( 3)1940 年 1 月 1 日からアジア太平洋戦争終戦の 1945 年 8 月 15 日

( 3) 1940 年 1 月 1 日 か ら ア ジ ア 太 平 洋 戦 争 終 戦 の 1945 年 8 月 15 日 ま で
1)海 外 派 兵 の 概 要
〇 北 部 ( フ ラ ン ス 領 イ ン ド シ ナ ) 進 駐 = 1940 年 9 月 23 日 。 日 本 は 、 日 中 戦 争 遂 行 の 上
か ら フ ラ ン ス 領 イ ン ド シ ナ を 経 由 す る 援 蒋( え ん し ょ う )ル ー ト ( 中 国 の 国 民 政 府 - 蒋 介
石政権への支援路)の遮断をフランスに再三要求していた。欧州戦線のフランスの劣勢を
背景に、日本、フランス間で遮断監視のための日本軍進駐を認める方向で交渉中に南支軍
が越境を開始し、フランス領インドシナ守備軍と衝突したが、フランス軍の抵抗はほとん
どなく、フランス領インドシナ駐留は完了した。アメリカのハル国務長官は、事件を現状
破壊行為として非難した。
〇 関 東 軍 特 種( と く し ゅ ) 演 習 = 1941 年 7 月 ~ 8 日 。1941 年 6 月 に ド イ ツ 、ソ 連 戦 が は
じ ま る と 日 本 の 陸 軍 は 、 北 進 を 主 張 。 7 月 2 日 の 御 前 会 議 1で 大 東 亜 共 栄 圏 建 設 を 目 的 と し
た南方進出態勢を強化し同時に対ソ連戦の準備を進めることが決まったことを受けて、演
習 の 名 目 で 約 70 万 人 の 兵 員 の 動 員 が 下 命 さ れ た 。ド イ ツ 、ソ 連 戦 の 戦 況 の 停 滞 な ど に よ っ
て 8 月 9 日に大本営が年内の対ソ連武力行使中止を決定し、北進は中止された。
〇 南 部 仏 印 ( オ ラ ン ダ 領 イ ン ド シ ナ ) 進 駐 = 1941 年 7 月 29 日 。 日 本 は 、 フ ラ ン ス の 親
ドイツ・ヴィシー政権との協定によって、軍をオランダ領インドシナに進駐させた。石油
資源確保のためのオランダ領インドシナとの経済交渉の挫折、ヨーロッパ戦線におけるド
イツ軍の優勢による日本政府内の南進論の高まり、それに南方作戦用航空基地建設のため
の時間稼ぎのためであった。アメリカ、イギリス、オランダは、この進駐を日本の南方侵
略の第一歩であるとして、日本資産の凍結、対日石油禁輸をおこなった。
○ ア ジ ア 太 平 洋 戦 争 (大 東 亜 戦 争 )= 1941 年 12 月 8 日 ~ 1945 年 8 月 15 日 。 天 皇 は 、 日
中戦争の行き詰まりを打開するために石油などの資源を求めて南方進出をおこなおうとし
てアメリカ、イギリス、オランダとの戦争にいたった。
こ こ で は 、 日 本 の ア メ リ カ 、 イ ギ リ ス な ど に た い す る 戦 争 が 1941 年 後 半 の 4 回 の 御 前
会議をへて決定されていった過程を説明しておきたい。
1
御 前 会 議 = 18 89 年 発 布 の 大 日 本 帝 国 憲 法 の 定 め で 統 治 権 の 総 攬 者 ( そ う ら ん し ゃ ) の 地 位 に あ り 、 ま
た 陸 海 軍 の 最 高 統 帥 者 = 陸 海 軍 大 元 帥 で も あ る 天 皇 の 臨 席 の も と で 、 天 皇 の 国 務 大 権 を 輔 弼 (ほ ひ つ )
す る 国 務 大 臣 ( 政 府 )と 統 帥 (と う す い ) 権 を 補 佐 す る 幕 僚 (ば く り ょ う )長 (参 謀 総 長・軍 令 部 総 長 ) ら が 列
席 し 、対 外 戦 争 に つ い て 国 家 の 最 高 方 針 を 決 定 ・ 確 認 す る 会 議 。国 務 の 担 当 者 は 統 帥 に か か わ る こ と が
できず、統帥の担当者は国務を扱えない。天皇のみが国務大権と統帥大権とを一身に兼 ね備えて い た。
開 戦 あ る い は 終 戦 と い っ た 重 大 な 議 案 に つ い て は 、国 務 と 統 帥 の そ れ ぞ れ の 代 表 担 当 者 が 天 皇 = 大 元 帥
のまえに列席し、審議し決定するという方式が必要となった。
1
日 米 関 係 の 悪 化 の 根 源 は 、1931 年 9 月 18 日 の 柳 条 湖 事 件 に 始 ま る 日 本 の 中 国 へ の 侵
略 戦 争 に あ っ た 。 し か も 、 そ の 日 本 は 、 1940 年 7 月 に 成 立 し た 第 2 次 近 衛 文 麿 ( こ の
えふみまろ)内閣のもと、「大東亜新秩序」「大東亜共栄圏」の建設を宣言し、武力
南進の方針を決める。この状況を見て、アメリカが、これ以上侵略国への経済支援は
