平成 年2月 靖國神社年越し詣で � �� 1 皇居参賀二題 � ����� 5 平成 年 「宮中歌会始」の御儀 � 8 ペ島のサクラ ������ 9 平成 年度顕彰会初詣で � 大阪護国神社「特攻勇士慰霊祭」 に参列して ������� 平成 年度原町飛行場関係戦没 者慰霊祭に参列して ��� 平成 年度明野忠魂塔合祀慰霊 祭に参列して ������ 日の衆議院議員総選挙 日、自公連立による第三 月 に圧勝し、 暮れの 上向いてきた感がする。 たが、秋から暮れに至って漸く状況が 等国内外の鬱屈した情勢の中で推移し 捏造、北朝鮮の核・ミサル発射の危険 の強化、執拗な中韓両国の歴史認識の による北方四島、それぞれの実効支配 大々的密猟、韓国による竹島、ロシア 小笠原諸島周辺における宝石珊瑚の 船 に よ る 度 重 な る 尖 閣 諸 島 領 域 侵 犯、 の混迷が続く中、依然として中国の艦 内閣の奮闘努力によってもなお、政治 実感としては現れておらず、安倍晋三 編集人 飯 田 正 能 が多く、異常高温にも悩まされた。ま 済の活性化を目指し、更には、国防・ 増大、賃金の上昇、地方創成による経 アベノミクスの第三の矢による雇用の 進まず、アベノミクスによる経済再生 十二支に当てはめて、 年に一度廻っ 年、乙未の年、十干 きのとひつじ た、木曾の御嶽山の大噴火により、大 年暮れの大晦日から への兆しは見えるものの、未だ庶民の 明くれば平成 勢の犠牲者を出した。更に東日本大震 平成 は、広島を始めとして異常気象による を行った。平成 極地豪雨、土砂崩れ、竜巻等の大災害 平成 年度回天烈士並びに回天 搭載戦没潜水艦乗員追悼式に 参列して① ������� 平成 年度回天烈士並びに回天 搭載戦没潜水艦乗員追悼式に 参列して② ������� 海軍築城基地・神風特別攻撃隊 菊水部隊銀河隊出撃の地を訪 ねて ���������� 第1空挺団研修に参加して � 「英霊を偲ぶ心の旅」に参加 して① ��������� 「英霊を偲ぶ心の旅」に参加 して② ��������� 《読者の声》軍馬・軍犬・軍鳩合 同慰霊祭から思うこと �� 新刊図書紹介 ������� 特攻に関する新聞記事紹介 � ハチの一刺し─特攻精神と武士 道と『葉隠』に学ぶ─ �� 平成 年度第3回理事会及び 臨時評議員会の実施報告等� 事務局からの報告等 ���� 18 目 次 27 27 26 26 26 11 11 14 16 19 2321 25 30 363532 39 振替口座 00140– 6– 59580 次安倍内閣が発足した。総理は、まず 24 4341 印刷所 ヨシダ印刷株式会社 14 27 靖國神社奉納大絵馬 発行人 羽 渕 徹 也 12 http://www.tokkotai.or.jp 年越し詣での人波第一波(神門開扉直後) 安全保障を確たるものにすべく力強い 電 話 03(5213)4594 FAX 03(5213)4596 災と福島第一原発事故による災害復興 〒102– 0073 東京都千代田区九段北 3–1–1靖國神社遊就館内・地階 にかけて、恒例の靖國神社年越し詣で 特攻隊戦没者 公益財団法人 慰霊顕彰会 一歩を踏み出している。 第 104 号 は3年9ヵ月余を経てなお遅々として 年元旦 元旦午前零時の靖國神社拝殿前・右上空に輝く月 年も、我が日本列島 靖國神社年越し詣で 27 27 26 26 60 26 26 靖國神社年越し詣で (104号) (1) 倍以上 あった。しかも相手は老いたりとはい 内各所での、ボーイスカウト東京連盟 ための種々の配慮がなされている。境 年越し詣でに当たっては、寒さを凌ぐ 下さる神社はないのではないか。特に 靖國神社ほど参詣者を手厚く遇して いるのであろうか。 が、外国人の目にはどのように映って 人の風習が、そして日本人の美しい心 もかなり多い。歴史と伝統のある日本 はほとんど見当たらない。外国人の姿 若者が多く、筆者のような高齢者の姿 集殿内でのお茶の接待等々。勿論、外 接待、終夜開館されている遊就館、参 ようである。大手水舎の前で庭燎(か れて、新しい年への門出を祝するかの き、大凧と大羽子板が左右の柱に飾ら 閉ざされた神門中央扉の十六重弁菊 と賠償金の獲得となった。しかし、そ 苑参道の両側には沢山の屋台が立ち並 の大御紋章がライトを受けて金色に輝 軍基地反対闘争が激化し、米軍の北富 れも束の間、露・仏・独三国の干渉に がり火)奉仕、社頭における御神酒の 士演習場での実弾射撃に対する反対闘 より、遼東半島の返還となった。以後 振舞い、遊就館前における熱い甘酒の 争、砂川基地反対闘争がいずれも5月 がり火)奉仕をするボーイスカウトの は、日本の大勝利となり、台湾・澎湖 に始まった。国際情勢も、東西冷戦が 少年達の姿も凛々しく映える。 ロシアの南侵に備え、遂には、挙国一 西 独 が N A T O に 正 式 加 盟 す る な ど、 と軍事力の増強に努め、迫り来る大国 て、内苑に進み身を清めて神前に頭を る。日本人の古里がそこにはある。そし れにとつても楽しい年越し詣でであ 粛々と拝殿前の鳥居付近まで進む。こ が神々しく目に飛び込んでくる。一同 ると、ライトアップされた正面の拝殿 分前、一斉に開扉され 致、敢然と立ち上がり、多大の犠牲を 垂れれば、我々の先祖や先輩、同僚の御 て、いわゆる 立自主ノ国タルコトヲ確認ス。因テ右 は「清国ハ朝鮮国ノ、完全無欠ナル独 である。その日清講和条約の第1条に 我が国の自存自衛と伝統の保持につい 近、 北 朝 鮮 問 題、 北 方 領 土 問 題 な ど、 第二鳥居までの参道両側には、沢山の 状況、特に中韓の反日運動、両国の接 顧みて、現下の我が国土領域周辺の 越し詣での景観である。だが、ここま せ る も の が あ る。 先 人 に 学 ぶ べ き 点、 さんざめきに包まれ、いずこも同じ年 120年前の国内外の情勢を彷彿とさ では外苑、下乗札の立つ内苑神域に入 受けて巨人の如く聳え立つ。これより やがて大鳥居が漆黒の空に、ライトを の右上に、皓々と輝き、誠に幻想的な 間に間に上弦の月が、丁度、拝殿の甍 満月には5日ほど早いが、流れる雲の らし、白く染め抜かれた十六重弁菊の る。今日の拝殿は特別に紫の幔幕を廻 輝き、見事なコントラストをなしてい 更 に ま た、 今 日 は 旧 暦 の 月 日、 独立自主ヲ損害スヘキ、朝鮮国ヨリ清 て真剣に考える乙未の年でなければな 光景を呈している。その流れる白雲と 10 大御紋章が目に鮮やかである。 国ニ対スル貢献、典礼等ハ将来全ク之 れば、凛とした空気に包まれ、数百の 11 屋台が並び、食べ物の臭いや参詣者の ヲ廃止スヘシ」とあるように、朝鮮の 参詣者が静かに開門を待つ。圧倒的に 明治日本が初めて経験した対外戦争で け、その思いに駆られつつ家を出た。 地 下 鉄 九 段 下 駅 を 出 て 坂 を 登 れ ば、 立ち、金色の御紋章がライトに映えて 和、漆黒の空を背景に拝殿の甍が聳え 30 独 立 が 確 認 さ れ て い る。 日 清 戦 争 は、 らない。この度の年越し詣では取り分 (馬関)日清講和条約の締結された年 やがて零時 日、自由 払いつつも奮戦敢闘、ロシアの大軍を の日、大晦日の夜は、北西の寒風はや 年遡って120年前の明治 月 緊張の高まりを来した年であった。国 駆逐し、更には、大艦隊を迎え撃って や強いものの、雨雲も無く、絶好の日 内政治では、その年の 年体制が始まった年で 民主党が結成され、保守合同が実現し 霊が手厚く祀られている。国のため命 更に もある。 15 1905年9月5日)。爾来110年、 問わず鄭重に祀られているのである。 38 11 ( 1 8 9 5) 年 は、 明 治 維 新 後 最 大 の 28 55 今年はその節目の年に当たる。 60 国難であった日清戦争が終結し、下関 約 の 締 結 と な っ た( 明 治 年・ を捧げた人々の英魂が、身分の如何を 10 大勝利を博し、ポーツマス日露講和条 続 く 中、 ワ ル シ ャ ワ 条 約 が 締 結 さ れ、 び、参詣者が一時の暖を取り、腹拵え 島及び遼東半島の割譲等、版図の拡大 10 日)年でもある。一方、米 30 をするには事欠かない。若者や家族連 月 え、人口・版図とも我が国の きながらも維新で築いたばかりの新生 ( 1 9 5 5) 年、 同 年 8 月 6 日 に は、 の超大国の清である。国民は不安に戦 の大勢の少年・少女達による庭燎(か 月 年前の乙未の年は昭和 国家の命運を賭して、上下・官民心を てくる還暦であるが、歴史を繙いてみ 第1回原水爆禁止世界大会が開かれた 一つにして国難に当たった。その結果 ( 60 12 14 19 年にわたり我が国は臥薪嘗胆、国力 た( 11 る と、 日)、原子力基本法が公布され 年 で あ り、 日 米 原 子 力 協 定 が 結 ば れ (2) (104号) 靖國神社年越し詣で れたものである。天皇陛下の御製には 平成6年の歌会始の御題「波」を詠ま れている。今年は乙未の年、干支の未 協賛会から献上された大絵馬が掲げら の健気な姿に感動。このような日本人 敬奉賛会青年部「あさなぎ」の若者達 少女達や受付案内の事務奉仕をする崇 ボーイスカウト東京連盟の大勢の少年 更に、境内各所で、庭燎奉仕をする 光り輝く月を見上げていると、何故か 深い祈りや慈しみの御心が込められて に因み、寄り添う羊の親子の絵が描か る国民の崇敬心の篤さを思わせる。 彼の「千の風になって」の歌を思い出 おり、霊性とも霊力とも言うべき不思 れた心温まる見事なものである。 拝殿の右側には例年の如く伊勢絵馬 し、大晦日の靖國の御社の上を、沢山 議な力、人々の心に深い感動を与える 社に合祀されている。 の英霊の御霊が飛翔しておられるかの 力を持っている。 正零時、暗夜の静寂を破って拝殿の ような錯覚を覚える。 の心を受け継ぐ青少年のいる限り、未 一息ついた後、夜通し開館されている 号のこ ラベルが飾られている。靖國神社に寄 の欄にも記載させていただいたが、こ 年2月第 参拝を終え、神社心尽くしの甘酒で 来への展望が開けるような気がする。 遊 就 館 で、 特 別 展「 奉 納 新 春 刀 剣 展 」 ま た、 参 集 殿 の 前 に は、 全 国 約 見して感無量。また、全国靖國献酒会 兄らと会へる喜び」 三百三十余社の神宮・神社から奉納さ 御前に義 (正能)私事 れた絵馬が美しく飾られており、その な が ら 小 生 の 姉 と 妹 の 夫( 共 に 故 人 ) 中に懐かしい郷里の氏神様の絵馬を発 い の兄たちは、若くして学徒出陣し、姉 を拝観する。平成 け 大太鼓が鳴り響くと、一斉に「明けま 「新玉の年を迎へて靖國の ち、深く低頭して御霊に感謝の誠を捧 から奉納された三百余種の銘酒とその しておめでとうございます」と互いに げる。若者達が中心ではあるが、真摯 の方はニューギニア戦線で、妹の方は 新 年 拝 殿 掲 示 の 天 皇 陛 下 の 御 製 は、 広島の原爆で何れも戦死し、靖國神社 の刀剣展に関連して、次の記事を再度 挨拶を交わして拝殿に進み、柏手を打 な参詣者の姿がそこにある。 掲載させていただくことにする。 とうじ せる全国の神宮・神社の神官・神職及 第 くさなぎのつるぎ 代一一八三〜一一九八年、上皇御 初 め、 後 鳥 羽 院( 上 皇 )( 天 皇 御 在 位 たるものであろう。また、鎌倉時代の 天 叢 雲 剣 (後に草薙剣)は、その最 あめのむらくものつるぎ されてきた。三種の神器の一つである 顕正の象徴とされ、神器としても尊崇 るが、破邪の利剣とも言われて、正義、 士の魂とされ、武器としては勿論であ 刀剣、なかんずく日本刀は、古来武 び神酒を醸造する杜氏達並びに善良な 99 に祀られている。また、妻の叔父もシ 奉献酒銘柄展 「波立たぬ世を願ひつつ新しき 年 の 始 め を 迎 へ 祝 は む 」 と あ り、 全国神社奉納絵馬展 ベリア抑留中に病死して同じく靖國神 26 刀鍛冶の名工 さい 名を召されて仙洞御 院政一一九八〜一二二一年)が各地の 82 弁 菊 花 紋 を 銘 に 代 え て 刻 ま れ た こ と、 み ら れ、 完 成 し た 太 刀 の 茎 に 十 六 重 なかご 刃( 刀 身 に 刀 紋 を 付 け る 工 程 ) を 試 は 所 で 太 刀 を 打 た せ ら れ、 御 自 ら も 埣 25 靖國神社年越し詣で (104号) (3) 遊就館前 庭燎奉仕のボーイスカウト 家)の御紋章となったこと、また、後 そして後に、この菊花紋が皇室(天皇 の鍛錬所として竣工された建物であ 八年六月二十五日(財)日本刀鍛錬會 『千の風になって』 私のお墓の前で/泣かないでください そこに私はいません/死んでなんかい 千の風に/千の風になって に あ る「 行 雲 亭 」( 今 は 茶 室 に 改 造 さ れていないので、境内奥の相撲場の南 錬會の鍛錬場があったことは余り知ら と呼ばれる日本刀を鍛造する日本刀鍛 的に発会。理事長には歴代の陸軍次官 して有事に際した軍刀の整備などを目 刀界の復興、国民の愛刀心の向上、そ 維新とともに衰退の一途をたどった鍛 て い る。( 財 ) 日 本 刀 鍛 錬 會 は、 明 治 夜は星になって/あなたを見守る 朝は鳥になって/あなたを目覚めさせる 冬はダイヤのように/きらめく雪になる 秋には光になって/畑にふりそそぐ な空を/吹きわたっています 千の風に/千の風になって/あの大き あの大きな空を/吹きわたっています あの大きな空を/吹きわたっています 千の風に/千の風になって ません る。昭和六十二年九月に五つの鍛冶場 日本語訳詞・作曲 新井 満 の全てが茶室に改装されたが、外観は ぎょさく 鳥羽院の作刀は「菊の御作」として今 れている)の銘板からその由来を拔粋 があたり、延べ十一名の刀匠と二十一 ません 私のお墓の前で/泣かないでください に伝えられていることは、周知のとお あの大きな空を/吹きわたっています 特に屋根上の吹抜けは、鍛錬場にみら 当 時 の ま ま の 優 美 な 姿 を 残 し て お り、 そこに私はいません/眠ってなんかい ところで、靖國神社の境内にも、か りであろう。 すると、次のとおりである。 織され、終戦までの間、八一○○振に 名の先手からなる刀工集団を中心に組 つ て は 多 く の 刀 匠 を 抱 え、「 靖 國 刀 」 れる様式で、行雲亭本来の姿を物語っ 「 行 雲 亭 は、 陸 軍 省 の 建 築 課 技 師 内 止 さ れ た が、 昭 和 二 十 八 年 に は 再 開。 終戦を迎え、日本刀の製作は一時禁 数トンに及んだ。 開設し、そこで生産された玉鋼は五十 る島根県仁多郡横田町に「靖國鑪」を たたら 錬會は、古代から良質の砂鉄を産出す 難な状態にあった。そこで、日本刀鍛 の材料となる高品質の玉鋼の入手は困 たまはがね 本古来のたたら製鉄は途絶え、日本刀 された。また、大正十五年頃には、日 臣より「靖」の字を冠する匠銘を授与 の靖廣・靖徳・靖光をはじめ、陸軍大 刀匠達は「靖國刀匠」と呼ばれ、当初 こ で 製 作 さ れ た 日 本 刀 は「 靖 國 刀 」、 及ぶ良質な日本刀を製作し続けた。そ さきて 藤太郎と柳井平八の設計により、昭和 靖國神社遊就館特別展 (4) (104号) 靖國神社年越し詣で 希望を捨てることなく、 明日からの日々 セージにより「被災した人々が決して 日(木)のパラオ諸島(ペリリュー島 そして、今年は4月8日(水)~9 になり、戦没者の慰霊を始め、南洋群 さんとともに日本国憲法を守り、これ 島諸国の大統領らとの会談も予定され に従って責務を果たすことを誓い、国 本美術刀剣保存協会が「日刀保たたら」 祉 の 増 進 を 切 に 希 望 し て や み ま せ ん 」 とりが被災した地域に長く心を寄せて ているという。南洋群島諸国は、第一 ま た、 中 断 し て い た 鑪 操 業 も、 昭 和 いくことを心より願っています」と語 五十二年には、靖國鑪の技術を継承し り掛けられた。被災者をいたわり、命 及 び ア ン ガ ウ ル 島 を 含 む。) を 御 訪 問 と述べられた。また、大きな自然災害 を生き抜いてくれるよう、国民一人び の際には、先ず被災した都道府県の知 次世界大戦前はドイツの植民地であっ 運の一層の進展と世界の平和、人類福 として復活させた。そこで生産された たが、戦後日本が国際連盟の委任を受 作刀技術の保存を目的とする(財)日 良質な玉鋼は、日本刀の材料としてだ 関係者を労い、国民に苦難を分かち合 事にお見舞いを伝え、間もない時期に、 懸けで救助や原発事故の収束に当たる け て 統 治 し、 民 生、 教 育 に 力 を 注 ぎ、 現 地 を 訪 問 さ れ て き た。 平 成 7 うことを希望された。原発事故への対 けでなく、茶の湯の釜や東大寺仁王像 (飯田正能記) (1995)年2月 日の阪神淡路大震 産業(燐鉱石、砂糖等)の育成を図っ 修復などにも広く用いられている。」 応などで政府への不信感も漂う中、こ の際には、津波による犠牲者が増え続 の後の被災地への両陛下並びに皇族方 れた人は少なくなかった。そして、そ のビデオメッセージにより勇気付けら 対国防圏の要衝としてこれを守備する の大東亜戦争においては、太平洋の絶 たところで、極めて親日的である。先 月 している中、同月 日には、ビデオメッ 16 天皇陛下はまた、皇太子時代から戦 アンガウルの戦いは、精強を誇る米第 繰り返された。取り分けペリリュー・ (1975)年には、ひめゆりの 更に御公務以外の宮中祭祀、伝統行 戦史に勇名を轟かせた戦いであった。 沖 縄 の 人 々 の 心 を 解 か し、 平 成 5 きたが、陛下の誠実な優しいお人柄が 塔で火炎瓶を投げつけられる事件が起 れまでに、 ハゼの研究にも熱心に取り組まれ、こ た、御公務の合間には、科学者として 事等も欠かさず、真摯に務められ、ま 編の論文を発表してこら ( 1 9 9 3) 年、 天 皇 と し て 初 御 訪 問 和 沖縄県を訪問してこられた。最初の昭 り 分 け 沖 縄 へ の 思 い は 深 く、 計 9 回、 一 海 兵 師 団 を 壊 滅 状 態 に 追 い 込 ん だ、 没者慰霊に御心を砕いてこられた。取 我が軍と米軍との間に壮絶なる死闘が け、福島第一原発事故も重なった未曾 参賀に皇居を訪れた。 11 誕 生 日 と 1 月 2 日 の 一 般 参 賀 で あ る。 有の大災害に、国も国民も大きく動揺 月 日、満 いずれも好天に恵まれて多くの人々が 訪れた。 年 〇天皇誕生日参賀 天皇陛下は平成 はんじゅ 歳(半寿=八十一寿)の御誕生日を迎 えられた。誠に慶賀に堪えないところ であり、心より聖寿万歳を祈念申し上 陛下は、現憲法下で初めて即位され げる。 た天皇として常に、象徴天皇の在り方 を模索してこられ、国と国民のために 尽くすことが天皇の務めであるとして、 せた。また、天皇、皇后両陛下は、平 めのお言葉を掛けられ、一同を感動さ の際には、150人の遺族に親しく慰 さて当日は、朝から一点の雲もない 返り、誠に有り難く、感激の他ない。 て歩んで来られた の道のり、皇后陛下と共に御手を携え れた。天皇陛下が歩んで来られた 年 (2005)年 年の道のりを振り となった。毎年の嘉例により皇居一般 正に天皇晴れとも言うべき絶好の日和 年に当たる平成 成6(1994)年2月硫黄島を、戦 6月にはサイパン島をそれぞれ御訪問 後 81 81 の御訪問はしばしば行われてきた。 日の天皇 (2011)年3月 日の東日本大震災 災 の 時 も そ う で あ っ た し、 平 成 17 例年のとおり、暮れと正月、二度の 皇居参賀二題 23 になり、戦没者を慰霊された。 56 23 23 国民と苦楽を共にすることを実践して 31 12 12 こられた。平成元(1989)年1月 17 26 9日の「即位後朝見の儀」において、「皆 50 60 皇居参賀二題/靖國神社年越し詣で (104号) (5) 帳のみ)に出掛けた。 参賀(午前中3回お出まし、午後は記 し て い ま す 」 と 振 り 返 ら れ、「 皆 さ ん あったとは言えない1年が過ぎようと みならず、日本国民に永久に負い目を するように仕組まれた。そして天皇の による洗脳を工作したのである。 忘れることのないよう、東京裁判史観 願ってやみません」と述べられた。御 時 頃 ) にとって来る年が明るい年となるよう 今 回 は 第 2 回 の お 出 ま し( に間に合うようにと、地下鉄大手町駅 靖國神社参拝を終えて、遊就館前の ◇ よって初めて知ることができた。 天皇陛下は、新年を迎えるに当たっ 年の ての御感想を、宮内庁を通じて文書で 発 表 さ れ た。 御 感 想 は、「 戦 後 被災者を思い、国民の幸せを願われ が碑前に佇んで熱心に碑文と靖國神社 が供えられ、大勢の人々、特に若者達 に参拝する。この日の顕彰碑には生花 歴史を十分に学び、今後の日本の在り 上 で、「 満 洲 事 変 に 始 ま る こ の 戦 争 の 人々は誠に多いものでした」とされた 戦 場 や 原 爆、 空 襲 な ど で 亡 く な っ た て「ありがとう」とお辞儀をされ、笑 「ラダ・ビノード・パール博士顕彰碑」 節目の年を迎える当たり、先の戦争で か ら 急 い で 皇 居 前 広 場 に 向 か っ た が、 言葉の最後には、大勢の参賀者に向け る陛下の御心を込められたた御言葉に の元宮司故南部利昭氏が捧げた建立の 既に検問所前は日の丸の小旗を持った は深く感動した。国民と国家の象徴と 顔で御手を振られた。 を含めて2万8933人に及んだとい して努められる真に真摯で崇高な御姿 「頌」に見入っていた。 般参賀の人員は、昨年を上回り、記帳 う。若い人や家族連れが多く、特に外 の大雪や大雨、御嶽山の噴火で家族や 切なこと」と強調された。また、昨年 を続ける東日本大震災の被災者を心配 この碑文と「頌」は、極東国際軍事 されている。そして、新しい年に当た 裁判の不当性と同裁判所判事としてた の 丸 公 園 を 通 り、 靖 國 神 社 へ 向 か う。 表判事パール博士の崇高な使命感を端 り、「 国 民 皆 が 苦 し い 人 々 の 荷 を 少 し ◇ 対する敬愛の念は、今や国際的である。 である。 的に表している。パール博士が意見書 しかも、内外を問わず、いずれの人の の結語として示された「時が熱狂と偏 自宅をなくした人々や、今も避難生活 賀の人々が手にする日の丸の小旗が映 この日は、今上陛下のめでたい御誕生 だ一人、全員無罪を主張したインド代 えて美しい。