第四章 五感の快復

第四章
五感の恢復│時代の禁欲主義に抗して│
ジェ l ムズ・ W ・ハイジヅク
古い仏教説話に、荒れ狂う二頭の象に追われて井戸に逃げ込んだ男の話、がある。身の危険を感じた男
は、井戸の縁に垂れさがった藤のつるにしがみついて、追ってくる象の牙からようやく逃れるが、見る
て壁づたいによじのぼり始める。井戸の底には龍が三一頭、火を吐きながら爪をひろげて横たわ﹁てい
と白と黒の二匹の鼠が藤づるを食いちぎろうとしている。こうしているうちに、四匹の毒蛇が男めがけ
る。男が上を仰ぎ見ると、たまたま藤づるに蜂蜜が三滴ついていた。しばし休んで蜜の甘さを味わった
ところ、男はその一瞬すべての恐怖から解放されるのであった。
死が生を追いかけてくるということ、すなわち、われわれは生まれながらにして時間のとりこであ
り、まったく不本意ながら、いつかは生命を手放さねばならないという事実は、宗教が見抜いてきた事
柄のうち古今東西を問わずもっとも根本的なもののひとつである。こういった厭快的な智慧を生の肯定
に変えるためには、より広い視野を聞かなければならないが、そういった視野を開く仕方こそが、重要
な意味で、もろもろの宗教の特徴を決定するのである。官頭の響え話では、加筆された註釈によって、
71
仏教徒の読み取る文脈は明確になっている。二頭の象とは生死輪廻であり、井戸とは無常・人聞のはか
のことである。毒蛇は万物を生成し、また絶えず万物を分解する働きをする四大(地水火風)を表わ
なさである。白と黒の鼠はくる日もくる日も朝から晩まで人の一生命(藤づる)をかじり取っていく歳月
す。一三践の龍は三毒、すなわち欲と怒りと愚行である。これらは全体で、万物を諏り巻く脅威すべてを
表わし、脅威は単なる感覚の満足(蜜の味)によって一時的に延期されるのである。
死を目前にして三滴の蜜を味わう男というこのイメージが人を惹きつけるのは、生の充足のさなかに
その一瞬にすっかり自分を明け渡してしま
あって生と死についての通常の観念への間着を﹁手放し 、
L
うようにと、物語、がわれわれに向かって一言わず語らず勧告している点にあるように思われる。蜜の味を
楽しむことは、人生の意味を理性的に理解する義務からの解放を示すが、これはまた、人生の意味を理
逃げる男が蜜の味に夢中になっている聞は、自分自身の救済で頭が一杯であるような状態から解放され
解したいという衝動から単に解放されるだけで満足してしまうことからの解放をも指すと考えられる。
ているわけだが、実際のところ、現に生きている生身の人間としては、これ以上の段いはありえないで
あろう。救レの証明とは、悟りそのものにではなく、悟りにとりつかれ、悟りのことで頭が一杯になっ
た状態を突破する単なる肉体的感覚の充実(しかもこの場合には、快い充実)に夢中になることにこそ
あるのである。
この﹁救いからの救いしを通じての救済という考え方は、必ずしも仏教の思想や慣習の主眼とすると
キリスト教のそれぞれの根が淳然一体となって絡み合うところ││へ到達するのではないかと筆者には
とろではない。しかし、この思想のもとをたどれば、宗教体験という地盤の奥深くl lすなわち仏教と
思われる。その単純ではあるがきわめて急進的な真理は、転ずれば今の時代がわれわれに課した禁欲主
義の収奪から五感を取り戻すという問題に向かっていくのではなかろうか。
宗教的な悟りと体験が、人生に対する内なる眼の見方や、それに基づく道徳を、それどころかさら
に、身体が世界を感覚する仕方までも変えるべきだ、という考え方は、われわれにとって特に重要な意
味をもっ。もし味も香りも感触も、みな以前と同じであるならば、はたして洞察や道徳に、救いとして
の価値があるのかどうか疑わしい。宗教の真理をはかる尺度として、教えが伝統と一致するかどうかと
L(
252冒)との関わり
(UEHF
印)と感覚(白
。ユ吉買自主という概念も打ち出されてきたが、真の五感の解放つまり﹁正感﹂ (03EE
CS
いう﹁正統﹂ (
円 ECHS に加えて、その教えに基づいた行為が伝統の道徳的理念と一致するかどうか
という﹁正行
宮丘町内田町)という尺度を抜きにしては、なお不完全である。
﹃ジャ lタカ物語﹄には、初期の仏教の伝承における、行為
を描いた物語、がある。ある王が、より正しく国を治めるために自分の不徳を教えてもらおうと、修業中
内一菩薩を探しに身分を隠して出かけたという。菩薩は壬に熟れたイチジクの実を差し出す。王はイチジ
クを食べ、その甘さに驚く。菩薩いわく、
﹁王さまが正しくないときは、甘くないのですか。﹂
﹁今は王さまが正しく公平に国を治めておられる。だからイチジクが甘レのです。﹂
王がたずねると、菩薩が答えていわく、
L
﹁そのとおりです。王さま、が正しくないと、油も蜂蜜も糖蜜なども森の木の恨や果物も甘味や風味、がな
くなります。国が正しく治まっているときは、それらは甘く風味のあるものとなるのです。
これを聞いた王は宮般に帰ると、金口一隆の忠告が本当かどうか確かめようとして、不法な政治を始め
た。すると果物は本当に苦い味、かした。それから王がまた正しく国を治め始めると、果物は甘さを取り
72
五感の恢復一時代の禁欲主義に抗して一一
73 第四章
戻した。
イチジクの味がもとに買ったのが、道徳の依復を表わす単なる象徴でないことは、道悟的な行動が心
の状態を表わす単なる象徴でないのと同じことである。両方とも宗教的な体験や悟りを実際に確認する
にしがみついて蜜の甘さを楽しむ男は、正しく高潔に国を治める王と同様、彼の自覚の正しさを確一証し
ものである。もし真の正義が臼覚を具体化するもので忘れば、真の味わレもそれと同じである。藤づる
ているのである。
マフッダチャリタ﹄で詩人アシュヴァゴ│シャが書いた釈迦の一生の話では、順序が逆になっている。
ここでは、奪われた感覚を取り戻す場面が、世の中で慈悲のセ活をしていこうと快意する場面よりも先
に描かれている。そのため、若き壬子ゴ l タ?の最初の決意と悟りを得た結末との対比のおもしろさが
際立っている。出家しようと心に決めた王子は、友人チャンダカの剣を借りて自分の髪の毛を剃り、そ
﹁生死の海を越え渡り、その後に還ってこよう。もし願いが果たせなければ、三の身は山林の聞に滅す
れを湖に投げ込んで決意のほどを宣言する。
るであろう。し
こう語ると、王子は人々と別れて森へ行き、そこで目的を達成するために苦行の生活に入る。最初の
完全な悟りをきわめるまでーーー悟りには自然界の反応がともなう。月も星々も一段と輝ぎを増し、諸天
決心とその過酷な禁欲主義とにとりつかれた彼が、その呪縛から解放される段階ごとに 1 l覚者として
は空中に芳しい天花を降らす。夜、か明け、大地は酔った女のように打ち震え、雲なくして香雨が降りそ
そぐ。
この詩の作者の意図を理解するには、釈迦が、その影響力があまねく諸天界・地上界を通じてひろが
るような普遍的な賢人であるとみなすだけでは不十分である。白然界の反応は、自覚を得るに際して王
子がついに﹁感覚 L をも聞いたことを示唆しているのである。釈迦が人を導く者となり、﹁暗黒の位界
に不滅の法を説く太鼓を打ち鳴らそうしと心に決めたのは、その直後のことであっ起。救いとは、肉体
を棄て、心を麻癖させた衆生のためではなく、自覚ある者すなわち﹁有情しのためのものであり、失わ
れた感覚の恢復なしにはこの救済はありえないのである。
釈迦は当初、生死の超越をめざして出立したのであった、が、人間として地とを旅している限りこれを
超越することはなかった。生は続き、死や老いや病いが生とともにあった。いかに悟ろうとも時の輸を
止めることはできない。もし生死を見きわめたとしても、それだけでは救いにならない。万物の無常を
看破した者にとっては、見るものも聞くものも、味や香りも、感じるものも、すべてが、きっととれま
でとは異なってl lそれが快楽であろうと、苦痛であろうと││成恥じられるにちがいない。仏眼を聞く
ために抑圧されてレた王子の頃の感覚と、いったん覚者となってから再び解き放たれた曙覚との聞に
は、天と地ほどの明きがあるのである。悟りを得た釈迦にとって、月はその輝きを、花々はその香りを
取り戻し、雨はきわやかさを、大地は生気を取り戻すのである。蜜の雫なしでは、悟りは古い井戸に囚
われて、四方八方を危険に取り囲まれるこり﹂以外の何ものでもない。人が五感を満足させようとすれば
するほど、無明は感覚を曇らせるのであるから、反対に、悟りの光明は感覚を再、び生き生きとさせ、さ
らに感覚を磨ぎ澄ましてくれるにちがいない。さもなければ、悟りはたと合理的なものと非合理的なも
のとの境界線を変えることにすぎないであろう。
i4
五感の快復一時代の全欲主義;こ抗して
第四章
メ
;
、
キリスト教の神秘主義の伝統にも、一種の宗教体験の﹁証明﹂としての五感の依復についての独自の
ほとんどその対極に立っているのが、ライン地方の神秘主義者たちである。彼らにとって、視覚は、神
表現がある。十三世紀のフヲマンの﹁愛の神秘主義者﹂たちの問には、その例が数多くある。この点で
秘的な洞察という内なる視覚に対する主たる比喰であり、時空や肉体からわれわれを引き離す、砂漠の
空の乾いた閃光であるかのような魂へと、また至高の実在の純粋な光へと注意を向けてい(問。行為に役
立つ膜想の重要性を強調するエックハルトのような人物の場合、宗教的変容の軌跡は魂i l人間と﹁全
被造物のうちでもっとも高費な、純粋に強的で、肉体的なものは何ももたないし者である天使とが共通
にもっていると二ろのものーーーに残される。ブランドル地方の神秘主義者の場合はこれ左異なり、霊的
