第四章:松本俊夫

第四章
松本俊夫
4-1- 美学的実験と社会的宣言
4-1-1. 芸術と映画、<実験工房>とのコラボレーション
1932年、松本俊夫は名古屋に生まれた。中学校時代に絵を描きはじめたが、両
親の希望に応じ、東京芸術大学を断念し、東京大学医学部心理学科に入学すること
にした。一時、芸術をわきにのけておけば、夢の想像のメカニズムをより理解できるよ
うになるだろうと思ったのだ。しかし、結局2年後に退学し、違う方向に向かった。奨学
金をもらうことになり、経済的に独立し、同大学の文学部美学美術史学科に入学する
ことができた。
当時は、1920年代のシュルレアリスムと実験映画に興味を持っていたが、その
時代の映像を見ることができず、文献や写真などによってその勉強を続けた。「美術
の世界で考えていた問題が、そのうちに、そこに収まらなくなって、映画の方向にふく
らんじゃったというわけなんだ」。
東京大学に在学中は、理論以外の勉強ができなかったため、自分の考えをより
効果的に実行に移すために、技術的な知識を得ることも考えなければならなかった。
そこで、東京大学と並行して、日本大学芸術学部映画学科の修学コースに一年間出
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・1
席することにした。1955 1 年に卒業した時、松本は当然ながら技術的にまだ知識がま
だ足りないことを自覚していた。すぐに大きな会社に就職すると、強制されるおそれが
あるので、小さな会社に勤めた方が自由に行動できると思い、「新理研映画社」を選
んだ。
以前からの知り合いの<実験工房>のメンバー、山口勝弘と北代省三に、日本
の自転車の輸出のプロモーション映画の共同制作を提案した。松本が構成を担当
し、山口と北代に美術監督として参加するという企画だった。新理研映画社にそのプ
ロジェクトを提案したら、予算がとれることになった。《銀輪》は日本初のカラー実験映
画だった。
最初の段階から、幾つかの問題が現われた。<実験工房>のメンバーと松本は
スペシャル・エフェクト(特別効果)は実現が困難でも、是非挑戦したいと思っていた。
カラー・シネマスコープが誕生したところだったので、映画制作の関係者は皆カ
ラーを積極的に使おうとしている時代だった。その実験は秘密裡に東宝社の実験室で
行われていたが、東宝映画の円谷栄二監督に相談し、協力を得ることにした。松本は
円谷監督に評価され、その後東宝映画で仕事するように依頼されたが、《ゴジラ》のシ
リーズを担当するよりも自分の研究に集中したかったため、辞退した。彼は《銀輪》の
制作で実践したものをさらに追求し、特別効果を研究することには深く興味を持った。
《銀輪》はサウンドトラックをも一新することとなった。武満徹はその時初めてサウ
ンドトラックを作曲した折しも、ミュージック・コンクレートの先駆者、ピエール・シェ
フェールとピエール・アンリのレコードが日本で初めて発売されるところだった。彼等が
提案した電気音響学的技術を日本でも実際に使用するきっかけとなった。材料として
録音された鳥の声を使い、当時の初歩的な機器を使用し、テープの速度変化やコ
ラージュを行った。映画の内容は未定だったため、映像の場合も、音の場合も、第一
の問題は制作方法のルールを決定することだった。解決方法の一つとして、サウンドト
ラックと映像のある場面はチャンス・オペレーションによって実験的に構成された。
1秋山邦晴「システムの論理と想像力(松本俊夫のインタビュー)」、『<75松本俊夫映像個展>』、東京、アンダー
グラウンド・センター、1975、p.13
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・2
松本の考えでは、映画における表象は無意味な挑戦だった。日常的な見方とは
異なった見方を可能にするモンタージュ技術を発達させ、日常的な見方を超えること
と必要としていた。音からは説明的な機能を奪うべきだったし、映像はある解釈のイラ
ストレーションとして存在させてはならなかった。音と映像の相互作用を深めるため
に、松本は常に、<実験工房>のメンバーなど、実験音楽の作曲家と、できるだけコ
ラボレーションを行うようにしていた。映像と音の二つの分野は今後はそれ以降は競
争するのではなく、協力し合うべきだと主張し続けた。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・3
4-1-2. アヴァンギャルドのレアリスム:レネエの《ゲルニカ》
フランスのシュルレアリスム映画への関心し続いていたところ、イタリアの「ネオ・
レアリスモ」、特にロベルト・ロッセリーニの作品を知るようになり、想像力の横溢と現
実に対する鋭さをどのように合わせることができるかを考えていた。アラン・レネエの
映画、特に《ゲルニカ》(1951年)は「未知の世界というものへの憧れ」をかきたてた作
品だった。
松本は《ゲルニカ》に強い影響を受けたと告白している。レネエはピカソの絵をよ
り詳しく分析するために、余計な感情を消していた。その意味で、映画の対象は《ゲ
ルニカ》よりも、まさに「レネエが見たピカソ」というテーマだった。奇妙にドキュメンタ
リーの方法は全く現われていなかった。
2
「外側の世界にレンズを向けながら、その焦点は、まぎれもなくレネエ自身
の内側の世界に合わされているからである。かれはピカソを「見せよう」としたの
ではなく、「見よう」としたのであり、彼の記録しようとしたものは、彼自身の見た
ヴィジョンそのものにほかならない。」
当時は、カメラの動きとモンタージュ技術がすでに注目されていたにもかかわら
ず、この短編映画では、作家の意図を対象に合わせ、意味性を強調するということは
なかった。レネエは《ゲルニカ》を通して、見える対象としての世界を表わす試みから
離れようとした。そして、見3えない内的世界を表現する方法を提案した。
前衛芸術は、素朴な信頼やクラシックなポートレートを破壊する方法を発見しな
ければならなかった。第一次大戦後の第一世代の映画作家が「客観的世界」に異議
を申し立て、内的世界に関心を向けていたと思われる。彼等は「自己」を実現しようと
していたので、その主張はクラシックなレアリスムのアンチテーゼとして現われた。そ
の意味で、松本にとって、彼等の関心は時勢にとても適したテーマだと思われた。
2
秋山邦晴「システムの論理と想像力(松本俊夫のインタビュー)」、p.13
3
松本俊夫『映像の発見-アヴァンギャルドとドキュメンタリー』、三一書房、1963、p.49
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・4
レアリスムの新しい形態を実現するために、限界のはっきり現われていた20年代
のレアリスムと比較対照する必要があった。そのレアリスムは外的世界と内的世界の
対立に基づいて、存在していた。それに対して、レネエの《ゲルニカ》はとても新鮮
だった。その点について、松本は次のように述べている。
「第一次大戦後のアヴァンギャルド映画を、今日のドキュメンタリストがとり
あげる観点は、したがって明らかである。それは否定の否定を目指して、従来の
ドキュメンタリー映画と従来のアヴァンギャルド映画を止揚すること、いいかえる
なら、外部世界と内部世界をその対立と統一において総体的にとらえること両
者のじン・テーゼである新しい映画の可能 性を志向することにある。そしてその
可能性の手がかりを私はレネエの『ゲルニカ』の中に見い出すのである。」
その二つの世界のバランスは、松本が仮定映像製作の条件として考えられる。
作品の現実性は両極の間の弁護法 4 的な往復を徹底的に深めることによって行わ
れ、主観的な表現に導くと思える。確かに松本がいう「前衛記録映画」や「ネオ・ドキュ
メンタリー」というジャンルは、ドキュメンタリーとアヴァンギャルド映画が融合できる場
である。
4
松本俊夫『映像の発見-アヴァンギャルドとドキュメンタリー』、p.52.
