き ょ う ど し り ょ う 岩手県立図書館 子ども向け 郷土資料 vol.1 きんだいち きょうすけ 金田一 京助 きょうど 「 郷 土 」とは 生まれ育った ふるさとの こと! きょうど 「 郷 土 」の ことをたくさん 知ろう! そんなことないよ! 昔の人のことなんか 昔があるから今があるんだ。 知らなくても 大事な事なんだよ!! よくない?! ブラリー そめちゃん それはね… 1 2 3 4 ポストン 大人の話は むずかしいので わたし 私 たち子ども向けの しりょう 資 料 を作ったよ♪ いっしょ 一 緒 に見ていこう! 目 次 きんだいちきょうすけ 金田一 京 助 ってどんな人? 1 きょうすけ 少年時代の 京 助 2 文学へのめざめ 3 もりおか 盛 岡 中学のなかまたち きょうすけ 4 たくぼく 京 助と 木 5 けんきゅう アイヌ語 研 究 の道へ 9 きょうすけ 京 助 がのこしたもの 12 まとめ 13 きんだいちきょうすけ じけんぼ 金田一 京 助 の事件簿 15 きんだいちきょうすけ 金田一 京 助 年表 16 さんこうしりょう 参考資料 18 きょうりょく 協 力 20 もりおかしせんじん きねんかん 表紙写真提供:盛岡市 先 人 記念館 0 き ん だ い ち きょうすけ 金田一 京 助 ってどんな人? きんだいち きょうすけ 金田一 京助 めいじ (明治15 年(1882)5 月 5 日~昭和 46 年(1971)11 月 14 日) 日本を代表する言語学者の一人。アイヌ語の研究で有名。 いしかわたくぼく 歌人・石 川 ていこく おんし 木 の親友としても知られている。 う え だ かずとし きょうみ 東京 帝 国 大学時代、恩師・上田 万 年 のみちびきにより、アイヌ語に興 味 をもつ。 じょじし けんきゅう かんこう 昭和 6 年(1931)、『アイヌ叙事詩ユーカラの 研 究 』を刊 行 。 よくとし ていこく がくしいん お ん し しょう じゅしょう 翌 年 、帝 国 学士院恩賜 賞 を 受 賞 。 ぶ ん か くんしょう じゅしょう また、昭和 29 年(1954)には岩手県出身者としては 2 人目となる文化 勲 章 を 受 章 した。 じてん へんさん て が 国語辞典や教科書の編 纂 を手掛けたほか、 しん ぎ かい げんだい せいてい こうけん 国語審 議 会 委員として現 代 かなづかい制 定 に貢 献 。 昭和 46 年(1971)、家族や友人たちに見守られながら 90 才で死去。 め い じ き ん だ い ち きょうすけへん 明治~昭和にかけて 金田一京助 編の じ て ん かつやく 国語辞典がたくさん じ ょ じ し 『アイヌ叙事詩 言語学者 けんきゅう ユーカラの研究 』を アイヌ語を研究 書いた 昭和 29 年に ぶ ん か くんしょう いしかわ た く ぼ く じゅしょう 石川 文化勲章を受章 1 木の親友 じだい きょうすけ 少年時代の 京 助 きんだいち け か け い ず りゃくず 金田一家の家系図(略図) 家 寿 い え ひ さ 六 郎 ろ く ろ う 梅 子 う め こ 他 人 お さ と 直 衛 久く 米め の 之す 助け ヒ サ な お え ヨ シ 安 三 や す ぞ う 次 郎 吉 ヤ ス 京 ょう 助 すけ くめのすけ 京 助 のお父さん・久米之助は、 伊 門 リ ヨ 直な お 哉や きんだいち け 勝か つ 定さ だ り う ヨ ネ じ ろ う き ち き きょうすけ リ セ 国く に 士お 静し ず 江え 春は る 彦ひ こ 金田一家に、おむこさんにきた人なんだ。 きんだいち 「金田一」というのは、 お母さん(ヤス)のほうの 秀ひ で 穂ほ 名字なんだよ。 きんだいちきょうすけ めいじ もりおか 真ま す 澄み 美み 奈な 子こ よ つ や 金田一 京 助 は、明治15 年(1982)5 月 5 日、 盛 岡 市四ツ谷町(いまの本町通)に、父・ くめのすけ じろうきち 久米之助と母・ヤスの長男として生まれました。1 才になる前に弟の次郎吉 が生まれたため、 きょうすけ う ば う ば 京 助 はしばらくの間、乳母のヤエさんのところへあずけられることになりました。乳母と ちち は、お母さんのかわりにお 乳 をくれる人のことです。ところが、ヤエさんはとてもきびしい きょうすけ 人で、お父さんやお母さんに会いたくなった 京 助 は、2 才の時に家にもどってきてしまい じろうきち ます。お母さんは、まだまだ小さい次郎吉についていなくてはなりませんでしたので、夜、 きょうすけ くめのすけ おさない 京 助 といっしょにねてくれたのは、お父さんの久米之助でした。お父さんは、絵 きょうすけ や習字がとても上手な人でした。そんなお父さんににて、 京 助 も絵がうまく、大きくなっ たら絵かきになりたいと思っていたそうです。しかし、中学 1 年生のときにけがで中指とく すり指が曲がらなくなってしまい、思うように絵がかけなくなってしまったのです。もとも きょうすけ ねっちゅう と本を読むこともすきだった 京 助 ですが、けがのあとはいっそう読書に 熱 中 するように なりました。 2 文学へのめざめ きょうすけ お じ かつさだ くら きょうすけ 京 助 の伯父さん・勝 定 の家には、本をしまっておくための大きな 蔵 がありました。 京 助 お じ お じ がかりにいくと、伯父さんはよろこんでその中からいろいろな本をかしてくれたそうです。伯父 きょうすけ さんのおかげで、 京 助 は子どものころからたくさんの本を読むことができました。 ていこくだいじてん きょうすけ 中学 1 年生のときにお父さんにたのんで買ってもらった『 帝 国 大辞典』は、 京 助 がはじめ じてん じてん て読んだ国語辞典です。辞典をひらいてひとつひとつの言葉を調べることは、まるで知らない国 めいじ しまざきとうそん しじん を旅するような楽しさがありました。そして明治30 年、 島 崎 藤 村 【詩人・1872 – 1943】の わかなしゅう きょうすけ 『 若 菜 集 』という詩の本が出ます。さっそく買って読んだ 京 助 は、そのすばらしさに感動し かめい がごう て、自分でも短歌を作るようになりました。中学校の上級生になるころには、 「花明」という雅号 よ さ の てっかん (ペンネーム)で作った短歌が、有名な歌人・与謝野 鉄 幹 【1873 - 1935】が中心となって出 ぶんげいざっし ぶんこ みょうじょう していた 文 芸 雑誌『文庫』や『 明 星 』にとり上げられるほどになりました。 