高知県でのアメリカ空爆用の風船爆弾気球づくり

高知県でのアメリカ空爆用の風船爆弾気球づくり
藤原
義一
1,は じ め に
コウゾを原料にした土佐和紙が大量に大日本帝国陸軍の兵器の材料に使われたことがあ
る 。大 東 亜 戦 争 1 の 中 、1944 年 ∼ 1945 年 に 大 日 本 帝 国 陸 軍 が 用 い た 風 船 爆 弾 の 一 部 だ っ た 。
風船爆弾は、ふ号兵器という秘匿名称で呼ばれていた。コウゾ製の和紙でつくった風船
し ょ う い だ ん
( 直 径 10 メ ー ト ル )に 水 素 を み た し 、自 動 的 に 高 度 を 調 節 す る 装 置 と 爆 弾 、焼 夷 弾 を つ け
る。それを高度 1 万メートルに吹く偏西風の流れに乗せて飛ばして、アメリカ大陸を攻撃
するというものだった。
風 船 爆 弾 は 、神 奈 川 県 の 第 9 陸 軍 技 術 研 究 所 2 で 開 発 さ れ た 。満 州 事 変 3 後 の 1933 年 こ ろ
か ら 日 本 の 関 東 軍 、 陸 軍 に よ っ て 研 究 さ れ 、 1944 年 か ら 実 用 化 さ れ た 。
て
す
き
高知県は、風船爆弾の気球づくりの拠点の一つになった。 日本手漉紙工業組合連合会の
『 昭 和 十 六 年[ 一 九 四 一 年 ]度 調 査 統 計 』に よ る と 高 知 県 の 和 紙 生 産 額 は 全 国 1 位 で 1618
てんぐじょうし
万 円 。高 知 の 和 紙 は 薄 紙・ 典 具 帖 紙 4 を す く こ と が で き る と い う 点 で も 出 色 だ っ た 。高 知 県
では、大柄で良質のコウゾが大量に栽培されていた。県内のコウゾの黒皮・白皮の既製品
のストックも他県にくらべて多かった。5
高 知 県 に お け る 風 船 爆 弾 の 気 球 づ く り は 、 陸 軍 の 監 督 、 指 導 の も と に 、 1943 年 ∼ 1045
年春におこなわれた。
き
が
み
加工前の紙・生紙は、生紙をつくるための黒コウゾの皮はぎは、国民学校の児童もまき
こんで全県的規模でおこなわれた。
生紙は、手すきだけでなく機械すきでもつくられた。
生紙をつくる作業は、以下のような工程だった。①原料であるコウゾの生産②コウゾの
表皮をはいで水につけ、乾燥させるという作業③工場で、そのコウゾを煮て砕き、細かい
繊維にする作業④それをのりと混ぜてすき、乾燥させて出荷する作業。手すきだけでなく
機械すきでもつくられた。
1
大 東 亜 戦 争 = 中 国 へ の 侵 略 戦 争 を 推 し 進 め て い た 大 元 帥 ・ 昭 和 天 皇 は 、 1941 年 12 月 8 日 、 南 方 に 新
たな資源を求めてアメリカ、イギリスなどに開戦した 。アジア太平洋戦争 と呼ぶこともある。
2
第 9 陸 軍 技 術 研 究 所 = 通 称 ・ 登 戸 研 究 所 。 所 在 地 ・ 登 戸( い ま は 川 崎 市 多 摩 区 東 三 田 )。 1939 年 、 陸
軍 科 学 研 究 所 と し て 開 設 。 1942 年 に 組 織 を 拡 充 し 、 ス パ イ 活 動 を お こ な う 参 謀 本 部 第 2 部 第 8 課 の 命
令を受け、電磁波を利用した殺人用怪力光線、アメリカ本土爆撃用の風船爆弾などの開発を進めた。
所 長 ・ 篠 田 鐐 少 将 ( 1941 年 6 月 15 日 ∼ ) 。
3 満 州 事 変 = 1931 年 9 月 18 日 の 深 夜 、 満 州 と 呼 ば れ て い た 中 国 東 北 部 ・ 満 州 の 奉 天 ( 現 在 の 瀋 陽 ) 近
りゅうじょう こ
郊の 柳 条 湖で、南満州鉄道の線路を日本軍(関東軍)が爆破、中国軍の仕業だとでっち上げて軍事行
動を始め、満州全土の制圧に乗り出した。
4 典 具 帖 紙 = 極 め て 薄 く 、か つ 強 靱 な 楮 和 紙 の 製 作 技 術 。明 治 初 期 に 高 知 県 に 技 術 が 導 入 さ れ て 発 達 し
た。製作には、高知県産の良質の楮を原料とし、消石灰で煮熟した後、極めて入念な除塵(ちりとり)
や 小 振 洗 浄 を お こ な い 、不 純 物 を 除 去 し て 用 い る 。ト ロ ロ ア オ イ の ネ リ を 十 分 に き か せ た 流 漉 で 、簀 桁
を激しく揺り動かして素早く漉き、楮の繊維を薄く絡み合わせる。
5 吉 野 ( 2000) ,PP110- 12,133- 135
1
図 1 大日本帝国陸軍の風船爆弾のしくみ
(出 所 ) 櫻 井 誠 子 (2007)
生紙は原紙に加工し、それを使って高知市の各工場で気球に組み立てた。
気球の組み立ては、つぎのような工程であった。①用紙をコンニャクのりを使ってはり
あわせて直径10メートルの紙の気球にする作業②満球テストをする作業③それを県外に
送る。
高知市内の 3 つの高等女学校が気球をつくる工場にされた。
少しあとには高知市旭にセンター的な気球づくりの工場がで きた。その労働力として高
等女学校の生徒、女子挺身隊員らがあてられた。
2
紙の気球の下の計器、爆弾、焼夷弾は県外の工場でつけられた。
また、生紙は、県外の気球組立工場にも送られた。
し か し 、風 船 爆 弾 に よ る 攻 撃 は 破 た ん し 、1945 年 春 、高 知 で 風 船 爆 弾 の 気 球 づ く り 作 業
