浄土第 79巻 7号 (毎月 1 回 1 日発行) 平成25 年 9 月 1 日発行昭和 10年 5 月 20 日第 3種郵便物認可 J・ 20 13 法然上 人 鎖仰 会 2 0 1 3 浄土 』 「 表紙の人 ι一 平 佐野芳朗 ( さのよレろう ) 走馬灯に手を弱しながら ・ . 1 939年愛知県は尾張瀬戸市、 瀬戸焼の町に手打 うどん 屋の次男 と して生を受り る。 瀬戸窯業の工芸を専攻、 ノベリティ ーデザイナーに就く 。 1962年上京、 グラフ ィックデザインを学ぶ。 傍ら岡本太郎のアト リエ で「かの子文学碑」ほかモ ニュメン卜製作に参加。 二科展デザイン賞、 パフォーマンスとして 1 1 000円作 品展」活動等。本邦初の「ボランティ ア 」誌 40数年 間製作。 全 日本ろうあ連盟「絵で学ぶ手話」連作。 同時期、正力総太郎氏提唱のー全国青少年教化協議会ー 「おしえの泉J 1ひっぱら」等の製作に協力。 最近は機関誌『浄土』にお招きをお受りております。 淀みの川を流れつ … 合唱旨 浄土 2013/9 月号目次 11 本の仏教 ( 0 ) …一・・……....・ H ・.....・ H ・-…・…・・… 会いたい人勘三郎の出会った人々 轡流十方… 連載小説 一一 ( 上 )… ・…… 梶村 ・関 界 容子 12 …....・ H ・...・ H ・....・ H ・....……・…・.... 小村正孝 2 2 26 渡辺海旭 ・ 目 H ・ H ・-……… H ・ H ・-一・…・…・・… 前田和男 江戸を歩く … ……・… H ・ H ・...・ H ・-・…・…・… 森清銭 3 フォーラム …………………・…・.. . ...............・ H ・-ー・…....・ H ・....…・・・ 誌上句会 .....…...・ a ・-……・・ マンガ 編集後記 …・ さっちゃんはネッ … ・… 2 ・… … 表紙・表紙裏 =2013 r /1l l:J ぷ紙の入 ・・・・ … ・…・…・ー … 表紙題字=中村康隆元浄土 門 主 アートディレクション= 近縦十 問ftIl 協力= 迦陵頻伽舎 ・ かまちよしろう ー. ..・ H ・...・ H ・.....・ H ・.......・…… 佐野J'1llJl 背表紙裏 =Ii~の美味 探訪 一踊=増田河郎子 34 4 3 4 4 47 4 8 梶 本す 昇 11 Hi s '• ,....司司 ~L 日 本 仏 孝女 讃 仰 L'--‘ : z : ; : : イム のf . . . . . . . 、ー 日 本の 仏教 異宗教の交流 。 。 l 。 違 一緒に考えて この それを 一つ宗 教 っていてもいいので 。 。 しかし、それぞれ違うのだということ ル、中固などの仏教団を、全部 共通したものは当然あるわけです 仏教だからということで、インド、ネパ もいいのです も重要なことです 。 ったなんてことはあり得ないのです それは、我々個人個人を見ても、個人個人の宗教というのは皆それぞれ違います 話を聞いたから、皆これと同じにな 。 だと 言っ て、右向け右で同じようにさせようというのは無理です 「高度な宗教が、比較的低度な宗教を持つ民族文化に受容された場合、迅 でんぱん 。 はないかと思うのです 二番目です 。 。 ですから、日本に仏教が入 こうまい っているあの高過な哲 っと流れた どこにも入 。 それが 二番目です ってアフリカへ行くと、たちま 。 同じように仏教は中国にも入り、韓国にも入りました 言 われるほど盛んにな つできたら、すう 学 から見 速かつ容易に伝帰されていく 」。難しいことを 一言っ ていますが、高いところにある水は低 本の仏教です 。 ってきた当時の日本の宗教は、仏教の持 いところへ流れていくということです 日本に仏教が入 n パ文化だ ッ 水の流れと同じように 高 いところから低いところへ流れる 。 っ てきた 奈 良仏教、平安仏教で、国家仏教とも れば、程度が低いものでした った それが小 学校以来習 っ てきた 高 いところから低いところへ、たとえばヨーロ 。 。 3 。 。 しかし、アフリカの文化がヨーロッパに入っても、たちまちには広が アフリカでも踊りは程度が高いらしくて、ヨーロッパの人がしきりにやっていま ち広まったのです 。 らない すが 。 三番目、「民族の持つ自然発生的な宗教は、高度な宗教に同化しつつ反発し、民族固有 の宗教を形成していく」 。 たちまち日本は仏教国になった 。 。 のりと 。 。 神道の キリスト教はバ それが神道です 。 。 それが固有の宗教だというのです それが高度な宗教問の接触です 。 「高度な宗教問の接 。 。 その高度な宗教に同化しつつ、 そうしますと、今までの民族の形のある根っこの これはどういうことかといいますと、日本を例にとると、日本という国に仏教が入って きた 宗教はなくなってしまったのかというと、そうではない 日本の宗教は仏教に同化しながら、民族固有の宗教を形成した 。 。 。 しかし、何もかも同化されるということではなくて、それに反発して、「おれた 神主さんの上げる祝調は管、 『 占事記 」 からとって 。 それでは、あの神社の神道の聖典は何でしょうかね 教典、管さん、それは何だと思われます?仏教の聖典はお経でしょう イブルです 。 それは 「 ト門事記 」 だと思うのです います 。 民族固有の神道を形成してきた ちの宗教はこういうものだ」と言って形成していく それが 三番目です 。 四番と五番は、高度な宗教聞の接触において、例えばキリスト教が入っているでしょう そこにイスラム教が来るでしょう 。 われているところでは、他の 一万の宗教は符易に布教されない」 簡単に 言 いますと、キ 触において、既に 一つの宗教が民族の中に確立され、その宗教を中心とした文化統合が行 リスト教が布教されているところ、そして全部民衆の生活がキリスト教化しているような 4 日本の仏教 。 。 そ これはちょっ 。 文化統合というのはそ 。 日本の場合は大方は仏教です ところへ、イスラム教が入ってきても、なかなか入れないということです と問題なのですが、日本の場合を考えてみてください 。 して、お盆から何から、皆仏教のしきたりでやっているでしょう ういう意味です 。一 つの宗教の価値観によって統合されている 。 。 。 。 そのとおり 。 このごろ父親の日 それはお彼岸だと 言 われます それから母親の日というのがあります って、子供 余計な話ですが、私たちの今の国民の祝日を考えてみると、お正月から始ま 。 の日というのがあるでしょう もあります 。 。 。 これは国会議員 どうして日本人は昼 ところが、お彼岸だとは 言 わないで春分の日、秋分の日と 言うのです ところが、祖先の日というのがないのです お彼岸なのです 春分というのは、辞書では昼と夜の長さが同じ日だと占いである と夜が同じなら日本中でお休みしてお祝いしなければいけないのですか 春分 。 なぜかというと、お彼岸というのは仏教 。 に 言 おうと思っているのですが、それなら夏至も冬 至もお休みにしてくれたらいい 。 とか秋分というのは、これは気象庁で使う名前です 。 。 それでお彼岸の日と 言 えない 。 。 それをやめて、祖先の日としたら そこで春分の日とか秋分の日とか、気象 そのお彼岸を国民の祝日にすると、日本の政府は仏教の肩を持っていること しかし、彼岸の日と 言 うと、憲法違反になる の言 葉です になってしまう 。 。 一つの宗教、日本なら仏教というものが国民の中に定着している、 庁の 一言葉を持ってきてしまうということになるのです どうかと思うのです さてそういう点で、 文化統合が行われているところへは、ほかの宗教が来ても、なかなか入れない 5 。 明治六年で 日本にキリスト教が入ってきたのは、キリシタンのときからですが、そのあと鎖国にな 。 その問、日本 キリスト教が禁じられたということはほとんどありませ 。 り、明治になって、信教が自由となって、キリスト教の布教も自由になった す 。 それから今年までを計算しますと、百四十年くらいになりはしませんか 。 。 。 それなのに、どうして日本では広まら あの大東亜戦争のとき、数年間、パタパタしたことがありますが、それ以外は全く向 でキリスト教が随分布教された ん 由にキリスト教は布教できた 。 キリスト教は財力もあり、環境が整っています 。 。 そ クリスチャン キリスト教に 言 わせると、 。 それは四番目の、「その宗教を中心とした文化統合が行われているところでは、他の 一 ないのでしょう 。 方の宗教は容易に布教されることはない」ということだと思います キリスト教にも問題があるし、仏教にも問題があるのです 仏教が今、相家制度で広まっているが、余り民衆化しすぎてしまった、と はそこへいくと、「おれはクリスチャンだ」というような顔をして、斜に構えている 。 。 。 ッ クとプロテスタントの両方合わせて 毎年クリスチャンが何人ぐらいふえたか カトリ 。 んなことでは宗教というのは民衆の中へ入れない 本当に楳になって入っていかなければ、 。 キリスト教の統計をごらんになってください 入れないと思うのです 。 ある年なんか 三 百人です 。