人は愛されるため に生まれてきた。

人は愛されるため
に生まれてきた。
e-聖書研究会
奥田 昭
1
「きみは愛されるため生まれた」
作詞・作曲/イ・ミンソプ
訳詞/神 明宏 朴 鍾弼 & B.B.J.
きみは愛されるため生まれた
きみの生涯は愛で満ちている
きみは愛されるため生まれた
きみの生涯は愛で満ちている
永遠の神の愛は
われらの出会いの中で実を結ぶ
きみの存在が私にはどれほど
大きな喜びでしょう
きみは愛されるため生まれた
今もその愛受けている
きみは愛されるため生まれた
今もその愛受けている
今もその愛受けている
(イ・ミンソプ公認訳)
ゴスペルを聴く
「君は愛されるために生まれた」
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この素晴らしい歌は韓国で生まれたゴスペルソングです。
そして、この歌は今や世界中で歌われています。
もっとも日本ではキリスト教会の中だけですが。
この歌の中身は十二分に味わう価値があります。
2
イエス・キリストは、
イエス・キリストは、
このようなたとえを話
このようなたとえを話されました。
されました。
新約聖書 ルカの福音書 (15章11節~32節)より
15:11は15章11節をさします。
15:11は15章11節をさします。
15:11 「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、
身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そ
それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そ
して、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り
始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやっ
て、豚の世話をさせた。
3
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与
えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余って
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余って
いる雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯
し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてくだ
さい。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは
遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけ
した。
15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を
犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、こ
の子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだ
から。』そして彼らは祝宴を始めた。
4
15:25
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が
聞こえて来た。それで、
15:26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたとい
うので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、い
ろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒
しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒
めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一
匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあ
なたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おま
えのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたの
が見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
が見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。
』」
聖書(新改訳第2版) ルカの福音書15章11節~32節
5
上記の聖書を各節ごと解釈すると以下のようになると思います。
(11は11節)
11 「息子がふたりあった」ことから、2
人の息子のたとえ話し、とも呼ばれることがあ
「息子がふたりあった」
る。しかし聖書には題名などはない。後世の聖書学者がつけた題名である。前半は
弟息子の話,後半は兄息子の話である。また、イエスがたとえたのは、2000年前の
当時のユダヤ地方の出来事である。
12 「弟」である、子が親の財産の分け前を親が元気なうちに請求するのは異例なこ
「弟」
とである。財産分け、すなわち相続財産を親の生前に請求することは、当時では親に
対する侮辱以外のなにものでない。しかし、父は旧約聖書の申命記 21:17 によれば,
兄 2 対弟 1 の割合で、ふたりに分けてやった。これは、父からすれば、贈与(生前贈
与)にあたる。
13 それで弟は「何もかもまとめて」
「何もかもまとめて」財産を持ち出して家出する。「遠い国」
「遠い国」は父の支
「何もかもまとめて」
「遠い国」
配の及ばない国で,異邦人の地(旧約聖書時代では、ユダヤ人以外の地を異邦人と
「放蕩して」とは、放蕩に生きて自分の思いのまま、肉の欲,目の
言った。)に行った。「放蕩して」
「放蕩して」
欲に生きて財産を湯水のように乱費した。
14 彼の生き方の愚かさが露呈される。金がなくなると共に楽しみは消え,彼を助け起
「大ききん」は彼が予期しなかったことだが、それも襲ってきた。
