浄土第 78巻 7号 (毎月 1 固 1 日発行 ) 平成24年 9 月 1 日発行昭和 10年 5 月 20 日第 3種郵便物認可 A 2012 9 p"m"', Se 法然上人鎖倒l 会 脱ぐる村 点景 2012 年の表紙 上 健 三河島駅 JR 常磐線 島式ホ ム 1 面 2 線を有する高架駅である。 昭和の匂いのするこの駅の改札口はーケ所。 乗り入れている路線は常磐線のみだが、 本線 のほか、田端駅(田錦信号場駅)方面への支 線(田端貨物線)と隅田川駅方面へ向かう支 線(隅田川貨物線)が分岐する。これら支線 はいずれも貨物列車のみが使用している。昭 和 37 (1962) 年、この駅構内で発生した列 車脱線多重衝突事故は「国鉄・戦後五大事故」 のひとつとして、そして二度と起きてはなら ない悲惨さにおいて、深く記憶されている。 J j 停止λ 2012/9 月号目次 容子 2 1 0 ・ ・…袖山柴輝 1 8 渡辺海旭 ・... " ....・・ ・・・ ・・・・・・ 目・ ・ ・・・ ・・・・・・・・・・・ e ・・・・ ・・ ・・・・・・ e ・・・・・ 前田和男 原子力と人類 ・. . ......・ H ・-…・・…・・… ・…・… ・… ・ー森 俊英 会いたい人麻実れいさん①ー・…… . ....・ a ・.. . .….......... 関 響流十方……・ ・ …・ …・ ・… …・…・…・…・ 極楽に帰った法然上人 …・…・… … … … 石丸品子 2 2 30 江戸を歩く… …・…・…・… …・ … 森清鑑 38 連載小説 … ・… 誌上句会 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 田 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・ ・… ・ … 選者= 増田河郎子 マンガ さっちゃんはネッ... .... . ........ . ・ H ・.....・ H ・- かまちよしろう 編集後記 ・・ 表紙裏・ …・ … … …・… 駅をめぐる点政村 t 健 背表紙裏・昔話安の美味傑ilIi 表紙題字=中村 康隆元、浄土門主 アートディレクション=近藤十四郎 協力=迦 陵頻伽 舎 ・… ・…・ … … … ー・ 44 47 48 龍一需森俊英 と 原子力と入額 す その人はスティーブン・リ 2007 l パ 氏(アメリカ人 l ・ 現在 年、初めて日本人以外の方が 広島駅からタクシーで叩分のところに、広島原爆資料館がありま 。 その資料館の代表(注l)に、 JR 。 就任しました 。 。 世界における原 子力問題の最新情報と 長年の思索 をもとに、人類 悦歳)で、円本および海外において懸命に「平和」を訴えておられる方 です ・ 。 。 その内容の 一部をご紹介 知恩寺にスティーブン氏を迎え、「人類は原子力と のあるべき姿を明確に提示されます 月日円、京都 6 共存できるか」と題し講演をいただきました し、原 子力の 問題を皆さまとともに考えたく思います 核戦争の足音 。 。 。 核兵器の存在によって、戦争は抑止されている そのように世情が不安定のなか、大国をはじめ複数の国が核兵器 現在、アメリカの経済は苦境にあり、対外的な支配力に影がさしてい ます を保有し、もしくは保有を進めています 。 などとは到底 一守 宮えな い状況に、世界は陥 ってい ます スティーブン氏は、こう警告されます 。 「もし、 叩の都市で叩の水素爆弾が作裂したら人類は終わり水 で爆 すから発した灰や煙 。 そうなれば、日本でも夏場に霜が 。 は、成層圏にまで到達しジェット気流によって、叩年間ぐらい地球を回ります それは か〈やみ 「核闇」と呼ばれるもので、太陽光の 割を遮ります 1 。 おりるような低温となり、食物が作れなくなるのです 世界は食物の奪い合いとなります」 3 (注 2) 。 講演会場では、これを聞いて衝撃を受けた人も多かったようです なぜなら、日本から 。 遠く離れた地域であっても、もし核兵器が使用されれば、日本人の生活が破滅的影響を受 けるという事を知ったからです 唯 一の被爆国である日本にとっては、地球上のどこにおいても核兵器の使用は許せない 。 タ) l 。 5500 。 以上、 核弾頭数は合計 23000 以上存在 ことですが、どこで使用されても、日本を含む人類全体は地獄への道を歩むことになるの です (2009 年のデ ちなみに、世界には戦略核弾頭数は しています 原発の危険性と問題点 スティーブン氏の警告は、原発の存在にも及びました 。 いざ戦争状態になれば、人道的ルl ルなど無い また、福島の原発事故の経験からは、原子炉はと 。 「戦争が起これば、原子力発電所が狙われることになります 原発が攻撃されれば、その 国は大混乱に陥ります」 。 この警告も、大変おそろしいものです に等しいことは想像に難くありません 。 もかく、発電所内の使用済み核燃料貯蔵プlルが攻撃を受ければ・:もう想像もしたくない 事態になることは明らかです 。 。 震・津波に耐えうるならば安全」とは一守 吉えません スティーブン氏は原発に関 「原発は地 する複数の問題点を挙げたうえ、次のように指摘されました 4 原子 力 と人類 。 。 核産業の人々は 。 印年後には解決する 循環システム構 「 「自然界のものは循環性をもっています原発の廃棄物は循環性をもたず、その毒性は何 万年・何十万年後まで残ります 。 。 現代人に、そう スティーブン氏の 現代の私たちが、こども・孫の時代に、そうした危 。 築、つまり完全な再処理は可能だ 」 と言いますが、今、それができていないのです。たい 。 へん毒性の強いプルトニウムを未来の人類、地球に残すことになります した権利はありません」 つまり、放射性廃棄物の問題です 険極まりない物質を残すことは、許されないのです 日本の判断 核兵器のおそろしさから、同じ原子力を扱う原発の話になりました 。 。 この講演の翌日 。 演題は「人類は原子力と共存できるか」で、結論はもちろん「共存できない」です ・4 号機の再稼働を正式決定しました ところで、現在の日本はどちらの方向に進もうとしているでしょうか (6 月日日)、日本政府は福井県大飯原発 3 「当面は事故が起きない対策を可能な限りしながら、電力確保を図るのが現実的」 。 しかし、スティーブン氏の指摘 「節電に努力しても電力の安定供給が難しいのであれば、原発の再稼働も仕方ない」 と政府の判断に賛成される方もおられることでしょう 。 。 さらには今後の核廃棄物 にあるような、戦争時における原発の危険性と、将来への過失(核廃棄物)についてはい かがでしょうか 政府の視点が経済のみに 立 脚しているのは浅はかなことです 処理問題、古い原子炉の廃棄費用、そして事故リスクを考えれば、長期間的には経済的に 5 。 。 。 スティーブン それでも、日本は原発との共存を選ぶべき も原発稼働は得策とは 言 えません でしょうか 集団的合意の事例 再び核兵器の話に戻 します 氏は、 。 人類には海洋破壊、空気の酸 「国際社会がまず取り組むべき課題は、核兵 器の廃絶です 素濃度の低下、地球温暖化など多くの深刻な 。 核兵器の廃絶 問題がありますが、核兵器は、もはや我々の 手に負えない状態にあります は、人類がこの地球上で生き続けるのであれ ば、避けては通れない試練です」 と順序 立 てたうえ、近年の国際社会の成果を挙げました 。 。 1000 訴えていました 当時、その運動には印か固から ります 。 このプロジェクトのリーダーはカナダでした 。 。 NGO が参加していて、 年)するに至 運動は世界レベルで加速し、ついにこの条約に153 か国が署名 (2007 を超える 「叩年代に対人地雷禁止条約が結ばれましご た覧になった人もあると思いますが、 92 年ごろからプリンセス・ダイアナが毎日のようにテレビに出て、地雷被害の悲惨さを 9 6 原子 力 と 人類 そして されます 。 ィ ー そして 。 。 、 クラスタ が動き始めました 。 爆弾禁止条約が署名 l 。 しかし、 。 廃 いよいよ、廃絶の時が 年、あの有名なオパマ大統領のプラハ演説に NGO 2009 。 ブン 氏は、人 類の具体 的 成果と 人 々の意識 ( 心 の問題) に焦点 を 当 、 前述の条約締結に注がれた人類の意識の高まりが大きく影響し 年には、ノルウェーがリーダーとなり テ この成果には 2008 ています」 こ の よ うにス てて、 講演の結論 へと導 かれました リーダーが出れば 。 