第 7章 - 日本国際問題研究所 軍縮・不拡散促進センター

第7章
南アジアと核拡散の現状
吉
田
修
はじめに
イ ラ ク 戦 争 の 余 波 と 言 う に は あ ま り に 大 き な 事 件 が パ キ ス タ ン を 襲 っ た 。2003年 末 、核
兵器開発の放棄を宣言したリビアや国際原子力機関の査察を受け入れたイランから、それ
ら諸国の核開発にはパキスタンからの核兵器関連技術の移転があったことが明らかになっ
た の で あ る 。「 ム ス リ ム の 兄 弟 た ち は わ れ わ れ の 名 前 を 出 す 前 に わ れ わ れ に 尋 ね る こ と を
し な か っ た 」 1 と い う ペ ル ベ ス ・ ム シ ャ ラ フ ( Pervez Musharraf) パ キ ス タ ン 大 統 領 の 反
応 が 、パ キ ス タ ン の 受 け た 衝 撃 の 大 き さ を 表 し て い る 。パ キ ス タ ン で は 、「 核 兵 器 の 父 」と
い わ れ た ア ブ ド ゥ ル ・ カ デ ィ ー ル ・カ ー ン( Abdur Qadeer Khan)博 士 ら 核 兵 器 開 発 に 携
わった科学者たちが金銭を目的に情報を漏らしたという形での決着が図られつつあるが、
「 良 か れ と 思 っ て や っ た 」2 と い う カ ー ン 博 士 ら 、科 学 者 た ち の 本 当 の 意 図 や 役 割 は 明 ら か
になっていない。
パキスタンは、この件での責任を問われて核兵器を放棄させられることを明らかに恐れ
て お り 、核 兵 器 国 と し て の 承 認 を 求 め る 主 張 が 繰 り 返 さ れ て い る 3 。確 か に 、一 方 で イ ン ド
の核保有が既成事実として容認されようとしていることを考えると、もしパキスタンが核
拡散の責任を問われて保有核の廃棄を迫られれば、両国間の格差は絶対的なものになって
しまう。そのときに、現政権はもちろん、パキスタンという国家自体が存在理由を失って
しまうかもしれない。
こ の よ う に 、 核 拡 散 を め ぐ っ て 、 南 ア ジ ア で は 1998年 に 核 保 有 を 示 威 し た 印 パ 両 国 が 、
対照的な状況に置かれることになった。しかしながら、これは単なる偶然ではない。むし
ろ、核保有に関する米国(やロシア)の一貫性のない対応の結果と見るべきであろう。
本稿は、インド、パキスタン両国の核開発やそれに関連する諸活動の現状と背景を、特
にパキスタンに注目して米国の対応の変化との関連で明らかにすることを目的とする。そ
の中で、冷戦後およびポスト冷戦後の両国の核関連の諸活動が、グローバルな核拡散に及
ぼす影響について考察したい。
1
The Washington Post , February 6, 2004.
2
The Dawn , February 5, 2004.
3
The Dawn , February 5, 2004.
109
1.
冷戦期・冷戦後の南アジアと核拡散
( 1)
南アジアの核兵器開発
1964年 の 中 国 に よ る 核 実 験 が 引 き 金 と な っ て 、イ ン ド が 核 兵 器 の 開 発 に 取 り 組 み 、ま た
そ れ を 予 想 し た パ キ ス タ ン も 核 開 発 を 始 め た と い う こ と は 、す で に 知 ら れ る よ う に な っ た 。
イ ン ド に つ い て は 、1974年 の 最 初 の 核 実 験 に 用 い ら れ た プ ル ト ニ ウ ム が カ ナ ダ 供 給 の 原 子
炉から分離されたものではないかという疑念はあるが、インドの主張どおり、核兵器開発
はほぼ自力で行われたと考えられている。インドでは独立当初から原子力開発が国策とし
て行われており、重水炉や再処理施設の輸入など、国外からの技術移転を含めて、人材、
技術、施設などが相当程度に蓄積されていた。
他方、パキスタンの場合は、もともとの工業基盤が脆弱である上、核に注目する政治指
導 者 が ズ ル フ ィ カ ル ・ ア リ ・ ブ ッ ト ー ( Zulfikar Ali Bhutto) に 限 ら れ 、 国 家 予 算 の 多 く
を 核 開 発 に 割 く こ と も 、文 民 の ブ ッ ト ー が 1971年 に 大 統 領( 後 に 憲 法 改 正 で 首 相 )と な る
までできなかった。このため、ブットー政権成立時、パキスタンの核施設は、小規模の研
究炉とカラチ原子力発電所しかなく、これらは米国やカナダからの援助として受け入れて
いたため、いずれも国際原子力機関の保障措置の下にあった。ブットー首相の下ですら、
パキスタンは核開発のための資金に不足をかこっており、パキスタンが開発しようとして
いるのは「イスラムの核」であるとして、アラブ諸国やリビアなどに開発のための資金を
求めた。
ブ ッ ト ー 首 相 は 就 任 直 後 の 1972年 1月 、ム ル タ ー ン に 科 学 者 を 集 め て「 3年 以 内 に 核 兵 器
開発を」と要求した。科学者達は即座に請合ったが、実際にはゼロからの開発であった。
核兵器開発にあたって、いわゆるウラン濃縮ルート(広島型の核爆弾ができる)とプルト
