21世紀をどんな時代と考えるか

2
1世紀をどんな時代と考えるか
異言語教育の立場から
大 谷 泰 照
OTANI Yasuteru
!
日本人の言語文化意識
2
1世紀の異言語教育のありようは,いくら2
1世紀に顔を向け,目をこらして
みても,当然ながら,見えてくるはずもない.おそらく,2
1世紀はむしろ,2
0
世紀あるいは1
9世紀のわれわれ自身の歩んできた道をどのように見るかという
問題と,深く関わっていると考えるべきではないか.
われわれ日本人の異言語・異文化理解のありようは,一般には幕末以来1
3
0
数年間,直線的・上昇的に伸展を続けて今日に至ったと考えられがちである.
しかし,仔細に検討してみると,実体はけっしてそうではない.むしろ,それ
とは対照的に回帰的・反復的な,いわば一種の往復運動を繰り返しながら推移
してきたと言わなければならない.ほぼ4
0年の周期で英語一辺倒の「親英」段
階と,一転して英語に対する反発を強める「反英」段階,この2つの極の間の
往復運動を,少なくとも3回繰り返して今日に至ったとみることができる.
幕末は,外国人に対する刃傷沙汰が絶えなかった攘夷運動の時期であった.
日本人が過度に自信をもった時代であり,その結果,薩英戦争,馬関戦争を引
き起こした.しかし,その2つの戦争で欧米の力を見せつけられた途端に日本
人は自信を喪失して,一転,明治の英語一辺倒の時期に入ることになる.一辺
倒も一辺倒,日本語を捨てて英語を「国語化」し,日本人の「人種改造」の必
要を説く意見さえ政治的指導者たちの間から出てくる.欧米の文物を模倣する
風潮の高まった鹿鳴館の時期である.
しかし,明治も2
0年代に入り,帝国憲法が公布される頃から,外国語教育奨
励の方針は国語教育強化の方針に転じる.日清戦争,日露戦争の時代になり,
例えば,東大ではラフカディオ・ハーンを追い出して,日本人の夏目漱石をそ
のあとに据えるということになる.このように,明治の初めから4
0年頃までの
ほぼ4
0年間は,前半は欧化主義の「親英」の時期,後半は国家主義の「反英」
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の時期と考えることができる.第1回目のサイクルである.
大国相手の2つの戦いに勝利すると,日本人の姿勢はまた大きく変化する.
明治4
0年頃から大正デモクラシーの時代にかけては,ふたたび欧米に急接近す
ることになる.英語だけでなく,ドイツ語,フランス語,ロシア語,さらに当
時はシナ語といわれた中国語の学習熱が高まり,翻訳が街にあふれる.明治の
後半には外国人を追い出した日本が,ふたたび外国人を呼び戻すことになる.
例えばハロルド・E・パーマーをロンドンから招いて,文部省の英語教授研究
所所長の要職に据えるという時期である.
しかし,昭和に入ると,またまた英語教育排斥論など,英語に対する反発が
強まり,ついには英・米を敵として戦うことになる.幕末の「夷狄斬るべし」
の攘夷運動さながらに,
「見敵必殺」をスローガンとする時代である.明治の
4
0年頃から昭和2
0年までのほぼ4
0年間,その前半は「親英」の時代,後半は「反
英」の時代で,これを第2回目のサイクルとみることができる.
そして,太平洋戦争に敗れた途端に,日本人はまたもや大きく急転する.例
えば,戦時中は「敵性語」と呼んで蔑んでいた英語であるが,敗戦直後に出た
『日米會話手帳』は空前の大ベストセラーとなるほどの英語一辺倒の時期に入
る.またぞろ英語の「国語化」やフランス語の「国語化」を説く知的指導者た
ちが現れる.明治の初めとまったく変わらない状況がふたたび現出するのであ
る.
ところが,その戦後の日本も経済的発展を遂げるにつれて,次第に反英的な
空気が強まり,例えば中学校の英語の授業時間は,学習指導要領の改正の度ご
とに削減されることになる.昭和5
2年には,外国語教育を抑圧した戦時中をも
下回り,明治以来最低レベルともいえる「週3時間」にまで縮小されてしまっ
た.すべての中学生に英語を教えることなど「正気の沙汰と思えない」と言わ
れはじめる.
