2012/11/18 聖霊降臨後第25主日礼拝

2013/07/28
C年
聖霊降臨後第 10 主日
説教題:「 ただ一つのこと 」
説教者:
伊藤節彦
創世記 18:1~14
コロサイ 1:21~29
ルカ 10:38~42
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女
が、イエスを家に迎え入れた。39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もと
に座って、その話に聞き入っていた。40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立
ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなし
をさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってく
ださい。」
41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱して
いる。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取
り上げてはならない。」
2013/07/28
C 年 聖霊降臨後第 10 主日 広島教会主日礼拝
私達の父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、
皆様お一人お一人の上にありますように。アーメン
【起】
ルカ福音書の面白いところは、同じような内容、似たような出来事を男女ペアにして記
していることです。例えば、私たちがいつも礼拝で歌うヌンク・ディミティスは年老いた
男性であるシメオンが幼子イエスを讃えた歌ですが、その後に女預言者アンナが登場致し
ます。先月学んだ百人隊長の僕が癒される奇跡の後には、ナインの村に住むやもめの一人
息子の蘇りの奇跡が描かれていました。そして、意外に思われるかも知れませんが今日の
箇所もそうです。先週私たちは「善きサマリア人」の譬えを聴きましたが、これは今日の
「マルタとマリア」の話しとペアになっているのです。
「善きサマリア人」の譬えの中で、律法学者は聖書を知識としては知っていましたが、
それを実践するということが欠けていました。そして今日は逆に、奉仕の業に忙殺されて、
苛立ち、心の平安を失っている一人の女性に対して、御言葉に耳を澄ますことが語られて
いるのです。目の前に傷ついた人がいるのに、その痛みに目を向けることが出来ない男。
そして目の前で主イエスが語っておられるのに、自分の思いや計画に心乱され、主イエス
の御言葉を聴くことが出来ないでいる女。ここに私たちが信仰生活の中で陥り易い過ちや
失敗が表されているといって良いでしょう。
福音書の冒頭 38 節は、
「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」と、
さりげなく書かれています。しかし、忘れてならないことは、この旅はエルサレムへと向
かう十字架への道であったということです。二週間前の福音書の箇所を覚えていらっしゃ
るでしょうか? それは、主イエス一行がエルサレムへの旅を決然と歩み出した旅行記のスタ
ート地点でありました。ここからアドベントまでの四ヶ月間は、ほぼこの旅行記を辿る形
で毎週日課が与えられることになります。それは、ルカの旅行記が主イエスの弟子教育の
旅であったように、この聖霊降臨節に私たちの教会もまた、主イエスのエルサレムへの旅
、、、、
を通して、主に従うということの意味を改めて味わい知るためであります。
【承】
さて、今日の日課のモティーフは「もてなす」ということの意味ではないでしょうか。
旧約ではアブラハムが旅人をもてなしました。使徒書では、パウロは自らを御言葉によっ
て教会に仕える者と語っています。
主イエス一行を迎え入れたマルタの家では、大わらわだったことでしょう。主イエスだ
けならまだしも弟子たちも大勢いたのです。猫の手も借りたいのがマルタの本音だったに
違いありません。ところで、マルタという名前は「女主人」という意味があります。正に
主イエスご一行を迎え入れた宿屋の女将として張り切って切り盛りしていたことでしょう。
しかし、一番手伝って欲しい頼りの妹マリアが一向に手伝う気配がない。多少は多めに見
ていたマルタも、とうとう業を煮やして、主イエスに直談判に及びました。
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C 年 聖霊降臨後第 10 主日 広島教会主日礼拝
40 節には、マルタが「そばに近寄って言った」とありますが、これは「側に突っ立って」
と表現した方が良い言葉です。週報の絵ではマルタが腰に手を置き、憤慨している様子が
描かれていますが、彼女は訴えるのです。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしを
させていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってくだ
さい」
。皆さんもマルタと同じような思いを抱かれたことがあるのではないでしょうか。そ
うでなくともマルタの気持ちに同情または共感出来ると思うのではないでしょうか。
マルタは「いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていた」とあります。この「せ
わしく立ち働く」とは、
「ある場所から逸れていた、引き離されていた」という意味です。
ここでマルタはマリアへの思いを越えて、主イエスに非難をぶつけているようにも見えま
す。私はあなたが旅に疲れ、餓え、体が汚れていることを心配しているのです。それに比
べマリアはあなたの疲れも、餓えも、体の汚れに心を配ることもなく、あなたに話をさせ
それを聞き続けている。あなたをもてなそうとこれほど心を砕き、忙しく立ち働いている
、、、、、、
私を認めて下さい。そしてマリアに手伝わせて下さい。それがイエス様、あなたのためな
のです。そう言っているかのようです。
「善きサマリア人」の箇所でも、律法学者は自分を正当化しようとして「私の隣人とは
誰か」と主に問いました。同じように、ここでマルタは自分を正当化しています。主への