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・5
4-1-3. 1950年代の前衛記録映画
とはいえ、当時の社会的紛争や運動から離れ、外的現実を黙殺し、主観的内部
世界に注目することだけで満足することはできなかった。松本は、世界を描いている
作家の創造力や責任感にも注意するべきと考えていた。
彼は雑誌や協会などを設立することによって、記録映画というジャンルを推進し
ていた。1956年に、<新理研映画労働組合>を設立し、1957年には、事務局長になっ
た。同年、<記録映画作家協会>のメンバーになり、1958年には雑誌<記録映画>
を設立し、同誌に西洋のレアリスム、シュルレアリスム映画に関する指摘や意見をまと
め、『前衛記録映画論』として発表した。
1958年、1959年には、大島渚、吉田由繁、佐藤忠夫等と一緒に、雑誌『映画批
評』を編集した。彼等は「マルクス主義を改めて定義し、そしてマルクス主義とシュル
レアリスムの概念を同時に扱う立場を見つけようとしていた」。映画は社会的問題や不
平等を暴露する武器として扱われていた。松本が初めて制作した記録映画《潜函》
は、青森県で16ミリ・フィルムで撮影された。松本自身が海中作業用の潜函に乗り、
<大林組>に詐取されて5いた韓国人や東北地方の農民の労働者の状況を撮影し続
けた。1956年11月に、最初に上映された。当時の社会的記録映画は、制作会社の所
属だったため、破産した時には、多くの場合、フィルムが散逸してしまった。1958年12
月に、松本は新理研映画社を辞職した。
1959年に、新作の記録映画、《春を呼ぶ子ら》を発表した。当時「日本のチベッ
ト」と言われていた岩手県出身の若者達が仕事を探すために、東京の郊外に隠棲し
ていた。かれらの厳しい生活状況についてのドキュメンタリーだった。
5
Ôshima Nagisa、「Entretien avec Michel Ciment」、Paris、『Positif No. 111』、1969-12、p.50
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・6
1951年、サンフランシスコ条約でアメリカ軍占領が正式に終了したが、その後締
結された「安保条約」によって、20万人のアメリカの軍人が日本に滞在することとなっ
た。日本はその意味で、アメリカの軍事基地になった。日本がアメリカに依存するシン
ボルである安保条約は、左翼の政治党や全学連に通告され、糾弾された。
松本の仲間たちもそこで活動していた。大島渚が京都の全学連の事務局長
で、1951年に天皇の京都訪問に反対するデモを計画した。1959年に、松本が、安保
条約更新の危険について、記録映画《安保条約》を制作し、「新しいプロパガンダ映画
の許される範囲を実験してみた」。何十万人もの人が国会の前でデモを行ったにもか
かわらず、「安保条約」は1960年6月20日に更新された。松本はちょうどこの頃、中国
対外協会に招待され、2カ月間ほど中国を旅行していた。
同年帰国後、江戸時代に絹や綿の高級布の製造で繁栄していた 6 京都上京区
の織工の街についての記録映画、《西陣》を撮影した。20世紀になってこの共同体の
生活状況は難しくなっていた。長い伝統をもっとも正しく表わすために、松本は洗練さ
れたシンプルな特別効果を使い、1960年のヴェニス・ビエンナーレで金獅子賞を受賞
した。
《安保条約》と同様、大衆の問題、観点や意見を明らかにするために制作された
作品である。ところで、松本は大衆に対する関心の危険性については次のように述べ
ている。
「その課題を回避し、自己と現実がはげしく交錯する地点を凝視すること
なく、まず何にも先行して大衆は何を要求しているかという問題を設定するとこ
からはじめる創作は、永久に不毛である。私は何も大衆を見下ろしているわけで
はない。大衆を物神化する思想こそ、真に大衆を解放する道を頑強に閉ざして
いるのである。大衆を自分たちのところまで引きあげようとしたり、大衆のところ
にまで自分たちが降りてゆこうとしたりする考えは、決定的に誤っている。そのよ
うな考えは、真の人間の連帯がいかにして可能かという問に、何ひとつ答えるも
6
秋山邦晴「システムの論理と想像力(松本俊夫のインタビュー)」、p.12
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・7
のではない。
私たちが、虚偽の連帯を否定し、擬制のコミュニケーションを破壊しようと
試みるのは、その問いを真剣に考えるからである。それはまさに、おのれのなか
に他者(大衆)を見いだし、他者(大衆)のなかにおのれを見いだす視点が、いか
にして得されうるかという問いに答えることでもある。私たちの運動は、ディスコ
ミュニケーションの凝視の果てに真の人間連帯を発見してゆく地点から組織さ
れなおさないかぎり、もはやどうにもならないところにきていることは、あまりにも
確かなことなのである。(...)ここでは、ただ、無知な政治小役人たちの芸術干渉
が、いかに芸術運動の発展にとって有害であるかということを指摘しておきた
かったまでのことである。」
当時、左翼や反対運動の敗北を実感し、大島渚は「革命運動の革命的批判」を
提案した《日本の夜と霧》(1960年)を発表した。1961年には、7大江健三郎の『飼育』
を映画化した。この作品は1945年の日本の村を舞台としている。アメリカ軍の黒人パ
イロットがパラシュトで落ちてきて、村民たちに囚われ、結局殺される。ここで、大島は
戦後の日本人の精神状態、つまり「服従、集団的自己去勢や個人の否定、という封建
的な考え方」を描いたと思われる。
1963年2月、雑誌『現代詩』に映画の意味性を疑問に付した自己批判的宣言が
発表された。松本はそれを次のようにまとめた。
「私たちの創作には、未踏の世界にふみこんでゆく精 8 神の冒険にまだま
だ欠けており、創作の過程そのものを、世界と自己の新たな発見過程として、
みずからをきびしく変革しようとする自己否定の精神がまだまだ稀薄だというこ
とにほかならない。9」
道徳の制約と美学の制約がまだ和解できていなかったと思われる。
7
Ôshima Nagisa、「Entretien avec Michel Ciment」、p.50
8
松本俊夫「映像の発見」、p.226-227
9
Noël Burch、『Pour un observateur lointain』、Paris、Gallimard、1982、p.328
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・8
4-1-4. 個人映画のための弁論
松本は常に、《白い長い線の記録》に現われるアヴァンギャルドの精神と、《安保
条約》の中に存在しているドキュメンタ10リーの特徴の間で揺れ動いている。この二つ
の逆方向は、映画の最初期の作品にも明らかに現われていた。メリエスはトリックやイ
リュージョン、いわゆる特別効果を多く発明したが、リュミエール兄弟はいかにドキュメ
ンタリーの先駆者として知られている。松本にとって、実験映画と記録映画は「ふたつ
の車輪みたいに考え方としてはあった」のである。当然に、松本の初めての著作集は
『映像の発見−アヴァンギャルドとドキュメンタリー』という題にされた。だが、説明的、
見せかけで間接的な次元に反対し、両方の場合に「内的と中心的」な問題を取り上げ
なければならなかったのだ。
50年代の日本では、実験映画にはまだ根がなかった。20年代のアヴァンギャル
ド映画を参照しながら、商業映画と関係なく、「もう一つの映画」の基本を創立しようと
していた。「未知の世界」への好奇心11は、実験の方法と基礎を積極的に作る第一の
理由だったかもしれない。一時、劇映画のためのスタジオ撮影をなるべく避けてい
た。
『幻視の美学』という1976 12 年に出版された著作集には、 13 60年代に展開した
「個人映画」の基本概念を提案した。映画のジャンルを定義する名は幾つかある:シネ
マ・アンダーグラウンド、シネマ・アンデパンダン、実験映画、アヴァンギャルド映画、ア
ンデレ・キノ(松本はその場合に「別の映画」と名付けをする)。アンデレ・キノの場合、
それまで制作された映画に対するアンチ・テーゼの意味も含んでいる。それぞれの題
10
松本俊夫「映像の発見」、p.226
11
秋山邦晴「システムの論理と想像力(松本俊夫のインタビュー)」、p.12.