な洞察と霊的な言語とが、しばしば触覚と味覚という肉体的領域において生じた変貌を去わす比喰の働
きをしているように思われる。
霊史上、ハ lドウィックという名で知られている十三世紀の神秘主義者の幻想、が、この点を雄弁に物
語っている。十三世紀の終わり頃、新しい生活様式を求める貴族や上流階級の家庭の女性たちの聞で、
ひとつの運動が始まった。披や修道院に引き龍もることを拒否した﹁ベギン﹂と呼ばれる在家修道女た
ちは、簡素で観想的な共同生活をめざした。ハードウィックはそのような共同体のひとつに属していた
が、空想的な愛の理想と宗教的体験とを極端な形でひとまとめにして表現したため、結局追放されてし
まった。
当時公に復活し始めていた求愛をめぐる疑惑左興奮との典型を描き出した書である、詩人ゴットフリ
(
7
)
ートの中世の恋愛物語﹃トリスタンとイゾルデ﹄は、信者が聖餐式のパンに見出すのと同じ滋養分、か、
エロティックな体験を通じて、高貴な魂に与えられることを示唆している。ハードウィックにとって、
それほどちらにするかというような問題でほなく、両者が互いに他を所有し合うという﹁完全な所有を
ともなう統一﹂という形で一体化することだった。彼女が七番目に見たという幻想はその顕著な例であ
聖霊降臨祭の日曜日の早朝礼誌の祈りの一最中に、彼女は強い期待に圧倒される。その期待に彼女は、
る
。
﹁私の心臓も血管も手足も、熱い欲望に震えおののいた﹂のだった。一羽の鷲が彼女に現われ、もし統
一が欲しければ準備するようにと告げる。そして、鷲はキリストに語りかける。﹁では、完全な所有を
ともなう統一という仕方で自分の統一性を結合する、汝の大いなる力を見せよ﹂と。キリストは、礼拝
リストは三歳の子供の姿で現われ、聖餐式のパンと葡萄酒を彼女に差し出す。次に彼は成人の姿で現わ
堂の自分の席にぬかずいているアードウィックのところへと、祭壇から二度降りてくる。まず最初、キ
れ、宗教的議式の形で枝自身を与え、最後には完全な肉体的結合という形で彼自身を与える。
それで、彼は初めて私たちに体を与えられた日のように、男の衣服を着た姿で来られました。人
間のように、しかも素晴らしく美しい男のように見える彼ほ、神々しレ顔で、人にかしずく者のよ
うに謙遜な態度で私の方へ釆られたのです。それから習慣どおり外的な秘蹟の形で御身を私に与え
られ、次に習慣どおり杯から飲むために形と味わいとなって与えられたのです。
その後、彼御自身が私の方へ来られて、私を腕にすっぽり抱きしめられました。私は、心と全人
間的な望みに従って、至福のうちに自分の全身で彼の全身を感じました。こうして私は外的に満足
i
o
五!啓の恢復一時代の禁欲主義に抗して
第四章
し、すっかり我を忘れたのです。
この悦惚感が消えると、別の形ではあるが、もとの感覚が一つ一つ戻ってくる。幻は、ウィリアム・
ブレイクの言う束の間の﹁知覚の扉の浄化﹂で終わるわけではなく、古い習慣を新たにするのである。
またそのとき、しばらくの問、私にはこれに耐える強さがありました。しかし、間もなく外見上
彼の姿にあの雄々しい美しさがなくなりました。彼がすっかり消え去るのが見えました。あまり急
いるのが自分なのか彼なのか、さっぱりわかりませんでした。それからまるで二人が.ひったりと一
に遠ざかって消えてしまわれたので、彼は私の外側には見えも感じもしなくなり、もう自分の中に
体になったように感じました。それはつまり、こういうことです。外的な秘蹟を授かるときに見た
り味わったり感じたりするように、外的に見、味わい、感じるのです。最愛の人が愛する人と一緒
(
8
)
になって、各々が完全に相手を受け入れて見たり聞いたりすることにすっかり満足できるように、
完全に相手を受け入れ、一方が他方の中に溶け込んでしまうことなのです。
聖体拝領の際のハ lドウィックの感覚の侠復は、宗教体験が通常の感覚の体験をいかに変形させうる
﹁自分自身の中に、もはや自分というものは何も残っていない﹂といった状態は、それが道徳意識から
かを示す、驚くべき事例である。意識をもった自己を越えて忘我の境地に至った結果としての状態、
かけ離れているのと同じように、快楽主義からもほど遠い。悟り切った心の美しさが自然にあふれ出
て、人間社会における慈しみゃ愛の実践になるように、日常の決まり切った仕事や月並みな通念によっ
て力を削がれた五感も同様に、再覚醒へともたらされるのである。恢復という一言葉には、本来もってい
たものがすでに失われてしまっているという言外の意味がある。そして宗教体験における恢復の場合、
この喪失が、単に無知や罪のためばかりではなく、身体との接触の欠如に対して、洞察が欠けていた
り、霊的な愛が盲目であったりするためでもあることが、さらに示唆されている。
現代の消費社会とは、一方では商品やサービスをがつがつと食い漁り、他方で自分が廃棄した物を恥
かしげもなく放り出す一巨大な獣のようなものであるとは、人間生活の質を懸念する倫理・宗教界のリー
ダーたちが今日もっぱら語っているところである。人間社会を、地球から食物を摂り、利用可能な資源
に対して、また現代の自然観に対して責任をもっている倫理的団体ーーーであるとみなす考え方が生まれ
を求めて別の人間社会と競争ないしは協力するようなひとつの体Iーすなわち、世界中のあらゆる社会
てから、まだ百年にもなっていない。しかし、今世紀の終わりまでには、この考え方はおそらく常識と
なるであろう。
消費社会に向けられた道徳的な慣怒の声は、当然、もっとも高度な消費社会に属する人々の中から一
番強くあがっている。科学技術が簡素で、消費の度合いも低い社会のことを何の韓曙もなく賞賛するの
L
であると考えるようになってきた人々に対して、豊かな人の消費パタ
は、必要物資を欠く人々よりも、物資の豊富な人々なのである。しかし、豊かな者の良心の痛みの小さ
さに比べると、自らを﹁低開発
ーンがもっている魅力ははるかに大きい。 E - F・シュ l マッハ l の﹁適正技術﹂あるいはイヴァン・
イリイチの﹁生活経済﹂へと回帰しようという思想は、﹁開発﹂の犠牲者よりも受益者から強く支持さ
れてきた。この意味において、自分たちが過剰消費をしていると考える人々と、過小にしか消費してい
ないと考える人々との間のギャップは、その溝を埋めようと意図したまさにその思想のゆえに、さらに
78
五感の快復一時代の禁欲主義に抗してー
79 第四章
ひろがっているのである。
こういった皮肉な事態が起さることは、思想史上きほど珍しいことではない。この皮肉な事態の背後
にある考え方、つまり実際には文明を形成した時代と場所とにまったく特有な思想を一般化するという
明の場合には、科学的データの客観性やデータを収集した専門家の意見の正しさが暗黙のうちに信じら
傾向は、むしろ文明が始まって以来、繰り返し起こっている現象なのである。われわれの二十世杷の文
れてしまうという傾向のために、現代のもろもろの洞察を普遍的な元型にすり替えてしまうということ
が常識となっており、現に実に脅易にノ行なわれてしまっている。
たとえば、惑星としての地球の生態圏と大気圏との取り返しのつかない破壊に関する寸データLT
の﹂であるこの﹁客観的データ﹂が実はどのように用いられているのかということをよく見きわめなけ
所与)を利用する権限が与えられている特定の国々は、自国の大義名分を果たすノために寸把握したも
ればならない。もちろん、実際に蓄積されたデータを無視する必要はないが、このデータを使用する仕
方がその文明の特殊性に刻印されていることを忘れてはならないのである。
言い換えれば、現代文明を﹁消費社会﹂として批判する洞察は、たとえ旧来の殻を破って他者から信
じさせられてきたこと以外のことを信じた、がっている個々の消費者にとって否定できない明瞭な洞察で
あっても、それ自体やはり影の側面をももっている。筆者はこの影の側面に立ち入って、上の洞察を聞
いた人々の頑固なお説教から出口を見出してみたいと思う。
もう少し具体的に言えば、現代の消費習慣は、実質上東西の禁欲の伝統の中でももっともきびしい荒
行の部類に属するということ、しかもそれが集団的に行なわれている苦行に他ならないというように考
えてみたいのである。企業という怪獣の大食の話から、個々の市民が被っている収奪という問題へと焦
点を移すと、ここには、科学技術の支配のもとに生み出された普遍的原理の名のもとに世界の良心を監
督するということをせずとも、満足のためのより高度な手段を取り一す希望があると、筆者は考えてい
現代の生活の禁欲主義は、せいぜいその古典的宗教の禁欲主義の戯画にすぎない。その理由は簡単で
る
。
あって、それが禁欲であるということにすら、気づかれぬままに行なわれているからである。文明世界
の真只中に住むことを選び取った人々は、強烈な孤独や諸欲の減退、不感症に悩まされるが、その度合
いの強さは、目覚めていて感じる苦悩によるよりも、かえって、これらのものが人々をどれだけ無感覚
にさせるかというその程漫によって、よりよく測ることができる。日々の禁欲主義は、神聖な行事とい
う理想からはほど遠く、決まり切った仕事への服従、すなわち内的な不毛きの外的な兆候でしかないの
収奪の兆候は至るところに見られる。マスメディアから一方的に流される情報量が増加するにつれ
である。
て、人間同志の温かい触れ合いが失われていく。受験戦争のおかげで勉強を愛する心は萎え、学歴に役
によたない情操・感性教育法吃められる。新鮮で加てされていない食物は安価な加工食品よりはるかに