す友も消えた。「大ききん」
「大ききん」
「豚の世話」をさせて、弟は食いつなぐことに
15 「その国のある人」は異邦人が弟に「豚の世話」
「その国のある人」
「豚の世話」
なる。「豚」は当時のユダヤ人が最も忌み嫌った不浄の動物である。彼はユダヤの良
家の息子が決してなし得ぬ仕事「豚の世話」に従事する羽目になる。
16 「いなご豆」は貧しい人は食用にするが,当時はそれが「豚の食べる」
「豚の食べる」えさだった
「いなご豆」
「豚の食べる」
「彼に与えようとはしな」い孤
という点.豚のえさすらも食べたいと思う惨めさと、誰も「彼に与えようとはしな」
「彼に与えようとはしな」
独だった。だれも彼に手を差し伸べてくれなかったのだ。
「私の」父のと
17 「我に返ったとき」、彼は自己の状態に目覚めると共に,帰るべきは「私の」
「我に返ったとき」
「私の」
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ころ、だと気付く。
18 「立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたに
むかっても、罪を犯しました。」「立って」「
「立って」「こう言おう」
こう言おう」は悔い改めをするとき決断を意
むかっても、罪を犯しました。」
「立って」「
こう言おう」
味する。悔い改めとは、自分の行いや過ちを悔いて改めることだ。
19 自己の無価値なることを認めるへりくだりの言葉である。「あなたの子」として甘え
るのではなく,「雇い人のひとり」として父のために働こうと決意する
20 息子は決意を実行に移すべく、立ち上がって「立って」自分の父のもとに行った。
「ところが」以下は,息子の悔い改めに先行する父の愛と赦しの備えが描かれる.父
の行動は,赦しと交わりの回復のしるし.言葉なき行為は一層父の深い愛の感動を
物語る。「かわいそうに思い」はこのたとえの根幹をなす重要な言葉である。
21 息子は用意した言葉(18‐19)を言うが,父は最後まで言わせない.父の愛が悔い
改めた息子の過去の罪を覆うのである。
22 父は息子を最愛の子として扱う。「一番良い着物」を着ることはその人の社会的
地位を表す。「指輪」は印章にも用いる指輪で,権威を表す。「くつ」は自由の象徴で
ある。当時、奴隷は靴を履かなかったからである。
23 父の喜びが「祝宴」によって表現される.「肥えた子牛」は特別なもてなし用に飼
育されたもので,宴会の盛大さを物語る。
24 父自身による祝宴の開催の理由説明である。「この息子」は「死んでいた」が「生き
返り」、「いなくなっていた」「見つかった」と対句をなしている。父の喜びは大変なもの
だった。放蕩息子が帰ってきたからである。
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25‐26 後半は兄息子の話である。 兄は働き者である。しかし、「畑」は父が死ねば
兄息子の畑となる。働き者の長男に祝宴開催通知が届けられなかったか、その理由
は語られない。言えることは、父と同じく弟の帰りを待っていれば、以下のようなことは
なかったはずである。
27‐28 しもべは兄に「あなたの弟さん」が帰還したことを告げ,「あなたのおとうさん」
が開いた喜びの祝宴であると説明する。しかし、兄はすねたのである。「父が出て来
て,いろいろなだめてみた」は,弟息子を出迎えた姿に対応する。
29‐30 兄の不満と批判の言葉が続く。彼の言葉には父への感謝と尊敬の念が欠落
している。また,彼は父へは不満と批判を,弟へは断罪と軽蔑の言葉を向ける.彼に
とって父との絆は,愛と信頼ではなく,「仕え」ることと「戒め」を守ることであった.「仕
え」るはユダヤの言葉では、奴隷として仕えるという語で「しもべ」(22)の延長の言葉
である。自分は「子供」のようにではなく、「しもべ」のように忠実に仕えてきた,あるい
は「長年の間」自分は親の「奴隷」だった,とでも言うかのようである.「子山羊 1 匹」は
「肥えた子牛」に比べはるかに安価なのに,それすらくれなかった,と父をなじる.彼
はまた弟を「私の弟」と呼ばず「このあなたの息子」と呼ぶ。もはや、親子関係、兄弟
関係は、兄のなかでは崩壊している。
31 父にとって兄もまた「子」であって,「奴隷,しもべ」ではない.父は兄をとがめず
「いつも私といっしょにいる」ことを気付かせようとし,更に全財産をやるつもりだと告
げる.父は兄を愛してこう言うのだが,兄には父の愛がわからない
32 「おまえの弟」は,30 節の兄の言葉「このあなたの息子」と対照的である。「楽しん
で喜ぶ」理由が述べられているが、これは 24 節と同じ「死んでいたのが生き返って来
たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではない
か」。この意味は以下で解説することにしよう。
8
このたとえの中身は、このように汲み取ることができます。
この聖書42巻目、ルカの福音書にある、イエスが語られたこのたとえ話を、明治の
文豪芥川龍之介が、世界第一の短編小説と絶賛した。龍之介もまた、多くの短編小
説を書いているが、この短編があまりにも素晴らしかったからだろう。
しかし、聖書の中身は小説ではなく、「神の言葉」であり、神の言葉を通じて人間に何
かを教えようとしておられるのだから、龍之介の指摘は正確でない。イエスはこのたと
え話をもってなにを人間に教えたかったのだろうか。
まず、登場人物だが、父と息子2人(2人兄弟)だが、たとえの「父」は聖書の神であ
る。「息子」二人は特定の人間では我々一般の人間を指している。そして、弟の話(物
語)と兄の話(物語)がセットになっている。
このたとえ話しは、よく教会で牧師等の説教の題材に用いられ、多くの場合、弟の話
で終わっていることがあるが、これは正しいこのたとえの用い方でない。あくまで、兄
弟の話が1セットなのである。1セットでイエスはなにかを教えたかったのである。
そして、前半の弟の話は、多くは「放蕩息子」の話として語られている。この放蕩息子
は、じつは、神を信じる前の人間の例である。別の表現だと、神を信じる人間=クリス
チャンになる前の人間の姿である。
人間、すなわち我々人間は神を信じる前は、全ての人間が、それぞれが自分勝手な
生き方をしていた。すなわち放蕩な生活をしていた。多くの場合、お金を神として、ま
たは、自分を神として、自分の好きなように人生を歩んできた。自己中心の生活を送
