2005.9.23 2002年2月、初の振付作品『SIDE-B』で鮮烈なデビューを飾り、振付家の 登竜門と言われる賞を次々に受賞した新星、黒田育世。彼女の作品は、バレ エのテクニックを基礎としながら、ダンサーの身体を酷使することによっ 黒田育世(KURODA, Ikuyo) て、誰もが身体の奥底に抱え込んでいるヴィジョンを鮮烈に表現している。 6歳で谷桃子バレエ団に入団。以来、小・ 今月下旬から、代表作『SHOKU』を携えてドイツ、フランス、フィンランド 中・高校、大学卒業まで、クラッシック・ をめぐるヨーロッパツアーを敢行する黒田育世に、カンパニー立ち上げから バレエ一筋。大学時代にロンドンのラバン センターに留学したのを機に、コンテンポ ラリーダンスの世界に引き込まれ、ダン 約3年間の濃密な活動の軌跡と今後について聞いた。 (インタビュー:石井達朗) サーとして本格活動を開始。2000年から 「伊藤キム+輝く未来」のダンサーとして ■ 国内外の公演に多数出演。 2002年、初の振付作品『SIDE-B』で「ラ ンコントル・コレグラフィック・アンテル ──日本の社会では、お習い事として女の子がピアノやバレエをはじめることは珍 ナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ しくないですが、20歳前後まで持続する人はそれほど多くない。 (旧バニョレ国際振付賞)ヨコハマ・プ そうですね。バレエが好きだったので、大学3年生の時にロンドンのラバンセン ラットフォーム」の「ナショナル協議員 賞」を受賞し、同年4月に女性だけのダンス カンパニー「BATIK」を設立。2003年に ターに行く前までそれだけをずっと続けていました。まあ、他に知らなかったし (笑)。 は、静岡県舞台芸術センター主催「SPACダ ンス・フェスティバル2003」の「優秀 賞」、「トヨタ・コレオグラフィーアワー ──バレエ一筋でやっていた人がラバンセンターに行くと、みんな運動着を着て自 ド2003」のグランプリ「次代を担う振付家 由に動いていて、何だか今までと違うなみたいな違和感はありませんでしたか? 賞」を受賞。2004年に『花は流れて時は固 もしコンテンポラリーダンスを日本で始めたとしたら、きっと違和感があったと思 まる』『SHOKU』の演出、振付、出演に対 して「第4回朝日舞台芸術賞」「キリンダン いますが、ロンドンに行って環境が一気に変わったから。すべてのものが目新しく スサポート賞」を同時受賞するなど、デ て、そういう変化のうちのひとつだったのですごく自然に捉えられました。ダンス ビューから瞬く間に振付家としての地位を に限らず、ひとりで現代美術を観たり、音楽を聴きに行ったり、お芝居を観たりし 確立。この他の振付作品に『アウラ』『Last Pie』など。 http://www.my-bb.com/batik/index.html ました。何もかもカルチャーショックで面白かった。ラバンセンターもそういうカ ルチャーショックのひとつでした。プレイス・シアターなどの小さい劇場にも行き ましたが、日本では大きな劇場でバレエばかり観ていたので、すごく新鮮でした。 ロンドンが私の全てを変えたという感じです(笑)。 ──ラバンセンターではどんなレッスンを? リリース・テクニックや、グラハム・テクニック、ホートン、ホセ・リモンのテク ニックなどをやりました。また、ロンドンで活躍している振付家の方が指導してく れる授業があって、マシュー・ボーンなどのワークショップを受けました。 BATIK『SIDE-B』 ──帰国してから、どういう経緯で「伊藤キム+輝く未来」に入ることになったの 撮影:Shinji Suzuki ですか。 大学4年の夏に帰国した時は、もうバレエじゃなくて違うことがやりたいと思って いたのですが卒業制作が忙しくて。その後時間ができてからさあ何をしようかとい う感じで、いろいろと探し始めました。木佐貫邦子さん、二見一幸さん、山崎広太 さんのワークショップを受けたり、セッションハウスなどで外国人のレッスンを受 けたり……。