やがて天皇、皇后両陛下 でも分かち持つ気持ちを失わず、世界 参賀を終えて、皇居東御苑を経、北 を 始 め 皇 太 子、 同 妃 両 殿 下、 秋 篠 宮、 日であると同時に、かの忌まわしい極 の人々とも相携え、平和を求め、良き 未来を築くために力を尽くしていくよ 文が、実は、アメリカにおける南北戦 同妃両殿下、真子内親王殿下の七方が 長 和 殿 ベ ラ ン ダ に お 出 ま し に な る と、 の判決で、いわゆるA級戦犯として絞 年 月 日)七士の方々(土肥原賢二、松井石 首刑を言い渡された(昭和 根、 東 條 英 機、 武 藤 章、 板 垣 征 四 郎、 て訴追され、北軍側の偏見に基づく裁 宮殿前を埋める参賀の人々から一斉に 万歳の声が上がり、日の丸の小旗が打 年を経て建立された記念碑の台 天皇、皇后両陛下は今年、1月に阪 神大震災 年で神戸市を、5月に全国 づくり大会のために富山県を訪問され れる和歌山県を、 月は全国豊かな海 植樹祭で石川県を、9月に国体が開か 座に、時のデービス大統領が、ワーズ 刑後 判の結果処刑されたのを悼み、その処 大尉が、北軍の捕虜虐待を命じたとし ち振られる。これに応えて両陛下並び 廣田弘毅、木村兵太郎)が、巣鴨拘置 大尉の冤罪を晴らすために書いて刻ま る予定である。 分)から 回忌)でもある。い れた彼への鎮魂歌であることを、吉本 日午前0時1分と0時 年目の命日( 月 所において処刑された日(昭和 年 その後天皇陛下は、短い御言葉を賜 年4月 日 秋篠宮、同妃両殿下は、6月 日に 貞昭(本名中川聖)著『東京裁判を批 わゆる東京裁判は、昭和 の昭和天皇御誕生日(天長節)に始ま の佳子女王殿下は今春、国際基督教大 29 るが、決まって国民の幸せを第一に祈 年5月㈱ハート出版発行)に 判 し た マ ッ カ ー サ ー 元 帥 の 謎 と 真 実 』 銀婚式(結婚 年)を迎えられ、次女 10 り( 起 訴 )、 当 時 皇 太 子 殿 下 で あ ら れ た 今 上 陛 下 の 御 誕 生 日 に 終 結( 処 刑 ) ( 平 成 25 念される。 43 25 陛下は、今年各地で相次いだ自然災 害 に つ い て 触 れ ら れ、「 決 し て 安 泰 で 29 る最も美しい光景である。 に皇族方が御手を振られ、にこやかに 12 12 う願っています」と綴られた。 争終結後、南軍の捕虜収容所長ワーズ 東 国 際 軍 事 裁 判( い わ ゆ る 東 京 裁 判 ) 見とをやわらげた暁には・・・」の詩 顔も晴れやかに見える。皇居の緑に参 方を考えていくことが、今、極めて大 国人の多さが目立つ。我が国の皇室に 参賀の人波で一杯であった。今年の一 70 11 会釈をされる。皇室と国民を結び付け 11 23 20 23 20 21 67 23 66 (6) (104号) 皇居参賀二題 学に入学される。 三笠宮崇仁親王殿下には、今年 ◇ 月 下、常陸宮、同妃両殿下、三笠宮殿下、 一 番 多 い。 皇 居 外 苑 で は、 馬 場 先 門、 殿下、眞子内親王殿下、佳子内親王殿 こ 寛 仁 親 王 妃 信 子 殿 下、 彬 子 女 王 殿 下、 か 和田倉門、桜田門の三方向から進んで 高円宮久子妃殿下、承子女王殿下の こ 祭と国体、全国豊かな海づくり大会の きた参賀の人波を各検問所で検査をし ま 3行事について読まれた歌を、各行事 た後、警官の誘導に従い石橋を渡って 方という、誠に つぐ こ あき こ が開催された3県に宮内庁を通じて伝 方に両陛下合わせて 豪華な、華やいだ感じのする御出御で 歳の て宮殿長和殿前の広場に至る。いずれ 日に 殿下は、初めてのご参列であり、留学 成人を迎えられたばかりの佳子内親王 月 あり、取り分け昨年 分と約 分、検問所から正門石橋前まで約 を出たが、地下鉄駅から検問所まで約 も長蛇の列である。早めにと思って家 正門から入り、鉄橋(二重橋)を渡っ えられた。 日) な い ◇第 回全国植樹祭(新潟県、6月1 と とせ 十年前地震襲ひたる地を訪ね 13 先の英国から一時御帰国中の眞子内親 人びとりにとり、安らかな、穏やかな 天 皇 陛 下 は、「・・・ 本 年 が 国 民 一 王殿下と共に、にこやかに手を振られ ものであることを願っています。年の うみ 若きあまごと卵もつあゆを放ちけり やまあひ 間深き青き湖辺に 山 ◇ 拝し、誠に喜ばしい限りであった。 ていた。皇室の方々の健やかなお姿を およそ2万人を収容できるという長 ( 時 分 頃 ) に 間 に 合 わ ず、 第 2 回 入り来たる選手の姿たのもし ◇第 回全国豊かな海づくり大会(奈 目( 時頃)まで約 分待つことになっ 良県、 月 、 日) た。 初めにあたり、我が国と世界の人々の 月 分、そこから更に広場まで約 20 和殿前の広場は、手に手に日の丸の小 1時間を要したため、第1回の御出御 29 2日の御誕生日で満百歳となられる。 ○天皇 皇后両陛下が平成 年にお 、 詠みになられた御歌(宮内庁発表) 天皇陛下御製 (3首) ぶなの苗植う人らと共に ◇第 回国民体育大会(長崎県、 ~ 日) 15 12 旗を持った参賀の人々で忽ち一杯に 台風の近づきて来る競技場 20 団体も多い。喜ばしいことである。参 も非常に多い。観光ツアーと思われる 民の上に思いを寄せられる、誠実で優 過重な御公務の中にあって絶えず国 賜った。 大晦日以来三日続きの晴天、日本晴 賀 は 日 本 の 伝 統 文 化 で も あ る か ら だ。 しい陛下の大御心に感動させられた。 おの れ、正に参賀日和である。1月2日は み こ おんかた 同妃両殿下ほか皇族方が御出御になら 分 頃 ) 両陛下と皇族方がお手を振ってにこや 皇族方の御出御は午前中1~2回目が 皇太子・同妃両殿下、秋篠宮・同妃両 身も心も清められ、晴れ晴れとした に達したという。 (飯田正能記) 分 頃 ) ら れ、 天 皇 陛 下 万 歳 の 歓 声 が 上 が り、 思いで宮殿前広場を後にした。 れると、一斉に日の丸の小旗が打ち振 時 20 50 計 5 回 行 わ れ る 予 定 で あ る が、 通 常、 か に 応 え ら れ た。 こ の 日 の 皇 族 方 は、 分 頃、 2 時 時 頃、 宮殿長和殿ベランダへの天皇・皇后両 分 頃、 11 陛下始め皇族方の御出御は、午前3回 時 30 11 み嘆きはいかありしならむ父宮は よはひ 今年の一般参賀の参賀者数は、平成 やがて定刻、天皇、皇后両陛下を先 新 年 参 賀 は さ す が に 規 模 が 大 き い、 頭 に、 皇 太 子、 同 妃 両 殿 下、 秋 篠 宮、 に入って3番目に多い8万1030人 筆者の誕生日でもあって、家族共々朝 華やかな雰囲気に満ちている。外国人 な っ た。 や は り 若 者 が 圧 倒 的 に 多 く、 安寧と幸せを祈ります」とのお言葉を 30 「己が日」を持ち得ざりしも数多あり 〇新年一般参賀 10 〈神宮参拝〉 にひみや か 20 20 10 11 あまたなる人らの支へ思ひつつ 七十年経つを思ひて〉 宮に詣づ 白木の冴ゆる新 〈来た る 年 が 原 子 爆 弾 に よ る 被 災 よ り い 爆心地の碑に白菊を供へたり いかばかり水流は強くありしならむ 木々なぎ倒されし一すぢの道 16 早めの祝い膳を頂いて家を出た。 皇后陛下御歌 (3首) 15 午 後 2 回( 1 時 ( 10 子の御肩に触れまししとふ 皇 つしままる 〈学童疎開船対馬丸〉 日、全国植樹 29 みて悲しく対馬丸思ふ し 我もまた近き齢にありしかば 沁 月 ◇ 更に天皇陛下は 12 10 〈ソチ五輪〉 11 12 て ソチ・オリンピック後半に入る 〈宜仁親王薨去〉 あまた 10 65 22 69 12 34 26 にし彼の日を 忘れざらめや往 〈広島市の被災地を訪れて〉 皇居参賀二題 (104号) (7) 年「宮中歌会始」の 下御歌 こ皇后か陛 た ふみ 来し方に本とふ文の林ありて いくど 〇平成 御儀 その下陰に幾 度いこひし 新春恒例の「宮中歌会始」の御儀が 1月 日午前、皇居正殿「松の間」に 皇太子徳仁親王殿下お歌 お い て、 古 式 に 則 り 厳 か に 行 わ れ た。 山あひの紅葉深まる学び舎に 今年の御題は「本」で、天皇、皇后両 本読み聞かす声はさやけし めしうど 皇太子妃雅子殿下お歌 恩師より贈られし本ひもとけば お 歳、最年長は奈良県 歳)が、天皇陛下の 秋篠宮妃紀子殿下お歌 日系の若人かたりぬ日本への 一本巨樹に思ひ巡らす 篠宮文仁親王殿下お歌 と秋 しひさ ふ げつ 年久しく風月の移ろひ見続けし 若き学びの日々のなつかし 陛下の御製・御歌、皇族方のお歌、天 皇陛下に招かれて歌を詠む召人(今年 みずがめ 歳 ) の 歌 と 選 者 の 歌、 は短歌結社「水甕」代表の歌人春日真 木子さん り 首(今年の最年少は神奈川県 2万861首の応募作の中から選ばれ た選歌 の小林理央さん よしひろ の伊藤嘉啓さん 秋には稲刈りをされ、収穫された新米 本を読みたる幼きわが日 御前で披講された。 あつき思ひと移民の暮らしを 天 皇 陛 下 の 御 製 は、 毎 年 陛 下 は、 春 秋篠宮眞子内親王殿下お歌 に は 種 籾 を 撒 か れ、 初 夏 に は 田 植 え、 呼びかける声に気づかず一心に の一部を伊勢神宮の神嘗祭に供えられ 秋篠宮佳子内親王殿下お歌 弟に本読み聞かせゐたる夜は たものであり、皇后陛下の御歌は、過 旅する母を思ひてねむる るが、その秋の稲刈りの様子を詠まれ 去 幾 度 と な く 本 か ら 安 ら ぎ を も ら い、 子殿下お歌 常陸宮妃華 ページ 新しき本の頁をめくりつつ 思い起こされて、本への親しみや感謝 三笠宮寛仁親王妃信子殿下お歌 松山に集ひし多くの若人の いづく迄読まむと時は過ぎゆく それが木陰で憩うようであったことを のお気持ちを詠まれたものである。 来年の御題は「人」である。 ◇ しをり 高円宮妃久子殿下お歌 来客の知らせ来たりてゆっくりと 新潟県 吉楽 正雄( ) おさがりの本を持つ子はもたぬ子に 見せて戦後の授業はじまる 入れたり 読みさしの本に栞 だから私が続きを生きる ) ) ) ) ) ) ) わけぢやない 神奈川県 小林 理 この本に全てがつまつてる あの子みたいに君はゐるのりかお 央( いつも渡れぬ鬼のすむま島み こ 望子( 岡山県 中川真 暑い夏坂を下ればあの本の 神奈川県 古川 文良( 雉さんのあたりで遠のく母の声 同じ二冊が並ぶ本棚 茨城県 五十嵐裕治( 二人して荷解き終へた新居には 父の戦後は不意に終はりぬ 埼玉県 森中 香織( 本棚に百科事典の揃ひし日に 家の子が言ふ移動図書館 千葉県 平井 敬子( ) 「あったよねこの本うちに」流された 道を開けたり世と繋がりぬ ふとゐ 愛知県 森 明美( 竹垣の露地に仕立てた数本の 本の秋は 高円宮承子女王殿下お歌 霧立ちて紅葉の燃ゆる大池に に ほん 鳥の音響く日 ) 藺ゆらして風わたりけり 太 ゆ み こ 長野県 木下瑜美子( 大雪を片寄せ片寄せ一本の ◇ くあひあふ万の言の葉 さき 召人 春日真木子 い き 緑陰に本を繰りつつわが呼吸と 幸 るが慣ひとなりぬ よ 選者 篠 弘 送られし古本市のカタログに 一冊を選 す 選者 三枝 昂之 音読の声が生まれる一限目 あ 日へ遠くへ本がいざなふ 明 かさ 生の量をかなしみにけり ひとよ 選者 永田 和宏 本棚の一段分にをさまりし 一 選者 今野 寿美 秋の気の音なく満ちて指先に 起こしては繰る本こそが本 選者 内藤 明 開かれて卓上にある一冊の ゆふげ 首、年齢順) ◇ 餉のごとし 本を囲みて夕 ○選歌(詠進歌 啓( 奈良県 伊藤 嘉 若き日に和本漁りぬ京の町 よしひろ 三笠宮彬子女王殿下お歌 数多ある考古学の本に囲まれて 抱へる本は夢のあかしへ 天皇陛下御製 夕やみのせまる田に入り稔りたる 目方で買ひし春の店先 77 74 72 59 58 57 46 17 15 78 15 積み重なりし年月思ふ 78 27 88 稲の根本に鎌をあてがふ 10 14 10 (8) (104号) 平成27年「宮中歌会始」の御儀 期 飯田 正能 細な戦闘報告・戦訓等の暗号電をパラ 闘ヲウチキリ、残ル健在者約五十名ヲ パラオ本島へ打電した次の電文を最後 に通信は途絶えた。 中ニシテ依然主陣地ノ一部ヲ死守セシ 司令官閣下ノ御意図ニ副ワン。 隊長ノ遺志ヲ継承シ持久ニ徹シ、集団 部及ビ兵員ヲ随所ニ奇襲シ、以テ地区 根本大尉以下五六名一七組、二十四 日一七○○、編成完了。主トシテ敵幹 ニ徹シ、米奴撃滅ニ邁進セシム。重軽 「十八時ヨリ遊撃戦ニ移行ス オ 集 団 司 令 部 宛 に 送 っ て お り、 更 に、 以テ、遊撃戦闘ニ移行、飽クマデ持久 敵前逆上陸に成功し、その後の戦闘に 勇 戦 敢 闘 し た 歩 兵 第 十 五 聯 隊( 高 崎 ) 傷者中、戦闘行動不能ナル者ハ自決セ シム。重傷者中約四十名ハ、目下戦闘 ム。将兵一同、聖寿ノ万才ヲ三唱、皇 第二大隊(長・飯田義榮少佐・陸士 期)の戦闘詳報・戦訓等を奈良四郎少 運ノ弥栄ヲ祈願シタテマツリ、集団ノ 行の末、パラオ集団司令部他に届ける 中 川 地 区 隊 長 は 戦 況 の 急 変 を 憂 慮 し、 「サクラ サクラ」 ス。 通信断絶ノ為本日以降連絡期シ難キ モ、御諒解ヲ乞ウ。 最後ハ何等カノ方法ヲ以テ報告致 度」 また、送信のための乾電池も底をつい 米軍公刊戦史は、この時の状況を次 のように述べている。 左 記 一、軍旗ヲ完全ニ處置シ奉レリ 伝える電文が届いた時、その電文を見 「 米 歩 兵 第 八 十 一 師 団( 第 三 二 二 連 隊 二、機秘密書類ハ異状ナク處理セリ た者、等しく泣かずにはおられなかっ 宛に「敵ハ二十二日以来、我ガ大山主 団司令部付幕僚村井權治郎少将及び第 て、築城と戦闘指導に当たっていた師 三二三連隊長ワトソン大佐は第八十一 蕩 戦 攻 撃 を 開 始、 同 日 十 一 時、 第 し、同二十七日七時、大山全地区の掃 十四師団(師団長井上貞衛中将・陸士 十 五 聯 第 二 大 隊 長 飯 田 少 佐 の 3 名 は、 師団長ミューラー少将に作戦終了を報 集 団 参 謀 長 多 田 督 知 大 佐( 陸 士 欠)は十一月二十五日、包囲圏を圧縮 たという。 パラオ本島通信部に、その痛恨の思 いを込めたペリリュー島守備隊玉砕を その後 月 化し、 時 告相成度 終」 際の電文を「サクラ サクラ」と連送 日 に、 することの了承を求めたものである。 右の電文は、昭和 年 月 なかがわくにお ペリリュー島地区守備隊長中川州男大 日、戦況ますます緊迫 佐(水戸・歩兵第二聯隊長・戦死後中 分、中川大佐は、パラオ この最後の電文を送った後、守備隊 期 ) 長中川大佐と、第 師団から派遣され 14 陣地中枢ニ浸入、昨二十三日、各陣地 36 22 期 ) が、 パ ラ オ 本 島 の 第 24 30 11 ニ於テ激戦シツツアリ、本二十四日以 将・ 陸 士 11 10 19 期)高級副官橋本津軽少佐宛に送っ 30 ム。夜鬼トナリ、之ガ粉殺ヲ期セント 等、冷静にして正確な観察による多大 し、 軍旗を奉焼し、機秘密書類を焼却。続 そして、 月 日、優勢な敵が大山 いてパラオ集団長(第十四師団長)宛 拠 点 の 主 陣 地 中 核 に 迫 っ て き た た め、 最後の電文を打電した。 に大きく貢献した。 な情報をもたらし、その後の戦闘指導 益々ノ発展ヲ祈ル」との至急電を打電 遊撃隊員ハ一同、士気旺盛、闘魂ヲ 時、 大 山 戦 闘 指 揮 所 の 洞 窟 で、 燃シ、神出鬼没、敵ノ心胆ヲ寒カラシ 尉らによる決死の海中遊泳 キロの難 46 ペ島のサクラ 陸士 「発信地 ペリリュー 発信者 歩二長発信時刻 月 日 時 分 受信者 高級副官宛 歩二電第一七七號 通信断絶ノ顧慮大トナレルヲ以テ最後 60 61 40 ノ電報ハ左ノ如ク致シ度承知相成度 16 07 たので、パラオ集団司令部宛に玉砕の 22 22 右ノ場合「サクラ」ヲ連送スルニ付報 11 11 た至急電(原文のまま)である。 ニ 至 ル。 地 区 隊 現 有 兵 力、 健 在 者 約 降、特ニ状況カラ見テ陣地保持ハ困難 傷者たちも後を追って自決した。 古式に則り従容として割腹自決し、重 れ ば、 遊 撃 隊 根 本 甲 子 郎 大 尉 以 下 告した。なお、米海兵隊公刊戦史によ 兵器ハ小銃ノミ、同弾薬約二十発、手 24 五十六名十七組は、米軍の包囲圏を突 破できず、二十四日の夜から二十七日 食糧、弾薬の枯渇を凌ぎつつ、決死の 11 七時頃までの間に、米軍と激しく交戦、 時、 全員玉砕した」と。 榴 弾、 糧 秣 オ オ ム ネ 二 十 日 以 降 皆 無、 組織し、大山の司令部洞窟陣地を出て 日 地区隊ハ本二十四日以降、統一セル戦 月 斬込みを続け、敵に甚大なる損傷と脅 遊 撃 戦 に 移 行 し た。 同 威を与えた。その間500通以上の詳 56 19 こ と 2 ヵ 月 余、 熾 烈 な 砲 爆 撃 に 耐 え、 五十名、重軽傷者七十名、計百二十名、 後に残された根本甲子郎大尉以下傷 だらけの将兵 名は、最後の決死隊を ペリリュー島守備隊は、昭和 年9 月 日の米軍上陸以来、死闘を続ける 20 15 18 ペ島のサクラ (104号) (9) あった。彼らは守備隊の遺志を引き継 る 」 と 書 い て お り、 ま た、 現 在 ペ リ 「 ヤ マ ト ダ マ シ イ で 戦 う か ら 勝 つ 」 と を占領したことは、今もって疑問であ を持っていた米軍が、死傷者合わせて そしてもう一つ。ペリリュー島には 一万人を超える犠牲者を出してこの島 「 サ ク ラ 」 と 名 づ け ら れ た 野 球 チ ー ム 年4月で ぎ、持久に徹し、ゲリラとなって米軍 すべき戦歴を残している。同じパラオ る激しいもので、太平洋戦史上に特筆 戦闘は、グアム島、サイパン島にまさ と い う 純 真 一 途 な 気 持 ち で、 一 命 を たちは、故国の家族に敵を近付けるな リュー島、アンガウル島を守った兵士 壁となれ」という合言葉の下に、ペリ 国心を持って戦い、そして玉砕したか るために日本軍人が、いかに勇敢な愛 らに万感の思いを伝え続けているので 界で最も短い詩とも言われる)は、彼 国から訪れる旅人たちよ、この島を守 「 サ ク ラ・ サ ク ラ 」 と い う 六 文 字( 世 リ ュ ー 神 社 境 内 に あ る 詩 碑 に は、「 諸 ある。 約1年9ヵ月経った昭和 この小さな島(南北約9キロ、東西 約3キロの珊瑚礁の島で、中央高地は を 悩 ま し 続 け た の で あ る。「 祖 国 の 防 諸島の近くの島アンガウル島戦と並ん を伝えられよ─太平洋艦隊司令長官 があり、いつも優勝している。彼らは メートル)で繰り広げられた で、その壮絶さは世界戦史上初めての 擲ったのであった。 高さ約 例であるとも言われている。その恐怖 領しなければならなかったのか」と述 の島」と名づけた。 せられ、米軍はペリリュー島を「天皇 34 戦闘が終わると、パラオの人々は泣 く泣く日本兵士の遺体を埋葬した。彼 作曲た まトンミー・ウエンティ 一 激しく弾雨が 降り注ぎ ジョージ・シゲオ 作詞 オキヤマ・トヨミ C.W.ニミッツ」と和・英両文で刻 「ペ島の桜を讚える歌」 言 う。 中 川 隊 長 が 打 っ た 最 後 の 電 文、 は米軍戦史にも明らかであり、米軍は 懐しているくらいである。 12 らはその後も「サクラ・サクラ」の最 ける他のど の歴史にお この歌は、今でもパラオで愛唱されて ンティさんが作曲した。八番まで続く と題する歌詞を作り、小学校長のウェ 死んでも守ると 誓いつつ 複雑極まる防備に打ち勝つには、米国 米太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥 は、自著『太平洋海戦史』の中で、ペ 名計 中でも「天山死守」を命じられた第 二聯隊第二大隊の一部(山口永少尉以 名)と、海軍の生存者 22 が最後に降伏したのは、終戦の時から んな上陸作 い る( 歌 詞 は 後 掲 )。 ま た、 こ の 曲 の 撃ち 山なす敵を 迎しえ たま う ょく 射ち尽くし 食糧もない 弾 四 日本の桜は 春いちど 後の電文を忘れられなかった。現地の オレンジ浜を 血で染めた つわもの 女酋長の沖山豊美さん(日本名。父は 強兵たちは 皆散って しま 日 本 人 ) は、「 ペ 島 の 桜 を 讚 え る 歌 」 ペ島は総て 墓となる 二 小さな異国の この島を 戦にも見ら ほかに日本でもよく知られている歌に 見事に咲いて 明日は散る れなかった り、日本とパラオ両国民の心の交流を 最高の戦闘 「酋長の娘」「パラオ恋しや」などがあ 損害比率 の桜は 散り散りに ペ島 ち とこしえ 砕れども武勲は 永久に 玉 八 戦友遺族の 皆さまに いついつ 永遠までも かわりなく ラ」と称して「国花」のようにしている。 かった。今は桜に似た花を「南洋ザク な か っ た。 を持っていったが、熱帯のため育たな 桜とともに 皆さまを 必ず我等は 待ち望む 既に制海 ければなら 権、制空権 そればかりではない。パラオにも桜 を植えたいとして、日本から桜の苗木 %) 示している。 40 を甘受しな (約 ペリリュー神社境内に建立されているニミッツ の詩碑・碑の両面に和文・英文で刻まれている 下 リ リ ュ ー 戦 に つ い て、「 ペ リ リ ュ ー の 「これほど高価な代償を払ってまで占 まれている。 22 この壮絶なる戦闘に対し、昭和天皇 から 回にわたって御嘉尚の電文が寄 80 名 11 ( 10 ) (104号) ペ島のサクラ 年度顕彰会初詣で 評議員 及川 昌彦 初詣でを実施した。 先ず、 時 分、靖國神社拝殿鳥居 前に集合し、全員揃って参拝後、電車 る『特攻平和観音経』の読経に合わせ 意を新たにすることができた。 心を清められ、慰霊・顕彰活動への決 今年の初詣でとして、当顕彰会関係 の神社・仏閣巡りにより、参加者一同 官退場、伊丹駐屯地の陸上自衛隊音楽 奏上、玉串奉奠、撤饌、昇神の儀、神 儀、降神の儀、献饌、祝詞奏上、祭文 で開始され、国歌斉唱、黙祷、修祓の て、心新たに戦没特攻隊員への慰霊の 会の評議員でもある太田兼照和尚によ 祈りを捧げた。兼照和尚の読経は、初 笹幸恵の各理事、羽渕徹也理事兼事務 隊による慰霊鎮魂曲の演奏、祭電・メッ 参加者は、藤田幸生副理事長、衣笠 陽雄専務理事、小倉利之・水町博勝・ セージ披露、閉式の辞と、式次第にのっ た趣があり、迫力のある声量に圧倒さ 明各全体委員会委員、金子敬志事務局 議員、大穂孝子顧問、原知崇・河島慶 「 本 日、 こ こ 大 阪 護 国 神 社 の こ の 聖 地 長瀬彰孝・大穂園井・及川昌彦の各評 その後、一同代官屋敷に移動して直 会が行われたが、最初に、兼照和尚か 名であった。 に身を捧げられた特別攻撃隊戦没者の 全 国 の 護 国 神 社 に『 特 攻 勇 士 之 像 』 を建立し、それぞれの都道府県で特攻 在天の御英霊に申し上げます。 