神と人との間の「愛」
を、また、人と人との間の対等の「愛」を、教え、伝えていったのでした。
§4 「愛」という言葉で主イエスの愛が今の日本で正しく伝わるでしょうか。
今日の日本では、
「愛」という言葉に多様の意味を持たせて使用しています。隣人を愛し
なさいといわれても、今日の私たちは日常生活の中で接する人に「私はあなたを愛してい
ます。
」という言葉を発することはまずありません。そんなことをしたら大変な騒動となっ
てしまいます。この言葉から、私たちは通常男女の恋愛感情を想起します。この場合の「愛」
は「異性として好意を持っている」
「恋い慕う」という意味ですから、主イエスが愛しなさ
いと言われた愛の意味はこの恋愛感情とは異質と理解すべきでしょう。現代の私たちの日
常で「愛」の言葉が意味する内容は多様であることから、主イエスが掟として示された「愛」
の意味を他者に伝え場合は今日でも誤解されないように十分な注意が必要であるように思
えます。
今日の「愛」という言葉の意味は「恋い慕う」の他、愛の種別として「親子の愛」「兄弟
愛」「友愛」
「師弟愛」
「同志愛」等があります。また、「郷土愛」「愛国心」「愛社精神」な
どという言葉もあります。愛する対象によって愛もその内容が異なってくるように思われ
ます。しかし、いずれの場合も、愛にはその対象があって愛する主体はその対象に対して
「愛する」という思いを持つという点で共通しているといえるでしょう。
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§5 純粋な愛・最高の愛
人が示す愛の中で母親が幼児に示す愛が最も純粋で、神様が人に示す愛に最も近いとよ
く言われます。小生も確かにそうだなと思っています。それは、自分の胎内で育て、お腹
を痛めるという経過を経て与えられた存在である故に、自分の分身であるという意識が自
然に生じ、私心なく子供のことを思う気持ちが父親よりも強くなるのだと思われます。小
生も幼かった子供が熱を出した時に、自己犠牲をいとわずその子を看病する母親の姿は、
父親である自分を圧倒し、脱帽させられた記憶があります。このように自我を忘れて子供
のことを思う母親の姿が、自己犠牲をいとわず対象に尽くす姿勢に見え、そこに純粋な愛
があることを感じさせます。
聖書の言葉から主イエスの言われる「愛」をさらに吟味してみたいと存じます。ヨハネ
福音書 15 章 12 節にある「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しあいなさい。
これがわたしの掟である。」に続く主イエスの言葉は「友のために自分の命を捨てること、
これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友
である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知ら
ないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがた
に知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを
選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの
名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したの
である。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」と続きます。
「友を愛する」とはどのような思いを言うのでしょうか。単に彼はいい奴だから好きだ
といった「好意をもつこと」だけでは、不十分でしょう。しかし、友のために命を捨てな
ければ愛していることにはならないと言っておられるわけではないと思います。友のこと
を親身に思う気持ち、すなわち友が今ある状態より良い状態へと変わっていくことを友の
ために願う気持ちと、更には、そのために、自己犠牲をいとわず友を支援しようという気
持ちが伴うことが必須であるように思います。支援の仕方にも多様な対応・程度がありま
すが、主イエスは、その中でも自分の命さえも犠牲にして友を支援する行為が最大の愛で
あるといわれているのでしょう。しかし、これは大変なことです。それを求められても、
自分に敵対する者をも愛せよと言われても私たち凡人にはとてもできそうにありません。
友のために命を捨てる行為はまさに、主イエスの十字架上のみ姿がこれを示しており、そ
の行為に、
「完全なる愛」が実現されることを述べられたものと理解されます。要するに十
字架の主イエスは他者(友)を愛するその模範の形を身をもって示されたのだと思います。
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§6 十字架の犠牲は完璧な愛の見本であり、完全な愛の結実である