ニ ウ ム・ル ー ト( 長 崎 型 が で き る )の 両 方 を 、パ キ ス タ ン が 並 行 し て 進 め た の は 、あ の「 マ
ンハッタン計画」に忠実であったからとも言えるが、ゼロからの開発であったからこそ可
能であった。
プ ル ト ニ ウ ム・ル ー ト の た め に は 、天 然 に は 存 在 し な い プ ル ト ニ ウ ム を 使 用 済 み 核 燃 料 か
ら 取 り 出 す た め の 再 処 理 施 設 が 必 要 で あ る が 、そ の 購 入 を パ キ ス タ ン が フ ラ ン ス の 会 社 と 交
渉 中 の 1974年 5月 に 、イ ン ド が 初 め て の 核 実 験 を 行 っ た 。 イ ン ド の 核 実 験 は 米 国 内 に 核 不 拡
散 世 論 を 呼 び 起 こ し 、フ ラ ン ス 側 は 、パ キ ス タ ン と の 間 で 1976年 に い っ た ん 調 印 し た 契 約 を 、
米国の圧力で取り消した。このことで、プルトニウム・ルートは困難に直面した。
110
インドの核実験は、パキスタンにウラン濃縮ルートへの道を開いた。その中心人物であ
り、後にパキスタン核兵器開発の父と呼ばれるようになるカーン博士は、核物理学が専門
で は な く 、金 属 工 学 の 博 士 で あ る 。1936年 に 現 在 イ ン ド に 位 置 す る ボ パ ー ル で 生 ま れ た 彼
は、印パ分離独立後にパキスタンのカラチに移住し、大学卒業後ヨーロッパへ渡った。そ
し て ド イ ツ 、オ ラ ン ダ 、ベ ル ギ ー の 大 学 で さ ら に 学 ん で 1972年 に 博 士 号 を 取 得 し 、オ ラ ン
ダ で ガ ス 遠 心 分 離 機 を 用 い て ウ ラ ン を 濃 縮 す る 、英・独・蘭 合 弁 の 核 燃 料 製 造 会 社 URENCO
に職を得た。合弁三か国の言語に堪能であった彼は、それぞれの国から持ち寄られたウラ
ン濃縮技術の翻訳を担当していたらしい。そしてその作業を通じて、機密文書に接する機
会 も 多 く 、 そ れ ら を 自 宅 に 持 ち 帰 る こ と も あ っ た よ う で あ る 4。
1974年 5月 、 イ ン ド が 核 実 験 に 成 功 し た と の ニ ュ ー ス が 世 界 を 駆 け 巡 る と 、 カ ー ン 博 士
は 9月 、 ブ ッ ト ー 首 相 に 書 簡 を 送 り 、 パ キ ス タ ン の 核 兵 器 開 発 へ の 協 力 を 申 し 出 た 。 カ ー
ン博士は当初、オランダにあって密かにパキスタンでのウラン濃縮施設建設の指示をして
い た が 、1975年 末 か ら 1976年 初 頭 頃 に 帰 国 し 、自 ら ガ ス 遠 心 分 離 機 を 用 い た ウ ラ ン 濃 縮 に
取 り 組 み 始 め た 。こ の こ と は 、パ キ ス タ ン が ウ ラ ン 濃 縮 ル ー ト に 絞 っ た こ と を 意 味 は せ ず 、
こ の 後 も 、カ ー ン 博 士 を 所 長 と す る 工 学 研 究 所( Engineering Research Laboratory, ERL)
( 後 に カ ー ン 研 究 所 Dr. A Q Khan Research Laboratory, KRLと 改 称 ) が ウ ラ ン 濃 縮 ル ー
ト を 、パ キ ス タ ン 原 子 力 委 員 会( Pakistan Atomic Energy Commission, PAEC)が プ ル ト
ニウム・ルートを追求した。ブットー首相や、彼をクーデターで倒したジア=ウル=ハク
( Zia-ur-Haq)大 統 領 は 、両 者 を 競 わ せ る こ と で 開 発 を 急 が せ た 。ウ ラ ン 濃 縮 ル ー ト で は 、
何よりもウラン濃縮そのものが技術的に最も困難であるが、パキスタンの核兵器開発を詳
しく調査した共同通信のパキスタン通信員シャヒドゥ=ウル=ラフマーン
( Shahid-ur-Rehman) に よ る と 、 KRLは ガ ス 遠 心 分 離 法 に よ る ウ ラ ン 濃 縮 に 1978年 6月
に 成 功 し た 5 。 ま た 兵 器 級 ( 93パ ー セ ン ト ) へ の 濃 縮 も 、 1980年 中 に は 達 成 し た 6 。 そ れ に
対 し 、 プ ル ト ニ ウ ム ・ ル ー ト で は 、 爆 縮 ( implosion) に 高 度 な 技 術 が 必 要 で あ る 。 PAEC
は 核 分 裂 物 質 を 使 わ な い 爆 縮 実 験( コ ー ル ド・テ ス ト )に 1982年 3月 に 成 功 し た 。KRLも 、
Shyam Bhatia, “Ex-colleague spills beans on A Q Khan,” rediff.com , January 29, 2004
<http://us.rediff.com/news/2004/jan/29spec.htm>.
4
5
Shahid-ur-Rehman, Long Road to Chagai: Untold Story of Pakistan’s Nuclear Quest ,
(Islamabad: Print Wise Publication, 1999), pp. 58-59.
6
Ibid. , pp. 102-103.