。 。 。 核廃絶という分野の自然なリーダーは、 先に述べたプロジェクトを牽引したカナダやノルウェー 。 。 保有国自身はお E いにそこから進めないのです 年から世界の多くの つの条約の効果です 。 2010 。 先述の卯年代に結 「さて、核廃絶です 核保有国もいつか核のない世界にしようと言ってきました それは形ばかりのものにすぎませんでした 2 ただし近年、保有国の国民にも意識の高まりが起こってきています べた 至ります 来たかのようにも思えました ところが、そこからが進みません つまり、リーダーの不在です 絶への具体的枠組みの話になると、保有国自身が立ち止まってしまうのです 。 。 とても難しいことです 」 のような、自然なリーダーが現れていないのです 誰でもできるものでありません ス ティーブン氏は、さらに語気を強めます 。 「この超難関な課題のリーダーは、みなさん日本人だと私は思いますそして日本人しか 7 出来ないと思っています 。 理由はいくつもあります ・世界で唯一の被爆国であること ・憲法九条をもち非核三原則の国であること .平和市長会議の中心であること ・多くの固と貿易関係があること 。 0 。 明らかに、 まずは「原子力と人類」について深 日本以外にその力をもっ国はありません」 そして、アメリカの親友であり、中国と大きなビジネスをしています がリーダーになるべきです 世界の岐路に立つ日本 。 日本人が深く考えることを、広島原爆資料館の代表者でありアメリカ 私たち日本人は、何から始めればよいでしょうか 。 ートするならば、き っと新しい道が見えてくると私は強く感じ ます 。 人のスティーブン氏がサポートしてくださり、日本人がこのスティーブン氏の活動をサポ く考えることです 日 席していました 。 2015 1 。 。 今ま 回準備委員会に出 。 講演終盤、 また、それは「地球温暖化などの問題解決」とい 。 。 年核拡散禁止条約検討会議の第 そこでも核兵器に対する世界の考えは大きく変わりつつあります 「私は1 か月前、ウィーンで 願われるように語られたスティーブン氏の 言葉を紹介し、稿を収めます スティーブン氏の講演は論理的で、しかも聴衆の情に迫るものでありました う未来を照らす道につながる期待を有します 大きな意識転換をすることになります さらには、人類が核兵器を廃絶するために「集団的合意」を経験すれば、それは歴史上、 本 8 原子力と人類 。 。 。 これからも原子力と共 。 日本は世界の真ん中にいます 。 大震災・福島原発事故で大きな打撃を受けた 。 。 そして原発をどうするのか それから、今、世界は日本を見ています でになく、犠廃絶論が明確に論じられていたのです 。 日本が、どのように立ち上がるのか 存していくのか 。 理論・ 以 これほど世界から注目されている国はありません みなさん、どうぞよろしくお願いします」 、 ・ ミ ggg zzu 年 」 グローバル・ピ EO コ 20 一 、 、 TTAPS 公益財団法人広島平和文化センター理事長 年 スティーブン氏の著書 「ヒロシマ維新 / 工-35ヨ白刃 ーブ ン氏の正確な役職名は ン ターが運営 2004 スティーブン氏監修の書籍 「Now- 」刀互ORZ0272011 ィ ースメーカーズ・アソシエーション・ 、 才可om a \ \一『 -口 q 才一ヨ同 才志 古口 コ OV n G万円 以 ・ -A 広島平和文化セ ン タ ー に 関 す る 情 報 {参考} 1 2 3 {注} (1)ステ 広島原爆資料館は同セ 年 9 (2)「核の朱こ宇宙物理学者カール・セーガンらにより提唱された 1983 上 月ホ マ44t ノ.、防 れ しミ 。 婦影/ 空カオカ邦彦 会いたい人 l ワイルド)が上演されて、ヘロデ王 ・ この六月、新国立中劇場で『サロメ』(オ スカ 『グリ lクス』『イサドラ』『蜘株巣城』『サラ』 『オイディプス王』『箱根強羅ホテル』『黒蛸 』 賜』『現代能楽集』『夏の夜の夢』『かもめ 麻実れいが演じ、 二人の洗 夫妻を奥田瑛 二 『山の巨人たち』『冬のライオン』『おそるべ ・ 練された長身の立ち姿が舞台を圧倒した。 き親たち』『キネマの天地』そして『サロメ』 ばかず 終演後、奥田さんを楽屋に訪ねると、舞台人 として場数を断然多く踏んでいる麻実さんに と現代演劇の名作を網羅しつくしているし、 まだほかにもあるが、こうして挙げてみる 女優と生まれたからはこの中の 一作品にでも ・:どう 僕は随所で助けられているんだけど・・ ・ してあの大女優の話を聞きに行かないの? 主演してみたい、と思うような主役ばかりを と訊ねられた。 舞台の神に愛される 「男 たち」でずっと行 !としても羨望の的で、たとえば読売演劇大 独り占めしている。数々の演劇賞のコレクタ 一本取られて、 賞に限っても、その最優秀女優賞が 二回、優 きたいので、と答えると、だって麻実さんは 元宝塚の男役でしょうに、と 。 れた女性は滅多にないだろう。 すみま り合い、私生活も充実していて、こんな恵ま 女ざかりの四十五銭で 立派な結 婚相手に巡 うもない。 秀女優賞が六回という記録は、当分破られそ 今回のインタビューになった そう言えば私の中学時代からの友人、安藤 紀子さんは熱烈な麻実ファンで、誘われて私 もずいぶん麻実れいを観ている。ざっと思い 起しても『マクベス』『世阿弥』『双頭の鷲』 ト』 麻実れいさんが言う。 l 『桜の園』『獅子を飼う』『エンジェルス・イ 「奥田さんが 『元男役』ですっ て? 『サド候爵夫人』『メアリl ・ステュア ン・アメリカ』『ハムレット』『蜘妹女のキス』 11 1975年 、 『 ベルサイユのばら 』 のアント. レ役を 演ずる麻実さん(写真上の右)ど 84年 、 『風と 共に去りぬ』 のレッド ・ パトラ一役の麻実さん (写真在)。 1 2 会 いたい人 ましたから、まず役を作るときに性別の女を いますよ。まして私は丸十五年間も宝塚にい (笑)。でも女優というのはみんな男だなと思 せ レスを着て緑川夫人を演じてみたい・・・・・・と数 ゴージャスなドレスで、私もいつかこんなド プルなデザインの背中が深く聞いている黒の さんの衣裳を着させていただきました。シン いる玉 三郎さんをお訪ねしたときに、玉 三郎 をおぼえますね。『黒蛸賜』に出演なさって ん、誰よりも私、男っぽいものですから 消してゼロ地点に戻るんです。それからキャ 年前から思っていたのですが、その夢が叶い i なり、レッド・パトラ l(『風と共に去りぬ』) ラクターのアンドレ(『ベルサイユのばら』) サド侯爵夫人では私がルネで、玉 三郎さん ました。 うになっても、私は同じですね。それぞれの がサンフォン役で御 一緒させていただいて以 なりにいくわけです。退団して女を演じるよ 女を作っていくわけです。私は背が高いせい 来、サンフォンも私の憧れの役となりました ベス 一世、彼がシェイクスピア役で共演して か、おかげさまで強い女の役ばかりが来て ます。エリザベスは実は男だったんじゃない し、夢って叶うものなのですね。奥田さんと たしかにそのレパートリーを見てみると、 (笑)、中性的な感覚が必要な役だと、かなり マクベス夫人、サド侯爵夫人ルネ、黒蛸賜な か、というお芝居でしたから、これも私にぴ は『エリザベス・レックス』で、私がエリザ ど、女方の坂東玉 三郎が演じる役と重なって ったりでしたね(笑ご 助かります」 いる。まだ『天守物語』の富姫を演じてない 「 玉 三郎さんとも奥田さんとも、身長も年齢 明神下の万剣金具師の家に、 三 人姉妹の 三女 麻実さんは昭和 二十五年 三 月、東京、神田 のが不思議なくらい。 も同じで、お 二人には同級生みたいな親しみ 1 3 として生まれた 。 。 ですよ もしかしたら父にもそういうものが れたのかもしれないなんて、と思うんですよ 好きだという血があって、それが私の中に流 っと高台になってて、東京じゃないみたいな ね」 「 うちは神田明神様の鳥居中にあって、ちょ 静けさの中で育ちました 。崖 の下にクラシッ 麻実さんが大好きだった父上は 早 くに病 気 で倒れ、十年程床に 着 いたまま七十 二歳で亡 クバレエスクールがあって、お姉さんたちが、 素敵に踊っているのを毎日眺めていたら 一緒 くなった かったな、と思いましたけど::: 。 