12
松本俊夫『幻視の美学』、東京、フィルムアート社、1976、p.130-148
13
松本俊夫『映像の発見−アヴァンギャルドとドキュメンタリー』
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・9
は、作品や時代によって、それぞれのコンセプト、アプローチ、方法やシステムなどを
表わす。ただし、機能と作風について、そういった言い方は不足に思われる。「個人映
画」という呼び方はほかの名前を含んでいるように考えられた。普通の劇映画やドキュ
メンタリーとの違いを明らかに表わしながら、映画創作の自由さ、純粋さとオリジナリ
ティを示している。
「個人映画」は、作家の個性を大事にする“cinéma
d’auteur”を発展した「ヌー
ヴェル・ヴァーグ」の試みを続け、作家自信の個性が展開するような状況を提供する
べきというふうに考えられていた。商業映画の場合、作品が、特に表現における色々な
強制に厳しく服従されるが、個人映画の場合は、ただ一つの強制は、つまり予算的な
限界が残る。とても大事なところなのでが、それだけである。
自由であることは商業と関係なく存在するからである。商業映画は売り物である
ために存在する。テーマや表現集団は、観客が飽きるまでに使用されるモデルに基づ
き、制作会社の実行委員会によって選択される。その意味で、商業映画の制作方法
によって、観客をはじめ、評論家や作家自信の能力やセンシビリティーが腐る危険が
ある。センシビリティーの構造の内的と外的なシステム化はどうしても習慣に服従され
るようになる。
そこで、松本は幾つかの質問を考えている。創造の面で、商業映画作家の、商
業の壁を超える才能や可能性についての疑問である。商業の服従を忘れさせ、驚嘆
させるような傑作を作り上げた作家がいる。彼等は創造才能の秘密によって、商業映
画の性質を改善することができた。
松本は逆方向なものにもかかわらず、劇映画と個人映画との関係を考え直した
い。実は、その違いは詩と演劇との違いに似ていると思われる。実験映画作家マヤ・
デレンが指摘したように、それらの相違した行動は独立しているが、詩は垂直な構造
によって構成されることに対して、演劇は、偶発的な展開に基づいているので、むしろ
水平な構造を従うように思われる。劇映画は商業的要求に従って発達したため、深く
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・10
変質したと言える。個人映画は商業的強制のせいで現われた「感染源」と闘わなけれ
ばならない。
精神的純粋さを守る個人映画の、例えば予算的不足のような欠点は逆に力に
なる場合もある。言うまでもなく、欠点は皆力になることはない。個人映画監督も自然
に喜ばせることを目指している。しかし、そのことをしようとし始めると、マスメディアを
利用することを希望を持ち、商業的な交渉をせざるをえなくなり、必然に不純粋にな
る。最初の趣旨を失い、一種のファッションになった「アングラブーム」の場合はまさに
そういった現象があった。そうなった時、残念ながら、純粋さに戻ることは珍しい。
影響の受けかたはまた大事な問題になる。作品のオリジナリティを保護するた
めに、個人が自分の道徳かルールを作らねばならない。 個人映画のオリジナリティは
驚かせることにあるのではなく、むしろユニークな思想や感性との出会いに思われる。
「前者では作家の眼が外側に向いているのに対して、後者ではその眼が内側に
向けているところが基本的にちがうのだ。つまり真にオリジナルな世界とは、作
家が自分の心の内側を、ひたすら純粋に下降していった結果としてでてくる固
有性にほかならない。」
このプロセス自体は、作家に自分を閉じる危険になる恐れもある。にもかかわら
ず、我々と関係ないと思われていた世界が、豊かな感性によって描かれると、感動す
ることがある。なぜ我々を知らない作家の映画に結ばれることを感じるのか。実際、共
通の意 14 識を超えた人間の永久性に近づくことによって、作家の個人世界からはず
れたものになるだろう。「たとえ本人が他人に見せようとは思わなくても、表現すること
の本質には他人が含まれている」。アメリカのアンダーグラウンド映画の代表、ジョナ
ス・メカスは映画日記にその過程についてこのように述べた。「人の心は現実的で具
体的である。人の心に基づいた芸術行為と、芸術行為を通してあらわれる心の働きは
現実的で具体的である」。
現実の中に深く根差しているので、個人映画は逃げる行為にはならない。しか
し、個人や大衆に影響を与えた映画は「革新的」な作品であるかないかという問題と
14
松本俊夫『幻視の美学』、p.139
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・11
違う。松本は意識の革新を二種15類に分けるように考えている。自分が「直接経験」に
よって、抗し得ない変化するか、人間的な行為を通して、他人が行っている善や真実
の追求を感覚し、感動する。ある映画は「革新的」な効果を求めずに、そう思われる場
合がある。それは内世界の探究に基づいた自己を厳しく疑問した効果である。
「私たちはラジカルな個人映画を見たとき、いわば安定した意識の秩序を打ち
砕かれ、精神的にも生理的にも、一種の痙攣状態を体験するが、それこそ個人
映画が持ち続けている独特16な楽しさなのだ。」
松本はそこで、自己を失ったことによって、個人の限界の超越としての恍惚を目
指している。「コスモス」と一体となすために、意識の彼方を探さねばならない。自己
超越の意味を理解するため17に、松本による個人の意味に戻らなければならない。シ
グムンド・フロイドに参考するよりも、松本はC.G.ユングに味方する。「ユングによれ
ば、その大海原には個人が分離駿以前の、広く人類を結び付けている共通の普遍的
心理が横たわっているという」。松本は、個人の世界を支える領域から聞えてくるこの
リズムが見える、聞えるように考えている。
15
松本俊夫『幻視の美学』、p.142
16
松本俊夫『幻視の美学』、p.142
17
松本俊夫『幻視の美学』、p.144
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・12
4-1-5. 長編映画
松本は、商業映画には関心が無いと何度も発言している。松本にとって、長編
映画の制作は、日活、松竹、東映、東宝、大栄の5社が支配していた日本映画の状況
に対する一つの挑戦であった。初めの長編映画に、一千万円の予算が必要だというこ
とがわかり、松本は、作家の創造における自由を保護する18ことで知られていたアート
シアター社に企画を持ち込んだ。
《薔薇の葬列》は、オイディプスの悲劇を自由な発想で翻案したものである。主
人公エッディは王ではなくゲイバーの「ママ」で、サルトルの小説、『聖ジュネ』から取っ
た<ジュネ>19というバーで働いている。母親を殺した後、父親と寝たことに気付いた
とき、両目を包丁で刺してしまう。
映画の準備の段階で、松 20 本は、女性としてしか生きていけない若者たちの、
既成の道徳に捉われない生き方に注意を引かれていた。60年代末のゲイボーイたち
の「反対方向」の生活を理解しようとしたのだ。東京のゲイの人口は、当時60万人と
推測されている。
サルトルは本の中で、若者のジュネがホモにならざるを得なかったことを明らか
にしている。松本は、生活の場での役者や歩行者をカメラの前でインタビューし、ド
キュメンタリー的な場面も取り入れている。インタビューを行うことによって、松本は、