っていた。神から離れて生きてきた。それを聖書では、「罪」と言い、罪ある人生を歩
むと言う。
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しかし、人はみんな、人生の難問題に出会う。自分で解決できない問題に出会わす。
罪のあらわれである。このとき、選択肢は、二つ。今まで人生を繰り返し、古い道を歩
むのか、過去の自分の人生に見切りをつけ新しい道を選ぶかである。お金や自分を
神としてきた同じ道を歩むのか、今度は文字どおり父である神の元に帰るのかであ
る。罪ある人生に見切りをつけるかである。
神の下に帰るための条件は要らない。しかし、悔い改めることは必要だ。なぜなら、い
ままでの自分を捨てるのだから、捨てることを決意する必要があるからだ。聖書の世
界では、難しく罪の悔い改めという。罪とは神から離れること、神から的(まと)がそれ
ることをさすが、神の元に立ち返りることが必要なのだ。神という的にまっすぐになる
ことである。
弟は、悔い改めて神である父の元に帰ってきた。これが17節から20節。このときの
神の喜びようは21節から24節に表されている。神は我々人間が、悔い改め、神の元
に帰ることを今か今かと待ち焦がれておられる。
「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り
寄って彼を抱き、口づけした。」20節の表現は神の我々人間に対する姿を端的に表
しておられるのだろう。神はいつも、いつまでも待っておられるのだ。神はいつも我々
を愛しておられるのだ。
実に前半の話は、現在放蕩息子である、または過去そうであった、我々人間が神に
救われ、愛されている姿を見ることが出来る。これを聖書では、「人間の救い」と言
い、そのための「悔い改め」と言う。前半までのたとえは,父である神が,悔い改めて
神の元に帰って来る罪人である人間を喜び迎えて下さる姿を語っているのである。
つぎに後半の兄のたとえ話である。これはなかなか難しい内容が含まれている。内容
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は端的に言えば、神を信じた後の人間の話である。
このたとえ話しをなされたイエスが住む当時のユダヤ地方では、パリサイ人や律法学
者といわれる人たちがいた。その人たちが兄と同だとイエスはたとえたのだ。パリサイ
人や律法学者とは、神を信じるには信じたが、彼らは神=父に対する態度は、子とし
ての喜びの態度ではなく、奴隷として「仕え」、神の愛を「戒め」と形式的に厳格に杓子
定規に受け止め、ただそれを苦しみととらえ、喜びなく守っていたに過ぎなかったので
ある。
戒めを聖書では、「律法」というが、もともと神の愛のあらわれであるのに、これを人間
を縛る厳格な戒めをとらえることから、その行いの一切があったのである。
兄の忠実さは、うわべのものだった。二心(ふたごころ)あるものだった。
このようなパリサイ人や律法学者といわれる人たちに対する警告だけでなく、この20
00年前のパリサイ人や律法学者とおなじような態度は現在の聖書の神を信じた人=
クリスチャンの中にもいるのではなかろうか。これもイエスの問いかけである。イエス
の救いをただただ形式的外見上のみうけとめ、神からの愛を100%受けとめることが
出来ないのである。「全部おまえのもの」なのに。
クリスチャンになったのに特別なにも良いことがない、なかったなどぶつぶつ不平や
不満を言っていないだろうか。新しくクリスチャンになった人を心から喜んで迎えてあ
げられるだろうか。いまだそうでない人のために祈ることができているだろうか。
イエスの救いを福音と言うが、この福音は我々人間のためイエスが十字架にかかっ
てくださり罪を身代わりに負ってくださったことを言う。我々罪人のために十字架にか
かってくださったイエス、そして、罪人であったことから、救われ、解放された喜び、こ
れで、神の国、天国が我々人間のものになったのだ。これほどの喜びは他にあるだろ
うか。
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「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部おまえのもの
だ。」(31節)神といつもいる喜び、それはこの世にあっても、死んであの世にあっても
神と共にいる、すなわちこれが天国なのだがそれを忘れていませんか。がイエスの問
いかけである。
後半の兄のたとえ話は、当時のパリサイ人や律法学者といわれる人たちだけでなく、
神を信じた後の、人間に対する基本的な心構えを警告しているのである。しかし、神
の愛は弟と同じく兄にもあることを忘れてはならない。
このたとえ話しはあくまで、兄弟の話が1セットなのである。神を信じる前の人間への
「神の愛」、信じて後も変わらぬ「神の愛」、それに対する神への応答、早く神と、神の
愛を、信じなさい、信じた後もいつも神を信じ、愛せよとの、神=イエスの愛のメッセー
ジである。われわれはいつも神に愛されているのである。
われわれ人間は神に
愛されるために
生まれてきた。
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聖書には別の箇所でこのような言葉があります。
わたしの目には、
あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
旧約聖書(新改訳第2版) イザヤ書43章4節
「わたし」とは聖書の神のこと、「あなた」とはわれわれ人間のこと。
聖書には、我々人間に対する神の愛の言葉が無数にありますが、
少し見ていきましょう。
イエスは「愛」については、聖書の中で
イエスは「愛」については、聖書の中で以下のようにも言われて
います
新約聖書・マタイの福音書より
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害
する者のために祈りなさい。
マタイの福音書 5 章 44 節
「わたし」とはイエスのことです。
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新約聖書・マタイの福音書より
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽く
