<主の言葉に従って> 2013 年 6 月 23 日 創世記12:1-9節 昨日、カンボジアの首都プノンペンで開かれた国連のユネスコの世界遺産委員会によ って富士山が世界文化遺産として決定された事は嬉しいですね。私は 1985 年の夏、Ja pan ファウンテ―ションの招きで新宿のサンルートホテルに泊まりながら日本語教 育の研修を 7 週間、受けて最後のスケージュル―として富士山の五項目までバスで行っ てみて 2010 年 8 月に金テヨン先生とソウルウリム教会の青年たちと共に富士山に祈りに 行きました。今年の 8 月 15 日にも聖書通読の先祖のような朴スナム先生の一行が日帰り で祈りの計画をしていますが、私はどうするか、と思っています。先ほど素晴らしい特 別讃美を捧げたオーラさんはそのニュウスを聞いたら、如何でしたか。私は大学で日本 語教育科を選んでから 38 年、日本人伝道及び牧会のために日本に来てから 13 年、日本 の神学校を卒業して日本語説教をしてから 8・9 年目になる、昨日の夜、銭湯のテレビの ニュウスを通して、富士山が世界遺産に登録されたと言うニュースを聞いて嬉しくなる 私を発見しました。しかしながらも渋谷教会で礼拝を捧げているアメリカ人・韓国人の ために、来月 7 月~来年 7 月まで、この教団の伝道プログラム支援の礼拝堂整備費(せ いびひ)の中で 20 万までと言う音響設備整備費を申し込んで通訳機、受信機 2 万円×6・ 7 台、送信機 1 台を購入し、来年の秋、当教会「伝道開始 50 週年感謝記念礼拝」の時、 使いたいのです。礼拝堂の後方か、キッチンの方で通訳者が小さな声で通訳しても最近 は機械の性能がよいので、よく聞こえるのです。 先ほど共に聞きましたところは、信仰の先祖と言われるアブラハムが、いよいよ歴史 の表舞台に登場するところです。創世記は 1 章から 11 章まで原初史と言って、人類全体 の共通の歴史を語り、12 章からは地上の無数の民族からイスラエルと言う一民族の歴史 が始まります。創世記における歴史を二つに分ける時、その境となるのがこのアブラハ ムの登場と言う事になります。 アブラハムの話は 11 章の後半から、25 章まで続きますので、アブラハムと言うユダ ヤ教徒もキリスト教徒も、自らの信仰の原点として位置づけています。 それではアブラハムと言う人が表舞台に登場する背景について、もう一度振り返って みる事にします。11 章 26 節によると、アブラハムはテラと言う人を父親とし、3 人兄弟 の長男として生まれました。ここではまだアブラハムの名前は「アブラム」となってお りますが、これが本名と言うか、親から与えられた名前で、後に、17 章 5 節で神様によ って、「多くの国民の父」と言う意味の「アブラハム」という名前に変ります。 ですから、ここでは便宜上「アブラハム」と呼ぶ事に致します。 アブラハムの出生地(しゅっせいち) は、11 章 28 節によると、カルデアのウルでした。カルデアのウルと言う地域は、聖書 かりゅう の後ろの地図の1を開いてみれば分かりますが、ユーフラテス川の下流、今のイラクの 1 国土の東南の方でしょうかね、ペルシア湾に近いところです。このウルと言う地域がア ブラハムの生まれ、育った故郷ですが、皆様もご存知のように、このユーフラテス川沿 いは、世界 4 大文明の発祥地の一つです。ウルはこのユーフラテス川沿いの大都市です。 そこには都市の文明がありました。つまり、権力の集中があり、富の集中があり、神々 を拝む巨大な塔が建てられていたのです。特にその町は、月を神として拝む町でした。 テラとその子供たち、つまりアブラハムの兄弟達はその月の神を拝んでいた事がヨシュ ア記の 24 章 2 節に書かれています。 そのようなウルで住んでいたある日、アブラハムの父テラは、生まれ故郷、慣れ親し み、土地も家もあるウルを離れます。何故、離れたか、その理由は知るすべがありませ ん。11 章 28 節には、息子ハランが先に死んだ事が書いてありますし、妻の名前が出て こない事から、その妻も既に死んだと考えられます。こういったものが旅立ちの一要因 であったかどうか、は分かりません。けれどもこれはただ私達の想像に過ぎません。 31 節によると、テラは、アブラハムとその妻、そして父親を亡くした孫のロトと 4 人 で旅立った事が分かります。次男であろうナホル家族は同行しておりません。4 人はカ ナン地方を向かって旅に出ます。