父が亡く 「大人になったら父と二人でゆっくり飲みた 。 に踊りたくなっちゃったんですね。かわいい 末娘、 言 い出したらきかない末娘のこと、通 。 つば 歳の頃から宝塚受験の 3 なるのと同じ頃にベルサイユのアンドレが決 わせてくれました まりましたので、私の舞台姿は その代りに今は姉孝行はし 一度も観てな とか目貫を作る金具師で、いつも仕事部屋で 前までバレエは続けていました。父は万の鍔 いんです。母はずっと父の 看病をして、七十 め由き コツコツ仕事をしてましたから彼の背中しか 。 八歳で亡くなりましたが、親 孝行が十分にで ています」 見てないんですけど、その背中から人に対す でも、あんなに きませんでした 。 る優しさとか、真面目さとか、誠実さとか、 いろんなことを学びました 塚が大好きで、よく観に行っていたみた 「宝 。 麻実さんを宝塚へと方向づけてくれたのが、 連れて行ってくれて『ウエストサイドストー いですけど、私が中学生のとき初めて 寿美 花 その 二人のお姉さんたちだった あとで聞い に映画を観に行こう、って神保町の映画館に 勤勉で遊びも知らないような父が、ある日私 リー』を観させてくれたんです 代さんの『華麗なる千拍 子』を観に連れてっ 。 たら父はあの映画を 三 回も観た、って 言 うん 14 会いたい人 ね。高校の卒業が近づいて進路を決めかねて 病みつきになる、ということもなかったです くらいしか記憶になくて(笑)、別にその後、 したけど、幕開に食べた 三色アイスクリーム てくれたんです。きれいだなあ、とは思いま 会場へ入りました。そしたら私の席が 一番前、 あなた待ちなんだから急いで、って言われて それでもあわてずにゆっくり歩いていたら、 けど、宝塚まで結構時間がかかったんです。 こに母と 一泊して翌朝のんびり行ったんです 「下の姉の会社の寮が有馬温泉にあって、そ 三番でしたけど、でも最前列だから着席する てみたら?って。姉は自分の夢を妹に託し スが 一番楽か いたときに、上の姉が宝塚(音楽学校)受け l 成績順なんですね。 一番が小柳ルミ子、私は たんだと思いますね。宝塚コ まで全員が私を見るわけですよね(笑)。冷 のジャケ の蝶タイ、白い靴下に黒 l のワンピー なと思ってましたけど、入ってみたら決して l ス、大きな白衿のブラウス、グレ ット、ワインカラ の日から寮生活が始まって、生徒には全員阪 みたいな帽子をかぶるのがいやでしたね。そ 「そこまではいいんだけど、へンな鉄かぶと い靴だった。 1 たい視線でした」 ブンゲン、ぐらいでしたが、不思議と l 、あっ 宝塚音楽学校の制服は、グレ 楽じゃなかった。 入学試験は東京と大阪の 二か所で行われ、 リュ 名札をつけた黒のレオタードを着て面接とコ l 私は落ちない、と思いました。ですので、発 l 表の日も回りの緊張とは逆にとても冷静でし た。自分の番号を見つけても、『あ た』って冷めてましたね」 。 急電車全線のパスが与えられます。これは嬉 しかったですね 音楽学校時代は、本当に良く遊び、良く遊 1 5 入学式に麻実さんはみごとに遅刻し、 の注目を集めたという。 全 員 東京・神田で育った幼少時代。 遅刻した宝録音楽学校入学式当 日の麻実 さん 。 び、良く遊びでした。おかげさまで、成績は 急降下でした。その頃、駅の売店のオパチャ 言 われ ンに、あんたはほんまに宝塚の男役になるた めに生まれてきたような子ゃな、って ましたけど、ピンと来ませんでした」 しかし、そんな麻実さんに男役に憧れる 「宝塚歌劇団入団後の身体検査で大劇場の奈 日が訪れる。 落にある医務室前に並んでいると、ちょうど 月組の『ウエストサイドストーリー』が公演 中で、素敵な男役さんが自の前を通って行く んですよ。その時初めて、宝塚っていいかも 、 ・ 私も宝塚らしい男役になりたい、とや 。 熱くなった麻実さんは当然のように頭角を っと熱くなってきました」 現していく 1 6 会 いたい人 ばれて、あんたな、せめて振りだけでもちゃ 試験があったんです。あとで春日野先生に呼 さいました。研究課 三年のときに日本舞踊の 人みたいでしたけど、とても可愛がってくだ やってみたい役が次々と待っていてくれて、 :・。その仕事を一生懸命すると、良い作品、 ら今度は松竹から『マクベス』の話が来て:・ づくしでした。これでもういいかと思ってた おかげさまで再演を含めて 一年間『シカゴ』 ミュージカル『シカゴ』に主演する話が来て、 これでいいかな、と思っていたら、東宝から んと党えなはれ、って言われて(笑)、『藤娘』 「春日野八千代先生も天津乙女先生も、雲上 か何か特別に教えていただきましたね。同じ 本当に幸せですね」 おっとりととんなせりふが出るのも麻実れ ころ、研究生としては異例の大抜擢で『ノヴ イ いならばこそ。舞台映えのする派手な美貌と、 l の役で舞台に出されたんです。それ以来この スラリとした長身と、澄んだ声と、性格のよ の場面のドアポ 役はスターへの登龍門と言われているそうで、 さと:::総てが舞台人としての「花」につな l 歌劇団が早くこの子を育てようとすると、こ がる。 ァポサノヴァ』のショ の役をあてるようですね」 これだけの持ち札が揃っていれば宝塚入学 式の遅刻も、踊りの試験も、悠々としてにっ 麻実さんは宝塚に入団して十年で雪組トッ プの座に就き、それから五年後に退団し、女 こり通過できたろう。(この項つづく) 。 「会いたい人」シリーズが一間にまとまり、関容子 著 『 舞台の神に愛される男たち」 (1900 円+税 ) としてこの八月、講談社から刊行されました 優として更に花やかな道を歩み始める。 「トップになったときに男役として 一番美し い時に降りたいと思っていました。青春を謡 歌させていただいたので、先の事は考えずに 退団届けを出しました。そして、舞台はもう 1 7 響流十方 。 。 。 。 。 女房の聴聞し候に、戒をたもたせ候をゃぶり候わんずればとて、た もっとも申し候わぬは、いかが候べきただ聴聞のにわにては、 一時 もたもっと申し候が、めでたき事と申し候は、まことにて候か 答う これはくるしく候わず、たといのちにやぶれ候とも、その 時たもたんとおもう心にて、たもっと申すはよき事にて候 お説法を聴聞している場では、その時だけで そのように答えてさしっかえはありません たとえ、後に戒律 。 法然上人{百四十五箇篠問答} ある女性がお説法を聴聞していた時、 「 戒律を守ると普いますか」と尋ねられ 。 守り通せると思えなかったので「普います 」 とは答えなかったそうで 、 これはいかがなものでしょう 。 「 守ると普います 」 と答えるのが尊いといわれているのは、本当でしょうか 。 ましたが も す お答えします 。 を守れないことがあろうと、説法の場では戒律を守ろうと心に寄って 、「守りま す」 と答えるのはよいことなのです あの時、確かにそう誓いましたよね 棚流十方 どうしたって筆が重い 。 でも、やっぱり 書 き残しておきたい 。 。 ところどころ 説明や叙述を省くことになろうが、あらかじめお許しを請うておきたい 。 。 。 「またかよ」と再び受話器を取 M家の息子さんだった 。 そう、あれはとある金曜日、何度も電話がかかってくる午後だった ひとつ 今度は、緊張した若い男の声だ 。 長電話を切ったところで 、またベルが鳴 った る 。 そして、つ 電話の内容は父親が自宅で亡くなっていたこと、しかるべく調べたところ病 。 息子さんと奥さんが待っていた も っと 溺愛したという 。 と 。 早期退職か、定年か、五十代半ばでリタイ 。 M さんは第 二 の人生を事実上、改築した 同じ頃、 Mさんは亡きご両親が住んでいた実家を改築した 。一 つの決 。 。 何はともあれ、駅向こうのM家宅 死であったこと、推定死亡日時はいついつだと伝えるものだった 。 いては 菩 提寺と葬儀の相談をしたいという に駆けつけた 。 Mさんは還暦を少々過ぎていた アした 断であったのだろうが、ある時点から 実家を新居にプチ 一人暮らしを楽しむ方向にシフトしたようであった も、それがかねて本人が希望していたことであったかどうか、私には分からな 。 。 真面目を絵に 描いたような M さん お寺の行事にも欠かさず参加されていた 。 そんな Mさん、数年前から家の中で大型犬を飼いだした 1 9 し、 。 。 、 。 。 。 もうすぐ五十 そばには愛犬が 。 