一 年間でですよ 三百何人という増加です 。 今、カトリックとプロテスタント合わせて百万人に届くか届かないかというところです 6 11 本 の 仏教 。 明治六年から今日まで百四十年あって、自由にキリスト教を布教できる環境にあっても広 まらない 。 これはキ 五番目、「高度な宗教聞の接触の場合、 一方の宗教が、いまだ十分に民族の聞に定着し 。 例えば 。 ですから、宗教はほかの民族に伝えられ 言 っているのですが、ここではあまり関係ありませ ていないときは、政治的、社会的結合力の強い宗教のほうが大勢を支配する」 。 リスト教とイスラム教の対立のことを んので省略いたします 異宗教の交流というのは皆こういうものです た、伝播されていったときにはそこの国の民族と 一緒になって変容されるのです 。 宗教というのはここからこっちへ移るとき、必ず移 A の文化が Bという地域に入ると、 B の宗教は皆 Aとイコールになるというふうに思いが 。 ちですが、実はそうではありません った国のものになるのです そしてその後キリスト教がヨーロ ッパ でどんど 。 そして、十五、六世紀にヨーロッパで宗教改革が行われ、プロテスタントが 。 先ほどから巾し上げているキリスト教の話でも、キリスト教がギリシャに移ったとき、 。 既にこれはギリシャ化されているのです んふえます 生まれ、今までの宗教カトリック、それに反対したギリシャ正教が生まれます 皆それぞれが 。 それはそのとおりで、そ 。 必ず だから、仏教が日本に入ってきても、それ 。 そういうふうに今日、キリスト教の宗派の数というのは大変なものです 。 。 「自分はイエス・キリストの正統を守っている」とおっしゃる うでなければやりょうがありません だけど、皆その国々に変容されたものです がミャンマーやタイ同の仏教と日本の仏教とが同じだということは絶対ありません 7 。 。 農業の神様とキリスト教とが合体している 。 。 。 だからキ 。 農業の神ですから稲光で 十字の交わったところから四方にギザギザが出ている 。 今はカトリックになっております 北欧のキリスト教というのは、実は元々北欧の宗教 。 宗教は、その受容された国の宗教と 一緒になって変わっていくということです 私は北欧へ行ったことがあります リスト教は皆同じだなんて思わないでください 。 このギザギザは何かというと、土地の農業の神様の象徴です あそこの十字架を見てください というのがあったところへ入ってきたものです す 。 。 。 口、それでいいの 皆、お母さんがあとで 言っ てくれ っ しゃ それが世界中に 。 そこで冬至の祭りという ですから、北欧の人は冬至になる 。 。 北欧という国は本当に夏が短く、 。 余計な話ですがイエス・キリストが十二 月 二十五日にお生まれになったなんでいうのは、 。 。 。 それが十 二 月 二十五日です 言 って喜ぶ 。 ところが今、世界中、クリスマスは十 二 月 二 十五日です 。 冬至というのは夜が 一番長くて昼間は短い 。 それはなぜかと 言 いますと、この北献の宗教なのです どこにも書いてありません 冬が長い 。 と、あしたからは昼間の時間が少しずつ長くなると のを大変熱心にやるのです ・ それを信じているだけです 二 月 二十五日、 日本の建同記念日が二月十 。 皆さん、自分の誕生日は何月何日とお キリストのお祭りが 一緒になってクリスマスになった 私は北欧に行ったとき、その冬至にぶつかった それとイエス 広まったということです 誕生日なんでいうのはそういうものです 。 るけれども、ご自分で見ていたわけではないでしょう たのです だから、クリスマスが十 8 日本の仏教 。 。 。 。 それは 皆で決めて、長年そうやってやれば、それに従ったら です。二 月十 一日は歴史的にどうのこうのなんて、そんなことを 言 う必要はない 定かにはわかっていないのだから いいのではないかと思うのです 民族の= つ子の魂 。 三 つ子の魂というものがある、ということ 異宗教交流の話で、私の 言 いたいことはその次です 一番は、民族にはそれぞれ民族の 。 。 根っこ 日本の場ム円で ここで 言う私の根っこの宗教です 。 二番目、異文化が交流する場合、民族の 三 つ子の魂が原動力となって相手を変容する、 ということ 。 。 これが今日の話の中では大切なことでして、文化が交流する すと、日本に仏教が入ってきた場合です 日本民族の 三 つ子の魂というものがあった マとしている日本の仏教なのです 。 。 。 。 しかし、 それが今日の私の 。 時は永遠の慈悲だという、それはお経に書いてない 。 の宗教が原動力となって、入ってきた宗教を変容する、変えていくということです 仏教 l は日本の持っている根っこの宗教によって、だんだん変えていかれた テ 最初から何遍も申します 三 つ子の魂というものが、そのように変えて これは仏教経典に書いてないから仏教ではないというのではなくて、入ってきた仏教的 日本人は、「そうだ、そうだ」と、領きます なものを、日本の心、日本民族の心、民族の 9 いったのだということです l 。 だから、これが「日本の仏教」なのです 。 ンというのをタイの人に「これは何を祭っているのか」と聞くと、こう 先ほどタイ閣の話を長い聞いたしましたが、ちょっと 言 い忘れましたので、追加します が、サンプラプ 。 。 。 そのサンプラプ l 。 ンで杷 日本の仏教は、後ほど申しますが、祖先を杷 ところが、タイでは仏教では杷っていないのです それだけでも日本仏教と大変な違いです 。 。 いう答えが返ってきます 「これは私たちの先祖の心だ、先祖を祭っているのだ」と る仏教です っているのです 1 マにしていたものですから、留学 私は、亜細亜大学というところへ長い間勤めていたのですが、あそこにはアジアからの 。 留学生が非常に多く、私はアジアの宗教というのをテ 生がよく私の部屋へ来ました 。 。 言 った 。 1 ンは亡くなった祖先の入 「私の亡くなったお母さんがここ タイの留学生にとっては、このサンプラプ ンの写真の整理をしていますと、それを見て あるとき私の部屋へタイ国の女性の留学生が訪ねてきまして、私がちょうどサンプラプ l に入っている」と る場所なのです 。 。 つまりサン 。 あれだけ熱心なタイ仏教になりながら、それで 。 そこへ仏教が入ってきて、 ンは 言 ってみると祖先の神様であり、稲の神様であり、土地の神様であるのです 。 。 それがどうして田んぼの中に建っているかというと、これは稲の神様でもあるからです l それがどうしてホテルに建っているのかというと、これは土地の神様だから プラプ 。 ったのです タイ国の昔からの宗教なのです そういうような役割を持っているのです これは仏教ではありません あれだけ熱心なタイ仏教にな 1 0 n 本の仏教 もなおサンプラプ 。 l ンは捨てない 。 。 それどころか、非常に熱心に杷られている 。 。 私のよう 。 日本の仏教も日本民族の 三 つ子の魂が変えてい 三 つ子の魂というものは、消えてなくならない な旅行者でさえ、あちらこちらで目につくほどあるのです そういうことを見ますと、本当に民族の った それが原動力となって宗教を変えていく 。 それから 三番目、民族の 三 つ子の魂は消滅することなく、常に民族の底流となっている、 これは消えてなくならないということです 。 。 非常に古いのです 。 1 ンが今でも民族の底流となってタイに流 それが日本の仏教を作り、タイの仏教を作った ミャンマーはミャンマー、スリランカはスリランカ、皆それぞれ同じ仏教で 。 そのサンプラプ タイ国に仏教が入ってきたのは文献の上では七世紀ですが、彼らは四世紀ごろだ言とっ ています れているということです 。 この棋っこの宗教というのは実に強い と 言 えます 。 はありながら、それぞれの民族の力が原動力となって、それを変容しているのです (つづく) 1 1 関容子 の 出会つ きかりし頃の勘三郎さん. 会いたい人 宮沢りえ 勘 三郎が 三十七歳でまだ勘九郎だったとき、 女性誌「 CREA 」で何人か自身の会いたい 人を指名して対談のホストをつとめた。今読 ト はト九歳だった宮 み返してみると当時とまた別の感慨がある。 たとえば第 一回のゲス 沢りえだが、対談の最後に中村屋はこんな約 束をしていた。 二 つだけ約束しましょう。権太(『義経千 。 りえちゃんはもしかすると相撲 本桜』のいがみの権太)をまた 三卜年後に見 てください 部屋のおかみさんになってるかもしれないけ ど、僕は六卜七で間違いなく歌舞伎役者をや ってますから、りえちゃんがいても上がらな いで、立派に権太を演じてみせます」 そんな約束もむなしく、中村屋は五十七歳 で世を去り、最後に権太をつとめたのは勘 三 郎襲名の翌年九月の平成中村座(名古屋)、 五十一歳のときだった。 「今度はりえちゃんの前でも上がらない」と 初めて歌舞伎を観に来ることになり、 に言 って 二階の 言っ ているのは、対談に先立って宮沢りえが ー 最前列に席を取るようマネージャ おいたのに、手負いの権太のちょうど目線の 行く席にいたりえさんと目が合って、それか らは芝居がカタカタに崩れたからだという。 。 