高くて手が出ない。人工の光線やエアコンのおかげで季節感は失われる。人工の香料の登場によって、
となる機械は時聞を稼ぎ出してくれるかわりに、身体の優雅さを職場から次第に追放し、それをスポー
本物の香りの多くが不潔なもの、あるいは嫌な臭いであるかのように思われてくる。人間の手足の代用
ツジムや運動場のものとして規定し直す。仕事、が賃金を稼ぐことの代名詞となることによって、自分や
家族の生活の糧のために額に汗する生産の喜びゃ満足が奪われるのも必要悪と考えられるようになり、
身体を物象化する傾向がさらに強化される。
I
!O
五感の恢復時代の禁欲主義に抗して
第四章
81
つまり、こうした条件で﹁フルタイム﹂の一雇用をするということは、個々の労働者を﹁フル﹂に雇用
することを強制的に放棄することに事実上等しい。それにまた、音楽や歌が、それを再生する機械繋
置、あるいは、カラオケの場合のように、それをより満口にできるものにするための機械装置と同一視さ
れるようになるにつれて、生演奏をする楽しみ、そしてそれを閣く楽しみも玄人向けに限られたものと
なり、出費を賄いうる人にしか楽しめない賢沢になるのである。
物や人に対する批判能力の面でも、同様の剥奪が横行してレる。物を買うときにはラベルの品貰保証
表示に頼る。何度欺かれようと、別のラベルを信用しては結局また期待を一一裏切られるのである。高学歴
のレッテルも、当人の知性の能力を欺く仕掛けでしかない。あやふぞな価値判断の基準に頼ることな
ど、終わることのない悪夢以外の何ものでもない。コンサルタントにばかり頼ってしまっていては、常
識や経験の出る幕はないのである。
自らの欲に据び詔い、あるいほ他者の欲の餌食になることを避ゆりるとき、われわれはしばしば単に欲
を麻痔させているにすぎない。乗り物での移動速度、が超人的になればなるほど、物資やサービスが増え
れば増えるほど、霊魂はますます一種の寝呆け歩きで重い身体を引きずって行くかのようになる。これ
この狂言を支えている環境は、そこから餌を得ている企業に喰られなレ。人々が次第に目覚めつつあ
が筆者の言う、現代の禁欲主義の立田中味するところである。
るように、個々の心の姿勢の協力も要求されているのであり、しかもそのような協力を拒否する可能性
は個人の選択の範囲内にある。感覚の収奪に抗する選択を行なうには、社人一ム構造の抜本的改革を待つ必
要はない。畑山々の決意によって、より簡素でしかも十分に満ち足りた生活の仕方をめざす、ささやかな
改革を始めること、ができるのである。このような改革を具体的な行動に移せば、現在の痛みの少ない無
意識の禁欲に代わって、痛みのより大きい意識的な禁欲を生み出すことにしかならないのではないか、
と思われるかもしれない。それゆえ、この危険から逃れる手立てとして、感覚ないし五感を積極的に快
復していくことが大切であると筆者は主張したレ。
現代の五感の働き方に代わるべきものをできるだけはっきりと思レ描くために、ま、ず第一に収奪の呪
てきた喜びが、幸福を求める本来的で素朴な欲に対する強烈な禁欲主義をどのように養っているかを見
縛から目覚めなくてはならない。つまり、眼を閉じて、よく擦ってからまた聞き、これまで味わい慣れ
るのである。そのような日常の世界の見直しが、高次の意識という高嶺に至るための一径の準備段階に
る。ただし、たとえ日常生活の中における経験の直接性の味わいが洞察の深さを測る尺度であるとみな
すぎないと考えることは、そもそも間違っている。それは常に繰り返し取り組まれるべき問題なのであ
されても、習慣への服従が安楽で放逸的であるのと同じだけ、習慣からの解脱も困難で過酷な営みなの
である。
この意味で禁欲主義的な大食の習慣やその背後にある通念を放棄する道を歩み始めるに当たって、感
覚の侠伎を象徴する模範の導きが必要となる。こうした模範の探求は、キリスト教と仏教とがこの時代
にともに直面していながらも、これまで真剣に応じることのなかった道徳的な挑戦であると、筆者には
思われるのである。
感覚の快復といった幅広い主題を再び取り上げるに当たって、実現可能な代替的社会構造をどうすべ
82
五感の快復一時代の禁欲主義に抗して
83 第 四 章
きかとレう問題│││結局生ぬるいものではだめで、徹底的な社会構造の変革が必要であろうがーーにま
で触れるとなると、本論、が一歩も先へ進めなくなってしまうことは確実である。筆者には手近にそのよ
うな方策はなく、実のところ、われわれの現在の状況においてそのような方策を生み出せるかどうかに
は、疑いを抱いている。われわれの置かれた立場をできる限りはっきりと見きわめ一、また生きるすべを
提供してくれる過去の最良の理想という光のもとに、われわれの苦境を照らしだしてみることが有効で
あると思われる。筆者の理解するところでは、宗教的伝統のある教典を﹁聖典﹂とみなすのはまさにこ
ういったことであって、時代を超越した、縫い目のない織物のような完全な真理を尊重することではな
い。暗閣をあかあかと照らすたいまっとしてではなく、まわりを囲んで集まり、時ならぬ考えに思いを
めぐらぜる囲炉裏の、灰かながらも心を誘う明かりとして、われわれはこのようなテキストに頼るので
一九四五年にエジプトのナグ・ハマディの古代図書館で発見された二世紀のコ。フト語の写本であるト
ある。
マスの福菅を丹念に読み、筆者は、悟りと感覚との関係を表わす難解なイメージや見慣れない言葉とい
う牢獄の格子の聞から、ぎわめて神聖な本質が足間見えることを確信するに至った。テキストにはその
L
﹁自己兎見
丘町)に転用することによって、テキストの
起源や構成、翻訳について十分なことが警かれており、私自身、が細部にまで分げ入って調べる労を省い
てく札目。しかしながら、その福音にある、感覚についての教義はまた違ったものであり、それを再発
見するためにはかなり徹底的な見直しが必要である。
まず、現代の解説者は再帰人称代名詞(ふ巾広)を名調
(
中に﹁自己﹂という慣れ親しんだ概念を見出して、安んじω
て
きた。﹁自己知識﹂﹁自己実現
が﹁自己の﹂知識、実現、発見に転ずる過程はまことに自然であって!l西洋ではフィヒテが近代哲学
L
に﹁自我 L の概念をもたらして以来ずっとそうだつたわけであるがlil今日の読者にとっては空気のよ
うにほとんど意識されることがない。ここきで来れば、グノ│シスが原始的な深層心理学に他ならない
という理解までは、あと一息である。トマスの福音と東洋哲学、が実際歴史的に結びついてレるというこ
とを証明するのは容易でないが、この両者の聞に見られる内的な深いつながりが、上のような読み込み
を支持するように思われる。そして、トマスの福音に含まれている、これまで解釈されてきたものとは
ll
まったく里、なったlーそして筆者の信じるところでは現代にとって是非とも必要な
自己の概念が最
終的に購ってしまうことにならなかったとしたら、このような読み込みも、大した問題とはならなかっ
たことであろう。
十分考えもせずにこのテキストを現代心理学の噛囲に引き入れて解釈するという学問的態度の背後に
は、もちろんグノ│シス主義の明らかな影響があ UY グノ l シス主義にとっては、肉体も霊もともにデ
ミウルゴスの創造したものであり、高次の﹁内なる生命﹂の名のもとに兎服されねばならないものであ
る。その禁欲主義の焦点は単に肉体に向げられるのではない。隠れた本来の内なる本質を蘇生させるた
めに、古い衣のように投げ捨てるべき心身のあり方にこそ向けられているのである。ギリシャの著述家
や翻訳者には、アジアの言語にあるような豊富な術語、が欠けていたため、人間存在の根源である非世界
人間の自然的な生命は。フシユ│ケ!と呼ばれ、超自然的生命はプネウマ(聖パウロにも採用されてい
的なもののことを語るのに、耳慣れない言葉に置き換えることで我慢したければならなかった。
る語法)と呼ばれた。しかも、たとえ山ンス・ヨナスの言うように﹁グノ l シス主義の核心は、人間の
内なるこの超耕一酌な原理を発見し、何よりもその運命に関心を寄せるところに占めると言っても過言では
ない﹂と認めたとしても、それは、この原理が個人の所有物であると考えることを正当化ずるわけでは
84
五感、の快復-1
時代の禁欲ー主義に抗してー
第四章
85
ない。。プラトンやアウグスティヌスの言う内なる霊が、個人の人格より一段高い寸内なる神﹂を表現し
たのと同様、マンダ教の﹁マナ﹂の概念も、この内なる原理と至高なる存在との同一性を確立したので
あっ(問。種子のように無意識の状態で、意識という輝かしい太陽を待ち、やがてはその光を浴びること
によって、その内に潜んでいた力が解き放たれ、調和のある統合された自己へと変容する元型的な偲と
いう概念は、むしろもっと現代的な個の理解を必要としたのである。
しかしながら、トマスの福音および同書が感覚について語っているところにとってよりいっそう重要
なことは、肉体と霊とに関するグノ l シスの考え方の﹁影響﹂が、紀元一、二世紀のキリスト教徒の著
者によって無批判に受汁入れられたわけではない、ということである。周知のように、もしイレナエウ
スやヒッポリトス、エピフアニウスらによるグノ i シスに対する批判的抵抗がなければ、グノ l シスの
明確な像を組み立てるためにわれわれが入手できる情報は、きわめて少なかったことであろう。しか
に対して同じ程度に批判力がなかったという仮定を正当化するものでは決してない。学者たちは、その
し、このことは、グノ i シスの文献からもっとも強く影響を受けた人々が、自分たちが取り入れるもの