で き ない と 、禁 輸 な ど の措 置 を 強 化 し てき て 、7 月 、航 空 機 用ガ ソ リ ン を 、9 月 に は ク
ズ 鉄 の 日 本 へ の 輸 出 を 禁 止 す る 措 置 を と る 。日 本 は 、な お も 、9 月 23 日 、北 部 仏 印 (ハ
ノ イ 、ハ イ フ ォ ン 地 域 )の 武 力 占 領 を 強 行 し 、9 月 27 日 に は ヨ ー ロ ッ パ で の 侵 略 国 ド イ
ツ 、 イ タ リ ア と 軍 事 同 盟 を 結 ん だ 。 1941 年 1 月 、 松 岡 外 相 は 、 野 村 吉 三 郎 元 外 相 を 大
使 と し て ア メ リ カ に 送 っ た 。ア メ リ カ の コ ー デ ル・ハ ル 国 務 長 官 は 、4 月 の 野 村 と の 会
談 で 、 今 後 の 日 米 協 議 の 基 礎 と し て 、 (1)領 土 保 全 ・ 主 権 尊 重 、 (2)内 政 不 干 渉 、 (3)機
会 均 等 、 (4)太 平 洋 現 状 維 持 の 四 原 則 を 提 起 し た 。 5 月 ~ 6 月 の 交 渉 で も 、 ハ ル は 「 日
本は太平洋の西南区域で征服のための武力行使はしないことを保証する用意がある
か」「日本政府の心中に中国からの軍隊撤退の時期についてなんらかの決定的な計画
はあるか、その撤兵の実際の保証はあるか」「『防共』を名目として日本軍を無期限
に駐留させる政策は極度に重大な点だ」など、日米協議の核心にかかわる問題を次々
と提起した。
そ う し た な か 、 6 月 22 日 、 ド イ ツ が ソ 連 攻 撃 を 開 始 し 、 独 ソ 戦 が 起 こ っ た 。 こ の 10
日 後 の 7 月 2 日 、御 前 会 議 が 開 か れ た 。こ こ で 、事 態 に 対 応 す る た め の 方 策 と し て「 情
勢の推移に伴(ともな)う帝国国策要綱」を決定した。
「方針」。
「 一 、 帝 国 は 世 界 情 勢 変 転 の 如 何 [い か ん ]に 拘 [か か わ ]ら ず 大 東 亜 共 栄 圏 を 建 設 し
以 [も っ ]て 世 界 平 和 の 確 立 に 寄 与 せ ん と す る 方 針 を 堅 持 す
二 、 帝 国 は 依 然 支 那 事 変 処 理 に 邁 進 し 且 [か つ ]自 存 自 衛 の 基 礎 を 確 立 す る 為 [た め ]
南 方 進 出 の 歩 を 進 め 又 [ま た ]情 勢 の 推 移 に 応 じ 北 方 問 題 を 解 決 す ( 後 略 ) 」
「要領」。
「 ( 前 略 ) 二 、 帝 国 は 其 [そ ]の 自 存 自 衛 上 南 方 要 域 に 対 す る 必 要 な る 外 交 交 渉 を 続
行 し 、 そ の 他 各 般 の 施 策 を 促 進 す 。 / 之 [こ れ ]が 為 対 英 米 戦 準 備 を 整 へ 、 先 ず 『 対 仏
印 泰 [た い ]施 策 要 綱 』 [一 九 四 一 年 一 月 三 十 日 連 絡 会 議 決 定 ]) 及 [お よ び ]『 南 方 施 策
促 進 に 関 す る 件 』 [六 月 二 十 五 日 連 絡 会 議 決 定 ]に 依 [よ ]り 、 仏 印 及 泰 に 対 す る 諸 方 策
を完遂し以て南方進出の態勢を強化す
帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せず(後略)」
南方と同時にソ連に向かうという南北並進という結論だ。南方進出のためにアメリ
カ、イギリスとの戦争も辞せずとしている。
北 進 に つ い て は 、7 月 に「 関 東 軍 特 種 演 習 」の 名 で 大 軍 を「 満 州 国 」に 結 集 す る 。南
進 に つ い て は 、 7 月 28 日 、 南 部 仏 印 進 駐 を 強 行 し た 。 南 部 仏 印 進 駐 は ア メ リ カ の 反 撃
を 招 き 、ア メ リ カ は 、8 月 1 日 、日 本 に た い す る 石 油 の 輸 出 を 全 面 的 に 停 止 し た 。イ ギ
2
リス、オランダも自国内の日本資産を凍結した。日本は、これらから 3 国で物資を買
い付けできなくなった。
8 月 6 日 、近 衛 首 相 は 、野 村 大 使 を 通 じ て 、近 衛 = ル ー ズ ベ ル ト 首 脳 会 談 で の 局 面 打
開を提案する。この時期は、ルーズベルトが大西洋上でイギリス首相のチャーチルと
会談し、世界戦争を終結させる国際的原則について協議している最中だった(大西洋
会談)。
こ の 会 談 の 結 論 と し て 8 月 14 日 発 表 さ れ た 「 大 西 洋 憲 章 」 は 、 い っ さ い の 侵 略 行 為