こんな本を 読んでいたよ! ていこく だいじてん しまざきとうそん 『帝国 大辞典』 さんせいどうしょてん 三省堂 書店 お じ 1896 年 きんだいち わかなしゅう 島崎 藤村 『若菜集 』 しゅんようどう 春陽堂 1896 年 かつさだ 伯父 金田一 勝定 【1848 - 1920】 きんだいちかつさだ きょうすけ きょうすけ 金田一 勝 定 は、 京 助 のお母さんの兄、つまり 京 助 にと お じ もりおかぎんこう いわてけいべんてつどう っては伯父さんにあたります。 盛 岡 銀 行 や 岩 手 軽 便 鉄 道 、 もりおかでんきかぶしきがいしゃ 盛岡電気 株 式 会 社 など、たくさんの会社を作り、その会長や はってん 社長もつとめました。岩手県の 発 展 につくした人です。 かつさだ きょうすけ きょうすけ 勝 定 は 京 助 をとてもかわいがっていました。京 助 の勉強 をはげまし、また、アイヌ語を調べるために北海道へ行くこと きょうすけ になったときも、進んでお金を出してくれるなど、 京 助 の研 りかいしゃ 究をささえてくれた理解者 の一人でした。 もりおかしせんじんきねんかん 画像提供:盛岡市 先 人 記念館 3 もりおか 盛岡中学のなかまたち めいじ きょうすけ もりおか もりおか 明治29 年(1896)、 京 助 が 14 才で入学した岩手県立 盛 岡 中学校(今の岩手県立 盛 岡 第一 そつぎょう 高等学校)。19 才で 卒 業 するまで、なかまたちといっしょに学びました。 もりおか ◆ 盛岡中学黄金時代 きょうすけ もりおか ないかくそうりだいじん 京 助 が入学したころの 盛 岡 中学には、のちに首相( 内 閣 総理 大 臣 )にな よないみつまさ ぜにがたへいじとりものひかえ のむら こどう った米内 光 政 や、 「銭形平次 捕 物 控 」シリーズを書いた作家・野村胡堂 など、大きくなってから有名になった人たちがたくさんいました。 ねつ りゅうこう ◆ 文学熱 の流行 もりおか せいと そのころの 盛 岡 中学の生徒たちの間では、自分たちの書いた詩や短歌など ざっし きょうすけ をまとめた雑誌を作ることがはやっていました。もちろん 京 助 も、なか ざっし またちといっしょに雑誌を作っています。 きょうすけ もりおか しょうかい 京 助 と同じころの盛 岡 中学のなかまたちを、何人か 紹 介 するね! せんぱい た こ 米内 光 政 【1880 – 1948】 しゅしょう もりおか 盛 岡 市出身。盛 岡 中学から かいぐん へい がっこう そつぎょう 海軍 兵 学校 を 卒 業 。 かいぐんだいじん 海 軍 大 臣 をつとめたあと、 昭和 15 年(1940)1 月、首 もりおか 相になりました。盛 岡 中学 きょうすけ よない 時代、 京 助 はよく米内に、 じゅうどう こうはい のむら こどう いちみん 田子 一 民 【1881 – 1963】 せ い じ か 海軍 大 将 ・ 首 相 もりおか 同級生 同級生 よ な い みつまさ かいぐんたいしょう どうきゅうせい どうきゅうせい 先 輩 さっか 政治家 もりおか 野村 胡堂 【1882 – 1963】 おんがくひょうろんか 作家・音楽評論家 きょうすけ し わ ぐんおおまき し わ 盛 岡 市出身。 京 助 とは高 紫波 郡 大 巻 村(今の紫波 等小学校時代も同級生でし 町)出身。本名野村 長 一 。 な た。早くに父親を亡くし、 はたら 働 きながら学校へ通い、 そつぎょう だいじん 東大を 卒 業 。農林大 臣 、 しゅうぎいんぎちょう 衆 議 院 議 長 などをつと せんご ふくし 柔 道 のけいこをつけても め、戦後は社会福祉活動に らっていました。 もつくしました。 4 の む ら おさかず のむらこどう 野村胡堂の名前で人気シリ ぜにがたへいじとりものひかえ ーズ「銭形平次 捕 物 控 」 を書く一方、あらえびすの ひょうろん ペンネームで音楽 評 論 も きょうすけ 行いました。 京 助 の しょうがい 生 涯 の友人です。 きょうすけ たくぼく 京 助と 木 もりおか きょうすけ 盛 岡 中学のなかまたちの中でも、とくに、 京 助 の人生に大きくかかわったのが、歌人とし いしかわたくぼく て有名な、 石 川 木 です。 いしかわ たくぼく こうはい 親友 後 輩 石川 木【1886 – 1912】 いしかわはじめ めいじ いわてぐんひのと もりおか 本名 石 川 一 。明治19 年(1886)、岩手郡日戸村(今の 盛 岡 市 たまやま く ひのと よくとし しぶたみ もりおか たまやま く しぶたみ 玉 山 区日戸)生まれ。翌 年 、渋 民 村(今の 盛 岡 市 玉 山 区 渋 民 ) てんきょ こうとう へ 転 居 。小さいころから天才少年といわれ、 高 等 小学校を一 せいせき そつぎょう 番の 成 績 で 卒 業 するほどでした。しかし中学校に入り文学に ねっちゅう せいせき 熱 中 するようになると、だんだん 成 績 が下がり、ついにはカ じけん ンニング事件をおこして、学校をやめてしまいます。学校をや めた たくぼく 木 は、作家になろうとがんばりますが、思うようにいか たくぼく ず、苦しい生活がつづきました。そんな いしかわたくぼくきねんかん 木 をささえつづけた 画像提供: 石 川 木 記念館 きょうすけ 一人が、 京 助 です。 な 亡くなったあと発行された『 たくぼく 木 全集』によって、 たくぼく りました。 たくぼく 木 の名前は、いちやく有名にな あい 木 の短歌は、今もたくさんの人に、 愛 されています。 たくぼく よんでみよう! 木短歌 たくぼく めいじ 木 の短歌には、生まれ育ったふるさと・岩手のことを歌ったものが、たくさんあります。明治 いちあく すな しょうかい 43 年(1910)に出した歌集『 一 握 の 砂 』から、いくつか 紹 介 します。 