っ いや、そんなことは 傍らに愛犬だけが残 その後、数年して M さんはリタイア、 。 気にかけていたのだ 。 って、確かに、 仏・法・僧に帰依すると 毎日若干遍、お念仏を唱えますか 十四年前の剃度式、 Mさんは菩提寺の阿弥陀さまの前で誓って 。 だって、奥さんも、息子さん方も、ご兄弟も、お孫さんも、ご親 でも、それが Mさんの人生の結末だったのだろうか 。 。 三 日ぶりに M さん お盆でお伺いするたびに、少しずつ覇気が薄れているように思え ころが犬の散歩の途中、転んで怪我をした それからだろうか、お寺からも足 。 そして件の金曜日、出張で留守をしてた息子さん二 が が遠のいた た 。 宅の様子を見に訪れてみると、 Mさんは居間で息絶えていた 寄り添っていたという 。 ご尊父が亡くなった翌年、 Mさんは菩提寺で剃度式を受けた に手の届くころ、今の私と同じ年齢だ 。 第 二 の人生を歩み出し、やがて 一人で息を引き取った た 断じてない 。 。 類も、みんないつも Mさんを見守っていたのであるから から それに、だ いたではないか 。 だったら、阿弥陀さまのお導きがあるはずだ 「よくたもつや否や」という住職の問い掛けに、「よくたもつ」 そう誓っていたではないか 2 0 響流卜方 。 。 た 戒律をたもつかたもたない 宣誓 することが尊いことだという 冒頭 のご法語は、戒律に関するお諭しではある か、たもてないと思えても「たもつ」と もてそうにないから「たもつ」と宣誓しないのは、最初から諦めることに他な 。 。 。 自分をめぐる可能性を自分で勝手に見限ることになる 法然上人はそ 言 いたかったのではないだろうか らない こを 。 Mさん、あなたはお念仏若干遍「よくたもつ」と誓われた ご尊父を見送っ たこれからの自分自身に期待しつつ、この先の人生に希望を感じつつ、新しい 。 自分のスタートのために、確かにそう誓われたんですよね 念仏を唱えるとい 。 法然上人のお考えに照らせば、それは尊いことなん うことは、極楽往生を叶えようという阿弥陀さまのお誓いを 信 じ、自身の往 生 。 を勝手に見限らないこと です 。 。 。 そんな思いで、あなたを見送りました 。 いつか教えて下さい 。 仏 尊い普いを述べたあなたにお迎えがなくて、いったい誰にあるのとい 。 Mさん、確かに阿弥陀さまのお迎えがありましたよね 人は誰だって弱いも のです うでしょう の慈悲の何たるかを (浄土宗総合研究所袖山集輝) 2 1 連載 __ì_L畠 日リ 田 末日 男 雪長宣⑪ 快 中i γ 海 、旭 月 Fを 求 め て ][ 'j-' に 丹を 求めて 思わぬところから視察の誘い 。 1 リ 語の経典と格闘しているところだ l 渡辺海旭が下宿に帰ると、同 室 の荻原 雲 来 がパ った 今晩の、救貧活動をめぐるキリスト者、 ないと 言 われた 労働者の家(アルパイテル 「 言 葉が気になってならない ハイム)」という 。 。 。 この日で確かめてみたい、という衝動を抑え ることができなかった そんな海旭の希望がかなえられる日が、 居酒屋でドイツ人の議論仲間から日本の救 早々と、それも思わぬところからやってきた た高等文官試験合格組の官僚留学生が訪ねて きて、 「『労働者の家」 視察 」 に誘われたので 。 ある 海旭は本意をつかみかねて訊き返した たしか、日本には岨救 「賞兄が 『 労働者の家 』 に関心があるとは、 。 貧制度について尋ねられたとき、助けを求め 社会 主 義者、自由 主 義者との議論について、 。 そんなことのために 。 雲来に意見を求めようと考えたが、思いとど 「こんな遅くまで一体全体何をしていたのだ ま った 。 また異教徒や 主 義者たちと酒を酌み交わして オダを上げていたのか 宗門はわれらをロイマン先生の下へ送りだし 。 またどうしてなのか なのになぜ 」 ・・・ 高文官僚の答えがふる 。 。 それ 「 国は形だけで、救貧・防貧は国以外の人々 っ ていた べる余裕などないと 言っ たではないか ためだ、いま我が国には貧窮者に手を 差 し伸 一等国としての体裁を整える たのではないことぐらい君も自覚しているだ とりわ ためではなく、 規則という法律があるが、それは貧民を救う 。 ろうに」と説教されるのが目に見えていたか 雲来の指摘は指摘で尤もだし、海旭も内心 らだ 。 っ てとて 慨侃たる思いを抱いてはいたが、しかし、海 った 旭には今晩の 議 論が自らの将 来 にと つもなく貴 重 だという直感があ け、別れ際に救貧活動の 手 本になるかもしれ 2 3 がやってくれれば、石 。 君 二鳥、いやそれで諸 外国から 一等国と見られるなら 一石 三 鳥 。 。 たちの議論を横で聞くともなしに聞いていて、 どうもその手がかりが 「 労働者の家』 とかに レ あると直感し、本国の内務省に照会すると、 l しっかり研究せよとのお達しが出ましてね そのうち日本大使館から連絡が入り、ピ 『 労働者の家 」 とかがあると ビ l レフェルトの社会実験 旬日して海旭は高文官僚に従って、ストラ 。 ノルトラント 。 ピ l ヴ ・ レフェ レン州の中心地で、繊維産業で レフェルトへ向かった スブルクから列車で北へ半日の旅程にあるピ l エストファ l 急成長している工業都市である ルトの鉄道駅前で、旧知の駐独日本大使館書 記官と社会保障が担当というふれこみのドイ フェルトにその いうので、早速に視察を依頼した次第です ツ帝国の内務官僚が待ち受けていた 二戸建てが 。 手入れの行き届い 。 た中庭と涼風にはためく洗濯物からドイツの 立ち並ぶ住宅地区だった でよく見かける、小ぢんまりした 連れて行かれたのは、ドイツの都市の郊外 。 どうです、同道されませんか、貴重な情報を いただいた御礼です」 あの夜は議論に熱中して気づかなかったが、 一緒に 中流家庭の質実な暮らしぶりがしのばれる この高文官僚も新酒(ホイリゲ)に誘われて 河岸を代えたところ、また海旭たちと 高文官僚 思わぬ展開だった 。 。 「これが 『 労働者の家(アルパイテルハイ なったらしい の関心の出所は海旭のそれとは真逆だった 。 ドイツ人官僚はうなずき返すと、感動な解 官僚と顔を見あわせた してつぶやくと、おなじく拍子抜け顔の高文 ム) 」、ですか仔」海旭はいささか拍子抜けが 海旭は誘いをありがたく受 レフェルトならその途次だから寄 が、ちょうど近々仏教学会がベルリン大学で l 。 。 ピ ることができる 。 ある けることにした 2 4 必 rt' に灯を求めて 。 る急激な経済的発展で流浪する貧困者が続々 対処できないど ころか、それが逆に社会主義を助長させる 一 業ではこれに対処できない 。 実は救貧活動に熱心な保守系プロテスタント 。 説口調で 言 った と生み出されつつある 旧来の救貧や慈善事 「何の変哲もない平凡な家々に見えますが、 団体のリーダーが仕掛けた、社会保障政策先 農 こ 方でキリスト教会の影響力を低めている 。 。 進同ドイツにおける社会実験の 一つといって では何をなすべきか れではキリスト教精神を危うくし、ひいては 。 もいいでしょうね」 国をも危うくする 村から都会へ仕事を求めて続々と人がやって ドイツ人官僚によると、その仕掛け人とは フリードリヒ・フォン・ボデルシユヴイング 仕 くるのに、住む家がそれに追いつかない 化する貧窮者がますますふえる 。 この悪い循 ころを失い、次の仕事を得にくくなり、流浪 。 仕事を失うと住むと 。 (父)といい、海旭が渡独した十五年前の一 事にあぶれる 人もでる l 八八五年に「労働者の家 」協会(フェライ ン・アルパイテルハイム)を設立、ここピ レフェルト近郊に地所を買い求め、「労働者 。 。 仕事を それには、仕事 環を断ち切らねばならない 。 の家」八棟の建築に着手したのだという にいそしめる家がなければならない 。 「ほう」と日本人官僚は疑念の晴れない面持 。 そう思ったのです」 にわかに円本人高文官僚の顔が明るくなる 繁栄にもつながる それがわがドイツ帝国とドイツ皇室の安箪と 。 イム) 」 の建設こそが最優先されるべきだと 。 失っても家を失わないようにしなければなら 「で、 ちで、メモを取る手をとめでたずねた ない 工業化によ そこで 『 労働者の家(アルパイテルハ いったいどんな社会実験なんですか、これは」 。 ドイツ人官僚は大学講師然とした口調で説 。 