カナン地方と言うのは、今のイスラエルです。その地 方に向かっての旅立ちです。彼らの旅の経路からすると千数百キロの距離です。先ほど から繰り返し申し上げておりますが、この旅の理由は分かりません。 年老いた父と 30 節によると、不妊のゆえ、親になれない夫婦、そして父を亡くした子 供。彼らはそれまでの自分を形作り、支えてもいた、何もかもを捨てて、未来に展望が あるわけでもない旅に出たのです。そして旅路の途中のハランでテラは死にます。残さ れた者は、親のいない子供と親に成れない夫婦です。彼らは、その地で、ただ沼(ぬま) で生きる以外にない人間でした。未来に繋がるものは何もないのです。 これがあの天地創造から始まった壮大(そうだい)な人類の歴史の終わりの姿なので す。輝きと喜び、祝福と交わりに生きる命に満ち溢れていた創世記 1 章は、暗い悲しみ、 呪いとしに覆われた孤独な家族の姿で終わろうとしているのです。彼ら自身は自分の力 で自分の未来を切り開く事は出来ないからです。人は命を創り出す事は出来ず、死に打 ち勝つ事も出来ないからです。 その時、主なる神様が、再び呼びかけるのです。闇と混沌が覆っていた世界に「光あ れ」と呼びかけられた神様が、今、アブラハムに呼びかけるのです。前回、山崎さんが お読みになった 12 章 1 節から 3 節までを、もう一度お読みいたします。 「主はアブラムに言われた。 『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて私が示す地に行きなさい。 私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。 2 祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。 地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。』」 ここに繰り返されている重要な言葉が2つあります。神様ご自身を指す「わたし」、と 「祝福」と言う言葉です。死と呪いが覆っている世界に、神様ご自身が命と祝福を回復 させると約束して下さっているのです。その全世界の祝福の源として、子供がいないア ブラハムをお選びになったのです。そして、故郷を捨て、父の家を離れて、神様が示す 地、それがどこだか、分からなくても、その地がある事を信じて旅立つ事をお求めにな ったのです。 神様がアブラハムにお求めになったもの、それは、それまでの生き方を変える事でし た。地上の拠り所としていたものから離れ、すべてを神様に委ねて一方を踏み出せと言 う招きです。そして、この招きには約束が伴っています。新しい命を与えると言う約束 が伴っているのです。それは具体的には 7 節にありますように、「あなたの子孫にこの 土地を与える」と言う約束です。 子供がいない、また土地など全く持っていない単なる旅人に過ぎない人間に、このよ うな約束をして、その約束を信じろと神様はおっしゃるのです。つまり、この約束を信 じて招きに応える人間を、今、神様は新しく創り出そうとしておられるのです。 アブラハムとサライ、彼らは海辺に無数にある砂粒(すなつぶ)のような存在です。 風が吹けばどこへ飛んでいったかも分からないような存在です。一粒や二粒、いや、ト ラック一台分の砂が無くなったって海辺の景観は少しも変りません。しかし、神様はそ の一粒のような人間、一組(ひとぐみ)の夫婦を旅立たせる事によって、地上のすべて の氏族、つまり全世界の数え切れない人々を祝福していくと約束されるのです。神に背 き、結果として呪いの死の陰に生きているすべての人間を、祝福の命に生かす救いの御 業を始めようとしておられるのです。 このようなとてつもない(터무니 없는)約束を信じなさいと言うほうが無理かも知れ ません。約束を信じるからには、それなりの標(しるし)と言うか、担保(たんぽ)が 必要ですからです。しかし、アブラハムは「主の言葉に従って旅立った」とありますよ うに、この約束を信じ、そして、旅立ったのです。全存在を、神様の約束に委ねて旅立 ったのです。まだ見ぬ地に向かって、まだ生まれない彼の子供がいつか生まれ、その子 孫が多いなる国民によって全世界が祝福される事を信じて旅立ったのです。この信仰の 故に、アブラハムは私達・信仰者の父なのです。 信仰とは旅です。信仰はまだ知らぬところへと向かう旅を生きる事です。それまでの 自分のアイデンティティを形成してきたすべてのものを捨てて、全存在を神様に委ねて 3 生きる旅なのです。