「大衆社会の処方箋」 藤井 聡 羽鳥 剛史 北樹出版 2014 年 1 月 P344

「大衆社会の処方箋」 藤井 聡
羽鳥 剛史 北樹出版 2014 年 1 月 P344
2700
円
「人間精神についての価値判断を忌避する傾向は、精神的俗悪性を秘めた「大衆人」の重
大な特徴の一つでもある。
」(P25)
「大衆論の主要な源は、
(1)大衆の台頭とその帰結としての伝統的権威の喪失を危惧する
貴族主義的な大衆批判と、
(2)大衆に対する政治的操作とその帰結としての全体主義への
堕落を危惧する民主主義的な大衆批判にあるとしばしば言われている(Kornhauser 1959)。
前者にあっては、エリートの権威を直接的に奪取する教養と資産をもたない”負の社会階級”
(西部
一九八七)としての大衆が、後者にあっては、少数の政治的操縦者によって差配
される”負の政治階級”(西部
一九八七)としての大衆が、それぞれ対象とされている。」
(P33)
「以上を整理すると、オルテガの論ずる「大衆」は、
・自分自身に他者より優れた価値を見出さず、
・それにも拘らず、そのことに何の不満も感じておらず、
・しかも、より高みを目指して努力することもない、
という、一言で言えば「凡庸人」であり、そうした心理的特徴によって、
「選ばれた者」と
は区別される。」
(P46)
「現代の社会問題はいずれも、人びとの大衆化に、その決定的な原因がある。」(P61)
「傲慢であり、かつ、自己を閉塞させ、崇高なるものや正しきことを知り、善きことを実
践せんとする意欲を喪失させたものが、オルテガが言う「大衆人」である。
」(P82)
「こうした西部や中野らに代表される論者達によるオルテガの援用可能性は、ひとえにそ
の読者の鑑賞力、解釈力にゆだねられている。これは、可能な限り主観を排除しつつ、「客
観的」な測定と検証に基づいて理論の検証と発展を展開する物理学に代表される、近年の
「自然科学」とは、正反対の学術的方法論に位置づけられる。
いわば、論者が「自分はこう思う」と論じ、読者が「自分もそう思う」と言えば、それ
で完結する学術的活動--それが西部や中野らによる叙述活動なのである。
それ故、上記のような「自然科学」の有効性を重視する人々からは、文系、理系を問わ
ずに、こうした叙述活動の有効性に疑問符がつけられ続けてきた。彼らは、
「それはただ単
にオルテガや西部さんや中野さんが、そう思うって勝手に言ってるだけで、正しいかどう
かなんて、分からない、どうせ単なる独善にしか過ぎないんだよ」と嘯くわけである。
しかし――こうした断罪は、実に「滑稽」かつ「軽薄」なものにしか過ぎない。
たとえば、仮に筆者が「バットで殴られれば痛い」と述べたとしよう。
この言説はただ単に、自分はこう思う」という主張にしか過ぎない。
しかし、この主張を耳にしたおおよその人々に尋ねれば、
「自分もそう思う」と口にする
だろう。
そして、そのやりとりを目にしたおおよその科学者たちは、一生活者として、一常識人
として、違和感を一切感ずることなどないだろう。
」(P86)
「例えば、
「リンゴが落ちる」という現象も、もともとはニュートンの主観で捉えられた現
象以上のものではない。つまり、ただただニュートンが「リンゴが落ちたと思っているだ
け」なのであり、かつ、ニュートンの近隣の人々も、そのニュートンの主張に同意してい
るに過ぎないのであり、彼らが全員(素朴な自然科学者が言う意味における)「間違った共
同幻想を共有している」という可能性は何人たりとも否定できないのである。」(P87)
「つまり、どれだけ客観的な科学であろうとも、それが主観に基づいて活動する人間、し
かも、その活動を共同で行う社会的な存在である人間の「営為」である以上、そこに「主
観」や「社会性」が混入しているという一点だけを持ってして何らかの科学的、哲学的言