が終了した。
このころから高知県は、アメリカ軍が高知に上陸することを想定した本土決戦態勢に移
行する。高知県民は高知に急きょ配備された数万人の海軍、陸軍の部隊とともに爆撃機、
戦闘機、軍艦、戦車など近代兵器を大量に駆使するアメリカ軍と竹ヤリなどでたたかいぬ
くことを余儀なくされるような状態であった。
高知県の地場産業である紙産業が風船爆弾の気球づくりに関わった歴史を詳細に論じる
ことが本稿の目的である。
ここで、論者が、なぜ、高知県での風船爆弾づくりについて興味を持ったのか。個人的
事 情 に つ い て 触 れ た い 。 そ れ は 、 私 が 、 1990 年 8 月 に 母 ・ 藤 原 冨 士 子 6 か ら 聞 い た 、 高 知
市旭で風船爆弾の紙をすいていたという話に触発されたからである。
大東亜戦争のさ中、高知市旭で紙すきをしていた冨士子は、高知市の旭尋常小学校で同
級 生 だ っ た 大 工 の 池 田 益 喜 と 結 婚 す る 。し か し 、益 喜 は 高 知 市 朝 倉 の 陸 軍 歩 兵 44 連 隊 に 召
集され、入隊して 3 日目の銃剣術の訓練のとき、胸をつかれ、それがもとで亡くなる。
生 ま れ た 長 男 ・ 征 助 も 病 気 で 亡 く な る 。 そ の あ と 、 冨 士 子 は 、 陸 軍 歩 兵 44 連 隊 の 楠 (部
隊 長 )の 母 の 付 き 添 い 看 護 婦 の 仕 事 を す る よ う に な っ た 。
「ほいたら、役所からきた人が私を探し当てて、『高知市旭の尾崎製紙へ帰って紙をす
かざったら軍属やらないかん』ゆうて。そして、軍の命令で尾崎製紙で紙をすきだした。
付 き 添 い 看 護 婦 の ほ う が 、 ず っ と 金 を と れ た け ど 。 軽 気 球 ゆ う て ね ぇ 。 地 球 を 回 っ て 、 24
時間たったら爆弾が破裂するがをこしらえよった。風船爆弾いいよった。その紙をつくり
よった。特別の紙で、厚いことはないけんど。加工しちゅう。濡れんようにね。もんでも
溶けん紙なの。仕上がった紙を水の中にやっても溶けんわけ。いままで、そんながをすい
た こ と は な い 。 す い た ら す い た ば あ 、 お 金 く れ る 。 日 に 500 枚 は す け る 。 尾 崎 製 紙 は 、 太
い 工 場 や け ん ど 、 男 の 人 は 戦 争 に い て 、 す く 人 は 女 が 2、 3 人 し か お ら ざ っ た 。 紙 す き は 、
もともと男がおもで、女で紙をすく人はよけなかった。」
尾崎製紙工場のことを調べてみると、当時の住所で「土佐郡旭村」にあった。
そのことを知ってから、おりにふれて高知県における風船爆弾づくりについて調べてき
た。
高知での風船爆弾づくりについては、その始まりから終了までを総合的にくわしくまと
めた文献は見当たらなかった。この原稿は、この問題を調査し、考えるうえで一定の役割
を果たしうるものになると思う。
なお、引用文の[]の中は論者の注である。
6
藤 原 冨 士 子 = 姓 ・ 山 脇 。 1919 年 12 月 1 日 ∼ 1983 年 7 月 9 日 。
3
2,風 船 爆 弾 づ く り の 準 備 段 階 で の 高 知 県 で の 動 き
まず、風船爆弾づくりの準備段階での高知県での動きを見る。
(1)徳 平 製 紙 工 場
「……十八年[一九四三年]春、高知市上町 [かみまち]三丁目の能楽師で、当時、徳
平 製 紙 工 場 を 経 営 し て い た 徳 平 元 太 郎( 七 九 )は 、東 京・青 山 の 陸 軍 需 品 本 省 7 か ら 高 知 県
に派遣されていた監督官から、和紙製品調達の依頼を受ける。県手すき和紙統制組合の常
務理事でもあった徳平へ伝えられた話は、『一兵も損なうことなく、アメリカに勝つ兵器
をつくるので、ぜひ協力してくれ』というだけであった。高知県内には百二、三十の手す
き和紙の業者がおり、丈夫な土佐和紙が高空を飛ぶ紙風船の球皮に欠かせない材料だった
のである。
『組合の役員は、みな神妙な面持ちで、話を聞いた。もちろん、風船爆弾とか、気球に
使うとか、ひとことも説明はなかった。うすうす気がついたのは、しばらく後のことだっ
た 』 と 徳 平 は 回 想 す る 。 8」
(2)輸 出 和 紙 株 式 会 社
高 知 市 旭 町 3 丁 目 94 番 地 に あ っ た 輸 出 和 紙 株 式 会 社( い ま は 、こ こ に は イ オ ン 高 知 旭 町
店がある)も風船爆弾の気球づくりに巻きこまれていく。9
同 社 は 、1941 年 に 日 本 紙 業 株 式 会 社 の 典 具 帖 紙 部 と 三 浦 製 紙 株 式 会 社 の 典 具 帖 紙 部 が 合
併 し て 設 立 さ れ た 会 社 。敷 地 は 500 坪( 1652.89256 平 方 メ ー ト ル )ほ ど で あ っ た 。約 1000
人 ほ ど の 工 場 だ っ た 。 機 械 す き と 手 す き が 共 存 。 手 す き の す き 舟 が 240 槽 あ っ た 。 お も に
典具帖紙をつくっていた。ここの製品は大東亜戦争が始まる前まではタイプライター原紙
で、もっぱら輸出用だった。