とその結果を認めないことを、「両国国策の共通原則」として内外に明らかにした。
「第二に、両者は、関係国民の自由に表明する希望と一致しない領土変更の行われ
ることを欲しない。
第 三 に 、両 者 は 、 す べ て の 国 民 に 対 し て 、 彼 ら が そ の 下 で 生 活 す る 政 体 を 選 択 す る 権
利を尊重する。両者は、主権及び自治を強奪された者にそれらが回復されることを希
望する」
9 月 5 日 、議 案「 帝 国 国 策 遂 行 要 領 」が 内 奏 さ れ た 。そ の と き 、天 皇 は 杉 山 元( は じ
め)参謀総長に「日米戦はどのくらいで片付くか」と質問した。永野修身(おさみ)
軍 令 部 長 が 天 皇 を 説 得 し て い る 。永 野 は 説 明 の 後 に 、議 案「 帝 国 国 策 遂 行 要 領 」の 第 1
項の戦争準備の完整と第 2 項の外交交渉による問題の解決の順序を変更するかどうか
と奏聞した。その後、つぎのようなやりとりがあったという。
「 御 上 [お か み ]
よ し 解 つ た (御 気 色 和 げ り )。 / 近 衛 総 理
す か 。 如 何 [い か が ]取 計 [と り は か ら い ]ま せ う か 。 / 御 上
明日の議題を変更しま
変更に及ばず。」
翌 9 月 6 日 午 前 10 時 か ら 開 か れ た 御 前 会 議 で は「 帝 国 国 策 遂 行 要 領 」が 決 議 さ れ た 。
「 帝 国 は 現 下 の 急 迫 せ る 情 勢 特 に 米 英 蘭 [ア メ リ カ 、 イ ギ リ ス 、 オ ラ ン ダ ]等 各 国 の
執 れ る 対 日 攻 勢 『 ソ 』 聯 の 情 勢 及 [お よ び ]帝 国 国 力 の 弾 撥 性 に 鑑 [か ん が ]み 『 情 勢 の
推 移 に 伴 [と も な ]う 帝 国 国 策 要 綱 』 中 南 方 に 対 す る 施 策 を 左 記 に 依 [よ ]り 遂 行 す
一 、 帝 国 は 自 存 自 衛 を 全 [ま っ と ]う す る 為 [た め ]対 米 ( 英 蘭 ) 戦 争 を 辞 せ ざ る 決 意
の 下 [も と ]に 概 [お お む ]ね 十 月 下 旬 を 目 途 と し 戦 争 準 備 を 完 整 す
二 、 帝 国 は 右 に 竝 行 [へ い こ う ]し て 米 、 英 に 対 し 外 交 の 手 段 を 尽 [つ く ]し て 帝 国 の
要求貫徹に努む
対 米 ( 英 ) 交 渉 に 於 [お い ]て 帝 国 の 達 成 す べ き 最 少 限 度 の 要 求 事 項 竝 [な ら び ]に 之
[こ れ ]に 関 連 し 帝 国 の 約 諾 し 得 る 限 度 は 別 紙 の 如 [ご と ]し
三 、 前 号 外 交 交 渉 に 依 [よ ]り 十 月 上 旬 頃 に 至 る も 尚 [な お ]我 要 求 を 貫 徹 し 得 る 目 途
なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す
対 南 方 以 外 の 施 策 は 既 定 国 策 に 基 [も と ず ]き 之 [こ れ ]を 行 い 特 に 米 『 ソ 』 の 対 日 連
合戦線を結成せしめざるに勉む」
「別紙」の「最少限度の要求事項」にはこうあった。
3
「 米 英 は 帝 国 の 支 那 事 変 処 理 に 容 喙 [よ う か い 。 口 を 出 す こ と ]し 又 は こ れ を 妨 害 せ
ざ る こ と 」、
「 米 英 は 極 東 に 於 て 帝 国 の 国 防 を 脅 威 す る が ご と き 行 動 に 出 で ざ る こ と 」、
「米英は帝国の所要物資獲得に協力すること」
中国問題は日本の勝手にまかせて口をだすな、戦争に必要な物資は供給せよ、これ
が 「 最 少 限 度 の 要 求 」 だ っ た 。 10 月 上 旬 ま で に こ の 要 求 を ア メ リ カ が 承 認 す る メ ド が
たたなかったら、「直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」。
御前会議の決定をうけて、陸海軍は動きだした。海軍の戦争準備は早くから完了し
て い た が 、 陸 軍 に つ い て も 、 大 本 営 陸 軍 部 は 、 9 月 18 日 、 作 戦 準 備 の 命 令 を 発 し 、 南
方作戦兵力の移動を開始した。
日 米 交 渉 に 進 展 の な い ま ま 、 10 月 下 旬 と い う 期 限 の せ ま る な か で 、 自 信 を 失 っ た 近