ホモの人口が社会状況によって激増したことを発見した。
「そのようにしか出口を与えない時代の欝屈と、そのようにしか出口を見いだせ
ない人々の分厚いフラストレーションを直感しないわけにはゆかない(・・・)その
18
松本俊夫『幻視の美学』、p.145
19
現在ピーターはエッディーの役を担当した。
20
Jean Paul Sartre、『Saint Genêt, comédien et martyr』、Paris、1952
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・13
意味で彼らは、資本主義が高度に爛熟した都市文明の日陰に、あやしく咲き乱
れた隠花植物のイメージをかきたてる。」
ホモセクシュアルの世界を選んだのは、それまで誰も白日の下に曝したことが
なかったからである。ただ、松本は、そのような社会現象に関心があったのではなく、
この映画を、シャルル・ボードレールの『悪の華』へのオマージュとして作った。映画の
冒頭に、ボードレールの詩句21、「われは傷口にして刃」が日本語で現われる。自分の
目を刺してしまうエッデイの運命は世界の傷口であり、鋭利な刃は存在論的なシンボ
ルである。エッディが長い刃を眼に入れるシーンは痛々しいが、技巧は明らかで、演劇
的だ。ラスト・シーンは、驚き、かつ無関心な群衆の中、エッディが血まみれの顔で、
町を歩いている22ところで終わる。日常に戻ることによって、痛ましさが募る。
現代社会で性的な倒錯が複雑の極みに達しているのは確かなようだ。同性愛
者の反社会的、あるいは非社会的な態度を通して、松本は、現代社会における「精神
的欝屈」を明らかにしようとした。そこには破壊的意志や、隠れた意志、目に見えない
意志が含まれている。
アートは政治的状況に立ち向かわなければならないとよく言われる 23 。おそら
く、そのためにも独立していることが必要なのだろう。しかし映画の価値は、このよう
な態度にのみあるのではない。進歩的なイデオロギーを使って、時代遅れの表現方
法に満足していいということにはならない。松本は映画作りにあたって、新しいモチー
フの探求と、新しい表現方法の追求を結び合わせることにこだわってきた。
この意味で、映画のジャンル分けは大して重要ではない。伝統的な映画にとっ
て意味を持っていた、形式的な種類分けを否定する者もいる。しかし、可能性は一つ
ではなく、複数である。映画の変革は、伝統的な形式によっても、マルチ・プロジェク
ションなど新しい技術によっても、可能である。
思想の上からも感性の上からも、世界との関係を変えることのできる、自由な精
神を持つことが必要なのである。前衛と言ったとき、作品や理論の内容が重要なので
はなく、ラジカルな態度が最も重要なのである。
21
松本俊夫『映画の変革』、東京、三一書房、1972、p.234
22Charles
Baudelaire、「L’Héautontimoroumenos」、『Les fleurs du mal』、Paris、Gallimard、p.79
23松本俊夫『映画の変革』、p..230
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・14
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・15
4-2- 映像の変容
4-2-1. 動かない物の動き
松本は1963年に「映画詩」、《石の詩》を制作した。この映画を作るにあたって、
松本は二つの困難な制約を自らに課した。動かない写真だけを用いること、さらに、動
かない石を対象とすることである。批評家、西嶋憲生によれば、松本はこの映画に
よって、「我々の感覚の連続性に疑問を投げ掛けている」。この試みは、松本自身が説
明しているように、二重の目的を持っていた。つまり、「方法における実験と、モチーフ
の追求」である。松本は、「ドキュメンタリーは可視的な動的対象に依拠せざるを得な
い」という通説に挑戦したのである。
《石の詩》は、1964年の<トゥール国際短篇映画祭>に入選した。ジョルジュ・サ
ドウルは次のように絶賛している。
「この石の映画には、動いている映像は一つも出てこない。作家は、映画に
生命を与えるために、編集技術とカメラの動きだけを使った。それにもかかわら
ず、この『映画詩』は石に変えられた人間24の心臓のように、暗く執拗なリズムで
鼓動を打っている。」
松本がアニメーションの技法によって作り出した動きは、確かに、動かない物の
写25真を使っているからこそ、より一層はっきりと感じられ、どんなに激しい現実の動き
24松本俊夫「アヴァンギャルドのためのフォーラム」、東京、アテネ・フランセ文化センター、但し、『<75松本俊夫映
像個展>』のカタログ中の、p.6、かわなかのぶひろによる「松本の映画の果てしない彼方へ」に引用されたものよ
り。
25
かわなか のぶひろによる「松本の映画の果てしない彼方へ」、p.6
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・16
よりも、強く訴えてくる。松本はここで、映画の役割の一つをもう一度見つ 26 けだした
のだろう。それは、生命の無い物に生命と呼吸を与えることである。映画の中には、彫
刻家、中原正行の作品も現われるが、中原が言うには、石は何万年も前に「死んだ」
ものであっても、ちょっと磨けば甦るそうだ。松本は何千もの石の写真に、動きと生命
を取り戻した。
西嶋によれば、この作品は現実と映像の関係を吟味することであり、「映像とい
う両義的な記号のシニフィエ(意味されるもの)とシニフィアン(意味するもの)の関係
で」とらえることなのである。松本の前衛性は、このように「意味を転換するフィルムの
手法」において明らかである。
26ジョールジュ・サドゥール「石の詩」、『Matsumoto
Toshio Experimental Film Works/ Image Stream、松本俊夫
実験映像の軌跡』、東京、スペース自然堂、1989。Georges SADOUL『Histoire du cinéma』、Paris、
Flammarion、1962、p.285も参照
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・17
4-2-2. 複製とだぶり
1974年、アン27ディ・ウォーホルが重要な回顧展のために東京へやってきた。松
本はこの機会にウォーホルを映画に撮ることにした。その結果完成した作品は、《アン
ディ・ウォーホル=複々製 28 》と名付けられた。この作品には、その後の松本の制作に
とって本質的なものとなる原則が現われている。
展覧会場の第一次撮影で、松本はマルチ・レンズを使った。ウォーホルとその作
品は、ここですでに少なくとも6倍に増殖している。そして、さらに「ダイナミック・フレイ
ム・プロジェクター」という、上映の時にフィルムの流れるスピードを変換したり、流れを
止めたりする装置を使い、各映像の時間的な増幅を試みた。そして、一度撮影したも
のをスクリーンに映写して、それをもう一度撮影することによって、複々製という方法を
実践した。音声も同じような方法で作られた。
この映画の最後で、複々製の手法が暴かれる。松本はカメラを後に引いて、スク
リーンの枠が画面に入るようにしたのだ。これは巧妙に用意された「オチ」ではなく、作
品の構造を見せることによって、複製アーティスト自身を時空間の遊びの中に放りむ