がる 」 なんてことはない 中村屋の辞書に 「上 はずなのに、とても珍しいことだ 一方、宮沢りえは初めて観る歌舞伎がひど 。 く新鮮に映り、大向うが役者に屋号で声をか 対談の数日後、中村屋が弾んだ声で言っ て けるのにも素朴な疑問を抱く いた。 「 どうして権太の役になり切っている人に 『中村屋!』なんて言うのかしら。『権太さ ん!』て 言うべきじゃないのかしら。もし私 がジプシーの役をやってて、『宮沢!』って 言われたら、何かシラけるような気がするん 1 3 。久家清秀 宮沢りえさんと対談する勘三郎さん。 1992年 12周号の r CREAJ にて. です、って 言 ってたけど、これ、本当だね。 それまで考えたこともなかったけど、すごい 。 中村屋が宮沢りえと会ってみたくなった理 感性だと思って、感激しちゃった、俺」 由には、多少私にも関係がある 一 私の『おもちゃの 三味線』というのは、先 せいこ 代幸四郎(白鶴)に対する初代吉右衛門の 人娘で十五も年の違う正子さんの 一途な恋の 話を苫いたものだが、これがその後ラジオド ・ 吉 ラマになって、主演したのが正予さんの孫の ドラマには現・ 幸四郎が先代の役、現 市川染五郎と、宮沢りえだった。 右衛門も先代の役、中村屋も父助 三郎の役で 特別出演。と 言 っても、それぞれのお宅や楽 屋で短いせりふを収録し、うまくはめこむと いう形の出演だったけれど、大変に費沢なこ とだった。 あのころまだ卜歳そこそこだった勘太郎 「 お父さんね、車に乗るとあのドラマぼつか (現・勘九郎)君が笑いながら、 1 4 会いたい人 り聴いてるよ」 と教えてくれたが、中村屋はきっと宮沢り えのいかにも利発そうでいて情感のある、透 明でいて h強い声の魅力に惹かれたのだろう。 それで、念願の対談が始まってしばらくし たら、突然部屋の電気が消えて薄暗くなった。 「でもこうやって暗いところで話すのも面白 いですね」 と、りえさんが中村屋の顔をのぞきこみな がら訊く。 「ええ、怖がりです 。水上スキ l は好きなの 「勘九郎さんて、少し怖がりですか?」 l ズ』を見たあとギリシャの海に に潜るのは嫌い。何か出てきそうだから。映 阿の『ジョ ギリシャの海、というのは、太地喜和子と 初めて行ったエーゲ海クルーズのときのこと しかし、向分は怖がりでも、人をおどかす だろう。何かにつけて思い出すらしい。 ことは大好きで、対談ではこんなことを言っ て受けを狙っている。 「四国のこんぴら歌舞伎というのがあって、 江戸時代からある古い 小屋なんだけど、今日 みたいにこんな感じの暗さにして『四谷怪談』 を今度やりたいと思ってるんだ。終演後、お 化けの扮装のまま石段のところに立ってて、 お客さんをおどかすとかしたらきっと面円い よね」 あのころ、この思いつきがよほど得意だっ たとみえて、「もしそうやってお客さんが目 すぐに海 行ったんだけど、ダメだったもの を廻しでもしたら、業務上過失致死傷害の罪 。 から上がっちゃった。空もダメ。スカイダイ になるんだろうか いに実現しなかったが、代りに第 一回コク l このこんぴら歌舞伎の『四谷怪談』は、つ 言 ってい ビングなんか、『烏になった気持ちになれる』 たみたいだ。 」 と、あちこちで なんていうけど、司パカヤ口、パラシュート が聞かなかったらどうするんだよ』って感じ (笑ご 1 5 ン歌舞伎では似たような小屋の雰囲気を作っ て『四谷怪談』を上演した。 開演前に私が楽屋に顔を出すと「ねえ、席 「鋭い突っこみに参っているノリちゃんなん だけどね」 とおどけながら時間を稼いで、 「女優さんだと何だか生な感じがしてメルヘ ンになりにくいんだな。ワンクッションない はどのへんで観るの?」と妙に熱心に訊く。 怪しい、とピンと来たので用心していたら、 と、まともな答えにたどりつく。 」 っていうのか くれた。私は隣りの友人にかじりっき、絶対 そして『鰯売』の筋を説明。 ::: 案の定お岩様が桟敷まで出張サービスに来て に顔を上げなかったら、トントン、トントン 」という鰯売りの売り声に魅せ 「鰯こl え られたやんごとないお姫様が、その声に憧れ l と私の頭を軽く 二回叩いて(その感触が今も 残っている)諦めて帰ってくれた。でももし l 」と言ったことか 出て、やがて遊女になる。その蛍火という太 え 夫を見初めた鰯売りが大名に化けて会いに行 l ころへなど来なかったはずだから、いい思い くが、寝言に「鰯こ りえさんが同じ日に観に来ていたら、私のと 出ができてラッキーだった。 中村屋が、たとえば『鰯売』三 (島由紀夫作) 「面白そう!じゃ、練習してこっそり出ち それを聞いてりえさんが、すかさず言う。 ら正体がばれ、めでたしとなる。 なんかを元にしてりえちゃんと歌舞伎座で共 ゃいましょうか。玉 三郎さんの代りに 二 日間 また対談に戻る。 演したいけどね 、と実現性のない夢を語ると、 だけとか(笑)。『鰯売』今度いつやります 中村屋はタジタジとなり、 か?」 「なぜ歌舞伎に女の人が出ちゃいけないんで すか」 と反問する。 1 6 会 いたい人 いろんなしきたりを取り払って、歌舞伎を素 に対してオペレッタがあるように、歌舞伎の からな:::悔しいねえ(笑)。だけどオペラ でもやっぱり歌舞伎じゃ俺もまだ弱い立場だ 「うーん、この間ゃったから、 三年先かな。 て、名を上げた。 代演をごく短時間の稽古で立派にやってのけ 幸喜作)で、急病で途中休演した天海祐希の たし、最近では『おのれナポレオン』(三 谷 に立ち、玉 三郎や宍戸開と堂々の共演を果し 語』(泉鏡花作)でル ・テアトル銀 座の舞台 杉村春子 ぞ自慢に思ったことだろう 。 きからこの女優の大成はわかっていた、とさ 中村屋が生きていたら、既にあの対談のと 材にした芝居。そうだ、『カプキッタ』とい うのをやろうよ」 と、思いつきに得意になりながら、「でも なあ」と考えこむ。 「どうしたんですか?」 この対談は太地喜和子が亡くなった翌(平 山 (紀之)かなんか辿れてこられたりするから 成五)年、信濃町の文学座アトリエ(稽古場) 「そうすると、りえちゃんの相 手には東 なあ、気がついたら俺、下僕の役だったりし に中村屋が出向いて行われた。 。 役者さんたちが悩んだ 「いいなあ、こういうところに来ると、霊的 て」 「私はいや、と言って、勘九郎さんとやりま なものを感じますね り苦しんだり、喜びあったりした『思い残し』 すから」 「そうお?嬉しいね」 みたいなものがそこらに散らばっていますも と、何度もあたりを見回してちょっと感傷 のね」 となるのだが、宮沢りえ、十九歳にして向 信に満ち、余裕と貫禄さえ感じられる。 のちに歌舞伎座ではないにしろ、『天守物 17 。久家蝿秀 杉村春子さんと対談する勘三郎(当時勘九郎)さん. 1993年5月号の r CREA J にて . 的になる。 以前、高麗屋 一家(白鶴と幸四郎 ・吉右衛 門兄弟)が『明智光秀』(福田恒存作)で文 をしたと聞いて、ますます感慨に浸る。 学座と共演したときも、このアトリエで稽古 杉村さんが、「これ、言わないほうがいい かしらね」とためらいながら、先代勘 三 郎と 共演したときの話を始める。 「 あなたのお父さん、『華岡青洲の妻』(有吉 佐和子作)で御 一緒したけど、せりふを憶え ない方だったでしょ。水谷八重子(初代)さ んが青洲の妻で、私が母で、麻酔薬の実験で 誰が先に飲むかで争うところがあるんだけ ど、そしたらあなたのお父さん、何が何だか 1 ん」て情 わからなくなって、真ん中に敷いであった布 団に引つくり返って、「トクちゃ けない声でプロンプターの方を呼んだのよ (笑ご 「ああ竹柴徳太郎、徳ちゃんです」 「育洲が久しぶりに家に帰ってくるところで 18 会 いたい人 言 え』って も、せりふがわからなくなってそのまま立っ てたら、お客さんが『しっかり 。 何の舞台だったかしら 。 ほとんど毎晩のよう 「 初役の『鏡獅子』です 」 と即座 にあなたを見に歌舞伎座へ行ってたことがあ ったわね」 のですよ 」 「 ええ、本当に毎日来てくれましたから 在を実感して行く。 。 」 で い そして中村屋は、どんどん 喜和子さんの不 夫 さんなんかもよく怒られてましたから 「あの人は誰にでも正しく怒るのよ。北村和 役者はダメなんだ、って 」 くらしゃべるのがうまくても聞くのが下手な ほんとに聞くのが下手な人だから』って も僕もいろいろ教わりましたよ。『あんたは 。 自分が演らなくてもいろんなことを党えるも 「 毎晩見ていれば、いいか悪いかもわかるし、 た。 ようなその天才ぶりが評判になったものだっ 十歳のときで、いちどきに大輪の花が聞いた に答える。昭和五十 一年四月、歌舞伎座。 二 そしたらあなたのお父さん、『何 言っ てやん 。 中村屋は 「僕はせりふを憶え あの人はあ 。 でえ』って、おっしゃったんですよ(笑)」 中村屋は大笑いして、 。 」 と言 いながら、話はやっ ないと心配で出られないから、これは親子で も違うところです ぱり太地さんのことになる 「僕は文学座の方々と御 一緒してずいぶんい ろいろ教えていただきましたが、古和子さん とは何にも共演しないで終ってしまいました 舞台はおろか、テレビも映画もラジオも雑誌 」 の対談も何にもなくて、もうそろそろいいよ ね、って話してたんですけどね 杉村さんはまた「いいのかしら、太地さん 雰 囲気のある舞台を作れ の話をしても 」 と断って、 「 あの人があんなに 。 