12.OB 会員の先生方からの便り 内科循環器科吉木医院(遠賀郡岡垣町) 永 元 康 夫(昭和 54 年入局) 樹木ウオッチング:1フジとキバナフジ 樹木ウオッチングは散歩しながら出来るわたしの趣味です。わたしの散歩先は、 宗像市の宗像ユリックス、明天寺公園、白水池公園、釣川遊歩道そして福津市の 久末ダム、なまずの里運動公園です。 今回は、フジとキバナフジを紹介します。四月二十九日朝、明天寺公園(日赤看護大学の向いの公園) に出かけました。数週間前まで、ソメイヨシノ、オオシマザクラ、ユキヤナギ、コブシが、今はハナミ ズキとツツジ、峠を越したハナズオウ、ドウダンツツジ、サトザクラ、ツバキが花を咲かせています。 この公園の入り口に小さな藤棚がありますが、今年は開花が遅く三分咲き程です。おそらく他の所のフ ジも同様と思われますが、八所宮と久末ダムに向かうことにしました。 八所宮の社に繋がる石段の両側には、イチイガシの大木が茂っており、足元には、昨年の秋の堅果(ど んぐり)が落ちています。百五十段ほどの石段をのぼると社が見えてきます。社の手前を右に折れ藤棚 に 向 か い ま す。 百 数 十 坪 ほ ど の 庭 に 二十一本のフジが植えられており、驚く べき密度です。この近辺では、香月の吉 祥寺とさつき松原の藤寺が有名ですが、 これほど多くのフジは植えられていませ ん。残念ながら、ここのフジも三分咲き 程でした。見頃になると、白、ピンク、 ブルーの三色のフジが百数十坪の庭を隙 間なくうめつくします。見事な色彩がひ ろがり、芳醇な香りが漂う、美しい空間 です。 次いで、キバナフジを見るため西へ3 kmの福津市の久末ダムに向かいまし (2010 年5月3日撮影) た。ダムの入り口に民家がありますが、 その庭にキバナフジが植えられています。残念ながら、まだ二部咲き程でした。キバナフジは、英語で Golden rain、ドイツ語で Goldregen と言います。直訳すれば、金の雨になります。何と風情のある名 でしょうか。ドイツ語の本(独語会話 110 番、旺文社、福本義憲著)に、ドイツ人の家に招待されたと きの会話があります。 A:Bitte, machen Sie es sich bequem. どうぞお楽になさってください B:Vielen Dank ! Sie haben ja auch einen wundershoenen Garten hier. ありがとうございます。すばらしい庭をおもちですね。 A:Ich arbeite gerne im Garten. Es beluet zur Zeit. auch einiges. Sehen Sie ? わたしは庭仕事が好き − 46 − でして。いま何種類かの木がちょうど花をつけています。見えますか。 B:Oh, Ja, Ich sehe: der Flieder da und der Haselstrauch und was ist das da ? あら、本当に見えます わ。あそこにライラック、それにハシバミ、あちらは何ですか。 A:Das ist Goldregen. あれはキバナフジです。. この本のうち、ライラックとハシバミは直ぐに分かりましたが、キバナフジが分かりません。ユリッ クスの図書室の樹木大図鑑(北隆館)に、キバナフジが載っていました。名前の通り、黄色いフジです。 その後、何年もの間、この樹を探しあてることが出来ませんでした。三年前の五月初め、久末ダムの傍 を通ったとき、この花を偶然見かけました(2010 年5月3日撮影) 。若き日に、長年探し求めていた女 性に巡り会えたような想いがしました。樹木ウオッチングには、このようなすばらし出会いがあります。 