19 −96 08 I SSN 09 北海学園 大 学 第 57号 北海学園大学人文学部 2 01 4年8月 執筆者紹介 田 中 綾 常 見 信 代 テレングト・アイトル 徳 永 良 次 名 定 道 佐 藤 弘 夫 池 田 和 利 ( 日本文化学科:教 授) ( 英米文化学科:教 授) (日本文化学科:教 授) ( 日本文化学科:教 授) ( 京都大学大学院文学研究科:教 授) ( 東北大学大学院文学研究科:教 授) 北海学園大学人文学部:日本文化学科4年) ( 北海学園大学 人文論集 第5 7号 2 014(平成 2 6) 年8月 3 1日 編 集 田 仲 中 司 優 綾(日本文化学科) 子(英米文化学科) 発 行 者 郡 淳 発 行 所 北海学園大学人文学部 〒0 6 28 60 5札幌市豊平区旭町4丁目 1番 4 0号 電話(0 1 1) 8 41 1 16 1 印 刷 ・ 製 本 ㈱アイワード 札幌市中央区北3条東5丁目 I SSN 0 91 9−9 60 8 HOKKAI GAKUEN UNI VERSI TY STUDI ES I N CULTURE 0 1 4 Augus t2 No.57 CONTENTS Ce l t i cChur c h andt hePas chalCont r over s y ………………………………………………NobuyoTSUNEMI 1 Shoc kWave s :Moder ni z at i onandt heSe ai nSos e ki Nat s ume, Ogai Mor i ,XunLu,Daf uYuandSai c hi nga( VI ) …………………………………………Ai t or uTERENGUTO 8 9 Hokkai Gakue nUni ver s i t yFac ul t yofHumani t h t i e s20 Anni ver s ar ySympos i um ( Rec or di ng) :New Pos s i bi l i t i e s 3 5 f orHumani t i e s………………………………………………………… 1 Hi s t or yoft hei ndexe si nKOZANJ I t e mpl e . 二 쑛 ……………………………………Yos 五 hi t s uguTOKUNAGA 202 s t i gat i onandI I nve nt r oduc t i on:TANKA ofAyakoMi ur a( Hot t a) ……………………………AyaTANAKA・Kazut ㈠ oI KEDA 226 THE FACULTI ESOF HUMANI TI ES HOKKAI GAKUEN UNI VERSI TY SapporoHokkai doJapan 北海学園大学 第5 7号 2 0 1 4年8月 目 ケルト教会 次 と復活祭論争 ………………………………常見 信代 1 近代の衝撃と海 얨鴎外・漱石・魯迅・郁達夫・サイチンガによって 表象された 海 얨(下) ……………テレングト・アイトル 8 9 北海学園大学人文学部開設 2 0周年記念シンポジウム 記録 人文学の新しい可能性 ……………………………………………… 1 3 5 二 高山寺における聖教目録の変遷(一)…………………徳永 良次 2 02 쑛 五 資料紹介 三浦(堀田)綾子の アララギ …………………………………………田中 題字揮毫:島田無響氏 掲載歌 綾・池田 和利 2 26 ㈠ ★ デ ー タ タイトル1行➡3行どり タイトル2行➡4行どり ケルト教会 と復活祭論争 常 見 信 代 はじめに ケルト教会 とは,実在した教会ではない。これは,中世初期のイング ランドの教会を教義,典礼,教会組織の上でローマ教会と一体のものとと らえ,これとの対比でアイルランドやスコットランド,ウェールズの教会 を一括した概念である。 ケルト教会 概念が生まれたのは 1 6 ,1 7世紀の 宗教改革期であったが,その典拠となったのは,一つはノーサンブリアの 修道士ベーダが 731年に完成させた イングランド人の教会 であり, もう一つがアイオナの第9代修道院長アダムナーンが8世紀初めに著した コルンバ伝 である。いずれも,中世初期という,わずかな ていない時期を研究する上で,貴重で不可欠な 料しか伝わっ 料であるが,そこに描か れたイングランドの教会とアイルランドの教会は,読みようによっては起 源や組織原理を異にする教会と解釈される余地を残していた。これが, ケ ルト教会 なる概念 生の背景である。 たとえば,二つの著作は 5 97年にブリテンの南東沖の島と北西沖の島で 起きた出来事を対照的に記している。まず,ベーダの 年の早い時期に,ケント沖のサネット島に 教会 は,この 神のことばをイングランドの 人びとに説くために 웋 ,教皇グレゴリウス一世の派遣したアウグスティヌ -2 アウグス 웋Bede, HE ,I 3( p.68 ) :pr ædi car euer bum De ige nt iAngl or um . ティヌスらの到着が 5 97年のいつかは不明であるが,アレクサンドリアの 主教にあててグレゴリウスがこの年のクリスマスに送った書簡に,これまで 木片や石を拝んできた一万人を越す人びとが洗礼を受けた と書かれている ことから,おそらく 5 9 7年の早い時期と推測される。Letter s of Gr egor y the 1 割 ★ 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) スら 4 0人のベネディクト会修道士が上陸した様子を克明に描き, これ以後 カンタベリーに司教座を置いたローマ教会によるアングロ・サクソン改宗 事業の歴 が語られていく。一方,同じ年の6月にスコットランド西岸の 沖にあるアイオナ島で,アイルランド人コルンバがみずからの 設した修 道院で 75年の生涯を閉じた。 アウグスティヌスと同様にコルンバも修道士 にして宣教にかかわり,後にアイオナは,アイリッシュ海峡をまたいだ系 列修道院を束ね,さらにノーサンブリアの宣教にも深くかかわることにな る。しかし, コルンバ伝 は,こうした事柄にほとんど言及せず,舞台を 修道院に,登場人物も修道士にほぼ限定して全三巻をコルンバの予言や予 知による奇跡譚で埋め尽くし,コルンバが 神のひと であることを語り 続けた。 5 97年に起きた出来事の描き方に示されるように,ベーダとアダムナー ンの描く教会や教会人は,1 6 ,1 7世紀のアイルランドやスコットランドの プロテスタントに恰好の題材を提供した。ローマ教会から 離した彼らの 教会は,その起源がローマ教会ではなく,アウグスティヌスらの到着前か ら存在した,自律的でかつ清 で敬虔な教会に,つまり ケルト教会 に あると主張されたのである。たとえば,スコットランドでは 1 6世紀を代表 する人文主義者 G.ブキャナンがアウグスティヌスの伝道について, 新し い教えを説くというのであったが,…ローマ教会の儀式を教えたにすぎな かった。実際にも,ブリテンの人びとは彼らが来る前に敬虔で学問のある 修道士によってキリスト教に改宗していた と主張し,ペトロの座との関 係を否定した워 。 こうしたプロテスタント系神学者の ケルト教会 論は,歴 研究にも Gr eat ,VI I I 3 0( p. 240) ;Wood( 19 94 ) ,p.12 . 워Buchanan,Rer um Scoticar um Histor ia ( 15 82) ,V3 3( p. 1 9 6 ) ;I V-4 7( p. 1 5 7 ) . アイルランドでも,後にアイルランド国教会のアーマー大主教をつとめる アッシャー(J.Us )が,アイルランドの教会がローマ教会による伝道よ s he r りも古い歴 を持つと主張し,アイルランドの教会財産のほぼすべてを国教 会が引き継ぐ論拠とした。Ussher,pp. 41f f . 2 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 重大な影響を与えた。 ローマ教会/ イングランドの教会との違いが中世初期 の教会 の中心テーマになり, ケルト教会 なる概念に具体的な内容を肉 付けしたのである웍 。たとえば,平信徒への司牧を担当した教会組織につい て,イングランドでは 司教制度 (司教区,教区)が想定され,ウェール ズを含む ケルト教会 には 修道院制度 (修道院パルキア)が,つまり 上記のアイオナのような大修道院を頂点とする系列修道院の連合体が想定 されたのである웎 。 ケルト教会 なる概念に本格的な疑問が投げかけられ,再検討が進んだ のは 2 0世紀も末のことである。特に教会組織については,アイルランド, ウェールズ,スコットランドに共通の教会組織が存在したという神話は否 定され,また,アイルランドの修道院パルキアそのものについての再検討 も進んだ웏 。これらの修正論を促したのは,イングランドの教会組織に関す (186 4)や War (1 8 8 1 )がいるが,現在に 웍19世紀の代表として,Reeves r e n 至るまで強い影響を与えたのは, ドイツを代表するケルト学者 Zi ( 9 02 ) mme r1 で,アウグスティヌスの伝道前からアイルランドとブリテンに存在した教会 を ケルト教会 と定義し,6世紀までを初期教会,7世紀8世紀を黄金期, 9世紀1 2世紀を衰退期と区 した。Zi mme rのケルト教会論は Bul l och (1 96 3 )や Chadwi (19 63 )らに受け継がれ,最近でも,Cambr c k idge Histor y (2007 )の第2章 Ge of Chr istianity vol .2 r mani candCel t i cChr i s t i ani t i e s (pp. 5269)を担当した Sch 썥 af e r di e kがブリテン諸島についてほぼ Zi mmer のケルト教会 の枠組みを踏襲し,ケルト教会対イングランドの教会/ ローマ 教会の対立図式で説明している。一方,イングランドでも,中世 9 7 1 1 19-20 56)がベーダの M.St ent on(1 ,3읚 윺e d. ,pp. ,12 れたアイオナ系修道士を実例にローマ教会と対比して の碩学 F. 教会 ケルト教会 に描か の特徴 を Monas t i cの語で表わし,その後のとらえ方に強い影響を与えた。 웎 修道院パルキア の集大成として Hughe s( 19 6 6 ) ,pp. 5 7 7 8 . 웏K. Hughe sは修道院パルキア論の集成者として後のアイルランド研究に多 大な影響を与えたが,他方では TheCel t i cChur c h:i st hi saval i dc onc e pt? (1 98 1 ,死後に出版) を著し,修道院パルキアはアイオナを含むアイルランド の教会に特有の組織と結論し,ウェールズの教会組織を修道院パルキアとし て一括することを否定した。その意味で 3 ケルト教会 論を批判している。 北海学園大学人文論集 る ミンスター教会 第 57号(20 14年8月) 論の台頭である。修道院か教区教会か単純に 類し てきた定説に代わり,修道院長や司教らが共住する複合的な教会施設が初 期教会の具体像となったのである원 。こうして現在はイングランドであれケ ルト語圏の地域であれ,初期教会の多様な実態が明らかになってきた웑 。 ケルト教会について,教会組織の見直しは進んだが,なお検討すべき課 題がいくつか残されている。その一つが復活祭論争である。復活祭の しい 正 期日をどのように算定するかをめぐって,7世紀 -8世紀前半のブ リテン諸島を舞台に論争が展開したが,ベーダが をその説明にあて,あたかも 教会 教会 のかなりの部 の中心テーマであるかの印象を 与えることから웒 ,ケルト教会論者にも,またその批判者にもイングランド アイルランドにおける修道院パルキアの修正論として Shar pe( 1 9 8 4) ; Shar pe 邦語文献として田付秋子 ( 19 9 2) ;Et chi ngham ( 1999) ,pp.10 5-1 30,pp.4 5558 . (1 99 6 /9 7) ;常見信代(2 011) 。Wor 6 ) ,Additional Note I (pp. mal d(200 2 23 224 )も参照。 )は monas 원ミンスター(myns t er t er i um から派生した古英語で,どちらの語 も中世初期には非常に広い意味で われ,多種多様な教会を伴う宗教施設を 意味した。しかし,初期のラテン語 料にある monas t er i um に研究者らが monas t e r y の訳語をあてたことから,初期の教会組織にはベネディクト会 のような 修道院 イメージが常に付きまとうことになった。これを払拭す るためもあって修正論では myns t er, mi ns t erの語が用いられる。しかし, アイルランド本土やアイオナなどを対象とする本稿では,中世初期の 料に ある monas t er i um ,abba,abbasあるいは研究者の用いる abbotを表わ す適切な日本語が見当たらないため, 修道院 , 修道院長 と訳すが,これ はかならずしも 1 1,12世紀の 修道院 の意味でないことをあらかじめ断っ ておく。ミンスターの定義について Bl ai r and Shar pe ( 1 9 9 2 ) ,p. 3 ;Bl ai r 邦語文献として鶴島博和(2 011) ,45頁。 ( 2 005 ) ,p.3. 0 13)。 웑研究動向の概略について常見信代(2 웒 教会 全五巻のなかで復活祭の期日算定問題への言及がないのは,アウグ スティヌスの来島以前を扱った第一巻だけである。ベーダとは対照的にアダ ムナーンが コルンバ伝 のなかでこの論争に言及したのは一か所(VC , I 3 : 15b)で,コルンバの予言として 復活祭の期日が一致していないこと(di ue r ) について,アイルランドの教会の間で大きな争いが起きる s i t at em pas c hal i 4 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) の教会(ローマ教会)との相違の重要な証拠として取り上げられてきた。 たしかに,本稿で検証するように,アイルランド人,ブリトン人(ウェー ルズ人), スコットランドのピクト人がローマ教会とは異なる算定方式を用 いたことは事実である。しかし,そもそもローマ教会がベーダの言う しい 正 方式を採用したのは 6 30年代末か 4 0年代初めであり, イングランド の教会がそれを採用したのもウィットビー教会会議(6 6 4)の直前と推定さ れる。しかし, 教会 も, 教会 は,これらのことに一切,言及していない웓 。しか が記した論争はウィットビー教会会議だけであり, 正しい 方式以前のローマ教会方式をめぐるコルンバヌスやクミアンらの論争は紹 介すらされていない。 もちろん,ベーダの 一 教会 のテーマは,イングランドの教会の であったから,ノーサンブリアの教会がローマ教会の 正しい 統 方式 を受け入れてイングランドの教会統一の障害がとりのぞかれたウィット ビー教会会議こそが書くに値する論争だったのであろう。しかし,ベーダ の 教会 だけでは,アイルランドを含めた復活祭論争の全体像は理解 できない。そもそも,復活祭論争はブリテン諸島で始まったのではない。 その起源は2世紀にまでさかのぼり,それ以後,長くて複雑な経緯のなか で算定方式の原則が成立し,これがブリテン諸島における論争を左右した のである。 ケルト教会 における復活祭問題を理解するには,この長い前 であろう と記しただけである。もちろん論争の表面化はコルンバの死後で あるが,アダムナーンのこの沈黙には重大な意味があり,執筆意図がとかく 議論される 筆者は コルンバ伝 であるが,その読み解く鍵は復活祭論争にあると える。別稿で検討する予定である。 웓ベーダは復活祭の期日の算定方式に造詣が深く,教科書 時間の計算につい て De tempor 25年完成,以下 The Reckoning )を書いたほ um r atione (7 どであるが,その第 5 1章ではアレクサンドリア/ ディオニュシウス方式以外 の 正しくない算定方式 の筆頭にヴィクトリウスの復活祭表をあげ,その 間違いを詳しく指摘している。しかし,この方式はローマ教会がほぼ2世紀 ものあいだ採用した算定方式であるが,その点は不問に付している。Bede, The Reckoning ,pp. 13 2-34 . 5 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) をたどる必要がある。 しかし,これは容易なことではない。なによりも,復活祭論争に関する 料は,神学や天文学,数学にかかわる難解で高度に専門的な内容を含み, 解釈が容易ではない웋 。また, 料のなかには改ざん文書や偽書も多く,高 월 度の 料批判が必要である。復活祭論争の研究がきわめて少数の専門家に 集中しているのは,こうしたことも原因であろう。 ケルト教会 の再検討 のなかでも,復活祭論争を検証した研究はほとんどない웋 。このこと自体が 웋 2世紀の教会法学者カンタベリーの Eadmerが, ウィルフリド伝 を書くに 웋 월1 あたって,ウィットビー教会会議でウィルフリドがローマ教会の算定方式を 解説したスピーチを,こんな小さな書物のなかで読者に嫌悪感を催させるよ うなことを書く必要はない nei nr ehui copus c ul ononnec e s s ar i aal i quod f as t i di um l ege nt i busi nf e r r emusとして削除した。これに関連して 教会 の解説のなかで Pl ummerは, ベーダの読者も,同じように省略してくれて いたらよかったと思うだろう と書いて,復活祭に関する論説の難解さを表 現している。Eadmer,Vita Wilfr idi ,p.1 73;Vener abilis Baedae ( 1 8 9 6 ) ,vol . 2 ,p.34 8 . 9 9 2 )は, ケルト教会神 웋 웋W. Davi e sの TheMyt hoft heCel t i cChur ch(1 話 に痛撃を加えた記念碑的論 ても, として高く評価される。復活祭論争につい を含めて 1 0頁ほどの小論のなかでほぼ1頁をあてて解説している が,算定方式について事実誤認がいくつかあり,論旨は混乱している。一方, 0 0 )は 6 0 0頁を越す大著で Char l e s Edwar dsの Ear ly Chr istian Ir eland (20 氏の初期中世 研究の集大成であるが,そこでは Pas chalCont r ove r s yと 題する章を特別に設けてこの論争を論じている。管見によれば,算定方式に 精通した一部の専門家を除くと,アイルランド中世 家のなかで復活祭論争 を本格的に論じたのはこれだけである。しかし,月齢範囲に関する福音書の 理解に混乱があり,全体として難解な解説になっている(後掲 3 0参照)。 他方で,St 009)は,5 0 0 1 1 0 0年のブリテン諸島 af f or d( e d. ) , Companion (2 を対象に概説書というよりも研究動向を 教会 関係の章も多いが,そこでは 括した専門書と呼ぶべきであり, 復活祭論争 Eas t e rc ont r ove r s yとい う言葉があるだけで,内容を伴った言及はない(pp. 8 6 ,1 6 5 ,1 8 1 ) 。たとえ ば,H. Pr yceは, 第 10章 キリスト教への改宗 において本稿の冒頭で紹 介した 5 9 7年の出来事にも触れてブリテン諸島 6 を書く難しさを具体的に論 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 復活祭論争の意義に対する評価と言えるかもしれない。しかし, ケルト教 会 論のなかでこの論争が占めてきた比重を えるとやはり奇異である。 筆者にこの論争を論じる資格も能力もないのは,もちろんである。しかし, 中世ブリテン諸島の教会 を書くにあたって,復活祭論争は避けて通れな いテーマである。また,欧語でも邦語でもこの論争を扱った文献では, 料や研究 に言及したものは少ない웋 。他方で,19 8 5年に写本が発見され, 워 ブリテン諸島の復活祭論争にあらたな 料が加わり,たとえばアイルラン ドにおける研究は活気を取り戻しつつある。こうした研究状況を踏まえ, 本稿では復活祭論争の長い歴 をまず時系列に って概観し,前半では復 活祭期日算定の方式とその原則の成立過程に焦点をあて,後半ではブリテ ン諸島における復活祭論争の よって,今後のブリテン諸島 料紹介に焦点をあてて 察する。これに 研究のための基礎固めの一助としたい。 じているが,復活祭論争については 6 64年のウィットビーの教会会議の結果 アイオナの算定方式が退けられ,アイオナの 3 0年の支配が終わった と書く だけである(p.14 9)。 9 1)がアイルランドの復活祭論争を概観され,大橋 웋 워邦語文献として盛氏(19 氏が 1 9 98年と 2 011年に文書改ざんをテーマに論じている。しかし,両氏の 議論はいずれも論点が多岐にわたり,その論旨は筆者にはきわめて難解で あった。本稿はこれらの論 とは視点を全く異にするものである。一方, Hol f or dSt r e ve nsの The Histor y of Time: A Ver y Shor t Intr oduction (2 00 5 )が翻訳された(正宗 訳 暦と時間の歴 ,2 0 1 3) 。原著は,9 0 0頁 を越す The Oxfor との共著,1 9 9 9 ) d companion to the year(Bl ac kbur n,B. の簡約版にあたり,復活祭論争の手ほどきとして 利であり,それが邦語で 読めるのは喜ばしいが, Pat r i ar chofAl exandr i aを アレクサンドリアの 君主 (7 0頁)と訳すなど,訳語や文脈の取り方に混乱が見られる。一方, チャールズ・エドワーズ著・常見信代監訳(2 01 0 ) ポスト・ローマ では, 復活祭論争にかかわる事柄が通奏低音のごとく繰り返されているが,原著に は復活祭論争そのものの説明も議論もない。このため日本語版では常見が簡 略な解説を書いている(37 5-78頁) 。 7 北海学園大学人文論集 1 第 57号(20 14年8月) 初期教会と復活祭 キリスト教の復活祭は,ユダヤの過越祭を起源にしている웋 。最初期のキ 웍 リスト教徒は, 徒とその後継者を含めてユダヤ教からの改宗者であり, みずからをユダヤ人と認識していたから,初代教会ではユダヤの過越祭に 合わせてイエスの 受難と復活 を祝っていた。彼らにとってイエスの 受 難と復活 は,救済の同じプロセスであった。イエスの受難は新しい契約 の過越であり,イエスの復活はエジプトからの新しい脱出だったのである。 キリスト教がユダヤの過越祭を放棄し, 受難と復活 がもはや一体のプ ロセスとは受けとめられなくなった時に,問題が始まった。キリスト教会 がみずからの手で 復活の日 を決めなければならなくなったからである。 これは容易に片付く問題ではなかった。そこに至るまでの論争の歴 つの章に を三 祭論争の歴 けて検討したい。あらかじめ乱暴な言い方で要約すれば,復活 は,初代教会から受け継いだユダヤ的慣習の一つをキリスト 教会独自の典礼に塗り替える歴 であった。同時にそのプロセスは,多様 な文化的背景をもつ各地の信徒を復活祭の同じ暦に従わせキリスト教会を 一つにまとめる歴 でもある。 1)ヨハネの伝統 記録された最初の復活祭論争は,2世紀にローマ管区の教会と帝国属州 웋 웍過越祭とは, 出エジプト に由来する祝祭で,イスラエルの民が神の命令に 従ったことによって災いが 過越した という故事に基づき,ユダヤ暦のニ サン月 1 4日(月齢 1 4日,満月の日)の日没前に小羊を り,日没後から 1 5 日の明け方までにその肉を焼いて食し,エジプト脱出を記念するのである。 これに続く七日間が 種入れぬパンの祭り で,このあいだユダヤ教徒は酵 母入りのパンを食べてはいけないことになる。イスラエルの民が 種を入れていない練り まだパン を持って急いでエジプトを脱出した時のことを忘 れないためである。本稿では,聖書の訳語は旧約聖書翻訳委員会訳・新約聖 書翻訳委員会訳(岩波書店刊)による。同委員会訳では,旧約聖書では 入れぬパンの祭り ,新約聖書では 除酵祭 8 と訳されている。 種 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) の小アジア地方の教会との間で起きている。これに関しては,カエサリア の司教エウセビオス(c .2 )がガリアの監督イレナイウス(c. 1 60 33 9 30 )らの文書をもとに2世紀半ばと2世紀末の二つの論争を紹介してい 2 0 0 る웋 。それによれば,直接の争点は 断食 をいつやめるかであったが,こ 웎 の議論を通して,曜日を問わずに復活祭をユダヤの過越祭と同じ日に行う 小アジアの教会と,復活祭は福音書に従って 週の初めの日 に,つまり 日曜日(主日)に行うべきであると主張するローマ管区を中心とする派と が対立することになったという。 この対立で注目されるのは,二つの論争において小アジア派の代表の主 張である。2世紀半ばのポリュカルポス (スミルナの) と,世紀末のポリュ クラテス(エフェソスの,1 9 0年ごろ没)がともに過越祭の日に復活祭を祝 うのは 徒ヨハネ にさかのぼる伝統であると主張したことである。と りわけ,ポリュクラテスは,ローマ管区のウィクトールにあてた書簡のな かで, 身内が代々の司教で,自 は8人目になるが,ユダヤ人がパン種を 捨てる日〔過越祭の日〕に復活祭を守ってきた 慣行が 徒ピリポ, と主張し,さらに,この 徒ヨハネ,ポリュカルポス,メリトと続いてきたこ とを文面に匂わせている。また,2世紀末の論争では,ウィクトールが小 アジアの信徒の破門を発表したが,そのやり方が他の管区監督らに反対さ れ,イレナイウスの仲裁によって破門は撤回されたという。 エウセビオスの紹介する論争から,初代教会の慣行が 統 徒ヨハネの伝 として2世紀の小アジアを中心とした教会に継承され,他方で,ロー マ管区やガリアなどの教会がユダヤとのかかわりを断ち切って過越祭の直 後の日曜日にキリスト教独自の復活祭を行うべきだと主張したことも明ら かである웋 。それでも,彼らは小アジアの慣行を否定せず,容認した。エウ 웏 웋 웎エウセビオス 教会 上 ,쒃-2 3,24 (34146頁) ;ジャン・ダニエル 初代 教会 ,2 4 64 9頁。 9 92, 웋 웏Pet er s e n(1 p.315)は,2世紀末のウィクトールの破門措置は,失敗に 終わったとはいえ, ローマの教会管区を超えてその基準を強制しようとし た,記録に残る最初の試み と解釈する。 9 北海学園大学人文論集 セビオスの 教会 第 57号(20 14年8月) は,5世紀初めにアクイレイアの修道士ルフィーヌ ス(Ruf )によってラテン語に翻訳され,西方世界に広く i nusAqui l e i e ns i s 知られるようになる。ブリテン諸島における復活祭論争でも, 教会 紹介する二つの論争はコルンバヌスによって 寛容 の を求める論拠として 引用された웋 。 원 2)ニカイア 会議と復活祭 復活祭をめぐる二つの慣行の併存に区切りをつけようとしたのが,3 2 5 年のニカイア 会議であった。ただし,この問題に関する 会議の決議そ のものは伝わっていない。エウセビオス(3 3 9年没)の未刊の著 コンスタ ンティヌスの生涯 に 会議に参集した司教らにあてたコンスタンティヌ ス帝の書簡の引用があり,その文面から復活祭に関してニカイア 会議で は二つの原則が確認されたと推測されるのである웋 。 웑 その一つは,復活祭がすべての土地で同じ日に執り行われるべきという 教会の一致 の原則である。すでにアルル 復活祭はすべての地で同じ日に挙行すること 会議(3 1 4)において 主の が採択されていたが,あら ためてキリスト教会の原則として確認したのであろう웋 。 教会の一致 が 웒 繰り返し求められたのは,キリスト教会独自の暦(教会暦)が発展するに 伴い,復活祭は降 祭とならんで典礼の起点となったからである。たとえ ば,四旬節,昇天祭,聖霊降臨祭などは復活祭から数えて決められるから, 8頁。ギルダス(Gi )も ブリテンの衰亡 のなかでエウセビオ 웋 원後述,5 l das スを引用している。Gildas ,pp. -58 156 . -18( 웋 웑Eusebius, Life ,I I I pp.1 2829 ) . 웋 웒Concilium Ar elatense :Pr i moi nl ocodeobs e r uat i onepas chaedomi ni c ae : ut uno die et uno tempor e peromnem or be m anobi sobs e r uar e t ur ,ut i uxt ac ons ue t udi ne m litter as adomne st udi r i gas.Concilia Galliae ,p. 6 쏃1.イタリックは筆者。ローマ司教が 毎年,その期日を書簡で知らせる こ とが決議されたが,出席者は西方の司教だけである。アルル について St er n( 2 0 12 ) ,pp. 39 5-96 . 1 0 会議の実効性 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 復活祭の期日の不一致は,典礼暦に長期にわたる不一致をもたらすことに なる。 二つめは,復活祭をユダヤの過越祭と同じニサン月 1 4日ではなく, 主 日 (日曜日) に挙行する原則である。もっとも,書簡にはこの原則に直接 言及した文言はない。しかし,次の文面から復活祭はユダヤの過越祭と切 り離してキリスト教会独自の祝祭として執り行うことが確認されたと解釈 される。 何よりも,このもっとも聖なる祝日を実施するにあたり,不信仰のた めに無法な罪によってその手を汚し,それゆえに当然ながら魂を盲目に されたユダヤ人どもの慣習に従うのは適当でない。…われわれはあの忌 まわしいユダヤ人どもと共通のものをもたないようにしようではない か 。 この原則によって,曜日を問わずに復活祭を過越祭の日に行うキリスト教 徒は, 十四日主義者 (Quar )と呼ばれ排斥されることになる。 t odec i mani ただし,月齢 1 4日が日曜日の時の復活祭はニカイア 会議では問題とは なっていない。この点が後に重要になってくる。 3)ユダヤ暦とユリウス暦 復活祭論争は,ニカイア 会議をもっても収束することはなかった。4 世紀後半からはアレクサンドリア教会とローマ教会の間で,6世紀末から はブリテン諸島に飛び火して論争は続いた。これほど長期化した理由は, 復活祭を過越祭の後の日曜日とする 原則 では教会が一致できたとして も,これまでのようにユダヤ人に頼らずに,キリスト教会独自の方法で期 日を決めるには,解決すべき課題が多かったからである。 最大の課題は,月の運行に基づくユダヤ暦と太陽の運行に基づくユリウ ス暦とを調整して,過越祭の後の,つまりニサン月 1 4日(月齢 1 4日と同 義,満月の日)の後の,日曜日を割り出すことである。それには,少なく 1 1 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) とも太陰暦と太陽暦を接合する(太陰太陽暦)ための周期,および春 と 月齢範囲とを決める必要があった。ニカイア以後の復活祭論争に入る前に あらかじめこの問題をまとめておく。 i)周期 ユダヤ暦は,月の運行に基づいているから1年は 3 5 4.3 7日(29 . 53日× 1 2 )で,太陽暦の1年(3 6 5. 2 4日)より 11日ほど早く進む。このため,3 年で約一か月,2 0年で約六カ月と,年が進むにつれてその差が大きくなり, 暦の上では夏であるが実際は冬のように,季節とのズレが大きくなる。こ のズレを調整するために,一定の周期で閏月を加えて太陰太陽暦にする方 法がすでに紀元前5世紀のギリシアで知られていた。この調整方法が復活 祭期日の割り出しに用いられ,1 9年周期,16年周期,84年周期などに基づ いて復活祭の期日が決められるようになる。 これらの周期のなかで,月の運行とのズレがもっとも少ないのは,1 9年 周期である。これは太陽年の 1 9年間(365 . 24日×19 =6 9 3 9. 5 6)と太陰年 の 23 5ヶ月(2 9 .5 3日×23 5=69 3 9 .55 )とがほぼ等しいという算定に基づい て 19年ごとに閏月を加える方法である웋 。さらに 1 9年目に サルトゥス・ 웓 ルーナエ (以下,サルトゥス) と呼ぶ1日を加えて,微調整が行われる워 。 월 1 9年周期を復活祭の期日算定に用いた最初は,ラオディケアの司教アナ トリオス(27 7年ごろ没)とされる워 。4世紀中葉までにアレクサンドリア 웋 웋 웓古代ギリシアの天文学者メトン(Met on)の名前をとってメトン周期と呼ば れる。ただしメトン自身が発見したのか,メトンがバビロニアから借用した のか議論は かれる。Hannah( 20 0 5 ) ,p.85 . 워 월 Sal t usl unaeとはラテン語で 月の跳躍 の意味。一回のメトン周期で累積 するズレは 1 1 ×19=209 (1年あたり 1 1日のズレが 1 9年 )であるが,2 0 9 日は 3 0日では割り切れず,29日余る。そこで 1 9年目に1日を加算してから 再び周期を始めなければならない。この加算をサルトゥスという。Bl ackbur n andHol f or dSt r eve ns( 1999 ) ,p.3 0 6 . 9年周期は,エウセビオス 워 웋アナトリオスの 1 教会 下 (쒅3 2 1 4 )に引用 されているだけとされてきたが,第3章で紹介するように, アナトリウスの 1 2 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 教会が 1 9年周期に基づく復活祭表を 式に運用し, 最終的にはこれがキリ スト教会の周期となるが,そこに至るまでには長い時間がかかった。なぜ なら,復活祭期日の算定は,周期計算という単なる計算技術だけの問題で はないからである。ユダヤの律法とキリストの新約の両者に矛盾しないよ うに算定されなければならず,神学の問題でもあった。とりわけ春 と月 齢範囲は神学の問題であった。 i i)春 復活祭の期日割り出しの起点になるのは,ユダヤの過越祭の日,ニサン 月 14日の満月の日である。旧約聖書には,春 についての記載はないが, 過越祭がユダヤ暦の一月,春の月に行われたことは明らかである워 。キリス 워 ト教会は,この原則を継承するとともに,春 について独自の理論づけを 行なった。たとえば,ベーダは,復活祭が光の時間が闇よりも長くなる春 の後でなければならない理由を,春 の後の太陽は死の闇を克服して復 活したキリストを意味し,その後に現れる満月は恩恵に満ちた教会を意味 するからであると解説している워 。 웍 キリスト教会の間では,毎年の春 は天体観測によるのではなく暦の上 で固定することで一致はできた。しかし,その具体的な日付で一致するま でには,やはり時間がかかった。たとえば,アレクサンドリア教会は,お 書 の写本の発見によって修正されつつある。 워 워たとえば レヴィ記 では過越祭は れ (2 4 :5 )で,その日に 第一の月,その月の十四(日)の夕暮 刈り入れた初物の束を祭司のもとに持参しなけ ればならない (2 5:10) 。 申命記 では, 第一の月 は アビブの月 と 呼ばれる(1 6:1) 。捕囚後にこの月はニサン月の名称になる。 워 웍たとえば,4世紀末のアレクサンドリア 主教テオフィロスの 復活祭表序 文쏃2。集大成として Bede, The Reckoning ,pp. 1 52 5 3 .また,コルンバヌ スの教皇あて書簡(後述,55頁)やジャロウ修道院長ケオルフリスのピクト 王あて書簡(Be )では,月の光も神学的解釈の対象に de,HE ,V-2 1 ,p.5 44 なった。 1 3 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) そらく4世紀中葉には3月 2 1日の日付を採用したと推測される워 。3月 2 1 웎 日は実際の春 との誤差がもっとも少なく,最終的にはキリスト教会全体 に採用されるが,この問題もまた,そこに至るまでには長い時間を要した。 ローマでは, もともとカエサルのユリウス暦では3月 2 5日が春 であった から,ローマ教会は5世紀半ばまでこの日付に固執し,他方で,ウェール ズで3月 21日が春 として最終的に採用されるのは8世紀である。 )月齢範囲 i i i 復活祭期日の算定において,もっとも議論が かれたのは月齢範囲で あった。とりわけローマとブリテン諸島ではそうである。月齢範囲とは, 春 の後にくる満月の日(月齢 1 4日,ニサン月 1 4日)の後に来る 日曜 日 を割り出すために必要な条件である。なぜなら,初期のキリスト教徒 はどの曜日であっても月齢 1 4日に,ユダヤの過越祭の日に,復活祭を祝っ てきたが,もはやこの慣行は許されず,日曜日でなければならない。しか し,復活祭の日曜日が毎年かならず同じ月齢(日付)になることはない。 このため,月齢 1 4日が月曜日の時は次の日曜日は6日後であるから復活祭 は月齢 2 0日, 月齢 1 4日が火曜日の時は次の日曜日は5日後の月齢 2 0日に なる。このように,復活祭の可能性のある日曜日の月齢は7日間の範囲に なる。これが月齢範囲(Pas )である。 c hall unarl i mi t s 復活祭は日曜日 の原則は,キリスト教の復活祭がユダヤの過越祭から 離するための重要な条件である。しかし,これはきわめて困難な課題で あった。どの範囲を取るか,キリスト教会は聖書にその根拠を求めたが, 聖書の記述には矛盾した要素が含まれているため,解釈の違いを招いたか 2日を春 워 웎もともとアレクサンドリアの教会は3月 2 としていた。 この日付は アレクサンドリアの天文学者プトレマイオスが天体観測に基づいて記録した 紀元 1 4 0年の春 に由来するもので,アレクサンドリア教会に継承されてい たと思われるが, おそらくアタナシオスの司教時代に 1 9年周期と春 について何らかの改革があり,3月 21日に変 Mos s hamme r( 20 08) ,pp.4 4,14 8-5 0. 1 4 の関係 されたと推測されている。 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) らである。その上,ユダヤ暦では一日は日没に始まり日没に終わる워 。つま 웏 り日付(月齢) は日没後に変わる。これもまた,真夜中に日付が変わるロー マ人や後代の論争当事者らを悩ませた問題の一つである。 福音書には,イエスの受難から復活に至るまでの出来事は日を けて記 されていないが,四福音書はイエスが磔刑に処せられたのが過越祭に近い 金曜日であること,復活したのが 週の初めの日 つまり日曜日であるこ と,この二点について一致している。しかし,曜日では一致しても,これ らの曜日の日付(月齢)になると, ヨハネによる福音書 では,イエスの 受難はすべて 1 4日の 過ぎ越しの準備の日 (金曜日)に起きている。イ エスが弟子たちとともにした 最後の晩 は日が沈んで日付が 1 4日に変 わった夜の食事(13 :1 )であり,14日の日中,過越祭のために小羊が ら れるまさにその時に 神の子羊 イエスが十字架刑に処せられている(1 8: 1 2 ,1 9 :14,3 1) 。さらに埋葬も同日に行われたと読むことができ, 安息 日あけの第一日目のこと,マグダラのマリアが早朝,まだ闇であるうちに 墓に来ると,あの石が墓から取り除かれているのを目にする という(2 0: 1 ) 。一方, 共観福音書 の例として マルコによる福音書 によれば, 最 後の晩 は1 4日の日没後に,つまり日付(月齢)が変わって 15日になっ た夜の過越の食事として描かれ (14 :12 ,1 8 ),その後の磔刑,埋葬はすべ て 15日の出来事とされている(2 7 :1 ,45 ,6 0) 。 ヨハネによる福音書 と 共観福音書 の間には1日のズレがある워 。 원 このように月齢範囲の拠りどころとなる聖書のテキスト自体に相違があ り,どの記述に基づくかによって月齢範囲の取り方に相違が出ることにな 워 웏ここでは立ち入らないが,旧約聖書のテキストすべてが一日の始まりについ て同じとらえ方だったわけではない。詳しくは Char l e s Edwar ds( 20 00 ) ,pp. 3 93 9 4 . 워 원出来事の順序を時間的に追った場合, ヨハネによる福音書 が他の福音書よ りも 実に近いとされる。スローヤーン・鈴木脩平訳(1 9 9 2 ) , 現代聖書注 解 3 0 1頁;鈴木研訳(1 995) マルコ 73頁 (訳注);Hol f or dSt r eve ns( 2 00 5) , p. 4 4 . 1 5 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) る워 。ニカイア以後のキリスト教会では,アレクサンドリア教会が4世紀末 웑 までに 共観福音書 に従って月齢範囲を 1 52 1日とした。これは,特に ニサン 1 4日を避けて反ユダヤ主義を明確にするためであった워 。一方, 웒 ローマ教会は,周期は次に見るように二転三転したが,月齢範囲は3世紀 初めから7世紀半ばまで,1 622日を堅持した。これは, ヨハネによる福 音書 を 受難は月齢 1 4日,埋葬は 1 5日,復活は月齢 1 6日 と解釈し, 復活祭は月齢 1 6日かそれ以後を原則にしたことによる워 。一方,アイルラ 웓 ンド方式も ヨハネによる福音書 を根拠にしているが,より厳密に解釈 して 1 42 0日としている웍 。しかし,月齢範囲に 1 4日を含んだことで,ア 월 イルランド方式には,十四日主義の嫌疑がつきまとうことになる。 以上のようにキリスト教会は,ニカイア 調整するための周期,春 会議以後,太陰暦と太陽暦を の期日,月齢範囲という三つの要素を基準に復 워 웑さらに複雑なことに,過越祭に続く除酵祭の七日間が月齢範囲の取り方に影 響を与えたが,除酵祭(種入れぬパンの祭り)の日付(月齢)について旧約 聖書のなかでも違いがあった。たとえば, 出エジプト記 は,かなり曖昧で あるが,1 52 1日と読め(12 :18-1 9), レヴィ記 では 1 5 2 1日(2 3:5 6) である。しかし, 申命記 では(1 6 :2-3)14日から 2 0日となっている。 워 웒Not haf t( 201 2) ,p.61 . 워 웓ローマ方式が, ヨハネによる福音書 を根拠にしていることは,すでに一世 紀以上も前に Pl umme rが指摘しているが(Vener abilis Baedae , 1 89 6, p. 3 50 , ) ,これに注目するようになったのは,ブリテン諸島 では ́ n.2 O Cr o 썞 ı n 썞 ı n (Cummian s Letter,198 8,p. 23)以後である。 ( -4 04 )は,アイルランド方式の月齢範囲 1 4 2 0 웍 월Char l e s Edwar d s2000 ,pp.399 日が 共観福音書 を根拠としていると論じ,受難と復活に関する詳細な4 種類の日程表を作成しているが,アイルランド方式が どころにしたことを示す 共観福音書 を拠り 料は皆無である。Char l e s Edwar dsのこの誤解が 4枚の表相互の整合性に問題を残すことになっている。また,ヘブライ・ユ ダヤ暦研究の第一人者 S.St 012 )は,古代の地中海世界にお e r nの最新作(2 ける暦の変化を帝国・国家・社会の視点から論じた専門書であるが,アレク サンドリア方式の月齢範囲の根拠を ヨハネにおる福音書 ,ローマ方式のそ れを 共観福音書 と論じ,混乱している(pp. 4 0 5 6 ) 。 1 6 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 活祭の具体的な期日の算定を行うようになった。しかし,算定基準となる 三要素それ自体にさまざまな解釈の余地があり, 教会の一致 は困難で あった。この結果,多様な算定方式が試みられ,地域によって,あるいは 国によって異なる典礼暦に従う状態が続くことになる。6世紀末からブリ テン諸島を舞台に展開した復活祭論争において, 論議の対象となったのは, アレクサンドリア方式 , ローマ方式 , アイルランド方式 の三つの算 定方式である。次にその具体的内容を検討したい。 2 アレクサンドリア教会とローマ教会 復活祭論争の第二は,4世紀から5世紀半ばにアレクサンドリア教会と ローマ教会との間で展開した。この過程で,アレクサンドリア教会が科学 と独自の聖書解釈に基づいて復活祭期日の算定方式を完成させる。ジャ ン・ダニエルは,キリスト教 におけるアレクサンドリアを, セム語族の 社会からやってきたキリスト教がギリシア文化と結びついた場 , 初代教 会から受け継いだキリスト教の習俗がユダヤ教的な表現から抜け出してヘ レニズムのヒューマニズムのもっともよい部 を身につけた場 と位置づ けている웍 。このような文化的風土のアレクサンドリアで,復活祭期日の算 웋 定方式が完成したのである。 1)アレクサンドリア方式 アレクサンドリア教会による復活祭期日の算定方式(以下,アレクサン ドリア方式)は,19年周期(19年目にサルトゥス) ,春 3月 21日,月齢 範囲 1 52 1日をその完成版としている。この方式は,西方世界ではディオ ニュシウス・エクシグウス(Di ,以下ディ onys i usExi guus ,c .4 70 c. 55 0 オニュシウス)の方式として広く知られ,ディオニュシウスが完成者であ るかのような印象を与えているが,それは正確ではない。ディオニュシウ 웍 웋ジャン・ダニエル 初代教会 29394頁。 1 7 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) ス自身が,5 25年に作成した復活祭表の序文のなかで,1 9年周期の発展は アレクサンドリア司教( 主教)のアタナシオス,テオフィロス,キュリ ロスの三人によることを明記している웍 。この三人はいずれも ギリシア教 워 としてキリスト教 に名前を刻まれた正統信仰擁護者であるが,復活 祭表の完成者でもあった。 i)アタナシオス,テオフィロス,キュリロス アレクサンドリア方式が,この三人の司教( 整え完成に向かったことは残存 主教)時代にその内容を 料でも確認できる。まず,アタナシオス の司教時代(在任 3 28373 )について웍 ,復活祭期日を各地の教会に知らせ 웍 るために四旬節前に出した書簡(Fe )が 4 5通現存する웍 。これ s t alLe t t er s 웎 によって,2件を除いて復活祭期日の算定に 1 9年周期が用いられ,実際に 運用されていたことが確認される웍 。 웏 次のテオフィロスの時代(在任 3 8 5 -4 1 2)には,書簡による復活祭期日の 웍 워Kr us c h,II ,p. 63. 웍 웍アタナシオスはニカイア信条(Symbol um Ni cae num)の代弁者として知ら れるが,3 25年の 会議へはアレクサンドリア司教の随行者として出席した。 アタナシオスの司教時代であるが,彼はその生涯を正統教義(三位一神論) の擁護に奔走し,司教就任後もアリウス派との抗争から司教罷免や亡命を繰 り返したため,この司教時代には幾度もの空白期間がある。 웍 웎Athanasius ,pp.1 025-1 3 0.アレクサンドリアの 復活祭書簡 の現存する最初 は,アタナシオスの前任司教ペトロスの 3 09年の書簡(一通)で,これも 1 9 年周期に基づくとされる。アタナシオスの書簡の年代特定について Bar ne s -48 アタナシオスの ( 1 9 9 3) ,pp. 42 , 18 3-91 ; Gwynn( 20 07) ,pp.46 ,78 8 0 . 祭書簡 復活 は聖書注解をも記して司牧の役割を果たした。特に 36 7年の書簡 (XXXI 7の文書 X, pp.1 126 27)は,原語がギリシア語の四福音書を含む,2 を全教会の信仰の正典つまり 新約聖書 としたことで知られる。 4 6年,34 9年の復活祭である。これらの年にアレクサンドリア教会 웍 웏2件とは 3 は,ローマ教会の算定する復活祭期日に合わせたと解釈される。Bl ac kbur n 後掲 andHol f or dSt r e vens( 1 999 ) ,p. 807 ;Mos s hamme r( 2 0 0 8 ) ,pp. 1 6 7 ,1 7 9 . 68参照。 1 8 ケルト教会 伝達ではなく, と復活祭論争 (常見) 主教の名前で 1 00年間についての復活祭表が作成され, これが執行されていたことが明らかである웍 。教会の数が増え地理的に広 원 がるにつれて,復活祭書簡はすぐには遠隔の地に届かなかった。 これは 会の一致 教 にとって看過できない問題であり,その解消策として将来にわ たる日付を記した復活祭表が 案され,それぞれの教会はいつ祝うべきか を知る仕組みになったのである웍 。ただし,テオフィロスの復活祭表の本体 웑 は伝わっていない。3 90年初めにテオフィロスがこの表を皇帝テオドシウ スに献呈しており,それに付された 献辞 と復活祭表の 序文 からテ オフィロスの表の意図,原則を知ることができる。 皇帝へ献呈した背景として えられるのが,その前年に皇帝の布告が出 され,すべての日曜日および復活祭前と後の各一週間を祝日とすることが 決定されたことである웍 。これによって復活祭にはじめて 웒 えられ,復活祭期日の正しい算定はいまや帝国の 的な地位が与 的生活の上で重要な意 義をもつようになった。これをローマ教会にアレクサンドリア方式を採用 させる好機ととらえ,皇帝の支持と後押しを期待して,帝の治世開始 (3 80 ) 0 0年の始まりを陛下の治世1年 웍 원テオドシウス帝への献辞:〔復活祭表の〕1 目において,神の思召しによって陛下から連綿と続いているのがわかるよう にした , Pr i nci pi um aut em cent um annor um pr i mum nomi ni st uipos ui c ons ol at um,i nquopr oc e der ei udi ci odeidi gnusi nve nt use s ,obe at i s s i me 後述の教皇レオの皇帝マルキアヌスあて i mpe r at or,Kr us c h,I ,pp.2202 1. 書簡 (ibid., ) ,アレクサンドリア pp.25 7-61 主教プロテリウスのレオあて書 簡(ibid.,pp.2 0年間の表であることが確認される。 6978)からも 10 웍 웑 復活祭書簡 書簡 が廃止されたわけではない。テオフィロスは 1 5通の 復活祭 を書いたと推定されるが,残存するのは 3 8 6年から 3 9 5年までの5通 だけで,いずれも断片である。したがって,その内容全体を知ることはでき ないが,残存書簡には復活祭日についての言及はなく,聖書や教義の注解が 主な内容である。 復活祭書簡 の役割が変わったのであろう。Rus s e l l( 2 00 7 ) , pp.4 7-49 . -45 9年には異教の祭りを,ローマの 웍 웒Hunt( 19 93) ,pp. 144 .38 国記念日を除 いて祝日とすることが禁止され,暦のキリスト教化が進んだ。 1 9 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) から 1 00年間の復活祭表を作成したと推測される。 一方,テオフィロスの 序文 は,アレクサンドリア方式の算定原則を はじめて包括的に説明した文書として位置づけられる。その原則は,次の 三点にまとめることができる。一つは,春 を Phamenot 5日(ユリ h月 2 ウス暦3月 21日)と正式に定め, 律法に従って 復活祭は 春 の後に くる満月の次の日曜日 という原則である(쏃2 ) 。第二は, 共観福音書 に従って, 救世主が裏切られたのは月齢 1 4日,磔刑が月齢 1 5日,復活が 月齢 1 7日 という解釈である(쏃3) 。第三は,ニサン月 1 4日が日曜日の時 は,復活祭は一週間後に 期するという原則である。その理由は,1 4日を 復活祭にすれば,まだ月が満ちていない 1 3日に断食をやめることになり, 律法に反するからである(쏃3,4 )웍 。 웓 웍 웓 Pr ol ogusTheophi l i,쏃2-4,i nKr us c h,I ,pp. 2 2 32 2 5 ;Rus s e l l( 20 07 ) ,pp. 8 18 4 . Kr us c hは 序文 のラテン語版とギリシア語版を併記しているが,本 稿はラテン語版による。ギリシア語版は7世紀の Chr onicon Paschale からの 引用であり,この著者はアレクサンドリア方式の反対者として知られ,쏃4は 自身の論理に合わせて日付を改ざんしている。Rus s el lは,この改ざんには一 切触れずにギリシア語版に基づいてこの部 を 月の 1 3日に裏切られ,14日 に磔刑にかけられ,1 6日に蘇られた という意味で英訳しているが,この意 味ではアレクサンドリア方式を説明できない。쏃4のラテン語版は De hi nc quoni am e t i am s al vat orquar ta decimal luna t r adi t use s t ,hoces tv.f er i a, unc quinta decima cr uci f i xuse s t ,t e r c i odi es ur r exi t , hoce s txvii luna ,quet i n domi ni cam i nc i der atdi e m,ute vangel i or um s c r i pt ur a de mons t r at e, Kr us ch,I ,p.22 5.イタリックは筆者。アレクサンドリア 司教プロテリウス もテオフィロスが 裏切り 1 4日,磔刑 1 5日,復活 1 7日 としたことを後の 教皇レオにあてた書簡のなかで確認している。Kr 後代のこと us c h, I, p. 2 7 1 . であるが, 裏切り 14日,磔刑 15日,復活 17日 となり,ベーダも は,西方教会の正統教理 カトリックであれば誰も疑わない教え と記している。 Bede, The Reckoning ,pp. 12 8-29 .Chr onicon Paschale は Mos s hammer ( 20 0 8) , chp.1 3参照。なお,テオフィロスの 序文 のラテン語版には쏃5が ある。これはローマ教会の 復活祭は4月 2 1日より後にならない 原則を特 に標的にしている。後述 33頁。 2 0 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) このようにテオフィロスは,アレクサンドリア方式が 律法 (レヴィ記) と 共観福音書 に うことを明確にしたのであるが,第一,第二の原則 は初期教会以来のさまざまな解釈に決着をつけたものである。しかし,第 三の 月齢 14日が日曜日 の場合の規定は,新しい原則と解釈される。第 1章で述べたように,ニカイア 会議で批判されたのは,曜日を問わずに ユダヤの過越祭と同じ月齢 1 4日に復活祭を祝うことであった。 彼らは十四 日主義者として排斥されるようになるが웎 ,たとえ月齢 14日でも,その日 월 が日曜日のときに復活祭を祝うのは,十四日主義ではない。アレクサンド リアでも,この慣行が特に問題視された形跡はない。実際にも,テオフィ ロスの前任であるペトロスやアタナシオスの司教時代には月齢 1 4日が日 曜日のときに復活祭が行われている웎 。 月齢 1 4日が日曜日 の問題は,そ 웋 れまでは司教の裁量にゆだねられていたのが,テオフィロスによって原則 化されたのであろう웎 。この問題が大きな争点になるのは,第3章で紹介す 워 るようにブリテン諸島での論争であり,テオフィロスの原則が の原則 ニカイア としてアイルランド方式を批判する論拠となる。 テオフィロスのあげる算定原則は,その後のアレクサンドリア方式の基 (2 0 1 2, 1420 )によれば,十四日主義のかどで異端とされた例が出 웎 월St e r n pp.4 てくるのは,小アジア,パレスティナにおける 3 7 0年代,8 0年代からで, 突 如として 出てくるという。この地方では2世紀のポリュカルポス以来の慣 習が継続していた可能性もあるだろうが, 教会の一致 のために特定集団を 排斥するための方策に われた可能性も否定できない。 0 9年の 復活祭書簡 では復活祭は4月 10日(日)で,月齢 1 4 웎 웋ペトロスの 3 日である。アタナシオスの 3 33年の 復活祭書簡 (V,p. )でも,復活 1 0 6 2 祭4月 1 5日(日)は月齢 14日であるが,原則との矛盾に気づいた後代の手 で1 5日に修正されたと解釈されている。Mos s hammer( 2 00 8 ) ,pp. 15 1 ,16 7. 웎 워一週間 期の原則は, テオフィロスの時代には広く知られていたと思われる。 たとえば,ミラノ司教アンブロジウス Ambr os i usが,ローマ教会の方式では 3 86年の復活祭(4月 18日)が月齢 14日になることについて,北イタリアの 司教らに書簡を送り,アレクサンドリア方式に って 期するように勧告し ている(Ambr ) 。 ose of Milan,Epi s t ul aExt r aCol l e c t i onem 1 3,pp. 2 8 1 9 1 2 1 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 準となり,これをもってアレクサンドリア方式は実質的に完成したと言え る웎 。足りないところがあるとすれば,その復活祭表はエジプト暦に基づい 웍 ており,1年の始まりは9月であり,また,上記の春 の日に示されるよ うに月日の数え方もユリウス暦とは一致しなかった。アレクサンドリア方 式がユリウス暦を利用する西方世界に足場を持つためには,この点の修正 が望まれた。 この課題に対処したのが 4 44年ごろに作成された 表 キュリロスの復活祭 である。作成者キュリロスは,一般にはテオフィロスの甥で 主教職 の後継者キュリロス(在任 4 1 24 44 )とされている。 キュリロスの表 は, テオフィロスの復活祭表を 4 37年から引き継ぐ形でユリウス暦に変換し, 5 3 1年までの 9 5年間(1 9年周期の5回転)の復活祭期日を算定している。 これによってアレクサンドリアの算定方式がはじめてユリウス暦の枠組み の上に置かれることになり,西方世界に受け入れられるための条件が整え られた웎 。さらに, キュリロスの表 は,当時の紀年法である ディオク 웎 レティアヌス紀元 (AnnusDi )の元年(西暦 2 8 4年)と,1 9年 oc l e t i ani 周期の始まりの年とを合わせて,ディオクレティアヌス紀元 1 5 3年(西暦 4 3 7年)からの表を作成し,算定方式に専門知識のない信徒にも見やすい構 成になっていた。 キュリロスの表 の作成された 4 44年ごろは,後述する ように復活祭期日をめぐるローマ教会との協調関係が暗礁に乗り上げてい た時期にあたる。この表もまた,皇帝(テオドシウス2世)に献呈されて いる。当時のこうした状況から,ユリウス暦の採用などは,皇帝の援護で 웎 웍Bede, The Reckoning ,p.xl i . 웎 웎 キュリロスの表 はディオニュシウスの復活祭表に取り込まれて伝えられて いる。