ことであった。「ウォーホルの犯罪を暴く方法。それは彼自身を二重三重に複製・増殖
することだ。」
***
《複々製》は、60年代初頭に発展した、花火にも使われている色のシンセサイ
ザーを使用している。この作品はそのため、秋山邦晴によれば、「映像におけるシステ
ムによる論理というか、テクノロジーによる映像への構造論的アプローチ」となってい
27西嶋憲生「変化・ずれ・異化」、『<松本俊夫個展>』、東京、ビデオ・ギャラリーSCAN、1983年10月
28西嶋憲生「変化・ずれ・異化」
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・18
る。
しかし松本自身は、必然的にイメージの消去へと向かうような構造性の追求と
は、 29 かなり違ったところにいると自認している。松本はイメージの連係と力を重んじ
て、それを個人の生理に譬える。したがって、客観30的な構造のために個人的な見解
を消してしまうことなどできないのだ。
《飛ぶ》(1975年)は、このようなシステムの柔軟性を証明している。生き生きとし
た相互に作用するリズムを尊重しているため、偶然というものがそこに介在しているの
だ。松本の作品はあまりにもきちんと計算されたものに見えるので、驚く人もある。例
えば秋山は、1964年に有名な《石の詩》の音楽を担当したとき、松本が作ってあった
映像の厳密な制作図表に基づいて作曲した。しかし松本は、結果があらかじめわか
るような方法や、抽象的なシステムを採用することに意味を見いだしているわけでは
ない。細心に計算して準備したとしても、結果に予測不能なものが残ることを良しとし
ているのだ。実際、作品のバランスを計算するとき、ほとんどサイコロを振るように決
められたものもある。どのように展開するかを大まかに予測しながらも、詳細な計画に
不決定要素を残すためである。
《複々製》や《石の詩》は、だぶったイメージが重なっていて、《階段を降りる花嫁
さえも・・・》を思わせるところがある。同じ技術が、1970年<大阪万国博覧会>の<せ
んい館>で、《スペース・プロジェクション・アコ》の壁に映し出された体や顔にも使わ
れていた。そこには、動かない物に動きを与えたり、また逆に、現実の動きを非現実に
しようとする意志が、はっきりと見られる。松本は、こうした意志によって、映画の本質
的な性質を甦らせる。なぜなら、この種の実験こそ、イメージと自分との関係の直接
的な性格を暴き、イメージが映画に及ぼす魅惑に固有の力を、明らかにすることがで
きるからである。
29松本俊夫「アンディ・ウォーホル=複々製」、『<75松本俊夫映像個展>』、p.20-21
30
秋山邦晴「システムの論理と想像力(松本俊夫のインタビュー)」、 p.14
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・19
4-2-3. 1970年、国際万国博覧会:エロチックな空間
せんい社は1967年、松本に対して、1970年の<大阪国際万国博覧会>で建設
予定のパビリオンのために、芸術的構想を建ててほしいと依頼した。会社の責任者た
ちは、主に映像で空間が構成されることを想定していたのだ。そこで松本は条件を出
した。完全に自由な決定権が与えられること、そして、参加アーティストの選択を、松
本に一任すること、である。
この条件は受け入れられ、財政援助も無条件に与えられることになった。松本は
この時、1955年に<ブリュッセルの博覧会>で、スタン・ヴァンダーベックが《ムー
ビー・ドローム》を作った時のことを思い出していた。松本はいつも、それと同じくらいの
規模のプロジェクトを実現する機会を待ち望んでいたのだ。
20メートルの高さの建物の内部に、松本は鐘の形をしたドームを想定し、内部に
映像を浴びせかけることにした。映像、彫刻、スライド、音響を混ぜ合わせ、「エロスと
タナトス」というテーマに彩られた、バロック的な時空間を作りたいと考えた。神殿のよ
うにそびえる大きなドームの中で、男女の肉体の映像が、恐るべき効果を持ったスペ
クタクルに観客を引き込むのだ。会社の責任者たちは驚いたが興味を示し、プロジェ
クトは実現へ向かう運びとなった。
松本は1967年の初めに参加メンバーを集めた。多くの参加者の中に、横尾忠則
がいる。横尾は芸術監督、そして、建物内部の建築構想を任された。秋山邦晴は、作
曲者と音響技術者の募集を担当し、パビリオンの音響環境のために、湯浅譲二を指
名した。やはり<実験工房>の活動的なメンバーだった今井尚治は、スライドを作る
ことになった。
この企画には二つの原則があった。一つは空間内部の構想に関することだ。こ
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・20
れは各パートで共通して行う作業であり、参加者全員の承認無しには、何一つ決定、
もしくは計画されないこと。二つ目は、会社の委員会の決定に対するアーティストたち
の自由と自立を再度確認したものだった。参加アーティストの承認無しには、何一つ
計画されないこと。
方法上のプランとして、松本のメンバーたちは、内容の前に容器を決めてしまう
ような、通常よく見られるやり方はとらないことにした。ドーム内部で行われるイベント
の性格によって、具体的に建築を構想することが重要であった。建築的な機能にした
がって空間が創られるのではなく、空間と選んだテーマをよく考察した上で、建築が
決定されるべきだ。というのも、松本は、明らかに調和を欠いていた<万博>全体の
構成を、改善しようという方向で考えを進めていたからだ。メンバーたちは、絶対に、
楽観的で「近代的」な未来論に裏付けられた建物を作ってはならない。空間は、写真
のネガとポジの手法を使って、日常的な現実から、幻想の非日常的な環境へと、突
然の変貌を遂げる必要があった。秩序や常識の座標軸をひっくり返さなければならな
かった。錯乱の環境を作ることによって、また、感覚に暴力を与えることによって、一つ
のショックを引き起こすのである。
横尾忠則が建築を手懸け、このような大規模の三次元ドームを作ったのは、こ
の時が初めてであった。結果は、楔形のプライマリー・ストラクチャーに似たものになっ
た。環境彫刻に固有の基準で建築を作ることが重要だったのである。
したがって、ドームは内部に二重の建築構造を持つことになった。大きな子宮の
ような空間がそこに作られた。その上、パビリオンの内壁は赤く塗られていた。横尾
は、ドームの内部に、絡みあう6人の男女の体を表したいと思った。しかし、そこで待っ
たがかかった。そのようなエロティシズムはあまりにも露骨で、<万博>の枠内で許さ
れる範囲を越えているというのだ。それは、松本とメンバーがせんい社から受けた唯
一の反対であった。
そこで松本と横尾は、エロチックな世界を同じくらいの幸福感で表現できる、目
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・21
に見えない彫刻を作ることにした。横尾が「人体の断片のストロボスコープによる彫
刻」を提案した。モデルには、松本の映像で主役を務めていた、アコというあだ名の若
いドイツ女性を使うことにした。松本と横尾は、写真やブラックライトなどの照明を使っ
て、あらゆる方法をテストした。そして結局、ドーム内部の彫刻を蛍光色の絵の具で
塗ることにした。
この作品で考えなければならないことは、まだ他にもあった。観客の存在を作品
に加えることである。松本は、この種の実験を、前にもすでにマルチ・プロジェクション