ようなことが起こったということに原則的に同意しているが、実際には、そのようなことが起こった場
グノ l シス主義と積極的に接触しようとしたキリスト者たちにとって、この接触の過程における主た
所や状況を正確に示す証拠はほとんど提出されていないのである。
る関心事は、正典の福音書への忠誠にあったわけではないし、そうかといって、何かある特定のグノ│
シスの宗派に対する忠誠にあったわけでもない。トマスの福音、が、今日知られている福音書よりも士口い
資料を入手していたという可能性について、学者たちはさまざまに推測をめぐらぜ続けている、が、グノ
l シスやマニ教のさまざまな集団において同書が読まれていたということに関しては、意見の一致を見
ている。トマスの福音の著者(あるいは著者団)はキリスト教とグノ l シスの両方の資料を選択しつつ
利用していたと考えられるが、それは、二世紀後半頃というこの書の成立時期ばかりでなく、シリア東
グノ lJJス主義には一般に感覚の世界を毛嫌いする傾向がある。それがキリスト教の影響によってど
部のキリスト教社会で問書が使用されていたという事実によっても支持されるであろう。
こまで軽減されたかという問題はさておくとして、トマスの福音にはこの点でグノ l シス主義からの影
に欠落している理由は、グノ l シスの見解を計画的に注意深く見直していくことによってのみ、説明可
響が皆無といってよいほどである点、が注目される。グノ l シスのこれほど中心的な要素がトマスの福音
能になるであろう。グノ│シスは復活を説いたキリスト教の神学に反対するという目的を布していた
が、トマスの福音は、その同じグノ l シス主義が使用している比喰の助けを借りながらも、グノ l シス
とはまったく正反対の目的を果たした。換言すれば、ちょうどグノ│シスの教えがキリスト教に﹁飽食
してうんざりした者のための食物﹂を与えるべくキリスト教の教義の意味を逆転したよう(問、トマスの
福音もまた感覚に対する抑圧からの解脱を説くために、グノ l シスのイメージを使うことによって、グ
キリスト教関心想に対するグノ i シスの﹁禁欲主義﹂の影響、か、五感の抑圧とい奇形を常にとっていた
ノシス主義に一矢を報いたのである。
のかどうかはまったく明らかではない。(トマスの福音の一世紀後に書かれたグノ!シス主義の色彩の
濃い﹃ピリポの福音書﹄は、イエスがマグダラのマリアの口に接吻して弟子たちの気分を害するという
強烈な場面を含んでいるのではなかったであろうか?)感覚の役割ということに関しては、グノ│シス
1 シスの傾向の方にいっそう
主義そのものが必ずしも一枚岩ではなかったし、それに関心をもったキリスト教の著作家たちが、キリ
スト教と比べて肉体性をより脱しており、精神性をより重んじていたグノ
86
五感の恢復一時代の禁欲主義に抗して
87 第四章
る
。
好意的であったという証拠もない。以下に紹介する﹃トマスの福音書﹄も、その例に漏れないのであ
ロギオン
初めから終わりまで、トマスの福音の簸言的でしかも幽玄な文章は、その内容の合理化に抵抗する。
同時に、多くの章旬、もしくはそのすべてが、いくつかのモチーフに集中されており、そして重要な文
句の繰り返しが、その文句の現われるもろもろの章句をこれらのモチーフのもとで関連づけているよう
に思わ札制。五感についての論述は、このテキストに不可欠の部分ではあるが、主要なモチーフである
とはいえないであろう。むしろ読者が前もってこのモチーフを探そうという態度をとらないならば見落
としてしまいやすいテーマである。このようなモチーフを探そうという、ある意味で偏った態度が、ト
マスの福音の内容を明瞭にするのに役立つか、それともかえって見えにくくするかということは、私自
身で判断することはできない。
とにかく、ここで私なりの解釈を提出するに当たって、いくつかの重要な章句を中心にして、解釈の
範囲をかなり絞らざるをえないことになる。とはいうものの、福音全体は長いものではない。もし本論
文が何らかの形で│ 1解釈に対する疑惑を抱かせるということだけであっても││この福音のテキスト
と直接接触するように読者を刺激できるならば、それだけでも、本論文は、まったく無意味であるとは
いえないであろう。
圃グノ│シス主義的キリスト教の学者が、トマスの福音における五感の蔑視を証明するためにもっ
とも頻繁に引用する章句は、次のとおりである。
イエスは言った、﹁肉が霊の故に生じたのなら、それは奇跡である。しかし、霊がからだの故に
生じたのなら、それは奇跡の奇跡である。それにまたわたしは、いかにしてこの大いなる富がこの
貧困の中に住まったかを不思議に思う。﹂(却)
﹁奇跡の奇跡﹂を事実に反する反語として読み、それが実際の判断ではないと理解するためには、文章
にない文法形を要求することになるであろうし、最後の文章の意味をひどく歪めるものである。しかし
実際、これまでの学問はその方向で解釈してきた。つまり、からだの根本的悪性のために、からだと霊
とは統合することのできない互いに正反対のものであって、霊一守かからだを住まいとするのは不可避の悪
にすぎないという解釈が提出されてきたのである。
ただし、福音の著者ーーもしくは著者団ーーが、キリスト教の信者として、キリスト教的な目的でグ
ノl シス主義の思想を自分のものにしようとし、同時にその思想の向上を狙っていたのだとすれば、こ
の章句をグノ l シス主義のからだに対する最低の批評という型にはめ込んで解釈する必要はないであろ
う。それまでグノ│シス主義風の教えを述べてきたイエスは、この福音のテキストの三分の一あたりま
で来たところで、従来のグノ l シス主義の思想から逸脱する次のような考えに出会って驚きを隠さな
すなわち、ひょっとするとからだと霊とは、それぞれ互いのために生じてきたのかもしれない!弱
tv
は不思議だ。しかしまた、肉を生かすために霊が創られたというのであれば、それは不思議の不思議で
くて、生まれながらにして死にかかっている肉が、貴くて不滅の霊を宿すために創造されたということ
88
五感の恢復一時代の禁欲主義に抗してー
第四章
89
四
L
と呼んでいるところにある。そし
あ ろ う ! こ三で文章の反語的な意味は、すでに明らかに富んでレるもの(霊が宿ってレるからだは、
まさにそれゆえに富んでいるといえるであろう)を、なおも﹁貧困
てこの反語は、この福音のテキスト全体においても﹁貧困しとレう語に互いに相反する二つの意味、が与
のメタファ l(3) という二つの立味がそれである。
えられているという事実によって再確認される。ずなわち、特に選ばれた者に対する祝福(出)と無明
この肉と霊との関係は先のロギオンにも見られる。その中でも一番重要なものは福音の最初の文害に
出てくる。それは、キリスト教の信仰の中心である﹁生けるイエス﹂が、伝承によってイエスの双子の
g
a
) であると考えられてきたトマスに、特別な教えを啓示するというところである。真の
兄弟(虫色ヨ
に信
も
恒徒は釦色岳-胃丹庁巾吋杓♀昨丘叩
ι
h
M
あ丸(
杭。しかし、このトマスは、ヨハネの福音(聖書では、グノ l シス主義の影響をもっとも強く受けた
活の話を霊的にも信じないと言って、イエスに叱られたあの同じトマスではないだろうか。このトマス
福音)において、自分自身の手でイエスの肉体に触り、確かな証拠を自分自身で感覚するまでは彼の復
L
の象徴的な受容者として選ばれたことの重要性を減少させるわけではない。かえってこれは、ト
が同じ名前をもっ福音の著者であったとは考えにくい、か、だからと言って、そのことは、彼が﹁隠れた
智慧
マスの福音を読みな、がら﹁疑い深い双子﹂のイメージをも同時に念頭に置くように読者に勧めているの
である。
グノ│シス主義の従来のからだの蔑視を逆転する、もうひとつの、しかし、より間接的な示唆は、上
イエスは言った、﹁求める者は、見出すまで求めることを止めてはならない。そして、彼が見出
述の筒所のほとん、ど直後に現われてくる。
すとき、動揺するであろう。 そして、 伸慣が動揺したとき、 驚くであろう。 そして、 伎は万物を支配
するであるう。﹂ (
2
)
共観福音書からのよく知られた勧告﹁求めなさい。そうすれば与えられる﹂は、求める者は実際に求め
の福音では、イエスはむしろ弟子たちが彼に求めているものを何回も拒絶している。上に引用したロギ
ている事物を見出すであろうということを意味しているように思われる。この節を含んでいないヨハネ
オンでは、実際に見出すということが求めていた者に動揺を、そしてさらには驚きを引き起こすといわ
れている。文脈を見ると、イエスのこの言葉は、 J 4
国﹂とは人が決して探し求めることのないところ
にこそある、すなわち自分の中にこそある、という勧告と関連している。しかも、それが福音の回目頭に
置かれているとレう事実から見て、それが福音全体に広く適用されるべきだということが示唆されてい
るように思われる。
園トマスの福音、がグノ l シス主義と同じように肉体の感覚を蔑視していることの証拠としてよく使
用されるもうひとつのロギオンは、福音がその焦点をからだから離して、いっそう根本的な問題へと移
すのは、後でからだに対する自覚を復活させるためである、ということを実際には示している。﹁どの
日にあなたは私たちのもとに現われ、どの日に私たちはあなたを見るでしょうか﹂という弟子たちの問
いに答えて、イエスは一三一口う。
90
時代の禁欲主義に抗してー
五感の快復
り第四章
﹁あなたがたがあなたがたの恥部を取り去り、あなたがたの着物を脱ぎ、小さな子供たちのよう
!