衛 は 、10 月 16 日 、政 権 を 投 げ 出 し た 。内( な い )大 臣 の 木 戸 幸 一 は 、近 衛 の 同 意 を 得
て、陸軍大将・東条英機を後続首相に推し、昭和天皇も、これを了承した。そして、
10 月 18 日 、 東 条 内 閣 が 成 立 し た 。
東 条 内 閣 の 成 立 を う け て 、 11 月 5 日 、 御 前 会 議 が 開 か れ た 。 こ こ で 「 帝 国 国 策 遂 行
要領」が決定された。
「 一 、 帝 国 は 現 下 の 危 局 を 打 開 し て 自 存 自 衛 を 完 [ま っ と ]う し 大 東 亜 の 新 秩 序 を 建
設 す る 為 [た め ]此 [こ ]の 際 対 米 英 蘭 戦 争 を 決 意 し 左 記 措 置 を 採 る
(一)武力発動の時期を十二月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す
( 二 ) 対 米 交 渉 は 別 紙 要 領 に 依 [よ ]り 之 [こ れ ]を 行 う
(三)独伊との提携強化を図る
( 四 ) 武 力 発 動 の 直 前 泰 [タ イ ]と の 間 に 軍 事 的 緊 密 関 係 を 樹 立 す
二 、 対 米 交 渉 が 十 二 月 一 日 午 前 零 時 迄 [ま で ]成 功 せ ば 武 力 発 動 を 中 止 す 」
「別紙要領」の交渉案(甲案)は、戦争が終わったあとも、日本軍が中国の北部と
モ ン ゴ ル 地 域 お よ び 海 南 島 に 居 座 り 続 け る こ と を 柱 と し た も の で 、 1937 年 に 蒋 介 石 政
権 に 提 示 し て 黙 殺 さ れ 、 1940 年 に カ イ ラ イ 汪 兆 銘 政 権 に よ う や く 押 し つ け た 「 講 和 条
件」の焼き直しだった。それを、今度はアメリカを仲介役にして中国に押しつけよう
とする提案だった。
11 月 6 日 付 の 大 陸 令 第 555 号 に よ っ て 、 南 方 作 戦 に 参 加 す る 各 軍 の 戦 闘 序 列 が 発 令
さ れ た 。 同 日 付 の 一 連 の 大 陸 令 ・ 大 陸 指 2に よ っ て 、 南 方 軍 総 司 令 官 、 支 那 派 遣 軍 総 司
令 官 、 南 海 支 隊 長 に た い し て 攻 略 準 備 命 令 が 発 令 さ れ た 。 海 軍 も 、 11 月 5 日 付 の 大 海
2
大 陸 令 ・大 陸 指 = 大 陸 令 は 大 元 帥( だ い げ ん す い )と し て の 天 皇 が 陸 軍 に 発 す る 最 高 統 帥 命 令 、大 陸
指は大陸令にもとづいて参謀総長が発する指示事項。
4
令 3第 1 号 に よ っ て 作 戦 準 備 の 「 完 遂 」 を 発 令 。 同 日 、 海 軍 の 艦 船 部 隊 な ど を 平 時 状 態
か ら 戦 時 状 態 に 移 行 さ せ る 出 師 ( す い し ) 準 備 第 二 着 作 業 が 発 動 さ れ た 。 11 月 8 日 、
軍部が天皇に真珠湾攻撃の作戦計画を報告して承認を受けた。ハワイの真珠湾急襲の
任 務 を 受 け た 海 軍 の 機 動 部 隊 は 、瀬 戸 内 海 か ら 行 動 を 起 こ し 、11 月 22 日 ま で に は 南 千
島 ・ 択 捉 島 の 単 冠 ( ひ と か っ ぷ ) 湾 に 集 結 、 11 月 26 日 、 真 珠 湾 に 向 か っ て 出 撃 し た 。
「 帝 国 国 策 遂 行 要 領 」に 、対 米 交 渉 は 一 応 書 か れ て い て 、野 村 大 使 へ の 援 助 と し て 、
11 月 6 日 、 こ の 決 定 を も っ て 来 栖 特 使 が ア メ リ カ に 派 遣 さ れ た 。 11 月 26 日 、 ア メ リ
カのハル国務長官は日本側に政府の回答を示す(ハル・ノート)。その要求は、日本
軍の中国からの撤兵、汪兆銘政権の否認、三国同盟の空文化、すべての国家の領土お
よび主権の尊重、内政不干渉、通商上の機会均等、紛争の平和的解決という 4 原則の
確認などだった。この日は、真珠湾攻撃をめざす日本の機動部隊が南千島から早朝に
出撃した日だった。
12 月 1 日 、 御 前 会 議 が 開 か れ 、 「 対 米 英 蘭 開 戦 に 関 す る 件 」 が 決 定 さ れ た 。
「 十 一 月 五 日 決 定 の 帝 国 々 策 遂 行 要 領 に 基 [も と づ ]く 対 米 交 渉 遂 に 成 立 す る に 至 ら
ず/帝国は米英蘭に対し開戦す」
杉 山 は 、こ の 御 前 会 議 に つ い て「 本 日 は 会 議 に 於 [お い ]て 、お 上 は 説 明 に 対 し て 一 々