この地上の世界、人間が作り出す世界の中で安住し、自分で自分を 守りながら生きる事を断念し、神様が創り出し、完成して下さる神の都、天の故郷を 目指して旅を続ける事なのです。 結局は死んで終わるほかない世界の歴史の中に、つかの間、生きる事に固執するので はなく、神様と共に永遠の命に生きる事を望んで、神様のお招きに応えて生きる事なの です。この信仰を最初に与えられ、この信仰を生きた人、神の民、イスラエルの先祖と なったのが、信仰の父アブラハムです。 アブラハムの登場によって、世界の歴史は、全く新しいものとなったのです。この子 供がいない年老いた人が、神様の約束を信じ、その招きに答えて旅立った事によって世 界は祝福に向けて歩み出したのです。そして、私達はアブラハムの子孫として、約束の 相続人として神に選ばれ、教会も新たに信仰による旅立ちをするように招かれているの です。 次回の聖書通読の予定の部分であり、信仰について、はっきり教えられる個所、ヘブ ライ人への手紙 11 章 1-2 節、新約聖書 414 ページ、そして 415 ページの 8 節から 16 節 の御言葉を開いて見ましょう。新共同訳の場合は、新約聖書 414 ページです。先ずは 11 章 1 節と 2 節をお読みいたします。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。 昔の人達は、この信仰のゆえに神に認められました。」 そして、次のページ 8 節から 16 節まで、蓮香先生、お願い致します。 「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐ事になる土地に出て 行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束さ れたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固(けんご)な土台を持つ都を 待望していたからです。 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける 力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない 砂のように、多くの子孫が生まれたのです。 この人達は皆、信仰を抱(いだ)いて死にました。約束されたものを手に入れま せんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分達が地上では、よそ者 であり、仮住まいの者である事を公に言い表したのです。 4 このように言う人達は、自分が故郷を探し求めている事を明らかに表しているの です。 もし出て来た土地の事を思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれ ません。 ところが、実際は、彼らは更にまさった故郷、即ち天の故郷を熱望していたので す。だから、神は彼らの神と呼ばれる事を恥となさいません。神は、彼らのため に都を準備されていたからです。」 イエス様のご降誕、700 年前、イザヤ預言者はイザヤ書 53 章 4 節で、「彼が担ったのは 私達の病、彼が負ったのは、私達の痛みであったのに、私達は思っていた。神の手にか かり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と」十字架の受難を通して私達・人類が救 われる救済を予言しました。 今の日本は梅雨の時期ですね。当教会の蒸し暑い 7 月の御言葉はイザヤ書 40 章 31 節で す。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱るこ となく、歩いても疲れない」私達もイザヤ書の御言葉のように主に望みを置きましょう。 新たな力を得ましょう。鷲のように上りましょう。 今日の説教題「主の言葉に従って」アブラハムのように、信仰の旅を全うしようではあ りませんか。今の我らの目には素晴らしい未来が見えなくとも、ビジョンがは与えられ ています。私達は神の子であり、教会の頭はイエス・キリストだからです。神の御言葉 に従って天の故郷を熱望しようではありませんか。 お祈りしましょう。 5
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