その頃、日韓のダンスコラボレーションの公演を見に行き、偶然、キ ムさんのワークショップのチラシを見つけた。キムさんの公演は観たことがなかっ たのですが、受けに行くことにしました。 ──伊藤キムさんは舞踏出身ですが、その時点で舞踏についてあまり知らなかっ ●BATIK欧州ツアースケジュール た? 10月1日、2日 20:00 知りませんでした。玉川大学の授業で、大野一雄さんとか、山海塾などがあるとい モウソントゥルム(フランクフルト) http://www.mousonturm.de/neptun/ うことぐらいは習いましたけど。伝統芸能だと思っていたぐらい(笑)。それでキ neptun.php/oktopus/page/1/6 ムさんのワークショップを受けたら、「これダンス?」って感じだった。だけどや らなきゃ気が済まない質ですから。運動神経は悪い方じゃないし、たいてい何でも 10月6日、7日、8日 20:30 パリ日本文化会館(パリ) http://www.mcjp.asso.fr/ なんとかこなせた。でも、ドルフィン・ジャンプという、床にうつぶせになって、 身体を波打たせながら跳ねる動きがあるんですが、それができなかった。本当にく やしくて、絶対次も受けようと、ワークショップやショーイングに参加するように 10月12日、13日 19:00 トゥルク・コンセルヴァトワール内シギ ン・ホール(トゥルク) なりました。はじめてキムさんの作品に出演したのは99年の『on the map』で、 2000年初めに正式メンバーになりました。 10月14日 午後 ワークショップ/トゥルク・コンセルヴァ トワール内シギン・ホール(トゥルク) http://www.turunkonservatorio.fi/ ──谷桃子バレエ団を続けながらキムさんの作品でも踊っていたわけですが、この 2つは同じ「ダンス」であっても全然違います。自分の中でどのようにバランスを とっていたのですか。 キムさんの作品はすごく楽しくて、貴重な経験でしたが、これだけをやっていると ダメだというのを何か直感していたように思います。バレエでバーレッスンをやっ て、毎朝謙虚な気持ちになりながら、キムさんの作品で身体をバラバラにしたりす る……こういう往復が私にはちょうど良かった。バレエを切り捨てることは簡単だ けど、バレエで身体に染みついたものを捨てて、こっちだけになるのは嘘っぽいん じゃなかと。 それと、キムさんのところやBATIKでやっていることとバレエは、身体の使い方と か考え方とか違うところの方が多いですが、一つだけ共通するところがあるんで す。私は、キャラクテールよりコールドの方が好きで、『白鳥の湖』の三幕とかで 盛り上がってくるとコールドをやっていても凄く興奮して列に並べなくなっちゃ う。実は、そういう自分の感情みたいなものはコールド・バレエにはいらないんで すが。こんなこと言うと、谷先生に怒られそうだけど(笑)、いらないんです。つ まり、自己否定です。私の作品でも、とにかくダンサーを疲労させて、「自分はこ ういう人です」と言えない状態にまで身体を追い込みます。自己否定ですよね。そ ういうところは共通しているかなと……。 ──初の振付で女性だけの『SIDE-B』が生まれた経緯は? ラバンセンターから帰ってきた2年後の2001年、22歳か23歳のときにつくりまし た。 キムさんが海外に行って不在だったので、カンパニーがふと暇になったんです。 ポッと時間ができたら、いきなり『SIDE-B』の構想がワッと、ポロポロポロって出 てきちゃった。それがたまたま全員女性だった。その場でマニキュアのビンをダン サーに見立てて並べながら、動線をつくれるぐらい、ものすごく鮮明な絵がポロポ ロポロって出てきました。それが全員黒いスカートをはいて、髪の毛で顔を隠して いる女の子たちのイメージだったんです。 そのポロポロポロってなった瞬間に、これは形にしないと気が済まないというせっ ぱ詰まった感じになって、すぐに絵コンテを描いて、音も全部決めました。知り合 いのダンサーに、今こういう作品のイメージがいきなり沸いてきたので(作品をつ くるのに)付き合って欲しいと電話をかけまくりました。