頷 [う な ず ]か れ 何 等 御 不 安 の 御 様 子 を 拝 せ ず 、 御 気 色 [け し き ]麗 [う る わ ]し き や に 拝
し 、 恐 懼 [き ょ う く 。 お そ れ か し こ ま る こ と ]感 激 の 至 り な り 」 と 書 き 残 し て い る 。
12 月 8 日 、 日 本 軍 は 、 東 南 ア ジ ア 全 域 に わ た る 侵 略 戦 争 を 開 始 す る と と も に 、 ア メ
リカにたいしては真珠湾に先制攻撃による奇襲をくわえ、太平洋戦争に突入すること
になった。
この戦争の戦場は、東アジア、東南アジア、太平洋地域におよび、日本の戦争による死
者 は 軍 民 あ わ せ て 250 万 人 以 上 に 達 し た 。
2)石 碑
【 1940 年 】 香 美 市 土 佐 山 田 町 楠 目 の 祈 念
皇紀二千六百年」の石碑
「寄附者芳名」は
53 人
高 知 県 下 を 歩 く と 各 地 に 紀 元 2600 年 の 記 念 碑 が 残 っ て い る 。
たとえば、香美市土佐山田町楠目[くずめ]の道路沿いの楠目小学校跡地の近くの「祈念
皇 紀 二 千 六 百 年 」と 刻 ま れ た 石 碑 。裏 面 は「 寄 附 者 芳 名 」。数 え た ら 53 人 。な か に は 大 法
寺部落常会、談義所上組常会の名もった。
3
大海令=天皇が海軍にたいして発する最高統帥命令。
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写 真 20
香美市土佐山田町楠目の祈念
皇紀二千六百年」の碑
1936 年 6 月 30 日 、 紀 元 二 千 六 百 年 祝 典 事 務 局 の 内 閣 設 置 が 勅 令 ( ち ょ く れ い ) 第 135
号で公布された。大日本帝国の中国東北地方侵略戦争のさなかのことだ。神武天皇即位紀
元 (皇 紀 )2600 年 は 、3 年 半 後 の 1940 年 で あ っ た( 私 は 、神 武 天 皇 は 、空 想 上 の 人 物 だ と 考
えている……)。
同 事 務 局 の 1937 年 3 月 31 日 付 の 文 書 「 紀 元 二 千 六 百 年 に 就 [つ い ]て 」 は 「 紀 元 二 千 六
百 年 を 迎 へ る に 当 つ て は 、遠 く 肇 国 創 業 [ ち ょ う こ く そ う ぎ ょ う ]の 偉 業 を 瞻 仰 [せ ん ぎ ょ う 。
あ お ぎ 見 る ]し 歴 朝 の 懿 徳 [ い と く 。り っ ぱ な 徳 ] を 景 慕 し 奉 る と 共 に 、我 が 国 体 の 精 華 と 肇
国 創 業 の 大 精 神 と を 広 く 中 外 に 顕 揚[ け ん よ う 。世 間 に 威 光 を 高 め る ]し て 、内 は 愈 々 [い
よ い よ ]国 民 精 神 の 振 作 更 張[ ゆ る み を 引 き し め 振 る い お こ さ せ る ]を 図 り 、外 は 八 紘 一 宇
[は っ こ う い ち う ]、 万 邦 協 和 、 共 存 共 栄 の 世 界 平 和 確 立 の 大 理 想 具 現 の 為 に 一 段 の 進 展 を
期 す る 所 が な け れ ば な ら ぬ 。 茲 [こ こ ]に 来 る べ き 紀 元 二 千 六 百 年 の 意 義 が 存 す る 。 」 と 、
の べ て い る( 官 報 付 録『 週 報 』第 24 号 )。八 紘 一 宇 の 、八 紘 は 四 方 と 四 隅 つ ま り 世 界 ・ 天
下、宇は家のこと、全世界を天皇のもとに一つの家とするという意味だ。
この年には日中戦争が全面化する。
1940 年 2 月 発 売 の 奉 祝 国 民 歌 「 紀 元 二 千 六 百 年 」 (紀 元 二 千 六 百 年 奉 祝 会 ・ 日 本 放 送 協
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会制定)は「……正義凛[りん]たる旗の下
明朗アジヤうち建てん/力と意氣を示せ今
/紀元は二千六百年……」と歌った。
同 年 11 月 10 日 、東 京 の 宮 城 前 広 場 で 内 閣 主 催 の「 紀 元 二 千 六 百 年 式 典 」が 開 催 さ れ た 。
同日、高知でも高知公園三の丸広場で式典が開催された。近くの高知県庁には「皇紀二千
六 百 年 を 祝 し 」、「 益 々 [ ま す ま す ]総 力 を 発 揮 し ま せ う 」と い う 垂 れ 幕 が か か っ た 。( 寺 田
正『ふるさとの想い出
写真集
明治
11 月 14 日 ま で の ポ ス タ ー は「 祝 へ !