こ ず か た しろ ね ふるさとの山に向ひて 不来方のお城の草に寝ころびて 言ふことなし 空に吸はれし ふるさとの山はありがたきかな 十五の心 す こずかた しろ 「不来方のお 城 」は 「ふるさとの山」は もりおかじょうし 今の 盛 岡 城 址 公園 岩手山かな? (岩手公園)のことだよ 5 二人が、どうやってなかよくなっていったのか、みてみよう! もりおか 《生まれてから 盛 岡 中学時代まで》 きんだいち きょうすけ いしかわ たくぼく 金田一 京 助 石川 明治 15 年 21 年 25 年 明治 もりおか よ つ や 盛 岡 市四ツ家町(本町通)に生まれる もりおか じんじょう げん におう 盛 岡 第一 尋 常 小学校( 現 ・仁王小)入学 もりおか げん いわてぐん ひのと 19 年 しものはし 33 年 もりおかじんじょう げん もりおか げん しものはし 盛 岡 高等小学校( 現 ・ 下 橋 中)入学 … ① もりおか もりおかじんじょう 31 年 みょうじょう げん もりおか 盛 岡 尋 常 中学校( 現 ・盛 岡 一高)入学 花明の名前で「 明 星 」に短歌がのる たくぼく きょうすけ みょうじょう … ② 木 、 京 助 に『 明 星 』をかりにくる 34 年 しぶたみ 渋 民 尋 常 小学校( 現 ・ 渋 民 小)入学 28 年 盛 岡 尋 常 中学校( 現 ・盛 岡 一高)入学 かめい たまやまく げん しぶたみじんじょう 24 年 盛 岡 高等小学校( 現 ・ 下 橋 中)入学 もりおか 岩手郡日戸村( 盛 岡 市玉山区)に生まれる このころ、二人がはじめて出会う 29 年 木 もりおか そつぎょう 盛 岡 中学校を 卒 業 みやぎ せんだい じけん 35 年 げん しょぶん う カンニング事件により 処 分 を受ける 宮城県 仙 台 市にある第二高等学校( 現 ・東 もりおか たいがく 盛 岡 中学校を 退 学 北大学)へ入学 文学をこころざして上京するが、体をこわ よくとし したため、 翌 年 岩手にもどる ① 出会い めいじ 明治28 年(1895) めいじ たくぼく 二人がはじめて出会ったのは、明治28 年(1895)4 月、 きょうすけ たくぼく 入学した年でした。 京 助 が、 木 のりっぱなおでこにさわって「おでこちゃん!」 たくぼく とからかうと、おこった もりおか 木 が 盛 岡 高等小学校に きょう すけ 木 がとびかかってきました。 京 助 は、「赤んぼうのよ うなかわいらしい顔とちがって、気の強い子だな」とおどろいたそうです。 ② 文学なかまとして めいじ きょう すけ はじめちゃん めいじ 明治34 年(1901) よ さ の てっかん たんか とうきょう 明治34 年(1901)、 京 助 が、与謝野 鉄 幹 を中心とした短歌グループ「 東 京 しんししゃ たくぼく 新詩社」のメンバーだということを知った きょうすけ みょうじょう 木 が、 京 助 のところへ「『 明 星 』 をかりたい」とやってきました。これをきっかけに、2人は親しくつきあうように なりました。 6 それぞれの道へ もりおか 盛 岡 中学を出たあと、二人はそれぞれちがう道へとすすみます。 せんだい そつぎょう きょうすけ 仙 台 の高校を 卒 業 し東京の大学へとすすんだ 京 助 は、詩や短歌といった「文学」よりも、 言葉について研究する「言語学」の道をえらび、アイヌ語について調べはじめました。 たくぼく 一方、 ゆめ 木 は文学への 夢 をあきらめきれないまま、学校の先生や新聞記者などの仕事をしなが ら、あちこちを転々としていました。 めいじ くしろ 明治41 年(1908)4 月、北海道釧路の新聞社ではたらいていた はこだて たくぼく しょうせつか 木 は、小 説 家 をめざすため みやざきいくう に会社をやめてしまいます。そして、家族を 函 館 の友人・ 宮 崎 郁雨【歌人・1885 - 1962】 のところにあずけて、東京へと向かいました。 いっしょにくらす きょうすけ 東京の中学校で国語の先生をしていた 京 助 のところへ たくぼく きょうすけ めいじ 木 がやってきたのは、明治41 年 せきしんかん (1908)4 月 29 日のことでした。5 月 4 日には、 京 助 の下宿・赤 心 館 へ引っこし、こうして 二人はいっしょにくらしはじめました。 たくぼく めいじ 木 が東京朝日新聞ではたらきはじめ、北海道にのこしてきた家族を東京によびよせる、明治 きょうどう 42 年(1909)6 月までの 1 年 2 か月の間、二人の 共 同 生活はつづきました。 東京でくらしはじめた たくぼく 木 は、はりきってたくさんの しょうせつ 小 説 を書いたけれど、ぜんぜん売れなかったんだ。 きょうすけ そのため、 京 助 は自分だけでなく、お金のない たくぼく 木の めんどう 分も、 面 倒 をみなくてはいけなかった 。このころの きょうすけ きゅうりょう 京 助 の 給 料 は、1 ヶ月 35 円。二人分の下宿代 30 円をはらってしまうと、ほとんどのこらなかった。 短歌が有名だけど、 めいじ きょうすけ たくぼく 明治41 年ころの 京 助 と しょうせつか じつは、 小 説 家 になりたかったんだ 7 木 いしかわたくぼくきねんかん 画像提供: 石 川 木 記念館 いっしょにくらしはじめた二人は、毎日のようにおたがいのへやを行き来し、あつく語りあっ きょうすけ たといいます。 京 助 はそんな友人をとても大切に思い、自分自身も苦しい生活だったにもか かわらず、できるかぎり たくぼく 木 を助けつづけました。 きょうすけ ある日、どうしても二人分の下宿代がはらえなくなった 京 助 は、下宿のおかみさんに、 「もう少しだけ、はらうのをまってほしい」とたのみますが、ことわられてしまいます。 きょうすけ 京 助 は自分のだいじな本を売って、そのお金で足りない分の下宿代をはらいました。そ せきしんかん がいへいかんべっそう の後、二人は 赤 心 館 を出て 蓋 平 館 別 荘 という下宿に引っこしました。 たくぼく 二人がべつべつにくらすようになってからも、 きょうすけ きょうすけ 木 はよく 京 助 のところへお金をかり けっこん にきました。そのころ 京 助 は 結 婚 していて、家族のくらしは楽ではありませんでしたが、 ときには自分たちの着物を売ってまで たくぼく きょうすけ 木 にお金をかしていました。 京 助 の長男・ きんだいちはるひこ 金田一 春 彦 【国語学者・1913 - 2004】は、そのころの話をよくお母さんから聞かされて たくぼく いて、家にやってきてはお金をもっていく 木 のことを、名字が同じ「石川」なだけに有 いしかわ ご え も ん 名な大どろぼう・ 石 川 五右衛門の弟かなにかのように思っていたそうです。 たくぼく 木死後 めいじ いちあく すな 明治43 年(1910)に出したはじめての歌集『 一 握 の 砂 』によって、 めいじ たくぼく はいけっかく 木 は歌人として知ら な れるようになりました。しかし、明治45 年(1912)4 月 13 日、肺 結 核 で亡くなります。26 才 というわかさでした。 きょうすけ その日、 京 助 は たくぼく ようだい 木 のお見まいに来ていましたが、 容 体 もよさそうに見えたので、ひと まず安心して仕事へとでかけました。しかしその数分後、 きょうすけ たくぼく 木 は息をひきとります。そばにい こうかい てやれなかったことを、 京 助 はその後ずっと 後 悔 しつづけました。 