講演資料

『太平記』の英雄達と『孫子』の兵法
『太平記』の英雄達と『孫子』の兵法
『孫子』で読み解く『太平記』
平成 25 年 11 月 9 日
海上知明
『太平記』
作者不明。全 40 巻。3 部構成で、後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡を描いた第 1 部(巻
1~11)、建武の新政の失敗と南北朝分裂から後醍醐天皇の崩御までが描かれる第 2 部(巻
12~21)、南朝方の怨霊の跋扈による足利幕府内部の混乱を描いた第 3 部(巻 23~40)か
らなる。軍隊の規模がやたらに大きく、誇大な表現が多い。『平家物語』に比べて悪文と
も言われている。同時代を生きた今川了俊が『難太平記』で誤りを指摘するなど問題も多
いが、合戦などの記述が詳細であり、、宋学の影響を受けた儒教的な大義名分論と君臣論、
仏教的因果応報論がみられている。
太平を求め君主と臣下を眺める
『太平記』と「孫子」
『源平盛衰記』に至るまで、日本の軍記物語には「孫子」の名は見えない
『太平記』が史上初めて「孫子」の名を登場させる
無礼講と称して玄恵法印の話を聞いた者達が、これからの時代に必要な書物として
『呉子』『六韜』『三略』とともに『孫子』の名があげる。
(「巻の一 無礼講の宴および玄恵法印の文学談義」)
「孫子千変の計略」(「巻の八 四月三日の合戦」)
文言としては
「良将は戦わずして勝つ」(「巻の六 楠勢天王寺へ出陣」)
しかし扱いとしては『六韜』『三略』の方に比重が
護良親王が学んだのは張良の剣の道
兵法は戦略というよりも戦術の奥義 「秘伝の書」を獲得した護良親王が活躍
→「張良伝説」
史実として、北畠顕家が「風林火山」と割菱を旗印に用いる
革命としての「建武の新政」
日本史上、もっとも長期にわたった内乱
敵味方がたえず変化し、文学部的視点では分析が困難
しかし、「革命」の視点ならば
中国......天命を革める
天子の子孫が徳を失った時、有徳の人に統治権が移
行
ヨーロッパ..revolution 一回転して元に戻る 循環論
では社会科学で言う「革命」は
社会を根本から変革すること、個人の価値観や生活まで、全体構造が変わる
←→クーデター....社会派変わらず支配視野のみ変わる
革命のためにどれだけの階層が動くかが変革の巨大さに
→様々な階層の不満を集結(例・フランス革命 貴族、農民、市民、プロレタリア)
後醍醐天皇の反乱
「延期天暦の治」という復古的体制をめざしながら社会構造の変化による勢力を
→西国武士と悪党
反乱への対処 初期においては徹底的な弾圧
正しかった鎌倉幕府の対処法
実効性と正統性
問題は軍隊の精強さ
文永11年(1274)の元寇の段階で露呈した「掛け合い戦術」の限界
「軍隊の性格は、その国の社会構造の反映である」コーリー『軍隊と革命の技術』
鎌倉幕府・・・「関東の原理」を守る政権
「武士」とは関東の開拓地主である関東武者
-1-
←→職能的存在であった西側の武士
革命とは政権奪取し、価値観までも変更しようとする反乱行為
第一の目標は政権打倒、そして新政権樹立、新政権の基盤固めと続く
地政学の要地 歴史上、何度も登場
天王寺近辺 「山崎天王寺合戦」、「石山合戦」など 5 度り合戦の舞台
さらに「平治の乱」でも
鎌倉幕府の衰退 経済発達による「関東の原理」支配の困難さ