スターは「祝ひ終つた
大正
昭和
元気に
高 知 』 )。
朗 か に 」。そ し て 、同 月 15 日 か ら の ポ
さあ働かう!」。
そして、翌年、天皇はアジア太平洋戦争を始めた。
楠 目 の 皇 紀 二 千 六 百 年 の 石 碑 の 近 く の 「 忠 魂 碑 」 ( 1945 年 3 月 10 日 再 建 ) に は 大 東 亜
戦争の戦病没者もまつられている。
【 1941 年 】 高 知 市 愛 宕 神 社 の 「 皇 紀 二 千 六 百 一 年 十 二 月 八 日 / 大 東 亜 戦 々 捷 記 念 」 の 碑
高知市の愛宕山(あたごやま)に愛宕神社がある。
愛 宕 神 社 の 208 段 の 石 段 を 登 り き っ た 所 の 左 右 に 向 か い 合 っ た 2 本 の 石 柱 が あ る 。
左 手 の 物 に は 「 皇 威 万 邦 輝 [(大 日 本 帝 国 の 天 皇 の 威 光 は 世 界 に 輝 く )]、 「 皇 紀 二 千 六 百
一年十二月八日/大東亜戦々捷記念」と彫り込まれている。
左 手 の 碑 に は 、「 神 徳 八 紘 洽 [ し ん と く は っ こ う に あ ま ね し 。神 で あ る 大 日 本 国 の 天 皇 の
徳 は 世 界 に ゆ き わ た っ て い る ]」と 、刻 ま れ て い る 。そ の 裏 に は「 高 知 市 愛 宕 町 二 丁 目 / 階
段施工
畠中正夫」とある。
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写真
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高知市愛宕神社の「皇紀二千六百一年十二月八日/大東亜戦々捷記念」の碑
タ イ 映 画 「 少 年 義 勇 兵 」( 2000 年 制 作 ) に 日 本 の 大 東 亜 戦 争 ( ア ジ ア 太 平 洋 戦 争 ) 開 戦
の 様 子 が え が か れ て い る 。タ イ 南 部 の 田 舎 の 町・チ ュ ン ポ ー ン は 雨 だ っ た 。1945 年 12 月 8
日 午 前 2 時 40 分 、一 群 の 艦 船 が 、こ こ に 迫 っ て い た 。戦 闘 機 が 侵 入 し た 。大 日 本 帝 国 の タ
イ上陸だ。この町の少年義勇兵たちも銃を取った。彼らを包囲する侵略軍。銃剣での死闘
が始まる。つぎからつぎへと侵略軍は上陸してくる……。やがてタイは降伏。この戦闘で
の 日 本 側 死 傷 者 は 200 人 、 タ イ 側 は 10 人 、 少 年 義 勇 兵 の 死 傷 者 は な し 。
大日本帝国の軍隊は、その日、まずタイに侵攻、そして、アメリカ領ハワイのオアフ島
に あ る ア メ リ カ 軍 基 地 を 攻 撃 し た 。 そ の 後 、天 皇 が ア メ リ カ 、イ ギ リ ス へ の 宣 戦 を 布 告 し
た。
碑 文 の 皇 紀 2601 年 12 月 8 日 は 、 1945 年 12 月 8 日 の こ と 。 「 大 東 亜 戦 々 捷 」 と は 大 東
亜戦争戦勝のことだ。
それにしても気が早い。天皇がアメリカ、イギリスに宣戦布告をした日付の碑だ。確か
に、この戦争は、不意打ちで一時は圧倒していたが、すぐに敗北に向か う。
この碑の「々捷」の所が何かで塗りつぶされているのが奇妙だ。
【 1944 年 】 高 知 市 三 里 墓 地 公 園 の 「 納 骨 塔 」
「海軍施設ノタメ」墓地を移転
高 知 市 仁 井 田 の 県 道 14 号 脇 の 高 知 市 三 里 (み さ と )墓 地 公 園 の 右 手 の 角 に「 納
骨 塔 」が あ る 。高 知 市 役 所 三 里 出 張 所 長・細 川 恒 久 氏 が 1944 年 11 月 に 建 立 し た
ものだ。こんな文章が刻まれている。
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「 池 及[ お よ び ]仁 井 田 地 域 ニ 海 軍 施 設 ノ タ メ 区 域 内 ノ 墓 地 移 転 ヲ 命 セ ラ レ タ
ル 所 工 事 ノ 急 速 ヲ 要 セ シ タ メ 墓 地 所 有 者 ヲ 精 密 ニ 調 査 ス ル ノ 遑[ い と ま ]ナ ク 当
時引取人ナキ墳墓ヲ発掘シ此所[ここ]ニ納骨ス」
写 真 22 高 知 市 三 里 墓 地 公 園 の 「 納 骨 塔 」
大東亜戦争下、日本帝国海軍は、この地域に浦戸海軍航空隊と高知海軍航空隊第二飛行