また,表に付された 序文 (Kr us ch,I ,pp. 3 3 74 3 ;St. Cyr il of -2 Alexandr ia ,pp.122 9)が,アイルランドでは7世紀にクミアンの書簡,8 世紀初めには Munich Comptus のなかで引用されている。Cummian s Letしかし,この ter,pp.8 6,88;The Munich Computus ,쏃51 .312 ,쏃5 2 .4 9 6 0. 序文 はキュリロスの作ではなく6世紀の偽書だったことが確認されてい る。 2 2 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) ローマ教会に受け入れさせようとする戦略であったと推測される。 キュリロスの表 をもって復活祭期日算定方式としてのアレクサンドリ ア方式は完成した。西方教会に広く採用されるために,まだ欠けているも のがあったとすれば,それはギリシア語で書かれていたことである。この 最後の課題に取り組んだのが, 半世紀以上も後のディオニュシウスである。 ただし,それはアレクサンドリア教会ではなく,ローマ教会の要請を受け てのことであった。 i i)ディオニュシウス ディオニュシウスは,スキタイ出身の修道士で,5 00年ごろからローマに 居住したと推測される。当時はローマ教会がニカイアなど東方で開催され た 会議の決議を教会法の権威ある規範として徐々に受容し始めた時期に 当たり,これらのテキストをラテン語に翻訳する作業が始まったところで あった。この作業にあたった中心人物が,ギリシア語とラテン語に通じた ディオニュシウスで,ニカイア(3 25 )からカルケドン(4 51)までの 会 議決議をラテン語に翻訳し,さらに教皇シリキウス(在任 3 8 4 -9 9 )からア ナスタシア2世(在任 4 9 6-9 8 )までの教皇教令 4 1を集め,この二つを 教 会法令集 (Cor pus canonum )にまとめた。ディオニュシウスの編纂した 教会法令集 は, ローマ教会の 式の法令集ではなかったが, 北部ヨーロッ パに広く知られ,1 3世紀までにもっとも利用されたテキストの一つにな る。教会法の歴 語による の上でディオニュシウスは, 4世紀,5世紀のギリシア 会議決議と教皇教令をラテン語に翻訳して西方の教会法の土台 に据えつけた と位置づけられている웎 。 웏 このような作業のなかで,5 2 0年代に教皇ヨハネス一世がローマ教会の 復活祭表であるヴィクトリウス表に代わる新しい復活祭表の研究を要望 し,ディオニュシウスに白羽の矢が立ったのであろう。5 25年に教皇庁のボ -97. ディオニュシウスの 웎 웏Pe nni ngt on( 2007 ) ,pp.3 96 34伝わっている。 2 3 教会法令集 の写本が 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) ニファキウス(Boni ,後に教皇)とボヌス(Bonus )あてに復活祭表 f ac i us を送っている웎 。ディオニュシウスの復活祭表は,彼自身のオリジナルでは 원 なく,これも翻訳・編纂作業の一つと言える。たとえば,その表は リロスの表 の最後の部 キュ である 5 1 35 31年(ディオクレティアヌス紀元 2 4 7年)までをまず書き写してラテン語に翻訳し,それに新しく 5 3 2年から 6 2 7年まで 9 5年間 (19年周期×5回転) の表を加えたものである。しかも, 周期や月齢範囲などには一切の手を加えず,すべて キュリロスの表 の 原則に従って算定されている。そこに算定家としての独自性はない웎 。 웑 ディオニュシウスの復活祭表の 新しさ ころにある。その一つは,年代表記に る。 キュリロスの表 は は算定方法ではなく,別のと キリスト紀元 ディオクレティアヌス紀元 を用いたことであ に基づいており, ディオニュシウスの表でも 5 31年まではこの表記に拠っているが,新たに 加えた 53 2年からは Anni Domini Nostr i Iesu Chr isti と書いて, 西暦 (AnnusDommi ni ,AD)で表記した。その理由を表の 序文 にあたる 司 教ペトロニウスあて書簡 のなかで웎 ,次のように説明する。 웒 この表に信仰心のかけらもない迫害者の名前を残すと, その記憶を永 久化させることになる,…5 3 2年をディオクレティアヌス紀元 2 48年と -86.ディオニュシウスの復活祭表の序文は, 司教ペトロニ 웎 원Kr us c h, II , pp.82 ウス Pet r oni usあて書簡 と ボニファキウス Boni f ac i usとボヌス Bonusあ て書簡 からなっている。なお,この復活祭表は,教皇がこれを承認した可 能性もあるが,翌年,ヨハネスが死亡してしまい,その後の後継者たちはゴー ト戦争などで復活祭表どころではなかったのであろう。すぐに採用されるこ とはなかった。 -7 (2 0 1 0 )は, 웎 웑ディオニュシウスの復活祭表は Kr us c h,II ,pp. 6 9 4 .War nt j e s キュリロスの表 の継続版がすでにギリシア語で書かれていて,ディオニュ シウスはそれをラテン語に翻訳しただけという可能性を指摘している(pp. 。 XXXI X,XXXI X) 웎 웒司教ペトロニウスが誰なのかはわかっていない。 2 4 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 表記するのをやめて,われわれの希望の始まりであり,救いの始まりで ある,主の受肉を元年とし,キリスト紀元 5 3 2年と記載した 웎 。 웓 周知のように 西暦 は,年代の普遍的な枠組みとして歴 学に重要な影 響を与えることになる。しかし,ディオニュシウス自身は将来の復活祭を 決定するための概念として用いたのであり,過去の出来事の枠組みとして これを えたのではない。 西暦 ベーダの 教会 がはじめて歴 叙述に用いられたのは (7 31 )である웏 。 월 ディオニュシウスの復活祭表のもう一つの リア方式はニカイア 新しさ は,アレクサンド 会議で決定された方式であるという ニカイア神話 웎 웓Kr us c h,II ,p. 64 :Qui a ver os anct usCyr i l l uspr i mum c yc l um ab anno Di oc l e t i aniCLI I I coe pi t et ul t i mum i n CCXLVI It e r mi navi t ,nos a CCXLVI I I anno ei us de m t yr anni pot i us quam pr i nc i pi si nc hoant e s , nol ui musc i r cul i snos t r i sme mor i am i mpi ietpe r s e c ut or i si nne c t e r e ,s e d magi s el e gi mus ab incar natione Domini nostr i Iesu Chr isti annor um tempor a pr aenot ar e;quat i nusexor di um s peinos t r aenot i usnobi se xi s t e r epar at i oni s humanae ,i d es t ,pas s i or e de mpt or i s nos t r i , et ,e tc aus ar イタリックは筆者。もともと ディオクレティアヌス紀 e vi de nt i use l uc er et. 元 殉教紀元 としてキリ スト教徒の間で用いられていたものである。 キリスト紀元 の は,この皇帝の迫害にあった殉教者を記念する 始者をディ オニュシウスとするのが定説であるが,McCar (2 0 0 3 3 1 5 3 )は, キ t hy , pp. リスト紀元 はすでにエウセビオスの時代から知られており,ディオニュシ ウスが断りなしに 用しただけと異論を唱える。 6章は The 웏 월ただし,ベーダの 時間の計算について (TheReckoning )の第 6 Gr e at erChr oni c l eと題してアダムからの歴 を 々と記した歴 書である が, 西暦 はディオニュシウス復活祭表の始まりである 5 3 2年(p. 2 2 5 )と, アイオナがエグバートの説得でディオニュシウスの復活祭表を受け入れた 7 1 6年(p.2 3 5)にしか用いられていない。これ以外の年代は, 天地 造 を 元年とする伝統的な AnnusMundiで表記されている。ベーダにとって上記 二つの出来事は,ディオニュシウスの伝えたアレクサンドリア方式の勝利を 意味する特別な出来事だったのであろう。 2 5 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) を確立し,これを西方世界へ伝えたことである。たとえば, 司教ペトロニ ウスあて書簡 の冒頭で,19年周期(アレクサンドリア方式)は,ニカイ ア 会議に参集した 318人の司教が 知恵と聖霊の導き によって承認さ れた主張している웏 。この主張を裏付けるために,ディオニュシウスが カ 웋 ノン 7 9条 と呼ぶ規定( アンティオキア 会議決議第1条 であるとみ ずから説明している)を引用し,復活祭に関するニカイアの決議を遵守し ない者は聖俗を問わず破門にされ,教会から追放され,また,ユダヤ人と 同じ日に復活祭を祝う者は教会から追放されることが決められたと主張し た웏 。さらに,教皇レオの書簡(451 )の一節, ニカイアの定めた法に逸脱 워 した者は, 徒座の教皇が処 する を引用して,自身の主張にいっそう 웏 웋Kr us c h,II ,p. 6 3: s e quent e s per omnia vener abilium CCCX et octo pontificum, qui apud Niceam, civitatem Bithiniae ,c ont r ave s ani am Ar r i i I I I c onvener unt ,et i am r eihui usabs ol ut am ver amques e nt e nt i am;quiXI l unaspas chal i sobs er vant i ae,per decem et noveni annor um r edeuntem semper in se cir culum stabiles immotasque fixer unt ,quaec unc t i ss e c ul i s イタリッ i sl abunt ure xc ur s u. e odem,quor e pet unt ur ,exor di o,s i nevar i e t at クは筆者。 웏 워Kr us ch,II ,p. 66:De ni quei ns anct i scanoni buss ubt i t ul os e pt uage s i mo nono,qui est pr imus ipsius Antiocheni concilii ,hi sve r bi si nve ni t ure xpr e s s um:Omnesquiaus if uer i ntdi s s ol ve r e def i ni t i one m sancti et magni concilii quod apud Nicæam congr egatum est ,s ub pr æs e nt i a pi i s s i mie t t ant i ni ,des al ut i f e r as ol e mni t at epas c hal i ,e xvene r andipr i nc i pi sCons c ommuni c andos e t de Ecc l es i a pel l e ndos e s s ec e ns e mus ,s it ame n i os i usadve r s usea quæ benes untde c r e t a pe r s t i t e r i nt . Ethæc c ont e nt c l e s i æ, qui dem del ai c i sdi c t as i nt . Siqui saut e m eor um quipr æs untEc aut epi s c opus ,aut pr e s byt er ,aut di ac onus ,pos t hanc de f i ni t i one m l e s i ar um pe r t ur bat i one m, t e nt aver i t ,ads ubver s i onem popul or um etEcc s eor s i m col l i ger e ,etcum Judæi sPas c hacel ebr ar e ,s anc t as ynodushunc l e s i aj udi cavi t.もう一つの al i enum j am hi ncabEcc ファキウスとボヌスあて書簡 序文 である ボニ でも同じ主張を繰り返している。Ibid.,p. 82 . 2 6 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) の権威を与えている웏 。 웍 ディオニュシウスはこうしてアレクサンドリア方式の神聖なる起源を強 調するが,ニカイア 会議がアレクサンドリア方式の採用を決議した事実 のないことは,これまでの論証からも明らかであろう。また,アンティオ キア 会議(341 )の決議にも,レオの書簡にも,ニカイア 会議における アレクサンドリア方式の採用をうかがわせる文言はない웏 。そもそもディ 웎 オニュシウスの引用する文章自体にそのような文言はない。 それでも, もっ ともらしく 料を並べ立ててニカイア決議とアレクサンドリア方式を直結 させたのである。 ディオニュシウスのこのような アイルランド 家の一人が 料操作を 2 0世紀初めに もっとも大胆な記録改ざんの一つ と断罪し ている웏 。 웏 ただし,ディオニュシウスは, ニカイア神話 の編集者であって ではない。その半世紀前の 3 70年末から 8 0年代に, ニカイア 年周期が採択された , ニカイア 作者 会議で 1 9 会議で復活祭期日の算定がアレクサン ドリア教会に委ねられた という言説が広まっている웏 。いずれもテオフィ 원 ロスとの関連で記された 料であり, 当時, 復活祭期日をめぐってテオフィ ロスがローマ教会にアレクサンドリア方式を採用させるべく皇帝に進言し 웏 웍Kr us c h,II ,p. 67. Cont r as t at ut ac anonum pat er nor um,quæ ant e e t i s , l ongi s s i mæ æt at i sannosi nur be Nicæa s pi r i t al i buss untf undat ade cr ni hi lc ui quam auder e conce di t ur ;i t a uts iqui sdi ve r s um al i qui d ve l i t . dece r ne r e,s epot i usmi nuatquam i l l acor r umpat 웏 웎Synod of Antioch,p. 2 92;教皇レオの書簡は,女帝プルケリア(Pul c he r i a Augus t a)あてである。Letter s of Leo the Gr eat ,CV,p. 1 3 6 . 웏 웏MacCar t hy( 1 9 0 1) ,p.l vi . 웏 원ディオニュシウスの 30年前にゲンナディウスが De vir is ilustr ibus ( 偉人 伝 )の テオフィロス の項(xxxi )で,また,ミラノ司教アンブロジウ i i スが 3 86年の書簡のなかで(前掲 42 ),それぞれアレクサンドリア方式とニ カイアとの関係を論じている。Hier onymus Ambr ose of Milan,pp.28 1-8 2. 2 7 und Gennadius , pp. 7 3 7 4 ; 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) ていたこと,また同様の動きはキュリロスの時代にも続いたことはすでに 紹介したとおりである。さらに,この時期はアンティオキア教会の 裂を めぐっても東西の教会の間でさまざまな駆け引きが行われていた時期でも ある。 ニカイア神話 は,このような状況のなかでアレクサンドリア教会 によってすでに喧伝されていたのであり,それが どの 会議決議や教皇文書な 料に精通したディオニュシウスによって編集され確立されたのであ る。 ディオニュシウスの復活祭表は,実質的にはアレクサンドリア教会の作 品であったが,二通の書簡からなる 序文 と具体的な算定原則を解説し た ar gument a を合体して, ディオニュシウス著 復活祭の書 Liberde Paschate として,後に西方世界に知られるようになる (傍点,筆者) 。ディ オニュシウスは教会法の権威でもあったから,その著作が説く 神話 ニカイア は威力を発揮した。とりわけブリテン諸島ではそうである。ローマ 教会がアレクサンドリア方式(ディオニュシウス復活祭表)を採用したこ とが確認される 640年以後, ニカイア神話 は時には 破門 をちらつか せて対立する教会をけん制する手段となる。 2)ローマ方式 ローマ教会の復活祭表のなかで,一定の周期に基づいて算定された表と して知られるのは,年代順に ヒッポリュトスのカノン , ローマ式周期 表 , ヴィクトリウス復活祭表 , アレクサンドリア/ ディオニュシウス復 活祭表 の四つがある。このうち,ローマ教会の 式復活祭表として特に ブリテン諸島における論争に深く関係したのは,5世紀半ばに作成された ヴィクトリウス復活祭表である。この表は,復活祭期日に関するローマの 3世紀以来の理論的伝統とアレクサンドリア方式のもつ科学性の両方を取 り込もうとしたところに特徴あり,この妥協が混乱を招くことになる。 i) ヒッポリュトスのカノン ローマ最初の周期表として知られるのが,エウセビオスの 2 8 教会 で ケルト教会 紹介された と復活祭論争 (常見) ヒッポ リュト ス の カ ノ ン で あ る웏 。ヒッポ リュト ス 웑 (Hi -2 は,3世紀の西方教会における最大の思想家とさ ppol yt us ,c .1 7 0 3 5) れ,多様なテーマの著作をギリシア語で著したとされる。その一つに パ スカについて があり,この著作のなかで 1 6年周期のカノンを提案した という。その著作も カノン も伝わっていなかったが,1 55 1年に思わぬ ところから この カノン カノン が発見され,その概要が明らかになった웏 。 웒 のなかで,特に注目されるのは次の三点である。その第 一は,碑文が 2 22年から 3 33年までの 1 1 2年間について,過越祭の日付 (ニ サン月 14日) とその曜日,および復活祭の日曜日の日付の二つの日付をユ 웏 웑エウセビオス 教会 下 (쒄22 -1) 。ヒッポリュトスの生涯と著作について は,同名異人が数名いたことから現在でも 論は複雑に ヒッポリュトス問題 として議 かれる。詳しくは Mos -1 邦語文献 s hammer( 2 0 0 8 ) ,pp. 1 1 8 2 1. では ノエトス駁論 を翻訳された小高毅氏の解説を参照 (1 9 9 5 ,4 68 -4 7 6頁) 。 ただし,Mos s hammerも小高氏もヒッポリュトスを 東方の出身 としてい るが,St 2 327)は,根拠がないと否定する。ヒエロニムス(c. e r n(201 ,p. 3 40 42 0 )がその De vir is ilustr ibus のなかでヒッポリュトスを取り上げてい るが,肩書は epi s copusだけで,どこの司教かは書いていない。Hier onymus すでにわからなくなっていたのであろう。 und Gennadius ,LXI( p. 36) . 웏 웒ローマ郊外の廃屋となった教会で大理石の着座した人物像が発見され,椅子 の左右のパネルにギリシア語碑文が刻まれていた。これがその後の調査で 2 22年ごろの碑文で,16年周期に基づく ヒッポリュトスのカノン である ことが証明された。 人物像は両腕と頭が破損されて特定は不可能であったが, もともと女神像であったと思われたが,発見当時の作業を指揮した ピッロ・リゴーリオ(Pi -83)の指示で破損部 r r oLogor i o,15 00 築家 が取り除か れローマ風の司教像に置き換えられ, ヒッポリュトス像 と命名された。こ の像は 2 0 0 7年までヴァティカン図書館に展示されていた。Br e nt( 1 99 5 ) ,pp. ヒッポリュトスの復活祭表は Mos (2 0 0 8 1 2 3 24 )によって 3 5. s hamme r , pp. 復元され,その後 Hol (20 0 8,pp. 1 6 7 1 7 2 )がこの復元された f or dSt r evens 表にさらに詳しい補足説明を加えている。ただし,1 6年周期とされているが, 月齢 1 4日の日付が9年目から繰り返されているから,実質的には8年周期 (oc )である。 t aet er i s 2 9 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) リウス暦で表わした点である。これは,碑文が刻まれた3世紀初めのロー マのキリスト教徒のなかに過越祭の日に復活祭を祝う人びとがいたことを うかがわせる。碑文のほぼ一世代前,19 0年ごろにローマのウィクトールが そのようなキリスト教徒を破門しようとしたことは,すでに第1章で紹介 した。そのウィクトールの膝元のローマで,キリスト教思想家ヒッポリュ トスが彼らのためにニサン月 1 4日の日付をユリウス暦で示したのである。 当時のローマの現実を反映した 料と言えよう웏 。 웓 第二の注目点は月齢範囲である。1 12年間の月齢 1 4日の日付と曜日,お よび復活祭の日曜日の日付を見ると, 月齢 1 4日が土曜日のときは翌日の日 曜日(月齢 15日)を復活祭とするのではなく,かならずその次の日曜日に 期している원 。これは,イエスの受難の曜日(金曜日)と ヨハネによる 월 福音書 に基づいた受難の日付(月齢 14日)とを固定的に結びつけて,月 齢 16日より前に復活祭期日はあり得ないと解釈したためである。 この解釈 はローマ教会の伝統となるが, ヒッポリュトスのカノン はその初出 料 になる。 もう一つの注目点は, 復活祭の日付が4月 2 1日より遅くなることはけっ してない点である。4世紀半ばにローマ教会はこの原則を 徒ペトロの 時代からの伝統 と主張したが원 ,実際には,4月 2 1日はローマの 웋 国記 念日の祝日であり,復活祭がこの日以後になれば,祭りの最中にキリスト 教徒はまだ四旬節の断食と禁欲を守らなければならないという理由からで ある。復活祭前の聖週間が喧噪と混乱に包まれないように,四旬節を遅く 웏 웓 全異端論駁 (Refutatio Omnium Haer esium )は,エウセビオスがヒッポ リュトスの著作としてあげた一つであるが,St (2 0 12 3 87 -8 9 )によれ e r n , pp. ば,このなかで 十四日主義 は間違った意見とされているが,異端視され てはいないという。 5日の日曜日が 2 2日に 원 월月齢 1 期されている例は 2 2 2 23 7年の 1 6年間で6 回ある。Mos s hammer( 2 00 8) ,p.1 24. 4 9年の復活祭をめぐる協議で,ローマ側が主張したという。Athanasius : 원 웋3 I nde xXX ( p. 103 7) . 3 0 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) とも 2 0日には終わらせるようにしたのである。 国記念日はある意味で異 教の祭りであったが,キリスト教徒の側でも,郷土の繁栄を祝う祭りとし て受け入れ,市内各所で開催されたサーカス競技などを他の市民と一緒に 楽しんだという원 。 워 ヒッポリュトスのカノン が実際にどの程度に施行されたか,まったく 不明であるが,そこに示された月齢範囲と復活祭期日の下限に関する原則 は,ローマ方式の伝統として5世紀半ばまで継承されていく。 i i) Supput at i oRomana ローマ教会が実際に施行したことが確実に証明される最初の復活祭表 は, Supput at i oRomana(直訳すれば ローマ式周期 )である。これは, 8 4年周期を特徴としている원 。つまり,8 4年ごとに 31回の閏月を挿入して 웍 太陰暦と太陽暦の調整をはかる算定方法で,実際の月の運行とのズレは, アレクサンドリアの 19年周期が 2 8 6年間に1日なのに対して,6 3年間に 4月 21日はもともと農民の祝祭日 Par 원 워Sal zman( 1 990 ,pp. 15 5,18 4) . i l i aで あったが,共和制末期から都市ローマの 国記念日(Nat )となる。 al i sUr bi s 第2章第1節で見たとおり,テオドシウス帝が暦のキリスト教化を進め,3 89 年には異教の祭日を休日とする法が廃止されたが,この祭りだけは例外とさ れた。 원 웍 Supput at i oRomana の復活祭表がヴァティカンの6世紀の写本にほぼ完全 な形で残されている。刊行されたものとしては,ミラノのアンブロジウス図 書館の9世紀初めの写本に収められた復活祭表が Kr こ us ch,I ,pp.2 36 40 . の写本は,ボッビオ修道院の作成という注記が後代の手で加えられている。 ちなみに,ボッビオはアイルランド出身のコルンバヌスの 設した修道院で ある。また, Supput at i oRomana に付された4世紀末の序文がケルン大聖 堂図書室の算定に関する9世紀の写本に収められ,Cologne Pr ologue の名称 で刊行されている (ibid.,pp.227 -3 5)。この序文にはローマ方式の月齢範囲が 受難 14 -2 0 ,墓所 1521 ,復活 16-2 2 ( Pas s i oa. xi i i i . l unaus queadxxmam, r e qui esaxv.l una,i nquaaze ma,us queadxxi ,r e s ur r e c t i o,novif i r me nt i i ngr e s s i o,axvi .l unaus uqueadxxi i,p.2 33)と解説されている。ケルン・ プロローグはアイルランドにも伝えられ,クミアンらに引用された。 3 1 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 1日であり,比較すれば正確とは言えない원 。しかし,太陽周期は 2 8年で 웎 日付と曜日が元に戻るから, 8 4年周期では太陰周期と太陽周期の両者が 8 4 年(2 8×3)ごとに振り出しに戻ることになり,復活祭の日曜日の割り出し には 利であった。第3章で検討する アイルランド方式 も同じ 8 4年周 期であるが,サルトゥスの加算が Supput 2年ごとに6 at i o Romana は 1 回であるのに対して, アイルランド方式 は1 4年ごとであり,同じでは ない원 。 웏 Supput at i oRomana の名称が現存 料に現れるのは,5世紀半ばであ るが원 ,遅くとも 3 4 0年代には採用されたと推測される。ところが,その後 원 のほぼ一世紀のあいだについて, ローマの実際の復活祭期日を検証すると, ローマ教会は Supput at i o Romana ではなくアレクサンドリア方式で算 定された日に復活祭を行ったことの多いことが確認される원 。おそらくニ 웑 カイア 会議以後, 教会の一致 のためにローマとアレクサンドリアの教 会が調整し合い,対抗できるほどの算定能力がないローマ教会が多くの場 원 웎Mc Car t hy( 1 9 93) ,p.2 09 . 4年周期では,本来サルトゥスは7回であるが,調整のため最 원 웏ローマ教会の 8 後の1回を省くのが原則である。アイルランド方式とローマ方式 Supputatio Romana の 84年周の相違点について詳しくは War nt j e s( 2 0 07 ) ,pp.3 23 3. 44年の復活祭期日をめぐってシチリアのリルバイウム(Li 원 원4 l ybae um)の司教 パスカシヌス(Pas )が教皇レオにあてた書簡のなかで Romana chas i nus ) us c h,I ,p.24 8)。B.Kr us c h(I ,pp. 3 2 6 4 s upput at i o と呼んでいる(Kr や MacCar (190 -i )以来,この時期のローマ方式の名 t hy 1, pp.l xv,l xxxi i i i 称として定着した。この ローマ式周期 が 8 4年周期を指すことは教皇レオ の司教パスカリヌスあて書簡(Kr ) ,4 4 9年直後に書かれた偽 us c h,I ,p.2 5 7 キュリロスの 序文 (ibid.,p. ),4 57年のヴィクトリウス復活祭表の序 337 文(Kr us c h,II ,p. 18)などから明らかである。 4年における皇帝らローマの支配者の 원 웑The Chr onogr aphy of 354 (35 生日 やローマ司教や殉教者の埋葬日を記載した豪華な彩色写本) の쏃 쒇に 3 1 2年か ら3 5 4年までの実際の復活祭期日と,Supput at i oRomana の算定上の期日, およびアタナシオスの 復活祭書簡 の期日(アレクサンドリア方式)を照 合した一覧表(Mos -15 )を参照。 s hamme r ,200 8 ,pp.214 3 2 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 合アレクサンドリア教会に従ったと推測される。 ただし,ローマ教会が従う一方だったわけではない。ローマ教会には譲 れない一線があった。それが, 復活祭は4月 21日より後にならない 原 則である。アタナシオス司教時代の4世紀中葉や後半にはローマの原則を 守るためにアレクサンドリア教会が譲歩している例もある원 。当時はコン 웒 スタンティノープルのアリウス派対策のためにローマ教会の支持が必要で あり,そのために譲歩したと推測される。しかし,4世紀末から5世前半 のテオフィロスついでキュリロスの 主教時代になると,アレクサンドリ ア教会が, ニカイア神話 の言説を喧伝し,あるいは皇帝を通してローマ 教会にアレクサンドリア方式を採用させようとしており,譲歩しない姿勢 を明確にした。とりわけ,テオフィロスがテオドシウス帝に復活祭表とと もに献呈した 序文 には,第1節で紹介したアレクサンドリア方式の算 定原則の説明に加えて,ローマ教会の 復活祭は4月 2 1日より後にならな い 原則を明らかに非難した文言が認められる원 。その後もこの原則をめ 웓 ぐって攻防が続き,もともと微妙であった両教会の協調関係は웑 ,5世紀半 월 ばに危機的状況になり,ついに決裂することになる。 ローマ方式の抱えた危機の根本は算定の不正確さにあり, 実際の季節 (春 46年の復活祭について,アレクサンドリア教会は,ローマの 月齢 1 4日が 원 웒3 土曜日 の 期原則を守るために譲歩し,3 49年についても,ローマの 復活 祭は4月 2 1日より後にならない という原則を守るために譲歩して,アレク サンドリア方式の月齢範囲 15 -2 1日の原則を曲げ月齢 22日に復活祭を行っ ている。 Bl ackbur nandHol f or d-St r evens( 19 99) , pp. 8 0 7 80 9 ; Mos s hammer -41. ( 20 0 8) ,pp.1 6 6-7 1;Sal zman( 199 0) ,pp. 39 원 웓 Pr ol ogusThe ophi l i쏃5:quoddi vi nal exe osquipr opt e rquas dam ne c e s s i t at espr i mo mens e pas cha c el e br ar e mi ni me pot ue r un s e c undo me ns e c el ebr ar epe r mi s i t.やむを得ない理由で第一月に復活祭を行えない者は神 の法によって第二月に行うことが認められている 。Kr -2 us c h,I ,pp. 2 2 5 2 6 ; Rus s el l( 2 0 07 ) ,p. 84 . 웑 월F.Wal l i sは4世紀後半から一世紀にわたる両教会の腹の探り合いの関係を 奇妙な s hadow boxi ng と評した。Bede, The Reckoning ,p. xxxi x. 3 3 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) )や月の運行(満月)との大きなズレを体感しあるいは肉眼で認識でき たことにあった。このため,ローマ教会は 4月 2 1日より後にならない 原則が守られる限りアレクサンドリア方式に従ってきたのであるが,4 44 年にはアレクサンドリア教会の譲歩を期待できない状況に陥り,教皇レオ (在任 44 0 61 )はついに4月 2 3日の復活祭期日を承認してこの危機を切り 抜けた웑 。しかし,わずか 1 0年余りしかたっていない 4 5 5年に,またも同 웋 じ問題が起き,レオは皇帝マルキアヌス(Mar )やコンスタンティ c i anus ノープル 主教にアレクサンドリア教会に譲歩するように説得を依頼した が,効果はなかった웑 。この結果, 4月 2 1日より後にならない 原則を曲 워 44年のサーカス競技は中止された。この年の復活祭問題について,レオは, 웑 웋4 シチリアの司教パスカシヌスから,アレクサンドリア方式に従うように書簡 で助言されている (前掲 66 )。その根拠の一つに司教は,4 1 7年の復活祭の 例をあげ ローマ方式(3月 2 5日)ではなくアレクサンドリア方式(4月 2 2 日)に従うべきであった と述懐し, なぜなら,3月 2 5日の前夜に洗礼堂 の井戸は枯渇していたが, 4月 22日の前夜には井戸が一斉に満水になったか ら と報告した。教会暦では,復活祭前日(土曜日)の日没から夜明け前ま でが Pas (復活徹夜祭)で,夜を徹してキリストの復活を祝うとと c halvi gi l もに洗礼式を行うならわしであった。シチリアでの の 正しさ 奇跡 は,復活祭期日 の証明として信徒に圧倒的な衝撃をもって伝えられたと思われ る。トゥールのグレゴリウスもガリアでの復活祭期日の科学的に 定 と 奇跡 の関係について報告している。後掲 -6 웑 워Kr us c h, I, pp.2 57 1.カルケドン 正しい算 1 1 5参照。 会議(451)でレオは神学論争には勝利し たが,コンスタンティノープルにローマに次ぐ地位を与える決議には反対し たこともあり,当時の政治状況はレオには不利であった。レオの要請に皇帝 はみずから答えず,アレクサンドリア 4 51 57 )に委ねた。 主教プロテリウス(Pr ,在任 ot er i us 主教は,法書や教会博士,テオフィロスの著作などを 調べた結果,アレクサンドリア教会の期日が正しいこと,さらに疑問を持っ ているすべての人に4月 24日が正しいことを教えるのが教皇のつとめであ ると諭す書簡をレオに送っている(ibid.,pp.269 ) 。 主教にとって復活祭 7 8 期日をローマ教会に合わせることは,アレクサンドリア教会の長い伝統を否 定することであり,容赦できない問題であったが,そもそもローマの裁治権 の及ぶ問題ではないという認識があったのであろう。 3 4 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) げてアレクサンドリアの復活祭期日(4月 2 4日)に従うことになった。 当時,教皇はガリアの教会に復活祭の期日を知らせる任務をアルル司教 に与え,それによってこの地方の教会との関係を密にしようとしていた웑 。 웍 復活祭の正しい期日は,対ガリア政策にとっても重要な問題であり,その ためにも算定方式の抜本的な改善が求められていた。こうした要請を受け てレオは,改革に乗り出した。しかし,それは,アレクサンドリア方式を 採用するのではなく,助祭長ヒラリウス(Hi )に対して解決策を示す l ar i us ようにとの指示であった。この指示を受けて,解決策としてローマ教会に 採用された算定方式が,ヴィクトリウス(Vi )の復活祭表である。 ct or i us )ヴィクトリウスの復活祭表 i i i ヴィクトリウスについてはガリア南部のアクイタニアの出身という以外 はわかっていないが,4 5 7年に,紀元 2 8年から 55 9年まで 5 3 2年間の復活 祭期日を算定した表を作成し,ヒラリウスに提出している웑 。作成にあたっ 웎 てヴィクトリウスは,8 4年周期を廃止してアレクサンドリア方式の 1 9年 周期を算定の基本とした。たとえば,5 32年間というのは,月の運行周期 1 9 年と太陽の運行周期 28年を掛け合わせた数であり, この表が一巡すれば日 付も曜日も元に戻ることになっている。また,ローマ方式の積年の問題で あった 4月 2 1日より後にならない 原則も廃止した。これらの点だけを 웑 웍We s s el( 2 008 ) ,p. 86. 웑 웎ヴィクトリウスの復活祭表(Cur sus Paschalis )は,ヒラリウスへの書簡であ る 序文 Pr ol ogusVi ct or i iAqui t aniadar chi di ac onum と復活祭期日の 表からなり,Kr -57に収録されている。ヴィクトリウスの表 us c h,II ,pp.16 は 53 2年までであるが,ブリテン諸島の復活祭論争に関係する 5 9 0年以後に ついては,Cor )がその基準に従って復活祭期日を算定している ni ng(2006 (pp.1 8 38 6) 。なおヴィクトリウス表ではイエスの受難を紀元 2 8年におき, この年からの年数を数える AnnusPas s i oni sが用いられている。3世紀の ヒッポリュトスのカノン もイエスの 生と受難を復活祭表の軸に据えてい るが,受難を紀元 2 9年3月 25日としている。 カノン の受難日が西方世界 の伝統となる。Not haf t( 20 12) ,p. 2 7 7. 3 5 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 見れば,ヴィクトリウスの復活祭表はアレクサンドリア方式に一致させる ための改革に映るが,実際には数多くの欠陥を含み,いっそうのズレを生 むことになった웑 。 웏 欠陥の一つは,復活祭の可能な月(ニサン月)の範囲である。アレクサ ンドリア方式ではニサン月は3月8日かそれ以後に始まるとしたが,ヴィ クトリウスはこれを無視して3月5日かそれ以後とした。この結果,復活 祭が春 の前になるおそれがあった。 第二の欠陥は,月齢範囲に関してである。ヴィクトリウスはローマの伝 統である 1 62 2日を踏襲した。しかし,アレクサンドリア方式が 1 52 1日 であるから,実際の復活祭期日はローマとアレクサンドリアとの間にズレ がでる。これを解消するために,日付に相違がでる年には, ラテン人復活 祭期日 Lat i niと ギリシア人復活祭期日 Gr ec iを併記し,どちらを選ぶ かは教皇が判断することにした。 欠陥の第三は,微調整のために加えるサルトゥスについてである。アレ クサンドリア方式では 1 9年目ごとに一日を加えるが, ヴィクトリウスの復 活祭表では6年目に加算する設定であり, このため7年目以降 19年目まで はアレクサンドリア方式よりも一日先に進むことになる。この結果,ヴィ クトリウスの ラテン人復活祭期日 はしばしばアレクサンドリアの復活 祭期日になることがあった。つまり,教皇が んだとしても,実際は ギリシア人復活祭期日 ラテン人復活祭期日 を選 を選んだことになる年も あり,東西の教会が一致するカラクリになっていた。 本来ヴィクトリウスに求められたのは, Supput at i oRomana に代わっ て正確で信頼できる復活祭期日を算定することであったが,出来上がった のは,この任務を放棄したと言わざるをえない内容であった。次の章で紹 介するアイルランド人コルンバヌスが批判したように,〔いろいろ書いて あるが〕,必要なことは何も書いていない のである웑 。もちろん,ヴィク 원 ́ 웑 웏以下の詳細は Bede, The Reckoning ,pp.l l i i i ; OCr o 썞 ı n 썞 ı n( 20 0 3 ) ,pp.9 0 91参 照。 -6 웑 원 ubine c es s eer at ,ni hi ldef i ni e nt em ,Columbanus ,Epi s t l e s,I I ,p.1 8. 3 6 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) トリウスの復活祭表には,利点もあった。5 3 2年間というほぼ永久的な復活 祭表であること,1年をローマの馴染みの慣行である1月1日から始めて いることなどである。 ヴィクトリウスの復活祭表が,これだけの欠陥にもかかわらず西方教会 に受け入れられたのは,作成された直後の 4 61年にヒラリウスが教皇にな り,教皇お墨付きの復活祭表として伝えられたからである웑 。しかし,その 웑 問題点を教皇側が座視していたわけでない。5 20年代に教皇ヨハネス一世 が新しい復活祭表の研究を要望している。これに応えたのが第1節で紹介 したスキタイ出身の修道士ディオニュシウスであり,525年に教皇庁に復 活祭表を送った。教皇がこれを承認した可能性もあるが,翌年,ヨハネス は死亡してしまい,その後の後継者たちはゴート戦争などで復活祭表どこ ろではなかったのであろう。ヴィクトリウスの復活祭表は修正されること なく西方世界に伝えられていった웑 。この結果,ブリテン諸島の復活祭論争 웒 は,ヴィクトリウス復活祭表を批判することから始まることになる。 以上,2世紀から5世紀半ばまでの復活祭期日をめぐる動向を追跡して きた。このあいだの論争を通して,復活祭期日の算定方式は,アレクサン ドリア教会方式(19年周期)とローマ教会のヴィクトリウス復活祭表(1 9 (1 9 43,p.20 5)によれば,ヒラリウスの肩書が ar 웑 웑Ch.Jone s c hi di ac onusか ら Papa に修正された痕跡のある写本も一部にある。 25年に完成した 時間の計算について 第 5 1章は,アレクサンド 웑 웒ベーダの 7 リア/ ディオニュシウス方式以外の 正しくない算定方式 を批判した章であ るが,そのなかでヴィクトリウスの復活祭表を筆頭にあげ,カプア司教ヴィ クトールが 5 50年ごろに教皇の要請で書いた著作(現存しない)を紹介して いる。それによれば,司教は, ヴィクトリウスなる者 Vi c t or i usqui dam は 復活祭の正しい期日の算定方法をわかっていない無能者 活祭表は と非難し,その復 現在も将来においても,すべての権威をはく奪すべきである と 要求している。教皇庁の膝元でさえ,このような状態であった。Bede ,The Reckoning ,p.1 34. 3 7 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 年周期の一種)の二つに結実した웑 。ここに至るまでの争点は,ほぼ算定周 웓 期の問題に集中していると言える。その理由は二つ 一つは,この復活祭論争前期は,キリスト教の歴 えられよう。 たけなわな草 にとって,教義論争 期にあたり,復活祭問題もユダヤ的習俗からの 離の問題 の一つとしていかにキリスト教的理論づけをするか,いわば試行錯誤の時 期にある。そこで優先的に求められた課題は,太陰暦と太陽暦の調整をい かに齟齬のないように行うかという問題であり,算定周期の問題だったか らである。同じことになるが,もう一つは,これまでの研究の多くが,ディ オニュシウスやヴィクトリウスなど周期の算定にかかわった専門家/ 理論 家の著作の 析に焦点をあててきためである。もちろん,ほかに 料がな いためでもあろうが,たとえばシチリアの司教パスカシヌスの書簡のよう な웒 ,司牧の現場をわずかでも垣間見ることのできる 월 料を積みかさねて いけば,復活祭論争前期の像も違ってくるであろう。 次章で検討するブリテン諸島の復活祭論争は6世紀末からであり,その 実態は前期とかなり違っている。それは, 料の性格である。論争当事者 コルンバンヌスやクミアン,コルマーンは,いずれも司牧の現場で信徒を 導き,あるいは地域の教会人を束ねる立場の人物である。彼らの関心が, 算定周期よりも,むしろ自身が従う方式をいかに 神のことば で説明す るかに集中しているのは,このためであろう。もう一つは,この時期の論 争は,復活祭問題が単なる信仰の問題ではないことを示している。ローマ 教会による教会の統合, 世俗権力による教会支配という時代環境のなかで, 西方教会の辺境に位置する教会,修道院はどうあるべきかについて,ブリ テン諸島の復活祭論争はその模索する姿をわずかではあるが垣間見せてい るのである。 웑 웓ディオニュシウス復活祭表は,実質的にはキュリロス表であるから,この時 期として扱う。 웒 월前掲 7 1参照。 3 8 ケルト教会 3 と復活祭論争 (常見) 復活祭論争とブリテン諸島 復活祭論争の最終章は,6世紀末から7世紀に論争の舞台を次々と移し ながら,その当時のローマ方式とアイルランドで採用されていた算定方式 との対立という構図で展開した。この対立は,次の三期に大別できる。 第一期は,6 00年ごろから 6 1 5年までにガリアを舞台にアイルランド人 修道士コルンバヌスとガリアの司教との対立で,コルンバヌスの主張する アイルランド方式 と,当時のローマ方式であるヴィクトリウス復活祭表 をめぐって論争した。第二期は,6 20年代末から 6 3 0年代半ばに舞台をアイ ルランドに移して,アイルランド南部の教会関係者クミアンとアイオナの 修道院長シェーゲーネとの対立で,アイルランド南部の教会があらたに採 用したローマ方式(ヴィクトリウス復活祭表)とアイオナのアイルランド 方式とをめぐって論争した。 第三期は,ノーサンブリア王国を舞台に7世紀の半ばに表面化した対立 である。アイオナ修道士を介してノーサンブリアに広まったアイルランド 方式とローマ教会が採用したアレクサンドリア/ ディオニュシウス方式を めぐって 664年のウィットビーにおいて教会会議が開催され,アイオナの 影響力が一掃される事態へと発展した。 1)アイルランド方式 6世紀末から8世前半にアイルランド人や一部のブリトン人,さらにピ クト人がアレクサンドリア方式やローマ方式とは異なる方式で復活祭の期 日を算定していたことは,この方式の擁護者や批判者の議論から明らかで ある。この方式は,一般には ケルト方式 の名称で知られてきたが, ケ ルト人 に特有の算定方式であるかのような誤解を避けるために웒 ,本稿で 웋 웒 웋近代以前にブリテン諸島の人びとがみずからを ケルト人 と記した 他の国,地域の人びとから ケルト人 と呼ばれた ト人 とは,近代の言語学者の ケルト語系 料も, 料も皆無である。 ケル という 類から生まれた概念 であり,それが拡大解釈されて言語以外の領域にも適用されるようになった 3 9 ★ デ ー タ 割 ★ 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) はアイルランド方式と呼ぶ。その理由は,この方式の具体的な内容に関し てはアイルランド関係の 料しか現存しないためである。ブリトン人とア イルランド人との間にどのような伝播・ 流の歴 があったのか不明であ り,アイルランド方式がブリトン人からアイルランドに伝わった可能性も 皆無とは言えないが,本稿はアイルランド(人)が関係した領域にその検 討対象を限定するため,この名称を用いる。 アイルランド方式の研究は,1 9 85年を境に大きく変わった。というのは, それまでは,ディオニュシウス復活祭表やヴィクトリウス復活祭表のよう な表がアイルランド方式については伝わっていなかったからである。この ため,過去 150年以上にわたって研究者がアイルランド方式の復活祭表の 復元を試みたが,不十 なデータに基づいた算定であるため,共通理解を 得ることはなく,19 4 3年にはこの 新しい 野の第一人者,Ch.ジョーンズをして 料が出ない限り, アイルランド方式の復活祭表の正確な復元はで きない と言わしめることになり웒 ,アイルランド方式の研究は停滞を余儀 워 なくされた。 アイルランド方式研究のかかえてきたもう一つの問題は,ディオニュシ ウスやヴィクトリウスがそれぞれの表の 序文 のなかで算定基準を解説 したが,アイルランド方式には,そのような説明は伝わっていないことで ある。コルンバヌスやコルマーンら,この方式の擁護者やクミアンら批判 者の主張のなかから,その内容を断片的に拾い集めるしか方法がないのが 実情であった。そもそもアイルランド方式の作成者・ 案者はわかってい ない웒 。ただし,この方式の擁護者が論拠としてかならずあげたのが, 復 웍 活祭の算定に関するアナトリウスの書 (Liber Anatolii de r atione paschali ,以下, アナトリウスの書 )である。たしかに同書は,復活祭算定 のである。 웒 워Bedae Oper a de Tempor ibus ,p. 17 ,n.4. 웒 웍クミアンは,この方式について 誰がいつどこで書いたのか不明 としてい る。 c ui usauct or em l oc um t empusi nc er t um habe mus.Cummian s Letter, p. 8 7. 4 0 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) の月齢範囲に 1 4日を含め,また,その根拠として 主の胸元に寄りかかっ て,その霊的教えを吸い取った ハネの福音書 徒ヨハネ をあげている웒 。この点で, ヨ 웎 に基づいて月齢範囲を 1 420日とするアイルランド方式と 合致する。しかし, アナトリウスの書 の作者ラオディケアの司教アナト リウスは 19年周期を初めて復活祭算定に用いた人物であり,8 4年周期を 支持することはありえない。実際にも, アナトリウスの書 のなかで 8 4年 周期を 復活祭の正しい算定をすることはできない と批判している웒 。 웏 アナトリウスの書 とアイルランド方式の周期の矛盾は,この方式の批 判者であるクミアンやウィルフリド,ベーダも指摘している웒 。しかし,彼 원 ら批判者は,この矛盾を,擁護者らのアナトリウス理解に問題があるか, または彼らの っているテキストに問題があると え, アナトリウスの 書 はアナトリウス自身の手になる真正の書であると えていた웒 。しか 웑 し,近代になって本格的な研究が始まると, アナトリウスの書 の信憑性 に疑いの目が向けられるようになり,偽書 の烙印を押されることになる。 特に,18 8 0年に B.クルシュが同書を 6世紀にアイルランドで作成された 웒 웎後掲 1 0 5参照。 웒 웏Mc Car t hy& Br e en( 20 0 3) ,쏃1( p.4 5) :nonnul l il xxxi i i iannor um c i r cul um ndir at i one m pe r ue ne c onput ant e s ,numquam aduer am pas c haec onpone r unt. 웒 원Cummian s Letter,pp.848 6.ベーダは 時間の計算について 第1 6章でア ナトリウスの復活祭算定に言及しているが, この矛盾には特に触れていない。 同書は修道士向けの教科書であり,複雑な議論で読者が混乱するのを避けた のであろう。しかし,Letter to Wicthed (72 5×7 3 1 )のなかでは, アナト リウスの書 の矛盾に詳細に言及し,テキストの破綻を指摘している。Bede, -424( The Reckoning ,pp.4 17 atp.4 23) . 웒 웑 アナトリウスの書 は7世紀から 1 2世紀のあいだに作成された写本が完全 な形で七つ現存し,中世の教会学者にとって重要な書だったことがうかがわ れる。ほかに断片一つを含めて,これらの写本は Si r mondGr oup として一 括され,7世紀半ばのアイルランドに由来する。次に紹介するパドヴァ写本 とは来歴が異なる。Jones( 193 7 ) ,pp.20 4-1 9;Mc Car t hy& Br e e n( 2 0 0 3 ) ,pp. 25 4 3. 4 1 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 偽書 と断定すると웒 ,これが近年に至るまで定説となる。アイルランド方 웒 式の月齢範囲を擁護するためにアレクサンドリアの偉大な算定家アナトリ ウスの権威にくるんだ偽装工作の書と解釈され,このこともまた,アイル ランド方式研究の足かせとなったのである。 このような閉塞状況に大きな風 を開けたのが,19 8 5年のアイルランド 中世 家 D・オー・クローニーンによる写本の発見である。北イタリアの パドヴァの 料館で,1 0世紀初めの北イタリアで書かれた写本(以下,パ ドヴァ写本)のなかに, I ,この表が NCPTLTRCS で始まる表を発見し웒 웓 アイルランド方式の復活祭表である可能性を指摘した웓 。その後,具体的な 월 7 36年に J.vanderHage 웒 웒すでに 1 nが アナトリウスの書 は,7世紀に現 在のアイルランドかスコットランドで書かれた偽書であると論じた。B. Kr us c hは,テキストのあらたな版を出版するとともに,J .van de rHage n の 偽書 説を強く擁護したが,作成は 6世紀のアイルランド とした(II , -2 )。 pp. 31 1 7 -7 웒 웓Padua, Bibl. Antoniana MS I .27f .76 r 7v;Mc Car t hy and́ O Cr 썝 oi n 썞 ı n -8 3 3フォリオからなり,そのほとんど ( 19 8 7 8 ) ,pp.2 27242 .パドヴァ写本は 1 が復活祭の期日の算定に関するヒエロニムスやベーダらの論 で占められて いる。 웓 월冒 頭 句 の 全 文 は I NCPTLTRCSI ET TNCLTS で,こ れ は I NCI PI T LATERCUS,I D EST LATENS CULTUS( ここに l at e r cusが始まる, それは小さく切った 瓦のことである と解読され, l at e r c usの語源の説明 と解釈された。ついで, l at e r cusの用例を検証した結果,7世紀半ばにクミ アンあるいはその周辺で作成されたと推定される De Ratione Conputandi のなかで,この語が 84年周期表 の意味で用いられ,その一つ(쏃4 )では l at e r cusの語源をパドヴァ写本とまったく同じく l at e nc ul t usと説明して いるのが確認された。Cummian s Letter,쏃4( 쏃9 また,7 1 9 p. 1 1 8 ) , 9( p. 2 0 2 ) . 年ごろにアイルランド南部で作成されたと推測される Munich Comptus で も,8 4年周期の算定方式は l at er c usと呼ばれている。War nt j e s( 2 0 1 0 ) , LXI I ( p. 2 88 ) .l at er cusの語源 小さく切った るのに用いられた 瓦 とは,碁盤の目の表を作成す 瓦のことで,本来の綴りは l at e r c ul usで,3世紀からキ リスト教徒の間で復活祭表の意味で われた。しかし,アイルランドでは, おそらく書き間違えによると思われるが, l at er c usの綴りが用いられた。 4 2 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 検証は D.マクカシーによって行われ,その結論を二つにまとめて 表し た。その一つは,この表が 4 385 21年に関するアイルランド方式の復活祭 表であるという結論である웓 。その根拠は,写本の l 4年 웋 at e r cusの構成が 8 周期で 14年ごとにサルトゥス, 月齢範囲 1 4 20日, 復活祭の範囲3月 2 6日 から4月 23日であり,これがアイルランド方式について文献 料に記載さ れた原則と完全に一致するからである。こうして5世紀から8世紀にアイ ルランド人やブリトン人, そしてピクト人が採用した, また 6 64年のウィッ トビー教会会議において批判の標的になった,あの復活祭表が,じつに 1 2 0 0年ぶりにその全容を現したのである(表1,表2参照) 。 D.マクカシーの第二の結論は, アナトリウスの書 はアイルランド方式 の復活祭表の原則を記載した序文にあたるという内容である。 その根拠は, パドヴァ写本にはこの復活祭表の前の部 に アナトリウスの書 が書き 写されており웓 ,一見すると両者は一体のようであるが,実際にも,そこに 워 記載されている 19年周期表の項目の表記や配列の仕方と, それに続く復活 祭表のそれとを比較すると,ある重要な点を除いて完全に一致するからで ある웓 。しかし,重要な違いがある。それは周期である。クミアンやベーダ 웍 の指摘した時と同じく,パドヴァ写本においても前者は 1 9年周期,後者は 8 4年周期であり,違っている。 この違いについて,D. マクカシーの解釈はきわめて大胆である。7世紀 Bl ac kbur nandHol f or dSt evens( 199 9) ,p.8 01 . -2 웓 웋McCar t hy( 1 99 3) ,pp.204 4. -7 웓 워Padua Bibl. Antoniana MS I.27 .f .7 1읂 5읂 :I nc i pi t :In nomineDei summi. Anatolius Alexandr inus Episcopus Laodiciae. De r atione or dinationis tempor um . . ..パドヴァ写本の アナトリウスの書 は,D. McCar t hyとラテ ン語研究者 A.Gr e enによって 2003年に英語訳とともに刊行された。 420日) ,復活祭期日の範囲(3月 2 6日-4月 2 3日)について両 웓 웍月齢範囲(1 者が完全に一致していること,また,太陰暦の表記も通常の 3 0日-2 9日では なく,3 0-2 9-2 929日という独特な点でも一致している。Mc Car t hy ( 1 9 9 3 ) , (特に pp.2 1013; Mc Car t hy( 1996) ,pp. 28 5-32 0; McCar t hy( 2 01 1 ) , pp. 5 7 6 0 5 8頁 Pl ). at e1 4 3 北海学園大学人文論集 表1 第 57号(20 14年8月) パドヴァ写本の Later cus ́ 出典:Padua,Bi bl i ot e caAnt oni ana,MS. I .27 ,f ol .76r ; OCr o 썞 ı n 썞 ı n( 200 3) ,p.2 15( Pl at e 3) 後半のアルドヘルムの書簡の一節と웓 ,5世紀初めの三人のキリスト教思 웎 73年にカンタベリー大司教テオドールの開催したハートフォード教会会議 웓 웎6 にアルドヘルムが出席し復活祭の正しい期日についてドムノニア王に知らせ るように命ぜられて書いた書簡のなかにある次の一節である。 