次回以降、ライラック(当院庭)とハシドイ、ジヴェルニーと明天寺公園の睡蓮、シジミバナ(当院庭) とユキヤナギ、アセビとドウダンツツジとエゴノキ、タイサンボクとユリノキ、ハリエンジュとネムノ キ、ドラセラの花(当院待合室)、ナンジャモンジャ、八種類のどんぐり、ヨーロッパの街路樹(マロ ニエ、菩提樹、プラタナス、アカシア)を紹介していく予定です。 −47 − 国家公務員共済組合連合会新小倉病院呼吸器センター(北九州市小倉北区) 顧問 城 戸 優 光(昭和 56 年入局) 近況報告 2年振りの近況報告です。 2009 年4月から国家公務員共済組合連合会新小倉病院に勤務しています。週 4日外来を担当していますが、徐々に患者が増え忙しくなってきました。 余暇はもっぱら庭の手入れと、温泉巡り、海外旅行を楽しんでします。今年は3月末に南ドイツを訪 れました。東日本大震災から 20 日足らずとあって、飛行機も空席が目立ちました。 フランクフルトからレンタカーで、ビュルツブルグ(ロマンチック街道の起点で X 線の発見者レン トゲンが研究した大学のある城塞都市)、バンベルグ(泊) 、ニュルンベルグ、ローテンブルグ(泊) 、 デインケルスビュール、アウグスブルグ(泊)と街道沿いに中世からの城塞都市を回ったあと、ライン 川を渡り、独仏国境を越え欧州議会のあるストラスブールで一泊、ライン川を遡り、フライブルグ(泊) からまだ雪の残る Schwarzwald(黒い森)の高地道路を通って、温泉地バーデンバーデンに宿泊、フ ランクフルトに戻り帰国という、機内泊を含め 8 泊 9 日の旅でした。 ドイツは冬から急に春になったという感じで、花々が咲き乱れていました。古い大学があることで有 名なフライブルグでは、大聖堂の前の広場に朝市が立ち、若者たちは T シャツ姿で街を歩いていました。 借りた車は VW Golf CTI Automatic 2.0 Diesel でした。全行程7日で 1400km 近くを快適に走りま した。ヨーロッパをレンタカーで旅行するのは今回で7回目ですが、初めて Garmin nuvi というゼン リンの日本語ガイド付きポータブル GPS ナビにヨーロッパ全土の地図を入れて帯行しました。アウト バーンは勿論、一方通行の多い、入り組んだ市街地でも立派に役立つ優れ物でした。いつもは私がドラ イバーですが、今回は家内が運転すると言い出し、私がナビゲーターを務めました。 都市部を抜けるとあとは 人家もまばらな大平原、時 速 200km 近い速度で速度 無制限のアウトバーンを疾 走する車、安定した地盤の 上に建つ 500 年以上経た石 造りの高い尖塔をもつ大聖 堂、宮殿や市庁舎など、平 地が少なく震災の多い日本 と比べて、改めてその違い を実感しました。 写真はバーデンバーデンの ホテルの庭でくつろいでい るところです。 次回は英国の湖水地方を 訪ねる予定にしています。 −48 − 久留米大学医学部(久留米市) 心臓・血管内科主任教授・循環器病研究所所長 今 泉 勉(昭和 56 年入局) 皆さんこんにちは、お久しぶりです 久留米に赴任して 18 年目に入りました。産業医大にお世話になったのは昭和 56 ~ 7 年ですから、私の事を知らない先生も多いと思います。久留米に赴任し たときは第 3 内科でしたが、腎臓内科を分離、独立させ、その際皆にわかりやす いようにと循環器内科ではなくて、心臓・血管内科としました。私が主宰しているのは臨床講座として の心臓・血管内科と純粋に基礎の研究施設である循環器病研究所であります。循環器病研究所は国の「私 立大学戦略的基盤形成支援事業」に採択されたものです。2 名の 研究専任のスタッフがおります。こ の様な循環器の研究所を有しているのは我々だけではないかと自負しております。月日がたつのははや いもので、久留米も後 2 年となりました。久留米でずっと単身赴任を続けていますが、心身ともに健康 であります。体重も 61 kgと変わりありませんが、髪は薄くなり、年相応の変化はきています。今思 い出しても、一番楽しかったのは産業医大時代です。