るようになったのも、あなたとのおつきあい があったからだと思うんですよ なたのことをとても好きだったらしかった 1 9 本 当 にいけな 。 まだ死んだって感じがしないんです 。 「 杉村さんとこんな話をしていて、ここに彼 。 女がいないのはいけないなあ いよな から 」 。 言 われるの これ、自分のことを客観的に見られる 。 「 不思議なことに、十六歳のけいが以前より 今のほうがおかしくない、って 。 ラブシーンも今のほうが情熱的に見えるそう です ようになるからで、人問、内面が些かになっ てくると、もっと若さが出せるんでしょうね」 。 そこらにまつ赤な車を停め この 言 葉はそのまま巾村 屋 に返したい 「 私だってそう 「歌舞伎も同じだと思います 禿の役は、 子 。 供だから子役がやればぴったりなんだけど、 六卜過ぎの人がやるともっと可愛らしさが出 僕らくらいが 一番中途半端かもし 恥 。 去年の夏 て、今にもあの人が降りて来そう のピアパーティーにも来てくれたもの」 「 去年、四月九日にお袋が死んだとき、彼女 るんです 中村屋はちょっと前に歌舞伎座で踊った 。 が 一番先に来てくれた。その彼女がもういな 人生って何があるかわか れません 」 。 いんだから、変ですよね」 若さ 『戻駕』の禿のことを 言 っているのだった 。 らないわね 幕になって、大先輩の梅 幸 の楽屋 へ挨拶に行 まだこれからだったのに というのは、きれいだったり花やかだったり くと、「哲ちゃん、いくつになった? 。 「 本当に変ですよ するけど、役者が本当に美しく見えたり、艶 六?この役大変だろ?でも僕はもっと年 三十 やかに見えたりするのは、もう少し年を取っ 。 ずかしそうに客席に向い、顎を上げてうなず も初々しく、あどけなくて愛らしかった 」 と 言 われたそうだ がいってからも踊ったよ あなたはまだ若いから、これか てからなの が、でもこのときの中村 屋 の禿たよりは何と 。 らだんだんわかると思うけど 」 。 やがて杉村春子 一代の 当 り役『女の 一生』 (森本燕作)の布引けいの話になる 2 0 会 いたい人 。 きの踊りはきっとうまくいったんだと思える 出すように見えたことがありました そのと えらいなあ 。 。 お年は僕より上なのに 」 「 あなたより下だったら困っちゃうわよ 「先生、おいくつですか? 」 たよ 」 「もう、わからないくらいになっちゃいまし 」 れないけど、よくせりふが頭に入りますね 。 「先生、こんなこと言 ったら叱られるかもし いると、唐突に中村屋が切り出した な姿を思い出して、その成長ぶりに感無 量 で 杉村さんは、少年時代の中村 屋 のやんちゃ んです」 て、私は勘九郎坊やだったころのお客のどよ 。 くようにお辞儀をすると、場内がドッと沸い めきを思い出していた 。 しかしあ 中村屋はもしかして還暦で禿を踊るつもり だったかもしれない、とふと思う 。 。 れ以来、中村屋の禿が観られなかったのが残 念だ う 年々 もうこれでいい、つてなって、それを繰 一生ないんじゃないです 杉村春子がしみじみと 言 。 「芸の完成なんて か 。 何か違ったことになって それで舞台と客席が 一体になった嬉し 。 り返しているんじゃつまらないでしょ 。 多少は進歩してる いる 年 「 いいなあ、そういう言 い方って (笑ご 。 さというのは、たとえられない 喜 びよね 。 。 (この項つづく) み、きっと 幸 せだったに違いない アトリエで、大先輩から話を聞いて心がなご 中村 屋 はこの夜、 喜 和子 さんの思いの残る 地に達している役者同 士 の会話 年齢の聞きを超越し、でもお 互 いにある境 。 」 に何回もあることじゃないけど、それがある る から役者はやめられないんじゃないかしら 。 一体になって、 『娘道成寺』 を踊ったと 中村 屋 もハッと思い 当 「 よくわかります き、 三 味線とか鳴り物とかと 笛の名人の笛の先から突然桜の花びらが飛び 2 1 響流+方 。 。 自分こそ自分の主である 自分のよりどころは自分である だから自分をととのえよ 「知る」権利、「知る」責任 。 法旬経」 ( 初期経典 「 380 ) 響流十方 。 最近、よく報道で取り上げられている「新 || 」 過日、財団法人全日本仏教会が東京・秋葉原で開いた講演会「新出生前診断 を考える」を聴講してきた 。 について、仏教界として生命倫理の観点から考えてみようという趣旨だ 胎児の状態を調べるエコ l(超音波検査)などの「出生前診断」が行われる 。 ようになって久しいが、「新||」は胎児に重篤な病があるか否かの可能性が、 。 採血という、母体にも胎児にもダメージを与えない方法で、高精 母体から採取した血液の遺伝子を調べることにより、かなり高い精度でわかる というもの u 以降、受診者は増加の 一途だという 度な診断が可能という点で優れた検査法と評価されており、約二十五万円とい ρ う費用にもかかわらず今年四月の 解禁 講演では、この診断でわかるのはあくまでも「可能性」であり、陽性と出て lll 」 で可能性が疑われた場合、 も百パーセント直ちにそれが重篤な病を抱えていることを意味するものではな い、という点であることが強調された 。「新 ・三 から 0 ・ 受診者が「確定」を希望すれば、羊水検査や繊毛検査といった従来行われてき た検査を受けることになる 。羊 水検査の場合、流産のリスクが0 五パーセントの確率で伴うともされる。 登壇された三名の講師のうち、明治学院大学教授柘植あづみ氏の講演がとく 2 3 に聴衆を惹き付けた 。 。 そこには、 氏は羊水検査を「受けた」、あるいは「受けようと考え 。 た」人たちに対しアンケートに協力してもらい、その結果を発表 実になまなましい心境が吐露されていた 。 夫と相談し、悩んだ末に中絶した」 。 「大丈夫(陰性)だとは思うが、安心して産むために受けた結果的に異常が 見つかりものすごいショックを受けた 。 それが怖くて受けなかった」 「もし障害の可能性がわかったら、妊娠の中絶を判断するような状況に立ちた くなかった ここで、出生前のさまざまな診断の是非を論ずることや、検査を希望する人、 。 。 柘植氏の発表から、さまざまな「情報」というものとかかわ しない人の考え方に何か判断を下そうというのが、本稿の意図ではないことを お断りしておく ることが、いかに難しいかということに思いをめぐらしただけである 。 古来情報とは、何につけ勝敗を決する重要なファクターであったし、 。 「情報は少ないよりは多いほ、つがいい」この考え方は少なくとも間違っては いない 。 。 いや、 「情報イコール生活」である 。 日常でも、たとえば情報がたくさんあれば、より「おトク」な買い物もできる 。 情報の噌加は選択肢の増加につながり、決して悪いこととは思えない すでに「情報」がなければ生活は成り立たない 2 4 響流卜方 。 時には残酷な現実を突きつける しかし私たちは、そうした必需で便利な、しかしながらあまりに大量にある 。 般的 今や、「知りたい」と思ったら、さまざまな手段により社一 会 がゆえに翻弄され、悩み、苦しむこともある こともある 。 願うと願わないとにかかわらず、向こうから飛び込んでくることも なことから特定の人のプラバシlに関することまで、ありとあらゆる情報が入 。 。 真実でない情報を もちろん膨大な情報の中には「間違い」(中には故意に曲げられたものも) 手可能だ ある も多分に含まれており、正誤を判断することも要求される 。 。 「知る」ことが容易になった分、 知らなければ知らないで、誰も困ることはなかった、 信じ込み、妄想が肥大して不適切な行動を起こし、自己をも他者をも不幸にし てしまうことすらある そんな経験を持つ人も少なくはないだろう 。 。 「知った」以上はそこに大きな責任が付随することも増えている、ということだ いくら考えても、こうすればいいといった結論など見えてこない とはいえ 。 (小村正孝) 段終的に判ずるのは、 少なくとも、「情報」は、こちらが「使う」 。 私たちは、「情報」というものが持つ 二面性を十分に再認識しておくことだけ は迫られていると言えるだろう 。 ものであって、「使われる」ものではないはずだから 自分自身、ということにならざるを得ないようだ 25 ⑮快僧渡辺海旭 に を 求めて 前田和男 金中 連載 l ナティロカのぼっちゃりと 思い出の 「しっ ペ事件」 碧眼比丘、ニャ した白い手の甲へ目がいった渡辺海旭は、浄土 。 って、教師と教師補という つまり、少なくとも宗学支校に入学して 三 そのために、第 。 一 。 。 宗学東京支校時代の「しっペ事件」を思いだし た 東京支校に入学して半年ほどたったころだろ 。 持ち込んだのは、有 うか、同級生の問で勉強の息抜きにと、舶来の トランプ遊びがはやった よ 力な寺の子弟で、海旭よりも 三歳年上だった 宗門制度の改革に 「資格」が正式に定められ、教師は宗学本校高 。 