I
I
に、それらをあなたがたの足下に置き、それらを踏みつけるときに、そのときにあなたがたは生け
る者の子を見るであろう。﹂(幻)
1
1
1
1
1
1
これに似たイメージはすでに前のロギオンに現われているが、そこでは、﹁あなたの弟子たちは誰に
比べられましょうか﹂という問いに答えて、イエスは次のように言っている。
H子
供︺
﹁彼らは小さな子供たちのようなものである。彼らはある野に住んでレるが、これは彼らのもので
はない。野の主人たちが来て、苦一口うであろう、﹃われらにわれら一切野を諜せ﹄と。彼ら︹
は彼ら︹主人たち︺の前で裸になって、:::彼らにその野を与える。﹂(れ)
衣服は、霊一が着る肉の象徴として、グノ│シス主義の思想によく査場するので、十火曜を脱いで、これ
を踏みつけるというイメージは、グノ l シスを受けるための準備として霊を純化するこH を意味してい
るという結論にまで飛躍することが、少なからぬ学者によって当然のことと思われてきた。ただし、こ
えば、﹃トマス行伝﹄の中にある﹁真珠の歌﹂には次のような話がある。すなわち、大レなる宝を取り
れは、グノ│シス主義の中で寸らも、必、ずずしもとのような消極的な音
戻すためにエジプトに旅立つ若い王子、か、青年の衣膿を脱いで、外国の不潔な火服に身を包んで変装を
する。そして、宝を手にして帰国する際に、伎は以前の衣服を身に纏って現われて、これによって彼は
再び完全なものとなる。しかしながら、この﹁完全﹂という言葉の意味は、その前後で相違している。
すなわち、その衣服は、以前にはただ被の﹁背丈にぴったり合っていた﹂というだけのことであるが、
それは、突然私と同じになり、私自身の鏡に映る像となるように思われた。私は、その全体を私
今では﹁自己の全体﹂を覆っているのである。
(却)
自身の中に見、私自身の一全体をその中に見た。すなわち私たちは分離において二つであったが、い
まや形の同一一性において一つであった。
この文章からすれば、心が単にからだを脱ぎ捨てるべきであるという思想は考えられない。むしろ、
失われた宝を取り戻すことで、主人公は自分の寸衣服﹂が自分と一体であることを自覚する。﹁真珠の
歌﹂の言葉によれば、目覚めた王子の目は、その衣服の上に﹁隈なくグノ!シスの運動が震え動いてい
るのを見た﹂のである。ト火服を脱ぐそのこと自体が目的ではなくて、それは衣服の再着用の準備にすぎ
ないことがわかると、足下に衣服を置いて、本来の姿で││﹁裸だが、恥しがらない﹂(創世記二・二
五)111野の中に立っている子供たちの意味するところも根本的に変化する。ぷ服は鋭い霊の惨めな鞘
であるどころか、霊を体験と認識とに導く感覚の習慣寄与5 Hわれわれが衣服のように特に意識するこ
ともなく常に用いる五感の形態)であるとみなされる。こういった通念を放棄するという恥に打ち勝つ
ニとが、感覚の依復 (
3E
・EEESH着替えのように五感を新たにする)への一第一歩に他ならない。足
下に着物を貫いて踏みつける子供たちに、自分の弟子たちをたとえている箇所の直前でイエスが行なっ
てレる、﹁朝からタまで、またタから朝まで、何を着ょうかと思い煩ってはならない L (お)という勧舎
は、何も着ないで歩き回ってもよいということを意味しているのではなく、むしろ自分の習慣、が、自分
を取り巻いてレる社会の通念に順応するかどうかに心を配らなくてもよレ、ということを言っているの
である。後に見るように、通念から離れることの重要性は、隠された底流のようにトマスの福音を貫い
ている。
園聖書の福音に登場するイエスよりも、トマスの福音のイエスの方が禁欲的修行をいっそうかたく
拒む。それは、真の転換が外的通念の取り替えよりも、むしろ内的変容にあり(リ、しかも神のみ国
はまさに今、ここにおげる事柄だからである(日)。自分が復活者の兄弟であるという白覚は、み国を
理解すると同時に、み国を実現することにもなる。一方で、グノ│シスとレう内的変容は、それ自身、だ
。
z
n
.
!
誌の仮復 時代の禁欲主義に抗して
第四主主
9
.
)
けでその光を外に放つという。すなわち、グノ l シスは、それをもったものが﹁万物を支配する﹂(2)
とか﹁山よ、移れ﹂(陥)と命じて山を動かすといった、世界を支配する力としての意味をもつことが
できる。他方で、内的費容は、世界の中で弟子となって、三の世界に対する責任を自ら担うようにとい
ES(自覚即再認識)
g
mロ
う召命としての意味をもつこともある。換言すれば、グノ│シスは世界のおE
イエス、が言った、﹁この世を知った者は、屍を見出した。そして、屍を克出した者は、この世以
を要求する。そして、グノ│シスのもっとの多義性をまとめるのが、まず、からだなのである。
上の者となった。﹂(団)
イエスが一ぎった、﹁この世を知った者は、からだを見出した。しかし、からだを見出した者は、
この世以上の者となった。 L ( 剖)
表面的に見れば上の二つの章句は同意義であるように思われるし、調べてみると代表的な学者もその
ように理解してい説。しかし、この判断はその背後に、﹁からだ﹂は結局﹁毘﹂にすぎなレ、すなわち
結論に至らないであろう。まず、上の二つの章句に関して、テキスト自体がわれわれに示している相違
復活とは霊の復活でしかありえない、という前提を有しており、このような前提なしでは、上のような
決定的な言葉は﹁世﹂である。周知のようにグノ l シス主義者にとって、世界は愛する神の自己流出
点を考えてみよう。
ではなくて、悪神であるデミウルゴスによる創造である。トマスの福音がこの考え方を共有していると
子め決め込んでしまうのでなければ、テキストそのものがごく自然に示唆している此)ころに従って、
﹁
世 Lが﹁世間の習慣﹂といった内容以上のことを意味してはいないというととがわかる。そうなると、
上の二つの章句はそれぞれ正反対の方向に向かっているように思われる。
すなわち、第一の章句では、﹁世を知る﹂ということは、生気のない屍にすぎない思考の通念的な習
慣を通してものを見るということに他ならない。第二の章句では、﹁世を知る﹂ことが、生けるからだ
を見出すことを初めて可能にするのである。しかし、いずれの場合にも、通念の限界が廃棄されてレ
る。このように、通念の本質が透明になって、からだが取り戻されるという考え方は、グノ l シスがか
らだの復活を積極的に肯定したことを明らかに示している。
イエスと弟子たちとの聞で交わされた、それ以前の対話がこういった読み方を確証する。内なるみ固
に至るためには大変な努力が要求されるとレうイエスの話を聞いた弟子たちは、﹁わたしたちの終わり
はどのようになるかしと問う。そこで、まだ道を歩み始めてもいないのにその目的地につレて知りたが
る態度をきびしく叱って、イエスはこう言う。
﹁あなたがたがわたしの弟子になり、わたしの言葉を聞くならば、それらの石があなたがたに仕え
るであろう。というのは、あなたがたはバラダイスに五つの木を持っており、それらは夏冬揺れ
ず、それらの葉、が落ちないからである。それらを知る者は死を味わわないであろう。﹂(国)
﹁石があなたがたに仕えるであろう﹂という箇所は、先ほどの﹁万物を支配する﹂という言葉を思い出
エスから三つの隠れた教えを受ける。トマスは、イエスが伎に何を言ったか、他の弟子たちから尋ねら
させるが、﹁石﹂の例は偶然現われているわけではない。いくつか前のロギオンにおいて、トマスはイ
れるが、もしそれを言ったら彼らが石をとり、彼に投げつけるだろうと言い、恐れて何も教えようとし
ない。しかし、トマスが恐れたのは石が彼に投げつけられることではない。彼は、むしろ﹁火、が石から
出、あなたがたを焼き尽くすであろうしことの方を恐れているのだとつけ加えている(日)。要するに、
石が﹁知った者しとしての彼に仕えるのである。グノ│シスを得ることにより、通念が透明になった者
士
。i
五感の佼復一時代の禁欲主義 i
こ抗して←
95 第 川 章
L
が、不敬の訴えを廃棄したというモチーフは、東西・今昔を問わず秘義的伝統には頻繁に出てくる。特
に仕えるのかという説明である。すなわちそれ
にここで注目に価するのは、な、せ石、が﹁什一を知った者
パラダイスの五つの木ほイエスの言葉を﹁聞く﹂ということと深く関連していると思われる。この
は、パラダイスに植わっている五つの木、が死の手が届かない命を与えるからであるという。
L
﹁聞く﹂は﹁弟子になるしということ以上のことを意味している。実際、トマスの福音においてもっと
というものである。イエスの言う﹁耳 L は普
もよく繰り返される表現は﹁聞く耳ある者は聞くがよい
のである。次のロギオンにおける単数形と複数形とに注目しよう。
通の感覚の耳、集団意識において聞く耳ではない。かえって、﹁知る﹂ことのできる﹁単独者﹂の耳な
﹁あなたが自分の︹他の︺耳で聞くことを、あなたがたの屋恨の正で宣ベ伝えなさい。 L (お)
﹁他の耳﹂という記述は、記者の書き間違いであると判断されてきたが、大衆の中では耳を傾けること
のできない、単独者の内的な耳にしか﹁聞こえない﹂ことと関連させるならば、その意味、が明白にな
る。真に感覚する五感は真に生きており、もはや通念へのほぼ明ために鈍らされてはい抗ぃ。ヨハネの
黙示録の表現を借りて言えば、それらの一つ一つが﹁神の楽園にある命の木 Lなのである。
五感を普通の感覚の形態以上のものに高めるということは、世界を超越するということを意味するわ
けではない。むしろそれは、ヨハネの福音の言葉を用いて言え司、附界の内にありつつも、世界のもの
ではないとレうことを意味してい語。それ守ぇ、'日分の家に忍び込む者から身を守るべきだと、イエス
は弟子たちに繰り返し勧告する(お、ぉ、問)。習慣の麻痩状態から五感を取り戻して、働かせ、この
L
のこととを対照
イエスは一言った、﹁わたしはあなたがたに、目がまだ見ず、耳がまだ聞かす、手がまだ触れず、
ような麻庫状態から保護することは、洞察の必須要件であって、真理の尺度とも言えるであろう。
人の一心に思い浮かびもしなかったことを与えるであろう。﹂(幻)
国言うまでもなく、復活した五感の模範はイエス自身である。白分の三とと﹁世
するとき、イエス、か感覚の一一一一口語を使用するということを無視してはならない。
イエスは言った、﹁わたしは世の只中に立った。そして、彼らに肉において現われ出た。わたし
は彼らが皆酔いしれているのを見出した。わたしは彼らの中にひとりも渇ける者を見出さなかっ
た。﹂(お)
私、が上で大衆的禁欲として指摘してきた五感の貧しさは、そもそも極度の欲の結果ではなく、飽きのし
るしである。本来の﹁覚めたしからだで現われたイエス、か世から見落とされる理由は、聞く者に耳、かな
える満足を求める欲の復活でもある。欲からの疎外は、何よりも主体の働ぎの加わらなレ受動的な満足
く、その感覚が麻癖状態に陥るまで酔っているからである。五感の険穫は同時に、実質的で、活気を与
への耽溺の結果である。トマスの福音の言葉を用いて言えば、われわれは再び﹁渇きしを覚えなければ
L
をよく知っている (4) 小さい子供のようになるというイメジである。もちろん、
トマスの福音のテキストにおいて、上述のような欲の純化の象徴としてもっとも頻繁に使用されるの
ならないのである。
は、﹁命の場所
それは、年齢的に見て幼い者の無知に一戻るということを意味しているのではなく 1 ーたとえば、ロギオ
ン引におげる子供たちは、誰か他の一人の野に自分たちだけで住めるほ、どに成長しているが、その次のロ
ギオンにおける子供たちはまだ授乳されている赤ちゃんでしかない l1i
むしろ心とからだの欲望を単純
Mfl山 rM川 相 川 仙 川 市ZHmmH[川川町仙mJ11L山 川 山 山irl
に、あたかも初めてであるかのように、体験することのできる能力を示唆しているのである。こうレっ
96
五感の依復一時代の禁欲主義に抗して
97 第四章
l
l