千田君、中村君、荒牧君等とともに毎日 1 ~ 2 例 の診断カテをし(当時PCIはありませんでした) 、後は遊んでいました。久留米にきてからは教室が 発展するために頑張り、大学では業績、研究費獲得、入局者数も一番であると自負しています。また、 ヒトを育てる事が役目と考えていましたので、久留米大学の内外に 10 人ほどの教授を作りました。し かし、いかに社会に貢献したかを振り返ると、忸怩たるものがあります。循環器学会の理事をしていた ときに心臓移植委員会の委員長として、また心臓移植関連学会協議会の代表として心臓移植実施施設の 認定など心臓移植の発展に少しは貢献できたかなと思っております。現在も心臓移植関連学会協議会の 代表は続けていますが、そろそろ潮時かなと思っています。主な学会も終えて今後どの様に生きていく かを考えております。 久山療育園重症児者医療療育センター(糟屋郡久山町) センター長 宮 﨑 信 義(昭和 58 年入局) 「重症心身障害児(者)と共に」 教室の皆様、御無沙汰をしていましが、お元気でしょうか。私は昭和 58 年 4 月から 5 年間、第 2 内科・呼吸器科にお世話になりました。昭和 47 年に九大医 学部を卒業、呼吸器科に入局して呼吸器内科医一筋に過ごして参りましたが、縁 あって産業医大第 2 内科・呼吸器科にお世話になることになりました。年齢的にも 30 代後半の 5 年間 で元気がありましたし、臨床修練から研究生活、そして文部教官を経験した後の集大成をしておかねば と思っていた時期でしたので、若く学際的な雰囲気に包まれた教室での働きは恵まれたものでした。臨 床教育や講義に用いられ、自分の 10 年余りの知識の吟味や整理にも有意義だったと思われます。その 時に大学病院や研究室での第一線で活躍されておられた若い先生方も本当に立派になられ、教室全体も 発展し歴史を造られていますことをお喜び申し上げます。 さて、畑違いとも思われる道を選ぶこととなった重症心身障害児施設「久山療育園重症児者医療療育 センター」の紹介をさせて頂きます。園は 1976 年に創立された、 病院(医療法)であり児童福祉施設(児 童福祉法)という二重の性格をもつ施設で、ベッド数から言えば 87 床の病院です。利用者は脳性麻痺 −49 − を代表とする重度重複の障害児(18 歳未満)及び障害者(18 歳以上)で、医療度の相当高い方もおら れます。原疾患である小児神経疾患を生き抜かれた重症児者は、てんかん発作や呼吸器疾患(感染症、 慢性呼吸障害、呼吸不全)や消化器疾患(摂食機能障害、高度便秘、腸閉塞)が常につきまとっていま す。ですから、87 床の病院と同じ医療基準が求められ、併せて療育や療養介護が必須となるため、同 規模の医療法人の病院よりも職員数は約 50%多いと思います。診療内容は、小児科のみならず総合診 療科的なニーズがあります が、約 6 人の医師定数の内訳 は、常勤医師が呼吸器内科医 2 人、小児科医 1 人、外科医 1 人です。後は非常勤で整形 外科・耳鼻科・皮膚科・小児 科・循環器科などの先生方に お世話になっています。この ような公立・社会福祉法人立施設は全国に 121 施設あり、その他に国立病院機構が 73 病院で、総ベッ ド数は約 19,000 床です。地味な役割ですが合併症を中心に総合診療科的な役割が求められています。 このような障害児者医療で働いて下さる先生がおられましたら、大変に幸いだと思います。毎年 9 月 23 日の秋分の日には開園祭が行われます。機会がありましたら、どうぞお立ちより下さい。最後にな りましたが、教室のますますの発展と皆様の健康とご活躍をお祈りしています。 大島郡医師会病院(鹿児島県奄美市) 院長 櫻 井 修 吾(昭和 58 年入局) 大島郡医師会病院の近況を報告いたします。名瀬市から奄美市に名称が変更に なりましたが、今では、奄美市にまったく違和感はなくなっております。