111
翌 年 3月 に コ ー ル ド ・ テ ス ト に 成 功 し た 7 。 こ の 結 果 、 カ ー ン 博 士 の 指 導 の も と で 行 わ れ た
1998年 の 核 実 験 の 際 に 、 プ ル ト ニ ウ ム 型 の 特 徴 で あ る 爆 縮 実 験 も 行 わ れ た よ う で あ る 8 。
( 2)
インド、パキスタンの核開発と米国の対応
このように、インドの核実験で世界が核拡散への警戒態勢を強めてゆく、まさにその時
に、パキスタンは核兵器開発に本格的に乗り出した。上述のフランスとの再処理施設購入
契 約 締 結 直 後 、 キ ッ シ ン ジ ャ ー ( Henry Kissinger) 米 国 務 長 官 が 断 念 を 促 し に パ キ ス タ
ンとフランスを訪れたが、パキスタンに対して最後通牒を突きつけたとフランスで語った
た め 、パ キ ス タ ン は 態 度 を 硬 化 さ せ た 。し か も 、そ の 後 パ キ ス タ ン で は 政 情 が 不 安 定 化 し 、
それをブットー首相は「外国の手」によるものと米国の介入を示唆したため、米パ関係は
非 常 に 悪 化 し た 。 1977年 、 米 国 は 非 公 式 に 対 パ キ ス タ ン 援 助 を 停 止 し た が 、 8月 、 ジ ア =
ウ ル = ハ ク に よ る ク ー デ タ ー が 起 き 、ブ ッ ト ー は 逮 捕 さ れ 、の ち 1979年 に 処 刑 さ れ た 。援
助 は フ ラ ン ス が 再 処 理 施 設 輸 出 を 取 り や め た た め に 1978年 に 再 開 さ れ た が 、1979年 に は ウ
ラン濃縮施設を持つ国への援助を禁じた米国対外援助法サイミントン修正条項が適用され、
再び援助が停止された。
パ キ ス タ ン の ク ー デ タ ー の 年 、 イ ン ド で は 非 常 事 態 下 で 延 期 さ れ て い た 総 選 挙 が 6年 ぶ
りに行われ、野党勢力が結集したジャナタ(人民)党が地滑り的に圧勝して民主主義が機
能 し て い る こ と を 内 外 に 示 し 、パ キ ス タ ン と の 好 対 照 を 見 せ た 。カ ー タ ー( Jimmy Carter)
米政権は、新世界秩序構想の中でインドを地域の中核国として処遇することで応える姿勢
を 示 し 、1977年 末 か ら 78年 に か け て イ ラ ン や フ ラ ン ス な ど と と も に イ ン ド を 訪 問 し た 。米
大統領の中で、パキスタンを訪問せずインドだけを訪れたのはカーター一人である。しか
し 、米 印 関 係 も 、核 問 題 で は 進 展 し な か っ た 。1963年 の 協 定 で 米 国 が イ ン ド の タ ラ プ ル に
建 設 し た 原 子 力 発 電 所 へ の 核 燃 料 供 給 問 題 を め ぐ り 、30年 間 は 米 国 の み が 供 給 す る と い う
協定の文言が、米国で成立しようとしていた核不拡散法と齟齬をきたすからである。核不
拡散法は、包括的保障措置を受け入れた国にしか、核関連物質を輸出してはいけないと規
定していた。
こ う し た 南 ア ジ ア を め ぐ る 米 国 の 核 政 策 の 行 き 詰 ま り は 、1979年 の ソ 連 に よ る ア フ ガ ニ
7
Ibid. , pp. 78-79.
8
Ibid. , p. 79. た だ し 、 シ ャ ヒ ド ゥ = ウ ル = ラ フ マ ー ン は 爆 縮 と プ ル ト ニ ウ ム 型 と を 結 び 付 け て お
らず、濃縮ウラン型爆弾の爆発装置として爆縮を捉えているように思われる。
112
スタン侵攻で一転する。米国にとって、ソ連を追い込む千載一遇のチャンスであったが、
直前のイラン・イスラム革命で最も忠実な同盟国イランを失っていたので、アフガニスタ
ンの反ソ・イスラム兵士を支援するルートはパキスタンを通じたものしかなかった。ジア
= ウ ル = ハ ク 大 統 領 は カ ー タ ー 政 権 か ら の 2年 間 で 4億 ド ル と い う 支 援 申 し 出 を 少 な す ぎ
る 「 ピ ー ナ ッ ツ 」 で あ る と 蹴 り 、 翌 80 年 の 選 挙 で カ ー タ ー を 破 っ て 当 選 し た レ ー ガ ン
( Ronald Reagan) 大 統 領 と 、 1982年 に 5年 間 、 32億 ド ル の 援 助 パ ッ ケ ー ジ の 協 定 を 結 ん
だ。シャヒドゥ=ウル=ラフマーンが記した通りであるとすると、ウラン濃縮も爆縮技術
も 達 成 さ れ た 後 で あ る 。事 実 、1984年 に は 、カ ー ン 博 士 が パ キ ス タ ン 紙 の イ ン タ ビ ュ ー で 、
パ キ ス タ ン が ウ ラ ン 濃 縮 に 成 功 し 、核 爆 発 実 験 も 可 能 で あ る と 述 べ た 9 。こ の こ と を き っ か
けに、米議会が特にパキスタンに向けた対外援助法の修正を行った(サイミントン修正条
項 ) 10 が 、 レ ー ガ ン 大 統 領 は 1984年 、 ジ ア = ウ ル = ハ ク 大 統 領 に ウ ラ ン 濃 縮 を 5パ ー セ ン
トまでに抑えるよう約束させることで、援助は継続していた。このとき、すでにパキスタ
ン は 必 要 な 核 分 裂 性 物 質 を 製 造 済 み で あ っ た 11 。
イ ン ド で は 1980年 に イ ン ド 国 民 会 議 派 が 政 権 に 復 帰 し 、イ ン デ ィ ラ・ガ ン デ ィ ー( Indira
Gandhi) 首 相 は 核 実 験 再 開 を 目 論 む が 、 経 済 危 機 の 下 、 米 国 の 圧 力 で 断 念 す る 。 1984年
の イ ン デ ィ ラ ・ ガ ン デ ィ ー 暗 殺 後 は 、 息 子 の ラ ジ ー ヴ ・ ガ ン デ ィ ー ( Rajiv Gandhi) が 後
継 と な る が 、彼 は グ ロ ー バ ル な 核 軍 縮 イ ニ シ ア テ ィ ヴ に 力 を 注 い だ 。総 じ て 言 え ば 、1974
年の核実験後、核開発をめぐる政治の動きは緩やかで、インドで核の兵器化が本格的に取
り 組 ま れ た の は 1988-89年 と さ れ る 12 が 、 シ ャ ヒ ド ゥ = ウ ル = ラ フ マ ー ン の 主 張 の 通 り に
1980年 代 の 初 期 に パ キ ス タ ン が 核 兵 器 製 造 が 可 能 な 状 態 に あ っ た と す れ ば 、イ ン ド は パ キ
ス タ ン の 核 開 発 の 進 捗 状 況 に も 大 し た 注 意 を 払 っ て い な か っ た こ と に な る 13 。
9
Nawai Waqt , February 10, 1984, in Sreedhar (ed.), Pakistan's Bomb: A Documentary Study ,
Second Edition (New Delh: ABC Publishing House, 1987), p. 69.