Por r o i s t i s e cundum de ce nnem nove nnemqueAnat ol i ic omput at um autpot i usiuxta Sulpicii Sever i r egulam, qui LXXXIIII annor um cur sum descr ipsit ,quar t a 4 4 ケルト教会 表2 と復活祭論争 (常見) パドヴァ写本の Later cusの復元 出典:McCar t hy( 199 3) ,p.2 18. 〔項目の略語表記〕 (周期年) (閏年) C:cycl us B:bi s ext us :Kal ( 1月1日の曜日) 얨数え方の例:s KI e nds :s abbat um(土) ( 日) d:Domi ni c us :平日(f i i ,i i i ,i i i i er i a;i iを月曜日,以下,火水木と数える) (1月1日における太陰暦と太陽暦の日数の差) E:Epac t P:Pas c ha(復活祭の日曜日の日付) 얨ローマ暦の月日で表記:上から3月 27 日,4月 16日,4月7日,4月 20日,4月 23日,4月8日など :l L의 unadePas c ha(復活祭の日曜日の月齢) :I I ni nt i um(四旬節 Lentの始まりの日付) :LunadeI L윝 nt i um(I nt i um の日の月齢) dec i mal unac um I ude i spas c hal es ac r ame nt um c e l e br ant ,cum ne ut r um i one ms e quant ur. ec c l e s i aeRomanaepont i f i ce sadper f ec t am cal c ul ir at 4 5 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 想家の動向웓 。 웏とを結び付けて,次のような論理を展開する웓 원 i) アナトリウスの書 は偽書ではなく真正の書であり,そのラテン語 版を5世紀初めにガリア南部のアクイタニアにいるスルピキウス・セ ウェルス(Sul )が手に入れた pi c i usSever us ,c . 363 c. 42 5 i i)スルピキウスは, アナトリウスの書 をもとに,当時のローマ方式 (8 4年周期の Supput at i oRomana)の改訂版を作成しようとしたが, 1 9年周期では齟齬をきたすために,算定原則は アナトリウスの書 に基づき,しかし,周期は 8 4年の復活祭表を作成した )これが 4 2 5年から 4 31年のあいだにアイルランドに,おそらく南部 i i i のレンスターに届き,コルンバヌスの時代には,すでにアイルランド の伝統として定着していた このように, アナトリウスの書 が偽書ではないこと,アイルランド方式 の復活祭表には作者がいること, この二つの点で D.マクカシーは定説を覆 し,アイルランド方式は5世紀初めのガリアにその起源があり,ローマの 8 4年周期表の改訂版であるという解釈を示したのである。マクカシーの大 〔王の司教らは,3 18人の司教がニカイアで決定した決議に従わずに〕 ,アナ ➡ 和脚 文注 のの 斜中 体に あ り トリウスの 1 9年周期に,いな 8 4年周期を書いたスルピキウス・セウェルス の規定 に従って,月齢 14日にユダヤ人と同じ日に復活祭の秘跡を行ってい るが,ローマ教会はそのどちらも正しい算定とみなしていない 。Aldhelm , p. イタリックは筆者。アルドヘルム(70 9/7 10年没)は,若いころマームズ 4 8 3. ベリー修道院でアイルランド人教師に師事し,ついで,テオドールがカンタ ベリーに 設した学 で学んだ。この書簡後の 67 5年ごろからマームズベ リー修道院長,7 06年からシャーバン司教。 웓 웏スルピキウスと同じアクイタ ニアのラテン詩人パウリヌス(Paul i nus of Nol a)と,イタリア北東部アクイレイアの修道士でエウセビオスの 教会 をラテン語に翻訳したルフィーヌス(Ruf ,この i nusAqui l e i e ns i s , 4 1 0年没) 三人の間で書簡のやりとりがあり,そこから アナトリウスの書 がルフィー ヌスか らパウリヌスへ,そこからスルピキウスに送られたと 推理する。 . Paulinus ,vol . , I I ,no. 28 -4 웓 원以下は Mc Car t hy( 19 94 ) ,pp.38 6 4 7 3 . 4;McCar t hy( 2 0 1 1 ) ,pp. 4 6 ケルト教会 胆な解釈は,この と復活祭論争 (常見) 野の専門家のほとんどに支持され,いまやあらたな定 説となりつつある웓 。 웑 スルピキウス・セウェルスは,西欧世界に広く知られた作者で,とりわ け彼の トゥールの聖マルティヌス伝 代記の範例となったことは,中世 や 年代記 が後代の聖人伝や年 研究者には周知の事実である。たとえ ば,アイオナだけを見ても,アダムナーンが 聖地案内 のなかで 年代 記 の1 0行を一字一句引用している웓 。また, コルンバ伝 は,三巻から 웒 なる構成で序文が二つあるが,これもスルピキウスの 聖マルティヌス伝 に倣ったものであることはよく知られている웓 。形式だけではない。 コル 웓 ンバ伝 の随所に 聖マルティヌス伝 からの引用と思われる文章があり, スルピキウスの著作の写本がアイオナの蔵書を占めていたことは確実であ る。 そうであれば,復活祭論争のなかでシェーゲーネやコルマーンは,アイ ルランドの伝統である算定方式がスルピキウスの作であるとなぜ主張しな かったのか,この点が不思議でならない。 アナトリウスの書 を論拠にあ げるよりも,よほど説得力をもったであろう。同じことはコルンバヌスに も言える。その書簡のなかで 聖マルティヌス に言及し,またスルピキ ウスの著作の引用と思われる個所もある웋 。なぜ,ガリアでの論戦におい 월 월 てスルピキウスを論拠にあげなかったのか。この疑問について,D.マクカ シーは,スルピキウスには ペラギウス主義 の嫌疑がつきまとっていた 웓 웑Bl ac kbur n and Hol f or dSt r e ve ns( 199 9) ,p.87 2;Char l e s Edwar ds( 2 00 0) , ́ pp. 4 06 7; O Cr o 썞 ı n 썞 ı n( 2003 ) ,p.21 1;Cor ni ng( 2 006) ,p. 8 ;War nt j e s( 2 0 0 7 ) ,pp. 唯 34,3 6-3 7;Mos s hamme r( 2008 ) ,pp. 205 ,230;War nt j e s( 2 0 1 0 ) ,pp. xxxvi i . 一,批判的なのが F.Wal l i s( 1998 ) ,Bede, The Reckoning ,p. l vi ,n. 1 1 6 . -2 スルピキウスの影響全 웓 웒De locis sanctis ,I 3( p.64 ) ;OLoughl i n( 1 9 94) ,p. 4 1 . 般について Shar pe ( 2 010 ) ,p.4 3 .9世紀の彩色写本 アーマーの書 Liber Ar dmachanus は三部からなるが,その第三部はスルピキウスの 聖マルティ ヌス伝 が占めている。 웓 웓Pi c ar d( 1 985 ) ,p.69 ;Adamna 썝n of Iona ,p.2 4 0 ,n. 1 . -6( 웋 월 월Columbanus, Epi s t l es,I I p.19) ;Epi s t l e s,VI 1( p. 5 7 ) . 4 7 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) から,導入当初はアイルランド方式の作者であることが伏せられていたた め,そのうちわからなくなったと説明する웋 。魅力的な推論であるが,こ 월 웋 の問題や5世紀初めのガリア南部の動向など,まだまだ検証すべき課題は 多いと言わざるを得ない웋 。もちろん,1 98 5年のあらたな写本の発見と 월 워 オー・クローニーンやマクカシーの検証によって,アイルランド方式に関 するわれわれの理解が一変したことは事実であり,マクカシーの仮説を定 説にする作業はこれからであろう。 オー・クローニーンによれば,7世紀のアイルランドではヨハネは 胸 当てのヨハネ E 。ウィッ 썝 oi nBr u 썞 ı nneと呼ばれ,広く崇敬されたという웋 월 웍 トビー教会会議においてアイオナ出身のコルマーンが後述するようにアイ ルランド方式の論拠の一つに ヨハネを 徒ヨハネの伝統 主に特に愛された弟子 あるいは をあげたが,その際も 主の胸に寄りかかるに値し た 徒 と呼んでいる웋 。こうした表現は,もちろん ヨハネによる福音 월 웎 ペラギウス(Pe )は,ブリテン 웋 월 웋Mc Car t hy( 1 9 94 ) ,p.4 1 . l agi us ,c . 3 6 0 c. 4 2 0 島出身で,ローマで活動した修道士,神学者。救済における人間の自由意思 を重視して神の恩寵の意義を過小評価したことから, アウグスティヌス (ヒッ ポの)やヒエロニムスの鋭い批判を浴び,その一派は後代まで異端として繰 り返し批判された。ベーダの 活祭を祝う者を ちに等しい 教会 のなかでケオルフリスが春 前に復 キリストの導き給う恩寵なしに救済され得ると信じる人た と断罪したように,復活祭をめぐる議論は,ペラギウス派の異 端問題と結びつけて えられる傾向があり,後述の 6 4 0年の教皇書簡のよう に,7世紀のアイルランド方式支持者にその嫌疑がかけられることがしばし ばあった。Bede, HE ,V-2 1( p. 54 4) ;Char l e s Edwar s( 2 0 0 0 ) ,p. 4 1 4 . 웋 월 워スルピキウスが著作のなかで復活祭にまったく触れていないことはマクカ シーも認めている。また,アクイタニアのパウリヌスが4世紀末にスルピキ ウスにあてた書簡では, 復活祭の聖なる祝典を一緒に祝おうと誘っているが, 特に議論している様子はない。Paulinus ,vol . ,I ,no. 1 . 9 2 9 6 6 8 )によれば 웋 월 웍Cummian s Letter,p.69 ,n.t ol i ne8 9.Kel l y(1 ,p. マーの書 のなかで,もっとも上質な皮紙が る福音書 とスルピキウスの アー われているのは, ヨハネによ 聖マルティヌス伝 だという。 웋 월 웎Bede, HE ,I I I 25( pp.2 98 ,30 0 ) :Beat use uange l i s t aI onhanne s ,di s c i pul us 4 8 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 書 (1 3:2 3 ,13 25 )に基づいているが, アナトリウスの書 胸元に寄りかかってその霊的教えを吸い込んだヨハネ も, 主の と呼んで,イエス との親密さを強調している웋 。このような事実から, アナトリウスの書 월 웏 がアイルランド方式の理論的根拠として用いられたのは,そこに記された 1 9年周期のためではなく, ヨハネの伝統 であったと言えるであろう。次 に紹介するとおり,アイルランド方式の支持者は, である。 アナトリウスの書 の周期と自 ることをどう じて周期には無関心 たちの方式の周期が矛盾してい えていたのか。これも検討を要する課題である。 2)コルンバヌスとガリアの司教 ブリテン諸島における復活祭論争の口火を切ったのは,アイルランド人 コルンバヌス(Col )である。ただし,論争の舞台はメロヴィング umbanus 期のガリアであった。コルンバヌスについては,コルンバヌスの 設した ボッビオ修道院の修道士ヨナス(I )が 6 3 6年ごろに書いた 聖 onas ,Yonas コルンバヌス伝 が現存し,それによってある程度の経歴がわかる웋 。ヨ 월 원 ナスによれば,コルンバヌスは,アイルランド南部,レンスター地方の生 まれで,少年時代に地元で 自由人にふさわしい教養と文法 を教わ り웋 ,その後レンスターを離れてシニリス(Si )という名前の教師のも 월 웑 ni l i s とで聖書を学び,詩編についての注解を書いたという웋 。後述するが,こ 월 웒 の教師は別の 料から復活祭の期日算定に精通していたことが明らかにさ s pe c i al i t e r Domi no di l ec t us;i n quo t ant iapos t ol i ,quis uper pe c t us Domi nir e cumbe r edi gnusf ui t. 00 3) ,쏃7( p. 48) :I ohannes c i l i c e te uangel i s t ae t 웋 월 웏Mc Car t hy and Br ee n( 2 or e. pec t or i sdomi niac cubat or e ,doct r i nar um s i nedubi os pi r i t al i um pot at ヨナスは,コルンバヌスの死(6 1 5 )の 웋 월 원Ionae Vitae Sanctor um Columbani . 直後にボッビオ修道院に入り,後継修道院長の要請でこの聖人伝を書いたと いう。 웋 월 웑Ionae Vitae ,I 3( p. 155 ) :l i be r al i um l i t t er ar um doc t r i nae tgr ammat i c or um s t udi a. 웋 월 웒 非常に洗練された文体で elimato ser mone 書いたという。Ibid.,p. 1 5 7 . 4 9 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) れている。シニリスはバンガー修道院の支院の修道院長だったようで,そ こからコルンバヌスはアイルランド北東部のバンガー(Bangor )にコヴガ ル(Comgal )の lmoc cAr ai di 設した修道院に入った。 しかし,コルンバヌスがバンガーに長くとどまることはなかった。 神の 命令に従ったアブラハムのように,異郷放浪を熱望して 웋 ,12人の仲間と 월 웓 ともにアイルランドを離れ,ガリアに渡ったからである。ガリア到着は 5 9 0 年ごろ,つまりグレゴリウスが教皇に就いたころと推定される웋 。ブリタ 웋 월 ニー経由でブルグンド 国に入り,この地方の王や貴顕の厚遇を得て各地 웋 월 웓 coepi tpe r e gr i nat i onem de s i de r ar eme mori l l i usDomi nii mpe r i iadAbr aham , Ibid., p. 159 .アイルランドは6世紀後半から キリストのための異郷放 浪者 (pe r e gr i nuspr oChr i s t o)を数多く輩出した。その多くの場合,アダ ムナーンがコルンバのアイルランドからアイオナへの移住の目的を 浪者になるため 郷放浪者 異教放 と書いたように(Adamna ) ,後になって 썝n , VC ,p. 6 異 の肩書が加えられるのであるが,コルンバヌスについては,ヨナ スがそう書いているだけでなく,みずから書簡(쒀5 )のなかで 者としてこの地に来たのは,救い主キリストのためである 異郷放浪 pr o Chr i s t o s al vat or e. . . i nhast er r asper e gr i nuspr oces s e r i m と名乗り,また弟子たち も同じ異郷放浪者仲間 comper (쑿7,쒀5 , e gr i ni, per egr i niと呼んでいる 쒁-3,쒃-4) 。 pe r e gr i nat i o の訳語について Shar pe ,Adamna 썝n of Iona ,p. -9. 59 8( n.293 ) ;Char l es Edwar ds( 2 00 0) ,pp.8 웋 웋 월聖人伝の例にもれず 聖コルンバヌス伝 には生年や経歴について年代の記 載はない。年代がある程度まで特定できる最初は,6 0 3年ごろのコルンバヌス の書簡(쒀-5)にある ガリアに来て 12年 という記述で,ここからガリア 到着は 5 90 -91年ごろと推測される。ヨナスは到着時の年齢を 2 0歳と書いて いるが(Ionae Vitae , -5) ,別の写本には 3 0歳とあり,生年は 5 6 0年7 0年 I ごろと大雑把にしかわからない。いずれにせよアイオナの 52 1 59 7 )の半世紀ほど後の世代と思われる。ヨナスと 設者コルンバ (c . 聖コルンバヌス伝 について St (20 00 ),pp.1 89 -22 0。大陸での経歴について Ri anc l i f f e c ht e r (1 9 9 9) ,pp. 109 -2 6;Cor (200 6) ,pp.1 9-4 4。なお,アダムナーンの コ ni ng ルンバ伝 にはコルンバヌスについての言及はもちろんないが,バンガーで のコルンバヌスの師コヴガルはコルンバの友人として登場する。Adamna 썝n, -17 VC ,I I I . 5 0 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) に修道院を 設した웋 。しかし,王との不和から 6 10年ごろにブルグンド 웋 웋 を追放され웋 ,アイルランドから同行した修道士とともに最終的にはロン 웋 워 バルド王国にたどり着き,パヴィアの南,ボッビオに自身が 設した修道 院で 6 15年に死亡し,2 5年におよぶ異郷放浪の旅を終えた。 コルンバヌスの 設した修道院は,当時,衰微していたガリアのキリス ト教信仰の復興に大きく貢献しただけでなく,後にこれらの修道院出身者 が,フェリックスやアギベルトのように,大陸とイングランド,アイルラ ンドを結ぶ回路の一翼を担ってイングランドの改宗事業にも寄与すること になる웋 。他方で,ガリアにおけるコルンバヌスらの宣教活動は,アイル 웋 웍 ) ,フォンテーヌ(Font ) 웋 웋 웋アネグレ(Annegr ay),リュクスイユ(Luxe ui l ai ne など。ヨナスによれば,フォンテーヌだけで 6 0人,この三つの修道院合計で 22 0人の修道士が集まったという。Ionae Vitae ,I 1 7( p. 1 8 3 ) . 웋 웋 워ヨナスによれば,コルンバヌスが庶子を理由に王の息子たちを祝福するのを 拒否したことが特に王の祖母の不興をかったという。Ibid., I 1 9( pp. 1 8 7 9 3 ) . 웋 웋 웍いずれもベーダによるが,イースト・アングリアに司教座を開いたフェリッ クス(Fe l i x,64 7/6 48年没)は, ブルグンドの出身で,そこで聖職に叙階さ れた (HE ,I -15,p.19 I 0)。当時のブルグンドの状況から,コルンバヌス系 修道院出身とされている。アギベルト(Agi )もガリアのコルンバヌス系 l be r t 修道院の修道士で,聖書研究のためにアイルランドに留学し,その帰途に招 かれて 6 4 8年にウェセックスの第2代司教になり(I ) ,ウィルフリ I I 7p. 2 3 4 ド(Wi l f i r i d)の友人としてノーサンブリアに滞在中に開催されたウィット ビー教会会議に ローマ派 として出席し(I ,その後帰 I I 2 5 ,pp.2 9 8 ,3 0 0) 国してパリ司教(66 8-c .9 0)となってウィルフリドの司教叙階を行う(I I I 2 8 , 。別の p. 3 14 ;V1 9 ,p. 52 2) 料によれば,アギベルトはパリ東部のジュアー ル修道院(Jouar r e)に埋葬されたが,ここもコルンバヌス系修道院の一つで ある。この二人はコルンバヌス系修道院出身者がイングランドの改宗にかか わった代表例である。Campbe l l( 19 8 6) ,pp.5 85 9 ;Wal l ac e Hadr i l l( 1 9 8 8 ) , なお,復活祭の算定方式についてコルンバヌス系修道院は, 設者の死 p. 99 . 後アイルランド方式を放棄し当時のローマ方式に従っている。つまり,フェ リックスはヴィクトリウス表,ウィットビーにおけるアギベルトはアレクサ ンドリア/ ディオニュシウス表の擁護者である。Char l e s Edwar ds , ( 20 0 0 ) , pp. 3 64 67 . 5 1 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) ランドとガリアの教会慣行の違いを際立たせ,各地の司教らとの間に摩擦 が生まれるようになった。その一つが復活祭期日の算定方式である。 ガリアでは 5 4 1年のオルレアン教会会議においてヴィクトリウスの復活 祭表の採用が決定されていた웋 。前章で述べたように,ヴィクトリウスの 웋 웎 表は欠陥が多い。このため,たとえば ン人復活祭期日 ギリシア人復活祭期日 と ラテ の二つの日付は,どちらにするかは教皇が決定すること になっていたが,トゥールのように教皇の決定に従わない地方もあっ た웋 。コルンバヌスがガリアの司教と対立したのは,この欠陥のあるヴィ 웋 웏 クトリウスの復活祭表をめぐってである。 コルンバヌス自身の手になる著作物として伝わるのは 贖罪規定 や 修 道規則 などの著作と五通の書簡であるが,このうち復活祭問題を論じた のは書簡三通だけである웋 。その内訳は,書簡쑿が 6 0 0年ごろに教皇グレ 웋 원 ゴリウスあてに書かれている。これは,グレゴリウスがイングランドの改 宗事業についてアウグスティヌスらと盛んに書簡を わしていた時期にあ 웋 웋 웎Concilium Avr elianense a. 541:Pl ac ui ti t aqueDe opr opi t i o,uts anc t um pas cha secundum later culum Victor i ab omni bus s ac e r dot i bus uno イタリックは 2 1 . t e mpor ece l ebr e t ur,Concilia Galliae a. 511 -a. 695 ,p. 1 3 筆者。 l at er cul um は復活祭表の意味。前掲 9 0参照。 7 4-59 4)によれば,5 9 0年にガリアで 웋 웋 웏グレゴリウス(トゥール司教,在任 c .5 はギリシア人用の日付(3月 26日,月齢 1 5日)に従うことになっていたが, トゥールでは ヴィクトリウスの復活祭表にある日付に疑念が生じ…われわ れはラテン人の日付に従って月齢 2 2日〔4月2日〕に祝った という。さら に,グレゴリウスは,この決定が神の意志による証明として き出るヒスパニアの泉がわれわれの復活祭の日にあふれた 神の合図で湧 ことをあげてい る。コルンバヌスのガリア滞在中に二つの期日になる年が2回あり (5 9 7年と 599年,ギリシア人用:月齢 15日,ラテン人用:月齢 2 2日,Cor (2 0 0 6 ) ni ng , 3),コルンバヌスが地方の混乱を見聞した可能性もある。Gr p.18 egor y ; Tour s ,X-23( pp.5 8182) フランク of 542頁。 書簡の年代特定は,Wr 웋 웋 원Columbanus, Epi s t l es,pp.2-5 9. i ght( 1 9 9 7) ,pp. 2 9 f f による。 5 2 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) たる웋 。書簡쒀は,シャーロン教会会議(c . )に出席を求められたコル 웋 웑 6 03 ンバヌスが,出席せずに参集する司教らにあてて意見を陳述したものであ る。書簡쒁は,名宛人の名前はないが,6 04年の教皇グレゴリウスの死亡後 に,その直近の後継教皇にあてられている。おそらくコルンバヌスは後継 教皇(サビニアヌス,在任 60 46 06 :ボニファティウス三世,在任 6 0 7 )の 名前を知らなかったのであろう웋 。 웋 웒 これらの書簡を通して注目されるのは,復活祭期日の算定方式に関する コルンバヌスの並々ならぬ自信である。たとえば,教皇相手に ヴィクト リウス表はアイルランドのわれわれの教師や尊敬する学者,熟達した算定 家らには受け入れられず,権威どころか 笑の的であり,まったく相手に されていない と喝破し웋 ,ガリアの司教らには 故国アイルランドでは, 웋 웓 復活祭の算定にはヴィクトリウスよりも 8 4年復活祭期日の算定方式とエ ウセビオスとヒエロニムスが推奨するアナトリウスの教えに従っており, これらの教えに全幅の信頼をおいている。ヴィクトリウス表は最近書かれ たものであり,その算定方法は疑わしく,必要なことを何も決めてはいな い と教え諭している웋 。こうした自信を支えているのが算定方式に関す 워 월 る深い知識である。書簡のいたるところで専門用語を駆 イア し,3 2 5年のニカ 会議(書簡쒀1,쒃8 )や 4 8 1年のコンスタンティノープル 会議 -32 웋 웋 웑Bede ,HE ,I 27,pp. 29 . 1 0年ごろに残留する修道士あてに 웋 웋 웒他に第쒂書簡はブルグンドを追放された 6 書かれた。書簡쒃はイタリア到着後の 6 13年ごろにロンバルド王の要請で教 皇ボニファティウス三世あてに書かれ,6世紀半ば以来西方キリスト教世界 を混乱させた 三章問題 シェ・岩村清太訳 に言及している。この問題についてピエール・リ グレゴリウス小伝 訳注 1 4頁。 웋 웋 웓I 3 :Sci asnamquenos t r i smagi s t r i se tHi ber ni c i sant i qui sphi l os ophi set s api ent i s s i mi sc ompone ndical c ul icomput ar i i sVi c t or i um nonf ui s s er e c e i t at e. pt um,s edmagi sr i s uue lue ni adi gnum quam auc t or -6:pl 웋 워 월I I usc r e do t r adi t i onipat r i aemeaej uxt a doc t r i nam,etc al c ul um e s i as t i c ae Hi s t or i ae LXXXI V annor um e tAnat ol i um,ab Eus ebi o Ec c l auct or e epi s copo,ets anc t o Cat al ogis c r i pt or e Hi e r onymo l audat um, 5 3 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) (쒁-2 ) ,567年のテュロン教会会議(쒀1)などのカノンを引用あるいは言 及するとともに,アナトリウス(ラオディケアの)やエウセビオス,オリ ゲヌス,ヒエロニムスら算定学者らの著作を自在に引用している웋 。 워 웋 コルンバヌスの書簡やヨナスの 聖コルンバヌス伝 から,アイルラン ドの修道院では算定方法に関する著作が西ヨーロッパと同じくらい存在し たこと,また,復活祭の期日の算定が聖書注解やラテン語文法とならんで 修道院教育の必須科目を構成していたことがうかがえる。たとえば,先に 紹介したように,バンガー修道院に入る前にコルンバヌスに聖書研究の手 ほどきをしたシニリスは,ギリシア人から復活祭の期日算定方法を教わっ た最初のアイルランド人 と記録されている웋 。コルンバヌスの書簡から 워 워 にじみ出る自信にはこのような裏付けがあり,すでにアイルランドにいた 時にヴィクトリウス復活祭表の欠陥を熟知していたのである。蛇足になる Pas c hac e l e br ar e,quam j uxt aVi ct or i um nuperdubi es c r i be nt e m,e tubi ne ce s s ee r at ,ni hi ldef i ni e nt e m. 11)ら教会教 웋 워 웋他に聖書の注解やアウグスティヌス(쒂- に通じているのはも ちろんであるが,教皇グレゴリウスあての書簡では,教皇の Regula pastor alis 司牧規則 (5 91 -92 )を読んだと誇らしげに書き, 雅歌注解 の終わりの部 と エゼキエル書注解 を送ってくれるように懇願している(쑿8 ) 。実際 にも書簡 쒀-7では Regula pastor alis の一節を引用している。写本を持ってい るのであろう。 웋 워 워シニリスはアイルランド語名が MoSi numac cuMi n で,8世紀のアイルラ ンド語テキストの欄外に MoSi numaccuMi n,s c r i bae tabbasBe nnc hui r , pr i musHi ber nens i um comput um aGr aec oquodam s api e nt eme mor al i t e r 1 0年に没し di di c i tと書き込まれている。彼は後にバンガー修道院長になり 6 た。 この書き込みのなかにアレクサンドリア/ ディオニュシウス方式を思わせ るギリシア数字の断片があることから,この 料は7世紀初めにアイルラン ドでアレクサンドリア/ディオニュシウス方式が導入された証左とされてき た(Jone )。しかし,́ 9 8 2 ,1 9 9 7 )によるマニュス s , 193 5,p.4 19 OCr 썝 oi n 썞 ı n(1 クリプトの検証によって ギリシア式の指を った計算方法 に関する論 の断片であることが証明された。本稿の冒頭で紹介した W. ( 9 92 ,前 Davi e s1 掲 11)は,バンガーにアレクサンドリア/ ディオニュシウス方式が導入さ 5 4 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) が, アイルランドがローマ帝国の一部になることはけっしてなかったから, ラテン語はアイルランド人にとって外国語であった웋 。それを 워 웍 えるとコ ルンバヌスを通してうかがえる知的世界には目を見張るものがある。アイ ルランドは地理的には辺境であったが,孤絶してはいなかったのである。 コルンバヌスのヴィクトリウス批判の論点は,次の二つに要約できる。 その一つは,春 スは春 についてである。すでに説明したように,ヴィクトリウ をアレクサンドリアに従って3月 2 1日としたが, 他方で復活祭の 月齢範囲をラテン人用では 1 6-2 2としていたため,復活祭が春 の前にな ることがある웋 。この点をコルンバヌスは, 聖なる教義書には復活祭は主 워 웎 の復活の祝祭であり,春 の前に祝ってはならないとある。ヴィクトリウ スはこの原則を破り,ガリアに間違ったことを広めた と批判する(쑿-2 , 쒀4) 。 もう一つの問題は,その月齢範囲が 2 1日(ギリシア人用) ,2 2日(ラテ ン人用)に及ぶ点である。この点についてアナトリウス,エウセビオスや ヒエロニムスを論拠に,月齢 2 1日や 2 2日には月が昇るのは真夜中を過ぎ てからであり,そのため月面の半 も明るくなく,闇が光よりもまさって いる。復活祭に暗闇が支配することはありえない。主の復活の祭りは光だ からである と批判する웋 。 워 웏 他方で,コルンバヌスは,アイルランド方式が月齢範囲に 1 4日を含む点 について,反論している。ガリア滞在中に月齢 1 4日が復活祭の日曜日にな れたと論じているが,この説がすでに否定されたことには触れていない。コ ルンバヌスはアレクサンドリア/ディオニュシウス方式について一切言及し ていない。おそらく,アイルランドにはまだ知られていないのであろう。ガ リアでも同様だったと推測される。 웋 워 웍中世初期アイルランドにおけるラテン語文献について ́ O.Cr o 썞 ı n 썞 ı n( 2 0 0 5 ) ,Ch. XI .Hi be r noLat i nLi t er at ur et o1 1 69,pp.37 1-4 0 4( atpp. 3 7 4 76 ) . 4日(満月)は3月 1 8日になり,月齢 16日が日曜日の時は復 웋 워 웎最も早い月齢 1 活祭は3月 2 0日になる。 ]s 웋 워 웏I 2 : Ce r t e[i nqui e ns ius que ad duar um vi gi l i ar um t e r mi num,quod as ,s e d noc t i s medi um i ndi cat ,or t us l unae t ar dave r i t ,non l ux t e ne br 5 5 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) る年が4回あり,この点が問題となったのであろう。教皇グレゴリウスに 語気鋭く次のように問いただしている。 なぜユダヤ人と同じ日に復活祭を祝ってはいけないのか。 …神に見捨 てられたユダヤ人はもはや神殿もなくエルサレムの外にいることを れば,また彼らによってキリストが十字架にかけられたことを ユダヤ人が復活祭を行うと え えれば, えられるのか。月齢 1 4日の復活祭は,ユダ ヤ人の復活祭であって神の過越ではないと言うのか。 月齢 1 4日を出エジ プトの日に選んだ神秘は神のみぞ知るところである 웋 。 워 원 コルンバヌスにとって,月齢 1 4日が日曜日であれば,その日が復活祭で あった。おそらくアイルランドには月齢 1 4日を過越祭として祝うユダヤの 土壌はなく, 月齢 1 4日はあくまでもキリストの復活祭であると確信してい たのである。しかし,この問題は,ガリアの司教の批判にとどまらず,や がてカンタベリーが,ついで教皇が乗り出す問題になる。 コルンバヌスは,ヴィクトリウス復活祭表を批判し,それを 式採用し ている教皇に直訴して改善を求めたが,ローマ教会や教皇の権威を否定し たわけではない。書簡쑿の冒頭の名宛人欄で教皇グレゴリウスを 主,キリストにおけるわれわれの 聖なる ,ローマの教皇,教会の最高の誉れ, 柔弱なヨーロッパにあって崇高な清華,卓越した夜警,神の教えと愛の教 l uc e mt e ne br aes upe r ant ;quodc er t um es ti nPas c hanone s s epos s i bi l e ,ut ol e mni t asdomi ni c aer e s ur al i quapar st enebr ar um l ucidomi ne t ur ,qui as r e ct i oni sl uxes t ,etnones tc ommuni cat i onl uc ic um t e ne br i s. -3 웋 워 원I :Cum I udae i sPas c ha f ac er enon de bemus ?Qui d ad r e m pe r t i ne t ? numqui dI udaeir epr obiPas cha f acer ec r e dendis untnunc ,ut pot es i ne al em,Chr i s t ot unc f i gur at o ab e i sc r uc i f i xo?aut t empl o,ext r aI e r us numqui di ps or um es s er e ct ec r edendum e s tde ci maequar t ael unaePas c ha, i usDeii ps i usi ns t i t ue nt i sPhas ees s ef at e ndum e s t ,s c i e nt i s que e tnonpot r ans c e ns um e l e ct a s ol i usadpur um quomys t er i odec i maquar t al unaadt es t? 5 6 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 師 と呼び,最高で最大級の敬意を表している웋 。さらにボニファティウ 워 웑 ス三世にあてた書簡쒃(c . )には復活祭問題への言及はないが,次のよ 6 13 うに書いてアイルランドのキリスト教がローマ教会によることを誇ってい る。おそらく教皇クレスティヌスがアイルランドのキリスト教徒のために 4 3 1年に司教パラディウスを派遣したことを指しているのであろう。 われわれアイルランド人は,地の果てに住んではいるが ,聖ペテロと 聖パウロの教えと神聖なるすべてのカノンの教えに従う弟子であり,福 音と 義者, 徒の教えしか受け入れていない:これまで一人の異端やユダヤ主 離主義者を出したことはない。 徒の座の後継者である教皇か ら与えられたカトリックの信仰を途切れることなく守っている 웋 。 워 웒 しかし,書簡쒁になると,コルンバヌスの論調はかなり穏やかになる。 この書簡は,復活祭問題を論じた現存書簡としては最後になるが,そこで は2世紀半ばの小アジアのポリュカルポスとローマ司教がお互いの慣行を 認め合うことで折り合いをつけた例をあげて,ガリアの地で互いの信仰を 웋 워 웑I :Domi noSanct oe ti n Chr i s t o Pat r i ,Romanaepul c he r r i mo Ec c l e s i ae ic ui dam Fl or i , De cor i ,t ot i us Eur opae f l accent i s augus t i s s i mo quas egr egi o Spec ul at or i ,Theor i a ut pot e di vi nae Cas t al i t at i s pe r i t o,ego, 訳はピエール・リシェ Bar i ona( vi l i sCol umba) ,i nChr i s t omi t t oSal ut e m. 著・岩村清太訳 大グレゴリウス小伝 (201 3),1 1 5頁による。同じ書簡(쑿7)のなかで,ヨハネ4:14を引用して 天から湧き出て永遠の命にほとばし り出る泉の水を,渇くことのない知の泉の水を,飲みにローマを訪れたい と願望を語っている。 웋 워 웒V-2:Nose ni ms anc t or um Pet r ietPaul ietomni um di s c i pul or um di vi num c anone m s pi r i t us anc t os cr i bent i um di s ci pul is umus ,toti Iber i, ultimi habitator es mundi ,ni hi lext r ae vangel i c am e tapos t ol i c am doc t r i nam r e t i cus ,nul l usI udae us ,nul l uss c hi s mat i c usf ui t ;s e d r e c i pi e nt e s ;nul l ushe t ol or um f i desc at hol i c a,s i cutavobi spr i mum,s anct or um vi de l i c e tapos イタリックは筆者。 s uc ces s or i bus ,t r adi t ae s t ,i nconcus s at enet ur. 5 7 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 妨害せずに,神の愛のもとで,平和に暮らせるように,寛大な対応を求め ている웋 。ガリア滞在が長くなるにつれ,ヴィクトリウス復活祭表をアイ 워 웓 ルランド方式に代えることの難しさを実感したのであろうか,二つの方式 の併存を求めたのである。この少し前,教皇グレゴリウスは,イングラン ドで改宗事業をすすめるアウグスティヌスが 行がさまざまに違っていること 信仰は一つでも,教会の慣 について質問したとき,もっとも適当と 思われるものをあちこちから取り入れるように勧め,寛容を説いてい る웋 。しかし,ガリアについて教皇がこのような指示を出した形跡はない。 웍 월 衰えたとはいえローマ・カトリックの伝統の長いガリアと改宗事業中のイ ングランドとの違いからであろうか。 コルンバヌスがガリアの司教や教皇から返信を受け取ったかどうかは不 明である。しかし,まったくの梨の礫だったわけではない。次に紹介する カンタベリーの動きは,コルンバヌスの書簡が教皇庁に届いたか,あるい はガリアでのコルンバヌスの動向が教皇庁に伝わったことを証明してい る。それは,604年から 6 17年のあいだにイングランドの三人の司教が 全 アイルランドの司教および修道院長 にあてて書簡を送り, ガリアに来た 修道院長コルンバヌスから,アイルランド人がブリトン人と変わらないこ とを知り…普遍教会の慣行に従うように と勧告しているからである웋 。 웍 웋 ベーダによれば,彼らが月齢 1 4日から 20日のあいだに復活祭を行ってい るのが問題となったという。これが,ブリテン諸島自体の復活祭問題に言 -1 웋 워 웓I I I :Cum i udi ci oi nt eri s t ospos s i musvi ver ec um e c c l e s i as t i c aepac e ci l i c e te tpapa Ani c e t us ,s i ne uni t at i s ,s i cuts anct ipat r es ,Pol ycar puss s candal of i de i ,i mmocum i nt egr acar i t at epe r s e ve r ant e s. グレゴリウスは 6 0 1年に -2 i oAugus t i ni. 웋 웍 월Bede, HE ,I 7,p.80,I I .I nt er r ogat アウグスティヌスの 神の事業 を補佐するためにメリトゥスやラウレンティ ウスら第二次宣教団を 60 1年に派遣したが,彼らに対しても異教徒の神殿を 破壊せずに祭壇の偶像を聖遺物に代えるように指示している。Ibid.,I 30( p. 10 6 ) . -4( 웋 웍 웋Bede, HE ,I I pp.1 4648) .三人の司教とは,カンタベリー司教ラウレン ティウス,ロンドン司教メリトゥス,ロチェスター司教ユストゥスである。 5 8 ケルト教会 及した最初の現存 と復活祭論争 (常見) 料になる。 さらに,ベーダによれば,6 2 8年ごろ教皇ホノリウス一世が 復活祭の遵 守について間違っているのを知って ,アイルランド人(ge nsScot t or um) にあてて書簡を送ったという。ただし,ベーダは書簡の要約しか伝えてい ないが,次のような内容である웋 。 웍 워 最果ての地に住む,取るに足らない数にもかかわらず ,地球上に遍 在にするキリスト教会よりも,過去そして現在を通じて賢いと えない ように;世界中の司教が教会会議で決定した復活祭表と決議に反して, 間違った復活祭を遵守するのをやめるように 웋 。 웍 웍 웘 웋 웍 웎 ホノリウス(6 3 8年没)はグレゴリウス一世の弟子であり,師と同様に宣 このうち前二人は第二次宣教団の一員であり,その派遣にあたって 6 0 1年6 月にグレゴリウスはイングランドまでの道中の安全と援助を依頼する書簡を フランクの王や王妃,アルル,リヨン,メッツ,パリなど行路にある司教に 送っている (Gr -3 。またベーダによれば (I ) , egor y I ,11 4,38 ,4 042) I 4, p. 1 4 6 アイルランドにあてた書簡の前にメリトゥスがローマで教皇ボニファティウ スとイングランドの教会問題を協議している。こうした動きもカンタベリー が動き出した背後にあると推測される。 2 8年にボッビオ修道院長がヨナスを同行してローマに赴き司教監督権から 웋 웍 워6 の免除特権について 渉している(Ionae Vitae ,I )。その際にガリア I ,p. 4 9 (フランキア) や北イタリアのコルンバヌス系修道院に関する情報がホノリウ スに直接伝わり,これがアイルランド人への勧告の背景の一つとなったと推 測される。 웋 웍 웍Bede, HE ,I I 19 ( p.1 98 ) .s ol l er t er e xhor t ans ne paucitatem suam in extr emis ter r ae finibus c ons t i t ut am sapientior em ant i qui ss i uemoder ni s , c hal e s quaeperor bem e r ant ,Chr i s t iecc l es i i saes t i mar e nt ,ne uec ont r apas conput ose tde cr et as ynodal i um t ot i us or bi s pont i f i c um al i ud pas c ha c el e br ar ent.イタリックは筆者。 웋 웍 웎ベーダの要約には重大な問題がある。教会 ではアイルランドの慣行の 間 違い を具体的に書いてはいないが,別の著作( TheGr oni c l e45 9 1, e at e rChr 5 9 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 教活動のために大陸からイングランドに人材を送り込んでいるが웋 ,アイ 웍 웏 ルランドにもローマ教会の慣行に従うように勧告を出したのである。この 点で注目されるのが,ホノリウスの書簡にある 少ないアイルランド人 最果ての地に住む,数の という表現である。すでにコルンバヌスが教皇宛 書簡(쒃2 ,c . 612 )のなかでアイルランド人を 地の果てに住んでいる と表現し,たとえそのような遠隔の地でもローマ教皇のもとにあることを 示した웋 。ホノリウスは,これを受けてであろうか웋 ,教皇の権威は最果 웍 원 웍 웑 ての地にも及ぶと明確に表明するとともに,アイルランド人を )ではそれを i nBede, The Reckoning ,p.22 8 少数者 十四日主義の間違い と説明 しているからである。なぜベーダは異端に相当するこの間違いの指摘を 会 教 では省略したのか,さまざまに憶測をよぶが,ベーダはアイルランド 方式が 十四日主義 でないことは熟知していた。たとえば,アイオナから 派遣されたアイダーンについて 或る者が誤って想像しているように,復活 祭をユダヤ人のようにどんな曜日でもかまわずに月齢 14日に挙行すること はなく,常に 1 4日から 20日までの日曜日に挙行した と書いて,アイオナ が遵守するアイルランド方式が 十四日主義 でないと断言している。Bede, HE ,I I I 1 7( p.2 66) :( Vndee thancnon,utqui dam f al s oopi nant ur ,quar t a de ci ma l una i n qual i betf e r i ac um Judæi s ,s e d di e Domi ni c a,s e mpe r 明らかにアイルランド age bat ,al unaquar t adeci maus queadvi ces i mam) . 方式について教皇は十 な情報を持っていないようであり,ベーダはそうし た認識不足をさらけ出すのを控えたと推測される。ベーダは,쒁4 (p. 2 2 4 ) でも,アイオナ修道士の復活祭慣行を擁護している。なお,後述する 6 4 0年 のヨハネス(教皇候補者,後の四世)の書簡についても,ベーダによる削除 の問題が起きている。 웋 웍 웏ブルグンド(ブルゴーニュ)出身のフェリックス(前掲 1 1 3 )や,ジェノヴァ でミラノ司教から叙階され,ウェセクス初代の司教となったビリヌス Bi r (Bede ,HE ,I )は,ホノリウスによって派遣された例である。 i nus I I 7,I V-12 웋 웍 원前掲 1 2 8の引用文のイタリック部 を参照。 )でも,コルンバヌス生 웋 웍 웑ヨナスの 聖コルンバヌス伝 (c. 636 ランドを 海のはずれの島 の地アイル と表現している。 Col umbanuse t e ni m quie t Col umba,Or t usHi be r ni aei ns ul a.extr emo Oceano sita . Ionae Vitae , I 2( p. 1 5 2) .イタリックは筆者。 6 0 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) と表現した。この表現はベーダが省略した アイルランド方式に従う人びとに 異端 十四日主義 とあいまって, の烙印を押すに等しい効果を発 揮することになる웋 。それが,ホノリウスの勧告を受け取ったアイルラン 웍 웒 ド南部の教会関係者を慌てさせ,復活祭論争の舞台をアイルランドに移す 契機になったのである。しかも,これ以後アダムナーンの コルンバ伝 にいたるまで,用いられる語彙は違うが,地の果てに住むアイルランド人 という表現は,まるで一本の糸のように復活祭論争関係の 料をつないで いくことになる。 3)クミアンとシェーゲーネ 復活祭論争の第二期は,アイルランド南部の教会関係者クミアンとアイ オナ修道院の院長シェーゲーネと隠修士べーカーンとの間で展開した。つ まりアイルランド人同士の論争である웋 。この論争については,クミアン 웍 웓 がシェーゲーネとべーカーンにあてて送った書簡が この三名のなかで,他の 料のすべてである。 料でもその身元が確定できるのはシェーゲーネ だけであり,そもそも送り主クミアンはアイルランド南部の教会指導者で ある以外にわかっていない웋 。しかし,この書簡は,次の点できわめて重 웎 월 要な 料である。その一つは,これが復活祭論争に関してアイルランドで 웋 웍 웒Br acken( 2 0 07 ) ,p.25 5. 웋 웍 웓アイオナは地理的にはブリテン西端の島であるが,コルンバが修道院を 設 した当時,スコットランド西岸のアーガイル地方や島嶼地帯はアイルランド 北東部とともにダール・リアダ王国を構成し,アイルランド語を話す人びと が居住していた。アイオナ上陸直後にコルンバがダール・リアダ王に面会し ている(Adamna -7 )。その内容は不明であるが,修道院 썝n, VC ,I 設の許可 を得るためと思われる。ベーダがアイオナを i ns ul aSc ot t or um アイルラン ド人の島 と記したのはこのような事情からであろう。Bede ,HE ,I I I 1 7 . ): Se 웋 웎 월Cummian s Letter,書簡冒頭の名宛人(p.56 gi e noabbat i , Col umbae シェ s anct ietc ae t enor um s anct or um s uc ces s or i ,Be c c anoques ol i t ar i o. ゲーネ(S 썝 eg 썝 ene)はアイルランド語名である。その死亡が Annals of Ulster の 652年の項(p. 128 )に Obi t usSe ge niabat i sl ae. i .f i l i iFi ac hnaeと記さ 6 1 北海学園大学人文論集 書かれた唯一の現存 第 57号(20 14年8月) 料だからである。この書簡によって,アイルランド 南部とアイオナとの対立だけでなく,6 3 0年代前後のアイルランドの教会 の動向や,ローマ教会がヴィクトリウス復活祭表を維持していることなど がはじめて明らかになる웋 。第二は,ヴィクトリウス復活祭表の支持者の 웎 웋 立場でアイルランド方式を批判している点である。コルンバヌスの書簡と は,まったく逆の立場で書かれているのである。 内容の検討の前に,クミアンの書簡のなかからアイルランドの教会の動 きを抜き出し,時系列に って並べておく。 6 28 / 62 9 教皇ホノリウスの書簡がアイルランドに届く ・アイルランド南部の教会の一部がヴィクトリウス復活祭表を採用 (p.5 6 );クミアンは意見を控え一年間復活祭の期日算定を研究(p. れている。ちなみに,この年代記は 740年ごろまでアイオナで書き続けられ た年代記をもとにしている。シェーゲーネは第5代修道院長(在任 6 2 3 6 5 2 ) としてアダムナーンの コルンバ伝 のなかに登場する(後述) 。一方,ベー カーンもアイルランド語名であるが, 詩人ベーカーン (B썝 e cc 썝 anmacLui g40年ごろに書かれたアイルランド語のコルンバ de ch)によって 6 歌2編が 残されている(Cl ) 。アイオナとのつな anc yandMa 썝r kus ,19 95,pp.1 3 6 1 51 がりをうかがわせるこの詩人はクミアンの書簡の名宛人 隠修士ベーカーン と同一人物かもしれない。他方でクミアン(Cummi ,アイルランド語名 anus ) であるが,7世紀にこの名前の教会関係者は二人いる。そのうち Cumme 썝ne Cumme 썝neAl busはシェーゲーネの2代あとのアイオナ修道院長であり,同 一人物はありえない。もう一人 Cumme 썝neFadaは 贖罪規定書 で知られ, 賢者 と評されたが,シェーゲーネ宛書簡との関係を示す手がかりはない。 Cummian s Letter,pp.1 2-15 ;Char l e s Edwar ds( 2 00 0 ) ,p. 2 6 5 . 웋 웎 웋ベーダは,クミアンやこの書簡について 一切触れていない。 教会 当時 (6 3 5) , 南のアイルランド人が 祭を行っている 教会 をはじめ著作のなかでは 쒁3 (p.21 8 )においてリンディスファーン 徒座の勧告で規定通りの習慣で復活 と記し,教皇の勧告で当時のローマ方式を受け入れたこと を書いているが,それがヴィクトリウス復活祭表であることや,クミアンの 指導によることは書いていない。 6 2 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 58 ) ・教皇がわれわれを破門にすると伝えたことについて南部の教会指導 者と相談웋 ,その結果,教会会議の開催を決定(p. 9 0) 웎 워 6 30 マグ・レーネで教会会議を開催웋 ,全員一致で翌年から普遍教会の 웎 웍 算定方式〔ヴィクトリウス復活祭表〕に従うことを決定したが웋 ,直 웎 웎 後に, 先達の伝統 t r adi t i one ms e ni or um を守るべきだ という意見 が出て会議は 裂,調査のためにローマに 節を派遣することを決定 (pp. 9 09 2) 6 31 節がローマのサン・ピエトロ教会で,ギリシア人,ヘブライ人, スキタイ人,エジプト人と一緒に復活祭を祝ったが,アイルランドと の間に一か月のズレのあることを知る。彼らから 中で祝われている 6 32 この復活祭が世界 と聞かされる(p. 94 ) 節の帰国 6 30 ×6 32 シェーゲーネ・ベーカーンがクミアンを 異端 と非難웋 웎 웏 웋 웎 워Cummian s Letter , p. 9 0: ui de l i cetnos t r or um pat r um pr i or um Ai l be i i r e ntde epi s c opi ,Quer aniCol oni ens i s ,Br endi ni ,Nes s ani ,Lugi diqui ds e nt クミア e xcommuni cat i onenos t r a,as upr adi c t i ss e di busapos t ol i c i sf ac t a. ンの相談相手としてあげられているのは,Eml y, Cl onmac noi s , Mungr e t , r rか Cl onf er tの修道院長(Eml yの Ai l busは修道 Cl onf er t mul l oeおよび Bi 院長で司教)で,すべてアイルランド南部のマンスターかレンスターにある 修道院である。 웋 웎 웍Mag L 썝 eneの場所は特定されていないが,おそらくダロウ(Dur r ow, Co. Of f al y)のある地域と推定される。Char l es Edwar ds( 2 0 0 0 ) ,p. 2 51 . 웋 웎 웎決定にあたって 洗礼用の泉 が より有効な証明方法 としてあげられて いる。 pot i or apr obat aaf ont ebapt i s minos t r i( Cummian s Letter,p.9 2 ) . アイルランドでも復活祭の 正しい期日 の証明に泉が われていたようで ある。 : …もし,貴殿の説を証明できるなら,それを見せよ。出来ない 웋 웎 웏Ibid ,p.7 4 のであれば,黙れ,われわれを異端と呼ぶな ( Siue r o non habe t i s ,s i l e t e 書簡冒頭でもクミアンは e tnol i t enosher et i c osuoc ar e ) . てもらおう あえて釈明させ と書簡の意図を説明している。 Ve r bae xc us at i oni sme aei n 6 3 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 6 32 / 63 3 クミアンがアイオナ修道院長シェーゲーネと隠修士ベーカー ンに反論の書簡を送る こうしてアイルランド南部は,8 4年周期のアイルランド方式をやめ,ヴィ クトリウス復活祭表の採用に踏み切ったのである。 クミアンの書簡について,注目される点を列挙すると,その第一は,7 世紀初めのアイルランド南部にローマ教会との一致を最優先に 関係者の集団がいたことである。ホノリウスが るアイルランド人に普遍教会の慣行に える教会 地の果ての少数者 であ うように勧告したが, クミアンは, ホノリウスの文言を一部借用しながら,それ以上に語気を荒げて普遍教会 との一致をシェーゲーネに迫っている웋 。かつてコルンバヌスは,地の果 웎 원 てに住んでいても,アイルランド人はペトロとパウロの弟子であると主張 したが,クミアンにとってアイルランドの 辺境性 そのものが由々しき 問題であり,中央との,つまり普遍教会との一致によって是正されるべき 問題であった。たとえヴィクトリウス復活祭表に多大な欠陥があってもで ある。 第二の注目点は,古今の文献に精通し,コルンバヌスを超える,その博 f ac i e ms anct i t at i sues t r aepr of er r epr ocaci t eraude o.Ibid.,p. 5 6 . 웋 웎 원たとえば,ヘブライ人,ギリシア人,ラテン人,エジプト人が復活祭の遵守 では一致しているのに, 地の果ての,言っては悪いが地球の吹き出物の上に 住んでいるような,一部の取るに足らないブリトン人とアイルランド人 が 反対していると表現し,そうした少数者が, Mot he rChur c hであるローマ も,エルサレムもアレクサンドリアもアンティオキアも間違っている,全世 界が間違っている,真実を理解しているのは自 たちだけである,と える ことほど邪悪なことはあろうか と警告する。Ibid , p. 7 2:Br i t onum Sc ot t or umquepar t i c ul a,qui sunt pene extr emi e t ,uti t adi c am,me nt agr aeor bi s e s i a t e r r ar i um ;ibid ,pp.8 0-8 2:Qui daut e m pr aui uss e nt i r ipot e s tdeae c c l mat r equam s idi camusRomaer r at ,I er os ol i mae r r at ,Al e xandr i ae r r at , t ie tBr i t one sr e c t um Ant i ochi aer r at ,t ot usmunduse r r at ;s ol it ant um Scot sapiunt .イタリックは筆者。ホノリウス書簡のイタリック部 6 4 を参照。 