場 を 建 設 し た 。 二 つ の 軍 事 施 設 の 建 設 時 期 か ら す る と 、 こ こ に い う 「 海 軍 施 設 」 は 、 1944
年 11 月 1 日 に 開 隊 し た 浦 戸 海 軍 航 空 隊 跡 の こ と の よ う だ 。
高 知 市 池 地 区 に 浦 戸 海 軍 航 空 隊 跡 の 碑 が あ る 。1985 年 4 月 6 日 に 甲 種 飛 行 予 科 練 習 生 第
14 期 会 、 第 15 期 会 、 第 16 期 会 が 建 立 し た も の だ 。
「当地は旧浦戸海軍航空隊の隊門跡である。予科練とは飛行予科練習生の略稱で旧海軍
航空機搭乗員である。この採用制度は昭和五年に設定され全国より選ばれた少年達はよく
鉄石の訓練に耐え無敵の空威を発揮したが連合軍沖縄に迫るや全員特別攻撃隊となり、祖
国の繁栄と同胞の安泰のみを願いつヽ肉弾となり敵艦に突入し、その八割が若桜で散華し
た の で あ る 。浦 戸 航 空 隊 は 昭 和 十 九 年 十 一 月 一 日 開 隊 さ れ た が 、昭 和 二 十 年 五 月 に 入 り 愈 々
本土決戦必至の戦況のもと練習生は敵を水際に撃砕すべく日夜陸戦特攻訓練に終始し身を
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以 [ も っ ] っ て 国 難 に 殉 ぜ ん と 決 す る も ( 以 下 、 略 )」
浦 戸 海 軍 航 空 隊 は 、途 中 か ら 陸 戦 隊 に 変 わ り 、呉 鎮 守 府( く れ ち ん じ ゅ ふ )第 11 特 別 陸
戦隊になった。
高知の沿岸部の須崎、宇佐、浦戸、長浜、手結、室戸に陣地をつくっていた。
この隊の岡村虎彦氏たちは、三里国民学校の講堂に寝泊まりし、浜で上陸してくるアメ
リカの上陸用舟艇に爆弾を抱えて体当たりする訓練をしていた。
2011 年 10 月 、 2012 年 4 月 に 平 和 資 料 館 ・ 草 の 家 の 福 井 康 人 研 究 員 が 発 見 し て 発 表 し た
香南市夜須の 2 つの手結砲台跡は、この陸戦隊のものだ。2 つの砲台の弾薬庫には「化学
兵 器 」 (防 御 用 )も 多 数 用 意 さ れ て い た 。
3,こ の 調 査 で 発 見 し た こ と
この調査で私が発見したことを何点かのべる。
第 1 は、高知県下には日清戦争以降のそれぞれの時期についての石碑があり、これを調
査し、分析することによって、それぞれの時期に石碑をつくった人々の戦争への考え方を
浮きぼりにすることができるということだ。西森真太郎氏が撰をした石碑が目立つが、彼
の 文 章 を 歴 史 的 に 見 る と 、だ ん だ ん「 忠 君 愛 国 」の ボ ル テ ー ジ が 上 が っ て い る の が わ か る 。
第 2 は、これらの石碑のほとんどが明治以来 3 代の天皇の侵略戦争を肯定し、促進する立
場でつくられているということだ。天皇の威光を世界に広げよう、忠君愛国の思いを発揮
し て 戦 争 に 参 加 し よ う と い う ア ピ ー ル を 地 域 住 民 に 発 信 す る メ デ ィ ア に な っ て い た (例 外
は 高 知 市 三 里 墓 地 公 園 の 「 納 骨 塔 」 )。
第 3 は、戦後のアメリカ軍などの占領期に、地域の人たちがつくった戦争の碑が各地で
隠された、そして、そのなかのいくつかは、のちに復活して別の所に建立されているとい
うことがわかった。
これまでに紹介したもののほかに、以下の事例がある。
○
大野見村の大野見中央国民学校の校庭の一隅の忠霊墓地にあった乃木大将の「義勇
奉公」の石碑、東郷元帥筆の「皇国荒廃在此一戦角印一層奮励努力」の石碑も「戦後、進
駐軍の命令により撤去を余儀なくされたのであった。」(「」内は大野見村史編纂委員会
編『 大 野 見 村 史 』)。2 つ の 碑 は 倒 さ れ 、そ の ほ と り の 地 中 に な か ば 埋 め ら れ て い た 。「 戦
後 十 年 、 学 校 [大 野 見 中 央 小 学 校 ]側 の 強 い 要 望 も あ っ て 、 村 教 育 委 員 会 と 民 生 委 員 会 の 共
同 提 案 の 形 で 、部 落 長 会 に も 諮 り 、招 魂 社 へ の 移 転 再 建 の 漸 く 定 ま り 」
(『 大 野 見 村 史 』)、
中 山 の 招 魂 社 へ の 二 つ の 石 碑 の 移 転 再 建 が な り 、1955 年 10 月 31 日 、除 幕 式 が お こ な わ れ