10
「 パ キ ス タ ン が 核 爆 発 装 置 を 保 有 し て お ら ず 、そ の 保 有 の リ ス ク を 新 規 援 助 が 相 当 に 減 少 さ せ る
という米大統領の書面による保証がなければ同国に対して援助を行ったり兵器や軍事技術を売却
し て は な ら な い 」 と す る 修 正 条 項 。 1985年 に 成 立 。
11
シ ャ ヒ ド ゥ = ウ ル = ラ フ マ ー ン は 、ジ ア = ウ ル = ハ ク 大 統 領 は 数 個 の 爆 弾 で 満 足 し て い た か ら だ
ろ う と 考 え て い る 。 Ibid. , pp. 113-114.
12
Raj Chengappa, “The Bomb Makers,” India Today , vol. 23, no. 25, June 22, 1998, p. 45.
13
実 際 の 情 報 収 集 に つ い て は よ く わ か ら な い が 、イ ン ド の 外 務 次 官 で あ っ た デ ィ キ シ ッ ト や 、同 戦
略 分 析 研 究 所 の ス ブ ラ マ ニ ア ム 元 所 長 ら は 、ラ ジ ー ヴ・ガ ン デ ィ ー が 核 軍 縮 の た め の 6か 国 5大 陸 イ
ニ シ ア チ ブ へ の 積 極 的 関 与 を 重 視 し て い た こ と を 強 調 し て い る 。J. N. Dixit, MySouthBlockYears:
Memoirs of A Foreign Secretary (New Delhi: UBS Publishers’ Distributors, 1996).
113
K.
他 方 、1987年 に は『 タ イ ム 』誌 の イ ン タ ビ ュ ー で ジ ア = ウ ル = ハ ク 大 統 領 が パ キ ス タ ン
の 核 兵 器 能 力 を 認 め る 14 な ど 、 パ キ ス タ ン は 1980年 代 後 半 に は 核 保 有 を 示 唆 し て 抑 止 効 果
を 狙 っ て い た 。 し か し 、 ジ ア = ウ ル = ハ ク 大 統 領 が 1988年 に 航 空 機 事 故 で 死 亡 し 、 1989
年 に ソ 連 軍 が ア フ ガ ニ ス タ ン 撤 退 を 完 了 す る と 、 翌 1990 年 に は ブ ッ シ ュ ( George H.W.
Bush)大 統 領 は パ キ ス タ ン が 核 兵 器 を 保 有 し て い な い と の 保 証 を 拒 否 し 、サ イ ミ ン ト ン 修
正条項が適用されて米国の対パキスタン援助は停止された。
1990年 の 援 助 停 止 の 契 機 は 、シ ャ ヒ ド ゥ = ウ ル = ラ フ マ ー ン に よ れ ば 、パ キ ス タ ン の 核
兵器開発に関する情報が大統領と陸軍参謀長とによって独占され、文民の首相ベナジル・
ブ ッ ト ー ( Benazir Bhutto) に は 知 ら さ れ て い な か っ た こ と が 仇 と な っ た 。す な わ ち 、ベ
ナ ジ ル・ブ ッ ト ー 首 相 は 1989年 の 訪 米 時 に 、米 政 府 に 対 し て 核 分 裂 性 物 質 生 産 の モ ラ ト リ
アムを約束するのだが、この約束は、逆にそれまでは兵器級の濃縮ウランを生産していた
こ と を 示 し 、し た が っ て 1984年 に ジ ア = ウ ル = ハ ク 大 統 領 が レ ー ガ ン 大 統 領 に 行 っ た 、ウ
ラ ン 濃 縮 を 5パ ー セ ン ト ま で に 抑 え る と い う 誓 約 を 、 パ キ ス タ ン が 守 っ て い な か っ た こ と
を明らかにする結果となった。しかもパキスタン側の誰もそのことに事前に気づいておら
ず 、シ ャ ヒ ド ゥ = ウ ル = ラ フ マ ー ン に よ れ ば 、陸 軍 参 謀 長 ア シ ュ ラ ム・ベ ー グ( Aslam Beg)
は、米国はパキスタンが核兵器製造のためにウラン濃縮を行っていたことは知っていたは
ず だ と 述 べ る ば か り で あ っ た 15 。 要 す る に 、 パ キ ス タ ン は 決 定 的 な 場 面 で 致 命 的 な 失 敗 を
犯したということであるが、そこには、核開発をめぐる米パ間取引について、パキスタン
側 の 連 続 性 が 、ジ ア =ウ ル =ハ ク 大 統 領 の 航 空 機 死 亡 事 故 に よ っ て 絶 た れ た と い う 事 情 が 大
きく作用しているかもしれない。
( 3)
核 不 拡 散 条 約 の 無 期 限 延 長 、 包 括 的 核 実 験 禁 止 条 約 採 択 と 1998年 核 実 験 へ の 道
イラクによるクウェート侵略で湾岸危機が昂進しているころ、パキスタンに対する米国
からの援助が停止されたが、インドもまた、イラクからの石油供給の停止や湾岸からの出
Subrahmanyam, “Indian Nuclear Policy -- 1964-98 (A personal recollection),” in Jasjit Singh
(ed.), Nuclear India (New Delhi: Knowledge World, 1998).
14
“The Cat in the Bag,” Time , March 30, 1987.