たくぼく な きょうすけ 木 が亡くなったあとの 京 助 は、大切なこの友人のことを多くの人に知ってもらおうと、 ざっし たくぼく 本や雑誌に には、 たくぼく いしかわたくぼく 木 との思い出を書きのこしました。昭和 9 年(1934)に発行された『 石 川 てき ゆうじょう 木 との感動 的 な 友 情 のエピソードがたくさんのっています。 8 木』 けんきゅう アイヌ語 研 究 の道へ ねっちゅう きょうすけ 中学のころは文学に 熱 中 していた 京 助 ですが、高校や大学 へすすむうちに、だんだんとその気持ちはさめていきました。か きょうみ わりに 興 味 をもったのが、言葉について調べる学問である「言 うえだ かずとし 語学」です。中でも一番おもしろかったのが、上田 万 年 【言語 じゅぎょう きょうすけ うえだ 学者・1867 - 1937】先生の 授 業 でした。 京 助 は上田先生 かんけい のもとで、日本語とまわりの国々の言葉との 関 係 を研究するよ うえだ うになりました。ある日、上田先生に「アイヌ語研究は、世界に きょうすけ 対する日本の学者の役目」と言われた 京 助 は、アイヌ語の研究 をえらびます。しかし、ほかに研究している人がほとんどいない ちょうさ 分野。手さぐりでの 調 査 は、とてもたいへんなことでした。 めいじ 明治45・大正元年(1910)、親友・ な たくぼく な きょうすけ ユーカラ録音中の 京 助 もりおかしせんじんきねんかん 画像提供:盛岡市 先 人 記念館 きょうすけ むすめ 木 が亡くなったこの年、 京 助 は1才の 娘 と大好き じてん こうせい しゅっぱんしゃ さんせいどう だった父親も亡くしています。その上、辞典の 校 正 係としてつとめていた 出 版 社 ・三 省 堂 とうさん きょうすけ が 倒 産 。仕事も失い、 京 助 にとって人生で一番つらい年になりました。しかし、おかずにさ きょうすけ えこまる毎日がつづいても、 京 助 はアイヌ語研究の道をあきらめませんでした。 アイヌの人々と文化 きょうすけ からふと 北海道やサハリン( 京 助 のころは、樺 太 とよばれていました)に、むかしからすんでいた みんぞく みんぞく 人々を「アイヌ 民 族 」といいます。それに対して日本で一番数が多い 民 族 を、アイヌの人々 わじん え ど みんぞく は「和人」とよんでいます。江戸時代には、北海道のほとんどのところにアイヌ 民 族 が住ん しぜん はぐく でいました。アイヌの人々は北海道の自然とともにくらし、その中でゆたかな文化を 育 ん めいじ わじん わじん でいました。しかし、明治時代に入り多くの和人が北海道にうつりすむようになると、和人た しゅうかん わじんふう ちはアイヌの文化や 習 慣 の多くを和人 風 にかえさせようとしました。言葉も日本語を使う ように言われたため、アイヌのわかい人たちの中には、アイヌ語をあまり話せない人もふえ えいゆう ていきました。アイヌ語には文字がありません。そのかわり、アイヌの人々は、神々や 英 雄 こうしょうぶんげい のものがたりなどを語り手が語って聞かせる 口 承 文 芸「ユーカラ」を、大切にうけついで れきし ち え きました。歴史や生きる知恵などを、文字に書いてのこすのではなく口から口へと語りつた えてきたのです。しかし、アイヌ語を話す人はどんどんへってきています。このままアイヌ 語を話せる人がいなくなってしまったなら、アイヌ語がどんな言葉だったのかも分からなく きょうすけ なってしまう…… 京 助 はそう考えたのでした。 9 きょうすけ アイヌ語を調べるため、京 助 はアイヌの人々に会 きょうすけ ねっしん 京助の歩いた道 って、その話を 熱 心 にききました。 くろう そこにはたくさんの苦労と出会いがありました。 からふと サハリン( 樺 太 ) ② めいじ 北海道 めいじ からふと 明治39 年 明治40 年 樺太 (1907) (1906) こみち 《はじめて北海道へ》 《心の小径》 アイヌ語を調べるため、はじめ アイヌ語を調べるため、 からふと むろらん 樺 太 へ。45 日間すごす。 て北海道へ。船で 室蘭 へ じょうりく かくち 上 陸 し、各地をまわる。 あさひかわ 旭 川 むろらん ④ 北海道 ① 室蘭 大正 7 年 北海道 (1918) きょうすけ 京 助 はこのほかにも、 《大きな出会い》 なんども北海道をおとずれ アイヌ語を調べるため、北海道 たり、アイヌの人々を、東京 へ。旭 川 市 近 文 で、金 成 マ にまねいたりしているよ。 ツ・知里幸恵と出会う。 あさひかわ ちかぶみ かんなり ち り ゆきえ 大正元年 東京 (1912) たくしょくはくらんかい 《上野公園 拓 殖 博 覧 会 》 はくらんかい 博 覧 会 のために東京へやって からふと き て い た 樺 太 ア イ ヌ の とこ ろ 東京 へ、毎日のように通って、アイヌ ③ しんかんせん 語を調べる。 ひこうき りょこう 今のように 新 幹 線 や飛行機で 旅 行 できる時代じゃなかったから、北海道やサ からふと ハリン( 樺 太 )との行き来には、たくさんのお金や時間がかかったんだ。 10 きょうすけ めいじ からふと 明治40 年(1907)、 京 助 がはじめて 樺 太 (サハリン)をおとずれたときのことです。 きょうすけ からふと とつぜんやってきた 京 助 に、 樺 太 のアイヌたちはなかなか心をひらいてくれませんでした。 からふと 樺 太 のアイヌ語は、北海道のアイヌ語と少しちがいました。たった一言「これは何?」とたずねる 言葉さえわかれば、そこからいろいろなほかの言葉も調べられるのに、それがわかりません。こま きょうすけ ってしまった 京 助 は、スケッチブックをひらいて、あそんでいる子どもたちのようすを絵に書き はじめました。しばらくすると、アイヌの子どもたちが近づいてきてなにやらしゃべっています。 きょうすけ 何の絵かを話しているようです。 京 助 はふと思いついて、こんどはぐるぐるとわけのわからない 絵を書きはじめました。子どもたちは首をかしげて「ヘマタ?」「ヘマタ?」と言いあっています。 からふと 北海道のアイヌ語で「何」を「ヘマンダ」といいます。きっと 樺 太 では「ヘマタ」というにちがい きょうすけ ありません。こんどは 京 助 が、まわりのいろいろなものを指さして「ヘマタ?(これは何?)」と からふと 子どもたちにたずねました。子どもたちは口々に 樺 太 アイヌ語で教えてくれました。こうして言葉 きょうすけ が分かるようになると、子どもたちと 京 助 はすぐになかよくなりました。言葉は心のおくに通じ こみち きょうすけ る小径だと 京 助 は言っています。 