等科、教師補は宗学尋常科を卒業した者とされ た 年の尋常科を卒業して、伝宗・伝戒を受けなけ れば、浄土宗の僧侶にはなれないことになった 有力な寺を継がせたい、あるいは海旭のような 。 才能を宗門に生かすためには、まずは宗学支校 に入学させる必要があった 期生には、年長者が多数いたのである 必 rt' に灯を求めて らい、その遊び方も教わったのだという 参加 教師補取得狙いで、裕福な檀家から贈り物にも トランプ遊びを持ち込んだ同級生もそうした うな気がしてきたが、そのころには、就寝の時 なんとなく分かるようになってそろそろ勝てそ 気がむらむらと・湧いてきた 。駆け引きのっぽも しかし、回を重ねるうちに、いつもの負けん 。 者に五枚ずつ札を配り、残りの札の山を順繰り 間がちかづいてきた 。 に数回引いていき、数字の合計の多寡で勝負が 「そろそろ、終わりにしよう」と年長が言 うの が腫れているだろうと思って、同級生が心配し これまでほとんど負け続けて、さぞや手の甲 。 に、海旭が「もう 一回」と食い下がった 。 きまるという、いたって単純なものだったが、 はわれもわれもと大いに興じた ろくに遊びもない時代だったので、同級生たち 檀家たちはお金をかけていたらしいが、さす 一回・:」 。 「おいおい、渡辺、いい加減にして て 言 った 。 さあ、もう 同級生たちは畔易とし、最年長生が言 った はない に、ほれ、こ、このとおり、た、たいしたこと 海旭は平然として手を差し出すと、「な、な 。 がに宗門の学校ではそれははばかられるという おけよ、でないと、手が痛くて眠れなくなるぞ」 。 年長者の提案で、負けたら残りの全員からしっ ペを受けるということになった 誘われるままに海旭も参加したが、最初はト ドの裏と表 ランプ遊びそれ自体よりも、札の華美な絵柄に l 「渡辺、お前の手の甲は厚くって、さっぱりし 興味を覚えて、配られるたびにカ いったい、お前は坊 をひつくりかえしてはためっすがめつしている 。 気まずい空気になりかける前に、海旭は答え 主になる前に何をしていたんだ」 くなるから割に合わない っペがきかない、きかないどころかこっちが痛 。 「おい、渡辺、 ので、ゲームについていけず、 。 お前の番だ はやく札をひけ」とせっつかれる 。 だから、たいがい海旭が負けて、しっペを受け ることになった 27 た 。 「は、博文館で小僧をやっていてね 。 よく にふっくらとしていた 。 それに気づいた碧眼比丘は、ふたたび「なに 。 それは幼い時分に:・」と返 自分の手をさし示すと「ほれ、このとおり、私 。 大八車を引いてお日様の下で物を運んでいたの 海旭は か私の手が:・」と怪請な声をもらした 。 諸君は、せっかく勝ったの で、っ、面の皮と 一緒に、て、手の皮も厚くな ったのかもしれん の手は無骨でして これぞ仏縁だ 「なにからなにまでこうも違う人 し、仏門に入るまでの生い立ちを簡単に説明す 。 に、かえって痛い思いをするとは、こ、これが 言 った ほんとのしっぺ返しだ」 ると 聞がこうしてあい結ぼれるとは この落ちの 一言で、 一同大笑いとなり、その 場はなごんで終わったが、部屋に帰ってから、 と実に感慨深いものがあります」 。 海旭は、自分は彼らとは違うのだということを 。 。 「私も同感です 貴僧は十五の向から仏門に入 。 つくづくと噛みしめた 同級生のほとんどは冷 られたのですか 。 。 それで 「そうそう、 「さて、どこまでお 一息ついた 。 陀の因果律(ダルマ)と出会うまでに、ずいぶ いっぽうの私はというと、仏 土宗の大きなお寺さんの子弟で、海旭とは氏も り重いものを持ったこ よ ヴィン・ベ l 。 メを知り、その講演を聞いて、仏 菜食料理店に入り浸るうちに、神智学のエト にとつおいつ語りだした :・」と、再び比丘になるまでの経緯を次のよう フランクフルトの菜食料理店でしたか 話をしましたかな」と の僧侶は中空をみつめた んと時間もかかり、曲折もありました」と碧眼 。 箸 。 l ナテ あれではしっ 育ちも違っていた 。 とがないようなお坊ちゃんばかりで、たしかに 手のひらもふっくらとしていた ペするほうが痛くなるはずだった 反ユダヤ主義と仏教の相関 回想からさめた海旭は、いま 一度ニャ イロカの手のひらをさりげなく見ると、それは 往時の同級生たちと同じように、いやそれ以上 28 玉置小に月を求めて 教に強い関心をもつようになるが、それに惹か 。 れたのは理性的というよりも、情緒的な関心か 。 ながら海地は引き続き聞き役に徹した つづけ 碧眼比丘は茶をゆっくりとすすると、 マ マン教授から勧め (コンセルヴァトワ l ル)に留学が決まって、 向かわせてくれたのは、そう、パリ高等音楽院 。 「悟性と感性の両而から、私を最終的に仏門へ た 理性をもって確信する契機となった のは、フランクフルト高等背楽院でバイオリン らだった l そこで出会った勉強仲間のルーマニア人でし l られた 二冊の若作であった 。一 冊はツィマ 「 仏 の指導を受けていたパッサ ンがスブハドラ・ピクシユの筆名で著した 国は同じでも 一方はユダヤ人の 二人組、片 た 。 反ユダヤ E l マであり、 義はかねてからヨーロッ パでは社会の根底をゆるがす大テ り出した 海旭は思わず「ほう」とつぶやいて、身を乗 。 教の教義 」、もう 一冊はプフングストの 方は反ユダヤ主義者の貴族と立場は真逆でした 仏陀の 「 生涯と業績 』 であり、この 二 冊によって、いつ 。 ナティロカの胸中に萌したのだが、決 昌吉 が」 1 断はまだできなかったという がニャ かは仏教の聖地に行って僧侶になろうとの怨い 。 海胞も留学中に見聞したが、最近、阿欧では台 「書斎派」という言葉が海旭の胸裏をよぎった 円分はドイツから帰国後、「ゆ上宗労働共済会」 頭著しいと聞いて懸念をしていた 「ユダヤ系ルーマニア人の二人組とは、すぐに 。 なる細民救済活動を即座に始めてしまったが、 診える前に身体が動いてしまうそんな「現場派」 l ベンの 「 魂の療法 」でした 。 気があって、音楽の勉強そっちのけで、トルス 。 じっくりと考えて、 スレ の内分とはずいぶんと違う l っとも影響を、つけたのは、彼らが勧めてくれた フォイヒタ トイやプラトンなどを読みふけりましたが、も そんな感想を覚え いや何度も行きつ戻りつしながらやっと意思決 。 定をする、留学中に彼の地でしばしば出会った ドイツ知識人の典型だった 2 9 とくに れる 。 「 精神的な病いは誤った思考法から生ま 最大の愚行は苛立ちと怒りである 」 の飯 どめは、あれはコンセルヴアトワlルで知り合 。 って半年ほどたったときのことでした 彼にこ う訊ねたのです 私もあなたのように作曲の技 言は、まさにあらゆる欲望を絶つことこそがあ 芸をみがきたい 。 らゆる煩悩から自由になれるという仏陀の解脱 あなたのように幅広い教護が必要なのですね 一呼吸置いた はとるにたりない、といったのです」 軒眼比 E はまたまた 。 海旭は持 首をふって、いや、そんなものは作曲の発想に 。 の教えに通じるもので、いっそう仏教への確信 すると、ルーマニア貴族の反ユダヤ主義者は、 やはり音楽だけではだめで、 を深めました」 。 碧眼比丘は窓外に目をやると雲に懸かりそう な月をしばし見つめた 。 「もう 一人のルーマニア人の反ユダヤ主義者だ 「と 。 「ルーマニア 王家の落胤いわく 。 仏陀 実は、私はク 。 。 これで、私も仏教徒に 。 反ユダヤ主義と仏教、そして音楽 ・芸術 こ の相関こそ、いかにもドイツ的だと海旭は思つ 演奏旅行で稼ぎながら仏教の聖地へ 改宗しようと心に決めたのです」 泉だと知ったからだと の教えこそが私に曲を生みだしてくれる聖なる リスチャンから仏教徒に改宗、帰依した 。 ちきれずに、「では、何が決め手なのだと」と ルーマニア王 彼の庇護 が、これが大変な大人物でした 。 答えを促した 。 その彼女のために彼は歌を何曲か提供 。 家の落胤で、作曲をさせたら、もはやパリ音楽 。 ル 一世の王妃、エリザベス妃の芸名です そ、っ、ルーマニアの 院で学ぶ必要などないほどの異能で l 者はカルメン・シルヴァ カ 。 王妃は音楽と文学に造詣が深く、まさにプロは だし 作曲家志願の私は大いに憧れましたが、それよ りも圧倒されたのは、音楽以外の教義、詩や哲 。 学などこの上なく豊かな学殖です」そこで碧眼 比丘は窓外の月に日をやって 一息ついた 3 0 2位t.t'に月を求めて いっぽうでわが同でもいずれ反ユダヤ主義 ルを 二年で修了すると、 。 を最優先するという作戦をたてた そして、パ 。 た l リのコンセルヴァトワ あい と仏教の関係が課題になるという予感があっ 。 ベルギーでの魅力的な仕事をあえて断って当時 。 しかし、この問題をここで論じていると隆 そこに九ヶ月間滞在、バイオリンの巨匠 はトルコ領(現在はギリシャ領)のテッサロニ ろ 。 ふかめると、少しでも最終目的地であるインド で仏教への関心が高いドラッカー教授と親交を キへ た 論を現実に戻すべく、海旭は訊ねた 。 路、迷路へ分け入ってしまうおそれがある 議 「それで、仏教に帰依するために、どんな算段 を」 。 ル、イズミル、キ そこからカイロに向か 由して、卜 二 月 三 十 一日にエジプトの港町、ア l に近づこうと、イスタンプ 。 