当院の 所在は奄美市中心から約 15 分程度の郊外にあります。 病床数は 188 床で一般病床は 33 床、医療療養病床 155 床で慢性疾患を対象と した体制になっております。以前は介護療養病床が 56 床ありましたが、将来廃止の方向が決定してお りましたので、昨年4月より医療療養病床へ転換いたしました。この転換はそれなりの検討を行い、ス ムーズに移行が出来たと思っております。 一昨年頃より、心筋梗塞、脳卒中、癌、糖尿病など医師会および県の主導で地域連携パスの立ち上げ が、進行中で、心筋梗塞および脳卒中の連携パスはすでに立ち上がっております。そのパスの急性期は 県立大島病院が役割を担うことになります。当院は回復期を担う予定です。 現在、内科、整形外科の先生方にマンパワー不足の中、大変がんばって戴いており、また、専門外来 として、リウマチ、膠原病外来、糖尿病、内分泌外来、耳鼻科をはじめとして、物忘れ(認知症)、神 経内科、皮膚科などの先生方にも定期的な診療をお願いしております。 設備としましてはヘリカルC T、エコー、ホルターECG、内視鏡、気管支ファイバー、骨密度測定装置、ABI計測装置など一応 ひととおり揃っております。勉強会も大島郡医師会会館、県立大島病院で講演会、消化器カンファレン ス、症例検討会など活発に行われています。 当地は離島であるがためにといっていいかは別にして風光明媚です。海も格別なようでスキューバダ −50 − イビング、釣りなどを皆さん楽しんでおられるようです。一方、それなりに繁華街もあります。利便性 の問題はなく、インターネット、鹿児島、大阪、東京への直行便などの利用で不自由は感じません。そ して今年4月から福岡~奄美間に直行便が就航することになり、福岡が近くなりました。皆さん是非来 られてください。歓迎いたします。 熊本大学大学院生命科学研究部環境生命科学講座(熊本市) 公衆衛生・医療科学分野 准教授 大 森 久 光(昭和 61 年入局) 昭和 61 年に産業医科大学医学部を卒業し、第2内科に入局させていただきま した。研修終了後、呼吸器科に入局し大学院(生化学教室)に進学いたしました。 大学院終了後、呼吸器科助手、その間米国カリフォルニア大学サンフランシスコ 校(UCSF)に 2 年 3 ヵ月留学させていただきました。その後、呼吸器科助手を 経て、平成 8 年より日本赤十字社熊本健康管理センターに 11 年間勤務させていただきました。その間、 予防医学、産業医学を勉強させていただき、日本労働衛生コンサルタントの資格を得ることができ、現 在も嘱託産業医として、また日本労働衛生コンサルタント熊本県支部副支部長としての職務をさせてい ただいております。この間多くの先生方にはお世話になりありがとうございました。 平成 19 年より、現在の熊本大学大学院生命科学研究部 公衆衛生・医療科学分野(加藤貴彦教授、 産業医科大学医学部1期生)の元で、准教授として勤務させていただいております。熊本大学での医学 部学生教育および大学院生の研究指導に携わり、早や4年目を迎えています。その間新しい発見と貴重 な経験をさせていただいております。日赤に勤務させていただいた頃より一貫して、人間ドックのデー タ、特に呼吸機能検査について慢性閉塞性肺疾患(COPD)の疫学調査をさせていただいております。 また人間ドック施設を中心に全国調査もさせてい ただきその成果をまとめているところです。なか なか思ったようにならない面もありますが、仕事 を楽しむよう心がけ、今を精一杯生きていこうと 考えております。 私は2年前に左眼の網膜剥離をおこし、熊大病 院で手術を受け、危うく失明を逃れました。原因 は、VDT 作業? 私は、毎年、日赤で人間ドッ クを受けておりますが、気持ちはまだまだ若いつ もりでおりますが、健康管理には留意しなければ ならない年になったなと感じております。