ち り ゆきえ めいじ のぼりべつ あさひかわ 知里幸恵は、明治36 年(1903)、北海道 登 別 に生まれました。7 才のときに 旭 川 へ引っこし、 かんなり そ ぼ 母・ナミのお姉さんにあたる 金 成 マツ、祖母・モナシノウクといっしょにくらしていました。二人 きょうすけ ゆきえ ともユーカラの名人で、幸恵も小さいころからアイヌ語に親しんで育ちました。 京 助 と出会った ゆきえ きょうすけ ゆきえ のは、大正 7 年(1918)、幸恵が 15 才のときです。アイヌ語も日本語も上手な幸恵は、 京 助 にと きょうすけ さいこう ゆきえ って 最 高 のアイヌ語の先生となりました。そんなある日、 京 助 は幸恵にアイヌ文化のすばらし きょうすけ さを語り、アイヌ語を文字にしてのこす手つだいをしてほしいとたのみます。 京 助 の言葉に心を ゆきえ 動かされた幸恵は、子どものころから聞いて育ったカムイユカラ(神々のものがたりを語るユーカ しんようしゅう ラ)を、ノートにローマ字表記で書きはじめました。このノートは、やがて『アイヌ 神 謡 集 』と いう本になりました。アイヌ自身の手による、はじめてのアイヌ語の本です。しかし、もともと体 ゆきえ しんようしゅう の弱かった幸恵は、 『アイヌ 神 謡 集 』を書きあげてすぐ、本の発行をまたずに、たった 19 才でこ ゆきえ ゆうき の世を去ります。幸恵がのこしたこの本は、アイヌの人々に大きな勇気をあたえ、アイヌの文化を みらい ゆきえ ち り ま し ほ 未来につたえていこうという運動のきっかけの一つとなりました。幸恵の弟・知里真志保【アイヌ 語学者・1909 - 1961】も、アイヌ語の研究者として大きな仕事をなしとげた人です。 11 きょうすけ 京 助がのこしたもの きょうすけ アイヌ語の研究のほかにも、京 助 がのこしたものはたくさん あります。昭和 10 年代から 20 年代(1935~1945)にかけては、 じかい めいかいこくご じてん じてん ちゅうとうこくご 『辞海』 『 明 解 国語辞典』といった辞典や『 中 等 国語』などの へんしゅう さんか しんぎかい 教科書の 編 集 に、中心となって参加しました。また、国語審議会 委員(日本語のきまりをまとめるための委員会)のメンバーとし げんだい けいご て、 現 代 かなづかいや敬語など、今わたしたちが使っている日 本語の きまりのもとを作るために力をつくしました。 昭和 29 年(1954)、アイヌ語をはじめとしたこれまでの仕事が きょうすけ ぶんかくんしょう みとめられて、 京 助 は文化 勲 章 をおくられました。昭和 34 もりおか めいよ しみんだい ごう 年(1959)には、盛 岡 市名誉市民 第 1 号 にえらばれています。た きょうすけ くさんの苦労をがまん強くのりこえてきた 京 助 のがんばりが、 ぶんか くんしょうじゅしょう きょうすけ むくわれたのでした。文化 勲 章 受 章 のとき、 京 助 は、つ らい生活の中で自分をささえてくれた家族やまわりの人々に、か ぶ ん か くんしょうじゅしょう 上:文化 勲 章 受 章 もりおか め い よ し み ん すいせんじょう 下: 盛 岡 市名誉市民 推 薦 状 んしゃの言葉をのべています。 もりおかしせんじんきねんかん 画像提供:盛岡市 先 人 記念館 げんだい 現代かなづかい みなさんは、「わたしは」の「は」は、「は」という字を書いて「わ」、「学校へ」の「へ」は、 きょうすけ 「へ」という字を書いて「え」と読んでいると思います。じつは、 京 助 のころは、こんなふう に、書いたものと読みがちがうものが、もっとたくさんあったのです。たとえば、きのう今日の 「今日」は、ひらがなでは「けふ」と書いていました。 て ふ て ふ なんて読むかわかるかな? 絵がヒントだよ! (こたえ:ちょうちょう) 読みかたと書きかたがちがうということは、その分、おぼえることがたくさんあるという ことです。そこで、もっと分かりやすいきまりをつくろうということになりました。そのき げんだい まりを「 現 代 かなづかい」といいます。 12 まとめ きょうすけ 京 助 の研究のなかでも大切なキーワード。 とっても大事だから、しっかりおぼえてね! ユーカラ みんぞく こうしょうぶんげい じょじし ● アイヌ 民 族 が口伝えで受けついできたものがたり( 口 承 文 芸 )。アイヌ語で叙事詩のこと。 ●「ユカラ」 「ユカル」とも。(日本語にはない発音のため、「ラ」や「ル」を小さい文字で書き表すことも) きょうすけ えいゆう ぼうけん ● 京 助 は、ユーカラを、人間の 英 雄 の 冒 険 ものがたりである「人間のユーカラ」と、神々が しゅるい 語り手となる「カムイユカラ(神々のユーカラ)」の 2 種 類 あるとしました。 ● ユーカラの中には、語りおえるのに何日もかかる、とても長いものもあります。 じょじし けんきゅう ◆『アイヌ叙事詩ユーカラの 研 究 』 かんとう かんとうだいしんさい 大正 12 年(1923)、関 東 を大きな地しんがおそいました。関 東 大 震 災 です。このときにお きょうすけ ろんぶん こった火事で、大学の図書館においてあった 京 助 の 論 文 が、やけてなくなってしまいました。 きょうすけ 京 助 はとてもがっかりしましたが、まわりの人たちからはげまされ、助けてもらいながら、 じょじ し けんきゅう しゅっぱん もう一度書き直しました。そして、昭和 6 年(1931)、 『アイヌ叙事詩ユーカラの 研 究 』が 出 版 きょうすけ されます。 京 助 のアイヌ語研究の大きなまとめとなる本でした。次の年この本には、すばら ろんぶん ていこくがくしいんおんししょう しい 論 文 にあたえられる「 帝 国 学士院恩賜 賞 」がおくられました。 かんなり じょじし しゅう ◆金成 マツノートと『アイヌ叙事詩ユーカラ 集 』 ち り ゆきえ な 知里幸恵が亡くなったあと、アイヌ語を文字にしてのこそうという思いを引きついだのは、 ゆきえ お ば かんなり 幸恵の伯母・ 金 成 マツでした。マツは、自分がおぼえているたくさんのユーカラを、ノートに きょうすけ ローマ字で書きのこしました。 京 助 は、このノートや自分が集めたユーカラを 1 つでも多く きょう 日本語にしてみんなに見せることが、自分の一生の仕事だと思ってとり組みつづけました。 京 すけ やく じょじ し しゅう かん 助 が日本語に 訳 したユーカラ集『アイヌ叙事詩ユーカラ 集 』は、第1 巻 が昭和 34 年(1959) かん かん きょうすけ な かんなり に発行され、全部で 9 巻 あります。