新・百物語 その六十五 「絵の女の話」

新・百物語
その六十五
「絵の女の話」
畠山
拓
オスカー・ワイルドの小説、「ドリアン・グレイの肖像」は有名だ。美と悪徳
の話だ。
絶世の美青年を描いた肖像画。モデルのドリアンは悪徳を重ね、年を重ねる
が、不思議な事に老いることはなく、美貌は昔のままの美青年である。
実は、醜く老いて行ったのは、肖像画の方だった。
肖像画や人形に恋する話は多い。ピグマリオンコンプレックス、と言うらし
い。人形を偏愛する心理だ。
「百物語」では、婦人の像画を愛する話だ。
越後の酒問屋の旦那さんから、頼まれていた茶碗を治めに行った。旦那は喜
んだ。
「これならあいつも喜ぶに違いない」
旦那は嬉しげに茶碗を見せに行くらしい。
「どうだ。良かろう。この赤楽は」
語りかけている相手は掛け軸の美人画だった。旦那は生きている女を相手に
するように、語らい、楽しんでいるらしい。
こういうお方も居る者だ。
それから大分年月が経ち、二十年ぶりほどに、旦那から赤楽、黒楽の注文が
入った。
「あの、ふたつとも割ってしまわれた・・・」
「いや、わたしの黒楽が割れたのであれの赤楽も、割ったのだ」
見ると、床の間、掛け軸の絵姿は同じだった。旦那は美人画と一緒に暮らし
ていたのだ。
美人画の女は、いくらか年とっている風に見える。あのときの絵とは同じで
はないのか。
「はい。老いましたでしょう。共に老いようと、ときどき描き変えて、年を取
らせています」
絵と一緒に暮らす、旦那のこの合理的な考えは、まともなようだ。
まともさが怖いのだ。
一見まともで、理屈や、常識に照らして、正しいように思うものにも、危険
で怪しく、狂気に満ちて居るものがある。
人形を愛しても、絵を愛しても、それは自由だ。しかも、生身の人間ならど
んなに愛しても、不思議な事でも悪い事でもないのか。
今も、ストーカー殺人が報道されている。