「わが国では外国語の能力のないことは事実としては全く不便を
来さない」と述べた外国語教育に関する自民党平泉案まで出た.そして『ジャ
パン・アズ・ナンバーワン』などが現れるに及んで,思い上がった日本人は,
「もはや欧米に学ぶものなし」「2
1世紀は日本の世紀」などと本気で考えるよう
になる.そして,自信過剰に陥った日本の政治家たちによる他民族蔑視発言が
次々と飛び出すのが平成3年までである.昭和2
0年から平成3年までの4
0数年,
その前半は英語に急接近した自信喪失の時期,後半は英語に反発を強めた自信
過剰の時期と考えることができる.第3回目の「親英・反英」のサイクルであ
る.
ところが平成3年,バブルが突如崩壊すると,一転して平成の大不況がこの
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2
1世紀をどんな時代と考えるか
国を覆うことになった.まさかの銀行や証券会社,大手デパートや生命保険会
社までが次々と倒産した.あわてた政府は,大手1
5銀行に対して7兆円を超え
る公的資金の注入にまで踏み切らざるを得なくなった.1
9
9
9年8月,アメリカ
の『ニューヨーク・タイムズ』紙は,
「いまや日本経済の回復は不能である」
とする特集を第1面に組んだ.2
0
0
1年3月,時の宮沢喜一財務大臣は,自ら国
会で「国の財政は破局に近い」と答弁するまでになった.2
0
0
2年2月,イギリ
スの『エコノミスト』誌は,これまた,
「日本経済の崩壊は時間の問題である」
と報じた.
2
0世紀末のこんな絶頂から奈落へのどんでん返しを体験して,今日では「2
1
世紀は日本の世紀」などと本気で考える日本人は,さすがに少なくなった.バ
ブルの崩壊とともに,日本の政治家たちの他民族侮蔑発言も,ぴたりと鳴りを
ひそめた.いささか自信過剰気味であったわれわれは,いまや自信を大きく喪
失してしまった.こんな日本で,この数年,ふたたび目立ちはじめたのが英語
に対する異常なまでの急接近ぶりである.たとえば英語の「第2公用語化」論
が出てくるだけではない.群馬県太田市などのように,小学校,中学校,高校
の教育は「国語」以外をすべて英語で教えようとする自治体まで出はじめた.
すでに日本語は使わず,英語だけで教える小学校が各地に現れはじめた.バブ
ル崩壊以前には考えられもしなかったことである.
このような平成の英語「第2公用語化」論や英語「教育言語化」論は,日本
人の国際的姿勢が自信過剰の「反英」から,自身喪失の「親英」に転じた途端
に浮上してくるという点で,明治以来,繰り返し現れた英語「国語化」論の場
合と軌を一にするものとみることができる.そして,自信過剰の時期の「反英」
と,自信喪失の時期の「親英」のいわばその転換点となるのは,つねに戦争で
あったという点を見落としてはならない.薩英戦争,馬関戦争であり,日清戦
争,日露戦争であり,第二次世界大戦であり,さらに平成3年の「日米経済戦
争」における日本の敗戦である.こうして,いまわれわれは,第4回目の「親
英・反英」のサイクルに足を踏み入れたと考えることができる.
「歴史は繰り返さない,もし人が歴史から学ぶならば」と古くから言われて
きた.しかし,われわれは3たび同じ歴史を繰り返して,その自覚さえもなく,
いままた4回目のサイクルに踏み込もうとしている.わが国の異言語教育の問
題を考えるにあたっては,以上のような歴史的な視点をひとつきちんと踏まえ
ておくことが必要であると思われる.
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!
異文化接触とカルチャー・ショック
人間は一般に,それを取り巻くさまざまな文化的制約から,完全に自由では
あり得ない.そのために,慣れ親しんだ環境から,一歩でも新しい環境に足を
踏み入れると,われわれは必ずといってよいほど,一種の心理的衝撃を経験す
る.これを文化人類学ではカルチャー・ショックと呼ぶ.このカルチャー・シ
ョックの考え方を最初に提唱したのは,アメリカの人類学者カルべロ・オーバ
ーグであった.1
9
5
4年のことである.