学生時 代、硬式テニス部であったこともあり、今でも月 2~3回のテニスを楽しんでおります。年々腕が 落ちていくのを感じながらも、一緒に楽しめる仲 間がいることを幸せに感じながら続けておりま す。 同門の皆様の益々のご健康とご活躍をお祈りし ております。 −51 − 産業医科大学産業生態科学研究所(北九州市八幡西区) 健康開発科学研究室 教授 大 和 浩(S61 年入局) 禁煙タイガー参上! 2 月 11、12 日、ラマツィーニホールで第 20 回日本禁煙推進医師歯科医師連盟 学術総会を主催しました。私のタバコ対策にかける情熱は産業医大では突出して いますが、実は、日本には私よりも凄い集団が 100 名ほど生息しています。ある 先生はクリニックを改造してタバコ対策の博物館を作ったり、また、ある先生は無料で学校に押しかけ 41 万人の児童生徒に防煙教育をおこなったことで保健文化賞を受賞されたり、あるいは、 「タバコをや めよう、受動喫煙は危険」と新聞に折り込み広告を私費で入れたり、と私から見ても変わった人達です。 シンポジウムでは、サービス産業も含むすべての職場の完全禁煙化を実現するための労働安全衛生法 の改正の必要性について討議しました。その内容は翌日の読売新聞で報道されるとともに、作成された 要望書は厚生労働副大臣、小宮山洋子議員に手渡されました。詳細は「受 動喫煙対策」で検索すると1位でヒットする HP(http://www.tobaccocontrol.jp/)をご覧下さい。 懇親会では、額に禁煙マークを輝かせたタイガーマスクが乱入し、会 場を沸かすとともに、恵まれない子ども達への募金が行われました。チャ ンピオンベルトに挟まれたお札は 3 分間で 36,000 円となり、後日、若 松の児童養護施設、暁の鐘学園に届けられました。 −52 − 医療法人 岡内科クリニック (北九州市八幡西区) 岡 雄 市(昭和 62 年入局) 昭和 62 年に産業医科大学を卒業後、 第 2 内科循環器グループに入局致しました。 研修は、岡山労災病院で 2 年間、九州労災病院で 1 年間行い、平成2年に第 2 内 科に専修医として戻りました。3 年間の専修医を経て、三菱化学病院(当時) ・ 岩手労災病院に勤務した後、平成 9 年に助手として 1 年間医局に戻りました。平 成 10 年から 3 年間、東京でソニーマーケティング(株)の産業医を行いました。平成 13 年に九州に戻 り、北九州市立若松病院(当時)での勤務医生活の後、平成 14 年に開業致しました。 専修医・助手時代の計 4 年間、研究・検査・病棟・外来・学会発表等様々な貴重な経験を積ませて頂 き、黒岩教授・中島教授をはじめ、諸先輩の先生方・同期および後輩の先生方には、心より感謝申し上 げます。また、現在も日常診療の中で、大学のみならず、同門の先生方がいらっしゃる近隣の医療機関 には、常日頃大変お世話になり、助けて頂いております。この紙面を借りまして、改めて心よりお礼申 し上げます。今後は、OB として、少しでも同門の先生方の一助になれるよう努めてまいりたいと思い ます。 現在、日常診療の他、プライマリーケアの一環として、在宅医療・嘱託産業医・禁煙外来等に力を入 れております。 在宅医療では、特に認知症の患者の場合、色々な問題に直面します。家族に生活の余裕がある方は、 ケアハウス等施設でフォロー出来ますが、そのような方はむしろ稀で、多くの場合、老々介護を見受け ます。介護疲れで共倒れに陥る事もあり、家族全体のトータルケアが必要な場合が多いので、対応に苦 慮することがあります。他の身内の方・ケアマネージャー・区役所の福祉の方と相談して、そのご家族 のベスト(セカンドベストになる事もありますが)な道を模索しています。 嘱託産業医は、現在2ヶ所の事業所で行っています。1 つの事業所は、事務系なので、安全面は概し て問題なく、衛生面のケア、特にメンタルケアに重きを置いています。