貨幣経済の流通と商業の活発化に乗り遅れる
→ 東西対立の再燃
西国武士の再登場(平家以来)
土地と無関係の「悪党」
商人的武士としての悪党 勝つことを第一とする
←→農民的武士としての鎌倉武士 一定ルール内での土地争い
土地原理で制御できない悪党を新しい階級とみなすが・・・
西側による権力奪取と、朝廷による政権奪還
軍事政権とも言うべき鎌倉幕府と戦う際に、反乱が成功するには、鎌倉幕府を支えている
ところの、この安定した軍事力を上回る不満が糾合して集結できるか、その不満が一つの
軍事力として組織化できるか、その軍事力が様々な形で鎌倉幕府軍を上回れるか否か
後醍醐天皇は南都に移動。一方で後醍醐天皇は叡山に行幸したと大いに宣伝
↓
後醍醐天皇を狙ってきた鎌倉幕府軍を護良親王の指揮下、叡山でくいとめる
↓
その間に後醍醐天皇は諸国に「倒幕の宣旨」を配布する。
「建武の新政」に至る革命革命戦略
元弘元年(1331 年)9 月 10 日、楠正成の革命戦略献策。
正成自身は河内.赤坂において挙兵し、鎌倉幕府軍を笠置山と赤坂に分散させ、さらに
「倒幕の宣旨」を配布することで各地に反乱を起こさせて鎌倉幕府軍を分散させる。兵力
が分散されて本拠地が手薄僅かな兵の奇襲でも倒幕は完了する
おおもとに『孫子』が
「持久戦」と「遊撃戦」の展開
「たえず変動する長い戦線での作戦に用いるべき。中国の軍隊が勝利するには、迅速な
前進と迅速な後退、迅速な集中と迅速な分散というひろい戦場での高度の運動戦が必
要」毛沢東『我が遊撃戦』
①戦略的防御、②対峙、③反抗という3段階に運動戦、遊撃戦、陣地戦で対応
毛沢東『持久戦論』
遊撃戦の場合は、相互に連絡がとれない中で、個々の小集団が戦闘しなければならない
という状況を想定し
「敵進我退(敵が進撃してくれば退き)、敵駐我擾(敵がとどまれ ば攪乱し)、敵疲
我打(敵が疲れれば攻め)、敵退我追(敵が退けば追撃する)」と
つまり
「人を形せしめて我に形なければ、則ち我は専にして敵は分かる。我は専にして一とな
り、敵は分かれて十となれば、これ十を以って一を攻むるなり。則ち我は衆くして、敵は
寡し。よく衆を持って寡を撃たば、則ち吾のともに戦う所の者は約なり。吾のともに戦う
所の地は知るべからず。知るべからざれば、則ち敵の備うる所の者多し。敵の備うる所の
者多ければ、則ち吾のともに戦う所の者は寡し。故に、前に備うれば則ち後寡く、後ろに
備うれば則ち前寡く、左に備うれば則ち右寡く、右に備うれば則ち左寡し。備えざる所な
ければ、寡からざる所なし。寡きは人に備うるものなり。衆きは人をして己れに備えしむ
るものなり」『孫子』「虚実編」
-2-
『孫子』の優等生・毛沢東
ゲリラ戦・・・巨大な一つの戦線を作らず、小規模の部隊に分かれ、会戦を徹底して回避
して、小規模な襲撃と待ち伏せをもって戦争を継続する方法である。それは非対称な者同
士の戦いである
革命戦略 強大な権力に対し、反乱軍はどう戦うか
各地で群発的に放棄し、敵正規軍を分散させ、首都を丸裸にして奪取
鎌倉幕府に反対する諸勢力が各地で反乱を起こし、討伐軍を釘付けにし、あるいは翻弄し
その隙に鎌倉を攻略して政権を倒す
護良親王 各地に反乱を起こさせつつ革命軍を創設
楠正成、赤松円心 反乱によって鎌倉幕府を翻弄
革命戦略の中での戦術の役割
河内.赤坂城に楠正成は手勢 500 人とともに籠城。9 月 13 日、備後の一宮にて桜山四郎が