1944 年 初 め 、 陸 軍 航 空 本 部 1 0 は 、 こ の 輸 出 和 紙 株 式 会 社 に 、 丸 ふ 作 戦 に 協 力 す る よ う 軍
命を下した。同社の首脳陣は同作戦実施のために、陸軍省航空本部加工紙技術要員として
特 命 を 受 け た 同 工 場 の 山 岡 茂 太 郎 氏 、紙 す き の 女 性 技 術 者 10 人 ほ ど に 上 京 す る よ う に 命 じ
た。一行は、東京・四谷の陸軍省本部、京急線蒲田駅の海岸側の陸陸航空本部が統括する
国産科学工業株式会社本社工場、埼玉県小川町の埼玉県小川製紙指導所、東京・両国の国
技館、東京・浅草の国際劇場で風船爆弾用のコウゾの生紙のつくりかた、風船爆弾の気球
の紙のはりあわせの技術を学んだ。
つぼりょう
生 紙 は 、 厚 手 の 典 具 帖 紙 で 、 坪 量 1 1 18g/㎡ の も の だ っ た 。 典 具 帖 紙 の よ う に 完 全 に 繊 維
分 だ け に す る の で は な く 、 ヘ ミ セ ル ロ ー ス 12分 を 残 す と い う や り か た だ っ た 。 は り あ わ せ
7
陸軍需品本省=正しくは、陸軍需品本廠。
朝 日 新 聞 高 知 支 局 編 ( 1986) ,PP110-112
9 山 岡 ( 2007)
、 PP75-81 朝 日 新 聞 高 知 支 局 編 ( 1986) ,PP110-112 小 林 ( 1995) ,PP44-55
10
陸 軍 航 空 本 部 = 大 日 本 帝 国 陸 軍 省 の 外 局 の 一 つ で 、 1925 年 、 航 空 兵 科 が 兵 科 と し て 独 立 し た こ と に
ともない陸軍航空部が陸軍航空本部として改編し権限強化がはかられた。
11 坪 量 = 洋 紙 お よ び 板 紙 1m ²当 た り の 重 量 の こ と 。 「 g / m² 」 で 表 示 す る 。
8
4
は、縦と横を相互に方向が違うように重ねあわせるものだった。重ねあわせは風船の上部
用は 4 枚、下部用は 3 枚でおこない、三角乾燥機で乾燥した。このようにして重ねあわせ
た紙にコンニャクのりをぬり、ついで炭酸ソーダやグリセリンで処理したあと、風船とし
てつくりあげた。さらに、そこに空気を入れ、内圧をかけてもれの検査をした。合格した
ものは国技館、国際劇場で最終的な試験をし、サンドバックやロープを取りつけた。そし
て、発射地に向けて梱包された。
山岡が東京で3月ほどの研修のあと、高知市旭の工場に帰ると、工場では本格的な気球
づくりの体制に入って稼働していたという。
(3)高 知 製 紙 株 式 会 社
旭 の 工 場 が 風 船 爆 弾 の 気 球 を つ く り は じ め た こ と を 知 っ た 高 知 製 紙 株 式 会 社 (陸 軍 、海 軍
の 指 定 工 場 )の 経 営 陣 の 河 野 楠 一 氏 は 、得 意 の「 因 州 美 濃 四 幅 」の 技 術 を 駆 使 し 同 社 伊 野 工
場で、生紙の機械すきに成功、直ちに試験すきの一巻を背に、東京へと急いだという。陸
軍 航 空 本 部 に 、 こ の 試 験 す き を 見 せ る と 、 し ば ら く 待 た さ れ た 後 、 憲 兵 13に 連 行 さ れ た 河
野氏は、情報の入手などに関して二、三日取り調べを受けた。後に河野氏は「後にも先に
も 、 あ れ ほ ど 怖 か っ た こ と は な か っ た 」 と 当 時 を 語 っ た と い う 。 14
3, 高 知 県 で の 風 船 爆 弾 気 球 づ く り で 、 い ま 残 っ て い る 現 物 史 料
高知県での風船爆弾の気球づくりの実際を知る現物史料で高知県で残っているのは、私
が 見 た も の で は 、 い の 町 幸 町 110 の 1 の 、 い の 町 紙 の 博 物 館 が 所 蔵 し て い る 2 種 類 の 紙 だ
けだ。
(1)円 網 抄 紙 機 で 抄 造 し た 生 紙 の 束
一 つ は 、 円 網 抄 紙 機 で 抄 造 し た 生 紙 の 束 で 、 縦 24.5 セ ン チ メ ー ト ル 、 横 74.5 セ ン チ メ
ートルのものだ。
12
ヘミセルロース=植物細胞壁に含まれる、セルロースを除く水に対して不溶性の多糖類の総称。
憲兵=大日本帝国陸軍の憲兵は、陸軍大臣の管轄に属し、軍事警察、行政警察、司法警察 をつかさ
どる。
13
14
河 野 ( 1992) 、 PP.142− 143
5
写真 1 円網抄紙機で抄造した生紙
(出 所 ) 2012 年 11 月 30 日 、 い の 町 紙 の 博 物 館 で 撮 影
1) 城 東 安 芸 製 紙 有 限 会 社 の 原 紙
も う 一 つ は 原 紙 で 2 枚 で 、縦 61.5 セ ン チ メ ー ト ル 、横 171 セ ン チ メ ー ト ル の も の で あ る 。
その一つには「城東安芸製紙有限会社/第一工場/製造者名
小原栄子/製造月日
十二
月 二 十 四 日 / 三 十 八 匁[ も ん め ]」の エ ブ が つ い て い る 。お そ ら く 1945 年 12 月 24 日 の も
のだろう。コンニャクのりが塗られているようでパリパリした感じになってる。所々、水
色の紙の小片で補強している。城東安芸製紙有限会社は安芸市井口にあった会社。なお、