9 巻 目は、 京 助 が亡くなったあと出たものです。金 成 マ やく きょうすけ かやのしげる ぶんかけんきゅうしゃ ツのノートの 訳 は、 京 助 とも交流があった萱野 茂 【アイヌ文化 研 究 者 ・1926 - 2006】 へいせい かやのしげる な ちゅうだん が引きつぎますが、 平 成 18 年(2006)、その萱野 茂 も亡くなったため、今は 中 断 されてい ます。 13 き ん だ い ち きょうすけ ★やってみよう★ 金田一 京 助チャート こたえは さいごの スタート ページ! 生まれたところは? もりおか よ つ や ア. 盛 岡 市四ツ谷町 いわてぐんしぶたみ イ.岩手郡 渋 民 村 たくぼく 木 の本名は? いしかわ はじめ きょうすけ ア. 石 川 京 助 のペンネームは? かめい ア.花明 いちざん イ. 一 山 もりおか 一 さいとう はじめ イ. 斎 藤 せんぱい 盛 岡 中学の 先 輩 は? 一 よない みつまさ ア.米内 光 政 のむら こどう イ.野村 胡堂 きょうすけ 京 助 が研究した みんぞく じょじし アイヌ 民 族 の叙事詩は? きょうすけ 京 助 がもらったのは? ア.ユーカラ ぶんかくんしょう ア.文化 勲 章 イ.カレワラ あくたがわしょう イ. 芥 川 賞 きょうすけ たくぼく 京 助が 木 とくらした きょうすけ 京 助 が研究したのは? 下宿の名前はどっち? えいご さくじんかん ア.英語 せきしんかん イ.アイヌ語 ア. 作 人 館 イ. 赤 心 館 マスター☆レベル ノーマル☆レベル ビギナー☆レベル パーフェクト! ふつう。 もう一回 かんぺき!すばらしい! まあまあできる方。 チャレンジ! 14 き ん だ い ち きょうすけ じ け ん ぼ 金田一 京 助 の事件簿 きんだいち 「じっちゃんの名にかけて!」でおなじみ、アニメやドラマにもなったマンガ『 金田一 少年の じけんぼ こうだんしゃ きんだいち よこみぞ きんだいちこうすけ 事件簿』( 講 談 社 )。主人公・金田一 少年の「じっちゃん」の名前は、金田一 耕 助 といいます。横 溝 せいし しょうせつか しょうせつ めいたんてい 正史【 小 説 家 ・1902 - 1981】の 小 説 シリーズに登場する有名な 名 探 偵 です。 きんだいちこうすけ きんだいちきょうすけ 金田一 耕 助 と金田一 京 助 ……名前が、にていませんか? こうすけ きんだいち そう。なにをかくそう、実は金田一 きょうすけ 耕 助 の名前は、 京 助 がもとになっているのです。 よこみぞせいし きんだいち ある日、主人公の名前をどうしようかとなやんでいた 横 溝 正史は、近所で「金田一 」という表 さつ(家の門などについている名ふだ)をみかけました。そして、そこに住んでいるのがあの有名 きんだいちきょうすけ なアイヌ語研究者の金田一 京 助 の弟だと知って、主人公の名前のモデルとして使わせてもらった きょうすけ きんだいち のだそうです。もし 京 助 がいなかったら、「金田一 少年」ではなかったかも……? いわてけんりつとしょかん きんだいちきょうすけ じてん いじょう 岩手 県 立 図書館 には、 「 金田一 京 助 」という名前が入った国語辞典が 30 さつ 以 上 あります。 きんだいちきょうすけ へん じてん みなさんの家にも 1 さつくらいは「金田一 京 助 編 」と書かれた国語辞典があるかもしれません。 きょうすけ じてん きょうすけ そのくらい 京 助 の名前が入った辞典はたくさんあります。しかし、本当に 京 助 はこんなにたく じてん さんの辞典を作ったのでしょうか? きょうすけ そこにはこんなウラ話がのこっています。 はるひこ じてん はるひこ 京 助 の長男・ 春 彦 も、同じように言葉を研究した人でした。辞典も作っています。その 春 彦 きょうすけ じてん の話によると、有名な学者である 京 助 の名前が入っているほうがりっぱな辞典 に見えるので、 きょうすけ じてん 京 助 が作ったわけでもない辞典に名前だけ使わせてほしいとたのまれることが多かったのだそう きょうすけ はるひこ です。たのまれるとろくにお礼ももらわず引きうけてしまう 京 助 に、春 彦 は注意したのですが、 きょうすけ じてん 京 助 は「辞典を作った人のやくに立つためなのだから、いいじゃないか」と答えたそうです。自 きょうすけ くろう 分がわかいころ苦労した分、今の学者たちの助けになりたいという 京 助 の人のよさが、こんなに きんだいちきょうすけ へん たくさんの「金田一 京 助 編 」を生んだのでした。 15 きんだいちきょうすけ 金田一京助 年表 年 才 出来事 明治15(1882) 0 ・5 月 5 日盛 岡 市四ツ家町(現・本町通 2 丁目)に、父・久米之助と めいじ もりおか よ つ や げん く め の す け たんじょう 母・ヤスの長男として 誕 生 。 もりおか じんじょう げん におう 21(1888) 6 ・4 月、盛 岡 第一 尋 常 小学校(現 ・仁王小学校)に入学。 23(1890) 8 ・9 月、盛 岡 市大沢川原小路へ転 居 。 25(1892) 10 もりおか おおさかわらこうじ もりおか げん てんきょ お じ しもはし ・4 月、盛 岡 高等小学校(現・下 橋 中学校)入学。このころから、伯父・ かつさだ くら か 勝 定 の蔵 から、本を借りて読むようになる。 28(1895) 29(1896) 13 14 いしかわたくぼく ・1 年生として入学してきた石 川 木 と出会う。 げん もりおか もりおか ・4 月、岩手県立盛 岡 中学校(現 ・盛 岡 第一高等学校)に入学。文 ねっちゅう 学に 熱 中 する。 33(1900) 18 よ さ の てっかんしゅさい みょうじょう みょうじょう かめい ・与謝野 鉄 幹 主 宰 の「 明 星 」の同人となる。 「 明 星 」に花明の けいさい 名で短歌が掲 載 される。 34(1901) 19 もりおか そつぎょう ・3 月、盛 岡 中学校 卒 業 。 げん ・9 月、第二高等学校(現 ・東北大学)入学。 37(1904) 22 げん ていこく う え だ かずとし ・9 月、東京帝 国 大学文科大学(現・東京大学文学部)入学。上田 万 年・ しんむらいづる こうぎ 新 村 出 らの講義に心を動かされ、言語学科に進む。 げん ほんごうく と せきしんかん うつ ・10 月、本郷区(現 ・東京都文京区)の赤 心 館 に下宿を移 す。 はじ ひつろく 39(1906) 24 ・7 月、アイヌ語調査のため初 めて北海道へ。「ユーカラ」を筆 録 。 