15
Shahid-ur-Rehman, Long Road to Chagai , pp. 107-113. た だ し 、シ ャ ヒ ド ゥ = ウ ル = ラ フ マ ー
ンは、米政府がベナジルに、彼女が知らされていないパキスタンの核について詳細に説明したり、
あるいはインド国境での緊張時にパキスタンが核兵器を戦闘機に搭載しようとしていると主張し
たりすることで、援助停止の口実を作ろうとしていたことを積極的に肯定している。
114
稼ぎ者の一斉帰還で経済危機に陥ろうとしていた。印パ両国にとって、冷戦終結は経済危
機 の 開 始 と ほ ぼ 同 義 で あ っ た 。そ れ で も 、イ ン ド で は 1989年 の 総 選 挙 に 敗 北 し た イ ン ド 国
民 会 議 派 が 、1991年 総 選 挙 で は 総 裁 ラ ジ ー ヴ・ガ ン デ ィ ー の 暗 殺 と い う 犠 牲 と 引 き 換 え に
か ろ う じ て 返 り 咲 き 、 5年 間 の 政 権 運 営 を 行 っ た 。 パ キ ス タ ン で は 、 1990年 に ベ ナ ジ ル ・
ブ ッ ト ー 政 権 が 解 任 さ れ る と 、彼 女 と 政 敵 の ナ ワ ズ・シ ャ リ フ( Mian Muhammad Nawaz
Sharif) と の 間 で 2、 3年 の 間 隔 で 椅 子 取 り ゲ ー ム の よ う に 政 権 が 交 代 し た 。
この間、国際社会は冷戦後に「平和の配当」を期待すると同時に、崩壊したソ連や東欧
圏 が も た ら す 不 安 定 へ の 対 処 を 大 き な 関 心 事 と し た 。当 面 は 1995年 に 迫 っ た 核 不 拡 散 条 約
の 運 用 検 討・延 長 会 議 に 焦 点 が 合 わ せ ら れ 、そ の 中 で 、「 核 軍 縮 の 流 れ 」が 形 成 さ れ た 。こ
れは、核不拡散条約へのさまざまな批判にもかかわらず、同条約の核不拡散上の意義を認
め、それが核軍縮に貢献するとする見方である。それは同時に、同条約の不平等性を批判
し、それゆえに同条約に加入せず、また伝統的に核兵器についての「オプション・オープ
ン」政策を採って核保有国を牽制してきたインドを、核拡散の最も有力な候補国として批
判の俎上に載せるものでもあった。こうした対印圧力はクリントン政権の成立とともにい
っ そ う 強 ま り 16 、 核 不 拡 散 条 約 無 期 限 延 長 の 条 件 と な っ た 包 括 的 核 実 験 禁 止 条 約 ( CTBT)
が 5大 国 や イ ン ド 、 パ キ ス タ ン を 含 む 44カ 国 の 署 名 ・ 批 准 を 発 効 の 条 件 と す る 規 定 を 盛 り
込むと、インドはフランスや中国とともに、いわゆる「駆け込み実験」を計画した。
核不拡散条約上の「核兵器国」フランスや中国が公然と「駆け込み実験」を行ったのに
対 し 、イ ン ド は そ れ を 1995年 末 、秘 密 裏 に 計 画 し た 。し か し こ れ は パ キ ス タ ン の 知 る と こ
ろとなり、当時のパキスタン首相ベナジル・ブットーは、中止させなければパキスタンも
対 抗 し て 実 験 を す る と 米 国 に 迫 っ て 、米 国 の 圧 力 で 、イ ン ド は 実 験 を 中 止 し た 17 。こ の 後 、
イ ン ド は 実 験 が 短 期 間 で 可 能 と な る 状 態 を 維 持 し た が 、1996年 か ら イ ン ド は 不 安 定 な 連 立
政 権 期 に 入 り 、実 験 を 遂 行 で き な か っ た 。よ う や く 1998年 の 総 選 挙 で イ ン ド 人 民 党 主 導 の
国 民 民 主 連 合 が 勝 利 す る と 、 イ ン ド 人 民 党 の 公 約 通 り 、 核 実 験 が 行 わ れ た 。 1998年 5月 11
日 と 13日 で あ っ た 。そ の 後 、世 界 は パ キ ス タ ン が 対 抗 実 験 を し な い よ う に 同 国 に 圧 力 を 集
16
当 時 イ ン ド の 外 務 次 官 で あ っ た デ ィ キ シ ッ ト に よ れ ば 、こ の 点 で の イ ン ド に 対 す る 国 際 的 圧 力 は
1992年 の 初 頭 ま で に は 頂 点 に 達 し つ つ あ っ た 。 J. N. Dixit, My South Block Years , p. 368.