三 十 八 匁 は 142.5 グ ラ ム で あ る 。
写真 2 風船爆弾の原紙
(出 所 ) 2012 年 11 月 30 日 、 い の 町 紙 の 博 物 館 で 撮 影 。 人 物 は 同 館 の 高 橋 正 代 館 長 と い
の町産業経済課の池典泰氏
6
国内には、つぎのようなものが収蔵、展示されている。
・紙のまち資料館(愛媛県四国中央市)=強力検定の合格印の押された生紙 6 枚、風船
爆弾づくりに従事した川之江高等女学校動員学徒への陸軍兵器行政本部川之江監督班長か
らの表彰状が展示されている。
・ 国 立 科 学 博 物 館 ( 東 京 都 台 東 区 上 野 公 園 7 の 20) = 風 船 爆 弾 の 高 度 保 持 装 置 を 収 蔵 。
閲 覧 に つ い て は 、国 立 科 学 博 物 館 筑 波 研 究 施 設 研 究 活 動 広 報 担 当 に 申 請 。〒 305− 0005
つ
く ば 市 天 久 保 4 の 1 の 1。
・ 東 京 都 江 戸 東 京 博 物 館 ( 東 京 都 墨 田 区 横 綱 1 の 4 の 1) = 風 船 爆 弾 の 気 球 の 部 分 の 設
計図、和紙のはり合わせ方や和紙を強化するための塗料などの製法などが書かれた書類、
風船爆弾の気球づくりの工場として使われていた東京宝塚劇場の製造ラインの見取り図、
風 船 爆 弾 の 製 造 に つ い て 検 討 し た と み ら れ る 2 冊 の ノ ー ト な ど 8 7 点 。2007 年 4 月 か ら 一
時展示された。
なお、アメリカには、つぎの所に、以下のものが保管、展示されているという。
・スミソニアン博物館の保管庫=気球部分
・国立航空宇宙博物館=気圧計および爆弾部分の気球下部部分の実物
4, 高 知 県 で の 風 船 爆 弾 気 球 づ く り の 過 程
高知県での風船爆弾気球づくりの過程を知るうえで、まず、これまでにわかっている、
その関連施設を表であげておきたい。
7
図 2
高知県の風船爆弾用気球づくりの関連施設など
陸軍兵器行政本部高知監督班
高知市旭 3 丁目の高知県立紙業試験場
大阪陸軍需品支廠駐在官
高知市旭 3 丁目の高知県立紙業試験場
土佐和紙共販株式会社の倉庫
高知県立高知第一高等女学校
高知市丸の内 2 丁目
私立土佐女子高等女学校
高知市追手筋 2 丁目
社団法人高坂高等女学校
高知市相模町 1 丁目、いまの高知市立
愛宕中学校の所
科学加工紙株式会社
高 知 市 旭 町 3 丁 目 94 番 地 、い ま の イ オ
ン高知旭町店の所
徳平製紙工場
高知市
尾崎製紙
高知市旭
高知製紙株式会社伊野工場
いの町
日本紙業株式会社伊野工場
いの町
友草製紙
いの町鹿敷
城東製紙工場
南 国 市 国 府 地 区 (旧 ・ 国 府 村 )
城東安芸製紙有限会社
安芸市井口
(1)高 知 で の 陸 軍 の 推 進 態 勢 の 成 立
高 知 県 で の 風 船 爆 弾 づ く り を 指 揮 し た の は 高 知 市 旭 3 丁 目 115 番 地 に 高 知 県 立 紙 業 試 験
場に駐屯した陸軍兵器行政本部高知監督班と大阪陸軍需品支廠駐在官である(高知県紙業
試 験 場 の 跡 地 は 、い ま 、こ う ち 男 女 共 同 参 画 セ ン タ ー「 ソ ー レ 」に な っ て い る )。高 知 県 立
紙 業 試 験 場 は 、1941 年 4 月 1 日 、高 知 県 紙 業 界 の 要 望 と 支 援 に よ っ て 発 足 し て い た 。場 長
は 高 橋 亨 氏 だ っ た 。 15
1) 陸 軍 兵 器 行 政 本 部
15
清 水 編 著 (1956),P216- 218
8
陸 軍 兵 器 行 政 本 部 は 、 1942 年 10 月 15 日 、 「 陸 軍 兵 器 行 政 本 部 令 」 ( 1942 年 10 月 10
日 勅 令 第 674 号 ) に よ り 、 陸 軍 省 兵 器 局 、 陸 軍 技 術 本 部 の 総 務 部 ・ 第 1 部 か ら 第 3 部 、 陸
軍兵器本部を統合し新設された。陸軍省の外局で、日本陸軍の兵器について製造・補給、
研究開発・試験、教育を一元的に統括する機関である。陸軍兵器学校を隷下とし、陸軍兵
器廠内の造兵廠・補給廠、技術本部内の第 1 から第 9 研究所を独立させ兵器行政本部長の
直属とした。
同本部造兵部需兵課が風船爆弾生産についての調査、計画、発注を担当した。陸軍兵器
行 政 本 部 造 兵 部 需 兵 課 中 尉 だ っ た 二 宮 善 太 郎 氏 に よ る と 、陸 軍 の 当 初 の 方 針 は 25 万 発 生 産
だ っ た と い う 16。
陸軍兵器行政本部高知監督班は、どう動いたのだろうか。
「 [高 知 県 の ]勤 労 動 員 の 事 務 所 は 、 時 の 陸 軍 兵 器 行 政 本 部 高 知 監 督 班 長 西 本 勉 が 、 絶 対
権力を行使して県立紙業試験場に置き、勤労動員課長橋田光明氏が軍の管理者を兼ね、又
[ま た ]紙 業 試 験 場 長 高 橋 亨 も 臨 時 陸 軍 技 師 に 兼 務 さ れ て 、 科 学 試 験 を 使 命 と す る 紙 業 試 験
場 も 全 く 軍 一 色 と な り 、 サ ー ベ ル と 軍 靴 の 音 で 明 け て は 暮 れ た 。 」 17