を様々に使って行っていた。1969年に作られた《シャドー》は、<第十九回現代日本美
術展>の会場となった、上野美術館の閉じた空間で発表された。壁はそのまま真っ
白く残され、オブジェも映像も無い。ただ、壁に設置された何台かのプロジェクター
が、規則的な間隔をおいて光のフラッシュを発している。展示室に入った人たちは、自
分の体を使って、壁に好きな形を投影できるというわけだ。各プロジェクターの近くに
は、ポテンシオメーターが置かれ、フラッシュの頻度を調節していた。
1969年には、また、<クロス・トーク・インターメディア>フェスティバルが代々木
の東京国立競技場で開かれ、アメリカと日本のアーティストが参加した。松本が発表
した作品は、16ミリのプロジェクターを5台、オーバーヘッド・プロジェクターを二台と、
複雑な照明システム、そして直径4メートルの風船を20個使ったもので、《イコンのた
めのプロジェクション》と名付けられていた。風船はぶつかり合いながら、ゆっくりと移
動していた。松本は、風船に映像がはっきりと映るようにプロジェクターを配置した。映
像は人間の顔と体で、風船の動きに従ってぶつかったり混ざったりする。音楽は、湯浅
譲二によるもので《イコン》と題されていた。松本は、マルチ・スピーカーで流される音
楽に合わせて、上映を行った。
《スペース・プロジェクション・アコ》は、したがって、こうした観客参加を伴い、多
様なメディアを使った一連のプロジェクトに続くものとして構想された。松本は今度
は、35ミリのプロジェクター10台と、スライドのプロジェクターを8台注文した。そして、
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・22
1969年夏に、各プロジェクターの空間割り当てと、映像の内容を決め、11月にドーム
内部で実験してみてから、最終的な編集を行った。湯浅譲二は、器楽部と電子音の
パートが混ざり合う音楽を作曲した。床から天井まで57台のスピーカーが設置され、
ヘクサフォンの磁器テープでつながれている。映像と音は、正確なプランに基づいて
流されたが、松本は偶然の現象が起こりうる余地を残すよう、配慮した。
他のほとんどのパビリオンでは、様々な民族や部族の映像が映し出され、遠い
国々への旅に見る者を誘っていた。松本は、スタジオの中だけで、黒い背景にモデル
を使って撮影を行ったわけだ。変形されたフィルムとスライドの組合せは、ルポルター
ジュの手法で観客を「外部の世界」へ運ぶのではなく、「内部の世界」へと誘ってい
た。観客は、ここでもやはり自分の体の影で遊ぶことができ、スクリーンの一部となっ
ていた。こうして、観客は三次元の映像と音の渦に巻き込まれ、当惑しながらも、おそ
らくはエロスを経験する機会を得たにちがいない。
このスペクタクルは、15分間の長さだった。しかし大変強烈な時間で、観客の中
には立っていられなくなる者も出た。真に実験的な場であったため、観客の態度も実
に様々であった。6ヵ月間の展示で、同じ結果が出たことは一度としてなかった。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・23
4-3- 構築と脱構築の同時性
4-3-1. 《Metastasis》、《Mona Lisa》:テクノロジーと映画
カラー・ビデオを使った初期の作品群は、1969年に作られた。安藤紘平の
《オー!マイ・マザー》では、映像の再挿入によって、鏡のような効果を出していた。そ
れにはモニターの画面にカメラを向けるだけでこと足りた。ただ、当時はまだ、カラー
用のビデオテープレコーダーが一般には販売されていなかったということを思い出そ
う。したがって初期のカラー作品は、エレクトロ・カラー・プロセスによって処理された。
しかし、それを見るためのハードシステムが売られていなかったため、しばしばビデオ
で作られた映像を映画に移し替えるということが行われていた。結果は大変不完全な
ものであった。1969年に安藤紘平によるこの「ビデオの特殊技術をつかった作品」につ
いて、作家はこう説明している。
「私が寺山修司の演劇手段を離れて初めて映像に取り組んだ第1回作品
である。母親をイメージした3枚のスチール写真(うち1枚は、おかまの男娼)を、
日本で初めてビデオのエレクトロフリーラン効果(映像をアナログフィードバック
し、正帰還増幅して電子の自走発振状態を作り出す効果)を利用して映像化し
た作品。」
これらの作品の一つが、松本の映画、《薔薇の葬列》にも使われている。《マグ
ネティック・スクランブル》は、ナム・ジュン・パイクが磁石を使って行っていた「テレビ
ジョン・アート」や「エレクトロニック・アート」の実験に続くものであった。ついで、映像の
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・24
シンセサイザーとして最も普 31 及することにな 32 る「スキャニメート」の登場で、アー
ティストたちはようやくこの分野で活動できるようになった。
しかし松本は、これらの技術を技術者として扱ったのではない。どんな思いがけ
ない結果をもたらしてくれるか、実験するために使ったのである。それは、四方の壁に
テニス・ボールをぶつけて、予測のつかないバウンドを作ってみるようなものだ。その
ために、松本は変化可能の手動の装置を使い、創造性を産み出す緊張状態を作るよ
うにしていた。松本は機械や技術が「内発的なモチーフの関係」と「弁証法的だ」と言
えるときにだけ、それに興味を示すのである。それに、アンダー・グラウンドの運動は、
松本にあるオプティミスムをもたらした。技術的な知識を持っていようが持っていまい
が、どうでもよかったのだ。単に実験の意外な結果を楽しむ者もいた。松本は、機械
自体に興味を持ってはいなかったものの、その限界をはかるためにメカニズムを理解
することはできた。松本は同時に、作品の中に自分にはコントロール 33 できないし、し
たくもないという要素を取り入れようとしていた。1970年代に入ると、松本は「別次元
の現実」を定義する努力を始め、映像処理の高度な設備を極端に多用するようにな
る。西嶋はそこに「変形」の概念が明確に表れていると記している。海の波や便器な
ど、単純な画像の色が徐々に変化する。現実と映像の関係を取り上げた後で、今度は
映像自身の只中における関係性、即ち複数のシニフィアンを問題としたのだ。それが
1971年の《Metastasis(新陳代謝)》であり、1972年の《Autonomy(自律性)》であっ
た。
《Metastasis》は、医療検査機器、カラー・データ・システムを見て構想が生まれ
た。これは白黒写真のグラデーションを読取り、各段階にそれぞれ決められた色を一
つあてはめる電子システムである。松本は、次々に変容していく色とフォルムが引き付
け合うように見える瞬間の連なりを、根源的な生命のリズムに従って作り出した。松本
は、オペレーションの即興的プロセスに、生理的リズムを重ね合わせたのだった。そし
て、「被写体もカメラも、あるいは照明も、全く動かさないという制約を課し」、リズムだ
けで映画を作り出すことができるということに賭けた。
したがって松本は、《Metastasis》によって、たった一つの映像をどこまで分解で
きるかを我々に見せたのだった。以来、松本は作品のオリジナリティーというものに損
31『日本実験映像40年史』、p.57
32安藤紘平「オー!マイ・マザー」、『<第3回ふくい国際ビデオ・ビエンナレ>』、福井、1989、p.167.