40(1907) 25 ・7 月、東京帝 国 大学文科大学 卒 業 。 ていこく そつぎょう からふと たいざい じょじ し ・8 月、アイヌ語調査のため樺 太 へ。45 日間滞 在 。三千行の叙事詩 からふと ひつろく 「ハウキ」(樺 太 アイヌ語でユーカラのこと)を筆 録 。 41(1908) 26 ろんぶん ちゅうおうこうろん けいさい ・初めての論 文「あいぬの文学」を「 中 央 公 論 」1~3 月号に掲 載 。 かいじょう こ う し しょくたく まつ たくぼく ・4 月、 海 城 中学校講師 嘱 託 となる。4 月末 に 木 が上京、5 月 せきしんかん 4 日には赤 心 館 に入る。 たくぼく ・9 月、 ほんごうく がいへいかんべっそう うつ 木 とともに下宿を本郷区の蓋 平 館 別 荘 へ移 す。 かいじょう じしょく さんせいどう に ほ ん ひゃっか だいじてん へんしゅうじょ ・10 月、海 城 中学校を辞 職 。三 省 堂「日本 百 科 大辞典」編 修 所 こうせいがかり きんむ まつ こくがくいん こ う し しょくたく 校 正 係 として勤務。10 月末 、国 学 院 大学講師 嘱 託 となる。 42(1909) 27 たくぼく ・6 月、 がいへいかんべっそう 木 、家族が上京し蓋 平 館 別 荘 を出る。 はやし し ず え けっこん てんきょ ・12 月、 林 静江と結 婚 。転 居 。 44(1911) 30 いくこ ・1 月、長女・郁子生まれる。 16 年 才 めいじ 明治45(1912) 30 出来事 いくこ ・1 月、長女・郁子死去。 はつ ちょしょ だっこう よく たくぼく きとく たくぼく み ま ・3 月 30 日、初 の著 書『新言語学』脱 稿 。翌 31 日、 げんこうりょう 木 の危篤を 知る。『新言語学』の 原 稿 料 20 円のうち、10 円を 金として送る。4 月 13 日、 大正元(1912) 30 く め の す け 木 の見舞い たくぼく 木 死去。 さんせいどうかいさん しっしょく ・9 月、父久米之助死去。三 省 堂 解 散 により 失 職 。 たくしょくはくらんかい からふと ・10 月、上野公園 拓 殖 博 覧 会 に、樺 太 からギリヤーク、オロッコ、 さんか にっさん ちょうさ アイヌが参加。日 参 してアイヌ語調 査 を行う。 2(1913) 31 はるひこたんじょう ・4 月、長男・春 彦 誕 生 。 ていこく こうし しょくたく ・10 月、東京帝 国 大学講師(アイヌ語) 嘱 託 となる。 7(1918) 36 ちょうさりょこう あさひかわしちかぶみ かんなり たず ・8 月、北海道へ調 査 旅 行 。旭 川 市 近 文 では、金 成 マツを訪 ね、 どうきょちゅう ち り ゆきえ 同 居 中 の知里幸恵と出会う。 8(1919) 37 ・7 月、母・ヤス死去。 11(1922) 40 ・5 月、知里幸恵、上京。京 助 宅 に身を寄せる。幸恵の助言は、京 助 ち り ゆきえ きょうすけたく み よ ゆきえ きょうすけ のアイヌ語研究の大きな助けとなった。 ゆきえ ・9 月 18 日、幸恵死去。 12(1923) 41 かんとうだいしんさい としょかん ほかんちゅう きょうすけ ・9 月 1 日、関 東 大 震 災 。このとき、東大図書館に保 管 中 の 京 助 が く い ろんぶん けんきゅう しょうしつ の学位 論 文 「ユーカラの 研 究 」が 焼 失 。 じょじし けんきゅう かんこう 昭和 6(1931) 49 ・1 月、 『アイヌ叙事詩ユーカラの 研 究 』を刊 行 。 7(1932) 50 ・5 月、 『アイヌ叙事詩ユーカラの 研 究 』に帝 国 学士院恩賜 賞 が授与 じょじし けんきゅう ていこく がくしいん お ん し しょう じゅよ される。 さんせいどう じかい へんさんはじ 13(1938) 56 ・三 省 堂 の『辞海』の編 纂 始 まる。 16(1941) 59 ・東京帝 国 大学 教 授 となる。 18(1943) 61 ・5 月、三 省 堂 から『明 解 国語辞典』刊 行 。 23(1948) 66 ・ 執 筆 中 の「アイヌ語辞典」の原 稿 など盗 難 。 25(1950) 68 ・三 省 堂 から『 中 等 国語』を 編 集 刊 行 。全国の半数近くの中学 ていこく きょうじゅ さんせいどう めいかい こ く ご じ て ん しっぴつちゅう さんせいどう じてん ちゅうとう こ く ご かんこう げんこう とうなん へんしゅう かんこう さいよう 校に採 用 される。 しんぎかい 27(1952) 71 ・4 月、国語審議会委員。(昭和 33 年(1958)11 月まで) 29(1954) 73 ・11 月 3 日、文化 勲 章 を 受 章 。 34(1959) 78 ・4 月 1 日、盛 岡 市名誉市民 第 一号 に推される。 ぶ ん か くんしょう もりおか じゅしょう め い よ し み ん だい じょじ し ごう だい お かん かんなり ひつろく きょうすけ ・12 月、 『アイヌ叙事詩ユーカラ集第 1巻 』 (金 成 マツ筆 録 、 京 助 やくちゅう かん しょうわ かんかんこう 訳 注 )刊 。昭 和 50 年(1975)までに、全 9巻 刊 行 。 46(1971) 90 ・11 月 14 日、死去。 17 さんこうしりょう 参考資料 <図書> 書名 ちょしゃ 著者 発行者 発行年 (本の名前) (書いた人) (出したところ) (出した年) ― 岩手放送 い わ て ひゃっか じ て ん 岩手 百科 事典 もりおか せんじん 盛岡 の先人 たち いわてほうそう もりおか し せんじん き ね ん か ん ― い わ て け ん せ い し れ き し じんぶつ だ い じ て ん 岩手県姓氏歴史 人物 大辞典 盛岡 市 先人 記念館 かどかわしょてん ― 角川 書店 1988 2003 1998 き ん だ い ち きょうすけぜんしゅう 金田一 京 助 全 集 だい かん だい き ん だ い ち きょうすけ 金田一 京 助 かん 第 13巻 ~第 15巻 ★ わたくしのこどものころ 3 もりおか せんじん もりおか せんじん 盛光社 もりおか し しょうがっこうちょうかい ― ★ 盛岡 の先人 盛岡 市 小 学 校 長 会 もりおか し ちゅうがっこうちょうかい ― き ん だ い ち きょうすけせんせい ね ん ぷ 金田一 京 助 先生 年譜 盛岡 市 中 学 校 長 会 さんせいどう ― 三省堂 き ん だ い ち きょうすけ ふじもと き ん だ い ち きょうすけものがたり ほりさわ みつよし 金田一 京 助 ひでお 