して、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それ
と同じようにたいせつです。
マタイの福音書 22 章 37 節~39 節
この2つの戒めがゴールルール(黄金律)と言われています
新約聖書・ルカの福音書より
しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの
敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。
自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあ
るでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。
ルカの福音書 6 章 27 節~32 節
敵をも愛する愛が本物の愛です
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新約聖書・ルカの福音書より
だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。とい
うのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、
少ししか愛しません。』」
ルカの福音書 7 章 47 節
こころを尽くして、思いを尽くして、力を尽くして愛すること
新約聖書・ルカの福音書より
イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読
んでいますか。」
すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を
尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自
身のように愛せよ。』とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、
いのちを得ます。」
ルカの福音書 10 章 26 節~28 節
この2つの戒めがゴールルール(黄金律)と言われています
15
新約聖書・ルカの福音書より
しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を
しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を
愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなた
がたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
ルカの福音書 16 章 13 節
あれもこれもでは本当の愛を得ることはできません
新約聖書・ヨハネの福音書より
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、こ
れがわたしの戒めです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも
持っていません。
ヨハネの福音書 15 章 12 節~13 節
イエスこそ愛の具現者です
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また聖書にはこんな箇所もあります。
愛する者たち。私たちは、互いに愛
する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛
し合いましょう。愛は神から出ている
のです。愛
のです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛
のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得さ
せてくださいました。ここに、神の愛
愛が私たちに示されたのです。
せてくださいました。ここに、神の
私たちが神を愛
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛
したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のため
があるので
に、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛
愛がある
ので
に、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに
す。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛
する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私
たちもまた互いに愛
たちもまた互いに愛し合うべきです。
愛には恐れがありません。全き愛
には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れ
には刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛
愛は、全きものとなっていな
には刑罰が伴っているからです。恐れる者の
いのです。
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私たちは愛
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛
しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目
に見える兄弟を愛
に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛
していない者に、目に見えない神を愛することはできま
せん。
する者は、兄弟をも愛
すべきです。私たちはこの命令をキリストか
神を愛
愛する者は、兄弟をも
愛すべきです。私たち
はこの命令をキリストか
神を
ら受けています。
新約聖書 ヨハネの手紙第1 4章7節~11節 18節~21節より
聖書には「愛」について書かれた箇所は、
数え切れないくらいあります。
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