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 覧強記ぶりである。クミアンの論理展開の順にその引用文献を見れば,i ) ユダヤの過越祭に関する旧約聖書とイエスの復活祭の週に関する出来事を 記した福音書,i )アウグスティヌス(ヒッポの)からグレゴリウス一世に i いたる教会教 に関する教 の著作,i )ニカイアなどの i i 会議,教会会議の決議とそれ のコメントなど,i v)復活祭期日の算定に関するアナトリウ ス,テオフィロス,ディオニュシウス,ヴィクトリウスなど 1 0の方式,な どである。この引用からもわかるように,クミアンの書簡の大部 は,神 学論議であり,復活祭の期日算定に関する議論はほとんどない。わずかに 触れている算定方式についても,ディオニュシウスの算定方式を四番目に あげ,また,ディオニュシウスの復活祭表の 序文 を引用するなど,ア レクサンドリア/ ディオニュシウス方式の内容をよく理解している点が注 目される웋 。ところが,ヴィクトリウスについては,算定方式の八番目に 웎 웑 あげただけで,その内容を説明することも,引用することも,さらには擁 護することもない。これは奇妙と言えば奇妙であるが,シェーゲーネの批 判がヴィクトリウスの算定方式に及ばなかったか,あるいはクミアンが意 図的に避けたか,いろいろな理由が えられよう。なお,繰り返しになる が,クミアンは,算定方式の二番目にあげたアナトリウスについて, アナ トリウスの書 の쏃1を引用して 貴殿らが推奨するアナトリウスは,私の 調べたところでは,84年周期では正しい算定をすることはできないと書い ている と警告している웋 。シェーゲーネらは,アイルランド方式の論拠 웎 웒 ( 웋 웎 웑Cummian s Letter, p. 70 徒座の決定に従わない者は,破門され教会から 追放される ) .また,算定方式の 10番目に ニカイアの原則 を取り上げ, 1 9年周期がニカイアで採択された方式と書き, ニカイア神話 をその根拠に あげている。この神話は,下記に紹介する De Ratione Computandi (쏃8 3 ) でも繰り返されている。 いずれにせよ, 7世紀初めのアイルランド南部でディ オニュシウスをはじめとする文献が利用できたことに注目したい。 -86 웋 웎 웒Cummian s Letter,pp.84 :SecundoAnat ol i um,que m uose xt ol l i t i s , qui [e di ci tadue r am pas chaer at i one m numquam pe r ue ni r e osquic yc l um] . l xxxi i i i .annor um . 6 5 北海学園大学人文論集 に アナトリウスの書 第 57号(20 14年8月) をあげたのであろう。 第三に注目されるのは,クミアンの展開する神学論議の内容である。そ の中心を占めたのは,キリスト教徒の復活祭は 受難か復活か の問題で ある。初期教会以来の問題が,6 3 0年代のアイルランドで論争の中心になっ たことがクミアンの書簡からうかがえる。クミアンは,この問題について 一年のあいだこもって聖書や古今の文献を調べて えたのであろう。難解 で混乱した議論の末にクミアンの出した結論は, 受難が 1 4日,墓所が 1 5 日,復活が 16日 と けることであった웋 。しかし,この引用文はローマ 웎 웓 の 84年周期 Supput at i oRomana の序文, ケルン・プロローグ からの 一節であり웋 ,月齢範囲はローマの伝統である 1 6 22日で,この点でヴィ 웏 월 クトリウス表のラテン人用と同じであるが,復活祭表としてはそもそもの 趣旨がまったく違うものである。他方で,クミアンがそれまで従ってきた アイルランド方式も ヨハネによる福音書 に基づいて受難を 1 4日とし, 復活祭の月齢範囲を 142 0日としているが, かならずしも 1 4日を復活祭と 固定しているわけではない。しかし,クミアンは, もし 1 4日を復活の日 にすれば,12日が受難で 1 3日が墓所になってしまい,順序が逆になる と 奇妙な論理でアイルランド方式を批判している웋 。クミアンの書簡は,古 웏 웋 今の文献を駆 しても,月齢範囲を神学的に裏付けることがいかに困難で あったかを示していると言える웋 。いずれにせよ,初期教会からの復活祭 웏 워 웋 웎 웓Ibid.,p.6 8 :Qui as i. xi i i i .l unar es ur r ect i onide put e t ur ,utuosf ac i t i s ,. xi i i . i ns e pul t ur ae t. xi i .i npas s i one,pr epos t e r oor di nef i e t. 웋 웏 월前掲 6 3参照。 웋 웏 웋Ibid.,p. 6 8 :Qui as i. xi i i i .l unar es ur r e ct i onide put e t ur ,utuosf ac i t i s ,. xi i i . i ns e pul t ur aet. xi i .i npas s i one ,pr e pos t er oor di nef i e t. 웋 웏 워アイルランドの教会関係者をもっとも悩ませたのが月齢範囲の問題だったこ とは,7世紀中葉の De Ratione Computandi にも表れている。これはクミア ンの周辺の人物によって書かれたと指定される復活祭期日算定の教科書であ るが,そこでは(特に쏃8 4)クミアン以上の文献を用いて Pas c ha をどのよ うに解釈すべきかの問題に格闘しているが,かなりの混乱を示している。 -2 年代特定や作者について ́ Cummian s Letter,pp.115 13( atpp.19 192) . O 6 6 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 論争のなかで,受難と復活の関係の神学的根拠についてこれほど論じた例 は他にない。 ヴィクトリウスの復活祭表は,コルンバヌスがガリアに旅立つ前に,つ まりクミアンの書簡のすでに 4 0年前に, アイルランド北部のバンガーでは 欠陥の多いことが知られていた。この地方に系列修道院を多く持つアイオ ナにもその情報は伝わっていたであろう。その意味で,シェーゲーネらが ヴィクトリウス表の採用に動くアイルランド南部の教会を批判したとして も,驚くべきことではない。しかし,40年前と決定的に状況が変わってい た。それは教皇の勧告を受けたことである。ホノリウスの書簡が直接アイ オナに届いたかどうか不明であるが,クミアンとの論争のなかで普遍教会 との関係をどのように結ぶかをアイオナでも当然,議論したであろう。こ の関連でクミアンが興味深いことを書いている。アイオナでクミアンの提 案に反対したのは 長老たち (s )だというのである웋 。この長老 e ni or es 웏 웍 たちは,アダムナーンの コルンバ伝 にも登場し,6 3 0年代にシェーゲー ネとともに 設聖人コルンバに関する証言を収集している웋 。おそらく 웏 웎 なお,この作品には,アレクサンドリア/ ディオ Cr o 썞 ı n 썞 ı n( 198 2) ,pp.4 2 3-28. ニュシウス方式の原則に基づいた月齢表が付記されているが,これを論拠に アイルランド南部では次に紹介する 640年の教皇書簡以後,ヴィクトリウス 表とディオニュシウス表が併用されたとみなす説もある。Wal l ace Hadr i l l ( 1 98 8 ) ,p. 22 9 ;Wal l i s ,Bede, The Reckoning ,pp. l i xl x. 웋 웏 웍Cummian s Letter,p.68:Senior es uer o nos t r i ,quosi n ue l ami ner e pul s i oni shabe t i s ,quodopt i mum i ndi ebuss ui se s s enoue r unts i mpl i c i t e re t c t i oni sul l i usetani mos i t at i sobs e r uaue r unte t f i del i t ers i nec ul pacont r adi イタリックは筆者。 貴殿 s ui spos t e r i ss i cmandaue r unt ,i uxt aapos t ol um . は,われわれの提案を拒否する口実に長老たちをあげているが,長老の時代 には 徒の教えに従ってそれが最善であると え,批判や反対もせずに単純 に墨守してきたのである 。 -1,I 웋 웏 웎Adamna 썝n, VC.,I 3,I I 4( c or am Se gi neoabbat ee tc e t e r i st e s t at use s t コルンバの奇跡に関する話が中心で, 設聖人の聖性を証明する s e ni or i bus ) . ためと思われる。その収集はシェーゲーネ以後も続き,集められた情報が記 録されて コルンバ伝 の題材の一部となった。He (1 9 8 8 1 8 20 ) r be r t , pp. 6 7 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) シェーゲーネ自身がアイオナの保守派のリーダーで, 設聖人の伝統を堅 持することによって内外の問題に対応しようとしたのであろう。この伝統 主義が最終的にはアイオナの孤立を招くことになる。そこへと至ることに なる出来事が,クミアンの書簡の直後に二つ起きている。 その一つは,6 3 4年か5年ごろノーサンブリア王オスワルド(Os wal d, 在位 6 34 4 2)がノーサンブリアの改宗事業のためにシェーゲーネに司教の 派遣を依頼したことである웋 。この要請を受けて派遣されたアイダーン 웏 웏 (́ Ae d 썝 an)に王はリンディスファーン島を与えて司教座を開かせ,そこを拠 点にノーサンブリアの改宗事業が始まった웋 。アイダーンのあとをフィー 웏 원 ナーン(F 5 16 0) ,そしてコルマーン(Col 1 64) 썞 ı n 썝 an,在任 6 ma 썝n,在任 66 が継いで,ほぼ 30年にわたってノーサンブリアでは アイルランド人司教 の時代 が続いた웋 。彼らは, 熱心に信仰を説き,司祭の地位にある者は 웏 웑 洗礼の恩寵を信徒に施しはじめた。さまざまな場所に教会が 設され,人 びとが神の御ことばを聴きに集まり歓喜した とベーダが称賛するよう に웋 ,アイオナ修道士によるノーサンブリア宣教は成功した。 웏 웒 しかし,アイオナ修道士らは,福音とともにアイルランド方式の復活祭 をノーサンブリアに伝えることになる。これが次の王オスウィによる は,シェーゲーネらによる情報収集はフォーマルな 宣誓証言 であったと 解釈する。なお,アイダーンの前にノーサンブリアに派遣されその後アイオ ナに戻された修道士は,長老会議(i nc onvents e ni or um)で報告したという。 -5( Bede ,HE ,I I I p. 22 8) . 6没)の息子で, 웋 웏 웏オスワルドはエセルフリス(Æt hel f r i t h,61 の死後,弟オ スウィ(Os )らとともにダール・リアダに亡命し,おそらくアイオナで洗 wui 礼を受けた。オスワルドもオスウィもアイルランド語を話すことができた (Bede ,HE ,I ) 。 I I 25 ,p.296 最初の修道士は 厳しすぎてノー 웋 웏 원アイダーンは派遣された二人目の修道士で, サンブリアの人びとに受け入れられず アイオナに戻ったという。Ibid., I I I 5 ( p. 2 28 ) . -2 웋 웏 웑Ibid.,I I I 6( p.3 08) . 웋 웏 웒Ibid.,I I I 3( p.2 18) . 6 8 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) ウィットビー教会会議開催につながるのである。ベーダは,アイダーンら が 疑わしい原則に従って復活祭を行ったのは , 遠く離れた地の果てに いて ,教会会議の規定に触れることはなかったため とアイオナ修道士を 弁護する웋 。ベーダにはそうしなければならない理由があった。なぜなら, 웏 웓 アイオナがノーサンブリアのキリスト教化に重要な役割を果たしたことは まぎれもない事実であり,彼らの伝統を全面的に非難すれば,ノーサンブ リアの教会がその土台に異端的あるいは 離主義的な要素を持っている意 味になりかねないからである。ベーダがウィットビー教会会議前のアイオ ナ出身者を弁護するのは,このためであろう。しかし, アイルランド人司 教の時代 の直前にクミアンとの論争があり,またその最中に次の教皇書 簡が届いているから,シェーゲーネらアイオナ関係者が復活祭算定方式に 関する規定などを知らなかったと言うことはできないのである。 アイオナの将来にかかわるもう一つの出来事は,6 4 0年にローマ教皇ヨ ハネス四世からアイルランドの教会関係者あてに書簡が届き,その名宛人 1 1人のなかにシェーゲーネが含まれていることである。この書簡もホノリ ウス書簡と同様に,ベーダの要約と引用でしか伝わっていないが,まず名 アーマー司教/ 修道院長トーメーネを筆頭にクロナー 宛人の内訳をみると, ドやバンガーの司教らであり,シェーゲーネを加えると9名がアイルラン ド北部の教会関係者である웋 。また,その文面から,6 4 1年の復活祭の期日 원 월 -4( 웋 웏 웓Ibid.,I I I p.22 4) :i nt e mpor equi dem s ummæ f e s t i vi t at i sdubi osc i r c ul os s e que nt es ,ut pot equibus longe ultr a or bem positis ne mo s ynodal i a pas i sobs e r uant i æ dec r e t apor r e xe r at.イタリックは筆者。 chal 웋 원 월Ibid.,I I 1 9( p.2 00 ) .s anc t i s s i mi sTomi ano,Col umbano, Cr omano, Di mano, e tBai t hano epi s c opi s ;Cr omano,He r ni anoque ,Lai s t r ano,Sc e l l ano,e t Sege nopr e s byt er i s ; Sar ano.11名は次のように同定される(웬以外は北部関 係者) 。 To umban,bi s hop of 썝mı 썞ne,bi s hop or abbot of Ar magh,Col Cl onar d웬,Cr 썝 on 썝 an,bi s hopofNendr um,D 썞 ı ma,bi s hopofConnor ,Bae t 썝 an, l l e, Er nene , abbotofTor yI s l and, bi s hopofBangor ;Cr 썝 on 썝 an,abbotofMovi Lai s r 썝 en,abbotofLei ghl i n웬 ,Si l l 썝 an,bi s hopofDe ve ni s h,S 썝 e g 썝 e ne ,abbotof I ona;Sar an.Cor ni ng( 20 06) ,p.89. 6 9 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) についてローマ教会の指導を仰ぐために彼らの代表が教皇に書簡を届けた ことがあり,ヨハネスの書簡はこれに対する返信であることがわかる웋 。 원 웋 ヨハネス四世の返信のなかで,まず,第一に注目すべきは,書簡の冒頭 で, 主の復活祭の日は,ニカイア 会議で承認されたように,月齢 1 5日 から 2 1日までのあいだに求められるべきである と明言している点であ る웋 。これは,ローマ教会が復活祭の算定方式をヴィクトリウス方式から 원 워 月齢範囲 1 5-2 1日のアレクサンドリア/ ディオニュシウス方式に転換した ことを示す最初の 料になる。しかも,ディオニュシウスの づいて, ニカイア神話 序文 に基 をその根拠に掲げている。これ以後, ニカイア 会議の決定 という ニカイア神話 は,もはや神話ではなくなり, 神 聖なる事実 としてその威力を発揮することになる。 ヨハネス四世の書簡の内容は,本題であるアイルランド北部の教会関係 者への返答というよりも,十四日主義への警告である。 …あなたがたの書簡を開封して,あなたがたのなかに正統信仰に反 し,昔の異端から新しい異端を復活しようと試み,…ヘブライ人と一緒 に月齢 1 4日に挙行しようと策動している者がいることを知った 웋 。 원 웍 )の在任中(640/ 5 / 2 8 6 4 0 / 8 / 2 )に届けられた 웋 원 웋教皇セウェリヌス(Seve r i nus が,直後に死亡し,次期教皇ヨハネス四世の就任(6 4 0 / 1 2 / 2 5 )までの空位期 間中に 教皇予定者ヨハネス (Joannesdi ) ac onus , e ti nDe inomi nee l e c t us の名前および2名のヨハネスという下僚の名前で出されている。 正確には 教 皇予定者 であるが,本稿では,教皇ヨハネス四世と記載する。Bede ,HE., I I 1 9( p.2 0 0) . 웋 원 워 qui aDomi ni c um Pas c hæ di e m a quinta decima luna usque ad vicesimam pr imam ,quodi nNicæna Synodo pr obat um es t ,opor t e r e ti nqui r i.イタリッ クは筆者。 웋 원 웍この書簡の後半にペラギウス主義への嫌疑が書かれているが,7世紀中葉に ブリテン諸島でペラギウス派の復興を示す事実はなく,本稿はこの問題に立 ち入らない。 7 0 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) この文面だけを読めば, 教皇庁は依然として月齢範囲に 1 4日を含むアイル ランド方式を用いているアイルランド北部の教会に対して警告しただけの 書簡になる。そうであれば,6 41年の復活祭について彼ら北部人が代表を派 遣してまで教皇庁に相談しようとした意味がなくなるであろう。この疑問 について,D・オー・クローニーンは,教皇庁がアイルランド北部からの質 問の意味を取り違えたためと説明する。つまり,当時,北部アイルランド の教会も,南部と同様にすでにヴィクトリウス復活祭表を採用しており, 6 4 1年の復活祭(4月1日,月齢 1 5)について疑問が出たために,ローマ に質問状を届けた。ところが,4月1日はアレクサンドリア/ ディオニュシ ウス方式では月齢 1 4日にあたり, すでに新方式に転換していた教皇庁が新 しい表をもとに北部アイルランドの教会人に対して十四日主義の警告を発 した。これがオー・クローニーンの説明である웋 。 원 웎 オー・クローニーンのこの推論によれば,アイルランドの教会は南部も 北部も 63 0年代末までに 8 4年周期のアイルランド方式をやめ, ヴィクトリ ウス方式に転換したことになる。しかし,同じころローマ教会がアレクサ ンドリア/ディオニュシウス方式を採用したため, アイルランドの教会には 普遍教会との一致という課題が依然として残ったのである。ただし,オー・ クローニーンの推論には,重大な問題がある。アイオナのシェーゲーネが 名宛人になっているからである。アイオナはウィットビー教会会議で論破 ヨハネス四世の書簡につ 웋 원 웎́ O Cr o 썞 ı n 썞 ı n( 1985 ) ,pp. 9698( r ep.2 00 3,pp. 227 2 9 ) . い て,オー・ク ローニーン が も う 一 つ 重 要 な 発 見 を し て い る。 Munich 19年ごろアイルランド南部で作成された算定用教科書)の写本 Computus(7 にヨハネス四世の書簡が記されているのを見つけ, 顧問ヨハネスが月齢 14 日は影に属すると言っている ( I ohanne scons i l i ar i usai t :xi i i i .di e sl unae では削除されていること adumbr asper t i net)の一文がベーダの 教会 を発見したのである。́ O Cr o 썞 ı n 썞 ı n( 1 9 82) ,p. 40 9.Munich Computus は現在, 刊行され,War 削除された文中の nt j es( 20 10) ,p.2 92, l i ens2 7-28. 影 um- br asは十四日主義の意味とされ,ベーダは教皇庁の非難がお門違いなことに 気付いて,恥の上塗りにならないように削除したと解釈することもできる。 -29;Wal -2 Har r i s on( 1 984) ,pp.2 27 l ace-Hadr i l l( 1 98 8 ) ,pp. 2 2 4 5 . 7 1 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) された後も 7 1 6年までアイルランド方式を固持したことがわかってい る웋 。その修道院長がヴィクトリウス復活祭表の採用を前提とした質問状 원 웏 に名前を並べるだろうかという疑問は残る。その後アイオナだけが脱落し てアイルランド方式に戻った可能性も含めて今後の検討が必要である。 以上の検証によって,630年代のアイルランドでは南部でも北部でも,復 活祭の算定について教会会議を開き,必要があればローマ教会に代表を 送って接触していたことが明らかになった。そうしたなかで,ヴィクトリ ウス方式だけでなくアレクサンドリア/ ディオニュシウス方式も浸透して いったと推測されるのである웋 。 원 원 4)ウィットビー教会会議 復活祭論争の最後は,イングランド北東部のエスク川が北海にそそぐ河 口の土地ウィットビーにある修道院が舞台になった웋 。6 6 4年にノーサン 원 웑 ブリア王オスウィが教会会議を招集したのである。ウィットビーの教会会 議に関する 料は,リポンの修道士スティーヴンの (c . / )とベーダの 教会 709 710 聖ウィルフリド伝 (7 31 )である웋 。復活祭論争の 원 웒 料と して注意すべきは,この二人がいずれも論争の当事者でも教会会議の同時 代人でもないことである。スティーヴンもベーダも,すでに終わって結果 웋 원 웏Bede, HE ,V-2 2( p.55 2) . 웋 원 원前掲 1 5 2参照。 웋 원 웑ウィットビー(Whi t by)は,現在はノース・ヨークシャー州に属す港町。 教 会 では 英語名で灯台の湾を意味するストレナイスハルク St r e ane s hal - ch にある修道院 とあるだけでウィットビーの地名はない。この湾を見下ろ す丘の上に7世紀半ばにオスウィによって修道院が 設され,王族の一人ヒ ルドが修道院長をつとめた。Bede, HE ,I -25( この修道院は,9世 I I p. 2 9 8 ) . 紀半ばにヴァイキングによって破壊され,1 1世紀後半に再 トビーはノース語で 白い定住地 された。ウィッ の意味とされる。この地名がついたのは ヴァイキング襲撃以後であろう。 [St ] (f )は 6 7 0年代後半からウィ 웋 원 웒St e phe nofRi pon ephanus l .c .6 7 0c .7 30 ルフリドの側近としてローマやフリジアに同行している。 7 2 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) が出ている論争を,ある意味で整理して書いており,その点で,コルンバ ヌスやクミアンの書簡のような 生の声 の聞こえる 料とは違うのであ る。実際には ベーダの声 の可能性が大きいかもしれない。ただし, 聖 ウィルフリド伝 の伝える教会会議と 教会 のそれとの間に大きな相 違はない。違いがあるとすれば,この会議にあてている紙数(皮紙である が)である。行数で言えば,ベーダはスティーヴンのほぼ5倍をこの会議 の説明に費やしている웋 。しかも,ウィットビー教会会議を論じた第三巻 원 웓 2 5章は, 教会 全五巻のほぼ中央部 を占める構成になっている。 はじめに でも説明したが,ベーダの 教会 ドの教会の 統一 のテーマはイングラン であった。その立場から見ると,ウィットビー教会会 議はノーサンブリアの教会がローマ教会の 正しい 復活祭算定方式を受 け入れイングランドの教会統一の障害が取り除かれる契機となった会議で ある。この会議を 教会 のクライマックスに位置づけるのは,ベーダ にとって当然のことだったであろう。しかし,復活祭論争の長い歴 から 見ると,ウィットビー教会会議はベーダが力説するほどドラマティックな 出来事ではない。 ウィットビーの教会会議を招集したのは,ノーサンブリア王オスウィで ある。招集の理由としてベーダは,復活祭の算定方式が王と王妃で違うた めに王家内部で混乱が生じたことをあげている。王がアイオナ修道士に よってノーサンブリアに伝えられたアイルランド方式で復活祭を祝い,ケ ント出身の王妃は実家の慣行であるローマ方式(ヴィクトリウス方式)で 웋 원 웓単純な比較をすれば,ウィットビー教会会議は 1 0章の 45行, 教会 と比較すると 聖ウィルフリド伝 では第 では第三巻 25章の 24 0行を占めている。 教会 聖ウィルフリド伝 ではウィルフリドの復活祭算定方式に関 する長くて専門的で難解なスピーチが大幅に簡略化されている。スティーヴ ンも 1 2世紀のカンタベリーのエアドメルスと同じ心境だったのかもしれな い。前掲 1 0参照。なお, 教会 第五巻 21章(HE , )は,ベー pp. 5 3 2 5 2 ダの修道院長ケオルフリスがピクト王にあてた書簡を収めているが,これも ウィットビー教会会議の神学論議の補足部 7 3 とみなすべきである。 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 復活祭を行うので,ノーサンブリア王家では,時には年に2回,復活祭が 行われることがあるという웋 。たしかに,復活祭前日までの 4 0日間は禁欲 웑 월 を伴う四旬節であるから,日付の違いは夫婦の間に混乱をもたらしたであ ろう。しかし,この夫婦は新婚ではない。すでに結婚生活は 2 0年を越えて いるが,このあいだに復活祭の日付の違いが教会会議を開かなければなら ないほど深刻だった様子は見られない。 6 64年にオスウィが教会会議を招集しなければならなかった直接の理由 は,教会の問題というより政治の問題であった。それは息子アルクフリス との間にノーサンブリアの 国デイラの統治をめぐって確執があり,その 息子がローマから帰国したウィルフリドと結託してノーサンブリアにアレ クサンドリア/ ディオニュシウス方式を導入しようと画策していた問題で ある웋 。オスウィはその生い立ちからしてもアイオナの伝統に敬意を払っ 웑 웋 ていたが,ハンバー川の南とフォース川の北に支配を及ぼそうという自身 の野心にとって,ローマ教会への忠誠を宣言すべき時期を迎えていたので あった。この一見すると大胆と思える方針転換を独断によるのではなく, また息子とウィルフリドに行わせるのでもなく,双方の主張を聞いてオス ウィが最終的に選択するという形式で進めたのである。もちろん,こうし た方針転換の背景深くには,教会支配の問題がある。復活祭問題は,ノー サンブリアの教会をアイオナ修道院長の任命する司教から自立させる好機 でもあった。こうした転換を平和裏に行おうとしたのが,ウィットビー教 -2 웋 웑 월Ibid.,I I I 5( p.29 6) . 웋 웑 웋ウィルフリド(Wi l f r i d)は,634年ごろノーサンブリアの貴顕の家に生まれ, アイルランド人司教の時代 が本格化した時期にリンディスファーンで最初 の教育を受けている。しかし,その環境になじめず,カンタベリーへ出て, さらに 6 5 3年ごろからリヨンを経てローマで学び,6 5 8年ごろに帰国してい る。 イングランドにアレクサンドリア/ ディオニュシウス方式を最初に伝えた のは,定説によればウィルフリドとされる。しかし,すでに 3 0年前にアイル ランドのクミアンに知られていたことを 討が必要である。オスウィ えれば,この定説には今後の再検 子の確執およびウィルフリドとの関係について Abe l s( 1 98 3 ) ,pp. 1216;Smyt h( 19 84 ) ,p.11 9. 7 4 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) 会会議であり,その結論は,すでに会議の前に出ていたのである웋 。 웑 워 ウィットビー教会会議の議論の骨子を紹介すると웋 ,まず,この会議に 웑 웍 参集したのは,オスウィとアルクフリスの 子のほかに, リンディスファー ン司教コルマーンとアイルランド人聖職者,またウィットビー修道院長ヒ ルドとケッドもアイルランド人側に着席したという。一方,ローマ方式の 代弁者側にはアギベルトが司祭アガゾとウィルフリド,ほかの司祭二人を 伴って着席した웋 。 웑 웎 ➡ 和 文 の 斜 体 あ り 会議の冒頭でオスウィが 一つの神に仕える者の生活規範は一つである べきであり ,天上に一つの国を求めようとする者は,典礼を行なうにあ たって相違があるべきでない と前置きし웋 , どちらがすべての信徒が従 웑 웏 うべき真の伝統であるかを調べなければならない と会議の趣旨を説明し て,コルマーンに彼らの伝統の根拠を尋ねた。コルマーンが 愛された弟子ヨハネ 神に特別に をあげると웋 ,ウィルフリ ドが次の よう に 批判 し 웑 원 (19 )がウィットビー 웋 웑 워すでに半世紀以上前に,F.M.St ent on 71, 3읚 윺e d. , p. 1 2 3 教会会議のこうした側面を指摘している。 (pp. 2 8 8 3 0 8 )によ 웋 웑 웍以下,会議については断りがない限り Bede, HE ,I I I 2 5 る。また,引用は全文ではなく抄訳である。 웋 웑 웎ケッド(Cedd,6 64年没)は,リンディスファーンでアイダーンに教育されア イルランド語を話すことができた。このためウィットビーの会議では仲介人 (i )をつとめたという。後にラスティンガム修道院 nt e r pr e s 設。弟チャド (Ce 72年没)は, アイルランド人司教の時代 adda,Chad,c .6 にイングラ ンドから多くがアイルランドに留学した例の一人で,後にマーシア司教。 アギベルトはコルンバヌス系修道院の出 Ibid.,I I I 2 7( p.3 13) ;I V-3( p. 34 5) . 身でアイルランドに留学して帰国途中にイングランドに来ていた。前掲 1 1 3参照。 웋 웑 웏Ibid.,p. 29 8:Pr i mus quer exOs wi us ,pr æmi s s apr æf at i one ,quodopor t er e t e os ,quiunaDeos er vi r ent ,unam vivendi r egulam tener e ,ne cdi s cr e par e i n ce l e br at i one s acr ament or um cœl e s t i um,quiunum omne si nc œl i s ent.イタリックは筆者。 r e gnum e xs pec t ar 웋 웑 원前掲 1 04参照。 7 5 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) た웋 。 聖ヨハネがユダヤの律法に従ったのは,まだ教会が多くの点でユダ 웑 웑 ヤの慣習に従っていた時代のことで,今日では福音が世界中にあまねく輝 いているから,その必要はない。倣うべきはペトロであり,月齢 1 4日では なく,その後にくる 1 5日-2 1日になるべきである。これがニカイア 会議 で新たに決定され確認された真の復活祭である 。 次にコルマーンがアイルランド方式の根拠としてあげたのは ウスとコルンバ であった。ウィルフリドはまず前者について アナトリ アナトリ ウスは 19年周期を定めたのであり, あなたがたアイルランド人はアナトリ ウスを間違って理解しているか,知っていても無視しているかである と, その矛盾を突いた。次に コルンバ について, あなたの教 ➡ 和 文 の 斜 体 あ り が聖人であっ たとしても,最果ての島に住む,とるに足らない数の人びとが世界中に存 在するキリストの普遍教会に優越できようか と,あの文言を繰り返して いる웋 。さらに コルンバが聖人であり,卓越した徳の人だとしても, 웑 웒 徒のなかの頭であるペトロを越えることができるか キリストから天国の鍵を預かったのはペトロである と問い詰め,最後に と, マタイによる 福音書 16:1 8を引用して発言を締めくくった。 オスウィがコルマーンに コルンバにもペトロと同じような権限が与え られたか と尋ねると,コルマーンは に王は ない と答え,これを聞いてすぐ 天国の鍵を持つ門番にすべての点で従おう。わたしが天の国の戸 口に行ったとき,戸が開かないことのないように と述べ,アイルランド 方式からローマ教会のアレクサンドリア/ ディオニュシウス方式への転換 を宣言した。 こうしてウィットビー教会会議はオスウィの描いたシナリオ通りに進 웋 웑 웑アギベルトに代わって 英語を話す ウィルフリドが採用を主張するアレク サンドリア/ ディオニュシウス方式の根拠を説明し, そのなかでコルマーンを 批判した。 웋 웑 웒Ibid.,p. 30 6 :Et s ieni m pat r e st uis anct if ue r unt ,numqui duni ve r s al i ,quæ peror bem est ,ecc l es i æ Chr i s t i ,eor um est paucitas uno de angulo extr emæ insulæ pr æfer enda ?イタリックは筆者。 7 6 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) み,平穏のうちに終わった。これが当初の予定通りの結果だったことは, ウィルフリドの発言が終わったとき, 王が微笑んで ,天の国ではペトロと コルンバのどちらが偉大かと,出席者に聞いた という, 聖ウィルフリド 伝 の記録からもうかがえる웋 。王の望みどおりの答えが出ることになる 웑 웓 からである。さらに,もう一つの 料,教皇ウィタリアヌスのオスウィあ ての書簡(c . )にもあらわれている。オスウィがウィットビー教会会議 66 6 後にその結果を教皇に報告したようで,教皇の書簡はその返信にあたる。 そのなかで教皇は,王を 算定方式の転換を サクソン人の王 と呼んで称え,復活祭の期日 徒座に対する服従の表明として歓迎し,王と王妃にさ まざまな聖遺物を気前よく送る約束をした。末尾は,オスウィがその支配 を拡大してカトリックの信仰を植え付けるように祈念するという言葉で結 ばれている웋 。おそらく,オスウィの書簡に,武力を 웒 월 ってブリテン全土 をローマ教会に従わせる覚悟が表明されていたのであろう。こうしてノー サンブリアの野心は,いまや教皇のお墨付きを得て正統信仰の擁護という 命を帯びることになったのである。オスウィにとって,これは予定通り というよりも,予想以上の結果だったであろう。 結びにかえて ブリテン諸島の教会 歴 を 料に を書くための準備作業として,復活祭論争の長い いながらたどってきた。それぞれの問題については行論の なかで紹介したので,ここでは繰り返さない。最後に,ウィットビー教会 会議の位置づけに触れて筆をおくことにする。 中世初期のブリテン諸島 は,ベーダの 教会 に基づいて描かれて 웋 웑 웓Vita Wilfr idi ,X ( p.2 2) :TuneOs wi ur e x,t ac e nt es anc t oWi l f r i t hopr e s bi t er o,subr idens i nt e r r ogavi tomnes ,di ce ns :Enunt i at emi hi ,ut r um mai or es tCol umci l l aeanPet r usapos t ol usi nr e gnoc oe l or um?イタリック(微笑 んで)は筆者。 -2 웋 웒 월Bede ,HE ,I I I 9( pp.31 9-3 2 2 ) . 7 7 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) きたと言っても過言ではない。とりわけ,教会 たとえば,復活祭論争については, 教会 はそうである。この結果, のなかで大きな比重を占める ウィットビー教会会議だけに関心が集まり,この会議をイングランドの教 会/ ローマ教会とアイルランドの教会/ケルト教会 の全面対決の場であっ たかのような印象を与えてきた。しかし,この会議で衝突したのは,アイ ルランドの教会全体ではなく,アイオナだけである。さらに,ベーダは, この会議をもっぱら神学問題という視点で書いているが,すでに紹介した ように,当初から政治的色彩の濃い会議であった。結果として,オスウィ は,所期の目的を果たし,ローマ教会との間にあらたな関係を築いてノー サンブリアの支配拡大の後ろ盾を得ることになったのである。 これに対してコルマーンが代弁するアイオナは,30年前のシェーゲーネ 時代の主張とまったく変わっていない。なかでも,アイルランド方式の究 極の根拠を コルンバの権威 に求めたことは,その後のアイオナに重大 な損失を与えることになる。なぜなら,アイルランド方式からローマ教会 の方式に転換することは, コルンバの権威 を否定することになるからで ある웋 。 コルンバの権威 웒 웋 が結果的にローマ教会に まったのである웋 。さらに, 웒 워 権威 う道を閉ざしてし 徒ヨハネの権威 の主張は, コルンバの の主張以上にローマ教会との 一致 に問題を残すことになる。言 うまでもなくローマ教会は ペトロの座 である。 ヨハネの権威 か,そ れとも ペトロの権威 웋 웒 웋スティーヴンの か,という選択の問題ではないのである。 聖ウィルフリド伝 によれば,会議の最後に,新しい復活 祭方式を受け入れるかと尋ねられてコルマーンは,アイオナの仲間たちを恐 れて 受け入れを拒否したという。Vita Wilfr idi , X( p. 2 2 ) :pr opt e rt i mor e m pat r i aes uaecont emps i.アイオナでは コルンバの伝統 に固執する保守派 が依然として主導権を握っているのであろう。 会議後コルマーンは, リンディ スファーンのアイルランド人とイングランド人の修道士を連れてアイオナに 戻ったが,その後アイルランドにわたって修道院を開いたという。Bede , HE , I V-4( pp.3 4 648) . (1988 ),p.4 4参照。 웋 웒 워この問題について Her ber t 7 8 ケルト教会 と復活祭論争 (常見) かつてコルンバヌスは,アイルランドのキリスト教信仰の究極の権威は ペトロの座に由来すると書いたが,その一方で復活祭慣行はアイルランド 方式を,つまりヨハネの伝統によることを主張した。同じころ,グレゴリ ウス一世も教会慣行の多様性を認める発言をしている。しかし,オスウィ が (おそらくベーダの声であろうが) ,ウィットビー教会会議の冒頭で前置 きとして述べたように,教義だけでなく典礼にも 一致 が求められる時 代が動き出したのである。復活祭問題については,聖書のテキストには相 互に矛盾した記述があり,神学研究だけでは合理的な説明がつかないので ある。クミアンがその神学的根拠について混乱しながらも,ヴィクトリウ ス復活祭表を受け入れたのは,これがローマ教会の方式だからである。 しかし,アイオナは,ウィットビー教会会議後にノーサンブリアからは 撤退したが,その影響力が衰えたわけではない。7世紀末にアダムナーン がほぼアイルランド全土の聖俗有力者を招集して 罪なき人びとの法 を 制定している。また,アダムナーンは2回ノーサンブリアを訪れており, イングランドとの 流が途絶したわけでもない。こうした動向のなかで, アイオナをはじめとするアイルランドの教会はローマとどのような関係を 結ぼうとしたのかを今後検討しなければならない。また,本稿では,アイ ルランドの教会と世俗権力との関係について一切触れていない。オスウィ のノーサンブリアで起きた問題は当然アイルランドにもあったはずであ る。この問題を含めて,次の機会に検討したい。 引用文献一覧 1 Pr i ntedSour ces Adomna 썝n s De Locis Sanctis , ed. ,byMe ehan,D,Dubl i n,1 9 8 3( r e p) . Adamna 썝n, VC.,Adamna 썝n s Life of Columba ,e d. ,byA.O.& M.O.Ande r s on,Oxf or d,19 9 1. 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(鴎外と漱石,王国維と魯迅について,すでに 想像力の再発見と海 西から東への伝播と変容 얨 얨 人文論集 第五六号씗二〇一四年三月>に おいても論じたので,以下,重複を避けて詳細な言及は略させてもらう) 。 二〇世紀初頭,日本の近代化の行方をめぐって様々に思索していた夏目 漱石は,作品 夢十夜 (1 90 9年)を上梓した。その 第七夜 において, 漱石は夢を記述する形で を描き,その 西へ 海 の彼方へ航海にさ迷う大きな 進むであろう に乗 に乗った自 して不安を抱いたあげく, から 海 へ飛び降りたことを記している。この 西へ (近代化)の航 海に不安と憂慮を抱いて,とうとう海に飛び込んだという夢は,日本ある いは東洋全体の近代化の行方の一側面を見事に象徴的に表象しているのだ と,解釈してもいいが,事実,そのような近・現代文明の行方,あるいは 西洋化に対しての懐疑的な見識は,グローバル化が進んでいる今日におい てみれば,一種の普遍的な認識となっているともいえる。 一方,漱石よりも, 鴎外の方はむしろ積極的に西洋ロマン主義文学の 海 を導入し, 海 を作品において,思 のスペクタクルとして描いたのであ る。つまり,漱石の 夢十夜 発表の二年後, 妄想 (1 9 1 1年)において であった。 妄想 において主人 え,自 の は 海 を眺めながら人生を の人生観・世界観についての遍歴を思索したあげく,一種の諦め の世界観に到達したようなことを語ったのである。その 海 は, 8 9 の ★ 原 稿 の 太 M は D H M に し て ま す ★ 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 心象風景として登場され,ヨーロッパのロマン主義の 狂気 のもとで展 開された海のイメージ・風景とは,地理的にかけ離れたものの,それが東 洋的な展開だというよりも,むしろロマン主義の心象風景そのものであっ た。鴎外において, 海 は思索にふける心象風景だったが,実際,当時の 文壇においても,鴎外のアンデルセンの た上田敏の 海潮音 の翻訳によって 即興詩人 海 の翻訳を通じて,ま の抒情性は若い詩人の間に広 がり,その美意識が絶賛されて受け入れられていた。 海 は一種の美的な 通念として流布されていったことは決して奇異なことではなくなってい た。したがって,鴎外の 妄想 において改めて描出されるとは,鴎外に とってすでに血肉化されたことであり,それが内面化された風景として表 象するのも自然なことになっていた。スペクタクルとしてのロマン主義の 海は,かくしてまず鴎外によって受容され,内面化され,正式に日本に上 陸したと言える。 そして,鴎外の 妄想 発表の十年後,中国の魯迅(1 8 8 11 93 6 )は,一 九二一年 故郷 という短編小説を発表し,そこで る。中国の近現代小説において,この 海 海 を描いたのであ の風景が,スペクタクルとし て,あるいは情緒・感情の表象として登場したのは,初めてである。小説 は,海辺の風景を背景に古里を語り,無垢な少年のノスタルジアを描出し たが,その微かなメランコリーさえ漂わせる静かな海と黄色い月が一見ロ マン主義の抒情的な心象風景のように読み取れる。しかし実際,それはも はや廃退した現実社会を背景とする寂しさを表象しようとする憂愁であっ て,どちらかというと,現実の悲惨な社会的背景を浮き彫りにしようとす る,濃厚なリアリズムとしての一風景だと看做されよう。というのは,そ の主人 が心象風景として わたしの朦朧として霞んだイメージのなか, 海辺に緑一面の砂浜のうえ,碧紺色の天空に一輪の黄金色の真ん丸い月が かかっていたのが浮んできた は,その 憂愁 や 海 と言いながらも,結局そこで表象されたの の心象風景ではなかった。むしろそこでコント ラストとして浮かび上がらせたのは,現実の古里の悲惨な状況から脱出で きるかどうかという,条件づきの夢,希望のことだったからである。そし 9 0 近代の衝撃と海 (アイトル) て, わたしが思うに,希望とは,もともと,有るというものでもなく,無 いというものでもない。それは地上の道のようなもので,道とは初めから あったのではない。歩く人が多くなると道が出来上がるものだ (筆者訳) と,小説がこの言葉で終わる(この最後の文言はよく引き合いに出される 魯迅の夢と希望についての有名なセリフでもある) 。言い換えれば,ここで 微かなメランコリーを漂わせ,少年の時代へのノスタルジアを仄めかしな がらも,結局,夢や 希望とは,もともと,有るというものでもなく,無 いというものでもない と,夢や 希望 それ自体の問いを逸らして, 歩 く人が多くなると道が出来上がるものだ という。いわば,現実的な 道 はイコール 希望 なのだということになる。従って,ここで元来のロマ ン主義文学の心象風景とは全く違ったものが表象され,いってみれば,こ こで没落して色あせた故郷の悲惨な現実を救済する方途がないかと憂慮す る趣向を指し示しているのであろう。つまり,小説の結末で,現実に多く の人々が歩けば,希望ができあがるのだという,きわめて統計学的,社会 学的な 希望 を語っているが,それはロマン主義のモチーフとしての 海 とは縁遠くなってしまうのであろう。 もちろん,ある意味において, 故郷 とは,海を表象しながらも,本来 のロマン主義文学における想像力を羽ばたかせて恍惚や陶酔を希求するこ と,あるいは過去の栄光や起源を憧れて永遠を求めること,そういった心 象風景は,ここで故意にはぐらかしたのだとも読み取れよう。しかし,魯 迅の全生涯の作品の諸モチーフから見ればわかるように,彼がロマン主義 のモチーフを意識するよりも,ここで悩んでいたのは,明らかに現実にお ける悲惨な故郷のことであろう。 実際,魯迅によって描かれた 海 は,漱石のように 海 の風景を懐 疑的にみていたのでもなければ,夢十夜 のように,飛び降りるような 海 でもなかった。あるいは 吾輩は猫である における 海 や, 坊ちゃん における 海 のように, おいて描かれた 笑して,風刺し,さらに こころ の冒頭に 얨西洋から導入してきた生活様式の一断片でもなかっ た。いうまでもなく,鴎外のように,海の風景を眺望しながら,自 9 1 の思 北海学園大学人文論集 索に 第 57号(20 14年8月) けて陶酔していた風景でもなかった。言って見れば,魯迅の自然風 景となる 海 とは,実際目の前に廃退した社会を浮き彫りにするための, コントラストとしての背景の役割を果たしたことであり,海それ自体とい うよりも,愁いかネガティブな意味を打ち出すため, 海 が伝統的な 借 景 という手法によって見事に応用されたことであろう。 ところで,魯迅と同じく日本に留学した中国近現代文学の先駆者の一人 である郁達夫(1 8 91 194 5)は,魯迅よりさらに一歩立ち入って, 海 作品に取り入れたのである。それも偶然に一九二一年魯迅の を 故郷 発表 の同じ年, 沈淪 웋という短篇小説においてであった。しかし実際,批判的 な風刺作家として知られていた魯迅の 故郷 (1月発表)は,当時その影 が薄く,それに対して,新進の郁達夫の 沈淪 (1 0月発表)の方が逆に大 いに世に衝撃を与えたのである。しかも,もし専らロマン主義文学の諸モ チーフの受容において言うなら,魯迅よりも郁達夫の方が中国近現代文学 において,むしろ先駆けだというべきであろう。同年七月,中国共産党が 成立されるが,十二月から魯迅の 阿Q正伝 が連載しはじめた。不思議 な巡り合わせの一年である。 郁達夫は一九一三年一〇月から日本に留学を始める。第一高等学 八高等学 ,第 ,東京帝国大学など転々と勉強し,一時帰国も含め,一九二二 年まで,あしかけ九年間日本に滞在したことになる。十代の終わりから二 〇代半ばまで,青春時代を日本で過ごしたが,日本文学に浸って欧米文学 を読み,複数の言語を通して作品を読み漁る日々を送って成長していた作 家として知られる。そして 沈淪 の刊行をきっかけに,一九二〇年代か ら三〇年代にかけて,魯迅などと肩を並べ,中国文壇の中心的な作家とし て活躍していた。その初期の作品は,とくに田山花袋(1 8 7 21 9 30)や志賀 直哉(18 8 319 71 )の影響を受けており,またオスカー・ワイルドを偏愛し ていたという워 。 とりわけ な自己暴露 沈淪 と については, 蒲団 自意識 と同様,告白小説に属し, 大胆 において共通するところがあり,いずれも 実 現されることのない恋愛や性欲の抑圧において, 씗自意識> が検出されてい 9 2 近代の衝撃と海 (アイトル) く 웍と論評されてきた。つまり,両者は,性欲の抑圧と 藤を描き,その 内面世界を暴露して自己批評をしているところに 自意識 という。なるほどそれに関して も告白と自意識を通じ 蒲団 も 沈淪 が獲得された て,それぞれ日本と中国において新時代の文学者としての地位を手に入れ たことになろう。 しかし,欧米ロマン主義文学を背景にした郁達夫の読書と受容を見据え て,また 沈淪 と,果たして 告白小説や に表出されたロマン主義文学の諸要素を視野にしてみる 沈淪 が単なる中国において主として日本自然主義文学, 自意識 を切り開いた小説だと言い切れるのであろうか。む しろその理解は,やや狭まれてしまう傾向があるかもしれない。とくに, 沈淪 が出版された,五四新文化運動後の一九二一年から二二年にかけ ては,中国で新文学が勃興し,ジャンルとしての文芸批評が の定義が変 当たる 生し,文学 され,その価値を定める座標軸が根本から刷新された時期に という時代背景を十 に 慮するならば,また 新文学が自らを 定義し,価値を発見し,存在の意味を確立していく,文学の自己同一化の 時代を象徴するテクストの一つが,この 沈淪 である 웎ことをパースペ クティヴにおいてみるならば,またさらに欧米ロマン主義文学と あるいは郁達夫とロマン主義文学との濃厚な関係性を 沈淪 , え,そして,ロマ ン主義文学を通じて現実を凝視し,そこから生成された作品としての 沈 淪 を見るならば, 沈淪 は決して日中間の文学的な影響関係だけで読み 解く作品ではないはずである。 こういった欧米ロマン主義文学と日中との影響関係の課題は,当面別の 機会に譲ることにして,とりあえず,ここで 主義文学系譜における 海 沈淪 はどのようにロマン を表象したかを検証し,西から東へ 海 が どのように伝播されていったのか,その系譜の一環に光を当てて検討して みたい。 9 3 北海学園大学人文論集 十九, 沈淪 と 第 57号(20 14年8月) 海 一九八二年一月出版された中国三聯書店の 淪 郁達夫文集 によると 沈 は,一九二一年五月九日に書き直し,一九二一年一〇月十五日中国上 海泰東図書局によって 沈淪 南遷 沈淪 というタイトルで短編小説 銀灰色的死 の計三篇が収録されて出版された웏という。 沈淪 小説全体は約二万二千字で,八節によって構成される。その文体 には中国白話文・口語体としてまだ未熟な段階の表現が多く,小説の語り が現在の中国の文体とはやや距離があり,ところどころ日本語の影響もみ られる。全体の粗筋をおってみると,次のようになる。 小説冒頭一番,主人 は二人称の 彼 から始まる。 彼 は,いつも 孤 独 で, 早熟 かつ 人と相容れないところ がある。秋のある日,学 をサボって田舎の曲がりくねる平野の道を歩きながら青空を眺め,片手に ワーズワースの詩集をもって,夢か現か,恍惚しながら英語でワーズワー スの詩 Oh,yous er e negos s amer ! Youbeaut i f ulgos s ame r ! を呟いた ところ,故知らず涙を流した。透明な青空をエーテル (中国語 以太 Et ) her といい, 陶酔 のなか, 桃源郷 を夢見たらしく,かつまた南ヨーロッ パの海岸で恋人の膝枕に昼寝していたようでもあるという。そして周囲の 大自然 ですら頷いていたようで,天空には弓矢をかけた天 が飛び回っ ていたようにも見えて, ここは君らのくるところだ 泣きながらまたワーズワースの詩 麦刈り娘の歌 と言って, 彼 は をランダムに読んだり する。その気が向くままにランダムに読むのが習慣となったせいか,ラル 8 2,アメリカで直感とロマン主義思想を唱 フ・ワルド・エマソン(1 803 18 えた思想家,詩人)の 自然論 (1 8 36)からヘンリー・デェヴィッド・ソ ロー (1 81 7-1 86 2,エマソンの思想を賛同する思想家,詩人) の 遠足 (1 8 63 ) まで,さまざまな作家と作品へと広がっていったという。そして,ワーズ ワースの 麦刈りの娘 を中国語に訳したり,訳した文を自 したりして いるところ,ある農夫の咳払いの声で目が覚める。 これが 沈淪 の第一節のストーリーであるが,設定時間は九月二十二 9 4 近代の衝撃と海 (アイトル) 日,場所は田圃が広がる平野で,主人 を読んで,幻想か陶酔に けて天 の 彼 はロマン主義文学の作品 とも対話したり,イギリス・ロマン派 詩人の詩を訳したりする。リアリズムとはまったく縁遠い出だしである。 もしこの冒頭のプロットが小説の全体を方向付けの役割を果たしていると するならば,明からにここで小説 沈淪 は,ロマン主義文学からの出立 だということになろう。少なくとも, 彼 は,ワーズワースに熱中し,そ れを重要な背景として,あるいはもっぱらワーズワースを 彼 の詩的か つ感動の源泉としているのは確かだ。しかし,小説の冒頭からワーズワー スに陶酔し,泣き,感動していたのは,どうしてなのか,郁達夫が一体ど ういう詩的なパースペクティヴにおいて物語を展開しようとしていたの か,あるいは何を意図していたのか,作家の伝記のレベルにおいてさらな る詳細な 析が必要とされよう。 そして,第二節の冒頭では,憂鬱症(メランコリー)がますます深刻に なってきたことが告白される。学 雲を眺め, 彼 は自 ラトストラ の主人 から離れた静かなところで,水・空・ がツァラトストラ(ニーチェの哲学エッセー ツァ の名前,世紀末の象徴とも言う)になったようで, そのメランコリー (憂鬱症)はちょうど,自 のヒポコンドリア (hypoc hon- に比例し深刻になってきたという。それは同級生との隔たり dr i a,心気症) や女子学生に対するコンプレックスと,周りに対しての疑心暗鬼などに よって表象されているが,その一端を日記にこうも記している。二十一歳 になった僕がいまだに日本に留学しているのは,中国が弱いからだ。僕は, 知識,名誉,金銭ではなく,慰めてくれる心と同情と,そこから生成され る異性の愛情に飢えているのだ。エデンの園でのエヴァのような霊と肉, 両方を得れば,僕は満足するのだという。しかし,ここでロマン主義文学 の核心となるメランコリーが,ヒポコンドリア(心気症)として置き換え られ,メランコリーが徐々に心気症・ヒポコンドリアとして,つまり私的 な性欲,異性への愛の欲求として変貌していくのである。 第三節において,中国の故郷のことや自 の生い立ちを振り返ってどう やって現在のN市(実際,名古屋市第八高等学 9 5 のこと)の高等学 に 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) り着いたかを語る。そして続いて第四節において一年前にどのように東京 から名古屋にセンチメンタルティックに移動してきたかを述べるが,その 汽車のなか,友人に詩を書いたり,またハイネの詩集を取り出して読んだ りする。名古屋に着いたものの,学 がまだ始まっていないので,旅館に 泊まり,夜一人ぼっちの 彼 が孤独さによって強い郷愁(ノスタルジア) を感じたという。そして半年もたたないうちに, 彼 は 大自然の寵児 となり, I dyl l i cW ander i ng いわば,田園的,牧歌的な徘徊を楽しむよ うになる。しかし,徐々に 先祖から受け継いだ苦悶 が日に日に増して きて,とうとう 蒲団の中で自慰をする 説家 の作者のニコライ・ゴーゴリ(1 8 0 91 85 2 )も自慰してい 死せる魂 ようになる。そしてロシアの小 たので,一安心したが,フランス自然派小説や中国の猥褻小説を暗記する ほど読み,週末か,月末はまた必ず犯す。 つづいて第五節において,季節はまた秋になり,ワーズワースを読んだ りするが,循環性の憂鬱症はいまだに 彼 を絡めているという。それに 赤面症もひどくなり, 仲間の中国留学生からも精神病にかかったと言われ, 彼らとも距離が生じ,その孤独がさらに 彼 を死に追い込むかのように なってきた。だが,下宿の十七歳の可愛い娘がいたのでまだしも耐えられ るという。そしてある晩,下宿の学生たちがみんな出かけた間,ジョージ・ ギッシング(1 8 57 19 0 3,娼婦に惚れたあげく,払う金がないため,窃盗事 件を起こし,大学から除名され人生を棒に振った,四十六歳で亡くなった 英国小説家)を読んでいたが,それもあたかも奈落の底へ滑り落ち始めた ことを象徴しているかのように,その晩, 彼 は偶然風呂場を通って入浴 していた当の下宿の娘の体を覗いてしまう。 彼 はその美線と太ももと豊 乳に釘づけられ, 顔面の筋肉まで痙攣して いたところ, だれかいる? と声をかけられて,急いで逃げたが,そのショッキングなことで,一晩中 眠れず,翌朝下宿の娘の顔を避けるため早く出かけ,遠くかけ離れた人影 の少ない A神宮 の山の上に引っ越すことを決める。 そして,引っ越してきた山の上の梅園の第六節の冒頭において, 彼 の 郁症 メランコリーがいっその事,英文 (hypoc hondr i a) と併記され, 9 6 近代の衝撃と海 (アイトル) その憂鬱症の変貌が示唆されるようになる。つまり中国語の 郁症 ,い わゆるメランコリーのことがここで,ヒポコンドリアの心気症として記さ れ,メランコリーの憂鬱が心気症によって取って代わったという変貌ぶり が示されるようになる。そして以降の語りは,ひたすらヒポコンドリアの 心気症に傾いていき,彼 を取り囲む環境もますます悪くなる一方である。 つまり,北京の兄貴とも仲違いとなり,山の小屋での生活が一ヶ月立つが, 僧侶のごとく一人になり,手元に読む詩人も不幸な生涯を過ごした黄仲則 (17 49 17 83,四歳から孤児になり, しく育ち,才能があったが,チャン スに恵まれず,病気で三十五歳に異郷でなくなった清朝の詩人) に変わる。 そしてある朝,早く起きて詩を朗読したり,周りの風景をミレー(18 14 1 8 7 5)の絵画に喩えたりして,また自 自然の黙示 が 原始キリスト教徒 のように を得たような気になって, みんなを赦す,和解しよう と 言いながら,いつの間にか涙を流す。そうしているところ,男女二人が隠 れて密かに密会している会話を耳にする。 彼 はその会話に魅せられ,さ らに彼らのキスする音や,徐々にエキサイティングして鳴き呻いた声を盗 み聴いてしまう。そのあげくに,犬猫ごとく狼狽えて部屋に戻り, 蒲団を 取り出して中に潜って寝た という。 第七節。 彼 は何も食べずにそのまま午後四時まで寝てしまった。