「とにかく得度の儀式を受けねばならないそ プロス、トリポリ、ベイルート、ハイファを経 。 でも、手元不如意でインドまでの旅費の工 のためにはインド南端の島、セイロンへ行こう と レクサンドリアに到着 。 うと、高級ホテルでベルギーのオーケストラの が、やがてそのチャンスが ルで師事した、有 ルから、彼のオーケス もめげずにポ l トサイ l 。 それで ドでバイオリン奏者と 博主宰の廉で警察の捜索を受けて失職 ビオラ奏者に 版 一 われたのも束の問、ホテルが附 めぐってきたのです」 。 面がたたなかった l といって、碧眼比 E はこんな経緯を諾った パリのコンセルヴァトワ l 名なオルガン奏者でオペラ作曲家でもあるシヤ ・ヴ ィ ド l ナ して 二週間ほど仕事をして小銭を稼ぐと、トリ l 当地のカフェでデユオを組み、ニャ ルル・マリ 。 ティロカ自身が作曲したミュージカルをアレン イへ エステからやってきたイタリア系オーストリア そこで、彼は出演料よりも、 トラでビオラの正楽団貝に起用され、それが機 。 人のバイオリニストと、ついにインドはボンベ になったのである 縁で各地から演奏旅行の仕事の口がかかるよう また演奏の内容よりも、仏教の聖地へ近い土地 3 1 。 ジして演奏、その稼ぎで、ようやく 一九 O 三 年、 セイロンへと辿りついたというのである フランクフルトで音楽の修行中にたまたま入 った菜食料理店で仏教に目覚めてから足掛け六 いやはや、自らの魂の在り処とその安息の 。 コロンボの港か はコロンボに停泊したおりに、訪ねたときの情 だろうか、ドイツに海路留学の途次、 セイロン 景がまざまざと脳裏に匙った ら七十マイル、険しい山道をこえてゆく道中は 箱棋八里越えに似ていたが、榔子が欝北川と茂る 。 年 。 キャンディ湖畔に ことだろうが、そこにはわが浄土宗だけでなく、 ある当地最大の寺院とは、おそらく仏牙精舎の 光景はまさに熱帯の別乾坤 食み、スコールという雲雨が脚下に濁き起こる なかに田んぼと茶畑が散在、水牛と山羊が草を 。 地を求めてのかくも長き遍歴の旅であることよ と海旭は感じ入った 。 「しかし、残念ながら、ここでは所期の目的は 果たされなかったのです」碧眼比丘は往時を思 い出したのか、いささか悔しげな口調で言った 真 言 、天台の円本人柑抑制が寄宿して修行に励ん の消息を 。 。 いるニャ l ナンダ・メッテイヤーというスコ 彼の蛸は、今日の前に 。 。 海旭は ナティロカと共に海旭の耳にも届い 地味だがなかなかの器らしい l ットランド僧であった 口にしたア さらに海旭の関心を引いたのは、碧眼比丘が 。 「セイロンでは、キャンディ湖畔にある当地最 でいた l 彼からいろいろと教えを ナンダ・メッテイヤ 。 彼らはいまどうしているだろうか 大の寺院を訪ねました 。一 年か 二年前にヨーロ l ッパ人としてはじめて得度したというスコット ランド人、ア 知りたかったのです 。 ていた 乞いたかったのですが : ・ 」 ひそかに「歓喜慈」と漢語の法名をあてていた 。 海旭は思わず身を乗り出した いったいどのような人物なのか聞いてみたいと 。 キャンディとは懐かしい セイロンの占都で、 さしずめ日本なら奈良か京都か、いや高地にあ 思ったが、すでに月は中空から束に傾いて、か 。 あれは 二十年前になる るので高野山か叡山か 32 '!lÎ1 1 1 1 に日を求めて l ナティロカの仏教に対 大きく息を吐き、つられて海旭も深く息を吸い 。 ニャ 込み吐き出した 。 れこれ 二時間は経過しているようだ セイロン の古都も英国高地出身の僧侶の話も後回しにす する渇望にも近い憧憶に、海地は感動を覚えた 。 ることにし、ここは碧眼比丘の語るにまかせる 。 どこか、なにかが白分とは違 しかし、感動しながらも、いっぽうで違和感を 。 。 それに対して、自分の場合はどうだつた 。 。 ナティロカは往時を思い出したのか深 。 仏門に入ろうと思ったのはいつ、なにがき l 。 海胞もまた眠日し、十五で得度し (この項つづく) たときの回想に引き込まれていった く眠日した ニャ っかけだったか か れた ストイックなまでの自己実現への希求が感じら 目の前の碧眼比丘には、南伝仏教に特徴的な、 。 ことにした の仲介で「見習僧」とな そこの草庵では、メッテイヤ!と室を同じ ラ・マハ 、っ 禁じえなかった 。 「すると、スコットランド僧はここセイロンで はなくピルマの寺にいるといわれ、またまたい ずれも 三等車の船と鉄道を乗り継いで現地人の l 汗いきれとともに、ピルマへ辿りつきました そして、メッテイヤ 。 り、いよいよ僧としての修業がはじまったので す 1 「しかし、そ ルでしたが、私 。 テラ師のもとで、ヨーロッパ人初の比丘とな くし、問、五ヶ月修行をして、クマ 1 l りました」といって 一拍おいた れは修行僧としては 一つのゴ にとっては学僧としてのスタートにすぎません でした」 。 これは明け方になるな、 どうやらこれまでの訴は交響曲でいえば序山 にすぎなかったようだ 。 碧眼比丘はふうーっと と海旭は覚悟をきめた 3 3 を ~ 千往へ 森清鑑 江 戸を歩く 日光街道 。 山下から 右側は仏具店が並 寛永寺黒門前の上野広小路から、突き出た 土手に沿って右に曲がる 。 左手は寛永寺の子 。 び、左は寛永寺子院普門院の土手 緩やかな坂道を北に上る 院がずらりと並んでいる(上野駅と線路) 。 町は山下から下谷車坂町 。 来る円本堤と交差する 動 。 。 この 三角点の南にあ 北側にあるのが浄閑寺 通称、投げ込み 。 。 るのが、江戸五色不動の 一つ、永久寺目賞不 。 寺 吉原の遊女が亡くなるとここに葬られた 日本堤は吉原への専用道路として造られ、盛 。 堤に沿って音無川が流れ、その独特 。 。 。 り上がった土手道(提)が畑の中を突っ切っ ている の田園美は広重の浮世絵に拙かれている通り 。 子院に沿って北へ 飛鳥明神社 平尾 一里塚の左を見てみよう 滝野川の畑 ちょうど折形の背原遊郭の西裏に当たる 今円も問の市で賑わう である 。三 角点近くから南にまっすぐ延びた やがて 。 道沿いに社がある 。 家並みの外側には、 。 街道の左右には、家々がび 。 へと変わる 東叡山寛永寺領の北端まで来る 。 と、下谷岐本町になる この円光道中(街道) を千住まで歩く っしりと並び、賑やか 金杉村と坂本村の畑が拡がっている 。 下谷金杉町 家並みを割って右にちょっと入 辺り 一帯は竜泉寺村と呼 日光道中をさらに北上すると、前方に飛鳥明 。 その前、右手には点養寺 ると真 言宗竜泉寺 。 神社(天王、小塚原天王宮とも呼ばれた)の 。 一葉がごく 一時期、竜泉寺村に 石垣が見えてくる ばれ、この村の東に吉原遊郭があった 明治 になると樋口 日光道中は飛鳥明神の石垣に沿っ 。 境内と池 。 住み「たけくらべ」の着想を得る( て右に折れる 左手には、飛鳥明神の門と鳥 一葉記念 館と住居跡) 日光街道沿いの町が下谷金杉 居が見え、右手には門前町の茶屋が並んでい 。 町から 三 之輪町に変わったところで吉原から 3 5 4ヤ4主痛棋:~ i tl苧益 4 .旦検骨 、J 、J 、4 、占、占 、t 、4 九4 ' 1 1 ' { ( 、4 、d 、4 ' { ( 、t 、4 、J .曹E歩図 6 3 江〆を歩 く 。 明M 神を参詣するとしよう 飛 'H 。 。 塚の中腹にはな 鳥居を潜って直進すると正面に本社の棟 る その右手に小高い塚がある る石が突出して立っており、その上には注述 。 純が張つである この塚が重要な意味を持つ いにしえのある夜のこと、この瑞光石が光を 発したかと思うと、白衣を着た 二人の翁が安 た 。 。 魂の降臨 。 。 神社の名は、江戸時代に 人々は驚惇し、この神事を奉 。 。 を現す 翁は(天王)と(飛鳥明神)であっ り神社を建立した は牛頭天王、飛鳥権現社(飛鳥明神社)、小 。 そしてこの小塚こそが、 塚原天王宮などと呼ばれ、明治以降は素蓋雄 神社となっている 辺りの地名、小塚原の起源となった 。三 年に 一度の本祭は天王祭と呼ばれ、多くの制興が の大祭になった 。 神社の千民御輿は幅広く町 繰り出され、京都の祇園祭のような疫病払い 。 この天王祭は現在もますます盛んで 内を御渡りし、疫病を払う御輿振りは圧巻で 。 37 あった ある I~~τt 1 ・C. .11..4、 lii1 喝. 2 私1 7 t .江戸名所図会 右下日光週中 、 飛鳥明神の石短に沿って右に幽がる.をに鳥居、右は茶屋が並 ぶ.鳥居のちょに小縁と瑞光石.図右中央が奥州街道(南北). ど安政の大獄で心ならずも処罰された政治犯 は小伝馬町の牢獄で斬首され、遺骸はここに 。 これが奥州道中(街道)で、左に曲がり北に 葬られたのである 。吉 田松陰の場合、高杉背 飛鳥明神前を通り過ぎると広い道に出る 行けば、すぐ千住宿、右へ歩けば浅草、隅田 。 人物を聞に葬ったものである 松陰辞世の勾 「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるともとどめ 。 松陰神社を建立した 安政の大獄は、偉大な し、世田谷村の毛利藩下屋敷に会葬し直し、 作を初めとする弟子達が彼の遺骸を掘り起こ 。 