た。
○
須 崎 町 で は 、 1926 年 、 須 崎 八 幡 宮 に 日 露 戦 争 記 念 碑 が 建 立 さ れ た 。 須 崎 町 か ら 日
露 戦 争 に 出 征 し た 65 人 の 中 で 生 き 残 っ た 人 た ち が 話 し 合 っ て 建 て た も の だ 。し か し 、ア ジ
ア 太 平 洋 戦 争 が 終 わ っ て 、 「 米 軍 の 進 駐 に 先 立 ち 土 台 か ら と り は ず さ れ 、 [十 二 年 余 も ] 土
中にうめられたま人々に忘れ去られていた……」。しかし、「復古調花やかな最近になっ
10
て神社総代の坂本猛猪氏さんから『埋めた場所を覚えているので掘出しては…』と話が持
ち 出 さ れ た 。 」 ( 高 知 新 聞 、 1957 年 12 月 14 日 付 の 「 く ろ し お 」 ) 。 さ っ そ く 1957 年 12
月 11 日 朝 か ら 12 人 の 氏 子 総 代 が 土 中 か ら 、 こ の 石 碑 を 掘 り 出 し 元 の 姿 に か え し た 。
第 4、 戦 火 で 壊 れ た 戦 争 碑 が 戦 後 修 復 さ れ て 、 あ ら た な 意 味 あ い を 付 け く わ え ら れ て 復
活 し て い る (永 野 修 身 生 誕 の 地 の 碑 )。
戦後、高知県でも反戦詩人を表彰した石碑、陸海軍の飛行機の追撃や墜落事故をいたむ
石碑、アメリカの空襲の犠牲者をいたむ碑、二度と侵略戦争をしないという思いを刻んだ
石碑などができているが、数量的には、侵略戦争を肯定してきた碑をうわまわっていると
はいえない。
【参考資料】
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官 報 付 録 『 週 報 』 第 24 号
大 野 見 村 史 編 纂 委 員 会 編 『 大 野 見 村 史 』 、 1956 年
外 務 省 編 纂 『 日 本 外 交 年 表 竝 主 要 文 書 下 』 、 原 書 房 、 1966 年 ( 片 仮 名 ま じ り の 文 章 を 平
仮名まじりにし、現代仮名遣いにしてあります)。
寺田正『ふるさとの想い出
写真集
明治
大正
昭和
高 知 』 、 国 書 刊 行 会 、 1979 年
池田宗石・編著『まきでら
長 谷 寺 資 料 誌 』 、 長 谷 寺 、 1982 年
千 田 夏 光 『 天 皇 の 勅 語 と 昭 和 史 』 、 汐 文 社 、 1983 年
大江志乃夫『御前会議
昭 和 天 皇 十 五 回 の 聖 断 』 、 中 央 公 論 社 、 1991 年
江 口 圭 一『 1 9 4 1 年 1 2 月 8 日
ア ジ ア 太 平 洋 戦 争 は な ぜ 起 こ っ た か 』、岩 波 書 店 、1991
年
山田朗『大元帥
昭 和 天 皇 』 、 新 日 本 出 版 社 。 1994 年
不 破 哲 三 『 新 ・ 日 本 共 産 党 綱 領 を 読 む 』 、 新 日 本 出 版 社 、 1994 年
野 市 町 文 化 財 保 護 審 議 会 『 古 里 之 石 碑 』 、 野 市 町 教 育 委 員 会 、 1995 年
「日本の戦争―領土拡張主義の歴史
不破哲三さんに聞く
第 4 回 南 進 作 戦 と 日 米 交 渉 」。
「 し ん ぶ ん 赤 旗 」 2006 年 9 月 24 日 付
小幡尚准「高知市による戦死者慰霊-忠霊塔の建設(一九四一年)を中心に-」=南海史
学 会 『 海 南 史 学 』 第 44 号 、 南 海 史 学 会 、 2006 年
吉岡吉典『総点検
日 本 の 戦 争 は な ん だ っ た か 』 、 新 日 本 出 版 社 、 2007 年
吉田裕『シリーズ日本近現代史⑥
ア ジ ア ・ 太 平 洋 戦 争 』 、 岩 波 書 店 、 2007 年
馴 田 正 満「 陸 軍 歩 兵 44 連 隊 と 戦 争 遺 跡 」= 戦 争 遺 跡 ネ ッ ト ワ ー ク 高 知『 高 知 の 戦 争
証言
と 調 査 』 第 14 号 、 藤 原 義 一 、 2011 年
馴田正満「高知県内の忠霊塔、忠魂碑等の基礎調査
知『高知の戦争
一」=戦争遺跡保存ネットワーク高
証 言 と 調 査 』 18 号 、 藤 原 義 一 、 2012 年
11
馴田正満「高知県内の忠霊塔、忠魂碑等の基礎調査
知『高知の戦争
二」=戦争遺跡保存ネットワーク高
証 言 と 調 査 』 20 号 、 藤 原 義 一 、 2013 年
12