起き てからそのまま山から下り,南行きの電車に乗り,終点で下車したら,そ こは港で,一面の海が広がっていた。そして渡り 大きな屋敷があって,女の どうぞ に乗り,東岸につく。 というかけ声に少し躊躇したが,結 局,入って 海辺側 の部屋をとって,酒を飲み始める。女中との会話に は,自 シナ人 という屈辱的な言葉を聞かされ,また女中は が 中国 ね,中国,どうして強くなってくれないかな엊 と言われて殆ど泣きそう に震える。何杯も飲むと,熱くなって窓を開けて眺めたが,そこに海の風 景が見えて, 霧が漂って,海と空が混じり合い,この混沌たる薄いベール の影には,西日が沈みかかって,まるでお別れを告げているようだった という。 彼 は熱い涙を拭きながら, 酔った,酔った엊 と呟く。その 後,詩を歌って 彼 は酔ったまま寝てしまう。 9 7 北海学園大学人文論集 最後の第八節で, 彼 第 57号(20 14年8月) は目が覚めて気がついたら,部屋が変わり, 蒲 団には不思議な香りが漂っていた 。トイレに行く途中,徐々に女中との間 におこったことを思い出してきたという。手元の金を は夜八時四十五 い果たした 彼 頃,かろうじて勘定を済ませて,外に出たら, 寒い夜に 満ち欠けた月が東にかかり,薄青空にはちらほらと星が散らばっていた 。 そして, 彼は,暫く海辺を歩いて,遠いところの漁師の灯を眺めたが,そ れがまるで狐火(鬼火)が招いているかのようだった。さざ波に銀色の月 が映って,恰も山鬼の目つきのようにぱちぱちしているようで,どうした のかわからないが,突然,彼は海に飛び込んで死にたいと思った 。 彼 は,自 の事を悔やんで,どうしてそんなところに行ってしまったのか, もう最低の人間になってしまったのだと後悔する。 この世に愛を求めたが, 得られない。退屈な人生だ。そして 彼 は泣きながら自 の影を眺め, 可哀想な,お前,この影よ,二十一年間も俺についてきて,今や海がお前 を葬るところだ。俺の体は人に辱められても,お前をやせ細くなるまです ることはない。俺の影よ,影。許してください みたら,灯台の光線によって といって,西へ向かって 海面には薄青い道が広がってきた。さらに 西の空を見たら,西の方には蒼蒼とした空の下に,一個の星が揺れ動いて いた。その揺れ動いている星の下は僕の故国だ。僕の生まれたところだ。 僕はその星の下で十八年の月日を過ごしてきた。僕の郷土よ,これからも はや君に二度と会うことはなかろう と。そして,涙を拭き,立ち止まっ て,さらに死を意味するようなことを次のようにいう。 祖国よ,祖国엊 君が俺をここまで追い込んだ엊 君ははやく豊かになれ,強くなれ엊 君のたくさんの子供たちがまだ苦しんでいるのよ엊 (完)。 ( 以上の引用の訳はすべて筆者による) 。 二十, 沈淪 の衝撃 以上,長々と 沈淪 のあらすじと主要なプロットを節ごとに追ってき 9 8 近代の衝撃と海 (アイトル) たが,主としてそのロマン主義文学によって重用され,あるいはモチーフ とされてきた諸要素と,スペクタクルとしての 海 がどのように表象さ れていたかを重点において見てきた。そこでとりわけ,黒字にした言葉に 注目してもらいたい。つまりそれらは,いずれもすべてロマン主義文学の 重要な美的感受性にかかわるモチーフや用語などである。そのなかでも第 一節において,イギリス・ロマン派詩人ワーズワースがトーンとして引き 合いに出され,主人 の 彼 の感動の源泉とされ,第四節にはハイネの 詩が一プロットとして挿入され,第五節までロマン派詩人の抒情的な興趣 が 彼 に添えられるようにしている。いわば,ロマン主義文学のモチー フが,小説の前半の基底を為していると言えよう。言い換えれば,主人 の 彼 には大自然に感動し,メランコリックな自 に けて,田園的な ノスタルジアに陶酔するという,まさしく充実した美しい悩みと憂鬱に浸 る性格が付与されたと言える。しかし, 彼 は第五節半ばから第七節まで, 下宿の娘の裸体を覗いたことをきっかけにおかしくなり,その次に,見知 らぬ男女密通の情事の現場を盗聴したことがさらに拍車がかけられたこと になる。そして,第七節の酒屋でとうとう娼婦と寝たことが 彼 を狂わ せてしまうのである。このように段々と堕落していくなか, 彼 の手元に 置いて読んだりする作品も, 第五節冒頭のワーズワースからジョージ・ギッ シングに移る。そして,ジョージ・ギッシングからさらに黄仲則へと変貌 するが,後者はいずれも才気があったものの女と金のために苦しんで若死 にした人になる。そして最後に, 彼 は,ロマン主義文学のスペクタクル の海を選んで,月夜の海に飛び込んで死ぬことを決意する。その死の最大 の理由を問い詰めていくと,つまり り,異国にいるから 孤独 祖国 が弱かったから異国にきてお になってしまい,そしてその孤独さに耐えら れないから,とうとう死に至ったということになる。そして, 彼 のロマ ン主義的な憂鬱も同じく,最初は人間の存在それ自体への美的なメランコ リーだったが,第六節の冒頭において,メランコリーが心気症(ヒポコン ドリア)にすり替えられ,変容し,最後にとうとうその心気症によって 彼 が死に追い込まれていくのである。 9 9 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 小説全体において,初め, 彼 はロマン主義の美的感受性に満たされて いたか,メランコリーとヒポコンドリアが比例しバランスが取れていたよ うに見えたが,小説の第三節で都会から田舎にきたことは, 彼 の孤独さ を助長し,それがノスタルジアを催し,それに相まって徐々にバランスが 崩れ,自慰が深刻になっていく。そして中盤から心気症に傾いていくが, それに相まって性的な欲望がエスカレートしていく。いわば,自慰から覗 き見へ展開し,覗き見から盗み聴きへ,盗み聴きから娼婦と寝るといった 具合に発展していくのである。 しかもその心気症に始終伴っていたのは 蒲 団 であった。つまりヒポコンドリアがひどくなるたびに 蒲団 に戻る が, 蒲団 にさえ戻れば,一応,その発作が凌げるようになる。そして 蒲 団 (当然この 蒲団 は田山花袋の 蒲団 の影響からきたものだが)は 彼 の私的,性的な行為を守護する記号となる。しかし,メランコリーが ヒポコンドリアに変質していくにつれて,追い込まれた 彼 は,最後に 蒲団 のなかでも収まれなくなり,いわばいく場所がなくなり,そのあげ くに 蒲団 から出て, 海 に飛び込もうとする。言い換えれば, 蒲団 というメタファーがいつの間にか,物語の内容を担えなくなり,つい 海 という象徴に飛躍し,海 という象徴が物語のすべてを請け負うのである。 つまり 沈淪 は最後に 海 によって止揚されているが,奇しくもそれ は文学一般においてそうであったように, 物語のクライマックスにおいて, たとえその結末が善と悪であろうと,美と醜であろうと,不合理で矛盾で あろうと, 海 という象徴さえ登場させれば,そのすべてが受け入れられ, 吸収されて まるのである。なぜなら,理論的に見ても 海 は象徴に属 し,あらゆる形態のメタファーを吸収して,解消して,その機能を停止す ることができるからだ。 沈淪 の結末に,海を登場させたのは,興味深く, その象徴的な役割については,さらに 析が必要とされよう。 一方, 沈淪 全体は,ロマン主義文学のモチーフに いながらも最後に, 祖国 の窮困のせいにして自決しようとする。それがパトリオティズムに よって動かされた死の衝動なのか,それとも伝統の 文以載道 の原理に よってそうさせざるを得なかったのか,判明しがたい。ただし,ロマン主 10 0 近代の衝撃と海 (アイトル) 義文学一般における死生観から見れば,死はしばしば イロニー か 狂 気 などのように,非現実的な目的性が伴われるが, 沈淪 にはそれが欠 けていると言えよう。というのも,オーソドックスなロマン主義文学にお いて,海に溶け込もうとする死の衝動にかき立てられたり,あるいは海で の美しい死をなしとげようとしたりするのは,しばしば形而上学的な美学 か神秘性が伴われるが, 沈淪 における死の衝動はあくまでも私的なヒポ コンドリアによって追い込まれたことになる。従って,せいぜいその背後 には, 為民請命 (民のために救済を求める)という儒教的道徳が機能し ていたのであろう。たとえその自死の衝動を一種のパトリオティズムの美 談として読んだとしても,深刻な私的ヒポコンドリア症状をもつ 為民請命 の名の元で自死を果たすなら,儒教の 士大夫 彼 が のみならず, 後の共産党の革命的人格の道徳倫理からも批判されよう。実際, 沈淪 刊 行直後,大方罵倒の声が多かった。例えば画家の徐志摩は罵倒し,哲学者 の胡適も攻撃したという원 。事実,郁達夫ものちに自伝のなか,売春宿に行っ たことを後悔して, これで,僕は僕の童貞を失った엊(中略)全く損だっ た엊 許しがたいことをやってしまった엊 僕の理想は? 僕の大志は? 僕の国家に対する情熱的な抱負は? 今どこにあるの? 現在,何が残っ ているの? と一人で悔しい涙を流していたという웑 。郁達夫はこの回顧の 時点でまるで儒教の 士大夫 か,新しい道徳家か,あるいは標準的な革 命家になったつもりだったようだが,ロマン主義文学の本来の死の意味か ら えれば, 沈淪 は結局,儒教社会においてかろうじて私生活の告白が 成し遂げられたことであろうか。しかも実際,現実において郁達夫は,こ の暴露小説のマイナス的な要素によって大学教授職につくのが困難だった という웒 。 したがって, 彼 の死についてこういった設問もできるのであろう。も しも 彼 の 祖国 が豊かになっていたならば, 彼 のヒポコンドリア が治っていたのであろうか,あるいは,もしも 彼 の 祖国 が豊かに なっていたならば, 彼 は,平気で売春宿に行って,生きる方に傾き,自 死が免れたのであろうか,と。偏狭なナショナリズムと,儒教的価値観に 10 1 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) よる私的な性の抑圧と,海への投身自殺,そして,それらをロマン主義文 学の感情システムのもとにおいて紡ぎだそうとするプロット,これらの作 為は,明らかに元来のロマン主義文学が掲げるモチーフからかけ離れたこ とであろう。 しかしながら,小説それ自体に視点をおくのではなく,一九二〇年代中 国の読者を中心に ある 士大夫 えるなら, 沈淪 とは,それまで中国儒教の正統派で の文学 にとって,願ってもない未だかつてなかった革命 的なショッキングな出来事であった。新文化運動と五四運動が象徴したよ うに,儒教はすべての悪の根源であり,若者や新しい知識人の思 が儒教によって束縛されてきた時代,まず 沈淪 と行動 のようなラディカルな 性的な暴露が必要だったのである。したがって,当時の新しい知識人たち が,もしも一人前の文人としてのアイデンティティを獲得し,自己同一化 しようとするなら,そこではまず 沈淪 の主人 の 彼 と同じように, 性 という超えがたいタブー,そういった肉体的,心理的な障害を乗り越 えなければならなかったのであろう。従ってもし,文学の自律的な価値を 別個の問題とすれば, 沈淪 こそ何よりも旧道徳を破壊する面でまさしく その急先鋒となり,その禁断を破る役目を果たした小説である。伝統的な 儒教の士大夫や文人にとってみれば, 彼 はすでに死に値する罪を犯して いるが,しかし,新しい知識人にとって,あるいは新時代の若者にとって それは代弁者になったのであろう。 とはいうものの,一方, 沈淪 によって付置されたロマン主義文学の諸 モチーフは,文学的な価値がどうであれ,それまでの文学作品(翻訳は別 として)には見られなかったものだった。たとえそれが 自意識 や 自 己表現 であろうと,あるいは 告白 や 生命の文学 青年の煩悶 で あろうと,いずれも中国にはいまだかつて存在しなかった情動システムに 属するものであり,それらは日本を経由して初めて中国文学において植え 付けられたものである。そして,その感情システムの移植のなか,自然の 再発見の一環として, 海 というスペクタクルも,まず,以上のように 沈 淪 の語りを通じて,衝撃的に中国文学に導入されたのである。ただし, 10 2 近代の衝撃と海 (アイトル) その受容された海は 沈淪 において,神秘さや情熱というよりも,むし ろ死を引受けるネガティブなスペクタクルとしての海であった。 一方, 沈淪 を出版してから十五年後,郁達夫は自伝のシリーズを刊行 する。その 海上 て 海 얨自伝の八 という文章で実際の生活において彼にとっ とは,一体どういうものだったのか,自 の諸々の体験を回顧す る。つまり,若い郁達夫は日本に留学するため乗 して中国から日本へ長 い海の旅を経験したが,中国を後にし,西から東へ移動していくなか,最 初はどのように日本の海の風景に出会い,そしてどのように日本の海辺に 感動したか,その心の動きを次のように生き生きと記す。 海上の生活が始まって,私は終日 のトップに立つ。何日も広々と した海と空の自由な空気を満喫した。夕方になると,偉大な海に沈ん でいく落日を眺め, 夜中起きてまたデッキに出て天幕の秋の星をみる。 は黄海を出て,いったん明るい青青とした透明な日本海に入ってい くと,海と空が一体となって,鴎とともに私は解放された情趣を浸り, それをしみじみと感じた。私は海が好きで,高いところに立って遠方 を眺めるのが好きだ。そして世を捨てた孤独が好きで,大自然が恋し い。私のこの人嫌いの傾向は,半 が天性によるが,半 はちょうど 青春盛りの時期に四面が海に囲まれた日本島に何年間も生活している と, きっとそこで多 忘れられない絶大的な影響を受けたに違いない。 は長崎の港についたら,西部の日本の山と水は碧い。錯綜した小 さな島の海岸で,私は初めて日本文化に触れ,日本人の生活風習をみ た。のちにフランスのロディ웓が書いたこの海港の美文を読んで,海洋 作家の彼には十二 の敬意を払いたく思った。その後,帰国時,長崎 を通るたびに,心が感動してやまず,まるで初恋の人に再会したよう で,あるいは何十年前に書いたラブレターを取り出して読んでいるよ うだった(中略) 。 半日停泊して, はまた出発したが,夕方になる,絵のような美し い瀬戸内海に入っていった。日本の芸術は淡白で趣があり,日本人は 10 3 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 勤勉で,その途中ところどころ見てきた風景及び海を囲んだ果樹園か らでも大凡わかる。 仙人の島とは,この地域を指しているかどう かともかく,もし君が中国から東へ移動して,瀬戸内海を通るなら, その両岸の山水の景色や海岸の漁師村の眺めは,たとえ君は秦朝の徐 福でなくても納得できよう。言って見れば,日本とは神仙の住処だと 幻想をみてしまうのだ。いわんや私がちょうど多情多感の中国かぞえ とし十八歳の青春期の真っ只中をや엊( 筆者訳) 웋 월 一見,これは中国の黄海から日本海,日本海から長崎の港,そして瀬戸 内海というように,東の奥へ行けば行くほど海の風景の美しさが増してい くというように見える思い出であるが,しかしそれが漸次回顧されて,活 写されたところ,決して単なる風景として感動したということではとどま らなかったのである。広々とした海の風景や,また空と鳥は郁達夫にとっ て, 自由な空気 をもたらし,精神世界の束縛から解放されたことを意味 し,海の風景はここで内面化されたとも読み取れよう。とりわけ瀬戸内海 の風景に触れ,その海辺には 仙人 が住んでいるのではないかと想 像して,しみじみと感嘆し,絶賛したところ,しかしそれが決して誰もが その海の風景にさえ触れればできることではない。というのも,その とは司馬遷の 記 に記されていたことである。秦始皇に命じられ た徐福が不老不死の長寿薬を探し求めて り着いた 三神山 の一つが で,この世にない憧れの仙境として伝えられてきた伝説からきたこと だった。それにまた明治期,北村透谷の 莱曲 によって知られる浪漫 派文学の明け方を告げた詩の夢幻的仙境のことでもある。もちろん,郁達 夫は,十八歳の時点においてまだ 莱曲 を読んでいないはずだと言っ てもいいが,しかし,十五年の時を過ごし,日本文学全般にどっぷりと浸 かった彼にしては,当時の風景に感動した心情を表示するのに,浪漫派文 学の 曲 を意識せずにはいられず,夢幻の仙境をロマン主義文学の モチーフとして,両方を合わせて憧憬の一境地として表現するのも自然な ことであろう。いずれにせよ,多感な年に至った郁達夫にとって,日本の 10 4 近代の衝撃と海 (アイトル) 海と海辺の風景は,並ならぬ出来事で,それは単なる美しい風景ではなく, 初めからロマン主義的な感性が与えられ,それによって彼の感受性がより 豊かになったことであろう。 しかも,事実,郁達夫の 海上 に描かれた日本の海への思い出はあま りにも情緒的で豊かな意味が含まれたことから,標準的な美文として扱わ れ,現に,二〇一二年中国全国大学国語試験のモデル文として,解読され ていたほどである웋 。 웋 しかし,前述でみてきたように, 沈淪 における 海 は,それとはちょ うど逆な風景となっている。いわばまったく違った意味で登場され, の仙境 のような憧れの海と海辺ではなかった。 沈淪 の海は,その主人 の 彼 の悩みを和ませ,苦悩から救済するどころか,むしろ 彼 を 引受ける墓場を意味するようになったのである。 しかし, 海 とは,まさしくこういった同一作者によって,描き出され た矛盾したところが,いみじくも象徴という元来の機能を果たしているの であろう。つまり海という象徴は善と悪,ポジティブとネガティブ,いず れ側をも受け入れ,また自由に駆 され,かつ読まれるように付置される ことができる対象である。海でさえあれば, 沈淪 のどんな結末でも受け 入れることができる。ところが,まさにこういったかたちで,海というヨー ロッパ発のランドスケープが,初めて文学の一スペクタクルとして日本を 経由して,中国に上陸したのである。 二十一,モンゴルに伝播された海 今まで見てきたように,鴎外,漱石,魯迅と郁達夫などは,いずれも研 ぎ澄まされた感受性をもちあわせており,だからこそ真っ先に 海 の心 象風景を受容し,表象できたのである。かついずれもまた,まず留学を通 じて感受し,受容を果たしたといえる。ところが,モンゴルの作家も例外 ではなかった。近現代化による社会的な不安と苦悩,民族と個人への憂慮, それによってもたらした内的な不安・憂愁と憧景などが,海とは縁のない 10 5 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 内陸にもかかわらず,宿命的に海・海辺というスペクタクルを通じて表象 しようとしたのである。鴎外よりほぼ五〇年遅れて,彷徨う内モンゴルの 一人の若者は,日本留学中,鴎外と同じように悩み,次のような散文詩 わ が哀れなこころ を綴る。 얨わが哀れなこころ 얨 とどまることなく浮き流れゆく白き薄雲の 間から, 朗らかに注ぐ陽の光があたりを穏やかに照らす。 そよそよ吹く秋の涼しき風に揺れて, さらさらと枯れ木の葉が不思議な音で囁きかける。 これは美しい自然に静かに潜んだ秘義の霊験のあらわれなのであろう か。 八十一歳の老いた祖母を置いてきた私の心を何と悲しませることか。 顧みて えれば生まれし故郷と と決別した私はどこへ向かおうとし ているのか。 今や永遠に輝きながら波動する太平洋の岸の東京に佇む。 泣いていた母を残してきたことをふと思い出すたびに, 言葉にできない胸のつかえに目が眩み帰って会いたくても, 古来の栄光と現在の危機に目覚めるにつれて, 先祖のために命かけてつとめようと催促されるのは, この身に通い流れる先祖からの熱き血潮のためなのであろうか。 (筆者訳) 。 웋 워 これは一九四〇年一〇月,詩人サイチンガ(漢字当て字は 賽春 ち別名 ナ・サインチョクト 漢字当て字は ,の 納・賽音朝克図 ) 웋 웍が留学の 地である東京で記したものである。題名の わが哀れなこころ の 哀れ とは,モンゴル語の hor ohi i という言葉の直訳だが,モンゴル語におい て,それは単なる 哀れ という意味だけにとどまらず,それは 可愛い 可憐な いじらしい 可愛らしい 10 6 可哀想な 惨めな 憐憫 慰め 近代の衝撃と海 (アイトル) るべき 同情すべき ねぎらうべき いたわるべき 思い遣るべき 可愛がるべき といったような,一言では表現できない数多くの意味を含 んだ言葉でもある웋 。サイチンガは,そういった複数の意味を担う言葉を 웎 もって,自 が自 のこころを恰も他者のもののように観察し,そして, 哀れな 気持ちで 可愛がって ,あるいは いじらし がって, いたわ ろう とし,自 のこころを客観化して表現しようとしたのであろう。確 かにこれは,草原を離れ,大都会東京への雄飛を果たし,近代の衝撃と洗 礼を受けた一遊牧民の青年の内面世界の記録ではあるが,しかしこの散文 詩ほど当時のモンゴル人と近代との関係を的確に表現したものはなかった のである。とりわけ自然への信仰,先祖の栄光と現代の苦難などが,ここ で得も言われぬロマン主義的・神秘的かつ象徴的に表象されているのであ る。そしてこの可憐で痛々しい思いを馳せる こころ の表出に触れて, 草原のモンゴル人なら,誰もが心が打たれるのであろう。しかも,当時, 日本語・中国語・ロシア語という大言語に囲まれながらも,モンゴル語の 印刷機ですらなかった状況のなか,ガリ版で書き残され,のちに印刷され たという経緯を合わせて えれば,この こころ の記録は,きわめて貴 重であることが知覚される。事実,この散文詩はそれまでのモンゴルの伝 統文学には見られなかった感受性とパースペクティヴで表象されたもの で,後にサイチンガの詩集が中国の政治的検閲下で数回にわたって出版さ れた版本のなか,この散文詩は,幸運にも一回だけひっそりとあまり目立 たない韻文の冒頭に掲載されたことがある(厳しい検閲を敢えて通り抜け た編集者の強い主張が込められていたのであろうか) 。内モンゴル近現代 웋 웏 文学のファンディング・ファザー,サイチンガの詩集の冒頭に堂々と掲載 に値する散文詩である。 ところが,イギリス文学に詳しい読者ならだれもがこの散文詩から自然 に連想することであろう。いわばロマン派詩人のウィリアム・ワーズワー ス (1 7 7 01 85 0) が唱えた,あの 自然に れ出る激しい情感 (t hes pont ane - )웋 ousover f l ow ofpower f ulf e el i ngs 원のことを。もしくはもっぱらドイツ のロマン派詩人ハインリヒ・ハイネ(1 797 -1 8 56 )の詩 問い (Fr age n) 10 7 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) を即座に連想することであろうか。実際,サイチンガは日本留学中,この 二人の作品を読んだことがあるという。ハイネの 問い は次のように歌 う。 寂しい夜の海岸に, 若者が一人立っている。 胸には愁いが充ちており,頭が懐疑で一杯だ。 若者は憂鬱な声で波に問う。 人生の を解いてくれ。 一番古いむつかしい を, エジプトの僧の頭巾を冠った頭, ターバンを巻いた頭や,黒の縁無し帽子をかぶった頭, さては鬘をつけた碩学の頭や,その他無数の人間の 哀れな汗ばんだ頭が えあぐねたあの を。 いったい,人間の意義とは何だ? 人間はどこから来て,どこへ行くのだ? あの天上の,金に光る星々には,何者が住んでいるのだ? 波は果てしない呟きをくり返し, 風が吹き,雲が飛び, 星々は光る,無関心に冷たく。 そして一人の愚者が返事を待っている。 웋 웑 これは,十九世紀初期,若いハイネが北欧の海岸に立って空・雲・星を 眺め,人間はどこからきて,どこへいくのか,人生にはどういう意味があ るのか,というように問いを発し,あるいは海や波を内面化したかのよう に問いかけている詩である。時はまさに啓蒙時代とともに産業革命とフラ 10 8 近代の衝撃と海 (アイトル) ンス革命がもたらした不安のなかであったが,十八世紀末から十九世紀半 ばヨーロッパ全体は,自然の再発見とともに, 狂気 ,省察の迷宮とその 神秘さなどにも魅了され,それらを尊び,過剰なほど感情の高揚のロマン 主義の時代でもあった。当時において,この詩は自然と運命に問いかけ, 自然との共鳴を醸し出そうとする激しい感情を表現しているが,しかし, 醒めた目で見る現代の読者にとっても,一度は自然に向かって問い詰めた くなるような情動に駆られる歌であろう。 事実, 老い衰えた晩年のあのゲー テでさえ,自 の若き時代の不安と過去の感情の激動の時代を回顧して, ロマン的なものは病気である 웋 웒と反省気味で言い残しているが,自然や 海に向かって運命を問いかけるとは,一種の 病気 でかつ 狂気 でも あり,日常的な尋常なことではなかったのである。 ところで,内陸モンゴルの草原で育った若いサイチンガにとって,ロマ ン主義文学は,何を意味していたのか。それはワーズワースの言う に れ出る激しい情感 なのか,それとも 海 自然 が詩人をしてそのように 思索に浸らせ,自己内省に陶酔させたのか。それとも 狂気 そのものの 仕業だったのか。 しかし,実際,具体的にサイチンガの わが哀れなこころ を 察して みると,ヨーロッパのロマン主義文学の諸モチーフがくっきりと浮かんで くるのがわかる。というのは,大雑把に見ても,その詩から少なくとも十 のモチーフか,詩的なイメージが読み取れる。つまり,何よりもまず,そ の詩において詩人は,一種の霊的な心象風景に浸って,自然の神秘的な囁 きに耳を澄まし,静かに啓示か,何かを聞き取っているようにみえ,ある いは何かに取り憑かれているようにも読み取れる①。そこで詩人があたか も自然とのコミュニケーションを通して自然の秘儀を受け取ったようなこ とを示唆する②。そして,郷愁によるメランコリー③と,望郷というノス タルジア④,または海という心象風景・スペクタクル⑤に相まって,気高 い血統を受け継いだ自 の天 に自覚し⑥,先祖の栄光への憧れ⑦によっ て抑えがたい熱狂とパッション⑧などが表象され,かつ問いかけられるの である。そして,詩全体から察するのは,語り手,いわば詩人が自 10 9 自身 北海学園大学人文論集 と,自 第 57号(20 14年8月) の こころ を省察し,その内的な省察⑨を通じて,詩人それ自 身が特殊な 命と天 を持ち合わせた運命のこと⑩であろうか。 ところが,これらの十のモチーフは,いみじくもいずれも典型的なロマ ン主義文学の諸モチーフである。たった数行のモンゴルの散文詩に,これ ほどロマン主義のモチーフが凝縮されて表象できたのは,モンゴル文学 において初めてのことである。 言い換えれば,自然からの啓示か秘儀を受けとった詩人は,この散文詩 で現実にうちひしがれて悲しむよりも,むしろ静寂さのなか内省に浸り, 今の現実を超越したかのように自 を省察しながら,先祖から気高い血統 を受け継いだことを自覚している。そして詩人が先祖への憧れと望郷・起 源への思いに駆られて,海を眺望するが,海という心象風景に思いを馳せ, 思索に耽っている(ハイネと同じように)のは,まさしくロマン主義文学 の核心につくモチーフであろう。そういったイマジネーションの境地に 至ったところ,詩人の心象風景の 海 がくしくもモンゴル文学の伝統と もかさなっている。そしてそれによって生まれし故郷と古来の英雄時代へ の郷愁が募らせられ,渾身のパッションが漲って血が騒ぐのは,狂気の沙 汰であろう。それはロマン的なものでありながらも,また意外にもモンゴ ル伝統的なものでもある。ところで,その心象風景・イメージは,ロマン 主義画家のフリードリーヒ・カスパーの絵 海と牧師 る웋 웓が,それもまた前記の鴎外の 妄想 の主人 の を想起すればわか が人生に思いを 馳せていたイメージとも重なる。 地理的に距離と言語的な相違性からみて, 全く違う異質なもの同士たちだが,しかし気高い心象風景において一致し てくるとは,偶然にして必然なことである。 実際,このような詩作のイマジネーションの境地に至ったことについて, ロマン派詩人は,それをインスピレーションによって到達した という。その源泉に れば,西洋古典に は自由に羽ばたく想像力の 翼 狂気 だ り着き,その境地に至ったもの を獲得したという。プラトンもそれにつ いてこう言っている。 詩人というのは軽い,羽の生えている,聖なるもの であり,そして入神状態になって正気を失い,もはやみずからのうちに理 11 0 近代の衝撃と海 (アイトル) 性をとどめていないようになるまでは,詩を作ることができないのだ 워 월 と。しかし,モンゴル文学の伝統において,とりわけ叙事詩である トゥー リ の語り部となる トゥーリチ や英雄叙事詩の ジャンガル の語り 部の ジャンガルチ ,いわば吟遊詩人の伝統において,それは オンゴ・ デ・オロシフ (入神すること,あるいは神がかり) といって,もっぱら 神々 に取り憑かれた と認識されてきたのである。つまり,伝統的なモンゴル 英雄叙事詩における真の トゥーリチ ジャンガルチ ・吟遊詩人は, シャーマンと同じように,取り憑かれなければならなかったという워 。 웋 二十二,日本とモンゴルと中国の間のサイチンガ 中国大陸において,十九世紀半ばから二十世紀半ばまで伝統の解体・列 強の侵略・内戦・革命といったように,大幅な歴 的変動期であった。そ の時期と相俟って,欧米・日本をモデルにし,その思想,思 様式ないし 感受性までも受容しようとする気運は,まず若い学生の間でそれまでに見 られなかった勢いで高まるが,それがまず留学という形で徐々に現実化さ れていった。 魯迅,郁達夫などのような中国の若者たちは,日本か,欧米への留学を 果たしてのちに国民作家として成長してきたが,彼らと同じく,時間的に やや遅れ,北アジアの遊牧文化圏においても,外国への留学が動き出した のである。モンゴル国(元モンゴル人民共和国)のD・ナツォグドルジ (19 06 ∼1 937 ) (ソ連留学) ,B・リンチン (1 9 05 ∼19 7 7) (ドイツ留学) ,TS ・ ダムディンスレン(19 08 ∼19 86) (ソ連留学)らは,いずれもウラル山脈を 超えて留学していくが,しかし,中華民国から独立を果たそうとした地域 の内モンゴルの若者は,日本に留学したのである。その第一期生には,サ イチンガがいた。 彼らは,故郷を離れ,外国留学を果たすが,いずれも民族の新しい文学 を 出し,のちに国民的作家の役割を担ったという主要な点において共通 している。しかし,サイチンガだけは,内モンゴルという特殊な地域によ 11 1 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) り,彼らとは違って似て非なるところがある。つまりサイチンガは清国時 代の内モンゴルに生まれ,中華民国時代に少年期を迎え,青年期には日本 に留学し,帰国後内モンゴル自治独立政府に奉仕するが,のちに日本敗戦 によってまたソヴエト連邦衛星国となるモンゴル共和国に留学する。そし て一九四七年,内モンゴル自治区に戻って,故郷と社会主義中国のために 尽力するが,文化大革命時に弾圧され,癌を患い,五十九歳で亡くなる。 いわば,サイチンガは生涯にわたって三つの地域と,五つの体制を生きわ たったという数奇な運命を ったことになる。 したがって,複数の政治体制を生きてきた彼は,作品もバラエティに富 み,時代によって作品同士の内容が互いに矛盾ですらある。現在中国にお いて,一九四五年以前の作品が民族 裂を企み,モンゴルの封 主義,日 本帝国主義と欧米資本主義のものを漂わせ, 批判されるべきものだとされ, 一九四五年以降の作品は,マルクス主義を信仰し,社会主義中国を謳歌し, 中華人民共和国によってもたらした内モンゴル自治区の新しい生活と,民 族の団結を賛美したものだと評価されている。その作品が前期と後期,真 二つに引き裂かれ,文字通り賛否両論に かれている。しかし実際,その 二つの時期に引き裂かれた作品群は,時代とイデオロギーによって相容れ ないにもかかわらず,現に中国内モンゴルの文学 において,唯一の近現 代文学の基礎を築いた先駆者として高く評価され,愛読されている。イデ オロギーが称揚されてきた近代において,彼はきわめてユニークな存在で ある。 事実,サイチンガは内モンゴルの近現代文学の先駆者であるだけでなく, 同時に中国の少数民族文学 ゴル民族の文学 においても先覚者とされ,また現時点でモン 上,唯一中国政府によって刊行された全集워 워をもつとい う,不動なる名誉を獲得した作家でもある。しかしそのように高く評価さ れてきた反面,前期の作品が 的に批判されてきたにもかかわらず,始終 多くの読者に愛読され,かつ後世の作家たちに大きな影響を与えてきたの である。したがって,国家のイデオロギーの指針のもと, 的に評価が高 くなればなるほど,その知名度が高くなり,それにつれて暗黙裡に前期の 11 2 近代の衝撃と海 (アイトル) 作品が首肯され,より多くの読者に読まれ,一種のねじれを含んだ,重層 的,複合的な作家となっているのである。 サイチンガ(幼名ツェンプルブ)は,モンゴルのチャハル(察哈爾)部 族に属し,一九一四年二月二三日,内モンゴル,シリンゴル(錫林郭勒) 盟グリフフ(正藍)旗のジャガスタイ・ソムの草原で,遊牧民の ナスン デルゲルと母ドンジマの次男として生まれる。十五歳になってから学 入り,のちデムチグドンルブ(徳王 1 8 9 ?∼19 68年,内モンゴル じめて内モンゴル近代独立国家の に 上,は 立を案じた旗王)の内モンゴルの独立 を目指した人材育成プログラムの選抜試験に合格して,一九三七年日本留 学に派遣される。日本で最初,東京善隣高等商業学 特設予科に入学し, 一九三八年東洋大学(専門部倫理学教育科)に入学し,一九四一年卒業す る。約五年間の留学生活のなか,日本語でモンゴルの歴 書をはじめ,ト ルストイ,プーシキン,バイロン,ハイネ,ホイトマンなどの作品を広範 にわたって読み漁り워 ,とりわけ新浪漫派文学の北原白秋(1 8 8 5 -1 9 42 )と 웍 白樺派作家武者小路実篤(18 85 1 953 )の影響を受け,その作品をも翻訳し ている워 。 웎 留学を終えて一九四一年十二月帰国するが,早速内モンゴル独立をはか るデムチグドンルブ王の秘書を担当し,自治・独立・文化振興・啓蒙教育 というように多方面にわたって精力的に活躍する。一九四五年,日本敗戦 がきっかけで,先述のようにモンゴル人民共和国に留学し,一九四七年七 月卒業してから,新たに 立された内モンゴル自治区政府に参加し,れっ きとしたマルクス主義者となる。一九四九年中華人民共和国成立以降,社 会主義を称えた詩を数多く発表し, 一九五六年中国作家協会の理事になり, また内モンゴル文芸連盟副主席,内モンゴル人民代表,全国文芸連盟委員 など,文学的,政治的重要なポストにもつく。しかしのちに,中国におい て再三にわたって繰り広げられる革命運動の災難に見舞われ, 四清運 動 워 웏に免れられず,またその後 文化大革命 においても日本のスパイや モンゴル人民共和国の工作員などの無実を被られ,とくに 新内蒙古人民 党粛清運動 워 원において民族独立派として弾圧され,田舎の工場で強制労働 11 3 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) を強いられる。この度重なる運動の弾圧と迫害が,精神的,肉体的な深い 傷となり,ついに胃癌で,一九七三年五月十三日に亡くなる。 現在,サイチンガの作品は,モンゴル語のみならず,中国語でも出版さ れ,内モンゴル自治区だけでなく,中国の少数民族の代表的な作家として も賞賛され,伝統を継承し,後世を開いた新文学の先鋒,あるいは 二十 世紀中国モンゴル民族の著名な文化人,近・現代モンゴル文学の基礎を定 めた人,偉大な詩人 워 웑だと 家のマラチンフ 式に評価される。一方,国家の認定の革命作 워 웒によって 遊牧民の詩人,詩人の遊牧民 워 웓だ とも讃えられる。実際,サイチンガの生 七〇周年 (一九八四年七月) ,政 府とは関わりなく,遊牧民たちが自発的に詩人の故郷であるジャガスタ イ・ソム(町)で記念碑を て,また同ソムのシレート・ガチャ(村)に よって 記念 웍 월と 懐念 (思い出)웍 웋という詩集と記念集が編集されて刊 行される。それは文学や思想などが社会の上部構造とされ,コントロール を徹底するイデオロギーの体制のなか,異例ともいえる現象である。とく に中華人民共和国 国五十周年を記念するため,内モンゴル自治区共産党 委員会と内モンゴル自治区政府は一大プロジェクトとして彼の全集(八 巻) 웍 워を刊行する。こうしてサイチンガは名実とも,政府と民間の両方に よって言祝がれ,複数の地域,体制とイデオロギーを超えた作家となり, 内モンゴル自治区で唯一官民ともに認められた国民的詩人である。 言って見れば,彼の作品は,唯一内モンゴルの人々の近現 における伝 統と現代,独立と合併,回帰と離散,構築と解体,自己確認と喪失,反抗 と迎合,期待と失望など一連の自己矛盾と歴 的な軌跡を凝縮したもので, その作品が文学を通じて内モンゴルを凝視した集大成である。 二十三,サイチンガ詩学のエッセンス 先述したように,サイチンガの文学的 作期は,概ね前期と後期に区 される。具体的には,日本留学の時期(一九三七年四月∼一九四一年十二 月)から内モンゴル独立運動・啓蒙教育に積極的に活動していた間(一九 11 4 ★ c 0 0 4 を 0 8 1 % に 拡 大 し て ま す ★ 近代の衝撃と海 (アイトル) 四一年十二月∼一九四五年八月)が前期と見なされ,モンゴル人民共和国 へ留学した時期(一九四五年八月∼一九四七年七月)と内モンゴル自治区 に帰り,中国共産党体制下で活躍して病に罹患して亡くなるまでの時期 (一 九四七年七月∼一九七三年五月)が後期と区 されている。 その前期の作品には,最も早く著わされた詩集は こころの友 웍 웍で,つ づいてモンゴル語において初めての日記体散文体には 沙原・我が故郷 웍 웎 がある。また東西名言集の翻訳 心の光 웍 웏と,翻訳の フロント 웍 원なども あるが,日本から内モンゴルに戻ってから,教科書 家政興隆書 웍 웑と,書 簡体散文集 我がモンゴルに栄光あれ 웍 웒と,未発表詩 徳王の賛歌 や, その他の散佚した著作(例えば,教科書 教育方法 )などをも著わしてい る。これらの詩,エッセー,著作などは文学に限らず,教育・日常生活・ 婚姻・ 康などまで,幅広く言及しているが,大まかに文学と啓蒙教育と いう二つの大きなジャンルに 類される。しかも,その一部 の作品を除 き,殆ど内モンゴルの独立・自立を唱え,それを理想として書かれた作品 だと見ることができる。 その後期の作品は一変して, 迷信に迷わされない (独幕劇)웍 , われわ 웓 れの勇壮な声 , 春の太陽が北京から昇る 웎 , 春の太陽がウジムチン草原 월 を照らす 웎 , 合作社が 웋 生した 웎 워喜びの讃歌 웎 웍などのような作品を著 わし,その題名からでも判明できるように,一転して中国社会主義への賛 美と濃厚な政治的傾向が認められる。現代内モンゴルの文学 には,社会 主義文学を切り開いた旗手웎 웎だと推称され,多くの作家・詩人は彼の作品に よって触発されて,育ってきた웎 웏という。 ところで,この二つの引き裂かれた時代とイデオロギーを生きたサイチ ンガの作品はなぜ愛読されているのであろうか。その相反する二つの作品 群の根底には,何があったのであろうか,そして,何が彼の文学の源泉で, その構造的な原型は何であろうか,矛盾し合った作品がどのように同一詩 人によって生み出されてきたのであろうか,あるいはその生成の原理はな んであろうか,といったような時代,国家,政治体制,社会制度などから 一定の距離を置きながら,多くの問いをかけることができる。 11 5 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) これらの問いかけを念頭に, いままでの研究と批評の傾向をみてみれば, 大凡その見当がつけられる。つまり,最初に草 けの研究と批評をスター トしたのは,一九八六年,ヘ・ボヤンバトのモンゴル語による編著の ナ・ サインチョクト論文集 웎 원で,つづいて内蒙古人民出版社一九八七年出版さ れた 磊とテ・メルゲンビリグ共同執筆による中国語の ナ・サインチョ クトの評伝 웎 웑が挙げられる。いずれもナ・サインチョクトの文学活動の前 期に注目し,主として緩やかにその前期の作品を批判しながらも詳しく紹 介しているが,その結果,モンゴル語と中国語の読者にとって,その全容 が初めて論評の形で 合的に知られることになる。次に,伝記を中心に歴 的な方法でアプローチした,日本語による研究業績であるが,一九九六 年∼一九九八年まで サイチンガの人と作品 (上・中・下)웎 웒三回にわたっ て掲載されたバイカル論文と,トグスバヤルの 内モンゴル最初の現代詩 人サイチンガ 웎 웓の文章である。文学作品をターゲットにしてアプローチし たというより,むしろサイチンガの生涯にわたって文学を含む社会的な活 動に光を当てたところに重点をおいたもので,日本語の読者にとって,初 めてサイチンガの日本での留学を通じて成長していたことが詳しく知られ るきっかけとなる。その次に,文献書誌と比較文学的な影響関係からアプ ローチした内田孝の一連の論文と,氏の博士論文 る文学活動と表現意識 近代内モンゴルにおけ 얨1 9 31 ∼1 94 5年を中心として (2 01 0年,大阪大 学) があるが,日本におけるサイチンガの言語文献と文学的書誌について, 網羅的に文献書誌の基礎を固めた研究となる。さらに日本語において,留 学生のチョルモン(潮洛蒙)の博士論文 モンゴル近代詩の サイチョンガの日本留学期における近代詩の 生と未来 얨 出と課題 (2 0 1 0年,日本大 学)は,モンゴル近代語と言語学,近代詩と日本文学,さらにサイチンガ の人と作品といったような諸視点から研究し,とくに日本の近代詩人・作 家を取り上げて比較するというアプローチは,新しい試みで,その前期作 品の解明において新たな地平を開いた研究となる。そして,内モンゴルに おいても,ウエンチ,ジャガルらによって編集したモンゴル語の ナ・サ インチョクト研究論文集 (上・下) 웏 월が二〇〇一年に出版され,一九五五年 11 6 近代の衝撃と海 (アイトル) から二〇〇〇年までの べ約八十一人の研究論文が収録され,内モンゴル 自治区のサイチンガ研究の まとめとなる。その質と量からみて,いずれ も前期作品に重点が置かれている。またチブルハス(斉布日哈斯)による 博士論文 ナ・サイチョクトの詩学研究 (キリル・モンゴル語,200 8年, モンゴル国立大学)と,ウ・ナチン(烏・納欽)のモンゴル語による イチンガについての新しい解釈 サ 얨人類学と民俗学の視野からの研究 웏 웋 は画期的な研究で,いずれも前期作品を中心に研究したものとなる。 このように主要な研究傾向を概観してみても判明できるが,サイチンガ の詩作のエッセンスは,前期作品にあり,その殆どの研究と批評が前期作 品に集中し,かつその詩・文学作品それ自体よりも, 人と作品 か,歴 的,伝記的,文献的,書誌的な研究が中心をなし,あるいは,影響や伝播 など,いずれも文学の周辺研究に重点がおかれていることが明らかであろ う。 二十四,伝統を継承した 狂気 詩人や作家の作品の全体を の文学 合してみると,その発生から発展,そして 完結までの過程は千差万別である。一見それぞれ違った道を りながらい ずれも完成に向かっているように見える。それは生物の成長と終結に向か う特徴・形態とは似てなくもない。生まれた瞬間の特徴・形態が成長につ れて,だんだんと変貌し,成熟に至ったところ,まったく別の形態になっ てしまうものがよくある。例えば,蛹が蝶へ,オタマジャクシが蛙へ変貌 するのは典型的な例であろう。しかし,それらとは違って,生まれた瞬間 から生命の終結まで,長い成長段階を経ても,その基本的な特徴・形態は ほとんどかわらないものがある。つまり,生まれた瞬間にはほぼ完成され ており,終結を迎えても,その基本形態はほとんど変わらない。実際,詩 人や作家の作品にも,しばしばそれと同じような現象が見られよう。すな わち,詩人や作家たちの初期作品は,単なる一個の卵か蛹であって,本人 の努力によって成長し,成熟して,徐々に一枚の美しい蝶になって,完結 11 7 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) を迎えるものがあれば,そうではなくて,つまり最初に生まれた瞬間から すでに一枚の美しい蝶として 生し,その作品の諸特徴・基本要素などが ほぼ完成しているものもある。たとえのちに努力し,成長し,発展しても, その基本特徴・要素などは変わることなく,完結・終結に向かうのである。 前者は,努力型の作家で,成長につれて,完結する作家で,徐々に自己努 力によって成長し完成して,終結に向かうが,後者は,天才・天賦型か天 型の作家で,作品が 生の時期からすでに完成され,作家が成長を経て, 努力しても,初期において完結されたものが殆ど変わることなく,そのま ま終結を迎えるのである。サイチンガは,どちらかというと,後者に属す る詩人である。というのも,サイチンガの作品は前期において,すでに完 成しており,彼の文学の原型・エッセンス,あるいは多くのモチーフは, 前期においてほぼ集約されていた。そしてその前期の諸エッセンスや要素 がのちの文学作品の重要な枠組を形作り,のちの作品がそれらよって生成 され,たとえのちの歴 的,時代的,イデオロギー的に変化によって変形 させられても,その文学的なエッセンスは,ほとんど変わらなかったとい える。 それと同じように,例えば三島由紀夫もそういった作家に属する。十三 歳に書いた諸習作は,ほぼ全生涯の作品の原型となっており,のちに書か れた数々の作品がいずれもその初期の原型によって生成され,拡張され, その 長上に展開されていったのである。そしてその予定調和ともいうべ き最期を迎えた,その自死でさえ少年時代からすでに想定したことで,成 長するにつれ,入念に計画され,つい予定した通り実施されたのである。 しかし,こういった天賦・天 型の作家とは違って,二〇一三年ノーベル 文学受賞作家,中国の莫言は,それらとはちょうど逆な成長の仕方を っ た小説家であろう。つまり,卵から幼虫へ,幼虫から蛹へ,蛹から蝶へと 変貌し,努力を重ね,自 を改造しながら,成長して完結を迎えつつある ような作家である。事実,莫言が自 の小説を書く動機とは,一日三食も 脂身たっぷりの餃子が食べられるためだ웏 워といい,最初は,ひもじさを凌ぐ ために文章を書き始めたが,少しずつ成長して,努力が報われ,ついノー 11 8 近代の衝撃と海 ( アイトル) ベル文学賞を受賞したのである。 それでは,サイチンガの前期作品は, 生の瞬間からどのように完結さ れ,どのようにその前期においてすべての自 の原型や重要な諸要素を持 ち合わせていたのであろうか。その前期作品はどのように後期作品の源 泉・原型となって,生成され,その 長上に展開されていったのか。それ らを正確に把握するには,サイチンガの全作品を入念に検証して 必要があろう。しかし,当面,全八巻の作品の 析する 析は一人の研究者にとっ て不可能で,無謀でもある。たとえもっぱらその前期だけをターゲットに して 析しても,作品が膨大な数にのぼり,短期間に済むことはできない。 ただし,前でみてきたように,今までのほとんどの批評と研究は前期に傾 いており,そのことからでもわかるように,前期だけでその中核的モチー フなどを掴むことはできなくもない。その初歩的な 類作業は別紙 伝 承 웏 웍で行ったが,その中核的なモチーフのなか,サイチンガ文学の源泉か, 原型として表象されて,最も無視できないのは,伝統的なシャーマニズム を背景とした,伝承されてきた叙事詩や英雄叙事詩であって,しかもそれ によって語り継がれ,文学 作において欠かすことのない 狂気 (madnes s ;i ns ani t y)のことであろう。その 狂気 か 取り憑かれること こ そ,彼の文学の根底に介在し,彼の作品を文学たらしめ,源泉として数々 の作品が生成されてきたと言える。 事実,文学における ➡ ま前 ち定 がの い〟 で定 は〝 あは り指 ま示 せど んお り 狂気 とは,モンゴル伝統文学において信仰に匹 敵する重要な基本前定となっていたのである。それは古代ギリシャのホメ ロスやイオンにおいて顕現された 狂気 と同様,叙事詩の語り部の 얨プラトンによって定義された トゥーリチ ,英雄叙事詩の 얨 ジャン ガル の語り部の ジャンガルチ においても表象されてきたことである。 トゥーリチやジャンガルチとは,吟遊詩人(ラプソード)と同じように, 単なる物語を語る詩人ではない。 彼らはシャーマンと同様, 聖なるメッセー ジを伝えるカリスマ的な伝達者であり,神々の物語を語り,神々の物語に 取り憑かれる能力のある特殊な詩人である。そして叙事詩や ジャンガル を語ること,あるいは聞くこととは日常生活からかけ離れ,神秘的な異界 11 9 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) を訪れるひと時のことである。叙事詩, ジャンガル を語るトゥーリチや ジャンガルチ・詩人は言うまでもないが,それを鑑賞する聴衆も,共に物 語と主人 とは神々によって運ばれ,成就されているのだと信じる。叙事 詩を語る祭事において,まず諸々の祈りの儀式をする。そして詩歌を拝聴 し始めるのだが,いったん叙事詩がクライマックスに達するとき,トゥー リチやジャンガルチは陶酔の境地に達するのみならず,しばしば感動した 聴衆までも集団的にエクスタシーに達し,一種の歓喜と恍惚の祭りを成し 遂げるという。しかしホメロスなどの古典一般の認識と違って,トゥーリ チとジャンガルチが英雄叙事詩を語るのは,単に聴衆に語って聴衆を感動 させ,陶酔をもたらすことではない。また聴衆が崇めて求めた通り,物語 がミューズの女神から聴衆に一方的に流れるものでもない。伝統的なモン ゴルの英雄叙事詩において,トゥーリチとジャンガルチが語ることとは, 聴衆に語るだけでなく,同時に神々にも聞かせ,神々をも喜ばせることで もある웏 웎という。つまり,モンゴル伝統文学は,ある意味で,語り部と聴衆 とともに,共同で行われる一種の神々とのコミュニケーションのことであ り,それが一種の聖なる信仰的な行為でもある。 ところが,古代ギリシャを起源とされ,中世で廃れた,あの叙事詩や吟 遊詩人に伝わっていた 狂気 の伝統(プラトンによって定義された)は, ルネサンス時に復興されて,とりわけロマン主義文学によって活気づけら れて生き長らえてきたが,しかし,その 狂気 ル伝統文学において崇められる英雄叙事詩の の文学が奇しくもモンゴ 狂気 と合致して通底する とは,いかばかりの驚きであろう。ましてや日本経由で受容されたロマン 主義文学がサイチンガの 狂気 を触発させ,または激発させて, わが哀 れなこころ 얨近代的苦悩を通して表象されてくるとは, 想像だにできな かったことである。 事実,サイチンガは,そういった叙事詩の からこそ,初期の 前述の散文詩 気 こころの友 の伝統を受け継いだ のような作品が成就されたのであろう。 わが哀れなこころ の沙汰を表現しようと 狂気 において,サイチンガは,自 の 狂 藤して悩み,その自然や海の神秘的な秘儀を 12 0 近代の衝撃と海 (アイトル) 表象しようとしたのである。そして,彼はその霊的な心象風景を見惚れた かのように,内省か省察に浸って,自 の哀れなこころの動きを一体どう 理解すべきか,と問いかけしたりしたのは,決して偶然なことではなかっ た。そういった 狂気 に浸って,豊富かつ多彩な心象風景を表象した作 品には,例えば 自然の歓喜 , 夏の花 , 花の姫 などがあり,いずれ も読者を狂おしくさせ, 得も言われぬ境地に導いていく力があるのである。 そして,その日記体で記されたリアルな紀行文 ら読者を引きつけてやまない(具体的な そういった 狂気 砂漠엊 わが故郷 です 析は別紙に譲る) 。 の沙汰についてサイチンガは,はばかりなく,また ああ엊 わたしのこころよ엊 という詩において,明確に言明するように なる。この詩において,前作の散文詩と同様,自 のこころとその不可思 議さと不安定を描くが, わが哀れなこころ より,さらに思弁的,省察的 な思索を繰り返し,むしろ自 の 狂気 をはっきりと知覚し,かつ自覚 するようになる。 詩 ああ엊 わたしのこころよ엊 全体は,九節によって構成され,訳 すれば以下のようになる。 寝返りを打っても抑えられない, 起きて えても止められない, 立って歩いても鎮められない, 揺れ動いてやまないわたしのこころよ엊 寝床に横にしても眠れない, 山に登っても宥められない, 飲み食いをする気もない, 憂鬱で揺れ動くわたしのこころよ엊 用事も過ちもなかったのに, 煩わしいこともなかったのに, 12 1 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 罪も罰当たりもなかったのに, 穏やかになれないわたしのこころよ엊 吹かれて靡かれる草の枝のごとく 羽ばたいて飛ぶ鳥の翼のごとく 荒波に揺れ漂う のごとく 揺れさまようわたしのこころよ엊 名誉,爵位でみたされず, 貴金,財宝で充ち足らず, 妖艶,華麗に てられず, 動き跳ねてやまないわたしのこころよ엊 権威,法 にも恐れず, 誉れ,讃えられるにも喜ばず, 利益の誘惑には動ぜず, 手に負えないわたしのこころよ엊 お前の憂愁をどうすれば慰められるか? お前の興趣を惹き付けるのが何だろうか? お前の精神の張り詰めをほぐすのが何だろう? お前の喜びはどこからもたらされるのだろうか? お前の彷徨いに光を当てるのは何だろう? お前の種族を喜ばせるのは何だろう? お前の息を寛がせるのは何だろう? お前の命を燃えさせるのは何だろう? 探し求めようとも稀にしかない人間の種族, 12 2 近代の衝撃と海 (アイトル) 攫もうとも攫みがたいお前のような躍動する心, 青春は矢の如し短く, せめてお前はとり憑かれたこころを養うのを急げ엊 (筆者訳) 웏 웏 この詩の第一連から第三連までは,一人称の わたし が語り, わたし の自 の揺れ動いてやまない こころ と,その精神的な高揚の激しさが 表現される。第四連において,さらにその こころ の動きを風に靡く 草 と,自由に飛ぶ鳥の 翼 と水に浮く をもって喩え, こころ が詩 人には思う通りにいかず,手なずけられないものとされる。とくにそのな かの 翼 という比喩は,古代ギリシャからすでに見られる伝統的な比喩 で,想像力を喩える象徴的な記号として,あるいは詩人のイマジネーショ ンが当の本人から解き放たれ,自由奔放に飛翔するものとして が,この詩においても こころ えていた やイマジネーションは,詩人にとって制 御が効かないものとして受け止められている。もちろん,モンゴル文学の 伝統には頻繁に見られる比喩だとは言えない。ただし,北アジアのシャー マンの想像した世界には 鷹 や 鳥 の飛翔をもって,異界への想像を 比喩することはみられなくもないが웏 。そして第五連と第六連において,自 원 由な飛翔を得た詩人のイマジネーションは,現実か世俗の名誉,金銭と華 麗な飾りなどには決して惑わされないことが表現され,それに権力や権威 にも屈せず,自己充足と自由が謳歌される。そして,一連から六連までは, いずれも詩人が直接 尾には わたし の心象風景を描出して,その連ごとに,末 わたしのこころよ엊 と,感嘆符をつけた慨嘆の一行をもって繰 り返す。伝統的なモンゴル語の三拍子は,この詩において六回もリズミカ ルに反復され,それがややくどく感じさせるところ,詩は,第七連と第八 連にくると,語り手は打って変わって に切り替える。こんど詩人は自 の わたし こころ 者として呼びかけて,語り手の詩人は お前 から第二人称の お前 を一人の独立した人格の他 と対話するように変化して いく。ロマン派詩人は,しばしばミューズの女神を信仰して,古代の吟遊 12 3 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 詩人になったつもり(ホメロスか,ヘシオドスのように)で,詩神を呼び かけることがあったが,サイチンガはまさしくここで,まるで自 魂・源泉 の詩の 얨 こころ を詩神のように呼びかけ,問いかけるのである。そ して,ここで表象された お前 の 憂愁 と 歓喜 , 彷徨い と 命 などは,いずれもロマン主義文学の中心的なモチーフだが,詩人の わた し は,一体どうすればいいだろうかと,問いかけを反復し,詩人はまる で お前 に対して途方に暮れて,哀願か祈願しているかのようである。 そして,最後の第九連において,詩人は,さらに自 お前 얨 こころ 自身 わたし と, をも突き放して歌う。詩人はあたかも自 が人間と いう種族を第三者から眺めているかのように語りかける。探し求めようと も稀にしかない人間の種族よ ,人生とは短いので,早く入神した こころ を養え,とでもいうかのように,ここで詩の語り手は,自 を客観化して,対象化するばかりか,さらに詩人は,自 の こころ をも対象化して, 自 からも離脱して,第三者のパースペクティヴから省察しながら,詩人 の わたし と こころ の両者に語りかけて助言をするのである。言っ て見れば, 狂気 の沙汰で語り手の詩人は詩神か,詩神を司る祭司になっ たかのようなパースペクティヴに立って,詩人と こころ に語りかけ, 人間という種族からとうとう見つけ出したサイチンガに忠告でもしている かのようである。 詩人は,この第九連において,第三者の詩神とともに ころ わたし と についてすべてを見通しており,いわば一種の省察的な思 らせて語ってきたのであろう。ところで,詩人が一体 狂気 こ をも巡 をどこまで 自覚していたのであろうか。また,サイチンガもロマン派詩人が崇拝して いた女神や神々にとり憑かれていたのか,それとも,モンゴル伝統的な英 雄叙事詩の語り手,いわばシャーマンと同様, オングド に憑かれて, 神 がかり の境地に達したのであろうか。それらについてここでは, 別が 付けられない。ただし,霊的な何かにとり憑かれたという点において,あ るいは自 自身から離脱して,人間一般の凡人ではなく,そのなかでも特 殊な人間としての詩人を司る域に達したという点において,この詩は決定 12 4 近代の衝撃と海 (アイトル) 的な証拠になるかもしれない。 そして,こういった の こころ 狂気 の詩の源泉から,あるいは詩人サイチンガ から,次から次へと詩が湧き出てとまらず,モンゴル古来の トゥーリチ か ジャンガルチ のように,その心象風景が詩として と流れ出るのである。サイチンガの前期の こころの友 々 を始め,その多 くの作品は,そういった 狂気 の源泉のもとにおいて紡ぎ出されており, その後期の作品も,そういうインスピレーションのもとにおいて生成され たのである。 ところが, 海 はロマン主義文学の諸モチーフとともに,こういった 狂 気 のもとで,日本を経由して初めてモンゴル近代文学にも受容されたの である。 二十五,結語 人間は,神話の時代からすでに海に象徴的な意味を付与していた。海は 生命のシンボルとなって,生命はそこに 生し,生成し,変容し,滅んで, 再生して,また回帰する。海から遠く離れたモンゴル草原の奥にでも海 ダ ライ (モンゴル語で海という意味) という名前の人が多くいる。そして草 原でも貝類の化石をよくみるもので,子供の頃,それらを拾って,ここは もともと海だったんだなと,遠い生命の起源に思いを馳せたことがある。 キリスト教の言い伝えでは,モーゼが障害物となる海を割ってユダヤ人 を救ったというが,仏教では,逆に海を仏法と同じように看做し,広大・ 無辺・深遠だという。ダライ・ラマとは,モンゴル語で 大海大師 とい う意味で,一五七八年,チベット仏高僧がモンゴルのアルタン・ハーン (1 5 07 15 82)によって初めてモンゴル語の称号が贈られ,以来ダライ・ラ マは現在までも継承されている。中国の始皇帝は長寿不老を求め,東シナ 海の岸まで来て,海の彼方の 三神山 に憧れ, 海神 の夢までも見たと いう。古代ギリシャ・ローマの神話や叙事詩に登場する海には豊富な起源 的意味があり,それは枚挙に遑がない。そして日本の神話に語られた海は, 12 5 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) もっと根源的な意味が込められて,海で禊祓さえすれば,つみや不浄がと りのぞかれるばかりか,さらに生成し,生命の再生・ 生をもたらし,神 までも生まれてくるのである。 