文化的環境の違いに由来するこのようなショックは,程度の差こそあれ,日
常的に個人相互の関係にも,地域間の移動の際にも,さらに国境を越えての相
互接触の場合などにも広く認められる現象である.
言うまでもなく,われわれが経験するこのショックの度合いは,個々人がお
かれた条件の違いによって,けっして一様ではない.それにもかかわらず,シ
ョックのプロセス自体には,明らかに一定の傾向が認められる.ハワード・リ
ー・ノストランドは,カルチャー・ショックをそのプロセスにしたがって3つ
の段階に分ける.
第1の段階は「蜜月」段階.この段階では,期待と好奇心に駆られて,新し
い環境のすべてが,実際以上にすばらしく見える.いわば過大評価に傾く段階
である.反面,それ以外の環境は実際よりも色あせて,かすんで見えるのが一
般である.男女間でいえば,これは甘く楽しい婚約から新婚の時代であり,地
域間を例にとれば,希望に胸をふくらませて地方から上京してきたばかりの大
学新入生や,あるいは憧れの外国へ到着したばかりの留学生や観光客がこれに
あたる.
とすると,例の ‘Seeing is believing.’ というよく知られたことわざもまた,
必ずしも一般に考えられているような「真理」とは言いにくいことがわかる.
所詮,われわれの「一見」など,往々にしてずいぶんとバイアスのかかった,
当てにならない「蜜月」段階の「一見」でしかないのである.
女性の美しさを言うことわざに,
「夜目
遠目
笠の内」がある.夜見る女
性,遠方から見る女性,笠をかぶった女性が実際よりも美しく見えるというの
も,相手のありのままの姿がまだはっきりとは見えない,いわばカルチャー・
ショックの第1段階,すなわち過大評価に傾く段階なればこそなのである.し
かし,この「蜜月」段階でのわれわれの反応は,多分に衝動的性格が強く,一
般にそれが長続きすることはまずない.
これに続く第2の段階が,もっとも困難な不適合段階である.身についた慣
習の違いからくる不適合が目立ちはじめ,ひいては新しい環境に対する反発・
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1世紀をどんな時代と考えるか
敵意さえ強まる.完全な拒否反応を示すことさえ少なくない.新しい環境のす
べてが実際以下につまらなく見え,さらにその反動として,以前の古い環境に
対する郷愁や美化の傾向をともなうことも大きな特徴である.新しい環境に対
する,いわば過小評価の段階である.特に,
「蜜月」段階での期待が大きいほ
ど,この第2段階の不適合も,逆に深刻になる傾向が強い.
夫婦間で言えば,新婚時代が過ぎて倦怠期に至る時期にあたり,この時期に
離婚率が増大する.入学間もなく「五月病」にかかって故郷ばかりを懐かしむ
学生,異国で異質の環境からくるストレスに苦しみ,故国への手紙を書き続け
る留学生などは,みなこの第2段階の症状である.なお,五月病が,四月病で
も六月病でもなく,とくに「五月病」であるのは,4月の進入学生や新入社員
が,新しい環境に対する幻滅を味わってカルチャー・ショックの第2段階に至
るのが,ほぼ1か月後であることによる.
この苦しい段階をのり越えて,はじめてひらけるのが第3の適応段階である.
人によっては諦めという消極的な姿勢,言い換えれば「忍耐」によって,また
人によっては,文化的多様さに目覚め,それを相対的に見直そうとする積極的
な姿勢,言い換えれば「知恵」によって,適応の域に達する.
一般的に言って,カルチャー・ショックは,新しい環境に対して高い順応性
をもつ年少者よりも,文化的個性の確立した年長者により顕著に現れる傾向が
強い.さらに,相互の文化的距離の小さい場合よりも大きい場合に,ショック
の度合もより大きく,
「適応」の達成はより困難となる.このように考えてく
れば,例えばつぎつぎに出版される海外旅行記の類ひとつをとってみても,類
似文化圏を扱ったものと異質文化圏を扱ったもの,若者が書いたものと年配者
が書いたもの,さらには1か月の観光旅行記と5年間の滞在記では,それぞれ
に個別のカルチャー・ショックの光にてらして読まれる必要があることが理解
されよう.