説を否定してしまうという(しばしば「科学者達が採用している)態度は、
「滑稽」で「軽
薄」なものにしか過ぎないのである。」(P88)
「いわば、
「道具を使う生活者」は様々な現場で、予測を形成し、その予測の妥当性を検証
する、という行為を日々繰り返している、ということになる。いわば、
「道具を使う生活者」
は、ポパーが言う反証主義を、大層な物理実験室や日食などといった特殊な現象を待たず
して、日常的に繰り返しているわけである。
この一点を見据えるなら、結局は、オルテガの大衆社会論にせよ、ニュートンの万有引
力の法則にせよ、「何らかの形で我々の役に立っているか否か」という一点が、その「妥当
性」の最終的な検証の形だと言うことができるのである。」(P96)
「第一の作業仮説は、他者に協力するか、あるいは、他者を裏切るかの二者択一を迫られ
る「社会的ジレンマ」(藤井
二〇〇三)と呼ばれる社会状況下で、大衆人は協力せずに裏
切る傾向が強い、というものである。具体的には、「まちづくり」や「環境問題」「景観問
題」等の典型的な社会的ジレンマ状況下で、大衆人的傾向の強い人々は、協力せずに、問
題を悪化させる「裏切り行為」に従事する傾向が強いだろうという仮説である。
」
「第二の作業仮説は、「議論」においても大衆人は「協力」することなく、自己閉塞的に人
の言葉に耳を貸さず、ただただ自説を繰り返し、議論によって何かを生みだすという傾向
が見られないというものである。」
「そして第三の作業仮説は、自己閉塞的で傲慢な大衆人は、
「政府」に対して協力せず、傲
慢にも政府は自説に従うべきであると信ずると共に、政府の取り組みを拒否する傾向を持
つというものである。」(P100)
「逆に言うなら、人々が一切の「協力」を放棄した瞬間に、その人々の集団の中から、あ
らゆる共同行為、共同作業、そして意思疎通とコミュニケーションが消失する。」
(P104)
「第一に、社会的ジレンマは、
「個人の自由をすべからく許容する政策は、公的利益を確実
に毀損する」ということを含意することから、社会的ジレンマの存在を認識するだけで、
消費者と生産者の自由を無制限に許容する傾きを持つ(いわゆる)「市場原理主義」を回避
すべきであるという帰結が論理必然的に得られることとなる。」(P112)
「これらの諸問題の中でも、とりわけ現代社会において深刻な問題は、大衆化によって、
人々は「議論」することを取りやめてしまうことである。なぜなら、人々が『議論」をす
ることをやめてしまえば、人間の最大の協力行為である「政治」に対して裏切り続けるこ
ととなり、全ての政治が必然的に機能不全に陥ってしまうこととなるからである。」
(P123)
「こうした議論の問題は、例えば、哲学者フランクファート(Frankfurt 2005)によっ
て”bullshit”(牛糞という概念を用いて論じられている。ここに"bullshit"とは、「真理を想
定せず、発言の真偽を気にせず、ただ自分らしさに忠実であろうとするような議論」を指
し、意味のない不毛な議論を表している。フランクファートは、こうした議論が現代社会
においていかに蔓延しているかを批判的に論じているのである。」
(P126)
「表 6-4 は、三つの議論タイプ(「MM」
「nn」
「Mn」
)の間で、総発話数、総発話量、発話
一回当たりの発話量を比較した結果である。
この表に示されているように、総発話量については、三つの議論タイプの間で大きな違
いは見られなかった一方で、総発話量は、非大衆同士(nn)の議論の方が他の議論タイプより
も多い傾向が示された。さらに発話一回当たりの発話量は、非大衆同市(nn)の議論の方が他
の議論タイプよりも少ないことが示された。この結果から、非大衆同士(nn)の議論では、議
論参加者が自分の発言を短く区切り、相手に発言権を譲ることにより、話者の交代がより