藤本 英夫 金田一 京 助 物 語 三省堂 せいこうしゃ ― ★ 盛岡 の先人 たち さんせいどう 堀沢 光儀 しんちょうしゃ 新潮社 さんせいどう 三省堂 1993 1966 2004 2000 1972 1991 1992 き ん だ い ち きょうすけ は く し き ん だ い ち きょうすけせんせいおも で き 金田一 京 助 先生 思 い出の記 おも 金田一 京 助 博士 きねんかい へん 記念会∥編 さんせいどう 三省堂 1972 で 思 い出のしおり こ き ん だ い ち きょうすけせんせいついとうかい き ね ん 故金田一 京 助 先生 追悼会 記念 もりおか し ― 盛岡 市 1971 き ん だ い ち きょうすけ 金田一 京 助 わたし ある き ん だ い ち きょうすけ き みち 私 の歩 いて来た道 にほんとしょ 金田一 京 助 日本図書センター き ん だ い ち はるひこ たまがわだいがくしゅっぱんぶ 1997 き ん だ い ち はるひこちょさくしゅう 金田一 春彦 著 作 集 だい かん 第 12巻 金田一 春彦 玉川 大学 出版部 2004 ち く ま しょぼう 1978 いしかわたくぼくぜんしゅう 石川 だい かん 木全 集 だい かん 第 1巻 ・第 6巻 いしかわ たくぼく 石川 18 木 筑摩 書房 1979 書名 ちょしゃ 著者 発行者 発行年 (本の名前) (書いた人) (出したところ) (出した年) ― 岩手 県立 図書館 き ん だ い ち きょうすけ こうだんしゃ たくぼくしりょうてん だい かい 木 資料展 第 29回 しんぺんいしかわたくぼく 新編 石川 木 金田一 京 助 にんげんたくぼく ふっこくばん 人間 木 (復刻版 ) たくぼく きょうすけ いとう わか 講談社 けいいちろう 岩手 日報社 もりおか し せんじん き ね ん か ん ― じんぶつぐんぞう 明治 盛岡 の若 き人物 群像 2010 2003 い わ て にっぽうしゃ 伊東 圭一郎 木と 京 助 め い じ もりおか い わ て けんりつ と し ょ か ん 盛岡 市 先人 記念館 1998 2006 もりおかしゅっぱん たくぼく びと まじ 木 ふるさと人 との交 わり き ん だ い ち きょうすけ ご 金田一 京 助 とアイヌ語 き ん だ い ち きょうすけ にほんご 森 義真 おおとも ゆきお さんいちしょぼう きんだい やすだ としあき へいぼんしゃ みらい とも 2014 2001 平凡社 げんざい 2008 ぶ ん か しんこう アイヌ文化 振興 ・ ― い 未来を共 に生きるために だいしぜん 三一 書房 安田 敏朗 アイヌ民族 :歴史と現在 ★ コミュニティー 大友 幸男 金田一 京 助 と日本語の近代 みんぞく れ き し 盛岡 出 版 もり よしまさ けんきゅうすいしん き こ う 研 究 推進 機構 2013 ほうよう 大自然に抱擁 されて・・・ ち り ゆきえ しんようしゅう 知里 幸恵 「アイヌ 神 謡 集 」の ほっかいどうりつぶんがくかん ― 北海道 立 文学館 2002 せかい 世界へ ち り ゆきえ ち り ゆきえ 『知里幸恵『アイヌ しんようしゅう 知里幸恵「アイヌ 神 謡 集 」への みち 道 ほっかいどうぶんがくかん へん 北海道 文学館 ∥編 しんようしゅう みち 神 謡 集 』への道 』 2003 かんこう い い ん か い 刊行 委員会 しんようしゅう ち り アイヌ 神 謡 集 き ん だ い ち こうすけ ゆきえ へんやく 知里 幸恵∥編 訳 きかん よこみぞ 金田一 耕助 の帰還 せいし 横溝 正史 いわなみしょてん 岩波 書店 しゅっぱんげいじゅつしゃ 出 版芸術社 <インターネットなど> きくぞう ●オンラインデータベース『 聞 蔵 Ⅱビジュアル』 ★マークがついているものは、 小学生のみんなが読みやすい本だよ。 ぜひ読んでみてね♪ 19 https://database.asahi.com/library2/ 2009 1996 きょうりょく 協 力 しりょう きょうりょく この 資 料 を作るために 協 力 してくれた じゅん けいしょうりゃく みなさんです。 (50 音 順 ・ 敬 称 略 ) いしかわたくぼくきねんかん 石川 もりおかしせんじんきねんかん 木 記念館/盛岡市 先 人 記念館 ★行ってみよう★ も り お か し せんじん きね ん かん 盛岡市先人 記念館 もりおか へび や し き 〒020-0866 岩手県盛岡市本宮字蛇 屋敷2番2号 TEL 019-659-3338 FAX 019-659-3387 げんざい ホームページ http://www.mfca.jp/senjin/ (平成 27 年 4 月現在 ) もりおかしせんじんきねんかん 盛岡市 先 人 記念館 では、いろいろなジャンルでかつやくした もりおか せんぱい しょうかい 盛 岡 の 先 輩 たちが、 紹 介 されているよ。 きんだいちきょうすけきねんしつ きょうすけ 「金田一 京 助 記念室 」には、 京 助 が使っていた トランクやメガネなども、かざられているんだ。 きょうすけ しょさい さいげん にしきぎそう ひっけん 京 助 の 書 斎 を 再 現 した「 錦 木 荘 」も 必 見 ! 20 14 ページのこたえ スタート 生まれたところは? もりおか よ つ や ア. 盛 岡 市四ツ谷町 たくぼく 木 の本名は? いしかわ はじめ きょうすけ ア. 石 川 京 助 のペンネームは? かめい ア.花明 もりおかちゅうがく 一 せんぱい 盛 岡 中 学 の 先 輩 は? よない みつまさ ア.米内 光 政 きょうすけ 京 助 が研究した みんぞく じょじし アイヌ 民 族 の叙事詩は? きょうすけ 京 助 がもらったのは? ア.ユーカラ ぶんかくんしょう ア.文化 勲 章 きょうすけ たくぼく 京 助が 木 とくらした きょうすけ 京 助 が研究したのは? 下宿の名前はどっち? せきしんかん イ.アイヌ語 イ. 赤 心 館 マスター☆レベル ノーマル☆レベル ビギナー☆レベル パーフェクト! ふつう。 もう一回 かんぺき!すばらしい! まあまあできる方。 チャレンジ! 21 そめちゃん ポストン ブラリー きょうど し り ょ う 岩 手 県 立 図 書 館 子 ど も 向 け 郷 土 資 料 v o l .1 きんだいち きょうすけ 金田一 京助 へ い せ い 発 行 年 : 平 成 2 7 年 4 月 発 行 者 : 岩手県立図書館 指定管理者
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