高橋亨氏(高知市旭天神町)は紙づくりの指導に、軍の監督官補(曹長)だった高石馨
氏 ( 土 佐 市 高 岡 町 京 間 の 製 パ ン 会 社 社 長 ) が 紙 の 検 査 主 任 に な っ た 18。
「 [一 九 四 四 年 に 入 っ て ]軍 事 課 [軍 務 局 軍 事 課 ]の 指 示 で 兵 器 行 政 本 部 が 動 い た 。
高 知 県 産 の 楮 [こ う ぞ ]を 迅 速 に 白 皮 に 加 工 さ せ 、 気 球 紙 用 に 全 国 の 和 紙 産 地 に 配 給 す る
こ と を 下 達 し た の で あ る 。 (中 略 )
か く し て 高 知 県 に 楮 の 加 工 生 産 の 猛 烈 な ノ ル マ が 課 せ ら れ る こ と に な っ た 。 (中 略 )
一九四四年の冬から春にかけて、高知県では上を下への大騒ぎで楮の原料生産に明け暮
れた。
こうして高知の良質な楮が大量に原料として生産されていった。これらは、順次原料不
足 に 悩 む 和 紙 の 産 地 に 配 給 さ れ た の で あ る 。 」 19
2) 大 阪 陸 軍 需 品 支 廠
大阪陸軍需品支廠は、和紙統制会社の土佐和紙共販株式会社の倉庫を風船爆弾用紙の倉
庫 に あ て て 高 知 県 内 産 紙 を 取 り 扱 っ た 。 20
大阪陸軍需品支廠と高知の関係について大阪陸軍需品支廠勤務の主計中尉だった鈴木正
二 氏 が 書 い て い る 21。
16
17
二 宮 「 風 船 爆 弾 発 注 計 画 」 = 林 え い だ い (1985),P52-53
清 水 編 著 (1956),P246
18
朝 日 新 聞 高 知 支 局 ( 1973) ,PP132-136
19
吉 野 (2000),P110-112
清 水 編 著 (1956),P244- 245
林 (1985),P53-54
20
21
9
「 昭 和 十 九 年 [一 九 四 四 年 ]の 五 月 か 六 月 頃 、突 然 、陸 軍 需 品 本 廠 長 よ り 私 (大 阪 陸 軍 需 品
支 廠 勤 務 、主 計 中 尉 )に 対 し て 、至 急 上 京 せ よ と の 極 秘 命 令 が あ り 、驚 い て 東 京 の 本 廠 に 向
かいました。
き
が
み
ふ 作戦の原料和紙である生紙の生産整備命令でありました。
これが秘密兵器○
例 の 如 [ご と ]く 型 通 り の 戦 意 高 揚 激 励 の 後 、 帝 国 緒 戦 の 華 々 し い 勝 利 は 残 念 な が ら ど こ
へやら、正直いって次第に劣勢となりつつあり、いまや守戦一方に転じた現在の戦局を、
一 気 に 挽 回 で き る 新 兵 器 が 、 こ ん ど の 第 九 陸 軍 技 術 研 究 所 (登 戸 )で 開 発 完 成 さ れ た 。 そ れ
は直径十メートルにおよぶ紙製の風船爆弾である。一万メートルの上空を恒常的に、西か
ら東に流れる亜成層圏気流に乗せて飛ばし、これに時限爆弾を装備して米本土上空で爆発
するように仕掛けた。
ふ 作戦と命名した……云々。
こ れ を 風 船 爆 弾 と 呼 び 、○
いうまでもなく極秘作戦である故、
その点は十分注意すること。
ついては紙類の調達整備を所管する需品本廠に、原紙生紙の生産調達を命じられた。君
がその責任担当者だということでありました。
これは本当に驚き、非常に緊張したことをいまでも憶えております。当時、本廠の直接
担当責任者は、慶応大学出身の若い井出佐重 少尉でした。
ふ 作 戦 に 関 し て は 、廠 長 以 外 は 極 め て 少 数 の 関 係 者 だ け で 、同 部 隊 内 で も 知 る 者 は 殆 [ほ
○
と ん ]ど い な か っ た 筈 [は ず ]で す 。勿 論 [も ち ろ ん ]、大 阪 支 廠 に 於 [お い ]て も 同 様 で 、支 廠
長高木大佐、調達科長田中大尉、直接担当の鈴木中尉三人のみでした。
その後、直ちに全国の各生産県への割り当て数量、月別の配分量などについて細かい打
ち合わせを何回か行いました。
風船一個に要する生紙が六百枚で、風船の第一次目標数が二万五千個か、二万個くらい
だったと思います。
日 本 に 於 け る 生 紙 の 主 要 生 産 地 が 、私 の 大 阪 支 廠 内 に 集 中 し て い た の で す 。高 知 県 (土 佐
紙 )、 鳥 取 県 (因 州 紙 )、 岐 阜 県 (美 濃 紙 )で す 。
従ってこれら三県にあった県立紙業試験場長を、それぞれ軍の嘱託にしていろいろと現
こ うじ
地 で の 技 術 の 指 導 援 助 を 仰 ぎ ま し た 。高 知 県 は 高 橋 技 師 、鳥 取 県 は 小 位 技 師 [伊 野 町 出 身 の
小 路 位 三 郎 氏 の こ と か ]、 岐 阜 場 長 は 加 藤 技 師 の 三 人 で し た 。
生産数量の割り当ては、従来の三県の実績、設備その他に照らして、およそ高知七、鳥
取二、岐阜一の割合にしたと思います。従って、生産割り当ての多かった高知県が、その
中で一番苦労が多かったでしょう。
私も高知県には毎月一回は情報収集、生産督励に出張しました。高橋場長は生粋の土佐
人でお酒が好きなので、貴重な配給の酒を目立たないように、水筒に詰めて持参したもの
でした。
10