頻繁に行われていることを示している一方、大衆が混じった議論(MM,Mn)では、人々が
長々と発言し、相手に発言権を譲らない傾向にあることが分かる。」(P138)
「桑子(二〇一一)は、社会基盤整備における合意形成が失敗する様々な事例を、合意形
成の「難敵リスト」として整理しており、その中で、例えば「堂々めぐり」
「水掛け論」
「や
り玉」
「つるし上げ」「蚊帳の外」「サイレント・マジョリティ」「頑固一徹自己主張派」
「マ
イク握って離さん派」「言いっ離し匿名希望者」等の問題を挙げている。これらの事例は、
住民参加を通じて、関係者の間で話し合いを行う場を設けても、議論が適切に行われない
という問題を示唆している。」(P148)
「なぜなら、例えばミルが論じているように、「公共行政の各部門は、熟練を要する業務で
あり、
「ある種の知識と特別に訓練された判断力」とを要するためである(ミル 一八六一)。
特に、政治的決定は社会全体に対して広範な影響を及ぼすものであり、その決定に際して
は、長期的、広域的な観点から、その妥当性を判断することが求められる。ところが、一
般の国民においては、日常の諸判断とはかけ離れた、こうした「特別な」判断力が十分に
ないのが実情である。」(P150)
「まず、仮説 1 の検証結果より、傲慢性の高い個人は、行政への直接的な関与を要求する
可能性が示された。すなわち、人々が大衆化することによって、政府・行政への直接的な
関与を要求する傾向が高まり、その結果、オルテガが批判する「超デモクラシー」、あるい
はミルやトクヴィルが危惧する「多数者の専制」が生じるであろうことが実証的に示され
た。
次に、仮説 2 と仮説 3 の検証結果より、大衆が行政活動に直接関与する時、彼らは公共
事業や政府・行政の必要性そのものを否定すると共に、行政を信頼しないことが示された。
このことは、公共事業の必要性が認められるか否か、もしくは、行政が信頼されるか否か
は、人々の大衆性の水準によって規定されているということを意味している。このことは、
政府・行政に対する信頼や公共事業の合意形成問題に関して、次のような深刻な問題をは
らんだ命題が真である可能性を暗示している。
命題
仮に、行政行為が一切変わらなくとも、ただ人々が大衆化していくだけで、公共
事業が棄却され、政府・行政が信頼されなくなっていく。
この命題で記述される事態が「深刻」な問題であるという理由は、真に必要とされる公
共事業であっても、真に誠実な政府や行政であっても、人々がただただ大衆化していくだ
けで、否定されていく、という一点にある。」
(P167)
「自己の運命を愛するとは、過去、未来にわたって自分の人生に関わりを持ちうる全ての
事象を愛することである。当然、その中にはデーモンが口にした「苦痛」や「嘆息」のす
べてが含まれる。その上で、運命愛の立場では、叶わぬ理想を語るのではなく、苦しみや
困難が必然的な真実であるが故にそれらを愛するのである。」
(P190)
「つまり、「共同体」とは、「人間の集合」(これを、前記では”群れ”と呼称した訳である)
とは、完全に次元を異にするものなのである。例えば、
「日本国家」というものは、飛鳥時
代や奈良時代とも連なる長い歴史の中で連綿と続き、これからも長きにわたって継続して
いくことが期待される「共同体」である一方で、
「たまたま現代に、この極東の島国である
日本列島に住んでいる人々の集合(群れ)」とは、完全に次元を異にしているのである。
大衆人達、末人達は、後者の”群れ”には属しているものの、前者の共同体としての”日本
国家”からは完全に疎外されている。」
(P198)
「一方、ハイデガーが(我々が普段人間と呼称している)「現存在」は、物心がついた時に
はもうすでに「投げ出されて(被投されて)」しまっていた「世界」の中に(「世界内存在」
として)存在している、と論じている。