。 この辺りの情景は雪日一 の烏雌 川沿いに出る 図が 一目瞭然である 小壕原刑場 千住宿に行く前に右に曲がって奥州道中を 。 おかまし大和魂」 今日、刑場を 二 つに割っ しばらく歩くと奥州街道 。 南に下ってみよう た中央を常磐線が走り、北に回向院、南に浄 。 沿いの 右 手 に 小 塚 原 の 刑 場 が あ る 。 周 囲 は 全 土宗 延命 寺があり 、延命地蔵が鎮座している ート ル)、 ここで多 かる 。 。 刑場を通り越してさらに ここに架けられている橋を泊橋という 南に少し歩くと、日本堤音無川の分流とぶつ たところでもある めるため、初めて罪人の帥聞分け(解剖)をし オランダから入手した解剖図の正確さを確か 。 て小塚原の田岡である (南千住駅近く)ここはまた 一七七 一年、杉 小塚原刑場は、鈴ケ 森刑場と並ぶ江戸を代表する刑場で、ともに 。 その規模は、 田玄白、中川淳庵、前野良沢、桂川甫周が、 。 見せしめの意味もあってか、通行人の多い奥 州街道、東海道に接して在る 街道に面して間口六十間(百八メ 。 その数およそ 二十万 奥行き 三十問(五十四メートル) 。 刑場は墓場を兼ねており、斬首された罪 くの罪人が処刑された 人 。 (現、明治通りと吉野通りの交差点) これは 。 東海道品川に面した、鈴ヶ森刑場の立会川に 罪人の霊を弔う のが回向院であり延命寺である 。吉 田松陰な 人の遺骸はここに葬られた 3 8 江戸 を砂 〈 。 しかし、千住 特に江戸中期以降はこのの岡場所で遊ぶ 一泊という人も多かったことだろ は、ここで ていくが、日本橋から歩いてきた旅人の中に 。 。 。 。 大橋の麓で降りて六百里 芭焦は元禄 二年( 一六八九)深川から船に 千住大橋 上布(北千住)にある 宿の中心は、荒川を渡ってから北に長く続く 江戸っ子が増えたようである う 架かる泊橋と同じで、ここで親類縁者は、最 千住とは、 。 小塚原刑場は、浅草寺、上野寛永寺、 。 後の別れに涙し、罪人は刑場へと向かったの である 。 あるいは吉原からもそう遠くないところに位 慣している 千住下宿(南千住) 。 再び奥州道中を北に、飛鳥明神まで戻る もうそこから北は千住宿である 乗り、千住に若く 行く春や烏魚の目は泊 橋の前には、火除け地(広場)があり、そ 。 荒川から拾い上げた千手観音を崇め奉ったと 。 の旅に出る 。 町名は小 ころからついた地名という 街道の左右には、 旅館が 二層、 三層と連なっている 橋となった 。 。 したがって千住大橋 時は 一五九四年 。 施工責任者は は、家康が命じた、隅田川に架かる最初の大 橋を架けさせなかった 家康は江戸入府後、初めは江戸防御のため 。 間(約七メートル)であったという 六問(約百 二十メートル)に対して、幅は四 江戸時代、千住大橋は橋長六卜 。 の左手に熊野権現社 それから細長い千住大 。 塚原町 左手、宿場町を割って入ると浄土宗 。 。 橋が始まる 。 。 そこに辺り 一帯の鎮守、山王社があ 右手に入ると、道はくねって荒川沿い 芝増上寺末、拝願寺、家康が立ち寄った寺で ある に出る る(日枝神社) 征洋として流れる附田川の 。 帆立船や杭比例 。 宿場はここから北に展開し 。 河岸には材木が林立 上流をこの辺では荒川という 。 船が頻繁に走っている 材木問屋である 39 。 関東代官顕の伊奈忠次 彼は土木工事の大家 当時の江戸っ子は単に大 。 。 。 大変な難工事であったが、熊野権現に祈願し、 。 しかし、その後、明暦の大火な 見事に完成させる 橋と呼んだ どもあり、避難に備えるため両国橋が完成 。 。 この問、流 。 橋上には、 。 この橋は、最初の架橋後、江戸時代を通 区別をつけるために千住大橋と呼ぶようにな る じて六凶の改架が行われている 出が 一度もなく名橋といわれる由縁である この橋ができてから、日光、奥州、水戸の各 一層発展することになる 街道が 一挙に集まり、千住は物資流通の拠点 として 。 駕龍、ぽてふり、旅人の姿が見える 橋上か 。 これはスケー ら泊々と下を流れる荒川の上流を見ると、遁 。 か速くに日光の連山が見える ルの大きな絶践である 中 宿、 上宿(北千住) 。 広場に材木が積んである 橋 。 長い橋を渡ると、再び広い火除け地があり、 橋戸町に入る j 且 亨ゐeA. ヰ伎山 il 佐川 凶予処 S11t う〈内附叩 52 内 よ 吊省守川 AH } 書室のを下、下宿.書室の右、構を渡ると中宿 、 上宿。中宿、上宿(北 .江戸名所図会千住大縄 千住) 40 江戸 を )J主 く 。 。 。 こ 材木問屋の多さを 小さな掘を渡ると河原町である の周囲方々に材木が林立 物語る があった 。 。 一面豊穣の畑 。 特に 戦災で焼失するまで 。 遠くからも運ばれた野菜がわん なにしろ周囲 こに江戸有数の「ゃっちゃば」(青物市場) 特産はネギ さとここでさばかれる 。 まもなく、が東西を横断する 青物問屋が街道筋に軒並み速なり、まさに壮 観であった 。 。 千住 一 「JHが始まり五丁日まで北に長く延び る千住上布が展開 。 当初は千住 一丁目か 千住宿はいうまでもなく品川、板橋、内藤 新宿と並ぶ江戸の四宿 ら五丁目であったが、万治(一六五八年から) 南の小蝶原町まで嵐模が拡がっていった 。 。 幕 千 以降、掃部柄、橋戸町、そして千住大橋から 住大橋の北を上稿、南を下宿とも称した J 。 大胤棋な 末時、総合で人口約 一万人、家数 二千問百軒、 一、脇本陣 畑の小を様り上がった堤が走る(荒川の水除 。 。 旅館五十五軒、本陣 。 宛として 一六 一七年完成) その名は周囲の 。 削妓 江戸四宿全てがそうであるよう に、岡場所(私姐歓来街)も賑わった 宿場である 掃部堤か 農地開発に尽くした石出にちなむ 。 ら先の宿場を千住財部宿という 橋 一 戸、河原、 ここか 日 。 。 か綱か上り下りの船止める」とある 。 いる 。一 丁目の北品川を布に折れ、ちょっと歩 上宿は丁目ごとに升目のように仕切られて 。 船頭の歌に「千住火郎衆はいかり は問百人前後で嵐棋は内必新病や板橋宿より 。 。 やがて、掘り割 。 この堀を 左に高札、布に 一旦壕 。 そしてこの掃部宿を巾宿とも呼んだ 。 周囲の地名も掃部宿 も大きい 。 ら宿場町の幅は街道を挟んで左布にぐんと拡 がる りにぶつかる 光・奥州街道最初の 一里塚である 一時期、森鴎外が住 二丁目の細い路地を左に行くと浄土宗勝専 。 んだ 父親が経営する医院があったのである くと右側に明治になって そこから 渡 ってすぐ左に問屋場(貫目改所)があり、こ 。 渡るといよいよ本絡的な千住宿が始まる こで運送の 一切の管理が行われる 4 1 。 。 。 右に 境内にはえ 後醍醐天皇時代この開基の父が荒川から 古き伝統位 三代にかたる信頼 寺 千住観音をすくいあげたという 。 。 っ 遊女の亡骸を供養した新義真 んま 堂と千住宿の「時の鐘」があった 入ると金蔵寺 言宗の寺である 。 浄土宗法衣専門 古島法ゑ洛 。 門前の広場には、遠来より治療に 。 。 住宿は終わる 五丁目の西 側にある安 養院は、 将軍鷹狩りの際の安息所として使われ、その 手前、東に入る道が水戸街道の出発点である 。 また、そのす ぐ北に骨接ぎで有名な名倉医院 があった 。 訪れた患者の駕能や大八車がひしめき、門前 周辺の五軒の旅鑑とも提 列をなしたという 。 たところに本陣があった 。 。 。 今日でも長屋門等は江戸時代の名残 を留めている あった 時に将軍鷹狩りの休息所に利用されることも 携し、収容しきれない入院患者を治療した そして 二丁目の北側仕切り道を左に 曲が 会社 役人の宿泊施設 敷地 三百六十坪、建坪百 二 。 参勤交代でこの宿場を利用した大名は さらに 三丁目、四丁目、五丁目と続き、千 六十四家に及ぶ 十坪 本陣は大名や幕府 有限 42 FORυM 広場 通過する駅に盛りの藤の棚 。 駅前に藤棚があって、見事な房を無 各駅停車でないと停まらないような無人駅 なのだ 。 数に垂らしている ただ見つけたと思ったら 。 通り過ぎてしまった 下車して棚の下を歩い 山崎遣迎子 。 てみたいような、そんな藤だろう 格子二三湖畔に通う風薫る 鈴木真理子 〈 佳作〉参道を通リし葬列寺薄暑 紫陽花に隠されている通用門 雅 子 〈特選〉 旬一 上一 佐 藤 農村の過疎化、農業の後継者不足はどんど ん進んでいて、何かというと、助け合わなく 。 増田 田 信子 4 4 通 伝 村中が手伝い村の田植え終う 〈 霊〉 浄一 てはいけなくなって来ている 田植えも他と 斉 • • 業よ 罵い のつ っ て じ号 号Z 早乙女喜栄子 つ。 石原 の如来像 梅雨夕焼けくせ字の目立つ伝言板 梅雨入りや廃釈にある伝言板 ずい 。 感じさせる 手を合わせると青葉風がやさし 。 までもなく持める 何となく親しみゃすさを で枯子の前に賓銭箱があって、格子はのぞく 。 山内のどこかにある脇寺だろう 小さい堂 青葉風格子囲 -自由題 〈 佳作〉雨ピいを伝いて落つる青い梅 のな 。 