霊・顕彰を挙行するに当たり、謹んで ご臨席を賜り、第六回の特攻勇士の慰 に、ご遺族・戦友のご出席とご来賓の ら年の初めに相応しい初詣でに関する ひろはる とバスを乗り継いで移動し、世田谷の 次長の こまつなぎ 駒 繋 神 社 に 参 拝 し た。 澤 田 浩 治 宮 司 御講話を拝聴し、次いで、観音寺秘蔵 粛な気持ちで拝承し、代表の藤田幸生 副理事長の玉串奉奠に合わせて、一同 理事 小倉 利之 人が永久に肝に銘じて伝承し続けるこ とを願って制作されましたCD『あゝ を 伝 え る 会 」 が 発 端 と な り、「 特 攻 隊 立されている「特攻勇士之像」の前に 建立する運動が展開されております。 余名が参列して斎行された。 こ こ 大 阪 護 国 神 社 に お い て、 平 成 二一年一○月二四日に除幕式を致しま 当日は、一片の雲もない秋晴れの天 戦没者慰霊顕彰会」の重要事業として 候に恵まれ、慰霊祭は、本殿東側に建 『 特 攻 勇 士 之 像 』 を 全 国 の 護 国 神 社 に その概要を報告します。 顕 彰 会 代 表 と し て 参 列 し ま し た の で、 学生・教官を中心とする「日本人の心 26 祭壇を設け、御遺族、御来賓、戦友他 11 拝礼した後、御神酒を頂戴した。 世田谷山観音寺・特攻観音堂前にて 楽しいながらも、有益な一時を過ごす ことができた。 平 成 年 月 日( 日 )、 大 阪 護 国 神社において、特攻勇士顕彰会(会長 特攻』を発案された、大阪芸術大学の 崇高な精神と行為を日本国民の一人一 中 一皓近畿偕行会会長)主催による 第6回特攻勇士慰霊祭が斎行され、当 10 大阪護国神社 いお酒が振る舞われた。一同美酒を楽 「特攻勇士慰霊祭」に参列 しみつつ、今年の決意等々を語り合い、 して の「同期の桜」や「二重橋」など珍し による真心の籠もった新年の祝詞を厳 30 とり、厳粛かつ整斉と執り行われた。 れる思いであった。 局長、倉形桃代・石井千春・太田兼照・ 特攻勇士顕彰会中 一皓会長が奏上 された祭文は次のとおりである。 平 成 年 1 月 7 日( 水 )、 当 顕 彰 会 めて拝聴する者もいたが、御父上の大 の 年 度 当 初 の 慰 霊・ 顕 彰 活 動 と し て、 和尚太田賢照山主の読経とはまた違っ 平成 27 27 13 その後、徒歩で世田谷山観音寺に移 動し、特攻観音堂内において、当顕彰 駒繋神社拝殿前にて 16 26 式典は、 時頃から、神官入場の後、 し た 碑 は、「 崇 高 な る 心 で、 た だ 一 筋 小野寺正芳事務局長の司会と開式の辞 に 愛 す る も の を 守 る た め、『 特 攻 』 に 90 大阪護国神社「特攻勇士慰霊祭」に参列して/平成27年度顕彰会初詣で (104号) ( 11 ) われました石頭予備士官学校生徒一三 ここ大阪護国神社には大阪府下の特 攻戦士五一五柱と、特攻同様の精神で戦 いたいのです」とあります。 いつまでも感謝の真心を捧げ、語り合 霊 」 を お 迎 え す る「 慰 霊 碑 」 を 建 て、 墓標に今も眠る『特攻の戦士』の「御 を守る遥かな雲の彼方に、深い海底の 身を捧げた若者達、俺達が死んで日本 つところにあります。このような観点 世に生きる者が自戒・自励の原点に立 して見て頂けるか否かを推し量り、現 となられた皆様に、現世の有様を満足 ますが、更に重要な事は、神となり仏 を捧げるものであることは当然であり 慰霊行事は、この国のために一身を なげうたれたご英霊の皆様に哀悼の誠 しての自覚に目覚めたのであります。 支援活動により、漸く本来の日本人と 行動と自衛官を始めとする素晴らしい せるとともに、この世の流れは非情に この特攻勇士の碑前に参集しました 私どもは、皆様の万感の念に思いを馳 ります。大いに期待したいものです。 憲法改正を視野に取り組もうとしてお は国民の高い支持率をバックに経済の ここで、最も大切なのは日本国を主 導する政府の方針と行動力でありま 殿の西側にある「儀式殿」に移動して る ん だ 」 の 精 神 を 基 に 安 全 保 障 政 策、 吹奏された素晴らしい演奏であった。 復活と共に「自らの国は自らの手で守 数に制限があり、 名程度の各会代表 いる曲目で、御霊のために心を込めて 神事の後の陸上自衛隊音楽隊による 演奏は、陸海軍の皆様の良く知られて ば な ら ぬ 時 期 に 来 て い る と 考 え ま す。 度想いを致し、ご英霊に哀悼の念と感 直会が行われた。会場が狭いために人 「特攻勇士之像」の前での儀式は、整 斉 と 執 り 行 わ れ、その 後、護 国 神 社 本 て追悼の詞と致します。 」 謝の誠を捧げ、安らかなお眠りを希っ 柱の計五二八柱が祀られております。 から見た時、二○歳前後で散って逝か れた皆様が、夢に描いたであろう、誇 して、これまで皆様を弔い、誠意を尽 た が、い ず れ も、特 攻 隊 の 真 の 姿 を、 の司会により、多くの方々が発言され 者の集まりであったが、加賀本昭雄氏 す。二年前に復活した自民党安倍政権 我が国の戦後における奇跡の復興と 発展は、戦友・朋友・同輩の必死のご 努力により、成し遂げられました。今 くして来られたご遺族・戦友・同輩の 日本人に如何に伝えていくかが、我々 方々も、年と共にその数を減らしてま 牲をテーマにした百田直樹氏の『永遠 立って真剣に話しておられたことが印 に課せられた責務であるとの認識に り高く、香り高く世界に感動を与え得 ように、まだまだこの社会には、皆様 の0』が空前のヒット作となりました 象 に 残った。 「 特 攻 勇 士 之 像 」 が しっ る国家を目指して我々は一層の努力と 周辺諸国の侵害の問題、南京大虐殺や ぞれ独立して目覚ましい発展を遂げて 近年において、北方領土、竹島、尖 おります。この平和と繁栄の現在こそ、 閣諸島といった我が国固有の領土への を悼む心が健在しております。 が継承されていくには、その組織の大 日、我が国、我が国民は、世界でも屈 慰安婦の問題等への対応は長年の平和 また、最近の出来事ですが、皆様が出 撃 前に認められました手 記が、心ある 指の豊かで平和な生活を享受しており 国家の虚名から脱しきれないまま、毅 都道府県の護国神社での慰霊祭につい 切さを強く訴える方もあり、また、各 いりましたが、しかし、皆様の尊い犠 「特攻勇士之像」を通じて、これからの 皆様方の滅私の献身が礎となって築か 然たる態度に乏しく、宥和的姿勢に終 育 教 材 として採 用され、生徒 達に深い 教師により、義 務教育の学 校現場で徳 精進に励まなければなりません。 れたものであることを私達は決して忘 始しております。これこそ、独立国家 かつて、この国のために一身をなげ うたれたご英霊の心情を思う時、誠に 感銘を与えております。漸く、徐々にで おられた。そして、 ここに集まった人々 ても、横の連携の大切さを訴える方も 描かれた美しい社会像・国家像に今一 終わりに臨み、本日ご参集いただき ました皆様と共に、英霊の皆様が夢に 戦後 年が経過しようとしている中 においても、このように真剣に取り組 あることを話し合った会合であった。 に誇れる美徳を取り戻しつつあります。 のより一層の努力と意識向上が必要で はありますが、日本国民は本 来の世界 ゼロ れることはできません。 としての矜持、民族の誇りとしての観 申し訳なく、ご意志を引き継いだ世代 かりと守られて、将来においてもこれ しかしながら、平和と繁栄が続く歳 月の経過の中で、いつしか皆様方に対 ます。また、アジアの諸民族は、それ 50 する感謝と慰霊の心が風化しつつある ことが憂慮されます。その中にあって、 点から、憂うべき問題であります。 試練でありました。震災後三年を経過 突如生じた東日本大震災は天が与えた した今も復興は遅々として進まない状 の国の有様を見直し、立て直さなけれ 況ではありますが、被災された方々の、 の我々一同、今こそ初心に帰って、こ 世界中の人々を驚嘆させた礼儀正しい 70 ( 12 ) (104号) 大阪護国神社「特攻勇士慰霊祭」に参列して れこそが、特攻隊員等に対する慰霊と 植え付けられることが大切であり、そ かりと受け継がれ、若い人々の心にも 要なことは、真の日本人の精神がしっ も、世代交代が如何に進もうとも、重 同 年 春 の 全 国 護 国 神 社 会 同 の 席 上、 は、止むを得ないものと思います。 靖國神社から、像の奉納運動について 仰いでおります。 全面的に靖國神社のご指導とご協力を 靖國神社からは、護国神社それぞれ の事情から、受入れに必ずしも積極的 が、内容が学術書的であり、広く一般 が、 本 運 動 を 進 め る こ と に つ い て は、 の右に出るものはないものと考えます でないところもある、とのことでした 的に、人々に読まれないであろうこと 特攻の全貌を伝えるものとして、本書 隊全史』を刊行していますが、後世に 世 に 継 承 し て い く た め に、『 特 別 攻 撃 「 特 攻 勇 士 之 像 」 は、 平 成 年 度 に 建立が始まってから、現在は 体とい ことを忘れてはならないと思います。 を祈るとともに、これを後 世に伝 える つ亡くなられた特攻勇士たちのご冥福 として語 り 継 ぎ、日 本の平 和 を願いつ らない。また、その「日本人の心」を心 んでいる姿を見て、我々も戦後の人達 顕彰になるものと信じている。 当顕彰会の新方針の説明が行われた 山観音寺での特攻平和観音年次法要を また、当顕彰会では、春の靖國神社 での特攻隊合同慰霊祭及び秋の世田谷 よう努力が必要であると思います。 神社に、可能な限り早期に建立できる 箇所にある護国 ここでの直会は、他の会合にはない 素晴らしい意見交換会であり、感動さ 執り行っておりますが、その時の参列 うことですが、全国 せられた。 際、その場で、栃木、茨城、山梨、大 国 神 社、平 成 年 度に 年 度に 大 分 県 永久に人々に問い掛けて下さいます。 社、 体でありますが、 お聞きしたい」とのことがよくあると 行社、郷友会、水交会、隊友会、つば 会等が主として活躍されています。 建 立された像について、その後 慰 霊 祭を執り行っているかどうかその維持 て頂くことが大切だと考えております。 護国神 社に建立されるよう、ご尽 力を のことでした。 いろいろ述べてまいり ましたが、旧 「 特 攻 」 とい う 史 実、その 行 為 の 基 軍 関 係 者の活 躍 されている間に、一体 になった「日本人の心」は、これからも、 でも多くの「特攻勇士之像」が、全国の 2 「特攻勇士之像」の問い掛けるもの 士たちの言 葉、その遺 志を忘れてはな 死を目前にして、最 後に残した特 攻 勇 で、よろしくお願いいたします。 特攻隊戦没者慰霊顕彰会では、全力 でご支援をしたいと考えておりますの 賜りたいと心からお願い申し上げます。 当顕彰会は、特攻の史実と精神を後 護国神社との話合いが進んでおります。 本国民・愛する家族や愛する人を想い、 もできない時代、その中で隊員達は、日 体 が 建 立 奉 納 さ れていま す。な お、 平和な時代に生きる我々にとって想像 八 幡 神 社 に 各 1 体 ずつ、計 2 体、合 計 12 管理組織は、各護国神社の状況及び管 理 組 織によって、毎 年 実 施 している所 平成 年度においても繰越金のうち 1500万円を基本財産に繰り入れる と福岡県の2護国神社、平成 年度に千葉県護 千葉県護国神社の宮司様からお話を 年 度 に 京 都 府( 霊 山 ) 聞く機会がありましたが、若い人達か 予算を計上しましたが、これを「特攻 埼玉県護国神社、平成 と、そうでない所がありますが、可能な 勇士之像」奉納運動基金に振り替える 護国神社の計 ら「 特 攻 勇 士 之 像 」 の 前 で、「 私 達 は ことの可否について、所管の厚生労働 社内の建設が困難な事情から能代市の その他に世田谷山観音寺と秋田護国神 限り、慰霊顕彰の面から、毎年執り行っ 省に質しましたところ、他の事業と明 25 木県護国神社、平成 内に「特攻勇士之像」が建立されるな 者には、特攻隊勇士の志、日本人の精 年度に栃 年 度 に 群 馬 県、 らば、像は無言のうちに「特攻とは」を、 宮城県の3護国神社、平成 媛 県 護 国 神 社、平 成 年度に愛 さ会、自衛隊父兄会、英霊にこたえる 52 何も知りませんでした。特攻のお話を 確に区分して管理されるならば、差し 支えないとの意向が示されました。そ こで急遽、方針を変更することに、理 会長から、全国 の護国神社宮司に この旨の報告と協力をお願いする書状 を発送いたしました。 52 14 今 ま で に 建 立 奉 納 さ れ た 護 国 神 社 神というものは、感動をもって伝えら は、 平 成 年 度 に 鹿 児 島 県、 福 井 県、 れますが、一方、全国の護国神社の境 受入れの意向が示されました。 阪、山口の5県の護国神社の宮司から 14 19 また、現在の 体に関して、建立の 主体となった組織を調査した結果、偕 〈付 記〉 ○「特攻勇士之像」の現状と将来 の姿について 1 今までの流れに関すること 19 戦没者慰霊平和祈念協会)されました。 大阪府の2護国神社、平成 当顕彰会は、平成5年に、基本財産 1億円で財団法人化(財団法人特攻隊 20 22 21 23 26 24 12 19 事 会・ 評 議 員 会 で 決 定 い た し ま し た。 現在は、茨城県、山梨県、山口県他の各 14 大阪護国神社「特攻勇士慰霊祭」に参列して (104号) ( 13 ) 月、陸軍特 期)が 名 別攻撃隊鉄心隊隊長として比島に出撃 て欲しいとの要望に応え、昭和 年に 区の由緒ある伊勢大御神大神宮の森幸 修祓・降神・斎主一拝・献饌・祝詞奏 彦宮司により神事が斎行された。黙祷・ 上と整斉粛々と執り行われたが、斎主 建立されたものである。 祭式は、国歌斉唱、開式の言葉、黙 した、松井浩中尉(陸士 祷の後、斎主である地元南相馬市鹿島 月7日、 る原町飛行場関係戦没者慰霊顕彰会の また、このために献身的に支援をされ さ え、 多 く の 方 が 慰 霊 祭 に 参 列 さ れ、 な生活を強いられる厳しい状況の中で り、未だに帰宅もできないという困難 という未だかつてない甚大な被害を被 原町では、原発事故による放射能汚染 い状況になりつつある。しかし、ここ 慰霊碑のみが残されているという悲し いるが、そうでないところは、草むす 講じている団体は順調な活動を行って しかし、早くから将来のための対策を 慰 霊 祭 は、 そ の 規 模 を 縮 小 し て い る。 割を果たしたこと。現在、全国の各種 軍航空部隊・航空兵の育成に大きな役 頂 い た。「 原 町 飛 行 場 の 5 年 間 は、 陸 以下のような趣旨のことを述べさせて 私 に も 慰 霊 の 言 葉 を 要 望 さ れ た の で、 意・ 御 礼 等 が 異 口 同 音 に 述 べ ら れ た。 中で慰霊祭を執行することの意義・決 会会長等の方々が、この厳しい現実の 議会議長、県議会議員、南相馬市遺族 れた。桜井南相馬市長、平田南相馬市 拶があり、来賓の追悼の言葉が述べら じられた。ここで高橋事務局長から挨 の流れるような所作は心地良くさえ感 の隊員を率いて出発した時の写真から 55 作成された、等身大のブロンズ像であ る。像は飛行機の翼をイメージし、地 元の彫刻家佐々木光男氏が制作された 全国でも珍しい形の碑である。台座の 年 碑文は元東大教授平泉澄氏の撰によ 日( 日 )、 福 島 県 南 眞前会長の兄上で、昭和 相馬市原町区陣ケ崎公園墓地内「原町 回原町飛 比島オルモック湾の敵艦船群に特攻突 びに第 右 側 の 副 碑 は、「 大 東 亜 戦 争 原 町 関 係 名の参列者が 年 11 戦没された地元原町の御英霊も合祀し 当顕彰会代表として参列しましたの 式の開始前、高橋事務局長から東日 本大震災時の当地域の被害、特に福島 第一原発の放射能汚染の復旧遅延のた め、残念ながら昨年同様、地元有志に よる小規模での開催となった経緯等の それでも祭式には約 説明と挨拶があった(後記)。 祭壇を設けて斎行された。 に戦没者名を刻んだ左右の副碑の前に 厳かに執り行われた。式は慰霊像並び あり、1時間半に亘って整斉と、かつ 50 19 中央の主碑は、鉾田教導飛行師団原 慰霊碑(右主碑・左副碑) 一 慰霊祭の概要 戦没者」の銘盤であり、大東亜戦争で 56 で、以下のとおり報告します。 ( 四 六 五 柱 ) 慰 霊 祭 」 が 執 り 行 わ れ、 長( 陸 士 期 ) の 銘 も 刻 ま れ て い る。 入して散華された、勤皇隊山本卓美隊 12 回大東亜戦争原町関係戦没者 44 行場関係戦没者(三三四柱)慰霊祭並 橋正彦氏)主催による「第 る。左側の副碑は原町飛行場関係全戦 月 専務理事 衣笠 陽雄 平成 年度原町飛行場関係 戦没者慰霊祭に参列して 年 11 飛行場慰霊碑」前において、原町飛行 平成 56 19 没者の銘盤であり、当顕彰会の山本卓 12 場関係戦没者慰霊顕彰会(事務局長高 10 町飛行隊当時、昭和 慰霊祭 26 26 36 ( 14 ) (104号) 平成26年度原町飛行場関係戦没者慰霊祭に参列して 激 ら入る側道や家の前には全て遮蔽物が のみで、他には見当たらず、幹線道か みは整然としているが、人影は警備員 止となっている。6号線から見る町並 することにしました…」と述べられた 小規模の地元有志による慰霊祭を執行 不足、放射能被曝の懸念等から、ごく す。今年も交通網の遮断、宿泊施設の 設住宅での不自由な生活を続けていま 五重の苦しみに耐えながら避難所や仮 ○最悪 状況での慰霊祭執行の気概に感 筆者は、前山本会長が兄上の慰霊祭 設置されており、到る所草が生い茂り 強力な組織等があることから、必ずや に毎年参列しておられると聞き、一度 正にゴーストタウンそのものであっ 性合唱団「原町メンネルコール」によ 祭電が披露された後、南相馬市の男 被害により、また、昨年は放射能の被 田畑は雑草が生い茂り、目に見えない も諸所に見られ、不通となっている常 能汚染以外に、津波による被害の痕跡 た。手入れされない家々は傷みが酷く、 が、実際に現地に行ってみると、放射 将来に亘って慰霊・顕彰活動が継続さ 様から、今後、二世会を立ち上げて後 れるものと確信します。 」(式後、森宮司 機会があったが、東日本大震災の直接 継者を養成するというお話を伺った。) は参列したいと思っていた。3年前に る 鎮 魂 歌 が 献 唱 さ れ た。 全 て 軍 歌 で、 害により断念した経緯があった。 放射能汚染をもたらした原発事故の恐 今年は、昨年同様、小規模な慰霊祭 ていた。こういう状態が3年6ヵ月続 「原町特攻隊の歌」 「戦友別盃の歌」 「君 高橋事務局長は挨拶の中で「…南相 磐線も開通の見込みなく、草に覆われ く最近、常磐道が6号線と連絡したと て終了した。最後は、参列者全員で集 事は終了し、閉式の言葉で慰霊祭は全 斎主による撤饌・昇神・斎主一拝で神 主要道路を除き帰還困難区域となって 射能被曝の懸念が原因である。地震・ 執行するという熱意には本当に頭が下 双葉町・浪江町は、放射能汚染のため、 兆しはない。これは原発事故による放 岡ICから6号線途中までの大熊町・ ら3年半を経過したが、復旧・復興の を目の当たりにすることになった。富 津 波・ 地 盤 沈 下・ 風 評 被 害 等、 四 重、 がる思いである。私が現場の生の雰囲 農地を合わせた被害は甚大で、震災か ない。最悪の状況下でも慰霊祭だけは 況で何で慰霊祭なのか」と思うに違い たが、通常であれば誰でも「こんな状 1 0 9 4 名、 被 害 家 屋 は 6 0 0 0 棟、 地元の人達は本当に我慢強いなと感じ い て い る こ と 自 体 許 せ な い し、 ま た、 ろしさを直接感じた。 初めて聞く歌もあったが、洗練された の情報を得て、車で参上することにし 合写真を撮り解散となった。 おり、部外者は勿論、居住者も立入禁 霊祭の継続の必要性は言うまでもない 御英霊の心を後世に伝えるため、慰 ○慰霊祭の継続と会勢の充実について ないかと思いつつ帰路についた。 る何らかのお力を授けて下さるのでは こうとし、また、御英霊もそれに応え 苦しみを経験された御英霊から力を頂 い状況から抜け出すため、同じような 顕彰会の皆様には、この居たたまれな 続行しようとする高橋事務局長以下の わえなかったと思う。また、慰霊祭を 気を感じなければ、それ程の感激は味 二 所 見 次いで、参列者全員による玉串奉奠、 た。そのため、被害の大きさ・悲惨さ 歌い振りで経験の豊富さを思わせた。 馬市の巨大津波による死者数は ら こ こ に 甦 れ 」 等 6 曲 が 合 唱 さ れ た。 を執行するとのことであり、また、ご 平成26年度原町飛行場関係戦没者慰霊祭に参列して (104号) ( 15 ) が、将来の慰霊祭を誰が、どのように ことより楽しい、やりたいことが沢山 早い時期から検討し、対策を講じなけ るのも事実だが、多くは無関心か反対 ら慰霊・顕彰活動をしている人達がい 支 え、 実 行 し て い く の か に つ い て は、 ある…」と。若い人達の中には、心か ればならない。本来ならば、国が然る 派であろう。 翻って我が特攻顕彰会を見てみれ べき機関に命じて継続的に実施・支援 させるのが有るべき姿と思うが、現在 和 年に建立されたが、改築・移設等 が行われ、現在は滑走路横に設置され ており、学校の敷地中心部の一等地に あって、伝統継承の要として存在して いるようである。忠魂塔には、旧明野 陸軍飛行学校関係戦歿者一五○○余柱 なった。戦友の方々は自分達が生きて 高齢化により、その活動が限界に近く なって支え、実施してきた。最近特に してくれた。しかし、若い人達にはき 者にお願いすれば説明しなくても入会 はジリ貧である。今までは、旧軍関係 慰霊祭の概要 け れ ば 入 会 し て は も ら え な い。 家 族、 告します。 ちんと説明し、理解させ、同意させな 明野駐屯地は、大正9年陸軍航空学 親族、友人等義理で入会させても長続 一 として参列したので、以下のとおり報 忠魂塔合祀慰霊祭」に、当顕彰会代表 により執り行われた「平成 年度明野 野忠魂塔顕彰会(会長鳥崎瑞氏)主催 隊明野駐屯地内忠魂塔前において、明 統の継承についての決意を、また、明 補が旧軍及び自衛隊の合同慰霊祭と伝 学校長兼明野駐屯地司令大西裕文陸将 的な慰霊碑であり、慰霊祭である。 ら戦後へ連綿と継承されている、理想 柱が祀られており、航空精神が戦前か と陸上自衛隊航空学校関係殉職者一七 いる限り、戦死された英霊の慰霊に尽 校射撃班として発足、以来陸軍航空学 日( 土 )、 陸 上 自 衛 くすと言われている。大変有り難いこ きはしない。