そしてこの現存在は、自身が認知している「環境」に対して、様々な「意味」すなわち
「シンボル」を「企投(付与)」している(=解釈している)ものと論ぜられる。例えば、
我々日本人は一定の長さの棒のペアに対して「お箸」という意味を「企投」しているが、
お箸で食事をとったことが全くない海外の人々にとっては、それは食事のための道具では
なく、単なるペアの棒という程度の意味しか「企投」しないだろう。あるいは、先の章の
議論を参照するなら、運命愛を持つ現存在は、家族や国家などに「共同体」という意味を
「企投」するであろうが、共同体に一切の意味を見出し得ない様な現存在は、いかなる対
象に対しても「共同体」という意味を「企投」することはないだろう。
さらに、こうした様々な事物についての「意味」
「シンボル」は、複雑に関連した「体系」
を作り上げている。例えば我々の”日本文化”においては、お箸、お茶碗、湯飲み、ちゃぶ台、
お米、炊飯器……というそれぞれの事物の意味は、互いに密接に関わり合い、体系をなし
ている。そしてそうした体系そのものがなければ、
「お箸」という言葉そのものがナンセン
スなものとならざるを得ないのであり、そうした体系があるからこそ、個々の事物に意味
が”宿る”。」(P202)
「すなわち、アメとムチでしか人間は制御できないのだという信念で構築された経済理論
やそれに基づく社会政策は、実際にアメとムチでしかコントロールできない利己的な人間
を作り出してしまうのである。
さらに不幸なことに、以上の様なアメとムチの力を必要以上に過信する近代経済学を「学
ぶだけ」で、合理的で利己的な個人となってしまうことも示されている。経済学部の学生
と、それ以外の学部の学生とで、いずれの方がより「裏切る」傾向が高いのかを実験した
ところ、多くの実験にて、経済学部の学生の方が、統計的に有意に「裏切る」傾向が高い
ことが示されている。」(P237)
「したがって、どの様な状況であっても、少々人々に不人気な政策であっても、熱心にそ
の公共的意義を訴えかければ、その訴えかけは人々の精神の内にある「公衆性」に響き得
るのであり、それを通して、人々がその政策を受容していく可能性が開ける。」
「この点について例えば、曽我部・梶原・羽鳥(二〇一三)は、議論の過程で「内省」を
促す契機をもたらすことができるなら、他者の議論に対して耳を傾ける傾向が活性化され
ることを示すデータを報告している。この実証的知見は、誠実なる公論を展開し、その中
で他者に内省を促すことで、「公共受容」が高まる可能性を示唆している。」
(P242)
「したがって、精神の大衆化からの脱却、すなわち、脱大衆化のためには、人々の生の活
性化、すなわち、精神における解釈学的循環の活性化こそが求められるのである。こうし
た生の哲学に基づく、生の循環の構図を踏まえた時、脱大衆化のためには、次の様な三つ
の基本方略の有効性が浮かび上がることとなる。
「運命焦点化」
自身の死に至るまでの「人生」に対する注意・関心を増進させ、自律的
な解釈学的循環の展開を促進する(
「死後」のために現世を生きる思考を否定する、架空(ヴ
ァーチャル)の人生への過剰な関心を縮減させる、自身の人生は「死」で終演することの
理解を促進する、等)。
「独立確保」
自身の精神の自律的な解釈学的循環とは整合しない外部システムに制御・
支配されることを回避し、自律的な精神の解釈学的循環の躍動の回復を期する(他者や巨
視的な組織・システムへの隷属からの独立、マニュアルへの隷属からの独立、等)。
「活物同期」
大衆化した自らの精神の閉塞空間の外部にて躍動する「活物」に自らの精
神を同期させ、自身の精神の解釈学的循環を活性化させる(文学や詩、映画等の芸術の鑑
賞、活力ある他者との交流、伝統的共同体や自然界の内部の生活への従事、等)。
」(P266)