ダンサーには、絵コンテ をもって行って、「ビデオ撮りだけ付き合って欲しい、10回のリハーサルで仕上げ るから」と言って説得しました。その時は6人のダンサーを集めてビデオ撮りだけ をして、2002年2月に横浜で初演するまでずっとほったらかしにしていました。 ──その時は、発表する予定はなかった? 全然ありませんでした。とにかくもう、形にしたくてしたくて仕方がなかったんで す。ビデオを撮った後は、また、踊り手としてやっていたのですが、2002年のヨコ ハマ・プラットフォームに参加してナショナル協議員賞をいただき、その時は本当 にびっくりして腰が抜けてしまいそうでした。 ──『SIDE-B』の後の作品が『SHOKU』ですね。 『SHOKU』はまずソロバージョンを韓国でやりました。踊った後、カーテンコー ルの時に拍手が起きなくて、血の気が引きました(笑)。儒教の国だから、セク シャルに取られがちなことを女性がやることに抵抗があるのではないかと、現地の 方が話をされていましたが。 その後、グループバージョンを森下スタジオでやって、翌年、6人でのミドルバー ジョンを横浜で、7人のフルバージョンをシアタートラムでやりました。『SIDEB』と核の部分は違いますが、両方ともすごく皮膚感覚と、身体に対する執着があ ると思います。 ──精神分析しろとは言いませんが、例えば、その皮膚感覚のような身体に対する 執着を舞台上でストレートに表現するというのは、育世さんの中にそれをさせる何 BATIK『SHOKU』 撮影:斉藤功一郎 かがあると思うんですね。だいたい自分のパンツの中に手を突っ込む作品なんてつ くる人はいないですよ(笑)。 チラシの写真にまで載ってしまって(笑)。質問の答えからはずれてしまうかもし れませんが、作品をつくるというのは、本当にやらなきゃ気が済まないぐらいの衝 動がないとできないことだと思います。何でわざわざ人にそれを見せるのかを考え た時、もし私が持っているだけで死んでしまったら、これだけの衝動が何もなかっ たことになってしまう……。いくらなんでもそれはできないという衝動を、私は作 品として提示している気がします。その衝動を人が受け取りやすい形にして提示す るのは、どこか本末転倒というか、それならやる必要がない。だからありのままに BATIK『花は流れて時は固まる』 撮影:塚田洋一 出しちゃうんですよね。 この間、Noism05に振り付けた時にそこのダンサーと話をしていて、「育世ちゃん は踊りで何でも解決しようとする人だね」と言われたんです。確かに、ダンスであ あいう生々しさというのを普通は出さないのかもしれない。私はダンスで何でも やっちゃう。私がやりたいダンスにはすべてがある。何にもないけどすべてがある という感じ。そういう生々しさにこそすべてがあると思います。 ──ダンスを通してすべてを、自分のすべてを、表現したいものをすべて語ってし まうということですか? 最近は、「ダンスを通して」というのも何か違うような気がしてきています。それ ではダンスが手段になってしまうけど、私にとってダンスはおそらく主体なんで す。だから、私がしているダンスには生々しさが出てくる……。なんだか抽象的で すね。つまり、自分がダンスそのものである、という感じになれれば幸せなんで す。 ──『SHOKU』は皮膚に対する感覚と言いましたけど、それと同時に自分を痛め つけたり、あるいは他のダンサーの頭をひっぱたいたりするような動作が続いてい るところがありました。そういうふうに、フェティッシュなものばかりでなく、い たぶったりいたぶられたりすることによって、自分の身体を確かめるような要素は どこからきているのですか? 本当の本物というのは追い込まれた状況でこそ出てくると思っています。そういう 状況に身体を置かないと本物が出てこないというのを、『SIDE-B』や『SHOKU』 をやっていく中でつかんでいった。例えば、ずっと倒れ続けるという単純作業で身 体が取り繕えない状態になってから、初めてちょっとキラッとするものが出てく る。つまり、表現して、演技して、という嘘は必要ないんです。 稽古もそういう感じで運んでいきます。