そこで、今年度は会員募 校明野分校、明野陸軍飛行学校、明野 月 専務理事 衣笠 陽雄 平成 年度明野忠魂塔合祀 慰霊祭に参列して 年 とであるが、では関係者全員が不在と 集のため、顕彰会の中枢会員が先ず自 平成 なったら慰霊祭は無くなるのか、そん ら特攻隊についての知識を深め、識能 からは、彼等自らが若い人達に慰霊・ 隊がレイテ、沖縄に出撃し、一九四柱 名程度であり、このままで なことはなく、英霊の慰霊・顕彰活動 の変遷を経て陸軍航空の飛行兵養成を の 落 差 を も っ て 彼 等 の 心 に 入 り 込 み、 教導飛行師団、第一教導飛行隊等組織 闘隊等の飛行部隊を輩出したことでも 顕彰について説明し、慰霊祭への参加、 が散華しておられる。また、加藤隼戦 ~ は若い人達に必ず引き継がれて行くと 説得できるよう、あらゆる機会を活用 ば、会員数は確実に減少し、入会数は 思う。何故なら日本人は、単一民族と 担ってきた陸軍航空の聖地である。 問題は、ではどういう人達にお願い 顕彰会への入会等の成果を収め、慰霊 年間 して過去から連綿と引き継がれてきた して自学研鑽する「会員の資質向上施 するのかということになると、簡単に 当地から八紘隊、振武隊等の特攻部 はいかない。若い年代層は、戦友逹ほ 知られている。 年陸上自衛隊航空学 祭の参列者の若返りに寄与するであろ 彰を簡単には受け入れない地盤を形 を後輩として同行参拝させて戴きたく に参列される皆様には、是非若い人達 これらの趣旨にご賛同頂き、慰霊祭 なっている。 き継いで陸上自衛隊航空部隊の中枢と 校が浜松から移駐し、陸軍の伝統を引 この地に昭和 うことを期待している。 作ってしまった。彼等の多くは言うで 宜しくお願い申し上げる次第です。 慰霊祭の執り行われた忠魂搭は、昭 あ ろ う。「 慰 霊・ 顕 彰 っ て 何? 何 故 必 30 拝礼、儀仗と、整斉と進み、明野航空 開 式 の 辞 か ら 開 始 さ れ た。 国 歌 斉 唱、 式 は、 半 旗 に 掲 げ ら れ た 国 旗 の 下、 精神継承の遺伝子を等しく有している の大東亜戦争戦没者の慰霊祭は、多く 17 策」を事業として実施している。来年 18 からである。 10 どの教育・経験を積んではいない。戦 が戦友や旧軍関係者及び遺族が中心と 26 26 後の自虐思想と偏向教育は、慰霊・顕 60 要なの?それは戦争賛美では?そんな 忠魂塔前慰霊祭会場 26 50 ( 16 ) 平成26年度明野忠魂塔合祀慰霊祭に参列して/平成26年度原町飛行場関係戦没者慰霊祭に参列して (104号) 平成26年度明野忠魂塔合祀慰霊祭に参列して (104号) ( 17 ) 野忠魂塔顕彰会会長の鳥崎瑞氏が追悼 係の戦歿者を祀ってきたが、昭和 年 ○津市香良洲歴史資料館の紹介 顕彰会が主催して明野陸軍飛行学校関 的な新旧交替であると感じた。 の辞を述べられた。 館員の説明によると、ここは、航空 ている。 当資料館は、若櫻会が建立した立派 の資料があるとのことである。全体か 展示は三分の一程度であり、まだ多く ことであった。資料については、常時 機の基本的事項の教育が実施された所 り、神式から無宗教方式となり、旧軍 な3階建ての建物で、雲出川河口デル ら見ると、三重空関連資料が少ないと で、戦闘部隊ではないが、予科練の殆 関係者にはわだかまりもあったようで 感じたが、戦時中の市民生活や空襲な 今回の慰霊祭参列を機に、以前から 並びに追悼飛行が行われた。追悼飛行 あるが、慰霊祭の準備・実施は、航空 どの資料を併せ展示して戦争全般を知 注目していた津市香良洲町にある「津 は、5機編隊で行うところ、2番機を タ地域に予科練教育を専門に行った三 らしめるという市の方針だからだそう 以降は、陸上自衛隊航空学校関係の殉 欠いた4機編隊での飛行が実施され 学校が全面的に支援しており、将来の 重海軍航空隊関係及び戦時下の市民の である。また、館の庭園には、予科練 職者をも合祀して行われるようになっ た。引き続き儀仗、弔銃、拝礼が行わ は三重空で教育を受けた予科練各期の 祀は、適切な判断であったと思われる。 生活関連資料を展示し、また、庭園に ことを考えても、自衛隊殉職者との合 碑(銘盤)が建てられている。三重空 各期毎の立派な碑があり、ここで教育 次いで参列者全員による献花、慰霊 れて、式は滞りなく終了した。 丁度前日に訪問した隣地の海軍三重空 関連では、大西瀧治郎海軍中将の遺書 電報披露、中部方面音楽隊による「加 二 所 見 資料館・碑(後述)の管理をしていた を始め特攻隊等で戦歿された多くの隊 どの隊員が一時過ごした所で、隊員の ここでも、慰霊祭の今後についての 若櫻会が高齢化により解散し、後の管 共通の思い出の場所となっているとの 問題点が浮き彫りにされている。式後 理を地元の隊友会等に急遽お願をして 市 香 良 洲 歴 史 資 料 館( 若 桜 会 館 )」 を の懇親会で、鳥崎会長は、忠魂塔顕彰 前日に訪問したので紹介する。 会の会勢の推移について、全盛期には を 受 け た 隊 員 の 名 が 刻 ま れ て い た が、 八紘隊関係資料 赤字は碑建立当時の生存者とのことで ま れ て い る 碑 が あ り、 黒 字 は 戦 歿 者、 変わっているのは、生存者の名前も刻 員の遺書その他の関連資料が展示され 名にまで減ってしまった、と嘆 三重空・予科練各期の碑 いる状況を知り、明野の慰霊祭は理想 藤隼戦闘隊」「抜刀隊」等の追悼演奏、 た。自衛官殉職者を合祀することによ 46 津市香良洲歴史資料館(若桜会館) 500名もの会員が参列したが、現在 では いておられた。慰霊祭は、明野忠魂塔 あったが、現在では赤字の方々も殆ど 期海軍甲種飛行予科練習 期 海 軍 乙 種 飛 行 予 科 練 習 生、 期・第 ~ 確認した銘盤は以下のとおりである。 物故されたとのことである。 第 15 23 織に委ねられている。 とおり、実質的管理は、自衛隊OB組 り行われているようであるが、前述の 庭園は綺麗に清掃され、慰霊祭も執 科練習生、海軍丙種飛行予科練習生。 生、第3期・第5期海軍特乙種飛行予 第 11 19 80 平成 年度 回天烈士並びに回天搭載戦没 潜水艦乗員追悼式に参列して① ている。 は、無宗教の追悼式として執り行われ 式で斎行されたが、平成に入ってから 1回「回天戦死者慰霊祭」として、神 当たり、全国各地より、かくも大勢の れ た が、 そ の 中 で、「 錦 秋 の 良 き 日 に 天顕彰会会長原田茂氏が式辞を述べら 式典は、国歌斉唱、黙祷に続き、回 タートとして本年は「周南ピースカッ 地へ」という理念を引き継ぎ、そのス 案された「周南地域を平和の文化発信 したい。小川宣元回天記念館館長が提 日に開催し、その目的を果たすこ プ回天メモリアルヨットレース」を9 月 に追悼式が執り行われることに、心か の追悼の言葉を始め、木村健一郎周南 周年に当たる本年、厳粛盛大 ら感謝申し上げたい。本日は、 市長、海上自衛隊呉地方総監伊藤俊幸 天出撃 皆様方をここ大津島にお迎えして、回 式当日の朝は、夜来の雨が残ってい の御英霊の御決意を慮り、御遺徳を偲 海将、村岡嗣政山口県知事代理からそ たが、9時半徳山港発のフェリーで大 津島に渡る頃は小雨となり、慰霊祭の びつつ、年に一度のこの日を、御英霊 れぞれ追悼の言葉が捧げられた後、奉 事務局員 金子 敬志 開始時刻には殆ど止み、時々小雨が降 の御決意に恥じることのないよう、平 納居合い、献吟が行われた。 んでか、8日に近い 70 る「 回 天 追 悼 の 歌 」 が 奉 唱 さ れ る 中、 次いで、メールソレイネ合唱団によ 続 い て、 安 倍 晋 三 総 理 大 臣( 代 読 ) とができた・・・」と述べられた。 追悼式の概要 回天の第一陣「菊水隊」が大津島か ることはあったが、慰霊飛行が中止さ 和で誇りある祖国づくりを目指し、反 月9日 年前 月8日で 当日の参列者は、来賓・遺族・招待 れたほかは予定どおり執り行われた。 省すべき点は率直に反省し、改めるべ 年 者 が 約 1 0 0 名、 一 般 参 加 者 が 約 11 に執り行われており、今年は 月8日に第 参列者全員による献花が行われた。本 来なら、献花の間に追悼飛行が実施さ れる予定であったが、天候不良により 中止された。 献 花 終 了 後、 俳 句「 回 天 」 の 朗 読、 」に 地元有志のバンド「 ’ T S HEART よる演奏、大徳山太鼓「回天」の力強 終わって、原田回天顕彰会会長の挨 い奉納演奏が行われた。 拶、続いて遺族代表として、関豊興少 尉( 注 ) の 御 遺 族 か ら の 挨 拶 が あ り、 追悼式は滞りなく終了した。 「 回 天 特 別 攻 撃 隊・ 多 聞 隊 」 の 先 (注)関 豊興少尉 兵科1期予備生徒、秋田県出身 追悼の言葉・海上自衛隊呉地方総監伊藤俊幸海将 (日)に執行された。 年 「回天碑」(題字は黒木博司大尉の自筆) ら出撃したのは、昭和 月の第2日曜日 あった。近年の追悼式は、この日に因 150名、計約250名で、例年並み 14 き点は速やかに改める決意をする日と 70 とのことであった。 26 本慰霊祭は、昭和 追悼式会場 11 11 19 11 30 ( 18 ) (104号) 平成26年度回天烈士並びに回天搭載戦没潜水艦乗員追悼式に参列して① し、自分の目で現地を見るのは初めて トンネルは試験場の東海岸と西海岸を な設計が伺える。長さ300mほどの そ明るい照明に照らされているが、内 内部は本当に狭い。この展示室でこ 日大津島を 部に乗り込んで天蓋を閉めれば真っ暗 年7月 頭 を 切 っ て「 伊 号 第 五 十 三 潜 水 艦 」 天の事も文字では理解している。しか である。操縦席は旅館の座椅子の如く に搭載、昭和 結ぶ通路の役割だけではなく、空襲か 分も走 がある。そのまま発射場に向かう。何 長射程魚雷の試験に耐えるだけの広さ 体を捩りながら左右 さ せ て 後 方 ま で 見 る こ と は で き な い。 いるので潜望鏡のようにグルリと回転 の接眼部があるが、座席が固定されて 部構造物から1m程突き出した特眼鏡 西 海 岸 に 出 る と、 海 が 大 き く 開 け、 井は僅かに高くなっており、正面に上 座面が低く、座り心地は悪そうだ。天 ら秘密兵器を守り、航空偵察の効果を 雨脚の速くなった徳山湾を ると、右側に大津島が見えてきた。頭 減じたものであろう。 である。 の中で想像していたイメージとは違っ て、結構高い。所々に花崗岩の岩肌が 見える。建物に入ると、床の真下が海 だ。 馬 島 港 に 近 付 く と、 山 の 中 腹 に、 故か遺構のコンクリートが大変新しく 的 な 突 撃 に よ り 敵 の 攻 撃 を 阻 止 し、 見える。海から見ると平地が少ない島 になっていて、2条の溝があり、波打 母艦を救った。 旗竿に掲げられている大きな旭日旗が 平成 年度 回天烈士並びに回天搭載戦没 潜水艦乗員追悼式に参列して② 度ぐらいが最大 見え、そこが慰霊祭の場所であること 形県出身)と共に発進し、その献身 1飛曹(甲飛 期予科練土浦空、山 艦5隻に包囲され撃沈されそうに 出撃、沖縄方面で作戦中、母艦が敵 14 なった時、艦長に志願して荒川正弘 10 20 13 て馬島港に着いた。すぐ後から臨時便 慰霊祭に参加する満席の参列者を乗せ されたものであろう。 魚雷は、ここからは静止状態から発射 を 知 る。 2 0 0 ト ン ほ ど の 連 絡 船 は、 つ海水の中に小魚が泳いでいる。酸素 レンズ位置では波を被って外が見えな でも海面から1m程度にしか伸びない の視野となろう。それよりも露頂状態 小雨に煙る徳山港の桟橋で、連絡船 も、写真で見慣れた発射場の建物が見 射場跡に向かう。上陸した馬島港から 雨を折り畳み傘で凌ぎながら、まず発 幸い雨雲が通過して僅かに残った霧 な坂を折り返しながら上る。 ルの東端から回天資料館までは緩やか 雨に追われてトンネルに戻る。トンネ 座だけが残っていた。再び降り出した 古い写真に見られるクレーンは、台 確認するのさえ困難であろう。 きたというが、外洋では目標の実像を 速度を落とせば島や岬の方位を測定で いのではあるまいか。内海の平水では も追いかけてくる。 の改札が始まる。乗客は多い。客室に 資料館への道路で、石畳の両側の芝生 速度で そのものであり、単体では 艇用に開発された九三式三型酸素魚雷 この回天の後部三分の一は、水上艦 空席はあったが、迷わず上甲板の吹き m程の坂を上り切った所が に、回天で亡くなった烈士104柱の 持っている。この酸素魚雷で、回天と ㎞を航走する優れた性能を 52 定期便があったのだろうと思い直す。 はなく、恐らく呉と大津島の間に海上 多い徳山から大津島に出入りすること 秘密兵器である回天の搭乗員が人目の 複線となった離合場所もあり、合理的 が、トンネルの中央部にはレール跡が 運んだレールは既に撤去されている 改良が図られた、九三式魚雷や回天を が続く。この試験場で性能が確認され 入口を入ると、暫くは直線のレール跡 上陸して数分で到着するトンネルの カットモデルが置かれている。 ルが展示された一角に回天の実物大の ので、資料館を見学する。多くのパネ 慰霊祭の開始までにまだ時間がある ている。 にゆかりの石碑にそれぞれ花を手向け と徐々に空気を酸素に替えて最後は純 縮空気で燃焼させて起動し、安定する 部の炸薬室を押して ノットで突進 私は海上自衛官としての現役当時か 22 ら興味があったので、大津島の事も回 か・・ と 想 い を 巡 ら す・・ が、 い や、 ノットの ンは既に見えなかった。恐らく腐食が して開発された中央部の操縦席と最前 年前に大津島から出撃した回天 の D N A で あ る。 船 が 桟 橋 を 離 れ る。 天を海面に降ろすための大きなクレー 石碑が並び、御名前と出身県が刻まれ 70 の搭乗員もこの景色を見たのだろう ふと ている。追悼式に参列の御遺族が自分 40 進んだため撤去されたのであろう。 高低差 える。ただ、古い写真に写っている回 26 曝しの席に向かう。海を職場とした者 会員 東 裕一 60 魚雷の機関は、霧状にした灯油を圧 である。 し、敵艦に体当たりするのがこの回天 30 平成26年度回天烈士並びに回天搭載戦没潜水艦乗員追悼式に参列して② (104号) ( 19 ) ガスを作り、2気筒のピストンエンジ 酸素で激しく燃焼させて高温・高圧の は250名分程用意された折り畳み椅 にはテントを設置していたが、参列者 催者側は雨天を予想して会場の前半分 の、雲が低く、残念ながら中止となっ う予定であったが、雨は上がったもの 小月基地のT─5編隊が追悼飛行を行 U S ─ 2、 防 府 北 基 地 の T ─ 7 編 隊、 県下の陸海空自衛隊基地から、指揮官 今回、呉地方総監を始め、地元山口 た。 ンを駆動する構造である。このため操 開式の言葉に続いて、全員で国歌斉 み、後ろ半分も濡れずに済んだ。 縦 員 が 回 転 数 を 制 御 で き る 幅 が 狭 く、 子席にぎっしり、幸いなことに雨は止 出力を下げ過ぎると燃焼が止まり、再 起動はできない。魚雷であるから船舶 唱、戦没者に対し1分間の黙祷を捧げ 使っていることは、最高の機密とされ 地方総監、山口県知事(代理)がそれ 理 秘 書 )、 地 元 周 南 市 長、 伊 藤 俊 幸 呉 り、追悼の言葉は、安倍晋三総理(代 争のあったことすら知らない人も多い 世は移ろい、最近の若者は大東亜戦 OBとしても喜ばしいことであった。 た。原田茂回天顕彰会会長の式辞があ (代理を含む)の参列があったことは、 ており、酸素のことを「第二空気」と 海軍では、機関の運転に圧縮酸素を のような後進の機構は付いていない。 呼んでいた。資料館のカットモデルで 次に、居合いと詩吟が奉納され、鐘 ていくことが、英霊の御霊に感謝する 若い世代に我が国の正しい歴史を伝え と 聞 く が、 こ の よ う な 行 事 を 通 じ て、 楼の鐘を合図に地元の合唱団による も 酸 素 タ ン ク は 今 で も「 第 二 空 気 室 」 ぞれ述べられた。 と書かれている。 この回天を自在に操縦して敵艦に体 天気が良ければ、ここで岩国基地の 魚雷発射施設 各地で行われている戦没者の慰霊祭 が、一部の人の売名行為だとか、慰霊 祭を観光資源にし ているとかの批判 も耳にするが、先 の戦争で亡くなっ た英霊に対し、私 と思う。 なるのではないか れば一番の供養に う意思表示ができ はいません、とい とを決して忘れて たちは、皆様のこ 回天訓練基地 分から追悼式が始まった。主 30 参列者全員による献花が始まった。 当たりするのは、至難の技だというの 「 回 天 追 悼 の 歌 」 の 合 唱 が 流 れ る 中、 一番の近道ではないだろうか。 時 11 が、これを見た印象である。 トンネル 回天烈士の石碑 奉納太鼓「回天」・大徳山太鼓「回天」保存会 ( 20 ) (104号) 平成26年度回天烈士並びに回天搭載戦没潜水艦乗員追悼式に参列して② 海軍築城基地・神風特別攻撃隊 菊水部隊銀河隊出撃の地を訪ねて 理事 水町 博勝 築城基地は、福岡県の東部、北九州 昭和 ある。築城基地は、終戦後米軍が接収 を欠いていたとの想いから早速建立さ 時の関係者の驚きと共に英霊への尊厳 特攻機が出撃した事実を知らされ、当 御遺族からの手紙により、同基地から 明特攻(爆撃)を実施、米空母群に多 もと、九州方面の米機動部隊に対し黎 時三十分離陸、宇野篤海軍大尉指揮の 爆撃隊、築城基地からは六機が午前六 十八日大分から一機、鹿屋から九機の 年の節目の年で し、朝鮮戦争当時は、米軍の後方基地 大の損害を与えたが、未帰還八機を出 今年は、終戦から となり、その後航空自衛隊の発足によ れたということで、その想いが伝わっ 年前、同基地に2年 周年の節目の年を迎 「昭和五十三年九月五日一通の手紙が 事が掲載されている。 あったが五機が未帰還となり、柗永大 大尉は築城を発進した六機の指揮官で した。柗永道子さんの弟柗永輝郎海軍 てくる碑でもある。 周年を迎えたが、戦闘航空 設立されてから 年 か ら 終 戦 ま で、 えた。小生は、 年、呉海軍航空隊の基地として 建 設 を 始 め、 昭 和 日、同基地で催された築城基地航 届いた。差出人は山口県防府市の柗永 ということが判明した。そして、御遺 尉 以 下 十 五 名 が 南 方 洋 上 に 散 華 し た、 間勤務したことがあり、昨平成 年 まつ 基地司令(当時は久松将補)の手元に 月 攻隊慰霊祭に参列したところ、弟は築 その内容は『本年三月鹿屋市主催の特 十七日ベースオペレーションの脇に建 隊出撃之地』碑が昭和五十四年三月 十五勇士を顕彰して『神風特攻隊銀河 道 子 と い う 特 攻 隊 の ご 遺 族 で あ っ た。 族を始めとして基地隊員の協力を得て 空港の玄関口、ベースオペレーショ 城から出撃したことが分かった。出来 空祭に参加のため、同基地を訪れた。 ンから滑走路を見渡すと、その一角に 大分遅れて建立されたが、その経緯は、 除幕式当時 風特攻隊菊水部隊銀河隊』は太平洋戦 残っていなかったが、調査の結果『神 築城基地には当時の資料は何一つ 無かったものと思えた。 ろうとしなかったか、又は語る機会が 事実を語り継がれなかったことは、語 と、当基地に勤務した人はいたはずで、 海軍時代、米軍時代、そして自衛隊 が あ れ ば 見 せ て 頂 き 霊 を 慰 め た い。』 挙行された。」と書かれている。 「神風特別攻撃隊菊水部隊銀河隊出撃 年に建立され 城基地で終戦を迎えたというお話を 年経った昭和 伺ったこともある。 期乙種飛行予科練習生出身の零戦 26 立され、厳粛にしかも盛大に除幕式が 戦から 54 れば彼の出撃の地に立ち、当時の資料 第 築城海軍航空隊が所在した。なお、世 22 50 たもので、特攻隊出撃地の碑としては、 というものであった。 34 之地」碑が建っている。この碑は、終 「神風特別攻撃隊菊水部隊銀河隊出撃之地」碑 パイロットであった野口剛氏から、築 30 当時の基地新聞には、次のような記 り、同基地を引き継いだ。昨年、自衛 隊は創立 70 市 の 南、 大 分 県 と の 県 境 近 く に あ り、 団が整備され、同基地の第8航空団が 60 田谷山観音寺の月例参拝の折、会員で 18 15 16 11 争も末期に近づいた昭和二十年三月 小生が築城基地に勤務している間 周年を迎えるということで、語 に、同基地に海軍航空隊が開設されて 以来 そして、調べることによって戦時下を と し て 永 遠 に 書 き 残 す こ と と な っ た。 海軍時代を探し出し、記念史誌の一部 体験者の貴重な記録、特に記録の無い り継がなければならない戦中、戦後の 50 海軍築城基地・神風特別攻撃隊菊水部隊銀河隊出撃の地を訪ねて (104号) ( 21 ) ( 22 ) (104号) とっても何か教訓を得るものがあると 体験していない若い世代の自衛官に 的に整理してみた。 去った五十年前の一日の出来事を断片 の偉業を偲ぶかのように以降、銀河機 機を擁した時期もあった。そして先人 した。出撃命令が来たのは、それから 滑走路横に待機させ、出撃準備を完了 訓練に励んだパイロットや特攻隊員の の銀河双発機は、中距離爆撃機として れが特攻機・銀河隊である(当時、こ 翼に『二六二』の文字が見られた。こ 基 地 建 設 の 思 い 出、 飛 行 隊 長 の 回 想、 神風特別攻撃隊菊水部隊の航空機の尾 た。緊迫の度はいよいよ激しく、戦局 て彼我の死闘は日夜激しく繰り返され らは特攻部隊に改編されていた。そし 隊の始まりで、昭和二十年の初め頃か る よ う に な っ た 昭 和 十 九 年 末 頃 か ら、 うになったのである。これが銀河攻撃 の尾翼に二六二の文字が大書されるよ る直前に、私たちの手を一人一人握っ 列して見送った。柗永大尉は、搭乗す ためであろう。我々は六機の出撃を整 多分、敵空母の所在確認に手間取った は段々明るくなり、我々は気を揉んだ。 大分時間が経ってからであった。辺り 戦局は我に厳しく、本土決戦を呈す 記録、整備員等の思い出、空襲を受け の思いもあった。部署の全員がその思 た基地周辺の町の方の思い出等々を収 は 世 界 最 優 秀 機 と 言 わ れ て い た。) が 日 一 日 と 我 が 方 に 不 利 と な る 中 で、 て、「 大 変 世 話 に な っ た! 後 を 頼 む、 み直し、その中から特攻に係る一つを 隻、艦艇五十隻が呉軍港を出港、南方 隊は戦艦大和、武蔵に守られた空母九 る。昭和十九年二月四日、第一機動艦 開設五十年史』は完成した。改めて読 『 二 六 二 』 の 由 来 に つ い て 簡 単 に 述 べ から二六二隊の半数は築城に避難せよ 中頃だったと記憶する。鹿屋の司令部 の来襲が幾度かあった。二十年三月の 敵空母は本土にしばしば接近、艦載機 掩体壕に入れ成果を待った。十日おき 別れとなった。