ま た 、 手 漉 [て す ]き 工 場 の 工 員 さ ん に は 、 無 理 し て 少 し ば か り の 石 鹸 を 土 産 に 持 っ て 行
き喜んでいただきました。
高知県では、ときの高橋[三郎]知事婦人も寒中冷たい小川の流れにはいって、コウゾ
の皮むき精製に率先して従事されたことを高橋場長から聞いて、すごく感動したこともあ
ります。
和紙の生産業者は、殆ど零細企業の家内工業でありましたので、先ず第一に苦労したの
は、いままでと違って規格がぐっと大きいことでした。とても手漉きでは 無理だとの声も
ありましたが、なにぶんにも軍の絶対命令ということでみんな頑張ったわけです。
そ の た め 業 者 に よ っ て は 、 原 液 の 水 槽 か ら 簀 [す ]の 子 か ら 全 部 揃 え ね ば な り ま せ ん で し
た。
紙を漉くということは全身の力を要する重作業でしたので、女性には重労働だったと思
います。それでも、お国のために敵本土を爆撃する新兵器の原紙の材料をつくるのだと、
みなさんが頑張ってくれたので、納期に遅れたことは一度もありませんでした。
前述した通り私の管内主力は高知県でしたので、同地での仕事始めの激励会には、支廠
長高木六郎大佐も同行していただき訓示されました。
その中で高木大佐が、
『我が国は神国である。紙は神に通じるのです。昔から日本人は和紙を非常に尊い神聖な
物 と し て 大 切 に 扱 っ て き ま し た 。神 社 の 御 幣 [ ご へ い ]や 奉 書 に 、そ し て 巻 物 に … … 。い ま 、
こ の 紙 が 神 と な っ て 神 国 の 危 機 を 救 お う と し て い る の で す 』 と 訓 示 し ま し た 。 (中 略 )
月末の納期近くになると心配で落ち着かず、各地を回って督励と情況の把握に努めまし
た。
また、後半には高知に下士官一人を常駐させ、自転車で駆け回ってもらいました。」
(2)
高知県全域での黒コウゾ皮へぐり
高知県紙試験場に駐屯した陸軍部隊の指揮のもと、黒コウゾ皮の黒皮を取りのぞく作業
が高知県各地でやられた。その実際を見ておく。
そ れ が 始 ま っ た の は 1943 年 9 月 こ ろ か ら だ と い う 。「 す べ て コ ウ ゾ を 原 料 に し た 気 球 用
き
が
み
の 生 紙 す き を 命 ぜ ら れ た 。高 知 市 な ど 全 家 庭 の 主 婦 が 、コ ウ ゾ の 皮 へ ぐ り (黒 い 表 皮 を 取 り
除 く 作 業 )に 動 員 さ れ た 。 」 2 2
「 … … 原 料 方 面 に 於[ お い ]て も 、生 紙 の 生 産 と 並 行 し て 多 事 多 端 [た じ た た ん 。仕 事 や
処 理 す べ き 事 が 多 く 、忙 し い こ と ]と な り 、原 料 商 畠 中 宗 太 郎 、西 川 庄 太 郎 両 氏 が 主 と な つ
て各家庭に黒楮皮[くろこうぞかわ]を割りあて、[高橋三郎]知事、[大野勇]市長夫
人 は も と よ り 、凡[ お よ ]そ 高 知 市 に 家 を 持 つ 者 に 対 し て は 、殆[ ほ と ]ん ど 全 部 に 此[ こ ]
の皮へぐりの労役が課せられた。
22
朝 日 新 聞 高 知 支 局 (1975),PP132-136
11
此 の 皮 へ ぐ り の 労 役 は 、独 り 高 知 市 の み で な く 、漸 次[ ぜ ん じ ]軍 の 命 令 に よ っ て 高 岡 、
伊 野 、佐 川 等 の 製 紙 工 場 を 持 つ 地 域 に 対 し て も 課 せ ら れ た が 、当 時 科 学 加 工 紙 株 式 会 社 に 、
巴塘[はとう]、玉水新地等の遊女が動員されて、不器用な手つきで皮へぐりの労役に就
事 し た の は 、 戦 争 の 生 ん だ 逸 話 と し て あ ま り に も 有 名 で あ る 」 23。
高知市内の高等女学校の生徒たちも、黒コウゾの皮へぐりがやられていた。高知市北門
筋 の 高 知 市 立 高 知 高 等 女 学 校 (国 民 学 校 高 等 科 二 年 終 了 者 が 入 学 、修 業 年 限・ 2 年 、生 徒 定
員 400 人 )の 教 師 が 、 日 誌 風 に つ づ っ て い る 。 以 下 、 1944 年 の こ と 。 2 4
「八月二十三日
晴後雨
(中 略 )
大部分の生徒は、『楮草[かじぐさ]へぐり』に土佐女高[土佐高等女学校]へ行く、
楮 草 へ ぐ り 用 の 包 丁 が 無 い の で 、小 刀 等 で 垢 取 [あ か と ]り を す る が 、始 め て の 作 業 で あ り 、
道具が有り合わせのもの故、能率は上がらない。指導者にも経験者が極めて少ないので、
十 分 な 指 導 は 出 来 な い 。 出 来 は 甚 [ は な は ] だ よ く な い 。 一 人 宛 二 百 匁 [も ん め ]も む つ か
し い 。生 徒 に 労 力 を 提 供 さ す な ら 、主 催 者 は 、も っ と も っ と 良 く 考 え ね ば な ら ん と 思 う 。(こ
の楮草はへぐった後、紙にして軍用に供す)
八月二十四日
時々雨
今日も土佐高女で、楮草へぐり作業、馴れない作業で生徒は苦労する。
(中 略 )
八月二十八日
晴
土佐高女での楮草へぐりに出勤。付添教員一名、仕事は次第に馴れて来て、苦労も少