もう 1 つの事業所は、汚物処理 工場なので、衛生面のみならず、安全面でも十分な配慮を必要とします。共に、月 1 回の職場巡回とそ の後の安全衛生委員会に参加し、参加メンバーと積極的に意見交換をしています。現場の意見を汲み取 り、少しでもフィードバック出来れば と考えています。 禁煙外来は、根気のいる仕事ですが、 私自身の禁煙経験を元に、1人でも禁 煙生活の良さを実感して頂きたく、指 導に当たっています。今後は、校医も していますので、校内での禁煙教育も 出来ればと考えています。 至らぬ点が多々ございますが、今後 共宜しくご指導の程お願い申し上げま す。また、同門の先生方並びに教室の 今後益々ご健勝とご発展を心より祈念 申し上げます。 −53 − 長友内科・循環器内科クリニック (北九州市八幡西区) 長 友 敏 寿(昭和 62 年入局) 皆様、こんにちは。平成 22 年 10 月に八幡西区の九州共立大学横で内科・循環 器内科を開業いたしました。北九州に来てちょうど 30 年になります。今思えば、 開業した場所は思い出の地です。30 年前の 3 月、産業医科大学受験のために、 折尾駅に降り立ちました。駅前にはパチンコ屋さんがあり、昔の風情が残ってい ました。東京で浪人生活を送っていたこともあり、余計に田舎っぽく感じたのを覚えています(失礼) 。 折尾駅から今で言う学園大通りを北に上り、九州共立大学で受験しました。当時の学園大通りはとても 狭く車がかろうじて離合できる程度でした。入学後に車で出かけることもありましたが、ひびきの学園 都市や浅川学園台以北はすべて山で、光貞台、藤原、浅川台あたりまでが住宅地だったように思います。 開学当初ご在籍された同門会の方々も、懐かしい風景だと思います。 大学に長くいたのに、なぜ開業するのと聞かれることがあります。大学病院での外来で紹介していた だいた患者様を診察するにつれて、一部の救急医療は別ですが、医療の原点(はじまり)は開業医だと 思うようになりました。また、新臨床研修制度の立ち上げに携わったこともきっかけになりました。研 修医の研修到達目標である疾患(common disease)のほとんどは開業医が普段の診療で見かけるもの です。大学では診療・教育のほか研究も重要です。歳とともに国際レベルの仕事を維持するのがなかな か困難になったことも、正直きっかけのひとつではあります。このようなことから、自分の医師人生の 残り半分を “ 信頼されるかかりつけ医 ” を目指してがんばろうと開業を決意した次第です。 開業して8ヶ月が経ちますが、まだまだ駆け出し開業医として日々勉強の毎日です。忙しい毎日です が、とても新鮮な気持ちで仕事が出来ています。これまで、産業医科大学病院にはほぼ全診療科にわたっ てお世話になっております。また、近隣の先生方にも大変お世話になっており、紙面をお借りして厚く 御礼申し上げます。今後ともよろしく御指導・御鞭撻のほどお願い申し上げます。 −54 − 琉球大学 大学院医学研究科 薬理学(沖縄県西原町) 教授 筒 井 正 人(昭和 63 年入局) ご無沙汰しておりますが、皆さん、お元気ですか!私は、産業医大 薬理学か ら琉球大学 大学院医学研究科 薬理学に異動して、2年になりました。この第 2 内科教室便りの寄稿の締め切りは毎年5月ですが、私は2年前の 6 月に琉球大学 に赴任しましたので、毎年の原稿執筆は私にとって新任地での1年を振り返る ちょうど良い区切りになっています。 最近の最も大きな出来事は、第 2 内科大学院生の柴田清子先生と矢寺靖子先生に、医学博士の学位を 無事に取得させることが出来たことです。二人とも、大学院の間に2回出産しながら、見事に学位を取 得しました。育児がとても大変な中で、本当に良く頑張ったと思います!私は、育児をしながら研究も 頑張る柴田先生や矢寺先生の姿が、後輩の女医さんの良き手本になればと思っています。 