「ポデルシユヴィングはキリスト者団体の指 明を続けた 導者として、こう考えたのです 25 のをドイツ人官僚は見逃さなかった 。 「これ がボデルシユヴィングの持論の証拠物件で 詮は社大な社会実験にすぎなかったというべ そこへドイツ人 さっぱり合点のいかぬ日本人官僚は海旭へ きでしょう」 。 謎をかけられたまま海旭と高文官僚はベル 再び庁赤いベルリン。 しましょう」 リンに無残な証拠があるので、そこへご案内 実をもって示 したほうがいいでしょう、ベル 「口で説明するよりも現 視線を向けて同意を求めた 。 す」といって手にしていた資料をすっと差し そこには、こう 。 官僚が謎をかけた 「彼が 『 労働者の家 」 という 社会実験をはじめるにあたって、時のフリー 皇太子にあてた手紙です」 出して続けた ドリヒ 。 高文官僚が受け取った手紙の控えをと思し 。 き資料を海旭も覗き込んだ 記されていた 「この先三 十、四十年の間に、いかなる勤勉 。 帝都の鉄道玄関口レ 1 帝都へは 。 ど ルテ駅前で待ち 。 リンへと向かう車中の人となった った ら自身のリンゴの木の下で、家族に取り囲ま エンツォレルン 家の治世 ピl レフェルトから急行で五時間ほどの旅だ l 受けていた馬車を駆って市央へ向かった 線を泳がせていた海旭は、遠くに黒茶けたコ こへ連れて行かれるのだろうかと、窓外に視 く、「ほう、これは地味ではあるが、わが皇 しない、 三ヶ月ほど前に仏教学会の帰りにこ 。 は見かけた風景だぞ」とつぶやいた 忘れも ンクリートの箱が林立するのを見て、「これ 。 「残念ながら、着想はよかったのですが、所 ドイツ人官僚は「いやいや」と首をふった 国の弥栄にも大いに資するものがある」 日本人官僚は、大いに元気づけられたらし は百年の盤石を得るでしょう」 主主義は死に 、ホ れて夕食をとるというようになれば、社会民 な工場労働者も、ささやかな住居をもち、彼 f、、 2 6 '!ÎÆ 中 に 月 を求 め て とな った場所だ った 。 「ここは、ひょ っと 」 。「象牙の嬉 H ではありませんか 。 こを訪れ、教貧活動をめぐる論争のき っかけ H 赤 いベルリン 海旭は思わず叫んだ して ドイツ人官僚は驚いて返した っ たよ 。 まあ、明日はわが身だが て、 子供と病人のばあさんを連れて夜逃げ同 然に出て行 。 。 。 早く外 。 に耐えていた日本とドイツの官僚の異口同 音 の叫びで破られた 「ここではまともな議論はできない へ出ょう!」 H 赤 いベルリン 。か ったが、やむな 海旭としては半裸男が目覚めて先の住人の 。 安否を確認できるまでいたか 。 これがわが日本がお手 本に っと深いため息をついて 言 ら臭いのとどかないところまで撤退すると、 く彼らの提案に従った 日本人 官 僚がふー 。 している近代 国家 の実 態ですか 」 。 ね・: 」と応じると、体を床に戻していびきを かきはじめた あのあどけない子供たちは 奉 公にでも出さ れたのだろうか 海旭は渡辺の家が傾いて口 で高過なる聖典と取り組まれている学僧が、 減らしに寺に出されたときのことを想 。 っ 部 屋 を訪ねあて った わが帝国の恥部であるこんな掃き溜めをご存 が、海旭の沈思は、鼻をつまんですえた臭い っていた海旭 立 つや、異臭を放つご それまで 三人の駿尾につき従 ・ 」 知とは・ ・ ったが、馬車を降り 立 ちすくむ だ みためを見るように遠巻きにして H 赤 いベルリ 。 三 人を引き 立 てるようにして、 ン u の中へと入 っ てい った ったろうか 三月前に海旭を招き入れてくれた子供たち の家族はどうな 元の住人の所在を確認する海旭に、 ると、汚れ具合はそのままだが住人は変わ 。 った ていた おそらく夜勤の仕事に備えてなのだろう、残 「いやあひどい 。「仕 事 をなくし 飯が散乱する床の 上 に半裸で寝ていた男が、 も っそりと半身をおこした 27 「わが国では、鉄血宰相を戴いてから、また 彼が引退してからも、粛々と社会保障政策を 推し進めてきたのですが・:」 ドイツ人内務官僚は、冷静さを取り戻して いったい理由はなんなのですか」 「一言でいうと、仕事を求める労働者の都市 流入に社会政策が追いつかないのですよ」 ドイツ人官僚は肩を落としてそう答える ドイ と、官僚らしく数字を示して補足した 。 解説をはじめた ツでは、社会保障政策をうちはじめた 一八七 それによると、 一八七 0年 代、ドイツは工業化で急速な経済発展を遂げ O年から今までの聞に五千人以上の「都市」 。 るが、労働者の都市集中によって貧窮者が増 に住む人口は凡そ 一千万人から 三千万人と 三 これに対し え反政府の社会主義運動が高揚 倍へ、十万人以上の大都市の数は八から四十 。 て、 一八八 一年には労働者災害保険法案、 八と六倍となり、全人口にしめる比率は五% 「ピ 1 。 弱から 二O %超になったというのである 後者は労 一八八 三年には疾病保険法を制定 。 働者が 三分の 二、雇主が 三分の 一の保険料を 言っ 「なるほど」と日本人官僚は 『 労働者の家(アルパイテルハ 。 負担、荊気で働けなくなっても労働者は無料 レフェルトの た で治療を受けられる上に疾病手当てが支給さ なんですよ」 ベルリン H こそが現実世界の H 赤 いベ H 赤 い 「 労働者の家 」 クリートの箱を指 差 しながら、「あの ドイツ人官僚は彼方に聾える黒茶けたコン 。 」 はいわばお遊びの社会実験 イム) 一八八九年には老 ルリン uという現実の前には焼け石に水とい さらに れるというもの うわけですか」 。 齢・疾病保険法制定 これは七十歳に達した 。 労働者には老齢年金、労働能力を喪失した労 。 。 。 働者に対しては廃疾年金が支給されるという ものだった 日本人官僚は眉根を寄せて訊き返した ρ いベルリン H ですか 「それだけやっても、 赤 2 8 日本人官僚は頭を抱えてため息をついた しかし、ドイ 。 ツ僚 「それを誰から・:?」とドイ官 。 旭が答えると、ド 「社会民主党員です」と海 。 「日本もいずれこうなるのか イツ官僚は何かいやなものを聞いたというふ 「だった ツがここまでやっても焼け石に水だとした 。 「そこへ案内 。 入口 (この項つづく) そこから先の段取り 「ベルリン市内にもあったはずだ ドイツ人官僚は気が乗らないそぶりで応じ 。 。 は君たちだけでつけたまえ」 までならご案内しよう た してもらえませんか」 海旭は目を輝かせて 言 った らそれは 、やつらの 互助組織かも しれない」 。 うに顔をしかめ、しばし思案した 。 。 ら、どうすればいいのか:・」 海旭は、日独の高級官僚のやりとりを黙っ 「どうも、どこかちがう・:」 て聞きながら、違和感を覚えてひとりごちた ドイツ官僚が聞きとがめて訊き返した 「なにがどこかちがうのか?」 「 労働者の家 」 どうも連れて行 「ドイツの友人か らお手本に したらと 言 われ 。 l レフェルトの た 『 労働者の家 」 が、です ってもらったピ ρ 赤 いベルリン H とも・:」 浄土宗法衣専門 古島法ゑ洛 会社 とも、もちろんこの 古き伝統姥 三代におたる信頼 有限 一 法然上人を }三たに 石丸晶子 第五回 人 めぐる人々 然つ楽 挿画・佐野芳朗 法 極楽に帰 っ た法然上人 +三 。 黒谷の叡空の弟子となって、 いつしか 二十 五年が経っていた 瞳に 一途な決意を秘めて叡空の室の前に立 。 った十八歳の青年僧は、四十 三歳の壮年僧に なっていた 心に専ら弥陀の名号を念じて行住坐 臥に、時節の久近を問わず、念々に捨て 。 ざるもの、これを正定の業と名づく か 。 。 これによって往 。 の仏(阿弥陀如来)の願に順ずるが般に 。 何気なく彼はそこを読み進もうとした 。 時々刻々いつもいつも念仏を唱えて 。 と、ハッとして法然の目はそこに釘付けに なった 決して口から捨てないこと 春とはいえ 。 。 。 承安五年の春も半ぼであった 旧暦であるから温かいという季節ではない 生は決定する 然は絶句した 。 (これだ この道があったのだ 。 しかも平等の救済の道があったのだ!) (なぜだ なぜ今まで気付かなかったのだ 。 それはまさに電光石火 実存覚醒の 一瞬で 万民救済の道が用意されていたのに l) 。 万民救済の、 全身がその筒所に釘付けになったように法 観無量寿経を釈して善導はそ が、寒さの厳しい叡山でもあちこちに 雪 解け 観 善導大師が 「 観無量寿経 」を注釈した 「 「おおl ッ」 う述べていた 。 