しかし,われわれはこのような現象に,従来あまり注意を払うことがなかっ
た.海外旅行記といえば,その国との文化的距離も,筆者の年齢も,さらには
滞在期間でさえも区別なく,まったく同列に考えることが多かった.例えば,
夏目漱石と内村鑑三が,それぞれの留学体験から得たまるで対照的な英米観も,
このようなカルチャー・ショックの光にてらしてみれば,これまでとはいくら
か違った解釈も可能かもしれない.
カルチャー・ショックのプロセスを忠実にたどるのは,単に個々人の異文化
接触の場合だけではない.異質の言語・文化とのかかわりという点では,さら
に広くわれわれ日本人一般の対異言語・異文化意識そのものもまた,カルチャ
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ー・ショックの影響から完全に自由ではあり得ないはずである.
明治以来1
3
0余年のわれわれの異言語・異文化体験のうち,すでに述べた明
治初年から明治4
0年頃まで,明治4
0年代から昭和2
0年まで,昭和2
0年から平成
の初頭までのほぼ4
0年周期の3回のサイクルと,さらに平成初頭から今日まで
のわれわれの動きは,実はいずれも異言語・異文化に対する日本人の国民的カ
ルチャー・ショックのプロセスそのものとみることができる.それは,欧米文
化に対する過大評価の「蜜月」段階と過小評価の不適合段階という,いわば不
安定な第1と第2の段階をいたずらに繰り返し,その度毎に安定した第3の適
応段階,いわば欧米文化をありのままの等身大の姿に評価できる段階には達し
ていないことを意味する.言い換えれば,政治や経済や,時には軍事に動かさ
れやすい心情的「親英」や「反英」を繰り返し,確固たる言語・文化的関心に
支えられた覚めた目の「知英」の域に到達できないということである.
!
海外の異言語教育の動向
以上のような歴史的な視点とともに,いまひとつ欠くことのできないのは,
広く世界の動きに着目した国際的な視点であろう.例えば,2
0世紀は「戦争の
世紀」であったと,文字通り異口同音にわれわれは言う.しかし,はたして本
当にそうなのか.たしかに,2
0世紀には2つの世界大戦があり,ベトナム戦争
も経験した.しかし,よく考えてみると,戦争はギリシア,ローマの昔から,
人間の歴史とともに今日までずっと絶えることなく続いてきた.かつてヨーロ
ッパには1
0
0年戦争さえあったし,中国には数百年にわたる動乱の時期もあっ
た.とすれば,2
0世紀が1
9世紀までと明確に区別されるのは,はたして単に戦
争があったという事実によるものかどうか,これはもう少し慎重に考えてみる
必要がありそうである.おそらく,2
0世紀を1
9世紀までと区別するものは,け
っして戦争そのものではあるまい.むしろ,戦争の反省に立った戦争修復に,
かつてこれほどまでに人類が力を尽くそうとした世紀があったであろうか.2
0
世紀はまさに「戦争修復の世紀」であったとみるべきではないのか.
第二次世界大戦が,戦後のわれわれに遺した最大の教訓の一つは,戦争の再
発を防ぐためには,他者理解,異文化理解の地道な努力を続ける以外にはない
という,厳しい反省であったと考えなければならない.戦争を回避するために
は,それ以外の道は考えられない.速効的ではないけれども,そういう地道な
努力を時間をかけて忍耐強く続ける以外にはないという反省であったと言わな
ければならない.
そのような考え方は,実は数々の具体的な形をとって現れている.例えば,
28
2
1世紀をどんな時代と考えるか
戦後は戦前と違い,それぞれの国は,自国文化の対外広報活動を行うことによ
って相互理解の増進をはかることが,各国のいわば国際的な責任と考えられる
ようになった.戦前には,大使館の広報部あたりが片手間にやっていたものが,
戦後は各国が独立した専門の対外広報機関をもつようになった.
いま世界には,アメリカの対外広報機関のアメリカン・センターが1
6
5か所
もある.イギリスは GDP では日本の4分の1の国になってしまったが,それ
でも,その対外広報機関のブリティッシュ・カウンシルは世界中に2
5
4か所も
もっている.フランスのアリアンス・フランセーズが3
2
2か所,日本と同じ敗
戦国のドイツも,ゲーテ・インスティトゥートを世界の1
2
8か所に置いている.