「友のために命を捨てるこれに勝る愛はない。」といわれた主イエスは、ご自身私たち罪
深き人間のために命を捧げて神の小羊(生贄)となられた。刑を執行するローマの兵士に
対しては「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。ルカ
23 章 34 節」と敵のため父なる神に執り成しの祈りをしておられます。普通の心情からすれ
ば憎い敵でありますが、何もわかっていない彼らの立場を慮って、その過ちを理解し受け
止めておられます。この姿から、主イエスの示された愛とは、愛する主体が自我の思いを
捨て、愛する対象が本来あるべき姿となれるように、自己犠牲を惜しまず、支援すること
であるといえるのではないでしょうか。主イエスは、自らの罪のためではなく、神に対し
て罪を犯し続けた人間のために身代わりとなって死刑を引受けられ、人間の救いを実現さ
れたわけで、父なる神から委ねられたその役割をしっかりと認識されて担われた主は、死
刑を執行した兵士さえもその救いを与えるべき対象から排除されなかったものと推察され
ます。ここにキリスト・イエスの完璧な愛が示されており、その愛の深さを感じとること
ができるように思えます。
§7 私たちは人との関わりにおいて主イエスのこの掟を守れるでしょうか
敵をも愛しなさい。友のために命を捨てることが最大の愛である。これが主イエスが
私たちに与えられた掟であることを理解しますが、私たちは、この掟に従って日々生活し
なさいといわれても、なかなかハイとは言えません。それは無理です、勘弁してください
という思いが先に立ってしまいます。なぜ日本ではキリスト教が広く根付かないのでしょ
うかという質問に、ある仏教の僧侶が「あまりに立派な教義に、日本人はついてゆけない
からだと思う。
」と答えたとのこと。
人間は修業を積んで、心身を強めても主イエスが残された掟を、自らの意志と信念で
守り抜くことは不可能ではないかと思われます。私たち人間は、神様との関係をなくして
主イエスの愛の掟の実行はできないということを知る必要があるように思います。神様の
助けなくして、敵を愛したり、友のために命を捨てることなど不可能であると言えるでし
ょう。神様に聴き、神様に促され、励まされてその言葉に従う形でこれが可能になるのだ
と思えます。
1954 年(昭和 29 年)に台風第 15 号により青函連絡船洞爺丸が沈没するという海難事故
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が起こりました。その現場において、カナダ出身のメソジスト派の宣教師が自らの救命胴
衣を日本人の若者に与え、自分は遭難死したというエピソードが知られています。文字通
り、友のために自らの命を捨てた実話であります。感動的な出来事であり、この宣教師は
強い信仰があったからこのようなことができたと私たちは考えます。確かに、信仰のゆえ
になされた愛の行為であったと思われますが、宣教師の強い精神力・意志だけでこの事が
なされたとは思えません。
神様は愛の掟を律法として私たちに強要されることはないと思います。私たちが掟だか
らと義務的にそれを行ったとしてもそこには愛はなく、自分のことだけでなく友の事を思
い、友に起こっている事柄をよく理解し、神様に私は友のために何ができるでしょうかと
お聞きする中で、自分のすべきことが促され、それを行うとき、その行為に愛が宿るので
はないでしょうか。愛の根源は自分の中から湧き出るのではなく、神様に聞き従うことに
より、神様から分け与えられるものと理解すべきでしょう。神様にお聞きしながら、自分
にできることで神様の働きに協力するという生き方の中で、真実で大きな愛を示すことが
できるようになるのだと思われます。かの宣教師は日頃から他者を思いやる心を持ち、神
様に自分にできることは何かを聴きつつ、それに応えるという信仰者の生き方を続ける中
で洞爺丸遭難事故の際に友のために命を捨てるという最大の愛を示すことができたものと
推察されます。
わたしたちには、とてもそこまで神様に聞き従う生き方はできませんが、同じ人間であ
りますから、神様と共に歩む信仰者として自分中心の思いを抑え、友のことを思う気持ち
で、友のために自分はどのような支援ができるかを神様にお聞きし、自分にできることで
神様のお手伝いをしようという気持ちで生活することを心がければ、主イエスが残された
掟を守ることにつながり、友を愛することになるものと思います。
古今聖歌集第 534 番の歌詞が思い起こされます。
「わがままを捨てて、人々を愛し、その日の務めをなさしめたまえや。アーメン」
私たち人間は一人では健全に生きてゆけない存在である故に、神様の下に共に生かされ
ていることを忘れず、また、自分と同じように友のことを大切に思う心を忘れず、小さく
ても真実な愛を持って互いに励まし、励まされて豊かな人生を歩んでゆきたいと思うもの
です。