17
The Hindu, 2 June 1998. こ の 実 験 の 、米 国 に よ る 黙 認 の 可 能 性 に つ い て は 、吉 田
修「 南 ア ジ
ア の 核 開 発 問 題 」広 島 平 和 研 究 所 編『 21世 紀 の 核 軍 縮 : 広 島 か ら の 発 信 』法 律 文 化 社 、2002年 、第
8章 、 240頁 。
115
中 し た が 、 パ キ ス タ ン も 5月 28日 と 30日 に 実 験 を 行 っ た 。 米 国 や 日 本 な ど は 、 両 国 に た い
し て 経 済 援 助 の 停 止 な ど 、「 経 済 制 裁 」 を 開 始 し た 。
( 4)
核実験後のインドとパキスタン
核実験後の印パ両国関係は、複雑な道程をたどった。当初の緊張は、両国が実際に核兵
器をお互いに対して使用するのではないかという懸念を他国が持っていることが明らかに
なって、互いが責任ある核兵器国であることを示威するという態度に変わってきた。実際
のところ、核実験は両国にとっては核能力の顕在化を意味するに過ぎず、両国間では、米
国 を 介 し た 一 種 の 核 抑 止 関 係 が 、1990年 の カ シ ミ ー ル 危 機 を 契 機 に 成 立 し て い た 。イ ン ド
側カシミールへの、いわゆる「民兵」の侵入に対してインドが兵を動員すると、パキスタ
ン 側 が 核 兵 器 を F16戦 闘 機 に 搭 載 し よ う と し た 、 と い う も の で 、 情 報 の 収 集 と 伝 達 を 米 国
の 特 使 が 行 い 18 、 結 果 的 に 同 年 の 米 国 に よ る パ キ ス タ ン へ の 援 助 停 止 の 理 由 の ひ と つ に な
ったものである。
両 国 間 の 緊 張 緩 和 は 翌 1999年 2月 に は 、 デ リ ー − ラ ホ ー ル 間 の 定 期 バ ス 便 の 運 行 に ま で
結 実 し 、 そ の 一 番 便 に 乗 っ て ラ ホ ー ル を 訪 問 し た イ ン ド 首 相 バ ジ パ イ ( Atal Behari
Vajpayee)と パ キ ス タ ン の ナ ワ ズ ・ シ ャ リ フ 首 相 は 、両 国 間 の 信 頼 醸 成 の た め の ラ ホ ー ル
宣言に署名した。ところが、ちょうどそのときにパキスタン軍は、カシミールの管理ライ
ンの北からインド側カシミールにある町カルギルを見下ろすところに陣地を作っていた。
これは春にはカルギル付近での「民兵」とインド軍との激しい戦闘となり、印パ間の緊張
はまたも大きく高まった。
ナワズ・シャリフは軍と戦う首相であった。実業界に基盤を持つ彼は、軍と結びついて
多くの首相を解任してきた大統領を、冷戦後という環境を利用して逆に解任し、最高裁判
事を辞職させ、陸軍参謀長人事も自ら行ってきた。核兵器に関する情報は大統領と陸軍参
謀 長 が 独 占 し て い た 19 た め 、 核 実 験 に あ た っ て は 、 ナ ワ ズ ・ シ ャ リ フ に 決 定 権 は な か っ た
18
当 時 の パ キ ス タ ン 陸 軍 参 謀 長 ア ス ラ ム・ベ ー グ は 、シ ャ ヒ ド ゥ = ウ ル = ラ フ マ ー ン の イ ン タ ビ ュ
ー に 対 し て 、 パ キ ス タ ン 軍 が 核 兵 器 を 搭 載 し よ う と し た と い う 米 特 使 ロ バ ー ト ・ ゲ イ ツ ( Robert
Gates) の 主 張 を 捏 造 で あ る と し て 否 定 し て い る 。 Shahid-ur-Rehman, Long Road to Chagai , p.
111.
Shahid-ur-Rehman, Long Road to Chagai , p. 110. Munir Ahmed, How We Got It: A True
Story of Pakistan’s Nuclear Programme (Lahore: Intekhab-e-Jadeed Press, 1998), p. 47. イ ン
19
ド の ス ブ ラ マ ニ ア ム は 、 ベ ナ ジ ル ・ ブ ッ ト ー 首 相 の 矛 盾 し た 発 言 や 、彼 女 に す べ て 情 報 は 与 え ら れ
116
と考えられるが、核実験後、国際社会からの圧力を背景に、彼はパキスタンとインドとの
信頼醸成過程を進めていくことを通じて、核兵器管理の権限を、徐々に文民政府に移そう
とした。それゆえ、軍は権力にとどまる最後の綱を失う危機感を持ったと推測される。ラ
ホールで信頼醸成措置を進めながら、カルギルで「民兵」にそれを破壊させるというパキ
スタンの矛盾した行動は、国内政治における文民政府と軍との対立を反映したものと見る
と 最 も 整 合 的 に 理 解 で き る で あ ろ う 。さ ら に 言 え ば 、「 民 兵 」と は 無 関 係 と い う パ キ ス タ ン
政 府 の 立 場 に も か か わ ら ず 、 1999年 7 月 に 訪 米 し て ク リ ン ト ン ( William Clinton) 米 大
統領から撤退を求められたナワズ・シャリフが、事実上撤退に応じたのも、この敗北がパ
キ ス タ ン 政 府 の も の で は な く 、軍 の 敗 北 で あ る と い う 認 識 が あ っ た か ら で は な い だ ろ う か 。
しかしながら、この軍とナワズ・シャリフとの戦いは、ムシャラフ陸軍参謀長を解任し
よ う と す る ナ ワ ズ・シ ャ リ フ に 対 す る 軍 の ク ー デ タ ー と い う 形 で 、1999年 10月 12日 に 結 着
し た 。「 経 済 制 裁 」に 苦 し む パ キ ス タ ン は ま た も 軍 政 に 移 行 し た 。イ ン ド は カ ル ギ ル 戦 争 の
責任者であるムシャラフが率いる軍政との交渉を拒否し、英連邦もパキスタンの資格を停
止するなど、パキスタンの孤立はいよいよ深まっていった。
他方でインドは、連立の構成は変わってもインド人民党主導の連立政権は安定的に政権
を 運 営 し 、 同 年 8月 に は 「 核 ド ク ト リ ン 」 草 案 を 発 表 す る な ど 、「 責 任 あ る 核 兵 器 国 」 と し
て の 体 裁 を 着 実 に 整 え て い っ た 。 2000年 3月 の ク リ ン ト ン 大 統 領 南 ア ジ ア 訪 問 は 、 イ ン ド
に 5日 間 滞 在 す る 一 方 で 、 パ キ ス タ ン に は 5時 間 し か お ら ず 、 ク リ ン ト ン 政 権 の 対 イ ン ド 、
対 パ キ ス タ ン の 姿 勢 を 象 徴 す る も の に な っ た 20 。 た だ 、 期 待 さ れ て い た 「 経 済 制 裁 」 の 解
除は行われず、印パの均衡待遇はかろうじて残った。
2.