しかし,古代に生まれた豊かな海の言い伝えがなぜか途切れるほど一時 期遠ざかられ,近代が訪れるまで,いわば一七五〇年,イギリスのブライ トン・ビーチで始まった病気治癒のための海が再発見されるまで,文学に も言及することは殆どなかったのである。イギリス発の近代的な海洋観と もいうべき病気治癒がきっかけで,人々の海洋に対する感受性が新たに 生されたのだ,とアラン・コルバンがいう。 事実,十八世紀半ば頃から海はようやく文学・絵画ないし音楽に表象す るようになり,それがいつの間にか内面化され,人間の心象風景のスペク タクルとして表象されるようになる。つまり,海は人間のこころとして変 貌してきたのである。 その先駆けをしたのは,ドイツのプレ・ロマン主義者ヨーハン・ゴット フリート・ヘルダー(1 7 4 4 -1 8 03 )になるか,彼は一七六九年六月五日,何 もかも後にして, はっきりとした目的地もなくフランス行きの 海での思索の旅を始めたのである。彼はその日記に を漂う に乗って, ……空と海のあいだ は,何と広範な思索の領域を提供してくれることか엊 ここでは すべてが思索に翼と躍動と広大な空間を与えてくれる 웏 웑と記し,海を眺望 しながら, 造的な天才の自 を発見したのである。さらに彼はこうも記 している。 広大な海上でマストの下に腰をおろしながら天空,太陽,星々, 月,大気,風,海,潮流,魚,海底について哲学的に 察し,これらすべ てのものの自然学をそれら自身から見つけ出すための何かと素晴らしい立 脚点だったろうか 웏 웒と,激しい霊感に襲われ,入神状態で人間の過去と現 在と未来に渉って思索を広げ,新しい 合的な思 を海に対面して獲得し たという。ヘルダーはこの狂気じみた旅のあと,その海を眺望するパース ペクティヴや心象風景としてのスペクタクルと数々のひらめいた新しい理 念をもって,一七七一年ストラスブールで若いゲーテに衝撃を与える。そ こから間もなく シュトルム・ウント・ドラング (疾風怒濤)が発生し, 12 6 近代の衝撃と海 (アイトル) のちに本格的なロマン主義文学がヨーロッパ世界を席巻するのである。シ ラーとハイネ,ワーズワースとコールリッジ,シェリーとバイロン,ユー ゴとスタール夫人など,またターナー,カスパーなど,あるいはシューマ ンとワグナーなど,文学・絵画・音楽を通して,いずれも海を表象するよ うになり,それによって,人間自 の心象風景が表象され,そして人間の 心象風景がまたそれによって一段と変貌していったのである。 以来,海と狂気,海と天才,海と想像力,海と死,海と夢,海と……, というように,近代以来,海洋にまつわる心象風景は,人間の情動・感情 システム,美的感受性まで海によって塗り替えるようになってきた。 本小稿は,そのスペクタクルとしての心象風景が西洋からどのように日 本に受容され,そしてどのように日本から中国へ,またモンゴルまで伝播 していったのかを 察してきた。主として,鴎外,漱石,魯迅,郁達夫, サイチンガというように,国民的な作家にまつわる海の心象風景をター ゲットにしてきた。しかし,それは何も国民的作家だからこそ 察したの ではない。むしろ彼らはより広く読まれ,海についての感性と感受性がよ り広く伝播されていったからである。 ところが,意外なことに,東洋全体が感性・美的感受性において,海を 内面化することには,概して消極的だと見受けられる。中国文学のみなら ず,海に囲まれた日本も鴎外を除き,ほとんど海洋に興味を示したがらな い。それに対して,内陸モンゴルのサイチンガは例外かもしれない (戦前, 海水浴を体験しながらチンギス・ハーンを偲ぶ詩もある) 。 しかしながら,近代の海にまつわる心象風景などの 察を通じて,文学 における自然風景と心象風景は一体どのような役割を果たしているのかに ついて,多くのことが明らかにされ,確認もできた。そのなか,とりわけ 人間の感性ないし美的感受性,あるいは最もわれわれのこころを揺さぶっ て魅了させる神秘,崇高,郷愁,憧憬などでさえ,むしろ習得することに よって身につけてきたものであって,決して生れつきのものではなかった ということが検証された。一個人のみならず,たとえそれが一民族であろ うと,地域であろうと,その感性,感情のシステムは習得することによっ 12 7 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) てありようが決められてきたのである。 かたや,海洋に囲まれた日本は,海に恵まれ,海の恩恵を蒙りながらも, 遅々として一九九七年やっと初めて 海洋文学大賞 が 出された。しか しそれもたった十回で,二〇〇六年に終了されたのである。読売新聞 (2 006 年6月 1 6日) 漂流する海洋日本 には,その経緯と理由を以下のように 掲載している。 海洋文学大賞 が 立されたのは,1 99 6年に初めて 海の日 を祝 日として迎えたことがきっかけだった。10回目となる今年の受賞者が 最後の受賞者となり,7月 2 5日に贈賞式がある。この賞は,小説やノ ンフィクションを一般 た 特別賞 募する 海洋文学賞 部門,作家を対象とし 部門から成る。中核である海洋文学賞をこれまで受賞し たのは, 員や海上保安官,CM ディレクター,舞台照明らだった。 募2部門の応募数は減少傾向にあり,今年は 4 05点と過去最低に落ち 込んだ。しかも,その題材も や海洋ではなく海辺の暮らしを絡めた 作品が少なくなかった。これでは海洋文学ではなく, 海浜文学賞 に なってしまう 選 委員の一人は嘆く。授賞式に名を連ねる白石氏は (小説 海狼伝 の直木賞作家)は 海のサムライたち にこう書いて いる。 日本は四面を海に囲まれた島国でありながら,日本国民の海へ の関心はきわめて薄い。これは環境に適応するはずの人間としてはお かしなことと言えよう 海への無関心は,ひとつの文学賞にピリオド を打つ要因にもなった。 一方,現代のオーペンウォータースウィングという運動は,一八一〇年 五月三日,ロマン派詩人ジョージ・ゴードン・バイロンがダーダネルス海 峡をヨーロッパからアジアに初めて泳いで渡ったことがゆかりだという。 現在は,それがオリンピック競技のなか,人気の項目にまで発展している が,海洋に注がれたバイロンの狂気と詩的なパッションはいまやわれわれ 日常生活,娯楽, 康までの営みに織り込まれていることを思うと,海に 12 8 近代の衝撃と海 (アイトル) まつわる人間の感情と,文学において表象された情動システムの中の海へ の究明は,これから勤しむ課題であろうと思ってやまない。 웋郁達夫著 郁達夫小説全集 中国文聯出版社,一九九六年(一∼三五頁) 。 워大東和重著 郁達夫と大正大学 얨 自己表現 から 自己実現 時代へ 얨 東京大学出版会,二〇一二年(七六∼一一八頁,一四五∼一七四頁) 。 。 웍同書(八九頁) 。 웎同書(二四頁) 웏郁達夫著 郁達夫文集 (第一巻,小説)三聯書店香港 店,一九八二年。 원郭沫若著 郁達夫論 王自立,陳子善編 郁達夫研究資料(上) 얨中国現代 作家作品研究資料叢書 웑郁達夫著 雪夜 天津人民出版社,一九八二年(九三頁) 。 얨日本国情的記述 얨自伝的一章 ,王自立,陳子善編 郁 達夫研究資料(上) 얨中国現代作家作品研究資料叢書 天津人民出版社,一 九八二年(六一頁) 。 웒郭沫若著 郁達夫論 王自立,陳子善編 郁達夫研究資料(上) 얨中国現代 作家作品研究資料叢書 웓ここでの ロディ 天津人民出版社,一九八二年(九六頁) 。 とは,恐らくフランスの マルク・マリー・ド・ロ(Mar c -1 Mar i edeRot z,1840 914) のことを指しているのではないかと推測され る。 웋 월郁達夫著 海上 얨自伝之八 王自立,陳子善編 郁達夫研究資料(上) 얨 中国現代作家作品研究資料叢書 天津人民出版社,一九八二年(五四∼五五 頁) 。 //we 웋 웋ht t p: nku. bai du. c om /vi ew / 2012 。 웋 워サイチンガ(賽春 ) 心の友 ,内モンゴル自治政府の主席官邸出版社,一 九四一年。 (当て字:賽春 웋 웍 サイチンガ ),本人の自己宣言に基づき,通常日本留学の 時期からモンゴル国を経由して中国内モンゴルに戻るまでの間 (1 9 3 7 ∼1 9 4 7 ) は,サイチンガ(賽春 )と称し,その後はナ・サインチョクト(当て字: 那・賽音朝克図)と称している。事実,サイチンガが一九四七年にモンゴル 人民共和国から内モンゴルに戻る際,内モンゴル全体は,まだ中国共産党と 国民党両者の勢力争いの最中にあったので,ソビエト共産圏のモンゴル人民 共和国から来たサイチンガ等の十数名の知識人は,身の安全を案じて,全員 12 9 北海学園大学人文論集 名前の変 第 57号(20 14年8月) を余儀なくされていた事情もあったという。実際, サイチンガ とは,満州語による名前で, 元気で快活 ト という意味だが, サインチョク とは,そのモンゴル語訳である。時代の変化によって,一個人が,その 場によって致し方なく名前を改めてきたが,しかし,一作家,文人としての 彼の名前の変 には,新・旧時代の境界を画すという意味合いが付与され, それもまた当時の内モンゴル青年たちがいかにマルキシズムを情熱的に信仰 し,またいかに中国という新しい共和国に期待をしていたか,その時代を生 きたモンゴル人の表象であり,歴 的な解釈の格好の材料にもなる。 웋 웎テレングト・アイトル著 モンゴル人の世界観あるいは自然観について 的状況への解科学的な一アプローチ 얨心 얨 砂漠研究 (1 11 ) 砂漠学会,二〇 〇一年(三五∼四四頁)。 웋 웏内蒙古当代文学叢書編集委員会 納・賽音朝克図詩選 内蒙古人民出版社, 一九八五年。 웋 원Wi l l i am Wor ds wor t h Pr ef acet oLyr i calBal l ads Pr eface and Pr ologues Har var d Classic .Vol .3 9Ne w Yor k:P.F.Col l i e r& SonCompany,1 9 0 9 14( 6) . 웋 웑ハインリヒ・ハイネ著,片山敏彦訳 ハイネ詩集 新潮文庫,一九五一年(一 二四∼一二六頁) 。 웋 웒リュディガー・ザフランスキー著,津山拓也訳 的な事件 ロマン主義 얨あるドイツ 法政大学出版局,二〇一〇年(四頁) 7 7 4 ∼1 8 4 0 ) 웋 웓フリードリヒ・ダービィト・カスパー(Cas parDavi dFr i e dr i c h,1 ドイツロマン主義代表的な画家。 月と海 や 牧師と海 ,いずれもその自 然風景には神秘的かつ宗教的な瞑想めいた眺望が込められ,写実的よりも形 而上学的,崇高な感情を醸し出すような趣きがある。圧倒的な広大な自然と 人間の内面の神秘性を表象しようとしたもので,サチンガの心象風景を絵画 のパースペクティヴから浮き彫りにするには,もってこいのランドスケープ になるのであろう。 33d5 34c), プラトン全集6 角川書 워 월プラトン著,内藤亨代訳 イオン(5 店,一九七四年(一一三∼一一五頁) 。 タヤ)著 叙事詩を誰に聴かせるか 워 웋塔 (D. ンガル の語りを中心に 얨モンゴルの英雄叙事詩 ジャ 얨 荻原真子編著 ユーラシア諸民族の叙事詩研究 ⑶ 千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト (二〇〇八年三月)。 워 워 ナ・サインチョクト全集 ,内蒙古人民出版社,一九九九年。 워 웍ト・サインバヤル(特・賽音巴雅爾)編, 中国蒙古族現代文学 13 0 ,内蒙古 近代の衝撃と海 (アイトル) 教育出版社,一九八九年(二一頁)。 워 웎内田孝 新モンゴル 誌第2号とモンゴル人留学生による文芸活動 東北 アジア研究 (第 1 4 ・15合併号),島根県立大学北東アジア地域研究センター, 二〇〇八年(2 2 5243頁)。 워 웏 四清運動 とは, 帳簿の整理 という四つの整理整 倉庫の整理 財務の整理 業の整理 を行う略称であるが,一九六三年五月から一九六五年 五月まで,毛沢東によって仕掛け,全国的に繰り広げた反修正主義運動であ る。その目的は,国家主席劉少奇の権力基盤を制限するためだという。 :内モ 워 원 新内蒙古人民党粛清運動(一九六八年二月∼一九六九年五月二二日) ンゴル自治区では,文化大革命を徹底的に実行するため,江清,康生が一九 六八年二月四日,内蒙古文化大革命の責任者,軍人である し,かつて一九二五年十月に 党に合併された過去の ない地下独立組織 海清に指示を下 立され,すでに一九四六年四月三日中国共産 内蒙古人民党 の党員を手がかりにして,ありもし 新内蒙古人民党 の党員を革命陣営から粛清するという 名目でモンゴル族を中心に,今まで内モンゴル自治区の党,政府,軍,文化, 教育界などに勤めてきたあらゆる有能なモンゴル族の人々をターゲットにし て,約一年半にわたって自治区で全面的に行われた粛清する運動である。十 年間の文化大革命を除き,単にこの運動による被害者数は, 的に 表され た 中華人民共和国最高人民検察院特別検察庁起訴(一九八〇年十一月二日) によると, 内蒙古人民党粛清運動によって無実を被られた幹部,民間人三十 四万六千人,死者一万六千二百二二人 である。しかし実際,死者だけでも 四万∼五万に上ると言われている。 워 웑 ナ・サインチョクト全集 編集委員会, ナ・サインチョクトの生涯 , ナ・ サインチョクト全集第一巻 ,内モンゴル人民出版社, 一九九九年八月 (一頁) 。 워 웒マラチンフ ,遼寧省阜新蒙古族自治区出身,中国人民解放軍の兵 隊生活の経験を経て,作家となり,主に中国語で 作する。現在中国モンゴ ル民族文学の代表的な作家の一人。中国少数民族文学委員会副主任。代表作 草原の人たち (一九三〇年∼)。 워 웓マラチンフ 著 序 (一九八〇年六月) 納・賽音朝克図詩選 内蒙古人文出版社,二〇〇九年(五頁) 。 웍 월ゴ・ラシジャブ(高・拉希札布)編 記念 内モンゴル自治区シリンゴル盟 ショロングフ旗ジャガスタイ・ソム,シレート・ガチャ出版,一九七〇年(印 刷・出版・発行など社会の上部構造に属され,すべて国家管理のもとで行な われるなか,村を上げて出版したのは異例なことでもある) 。 13 1 北海学園大学人文論集 웍 웋ゴ・ラシジャブ(高・拉希札布)編 第 57号(20 14年8月) 懐念 (思い出)内モンゴル自治区シリ ンゴル盟ショロングフ旗ジャガスタイ・ソム,シレート・ガチャ出版,一九 七〇年。 웍 워アオーラ,バ・ゲレルトほか編 ナ・サインチョクト全集 内モンゴル人民 出版社,一九九九年八月。 웍 웍サイチンガ(賽春 )著, 心の友 ,内モンゴル自治政府の主席官邸出版社, 一九四一年。現在スェ・サンブフチュン(色・桑布呼群)編, サイチンガ(賽 春 ),内モンゴル人民出版,一九八七年六月(三∼七二頁)に収録されて いる。 웍 웎サイチンガ(賽春 現出版は同右 )著, 沙原・我が故郷 ,主席官邸出版社,一九四一年。 サイチンガ(賽春 )(一二九∼三四四頁)に収録されてい る。 웍 웏サイチンガ(賽春 右 )著, 心の光 ,主席官邸出版社,一九四二年。現在同 サイチンガ(賽春 ),(四五七∼六三五頁)に収録されている。 웍 원サイチンガ訳, フロント ,日本東方出版社,一九四二年。 웍 웑サイチンガ著 家政興隆書 ,主席官邸出版社,一九四二年。現在前掲書 サ イチンガ(賽春 )(六四二∼七五〇頁)に収録されている。 웍 웒サイチンガ著 我がモンゴルに栄光あれ ,主席官邸出版社,一九四四年。現 在前掲書 サイチンガ(賽春 웍 웓サイチンガ著 )(三五一∼四四六頁)に収録される。 迷信に迷わされない (独幕劇)内蒙古日報社,一九五〇年。 웎 월サイチンガ著 春の太陽が北京から昇る (中篇小説)内モンゴル人民出版社, 一九五七年。 웎 웋サイチンガ著 春の太陽はウジムチン草原を照らす (中国語訳)中国作家出 版社,一九五八年。 웎 워サイチンガ著 合作社が 生した 웎 웍サイチンガ著 喜びの歌 内モンゴル人民出版社,一九六〇年。 웎 웎前掲書 ★ c 0 0 6 中国蒙古族当代文学 웎 웏ア・オドツル著(阿・ 内モンゴル人民出版社,一九五九年。 (三五頁) 。 徳斯尓) 心からの感謝 ,セ・サンボ,フチョン編 サイチンガ (モンゴル著名作シリーズ)内蒙古人民出版社,一九八七年五 月(二頁) 。 웎 원へ・ボヤンバト(賀・宝音巴図)編 ナ・サインチョクト論文集 内蒙古人 民出版社,一九八六年。 웎 웑 磊,テ・メルゲンビリグ(特・莫尓根畢力格)著 内蒙古人民出版社,一九八九年。 13 2 納・賽音朝克図評伝 割 し て ま す ★ 近代の衝撃と海 (アイトル) 웎 웒バイガル著 サイチンガの人と作品 (上) 東洋大学大学院紀要 一九九六 年 (一五二∼一三四頁)。 サイチンガの人と作品 (中) , 東洋大学大学院紀 要 一九九七年(二八八∼二七三頁) 。 サイチンガの人と作品 (下) 東洋 大学大学院紀要 一九九八年(二〇八∼一七九頁) 。 웎 웓トグスバヤル(特古斯巴雅尓)著 内モンゴル最初の現代詩人サイチョンガ 日本とモンゴル (第九二号)日本モンゴル協会(六十∼六八頁) 。 웏 월ウエンチ(烏恩斉),ジャガル(札戈尓)ら編著 納・賽音朝克 研究論文集 (上・下)内蒙古人民出版社,二〇〇一年。 웏 웋ウ・ナチン(烏・納欽)著 家新 釈与研究詞典 納・賽音朝克 研究:人類学民俗学視野中的作 民俗出版社,二〇一一年(モンゴル語) 。 웏 워莫言著 (飢餓と孤独は私の 作源泉) 엊 (ht //dat t p: a. book. hexun. com/ )。 c hapt e r 1 80 1 332 . s ht ml 웏 웍テレングト・アイトル著 伝承 多重複合的文学鏡像 얨重新発見納・賽音朝克図 内蒙古草原文化保護発展基金会,二〇一四年七月(中国語) 。 (叙事詩)の語りの 웏 웎斯琴(スチン)著, 西モンゴルの社会生活における t uul i 本質的な意味を探る るフィールド調査から 얨モンゴル国アルタイ山脈のモンゴル系諸集団におけ 얨(Es s ent i al sofTuul iNar r at i oni nt heSoc i e t yof We s t e r nMongol s 얨f r om Re s ear chi nt heAl t aiMount ai nsofMongol i a 얨) 千葉大学人文社会科学研究 (第二十号) 千葉大学人文社会科学研究科, 二〇一一年三月(一二〇頁)。また,D.タヤ 叙事詩を誰に聴かせるか ンゴルの英雄叙事詩 ジャンガル の語りを中心に ラシア諸民族の叙事詩研究⑶ 얨モ 얨 荻原真子編著 ユー 千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロ ジェクト(二〇〇八年三月) 。 ,バ・ゲレルト(博・格日楽図)ほか編 웏 웏アオーラ(烏拉) ナ・サインチョク ト全集 内蒙古人民出版社,一九九九年(二三二∼二三五頁) 。なお,この全 集において,感嘆符の 엊 徳布ほか編 と疑問符の 納・賽音朝克図遺詩 ? が欠落しているので,道・策 内蒙古人民出版社,一九九九年(二三五 ∼二三六頁,四一七∼四一八頁)を参照して補足した。 웏 원荻原真子著 勇者たちの世界−ユーラシアの英雄叙事詩から 荻原真子編著 ユーラシア諸民族の叙事詩研究⑶ 千葉大学大学院人文社会科学研究科研究 プロジェクト(二〇〇八年三月)。 웏 웑ヨーハン・ゴットフリート・ヘルダー著,島田洋一郎訳 九州大学出版会,二〇〇一年七月(七頁) 。 13 3 ヘルダー旅日記 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 。 웏 웒同上書(九頁) 13 4 タイトル1行➡3行どり タイトル2行➡4行どり 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 人文学の新しい可能性 パネリスト 司会 名定道氏 (京都大学大学院文学研究科教授) 佐藤弘夫氏 (東北大学大学院文学研究科教授) テレングト・アイトル氏 (本学人文学部教授) 安酸敏眞氏 (本学人文学部教授) 日時 会場 2013年5月 18日(土曜日)午後2時−5時 7号館D 30教室 主催 共催 北海学園大学人文学部 北海学園大学大学院文学研究科, 北海学園大学人文学会 現代日本における人文学の課題 얨キリスト教研究の視点から 京都大学 1 얨 名 定 道 はじめに 日本の大学を取り巻く状況,日本の現実は,大きく動きつつある。この 変化を引き起こしている要因について えるとき,二つの時間スケールを 区別することができるように思われる。一つは,日本の近代化というやや 13 5 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 長い時間スケールであり,もう一つは最近の数十年をカバーするより短い 時間スケールである。前者は,近代の科学技術や市場原理の導入・進展に よる国家形成のプロセスとして,明治の富国強兵から現代までを貫いて流 れている。また後者は,リーマン・ショックそして東日本大震災などによ る激動する状況である。これら二つの時間スケールにおいて進展する変化 は,日本の教育を規定する基本的要因であり,双方の要因が合わさるとこ ろに,教育の市場化,国際化,そして実学志向が強力な路線として登場す ることになる。 実際,現在の日本の大学は,こうした変化とそれに対応する路線を先取 りするかのように急激な変革を行おうとしている。たとえば,わたくしが 所属する京都大学の場合,この数年の間に次々と新しい改革案が提示され ている。教養教育・一般教育の半 を英語にする (英語の教員 1 0 0名雇用), 博士課程教育リーディングプログラムの実施,学部を基礎単位とした従来 の人事制度と教員組織の改変,事務組織の大規模な集約化など,大学のあ らゆるレベル・部門で大きな変化が起きつつある。よくもわるくも,1 0年 後に,日本の大学は大きく変貌しているのではないか。少なくとも,京都 大学の事態はそれを現実のものとして予感させるに十 しかし,このいわゆる 変革 である。 は,だれのために何を目指しているのだ ろうか。現在の一連の改革が推進されるに先だつ時期に,京都大学では, 京都大学連続 開シンポジウム 倫理への問いと大学の 命 (2 00 7年から 2 0 0 9年までに4回)が開催され,その報告書が出版された웖 。その編者の 웋 웗 一人,教育哲学・教育人間学を専門とする矢野智司が,この報告書の序論 倫理への問いと大学の 命 で,次のような議論を行っている。京都大学 をはじめ日本の大学は,学生運動の激動のあと,この 3 0年余りの間,さま ざまな大学改革を行ってきた。その結果何がもたらされたのか。それは, 共同体としての大学の衰弱 である。本来,大学は専門家を育成する 専 門家の教育 の場にとどまらない役割を担っている 얨 共同体の成員とし ての責任ある市民を育成する ,共同体の枠組みを超え生命世界に生きる 얨 。しかし,改革の中心的ターゲットとされた 教養教育 とは, 市民 13 6 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム の教育 と 人間の教育 記録 という異なる2つの次元の教育につながってい る (矢野,2 0 10 ,i )ものであったにもかかわらず,改革によって,この i つながりは大きく損なわれることになった。というのも,この間の 改革 には,理想主義やヒューマニズムに代わる教養教育の理念がなかった(同 書,i )からである。その結果, 大学は資金というレベルにとどまらず, i i 組織運営から教員管理に至るまで市場経済に組み込まれつつある (同書, i v)。現在進行中の大学改革は,ここで批判的に論じられた過去の改革を, その検証もなしに,さらに促進するものとなってはいないだろうか。そこ では, 市場 換に還元できない 研究 と 教育 , 真理への献身 (同 所)は二次的なもの,改革を妨げるものとされ, 次の世代に無償に 教え る という贈与のリレーが継承されていく (同書,v)という教育の理念 は今や解体されようとしている。市場原理に一面的に規定された等価 換 としての教育改革は,教育を崩壊させるものとして作用することになるだ ろう웖 。 워 웗 この日本の状況下で,人文学はいかなる役割を担っているのか,人文学 はいかなる課題に直面しているのか。哲学,歴 ,文学の諸学科から構成 される伝統的な人文学は,教養市民社会から大衆社会への変動の中で これは先の長い時間スケールの中にある 얨 얨,自らの内からいかなる新し い在り方(=新人文主義)を構築すべきであろうか。これが,本日のシン ポジウムで,わたくしが論じたいテーマである。もちろん,わたくしがこ こで論じる得る事柄はきわめて限定された範囲のものに過ぎないが,新人 文主義に求められているのが,伝統・伝承の保存と現代への批判的視点 (危 機を批判的に 析すること)の提供という二つの課題であり,しかもこれ ら二つの課題は相互に連関し合っていることについて,わたくしの専門で あるキリスト教研究を 2 えつつ えてみたい。 伝統の変容と再 すでに指摘したように,日本社会は大きな変動の中にある。東日本大震 13 7 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 災などによって短い時間スケールで急激に顕在化し加速化しつつある現実 は,より長い時間スケールの中で準備されてきたものであり,この事態を 宗教という観点から見る場合,特に顕著なこととして,死をめぐる儀礼シ ステムが十 に機能できない状況が指摘できる。大量の死,戦場と化した 安置所,葬儀も火葬も間に合わないためにともかくも土葬という最悪の状 況下で,東日本大震災がもたらしたのは,多くの人々が,家族や身近な人 の死を受け止めることができないという現実だったのある웖 。 웍 웗 宗教的伝統は,死者儀礼,すなわち身近な人の死を了解する上で中心的 な役割を果たしてきた儀式・技法を伝承してきたわけであるが,この技法 は近代化の中でしだいにその意味が了解困難になり本来の機能を喪失する 傾向に陥った。現代社会は死を病院内に隔離し日常から遠ざけてきたが, 同時にそれは死と向き合い,それに対処する知恵をも失わせたのではな かったか。近代化のプロセスが引き起こした伝統の変容は, コミュニティー の崩壊や知的世界の解体をも伴いつつ,進展してきたのであって,この実 態は,東日本大震災によって改めて浮き彫りにされたように思われる。 これは,日本に限ったことではなく,東アジア全体に見られる共通の動 向である。長い歴 の中で形成され存続してきた死者儀礼の変容は,それ を支えてきた宗教文化・家族形態の変貌を意味している。韓国は儒教的な 死者儀礼が宗教文化の基盤を形作り,土葬を基調とした社会であったが, この 3 0年の間に土葬から火葬への急激な変化が生じている웖 。この変化が 웎 웗 何を帰結することになるかを現時点で見通すことはできないものの,死の 了解が困難なところでは生の了解もおそらく困難になるのではないだろう か。そして日本では,東日本大震災以前から無縁社会として問題化してい た事態が,さらに深刻なものとなりつつあるのである。以上の状況につい ては,死あるいは死後について伝統的な宗教文化が伝承してきた言葉 天国 あるいは 地獄 など 얨 얨が,そしてこの言葉が表現してきた死の 問いと生の問いとが,いまだその形式を残しつつも,実質においては空転 しつつある,とまとめることができるだろう。 もちろん,近代化が引き起こした伝統の変容は,日本や東アジアにはじ 13 8 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 まったことではない。近代化の震源地である西欧社会はこの変容をいち早 く体験していたのである。この近代以降のキリスト教的な宗教文化に生じ た変容について,宗教哲学者またキリスト教神学者であるジョン・ヒック (19 22 20 1 2年)は,次のように指摘している웖 。 웏 웗 基本的にキリスト教は,天国,または地獄経由の天国における未来の復活 の生命を断言する。そして時には地獄の辺土,また現代では地獄に代わる 絶滅が,これに加わる (ヒック,2 0 11 ,2 1 9) , しかし近代世界では,そ してもっとも保守的なキリスト教徒を除けば,永遠の地獄は神話のなかに 消え失せている。天国も同様に消え去っている。もはや天 たちが神の玉 座の前で讃美歌を歌うことはない。(同書,2 2 0 ) 近代は,伝統を掘り崩しつつここまで突き進んできた。形骸化したとは 言え,伝統が文化内部で保持されているかぎりにおいて,問題は顕在化せ ずに済んでいた。しかし,事態の進展が一線を越えるとき,一挙に問題は 顕在化せざるを得ない。大抵の現代人は個人のレベルでは死の意味も生の 意味も十 に支えきれないにもかからず,これまで人々の生死の了解の支 えであった伝統的な儀礼・技法は崩壊し,新しい技法はいまだ出現してい ない。この事態に直面して,人文学はいかなる役割を果たし得るか。人文 学のなし得ることは,生と死をめぐる伝統的知恵を保存し,現代社会の批 判を通して,現代人の意味世界 意味を実感できる世界 얨生と死を含め自らの存在を了解しその 얨の再構築の助けとなる知恵を指し示すことなの である。 人文学の内部からこのような問題意識はすでに形を取り始めている。た とえば,東日本大震災に少し先だって,1 0年ほど前から,東京大学の 2 1世 紀 COEにおいて死生学が取り上げられたことなどから始まった,死生学 (t hanat ol ogy)の新しいうねりが,大きな広がりを見せている から学際的な研究へ 얨歴 学 얨 。また,死と生の現実に対して,宗教文化の基盤 웖 원 웗 に立って正面から向き合おうとする動きは,東日本大震災との関わりにお 13 9 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) いて,たとえば,東北大学の文学研究科実践宗教学寄附講座における 床宗教師 3 臨 の育成の試みとなって現れている웖 。 웑 웗 人文学の役割 次に,以上見た現代世界の変貌とそれに応じた人文学の変化について, わたくしの専門領域に引き寄せて えることによって,変化する世界のな かにおける人文学の役割について,さらに議論を進めることにしよう。 京都大学の キリスト教学 は,伝統的な人文学の学問の枠組みの中で, キリスト教を専門的に研究教育する講座として発足し, 現在に至っている。 しかし,キリスト教学とは,神学と哲学を有する伝統的な西欧の大学・学 問システムとはややずれた性格を有しており 얨境界領域・中間 野とい う言うべきものであり,武藤一雄の言い方を借りれば, 神学と宗教哲学と の間 の学科と表現できる 얨,発足当初より,その学問的位置づけをめ ぐっては多くの議論がなされてきた웖 。 웒 웗 特にこの 1 0年間の京都大学キリスト教学の動向で顕著なことの一つは, 東アジアを中心とした地域からの留学生の増加 얨大学院の半 近くが留 学生であり,その点では文科省的には優等生的と言えるだろうか 얨であ り,それに応じて,キリスト教学の教育と研究において,日本・東アジア の比重が従来よりも増大しつつある。実は,これは京都大学また京都大学 文学研究科自体が採用しつつある方向性にほかならない。日本・アジアの キリスト教へと研究対象領域を拡張する試みは,キリスト教学における新 人文主義と言えるかもしれない。わたくし自身,日本キリスト教思想につ いて講義を行い,論文を執筆する機会が大幅に増えている。この観点から, 人文学の役割を えるための材料を取り上げたい。 日本におけるプロテスタント宣教からすでに 1 5 0年が経過し,太平洋戦 争の敗戦後から数えてもほぼ 7 0年が過ぎた웖 。この時間的プロセスの中 웓 웗 で,昭和初期から太平洋戦争期の困難な時代の資料が散逸し忘却されつつ ある。現在は,あの時代の日本キリスト教に関わる歴 14 0 的事実や歴 的証 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 言を保存する上で,ぎりぎりの時点にある。同じことは,東日本大震災に おける津波と原発事故の記憶に関しても起きる可能がある웖 。これに,ヒ 웋 월 웗 ロシマ・ナガサキ,沖縄,そして従軍慰安婦を加えることができるだろう。 人類の貴重で忘れてはならない経験を,歴 として保存し伝承するには多 大な努力が必要であり,この生きられた歴 の保持には,過去への批判的 視点が要求される 惨である 얨過去は決して美しいだけではなくしばしば愚かで悲 얨 。そして,それは現代への批判とならざるを得ない。過去を解 体し忘却しようとする現代とは何か。震災という天災を原発事故というさ らに悲惨な人災としたものは何であったのか。こうした問いを突き詰めて えるには,現代の日本社会を規定する科学技術あるいは現代の大学改革 を推進する市場原理を一度突き放し対象化する必要がある これは容易なことではない 얨もちろん, 얨。ともかくも,記憶の忘却に抗しつつ記憶を 保持し共有する試みは,まさに人文学にこそ課せられた課題であって,日 本のキリスト教研究には,近代日本におけるキリスト教の記憶を保存しつ つ,明治以来の日本の近代化をキリスト教の視点から東アジアの文脈にお いて描くことが求められている。この点で,キリスト教研究は人文学的課 題の一端を担うものなのである。 近代化が伝統的な宗教文化を変容させたことは,先に述べた通りである が,近代化は決して否定的にのみ捉えられるべきものではない。近代化が 人類に与えた恩恵は,医療と教育という 野に限ってみても否定できない であろう。中世の西欧世界に大学という制度が出現する以前に,修道院が, 知の拠点として存在し,知識の収集と保存に貢献したことはよく知られた ところであるが,近代化は,修道院から大学へと引き継がれたこの知の集 積保存という役割を,特権的な人々の手から大衆とでも言うべき無数の 人々に向けて解放した。この 長線上にあって,現代の I T 技術は大学また 人文学がこの役割を新しい形において遂行する可能性を開きつつある。た とえば,大学でも,I T 技術を用いて,知のグローバルなネットワークとロー カルなネットワークとの両者の結節点として機能することが可能となって おり,これは開かれた大学(大学図書館)の構想と呼ぶことができるかも 14 1 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) しれない。こうした仕方においてこそ,大学は,世界の中の大学 (国際化) と地域の中の大学(地域化)という二つの社会的要請に応えることができ るのではないだろうか。 さらに注目すべきは,出版・流通の簡易化・容易化による知の共有と 造性の促進であり,ここにも I T 技術が関わっている。従来,大学あるいは 研究者は,知(研究成果など)の発信を行う際に,紙の書籍を出版社を通 して刊行し,紙の雑誌に論文を投稿してきた。しかし,この形態は人文学 においても大きく変化しつつある。わたくしの所属する京都大学キリスト 教学研究室では 2 012年度から研究室紀要を刊行しているが,それは電子 ジャーナルという形を取っている。その利点は,小さな研究室の予算でも, またそれほどの大きな労力をかけることなく,雑誌が刊行できることにあ る。これは,わたくしの学生時代には えられなかったことであるが,こ のようにして,大学の知的発信力は飛躍的な向上が可能になった リポジトリを持つ大学はすでに一定の数に上っている 学術 。ここで問われ ているのは,大学は現代の新たな知的環境の中でなおも真に知のセンター たり得るかということなのである。 以上の点から,キリスト教との関係で興味深い試みとしてあげられるの は,活 動 を 開 始 し て か ら す で に 数 年 に な る,オ ン ラ イ ン 神 学 図 書 館 。これは,世界教会協議会(WCC)とグローバ Gl obe The oLi b である웖 웋 웋 웗 ルネットワーク(Gl ) 얨スイスのジュネーヴに拠点を置く obet hi cs . net 얨とが,さまざまな専門家,組織,個人による倫理的視点や洞察の共有を 促進することを目指して開設したものであるが,キリスト教的知の新しい 形を示唆するものと言える。こうした動向の背後にあるのは,科学技術者 を含めた知の専門家における自らの営みの社会的責任の自覚とでも呼ぶべ きものである。たとえば,東日本大震災以降,地震防災の専門家において は,きわめて稀なリスクに対しても人々に知らせる必要があるとの意識が 高まってきている。この責任性の自覚に呼応して,人文学には,記憶・保 存から 析へ,そして 析に基づく文化と社会への知の発信 を含む 얨へとその営みを大きく展開するという課題が課せられているの 14 2 얨社会批判 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 である。 以上の人文学に課せられた課題に取り組む際に,人文学の中でも哲学は 独自の役割を担っている。科学技術者における自らの社会的責任の自覚に ついては,先に指摘したことであるが,イタリアの哲学者ジャンニ・ヴァッ ティモによれば웖 ,この点については科学技術自体に哲学的要素が内在し 웋 워 웗 ていることに注目しなければならない。たとえば,この哲学的要素として 挙げられるのは,社会的責任とも緊密に結びついた民主主義との関わりで ある。 西洋ではテクノロジーの発達はデモクラシーの発達と ついていた。ところが日本人が電子工学技術を自 クラシーは自 かちがたく結び のものにしながらデモ のものにしなかったとしよう。そのときには本来の意味で の哲学的な問題が提起されるのである。(ヴァッティモ,2 01 1 ,1 24 ) このような観点で捉えられた科学技術は,狭義のいわゆる理系的な営み ではなく,いわば,知をめぐる民主主義や社会的責任,そして人権といっ た諸要素をも包括した統一的な文明・文化の問題に属しているのである。 この統一的な文明における科学技術の意味を批判的に論じるのが,まさに 哲学の役割である。哲学は,批判的知の伝統の中心をなしてきた点で,人 文学の中でも特異な位置を占めていると言わねばならない。そして人文学 全体に対しても,科学技術に内在する哲学的要素を主題化し自覚可能な仕 方で取り出しそれを保持するのに寄与するように求められている。なぜな ら,こうした科学技術の批判的理解は,特定の学科としての哲学の課題と いうよりも,人文学全体が共有する哲学的要素によって果たされるべきも のだからである。 4 おわりに 現代日本の状況は大きく変化しつつある。明治以来の貴重な遺産である 14 3 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 人権思想や民主主義がいわば自明性を失いその基盤が解体しつつある現 在,人文学はいかなる方向性を模索してゆくべきなのか。もっぱら教養市 民に向けて定位していた近代西欧の古典的な人文主義からの転換も必要で はないか。大学の大衆化は웖 ,その問題点を批判的に捉えつつも,その積 웋 웍 웗 極的な意味について正当に評価すべきであろう。 しかし,新しい人文主義・新人文主義への期待,人文学が担うべき役割 は,消費社会の等価 換を超えた大きさと意味を有している。この点で, 大学は営利を追求する企業とは別の原理に立っているのであり,人文学の 動向はこの大学の教育・研究の固有性をめぐる焦点の一つとなり得るもの なのである。現在の日本の大学と人文学的教育の現状を見れば,多くの課 題や難問が山積しているが,こうした時代にこそ,まさに新しい人文学に は大胆に発言することが求められているのではないだろうか웖 。 웋 웎 웗 注 ⑴ このシンポジウムは4回にわたり開催されたが, 4回のそれぞれの内容が, 次の報告書に, 第1部 専門家としての倫理 , 第2部 教育と実践 , 第3部 研究の自由と倫理 , 第4部 成 生命倫理とケアの 教養教育と倫理の形 として収録されている。位田隆一・片井修・水谷雅彦・矢野智司編 理への問いと大学の ⑵ 内田樹 下流志向 命 倫 京都大学出版会,2 0 1 0年。 얨学ばない子どもたち/ 働かない若者たち (講談社, 2 0 0 9年)において展開された議論は,この教育と等価 換の関係に関わって いる。内田は,現代日本における教育の現状を,今の日本の子どもたちは全 世界的な水準から見てもっとも勉強しない集団である ( 勉強を嫌悪する日本 の子ども )と捉えた上で,この原因として,子どもたちが 経済合理性 と いう判断基準に基づいて 教育 を 等価 換のサービス と捉え始めてい る点を指摘している。現代日本の教育改革が,教育とは教師が学生に与える サービス(苦労することなしに得られる即効的な効果・結果)であることを いわば前提にして進められるとき,それは教育自体の自己解体を帰結するこ とになる。 ⑶ 東日本大震災後の被災地の状況とその中で奮闘した宗教者の姿について は,たとえば,次の文献を参照。北村敏泰 苦縁 14 4 얨東日本大震災/ 寄り添う 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 宗教者たち 徳間書店,2 0 13年。しかし,この大震災がもたらした現実は, この数年に収まらないより長い時間スケールの中にある。北村は次のように 指摘している。 震災前にも各地で NHK の放送番組で年間3万人とされた 孤立死 があ り,自死,子供の虐待死が相次ぎ, 困や残虐な犯罪の現場で,終末期医療, 生殖医療といった生命倫理が問われる現場で,いのち の揺らぎが見られた。 そして,それらに自らの存在の意義をかけて取り組んだ宗教者たちがおり, 彼らはこの震災でも当然のように行動を起こした。野宿者支援に携わってい た牧師は 震災で社会全体が ホームレス 状態になった と被災者に伴走 した (北村,2 01 3,7)。 ⑷ 韓国における死者儀礼の変容については,次の拙論を参照。 国キリスト教の死者儀礼 ( 東アジアの死者の行方と葬儀 名定道 韓 勉誠出版,2 0 09 年,96 -10 4頁)。 ⑸ 本稿におけるジョン・ヒックからの引用は, 人はいかに神と出会うか 얨 宗教多元主義から脳科学への応答 (法蔵館,201 1年)から行われる。この文 献において,ヒックは, 天国と地獄はなぜ,ここでもまたもっとも保守的な 者を除けば,キリスト教徒の想像力に基づいた支持を失くしてしまっている のだろうか (ヒック,2011 ,221) という問題を提起し,その上で, 死後は どうなるのか を正面から論じている。このヒックの指摘は近代化が伝統宗 教にもたらした影響という観点から論じることが可能であるが,キリスト教 に関しては,キリスト教が本来現世中心的である点 生命 얨そのキリスト教的理解と歴 얨をさらに 慮した 얨大林浩 死と永遠の 的背景 (ヨルダン社,1 9 9 4年) を参照 析が必要だろう。 ⑹ この東京大学の 2 1世紀 COEは,その後グローバル COEプログラム 死生 学の展開と組織化 (ht // ) に引き継がれ t p: www. l . ut okyo. ac . j p/ s hi s e i gaku/ た。こうして提起された死生学という問題意識は, 日本臨床死生学会 (ht / /www. t p: j s c t . or g/)や ルーテル学院大学大学院附属・包括的臨床死生 学研究所 (ht / / /af / )といっ t p: www. l ut he r . ac . j p/gui de f i l i at e t hanat ol ogy/ た広がりを示している。 ⑺ この東北大学の 実践宗教学寄付講座 については,次のサイトを参照い ただきたい。ht / /www. 。このサイト t p: s al . t ohoku. ac. j p/ pr el i gi on/ t op. ht ml のフロントページでは,この寄付講座について,次のように説明されている。 実践宗教学寄附講座は,2 011年3月の東日本大震災以来,被災者の心のケ アのために地元の宗教者,医療者,研究者が連携して行なってきた 14 5 心の相 北海学園大学人文論集 談室 第 57号(20 14年8月) の活動を踏まえて設立されたものです。今回,東北の被災地では,宗 教者による支援活動が活発に行われました。それぞれの宗教の立場をこえて 連携し,支援活動が行われてきたことが一つの要因であると えられます。 その上で,さまざまな信仰を持つ人々の宗教的ニーズに適切にこたえること のできる人材が必要なのではないかという洞察が生まれました。 この講座は, そのような専門職(仮に 臨床宗教師 と呼んでいます)の育成を行うため に,地元の宗教界などの支援を受けて設立されました。 ⑻ 京都大学のキリスト教学講座あるいはキリスト教学については,次の拙論 を参照。 道支部 名定道 キリスト教学の理念とその諸問題 (日本基督教学会北海 キリスト教学 再 (日本基督教学会北海道支部 ムの記録) ,2 0 09年,5 2-71頁), キリスト教学の可能性 ダンとの間で (日本基督教学会 日本の神学 開シンポジウ 얨伝統とポストモ 4 9 ,2 01 0年,2 5 22 56頁) 。 ⑼ 明治以来,宣教 1 50年を迎える日本キリスト教の通 次のものが代表的である。海老沢有道・大内三郎 的な研究としては, 日本キリスト教 基督教団出版局,1 970年) ,土肥昭夫 日本プロテスタントキリスト教 (日本 (新 教出版社,1 9 80年) 。また,この 1 50周年を記念して刊行された文献としては, 日本基督教団日本伝道 1 5 0年記念行事準備委員会編 キリストこそ我が救い 얨日本伝道 1 5 0年の歩み (日本基督教団出版局,2 00 9年)が出版されてい る。 ⑽ 20 1 3年5月 1 5日の NHK のクローズアップ現代では,岩手県の大槌町役 場(津波による大被害)の保存をめぐる問題が取りあげられた。何をどのよ うに保存すべきかについての合意形成には,単年度単位での予算の消化に縛 られた行政的発想や等価 換的発想では決定的な限界があることが示唆され た。 썶 オ ン ラ イ ン 神 学 図 書 館 Gl 쑰 / / obe TheoLi b に つ い て は,ht t p: www. /gt gl obe t hi cs . net lを参照いただきたい。ここでは,次のような説明がなされ ている。 Gl obe TheoLi bi st hef i r s tpr oj ectwor l dwi det oaddr e s ss t r at e gi c al l yt he c hal l engeofa mor ebal anced t heol ogi calknowl e dget r ans f erbe t we e n h, c hur che sandi ns t i t ut i onsoft heol ogi cale ducat i oni nt heNor t handSout Eas tandWe s t ,andt opr ovi deacommonpl at f or mf ore xi s t i ngdi gi t al d. r es our cesandt he ol ogi c all i br ar i esi nt hewor l Gl obeThe oLi bi sf or : I ndi vi dualus er s ,t he ol ogi c alr e s e ar che r s ,educat or sands t ude nt s( whoc an 14 6 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 upl oad/downl oadf ul l t e xts our c es ) The ol ogi call i br ar i es( f aci l i t i esf ors pec i al i zedt he ol ogi c alc ol l ec t i ons ) As s oc i at i onsoft he ol ogi c all i br ar i es( acommongl obalpl at f or m) e r t at i ons As s oc i at i onsoft heol ogi c als chool s( Mas t e r sanddoc t or aldi s s andt hes es ;ecour s es ) Chur chesands pe ci al i z edmi ni s t r i e s( s t r e ngt he ni ngc ommonr e s e ar c h) s( wi ders pe ct r um ofus er s ) Cont e ntpr ovi der Regi onale c ume ni calor gani zat i onsand Chr i s t i an Wor l d Communi ons ( doc ume nt at i onofec umeni calar chi ves ) . 썷 本稿でのジャンニ・ヴァッティモ(Gi 쑰 )からの引用は, anniVat t i mo, 1 9 3 6 哲学者の 命と責任 (法政大学出版局,2 01 1年)から行われる。ヴァッティ モは,現代イタリアを代表する哲学者の一人であり,ガダマーから受け継い だ解釈学的哲学の立場に立って 積極的な論を展開している( 弱い思 を論じ,キリスト教に関しても 名定道 現代思想と씗神>の問い 얨ティリッ ヒからジジェクまで ,理想社 理想 No. 6 88,20 1 2年,4 0 5 2頁,を参照) 。 またヴァッティモは,ヨーロッパ議会の議員を務めるなど,政治にも積極的 に関与している。 썸 これはおそらく世界的規模で生じている動きと思われるが,近現代日本に 쑰 おける動向については,竹内洋 生文化 (中 教養主義の没落 얨変わりゆくエリート学 新書,200 3年)などで論じられている。 썹 新しい人文主義を展望するには,人文主義の中心的基盤である大学の歴 쑰 と現状とを視野に入れることが必要になるが,その際に参照できる文献は現 在着実に増加しつつある。たとえば,最近のものとして,次の文献が挙げら れる。江島尚俊・三浦周・ 教 野智章編(大正大学綜合佛教研究所 研究会) 近代日本の大学と宗教 (シリーズ 大学と宗 大学と宗教쑿)法藏館, 2 0 14年。三宅義和・居神浩・遠藤竜馬・ 本恵美・近藤剛・畑秀和 育の変貌を える ミネルヴァ書房,2 0 14年。 14 7 大学教 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) シンポジウム 人文学の新しい可能性 神・人・死者 얨日本列島における多文化共生の伝統 佐 1 藤 弘 夫 はじめに 過激なナショナリズムの高揚にみられるように,いま世界中で近代の矛 盾が一気に噴き出している。東日本大震災とそれに続く原子力発電所の事 故もまた,現代社会のあり方を根底から問い直す出来事となった。科学技 術と生産力の発展によって,かつてないほど多くの人々が情報や物質面で の恩恵を受けられるようになる一方,そこから疎外された人間との間に生 じる差別や不 平はますます拡大しつつある。 また,医療技術の進歩は日本に世界一の長寿社会をもたらしたが,長い 老後をいかに充実したものとするかという問いに対する解答までは用意し てくれなかった。晩年にどのような生活を送るべきか,超高齢化社会のも とでだれが介護を担当するのか,そしてだれもが避けることのできない死 の瞬間をいかにして迎えるか,私たちはこれらの難問を抱えて,まだ暗中 模索を続けている段階なのである。 この発題では日本列島を素材として,古代以来の長いスパンのなかで, 世界 の構成員として人間のみが突出する近代の異形性を指摘するととも に, 新人文主義 の問題提起を受け,より豊かな生を可能にする融和と共 存の新時代構築に向けて,人文学が果たしうる可能性について い。 14 8 えてみた 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 2 空間を 記録 かち合う人とカミ 私たちが通常 世界 や 社会 という表現を 用するとき,その構成 員としてイメージするのは当然のことながら人間である。しかし,時代を 近代以前にまで ったとき,神や仏や死者(ご先祖様)もまた,私たちと ともにこの世界の構成者だった。かつて人々はこれらの超越的存在=カミ の眼差しを感じ,その声を聞きながら日々の生活を営んでいた。 人類が過去どの時点でカミの存在を認識したのかという問題は,これま でも宗教学や人類学,認知 古学などの諸 野で議論されてきたが,いま だ結論が出るには至っていない。しかし,この地球上において,宗教をも たない民族や種族が時代・地域を問わず皆無だったことはまぎれもない事 実である。人間とはその本質においてカミを必要とする存在なのであり, カミは国家の 生に先行してその姿をあらわにしていたのである。 カミは個人的な信仰のレベルで受容されていただけではない。前近代社 会では,共同体の営みを円滑に進める上でもカミは欠くべからざる存在 だった。定期的に行われる法会や祭祀は,参加者の人間関係を再確認し, そのつながりを強化する役割を担った。祭礼という大きな目的に向けての 長い準備期間のなかで,人々は同じ集団に帰属していることが決して偶然 ではないことを自覚し,自 たちをここに居合わせるようにしむけたカミ のために,協力して一つの仕事を成し遂げる重要性を認識していくのであ る。 私がまだ小学生だった昭和三〇年代は,東北の農村ではまだ集落ごとに あった神社の祭りが生活の節目になっていた。私が住んでいた村でも,最 大の神社である鹿島社の祭礼の日には小学 は午後から休 になった。祭 りのために長い時間をかけた準備が進められ,周辺の道路は整備されて掃 き清められた。 いま村を訪れると,ほとんどの神社は訪れる人もないまま荒れ果ててし まっている。神社を巡る参道は,かつては子供たちの通学などにも われ る うこ 共の生活道路としての役割を果たしていた。他人のために体を 14 9 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) とを嫌う人間も,神仏のためなら積極的に社会活動に参加した。その活動 が,毛細管のごとき末端の道路や橋を維持する機能を果たしていた。しか し,神が 共空間を り出す機能を失ったとき,自発的にそれを整備しよ うとする人はいなくなって,道は草に埋もれてしまうのである。 自 たちの周囲を振り返ってみればわかるように,人間の作り上げる集 団はそれがいかに小さなものであっても,その内部に感情的な軋轢や利害 関係の対立を発生させることを宿命としている。宗教的な儀礼は,構成員 の視線を超越的存在へと向けさせる契機となった。共同体の人々はカミと いう第三者へのまなざしを共有することによって,構成員同士が直接向き 合うことによるストレスと緊張感を和らげようとしたのである。 3 緩衝材としてのカミ そうした役割を果たした儀礼の代表的なものとして,起請文の作成があ る。起請文とは,ある人物ないしは集団がみずからの宣誓の真実性を証明 するために,それを神仏に誓った文書であり,中世を中心に膨大な数が作 製された。起請文の末尾には監視者として神仏が勧請され,起請破りの際 にはそれらの罰が身に降りかかる旨が明記された。 だれかを裁かなければならなくなったとき,人々はその役割を超越的存 在に委ねることによって,人が人を処罰することにともなう罪悪感と,罰 した側の人間に向けられる怨念の循環を断ち切ろうとした。カミによって 立ち上げられた 共の空間は,羊水のように集団に帰属する人々を穏やか に包み込み,人間同士が直にぶつかりあうことを防ぐ緩衝材の役割を果た していたのである。 カミが緩衝材の機能を果たしていたのは, 人と人の間だけではなかった。 集団同士の対立が極限まで強まると,人はその仲裁をカミに委ねた。前近 代の日本列島では,村の境界や日照りの際の川からの取水方法をめぐって 共同体間でしばしば 争が生じ,死傷者が出ることも珍しいことではな かった。その対立が抜き差しならないレベルにまで高まったときに行われ 15 0 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 たものが,神判とよばれる神意を問う行為である。 神判の代表的なものに,盟神探湯( くがたち) がある。これは熱湯のなか に手を入れてなかの小石などを拾わせるものであり,対立する双方の共同 体から代表者を選出し,負傷の程度の軽い方を勝ちとした。両者に焼けた 鉄の棒を握らせるという方法もあった。勝利した側に神の意思があるとさ れ,敗者側もその裁定に異議を差し挟むことは許されなかった。 また,前近代の日本列島では,境界の山や未開の野にはカミが棲むと えられており,そこに立ち入ったり狩を行ったりするときには土地のカミ に許可をえなければならなかった。かつて猟師の世界では,狩りのために 山に立ち入るにあたって数々の儀礼を行うことが不可欠とされてきた。ま た山中でも,言動をめぐって多くのタブーが存在した。その背景には,人 の住まない山は神の支配する領域であり,狩りという行為は神の支配下に ある動物を けていただくものという認識があった。そのため,獲りの対 象は必要最小限に留め,獲物のいかなる部位も決して無駄にしないように 努めなければならなかった。それが資源を保護し,獲物をめぐる集団同士 の衝突を防止する役割を担った。 それは海峡を隔てた国々の中間地帯についても同様だった。朝鮮半島と の間に浮かぶ無人島の沖ノ島は,五世紀以来の長期にわたる祭祀の跡が残 されている。日本から朝鮮半島と大陸に渡ろうとする航海者たちは,この 島に降り立って,その先の航海の無事を神に祈った。島も大海原も,その 本源的な支配者は神であると信じられていた。かつて辺境の島々はその領 有を争う場所ではなく,身を清めて航海の無事を静かにカミに祈る場所 だったのである。 だが,近代に向けて世俗化の進行とカミの世界の縮小は,そうしたカミ ―人の関係の継続を許さなかった。人の世界からは神や仏だけでなく,死 者も動物も植物も排除され,特権的存在としての人間同士が鋭く対峙しあ う社会が出現した。人間中心主義としてのヒューマニズムを土台とする, 近代社会の 生である。 それは私たちが生きる世界から,人間間,集団間,国家間の 15 1 間を埋め 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) ていた緩衝材が失われてしまったことを意味した。体に棘をはやした人間 が狭い箱に 間なく詰め込まれ,少しの身動きがすぐさま他者を傷つける ような時代が幕を開けた。カミが支配した山や大海や荒野に人間の支配の 手が伸び, 割され目にみえない国境線が引かれて,寸尺の土地,狭小な 無人島をめぐる醜悪な争いが勃発するのである。 4 重なり合う生と死の世界 これまでみてきたような,人間を包み込むカミの実在を前提とする前近 代の世界観は,そこに生きる人々の死生観をも規定していた。 今日私たちは, 何時何 御臨終 という言葉に示されるように,生と死 のあいだに明確な一線を引くことができると えている。死の判定は専門 家のあいだでも議論のある難しい問題だが,それでも大方の人はある一瞬 を境にして,生者が死者の世界に移行するというイメージを抱いている。 しかし,私たちが常識と思っているこうした死の理解は,人類の長い歴 のなかでみれば,近現代に特徴的なきわめて特殊な感覚だった。 前近代の社会では生と死のあいだに,時間的にも空間的にも,ある幅を もった中間領域を認めることが普通だった。その領域の幅は時代と地域に よって違ったが,時間でいえば数日から一〇日ぐらいの間に設定されてい た。呼吸が停止しても,即座に死と認定されることはなかった。その人は 亡くなったのではない。生と死のあいだに横たわる境界をさまよっている と えられたのである。 その間に残された者たちがどのような行動をとるかは,背景となる文化 によってさまざまだった。日本列島についていえば,生者と死者の世界が 連続しているという感覚の強かった古代では,遊離魂を体内に呼び戻すこ とによって死者を蘇生させようとする試みがなされた。不可視の理想世界 (浄土) のリアリティが社会に共有される中世になると,死者を確実に浄土 に送り出すことを目的とした追善の儀礼が行われた。