ご奉仕という名目においてマルタは主イエスよりも正しい者として存在しようとしていま
す。マルタはイエスを「主」と呼んでいます。しかし、実際には自分が文字通り女主人と
して命令しイエスの前に突っ立っているのです。教会で「奉仕」という言葉ほど難しいも
のはありません。この時のマルタのように、奉仕の業に加わらない者を時として裁く秤と
なるからです。
「せわしく立ち働く」ことが本来一つとなるべきものから逸らせ、引き離さ
れてしまう。文字通り「忙しい」という字は、心を滅ぼすと書くのです。
マルタの言葉に対して主は答えられました。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思
い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を
選んだ。それを取り上げてはならない」
。皆さん、この言葉はどう思われますか? いやー、
御言葉が大事なのは分かるけど、やっぱり食事や掃除や具体的な奉仕も大事なんじゃない
の。そう思われないでしょうか? 実は教会もずっとこのことで悩んできたのです、その証
拠にここの写本は幾つか異なる種類があるのです。例えば、
「しかし、必要な事は少ない」
というもの。次に、
「しかし、なくてならぬものは多くはない。いや、一つである」という
もの。これは口語訳で採用されました。そして、新共同訳で採用している「しかし、必要
なことは一つである」と完全に言い切っているものです。つまり、初代教会の中でも、「た
だ一つ」と言い切ることに抵抗があった。だから少し表現を和らげたものが幾つも流通し
ていたということなのです。最近の聖書学では、新共同訳が採用した一番ラディカルな「し
かし、必要なことは一つである」が原文であったと考えられています。私もこれこそが主
イエスが十字架への途上で語られたお言葉であったと思います。
【転】
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神学生の時に、他教派の礼拝に出席し、各教派の特徴を学ぶ他教派研修というのがあり
ました。行く教会は自分たちで自由に決められるのですが、毎年必ず行く名物教会があり
ました。それは日本キリスト教団の吉祥寺教会です。この教会は先代の竹森満佐一という
先生が長年牧会した教会でも有名です。この竹森先生は御言葉に集中する教会形成を行っ
てきました。そのために、礼拝堂には来た順に前列から隙間なく座るようにしました。そ
して礼拝終了時には、前列から順に礼拝堂から出て行くのです。そのため教会でお茶やお
昼などは準備しません。ですから教会に台所がなかったそうです。竹森先生は知っておら
れました。礼拝に遅れてくる方が玄関ホールで、何の遠慮もなく大きな声で挨拶を交わし、
世間話をし、そして、礼拝後こそ「教会の交わりの時」みたいに俄然張り切り出す人を。
確かに、食事を一緒にし共にゆっくりと過ごす時間は大切です。特に高齢者、ひとり暮ら
しの方の場合、誰かと会話をするということは深刻な問題となっています。
しかし、そのような交わりは何も教会でなくとも出来るのです。教会にしかないもの。
それは神の見える恵みであるサクラメントと見えない恵みである御言葉に他なりません。
竹森先生が吉祥寺教会でやろうとされたことは、御言葉に養われた本物の教会の群れを作
ることだったのです。
この広島教会では、これまで毎週昼食のご奉仕を多くの方がして下さいました。今日か
ら五週間は真夏と言うこともあり、一時このサービスがお休みとなります。このことは私
たちが奉仕ということ、また教会での交わりということ、そして何よりも礼拝に集うと言
うことの意味を改めて問い直す良い機会でないかと思うのです。
【結】
ところでマリアは、この物語の中で一言も語っていません。彼女はただ「主の足もとに
座って、その話しに聞き入っていた」だけであります。マリアは主の足もとに座りました。
これは弟子としての姿勢であります。と同時にそれは幼子の姿でもあります。マリアは一
心に主イエスの言葉に耳を傾け、御言葉の中に入り込んでさえいます。私たちはどうでし
ょうか? マルタではありませんが、礼拝の最中にお昼のことや晩ご飯のこと、午後から出
かける用事のこと、色々な事に思い悩み、心を乱していないでしょうか。
マリアは何もしていない。主イエスが働いておられる。マルタは旅をする主イエスのそ
の疲れや飢えについて心配することは出来たが、主イエスがこの世に来られた真の務め、
主イエスが私たちに向けて語りかけて下さるその御言葉に心を開き、心を注ぎ出すことが
出来ませんでした。
礼拝は英語で service と言います。そのため、礼拝とは私たちは人間が主体で、神様へ何
か献げたり奉仕したりすることだと勘違いしてしまいます。しかし、ドイツ語ではルター
、、
神学を良く表す言葉として、礼拝を Gottesdienst、つまり「神の奉仕」と明確に表現してい
るのです。
神様に何か欠けたところや不足があり、それを補うために人間が奉仕をするのではあり
ません。礼拝とは、主イエスを真の主として自分の心にお迎えすることです。主は私たち
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C 年 聖霊降臨後第 10 主日 広島教会主日礼拝
を招き、ここに座りなさい、そして御言葉を聴きなさいと命じられているのです。主の足
下に座る経験に根ざしてこそ、私たちは御言葉に示された愛の奉仕へと歩み出すことが出
来る。御言葉に砕かれ養われることなくして、どんなに隣人に対して教会に対して奉仕や
、、、、
思いやりを行おうとしても、それは容易に思い煩いへと変わってしまう。そしてその思い
煩いは、隣人を裁く不平不満へとなっていくのです。重ねて申します。主の足下に座り御
言葉に耳を傾けることこそが、私たちのなすべきただ一つの事であり、私たちに仕えて下
さる主への真のおもてなしなのです。そしてそこに私たちが生かされるとき、私たちは憐
れみの心に生かされた小さなキリスト、一人の善きサマリア人とされていくのです。
人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリ
スト・イエスにあって守るように。 アーメン
以上本文
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