わかりやすい例が「BATIKトライアル」と いうスタジオ・パフォーマンスの企画です。メンバーが各々10分弱ぐらいの作品を つくってみんなで見せ合い、意見を言い合って作品をつくっていきます。あるダン サーが提示した作品を見た時、健康な身体で見せられても彼女がやりたいことが伝 わってこなかったので、私は「ちょっとすみませんが、育世に付き合ってくださ い。私が手を叩くまでずっと稽古場をぐるぐる走ってください」と言った。みんな も「何が起こるの?」って感じでしたが、ひたすら走ってもらって息がかなり荒く なってから手を叩き、その後もう1回その作品を踊ってもらいました。そうした ら、すごく良くなったんです。それが良かったということは、そこにもっていくた めに、どう構成していけばいいのかが見えてくるはずだとダンサーには伝えまし た。 ……という具合に、稽古でも「もう1回、もう1回」ってずっと繰り返してもらった りして、だいたい止めさせない(笑)。本番の時は直前にダンサーを走らせること はできませんから、普段の稽古の中で、こういう身心の状態にあるダンスを体得し てもらう。取り繕ってもダメなんだ、ということをわかってもらう。実際は、ニコ ニコしながら「もう1回」って言うだけですけど(笑)。でもダンサーたちも「何 クソ」って思うみたい。育世にあれをやられるとコノヤロウって思うんですって (笑)。 ──『SIDE-B』『SHOKU』の次ぎが『アウラ』という20分の小品です。水瓶を挟 んで二人の女性が登場しますが、二人が別々のようでもあり、一人の女性の分身の ようでもある。 『アウラ』は2週間ぐらいでつくりました。おっしゃるように、相手方の高部尚子 さんは表側の人、私は背面の人という感じで一種のコントラストになっています。 あの作品は『花は流れて時は固まる』と同じ、時間のこと・今のこと、というのを テキストにしていて、「水」「花」「鈴」「白」「青」というマテリアルも全部同 じです。 ──『花は流れて時は固まる』は、今までの作品の中で一番の大作だと思います。 よくここまでチャレンジしたなというぐらいスケールの大きい、しかも細部に至る まで難しいつくり方をしていました。花と水と身体があって、そこにある種の、 シャーマニズム的儀礼のような、何かを呼び起こすようなものを感じました。 あの作品は本当に大変でした……今考えても涙が出てきます(笑)。3m近い高さか らダンサーが飛び降りる最後のシーンをつくることに追われて、他には何にも出来 なかった。 あの作品の出発点は私の子どもの時の感覚です。私は、子どもの時にものすごく力 んでいた記憶があるんですが、それが半端じゃなくて、気を失う直前までいって た。その時に、「時が止まる感覚」というのがあったんです。チクタクと刻む時が パーンって切れて、そこには時間がない状態があった。今でもそれを傷として持っ ている気がします。それをそのまま作品にしたのが『花は流れて時は固まる』で す。 パーンと叩き切られて、時間の流れがなくなって、叩き切られた断面が忽然と表れ てむき出しになったというか。「あ、断面」みたいな。その時間を叩き切るために 何をしなければいけないかと考えた時に、まず思い浮かんだのが「繰り返し」だっ た。飛び降りることを繰り返すという作業だったんです。 ──ダンサーはアクロバティックなサーカス芸人ではないし、3m近い高さから全員 を飛び降りさせ続けるというのはなかなか過酷なことでした。その「繰り返す」と いうのは、自分の身体を追い込んでゆくことでもありますね。 そうです。それでどんどんむき出しになっていく。本当は延々と落ち続ける、とい う瞬間の繰り返しをやっていて、落ち続けることで「今」が忽然と表れる。過去に 対する執着や、未来に対する期待や、そういうことが一切はぎ取られた状態で 「今」が忽然と表れるという状態をつくるには、飛び降り続けるしかなかった。何 かをし続けるということが、時間を叩き切ることだったんです。すごく逆説的だな と思うんですけど。 当たり前ですが、ダンサーは怖がりました。それでまず私が飛び降りて危険度を チェックをしながら舞台監督と高さを調整していきました。