死者が遠くに去るこ となく,いつまでも墓場に住むという感覚が強まる近世では,亡者が現生 15 2 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 で身にまとった怒りや怨念を振り捨て,穏やかな祖霊へと上昇していくこ とを後押しするための供養が中心となった。 前近代の社会では,生と死が わる領域は呼吸が停止してからの限られ た期間だけではなかった。生前から,死後の世界へ向う助走ともいうべき 諸儀礼が営まれる一方,死が確定して以降,長期にわたって追善供養が続 けられることも決して珍しいことではなかった。前者の例として,一〇世 紀後半に比叡山で組織された二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)があ る。この会は浄土往生をめざす有志による結社である。そこでは,普段か ら臨終に備えての準備が進められるとともに,メンバーが死去するにあ たって,尊厳をもって死を迎えるための看取りと葬儀の作法が詳細に定め られている。後者の例としては,江戸時代に広く営まれるようになった, 七七(しちしち)日から三十三年・五十年に至る追善法要がある。 柳田国男が論じたように,死者の霊は長い期間を経て浄化されながらし だいに個性を失い,やがては祖霊と一体化すると信じられた。生と死のあ いだに一定の幅があるだけではなく,その前後に生者の世界と死者の世界 が重なり合う長い期間があるというのが,前近代の人々の一般的な感覚 だった。生者と死者は, 流を続けながら同じ空間を共有していた。生と 死そのものが,決して本質的に異なる状態とは えられていなかったので ある。 こうした前近代の死生観と対比したとき,近代が,生と死のあいだに厳 密で越えられない一線を引くことによって,生者の世界から死を完全に排 除しようとする時代であることが理解できるであろう。いまの日本では死 は周到に隠ぺいされ,だれもが死ぬという当たり前の事実すら 然と口に することはタブーとされている。いったん人が死の世界に足を踏み入れて しまえば,慌ただしい形式的な葬儀を終えて,親族はただちに日常生活に 戻ってしまう。別世界の住人であるがゆえに,死者はもはや対等の会話の 相手ではなく,一方的な追憶と供養の対象にしか過ぎないのである。 かつて人々は死後も縁者と長い 流を継続した。それは,自 つかは墓のなかから子孫の行く末を見守り,お 15 3 自身もい には懐かしい家に帰って 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) くつろぐことができるという感覚の共有にほかならなかった。死後も縁者 と 歓できるという安心感が社会のすみずみまで行き渡ることによって, 人は死の恐怖を乗り越えることが可能となった。そこでは死はすべての終 焉ではなく,生者と死者との新しい関係の始まりだった。 しかし,近代では,人間の生はこの世だけで完結するものであり,ひと たび死の世界に足を踏み入れてしまえば二度とわが家に帰ることはできな かった。死はどこまでも暗い孤独の世界だった。死が未知の暗黒世界であ るゆえに,近代人は生死の一線を越えることを極度に恐れるようになった。 いまの日本人が生の質を問うことなく,一 一秒でも長い命の継続を至上 視する背景には,こうした近代固有の死生観があるのである。 5 異形の時代としての近代 これまで述べてきたように,私たちがいま住んでいる社会の特色は,こ の世界から人間以外の神・仏・死者などを씗他者>として放逐してしまっ たところに求めることができる。 中世でも近世でも,人と死者は密接な 渉をたもっていた。神仏もはる かに身近な存在だった。そこでは人間だけではなく,神・仏・死者・先祖 などの不可視の存在=カミすべてを含めた形で,この世界が成り立ってい ると えられていた。カミはときには人間以上に重要な役割を果たす,不 可欠の構成員だった。そうした時代の方が,人類の歴 のなかでは圧倒的 に長い期間を占めていたのである。 ヨーロッパ世界から始まる近代化の波動は,この世界から神や仏や死者 を追放するとともに,特権的存在としての人間をクローズアップしようと する動きだった。これは基本的人権や自由・平等の観念を人々に植え付け, 人間の地位を向上させる上できわめて重要な変化だった。近代に確立する 人間中心主義としてのヒューマニズムが,人権の確立に大きな役割を果た したことは疑問の余地がない。 しかし,他方でこの変動は深刻な問題を惹き起すことになった。カミが 15 4 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 共空間を生み出す機能を停止したことにともなう,人間・集団間の緩衝 材の消失であり,死後世界との断絶だった。その結果,絶海の無人島の領 有をめぐって,お互いに顔を合わせたこともない国民レベルで敵意が沸騰 する,異常としかいいようのない時代が到来した。また,かつてのように 親族が重篤者を取り囲んで,その穏やかな臨終と死後の救済を祈る光景は 姿を消し,病院でたくさんのコードによって生命維持装置につながれた患 者が,本人の意思にかかわりなく生かされ続けるような姿が常態化するこ とになったのである。 前近代人が共有していた,この世界の根源には民族や人種を超えたカミ が実在し,すべての人間はその懐に柔らかに包み込まれているという安心 感は,ナショナリズムや選民意識の肥大化を抑制し,死の恐怖を和らげる 機能を果たしていた。カミに対する心を澄ました祈りは,邪悪で卑小な存 在としての自己を実感させた。死者や動植物に対する小さなささやきの言 葉には,周囲の人間に向ける穏やかな眼差しに通ずるものがあった。 それらを他者として社会から締め出し終えたとき,人間のエゴと欲望は 抑制する枠を失って,際限のない暴走を開始することになったのである。 6 人類が直面する課題と人文学の可能性 宗教が一面で支配と収奪を正当化する役割を果たしてきた歴 は忘れて はならない。カミの名のもとに,膨大な数の人々が惨殺されてきた。その 愚行はいまも続いている。だがその一方で,カミの名のもとに 立ち上げられ,神事や祭事を通じて人々が階層を越えて が設けられた。道路や橋・広場など 共空間が 流し語り合う場 共の施設の整備と補修も行われてき た。 岩手県の三陸 岸には数百に及ぶ神楽,鹿踊り,剣舞などの民俗芸能を 伝える団体があったが,その多くが三月十一日の津波によって甚大な被害 を受けた。本格的な復興の着手に先駆けて,多くの地域で神事と祭礼が再 開された。被災地再 に向けて,人々の心の支えとして祭礼が位置づけら 15 5 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) れていった。未曾有の災禍に直面して,神事が単なる民俗芸能としての役 割を超えて,新たに人々を結びつける絆となっている。各地で神が新たな 共の空間を作り出しているのである。 近代がカミを社会から締め出した時代だといっても,欧米の先進国に較 べれば,日本列島にはまだ身近なそこかしこにカミの影を見出すことがで きる。 東日本を中心に各地に残されている草木供養塔は, 山仕事を行う人々 が伐採した草木を供養するために 立したものであり,針供養の行事など とともに人間と草木・無生物を同レベルの存在として把握しようとする日 本人の発想を反映する現象である。また,医学部などで盛んに てられて いる実験動物の供養碑は,最近でこそ韓国などでもみられるようになった が,これもまたすぐれて日本的な習慣だった。 息の詰まるような人間関係の緩衝材として,新たにカミを生み出そうと する動きも盛んである。今日,日本列島を席巻しているゆるキャラブーム は,その代表的なケースであると私は えている。飼育されている膨大な 数のペットもまた,ぎすぎすした人間関係の緩衝材としての役割を担うも のであった。 世界の各地でみられる宗教原理主義への回帰は,西欧流の近代化への反 発という要素が大きい。妖精が舞い,動植物が語るファンタジーには,近 代以前の世界に対する欧米人の郷愁を読み取ることができる。だが,こう したさまざまな動きにも関わらず,世界的なレベルで続いている世俗化の 奔流に抗うことは決して容易ではない。 今日の日本でも,大方の人間はもはや絶対的な根源神の実在を信じてそ の救済の摂理に身をゆだねることはできない。時間に追われる日々では, 死者との穏やかな共存の時代を再現することも不可能である。しかし,そ うした時代がかつて実在したことを認識することによって,みずからの立 脚する地平を客観視することはできる。 いま私たちは,かつて近代の草 期に思想家たちが思い描いたような, 直線的な進化の果てに生み出された理想社会に生きているのではない。近 代化は人類にかつてない繁栄をもたらす一方で,人間の心と私たちを取り 15 6 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 巻く精神世界に,昔の人が想像もしえなかったような無機質な領域を り 出してしまった。今日顕著になっているナショナリズムや民族差別,さら には科学技術が生み出す諸問題も,根源の要因はこの部 にあると私は えている。 私たち人文学の研究者は世界と日本の社会が直面する現今の危機に対し て,即効性のある提言をすることはできない。しかし,長い人類の歴 に 照らして近代社会のいびつさを指摘することによって,現代がどのような 時代であり,目の前に立ちはだかる諸問題がなにに由来するものであるか を,もっとも根底的なレベルで 察するための素材を提供することはでき る。そのことによって,人類の歩みを緩やかにし,その方向を少しだけ修 正させることはできる。 人類の知恵を蓄積してきた人文学がいまなすべき仕事はまさにそれであ り, 新人文主義 を提言された意図の一つもそこにあると私自身は受け止 めた。この問題について,今後とも,ぜひ継続して議論を深めていくこと を願っている。 15 7 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 近現代並びにグローバルな時代における 文学の変化と応答 (本原稿は 201 3年5月 18日, 北海学園大学人文学 立 20周年記念シンポジウム における講演に加筆したもの) テレングト・アイトル 2 0 14年6月 20日 それでは,文学はどうでしょうか。人文学としての文学は,どのように 近代の急激な変化に応答してきたのでしょうか。あるいはわれわれにどう いう恩恵をもたらし,その効果は何でしょうか。また,どうして現代の合 理化された社会において,われわれはまだ文学や芸術に煩わされなければ なりませんか。 実際,グローバリゼーションが進んでいる今日,これらの問いかけは, おそらくますます切実な問題として,現に,いまわれわれの前に立ちはだ かっているかと思います。 近現代の見地からみると,人々にとって和歌や俳句,あるいは五言七律 の漢詩,シェークスピアの戯曲,フローベール,トルストイ,夏目漱石, 村上春樹の小説を文学だといっております。しかも細かくジャンルに け て,趣味・好みとして扱うようになり,あるいは文学を人間の現実生活を 反映する鏡だとか,社会が必要とするエンターテイメントだとか,人間の 内面世界を豊かにする宝庫だとか,あるいはもっぱらそれを芸術的な言葉 の一種だといい,もしくは読者・消費者のための嗜好品など,さまざまな 見地から定義を下したりしているが,一様には言えません。 しかし最も古典的な えに従っていうと,人間とは,理性と感情という 両方の組成によって支えられているもので,文学とは,いわば人間の感情・ 情緒を扱った 合的な 野になるわけです。 それは子供の感性を磨いたり, 民族集団の運営のあり方に参与したり,あるいは個人の心のあり方を左右 15 8 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 することから,人間一般の幸福感を決定することまでにかかわる 野だと 認知してきたわけです。そして,文学作品は喜怒哀楽の感情の知識の源泉 だとされ,それをフィクションとして楽しみながら,そこには常に真理・ 真実が含有され,教育・教訓・道徳的な意味があると見做してきました。 約 2, 500年前,孔子の編纂した 詩経 の目的とその扱い方はそうだった し,紀元前5世紀,プラトンの 国家 などにおける対話もそうでした。 そして約 1,1 00年前から 古今和歌集 においても日本はそれに近い え を打ち出していたわけです。言い換えれば,文学とは人間の喜怒哀楽・感 情の秩序立ったストーリーで,それは理性的な思 と相反して,人間の感 情・情緒から構成されたもので,人間の感情がそれなりに自律して,グラ マティックにまたはシステマテックに語られたものだと えていました。 その効果は人々の美意識・感受性を左右し,倫理道徳,生き方ないし幸福 感にも影響を与え,人間にとって不可欠な, 合的な領域だと えていた わけです。 そういった古来の感情システムとしての文学が,もしわれわれの基本的 な美意識,喜怒哀楽,感情の扱い方の基礎を形作ったものだとするならば, 日本の感情システムとしての文学は,実際,その形成のプロセスにおいて, 何回も大きな変化を ってきたと言えます。そのなか,いうまでもなく, 大陸渡来を除けば,最大の変化をもたらしたのは,明治期の西洋受容です。 明治期の西洋受容とは,いわばそれまで中国から受容したものを和文脈 において独特な文学を育んできた古来の日本文学が,明治時代,急激に欧 米のシステムを導入して,いわゆる和漢洋を混合して,さらに大きなかつ 急激な変貌を成し遂げていくということでした。そして,その当時からの 最終的な目的とは,いわば近代化,西洋化,合理化という社会的ないし人々 の内的な世界までも進化し,発展するのだと えていたわけです。 それでは,日本において,日本的,あるいは東洋的感情システムには, 欧米の感情システムを導入することによって,どのようにシテマテックに 刷新されてきたのか,どのように文学の近代化を進めてきたのか。それに ついては,明治初期の翻訳文学,政治文学,新体詩,戯作文学と,その後 15 9 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 一連の文学作品をみればわかると思いますが,どれ一つとっても,それま での伝統的な文学とは違って,そこには和漢洋の感情システムが互いにぶ つかり合い,刺激しあい,吸収しあって,新しい文学の感情システムに塗 り替えられていく実例を見ることができます。 ここでその具体的な文学作品を例にして 析するよりも,もっと簡明な 指標として,おそらく明治前後の教育システム,あるいは基礎教養,感情 の育成にかかわる教科書を概観した方が,わかりやすいかと思います。 江戸末期まで,主な教育は,主として藩 ,寺小屋,私塾で行われ,教 科科目と教科書は,大よそ中国古典教養システムを基礎と背景にして施さ れていました。例えば, 孝経 , 唐詩選 ,四書( 大学 中庸 ),五経 ( 詩経 大日本 書経 , 日本外 経 , 記 春秋 易経 ) , 孟子 記 , 漢書 , などがありましたが,そのなか, 唐詩選 , 詩 は文学,感情教育に 打って変わって,例えば 礼記 論語 類されます。しかし,明治維新以降, 開成学 目は, 語学 , 数学 , 歴 (東京大学の前身)(1 87 4 )の教科科 , 物理学 , 博物 , 経済学 , 羅 語 (ラテン語)というように刷新されていきます。そのなか, 語学 科目に は 文典(西欧古典),修辞(レトリック) ,英文学,英作文 があり, 歴 には 開化 万国 ,英国及植民地歴 ,合衆国 ,仏蘭西及日耳曼歴 , があり, 羅 語 という科目には 文典及英文の反譯 がありま す。 のちに,文学教育において,1 8 77年に発足した東京大学の文学部には, 第一科( 学,哲学,政治学) ,第二科(和漢文学科씗英文学,和文学,漢 文学> ) があり,1 8 86年に発足した帝国大学の文科大学には,哲学・和文学・ 漢文学・博言学があり,その後また 学,英文学,独逸文学科も設立する ようになります(ここで,とくに注目したいのは, 和文学 という科目の 生と,その科目において,すでに 古事記 , 日本書紀 , 万葉集 , 源 氏物語 などが教科書として採用されていたことです) 。 ここからみてわかるように,明治初期,たった 1 0何年間の間,東洋古典 基礎教養が急速に欧米の教育のシステム,あるいは構造的なカリキュラム 16 0 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 にとって変わり,刷新され,そのなか,東洋の在来の教育・思 ・文学の 喜怒哀楽のシステムが欧米のシステムにシフトされ,再編成され,西洋化 されていったことです。 もちろん,中国においても,2 0世紀初期,日本の明治初期と同じような 教育改革がありましたが,しかし儒教的な伝統への擁護と批判というよう な激しい政治的,社会的な衝突が発生し, 文学革命 の運動が起こったの です。その 長上に,中国共産党がマルキシズムを導入して,それが内戦 まで発展し,古い儒教の教養システムが徐々に刷新されるようになり,感 情システムのシフトにおいて,大きな犠牲を払ってきたわけです。 実際,この東西二つのシステムは,当時はもちろんのこと,現在ですら 根本のところにおいて互いに融合しがたく,競合しているところがあると 思います。 そして,中国と違って,日本におけるその競合と矛盾は,明治期まず文 学の礎となる言語において発生し,衝突していました。その衝突とジレン マに応答するため,民間からまず,言語改革に乗り出し,言語の近代化を 進めます。例えば, 漢字御廃止之議 (18 6 6), 修国語論 (1 8 6 9 ) , 日本 語廃止・英語採用論 (1 8 72 ) , 文法会 (1 87 7) , かなのとも (18 82 ), 羅馬字会 (1 88 5 ), 言文一致 (18 86 ) などさまざまな提案とグループが 現われ,欧米言語をいかに日本に導入するかが喫緊の課題としていました。 非常に象徴的な例として,当時最もラディカルな雑誌 明六雑誌 (1 8 74 ) は,その第一号の冒頭において,言語の問題を取り上げ,そこには西周の 洋字を以て国語を書するの論 と,西村茂樹の 開化の度に因て改文字を 発すべきの論 というエッセイが掲載されていました。 こういった言語の急激な近代化・合理化は当時,ほとんど混乱といって もいいぐらいの言語状況をもたらし,それによって美意識・感情の世界も 混乱していたことが文学作品で現われてきます。そして文学の翻訳と 作 において,翻訳文体,直訳体,漢文直訳体,漢文体,和文体,文語文体, 雅文体,雅俗折衷体,言文一致体,口語体など多様な文体がほぼ同時代に 世に主張され,かつ われるようになります。 16 1 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) まさにこの文体・美意識・感情システムの混乱のさなか,そのなかで勉 強して育ったのは,尾崎紅葉,幸田露伴,坪内逍遥,森鴎外,島崎藤村, 北村透谷,与謝野晶子,樋口一葉,夏目漱石,永井荷風,上田敏,北原白 秋,石川啄木など一連の明治と明治以降の文学者たちです。彼らは和文・ 漢文と欧文において,それぞれ違った教養・造詣をもち,また違った感情・ 情緒の世界・文学に精通していました。そしてそれぞれ違う読者層をリー ドしながら,それぞれ違う和漢洋の趣向から作品を 作し,互いに競争し, 刺激し,また批評・批判し合って,次から次へとそれまでなかった新鮮な 作品を生み出し,文学の近代化を押し進めていきます。そのなか,新しい 文学思潮・流派・スタイルが生み出され,例えば,写実主義,ロマン主義, 写生文,自然主義,耽美主義,などのように展開していきます。 こういった急激な近代化,西欧化の流れのなか,社会的,日常的な生活 までも,合理化が進むようになります。もちろん,その全体の背景には, 自然科学に基づいた進化論の思想,諸イデオロギーに基づいた社会科学の 思想があったことを忘れてはなりません。しかし,日本は幸いに,中国や フランスと同じような,大きな社会的な 争,内戦はなかったのです。ど ちらかというと,比較的スムーズに移行し,口語体に基づいた近代文学が 形成されるようになってきたと言えます。 称賛をこめていえば,東洋は西洋の文学を受容することによって,東洋 側はより豊かな感情・感性をもつようになってきたと言えます。しかし冷 静に えれば,明治以来,東洋約 3 , 00 0年,日本約 1 , 3 00年の文学の感情 システムが,急激に変化し,それまでは,なかった文学観に直面させられ, チャレンジさせられ,さらには悩まされてきたわけです。東西が融合して から,伝統的な感情システムが塗り替えられただけでなく,さらにまた新 しく構築させられることに強いられてきたわけです。 かくして,日本語の文体は,目まぐるしく変容を経て,大正以降,現在 まで比較的安定してきたと言えますが,しかし,周知のように,近代化, 西欧化のなか,日本文学において,目立った一つの傾向は,写実主義, 没 理想主義 ,自然主義,私小説,個人心境小説などのような流れの文学が重 16 2 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 んじられ,それに対して,ロマン主義,耽美主義,超現実主義(いわゆる シュールレアリズム)などのような,イマージネイション,想像力を重ん じる文学が疎かにされるようにしてきた傾向があります。そういった傾向 について,明治期の鴎外,北村透谷,石川啄木たちは,すでに強く批判し, 指摘していました。 しかし福沢諭吉を始めとする 実学主義 という基本指針が明治から背 景にあったこと,また,言語が急速に改革されたのが原因で,写実主義, 実用主義が優先されてきた風潮は避けられなかったかもしれません。 (その 一方,いうまでもなく,日本文学は社会性や政治性から縁遠い存在で,万 葉文学の 生のときから社会的,政治的理念にはほとんど無関心であった ことも事実です) 。 現在,とりわけ文学教育・研究の 野において,イマージネイション, 造力よりも,リアルな模写,客観描写,事実の所在を求めるような教育 が主流となり,客観性,実証性,文献蒐集,記録整理, 類保存が王道と なっています。したがって,文学の解釈,鑑賞,批評,理論の研究は,ほ とんどと言っていいぐらい事実確認,因果関係の証明,作品と現実との照 合・実証のみに終ってしまう傾向があります。そして現在,日本文学だけ ではなく,歴 ,思想と哲学までも,多くの研究は,ただ一つだけの方法, いわゆるほとんど実証主義のみです。文学教育ないし人文学部は,むしろ 単なる論理的思 の訓練の場とされ,事実・実証を確認する教育の場とし て,あるいは写実・模倣・リアリティを求める唯一の物差しを呈示する機 関として機能するようになってきました。 その結果として,この想像力の働きを抑制し,観察の結果を重視すると いう,科学主義的,客観主義的な方に偏った教育と研究は,実は,見事に 近代化,合理化,高度管理社会をサポートする方に導き,想像力を育むと いう文学の本来の目的・役割に相反する傾向が強くなり,矛盾を抱えるよ うになっていきます。 とりわけ,この過去約 4 0年間の間,現代化・合理化が進み,徐々にでは ありますが,日本にとって,欧米はすでに他人事ではなくなってきました。 16 3 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) そして高度に管理化された社会が形成されてくるにつれて,文学教育は, 理性と論理性の名のもとで内面世界・感情・精神世界までも論理的に説明 されるようになり,実証主義によって検証されるのが通常となっています。 古典的な意味において言えば,これは一種の理性と感情のバランスが崩 れた現象で,感情システムの教育までも,理性を働かせ,イマージネイショ ン, 造力を抑制しようとする方に傾いてきたということでしょう。 一方,現代社会は,人間の内面世界,精神世界には,大きな不安定をも たらしてきました。その傍ら,人々は不安定さを,さらなる合理的な諸治 療方法を施して治そうと努力しています。いわゆる社会学的,心理学的に 基づいたカウンセリング・心理療法など,理性的,論理的な治療手段に頼 るようになっています。もちろん,これは何も,日本だけで起こっている ことではありません。すべての先進国において見られる共通の現象です。 実際の例として,現に,京都大学保 増え,年間診療学生 診療所神経学科を訪れる学生数が べ人数は 1 97 3年の 9 3 1名から 1 9 85年 2 , 23 5名へ大 幅に増加し,学生懇話室も同時期には,4 72名から 2 ,3 3 2名へと増加の一途 を っています。そして長期のカウンセリングを必要とする心理的な重度 の適応問題に悩む若者が増えたことについて,多くの専門家によって指摘 されています(猪木武徳著 大学の反省 NTT 出版,20 0 9年,54頁)。 ところが,文学は古来,イマージネイション, 造力,さらにインスピ レーションを育むだけではなく,以上のような人間の理性と感情のバラン スの問題に対しても,有効な役割を果たし,こころと身体の病まで治療す る役割を果たしていました。 人類 ゆる 上最古の文学理論書 カタルシス 詩学 において,アリストテレスは,いわ という文学の浄化作用の概念を打ち出していました。 当時,ギリシアのエピダウロスの円形劇場では,実際,医学の神アスクレ ピオスを信仰するとともに,芸術の女神をも信仰する聖地だったのです。 各地方から患者がエピダウロスにきて,叙事詩,抒情詩,悲劇や喜劇を鑑 賞して カタルシス の効果によって病気を治していたという。現在でい えば,劇場・シアター・映画館それ自体が患者のサナトリウム・療養所と 16 4 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 なり,文学作品はその治療用の薬になるわけです。ただし,惜しいことに, アリストテレスは カタルシス について言及したのが,彼の全著作にお いて,ほんのわずか2か所しかなく,詳しい論究は散逸しています。 現代において,フロイトは,アリストテレスの カタルシス の概念を 応用し,神経症の患者に言葉を語らせて,その鬱積したものを浄化すると いう治療効果を求めましたが,その根本のところには,ストーリーを語る という物語ることにあります。 中国の最古の医学書 黄帝内経 の 素問 にも,感情を 喜・怒・憂・ 思・悲・恐・驚 に 類して治療を施す項目がありましたが,それも残念 ながら散逸して現在完全なものを読むことはできません。しかしその基本 原理に基づいて,養生の一環として感情を配慮し,文学を背景にした読書, 琴碁書画という基本的な素養が勧められていました(例えば,名医が文人 の患者に薬と共に詩文を送るのは決して珍しくありませんでした) 。 これらは,現在でいえば,いずれも人間の精神とこころのバランスをと るという意味において,文学の効果,効用,役割を果たすことを教示して おり,人間にとって,起源から文学は欠かすことのできないことを示唆し ています。 1 9世紀イギリスの哲学者,経済学者 J 06 18 73 )は,1 0代頃 .S.ミル(18 からすでに 19世紀のトップの哲学者, 経済学者に肩を並べるような知識と 見識をもっていたが,しかし,2 1歳の時に, 精神の危機 に直面し,意欲 の減退と鬱状態に陥ったという。そしてワーズワースなどロマン主義の文 学に出会って,その危機を乗り越えましたが,その体験があったことか, 晩年 1 86 5年, セント・アンドルーズ大学の学長就任講演では, 学生に向かっ てこのように言っています。 科学教育はわれわれに え方を教え,文学教育はわれわれに思想の表 現の仕方を教えると言って何の差支えもないとするならば,その両方を 必要としないなどと,どうして言えるでしょうか。もしそのどちらか一 方を欠く人がいたならば,その人は,精神的に 16 5 弱で,片輪な,調和の 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) とれていない人間性の断片しか持ち合わせていないことになるでしょ う。 ( 中略)文学には,魂を高揚すると同時に魂を平静にし,高揚した感情の みならず穏やかな感情をも涵養するという偉大な力があります。 (中略) 文学はわれわれに真剣に人生を えさせ,そしてわれわれの前に義務と して置かれているものすべてを引き受けさせる素地を与える厳粛な,い わば瞑想的な感情を, われわれの胸底に深く刻み込みます。 ダンテやワー ズワースの詩,またはルクレティウスの詩やヴェルギリウスの 田園詩 を一通り学んだあとで,あるいはグレーの 美に寄せる賛歌 哀歌 をしみじみと味わったあとで,自 やシェリーの 知的 がよりよい人間に なったように感じない人が果たしているのでしょうか,と。 (J.S.ミル著,竹内一誠訳 演 教育について セント・アンドルーズ大学名誉学長就任講 お茶の水書房,1 98 3年,8 1 -8 2頁) 。 ミルは, 論理学体系 , 経済学原理 , 自由論 などを書き,会社に奉 職したり,政治家になったりして,生涯にわたって理性を働かせる 野に 携わっていたからこそ, 精神の危機 とは何を意味していたかをよく理解 していたと思います。言い換えれば,理性と感情の両方が必要であって, 一方を欠くなら,その人は精神的に 弱で,人間性の断片しか持ち合わせ ていないということを強調して, 文学教育の必要性を訴えていたわけです。 概していえば,人間は,バランスをとる必要があります。人文学とは, とりわけ文学とは,こころに自由を与え,イマージネイション, 培う掛け替えのない 造力を 野だけでなく,人間の,人生の,理性と感情のバラ ンスをとるのに欠かすことのできない 合的な 野です。その 合性が, 現在のグローバリゼーションの時代の必要性に応答できるかと思います。 ただし,あらゆるジャンルの文学,すべての作品が同じ効果があり,そ して,さらになんでも勝手に読むさえすれば,精神的,内面世界のバラン スが取れるようになるということは保証できません。そこに取捨選択とバ ランスが必要です。人文学とはその取捨選択とバランスを配慮し,バラン 16 6 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 スがとれた文学教育を施す場所です。それについて,アリストテレスは, その ニコマコス倫理学 においてすでに言っています。 然るべきときに,然るべきことがらについて,然るべき人に対して,然 るべき目的のために,然るべき仕方においてそれを感ずるということ,こ れは アレテ― (卓越的・優秀的)で,最善である ニコマコス倫理学 (11 06b1 82 3)という。 現代流に言い変えれば,グローバル化の時代に,人間に対して,人間性 の復権のため,教育の現場を通じて,みんなのバランスがとれた意識の回 復を目指して,人文学の作法で,バランスをとれた人間を感じさせること は,人々にとって最善だということになりましょうか。 つまり,文学とはあるべきとき,あるべきかたちで,あるべき時期に, あるべき読者に,あるべき劇をみせるべきです。 最後に,201 1年3月 1 1日の東日本大震災と津波が発生して,全国が悲観 的な 囲気に見舞われていたとき,ある文学の教員(渡辺憲司)は,次の ような文学的なエッセイをネット上に送って,文学をもって人々を勇気づ けていたことを書き留めてこの講演を終えたいと思います。 2 01 1年3月 11月以降,世界中の人がテレビに釘付けられ,映像に映って きた荒波の 色の海と,それによって引き起こされた恐怖と悲しみに苦し んでいました。そして日毎に浴びてくる恐怖に満ちた映像とニュースに無 防備に晒され,それによって襲われた悲観的な感情,無気力さ,あるいは その逆に無感情,強いては悲しみですら麻痺してしまったこころ・感情・ 内面世界(冷静さを保とうとする我慢の心情)は,一体,どうすればいい だろうかと,いわばこの人知を超えた災害に直面して,人間自身の感情・ こころはどう扱うべきか,なす術はなかったという状況でした。 その最中,3月 16日, 時に海を見よ という以下の高 セージがネットに送られてきたのです。 16 7 卒業生へのメッ 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) ( かつて)私の脳裏に浮かんだ海は, 真っ青な大海原であった。 しかし, 今,私の目に浮かぶのは,津波になって荒れ狂い,濁流と化し,数多 の人命を奪い,憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これか ら述べることは,あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思える かもしれない。私は躊躇した。しかし,私は今繰り広げられる悲惨な 現実を前にして,どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私 はこのささやかなメッセージを続けることにした。 ( 中略)悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は,さざ波のような調 べでないかもしれない。荒れ狂う 色の波の音かもしれない。 時に,孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自 の夢が何である か。海に向かって問え。 (中略)いかなる困難に出会おうとも,自己を 直視すること以外に道はない。 いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも,それを直視することの他に 我々にすべはない。 海を見つめ,大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。 ( 中略) 出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別 れのカウントダウンが始まった。 (渡辺憲司 時に海を見よ 双葉社,2 0 11年,81 3頁) このタイトルと内容からわかるように,これは敢えて悲劇をもたらした 海に直面し,悲劇に向かって,悲しみを希望に変え,清々しいロマン主義 的な文学を基底にしたエッセイであろうかと思います。というよりもそれ は文学そのものであり,思想・イデオロギー・宗教・体制などを背景にし て綴られたものではなく,純粋に文学それ自体のパワーによって悲劇を希 望に変えようとした一例であります。非常に短いエッセイでしたが,すぐ 感動的すぎ , 勇気をもらった というような大きな反響を呼び,それが 全国に広がり,マスコミにも取り上げられました。 人文学とは,とりわけ文学とは,こういう時にも最善を尽くそうとする 野です。 16 8 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 人文学部開設 2 0周年記念シンポジウム当日, 会場には 1 0 0人近い来場者 の姿があった。学部生・院生と教職員はもとより,両学科卒業生や退職教 員のご足労もあり,人文学部の新たな一歩を踏み出す機会となった。その 括と報告記は,本学 学報 第 9 5号(2 0 13年9月1日)1,2面に掲載 されており,併せてお読みいただきたい。 以下,当日のパネリスト相互による質疑応答と,会場からの質問を え た全体討議を手短に記しておく。 パネリスト相互間での質疑応答 パネリスト3氏による セッション のあと,安酸敏眞氏の司会により, 約 20 間のパネリスト相互による質疑応答が行われた。 まず, 名氏から,佐藤・アイトル両氏に,近代とは人類にとってひじょ うに強力なシステムであるが,そういうシステムを相対化し,批判をする 決め手は見つかりにくい。ついては,そのヒントを教示してほしいという 質問があった。 対して,佐藤氏から, なかなか難しい質問 と前置きがあったうえで, 近代というシステムを全く別のものに変えることは不可能だが,さまざま な形できしみが出ているただ中に私たちがいることは れもないことであ る。私たちは,なぜそのようなきしみが出ているのか,長いスパンで る素材を提供することはできるだろうと,看取りの場や国境 え 争を例に挙 げての回答があった。続けてアイトル氏から,近代は,言語の基礎からあ まりにも激しい変化があったが,文学には人の心を癒す役割もあるとし, 3 . 11 後に話題となったある高 教員のエッセイにもふれた回答があっ た。 次に,佐藤氏から 名氏に,リアリティが消えた今日,死にまつわる儀 礼の伝承を, 昆虫標本 のようではないどのような形で活かしていけるの か,という質問があった。また,アイトル氏に対しては,現代はツイッター など言葉があふれている時代だが, 逆に言葉の力が失われた時代でもある。 16 9 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 文学にはやはり人を感動させる力があると思うのだが,学問にしてしまう と作文の技術のようになり,文学の最も良い力を消してしまうという 析 もある。それについてどうだろうか,という質問があった。 対して, 名氏から,保存の方法や技術については,近代こそさまざま な可能性を示しているとし,現在変容してきた図書館のあり方にも言及し た。そのうえで,保存は,継承する世代に対する配慮も必要だろうという 回答があった。アイトル氏からは,日本の小学 けているのは イマジネーション教育 や から大学までの教育で欠 想像力 であるとし,その力 を持っているものこそ文学である,との回答があった。加えて,死と対話 することも想像力であり,その想像力が文学作品の中でどう構成されてい るかを 析することも重要だという回答があった。 次に,アイトル氏から 学 の 名・佐藤両氏に,西洋ではキリスト教学は 野に入るが,日本ではなぜ 人文学 神 の中に入っているのか,と いう質問があった。また,佐藤氏には, カミ とは神々(複数形)のこと か,という確認があった。 対して, 名氏から,キリスト教学は日本の씗哲 文> (=哲学・ 学・ 文学)の中では哲学に入るので,人文学的である。しかし西洋では,キリ スト教学はやはり神学での専門研究がメインであり,人文学の中に存在す るキリスト教学を説明するのに苦労する,との回答があった。しかしなが ら,近年では世界的にキリスト教学を人文学として研究する可能性も見出 し得るという付言もあった。佐藤氏からは, カミ は複数形であるという 回答があった。 全体討議 1 0 間の休憩を挟んで,フロアからの質問用紙に対する応答が行われ, より開かれた議論が展開された(司会は引き続き安酸氏による) 。 まず,会場質問者A氏(人文学部卒業生)から,資本主義や科学,理性 的な発言が尊重されている現代だが,思いやりや文学,感情的な発言など のなし得る役割を えると,今後の日本のために人文学でどういった研究 17 0 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム 記録 を深めてゆけばよいのか,という質問があった。 対して, 名氏から, 資本主義 に限定しての回答だが,と前置きがあっ たうえで,資本主義にも近代にも,いろいろな問題があっても軌道修正を 巧みにする柔軟な構造がある。人文学は,それなりの軌道修正をする問題 提起ができるだろうし,しなくてはならないのではないか,という回答が あった。 また,アイトル氏から,人文学は新しい想像学であり,その新しい想像 が未来につながるという回答があった。 次に,会場質問者B氏(桑原俊一名誉教授)から,紀元前のシュメール の文化を例に挙げ,死者儀礼を重んずるよりも,むしろ現世を楽しみなさ いという文化も存在していたのでは,という質問があった。 対して,佐藤氏から, たいへん興味深いご指摘 という言葉に続けて, 古代から江戸時代までの時代ごとの流れが簡潔に例示され,今日は近代を 切り離しての発言であったという回答があった。 次に,会場質問者C氏(人文学部生)から,佐藤氏に,領土問題はどの ように解決するのがよいと思うか,という質問があった。 対して,佐藤氏から,そもそも近代以前には領土などの発想はなく,た まに地図や文献に これはこっちのほうのもの だと出ていたとしても, 近代的な意味での領土とはまったく違う概念であることを,まずきちんと 提起しなくてはならないという回答があった。 次に,会場質問者D氏(大石和久人文学部教授)から,セッションで近 代の不可逆性という重要な指摘があったが,近代が抱えるさまざまな問題 を癒すような新しい文化の 生を見守ることが新しい人文学の可能性につ ながるように思う,と述べたうえで,まず佐藤氏に, ゆるキャラ のどう いう点が現代版のカミなのか,という質問があった。 対して,佐藤氏から,人間同士はあまりにもストレートに向き合うと息 苦しい。しかしカミは,それを防ぐようなシステムを持っており,ひじょ うに重要な要素だと示した。そして現代,ペットやゆるキャラがそのよう な役割を果たしているのではないか,と述べたうえで,しかしそれ以上の 17 1 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) ことはないという回答があった。 続けて同じD氏から,アイトル氏に,近代文学には写実的で合理性を追 求する傾向とともに,シュルレアリスムなど合理性を否定するような動き もあり,コインの表裏のようだったのでは,という質問があった。 対して,アイトル氏から,首肯する質問ではあるが,近代日本では写実 主義的な文学のほうが評価が高く,市民権も得てきた。その背景には近代 があまりにも実利主義を求めすぎてきたことがある,といくつかの実例を 挙げながら,その問題の根深さが回答された。 次に,会場質問者E氏(千葉宣一名誉教授)から,佐藤氏に,本日は折 口信夫の民俗学について言及がなかったようだが,という質問があった。 また, 名氏に,現在の京都大学哲学科において西田幾多郎の哲学はどの ような状況に置かれているのか,さらに,田辺元の論文に対する反響はど うか,という質問があった。 対して,佐藤氏から,折口信夫や柳田国男や網野善彦らが提起した,カ ミという存在を歴 の中に取り込む作業はひじょうに重要であり,カミの リアリティを前提とするような歴 学を自 も えてみたいと思ってい る,という回答があった。 名氏からは,京都大学大学院文学研究科日本哲学 専修の現況が伝え られ,田辺元の研究についても,さまざまな角度から現在もなされている という回答があった。 その後,司会の安酸氏からパネリスト三氏に,本学人文学部生への励ま しの言葉及び人文学の可能性を一言ずつお願いしたい,という促しがあっ た。 対して,まずアイトル氏から,本学の歴代の教授は文学を大事にしてき た。学生たちも,文学・歴 ・哲学などにいっそう興味を抱いてほしい, という発言があった。 次に,佐藤氏から,人間とは一体何なのか 얨この問いかけこそが人文 学にとって一番重要な問いであろう,という発言があった。 続けて, 名氏から, 私たちが人間であるということの問い を停止し 17 2 北海学園大学人文学部開設 20周年記念シンポジウム ない限り,人文学はあり得ざるを得ない。自 記録 や他者に対する関心や興味 を,まず大切にしなければならない,という発言があった。 最後に,元文学研究科長大濱徹也氏から,主催者へのねぎらいと人文学 部への期待の言葉が述べられ,閉会となった。 17 3 (文責:田中 綾) ★逆ノンブル★ ︵ 一 ︶ そ の 直 後 、 三 浦 綾 子 の 単 行 本 未 収 録 エ ッ セ イ 四 一 篇 を 収 短 3 歌 ︵ 益 財 二 얧 〇 団 ア 一 法 ラ 四 人 ラ 年 北 ギ 三 海 道 月 文 土 ︶ 屋 に 学 文 、 館 明 田 編 選 中 資 歌 綾 料 の 三 情 察 浦 報 ︵ と を 堀 研 究 執 田 筆 ︶ 綾 2 し た 子 0 。 の 1 り 、 一 九 五 九 年 一 〇 月 号 掲 載 作 か ら 、 結 婚 後 の 一 七 八 首 で あ る 。 当 初 は 旧 姓 堀 田 綾 子 で の 掲 三 載 浦 で 綾 あ ア ラ ラ ギ 掲 載 歌 は 、 一 九 四 九 年 か ら 六 一 年 ま で の 全 作 家 デ ビ ュ ー 以 前 の 作 活 動 で あ っ た 短 歌 に つ い て 、 品 が 読 み 継 が れ て い る こ と を あ ら た め て 実 感 し て い る 。 文 学 館 で の 特 別 展 な ど も 開 催 さ れ 、 世 代 を 超 え て 三 浦 作 ラ 方 な 旭 ギ 組 業 川 織 績 ア 本 で で ラ 誌 あ あ ラ 1 掲 る る쐍 ︶ 。 ギ 載 会 の 旭 そ 々 短 川 の 報 歌 ア 労 を ラ 作 発 資 ラ を 表 料 ギ 補 の と 会 う 短 か 歌 し て の た の 提 母 ち 調 示 体 で 査 し で 、 が た あ 本 何 い っ 稿 よ 。 た で り は も ア 、 大 ラ 地 き に あ た る 。 三 浦 綾 子 記 念 文 学 館 で の 記 念 事 業 や 、 北 海 道 三 浦 綾 子 の 短 歌 の 研 究 に つ い て は 、 上 出 恵 子 氏 に よ る 、 あ り き 、 こ の 土 の 器 を も 、 歌 集 未 収 録 今 年 は 、 三 浦 綾 子 の 代 表 作 氷 点 発 表 か ら 五 〇 年 目 機 で は な い か と 感 じ て い る 。 り 、 偶 然 の こ と と は 言 え 、 三 浦 綾 子 の 短 歌 を 察 す る 好 22 6 れ た 。 そ こ に は 、 短 歌 に 関 す る エ ッ セ イ も 収 め ら れ て お キ ー ワ ー ド 資 料 紹 介 三 浦 綾 子 、 ア ラ ラ ギ 、 土 屋 文 明 、 道 三 浦 ︵ 堀 田 ︶ 綾 子 の ア ラ ラ ギ め た ご め ん な さ い と い え る ︵ 小 学 館 、 同 年 ︶ が 刊 行 さ 田 中 綾 ・ 池 田 和 利 掲 載 歌 北海学園大学人文論集 名 る 変 。 以 ま 下 後 た 、 の 、 資 初 料 旭 期 紹 川 作 介 ア 品 と ラ は な ラ る ギ 旭 が 会 川 、 報 ア 歌 ラ 番 旭 ラ 号 川 ギ は ア 会 ラ 々 宜 ラ 報 上 の ギ 月 及 も 報 び の 、 で 掲 誌 あ つ か の 異 同 で が も あ ふ る れ こ て と い は 3 、 る쐍 ︶ 。 前 出 の 拙 稿 子 の 短 歌 三 浦 ︵ 堀 田 ︶ 綾 ア 行 旭 ラ き フ 凍 川 り オ ラ た ル ア た ラ ギ り マ る リ 蜜 ラ 一 ン 柑 ギ 九 の を 会 五 匂 口 報 〇 ふ に 年 第 含 四 四 み 月 に 居 号 号 着 れ ︵ 一 ば 九 其 へ 俄 二 つ か 五 つ に 〇 土 心 熱 年 屋 素 き 一 文 直 泪 月 明 二 に 4 選쐍 ︶ な れ 八 り 來 日 て ぬ ︶ 小 説 引 用 に 際 し て の 異 同 は 本 稿 で は 示 さ な い が 、 い く 掲 載 歌 で あ る こ と も 確 認 で き た 。 が 一 一 首 引 用 さ れ て お り 、 そ の 中 の 九 首 が ア ラ ラ ギ ※ の ち 、 道 あ り き 一 五 章 で 引 用 。 部 / 結 婚 編 ︵ 主 婦 の 友 社 、 一 九 七 〇 年 ︶ に も 、 自 作 短 歌 第 57号(20 14年8月) そ の 続 編 に あ た る こ の 土 の 器 を も 道 あ り き 第 二 ラ る 友 ラ が 社 ま ギ ︵ 、 た う 一 、 掲 ち 九 自 載 三 六 伝 歌 首 九 的 で は 年 小 あ 二 ︶ 説 る 回 に で ︵ ず も あ う つ 自 る ち 引 作 道 二 用 短 あ 首 ︶ 、 歌 り は そ が き 二 の 四 回 中 三 青 ず の 首 春 つ 二 引 編 引 〇 用 用 首 さ ︵ 主 ︶ 。 は れ て 婦 ア い の 1 ア ・ ラ め 夜 ず 夜 ラ ず 半 な に ギ な り 帰 り に ぬ り ぬ 一 り 九 て て 五 衣 〇 着 服 年 に も 二 も へ 月 へ 号 ず ず 其 る 二 る 吾 吾 を 土 を 此 屋 こ 頃 文 の 頃 明 母 選 は 母 咎 は 咎 め 22 5 旭 川 ア ラ ラ ギ 会 々 報 第 一 号 ︵ 発 行 年 月 日 不 明 ︶ た ら こ れ と た が が わ 、 か こ っ の 度 2 た쐍 ︶ 。 の 調 査 で 、 歌 集 未 収 録 の 作 品 が 八 首 あ っ 可 能 性 も あ る こ と を 付 言 し て お き た い 。 る 添 削 が 慣 例 的 に 行 わ れ て お り 、 そ の た め の 異 同 で あ る 子 合 同 の 歌 ち 名 集 、 と こ な 共 れ っ に ら た 歩 。 め ア ば ラ ︵ ラ 聖 ギ 燈 社 掲 、 載 一 歌 九 は 七 、 三 三 年 浦 ︶ 光 に 世 ま 氏 と と め の は 特 に ふ れ な い ︶ 。 な お 、 ア ラ ラ ギ 本 誌 で は 選 者 に よ 異 同 を 傍 線 で 示 し て お い た ︵ 旧 字 ・ 新 字 の 異 同 に つ い て 載 を 初 出 と す る も の も あ り 、 そ れ ら に つ い て は 併 記 し 、 ︵ 二 ︶ 資料紹介 旭 川 ア ラ ラ ギ ふ 会 報 あ ら 第 む 七 片 号 目 ︵ 細 一 九 め 五 る 〇 表 年 情 八 も 月 俄 二 か 〇 に 日 悲 ︶ し い つ の 日 か 原 因 を 語 り て 呉 れ ず ︵ 三 ︶ カ ル テ 一 杯 に ド イ ツ 語 を 書 き な ぐ る こ の 医 も 熱 発 の げ と な る 5 ・ 乾 パ ン を べ る 自 炊 生 活 も し き を 歌 に 詠 へ ば 佗 し 旭 川 ア ラ ラ ギ 会 報 第 一 一 号 ︵ 一 九 五 〇 年 一 二 月 三 日 ︶ さ ら ぬ 君 三浦(堀田)綾子の ア ラ ラ ギ 一 九 五 〇 年 一 〇 月 号 其 二 土 屋 文 明 選 8 ・ 二 月 九 日 霧 が 流 れ 居 し 夜 の こ と 吾 程 覺 え て ゐ て は 下 書 い て あ る アララギ 4 ・ 病 む 君 が 三 日 掛 り て 書 き ア ラ ラ ギ れ し 端 書 に あ あ 冗 談 等 も 其 二 も 書 い て 一 あ 九 る 五 〇 年 七 月 号 土 屋 文 明 選 ア ら 二 旭 ラ ぬ 月 川 ラ 君 九 ア ラ ギ 日 ラ 霧 ギ 一 が 会 九 流 報 五 れ 一 ゐ 第 年 し 一 一 夜 〇 月 の 号 ︵ 号 こ 一 と 九 其 吾 五 二 程 〇 憶 年 土 え 一 屋 て 一 文 ゐ 月 明 て 一 選 は 二 下 日 さ ︶ 22 4 病 む 君 が 三 日 か か り て 書 き 呉 れ し 葉 書 に あ ゝ 冗 談 な ど 掲載歌 (田中・池田) 旭 川 ア ラ ラ ギ 会 報 第 六 号 ︵ 一 九 五 〇 年 七 月 一 〇 日 ︶ 7 ・ ア 想 吾 ラ ひ が ラ ギ を り を く 一 す 九 べ 五 し 〇 匂 年 ひ 一 滿 二 て 月 る 号 部 屋 其 に 二 あ あ 土 耐 屋 へ 文 難 明 く 選 君 ※ 3 は の ち 、 道 あ り き 二 一 章 で 引 用 。 て 行 き た り 2 3 ・ ・ フ ぬ 凍 り ォ た ル る マ 蜜 リ 柑 ン を の 口 匂 に ふ 含 み 居 に れ 着 ば 俄 へ か つ に つ 熱 心 き 素 直 に れ な 來 り 6 ・ い つ の 日 か ア き ラ も し ラ の き ギ と も な の 一 り と 九 ぬ な 五 り ふ 〇 ぬ 事 年 ︵ 異 あ 同 ら 一 な む 一 月 片 号 し ︶ 目 細 其 め 二 る 表 土 も 屋 文 俄 明 か に 選 悲 北海学園大学人文論集 1 1 ・ も 朝 と 霧 な ゆ に り 馬 し 鐵 君 の ひ づ め が 聞 え 來 て 君 の 張 り あ る 笑 ひ 聲 1 2 ・ ア 言 牛 ラ ラ ふ 友 配 ギ が あ を 一 り し 九 て 五 育 一 ち 年 た 六 る 月 吾 号 な る 其 に 二 お 土 屋 さ 文 ん 明 ね 選 と 唯 に 疲 れ ぬ 15 ・ ア り 機 ラ ぬ ラ 取 ギ ︵ ら 異 れ 一 同 九 ゐ な る 五 し 一 と ︶ 知 年 り 九 つ 月 つ 号 機 其 よ 二 く 振 土 舞 屋 文 ひ 明 し 選쐍 5 ︶ 一 時 間 導 か れ つ つ 叱 ら れ つ つ 来 し 二 年 何 時 し か 深 く 愛 し て 居 だ に 疲 れ ぬ 機 旭 川 ア と ラ ら ラ れ ギ ゐ 会 る 報 と 知 第 り 一 つ 八 つ 号 機 ︵ 一 よ 九 く 五 振 一 舞 年 ひ 七 し 月 一 一 時 五 間 日 た ︶ 第 57号(20 14年8月) 1 0ア ・ ラ 自 ラ ら ギ り 一 行 九 く 五 一 程 年 か 五 吾 月 歌 号 を 批 其 二 し 土 る 屋 る 文 事 明 も 選 稀 ま れ ゆ ︵ 異 同 な し ︶ 朝 霧 に 馬 鉄 の ひ づ め が 聞 え 来 て 君 の 張 り あ る 笑 ひ 声 も れ と な り し 君 旭 川 ア ラ ラ り ギ 行 会 く 報 過 程 第 か 一 吾 三 が 号 歌 ︵ を 一 批 九 評 五 し 一 年 る 二 る 月 一 も 一 稀 日 ま ︶ 自 か ら 14 ア ・ ラ て 床 旭 て 床 ラ ゐ 頭 川 ゐ 頭 ギ る の ア ラ る の 洗 ラ 洗 一 面 面 九 器 ギ 器 五 を 会 を 一 鳴 報 叩 年 ら 第 き 八 し て 月 て 一 母 号 母 六 を を 号 ︵ 呼 其 呼 一 ぶ 二 ぶ 吾 九 吾 が 五 が 土 細 一 細 屋 き 年 き 文 手 五 手 明 を 月 を 選 君 二 君 が 七 が 見 日 見 ︶ 22 3 因 を 語 り て 9 ・ カ ル テ 一 杯 に 獨 ア ラ ラ ギ 一 九 五 れ 一 ず 年 語 二 を 月 書 号 き な 其 ぐ 二 る 此 土 醫 屋 師 文 も 明 熱 選 發 の 原 に 類 さ れ て あ り ぬ 1 3 ・ ア わ ラ れ ラ ギ が を 一 愛 九 す 五 一 る 年 氣 持 七 の 月 曲 号 折 其 は 心 二 理 學 土 屋 敎 文 科 書 明 に 選 簡 ︵ 四 ︶ 資料紹介 旭 川 ア ラ ラ ギ 月 報 第 二 一 号 ︵ 一 九 五 一 年 一 〇 月 二 一 日 ︶ ア ラ ラ ギ ゐ る 安 静 時 一 間 九 五 二 年 三 月 号 其 二 ︵ 五 ︶ 土 屋 文 明 選 三浦(堀田)綾子の 1 9ア 旭 ・ ラ ゐ 下 川 る 下 ラ る 着 ア も ラ 着 ギ 着 ラ も 物 ギ 着 一 も 会 物 九 み 報 も 五 な 姉 一 姉 第 の 年 の 二 古 一 古 〇 を 二 を 号 着 月 着 ︵ て 号 て 一 露 露 九 草 其 草 五 二 乱 一 る る 年 る 土 る 九 土 屋 土 月 手 文 手 一 に 明 に 六 選 ひ 日 ひ ︶ ゐ 仰 向 き し ま ま に 紅 刷 く 和 田 さ ん を 泉 さ ん が 手 鏡 で 見 て 旭 川 ア ラ ラ ギ 月 報 第 二 四 号 ︵ 一 九 五 二 年 一 月 二 〇 日 ︶ ※ 21 ら は ぬ の の ち に 、 道 あ り き 二 三 章 で 引 用 。 アララギ 掲載歌 (田中・池田) 18 ア ・ き 部 ラ に 屋 ラ ギ 中 に 一 九 器 五 一 ふ 年 は 一 か 一 く 月 号 も 淋 し 其 き 二 も の 土 と 屋 思 文 は 明 ざ 選 り 17 ア ・ ラ り 愬 ラ 來 へ ギ る た き 一 想 九 ひ 五 に 一 ベ 年 ツ 一 ド 〇 に 月 待 号 ち ゐ 其 れ 二 ば 汗 土 拭 屋 ひ 文 つ 明 つ 選 君 入 2 1ア ・ ラ 五 ラ 十 ギ 歳 の 一 九 長 五 夫 二 人 年 べ ひ に 二 何 月 て 時 号 ゐ も る 何 其 そ 時 二 れ も で コ 土 は ー 屋 ヒ 文 し ー 明 い を 選 夕 奢 餉 ら と れ な 22 ・ 母 て 一 ゐ 人 る あ 冷 な た を は 22 2 五 十 才 の 社 長 夫 ひ 人 に 何 時 も い つ も コ ー ヒ ー を 奢 ら れ て ゐ る あ な た は 旭 川 ア ラ ラ ギ 月 報 第 二 三 号 ︵ 一 九 五 一 年 一 二 月 一 六 日 ︶ 1 6 ・ 居 り か ぬ れ つ つ 叱 ら れ つ つ 來 し 二 年 何 時 し か 深 く 愛 し て 2 0 ・ ア き 相 ラ 病 ラ ギ め ば 何 一 時 九 五 二 續 年 く 幸 一 な 月 ら 号 む 唇 其 合 二 は せ 土 つ 屋 つ 文 泪 明 こ 選 ぼ れ 相 病 め ば 何 時 続 く 幸 な ら む 唇 合 は せ つ つ 泪 滾 れ き 北海学園大学人文論集 て ゐ た り の 言 葉 忘 れ ら れ ず 異 性 へ の 伝 道 は む づ か し い で す 五 十 五 才 の 西 村 先 生 第 57号(20 14年8月) の 目 醒 め に 想 ひ 2 5 し 天 と 相 く 旭 ・ ア ラ ゐ 相 ラ た 理 想 病 は 川 病 ギ り 教 ふ み 二 ア の み て 〇 ラ ラ 本 て 一 こ 日 ギ よ こ 九 の ︶ 月 ま り の 五 報 読 ま ま 二 果 ま ま 年 第 つ ぬ 果 六 二 べ 母 つ 月 七 の し べ 号 号 こ 一 ︵ し と 度 一 一 其 夜 で 九 度 二 も 半 五 で 君 の 二 も 土 に 目 年 君 屋 ざ 抱 四 に 文 か め 月 抱 明 れ に 二 か 選 臥 思 四 れ た ひ 日 臥 し て も し 旭 川 ア ラ ラ ギ 月 報 第 三 三 号 ︵ 一 九 五 二 年 一 〇 月 一 七 日 ︶ 30 ア ・ ラ り 萩 ラ き 群 ギ る る 一 彼 九 方 五 に 二 牛 年 が 一 移 一 り 月 行 号 き 夕 其 陽 二 の 丘 土 に 屋 二 文 人 明 の 選 み な 2 6 ・ 天 た 理 し 敎 と の 思 本 ふ よ り 讀 ま ぬ 母 の こ と 夜 界 で 私 も 讀 み ま し た 2 9 ・ ア 英 ラ 語 ラ 多 ギ く 混 一 九 へ 五 て 二 語 年 る 一 あ 〇 な 月 た 号 の 和 其 論 二 そ 土 れ 屋 は 文 誌 明 選 世 22 1 24 ア ・ ラ り 喘 ラ ぬ 鳴 ギ が 漸 一 く 九 收 五 ま 二 り 年 し 四 君 月 の 号 胸 に 其 三 二 十 秒 土 程 屋 抱 文 か 明 れ 選 別 れ 來 2 8 ・ ア ラ ら 離 ラ む れ ギ 病 む 君 一 に 九 書 五 二 く 年 時 化 八 粧 月 す 号 る 其 慣 ひ 二 は 何 土 屋 時 文 の 頃 明 選 よ り な ゐ る 安 靜 時 間 2 3 ・ 仰 向 き し ま ま に 紅 刷 く 和 田 さ ん を 泉 さ ん が 鏡 で て 2 7 ・ ア ラ に ラ し 和 ギ て よ り も 一 獨 九 立 五 二 よ 年 り も 七 君 月 が 号 病 其 は 二 吾 が 土 屋 關 文 心 事 明 の 選 第 一 ︵ 六 ︶ 資料紹介 3 5 ・ ア ラ の 手 ラ 手 ギ を 前 取 は 一 る も 九 つ と 五 優 三 し 年 か 六 月 つ 号 た と 其 思 二 ・ ひ 札 乍 土 6 ら 幌쐍 ︶ 屋 細 堀 く 文 田 な 明 綾 つ 選 子 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45 ・ 君 ギ プ き ス て に 日 臥 を し 經 て る に つ れ 淋 し け れ 今 朝 は 初 め て 郭 50 ア ・ ラ 原 ラ 罪 ギ の 思 一 想 九 に 五 五 き 年 下 一 さ 月 れ 号 し 亡 其 き 二 君 の 土 激 屋 し 文 き 明 選 を 想 ひ 4 4 ・ ア ラ 君 ラ 死 ギ に て 一 淋 九 し 五 い 四 だ 年 け 九 の 月 号 日 な 其 の 二 に 生 土 き 屋 ね 文 ば 明 な 選 ら ぬ か に 君 は 死 に ゐ き 4 9ア ・ ラ ラ か ギ き 君 の 一 手 九 と 五 感 四 じ 年 つ 一 つ 二 醒 月 む 号 醒 む 其 れ 二 ば あ 土 あ 屋 五 文 ヶ 明 月 選 前 ※ 4 3が は た の し ち 、 道 あ り き 四 三 章 で 引 用 。 