これらの対外広報機関の積極的な活動は,いずれも戦争の痛烈な反省の中から
生まれたと言ってよい.ところが,日本はどうであろう.日本の対外広報のた
めの専門機関である日本文化会館は,実は,世界中にわずかに3か所のみとい
う,とても信じがたい実態である.日本の対外広報,ひいては国際的な相互理
解に対する熱意の乏しさをよく示している.
対外広報機関だけではない.ドイツとフランスは第二次世界大戦終結まで8
0
年の間に,3たび相戦った.ヨーロッパのこの2大国が3度にわたって憎み合
い,戦火を交え,殺し合った.この度重なる戦争を,これ以上はなんとしても
避けたいというのが,ドイツ人,フランス人だけでなく,広くヨーロッパ人の
切実な願いであった.
その結果,彼らの英知が生み出したのが1
9
5
1年の「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同
」である.これは,石炭と鉄鋼を共同管理することによって,ド
体(ECSC)
イツとフランスの4度目の対戦を,事実上不可能にしようとするものである.
EU は往々にして,日・米の2大経済ブロックに対抗するための第3の経済ブ
ロックとみられがちであるが,けっしてそうではない.EU は,疑いもなく世
界大戦そのものの反省の中から生まれた戦争再発防止のための組織である.
ドイツとフランスの和解,ドイツとフランスの不戦共同体,そしてドイツと
フランスの主権の制限.これが ECSC のねらいであった.この ECSC は,そ
9
9
2年の EC の
の後 EEC,EC を経て,現在の EU に発展した.この EU は1
段階で,すでに市場統合を実現している.これは2
0世紀の前半までの尺度では,
とても考えられもしないことである.憎み合い,殺し合ったかつての不倶戴天
2か国で
の敵国同士が,いまや一つの「国」を成そうとしている.EU の中の1
は,長年にわたってそれぞれの国の威信の象徴であり,いわば各国の「顔」と
みなされてきたマルクやフランなどの個別通貨を放棄して,ついに通貨(ユー
ロ)の一本化さえ実現した.さらに EU は,憎悪と狂気と破壊の歴史に終止
29
符を打つために,本来ならばとうてい可能であるはずもない加盟国間の司法の
統合から,さらには政治統合までも視野に入れている.いわばヨーロッパ合衆
国構想ともいえるものである.これは,人類何千年の歴史の中でもかつてなし
得なかった,いわば壮大な革命的一大プロジェクトと考えることさえできる.
0
0
4年5月には,1
0か国の新メンバーを加えて,加盟2
5
さらにこの EU は,2
か国,2
0言語,人口4億6
0
0
0万人の統合「大ヨーロッパ」を実現することにな
る.
第二次世界大戦の結果,ヨーロッパの人びとがいかに真剣に戦争の回避を考
えるようになったかが理解できよう.ドイツもフランスも,アメリカの執拗な
説得にもかかわらず,ついにイラク戦争に参戦しなかったのは,けっして単な
る偶然ではない.このようにして,いまや世界のいわゆる先進国の間では,従
来の地域単位,国単位という考え方が,部分的にせよ,すでに成り立たなくな
りつつあることを明瞭に示している.
「リングァ計画」は,そのヨーロッパ統合実現のための,いわば必要不可欠
2か国が全会一致で可決したもので
な言語教育政策として,1
9
8
9年に EC の全1
ある.これは,統合ヨーロッパの全ての市民が,英語を母語とするイギリス人,
アイルランド人をも含めて,ハイスクール卒業までに,少なくとも母語以外に
2つの言語を身につけることを目ざすものである.これまた,従来の発想では
考えられもしなかった画期的な言語教育プログラムといわざるを得ない.
最近では,よく ‘Victory of English’ ということが,さも当然のようにいわ
れる.いまや英語の時代であり,英語ができなければ2
1世紀は生き残れないと,
とくに日本では考えられがちである.しかし,少なくとも教育の世界では,英
語を唯一のリングァ・フランカとはみなさない動きも,また目立って増大して
いるという事実を見落としてはならない.政治・経済的一辺倒とは違った,言
語・文化的多様性を積極的に認めようとする新しい動きである.それが,例え
ばエラスムス計画やソクラテス計画などに支えられて,EU 諸国の間では,国
境を越えて大規模な教員や学生の交流を実現している.