蜂起→小規模な反乱が続出
鎌倉幕府は本腰をいれて鎮圧に
20 万 7600 余騎
その前に笠置山は陥落
護良親王は離脱に成功する。「革命の布教者」として各地に革命の火を
楠正成の籠もる赤坂城に大軍が
奇策を弄する
10 月 21 日に城を陥落させ、自害したふりを装って落ちのび付近に潜伏した
正成は蜂起して抵抗し、大軍を引きつけて密かに撤退することを繰り返す
鎌倉幕府軍を疲労+革命の火は各地で
「天王寺合戦」
『孫子』を学んだとされる楠正成
大江家の第四十一代大江時親が教えた。十数度、『孫子』を読んだ
伝説レベル
しかし、実戦における楠正成の戦い方は『孫子』そのもの
戦略面における『孫子』の傑作
「戦わずして人の兵を屈する」
楠正成の役割
鎌倉幕府軍を分散させるため各地で戦闘を
大軍を引きつけて、都と鎌倉を手薄にする
反乱軍の強力さと鎌倉幕府の脆弱さの宣伝
元弘二年(1332 年)4 月 3 日 楠正成 河内国.湯浅城を奇襲
正成は敵方の兵糧が運搬されているところを襲撃し、運搬者になりすまして城中に
楠軍は7百騎にもなり、またたくまに和泉.河内の二ヶ国を平定
正成は四天王寺へ出陣して占領
鎌倉幕府は軍 5 千騎を派遣 楠軍は 2 千騎
正成は軍を三手に
中心部隊を住吉.天王寺付近に隠し
囮として 3 百騎を渡部橋の南詰に出して対峙→「釣り野伏」
前面の楠軍が小勢であることを確認した鎌倉軍は川を渡って進撃
なぜか撤退する楠軍 本来は「河の半渡」なのに
勢いに乗った鎌倉軍は天王寺まで攻め寄せる
「 餌兵は食らうなかれ(『孫子』「軍争篇」)」
鎌倉幕府軍はあらかじめ待機していた楠軍によって包囲されてしまう
天王寺の東からの1隊は敵を左手に受け
天王寺西門から別の1隊が魚鱗の陣で突撃し
もう一つの隊は住吉のまつの陰から鶴翼で包囲する
鎌倉幕府軍、慌てて撤退するも渡部川に一気に追い落とされてしまう
正成、六条河原に高札をたてる(敗戦は天下に宣伝) →鎌倉側に政治的動揺を
-3-
反乱側を鼓舞
急性アノミーの危機を見た鎌倉幕府は徹底鎮圧をはかる
→猛将・宇都宮公綱の派遣
「合戦の勝負必しも大勢小勢に不依、只士卒の志を一にするとせざると也。されば「大敵
を見ては欺き小勢を見ては畏れよ」と申す事是なり。先思案するに、先度の軍に大勢打負
て引退く跡へ、宇都宮一人小勢にて相向ふ志、一人も生きて帰らんと思者よも候はじ。其
上宇都宮は坂東一の弓矢取也。紀清両党の兵、元来戦場に臨で命を棄る事塵芥よりも尚軽
くす。其兵七百余騎志を一つにして戦を決せば、当手の兵縦退く心なく共、大半は必可被
討。天下の事全今般の戦に不可依。行末遥の合戦に、多からぬ御方初度の軍に被討なば、
後日の戦に誰か力を可合。「良将は不戦して勝」と申事候へば、正成に於ては、明日態と
此陣を去て引退き、敵に一面目在る様に思はせ、四五日を経て後、方々の峯に篝を焼て、
一蒸蒸程ならば、坂東武者の習、無程機疲て、「いやいや長居しては悪かりなん。一面目
有時去来や引返さん。」と云ぬ者は候はじ。されば「懸るも引も折による」とは、加様の
事を申也。夜已に暁天に及べり。敵定て今は近付らん。去来させ給へ。」(古典『太平記』
7 月 19 日、宇都宮公綱、単身で六波羅庁を出発
宇都宮軍団は柱本に陣を張って夜明けを待った
合戦と気追い込むが 正成は早々に天王寺から退却、楠軍は皆無