た子供らしい能力をもった人のみが、﹁生ける父に選ばれた者﹂(印)としてみ国に入るであろう。これ
らの﹁光の子﹂(ヨハネ三一・三六参照)の選抜は特別な奥義の伝授を意味しない。トマスの福音におけ
る﹁隠れた﹂教えは、ごく公然の秘密である。それゆえ、との教えを心得たエリートは、師匠に精選さ
れた達人などではなく、世間の通念を脱ぎ捨て、自分本来の子供らしさに到達するまで裸になる度胸を
もち、自分の中にイエスの教えとの密接な関係な見出す者なのである云)。
イエスに倣うということが小さな子供になる如きことであるとすれば、イエス自身もまたそのような
人間であるといえるであろう。実際には、トマスの福音はこうした結論には至っていない。しかしなが
ら、上のような結論は、イエス、か幼い頃の物語を編集した書物で、向、し時代、同じグノ│シス主義的雰
囲気の中で成立した﹁トマスによるイエスの幼時物語﹂が有している人気に、もうひとつの理由を加え
ることになるかもしれない。それはともかく、トマスの福吾におけるイエスが勧めてレる態度、つま
り、自分の心の欲求に子供のように従う態度は、まさにパリサイ人や律法学者が抑制してきた心の構え
に他ならないのである。彼らは﹁グノ│シスの鍵を手にして、それを隠した。彼らも中に入らないばか
(お)
りか、中に入ろうとする人々をそうさせなかった﹂(泊)。後のロギオンでは、彼らは牛のまぐさおけに
横たわった犬に誓えられている。﹁犬は食わないし、牛にも食わせないからである﹂(問)。これもまた、
間違った禁欲を指摘しているのである。
(泊)
心とからだの欲を肯定すると、直ちに﹁性﹂の問題が浮かび上がってくる。大部分の学者は、ト
マスの福吾、か性に対して禁欲主義的な姿勢をとっていると考えている。上に引用したもろもろの章句
は、いずれも三のような解釈を支持してはいない、か、女性に関して語っている別のロギオンには決定的
聖書の四つの福音と同様、トマスの福音においても、イエスが女性と話し合ったりすることが、彼の
な証拠があると考えられてきた。しかしながら、私はこの見解に納得がいかない。
弟子たちを憤慨させる。しかも、トマスの福音に登場する弟子たちは案外鈍い連中(先ほど指摘したよ
うに、トマス自身は例外である、が)であって、彼らの質問や反応がイエスの言葉の意味を把握している
ことは一度もない。したがって、文学的な工夫として、弟子たちは通念を象徴しているとも考えられ
トマスの福音は次の会話で終わっている。
る
。
シモン・ベテ口、か彼らに言った、﹁マリアはわたしたちのもとから去った方がよい。女たちは命
L
イエスが言った、﹁見よ、わたしは彼女を導くであろう。わたしが彼女を男性にするために、彼
に価しないからである。
L(
山)
女もまた、あなたがた男たちと同じ生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女が自分
を男性にするならば、天国に入るであろうから。
脱女性性を救済の条件とする思想は、疑いもなくグノ l シス主義の一部であった。そしてまた、この
思想、が教父たちに直接影響を与えたことも杏定できない。もし、イエスの言葉をトマスの福音の文脈か
ら引き離して読むならば│1あるいはまた、この章句がグノ│シス主義のもうひとつの例にすぎないと
(初)
考えるならば││現代人にとってきわめて耳障りなものになるのは当然である。しかしながら、こうい
った読み方は、トマスの福音に対して不当なのである。
文脈から見て、このロギオンにおけるべテロの放言は、イエスの言葉に対する愚鈍な誤解に間違いな
い。世の通念(特に肉と霊に対する通念)を見通し℃世を越えるという教えを最後にまとめて、イエス
98
五感の依復時代の禁欲主義に抗 Lて
刊第四章
回
I
!
I
は
二
一
一
口
う
。
L(
山)
﹁この世を見出し、裕福になった者は、この世を棄てた方がよい。﹂(山)
J日分を自分で見出す者は、この世を越えるであろう。
L(
旧)
﹁魂によりかかっている肉体はわざわいである。肉体によりかかっている魂はわざわいである。﹂
(山)
﹁父の国は地上に広がっている。そして人はそれを見ない。
トマスの福音にはよく見られることであるが、ここでも弟子はイエスの言葉の意味を把握せず、単なる
連想で質問をしている。すなわち、ここに現われている寸白分﹂や﹁人﹂ないし﹁者﹂が、文法的に男
性形で表現されるがゆえに、女性を拒絶す¥喝のではないか、と。イエスは、この質問の背後にある無知
h
r。
を拒絶することによって、これに答えていp
イエスが導くであろう女は、まさにベテロが去らせるであろう女と同じである。しかも、イエスが世
間の通念やグノ i シス主義に抵抗する霊における性の平等を見ているのとは違って、べ一アロは肉体の性
別しか見ることができない。トマスの福音においてからだに関係する言葉はすべて肉体を蔑視するもの
であるという前提からすれば、男性も女性もない、肉体を脱した霊のためだけに神の国はあるのだ、と
論じることも不可能ではない。そして、そこからまた一歩進めて、女性とは、墜落したものや汚れた物
質のグノ l シス主義的象徴であると判断することもできる。しかしながら、﹁魂によりかかっている肉
体はわざわいである﹂というイエスの言葉は、とういった前提こそを否定するのであ(加。トマスの福音
A
にとっては、相対立するものの相互依存だけがイエスの教えにふさわしいのである。
一方、トマスの福音は、人聞は本来男女両性具有であって、一時的に男性と女性とに分けられている
にすぎず、再、ひもとどおり統合されることを密かに欲望しているのだというはるかに古い考え方を、グ
ノ!シス主義の宇宙論から受け取ったように思われる。トマスの福音では、この思想は、男女の再結合
よって、イエスは、男性もまた自らを女性にすることによって初めて神の園に入ることができるのだと
が実現される霊的洞察の領域(み国)にのみ適用されている。﹁導く﹂者の仲間に女性を含めることに
いうことを暗示しているのである。
弟子に関する男女平等の考え方は、イエスと神秘的なサロメとの聞に交わされる会話を記しているロ
ギオンのうちにすでに現われてレる。
った、寸国力よ、あなたはだれなのですか。 あなたはわたしの寝台にのぼり、 そしてわ
イエスは言った、﹁ふたりが寝台の上で休むであろう。ひとりが死に、他のひとりが生きるであ
ろう。﹂
サロメ
たしの食卓から食べました。﹂
イエスは彼女に言った、﹁わたしは分裂していないものから出た者である。 わたしには父のもの
から与えられている。﹂
(担)
︹イエスは彼女に言った、︺寸それ故にわたしは言うのである。﹃彼が絶滅されるときに、彼は光で
︹サロメは彼に言った、︺﹁わたしはあなたの弟子です。﹂
満たされるであろう。しかし彼が分かれているときに、彼は闇で満たされるであろう。﹄﹂(臼)
抽象的に言えば、分裂は暗闇と無知へ導き、分裂の崩壊は光と洞察へ導く、というのが上の章句の意
味である。しかし、もっと具体的に言えば、寝台と食卓とにおいて実現される﹁完全性﹂は、肉体のも
っとも根本的な欲を霊の領域と結びつけるということである。そういうわけで、サロメはイエスに﹁男
ZOO
五感の恢復一時代の禁欲主義に抗 Lて
第四章
101
s'Egestzd
よ﹂と呼びかけている。すなわち、ここでイエスは単に霊的な存在ではなく、同時に肉体をもった具体
的な﹁男﹂でもある。イェ以は自分のことを﹁分裂していない﹂領域と一一一一亡、そしてサロメーーその名
前は反対物の統合を意味ず引ーーは自分のことを彼の弟子主一言う。寝台において分裂をのり越えること
マ
心
。
によ勺て、二人のそれぞれの﹁ひとり﹂は、一体の﹁他のひとり﹂となり、そして後者だけが生き残
別のロギオンがつけ加えているように、寸花婿が花嫁の部屋から出てくるとき、そのときに彼らは断
食し、祈るべきである﹂(胤)。つまり、そのニ人が一体になり、﹁他のひとり﹂となっている限り、換
言すれば、その二人のそれぞれの﹁ひとり﹂が死んだ状態にある限り、そこには霊の欲と肉体の欲との
区別はない。それゆえ、ここでは断食などの禁欲は考えられない。反対に、この統合が崩壊し、二人が
それぞれの﹁ひとり﹂に分かれるときにこそ、禁欲が考えられるので去る。こうレった﹁分裂していな
い﹂ものとしての復活者の姿は、たとえある程度心とからだの区別からは自由になっていないとして
も、性および女性に対するグノ│シス主義の蔑視からは解放されていると言えるであろう。
私が上の短い論述の中で触れてきた点以外に、トマスの福昔には多くの富があるし、上述した章句
とはいうものの、われわれ現代の科学・技術の神話もまた、同じような神秘性に固まれている。その
ほ、他の読者にはまた別のテ17を連想させるに違レない。グノ i シス主義運動の多義性とキリスト教
のそれとの多様な関わりを反映する文章として、それは避けられない運命かもしれない。
紛れもない魅力と効果にもかかわらず、われわれの神話は野蛮で、横暴な側面も有している。このこと
は、宗教が現代の神話から批判的な距離をとると閣時に、それに対して批判的に反応することを要求す
る。私の白的は、一種の禁欲主義が引き起こす五感の乏しきゃ感覚の貧弱さ、が、現代の神話のもつ暗レ
面の一部に他ならず、まさにそれゆえにこそ、トマスの福音、がわれわれの福音であるということを示唆
することであった。
ヨーロッパおよび北米・南米における農村信仰の﹁異端﹂は、キリスト教の神学が忘れていた自然の
聖性を長期間にわたって生かし続けてきた。これと同様、﹁発展﹂の魅力に誘惑きれ、それに呑み込ま
れてしまうことが、われわれと比較してまだはるかに少ない諸民族の文明の中には、いかにして現代の
禁欲主義から自分たちを引き離すことができるか、いかにして仏教やキリスト教のような伝統に五感に
gzE
ゅ
102
時代の禁欲主義に抗してー
五感の快復
第四章
l川
対する関心を依復することができるかなどについて、われわれの学ぶべきものが多くあるに違いない。
FF
註
円E の六尚紀の後半に
(l) 九 世 舵 の ﹃ 翻 訳 名 義 集 ﹄ よ り ( 大 正 、 五 四 巻 、 一 四 一 頁 c
)。本書は、巨大な玄白58ヨE志E包
編集された漢訳である可大方等大集経﹄を引用しているが、この漢訳は徹底的に調査したにもかかわらず、結局発見できなか
った。註釈は実台宗的である。この話の異形のひとつが﹃賓頭虚突羅閤為優陀延圭説法経﹄(大豆、三ご巻、七八七頁a
) に含
まれているが、そこでは、話の終わりの部分で、避難者、が楽にされるかわりに、蜂が巣からたくさん出てきて避難者を攻撃す
ることになっている。私が使用した文章とほとんE 同じ話が、同じく六世相札に吉蔵が三論宗的な立国明から﹃維摩経﹄の解釈と
して書いた♂稚摩経義疏﹄の中にも現われている(大正、三八巻、九三四頁 C)0 特に注目されるのは、維唾が身体の嫌悪を説
いて身体を﹁古井﹂に鵬首えるというところで、土口蔵が反対の意味をもった話を連想しているといちことである。開・戸田自宮古
E
-一
、
阿
,
1
E
n
b
N認。¥副主著主主山町、HNLEE--︾可∞・∞。
E 。ロU叶少官・ ω戸
( 叫 ヲ どM
。
Z同∞cnMEア H
は、鳩摩羅什の弟子
が四世紀に引用した同形の話を指摘している(大正、ご一八巻、一二四一頁b)。ここでも吉蔵の場合と同じように、避難者が蜜を
口にするとその恐れがすべて解消されるので、この終わり方、かオリジナルに忠実であると思われる。
この話の一番よく知られている英訳は宮三回。宮の N室 、 EFNS 凶
gE(の理母ロcq Z・4 USFZEF ロ ι J 司 一
・
HNM) に含まれているが、象と井戸と蜜に代わって虎と崖と惑が使われているし、著者がそれを誤って﹃沙T
b集﹄の話として紹
介している。とにかく、話そのもの、か非常に古くて、仏教以前から伝わるものとも考えられるので、その異形が存在すること
│
!