。 の音が聞こえ、真冬の聞は凍っていた谷川の せせらぎの音も聞こえはじめた 。 遠く近く野鳥のさえずりも聞こえている 昨日初めて法然は鷲の声を聞いた 「さあ、昨日の続きを読まねばならぬ」 。 朝の勤めをすませると法然は経机に向かっ た 。 散善義」が昨日読み終わったところで 経疏 」「 聞かれたままになっている 3 1 あった 。 。 法然は今まで知らなかった全く別の世界に 連れ出されていた それは、後戻りしたくても出来ない絶対的 覚醒であり、今まで知っていた古い世界とは 。 全く別の新しい世界と人間への深い覚醒でも あった 。 その時、閣の世界の彼方が蓄積色に輝いて 見えた 。 そして、弟弟子の信空から紹介さ 早々に師僧叡空の許しを得ると、法然は山 を下りた れた遊蓮房円照という善導流念仏聖を訪ね、 。 ほどなく東山吉水のほとりの草庵に住むこと になった 遊蓮房は、のちに法然が「浄土の法門と遊 蓮房にあえるこそ、人界に生を享けた思い出 。 であった」と述懐している信空身内の聖であ ところで、承安から安元、治承にわたるこ る の日々が平家全盛の世であったことを忘れて 。 の巷で失った人々・: さらには仏の教えから 餓えに苦しみ、父を、母を子どもを、戦乱 さえ見捨てられて今生と来世への望みを失っ 。 一番弟子となる信空は、 この平家 全盛時代、叡空の死後 はならない ンバーッ I むねこ の地位にあり、なかなかのやり手 平家女性のなかで清盛の妻時子に次いでナ 平家中枢に身内を持っていた ほどなく法然上人の 。 て巷をさまよう人々・.. 。 彼らに 一刻も早くこの福音を伝えなければ ならない 精神の夜明けとともに法然の心を襲ったの 。 叡山の麓では平家の栄 系図 であった藤原領子が、信空の伯母であり、し はこのことであった 。 を見ると 二人は或いは 一緒に育ったとも考え ったのである 華をよそに、仏教からも社会からも疎外され かも 二人は義姉弟でもあ 。 た人々の嘆きが、満ち満ちているはずであっ た 3 2 極楽に帰った法然上人 れて古代に幕が下ろされ、中世という新しい 。 られ、そして成人後領子は「平家にあらずん 三十余年であった 時代がはじまっていくという、それは激動の 。 ば人にあらず」と豪語したことでしられる平 時忠の後妻に納まっていた そしてこの間、法然上人にとっては旧仏教 。 。 。 。 。 し 弟子たちの目 にも上人との別れが近いことが感じられ、法 と早々に風邪を引かれていた 長年の流人生活であった。加えて年が明ける 上人はもう七十九歳である。高齢に加えて あった 東山大谷の草庵に入ったのはその年の暮れで かしすぐ浩中に入ることは許されず、上人が 十 一月十 一 日 のは建暦元年 (1211) その法然上人と親驚に赦免の宣旨が下った されたのであった が起き、法然上人は讃岐へ、親情は越後へ流 そのような中でいわゆる「安楽住蓮事件」 に庶民の聞に広がっていったのである 念仏の教えは平家滅亡後も社会の各層に、特 時の権力者と近親関係に信空がいたこと トを食らわずに、庶民のみならず、 ッ 側の嫌がらせや妨害があったとはいえ、口称 。 が、山を下りた法然上人の教えが貴族社会の ボイコ 。 平家や皇室の人々そして社会の各層に、新し く浸透していくのに役立ったと思われる 山を下りた法然上人にまず、今をときめく 平家や皇室の好意がなかったならば、庶民層 にもみ教えは広まっていかなかったであろう 平家や皇室に忌避されたならば、叡山を下り 。 さ た段階で、御教えの社会への浸透は挫折して いたにちがいない 鎌倉には幕府が樹 立 。 られるまでの三十余年間のうちに、平家一門 法然上人が山を下りたこの日から浄土に帰 四 は壇ノ浦で滅亡した 3 3 + 3 4 極楽に帰 っ た法然上人 然上人以外の誰もが慌てていた 。 。 だ 第 一 、 (このままお上人様とのお別れがきてしまっ 。 ては、われらは 一体どうなるのであろう れが教団をまとめ導いてくれるのか 。 法然上人様の御教えを過たずに 一体誰がわか っているのか:::) 何としても 「御房たちも休まれよ」 と力なく咳き込みながら上人は、 「私の病をそなたたちにまで移してはなら ぬ」 「何を仰せられます。わたくしたちは皆、お 。 「大きな深い川があった 。 後ろからは敵の軍 。 人々は我先に 。 信空に答えるともなく、法然上人はつづけた 。 上人様あっての者たちでございます 薬湯を しっかりお飲みくださいませ」 信空がいった ー法然上 人との別れは悲しい われらの聞に長く留まっていていただかねば 「夢を見ていた」 。 一人ひとり ならぬ。しかしそれが叶わぬならば今後どう やっていけばいいのか 口にこそ出さないが、弟子たち 馬の音が近づいてくる 人々は恐れ、味方が 弟子たちは替わ の思いはこのことであった いる対岸に渡ろうとひしめき合っていたが川 。 り合い、終日終夜法然上人の枕辺に侍してい 浪が高く、辺りは嵐でだれも向こう岸にいけ とその時、人々が向かいた 。 。 いともがく対岸から思わぬ速さで大きな船が るものが居ない た、 。 その日は朝から小雪がちら 迎えにやって来たではないか 。 京の冬は寒い 早朝から枕辺に侍している法蓮房信空と交 ついていた 船に乗り込んでいた:・」 源知 uがいった 。「 何か考えさせるような」 「不思議なゆめでございます」 代しようとして薬湯を持った勢観房源智が人 。 ってきたかすかな音に目覚めた法然上人は、 そこに 二人の弟子をみとめて微笑された 3 5 「いかにも意味深い夢よ」 法然上人は答えると、 「そなたたちにもこの夢の意味が分かるであ ろ、つな」 「意味するところかどうかは分かりませぬが、 敵がうしろから攻めてくるときに、味方から 迎えの船が大 挙してやってきたとはありがた いことにございます」 。 。 房、湛空:: :そして名もない庶民たち 公卿平基親の姿もあった 。 。 雪もちらつく冬の寒空の中、人々は手を合 わせて念仏を唱えている 。 知らせを聞いて都近辺の多くの弟子たちも 草庵に集まってきたのだ 。 ガキ大将の幼馴染太郎助や 三郎も 一日だけは経典を紐解 。 母も 幸 せそうに微笑 。 ここ数日、法然上人はうとうとしたままで ある 。 。 そんな中で上人は多くの夢を見ていた った いた そういえば、あの日 夢には :: 弟子の津戸 三郎や大胡実秀など関東の御家人 それから 一人ひとりの 弟子たち: くことができなかった::: ー で踏み荒らしていったこと・: んでいるのではないかと、法然上人の草庵ま 木曽義仲の軍隊が京に乱入し、平家が隠れ潜 :・道を求めて苦悩した 二十五年の歳月・: 。 生真面目な性格の信空はい 法蓮房信空や勢観房 んでいる 夢の中には父が居た 。 今 ったわれらを弥陀が念仏の力 「おお、そこよ、その有難さよ 。生 き死にの 海でおぼれかか った」 によって西方浄土に迎え入れてくださる 朝方見た夢はまさしく、その夢であ 。 源智をはじめ善慧房証空、心寂、隆寛、信寂 くまで押しかけてきた でなく、大勢の庶民たちが大谷の草庵の軒近 法然上人危篤、のうわさに弟子たちばかり + 歪 36 ゃ、式子内親王の姿もあった・: 式子に懇々と浄土の教えを諭していると思 ってふと目覚めた法然上人は、うつっともゆ 。 。 めとも分かちがたい心で、目であたりを見回 した 「おめざめになられましたか」 傍らに控えていた源智がいった 。 「内親王にお会いしていた」 法然上人は言った 。 夢うつつのなかで上人は源智に命じた 。 。 。 持土で法然上 。 。 「賀茂の斎院にお帰りになったのであろう お見送りせよ」 かさねて上人は言った 内親王はもう九年前に他界 人を待っているはずの人であった 不思議なことだと思いながらも、素直な源 で追いかけたが、それらしい人影は何処にも 智は草庵の外に出、賀茂神社への道を途中ま 無かった:・ それは確かに夢であった 「式子内親王でございますか」 「そうだ、浄土の法門を種々お尋ねであるの いながら草庵に戻っていった 。 源智は上人と内親王との深い幹を改めて思 そなた、後を追っ (つづく) でお答えしていた。お姿が見えぬがもうお帰 。 失礼があってはならぬ」 。 りになってしまわれたか てお見送りせよ 3 7 を ~ 牛込から 早稲田へ 森清鑑 江戸 を 歩く 山鹿素行 。 すると右 寺域は現在よりずっと広 って 牛込氏(江戸時代旗本) この寺に山鹿素行が眠 。 