33
秋山邦晴「システムの論理と想像力(松本俊夫のインタビュー)」、p.16
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・25
傷を与える方法を研究することになる。それは「ミニマルな構造と非現実的なイメー
ジ」の探求でもあった。
この時期の最も有名な作品は、前述した1973年の《Mona Lisa(モナリザ)》であ
ろう。様々な風景やフォルムが背景に現われ、前景には泰然自若としたジョコンダがい
る。ジョコンダは松本の世界に引きずり込 34 まれ、その玩具になっている。松本はここ
で、複々製のパラドックスをあばこうとする。すべての映像が大変特殊なリズムによっ
て秩序立てられ、それは一柳慧の音楽によって一層強調されている。映像と音は、一
体となり、しかも柔軟性を保っている。
「松本における映像のリズム、音は、人間の生の鼓動を伝えてくるのだ。映像の
錬金術師は、いま、優雅な夢のリズムに向かって走っている。」
松本はしたがって、全てのテクノロジー崇拝を退ける。もし人が、新しいメディア
やテクノロジーに、時代の本質的な制約を考えないで固執し35たら、未来へ向かって
開かれるものは、何も生まれないだろう。状況が変わりやすく、急激な変動も起こりう
る時代のカオスを通して、その向こうを見透かすことを覚えなければならない。なぜな
ら、あらゆる出来事は一貫性を欠いているからだ。知性の主張なしに、将来はありえな
い。
実験映画を一つ一つ見てみると、最初は、あまりにもふんだんにテクニックを
使っていることばかりが目につき、映像や映画自体への興味が薄れてしまう。なぜな
ら、中には映像を「飛翔」させ、奇妙なヴィジョンの洪水の中で観客を当惑させるため
の構造になっている映画もあるからだ。カメラはいつまでも洪水のような映像を録画し
続ける、または、同じ場面が何度も繰り返される。見るものはすぐ疲れ果ててしまう。
しかし松本は、技術をコンセプトとイメージの媒体として使う。松本の興味は、決して
シンセサイザーやコンピューターやスキャニメートが作り出す視覚的効果のみにあるの
ではない。松本のテクニックの使い方は、それどころか、逆にほとんど「ストイック」で
クールだ。それは、方法論的な考察が、使用に先立ってるからだろう。松本は決して
「映画の構造そのもの」を問題にしているのではない。松本の厳格さは、それとは別種
のものだ。
34松本俊夫「<物質的リリシズム>を求めて」、『<松本俊夫個展>』、ビデオ・ギャアリーSCAN、1983年10月
35
粟津潔「優夢なリズムへ向かってる」、『<75松本俊夫映像個展>』、p.3
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・26
例えば《モナリザ》を見れば、どんな方法でこのような映像の変容が行われたの
か、考えてみずにはいられない。もしかすると、そのテクニックにばかり興味を引か
れ、なぜ松本が変容の対象としてジョコンダを選んだのかということには関心を持た
ない者もいるかもしれない。しかし、なぜ松本がジョコンダを登場させたのか、または
なぜアンディー・ウォーホルを増幅させたのかを問題にするほうが、より意味深いので
はないか。あるエピソードが、松本の真摯さを伝えている。萩原朔美によれば、松本は
自分のショーイングのチラシのデザイナーと口論をしたことがあるという。松本は、そ
のデザイナーに、どのような美学でチラシのある場所に白いスペースを残したのか、
説明してほしいと厳しく言ったそうである。松本にとっては、全ての選択にはっきりした
美学的基準が通っていなければならないのだ。この厳格さが、松本の全ての作品に
現われている。どの映画も、撮影に入る前に、細心に準備され、計画がたてられる。撮
影に先立って書かれた構想のプロセスや背後にある思考をメモしたものだけで、一冊
の本が書けるほどだ。
しかも、どの映画も人間の内面世界を描いたものなのだ。松本が取り上げる問
題のあるものは、観客自身の内面で、エコーを響かせるだろう。心理、意識、感覚、幻
覚、夢などは、だれでも覚えのある世界だ。新しい研究を行う度に、松本は新しい機
械を試す。映画やビデオにおける映像テクニックの発展によって、松本は、人間の不
可視な部分を見せるという実験の探求を、さらに進めようとしているにちがいない。
4-3-2. 幻覚と謎の美学
松本は当時、映像のかぎりない変化と変容によって、幻覚の美学を押し進めて
いた。1975年の映画、《青女》を評して秋山邦晴は、筋の展開をラジカルに単純化し
た「松本版不思議の国のアリス」だと評した。この作品には、「微細な色彩のマチエー
ルの変化や、ゆっくりとした非現実的な動きの現象学の解剖とでもいったイメージの
幻想の世界の方向」が現われている。
一方、松本は 36 仏教思想に大きな関心を示している。夢の存在や、死後の世
36
秋山邦晴「システムの論理と想像力(松本俊夫のインタビュー)」、p.16
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・27
界、宇宙以前の世界への興味によって、例えば1975年には《色即是空》という映画が
作られた。タイトルは、日本でおそらく最もよく知られているスートラである、般若心経
を構成する266の文字から374文字を借りてつけられた。映画を動かす原則は、際限な
く繰り返される、リズム、もしくは原初の心臓の鼓動として捉えられるべきである。そこ
で、映像 (image) の役割は、限りない繰り返しによって引き起こされる恐怖を、絵画38
的な力によって鎮めることになる。《色即是空》には、エロスと死、意識と無意識に関
する考察が見られるが、これはおそらく、1969年に松本が父親を亡くしたことがきっか
けになっているのだろう。《青女》に登場する、炎の中で死んだ少女を夢見る若い女
も、おそらくは同じオプセッションに取りつかれている。松本は、死に関して頭で考える
よりは、一つの風景の映像を作ることにした。テーマが少女の死なので、死の世界か
ら現われた風景である。若い女が森から出てきて、砂漠を横切り、海の中に消える。
松本は赤外線フィルムを使うことによって奇妙な色を作り出し、死の透明性を暗示し
ている。赤い木、薄青く揺れる影、白い海の波、全てが若い女の死と一つになってい
る。これは一体、白昼夢なのだろうか、夢の中の夢なのだろうか、それとも、死の風景
の中の死なのだろうか。《色即是空》と《青女》、さらに1975年の《幻妄》には、直接そこ
で扱っているテーマの向こうに、夢幻世界の物質化という試みがあるようだ。
《幻妄》は、あらゆる説明を排して、妄想世界を見せようとしたものだ。無意識に
よって現われる潜在意識を映像化しようとする試みである。これはおそらく、松本自身
の夢日記なのだろう。無意識から現われる夢は、言葉に書き写すことはできない。夢
は夢であり、そこから目覚めることはできないのだ。これは、獏とした記憶の休息なの
だ。《幻妄》は夢の再製ではなく、夢の記憶に関する解釈である。人間は記憶から逃
れることはできない。逃げようとすること、それは、自分自身が忘却の中に消えてしま
うことである。高松次郎や、特に赤瀬川原平はかつて、その《紛らわしさ検査票》(1966
年)の中で、写真やコピーを使って、複製がどのように微細な差異を生み、ついにはオ
37「色」は物質世界の現象を指す。
38文字の数は、版によっても違う。266という数は、松本が使用したものによる。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・28
リジナルを消滅させるかを証明してみせた。記憶もそれと同じで、反復されると差異
が生まれる。赤瀬川原平も、《複々製に進路を取れ》を描いたとき、この考え方を表し
ている。複製したり、複製されるという行為を繰り返すと、ついには物のリアリティーが
失われるにいたる。
最も幻想/幻視的な作品は恐らく《アートマン(我)》(1975)であろう。ヒンズー教
と仏教との関係を調べた松本は「その教養の基本をなすものこそ、このブラフマン(大
宇宙)とアートマン(小宇宙)の同一性を悟ること」を 39 この作品に目指している。当
時、松本は《アートマン》に対する《ブラフマン》という作品の構想の必要性を記すが、
結果として制作には到らなかった。脳裏に浮かんだ最初のイメージは「私の周囲をグ
ルグルま40わり続けるものだった。その構造はしたがって作品の完成に至るまで一貫
して基軸となった」。松本と撮影スタッフの山崎博と高間賢治は、制作のため梅雨を
避けて北海道にまだ出向いた。彼らは、撮影のために、中心にある「41私」の周りに10