最後はみんなできるよ うになったんですが、あの時は本当の意味でダンサーを追い込んでしまいました。 飛び降りることだけじゃなく、かなり厳しくしてしまったこともありました。 ──舞台前面に水を張って花をたくさん使っていました。片やああいう無機的な装 置をつくってダンサーをバンバン落としていた。水や花からは自ずと生命や自然を 感じます。それらは育世さんの中でどういう繋がりがあるのですか。 これも『アウラ』から引き継いでいるんですが、ポロポロポロって出てきた時に、 花と水と白と青の絵が鮮明にあったんです。それを後から自分で分析していろいろ 考えることもできますが、あまり意味がないような気がします。『SHOKU』のフ リフリパンツとか、『SIDE-B』で使った幕とかが、社会と自分との隔たりだとか、 後から連想はできますが、あんまりたいしたことなくて。とにかく一番信用できる のはその時の直感、それがすべてです。自分の直感が一番尊い。 ──その直感は幼少時の記憶と何か関係がありますか? 例えば、花が好きだった とか単純なことでも。 これだなっていうのは特に思い当たらないですが、色に関しては、白よりさらに透 明なのが青だと思っていました。空や海の感じからきてるんだと思いますが、何も ない状態、遙かなイメージが青にはある。それで、衣裳や照明も白から青に変わっ ていって、それが全部はぎ取られて、本当に忽然と断面が出てくる。 花というのは、自分の身体に付着している過去に対する思い入れとか、未来に対す る期待とか、チクタク流れる日常に必ずあるもの、必ず存在しているものの象徴、 という感じです。それをはぎ取られた状態というのが、先に言った断面であると。 ──育世さんの作品は全体として見ると、生々しいままで終わっていなくて、構成 的には透明感があり、それが作品全体にしっかりとした力を与えていると思いま す。そういう構成的なことを、つくる過程で意識していますか。 舞台にのせる必要のないものは整理していかなければ、という思いはすごく強いで す。なので、削いでいく作業は必ずします。基本的に構成する作業が好きなんです ね。ポロポロポロって出てきた絵を、いかにいらないものを削いで、気持ちよく通 していけるかを考えるのは、好きです。 ──構成するのが好きということが、黒田育世作品に濃さと密度を与えていると思 います。育世さんのように鮮烈なイメージを持っていても、それだけではいいアー ティストになれません。余分なものをとっていって、どれだけ自分のイメージに構 成上の透明感を与えられるかが重要です。 自分ではわかりませんが、思うに私がやっていることは、観る人にちょっと懐かし い感じを与えているんじゃないかと思うんです。実は人間だったら知っているはず のことをやっているだけというか。普段はつい忘れているけど、人間のお腹の真ん 中にあることをやっているという気がします。ドロドロだけじゃない、「あっ、そ ういえばそうかもね」と腑に落ちる、どこか懐かしいところがある。私には「新し いことをやろう」という欲がそこまでありませんし。 ──今年7月に上演した『Last Pie』についてですが、育世さんにとっては、依頼さ れて振り付けた最初の作品になります。しかも、その振り付ける対象が金森穣とい う、今一番期待されている、本当に力のあるダンサーであり振付家が率いる Noism05だった。 もうとにかく心配というか、ビビリまくっていました。「できるのかな、できるの かな」って感じで。BATIK以外に振り付けるのも、男性に振り付けるのも、生演奏 でやるのもすべて初めてだった。あんなに助走期間を設けたことはありません。稽 古場に足を踏み入れた段階では、振付もすべて決まっていたし、あんなに全部決め 込んで稽古場に臨んだことはない。今までで一番時間をかけました。 この作品をつくるために、『モニカ モニカ モニカ』という自分のソロ作品をつ くっているんです。今回、金森さんがやったパートを私がまるまる踊っているとい うそれだけの作品です。それをつくってから穣さんに振り付けました。なので 『Last Pie』と『モニカ モニカ モニカ』の作品ノートは全く同じものです。 ──選べない、交われない、戻れない、許されない、終われない、わからない、そ れでもうれしくてまだ止めない、ただただ身体がもげそうで── 生きていることを思い返すと、黒田育世に生まれたくて生まれてきたわけじゃなく て「選べない」。「あなたは私」というふうに思えるぐらい人と交われているかと いうとなかなか「交われない」。時間はさっき言ったみたいに叩き切ることも困難 だし「戻れない」。一過性の時間しか与えられていなくていろいろなことが「許さ れない」し、一過性の時間を自分で終わらすことも出来なくで「終われない」。結 局何なのかというと、何にも「わからない」ところで生きている、という感じで す。ないない尽くしなのに、お腹の中ですごく生きていることを喜んでいて、踊る ことを喜んでいて、踊りたくてしょうがないという何かがお腹の真ん中にいる。そ れで、身体がもげそうなくらい喜んでしまう、踊ってしまう、という……そのまま なんですけど(笑)。 この黒田が感じていることそのままを、穣さんに振り付けた時に、穣さんが果たし てうれしくてまだ止めないという状態になれるかどうか、本当に賭けでした。「選 べない、交われない、戻れない」のナイナイナイは、きっと穣さんも実感できると 思ったんですが……。 ──要するに、金森穣のパートは孤立しているわけですよね。他の人たちはいるん だけど、他の人たちと別にコミュニケーションがあるわけでなく、それでも存在し ている……。 終われない、戻れない……1回明かりが点いちゃうと戻れない。それでも、踊って いること、生きていることが楽しいというのがお腹の中に必ずある──止められな いから止めないんじゃなくて、うれしくて止めない。「ダンス止めないぞ、踊り止 めないぞ」という状態に穣さんを置いた。あれをやるんだったら、私がソロでやる のは別にして、金森穣しかいないだろう、という感じで穣さんにやってもらいまし た。 1回10分弱ぐらいの長い振付を、穣さんはたぶん4回か5回繰り返しているんですけ ど、「ほんとに? これほんとにやるの?」って感じだったみたいです。「追い込 む振付家ってのは何人か会ったことあるけど、追い込んでいるように見えないのに 追い込んでいる振付家は初めてだ」と言われました(笑)。 ──最後に、育世さんは、作品数こそ多くないけど、この3、4年の間につくった作 品で次々賞を取って注目されています。今の自分をどう位置づけ、これからどうし ていきたいと思っていますか。 ちょっと位置づけと離れてしまうかもしれませんが、変わりたい部分と変わりたく ない部分というのはありますね。変わりたくない部分は、「これをやりたいからこ れをやる」というところでずっといたいということ。「何ができるか」とか、 「今、私は何をつくることを期待されているか」とか、そういうことをいろいろ言 われたりもするんですが、いい意味で「これがやりたい」ということを持ち続けて いきたい。 それと、『花は流れて時は固まる』をやって、その後、『SHOKU』に戻って昨年 末に公演をやったぐらいから、すごく変わってきたところがあります。ダンスに対 するとらえ方というか、向き合い方なんですが。今までは一個、核を掴まえたら、 そこに向かって突進するという感じだったんだけど、何もいらなくなっちゃった。 踊っていられればダンスになれる、ダンスになりたい、という感じになってきた。 それをいい形でやれるといいな、と思っています。 ──例えば10年前と比べて、自分がダンスをやっていることをより幸せに思える? そうですね。今すごくそういうふうに向かっている感じです。振り返ると、この3 年間は眉間にしわを寄せながら、どうしようもなく踊っていたような気がします。 もちろん踊りたくて踊っていたんですが、それは、コインの裏側だった。でも、 ポーンと投げたら、今は表になって落ちてきそうな感じがします。座右の銘です が、いつも「今日も一日感謝の気持ちを忘れずに」奢らずに、生きていこうと思っ ています。
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