なくなったようだ。」
伊野町では、同町から通っていた高知市の高知県立城東中学校の生徒たち数人が、伊野
国 民 学 校 ( い ま の 伊 野 小 学 校 ) の 教 室 で コ ウ ゾ の 皮 は ぎ 作 業 を し て い た と い う 。 25
23
24
25
清 水 編 著 (1956),P245- 247
生 永 (1990),PP24-31
平和資料館・草の家の「高知県での風船爆弾の気球づくり」の展示資料
12
写真 5 高知県立高知城東中学校の生徒たちの伊野国民学校でのコウゾはぎ作業
(出 所 )
吉井久子氏描く=平和資料館・草の家蔵
(3)高 知 市 の 3 つ の 高 等 女 学 校 で の 製 造
「 [高 知 ]県 立[ 高 知 ]第 一 高 等 女 学 校 の 講 堂 及 び 土 佐 高 等 女 学 校 の 校 庭 は 、生 紙 の 加 工 、
風船玉の製造に使用せられ、女学生が此[こ]の作業に当たつていたが、此処[ここ]へ
は た と へ 警 察 署 長 と 雖 [ い え ど ] も 絶 対 に 立 ち 入 る 事 を 許 さ れ な か っ た 。 26」
高等女学校の学校工場での風船爆弾製造の様子を追った。
1)高 知 県 立 高 知 第 一 高 等 女 学 校
高知市の高知県立高知第一高等女学校(現在は、高知県立高知丸の内高等学校)が風船
爆 弾 の 気 球 づ く り の 下 請 け 工 場 に さ れ た 。 1944 年 5 月 か ら だ と い う 。 2 7
「十九年[一九四四年]五月本校は軍需品生産の下請け工場に指定されたゆえ県外 [へ
の勤労動員]にゆかない居残り組は二班にわかれ体育館で軍需品の生産にあたった。一班
は 体 育 館 に ミ シ ン 百 台 を す え つ け て 軍 服 、 シ ャ ツ 、 袴 下 [ こ し た ] 28を つ く っ た 。 白 鉢 巻
をしめてミシンを踏んで競争させられたものである。あわてて手にミシンをかけた生徒も
いるほどであったが皆緊張して働いた。他の一班は講堂を工場として当時秘密兵器とされ
ていた『風船爆弾』をつくった。勿論[もちろん]授業はなく朝から晩まで日曜も返上し
て働いた。この頃は[アメリカ軍の]艦載機の空襲も度々[たびたび]あったので登校時
26
清 水 ( 1956) ,P246
27
吉 永 ( 1967) , PP45- 47
袴下=陸軍用語でズボン下のこと。
28
13
は頭巾[ずきん]をかぶり米一合、ほうたい、ヨーチンら自分でつくったカバンに入れ、
これをかけて登校した。」
同 年 4 月 に 3 年 生 に な っ た 池 川 順 子 氏 が 、 こ こ で の 作 業 の こ と を 書 い て い る 。 29
「女学校3年の15歳だった。これからは毎日学校へ出てきて作業をしてもらいます、
と い う こ と で 始 ま っ た 。 (中 略 )
3年生の甲乙丙丁の4組のうち、2組が軍服づくりを体育館にミシンを持ち込んでやっ
ていたが、『被服ぐみ』と呼ばれていた。あとの2組が風船爆弾づくりである。」
池川氏たちは、3 つの工程を担当した。
そ の 1。 教 室 で 。
「教室の机や椅子をうしろに積み上げて床をひろくして、南側に5人、北の廊下側に5
人が、それぞれ1メートルの間隔をあけて座り、この2組は向き合っていた。各人の 横に
は、直径12∼13センチ、深さ8センチぐらいのブリキの缶が置かれ、その中に、あめ
色のこんにゃく糊がたっぷり入っている。各人の後ろには、それぞれのサイズの青緑色の
透明がかった紙風船の断片が置かれている。風船の半球の部分を5人が調子を合わせて貼
[は]っていく。テープ状に巻かれた『かすがい』を適当に手でちぎりながら、貼りあが
ったら5人が一斉に掛け声を掛けて、前へ繰り出し、向こう側の列も同じ作業を行う。真
ん中の教壇近くに、工場から出張して監督に座っている女工さんが、時々少なくなったこ
んにゃく糊の補給をする。
紙風船にかすがいがきちんと糊付けされて、そこに水ぶくれのような気泡ができないよ
う10本の指で強く押し出すのだが、これがとても疲れる。手の関節に力が入るので、こ
こが硬く大きくなって、5本の指が閉じなくなっなり、皆5本の指を広げて、フランケン
シュタインのような感じで歩いていた。」
そ の 2。 教 室 で 。
む「教室の各サイドで作り上げた半球を真ん中で張り合わせると、直径10メートルほ
どの風船になる。」
そ の 3。 講 堂 で 。
「それを皆で折りたたんで、かついで講堂へ持って行き、それをまた広げてふくらませ
る。講堂の天井の高さがが足りなくてつかえるので、完全な満球にならない。そこここが
しわの半満球の風船を、空気がもれないかと大ざっぱに検査して、最後は 大勢で足で踏み
つぶして空気を押し出す。」
来る日も来る日も、このような作業のくりかえしだった。
2)私 立 土 佐 高 等 女 学 校
29
池 川 「 風 船 爆 弾 」 = 「 高 知 ・ 20 世 紀 の 戦 争 と 平 和 」 編 集 委 員 会 、 耕 地 ・ 空 襲 と 戦 災 を 記 録 す る 会 編
集 ( 2005) ,pp.156-160
14
こ れ ま で に も 高 知 市 の 私 立 土 佐 高 等 女 学 校( 現 在 、土 佐 女 子 高 等 学 校 、土 佐 女 子 中 学 校 )