現在は、第 2 内科大学院生の古野由美先生の学位論文を作成中です。今、2回目の revise 中で、古野 先生はゴールデンウイークの休日も返上して追加実験を行っています。もうちょっとの所まで来ている と思いますので、何とか accept されるように、責任を持って頑張りたいと思います。 私の薬理学教室は、大学院生が4人になり、少しずつ賑やかになってきました(写真) 。また、研究 設備も研究費も増えてきて、研究の体制は少しずつ整いつつあります。これからしっかり頑張って、評 価される成果を出していきたいと思います。 最近、東京大学 大学院医学系研究科 糖尿病・代謝内科の門脇孝教授および窪田哲也先生との共同研 究の論文が、Cell Metabolism(Impact factor 17.4)に掲載されました。私の業績の中では、最も高い Impact factor の論文です。 私は、世界に真価を問える独創的な研究を目指しています。私の教室から、世界最先端の革新的研究 を発信していけたらと夢見ているところです。産業医大第 2 内科の皆さん、今後ともどうぞ宜しくお願 い申し上げます。 −55 − 外務省 (在英国大使館) 竹 原 木綿子(平成 4 年入局) この度は、投稿の機会をいただきどうもありがとうございます。 昨年の 8 月末に英国に転勤となり、9 月から London School of Hygiene & Tropical Medicine の修士課程で 1 年間の予定で熱帯医学の勉強をしています。 入学までにも高い高い英語のハードルがあり、入学後も勉強のハードルは何とか 越えるごとに更に高くなっています。この年になって、再度、しっかり勉強することになるとは予想で きませんでしたが、少し息切れしながら、それでも何とかすごしております。 勉強は、実地に基づき、アフリカや中南米でフィールド活動されている先生方より最新の報告をいた だき、ラボで顕微鏡などの実習でしっかりと身につく指導を受けることができ、休み時間にも自由参加 の講演会や英語やコンピューターソフトの指導のセミナーなどが開かれています。学校からの情報や、 先生や生徒間での連絡は E メールが主流で、授業のスライドはブラックボードにアップされ、クラス はフェイスブックに登録されていて、クラスの皆で余暇を楽しむパーティーや食事会の誘いなどもそち らにアップされます。コンピューターは必須のアイテムなのだと再認識しています。課題ではエッセイ やプレゼンテーションを作成して一つのテーマに関して深く考えることが求められ、授業の各教科のグ ループワークや発表の時間には、積極的な自分の意見を即座に求められることが多く、おまけに英語と いうこともありかなり苦労していますが、学校側のサポートも充分で同級生も先生も皆が頑張っていま すので、勉強のための環境は最高です。皆さん、余暇は徹底的に遊んで、勉強はとても一生懸命です。 ただ課題の提出が終わっただけでもかなりの開放感ですが、そんな幸せに浸っている暇もほとんどなく、 次の更に大きな壁となる課題や試験が待っています。すでに半分以上の時間がすぎてしまいましたが、 あっという間の濃厚な時間です。 ロンドンは住んでみる前の印象とは全く違い、美味しいレストランが結構あり、スーパーにも食品が 豊富で住みやすいです。学校近くの街の中心に住んでいますが、便利な上に公園が多くて緑がいっぱい です。今の季節はお花がきれいで、鳥やリスがいます。24 時間スーパーもあり、土日やクリスマスも 買い物ができ、日本食スーパーや無料の日本語の週間新聞もあります。残念ながらほとんど行けており −56 − ませんが、ご存知の通り、博物館や美術館も多く、おまけにほとんどが入場無料ですので近場でも遊び に行くところがたくさんあります。 