同時多発テロ以降の南アジアと核拡散
( 1)
ブッシュ(子)政権の成立と南アジア
2001年 の ブ ッ シ ュ ( 子 )( George W. Bush) 政 権 の 成 立 は 、 南 ア ジ ア に 複 雑 な 影 響 を 与
え た 。 自 身 が CTBTを 拒 否 し 、 ま た ABM条 約 も 廃 棄 し て 単 独 で の 安 全 保 障 を 追 求 す る 同 政
て い た と す る ア ス ラ ム ・ ベ ー グ 陸 軍 参 謀 長 の 暴 露 、ナ ワ ズ ・ シ ャ リ フ 首 相 の 核 使 用 発 言 な ど を 引 い
て 、 文 民 首 相 は 核 開 発 の 情 報 を 得 て い た と 考 え て い る 。 Subrahmanyam, op.cit., p. 45.
20
ク リ ン ト ン 大 統 領 の 南 ア ジ ア 訪 問 に つ い て は 、 堀 本 武 功 「 九 〇 年 代 に お け る 印 米 関 係 の 展 開 」、
堀 本 武 功・広 瀬 崇 子 編『 現 代 南 ア ジ ア
民 主 主 義 へ の と り く み 』( 東 京 大 学 出 版 会 、2002年 )所 収 、
及 び 、 田 中 明 彦 「 冷 戦 後 ア メ リ カ の 南 ア ジ ア 政 策 」、 秋 田
茂・水島
シ ス テ ム と ネ ッ ト ワ ー ク 』( 東 京 大 学 出 版 会 、 2003年 ) 所 収 を 参 照 。
117
司編『現代南アジア
世界
権 は 、 核 不 拡 散 条 約 を 拒 否 し 、 CTBT加 入 で 「 経 済 制 裁 」 の 決 着 を つ け よ う と し て い た 印
パ両国に、米国との関係構築のきっかけを失わせたからである。ただ、ミサイル防衛構想
な ど で 中 国 と の 関 係 を 冷 却 化 し た ブ ッ シ ュ 政 権 に 対 し 、イ ン ド は 接 近 の 姿 勢 を 示 し 始 め た 。
ミ サ イ ル 防 衛 構 想 は 、 こ れ を 軸 に 、 同 政 権 が 中 国 と 対 立 す る の み な ら ず 、「 な ら ず 者 」
国家への強硬姿勢をも強調するために、そうした「ならず者」国家との関係が疑われてい
たパキスタンにとっては、対米関係の不安定要因であった。経済制裁に苦しむパキスタン
には、資金や核兵器運搬のためのミサイル技術を得るための、北朝鮮、イラン、イラク、
サウディ・アラビア、リビアなどへの核技術流出の疑惑が付きまとった。ムシャラフ最高
行 政 官 は 2001年 3月 、 疑 惑 の 中 心 に い る と 見 ら れ た カ ー ン 博 士 を KRL所 長 か ら 解 任 し 、 自
らの特別顧問とした。
こうした両国の対米関係改善への落差を背景に、印パ関係も、大して進展しなかった。
両 国 は 7月 に イ ン ド の ア グ ラ で 首 脳 会 談 を 行 い 、 パ キ ス タ ン の ム シ ャ ラ フ 最 高 行 政 官 は そ
れ に 備 え て 6月 に 大 統 領 に 就 任 し 、 軍 服 を 脱 い で イ ン ド を 訪 れ た 。 そ れ で も 、 カ シ ミ ー ル
問題をめぐって会談は決裂し、かえって関係改善の難しさを浮き彫りにした。
こ の よ う な 、 印 パ 米 関 係 の 行 き 詰 ま り の 中 で 、 2001年 9月 11日 は 訪 れ た 。
( 2)
9.11同 時 テ ロ と イ ン ド ・ パ キ ス タ ン 関 係
アフガニスタンのタリバーン政権については、一方でアルカイダとの関係を重視すれば
テロリスト国家であるが、石油パイプライン等を含む戦略的重要性を持つ地域に軍事的安
定をもたらすものと捉えれば、有用な国家である。パキスタンは後者の面を強調し、事実
上 タ リ バ ー ン の 生 み の 親 21 と し て 、 西 側 諸 国 と タ リ バ ー ン 政 権 と の 仲 介 役 を 行 う こ と に そ
の戦略的役割を求めて来た。おそらくはそのせいで、同時多発テロ後のブッシュ(子)政
権のタリバーン政権に対する強硬な姿勢を、パキスタンは読み間違えた。パキスタン政府
は オ サ マ ・ ビ ン ・ ラ ー デ ィ ン ( Osama bin Laden) の 引 渡 し を タ リ バ ー ン 政 権 に 求 め て 失
敗し、米国に強く求められてタリバーン政権と断交し、対アフガニスタン戦争で自国領空
が使われることを承認し、ついには自国内の軍事基地から米軍がアフガニスタンに空爆を
行うことを密かに認めた。
21
こ の 点 に つ い て は 、 see, Ahmed Rashid, Taliban: Islam, Oil and the New Great Game in
Central Asia , I.B. Tauris, London, 2000( ア ハ メ ド ・ ラ シ ッ ド ( 坂 井 定 雄 、 伊 藤 力 司 訳 )『 タ リ バ
ン ─イ ス ラ ム 原 理 主 義 の 戦 士 た ち 』( 講 談 社 、 2000年 )) .