曹洞宗の寺で、牛込の地名の基になった 。 浄輪寺の先の四つ角左に曲がる 。 手に宗参寺がある い 。 牛込氏が開基した の菩提寺である 。 忠臣蔵討ち入りの際、大石内蔵助(良 夏目欺石の里 この辺りも与力、同心の大縄地が多く、寺 と下級武士の家宅がひしめいている。宗参寺 ちらほらと見え、牛込馬場下横町に着く 。三 を過ぎ、西へ歩くと、道の右側に早稲田村が 。 。 。 慶応 三年激石はここで生まれた 。 父親は 叉路を返して南に登る坂が今の夏目坂であ る 田馬場 一帯までの大 名主で、時に公務も 扱い、村人の民事事 。 件も玄関先で裁いた 無論、この 宗惨庖守 .倣歩図 いる 夏目小兵衛 。 とい、っ 土地の名士であった 融多方向 → 夏目家 雄)は山鹿流陣太鼓を打ち鳴らしたとされて この人は九歳の時にかの林羅山の門下に は、この辺りから高 。 素 。 いるが、その山鹿流兵法の祖が山鹿素行であ る った北条氏長から実戦に役立つ兵法を学ぶ 入り朱子学を、十五歳から幕府軍制にかかわ 。 。 そこで赤穂藩士の教育を行う 長じて朱子学を 批判したために赤穂藩にお預 けの身となる 国家老、大石良雄も門弟の 一人であった 末っ子として生まれ 山鹿流 行はその後江戸に戻り軍学を教える た激石は、家庭の事 。 兵法は実戦兵法として江戸時代にかなり浸透 がここが彼の故郷で 情により転々とする 。 39 しており、士門田松陰も幼きとき叔父から山鹿 流兵法の手ほどきを受けたという 冒旦睡 あることは間違いない(夏目坂、早大理工研 ている 右に転じて左の放生池を見下ろしな 。 。 。 。 江 大勢の 。 がら段々を上る 登り切ると立派な楼門 そ 。 究所) 撤石は養子となり、塩原金之助とし の先は広い境内 松や菩提樹が林立 。 古くは源義家が 正面に拝殿と本社 。 て 一時内藤新宿で育つ 。二 十 二歳で再びこの 参拝客が訪れている 。 生家に戻った 晩年、激石は、宗参寺南に住 戸時代の正式名は、高田八幡宮だが江戸っ子 。 む(早稲田南町) 「激石山房」と名付けたこ は穴八幡と 言 った方が早い 奥州凱旋の際、児、太万を納め八幡宮を杷る 。 の家には芥川龍之介ほか多数の弟子が出入り ここでの九年の聞に「こころ」、「 三四 。 江戸寛永時に別当法生寺建立工事の際、横穴 する そして「明暗」執筆 。 。 。 もっとも江戸庶民にとっ ここから高田馬場と不即不離 の関係が生まれる 流鏑馬を奉納 に定め、八代吉宗は世継ぎの病気平癒のため この話を伝え聞いた家光は幕府城北の総鋲護 。 以来、穴八幡宮と呼ばれるようになった 郎」など代表作を執筆 この小川は、西 一帯を占める、広 る が見つかり、その中から阿弥陀如来像が現れ 。 。 橋を渡ると四辻 ょっつじ 。 。 。 。 一陽来復」 ては、虫封じの祈祷や冬至の際の「 。 祈願信仰の方がなじみ深い この風習は現代 がっている 。 穴八幡西隣から広がる広大な屋敷が、尾張 尾張中納言下屋敷 も続いている 比較的広い、 れている 三叉路に戻って、ちょっと行くと小川が流 穴入幡 に没する 中に体調を崩し、大正五年、五十歳でこの地 。 大な尾張殿抱え屋敷の大池(御泉水)とつな 高田 この四辻を馬、町馬武士が行き交っている 。 三名の武士が潜つ 。 そして左前方 一帯がこんもりとした森 1 八幡(通称、穴八幡)である 道沿いに立つ総門を 二 4 0 江戸 を 歩く 。 その広さは、下屋敷八万五千坪、抱え屋 中納 言 六十 二万石の下屋敷(抱え屋敷)であ る する大きな池があり、弁財天も把つである 。 敷五万坪余に達する 庭の中央に御泉水と称 池の東に流れ込む水流(小川)は、早稲田村 、池 (早稲田中学、早稲田大学)とつながり 。 の面白から大久保村方面に流れ下る 屋敷の 俗に戸山屋敷という 。 。 各所に溜池もあ 表御門は、商に位置し 、御門の先は、広大な 御殿 。 り、御馬場を備え、五重塔、天神宮、絵馬堂、 。 丘 これだけの景観がそ これが市ヶ谷の上屋敷に対 。 王子権現、薬師堂、水神が杷られ、臨揺亭な あずまや 。 どの四阿が建ち、 一大庭園を成している には桜林もある する下屋敷なのである 。 とこ っくり残されていたなら、大庭園として東京 の 一大名所になっていたことであろう 一掃され、平地化され、広大 ろが時代の変遷とは無慈悲なもので、明治に なるとそっくり 。 現在は国際国立医療セン な陸軍戸山学校練兵場、校舎、陸軍軍楽学校 になってしまった 。 、公園、学校(早稲田、学習院、戸山高 タ l 校など)として生きている 平稲田の森、高田富士 4 1 る 。 江戸中期以降、富士信仰の隆盛とともに この流れが神田川と先ほど の尾張中納 言 下屋敷御泉水 早稲田 各地に富士塚が造られ、富士山に行けない 。 を結ぶ小川である 。 人々が、人工富士に登り、本物の富士山に向 。 下戸 左が穴八 幡の 。 森、右が宝泉寺の森 を北に登る 今度は、穴八幡前の四辻 高田馬場 。 中学の隣は、犬飼邸となっ 高田富士がとりわけ有 かって手を合わせた 。 それだけに 富士信仰は た 。 位置は、穴八幡の四辻 。 名なのは、数ある富士塚のなかでも江戸で最 ここから始まったと言って良い 初に造られたものだからである 。 。 一段と偉容を誇った 高田村の植木職 人、高 田藤四郎の作である を右に折れ、大学の方に行くと左手にあった 塚村の畑を割る坂道を上っ 江戸期 今の早稲田大学九号館あたりである ていくと、大きな馬場の中 。 は、この高田富士の裏に松平和泉守抱屋敷が の大きな馬場が、高田馬場 央に出る 東西に延びたこ あり、地続きで松平隠岐守、井伊直弼の抱屋 。 敷があった。そして明治になると、この松平 である 七百メートル 。 馬場 馬場の東西延長は 和泉守の屋敷が早稲田大学となり、隣の隠岐 六百 。 守の抱屋敷が大隈重信邸になった(現大隈庭 の手前にはそれに沿って広 i 園、大隈講堂) 高田富士に行く道の右 側は い弓の練習場が設えであっ 。 下戸塚村の田で、ここに大隈重信の手で名門 。 馬場の周 馬場には松の木が仕切 りのように並列 。 た 。 早稲田中学が誕生した(当時早稲田大学は東 。 京専門学校) 学校の中を小川が流れている 右上高田富士 -江戸名所図書室 42 江戸 を 歩く 。 。 今では想像もでき 広重は的場の位置から 。 まさに風光明加 聞は、広い畑で、木々の聞から富士山が眺望 できた ぬ美しき風景である 。 弓場の広い芝にはところどころに幕が張 疾走する こ顕の馬と遠くの富士を描いてい る 馬上の武士が掛け声もろとも疾走し、 。 その手前には、茶屋が 松の土手前には、町民、武 。 。 彼は、穴八幡に弓矢の守護神 。 。 られ、そこに莫藍を敷いて武士の 一団が座り、 行き交う馬の走りを眺めている 。雪 旦が江 戸 。 名所図絵で描いた、この場の情景はリアルで ある が転がっている 弓場では幾つもの的が立てられ、近くに弓矢 士が行き交っている あり、数人の客が飲み食いしている この馬場ができる前、ここは庭園であった 家康の六男松平忠輝の生母、高田殿が景色の その後に造 良い眺望を楽しむために梼えた庭園である 。 られた馬場だから高田馬場 。三 代将軍家光が 高田の地名はここから来ている 。 寛永十 三年に馬揃いや馬術鍛錬のために都え たものである 。 を杷り、流鏑馬の神事をここで奉納した そ を催し、天下太平を祈願した 。 ここはまた、 。 れ以降、歴代の将軍が将軍になる度に流鏑馬 堀部安兵衛の仇討ちの場として天下に名高い 高田馬場 -江戸名所図重量 野球部の 団が来る草 いされ 〈草 旬一 上一 .岸 中高生の 一団か会社などか、これから球場 に行くのか帰りか、これらはすべて読み手に 一入居の部屋に呑焚く五月尽 るような、そんな気がするのである 。 は帰りで、 一団の汗くささがむんむんしてく 。 任されている 「草いきれ」とあるが、私に 〈 佳作〉 部屋割リ安子んなリ決めて夏の旅 子供部屋占拠している浮き袋 東支那海で大発生した海月は、日本海沿岸 に流れてくることが多いが、乙の頃では太平 。 子 、-圃咽ー 洋治序にも及んでいるようだ これが吹き寄 一宏 石原 田 44 部 湾岸に海月森き沖荒れぬ 〈特選〉 浄一 藤 伊 吹 新 雅 保 佐 倉 東 板 池 • 。 せられるように岸辺にひしめいている 沖は 。 