拍子抜けした公綱
正成、4~5 日の間、四天王寺には近寄らない
宇都宮軍に空虚感
実は
正成は野伏 4 千~5 千人に命じ天王寺周辺一帯を大きく包囲するような形で篝火を
途方もない大軍に包囲されているような錯覚にとらわれる宇都宮軍
三夜連続し、篝火の包囲の輪も徐々に縮まってくると・・・
7 月 27 日夜、遂に不安に耐えきれなくなって宇都宮軍は天王寺から撤退
翌早朝、正成がそれに入れ替わって再び天王寺を占拠
「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり(『孫子』「「謀攻篇」)」
拠点支配に拘らない正成、さらに千早城に移動
千早城周辺の要塞化
毛沢東の遊撃戦戦術
「誘敵深入(深く敵を誘い込む)」
正成、ゲリラ抵抗が可能な「聖域」兼「抵抗拠点」を形成
南河内一帯に多くの砦を築き、縦深陣地を構築
金剛山を大要塞化
最前線(前哨陣地)を構成するのが大ヶ塚から持尾に至る線
第二防衛線(前進陣地)に相当するのが下赤坂城を中心にした一帯
主防御線(本防衛線)が赤坂城(上赤坂)と観心寺を結ぶ一帯
詰めの城として千早城 赤坂城と千早城を結ぶ線は約 8 キロ
護良親王も
愛染法塔を本営にして吉野川南岸に4つの塁
第一次防御線が丈六平から薬師堂まで
第二防衛線が蔵王堂から金峰神社まで
鎌倉幕府軍
他に
-4-
関東から 30 万 7 千 5 百騎
四国からは軍船 3 百隻
長門国.周防国からは軍船 2 百隻
甲信地方からは 7 千騎
北陸からは 3 万騎
総勢 80 万騎『太平記』
48 万騎『神明鏡』
5 万騎『保暦間記』
優れた軍法 決して堕落していない鎌倉武士(一騎打ち的な意味で強力)
「一、合戦の陣頭において先陣争い統制を乱す者は不忠とす。
一、主人が負傷しても退くな、親子、孫が命を落としても退かず戦勝せよ。
一、押買、押捕などの狼藉を禁ず。
一、王塔宮護良親王を逮捕、誅殺した者には近江国麻庄を賜る。楠正成を誅殺し
た者には丹後国船井庄を賜る」
千早城の攻防
元弘三年正月、阿曽治時率いる正面軍 8 万騎が河内道から赤坂城(上赤坂)へ
大仏高直率いる側面軍 20 万騎が大和道から 金剛山千早城へ
二階堂出羽入道率いる一手 2 万 7 千騎は吉野城へ
戦略と戦術としての攻城方法は単純かつ単調→ひたすら直進しての突撃
上赤坂方面(赤坂城)での死傷者は 1 日で 6 百人→水源を断
千剣破城(千早城)では 2 月 28 日に死傷者千 8 百人に
吉野でも攻城軍の死者は 8 百人、重傷者数知れず→岩菊丸
千早城 楠木軍約千人
鎌倉幕府軍百万人
『太平記』
正成は城近くまで引き寄せた上で、櫓から大石や大木を次から次へと落す
水断ちに対して、正成はあらかじめ城内に水槽を2、3百も作らせて貯水
何日も水くみに来ないことに見張りをおろそかにした頃、射手 2~3 百人に夜襲を
正成は奪い取った名越家の旗を城に持ち帰ってはやし立てる
寄せ手が激怒して押し寄せ、大木転がし攻撃で 4~4 百人が圧死、5 千人が射殺
千早城の城壁は2重に、攻め寄せた幕府軍は外側の壁を倒され 6 千人も谷底に
長崎高貞は「兵糧攻め」に切り替える
正成は、甲冑を着せた藁人形を城の麓に並べる
寄手は、城兵が決死の覚悟で打って出てきと勘違い
慌てて城に攻め登り、大石が落ちてきて 3 百人が即死、5 百人が重傷を