118
こ の 最 後 の 点 は 、2つ の 意 味 で 重 要 で あ る 。ひ と つ に は 、米 国 は 、米 パ 関 係 が 最 も 緊 密 な
「 同 盟 」 関 係 で あ っ た 時 期 で す ら な し え な か っ た 規 模 で 22 、 自 国 軍 を パ キ ス タ ン に 展 開 す
る こ と が 可 能 に な っ た 。こ の こ と は 逆 に パ キ ス タ ン に は 、米 国 の 事 実 上 の「 同 盟 国 」に( 再
び)加わることが可能になったという意味を持とう。
もうひとつは、すでに反米化し、またイスラム化しつつあったパキスタン国内世論の問
題 で あ る 。大 衆 的 な 支 持 の あ っ た ブ ッ ト ー 政 権 を 1977年 の ク ー デ タ ー で 倒 し て か ら 、軍 政
は自身の正統性を確保するためにイスラム化を進めており、ムシャラフ大統領も、ジア=
ウ ル = ハ ク の 愛 弟 子 と し て 、 イ ス ラ ム 化 を 担 っ て い た 23 。 ま た 、 度 重 な る 援 助 停 止 に よ っ
て、国民の反米感情も大きい。こうした状況でのイスラム国家を標的とする対米軍事協力
は、ムシャラフ大統領を繰り返し暗殺の危険に晒すことになった。
ま た 、対 タ リ バ ー ン 戦 争 へ の 印 パ 両 国 の 協 力 的 な 姿 勢 は 、米 国 や 日 本 な ど 、1998年 の 核
実 験 を 理 由 と す る「 制 裁 」を 続 け て い た 諸 国 に そ の 解 除 の 好 機 を 与 え た 。米 国 は 9月 23日 、
日 本 は 10月 26日 で あ っ た が 、パ キ ス タ ン に 比 べ 、イ ン ド が ア フ ガ ニ ス タ ン 戦 争 で 果 た し た
役割が極めて周辺的であることを考えると、インドは大きな漁夫の利を同時テロから得た
と 言 え よ う 。イ ン ド で は 、ア フ ガ ニ ス タ ン 戦 争 が ほ ぼ 収 束 し た 12月 13日 、デ リ ー の 国 会 議
事 堂 へ の 襲 撃 事 件 が 起 き 、 警 備 員 7人 と 襲 撃 し た パ キ ス タ ン 国 籍 の 5人 全 員 が 死 亡 し た が 、
インド政府はイスラム・テロリストに対する国際社会の懸念を背景にパキスタンに対して
強 硬 な 姿 勢 を 貫 き 、パ キ ス タ ン 政 府 に 具 体 的 な イ ス ラ ム 過 激 派 対 策 を 求 め た 。こ れ も ま た 、
ムシャラフ政権の正統性を国内的に問わしめるものとなった。
( 3)
イラク戦争、イラン、リビアとパキスタンの核兵器技術流出
大 規 模 な 戦 闘 の 終 結 と と も に 、ア フ ガ ニ ス タ ン の 問 題 は 急 速 に 忘 れ ら れ て ゆ く 。し か し 、
パキスタンの対米軍事協力と、その結果としての米軍幹部によるパキスタン内部情報の共
有は、大量破壊兵器拡散ネットワークの存在をパキスタンを切り口として示唆し始めた。
2002年 10月 、『 ニ ュ ー ヨ ー ク ・ タ イ ム ズ 』 が 北 朝 鮮 の 核 開 発 に ミ サ イ ル と バ ー タ ー の 形 で
22
1950年 代 以 降 、米 軍 は パ キ ス タ ン の ペ シ ャ ー ワ ル に 偵 察 基 地 を 持 っ て い た 。こ れ は 軍 事 衛 星 の
発 達 で 戦 略 的 意 義 が 失 わ れ 、ま た 第 二 次 印 パ 戦 争 後 の 米 パ 関 係 冷 却 化 に よ っ て 、1968年 に 閉 鎖 さ
れた。
23
Jasjit Singh, “The Fourth War,” in Jasjit Singh (ed.), Kargil 1999: Pakistan's Fourth War
for Kashmir (New Delhi: Knowledge World, 1999), pp. 137-138.
119
パ キ ス タ ン が 関 与 し て い る と 報 じ 24 、 イ ラ ン の 核 開 発 と パ キ ス タ ン と の 関 連 も 報 じ ら れ だ
し た 25 。 翌 2003年 3月 に 米 英 軍 が イ ラ ク を 攻 撃 し 、 サ ダ ム ・ フ セ イ ン ( Sadam Hussain)
体制があっけなく崩壊すると、今度は逆にイランやリビアから、それら諸国に核技術を売
ったのはパキスタンであることが、それら諸国自身から明らかにされるようになった。し
かもそれらの国々からの情報を通じて、パキスタンの最も信頼できる同盟国、中国が、パ
キスタンに核爆弾の設計を教えていたという事実まで―長く疑われてきたことではあっ
た が ― 明 ら か に な っ た 26 。
このことは、逆に米国の側からいえば、アフガニスタンとイラクに対して行った戦争の
結果、パキスタンをはじめとする秘密核拡散ネットワークを「囚人のジレンマ」に置き、
そのことによって、ネットワークを崩壊させることに成功したのである。しかし、この代
償がどの程度のものになるのか、米国の、現状では忠実な同盟国パキスタンが、どのよう
な政治的不安定を迎えるのかは、これからの課題である。
24
The New York Times , October 18, 2002. こ の 報 道 の 中 で 、同 紙 も 証 拠 は パ キ ス タ ン か ら で は な
いかと見ている。
25
“U.S.
has
photos
of
secret
Iran
nuclear
sites,”
cnn.com,
October
13
2002
<http://www.cnn.com/2002/WORLD/meast/12/12/iran.nuclear/>.
26
国 際 原 子 力 機 関 を 通 じ て イ ラ ン か ら の 情 報 が 持 ち 込 ま れ 、KRLの 科 学 者 が 取 り 調 べ を 受 け た 事 件
( “Two KRL officials being interrogated,” The Nation , December 11, 2003)や 、リ ビ ア か ら 中 国
製 の 核 兵 器 の 設 計 図 が パ キ ス タ ン を 通 じ て も た ら さ れ た と 報 じ ら れ た 事 件 ( “U.S. Says China
Cooperating on Nukes,” The Washington Post , February 16, 2004) な ど が あ る 。
120