今回の大震災の際は、日本人の学生で募金活動などをしましたが、学校の関係者の方々がとても協力 的で皆さんの温かさを感じました。最初の1週間は BBC も日本のニュースばかりで、この件ではかな り落ち込んでしまいました。周りの日本人の方も一様にとても心配していました。 年齢的に、遊びにも勉強にもテクノロジーにも英語にもついていくのが少し厳しい感じですが、それ でも、ここで学べることができて本当に良かったと感じています。世界中から集まっている素敵な友人 たちとの出会いも宝物になりました。母校の大学にもかなりのご無沙汰になってしまいましたが、臨床 に研究に教育にと一線で活躍されていらっしゃる皆様に改めて敬意を表します。今後ともどうぞよろし くお願いいたします。 宇都宮記念病院(栃木県宇都宮市) 井 岡 達 也(平成 5 年入局) 平成 5 年入局の井岡です。現在勤務している宇都宮記念病院に就職して、ちょ うど 5 年になります。宇都宮市は人口約 50 万人、栃木県の県庁所在地で、北九 州で言えば小倉くらいの規模の都市です。新幹線で都心まで 50 分程度なので、 便利な場所だと思っています。東日本大震災では、震度6弱の揺れを経験しまし たが、幸い市内には大きな被害は出ませんでした。それでも現在、福島第一原発(直線距離で 100km) からの放射線量、計画停電(カテができなくなります)が気になる日々が続いています。 今から 7 年前、医局派遣で栃木県日光市のけいはい労災病院に勤務していました。のんびりした良い 病院でしたが、あまりにのんびりしていた為か、廃止が決まってしまいました。その時、当院の渡邉博 院長(産業医大 2 期生、第 3 内科出身)から、新病院を建設しカテを立ち上げるので、一緒に働かない かと誘われました。自分自身千葉県出身で、いずれは関東に戻りたいと考えていたので、非常に魅力的 なオファーでした。まだ義務年限が残っていたため、翌年 1 年間は、2 回目の門司労災病院勤務になり ました。北九州に戻ってすぐ、当時の中島教授に、宇都宮で就職したいと申し出たところ、突然のお願 −57 − いにも関わらず快く認めて頂きました。また中島先生 は、退官後門司労災病院の院長にご就任されましたの で、短い間でしたが一緒に働くことも出来ました。懐 かしい思い出です。宇都宮に就職した当時は、今より ずっと平和な病院だったので、仕事には多少の余裕が ありました。しかしカテ室の設計やスタッフの教育、 カテ装置やデバイスの選定など、覚悟はしていたもの の立ち上げの仕事は本当に大変でした。それでも平成 20 年 3 月、JR宇都宮駅から徒歩 5 分の現在地に新 病院が完成し、無事に心カテも開始することが出来ま した。同時に地元の獨協医大心臓・血管内科から常勤 医2名の派遣が始まり、循環器内科として3名体制で 働いています。仕事と生活の質を両立させることを目 標にしているので、夜間や休日の緊急カテは行ってい ません。それでも年間 300 例(うち PCI80 例、ペー スメーカー 10 例)程度の心カテ件数は確保していま す。今年中には開始以来 1,000 例の大台に乗りそうで す。宇都宮市内には、当院を含めてもカテが出来る施 設は 3 カ所くらいしか存在せず、競争が少ないことが幸いしていると考えています。また門司労災病院 に勤務していた時に、開業医との連携の重要性を再認識したこともあって、当院でも循環器内科として 病診連携には力を入れてきました。その結果、紹介患者が順調に増えています。こうしたことも含め、 第 2 内科、あるいは関連病院で学んだことは、自分の財産だと思っています。 宇都宮は餃子の街としても有名ですが、実際市内には無数の専門店があり、安くて美味しい餃子が食 べられます。蕎麦も美味しいですよ。機会があれば、ぜひ遊びに来て下さい。 −58 −
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