幕府軍は巨大はしごを倒し架け、城内に突入しようとする
千早城からたいまつと油がまかれ、火矢が放たれ大混乱の中、橋は落ちていく
なんと百日間も戦い、大兵力を釘付け
その間に西国の軍事力が使用できない状態が赤松円心の活躍によって
同じように籠城軍が活躍しながらも
←→上田城
なぜか
戦略そのものの達成に貢献できた
加速する革命戦略
元弘3年(1333 年)1 月 21 日、播磨.佐用庄苔縄城にて赤松円心(則村)が挙兵する
円心は杉坂と山野里に関所を設けて山陰.山陽を遮断。情報遮断によって西国には鎌
倉幕府の命令が思うように届かなくる。鎌倉幕府の命令で完全に後醍醐天皇側と敵対する
勢力は日本の半分、東国だけとなり、遮断された先の西国では叛乱が相次ぐ
四国.伊予にて河野氏が大規模な叛乱を、九州では菊池武時が叛乱を起こす
→叛乱の加速が、「悪党」から西国豪族にまで進んだ
楠木正成、南河内一帯に多くの砦を築き、縦深陣地を構築
鎌倉軍 80 万騎『太平記』、48 万騎『神明鏡』、5 万『保暦間記』
正成は南河内一帯に多くの砦を築き、縦深陣地を構築していた。最前線(前哨陣地)を
構成するのが大ヶ塚から持尾に至る線で、第2防衛線(前進陣地)に相当するのが下赤坂
城を中心にした一帯、赤坂城(上赤坂)と観心寺を結ぶ一帯が主防御線(本防衛線)であ
り、詰めの城として千早城があった。赤坂城と千早城を結ぶ線は約 8 キロ。護良親王は愛
染法塔を本営にして吉野川南岸に 4 つの塁が築かれ、丈六平から薬師堂までを第一次防御
線、蔵王堂から金峰神社までが第二防衛線を形成。
赤坂城と吉野は陥落。楠木軍は約千人の兵で千早城に立て籠もる
-5-
西国遮断という積極的防御しつつ、円心、東進を開始
千早城に兵力をとられている鎌倉幕府軍は、平安京に大きな兵力を駐屯させておくこ
とはできなかった。なにしろ本拠地.関東でさえも兵力は稀薄になっている。
「将校の意思にさからって兵隊を解体させることができる唯一の溶剤は、大規模戦争によ
る敗戦である」コーリー『軍隊と革命の技術』365 ページ
足利尊氏、六波羅府を落とし、新田義貞、鎌倉を落とす
→旧体制内での不満分子の加担
革命の武装化の失敗
建武の新政なるが・・・
「すべての武装された予言者は征服し、武装されざる者は滅亡させられてきた」
マキァヴェリ『君主論』第 6 章「自らの軍備と力量で獲得した新しい君主政体について」
唯一の正統性と、それが認める唯一の軍事力。軍事力が一つしかなければ政権を他に脅か
す存在はなくなる。護良親王はそれを理解していた。天皇直属の軍隊の必要性、そしてす
べての軍事力がそれにのみ集約されている体制を。征夷大将軍となった護良親王は自らの
勢力圏である吉野に居た。大和.信貴山の毘沙門堂にあって護良親王は諸国の軍勢を集め
ていく。元弘3年6月3日の日付で護良親王のもとにはせ参じたのは近畿の兵を中心に「天
下の大半」となったと『太平記』には期されている。基盤である大和、紀州はむろんのこ
と、護良親王は少なくとも近畿の軍事力の掌握に成功
しかし、売られた護良親王
革命の急進化を恐れる人たち
思想家→戦略家→技術者
旧権力の叛乱
体制内右派の離反
新権力の登場(revolution)
これ以後、足利内の権力抗争に南朝がバランサーとして介入するだけに
君命を受けた段階で『孫子』的でなくなった楠正成は「湊川合戦」で敗れる
-6-