r$zwiJFZ
﹃わが機悔﹄の中でトルストイは、東丙の智慧をもってしでも打ち勝つことのできなかった、自分の絶望との戦いを語ってい
も不可能なわけではない。
る箇所で、上に引用した﹃翻訳名義集﹄と同じ話を引用する。 W- ジ工イムズはトルストイの絶望の真剣さに触れる際、この
文章を指掃するが、それはトルストイが結局のところ、人生の簡素な楽しみの再発見によって絶望から解放される、というこ
とを論ずるためであった。
、
﹁
川
川 dJ
λ リ人一明の空しさし/一,小ま仁めさ、食欲さと錯雑さと残酷さとに対して深刻なヂ満をいだき、た
川イ山川、、明 ι
川崎明悦也小川 山
遠の真実はもっと自然でもっと動物的なもののうちにあると信じた原始的な剛買な人々の一人であった。::それはおそらく、
私たちが骨のなかに本来の人間的な髄を十分にもってはいないからであろう、けれども、伝たちのほとんどの者が、少なくと
も、もしそうできたらどんなに善いことだろう、と、感じているであろう。﹂(桝田啓二一郎訳﹃宗教的経験の諸相ト東京ト日本
教文社、一九六三、二二九、二七七八頁。ただし強調は筆者による)
J
i
t
-
五頁)。釈尊は、萱隆が自分
(2)}この話に登場する諸象徴はきわめて古レので、仏教および仏教以前の伝統のうちで意味の一貫性を求めるのは無理か?と思
うが、しかし主感のとりとである人間を古井戸に閉仁込められた人の如きものとするという寓話は折々に現われてくる。れんと
iば、﹃大乗年一際蔵正法経﹄にも同じイメージが見られるし、そこでは鼠と蛇が﹁老病死苦﹂を象徴している(大正、一一色、
八四C頁b c )。
(3)松村色・松団慎也訳﹃ジャータカ全集﹄4(東京、春秋社、一九八八)第一一一一一一四話(一一一一一
で、王がア│ナンダだったと、最後につけ加えている。
Jh
z
r
c
Y
一九七六)一一二一。
(4)凶ミ礼宮内ミ号、3・ hω!∞漢訳の﹃仏所行讃﹄は焚語の象徴を単純化したり、略したりしているので、英訳から引用する。
党語からの英訳は、開わ。ロNphwミ弘正三符コ一司君主仇(出向凶EE。Eω君、。EMeHd口問EPZS)
E
・
古毛色 l
(
5 仏典にも、視覚に感覚一般を代表させる同じ傾向がよく見られる。たとえば設(之)に取り上司けた絡では、五感がいつも
﹁眼等﹂と呼ばれ、ただの寸夢﹂か﹁瓦光﹂か﹁幻 L かあるいは﹁体不実の芭存い﹂等になぞらえられる(大花、一一巻、八四O
頁ab)。ここでは‘比仏怖が閣内論に対して与えている影響を度外視してはならない。なぜかというと、向感の働きの乏しきの
原因を無明に帰する無反省な傾向が、メディアや本人通制度、か引き起こす現代の大衆の麻療に、宗教的な支持を間接的に与える
可能性があるからである。こういう点に心を配るならば、おそらく﹁仏限﹂に・仏鼻、仏舌、仏耳なとをつけ加えることがで
きるであろう。下記の註(お)l(お)と、とれらの註が付されている箇所の本論の叙述も参照されたい。
(6)MU言。さ(窓
向
・
。
.
ゎ
・ 4弓ωZFPミE号、同川町立ミ-V言。2SKMJSHEEPS同ヨgp 同ロ阿︼自己・君主25・53・
。円]ア司N∞叫
ー内心、力頁。
(
7
) コ yトフリ lト・フォン・シュ!ラ l スブル夕、心川敏三訳﹃トリスタンとイブルデ﹄(東京、郁文堂、
、
号
司
ュ
(8)ミミミヨ志向,M3h話。町吉﹄守室内甲骨、ミF玄。岳買わ。-cEEZω円 f 包・(Z04司︿。司rECおωFH坦∞C)・官官N∞()Nこの例を初めて
私に紹介したEE富。E522は、ハードウイソクの幻となったものの背景にある歴史を詳しく説明しているozZ包ヨヱ]♀
﹀ 明 2邑E弘吉わ。ロロRF3h。ミゼ告ミ同立&2Hhw(忌∞∞)・司宮町∞l∞同
(9)これ以降の註に指摘する参考文献の中にも訳文を含んでいるものがあるが、本論文が掲げる訳文は、権威ある翻訳として
. ミ亮司ぬ遣珪色"P忌N-FMl戸田3zaFミEP包﹁ZESEE-5∞喧)
定着してきたわ。まECE丸山内[5za・5F・ 8
に従い、邦訳(﹁トマスに土る福音主口﹂、荒井献訳﹁聖書の伎界﹂第五巻﹃新約 I﹄)の試文合所々調整したものである。なお、
番号はコプトlJ人章どおりである。
(叩)エレヌ・ベイゲルス、荒井獄・湯本和子訳司ナグ・ハマディ写本﹄(東﹃口小、白水社、一九八二)一二九頁と第七章。
吾mX2(MJ SFC2YFZ。唱JR2町一出馬唱。円吉ι閉山。戸巴∞∞)は深層心理学の﹁真の自己﹂という概念をはじ
問看ZZ
め、種々の現代思想を遠慮なくトマスの福音の文章の中に見出す。これと対照的なのが・コプト語文章に対する浩翰な詑釈書
(UEM3﹄ぎ苦22gh之宮達、玄5M淳司口﹀問JZロ巳。門戸52)を著わした玄RFm己司ぽ問司であり、彼は先駆者である問。Zユ
zph 柏崎HMHbhsh旬。¥弘、25(円。足。円ゎ。=5少 HU司会に依拠して(デルアィ神託の﹁自己
CEEとり里庄司2Eヨ自著のM1﹄
を知れ﹂の誤解までも)、現代心理学を完全に避けている(註(勾)を参照)。
(日)ハンス・ヨナス、秋山さとf ・入正良平訳﹃グノゾスの宗教﹄(京都、人文主守段、一九八六) t 四 内 員 。 プ ラ ト ン と
アウグスティヌスについては、nE 24白可-cn担室、内陀旬。¥Hbぬ切符 ﹃(わωEσユ己問F 包詰mH 民自4m円︽目白222-H可司Bg・5g)
六│七章に許制な説明がある。トマスの福音の場合は、コ。フ f議暖はギリシャ語の原文の後代(約四世紅から)の翻訳であっ
て、残っている原文の断片だけからすれば、﹁からだ﹂と寸心﹂とを明確に区別する用語を確定することはできない。
(円以)グノ l シス主義とキリスト教との相左的影響に関する研究やさまざまな仮説の批評については、出口問﹃富。三え52Bヰ戸
4 ・↓=zpM-E。き22kh﹄偽切ぜむ誌、252322--FE一己2E-38P昌司N)や、もう少し新しい情報を含むE5ロ
司
・
開
JEEE円Eゆ可、、ぬ'nbえた札PE誌のきめHNAZき(戸。ロ品。ロ υ↓ヨ含}ク-申叶ω
)・2︾・∞由iCHを参照。
(日)忍3ZEC32ι↓5dめFMコ﹄遺書ESKHF内切言語刈与え句、官・窓・
(U)FEC仲間。20FEZZES-‘.5hE3bkNむを(註(9))-aw 冨2 0 E 2 0 E ↓ C E R E S 句 ぬ ま き
同町応、Nhミ=H旬、官官-NHIN(日)記憶を助けるような憶え方の工夫がトマスの福音においてなされているという証拠はないし、福音の主なモチーフについ
てはかなりの議論があるが、これらは私の能力をはるかに越える問題点である。
(日)たとえば、ベイゲルス﹃ナグ・ハマディ写本﹄七二頁、。E三自己22且EmpM3吾、陵町立Hheshωミヤ定旬、宮古田EClr
司E間。タロ2M1﹄ざ遣22ghミ札制科書、戸ニ印一﹄EZEE-円山・玄宮司チト・hE認-凡な句、守ミ﹁﹄ざ遣E(戸宮内庁口一回コ=ゅSJ5・ヲHN品・本論
文執筆のために参照した評釈ーーそのこく一部しか註には入れていないがーーーのうち、グノ l シス主義における身体の排斥論
104
五感の険 f
昼 時代の禁欲主義に抗してー
第四章
10三
E
﹁﹄芯善命的可 z・530
E3
山
﹃
3S(
1
にもっとも密着してトマスの福音を解釈したのは 2a2 であるが、彼は次第に文章の内容から離れて単に臼分の予想を再確
認するにすぎなくなるという危険に陥っている。とはいうものの、トマスの福音に対するこういった偏見は決して珍しくなレ。
ア ラ ム 語 ) は 五 了i ーありがたや?