次第に荒れてくる様子である 岸近 き段々畑花曇柑 夜は みどリ岸辺に拾う瓶の蓋 か』 〈佳作〉魚河岸の忌事 に静 生 ビール -自由題 長谷川 雅子 明子 ただならぬ雷神に会う旅田夜中 。 と思っていると、急に雷嶋がとどろいた 天気予報はさほど悪くはなかったのだが、 旅の途中で次第に雲行きがあやしくなってき た 。 。 旅はまだこれからだ 。 のだ 気候の変動の多い山岳部あたりへの旅 なのだろうか 苑を 寺下 〈佳作〉神威の微動だにせぬ蝦基蛙 噴水や人よリ多き鳩の数 吉崎美和子 雅子 4 5 忠至 洗い髪肌痛さまで杭き一込す 佐 藤 部 西 裕 南 大 林 〈特選〉 選者=僧田河郎子 浄土露上句会の お知らせ 阿 経 自由題 重 .部 誌上句会〈編集部選〉 蛍火のひとつは岸辺雛れけり 幼な日に近し海岸鰍釣る 朝もやの岸辺に立ちて苦吟行 河骨の咲きし岸辺に夕日 差す -岸 鳥羽梓 月島駄々 斉田仁 森懐人 飯島英徳 佐藤雅子 朝焼けの河岸にマグロと男らと 岸辺にて五月の風に乾きおり 対岸に善男善女いて薄暑 -自由題 アンテナに憩う雀や風薫る 長谷川裕 井口莱 森懐人 望月亜郎 横山文子 枇杷とるに手頃な二階ありにけり 路地表は声をひそめて額の花 三 島治 ビニールの葉に吸いっきし水羊議 緑陰の下の鏡のふかみどり 鳥龍を抱いて夏めく神楽坂 夏燕浄瑠璃坂の仮住まい 工藤捧 鳥羽梓 井口吾郎 隅田川右岸の艇庫夏木立 赤子抱く忘我の岸の夏茜 寺下忠至 工藤掠 木洩れ日の影深くなる夏庇 森懐人 ボート部の声遠くして生ビール 鳥羽梓 父死にし部屋に首振る扇風機 斉田仁 卦報届く西日の部屋に金盟 小林苑を 石原新 岸壁に見かけぬ漁船夏初め 部屋の窓出入り自由な親燕 横山文子 相崎友恵 望月亜郎 日当たりのよい部分だけ夏の入り 山内桃児 頭部から割れて務ちたる名無し滝 内藤隼人 緩のごった煮大部屋の演者 尾瀬に夏来れば混声 二部の歌 人事部の机の角のタ薄暑 。 締切・二O 一二年九月二十日 発表・「浄土 』 二O 一二年十一月号 選者・増田河郎子 (『 南風 」 主宰 ) 応募方法 ・ いずれの題とも数の制限はありません 式」い 。 41714 明照会館内 紅蕃被は黒ずみでなお君臨す 葉月令 横山文子 月島駄々 梅雨に抱く膝つ小僧という小僧 藤堂保 夏足袋や叱られてから考える 夢を見るための聴力夏の浜 .特 選各 1 名 ・佳作各 3 名 べらべらとしゃべる男と氷水 斉田仁 葉書に俳句(何句でも可)と、住所・氏名を必ずお書き下 いま死んだけしきの見えて昼寝かな内藤隼人 宛先 〒 mloo-- 東京都港区芝公園 浄土 」誌上句会係 月刊 「 4 6 、/号、 、、/、、、, tHhae い fpう ・ 勺 g 1 かまちよしろう先生作新聞四コマ漫画「ゴンち ゃ ん』が各地方新聞に掲載されています 。( 静岡新聞・山梨日日新聞・北日本新聞・ 福島民報・宮崎日日新聞・新日本海新聞・神戸新聞・岐阜新聞・中国新聞・四国新聞 ) 圏内、II 白雪吟fh控 ラ 編集後記 月獲し 葦 の池に入り込む れていた。 日本のどこにでもある海を望 らいすばらしいパステル闘が二枚出展さ まで仕事をするなんて、実は馬鹿げたこ 彼の言葉には重みがあった。必死で死ぬ そうした生き方こそが生きる意味かもし む棚 田の夕焼けを描いた風景は、田の水、 と で、晩年は自分の好きなこ と をやる。 れないと思った。(長) 川 崎可 昭和卜年五日 三卜日第 三傾郵使物市 平成 二卜凶年八日 二 卜日 千成 ニ ト四 年 九月 一 n 年 会 費 六 千円 七十 八 巻九日り 頒 価 六百円 斎藤晃遊 佐山哲郎 青木照窓 村田洋 一 長谷川岱潤 海の水、そして空、森といったものが実 世 代は次の人生 を入れ替える時 期 なんだ よ 。経 編集チ 1 フ 編集スタ ッ フ に細かく丁寧に摘かれていた。またもう ト いるけれど、もう我々の 彼が 言 っていた。「仕事に夢中になって ャンパスの方を動かしながら描くそうだ。 き手でない左手でここまで揃くには、キ 水滴の 一つ 一つを丁箪に 揃 いていた。利 半身麻癖になってしまった。彼は在の脳 ルを使い 語症もあり、健常者と話をすることを矩 ー 東海林良雲 (庖釜 ・ 雲上寺) むようになってしまった。メ 佐藤成順 ( 品川・願行寺) 佐藤良純 (小石 川・ 光 悶 寺) 印刷 発行 発行人 lal-- ll 抹式 会 社 編集 人 Ili-- 印刷所 一一 〒 一一五 1 東 京郎浴区芝 公 闘問 左藤良 陥 シ 4 ティ 1 イ l 凶明 照会 館内 l 大室了時 ・七 法然上 人鍛 仰会 仮 HH FAX 幅 八七 八 '・ 八 ,八二- 一 e て 泡日仙 (瓦七八 )ム九 ハ阿七 ユニ(五 三ヒ八 )七 ニニ六 発行所 jj • 時々ではあっても述絡を取り合ってきた 北山大超 (焼津 ・光心寺) 加腹亮音量 (五反田 ・ 専 修寺) 熊谷靖彦 (佐賀 ・ 本膳寺) 粂原恒久 (川越・ 蓮警守) 佐藤孝鎗 (鎌倉 ・ 高徳院) 浄 土 事で、昨年から左手で描き始めたという 魚尾孝久 (三 島 ・ 甑 成 寺〕 にシフ ( 敬称略・五十音順 } タ通信で送って く れ た こ と も あ 本多義敏 (両 凶 ・回向 院) 真野施海 (大本 山 ñ1 浄華院) 刷博之(網代・ 教安寺 ) 水科善隆 (長野 ・覚慶寺) 宮林昭彦 (大本 山光明 寺) 山田和鎌 (諏訪 ・ 点松院) ー 大江田博導 ( {Ih 台・ 西 }j寺) こと、それが永く生きる コ ツだ よ 。が ん 野上智徳 (静岡 ・ 宝台院) 藤田得三 (鴻巣 ・ l勝願寺) 細田卓文 (静岡 ・ ~陽院) 絵をデ 飯閏実緩 (駒 ヶ 恨・ 安楽 王子) 巌谷勝正 (目黒 ・ 祐天寺) 済情動ではなく、集 中 できる趣味を持つ 中村康務 (治水 ・ 実 相 寺) 中村瑞貴 ( {Ih 台・態鈍 院) った。今団 地 元のグルー プ 展 に 出 展 し た 。 高白書量行 (大 阪・ 一 心寺) 田中光成 ( 町 111. 後遺守) 中島真成 (苛 山・締 窓院) ので、見に米ないかという連絡をもらい ばるんじゃないんだ よ、楽しむんだ よ」。 須藤隆仙 (函 館・ 称名寺) 手も動かなくなってしまった。そして失 一枚の水辺を飛び出すカワセミの絵は、 濁 をやられてしまい、当初右側が全く足も 友人が、 三年前、突然脱出血を起こし、 高校の同窓会の幹事を 一緒にしていた 岱 そこには思いもよらないく hl叩刈 odo.ne.jp ホーム ページ 行ってみた 雑誌 『浄土j 特別 、 維持 、 賛助会員の方々 48 泰雲 文と写真 浄土真宗東京東本願寺派 光徳寺平井泰雲尼 茶道歴30年 と、や魚、新制 「 と、や魚新 J は、明治 23 年赤坂鮮魚、店に始まり、 赤坂花柳界の料亭への仕出屋を経て、京都「たん f(~;1 ヒ 店 J で修行した 山 本正明氏が、昭和 56年開業から店長 としてカウンタ一割烹「喰い切りおまかせ料理」の料 理を担っている 。 魚の美 l床しさだけでなく、四季の心入れした美しい 料理、全国の造り酒屋から厳選したお酒と揃えば至福 の時間 。 山本店長から伝わる 「一 客 一 亭」の 精神は、これは 高級でなく上質な日本料理の世界 。 毎朝、店長向ら築 地市場に足を運ぶ鮮魚へのこだわりと、食文 化 を育む 場でありたいと願っている 山 本氏の仕事の姿は美しい 。 また、食の専門出版社の柴田書房の常連でもある 。 赤坂界 |段のビジネスマン、 O.L で満席になるお昼の メニューには 、 焼魚定食 (1890 円)や日本料理の全て が入っている炭能弁当 (2625 円)がある 。 そして、最 後にいただくデザートの自家製寒天のあんみつ、蓮粉 を使った蓮和三盆餅は絶品 。 お土産に持ち帰りたくなる 。 107 - 0052 東京都港区赤娠 5 - 1 - 34 クウ才ータービル 1 F 033585-4701 定休日目 、 祝 1 1: 30 - 15 : 00 ( L014 : 00 ) 、 17 : 30 - 23:00 ( L021 : 30 )( 土曜日 L020 : 30 ) 」000 ヨ Oコ円一 可ニ 法然上人績仰会の 当会発行の書籍 、 雑誌 のお求めは 、 当会へ直接 NOHN お申し込みください 。 なお 、 月干Ij r浄土J を除き送料は 甲 ・ 発行人 / 佐藤良純 響流+ 方 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