で、他の高等女学校の生徒たちがコウゾの皮へぐりの作業をしたということをのべたが、
この学校での作業は、どうだったか。
こうぞ
「[大きな紙の風船づくりの]作業は原料たる楮の表皮を除くいわゆる『くさへぐり』
の り
から、工場ですいた原料紙の検査、更[さら]にこんにゃく糊をつかつて原料紙を直径十
は り
米[メートル]の大風船に貼合せる作業である、四五年生が[一九四四年十一月に他県の
軍需工場へ]動員されてからは、三年生以下で之[これ]を行い、講堂を工場に代用し、
校庭で之に高圧の空気を充たして強度を実験するなどもやつた。後には市内旭町に工場が
出 来 て 、 そ こ に 通 勤 し た 。 本 校 生 徒 の 製 作 成 績 は 常 に 良 好 で あ つ た 。 30」
3)社 団 法 人 高 坂 高 等 女 学 校
高知市相模町1の54にあった社団法人高坂高等女学校でも風船爆弾が製造されていた
(ここは、いまは高知市立愛宕中学校がある所)。
高 坂 高 等 女 学 校 の 生 徒 だ っ た 大 谷 美 壽 氏 が 手 記 を 書 い て い る 31。
「 [一 九 四 四 年 ]三 年 生 に も 学 徒 動 員 令 が 施 行 さ れ 、 県 内 工 場 (学 校 内 )で 作 業 を 行 う こ と
となる。
厚い防空頭巾に血液型を表示した布を縫いつけ、胸に青い学徒動員章と名札をつける。
[高 知 県 県 野 市 町 か ら の ]通 学 に は 高 知 鉄 道 と 省 線 を 併 用 、 高 知 駅 へ は [午 前 ]七 時 二 〇 分
頃に着く。四時半起きで炊いたご飯に卵焼き弁当がちょっぴり暖かい。
三 年 生 の 半 数 は 軍 網 作 業 で 、 [高 知 市 ]桟 橋 通 り の 日 本 軍 網 会 社 よ り 迷 彩 色 さ れ た 軍 網 が
届き、用途に応じて切断、接合するなどしてカムフラージュを取りつける。先ずこれを高
知警察署と高知駅へこっぽり被せた。軍網は草原の擬装を凝らして敵の目を欺くもので、
大部分は戦地に送られた。
他の半数の生徒は、本館二階に隔離されて紙作業に従事する。これは風船爆弾の風船を
作 る も の で 、 軍 の 機 密 漏 洩 [き み つ ろ う え い ] 防 止 の た め に 、 憲 兵 中 尉 が 配 属 さ れ て い た 。
軍 刀 を 引 っ 提 げ 、 長 靴 の 音 高 く 周 辺 を 睥 睨 [ へ い げ い ]し て 、 余 人 の 出 入 り を 許 さ ず 、 終 日
警戒の歩を緩めない。
旭 町 の 日 本 紙 業 が 軍 需 工 場 と し て 使 用 さ れ [こ れ は 、 科 学 加 工 紙 株 式 会 社 の こ と ]、 特 製
和紙が製造された。青々と透きとおり、滑らかに粘り強く分厚い上に防水加工が施されて
いた。
こんにゃく
糊係が蒟蒻粉を水で溶き、大釜で根気よく練り合わせ煮詰めたものを各自に配る。
作業工程の指導は女工の筒井さんであった。
毎 朝 、朝 礼 が あ っ て 廊 下 に 整 列 し て 点 検 を 受 け る 。ま ず 畏 [か し こ ]ま っ て 宮 城 遥 拝 [よ う
は い ]し 最 敬 礼 。兵 士 の ご 苦 労 を 偲 [し の ]べ と 真 冬 で も み な 素 足 で あ る 。白 鉢 巻 の い で た ち
30
31
山 崎 編 (1952),PP111 -112
大 谷 「 紙 風 船 」 = 「 わ が 戦 争 体 験 の 日 々 」 編 集 委 員 会 ( 2006) 、 PP64-65
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で 、 賀 詞 を 大 声 で 斉 唱 。 中 尉 殿 の 気 に 入 ら ぬ 時 は 、 も っ と 気 合 を 入 れ ん か 、 弛 [た る ]ん ど
る、と怒鳴られて、寒さに身震いしながら幾度でもやり直しされた。
運ばれた用紙は、半径が教室の入口より出口までの長さで、一三、四人が横に並んで、
の り し ろ
延 べ ら れ た 原 紙 と も う 一 枚 の 原 紙 を 貼 り 合 わ せ る の だ が 、貼 り 方 が 独 特 で 、お 互 い の 糊 代 を
打ち合わせて貼る時、糊代に糊をたっぷりつけて、貼った部分に糊が残ってはならぬとい
う 。両 手 指 に 渾 身 [こ ん し ん ]の 力 を こ め て 必 死 に 糊 を 押 し 出 す 。派 遣 女 工 の 気 に 入 る ま で 、
両手で押し広げては突き出す。彼女は自負と責任感から妥協は許さない。しっかり押して
押して、真っ赤な指が反り返って元に戻らぬほどに繰り返して糊を出す。責任感で殺気立
つ ほ ど 緊 張 し て 、 み な 戦 士 の 容 貌 [よ う ぼ う ] で あ る 。
やっと半円を貼り終わると、隣の教室の半円とを同じ要領で貼り合わせて球状とする。
この風船に爆弾を仕掛け、水素を詰めて空高く揚げ、地球の自転作用によって目的地で
爆発させるというものだったらしい。朝礼で中尉殿が、その成果を兵士達が涙を流して喜
ん だ と 話 す も の だ か ら 、国 の お 役 に 立 っ て い る の か と 、ま た 精 魂 こ め て 作 業 に 勤 し ん だ 。」
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