長い間,言葉に関しては,発展途上国は先進国の言葉を学び,小国は大国の
言葉を学び,地方は中央の言葉を学ぶ,ということが至極当然のことと考えら
れていた.
「言葉は低きに流れる」と信じて疑われなかった.こんな言語教育
的姿勢を,いわば「リングァ計画」ははっきりと否定したとみることができる.
いまヨーロッパでは,言葉は「垂直に上から下へ流れる」ものではなく,むし
ろ「水平に相互に流れ合う」ものであるという新しい考え方が国際的に公式に
認められたということを意味する.これは,実は,人類史の上で見落とすこと
30
2
1世紀をどんな時代と考えるか
のできない画期的な出来事であることを忘れてはならない.
このように考えてくると,2
0世紀はけっして単なる「戦争の世紀」ではなか
った.むしろ,2
0世紀は人類の歴史にかつて例をみない「戦争修復の世紀」で
あったと考えなければならない.かつては自分の言葉を植民地に押しつけ,自
らは異言語を学ぶことなど考えもしなかった欧米の列強諸国が,いまや国をあ
げて異言語の修復教育に力を入れるまでになった.かつてのあの大英帝国が,
ついに義務教育の1
1歳から1
6歳までの5年間,国民全員に異言語を必修とする
までになった.アメリカでも,ほとんど大統領選挙の度ごとに,異言語教育の
強化が大きな問題として取り上げられるようになった.異言語・異文化に対し
て,そんな対照的な姿勢をとる「戦争」の時代と「戦争修復」の時代.いわば
その決定的な分水嶺となったのが,2
0世紀の7
0年代から8
0年代にかけてであっ
たと考えることができる.
!
日本の異言語教育のあり方
以上のように,異言語教育のありようを歴史軸と国際軸を踏まえて考えてみ
ると,わが国の異言語教育政策の問題点がはっきりと浮きぼりにされてくる.
世界の国々は異言語教育開始年齢を早期化すること,異言語教育を必修化す
ること,そして履修異言語の数を複数化すること,とくにこの3点で,例えば
3
0年前に比べて,非常に大きく変化していることがわかる.
ところが,その後制度が改正されたものの,少なくとも2
0
0
0年3月現在でみ
れば,日本は世界の主要4
5か国の中で,中等教育段階でいまだに異言語を必修
にしないほぼ唯一の国であった.さらに,英語以外の異言語を教えないという
点で,日本はいまだにフィリピンと並んで世界でもめずらしい英語一辺倒の国
でもある.異言語学習開始年齢についても,日本は世界でもっとも遅い国のひ
とつで,日本よりも遅い国はわずかにオーストラリア1国を数えるのみである.
第二次世界大戦後,世界の大勢は明らかに大きく異言語教育強化の方向に動
いている.しかし,日本は,その世界の大勢とは明確に逆行する方向に歩んで
きたほとんど唯一の国であるといってよい.とくに中学校の異言語教育の縮小,
学習時間や学習語彙の削減,それに最近は大学でさえも急激に異言語教育の縮
小に向かっている.大手の国・公・私立大学でも,英語単位数を削減し,英語
以外の異言語は必修から外してしまうところが目立つ.
これはさらに,日本政府の教育そのものに対する熱意の問題でもある.例え
ば,国の予算に占める教育費をみると,1
9
7
5年を1
0
0として,2
0
0
0年は実に6
2%
にまで削減されてしまった.1
9
7
5年の国の予算に占める文教,科学振興費は
31
1
2.
4%であったが,2
0
0
0年は実に7.
7%になってしまった.1
9
9
9年のケルン・
サミットでは,
「2
1世紀のパスポートは教育」であることを高らかに謳いあげ,
教育の強化で各国首脳は完全な合意をみた.それにもかかわらずわが国は,こ
のような教育の国際的動向に対して,むしろまぎれもなく逆行を続けているほ
ぼ唯一の「先進国」であるということができる.
このようにみると,われわれにいまもっとも緊急に求められるのは,この国
の教育政策,とりわけ異言語教育政策そのものの,歴史的にも国際的にも広い
視野に立った大胆な見直しであると言わざるを得ない.それなしには,2
1世紀
のわが国の教育問題の根本的な解決は,とうてい望むことはできないと思われ
る.
(大阪大学)
32