く身を包んでくれる 信子 4 5 がな 〈 佳作〉潮騒や一人に広き夏座敷 真 国ら 松手入れ妻の声 LT 正午 なリ 中 村 わ重 放牧の牛が鳴きいる海霧の中 善 也 、 児 問に 題計 は画 なを ど立 思て L 桃 佳 春 新 口 口 山 内 山 井 村 浜 ( 特選〉 選者=僧田河郎子 浄土誌上句会の お知らせ 白井染 蓄 由 題 。 ・伝 誌上句会〈編集部選〉 老鴬の鳴き止みし慾通り雨 万緑の昭和の歌や通りゃんせ 大夏野貨車通過する無人駅 纂鳴くや交通事故死 0 の刊の 飴色の南京通り李務つ 真昼間の密通グラジオラスの丈 石原新 浜け住春 小林苑を 工藤持 鳥羽梓 夏蝶の羽を休めている葉哀 棚雲に見え隠れして慈悲心鳥 竹かごに受けて汗侮香り立つ 九輪車雨に滴り空に立つ 工雌伸 山崎逃迎チ 佐藤雅子 「乙次喜栄子 U 世間あさ子 ・ 滴りを追えば無住の寺ひとつ 秋山陽太 木々緑漉すぎてしゃがむ墓の前 神野ゆかり 日傘して文士と志士の墓廻る 夏の木の木の札にある木の名前 側室の墓ひとひらの夏務柴 斉田仁 鳥羽梓 緑陰にたっぷり御坐す僧の墓 万緑や息詰めて見る大伽藍 新雌由紀 どくだみに額われてゆく地上かな 大商科仁 金井椋 笠井直子 万緑や木魚の背に近づきぬ 内藤隼人 伝統の子供神楽や半化粧 首間あさ子 佐藤雅子 伝え承く寺の歴史や夏の風 飯島英徳 御十念正しく伝え夏衣 セルを若て娼婦の伝を語り継ぐ 安藤幸正 - 自由題 世間あさ子 名 3 明照会館内 … 言は 一バナナのごとく曲がりけり 笠井亜子 伝一口 短夜に女あるじの武勇伝 金井様 小林苑を 伝説のように額紫陽花昏し 大袈裟に伝える身振り水母浮く 井村善也 金井町制 園通 夕凪や通はなんでも塩で食う 紫陽花に傘あそびくる通学路 佳作各 ・ 0 締切・ 二o = 二年九月二十日 発表 ・ 『 浄土 」 二o = 二年十一月号 「 選者 ・坦田河郎子 ( 南風 』主宰) 応募方法 名 1 ・ いずれの題とも数の制限はありません . 特選各 さい 41714 何句でも可)と、住所・氏名を必ずお書き下 葉書 に 俳 句 ( 一 Tmloo11 東京都港区芝公園 宛先 月刊 「 浄土 」 誌上句会係 4 6 かまちよしろう先生作新聞四コマ漫画 『ゴンち 』 ヰA'7 +hzdH 才、 ヶ,キ尾三 聞く --3 ゃ ん」が各地方新聞に掲載されています 針九円 ι品 m目 ヒ 恥ぽafhC 」 @θ 示いしド ケ 121 示償乙しZ 叶. ふ +6 民 tv i晶 h :ーいFい 静岡新聞・山梨日日新聞・北日本新聞・ 。( 福島民報・宮崎日日新聞・新日本海新聞・神戸新聞・岐阜新聞・中国新) 聞・四国新聞 電η実?保険 図寸い白 編集後記 査をかきわければ月の水面かな 今年七月の国述総 会 で 、 十 六 歳 の マ ラ 。 彼交は昨年 卜 刀 、 ス ク ー ル ラというパキスタンの少 女 が 歴 史 的 名 演 説を行った 。 たことで、パキスタン政府から 表 彰され、 。 ムで沸き立つ東京の新大 った 逆に氏名の公表された彼女は、タリパン 1 から命を狙われることとな 段近隣流プ 久保街頭を、在日韓国の人達に対し、 「 殺 『ヘイトス せ」「ゴキブリ 」 などと叫ぶ ( タリパン武 パスに乗っていて、 TPP 彼らは円本国旗を立て、筈察官に護られ ピーチ』と呼ばれるデモが行われている 高口費量行(大阪・ 一心王子) 。 田中光成 (町日 1. 後述寺) 中島真成 (l'i L l.梅~院) 中村康殺 (W 水・実杭l 寺) 中村瑞貨 ( 1111 台・ !a 鈍院) 野上智徳(静岡・宝台院) 藤田得三(鴻巣・!勝願寺) 細田卓文 (静岡 ・ J(f 防 院) 本多義敬 (両同・ Inl 向 院) 真野前海(大本山 w 浄 I事院) 脳憎之(網代・教 安寺) 水科善隆 (長野・従腹王子) 宮林昭彦 (大本山光 19] 寺) ( 敏称略・五十音順) 。 それが私 。: ・本を予 「 私の中で弱さ、恐怖、絶望が死に、強 に取り、ペンを録りましょう さ、力、勇気が生まれました 占木照窓 村山洋 一 斎牒晃迫 佐山哲郎 長谷川岱潤 長) ( たちにとって段も強力な武器なのです 」。 編集チ l フ ッ フ 組智衆スタ 七卜九 八 ・ 八・八 ・ 卜 u 4 内 七 二 八七 一三{ 二五七八}ヒ:六 一 a 岳九川号制 師 ・ハh 川 年九五 円 ・ハ 下川 n 川 純郵 便物同山 -- 九 川口 ・七・四 明照会館 シ l ティ l イ l 佐藤良純 大室了時 h q 制 →一 株 式会 丘町八 トけ 第 卜 二 ト Ae 平成 n 千成 || にuo 桜純 FAX 一 一二 沼町立川 ニヲ( 九七八)六九四 発行所法然上人鍛仰会 東京柿港区芝公 凶問 一 T 一 印刷所 a集人 il-- 発行人 1111 印刷 発行 昭 和ト 年丘 土 装勢力)から銃態を受け 、 重 傷 を 負 っ た 佐藤孝雄 (鎌 fr. 尚徳院) 佐藤成順 (I\"IIJII .願行寺) 健康良純(小石川・光岡寺) 東海株良雲(庖~.安上寺) 須藤隆仙(函館・体名寺) 浄 少女だ 。二 度の手術で奇 跡 的 に 回 復 し た 彼らに ののしりの 言葉を浴びせている ながら、お店の従業員など女性に対し、 るが難しいようだ 対し法腕制を点剣に与えるグループもあ 。 彼交は、卜六歳の誕生日 の そ の H、やは り武装勢力に暗殺された 同 国 の プ ッ ト 元 。 首相のショールを身にま と っ て 、 国 述 本 部に登崩した 自分の意に反する者は殺してしまいた 。 hnp刈 odo.ne .jp ホームページ 岱 潤 彼女はタリパンが、女子教育を柑制止し 粂原恒久 ( J1 I~ ・えß 磐寺) いという、タリパンやヘイトスピーチの 加藤亮哉 (五反凹・専修寺) 熊谷嫡彦(佐賀・本勝寺) たり、女子校を磁波する行為を批判し、 巌谷勝正(口県・祐天寺) 魚尾孝久 ( 三 島・願成寺) 大江田 1曾導 (イIlI fì ・西方寺) 彼らに、マララの 言 葉を附りたい 飯田実雄(駒ヶ線・安楽寺) 女性の教育の権利をプロ グ 等 で 訴 え て き 雑誌 『 浄土j 特別、維持、賛助会員の方々 48 ./、 IIIJ作の 8) J 1 5 11 は中秋の名 )J いわゆる卜 IL 伐 今年は 9 ) J 1 9 n にあたるそうです IJ) J に )J 比る ) J は多けれど ) J>.!. る ) J は この ) J の) J J (詠み人知l らずの手11 歌 ) n があれば )J を愛で、 1; に隠 れたら 1 M, ) J J 、雨降れば 「ドl'i)J J と jえんで裂しむ すべからく I' I ?:ぷ ) J に誘われての休で、どこか気ままの旅に nl, たい季節です 今 ) J の}ミ l味探訪は、 2000年 3 )J に廃止にな った J紅海道新幹線 「ひかり J の食.~~ 111 ・ 11 本食恨の M~・フライの jよl い / 1\ です *海道新幹線「ひかり J に来ると、いつも附にいるより食 .~t '11 にいる ことが多か った私 それも日本食堂の新幹線を選んで来 'Ii するのです (、引|与、 11手車IJ ぷに食 堂 'Ii の会社としてほかに点京ピュッフェ ・ 情 [Jil ホテ ル. r.!1 ホテルが IYl 記 されていました) 狙いは" -1~食堂の海~ フライにありました 網11 かなパン粉とタルタルソースの 11 本食.;:~.:の illi:~ フライは私 の好みで、メニューにはハンパーグセッ ト やタンシチューセッ トなどある小、いつも海をフライを 1 1:文 食 '~r~ 111 の ' 111勾アナウンスが入るやいなや、 f工 '1立 '11 に向かい門 ,(Ií のテープルクロス 4 人 uトけのテー ブ ルにドi~ り、人;きな l ド :守、に 流れる ) J の夜 jit を 眺 めながら食した海在フライは懐かしき良き 11年代の旅の思い / 1\ です ヨ Oコ己Jて @ 』0 0 0NO HU ・ 沼 発行人 / 佐藤良純編集人 / 大室了時編集チフ 単 。 群 城 大念寺 常福寺 ヲム経寺 ( 瓜i主 ) 玉 浄国寺 勝願寺 蓮馨寺 神奈川丸明寺 来漸寺 ヲム経寺 ( 綾城) 大最 寺 江戸時代に浄土宗僧侶の養 成を目的として選定、創建さ 。 巻末には江戸時代に十 大丸院 葉 十八檀林 》 《 東 一千一茨 幡随院 れた十八の古剃や名刺がつい に一冊の本になりました 立寺院となったこか寺を含む 関東各地の十八の寺院を取 材、その歴史から今に伝わる エピソード、さらにお寺巡り や団体参拝に役立つ周辺の見 クセスマップに各寺院の基本 所や食事処、加えて詳細なア 、 ておきたい待望の一冊です 情報も掲載された手元に置い また 。 『 檀林巡路記 』 の現代語 一八檀林参拝の様子を記した摂 一門の 訳抄も掲載されています 7一 / 長谷川岱潤 または各橿林寺院、浄土宗文化局でもお求めいただけま す 。 ( 税込 ) :8 0 0 円 Fax0335787036 法然上 人鎖仰会電話 03-3578 - 6947 A5 版 / カラー 96 頁 善導寺 侍通院 埼 ※本誌のお求めは、 発行・関東 十 八檀林霊場会 大善寺 増上寺 馬 霊山寺 霊長 寺 京
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