我々は急いで予備機を 発進した。これが柗永大尉との永久の 行 っ て 来 ま す。」 と い う 言 葉 を 残 し て いで資料を集めた結果、海軍航空隊の 録し、小生が転勤した翌年『築城基地 紹介したい。なお、掲載に当たり、記 た。戦況は手に取る如く分かるのであ 念史誌発行人である当時の基地司令 る。「 突 入 姿 勢 に 入 る 」 と、 通 信 員 が ぐ ら い に 特 攻 機 を 送 り 出 す 我 々 に も、 築城基地にお世話になった。航空機は 長一声を連送する。その日敵艦隊に与 との命令を受け、柗永大尉を長とする 松原地区の掩体壕に入れて整備作業に えた戦果は甚大であった。折しも一機 に転戦したが、サイパン戦などにおい 専念した。松原地区も今より広く、松 て は 我 に 利 あ ら ず、 内 地 に 帰 還 し た。 一 隊( 多 分 十 五 機 だ っ た と 思 う ) が、 何故かこの日の出撃は深く印象に残っ 乗り組む艦上攻撃機天山二十四機を指 勤務OBの方の記憶によるものである。 その中の第一航空隊、三番艦、瑞鶴に の 木 も 大 き く 茂 っ て お り、 松 の 木 を 事は、語る機会の無かった方で、基地 ◇ 揮する小野少佐の一隊は、夜間でも空 た。ホッとした。爆装員が爆弾を外す 母に発着艦できる当時としては優秀な まで我々は遠くで見守っていた。それ ○「菊水隊銀河隊」を見送った整 備員の回顧 で我々の損害は五機であった。私は特 の銀河機が着陸姿勢に入り緊急着陸し 攻機整備員として終戦まで約二百機に 切っては誘導路等のカモフラージュを を通じて分遣隊長・柗永隊長から「明 有し、宮崎県赤江基地に温存されたが、 刻であった。突然整備分隊長真田大尉 近い銀河機を見送ったが、このひとコ パイロット達であった。その後天山隊 台湾沖海戦で隊長機以下十八機が未帰 マがまざまざと記憶に残っているとい た。被弾のため滑走路の草むらに車輪 ら、命がけで戦った当時の模様につい 二 五 ○ キ ロ グ ラ ム 二 個・ 出 撃 時 刻 ○ 還となり、照明隊六機のみが帰還した。 朝、 特 攻 六 機 を 準 備 し て く れ、 爆 装 う こ と は 柗 永 大 尉 が 派 遣 隊 長 と し て、 をめり込ませ左に大きく傾いて止まっ て、出撃準備と松永大尉以下十五勇士 その六機を基幹として銀河攻撃隊を命 五三○」との命令を受けた。出撃に万 我々整備員との連絡を絶えず密にした 『特攻出撃』それは三月十七日の夕 を見送った一人として、この一文を捧 時起床、特攻機の前に整列、直ちに作 了。 続 い て 豊 橋 基 地 で 猛 特 訓 を 重 ね、 全を期するため、我々整備員は午前三 ぜられて厚木基地で部隊の編成を完 業開始、午前五時予備機と共に七機を したものである。 げ御冥福を心からお祈りしたい。 急降下の出来る部隊となった。二十機 は地上勤務となり、六○一空勲隊の中 当たるということは、十五柱の英霊が は赤江基地に帰った。全盛期には四十 の二○二隊として、天山二十四機を保 その真実を伝えることを小生に求めら 本年は松永輝郎大尉殿の五十回忌に れたことと思い、走馬灯のように過ぎ 元整備員・元防衛庁技官 秋吉久米雄氏 祖国日本の勝利をひたすら念じなが ( 大 串 空 将 補 ) の 了 承 を 得 た。 そ の 記 海軍築城基地・神風特別攻撃隊菊水部隊銀河隊出撃の地を訪ねて 第1空挺団研修に参加して/海軍築城基地・神風特別攻撃隊菊水部隊銀河隊出撃の地を訪ねて (104号) ( 23 ) 海軍陸上爆撃機「銀河」11型 全長×全幅:15×20m 自重:7,265kg 乗員:3名(操縦・偵察・電信各1名) 発動機:中島「誉」12型空冷1,825馬力 最高速度:時速548km 航続距離:最大5,370km て、第四格納庫前の練習機、九六式陸 九時頃、グラマン十七機の来襲を受け しめた所以であると思う。当日の午前 事と、柗永大尉の日ごろの人格の然ら の 先 輩 の 回 顧 か ら、「 神 風 特 別 攻 撃 隊 以上が掲載文である。築城基地勤務 乞い願うとの意味であったろうと思う。 永遠に祖国を守り、我が民族の発展を よ う な 気 が す る。 魂 魄 は 故 郷 に 帰 り、 の言葉の意味がようやく分かり始めた 第1空挺団研修に参加して 会員 原 知崇 会 員 の 資 質 向 上 施 策 の 一 環 と し て、 平成 年 月7日、第一空挺団研修が 菊 水 部 隊 銀 河 隊 出 撃 之 地 」 碑 を 訪 ね、 実施されました。晴天にも恵まれ、参 名でした。 十五名の特攻勇士の名が刻まれた碑の され感無量である。この出撃が、築城 十五名の戦死を報告した当時が思い出 で激励に来てくれたが、柗永大尉以下 ぶ訪問であった。次号以降に、特攻機 望み、平和で忘れかけてきた往時を偲 前で、エプロンから滑走路・周防灘を れる帝国陸軍から引き継がれた、挺身 第1空挺団とはご存じのとおり、パ レンバン空挺作戦や義烈空挺隊で知ら し、粛々と演習に臨まれている隊員の の危険を熟知しつつ、恐怖心を圧し殺 あっても死と隣り合わせの訓練に、そ か ら 飛 び 出 す と い う こ と は、 平 時 に であり、落下傘にその身を預け、高空 が少ないというのは、練度の賜物なの 地し殉職された若い隊員もあり、事故 くと、演習中に予備傘開かないまま着 たが、一人ひとりの状況を拝読してい のはそう多くないとの説明を受けまし ているとのこと、降下中の殉職という それぞれの中隊の方々が今も参拝され の 殉 職 の 状 況 が 彫 ら れ た 石 碑 が あ り、 殉職された隊員のお名前と、それぞれ 入 る の が、 空 挺 殉 難 者 慰 霊 碑 で し た。 陸上自衛隊習志野駐屯地の営門を潜 ると、部隊隊舎までの間に、まず目に 赴難の伝統を習志野に受け継ぐ、日本 戦後生まれの者が体験し得ない有事下 が出撃し、敵機の急襲を受ける緊迫し の様子を記念史誌の中からお伝えした た 中 で の 当 時 の パ イ ロ ッ ト の 訓 練 等、 唯一の落下傘部隊です。 私も老境に入り、仏に手を合わせお からの特攻としては最初であり、最後 加者は とうとう炎上しなかった。午前十時頃 攻などはことごとく炎上したが、大き 10 宮崎より隊長黒丸大尉が心配して単機 く傾いた銀河機は激しい機銃掃射でも 26 13 であった。 寺にお参りする様になったが、あの柗 永 大 尉 が 出 撃 の 際 の「 行 っ て 来 ま す 」 いと思う。 「銀河」の機首:電探(レーダー)用の八木アンテナ装備 年の大東亜 に対する尊称として知られています とは、帝国陸海軍と自衛隊の空挺部隊 皆さんの緊張感をまず研修の最初に思 兵学校及び栄えある騎兵聯隊時代から 分かりやすいレクチャーで、戦前の騎 いて説明を受けましたが、映像による 慰霊碑に隣接して建つ「空の神兵像・ 続いて、駐屯地講堂において、広報 礎の碑」を拝観しました。「空の神兵」 班による駐屯地及び空挺団の概要につ い知らされた感じがしました。 現在の精鋭無比の第1空挺団に至るま する作戦遂行の困難さ、また、一兵に の説明を受ける中で、空挺部隊の実施 パレンバン空挺作戦、レイテ空挺作戦 となっています。大東亜戦争における して陸上自衛隊の空挺に関する資料館 精神的絆を垣間見ることができました。 が、ここが帝国陸軍の騎兵、空挺、そ 第1空挺団と陸軍落下傘部隊との強い 至るまで、その困難に怯まず、作戦遂 れた所とされる瀟洒な造りの洋館です す。 落 下 傘 と 背 嚢 を 装 着 し て も ら い、 研修は体験的な部分へと進み、落下 傘の装着体験、跳出塔体験へと続きま は 大 変 意 義 の あ る も の と な り ま し た。 や遺品をそのまま目にしながらの研修 数多く蒐集されており、御英霊の遺書 の落下傘など大変貴重な実物の史料も 品を目で追う姿が印象的でした。陸軍 戦争美術展において、朝日新聞社賞を 傘部隊の目的、装備、演習の種類、降下 での概況と、陸上自衛隊における落下 い、特攻ではなくとも、特攻に準ずる 行に邁進しなくてはならない状況を伺 「 重 い! こ の ま ま 歩 く の も 大 変!」と、 が、その像は、元々は昭和 受賞した「天降る像」を銅像化したもの のイメージ等を掴むことができました。 気持ちで出撃して行ったであろう、陸 高さ m の 跳 出 塔 を 目 の 前 に す る と、 賑やかだった参加者も、昼食後、今度は だそうで、一式傘を装着した帝国陸軍 で特に時間を割いて頂いたものと思い 特攻隊である義烈空挺隊についての 説明は、恐らく当会の研修ということ を上った所に輸送機の胴体を模したも 作を訓練するための施設で、高い階段 日深夜に実施されまし 問も出ておりましたが、担当された空 雷の使用方法というような専門的な質 を呑みました。柄に付けられた破甲爆 等を攻撃するという説明に、改めて息 を敢行し、敵の飛行機、司令部、物資 136名の隊員が敵飛行場に胴体着陸 か せ る 神 兵 の 姿 で は な く、 隊 長 以 下 たが、最早それは、蒼空に白い傘を咲 もらっている。全部頭では判っている 比の空挺団員によって安全も確認して 我が日本の陸上自衛官、しかも精鋭無 ることも判っている。信頼するに足る 地上で動作の反復練習もしたし、縛 帯がワイヤーにきちんと結着されてい 傘を装着してもらい、跳出塔へと上る。 同、迷彩服をお借りして、縛帯と予備 運ばれて行くように出来ています。一 により、降下を模して飛行機の後方に にワイヤーに接続されており、 ワイヤー 挺館の隊員は実に熱心に研究されてお 年5月 り、淀みない回答に、研修参加者も感 のだが、しかし、 mというのは、人 間の心理的に一番恐怖を感じる高さに 昭和 亜 戦 争 の 最 後 の 激 戦 地 沖 縄 に お い て、 に跳び出すと、縛帯が落下傘の代わり とは降下のために機体から跳び出す動 したが、空挺団の今昔、陸軍と自衛隊、 の御馬見所を目黒の騎兵実施学校から 軍 空 挺 隊 勇 士 の 心 中 を 想 起 し ま し た。 や や 声 を 失 っ た 様 子 で あ っ た。跳 出 塔 更 に は 信 号 ラ ッ パ の 今 昔 等 に つ い て、 移設したもので、明治天皇や皇族方が のが造られており、助教の号令で次々 短い時間でしたが、話に花が咲きまし ますが、陸軍最後の空挺作戦は、大東 次いで、空挺館に場所を移して研修 が続けられました。空挺館は、かつて 11 心している様子でした。誰もが展示室 24 た。応接室の壁面には、パレンバン空 空の神兵像 20 の中で、真摯に歴史と向き合い、展示 11 挺 作 戦 を 描 い た 大 き な 絵 が 掛 け ら れ、 義烈空挺隊奥山隊長の遺書 馬術や騎兵の教練、演習を御覧になら その後、衣笠専務理事以下4名で副 団長山口耕司1等陸佐を表敬訪問しま 空挺隊員の姿を永久に伝えています。 17 ( 24 ) (104号) 第1空挺団研修に参加して 「英霊を偲ぶ心の旅」に参加して①/第1空挺団研修に参加して (104号) ( 25 ) 切れたら、絡まったら、万が一にも金 てみると、体がギクシャクする。索が うか。その時、自分なら降下口に歩を進 真っ只中に斬り込む直前であったらど れだけ怖いものなのか。それが敵陣の では、実際の落下傘降下とは、一体ど も、ほんの少し追体験することができ 先人達の万分の一の気持ちであって にとっては、決死の出撃をして行った 安穏と平和を謳歌して暮らしている私 安全な mと、決死の出撃は到底比 較できるものではありませんが、平素 とを期待致しますとともに、任務御多 催され、また新たな方が参加されるこ す。是非、来年度以降も本研修会が開 立体的に感じることができたと思いま 人の心のうちを、頭と体、そして心で た。学習と連続した体験によって、先 隊員は飛び出して行ったのではないの 倍もの苦境を越えて、空挺隊員や特攻 し、次いで飛行機からの実降下へと進 から落下傘の操作をしつつ降下を実施 はこの塔の四方に突き出た支柱の先端 会員(福岡県) 寺本 優子 「英霊を偲ぶ心の旅」に 参加して① 申し上げます。 忙中にも拘わらず、私達の研修を支え この二つの経験は大変大きなものでし 具に不備があったら、変な落ち方をし め る こ と が で き る だ ろ う か。 想 像 は たのではないかと思いました。 飛 び 出 す だ け で、 こ れ だ け 怖 い の か、 てしまったらどうなるのだろう。同時 様々に膨らみます。先程空挺館で向き 設定してあるのだそうで、そこに立っ に、ここまで来て自分一人が跳び出せ 合ったはずの史実は何だったのか。今 員の皆さんの前で、自分の臆病をさら む、言わば最後の模擬降下訓練となる なかったらどうしよう、次々に跳び出 て下さった第1空挺団の皆様にお礼を け出すことになるのか・・・。短い時 か。し か し、 や が て 自 分 の 順 番 が 呼 ば して行く流れを自分が止めてしまった 跳出塔を後にして、次に向かったの は、高さ mの降下塔です。空挺隊員 間の間に、色々なことを考えてしまい 自分が向き合っているものの千倍も万 ま し た。 ほ ん の 小 さ な 体 の 不 都 合 も、 れ、降下口で姓名申告をし、助教の号令 場所です。エレベーターで上部まで上 がり、キャットウオークに立つと、習 が掛かった瞬間、眼下の 日 ま で、 は何も感じないものになっており、自 日から るような気さえしてしまいました。死 月 志野が全周一望にできて素晴らしい眺 年 めですが、地上遥かに遠く、こうして 「 英 霊 を 偲 ぶ 心 の 旅 」 に 参 加 さ せ て い 26 10 20 22 空挺団研修ならではと感じました。 読んで頂ければ幸いです。 残った今回の3日間の事を少し綴って 中での激しい訓練の状況を見るにつ で、助教や先輩から厳しい叱咤が飛ぶ ような、厳しいメニューを実施する中 読み続けるうちに、いつの間にかそう 事をもっと詳しく知りたい」と思って 本 が ず ら り と 並 ん で い る。「 特 攻 隊 の 私の本棚や枕元には、特攻隊関連の 本に特攻隊が存在した」という事を知 空挺館での本物の史料と向き合って の 学 習 と、 跳 出 塔 な ど で 実 地 の 体 験、 らないわけではなかったが、特攻隊が 強 い 信 頼 感 を 得 る こ と が で き ま し た。 な っ て し ま っ て い た。 も ち ろ ん、「 日 け、銃後の一国民として、自衛隊への しての体力、精神力の限界に挑戦する 程の障害走を見学しましたが、人間と 1 はじめに ─私と特攻隊との出会い みようと思いますので、会員の皆様に その後、一旦駐屯地を出て、習志野 演習場を見学の後、空挺レンジャー課 地 上 か ら の 高 さ が 終 始 気 に な る の も、 た だ い た 寺 本 と 申 し ま す。 心 に 強 く レンジャー訓練の一部 本人の特性であるのかも知れません。 昨平成 分でも驚くほど自然に飛び出すことが 何だかそれが原因で大きな事故に繋が mというの ら恥ずかしい、研修参加者と担当の隊 11 83 できたのでした。こういうところは、日 11 なないと分かっている練習用の塔から 跳出塔 気、覚悟、美しい心情と高貴なる精神 る範囲内での特攻隊出撃基地にも出掛 大刀洗や宇佐、知覧など、足を運べ でも詳しく知ってから万世に行きたい む5人の特攻隊員で有名な話を、少し 出撃した歴史的背景や特攻隊員の真実 の 姿 な ど に 関 し て の 知 識 は 全 く ゼ ロ。 性 が 溢 れ 出 て い る。「 特 攻 隊 と は、 こ それ以降の事は何となく理解している 群れをなして日本を守って下さったの れがかなり離れているので、交通手段 立 派 な 人 達 が、 こ ん な 美 し い 精 神 が、 となると、個人で訪れるには、それぞ いや、知ろうともしなかった。こんな や日程をどうするかなど思案している る。一途で純粋な決意が胸を貫く。わず 葉が、 「只一筋に征く」であった事を知 目田原の西往寺で書き残していった言 歳の少年が、真剣に国を思い、 たので、迷った末に申し込みをさせて を守る!」と思いを定め、真一文字に て い っ た の で あ る。「 自 分 達 が こ の 国 命を懸けて一直線にブレインに突入し かまだ この中で、ユキこと荒木幸雄伍長が 程度である。第二次世界大戦に至って か、今まで知らずにいて申し訳なかっ と思い、用意していたのである。 は更によく分からない分野で「難しそ た。本当に有り難うございました」と、 最中に、今回のツアーのお知らせが来 私は一晩中、沢山の特攻隊の動画を見 いただいた。まさかこのツアーが、思 かし、鹿屋、串良、万世などの出撃地 う」と敬遠気味の私だった。そんな私 幕 末・ 明 治 維 新 の 頃 の 歴 史 が 好 き で、 ういう人達だったのか、知らなかった。 けて、慰霊と感謝の祈りを捧げた。し が特攻隊を偲ぶ旅に参加したいと思う ようにまでなったのは、不思議な偶然 いもよらぬ不思議な旅になるなどとは 出撃していった姿が目に浮かぶようだ。 覧が並ぶ中に一つだけ黒の画面が入っ んでいた。ある日、カラフルな動画の一 ように検索してはドラマの動画を楽し だった。意識も変化し、第二次世界大 の献灯を目にしたのも初めての体験 あって、夕暮れの幻想的な色とりどり だいた。ちょうど「みたままつり」が い!6月に知覧に行った時は高速バス 戦ではなく、「大東亜戦争」と変わった。 す る 予 定 だ っ た。新 幹 線 は、や は り、速 唯一人福岡から参加となる私は、博 い よ い よ 鹿 児 島 に 到 着。 さ く ら ツ 後鹿児島空港でツアーの皆さんと合流 3 多から鹿児島まで新幹線に乗り、その アー吉満さんが改札口で待っていて下 旅の始まり─出会い 新幹線は、ちょうど出水の辺りを流れ るように走っていた。 た。荷物を運んだ駐車場の所では、今 回のツアーのガイド役を務めて下さる 時過ぎに鹿児島 て高速バスに乗り 新幹線は、 あっという間に私を鹿児島に は 歳の時に特攻隊を知り、以来 年 覧 に 到 着 し た 時 は 既 に 昼 過 ぎ だ っ た。 新垣さんと合流してご挨拶。新垣さん 着。 それから路線バスに乗り継いで、知 守られたこの国を私も守っていくお手 攻隊=恐ろしい」というイメージとは あった。それまで漠然と抱いていた「特 方にお伺いしながら、ようやく大東亜 を次々と読み、分からない点は詳しい がら、大東亜戦争や特攻隊に関する本 それからというものは、遅れ馳せな 新 幹 線 の 中 で 読 ん だ の は『 ユ キ は 露して頂き、勉強になる事ばかりだっ 特攻隊に関する様々な知識や見識を披 か1年しか経過していない私にとって 伝いをしようと誓った。 全く違う、強い衝撃を受けた。動画に 十 七 歳 特 攻 で 死 ん だ ─ 子 犬 よ さ ら ば、愛しきいのち』毛利恒之著。万世 は大先輩なのだ。新垣さんには旅行中、 いた知覧が、ぐっと身近に感じられた。 しゃるという。特攻隊を知ってから僅 流れる遺書を読むうちに、泣けて泣け も訪問するので、子犬を抱いて愛おし 遺書に込められた愛情、優しさ、勇 戦争がどんな意味を持つ戦いだったの 間も特攻隊の研究をなさっていらっ 55 かが掴めるようになってきた。 真摯な若き特攻隊員達の姿がそこに の 光 が う っ す ら と 広 が り 始 め て い く。 ていた。何気なくクリックして現れた 護国神社に祀られた英霊の方々への感 さった。大変感じの良い温厚な方だっ 日、月曜日、出発の日。 のが「特攻隊の遺書」であった。えーっ を利用したのだが、朝4時半に家を出 月 特攻隊?戸惑っている私をよそに動画 謝の祈りを捧げた。命を懸けて日本を 雨雲が途切れた空には朝の白い太陽 想像もしなかったのだけれど。 続け、気が付けば、夜は白々と明け初 日に、県 めていた。1ヵ月間、暇を見付けては 動画を見続け、お盆の8月 としか言いようがない。始まりは1本 一昨年の夏、私はお気に入りのアメ の動画であった。 17 て涙が止まらなくなっていた。 運んでくれる。遠い遠い場所と思って 10 何と清らかな佇いだろう…。純真で と の 出 会 い だ っ た。 忽 ち に し て 私 は、 守って下さった英霊に対して尊敬と慰 20 ぐいぐいと動画に引き込まれていった。 霊顕彰の思いを捧げると共に、英霊が 10 は始まっていった。これが私と特攻隊 10 リカのドラマがあり、ネットで毎日の の護国神社へ初めてお参りさせていた 2 只一筋に征く─新幹線の中で 15 ( 26 ) (104号) 「英霊を偲ぶ心の旅」に参加して① 「英霊を偲ぶ心の旅」に参加して① (104号) ( 27 ) も特攻精神は受け継がれている。特攻 た。特に新垣さんが語られた「現代に 長と宇佐美輝夫伍長。神坂次郎の名著 る二人の名前が出てきた。新田祐夫伍 新垣さんの説明の中に聞き覚えのあ めない彼らの最後の手紙であった。 らずにはいられない。涙なくしては読 重い事実に対して頭を垂れ、冥福を祈 命を懸けて戦ってくれた。この尊くも 辺りの寂しさを浮き上がらせている。 オレンジ色に照らしているのも、逆に 所々に配置されたライトが暗い園内を た。夜の公園は私達以外は誰もいない。 疲れていた私達は、真っ暗な足元を 山口多門中将のご子息、山口宗敏さ 日トランプ占をしたならば…」という 美伍長の遺書は「日本一の御母様、今 出撃者として名前を連ねていた。宇佐 からツアー参加の皆さんをお迎えした。 が、やはりこの慰霊碑にも一番最後の して二人並んで刻まれていたとあった 英霊達の魂のようにも見える。けれど、 それはまるで翔け昇って消えていった りすることができた。真っ青に晴れた 鹿屋の慰霊碑、桜花の慰霊碑にもお参 何ヵ月も前からネットで慰霊塔を訪 をし、全員で慰霊顕彰の祈りを捧げる。 も 走 り、 淡 く 白 い 航 跡 を 残 し て 行 く。 なかった。慰霊塔の階段を登って献花 空に、この日は飛行機雲が幾筋も幾筋 れた人のブログを読み、「何時の日か串 が、暗過ぎて殆ど読み取ることはでき つもの小さな慰霊碑が並んでいたのだ ゆっくりと慰霊塔に進んで行った。幾 う と し て い た。 吉 満 さ ん の ご 好 意 で、 用心深く確かめながら、転ばぬように 見学を終えると、外は既に陽が傾こ 隊員の生まれ変わりである若者達も沢 同時出撃する親友二人の若者だ。二人 山存在する」という、東日本大震災の時 『 今 日 わ れ 生 き て あ り 』 に 紹 介 さ れ た の話には、深い感動を覚えた。ツアー に参加できて本当に良かったと思った。 