つの円を描き、それぞれの円に12 x 4=48点に分け、それぞれの点にカメラを設置し、
カメラの視点の位置は合計で480点となった。《色即是空》の特徴であった一コマ撮り
の方法を利用し、約15000コマを再撮影し、編集を行った。そのレペティティヴな作業
はごく短い期間に終わらせたため非常に厳しい状況であり、創る行程も結果的に完成
した作品も、一種の眩暈をともなったという。
「その円環の中心に般若を置いたのは、般若が我執の象徴であると同時
に、悟りの智慧をも意味する矛盾した二重性に深い意味を見るからにほかなら
ない。」
松本の次なる段階は、「コズミックな物質的幻想の世界」の時期であった。「機
39「千円札裁判」で語られている作品の一つ。
40松本俊夫「《アートマン》を完成して」、『<75松本俊夫映像個展>』、p.18
41松本俊夫「《アートマン》を完成して」、p.18
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・29
械的・恣意的な変形という操作を導 42 入すること」によって作られたシニ 43 フィアンの
世界が現われることとなる。1978年の《謎》と1979年の《ホワイト・ホー 44 ル》(White
Hole)について西嶋憲生は「変形の美的造形効果による宇宙論的神話性」と評してい
る。幻覚が、世界となったのだ。
4-3-3. ずれ45と配置転換
松本は評価を得た映画作家であり最良の歌舞伎にも比することのできるような
展開を心得ていた。ときには緊張が極度に高まり、恐ろしさに身震いすべきか大笑い
すべきかわからなくなるほどである。たとえば、1971年の《修羅》がそうだ。「中心とな
るアイロニー」が「エリザベス朝的悲劇との類似を呈する」。そして、フィルムの冒頭か
ら観客に与えられている鍵が「枠の中で起こる異化効果の前提を引き出し、他の様々
な手段が継起する内部へと導く」。
いくつかのシーンは黒澤明の《羅生門》(1951)のように、異なった結末で繰り返し
撮影されており、それを観る者は、
「初め現実と思っていた46描写が他のコンテクストでは異なる幻想に過ぎないこ
とを知る。「現実」から「幻想」への移行は実になだらかに行われるので、殆ど気
がつかないほどだ。」
松本は長編に適した「異化効果」、あるいは「分離効果」に変化を加え、より実験
的な作品に応用していく。それは、松本の短47篇ビデオの創作の軸ともなっている。こ
42
松本俊夫「物質的リリシズムをもとめて」
43松本俊夫「《アートマン》」、『<75松本俊夫映像個展>』、p.44
44
西嶋憲生「変化・ずれ・異化」
45
西嶋憲生「変化・ずれ・異化」
46
Noël Burch『Pour un observateur lointain』、p.357
47
Noël Burch『Pour un observateur lointain』、p.358
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・30
48 の傾向は、西嶋によれば、「変化」、「ずれ」、「異化」という用語で分析することがで
きる。「異化」はロシア語の “ostranénie” の訳であり、ベートルド・ブレヒトが用いたドイ
ツ語 “Verfremdung” に近い。しかし、日本語になるときに意味がいくぶん変化してい
る。「見慣れた現実の日常的な意味の文脈を「異化」することになる」。
松本は、かつてブレヒトの演劇にも強い影響を受けたが、ルイス・ブニュエルと
サルヴァドル・ダリの《アンダルシアの犬》等、シ49ュールレアリストの映画にも影響を受
けている。アンドレ・ブルトンの「異郷感覚」にしても、日本の映画作家と無縁のもので
はないだろう。ごく最近まで、日本の作家のビデオにおける探求の殆どは、空間的時
間的なズレと逸脱にあったのだから。
シュールレアリスムの影響は、明らかに、松本の作品の視覚的、夢幻的性格の
中に残っている。精神的なレベルにおいても、方法論的なレベルにおいても、松本の
実験的作品の殆どは、シュールレアリスムの思想が創作の起点になっているようであ
る。
***
松本は常に、映画機材に対する愛着を語ってきた。それは、松本が映画を撮り
たいと思い始めた時代には、機材が全く無かったことと関係がある。必要な機材が手
に入らないのだから、作品はしばしば、創られるものというよりは、夢見られ、想像され
るものであった。こうして松本は長い間、映画ファンにとどまり、暗やみの中で、一人
で、ただ自分の夢と一緒にスクリーンを見つめていた。
しかし80年代の初めに、松本はビデオ用の映像カット技術を使い始めた。そし
て、新しい組合せや前代未聞のズレを創っていく。こうしてできた作品が、《コネクショ
ン》、《リレーション<関係>》、《シフト<断層>》、《フォーメーション》であり、それまで
見られなかった映像の動きを打ち出していた。かつての《謎》や《ホワイト・ホール》の
ように、背景が表面に出てきたり、前と後が入れ替わったりするのではなく、地滑りや
地の切断が起こり、映像が「一瞬にして三次元モードに移る」のである。
《コネクション》(1981年、10分)は、雲の映像を使っている。広角レンズをつけた
48
49
Noël Burch『Pour un observateur lointain』、p.360
西嶋憲生「変化・ずれ・異化」、『<松本俊夫個展>』、東京、ビデオ・ギャラリーSCAN、1983年
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・31
カメラを空に向けて撮影し、その映像をいくつもコピーしてつなぎあわせ、雲の動きが
わかるように速度を上げた。松本は画面の中に長方形や円形の領域をいくつも作り、
それぞれが重なり合うようにした。長方形の中では、オリジナル・フィルムが同じ速さ
で、ただし瞬時のズレをともなって流れる。それ とは別に、重なり合う円の中には、円
の位置にしたがって、継続的な動きや断続的な動 50 きが映し出される。これらのズレ
や動きの関連(コネクション)が、雲の形の柔らかさとは対照的な、きちんとした輪郭の
中で様々に実験されている。《リレーション<関係>》(1982年、10分)は、空と海を代わ
る代わる映し出
す。風景は絶え間なく変化し、映像は常に移動したり消えようとして
いるかのどちらかである。松本はここでは、速さの変化や映像の停止で遊んでいる。
雲は常に大変な速さで激しく動き、波は浜辺に崩れる前に画面の中で厳かに停止す
る。映像のテクスチャーの複雑さが、カットの硬さとバランスをとっている。
《Shift<断層>》は「物質的リリシズム」が支配的であり、時間的空間的な無構
51 造化と再構造化を狙っている。松本は「ズレの知覚・認識的混乱による視覚の異
化」を引き起こし、視覚的な文脈の配置換えを行う。この作品は主にパノラマ撮影(パ
ン)とズーミングによって成り、中庭から撮られている。映像は複数の52長方形に分解
され、同時に画面上に現われる。それぞれが、一つの家屋を、異なった視点から、異
なったスピードで見せている。松本は徐々にオリジナルとコピーの差を無意味にし、新
しい現実を生じさせているのである。
《フォーメーション<形成>》は、歌舞伎のメーキャップを撮影したものである。
歌舞伎役者の市村羽左門が、ていねいに、そして器用に顔に化粧をしているところ
を、後から、鏡を通して映している。したがって、役者を二つのアングルから見ている
ことになる。映像は《Shift<断層>》のときと同じような方法で処理され、速度を落と
して正確に扱えるよう、ビデオに変換されている。画面の分割は今度は縦割で、時々
使われ、様々なタイプの時間のズレを見せている。オリジナル映像はほとんどフィック
53スなので、パンからズームへと時に目まぐるしく変化する《Shift》とは違って、当惑し
てしまうようなことはない。しかしカットの方法はより変化に富んでいて、時間的にもよ
り複雑である。この作品はまるで記憶力の訓練のようだ。それぞれの部分の映像は続
いているのだが、視線は始終こちらの部分からあちらの部分へと移っているので、様々
50
中島崇、「Formation (Keisei)」、『Matsumoto Toshio- Experimental film works』
51
松本俊夫「物質的リリシズムをもとめて」
52
西嶋憲生「変化・ずれ・異化」
53
松本自身は、本歌取りの原則に学んだと言っている。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・32
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第四章:松本俊夫・33