文字どおり、著者の名前
。ω(ギ リ エ 語)YZ(へプラ f語 ) コ
││双子﹂を意味する。真中の名前ユダスは寸即﹂の土うな繁辞の役割を果たし、イエスの比弟になるということの﹁通念し
AbEE は、それが本当の人の名前である(円、 hS芯
の意味とグノ!ンス的な意味とを連繋している。 Y
w
h之内定 2 吋ぎ呈E
ds-r は、この名前の繰り返しが写本の記者の言語的なミスにすぎないと論・
じ
司
芯 ) と 論 じ て い る 。 こ れ に 対 し て 者 わ ︿E
目38P38・司・き)。しかし、三れらの説は両方とも
ている(弓ミ守忠男2ミえのきちへ干さむShpZ821z?E-HE2 己
疑わしい。
(国)ここで、イエスに質問する人はマリアと名づけられているが、学者によってこれはマグダラのマリアであるとされたり、
あるいは、義人ヤコブを通して伝えられた秘密の教えを受けた者であるとナハンュ派によって信じられた 7りハムであるとさ
れたり、きまざまである。ロギオンはでは、イエスが義人ヤコブをその後継者として指名してレる。
(mU) の
32 と司円。旦百告は、教父たちからの引用に基つレて、版を脱ぐという象徴はナハシュ派やエジプト人福音量日に由来す
,E2 は、服を踏みつけるということ、か、性に関
ると判断している(円常 M
22HMesh旬。¥L2 5・官・エ印)。室。三え52 と、H
g
r 程守ミ
一宮古向島・﹄円、﹄円高是N
する事物に対する烹視や拒否の象徴であると解釈している(吋ぎ韮E S K S内向ミ高急切なw古 ωC
4
ロ
(
ω
)
(初)ヨナス﹃グノ l シスの宗教﹄一六一二l 四頁。ヨナスの考えでは、若い王子の衣服はマンタ教の教えと関連しており、囚わ
れの身になって憐悼する﹁命﹂の寸地上的形式﹂にすぎないがこ八O、八三貰)、旅の目的を果たしてから着る衣服は﹁一時
的に隠きれ、それゆえに固には見えない自己の天上にお汁る形﹂である(一七五頁)。いずれにしても‘衣服は色目。円。問。(他
我)とLて解釈される二七三頁)。ナグ・ハマディ文厳に現われる、その明白な例としては、﹃復活論﹄を挙げる二乙ができ
N
8
0 なお、この箇所につい
る。そこでは、京服を着ることが、魂と肉との復活を﹁呑み込む﹂霊の復活を意味している(品印ては上記の邦訳書に誤訳、かある。本論ではこれを訂正して訳出した。
, WFSE
日(忠之、ミミミ弘司、百選E h g芯
E
印
・ m A岱由)は、着替えると
(
幻)ggFHN と、H
hミミRNC2円﹃∞ENEm2・5∞
レうことをレっそう 有効な﹁脱肉体﹂とみなしている。
芯
喜EEGS z
目E
N
N
U
C
M
Mロ仲間同三?・2品
YM3bhM号、ミ Mぬ
a
w
s
w司N
(辺)明日向。吋凶 UEM1﹄
い
て
なh句
。¥HER旬
、
百
円
以
・ 5 p g由富合百三は
川の問這いとして解釈しでいる(内向N
己主忌詰 235書記、百戸田∞)。
二つの受章の相違を単なる翻、
訳
(幻)ロギオン Uでは、イ一ムスが弟子たちにこう一日う。﹁この天は過ぎ去るであろう。そしてその上の天もまた過ぎ去るであろ
ぅ﹂。これは、あらゆる天の上の天が、デミウルゴス、か創造した﹁この天﹂にいつの日にか打ち勝つであろうという典型的なグ
ノ νス主義の教えとは明らかに違うように恩われる。
z
b
(
μ
) ミ民間可。枯渇遣。&(リミ内bFS ロ 玄bEE は反対の立場をとる(円pshd.守 党 s E君
)
。 ロギオン 5 における単数
VM品
。
句
、H
早川と比較せよ。
(お)﹁聞く耳のある者は、 nF が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさ
一
号
せようし(黙示録二・七)
。グ/│シスのある者は﹁死を味わわない﹂という言い方はロギオン l にすでに現われている。
(お)楽開聞の木、か、想像の領域のみにおける感覚の快復を象徴しているという考えは認め難い。こういった考え方は無論グ/
e
ンス主義には珍しぐない か
‘グノシス主義の影響を受けていない原始キりスト教にも山刊て︿る。たとえば、三世紀の教団が
聖書として読んだ﹁ヘルマスの牧者﹂という文章における﹁救い﹂の場は‘はとんど想像の領域と言えるであろう。このテキ
ストは、次のようなヴィジョンで締めくくられてレる。すなわち、性的空想という罪を犯したへんマスという奴隷がその罪を
悔い改めた報いとL て、十二人の乙女が遭わされ、彼とともに一晩中踊ったり、歌ったり、彼に接吻Lたり、彼を抱きしめた
りするなどして、一緒に遊び、また一緒に寝る。そして、それは、天使の説明によれば、﹁彼女たちがおまえの助け主となり、
おまえがいましめ(神の捉)にますますよくつかえることができる﹂ためになされたことであった (PHYEMu 荒井献訳﹁聖
書の世界﹂別第四巻﹃使徒教父文書﹄二八六七、三O ヘ頁)。
(幻)父が二の﹁光の﹁ら﹂とともにいる証拠は、﹁動きと静けさ﹂である(印)。別の箇所でイエスは、世界によって喰い尽く
きれることなく、真に生きるためには、﹁静かな場所を求めるべきである﹂と、彼の弟子たちに向かって語っている
。文
脈にはそれ以上の説明は存在しないが、﹁静即動しというのは、東西の神秘主義の伝統では﹁内的調和からの働きしという意味
をもっており、決L てまれな懸想ではない。
) と呼んでレる(ロギオン約しら註(川出)を参昭一)。
トマスの福音は﹁選ばれた者しを﹁単独者﹂(ギリシャ語、自S 長。ω
(叩却)者EZ5包件。叫が指摘するように、牛小屋にいる犬はイソソプの寓話にも登場する(吋可也、芯語。。旬、三百・ 530
u
qs
h
s民主崎弘吋ぎ若宮同sshSSF 印・坦∞・司目的R-UE 吋﹄昌吉号室塁h
∞
・ H
U
H
OR5丘∞nFSEE- ﹄
n
h
S
3・
(明日)切
(ぬ)のE三 と FoZEE は、次のようなす︿で、その木を締めくくっている。﹁最後に性を抹消することでもって、卜 7スの福
HMUH喜怒 c
h︾量旬、古広司
音の終末論はその最高潮に達する﹂oMーと陵町E
EH2p。
(幻)目。問2・b
苦22ghミN
SF ∞-Ng
(刊さイエスが、父はi│そして、合同畜的には向分も│1寸女から生主れたのではなレ﹂(日)と言勺ているとレうニとだけで
は、グノ!シス主義の性に反対寸る立場からの影響の確かな証拠には決してならない。むしろ、それは人間が神の被造物であ
るということを指摘する言い方であるに寸会σない(ヨブ一四・一を参照)。そうでなければ、ロギオン必の、アダム、が寸女から
W 吋ぎ若宮、百ロ男子 hNS芯均胸骨句 RE柑
NE を参照。
生まれた﹂という表現を説明することは不可能になるであろう。
(お)天の国の讐えを語るときには、イエスは男と女を平等に使用している。すなわち、何も知らないで畑じ宝を持っている男
旦一阜のパン種を粉の中に隠しているな(%)が語られている。
(問問)と AY
/06
第四章五感の恢復一時代の禁欲主義に抗して
107
z
a
︽
(弘)のEE と 司
ヨ自は、﹁彼﹂を﹁それし (uu
寝台)と一択すことによって、性的関係を拒んだナハンコ派の衣場を語らせて
H
m∞坦)。
、 R旬 、 官 官
いる(叶﹄刷、 MR2H 切応、2h旬。﹂司2
(お)サロメの姿はナグ・ ρマディの文献によく登場する(たとえば、﹃マリアの誕生ヘ﹃エジプト人福音書﹄、﹃ヤコブの黙示
N を参照。トマスの福音に現われる
録﹄)が、その意味には一貫性、がない。詳細は玄2R p h尚喜志向巴た智目。ミ吋雪望号、司・ 5
サロメが、男性の理想形としてのイエスに対応する女性の理想形以外の何ものかを象徴しているとは、どうしても考えられな
/08