の墓は、新田家により、一基の墓標と ん、子供達のために神話の紙芝居を作 秋の日のつるべ落としの中で、青く輝 程なく車は鹿児島空港に到着し、 東京 り続けていらっしゃるKさん、特攻隊 有名なもので、その心根の優しさに私 街灯一つ無い一本道をヘッドライト い る )、有 り 難 う と 伝 え て い き た い 」と 本の道路となってこの一角で交差して 良に行きたい。行って、彼らの飛び立っ だけを頼りに走り続け、夜の7時過ぎ 願っていた場所である。そこに今、現実 た空を見、滑走路跡を歩き(現在、2 ポツリと呟かれた。そうだ、何故最後 に自分が立っていることが嬉しかった。 いていた空も忽ち光を失い薄暗くなっ にこの2機だけが…。ふと晴れ渡る空 にようやく車は、串良海軍特攻隊戦没 てしまった。 をこよなく敬愛なさっている双子のW さん姉妹。新たにこちらの5人を加え、 も涙した一人であった。 「 何 故、 こ の 2 機 だ け が 7 月 1 日 に いよいよ英霊を偲ぶ心の旅は始まるの を見上げた。7月1日、たった2機で で あ る。 初 対 面 の 挨 拶 を 交 わ し た 後、 出撃したんでしょうね…」新垣さんが 全部で8人が、今回のツアーのメンバー だった。 出撃していった彼らは、寂しくもあり、 者慰霊塔に到着した。私達が「あれも る、旧歩兵第二十三聯隊本部跡都城駐 路都城へ。陸上自衛隊の基地の中に残 の思いで後にしたのだった。 そりと静まっているこの場所を、万感 心強くもあったであろう。私達は、ひっ ていたので、吉満さんが実直にそれに いう無茶ぶりな要望をヒソヒソと話し 見 た い 」「 こ こ も 行 っ て お き た い 」 と 出 撃 地 で あ る。『 宇 佐 海 軍 航 空 隊 始 末 と合わせて、宇佐空に非常に縁の深い この串良という基地は、先程の鹿屋 私たちを乗せたマイクロバスは、一 4 青い空に消えた─都城・鹿屋 屯地の郷土館を見学した。その後、陸 れてしまったのだ。吉満さん有り難う 応えて下さった結果、予定が大幅に遅 全貌』今戸公徳著を読んで感動し、昨 記─艦上攻撃機、艦上爆撃機メッカの ゼロ 昼食後訪れた場所は、鹿屋航空基地 軍墓地、都城疾風特攻振武隊慰霊碑を 出 撃 し た 場 所 と し て も 知 ら れ て い る。 ございました。 る…。人生の春を迎えたばかりの若者 遺書や遺影を見て回る。若い。若過ぎ 見るだけでいいから見てやって下さい。 派な史料館が建っていた。一人一人の 夜目にも白い姿を浮き上がらせてい た。丘の頂上には鳩を戴いた慰霊塔が、 も数多くの特攻隊が前進し、これらの し、その一角に小高い丘が造られてい 串良基地跡の一部を公園として整備 れの深い場所だ。宇佐海軍航空隊から とって、鹿屋や串良は取り分け思い入 を巡り、慰霊の祈りを捧げてきた私に 年2回、宇佐を訪れ、慰霊碑・建造物 訪れた。献花後に全員で祈りを捧げる。 史料館。近年『永遠の0』の主人公が ここから出撃した隊員の名前が刻まれ 彼らの慰霊になりますから」とおっ 達が、国家が滅亡する瀬戸際において て い る。「 慰 霊 碑 に 刻 ま れ た 名 前 を、 広々とした自衛隊の基地の一角に、立 5 そして全員が見た!─串良 しゃる新垣さんの一言にさえ、特攻隊 基 地 か ら 出 撃 し て い る。 ま た「 桜 花 」 員への愛情が滲んでいる。 隊員のお名前が刻まれていた。部隊名 慰霊塔の左側には、出撃し散華された 機後、鹿屋から出撃している。串良の の部隊も、宇佐空を中継基地として待 「 英 霊 が 揺 ら し て い る ん だ!」 皆 が 揺れは次第に激しくなっていく。 に気が付いたそうだ。全員が見守る中、 れ!俺達の死が意義あるものであった て祈っていた時から少し揺れているの 吉満さんは、皆が慰霊塔で献花をし 国 に な っ て し ま っ た ん だ? 答 え て く どうなっちまったんだ?なんでこんな いた。全員がそれを目撃し、心に刻み に訴えている。強く確信させていただ い、行く末を心配して一所懸命に私達 期待にお応えしなくてはならない。 来てはなりません─万世 2日目、快晴。今日は万世と知覧を か り だ っ た。「 後 を 頼 む 」 と 言 っ て 翼 6 彼らの切なる願いに涙がこぼれるば 込んだ一夜であった。私達は英霊の御 と一人一人のお名前に目を走らせてい 口 々 に 驚 き の 声 を 発 し て い た。「 こ ん と…答えてほしいんだ!」 く。「八幡護皇隊」「八幡神忠隊」が出 を振って飛び去った彼らに対し、私達 何事も無かったかのように平和を享受 多 く の 日 本 人 が 彼 ら の 事 を 忘 れ 去 り、 千田孝正伍長のエピソードを新垣さん も 有 名 な 出 撃 基 地 だ。 そ の 中 の 一 人、 万世は、子犬を抱いた少年飛行兵で 戦 後 の 日 本 人 は 何 も 答 え て は い な い。 巡る。 私の心の中に一つの情景が浮かん し、安寧を貪っている。彼らへの感謝 に揺れてる」と。 撃していた。「八幡」と冠する部隊は、 な の 初 め て 見 た!」「 す ご い! あ ん な り、 宇 佐 空 か ら の も の だ。「 あ な た も だ。若い溌剌とした特攻隊員が 人程 宇佐神宮の八幡大神から由来してお こ こ か ら 出 撃 だ っ た の で す ね 」「 あ な 振 り 返 っ て 見 上 げ る と、 慰 霊 塔 の る!」と教えられた。 さ ん、 見 て 見 て! ポ ー ル が 揺 れ て い い る。 何 事 か と 驚 い て い る と、「 寺 本 りた皆さんが何かを指しながら騒いで 慰霊塔の階段を降りていくと、先に降 碑に触れて別れを告げた。一番最後に たもここから…」と、彼らの最後の出 倒していた棒のように、目の前のポー く。予科練の演習時、皆で競い合って ポールをゆっさゆっさと揺さぶってい さながら棒倒しの棒を倒すかのように と を 気 付 か せ る ん だ! ポ ー ル に 掴 ま 揺らすんだ。俺達がここにいるってこ いた…。双子のWさん御姉妹は大変霊 この夜、私達は英霊の声なき声を聞 守って来たのか。言いたい事は山ほど に対し、英霊がどんな思いでそれを見 けに生きている。そんな戦後の日本人 ル を 掴 む と、 大 き な 声 で 叫 び 出 す。 も無く、慰霊の思いも無く、ただ日々 舞い降りて来た。その内の一人がポー 感がお強い。後になってお聞きしたこ く公園の遊歩道として残る以外には殆 や宅地の中に埋もれてしまい、海に続 場の滑走路も、松の木々の向こうの畑 ない。数々の物語を見送った萬世飛行 次々にポールの所に集まり、よじ登り、 あったであろうが、伝える術とて無い。 ぞれに一つ一つの物語があったに違い れ!思いっきり揺らすんだ!」彼らは とだが、串良に到着した時、 「こんな夜 いを込め、「また必ず来ますからね」と、 「おーい、みんな集まれーっ、揺らせ、 の楽しみを追い求めて自分達のためだ 撃地となった串良。悲しみと感謝の思 ルに群がりながら…。 決意して、数多くの特攻隊員が祖国の 馳せた。 「自分達がこの国を守る!」と のひたむきに出撃していく姿に思いを からお伺いしつつ、車中、若い隊員達 が立っていた。その内の慰霊碑側の左 掲揚するための2本の金属製のポール き合って時間が止まったその瞬間、特 している私達を前にして、三途の川の ポールの揺れに目を奪われて呆然と は、本当は、私達守っていただいた国 有り難うと言わなくてはならないの て 来 た そ う だ。 有 り 難 う だ な ん て …、 という英霊の方々のお気持ちが伝わっ が、 ど な た の 遺 書 だ っ た の だ ろ う か、 名前を書き留めておけばよかったのだ 血書のコーナーで足が止まった。お に向かう空を写真に収め、館内に入る。 英霊は確かに存在する。この国を憂 てはなりません。絶対に来てはなりま ポールはやがて静かに振動を止めた。 かった。 それにはこう書いてあった。「来 込み上げてきた。お母様への遺書らし 全員が見た! は…俺達が守ったはずの日本は…一体 た胸が詰まる思いだった。 その遺書の中の一言を読んで悲しみが 「 お ー い、 俺 達 の 声 が 聞 こ え る か? 攻隊員達が叫んでいたような気がした。 民の方なのに…。それを聞いて私はま はっきりと揺れていた。 ポ ー ル だ け が 遠 目 で 見 て も 分 か る 程、 聞いてくれ!聞いてほしいんだ!日本 い て い な い。 そ れ な の に 何 故 か 左 の 辺りに風は無く、木々はそよとも動 のポールがはっきりと揺れていたのだ。 こちら側と向こう側、死者と生者が向 遅 く に お 参 り に 来 て く れ て 有 り 難 う 」 ど面影も無い。彼らが見たであろう海 ために出撃し、散華された。隊員それ ポールが揺れている。串良の慰霊塔に すべ はこれを挟んで左右に国旗と海軍旗を 20 ( 28 ) (104号) 「英霊を偲ぶ心の旅」に参加して① 遺跡マップをもらい、一人で散策して なのだろう。明るく元気な希望に満ち 待ったり、準備を手伝ったりした場所 ガ ヤ ガ ヤ 騒 ぎ な が ら、 訓 練 の 順 番 を 若者が、来たるべき死と格闘し、呻吟 として残るのみである。何百人という こに彼らが生きて存在していた事の証 寂しく佇む慰霊碑だけが辛うじて、こ の 人 達 に 笑 顔 で 応 え て 旅 立 っ た 場 所、 あかし 「来てはなりません。 来ても会えません」 みることにした。大刀洗空や宇佐空で た彼らは、まさか数年経たぬ内に特攻 し、家族を思いながら眠った場所であ せん…」と。欄外にも乱れた走り書きで もそうしたのだが、当時のまま残され る。覚悟を決め、見送りの女学生や町 涙せずにはいられなかった。 戦後の日本人、現代の私達は、この場 景色に重ねてみる。すると、過去と現在 所の事を決して忘れてはならないと思 た。三角兵舎跡…。数多くの若者が各地 「 今 日 わ れ 生 き て あ り 」 が 置 か れ て い 長したのだろう。我が子が特攻隊員と は一瞬 で 繋 が り、彼 ら が 今 そ こに 生 き 8 静かな光の中で─三角兵舎跡 きには、次の言葉が記されてあった。 か ら 飛 ん で 来 て、 眠 っ た 場 所 で あ る。 る。ページをめくると、この本の端書 「本当の三角兵舎跡に行きたい」とい 油倉庫・弾薬庫・正門跡・給水塔・消火 遺書を書き、語り合い、故郷を思いなが 「俺たちの苦しみと死が、俺たちの父 や母や弟妹たち、愛する人達の幸福 ているかのような錯覚さえ覚える。当 でも我が子の元に駆け付けて来るであ める。最後に行き着いたのが、着陸訓練 槽等を具に見て回り、次々に写真に収 ら眠りに付いた場所、そして最後の起 して出撃することをこの手紙で知るや ろうということをよく知っていたに違 床をして立ち去っていった場所なのだ。 のために、たとへわずかでも役立つ う。今、私の手元には再び神坂次郎著 いない。しかし、ようやく駆け付けた 装置。知覧特攻平和会館のすぐ裏手に ものなら…」(長谷川信少尉の日記) 吉満さんは叶えて下さっ 時の空気を朧気ながら実感できるのだ。 う私の願いを、 時に我が子は既に出撃してしまった後 柔らかな霧雨の降る静かな森の中 ん を 悲 し ま せ た く な い と の 一 心 か ら、 の車輪を出すタイミングを体得するた いた。今はもう、賑やかな若者達の声 のは既に無く、慰霊碑だけが残されて きもののために出撃した特攻隊員の 語り継がなければならない。守るべ つぶさ だと知れば、更にお母さんを絶望させ、 あり、歩いて3分。なだらかな傾斜地を に、それは存在した。三角兵舎そのも クリートの台座からワイヤーを張って という覚悟が、理性的に整然と認めら 文面からは国を守るために出撃する らしい。小石や砂利が沢山混じったコ め下の着陸地点まで滑り降りて行った 模擬飛行機を吊るし、それに乗って斜 忘れられたまま…、またひっそりと夜 日がな一日、その身に浴びて誰からも ぼれ落ちる陽光を、角度を変えながら ひっそりと朝を迎え、樹々の間のこ は聞こえない。 に英霊の皆様への感謝と慰霊顕彰の思 英霊を偲ぶ3日間の旅は、改めて私 方々の真の姿を。深い愛情と強い勇気 なでしこ隊が、戦争が終わり、再び く 打 ち 込 ま れ た ま ま で 残 さ れ て い た。 跡は、そんな場所だった…。 ヤーを固定するためのボルトが生々し そこを訪れた時には、草だけが茫々と を迎える。その繰り返し…。三角兵舎 させていただきます。本当に有り難う に、この場をお借りして御礼申し上げ いを深くする機会を与えてくれた。今 がいたという事を。 を胸に、国難に立ち向かった若者たち れていると共に、温かく優しい人柄も は外されて残っていなかったが、ワイ ンクリートの台座からは、 既にワイヤー 悲しみを思うと、やはり涙なくしては 触れると粗々しい砂利が露出している 大空を翔けめぐる日を夢見てワイワイ 合 っ て 泣 い た と い う そ の 場 所 で あ る。 ございました。 回のツアーにご尽力して下さった方々 読めなかった。 ので、ざらざらとして冷たかった。 知覧を訪れるのは、昨年中2度目で ある。前回は館内を5時間近くゆっく り回っていたので、今回は受付で戦争 こ の 装 置 の 周 り に 少 年 達 が 集 ま り、 生 え …、 彼 女 た ち が 声 を 上 げ、 抱 き 7 戦争遺跡を巡る─知覧 この手紙を受け取った時のお母様の 窺えた。 と書いたのではないだろうか。 欄外にまで何度も「来てはなりません」 めのものだそうで、高さ2m程のコン 嘆かせることになる。これ以上お母さ 利用して造られた装置で、着陸する時 いなや、彼女が必ずどんな無理をして それに応えて人間性豊かな男性へと成 く 我 が 子 を 育 て 上 げ、 そ の 子 も ま た、 悲しみ、 走り回っている姿を幻のように 恐らくこの若者の母親は大変愛情深 と書き足してあった。何度も何度も書 いてあったのだ、来てはなりません…。 た物を見て、 その場に足を運ぶことで違 かっただろうに…。そう思うと、再び うものが見えてくる。 彼らが笑い、 喜び、 出 撃 し て い く こ と な ど 想 像 さ え し な 「英霊を偲ぶ心の旅」に参加して① (104号) ( 29 ) ( 30 ) 「英霊を偲ぶ心の旅」に 参加して②/「英霊を偲ぶ心の旅」に 参加して① (104号) もし日本が、戦後の左翼思想・暗黒 9 おわりに─ホラティウス達へ ならば先祖の遺灰のため、 遅かれ早かれ死は訪れる。 「英霊を偲ぶ心の旅」に 参加して② 書を拝見する。史料館の前方には自衛 隊機が何機も並べられており、興味深 小塚公園にある立派な慰霊塔に花を かった。 数百年に及ぶ白人支配からアジアを解 自衛の戦いであった。また、数十年から れた末に突入せざるを得なかった自存 戦争は、資源の無い日本が追い詰めら 皆を守るため以上の死に方が 恥ずべき悪党セクストゥスから 清き乙女たちのため、 永遠の炎を燃やす 乳をやる妻のため、 我が子を抱き 優しい母親のため、 特攻振武隊の慰霊碑等を訪れた。 二十三聯隊駐屯地、郷土館、都城疾風 最初に向かった都城では、旧歩兵第 覧、万世、指宿である。 ちを偲ぶ旅。行き先は都城、鹿屋、知 特攻隊員に所縁の地を訪れ、英霊た 場所とされている所へと向かった。 と少し緊張して、私は空港を出て集合 皆で心を込めて合掌する。 聳えるようでとても立派だ。花を供え、 時は、夕暮れ時を過ぎ、辺りは既に真っ 軍特攻隊出撃戦没者慰霊塔に到着した 鹿屋から串良へと移動する。串良海 厳しい規律は作られなかったらしい。 うだ。隊員の最期へのせめてもの餞で 屋の特攻には悲壮感が全くなかったそ 居住していた報道班員が言うには、鹿 移動し、花を供える。当時、この地に 神々の殿堂のため、 放するための聖戦であり、大義はあっ あるだろうか。 この施設の当時から現在に至るまでの 強敵に立ち向かう以上の た の だ。 悠 久 の 大 義 の た め に 立 ち 上 執政官どの、なるべく早く 様々なエピソードを聞く。昔のままだ 史観・自虐史観で語られて来たような 捧げて暫し黙祷。その後、集落の中に がった誇り高き大和魂の国、日本。日 橋を落としてくれ という駐屯地の煉瓦造りの柱は重厚で 建築デザインに関心のある人なら思わ 侵略国家であったと言うならば、特攻 会員(東京都) 渡辺 由佳 本人が、そして世界中の人々が、隠され 私は、二人の仲間とともに 立派だった。 ず「グッドデザイン賞」なる言葉が浮 ど ん な 方 々 が 参 加 さ れ る の だ ろ う、 ひっそりと建っている「桜花の碑」に ていた真実に目覚める時、特攻隊への ここで敵を食い止める。 疾風特攻振武隊の慰霊碑には、 日頃か かんで来てしまいそうな素敵な外観 死に方があるだろうか。 評価も大きく変わっていくことだろう。 路にひしめく一千の敵は ら書籍でよく目にしていた隊員のお名 かつて私をあやしてくれた 国家存亡の秋、祖国の為、愛する者 この三人によって 前があった。 一人一人のお名前を心の中 隊も戦争の犠牲者と言われても仕方な を守る為に命を捨てて出撃していった 食い止められるであろう。 いのかも知れない。 特攻隊、若き特攻隊員たちを巡る数々 さあ、私の横に立ち だ。特攻隊の方たちが皆、飛行練習課 しかし、私はそうは思わない。大東亜 の物語は、遠い未来において、必ず美 で唱えた。それだけで、もう胸が一杯に 暫くワゴン車に揺られて鹿屋へと向 特 攻 隊 員 の 英 霊 の 方 々 の 御 冥 福 を、 で大空を駆け巡る勇姿が目に浮かぶ。 上がった祈念館とのこと。また、その たいとの故苗村七郎氏の願いから出来 散華した隊員たちの遺品を納めて上げ を イ メ ー ジ し、 そ の 複 葉 機 の 建 物 に、 当時、 最 新 鋭 戦 闘 機四 式 戦 「疾風」 程 で 乗 っ た と い う 複 葉 機( 赤 ト ン ボ ) (トマス・バビントン・マコーリー) なる。 あ る 万 世 特 攻 平 和 祈 念 館 へ と 向 か う。 日を新たにして南さつま市加世田に 郷 土 館 で は、 現 役 自 衛 官 の 方 か ら、 暗になっていた。ここの慰霊塔も天に はなむけ しい神話となって語り継がれていくに 橋を守るのは誰だ?」 とき 違いない。いや、私の中では彼らは既 に、美しく輝く神話なのである。 かう。鹿屋、と聞けば、最近では話題 心よりお祈り申し上げます。 彷彿となった映画「永遠の0」でもよ 最後に、ネット上では有名な次の詩 く 出 て 来 た 所 だ。 航 空 基 地 史 料 館 で、 きっかけも、沖縄戦での陸軍特攻隊の を紹介させていただきたい。 橋の上のホラティウス そして門の守り手 復元された零戦や特攻隊員の遺影、遺 ゼロ 勇敢なホラティウスは言った。 殆どが「知覧」基地から出撃したとなっ 「地上のあらゆる人間に 万6千余柱の英霊たちへの感謝の 想いを、比島まで届けとばかりに心の た とではない。英霊たちも休む暇も無い 中で叫んだ。 ているが、実はその内の多くの隊員は、 るために集まるのなら、決して悪いこ 今や何の記録も無いここ「萬世」基地 くらい忙しく館内を歩き回っておられ で 自 分 の 郷 土 の 歴 史 が 学 べ る な ん て、 と羨ましく思えた。 以上が今回参加したツアーの大まか この後は、鳥濱トメさんで有名な富 指宿海軍航空基地哀惜の碑は細い田 同 じ 志 の 者 同 士 の 旅 で あ っ た が 故 に、 思う。英霊を偲び感謝の気持ちを持つ な ス ケ ジ ュ ー ル と 簡 単 な 感 想 で あ る。 たかも知れない。 屋食堂を復元した「ホタル館」を訪れ 舎道をくねくねと進んで行った所にあ 最後の日は、指宿海軍航空基地哀惜 からの出撃で、このままでは萬世から てしまう運命となる、と。それを案じ た。ここは若い人が一杯で、トメさん 改めて振り返ってみると、本当に楽し られ、大変な努力をされて慰霊碑を建 の温かい想いが来観者を包み込んでい く有意義な日々を送ることができたと て、祈念館を造られたということであ り、 高 台 か ら の 景 色 は 非 常 に 美 し く、 どこに出向いても彼らの息遣いが感じ の碑と鹿児島の歴史を凝縮した維新ふ る。私は戦友たちを思い遣る苗村氏に るような不思議な空間だった。 私たちは、知覧から更に南下し、開 る。波の音を感じながら慰霊碑に花を 静かでどことなく寂しげな雰囲気もあ 温かい想いも嬉しく感じられた。 られ、同行した皆さんの英霊に対する 特筆すべきは、串良の慰霊塔を訪れ た 時 の 出 来 事 で あ る。 私 た ち 一 同 が、 内 へ。 こ こ に あ る 維 新 ふ る さ と 館 は、 慰霊塔に花を供え、感謝の気持ちを込 指宿から北上して賑やかな鹿児島市 供え、哀悼の誠を捧げる。 実 に 良 く 出 来 た 幕 末 維 新 の 学 び 場 で、 めて合掌したところ、慰霊塔の左右に やって来た。素晴らしい景色、一気に が静かに響き、辺りを包み込む。ここ 解放されたような気分になる。波の音 から1900㎞先がフィリピン。曇り と聞けば、神風の次くらいに誰もが連 知覧特攻平和会館に到着して先ずは 私は、この時の参加者の皆さんのお しながら慰霊塔を後にした。 本当に良かった」と、皆感慨深げに話 て い る の だ と 思 う 」、「 来 て 良 か っ た。 いない。英霊が我々を歓迎して下さっ 一 人 が 口 を 開 く と、「 き っ と そ う に 違 下さっているのではないだろうか」と く 揺 れ 出 し た。「 こ れ は 英 霊 が 喜 ん で そうに見詰めると、ポールは更に激し けが佇むその場所で・・・。皆不思議 くの無風、車や人も来ない、私たちだ のように、ゆさゆさと揺れ始めた。全 ポールが、私たちに応えて下さったか 御名前が刻まれている石碑のある側の 立っているポールの、特攻隊員たちの 驚いた。人、人、人である。鹿児島の 花瀬望比公園勇士の像 鹿児島の子供たちはこんな立派な施設 想する「知覧」である。 さ て、 次 に 訪 れ た 所 は、 今 や 特 攻、 聞 岳 に も 直 ぐ 近 く の 花 瀬 望 比 公 園 に 書を静かに拝見した。 痛く心を打たれ、隊員たちの遺品や血 るさと館を訪れた。 出撃した隊員たちは永遠に忘れ去られ 47 空の下、私は遥か彼方に散ってゆかれ 指宿海軍航空基地哀惜の碑 ツアー旅行にはここが組み込まれてい ることが多いそうで、観光バスで次々 とお客さんが押し寄せる。もう少し落 ち着いて展示を見たいと思っても展示 ケースの前には、二重三重にお客さん が立ちはだかる。しかし、沢山の人が 萬世特攻慰霊碑「よろずよに」 「 特 攻 」 に 関 心 を 持 ち、 こ こ で 勉 強 す 「英霊を偲ぶ心の旅」に 参加して② (104号) ( 31 ) いささか関心があるが、軍馬、軍犬はと 慰霊祭」の話を聴き、私は動物愛護に カンガルーの肉を食べている。幕末の もかく、鳩にまで武士の愛情が注がれ、 があった。