「それにそもそも、青少年が薬物依存にならぬような教育も大きな意味を持つことを考え
れば、幼少期の頃から可能な限り、彼らの環境から自身の人生・運命以外に関心を仕向け
る宗教や思想からの隔離を図ったり、いわゆる回復不能な「中毒」になるほどまでに(電
子ゲームなどの)仮想現実に埋没する状況を回避することは重大な意味を持つ。」
(P274)
「したがって、
「覚悟」と「危機感」の間の解釈学的循環を展開させることを明確に企図し
た、様々な公共的、社会的な(リスク)コミュニケーション(藤井
二〇一二b)の展開
こそが、個々の危機についての危機感を醸成すると「同時」に、死の先駆的覚悟性を醸成
していくこととなるのである」
(P284)
「なおここでは、以上に述べた個人の精神の活力を阻害する官僚制システムや、マクドナ
ルド化した社会システムなどに埋め込まれ、大衆人達の参画を求めている大衆社会におけ
る営み全般を「大衆ゲーム」と呼ぶこととしたい。例えば、
「改革派官僚」達が参画してい
るのは、行政上のマニュアルに従って与えられた仕事を正確かつ効率的に遂行すると同時
に、あらゆる側面を官僚制化していく改革を効果的に遂行していくことができれば勝ち、
できなければ負け、というシンプルなゲームである。そして、マクドナルド化した社会の
中で、意図的に創出された流行をそのまま追い求める大衆人達は、他人よりも早く、権威
のある流行をマネできれば勝ち、それができなければ負け、というゲームに従事している。
こうした、解釈学的循環を差し挟む余地がほとんど喪失され、どんな大衆人であろうと参
画できる単純なゲームが「大衆ゲーム」なのである。」(P296)
「物語の定義には多様なものがあるが、一般的には、「有意味な終点へむけて、具体的な出
来事や経験を取捨選択し、順序立てて物語ったもの」と定義されることが多い(ブルーナ
ー
一九九八、長谷川他 二〇一一)。」
(P307)
「例えば、ブルーナー(一九九八)は、人間の認識・思考の形式には、「論理実証モード」
と「物語モード」の二つが存在していると指摘している。論理実証モードは自然科学に代
表される認知・思考形式であり「記述や説明に関する形式的な数理体系の理念」や「一貫
性と無矛盾性といふうう必要条件」を特徴としている。一方で「物語モード」は「見事な
ストーリー、人の心を引きつけるドラマ、信じるに足る歴史的説明をもたらす」という特
徴を有する。例えば、何らかの事柄について他者を「信服」させようとする場合、「論理実
証モード」の場合には、個別事例の具体性から論理的抽象化によって個別事例を越えて一
般化へ向かい、「真理性」を信服させようとする。一方で、「物語モード」の場合には、個
別の具体性や日常の細部の本質的顕現を仔細に描写しつつ、これらによって「迫真性」を
信服させようとする。」(P307)
「その結果、「お祭りなどの伝統的な地域イベントの支援」「身近な清掃活動(公園・道路
などの身近な場所)
」といった「地域共同体活動への直接的参加」が、大衆性を低減させて
いることが統計的に示された。
このことはつまり、地元の「まちづくり」や「自治会活動」といった共同体活動、さら
に言うなら公共的な「広義の政治活動」に参画することが、大衆性の低減に効果を持つこ
とを示している。」(P316)
「あるいは、そうした「外敵」でなくとも、共同体に対する何らかの「危機」を察知し、
その危機に対応する共同体活動を駆動することでも、当該共同体の活性化が期待できる。
例えば、地域社会の疲弊に対抗するための町おこし/村おこし活動や、防災上の問題を解
決するための「防災まちづくり」、日常交通の問題を解決するための「交通まちづくり」、
景観上の問題を解決するための「景観まちづくり」の展開はいずれも、当該の共同体を活
性化させる働きを担うこととなる(例えば、森栗 二〇〇七、矢守 二〇一三)。
」(P320)