原告のオーストラリアでは ると、国際司法裁判所のお咎めの判決 の「調査捕鯨」は商業捕鯨の偽装であ 暫くは、クジラベーコンに独身生活の この旅を終えて、私は今まで以上に 開国要求も、そもそもの理由は、アメ 間、良くお世話になった。先程、日本 英霊顕彰に力を入れ、彼らに恥じるこ 靖國神社で懇ろに慰霊祭が執り行われ リカの捕鯨船の寄港地を日本に確保す で、広報委員長の飯田正能君から、靖 とのない人間になりたいと心から思っ ていることを知らなかったので、感慨 國神社の第3回 「軍馬・軍犬・軍鳩合同 また、会館に並べられていた特攻隊 顔を私は見たことがなかったからだ。 た。そして、自分の国にもっと誇りを を覚えて私も関連した数分のスピーチ す。どんな事があってもお兄さんたち 員たちの凛とした御姿、祖国を想う熱 持ち、日本が好きだという人々で満ち のことは忘れません」と。 烈な遺書、家族に宛てた愛情溢れる最 溢れた健全なる国家の構築に力を捧げ 顔の表情を思い出すと、今でも泣きそ 期の言葉、魂の叫びのような血書、私 うになる。あれほど穏やかで素敵な笑 はそれらをしっかりと目に焼き付けて ることだった。日本はクジラのすべて 最後に、素晴らしい思い出を作って 私は軍の学校に入ったものの、実は 幼い時から殆ど生き物を故意に殺した をさせて頂いたが、以下は私の動物愛 下さった参加者の皆さんとこのツアー ことがない。小学校や中学校の理科で たいと意を決した次第です。 平和で、自由で、物資も娯楽も何で を企画して下さった方々に心から感謝 帰ってきた。 もある現在の日本。ここにあぐらをか いたします。 は続いて、各種同好会に入り、野外の こで植物に親しみ、今日までその趣味 本にすることをよしとしなかった。そ 昆虫採集で生き物を捕らえ、殺して標 衰えているのだろうか、買って冷蔵庫 てない。家内は年齢が進んで記憶力が 当然で、今でもほぼ絶対に食べ物を捨 るのだ。私は、戦争中の飢えた時代は いると思う。食べないで捨ててしまっ べるための殺生は(神から)許されて なければ生きて行けないのだから、食 られない。私の考えでは、人間、食べ た が、 私 は カ エ ル の 解 剖 な ど を 嫌 い、 しても一貫した「論理?」原則は立て 水 と 塩 以 外 の 口 に 入 れ る 飲 食 物 は、 す べ て 他 の 命 を 奪 っ た 結 果 な の だ が、 他の部分は捨てていたはずだ。 を利用するが、彼らは鯨油だけ絞って いてのうのうと暮らすのはもう止めよ 護に関連する日頃の想いである。 う。今の日本はある日突然ポンと出て 《読者の声》 直に枯れないよう金属製の箱を携帯し 「 編 注・ 毎 年 4 月 第 1 日 曜 日 は、 靖 観察会にも出掛けている。若いときは 國神社の主催(偕行社協賛)による「軍 「 胴 乱 」 と い っ て、 摘 み 取 っ た 植 物 が 軍 馬・ 軍 犬・ 軍 鳩 合 同 慰 霊祭から思うこと たものだが、年を取るにつれて仏心が や保冷庫にしまったのを忘れて、また 食習慣によって世界それぞれで、どう 馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭」が、遊就 進んで、葉の一枚も取らず、良く睨ん 同じものを買ってきて、冷蔵庫も保存 動物、植物の採集、実験の課題があっ こんなにも繁栄して続いています。平 館前の三慰霊像前で執り行われる。そ で家に帰って思い出して図鑑を調べる きたわけでも、自然に湧いてきたわけ 和な国になりました。平和であるとい のことに関する次のような投稿があっ だけだ。今も仲間たちは、誰も標本を 食品の貯蔵庫もこれらで満ち満ちてい でもない。特攻隊員を始めとする多く うことは、とても尊いことであるけれ た。今年も4月5日(日)に第4回軍 る。戦後の飢えた日々にブロンディの 捨ててまで護りたかった日本は、今や 「特攻隊のお兄さんたちが我が身を 英霊の遺影の前で次のように伝えた。 の国民の礎の上に今があるのだ。私は の兵士たち、そして彼らを支えた数々 ど、平和過ぎてへっぴり腰になり過ぎ 馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭が斎行され 採集せず、写真に撮るのが普通のこと 期) るのもまた好ましくないのではないか になっている。 61 期生会幹事会の席上 ◇ 野村 光司(陸士 と 思 い ま す。 お 兄 さ ん た ち が 勇 敢 に る。是非大勢の方々に御参列願いたい ものである。」 この春、陸士 といった夫が冷蔵庫から勝手にご馳走 漫画で、冷蔵庫が満杯で、ダグウッド 生き物を殺さない私だが、調理され た肉は食べている。クジラだって戦後 たら、それは無駄に殺生したことにな 年近い歳月が流 戦って下さってから れましたが、お兄さんたちの死が無駄 に な る よ う な 事 は 誰 に も さ せ ま せ ん。 今度は私たちがお兄さんたちを守りま 61 70 ( 32 ) (104号) 《読者の声》軍馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭から思うこと/「英霊を偲ぶ心の旅」に 参加して② ズは青くなってカチカチで歯が立たな た。私はこれを皆食べた。3年前のチー 前に切れた冷蔵食品がわんさと出てき に消費期限が切れた保存食品、数ヵ月 られながら在庫整理をしたら、数年前 せがある。ひと月ほど前、家内に嫌が あるが、今は欲しい物は何でも揃う幸 を引き出して食べるのを羨んだ記憶が なるのだろうか、毎日食べられなくて ああいう養鶏法で卵がどれくらい高く たそうだが、バッテリー養鶏も何とか ( 生 き と し 生 け る も の す べ て が 仏 に な せるフォアグラもEUでは禁止になっ 理やり餌を押し込んで肝臓を肥大化さ を送るめんどりは哀れだ。アヒルに無 綱 吉 が 動 物 愛 護 で 誉 め ら れ て い た が、 爬虫類」となっている。短い在任中に 広い庭には鶏が十数羽いて、自由に運 Foreign Affairs誌 に Animal Welfare 日本にも動物愛護法ができた。そこ 動し、夜は庭の木に止まって寝ている。 の論文があってそこにも我が将軍徳川 で愛護すべき動物とは「哺乳類、鳥類、 ならないだろうか。近所の地主さんの 綱吉の動物愛護は、彼自身の儒教的な が無いそうだから多分、痛みは無いだ 日 本 で 動 物 を 食 わ な く な っ た の は、 仏教伝来からだ。「一切衆生悉有仏性」 ろうが、捕まえようとして一生懸命逃 シカ、キジ、何でも食べていただろう。 のが結論だったようである。貝には脳 人もの死刑囚の死刑執行命令を出さ る 尊 い 命 が あ る )。 2 年 ほ ど 前、 る感情があるのではないかなと思う。 げる動物は皆、痛みを感じ、死を恐れ いので捨てたが、他は腐った匂いも舌 べたが、味も悪くなく、腹痛も起こさ が刺される有毒感もなかったので皆食 も、そうできないものかと思う。 に 世 継 ぎ が 生 ま れ ぬ こ と に つ い て の、 桂昌院とその寵愛する僧隆光の、綱吉 「 君 主 の 聖 徳 は 禽 獣 に 及 ぶ 」 と、 生 母 靖國神社が、哺乳類、鳥類である軍 馬・軍犬・軍鳩の慰霊祭を執行するの 持ちだが、どちらも全然適法である。 れた法務大臣は、膨大な蝶の標本をお なかった。 ジ養鶏法とか言う、体がやっと納まる は安い。バッテリー養鶏法とか、ケー い。昔は、貴重だったタマゴだが、今 間までは快適なものにしてやって欲し 多い。肉にされる家畜も、殺される瞬 食卓には上がらず、トリ、ブタ、卵、魚が はやはり牛のステーキが旨いが、余り 不味い時は黙っている。しかし、肉で 話を伺ったことがあるが、私も家内に 感謝して食うんだ」と諭されたという はならん、兵站から提供されたモノを ら、「 軍 人 は 何 を 食 い た い と 要 求 し て べてもよいと言われているから、動物 たのである。この詔は、わざわざ他は食 かったのだ。ずっと後に中国から入っ と心配するが、当時日本にネコはいな いる。愛猫家はネコは食べられたのか 働き時を教えてくれる、と理解されて 、サルは人間に似 man's best friend ている、ニワトリは?朝、トキを告げて 力役で助けてくれる、イヌは当時から さ れ た 物 を 旨 い 時 は「 旨 い 」 と 言 い、 らかではない。牛馬は人間の農作業を 何を食いたいと言ったことはない。出 愛護の精神は乏しい。ウサギ、タヌキ、 痛みを与えない努力をすべきだという 前後の事情、5種類を選んだ理由も明 ウシ、ウマ、イヌ、サル、ニワトリの 入ってくるドジな蚊っているのか まぬよう気を付けるそうだ(口の中に 殺さぬよう、息をするにも蚊を吸い込 殺生戒は凄い。道を歩くにも虫を踏み 六番目だ。インドのジャイナ教徒の不 神 と せ ず」で、「 汝、殺 生 す る な か れ」は 十戒では第一が「エホバの他、何物をも は良く守られた。旧約聖書のモーゼの 湯」と偽れば飲めたが、第一の不殺生戒 わ な い。 禁 を 侵 す 者 は 罪 に す る ) と。 後 の 五 番 目 の「 不 飲 酒 戒」な ど は「 般 若 肉は食べてはならない。それ以外は構 な?)。 先 程 紹 介 し た Animal Welfare 立派な施設が大いに増えている。我が の論文は、痛みを感じている生物には、 住む家の近く、仙川を下ったところに る。仏教の五戒の第一は不殺生戒で、最 いる。民草にも結構、優しかったと言え 不 在 禁 制、 若 有 犯 罪 之 」( 今 日 以 後、 ら、動物愛護の政策をしばしば出して じ、葬儀、火葬、納骨、墳墓を備えた ちがどんどん増える。死ねば人間と同 を家族として癒されねばならない人た 今は平和だ。イヌはネコと共に一般 だ。 少 子 高 齢 化、 市 民 の best friends 生涯単身者、核家族化で、イヌやネコ なるかもしれない。 んで、人が戦争をすることも殆どなく し、馬で運ぶこともない。無人機が飛 最早戦争で鳩を通信に使うこともない で イ ル カ の 使 用 を 考 え る 国 も あ る が、 ハンニバルの象部隊、アラビアのラ クダ部隊があったし、それに今も海軍 人 間 の 寺 院 の 大 半 を 領 し て、 立 派 な 狭い箱に入れられ、運動も許さず、卵 も、全く法に適った精神なのだ。 さすがにイヌを食う習慣は日本人に はない。天武天皇は、天武2年(西暦 13 だけを生まされ、それを取られて生涯 仏教に借りた取り入り策でもあるよう かつて陸士の監事(副校長)閣下に 6 7 5 年 ) に 食 肉 禁 止 の 詔 を 発 し た。 「 何 を お 食 べ に な り ま す か 」 と 聞 い た 「 自 今 以 後、 莫 食 牛 馬 犬 猿 鶏 宍、 以 外 だ。それでも徳川幕府は軍事政権なが 《読者の声》軍馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭から思うこと (104号) ( 33 ) 年間 このイヌの肉を食べるのが中国、韓 国、ベトナムだ。清末、イギリスの外 院の境内にもある。 高尾山にも古くからある。両国の回向 と声がした。振り向くとトラックにイ のイヌがいつものように足取り軽く後 も 自 由 に 歩 け た )。 あ る 朝 の 散 歩 で そ とついてくる野犬がいた(当時は野犬 年 くメーカーを責めた。御巣鷹山の事故 な 橋 を 渡 っ た 時、 後 ろ で「 ギ ャ ー ッ」 で一人死んだ。マスコミは長く仰々し ろを歩いていた。三滝川の河口の大き 以後、航空業界は安全に努力して が一人死なせた。パロマの湯沸かし器 みがある。シンドラーのエレベーター 我をさせ、多くの家族の限りない悲し に数十万人を殺し、百万人以上に大怪 なければならない」と書かれることだ 車で何人殺されても国民等しく受忍し 憲法」では、戦争被害と同じく「自動 国」と 改 称 さ れ ね ば よ い が。「 ト ヨ タ 国 トヨタ市と改称された。日本も「トヨタ ク企業だと私は思っている。挙母町は、 れるばかりだ。自動車会社は超ブラッ して自動車の中では罪が軽いバスも廃 交官が清の高官にイヌを贈った。その ヌが腰を轢かれてうめいている。運転 される。しかし自動車は、この 後外交官が「あのイヌはいかがしてい ペットの葬儀場が出来た。深大寺にも、 にいた時、私の散歩にいつもイソイソ ますか?」と聞くと、高官は「ありが 30 分している。自分の愛犬を野犬狩りで 野犬で引き取り手がないものを殺害処 私の家の近所に「東京都動物愛護セ ンター」がある。ここでは、捕獲した を止めさせる署名を求めている。 入れられる。動画は、中国政府にこれ て動かなくなってから煮え立つ大釜に 断末魔の叫びをあげる。十数回、叩い ちの運命を知って、物凄いパニックに 出す。檻の中のイヌたちは彼と自分た のようなもので一匹の首を挟んで引き ヌが十数匹いる。男が大きなヤットコ ていて、店の奥の鉄檻の中に大きなイ を 送 っ て き た。「 狗 肉 店 」 の 看 板 が 出 の知人の女性がフェイスブックで動画 か。先だってドバイに住むイギリス系 とう。大変おいしかった」と答えたと 年前、日航のジャンボ機が御巣鷹 山で墜落して524人の乗客・乗員を が、人を傷つけたことはない。 とれて電信柱にぶつかったことはある 信している。私は自転車で、女性に見 ば、 自 動 車 が あ れ ば 人 を 殺 す。」 と 確 私は「人は殺さない。ピストルがあれ た。アメリカの銃器製造者は「ピスト うずく。その運転手は善良そうな中小 されたイヌに今も申し訳ない気持ちが 去った。私を慕ったが故に殺され、流 はのたうちながら伊勢湾の沖遠く流れ 私が呆気に取られた一瞬のこと、イヌ ない野良犬だから「いいえ」と答えた か?」と聞く。私が飼っているのでは 手 が 降 り て き て、「 あ な た の イ ヌ で す 道路舗装をし、益々自動車が売れるよ と 思 う。 国 を 挙 げ て 高 速 道 路 を 造 り、 的な理解は誰もできないのかも知れな タイムも、悲劇の不定期労働者制度も、 ることは全く分からないと同様、生き たのも、下請けいじめのジャストイン だ。使い捨ての日系人労働者を導入し ての儲けには、消費税が還付されるの の賛成者も自動車会社、7割を輸出し 祭をやっているか。日航は毎年夏に慰 り付けた自社の製品で死んだ人の慰霊 だ。天文学的な利益を上げながら、売 告料は要らないのか」と凄まれるそう 自 動 車 会 社 の 責 任 を 報 道 す る と、「 広 客 に サ ー ビ ス し た バ ー の マ マ さ ん だ。 任を全く問わない。問われるのは、お 上 か ら 川 に 放 り 込 ん で 去 っ て い っ た。 ばかりだ。マスコミは自動車会社の責 ら、彼はうめくイヌの首を掴んで橋の うにする。省エネの鉄道も船舶も、そ ルは人を殺さない。人が殺す。」と言う。 霊登山をしていた。消費税導入の第一 を何度も叩く。叩く度に「ギャーッ」と、 企業のオヤジといった感じの男であっ 陥っている。外に出してから棍棒で頭 死なせてしまった。その後毎年、夏に 救急車で運ばれる人が数百人、増える の炎熱は耐え難くなり、熱中症により 数十万人を殺し、排気ガスで年々真夏 間、一人も死なせていない。自動車は ない。我々の死後がどうなるか、確た 以上、取りとめのない話を長々とし て、纏まった結論は得られず、申し訳 く。 お陰で健康、 食べる物は皆美味しい。 歩計を携帯して殆ど毎日、1万歩程歩 は乗るが、タクシーもバスも使わず、万 は自動車を持たない。外出にも鉄道に 車に轢かれて無残な死を遂げている) 、 私 しかった、素敵な知人のレディも、自動 私を愛したが故に殺されたイヌを悼 んで(実は、性格も容貌も本当に素晴ら 療も何も当然、犠牲を忍ぶべきなのだ。 沢山売れるためには、日本の農業も医 すべきだ。TPPはもちろん、自動車が が2年毎に出す犠牲でしかない。我慢 亡くなった人は2万人、それは、自動車 ろう。数百年に一回の東日本大震災で い。 (平成 年5月5日記) 物の生命をどう扱ったらよいか、決定 取られた若者が、所管官庁である厚生 なると日航機が524人殺したと報道 自動車会社が音頭をとって導入された 労働省の元次官を二人殺傷した事件が 30 あった。私も単身で四日市の課長官舎 26 30 ( 34 ) (104号) 《読者の声》軍馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭から思うこと と 共 同 で、 ニ ュ ー ギ ニ ア 戦 に 関 す る フ・プロデューサー、クレイグ・コリー ついても、その著『日本の南洋戦略─ るようになってきた日本の南洋戦略に 万人以上の民間人が命を落とした無差 和憲法なるものを今日も堅持し、五○ 1900円)により、夙に、現地での 7月発行・A5判413頁・定価本体 そがその罪を未来永劫、背負っていか された「当然の帰結」であり、我々こ 連合軍捕虜たちへの虐待の結果もたら メリカへの宣戦布告なき奇襲、そして 新刊図書紹介 経 験・ 知 見 を 通 し て の 様 々 な 提 言 を 「Beyond 南 太 平 洋 で 始 ま っ た 新 た な る〈 戦 争 〉 別都市空襲や二発の原爆は、私たち日 の 行 方 ─ 』( ㈱ ハ ー ト 出 版・ 平 成 年 本人がアジア各地で行った蛮行や、ア 行っており、頭書の著書と共に是非一 ドキュメンタリー番組 ア映画祭で、ドキュメンタリー部門最 日第1刷発行・A5判 ねばならないのだとする「プロパガン ラリア国立大学に学び、卒業後、更に リストである。氏は学生時代オースト ている感動の著作である。 ビー作戦の全貌を新たな視点で綴られ が南海支隊を中核とするポートモレス して世界最強の抵抗と言わしめた、我 絶な戦いの全てを描き尽くし、豪軍を ダ街道からブナ・ゴナの死闘に至る壮 兵士に取材し、スタンレー山脈のココ ぶ大著であるが、日豪両軍の多くの元 3200円)は、A5判504頁に及 すべきか等々、豊富な翻訳者としての 界的な反日勢力の嘘を如何にして論破 日本人はどのように対処すべきか、世 実態は ど う な の か、こ れ に 対 し て 我 々 されるこれらの反日プロパガンダ、 その の 名 誉 を 傷 付 け る た め、次 々 と 繰 り 出 し始めている。日本人の誇りと先人達 世界的な反日プロパガンダとして横行 アメリカにおいて、国連において、今や 争プロパガンダはさかんだ。いや、見 その一方で、今日でもなお、アメリ カや韓国、中国を発信源とする対日戦 い」が失われているのだ。 前のように持っていた「立ち居振る舞 いる。かつて、日本人の大半が当たり と墜落していく若者たちも現れ始めて のが発生するごとく、品格なき領域へ 失し、一部ではヘイトスピーチなるも プロパガンダとしての日本軍の蛮行が、 結果、多くの日本人が本物の自信を喪 まるたに は じ め 同大学院博士課程に進んだが中途退学 方によってはどんどん激しくなってい の番組制作にも参加し、2004年に ディネーターとして海外大手テレビ局 立する等して活動するかたわら、コー ニューギニアで幾つかの現地企業を設 翻 訳 業 務 に 従 事 し、 こ の 間 パ プ ア としている現実から、俄かに注目され シーレーンの維持が危険に晒されよう 援等によって、将来、中国軍の拠点進 出、漁港・空港整備等への積極的な支 るものによって多大な被害を受けてき によって、我が国の生命線とも言える 「・・日本は戦後、「東京裁判史観」な 出の怖れが増大してきたこと、それら た。そして、占領軍が勝手に作った平 著者はまず、本書の「はじめに」の 中で、次のように述べている。 る。 看守を使って捕虜を散々に虐待する こでも日本軍は、サディスティックな という映画が全米で公開されるが、こ リーが監督を務める『アンブロークン』 一四年)のクリスマスには、人気ハリ ウ ッ ド 女 優 の ア ン ジ ェ リ ー ナ・ ジ ョ は、オーストラリア国営放送の元チー し、オーストラリア国立戦争記念館の ると言えるかもしれない。今年(二○ 25 経験と、気鋭のジャーナリストとして 著者の丸谷元人氏は、1974(昭 和 )年生まれの少壮気鋭のジャーナ 285頁・定価本体1800円) 月 丸谷元人著 Kokoda」を 制 作。 同 作 品 が 2 0 0 8 『 日 本 軍 は 本 当 に「 残 虐 」 だ っ た 年 9 月、 オ ー ス ト ラ リ ア 及 び ニ ュ ー のか ─反日プロパガンダとして ジーランドで一斉に放送されて大反響 の日本軍の蛮行─』(㈱ハート出版・ を呼び、2009年度のオーストラリ 読をお薦めしたい。 たちに躍起になって刷り込み、メディ 年 優秀作品賞を受賞した。それを書籍化 さて、頭書の著書は、韓国による執拗 な ま で の「 従 軍 慰 安 婦 問 題 」、中 国 に よ 平成 したクレイグ・コリーとの共著『ココ アもその発信に大きく加担した。その 17 の鋭い観察から、この問題に挑んでい ダ」が蔓延した。教育界はそれを子供 ダ ─ 遥 か な る 戦 い の 道 ─ 』( ㈱ ハ ー ト る「南京大虐殺事件」を始めとする反日 12 また、最近、南シナ海の領有権問題 に関する中国の強硬策、パプアニュー 24 26 49 通訳・翻訳者を皮切りに、長年通訳・ ギニア、ミクロネシア等への経済的進 出 版・ 平 成 年 5 月 発 行・ 定 価 本 体 新刊図書紹介 (104号) ( 35 ) 張が、随所に見られる。 るという態度で書かれたに違いない誇 が日本人であれば何を言っても許され プロパガンダのオンパレードと、相手 おり、その中には、相変わらずの戦時 映画は同名の書籍を基にして作られて 「 悪 役 」 と し て 登 場 す る よ う だ。 こ の 後にタイ王国第一八代首相となった。 日を忘れてはならない」ククリット・ 我々日本人がどのように振る舞うべき 意をされた日である。われわれはこの たお母さんが、一身を賭して重大な決 れわれにこの重大な思想を示してくれ あったためである。一二月八日は、わ して仁をなした日本というお母さんが 誰のおかげであるのか。それは身を殺 どのように生きたのか、そして今後の プの狭間で、当時の日本人がいったい 国々の人々が持っている感覚のギャッ これらアジアをはじめとするその他の あることを付記しておく。 強力に支持される「日本=悪玉論」と、 いるが、涙なしには読まれない部分も れ、また日本国内の一部でも引き続き 是非御一読をお薦めしたい。 (飯田正能記) 行を記述している。しかしこれは、あ それらの国々の軍隊が行った数々の蛮 していただろう。欧米が基準と価格を ロッパとアメリカが世界の工業を支配 で自己反省と外国へのへつらいや謝罪 だ乗りすることで、次の若い世代にま せず、また戦勝国のプロパガンダにた たらよい。もし日本なかりせば、ヨー 「正義」を信じていたかという考察さえ 0014 6077 9 ○発行所「株式会社ハート出版」 プ ラ モ ー ト と い う 名 前 の こ の 記 者 は、 なのかの考察を試みたのが本書である。 〒171 らの描かれ方が、いかに一方的かつ個 ( ま た、 本 書 に 後 出 の マ レ ー シ ア の マ 一四日に開かれた「欧州・東アジア経 東京都豊島区池袋3 日本人は多くを反省しなければなら ない。しかしその反省とは、東京裁判史 TEL03 3590 観に基づいて一方的に指摘される「罪」 FAX03 3590 済 フ ォ ー ラ ム 」 に お い て こ う 語 っ た。 の失敗をしたとされる日本人が、その 人 的 な も の で あ る か を 強 調 し、 か つ、 ハティール首相は、一九九二年一○月 無謬とは言わずとも、連合軍(特に米 などではない。あの戦争で確かに多く 英軍)が日本軍に比べてはるかに人間 まりにバランスを欠いていたこれまで を強要してきた、戦後日本社会の在り 一方でいったい何を考え、またどんな の「 常 識 」 を 覆 す た め の 作 業 で あ り、 決め、欧米だけにしか作れない製品を 的であったとする「神話」に挑むため、 「 日 本 の 存 在 し な い 世 界 を 想 像 し て み 決して、返す刀で日本軍は無謬であり、 買うために、世界中の国はその価格を 方についてである。本書によって、少 − 23 6078 特攻隊に関する新聞記事 の紹介 昨年は、組織的な特攻作戦が始まっ て か ら 年 と い う 節 目 の 年 で あ っ た。 ではない。北側のヨーロッパは、永遠 ます貧しくなっていたと言っても過言 るものではない。・・・ もし日本なかりせば、世界は全く違 タイ王国のある新聞記者は、真珠湾 う様相を呈していただろう。富める北 攻撃の日に自らが創刊した『サンヤム・ 側はますます富み、貧しい南側はます ら、これに勝る喜びはない」と。 戻すための活力を得ることができるな に目覚め、品位と誇りある日本を取り を覆ってきた様々なプロパガンダの嘘 しでも多くの人が、今日まで日本社会 の米機動部隊に突入し、最初の大戦果 カット飛行場を飛び立ってレイテ島沖 フ ィ リ ピ ン・ ル ソ ン 島 中 部 の マ バ ラ の 指 揮 す る 神 風 特 別 攻 撃 隊 敷 島 隊 が、 即ち、昭和 日、関行男大尉 ラット』紙上で次のような記事を書い に世界を支配したことだろう」と。) 25 係者への仕打ち、取り分け日本人戦犯 の態度や、連合軍による捕虜収容所関 を基に連合軍捕虜たちに対する日本人 2件について次に掲載する。 特集記事が掲載されたので、その中の さ れ た。 そ れ に 関 し て、 各 新 聞 紙 に、 特攻を始めとする各種特攻作戦が展開 を上げた日であり、以後陸海軍の航空 月 た。「 日 本 の お か げ で、 ア ジ ア 諸 国 は また、著者は本書の中で、捕虜虐待 をめぐる問題を取り上げ、多くの事例 年 すべて独立した。日本というお母さん 東南アジアや中東、アフリカ諸国に は、このような感覚を持つリーダーが 70 は、難産して母体をそこなったが、生 まれた子どもはすくすくと育ってい 旧連合国と中国、韓国の間で共有さ る。今日、東南アジアの諸国民が米・ 数多くいる。 英と対等に話ができるのは、いったい 10 押しつけられていただろう。(中略) − − − − − − 19 一○○パーセント正義であった、とす に対する凄まじい虐待について書いて 本書では、映画の原作本『アンブロー クン』の中に登場するそんな日本軍人 ( 36 ) (104号) 特攻隊に関する新聞記事の紹介/新刊図書紹介 ( 37 ) (104号) 特攻隊に関する新聞記事の紹介 特攻隊に関する新聞記事の紹介 (104号) ( 38 ) (104号)ハチの一刺し─特攻精神と武士道と 『葉隠』 に学ぶ─/特攻隊に関する新聞記事の紹介 ( 39 ) 期 飯田 正能 ハチの一刺し─特攻精神と 武士道と 『葉隠』 に学ぶ─ 陸士 『乱世の帝王学』『ビジネスに活かす 61 チの行動を観察していると、多くの示 ほどのミツバチを飼っている。ミツバ 木照夫氏は、養蜂家でもある。約百群 係図書を多く著述されている作家の青 出版部発行)など主としてビジネス関 葉 隠 の 知 恵 』( い ず れ も 産 業 能 率 大 学 誠にうまく分業されており、効率よく とに専念する。雄バチは交尾するだけ。 きバチは養育と、蜜と花粉を集めるこ されている。女王は卵を産むのみ、働 バチ、女王バチらの責務は厳然と区別 唆に富んでいるという。働きバチと雄 今の世の中では、男女共同参画から、 ジェンダーフリーなど、競って男女の に拠った。 るという。以下は、青木照夫氏の所論 ている。最も進化した社会性昆虫であ 種と子孫を保存するシステムが作られ 覚に陥っているのである。法律上の権 何でも同じにすることが平等という錯 共同性を主張しているが、どこか変調 ることになる。大東亜戦争の敗戦によ なければ、人間社会も崩壊への道を辿 え、それぞれの責務に全力で取り組ま 別が曖昧になったことは、物事のけじ ミツバチと同じようにしろ、とは言 め が 希 薄 に な っ た の と 並 行 し て い る。 わないまでも、その根本を良くわきま を来しているのではないか。男女の区 り日本が崩壊し、その後 その仕返しとして、子供が反乱する。 なるのである。 ていく。かくして群れの維持は可能と れが、それぞれの責務を忠実にこなし ように、役割が変わっていく。それぞ 程で、掃除、育児、採蜜、守衛という とである。ミツバチは成長していく過 めに、命を懸ける仲間がいるというこ な れ ば 捨 て る と か、 殺 す と か に 走 る。 のである。自分のチームを維持するた て、何が悪なのかを見極める尺度が必 には、心棒が必要であり、何が正しく さかも変わっていない。これを改める の江戸時代と今日の平成時代とはいさ に現を抜かしていた時代であるが、そ 江戸幕府が安定期に入り、元禄の享楽 れた1710年は、江戸中期、つまり す べ て の 根 源 で あ る。『 葉 隠 』 の 書 か うつつ 利と、肉体上の差異とを混同している の崩壊に繋がっているのだ、というこ 乱を来しており、それは同時に人間性 延している。目を凝らし、耳を澄まし 関係ない」とばかりに喧騒と軽薄が蔓 こ か ら 方 向 感 覚 が 麻 痺 し、「 そ ん な の 努力によって再建を成し遂げたが、そ なく内部から崩壊していく。外部へ通 は弱い。攻撃されれば、ひとたまりも である。捨て身で守る者がいない組織 人間社会でも、成長発展していく組 織、チームはミツバチ社会と全く同じ 士道とは、上に立つ者の考え方と行動 方とその行動である。したがって、武 とは思想のことである。思想とは考え 士とは上に立つもののことである。道 そこに登場するのが武士道である。武 年にわたる のだ。そこからすべての価値体系が混 とである。 てみると、確実に停滞と崩壊のきざし じるスパイが現れ、敵に塩を贈ること 要 な の で あ る。 価 値 観 の 共 有 で あ る。 男女共同参画において、一見、子育 ての重要性を説いているようである が日本を覆いつつある。しかし、日本 れることが当たり前だと思って育った のだ。ところが、甘やかされ、褒めら らない。それが、生物・動物の論理な 親であるからだ。それ以外の理屈は要 そうかといえば、子供を産んだのは母 し出す方向は、常に母親である。何故 すぐ分かることである。子供が手を差 なことは、子供の立場に立ってみれば 共同ということになるのである。そん のところを理解していないから安易に らこそ母親以外には為し得ない。そこ 錯覚が生まれるのだ。子育ては重いか はなく、軽く見ているから共同という 育児という大事業を重く見ているので によって、ハチの群れを外敵から守る ある。命懸けの一撃である。そのこと 毒を注入し続け、自身は落命するので 隊である。一撃は同時に自己の命を失 すのである。ミツバチによる神風特攻 迷いもなく、相手に「一撃」を食らわ バチは一斉に攻撃して行く。いかなる ことに気が付く。外敵が来ると、働き とと見つけたり」を日々実践している 観 察 し て い る と、「 武 士 道 と は 死 ぬ こ だろうか。ミツバチの行動をつぶさに してきた。その原点には何があったの 輝かしい未来を切り開く英知を生み出 が 末 法 の 世 の 習 い で あ る。『 葉 隠 』 の 一刺し」は、針が敵に内臓と共に残り、 人の命はお金より軽いのである。これ う こ と を 意 味 す る。 つ ま り、「 ハ チ の 返し警告している。拝金と拝欲が悪の 口 述 者・ 山 本 常 朝 は こ の こ と を 繰 り 人 事 件 は 金 銭 と 欲 が 絡 む も の で あ る。 心から「偽り」が行われる。多くの殺 で あ る。「 楽 し て 儲 け た い 」 と い う 一 何故「偽り」がまかり通るのであろ うか。一口で言えば、拝金主義の末路 らない。 ないし、そのための偽装があってはな されるような不埒な行為はしてはなら なるからである。もとより、内部告発 いないか。それは結局、組織破壊者と そういう反乱者、つまり内部告発者は 思想書である、というのである。 もに、日常生活における実践性の高い あ る。『 葉 隠 』 は 治 世 の 書 で あ る と と して、武士道の聖典である『葉隠』が じょう ちょう から、頭でっかちになり、少し苦しく 責 務 が 軽 視 さ れ て い る の で は な い か、 民族はいかなる国難、困難をも克服し、 に な る。 組 織 の 中 に、 チ ー ム の 中 に、 を意味する。それに最も適したものと が、実はその逆であって、それぞれの 60 ( 40 ) (104号) ハチの一刺し─特攻精神と武士道と『葉隠』に学ぶ─ 羽渕 徹也 事務局長 26 年 月 日(水)に、当顕 一 平成 年度第3回理事会及び 臨時評議員会の実施報告 昨平成 26 臼田 智子 笹 幸恵 小倉 利之 水町 博勝 理事兼事務局長 羽渕 徹也 評議員 秋山 政隆 穴山 正司 飯田 正能 石井 光政 石井 千春 及川 昌彦 太田 兼照 大穂 園井 時 分〜 時 〜 ② 懇親会の場所・時間 靖國会館2階 ③ 会 費 時 時 慰霊祭及び懇親会出席者 六、○○○円 慰霊祭のみの出席者 二、○○○円 回特攻隊合 お知り合いの方などお誘い合わせの が、会員の皆様方のみならず、ご家族、 ○平成 年度事業計画 一 方 針 当公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕 彰 会( 以 下「 顕 彰 会 」 と い う。) は、 特攻隊戦没者の慰霊顕彰を主たる事業 として各種公益目的事業を積極的に推 進する。この際、顕彰会活動全般の活 性化並びに全体委員会を核とした募 年度年会費の納入につ 二 各種実施事業 力の向上を図る。 集・ 広 報 活 動 に よ る 会 勢 拡 充 を 図 る。 これがため、実行の中枢組織たる全体 倉形 桃代 高嶋 博視 ※な お、案内書にも記載してありま すが、前回に引き続き慰霊祭及び懇 委員会の強化、特に全体委員会委員の 会報第104号に「第 は、一昨年から実施されている当顕彰 上、多数ご出席下さるようお願い申し 平成 年度の会費を納入していただ くために、会報『特攻』第104号に 1 慰霊・顕彰事業 顕彰会が主催する3月 日(土) ア の靖國神社における特攻隊合同慰 平成 いて 特攻隊に関する資質及び指導力・行動 中江 仁 新垣 敬輝 親会終了時に、最寄り駅までの送迎 において臨時評議員会が、それぞれ開 バスを運行しますので、ご利用の方 年度計画 年度事業計画及 が審議され、いずれも平成 として承認されました。 会の全体委員会による事業計画の策定 霊祭の実施、及び世田谷山観音寺 ん。 ◇ から、お納めいただく必要はありませ 〇〇〇円から四、〇〇〇円と安く抑え、 なお、会費欄の上に入金済みと表示 してあります方は、既に領収済みです 出席される方は、同封の「郵便払込 参加しやすくしています。 日(土)靖國神社 分 日(水)の同寺 ( 頁へ続く) 当該慰霊祭等の実情の把握、全国 戦 の 種 別 等 を 考 慮 す る と と も に、 際、陸海軍のバランス及び特攻作 積極的に参加又は協力する。この 国内外の他慰霊団体が実施する イ 特 攻 隊 戦 没 者 関 係 慰 霊 祭 等 に は、 の協力・支援を行う。 における特攻平和観音年次法要へ が主催する9月 「郵便払込取扱票」を同封しておりま 同慰霊祭御案内」を同封しております 三 及び実施結果等について、衣笠専務理 なお、理事会及び評議員会において 根木 東洋 早川 雅彦 催され、別掲の平成 はお申し込み下さい。 日(木)に、靖國会館 27 び収支予算(正味財産増減予算書)(案) 二 第 回特攻隊合同慰霊祭の開 催について 月 12 14 なお、昨年から懇親会費は従前の五、 すので、よろしくお願いいたします。 上げます。 年3月の定時評議員 事から説明が行われました。 なお、本平成 会をもって任期満了となる理事及び評 議員が多数を占めておりますが、本年 取扱票」にご記入の上、お申し込みく ださい。 年3月 ① 慰霊祭の日時・場所 平成 時 28 27 1月末現在の理事及び評議員は、次の とおりです。 理 事 理事長 杉山 蕃 副理事長 藤田 幸生 参集殿・集合完了 45 慰霊祭 靖國神社拝殿・本殿 43 10 28 23 27 専務理事 衣笠 陽雄 その他の理事 27 及び同年 30 11 12 平成 年度第3回理事会及び 臨時評議員会の実施報告等 26 26 12 彰 会 事 務 室 に お い て 第 3 回 理 事 会 が、 11 11 27 27 36 36 27 平成26年度第3回理事会及び臨時評議員会の実施報告等 (104号) ( 41 ) 平成26年度第3回理事会及び臨時評議員会の実施報告等 (104号) ( 42 ) た、若手会員の参加を考慮する。 慰霊祭等の情報収集に努める。ま するとともに、会員以外の希望者 ( 旭 川 ) の 各 護 国 神 社 を 重 視 し て、 情 『 特 攻 』 を 発 行 し、 全 会 員 に 配 布 においては、長野、岐阜、徳島、札幌 指導者)を指名し、当該事業を計画実 成し、各事業ごとに担当者(補佐者・ いては、部外者の参加も考慮する。 る。この際、講習会及び研修会につ の特攻隊に関する資質の向上を図 顕彰事業に資するとともに、会員 会、研修会等を実施して、慰霊・ は、常に最新化に着意するととも ホームページをリニューアルす ③ るとともに、維持管理に当たって い発行態勢・要領・記事内容であ 委員会により、公益法人に相応し 年当初から試行する。また、編集 (試行案)」を一部修正し、平成 平成 年度に作成・試行した「会 ② 報『特攻』の編集・発行について 保管する。特に、特攻隊関係者からの 館 等 で の 資 料 発 掘 等 に 努 め、 記 録 し、 からの直接聴取、各地の慰霊祭・資料 う。この際、可能な限り、特攻関係者 報を収集する。また、建立に際しては、 施させる。 エ 月例法要(月例参拝) 特攻隊員の慰霊・顕彰及び「特 攻平和観音」関連知識の向上のた に、セキュリティーを重視し、ト に頒布する。 日に ラブル発生時には、委託業者と連 主として、全体委員会委員に対 ウ し、特攻隊に関する勉強会、講習 実施する特攻平和観音月例法要に 収集については、高齢化を考慮して手 るかどうかを常時点検する。 特攻隊及び特攻隊戦没者等に関する 史実の調査及び研究資料等の収集を行 4 出版事業 整する。 独自の慰霊祭ができるよう説得し、調 事務局からの報告等 寄附者御芳名 (敬称略) 月1日〜 月 年 (単位千円) 五○ 松中 義昭 一○ 中里 英二 (平成 日) 会員及び部外者の参加も考慮する。 演会・研修会については、委員以外の 理事又は業務執行理事が計画する。講 に区分し、計画実施する。細部は専務 を目的とし、講演会、勉強会、研修会 特攻隊に関する資質の向上を図ること 努めて奉賛会等の組織を確立し、建立 2 全 体 委 員 会 委 員 の 資 質 向 上 施 策 後は、その主催の下に「特攻勇士之像」 は、 全 体 委 員 会 委 員 を 主 対 象 と し て、 積極的に参加する。この際、一般 携して迅速に回復する態勢を常に 遅れにならないよう、優先順位を付け、 に 整 理・ 公 開 さ れ た「 特 攻 ラ イ ブ ラ 年度 るとともに、可能な範囲で特攻隊 七 加嶋 昭男 七 高橋こすみ 引き続き顕彰会の業務執行の中枢機関 大谷 二 正俊 萩原 二 ◇ ◇ ◇ 御芳志誠に有り難うございました。 二 小野 好永 一 荒井 和彦 26 年 度 末 の 全 体 委 員 会 の 態 勢 を も っ て、 二 河野 一欣 二 紙谷八十二 安信 三 西村 洋文 二 藤井 常男 六 松本 浩一 三 窪田 隆 七 菊池 国光 七 藤本 松彦 リー」の更なる充実・活用を図り、会 められた当顕彰会の運営状況等の 3 「特攻勇士之像」建立事業 と位置付け、活動する。このため、全 情報を公開する。 三 全体委員会事業 戦没者に関わる慰霊祭情報等を掲 計画的に実施する。また、平成 31 員の資質向上に寄与させる。 に、会報『特攻』の内容を公開す 12 載し、広報する。また、法令に定 10 め、世田谷山観音寺が毎月 の参加者等に対する募集・広報に 保持する。また、ホームページ上 も留意する。 2 募集・広報事業 ア 募 集 広報活動と一体化した効果的な 募集活動により、会員の獲得に努 める。この際、全体委員会委員に 募集成果を上げ、一般会員の募集 護国神社等へ「特攻勇士之像」を奉 納する事業を継続する。このため、像 1 顕彰会の事業は、全体委員会が計 画・実施する。全体委員会は、平成 意識振作への波及効果を期する。 の受入れ可能な護国神社、維持管理の 体委員会委員長(専務理事)及び事務 イ 広 報 局が主体となって事業全般の計画を作 し、建立事業を推進する。平成 年度 歴史的資料として、また、特攻 ① 隊の功績を国民に広報・普及・継 26 27 26 ための奉賛会等についての情報を収集 募集目標を付与し、全体委員自ら 26 18 承するための広報誌として、会報 27 (104号)事務局からの報告等/平成26年度第3回理事会及び臨時評議員会の実施報告等 ( 43 ) (平成 年 月1日〜 月 ・2・ ・8・ ) ) ・2) ・9) ) 会員ご入会のご案内 11 中里 英二( 松本栄三郎( 日) ・ ・ ・8・ ) ) - 当顕彰会は、先の大戦において、 祖国の安泰を願い、家族や大切な 人たちを案じつつ、自らの命を犠 牲にして、それらを護ろうとした 若い特攻隊員たちの御霊を慰霊 し、感謝することを目的とする団 体であります。 私達は、彼らからその精神を学 び、自分たちの生き方を考え、よ り良い社会の実現に寄与したいと 活動を続けております。ご賛同の 上、ご入会くださるようお願い申 し上げます。 〇当顕彰会の沿革 昭和 年5月前身の特攻平和観 音奉賛会が全国組織化 昭和 年6月特攻隊慰霊顕彰会 発足 初代会長 竹田 恒徳 元宮様 二代会長 瀬島 龍三 氏 平成5年 月財団法人認可 三代会長 山本 卓眞 氏 平成 年1月公益財団法人認定 現理事長 杉山 蕃 氏 〇当顕彰会の主な事業 ・特攻隊戦没者の慰霊顕彰 ・広報誌等の発刊 ・講演会等の開催その他 〇年会費 ・一般会員 3000円 ・学生会員 1000円 〒102 0073 東京都千代田区九段北3 1 1 靖國神社遊就館内 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会事務局 電 話03 5213 4594 FAX03 5213 4596 34 新入会員名簿 (敬称略) 神奈川県 大槻 二郎 鈴木 敏 宇井 豊 今野 二郎 宮城県 佐々木 洋 福島県 陳野 重美 福井県 藤堂 武( 静岡県 平岡 辰夫( ・ ・5・ ・ 次のとおり誤りがありましたの で、謹んで訂正し、おわび申し上 げます。 (訂正箇所) 7頁3段右写真(横書き説明文) 誤「鹿屋航空基地資料館」 正「鹿屋航空基地史料館」 8頁上段③の日時 誤「 ・4・5(日)」 正「 ・4・6(月)」 8頁下段 第 回若潮会慰霊祭 取止め 会報『特攻』第103号 正誤表 福岡県 谷口 茂海( 宮崎県 宮田 典男 小宮山玄二( 杉村 俊一( 群馬県 富澤 勝久 埼玉県 小野寺正則 井原 邦夫 新井 重夫 生熊 義正 東京都 畑 政宏 萩原 正俊 山口 髙治 神奈川県 村上 雅英 山崎 正美 ) ) ) ) 金澤 真史 川嵜 幹夫 荻野 信 熊本県 村上 恵一 鹿児島県 山口 英晃 海 外 早瀬 登 ◆ ◆ ◆ 会員訃報 (敬称略) ・7・ ・5・ ・8・ ・6・ 謹んで哀悼の意を捧げます。 群馬県 上原 富次( 埼玉県 新井 文央( 新井 省吾( 千葉県 澤田 和夫 富岡 幸雄( 東京都 田中 靖浩 11 青森県 小笠原孝志 岩手県 星 道弘 31 ) ご投稿についてのお願い ご投稿に際しましては、次の点 にご留意くださるようお願いいた します。 原稿は、手書き、ワープロ・ パソコン作成のいずれでも結構 1 字詰めでお願いします。 ですが、なるべく縦書き、1段 2 記事の取捨選択、紙面の都合 等による一部割愛、修文等につ いては、当協会事務局にお任せ 願います。 3 慰霊祭、行事等の写真があり ましたら、なるべく添付してく ださい。 稿、写真等は、原則として 原 お返しいたしませんが、必要の 4 場合は、その旨お書き添えくだ さい。 5 1 1 会報・機関誌、投稿記事等の 送付先は、左記の当顕彰会事務 0073 記 局宛としてください。 〒102 東京都千代田区九段北3 電 話03 FAX03 5213 5213 4594 靖國神社遊就館内 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会事務局 - 10 11 12 ・8・ 4596 - - 25 10 茂木 明治 49 17 15 18 15 10 25 24 26 26 26 26 26 26 原田 昇( - - - - - -- 27 27 23 57 23 - -- 26 26 26 26 26 22 10 18 15 25 ( 44 ) (104号) 事務局からの報告等
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