第 57号(20 14年8月) 4 3 ・ 雲 き ひ た と り つ 流 る る 五 月 の を 見 れ ば 君 き し と は 信 じ ※ の ち 、 道 あ り き れ て く れ る か も 知 で れ 四 ず 三 章 で 引 用 。 41 ア ・ ラ し 繰 ラ か ギ し 一 去 九 の 五 み 四 を 年 想 七 ふ 月 日 号 々 病 其 み 二 て 老 土 い 屋 た 文 る 明 如 選 く な り 42 ア ・ ラ し ラ つ ギ か り 一 と 九 抱 五 き 四 合 年 ひ 八 て 月 居 号 り た 其 る 二 に 君 土 の 屋 み 文 明 に 選 に 4 8 ・ ア 闇 ラ ラ 中 ギ に 眼 一 開 九 き 五 て 四 吾 年 は 一 居 一 り 月 ひ 号 よ つ 其 と 二 し て 土 亡 屋 き 文 君 明 が 選 現 は 21 9 ※ 二 首 と も 、 の ち 、 道 あ り き 4 7 ・ 耳 ま の ら 中 ざ に り 流 け れ り し 泪 を 拭 ひ つ つ 四 三 章 で 引 用 。 新 た な る 泪 れ 來 つ 46 ア ・ ラ 君 ラ が ギ 形 見 の 一 丹 九 前 五 四 に 年 刺 し 一 あ 〇 り 月 号 し 爪 楊 其 枝 二 を 土 見 屋 れ 文 ば 明 泪 選 の と ※ の 日 ち 々 、 道 あ り き 四 四 章 で 引 用 。 ※ 二 首 と も 、 の ち 、 道 あ り き 四 三 章 で 引 用 。 ︵ 八 ︶ 資料紹介 55 同 ・ 号 君 て の 其 ゐ 쐍 寫 三7 た ︶ 眞 の に か 供 へ し 蜜 柑 を 下 げ て ぶ る か か る 淋 し さ ※ 58 わ は れ の ら ち の 、 世 界 道 あ り き 四 三 章 で 引 用 。 ︵ 九 ︶ 三浦(堀田)綾子の 5 4ア ・ ラ 丘 ラ に ギ 佇 ち 一 君 九 に 五 撮 五 さ 年 れ 四 ゐ 月 し 号 時 も 其 こ 二 ん な 土 に 屋 淋 文 し 明 い 選 ※ の ち 、 道 あ り き の 國 よ り 四 三 、 五 一 章 で 引 用 。 を し 6 0 ・ 冷 ギ 淡 プ に ス に は 臥 り し 乍 て ら 兄 弟 姉 妹 と 呼 ぶ な り ク リ ス チ ヤ ン 5 9同 ・ 号 キ リ 其 ス 三 ト 村 よ り き し 卵 を 一 つ 一 つ 掌 に 載 せ て ゐ き 年 に て き ぬ アララギ 5 3 ・ ア 妻 ラ の ラ 如 ギ く 想 一 ふ 九 と 五 吾 五 を 年 抱 三 き 月 く 号 れ し 其 君 二 よ 土 君 屋 よ 文 明 り 選 來 よ 天 58 ア ・ ラ さ ラ ま ギ ざ ま 一 の 九 苦 五 し 五 み 年 の 六 果 月 て 号 に 知 其 り 二 し 君 土 そ 屋 の 文 君 明 も 選 5 2 ・ ア ラ く 幼 ラ 子 ギ を 撫 一 づ 九 る 五 如 五 く 年 に 二 吾 月 が 号 頭 を 其 撫 二 で て 土 病 屋 室 文 を 明 出 選 で て 行 期 を 聞 き ぬ か 五 21 8 掲載歌 (田中・池田) 5 1 ・ ※ 二 き 山 ゐ 鳩 つ 首 の と 鳴 も き 、 ゐ の る ち 夕 、 の 道 丘 あ な り り き き 跪 四 き 三 イ 章 エ で ス 引 に 用 共 。 に 56 5 7同 ・ ア ・ 号 ラ 癩 し 握 ラ 手 ギ 園 其 し の 三 て 人 別 一 ら れ 九 の て 五 爲 五 行 年 に け ば 五 り 君 月 つ は 号 つ 君 其 き の 二 し て 生 ふ 活 土 屋 死 に 文 刑 囚 り 明 君 ゆ 選 の く 最 べ り ※ の ち 、 道 あ り き 四 三 章 で 引 用 。 は 想 ひ み ざ り き 北海学園大学人文論集 譯 し 下 さ れ て ゐ き 6 5 66 同 ・ ※ ・ 号 4な 女 齋 用 6 藤 其 。 は か よ ぎ の り り つ 茂 三 ち き も 吉 優 、 の し 道 筆 き あ を 人 り と き り 云 く は 四 れ る 五 し れ 章 君 ど で ド 主 、 イ 張 6 5 ツ 曲 は 語 げ 同 は し 四 皆 事 三 欄 は 章 外 君 で に に 引 7 2 73 同 ・ ア ・ 号 胸 り 獨 ラ ラ に 其 ぬ よ ギ 載 三 り せ 見 一 て た 九 る 五 ぶ 花 五 る 火 年 四 の 一 年 美 一 に し 月 吾 く 号 が 悲 し 其 か 二 肉 り づ し 土 き と 屋 て 書 文 ま き 明 ろ て 選 く 來 ま 7 1 ・ 年 ゐ 下 た の り 君 け に り 優 し く も の 言 ひ て 吾 の 心 の 落 着 き て ゆ く 第 57号(20 14年8月) 6 4 ア ・ ラ 君 ラ が ギ き し 午 前 一 時 を 廻 ら ね ば 睡 ら れ ぬ 慣 ひ に 一 年 6 3 ・ て ふ る 靜 へ に 坐 り き 靜 た に り と 振 舞 へ ど 夏 み か ん の 皮 を む く 時 指 が 一 九 五 五 年 八 月 号 其 二 土 屋 文 明 選 7 0同 ・ 号 亡 き 其 君 三 の 澄 み た る を 想 ひ つ つ 人 に 手 を 取 ら れ 吾 が 21 7 氣 づ き て 居 り ぬ 6 9 ・ ア 苺 ラ ジ ラ ュ ギ ー ス 一 を 九 一 五 口 五 年 み 一 て 〇 月 さ 号 り げ 其 な 二 く 話 土 題 屋 を 文 變 明 へ 選 し に し ば ら く に し 6 1ア ・ ラ コ ラ ル ギ セ ッ 一 ト 九 を 五 着 五 て 年 漸 七 く 月 に 号 立 つ 其 吾 二 を 亡 土 き 屋 君 文 の 明 寫 選 眞 が 見 68 ・ 靑 た の く し は 聲 く 立 ビ つ ニ て ー ゐ ル る の 布 を 胸 に 敷 き 膳 を 待 ち 居 れ ば 郭 6 7 ・ ア 五 ラ 年 ラ ギ ぶ り に 一 て 九 下 五 五 駄 年 を 履 九 き 月 に 号 き 其 土 の 二 上 に 土 屋 あ 文 あ 生 明 き 選 て わ 62 同 ・ 号 椅 子 其 よ 三 り 立 ち て 何 か 云 は む と す る 表 て ゐ て 下 さ る ︵ 一 〇 ︶ 資料紹介 る 言 葉 も 出 來 ぬ 7 8 ・ ア ラ ど ラ の ギ な 一 未 九 來 五 と 六 な 年 る 二 か 月 は 号 わ か 其 ら 二 ね ど 土 二 屋 人 文 の 明 み 選 に 三浦(堀田)綾子の す 吾 は 知 る ず ︵ 一 一 ︶ 84 ア ・ ラ 次 ラ 々 ギ と き 一 言 九 五 葉 六 を 年 吐 六 く 月 彼 号 の 時 其 に 二 自 信 な 土 き 屋 表 文 明 と 選 な る 8 3同 ・ 号 ゐ 肉 つ 厚 其 き 三 君 が 手 を 双 手 に は さ み つ つ ぐ 心 を 押 し 鎭 め 7 7同 ・ 号 素 直 其 な 三 少 年 と 云 は る る 汝 の や す や す と 噓 つ く 事 を 臥 き に 會 ひ ぬ 氣 づ き ぬ アララギ 7 6 ・ ア ラ 生 ラ け ギ る ご 一 と 九 五 笑 六 む 年 寫 一 眞 の 月 君 号 に 向 其 ひ 二 話 し 土 か 屋 け 文 ゐ 明 し 選 吾 に 8 2 ア ・ ラ 伸 ラ ば ギ し か 一 け 九 し 五 六 に 年 手 五 を 月 や 号 る 少 其 年 二 の 思 土 ひ 屋 が 文 け 明 な 選 く 淋 し 言 ひ 給 ふ な り 21 6 掲載歌 (田中・池田) か ら じ つ と て ゐ る 8 1 ・ ア わ ラ ラ が ギ 傍 ら 一 に 九 版 五 畫 六 を 年 刷 四 り 月 て 号 ゐ し 其 君 二 が 不 土 意 屋 に 文 獨 明 り 選 ご と を 7 5 ・ ア ラ ラ く ギ な つ 一 て 九 五 子 五 さ 年 ん 一 を 二 見 月 て 号 ゐ る 其 君 二 の 土 を 屋 わ 文 た 明 し 選 は 行 き た り 7 4 ・ 四 ろ 年 く 振 な り り に た 聞 り く 叔 の 聲 暫 し し て 吾 を 見 舞 は ず り 80 同 ・ 号 受 話 其 器 三 を 耳 に 生 の 張 り あ る 御 聲 く 押 し 當 て て 今 ぞ 聞 く 遙 な る 菅 原 先 7 9 ・ ア 苦 ラ 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ラ ラ ギ 一 九 五 七 年 五 月 号 其 三 ア ラ ラ ギ 一 九 五 七 年 八 月 号 其 二 ︵ 一 三 ︶ 土 屋 文 明 選 三浦(堀田)綾子の 99 ア 同 ・ ラ ・ 号 炭 し 笑 ラ 塵 其 か ふ ギ 如 に 三 く 一 濁 笑 九 れ は 五 る ぬ 七 川 如 年 の く 四 流 寫 月 る り 号 る 居 街 り 其 神 何 二 威 と の 二 土 昧 屋 年 な 文 は 表 明 唯 に 選 の 戀 わ し た き アララギ 掲載歌 (田中・池田) 9 7同 9 8 ・ ・ 号 も 散 く 敎 ひ 臥 會 其 い し す の 三 で ぬ る ゐ 爲 り つ に に と 寄 買 り ひ 給 ひ れ 臥 し す 紫 吾 の の 草 傍 履 へ を に 仕 君 舞 は ひ 辨 て 當 今 を 年 開 同 ・ ア ・ ・ 号 し 信 泣 死 ラ き 友 が 其 ま 仰 き ん ラ ギ 多 三 し で し だ し た 頑 時 と 一 と 九 張 そ ば か 五 羨 れ の 時 り 七 ま と 覺 思 年 る め つ 七 れ 言 ぬ て 月 ど ゐ 号 し ま 給 か し 其 ひ な た 二 し 頃 と 君 は 亡 土 よ 一 き 屋 わ 人 君 文 た の の し 友 明 手 選 は も を 人 な 取 を か り 愛 り 21 4 に 入 り ぬ 96 ア ・ ラ 朱 ラ き ギ 下 一 げ 九 た 五 る 七 被 年 布 二 を 月 着 号 て 行 其 き 二 し 小 土 學 屋 文 入 明 學 選 式 を 想 同 ・ ア ・ 号 ラ 湯 氣 病 ラ の 其 づ 院 ギ た 三 か の ぎ ず な 一 る 匂 九 ひ 五 か 七 が 年 耳 す 鳴 る 六 り と 月 か 言 号 わ ふ 其 か 吾 ら が 二 ぬ 部 を 屋 土 儚 屋 の 文 が 匂 り ひ 明 つ に 選 つ 吾 靜 は 臥 9 5 ・ ゆ 美 る し 夜 き 雄 鹿 の 聲 の を ひ と り き ゐ つ ギ プ ス の 冷 ・ 兩 膝 を 固 く へ て 坐 る 吾 の の れ を 直 し る る 君 北海学園大学人文論集 同 ・ 号 ア ・ ラ ゴ あ の 其 ー し ラ か 三 ル た ギ の げ 鳴 く 一 よ つ 朝 九 り 五 て 君 ゐ の 七 現 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ギ 御 三 病 つ も 骨 一 め を 九 る 守 か 五 き 女 る 手 八 を 御 を 年 愛 堂 持 九 す の つ 月 る カ 自 号 は ー が 寂 テ 手 其 し ン の 二 き に 細 事 く 土 と の 蒼 屋 思 當 き 文 ひ れ を 明 給 る し 選 は を み ず さ じ や び 同 ・ ア ・ 号 獨 エ ラ し 相 に 共 其 り レ ラ け に 三 昇 ベ ギ り ー り る 行 タ 一 午 く ー 九 の 五 後 九 壁 年 九 に 一 時 も 月 縫 た 号 ひ れ か て 其 け ボ 二 の タ 布 ン 土 を 押 屋 た し 文 た 夜 明 み の 選 て 屋 灯 上 を に 21 1 同 ・ 号 ア ・ ラ 續 ゐ ラ た の 其 け や ギ り 實 三 り さ れ 一 き に て 九 て 吾 五 作 が 八 り 出 年 し で 八 鈴 て 月 を 來 号 鳴 し ら 街 其 し 中 二 つ に つ 路 土 朝 に 屋 の 苗 文 目 木 明 覺 賣 選 め る を 店 暫 が し ・ て 八 居 百 り 屋 の 前 に 西 瓜 を 降 し ア ラ ラ ギ 一 九 五 八 年 一 一 月 号 る ま で 其 朝 三 の 屋 上 に 吾 は 見 ぶ り に 來 つ 同 ・ 号 パ ル 其 プ 三 廢 液 の 酸 ゆ き 匂 ひ は 同 じ に て 牛 朱 別 川 に 八 年 ︵ 一 六 ︶ 資料紹介 ・ る あ ら ざ む や か に 林 檎 の 皮 を む き 給 ふ 君 は 如 何 な る 夫 と な ︵ 一 七 ︶ し て 讀 み ぬ ・ 夫 に は 主 の 如 く 仕 へ よ と ふ 聖 句 あ り て 朱 線 太 く 印 ア ラ ラ ギ 一 九 五 九 年 五 月 号 其 三 三浦(堀田)綾子の ・ し 拍 つ 手 つ さ れ て ゐ る わ た し 婚 約 の し る し の 聖 書 を 取 ※ ア 同 ・ こ ラ ・ ・ 号 幾 知 ひ ふ 浴 の ラ 衣 号 ギ 度 其 り る か 三 ぬ 着 か 夕 て ら 一 る 茜 共 を 九 雲 に 三 五 罪 を 浦 九 の 振 め 綾 年 如 り ば 子 一 く 仰 し に 〇 ぎ み 名 月 思 夫 じ 。 号 ひ に み つ 寄 と つ 其 り 結 臥 二 添 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う 一 組 の 夫 と 吾 が ゐ る 掲載歌 (田中・池田) 同 ・ ア ・ 号 ラ わ 怖 首 ラ れ 曲 其 た 來 ギ つ げ 三 し る は と 一 て 行 別 九 み か れ 六 つ な し 〇 む い も 年 る の 四 夫 を 月 の 何 号 表 故 に 其 の 亡 二 き き し 土 君 君 屋 に よ 文 似 君 明 る の 選 を 葬 今 式 日 に は て 佇 み て 居 り な 氣 が し て 20 8 ※ 男 は な の り ち 、 こ の 土 の 器 を も 一 一 章 で 引 用 。 同 ・ ア ・ 号 ・ ・ ラ へ 金 ラ 今 ぬ 屋 來 根 つ の 其 知 持 ギ 日 よ 上 三 ら に 裏 り に ず 金 一 の は 雨 生 貸 九 病 吾 降 き し 六 室 一 る 來 に 〇 人 街 ぬ 乏 年 夫 暮 人 六 へ を さ に 月 仕 一 ね 金 号 上 人 ば 貸 り 置 な さ 其 し き ら ぬ 二 夫 ぬ こ の ど 吾 ん 土 着 け が な 屋 物 の 家 世 文 を の の 明 取 を 前 仕 選 り に 組 に り 來 み 出 來 り さ で り 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) ア ラ ラ ギ 一 九 六 一 年 一 月 号 其 二 ① アララギ 一九五一年六月号 本稿での歌番号は 12(四頁) ② アララギ 一九五八年六月号 本稿での歌番号は 1 26(一五頁) 土 屋 文 明 選 쐕 歌 集 未 収 録 歌 八 首 の 図 版 쐖 作 者 名 の 後 に 作 品 ※ は は 行 の く ち 、 こ の 土 の 器 を も 一 一 章 で 引 用 。 ・ な 椎 쐍 り9 茸 ︶ も 芋 も 大 根 も 裏 山 よ り 今 り 來 し を 今 ぶ る 20 7 ︵ 二 〇 ︶ 資料紹介 三浦(堀田)綾子の アララギ 掲載歌 (田中・池田) ③ アララギ 一九五八年七月号 本稿での歌番号は 1 27 1 28(一五頁) ︵ 二 一 ︶ ④ アララギ 一九六〇年六月号 本稿での歌番号は 1 71∼ 17 4(一九頁) 20 6 北海学園大学人文論集 쐍 4 し り ︶ て 、 ふ ル 其 っ ビ 二 た な ど 土 も の に 屋 も 異 文 あ 同 明 る が 選 の 見 ら は だ れ ろ 、 る 全 う 。 国 。 ル ビ の は 会 お 員 そ が ら 葉 く 書 読 に 者 五 に 首 配 ︵ 慮 の な ほ 捨 て て し ま ふ の に 惜 し い と 思 は れ る も の ︵ ア ラ ラ ギ さ れ た が 、 頁 数 其 他 の 関 係 で 本 欄 に の せ 切 れ な か つ た が 、 用 ︶ を 比 べ る と 、 旧 か な ・ 旧 漢 字 を 新 か な ・ 新 漢 字 に 直 し た 発 で 行 あ 얧 る ︵ 本 文 主 稿 庫 婦 で 版 の は 道 友 一 あ 社 九 り 、 一 九 き 九 ︵ 九 六 年 青 九 六 春 年 月 編 一 二 ︶ 月 〇 ︵ 三 日 新 一 潮 発 文 日 行 庫 発 の 、 行 四 一 ︶ と 九 九 、 刷 八 普 を 〇 及 年 版 쐍 8 た か ︶ っ 、 小 其 て 暮 い 四 た 政 次 土 。 、 屋 柴 文 生 明 田 選 稔 、 欄 吉 は 田 、 正 俊 其 、 二 落 合 土 京 屋 太 文 郎 明 ら 選 が に 選 投 に 稿 あ ら 、 複 数 の 選 者 名 が 明 記 さ れ る よ う に な っ た 。 五 味 保 義 の ほ 年 七 月 号 ま で は 、 特 に 選 者 名 の 記 載 は な か っ た が 、 同 号 か 第 57号(20 14年8月) 쐍 쐍 3 図 2 さ ︶ 版 ︶ れ た で 具 て と 示 体 い え し 的 る ば て に 。 、 お は 初 い 、 版 た 12 で 。 、 あ ∼ る 、 道 あ ∼ り き の 歌 で 얧 わ あ る が 。 青 巻 春 末 の に 記 、 が 掲 載 さ れ 、 そ の 月 の 秀 作 選 と い っ た 印 象 で あ る 。 一 九 五 七 編 集 部 に よ る 選 歌 欄 で あ っ た 。 全 国 の 会 員 の 各 六 首 ∼ 一 首 子 あ ラ 本 氏 る ギ 稿 の 。 会 の な 報 旭 三 お 川 浦 、 こ 旭 ア 綾 れ 川 ラ 子 研 ら ア ラ 究 の ラ ギ 短 ラ 会 ︵ 歌 ギ 々 双 は 月 報 文 の 報 社 ち 及 出 、 の び 版 漢 短 誌 、 字 歌 名 二 表 は 変 〇 記 、 〇 を 右 後 一 改 か の 年 め ら ︶ て の 旭 に 上 引 川 収 出 用 ア 録 恵 で ラ 쐍 7 め 月 ︶ 、 に 六 旭 ア ∼ 川 ラ 一 日 ラ 一 赤 ギ 月 病 巻 号 院 末 は か ら の 札 札 其 幌 幌 医 三 の 科 は 住 大 、 所 学 五 表 附 味 記 属 保 と 病 義 な 院 を っ に 中 て 転 心 い 院 と る し す 。 た た る 20 5 쐍 6 ︶ そ れ ま で は 旭 川 堀 田 綾 子 名 で あ っ た が 、 こ の 年 二 合 は 地 域 別 の 掲 載 順 と し て 定 着 し た 。 に つ い て は 土 屋 文 明 に よ る 順 位 づ け と な っ た が 、 一 首 の 場 子 大 学 ・ 短 期 大 学 活 水 論 文 集 三 六 号 、 一 九 九 三 年 三 月 ︶ 。 쐍 5 ︶ こ の 号 以 降 、 地 域 別 の 掲 載 順 と な っ た 。 の ち 、 二 首 掲 載 ア ラ ラ ギ 会 々 報 に お け る 三 浦 綾 子 の 短 歌 そ の 他 ︵ 活 水 女 価 さ れ て い た こ と が 窺 え る 。 日 本 文 学 会 쐍 1 ︶ 資 料 紹 活 介 水 旭 日 川 文 ア ラ 二 ラ 四 ギ 号 会 、 々 一 報 九 九 目 二 次 年 一 三 覧 月 ︵ ︶ 、 活 水 旭 学 川 院 六 八 人 中 八 六 番 目 の 掲 載 で あ り 、 新 人 な が ら ひ じ ょ う に 評 順 序 で あ っ た 。 こ の 号 で 堀 田 綾 子 は 二 首 採 ら れ 、 し か も 、 七 注 一 首 が 採 ら れ 、 当 初 、 掲 載 順 は 土 屋 文 明 の 選 歌 眼 に か な っ た ち に 三 首 ︶ 以 内 を 書 い て 投 じ 、 選 出 さ れ る 欄 で あ る 。 三 首 ∼ ︵ 二 二 ︶ 資料紹介 三浦(堀田)綾子の アララギ 掲載歌 (田中・池田) な 林 石 り 間 多 鉄 き 道 畑 の に あ 人 り は た 苦 る し 道 め と ど 夫 四 に 囲 聞 の き 官 明 林 る 豊 き に 林 茂 に り 入 ゐ り き て 行 く ︵ 二 三 ︶ 20 4 椎 茸 も 芋 も 大 根 も 裏 山 よ り 今 採 り 来 し を 今 食 ぶ る な り 쐍 み 子 社 9 ︶ 小 、 一 一 事 さ 九 九 情 な 六 九 は 活 一 二 不 字 年 年 詳 で ︶ だ 掲 作 所 が 載 品 収 、 さ 三 の 三 れ 首 共 浦 て が に 綾 い 未 歩 子 る 収 め 全 。 録 ば 集 で あ に 第 る は 一 。 、 七 以 巻 下 ︵ の 主 三 婦 浦 の 綾 友 一 九 五 九 年 五 月 号 ︶ の 欄 で 、 地 名 記 載 は な く 、 作 品 と 氏 名 の ★逆ノンブル★ ︵ 二 五 ︶ 措 第 く け︵ 注 先 一 と る二 行 ︶ 期 し 。 研 て こ 究 鎌 、 の で 倉 そ 三 は 時 の 期 、 代 時 と 高 期 い 山 長 を う 寺 年 以 聖 間 下 類 教 に の 目 摘 適 録 記 否 の す に 変 る つ 遷 。 い を て 大 は き し く ば 三 ら 期 く に き た か に つ い て 深 く 検 討 で き る 段 階 に 近 づ き つ つ あ る 。 ン デ ッ ク ス に 対 応 し 、 各 聖 教 に は そ れ に 対 応 し た ラ ベ ル の は 、 上 述 し た 目 録 類 の 整 備 が 、 現 代 で 言 う と こ ろ の イ し か し な が ら 、 高 山 寺 に は こ の よ う な 整 然 と し た 聖 教 と と が も 大 言 き︵ 注 う い四 べ ︶ 。 き 記 録 が 体 系 的 か つ 整 然 と 記 載 さ れ て い る こ 教 が ど の よ う に 施 入 、 あ る い は 伝 来 し 保 管 ・ 利 用 さ れ て こ の よ う に 高 山 寺 草 期 の 状 態 ま で 相 当 程 度 知 り 得 る 程 度 研 究 が 進 ん で お り 、 こ の 成 果 を 利 用 し て 、 個 別 の 聖 備 鎌 が 倉 行 時 わ 代 れ 明 て 恵 き︵ 注 上 た一 人 ︶ 。 存 特 命 に 当 初 時 期 か の ら 聖 そ 教 の 目 所 録 蔵 に 目 つ 録 い の て 作 は 成 相 ・ 当 整 目 討 録 し の 、 作 第 成 一 ・ 期 整 を 備 二 が 十 始 年 ま ほ っ ど た こ る と 寛 を 喜 指 年 摘 間 し︵ 注 に た三 高 ︶ 。 山 寺 の 聖 教 者 は 明 恵 上 人 の 弟 子 で あ る 禅 浄 房 空 弁 に か か る 資 料 を 検 京 都 栂 尾 高 山 寺 に 所 蔵 さ れ て い る 聖 教 類 に つ い て は 、 こ の 内 、 第 一 期 に か か る 時 期 の 聖 教 目 録 に つ い て 、 筆 20 2 は じ め に 近 世 か ら 明 治 期 を 中 心 に 第 第 三 二 期 期 江 戸 時 代 中 期 以 降 江 戸 時 代 寛 永 頃 徳 永 良 次 高 山 寺 に お け る 聖 教 目 録 の 変 遷 ︵ 一 ︶ 北海学園大学人文論集 て い く 。 蔵 の 第 四 部 第 一 三 五 函 の 伝 存 状 況 と 構 成 を 中 心 に 得 る も の と し て 、 い わ ゆ る 目 録 箱 と も 称 す べ き 察 現 し 経 こ こ で は 内 容 に よ る 区 を え て み た い 。 な い 。 奥 田 氏 に よ る 聖 教 目 録 作 成 時 期 に よ る 類 以 外 に 、 要 素 を 含 ん で い る こ と も ま た 整 理 し て お か な け れ ば な ら さ て 、 こ れ ら 資 料 は 内 容 的 に は 一 様 で は な く 、 様 々 な に 検 討 し て い く 。 い の な て 程 か 度 っ え 現 た を 存 江 ま し 戸 と 、 時 め そ 代 て の 中 い 内 期 く 実 以 こ は 降 と ど の と の 高 す よ 山 る う 寺 。 な に そ も お の の け 際 で る の あ 目 指 る 録 標 か 類 た に が り つ ど さ ら に そ の 上 で 、 主 と し て 従 来 網 羅 的 に 検 討 さ れ て い か し な が ら 、 そ れ ら を す べ て 網 羅 す る こ と は 事 実 上 困 難 内 実 は 、 あ る 聖 教 や 資 料 の 一 覧 で あ る よ う な も の は 、 い で あ る の で 、 本 稿 で は 上 述 し た 二 七 二 点 の 目 録 類 を 対 象 わ ゆ る 目 録 と 称 し て も 差 し 支 え な い よ う に 思 わ れ る 。 し 第 57号(20 14年8月) い れ い と に く 伴 こ え う と て 聖 に い 教 し る 類 た 。 の い 推 。 移 こ と れ の に 相 よ 関 り 性 、 を 高 解 山 明 寺 す の る 教 糸 学 口 活 に 動 し と た そ ら れ る 。 例 え ば 、 録 ・ 証 な ど い う 書 名 で あ っ て も そ の 20 1 高 山 寺 経 蔵 聖 教 と そ の 目 録 に つ い て 歴 的 変 遷 を っ て る こ と で 、 従 来 網 羅 的 に 検 討 さ れ る こ と の 少 な か っ た 、 他 れ は よ に た 、 そ も も 書 二 の 名 七 目 を あ 二 録 含 る 点 め い を に た は 数 類 内 え す 数 容 る る を 的 こ も あ に と の げ 見 が も た て で 多 の き く で 目 る 存 あ 録 。 在 り し 、 で お て 実 あ よ い 際 る そ る に と と と は 推 す こ 定 る え の さ の 合 し て 高 山 寺 聖 教 の 目 録 の 変 遷 を ま と め て い く 。 そ う す 料 の 出 現 も あ り 、 本 稿 で は そ の 結 果 判 明 し た 成 果 を も 録 査 団 と 編 い う 高 書 山 名 寺 を 経 有 蔵 す 典 る 籍 も 文 の 書 に 目 つ 録 い 第 て 一 検 ∼ し 第 て 四 み 等 る か に ら 、 お 目 の が 現 存 し て 察 い を る ま 。 と 筆 め 者 て は き︵ 注 、 た五 こ ︶ 。 の さ 内 ら の に い 、 く 近 つ 年 か 新 に た つ な い 資 て 資 料 翻 刻 と は じ め に 、 現 在 刊 行 さ れ て い る 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 目 録 の 他 に 、 か な り の 数 の い わ ゆ る 目 録 と 呼 べ る も 一 高 山 寺 に お け る 目 録 ︵ 二 六 ︶ 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) 点 検 整 備 さ れ て い る 。 ま た 、 こ れ に 準 ず る 性 格 を 有 す る と え ら れ る 聖 教 目 見 做 さ れ て い る 。 ︵ 二 七 ︶ 占 め て い る こ と か ら 上 記 聖 教 目 録 に 準 ず る 性 格 で あ る と 知 ら れ る 。 こ の 二 つ の 聖 教 目 録 は 、 江 戸 時 代 寛 永 年 間 に に よ 2 り は 、 長 1 三 以 年 外 に の 作 真 成 言 さ 書 れ を た 集 目 め 録 た で 聖 あ 教 る 目 こ 録 と で が あ 奥 り 書 、 か 長 ら 真 に 質 ・ 量 共 に 高 山 寺 聖 教 に あ っ て は 極 め て 重 要 な 位 置 を で 言 う と こ ろ の 的 な も の と は 見 な し 得 な い が 、 後 つ で あ っ た 方 智 院 に か か る 聖 教 目 録 で あ る 。 先 行 研 究 2 高 山 寺 経 蔵 聖 教 内 真 言 書 目 録 性 格 を 異 に す る と 思 わ れ る が 、 元 は 高 山 寺 内 の 子 院 の 一 4 は 的 活 動 に 関 わ る 目 録 と い う 本 来 の 成 り 立 ち と は 除 れ く た 高 聖 山 教 寺 目 内 録 の で 内 あ 典 る 外 と 典 推 を 定 網 さ 羅 れ し て た い も る の も と の 見 で ら 、 れ︵ 注 真 る六 言 ︶ 。 書 を 4 方 智 院 聖 教 目 録 20 0 1 1 は 、 鎌 倉 時 代 高 山 寺 聖 教 目 録 長 二 年 に 義 淵 房 霊 典 に よ っ て 作 成 さ の 作 成 時 期 は 、 一 部 は 目 録 が 作 成 さ れ 的 管 理 長 に 年 間 昇 を 格 さ ほ し ど た 下 も ら の な で い あ と り す︵ 注 、 る八 ︶ 。 そ た 法 3 は 臺 道 明 場 恵 が 上 聖 人 教 の を 集 立 積 し し た 、 高 聖 山 教 寺 目 内 録 の と 説 し 法︵ 注 て 所七 ︶ そ の で 蔵 あ 書 っ 該 当 す る 聖 教 目 録 に は 次 の よ う な も の が あ る 。 活 用 す る た め に 作 成 さ れ た 目 録 類 が あ げ ら れ る 。 こ れ に 一 ま | ず 一 第 一 に 、 高 山 寺 の 3 録 に 次 の も の が あ る 。 法 臺 聖 教 目 録 的 活 動 に 関 わ る 聖 教 を 整 備 ・ 北海学園大学人文論集 称 ︶ を 元 と し た 、 当 時 何 ら か の 理 由 で 不 明 に な っ た 聖 教 に 関 す る 聖 教 に つ い て の 目 録 で あ る が 、 現 在 書禅 所 籍浄 在 房 不 ︵ 明 仮 と 応 関 係 が あ る 。 す な わ ち 3 と 5 の 両 資 料 間 に お い て 、 第 で 作 成 さ れ た 欠 本 点 検 の た め の 目 録 と 見 ら れ る 。 な っ て い る 。 禅 上 房 書 籍 欠 目 録 は 聖 教 目 録 上 記 二 資 料 は 、 3 の 法 鼓 臺 聖 敎 目 録 と の 緊 密 な 対 5 は 、 禅 浄 房 ︵ 空 辨 と 推 定 さ れ て い る 。 禅 上 房 と も ︶ り 、 当 時 行 わ れ て い た 高 山 寺 聖 教 と そ の 目 録 の 整 備 過 程 6 5 聖 教 目 録 聖 教 目 録 灌禅 頂浄 房 倉 時 代 中 期 、 恐 ら く は 寛 喜 以 降 長 年 間 ま で の 成 立 で あ と し て 作 成 さ れ た の で あ ろ う 。 奥 書 等 が 存 し な い が 、 鎌 次 の 二 種 類 存 在 し て い た 。 書禅 籍浄 房 が 現 存 ︶ え に く く 、 恐 ら く は 高 山 寺 の 的 管 理 に 基 づ く 聖 教 目 録 쐍 現 在 所 在 不 明 。 禅 上 房 書 籍 欠 目 録 た こ と が 伺 わ れ る 。 こ の よ う な 編 成 は 個 人 の 蔵 書 と は 第 57号(20 14年8月) 降 は 、 漢 籍 ・ 辞 書 な ど 、 仏 典 以 外 の 資 料 が 納 め ら れ て い そ の 後 も 、 華 厳 ・ 法 華 経 関 係 典 籍 と 続 き 、 第 四 十 四 箱 以 19 9 ま り 、 寛 喜 年 間 に は 禅 浄 房 に よ る 聖 教 目 録 が 少 な く と も て 禅 い 浄 な 房 い 書 ︶ 籍 が 母 と 体 し と て な 整 っ 備 て さ い れ る た こ 聖 と 教 を と 明 そ ら の か 目 に 録 し︵ 注 ︵ た十 現 ︶ 。 存 つ し る 時 期 ︵ 恐 ら く 寛 喜 三 年 頃 を 上 限 と 推 定 さ れ る 時 期 ︶ に そ の 内 の 第 一 箱 か ら 第 十 六 箱 部 第 十 四 箱 は 明 ら か に 弘 法 大 師 空 海 に 関 わ る 典 籍 で あ る 。 ︵ 第 三 ・ 四 ︶ が 、 続 い て 次 第 ︵ 第 九 箱 ︶ や 抄 物 な ど に な り 、 の あ る こ と が 知 ら れ る 。 そ の 箱 の 編 成 は 、 か な り 整 然 と 何 ら か の 形 で 、 四 十 六 箱 も の 典 籍 を 保 有 し て い た 可 能 性 し て い た と え ら れ 、 前 半 は 、 仏 典 ︵ 第 一 ・ 二 箱 ︶ 儀 軌 ま で は 、 長 年 間 を な︵ 注 に い九 な ︶ 。 つ と た さ も れ の て で い あ た る が か 、 に 筆 つ 者 い の 調 て 査 は に 、 よ 未 り だ 、 解 少 明 な さ く れ と て も ゐ も の の 、 第 四 十 六 箱 ま で 記 載 さ れ て お り 、 当 時 禅 浄 房 が こ の 聖 教 目 録 に は 、 第 一 箱 か ら 始 ま り 、 途 中 欠 番 は あ る こ れ ら 多 大 の 密 教 書 が 如 何 な る 経 緯 に よ り 法 3 の そ の た め に を 点 検 す る た め に 作 成 さ れ た と 法 臺 聖 教 目 録 の 成 立 に つ い て 先 行 研 臺 究 蔵 で 書 は 欠 目 録 の 名 称 が 与 え ら れ た の で あ ろ う 。 え ら れ る も の で あ る 。 ︵ 二 八 ︶ 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) ま た 、 第 十 一 紙 に は 霊 典 に よ る 書 が あ る 。 一 次 | に 二 、 高 山 寺 内 に は ︵ 二 九 ︶ 当 初 か ら 多 く の 子 院 が 存 在 し 喜 三 年 五 月 十 六 日 ︵ 花 押 ︶ 右 目 録 注 進 如 件 定 真 に よ る 以 下 の よ う な 書 が あ る 。 い も に 。 高 つ 山 い 寺 て に の お 目 け 録 る で あ る 的 こ な と は 聖 明 教 か 目 で 録 あ で り あ 、 る よ と っ し て て こ も れ 良 ら 全 体 に わ た っ て 合 を 加 え た も の で あ る 。 第 八 紙 末 尾 に 目 録 は 、 1 と 2 の 目 録 が 作 成 さ れ る 長 年 間 以 前 の 聖 教 以 降 第 十 一 紙 ま で を 同 じ く 弟 子 の 義 淵 房 霊 典 が 作 成 し 、 以 上 の こ と か ら 、 5 と 6 の 禅 浄 房 の 名 前 を 冠 し た 聖 教 八 紙 ま で を 明 恵 上 人 の 弟 子 で あ る 空 達 房 定 真 が 作 成 し 、 浄 房 灌 頂 聖 教 群 が 施 入 さ れ た 。 本 目 録 は 巻 子 本 で 、 全 十 一 紙 か ら な る 。 第 一 紙 か ら 第 も た の も が の あ で る︵ あ の注 十 る 。 で二 ︶ 、 本 以 目 下 録 要 に 約 つ ・ い 加 て 筆 は し 、 て 筆 示 者 す が 。 解 題 を 記 し た 下 に 明 巻 、 で 当 あ に 時 る 該 相 が 当 当 、 す 数 後 る の に 聖 聖 寛 教 教 永 を が 年 再 失 間 整 わ の 備 れ 顕 す て 証 る い ら に た に よ あ た 法 る 経 っ て 臺 蔵 、 聖 整 こ 教 理 の 目 の 禅 録 際 19 8 た と 6 は え 、 ら 禅 れ 浄 る 房 聖 が 教 所 の 持 内 し 、 て 灌 い 頂 た に か 関 、 す あ る る 部 い は を 管 目 理 録 し に て し い と は 明 ら か で あ る 。 が 、 そ の 後 如 何 な る 変 遷 を に 定 真 が 作 成 し た 目 録 を 、 後 の っ た か に つ い て の 詳 細 は 不 合 を 加 え た も の と え ら れ る 。 目 録 に 記 載 さ れ た 聖 教 る こ と が 共 通 し て お り 、 箱 ご と 一 括 し て 引 き 継 が れ た こ こ の 二 つ の 書 の 意 味 す る と こ ろ は 、 は じ め 長 三 年 に 霊 典 が 整 喜 理 三 し 年 御 作 す な わ ち 、 弘 法 大 師 空 海 関 係 典 籍 を 収 め た 箱 で あ 箱 一 が 箱 ほ か ぼ ら 完 第 全 十 に 六 一 箱 致︵ ま す注 十 で る一 は ︶ 。 、 特 判 に 明 、 し 第 て 十 い 四 る 函 聖 は 教 両 と 目 そ 録 の 共 所 に 属 長 三 年 亥辛 四 月 一 日 高 重 山 寺 勘 知 記 寺 加 沙 之 門 霊 典 ︵ 花 押 ︶ 北海学園大学人文論集 が︵ は あ注 十 十 る三 ︶ 無 が 盡 、 院 現 に 存 も し 蔵 て 書 い と な そ い の 。 目 録 が 存 在 し て い た 可 能 性 当 初 の 高 山 寺 に 寄 進 さ れ た と い う 一 切 経 が 二 部 あ っ た 唐 本 と あ る 記 述 と の 関 連 が 注 目 さ れ る 資 料 で あ る 。 少 な く と も こ の 目 録 が 作 成 さ れ た 室 町 時 代 文 明 年 間 頃 に の 中 に は 十 無 盡 院 聖 教 目 録 と い う 記 載 が あ る の で 、 9 高 山 寺 聖 教 目 録 冒 頭 部 に 一 切 経 二 部 之 内 / 一 部 唐 本 一 切 経 目 録 ︵ 第 四 部 二 〇 八 函 七 号 ︶ い て は 、 後 に 詳 述 す る 。 さ ら に 、 4 方 智 院 聖 教 目 録 る こ と に な る 。 7 の 地 蔵 院 、 8 の 善 財 院 の 聖 教 目 録 に つ 院 、 地 蔵 院 、 ︵ 善 財 院 ︶ に つ い て の 聖 教 目 録 が 現 存 し て い 十 四 の 僧 房 を 数 え る こ と が で き る 。 こ の う ち の 、 方 言 す る 。 特 定 の 目 的 で 作 成 、 あ る い は 書 写 さ れ た も の に つ い て 一 聖 教 目 録 以 外 に も 数 多 く の 目 録 類 が 存 在 す る 。 こ こ で は 、 第 57号(20 14年8月) 8 7 高 山 寺 に は 鎌 倉 時 代 か ら 江 戸 時 代 に か け て 少 な く と 智 も 高 山 寺 内 に は 、 寺 内 の 経 蔵 、 あ る い は 子 院 に つ い て の 地 쐍 善 蔵 財 院 院 聖 聖 教 教 ︶ 目 録 目 ︵ 録 ︵ 第 第 四 四 部 一 部 三 一 五 三 函 五 4 函 1 号 18 ︶ 号 ︶ 一 | 三 特 定 の 書 籍 等 を 対 象 と し た 目 録 19 7 て︵ い い注 十 た る四 こ ︶ 。 と が 、 現 存 す る 聖 教 に 押 さ れ た 印 記 か ら 推 定 さ れ 録 が あ げ ら れ る 。 そ の 他 、 各 子 院 の 聖 教 を 記 録 し た も の と し て 以 下 の 目 た 目 録 で あ る こ と が 推 定 さ れ て い る 。 あ 以 る る 外 教 に 学 賢 も 活 首 、 動 院 先 の ・ の 一 報 端 恩 十 と 院 無 変 ・ 盡 遷 三 院 を 尊 知 院 を る 含 こ な め と ど 、 が に 江 期 蔵 戸 待 書 時 さ が 代 れ 存 の る 在 子 。 し 院 こ て で れ 定 真 を 第 一 世 と す る 方 る 。 例 え ば 、 4 の 智 院 に お け る 聖 教 類 を 母 胎 と し 智 院 聖 教 目 録 も 元 は 、 空 達 房 て お り 、 そ の 蔵 書 を 示 し た と 見 ら れ る 目 録 も 残 さ れ て い 係 、 伝 承 の 歴 あ る 目 的 で 類 聚 し た 目 録 で あ る 。 こ れ ら の 内 容 や 相 互 関 以 上 の 八 点 が 高 山 寺 に 現 存 し て い る 、 寺 院 内 で 聖 教 を な ど を 詳 細 に る こ と で 、 高 山 寺 に お け 方 ︵ 三 〇 ︶ 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) て い る 。 一 四 八 函 は い わ ゆ る 両 者 と も 現 経 蔵 に お け る 類 明 で 恵 は 函 一 四 と 八 も 函 言 に う 収 べ め き ら 聖 れ も の の 一 つ で あ る と 言 え る 。 ︵ 三 一 ︶ 寺 内 の 二 七 二 点 に お よ ぶ 目 録 類 の 中 で は 最 も 点 数 の 多 い 1 1 栂 上 尾 人 上 所 人 作 御 目 製 録 作 ︵ 目 第 録 四 ︵ 部 第 第 四 一 部 四 第 八 一 函 四 一 八 八 函 号 四︵ ︶ 一注 十 号七 ︶ ︶ る の で 、 詳 細 は 割 愛 せ ざ る を 得 な い 。 一 言 す れ ば 、 高 山 つ い て は 高 山 寺 現 経 蔵 に お い て 相 当 の 量 が 現 存 し て い 一 種 の 聖 教 目 録 と 言 え な く も な い の で あ る が 、 こ れ ら に れ 永 て︵ 超 い注 十 が る六 実 ︶ 。 見 し た も の を 中 心 に 網 羅 的 に 登 載 し た も の と さ 年 に 作 成 し た も の で 、 本 邦 に お け る 仏 教 に 関 す る 資 料 を 来 し て い る こ と は 明 か で あ る 。 興 福 寺 僧 の 永 超 が 寛 治 八 燈 目 傳 録 本 と 資 料 と あ え は り ら 、 、 れ 院 明 て 政 恵 い 末 上 る 期 人 。 か の 高 ら 教 山 鎌 団 寺 倉 草 聖 初 期 教 期 目 に 以 録 か け 来 、 に て 高 も 書 写 山 寺 東 さ に 域 れ 伝 傳 た 第 八 九 函 に は て い る 場 合 も あ る 。 例 え ば 、 現 在 の 高 山 寺 経 蔵 の 第 四 部 の 内 容 を 記 録 し た 法 等 、 相 当 数 の 資 料 が ま と ま っ て い る も の に つ い て 、 そ こ と が 多 い が 、 こ れ ら の 多 く に 金 玉 異 水 等 の 目 諸 録 尊 法 が を 付 類 属 従 し て︵ し て い注 十 い 八 る︶ 。 る 目 録 が そ れ ぞ れ の 聖 教 群 に 付 随 し 19 6 さ ら に 、 特 定 の 書 籍 等 を 対 象 と し た 目 録 の 他 に 、 諸 尊 る が 、 詳 細 は 割 愛 す る 。 1 0 東 域 傳 燈 目 録 ︵ 第 一 部 第 二 七 九 号 ︶ 経 蔵 第 一 部 号 ︶ な ど の 目 録 と も 言 う べ き 重 要 典 籍 が あ こ れ 以 外 に も 、 根 本 大 和 尚 真 跡 策 子 等 目 録 ︵ 高 山 寺 研 い 究 ず に れ 委 の ね 宋 な 版 く を て 類 は 聚 な し ら︵ た な注 十 目 い五 録 ︶ 。 で あ る の か 、 詳 細 は 今 後 の れ て い る が 、 宋 版 一 切 経 は 複 数 存 在 し て お り 、 高 山 寺 の 録 に よ の り 方 類 が 聚 簡 、 略 記 化 述 さ し れ た た も 内 の 容 で で あ あ っ る て 。 、 栂 尾 上 人 御 製 作 目 内 容 的 に は 、 明 恵 上 人 の 著 作 を 江 戸 時 代 の 基 準 ・ 認 識 て い る 。 た だ 、 こ の 一 切 経 目 録 が そ れ で あ る と 目 さ で 知 ら れ て い る 。 こ と が 記 録 と し て は 残 っ て い る が 、 現 在 所 在 不 明 と な っ 教 函 で あ り 、 明 恵 上 人 に 関 係 し た 聖 教 を 数 多 く 含 む こ と 北海学園大学人文論集 し か 記 載 が な い ︶ を 貸 し 出 し た 記 録 で あ る 。 と 真 箱 ︵ 現 在 の 高 山 寺 経 蔵 聖 教 内 真 言 書 に 該 当 す る ︶ か 院 の 僧 侶 が 尊 寿 院 の 隆 澄 に 聖 教 十 六 部 ︵ 実 際 に は 十 二 点 録 ︶ と し て お り 、 禅 浄 房 箱 ︵ 後 の 法 臺 聖 教 に 該 当 す る ︶ と あ り 、 江 戸 時 代 宝 永 三 年 、 当 時 の 出 世 知 寺 で あ る 善 財 現 在 の 高 山 寺 典 籍 文 書 目 録 に は 、 仮 題 と し て ︵ 進 上 目 月 表 處 載 五 書 實 し 日 之 正 、 内 明 奥 尊 丸 白 書 寿 點 也 に 院 掛 新 前 る 寫 右 大 出 表 僧 ハ 来 書 正 此 / 之 / 方 次 目 隆 ニ 第 録 澄 不 ニ 之 / 参 返 内 / 納 聖 栂 可 教 尾 致 十 也 出 世 / 為 六 善 宝 後 部 財 永 日 / 院 三 如 令 御 年 件 恩 房 戌 / 借 七 但 候 歓 喜 天 念 光 抄 一 都 帖 合 眞 第 五 八 帖 箱 進 之 第 57号(20 14年8月) け の 裏 て 書 外 出 題 法 に に 続 臺 け 目 ・ て 録 外 方 真 と 智 ・ 法 記 院 し 臺 た 箱 か 箱 巻 ら か 子 四 ら 本 点 八 で の 点 、 合 、 梅 計 尾 十 右 聖 二 外 教 点 目 を に 録 記 続 貸 出 証 と い う 性 格 を 有 す る も の で あ る 。 端 以 下 翻 字 し て 示 す 。 歓 咒 喜 法 雙 經 身 三 本 那 夜 已一 迦 上本 禪神 法 淨尾 房玄 第順 四房 箱申 出 永 和 元 八 四 し た 際 の 一 帖 19 5 見 る と 目 録 と は 言 い が た く 、 実 態 は 外 部 に 聖 教 を 貸 し 出 あ る が 、 内 容 的 に は 重 要 な 記 事 が 記 載 さ れ て い る の で 、 本 資 料 は 、 目 録 の 名 称 を 冠 し て は い る が 、 内 容 的 に 本 資 料 は 、 南 北 朝 時 代 の 書 写 と 1 2 梅 尾 聖 教 目 録 ︵ 第 四 部 第 一 三 五 函 2 3 号 ︶ 1 3 쐍 進 上 目 録 ︶ ︵ 第 四 部 第 一 三 七 函 え 5 ら 号 れ ︶ る 一 通 も の で の を 取 り 上 げ る 。 在 す る 。 名 称 が あ り な が ら 必 ず し も 目 録 と は 言 い が た い 内 容 の も 一 本 | 章 四 の 最 後 に は 、 書 名 に 何 ら か の 形 で て い る も の の 中 に 、 実 態 は 貸 出 証 で あ る 資 料 が 数 多 く 存 い が 、 現 在 の 高 山 寺 の 目 録 に は 仮 題 と し て ︵ 目 録 ︶ と な っ 目 録 と い う 右 以 外 に は 、 外 題 内 題 等 が 付 せ ら れ て い な い こ と が 多 ︵ 三 二 ︶ 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) た と 見 ら れ る 資 料 も 現 存 し て い る 。 と あ り 、 さ ら に 寛 永 十 年 に 、 ︵ 三 三 ︶ ま た 、 次 の よ う な 、 聖 教 目 録 と 現 物 の 照 合 ・ 点 検 を し で の 目 録 か ら は 除 外 す る 必 要 が あ る か も し れ な い 。 て は い る が 、 内 実 は 聖 教 の 出 納 記 録 で あ り 、 本 来 の 意 味 也 / 沙 門 于 時 天 文 六 怡 ︵ 花 押 ︶ 酉丁 年 十 一 月 十 三 日 記 之 / 昨 日 自 密 經 藏 所 出 之 こ れ ら は 、 結 局 目 録 と い う 名 称 、 あ る い は 形 式 を 襲 っ た あ い と 以 ろ 。 い 上 う 永 う の か 和 こ 。 年 記 と 間 録 か に ら 取 に 、 り 相 本 出 当 資 さ す 料 れ る は 、 も 目 某 の 録 に と と 進 言 い 上 え う さ る よ れ 。 り た は ま 、 ま 進 な 上 の し で け る 特 定 の 箱 に つ い て の 記 録 で あ る 。 そ の 奥 書 に も の 本 で 資 、 料 1 4は と 、 同 室 様 町 時 高 代 山 天 寺 文 経 六 蔵 年 聖 に 教 内 怡 真 に 言 よ 書 り 目 作 録 成 さ に れ お た 経 蔵 聖 教 内 真 言 書 目 録 の 該 当 箇 所 に は 記 録 が 見 ら れ な 記 載 さ れ た 聖 教 は 現 在 の 法 臺 聖 教 目 録 や 高 山 寺 聖 教 類 が 存 在 し て い た と い う こ と で あ る 。 な お 、 こ こ に ︵ 第 同 四 様 部 の 第 点 一 検 三 を 五 行 函 っ 15 た 号 と ︶ 見 が ら あ れ る る 。 資 料 に 、 真 四 箱 目 録 1 5 쐍 失 経 巻 目 録 ︶ 쐍 第 四 部 第 二 〇 二 函 3 号 ︹ ︺ ︶ 19 4 法 注 臺 目 聖 す 教 べ で き は は な 南 く 北 禅 朝 浄︵ 時 房注 十 代 箱九 永 ︶ と 和 し 元 て 年 高 ︵ 山 一 寺 三 に 七 ま 五 と 年 ま ︶ っ に た 、 の で あ る 。 て の 事 績 は 不 明 で あ る 。 あ る こ と は 唯 一 の 手 が か り と な り う る が 、 玄 順 房 に つ い と い う 僧 侶 が 咒 法 経 を 一 本 申 し 出 た と い う 記 事 が り の 具 体 的 な 人 物 に 関 し て は 不 明 で あ る が 、 神 尾 玄 順 房 ら 五 点 を 取 り 出 し 、 進 上 し た と い う 記 録 で あ る 。 や り と 真 1 4 で 言 密 、 本 書 教 資 号 高 目 蔵 宝 料 ︶ 山 録 寺 は と 二 密 年 、 呼 の 経 の 江 ば 第 蔵 本 戸 四 れ 奥 時 真 た 箱 第 書 代 経 に 四 を 中 つ 蔵 有 期 箱 の す の い 中 入 て か る 写 目 の ら 。 本 録 点 、 内 で ︵ 検 第 容 あ 記 高 は る 四 録 山 石 と 部 と 寺 水 見 第 目 経 院 ら 一 さ 蔵 経 れ 三 れ 聖 蔵 る 五 る 教 内 も 函 も 内 で の 1 6 北海学園大学人文論集 貸 出 証 と し て の 性 格 を 有 す る も の や 、 聖 教 の 点 検 の 目 的 用 に つ い て 知 る こ と は 不 可 能 で あ る 。 そ の 理 由 と し て こ の よ う に 、 目 録 と い う 書 名 が あ っ て も 、 実 際 に は と て ま 繰 っ り て 返 現 し 存 点 し 検 て︵ 注 を い二 十 受 け る二 ︶ 。 た 結 果 か 、 多 く の 聖 教 が 比 較 的 ま な 高 山 寺 に お け る 教 学 活 動 の 実 態 と 聖 教 集 積 ・ 保 管 ・ 利 な っ て い る も の で あ っ て 、 現 状 で は 、 先 に 指 摘 し た よ う は 現 状 の み な ら ず 、 お よ そ 明 治 期 以 前 の 姿 と も 相 当 に 異 第 山 た で 四 寺 っ 、 箱 経 て 室 蔵 繰 町 に 聖 り 時 記 教 返 代 載 内 し 天 さ 真 点 文 れ 言 検 六 た 書 が 年 聖 目 行 と 教 録 わ 江 は の れ 戸 、 第 て 時 中 四 い 代 世 箱 る 以 部 こ 寛 と 永 降 、 、 が 十 寛 す 知 年 永 な ら の 期 わ れ 二 に ち る 度 。 に 亘 っ 真 高 わ お い て 簡 単 に 記 述 し た よ う に 、 現 経 蔵 に お け る 所 蔵 状 況 る し 。 か し な が ら 、 先 行︵ 注 研二 十 究四 ︶ で も 指 摘 さ れ 、 筆 者 も 前 章 に け る 教 学 活 動 の 実 態 を 知 る 上 で 極 め て 有 効 な も の で あ 第 57号(20 14年8月) 教 整 理 の 際 に は 、 十 四 種 は と 他 追 の 記 箱 し に て︵ 注 存 ゐ二 十 す る一 ︶ 。 る こ と と い が う 確 も 認 の さ 寛 永 十 年 の 追 記 奥 書 に つ い て 宮 沢 氏 は 、 寛 永 十 年 の 聖 集 積 し 利 用 さ れ て き た か 、 ま た 、 そ の 後 の 保 管 ︵ 利 用 も 高 山 寺 に お け る 経 蔵 の 姿 、 す な わ ち 聖 教 が ど の よ う に れ た ら し く 、 欠 本 四 巻 含 む ︶ 状 況 の 変 遷 を 具 体 的 に 跡 づ け る こ と は 、 同 寺 に お 19 3 第 四 箱 ︶ に つ い て 点 検 を 行 っ た 記 録 で あ る 。 り 、 既 存 の 聖 教 目 録 を ベ ー ス に そ の 一 部 ︵ こ こ で は 真 二 高 山 寺 聖 教 の 変 遷 と 現 状 は 、 真 第 四 箱 の 聖 教 を 御 請 来 録 と 照 合 し 、 不 空 三 蔵 訳 と 朱 書 で 追 記 さ れ て い る 。 こ の 内 容 に つ い て 宮 澤 俊 雅 氏 検 べ 記 る 録 も な の ど は の 性 か 格 で を あ 有 っ し て て 、 い 多 る く の は で︵ 注 貸 あ二 十 出 る三 証 ︶ 。 ・ 出 納 記 録 ・ 点 る 二 七 二 点 の ぬ は 聖 教 て 一 あ 八 る 種 と を し 列 た 挙 上 し で た 、 も 不 の 空 で︵ 訳 で あ注 二 な る十 ︶ 。 い も と の 解 で 説 箱 さ 内 れ に て 存 お せ 目 録 の 中 で 、 本 来 の 意 味 で の 目 録 と 呼 此 儀 軌 本 目 録 合 點 畢 四欠 也 / 寛 永 十 十 十 四 日 ︵ 朱 書 ︶ の 資 料 は 現 在 の 経 蔵 に は 数 多 く 存 在 す る 。 結 局 、 現 存 す で 作 成 さ れ た も の な ど 様 々 な も の が 存 在 し て お り 、 同 様 ︵ 三 四 ︶ 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) ︵ 三 五 ︶ の ま れ 草 た 、 、 こ 期 そ れ 以 の ら 来 可 を 、 能 合 高 性 わ 山 も せ 寺 開 た 聖 け 再 教 て 検 類 き 討 が て が ど い 必 の る 要 よ 。 な う そ 時 な こ 期 変 で に 遷 、 来 を 鎌 て 遂 倉 お げ 時 り た 代 、 治 十 八 年 当 時 の 収 蔵 状 況 を 示 す と み ら れ る 目 録 も 発 見 さ 部 現 状 が の あ 高 り 山 単 寺 純 経 で 蔵 は の な 収 い 蔵 。 状 し 況 か は も そ 、 れ 近 ら 時 と 、 も 高 大 山 き 寺 く か 異 ら な 明 る 一 子 院 で あ っ た 方 が 行 わ れ 、 そ れ が を 中 心 に す え た 教 学 活 動 に 重 点 を 置 く 目 録 作 成 ・ 再 整 備 智 院 に 付 属 す る 聖 教 が 、 当 時 の 高 山 原 先 動 行 力 研 に 究 な で っ も た 指 の 摘 で さ は れ な て い い だ る ろ よ︵ 注 う う二 十 か に七 。 ︶ 、 当 初 は 高 山 寺 の 方 智 院 聖 教 目 録 と し て 成 立 し た と 聖 は 教 先 類 行 は 研 現 究 在 で ま も で 一 に 致 少 し な て く 指 と 摘 も し 三 て︵ 注 度 い二 十 の る五 改 ︶ 。 編 し を か 経 し て な が い る ら こ 、 ら︵ 注 す れ二 十 る る六 ︶ 僧 。 侶 そ が の 中 た め 心 に 的 、 な 室 役 町 割 時 を 代 担 に う か こ け と て 真 に 言 な 事 っ 相 た の と 聖 教 え 学 活 動 の 中 心 に 据 え る 空 達 房 定 真 ら 真 言 密 教 事 相 を 重 視 本 稿 の 冒 頭 で も 簡 単 に 示 し た と こ ろ で あ る が 、 高 山 寺 集 団 が 神 尾 山 な ど へ 出 た こ と も あ り 、 諸 尊 法 の 伝 授 を 教 可 能 な 状 態 に な っ て き て い る 。 の 先 学 の 研 究 に よ り 、 こ の う ち の か な り の 部 は 再 構 成 真 言 密 教 の 教 相 面 に 重 き を 置 く 義 林 房 喜 海 の 流 れ を 汲 む 19 2 期 に 一 応 の 完 成 を 見 た と 言 え る 。 そ の 後 、 寺 内 で は 華 厳 ・ は 、 そ の 追 跡 ・ 検 討 は 困 難 を 極 め る 。 し か し 、 現 在 ま で な 記 録 も な い 状 態 で 編 成 替 え の み が 行 わ れ て い る 場 合 が 残 さ れ て い る 場 合 に は 追 跡 可 能 で あ ろ う が 、 そ の よ う で 、 こ こ で そ れ 以 外 の 点 を 加 え る 。 こ の 期 の 聖 教 類 は 長 、 本 稿 の 冒 頭 で は 極 め て 簡 単 に し か 言 及 し な か っ た の 明 恵 上 人 存 命 当 初 か ら 整 備 と 目 録 の 作 成 が 行 わ れ 、 こ と が あ げ ら れ る 。 し か も そ の 編 成 替 え に つ い て の 記 録 が 実 施 さ れ 、 そ の 度 に 元 の 状 態 が 不 明 確 に な っ て い っ た ① 室 町 時 代 文 明 頃 鎌 倉 時 代 長 年 間 前 後 わ れ た こ と で あ り 、 そ れ に 加 え て 、 数 度 に 亘 る 編 成 替 え や 戦 災 あ る い は 人 為 的 な 行 為 等 に よ り 相 当 数 の 聖 教 が 失 え ら れ る の は 、 高 山 寺 と そ の 聖 教 類 が し ば し ば 自 然 災 害 な り に 整 理 し て 示 す こ と と す る 。 か に つ い て 、 再 度 、 新 た に 判 明 し た 成 果 を も 加 え て 自 北海学園大学人文論集 人 為 的 な も の に よ る 、 こ れ 以 上 の 散 佚 ・ 混 乱 を 防 ぐ 目 的 ら れ た 。 こ れ は 、 中 世 以 降 の 戦 乱 ・ 自 然 災 害 、 あ る い は 旧 箱 番 号 と し て 寛 永 期 以 降 に 記 載 さ れ た 表 紙 識 語 は 、 の 二 現 箱 存 を な 確 ど 認 の し 記 て︵ 注 載 い二 十 が る九 発 ︶ 。 見 さ れ て お り 、 現 在 ま で に 数 十 点 号 を 、 方 智 院 聖 教 目 録 に は を 、 高 山 寺 経 蔵 聖 教 内 真 言 書 目 録 東 の 箱 番 号 が 与 え に は 真 の 箱 番 教 蔵 に は と す 甲 る 乙 法 を 付 臺 し 聖 た 教 箱 目 番 録 号 が 与 に え は ら れ 臺 た 。 の 他 箱 に 番 、 号 密 る 華 厳 関 係 等 の 聖 教 、 す な わ ち 当 時 の 高 山 寺 聖 教 目 録 で あ る 。 こ れ 旧 を 箱 現 番 在 号 の 高 と 山 称 寺 し 聖 て︵ 注 教 い二 十 に る八 付 ︶ 。 さ 顕 れ 経 た 蔵 番 と 号 呼 と ば 区 れ 別 す る た め に 第 57号(20 14年8月) す べ て の 聖 教 に 、 所 在 を 示 す 固 有 の 番 号 が 付 さ れ た こ と な 点 は 、 ① で 示 し た 聖 教 目 録 が 再 整 備 さ れ 、 そ れ を 元 に 詳 細 は そ れ ら に 譲 る 。 一 言 す れ ば 、 こ の 時 期 最 も 特 徴 的 料 る と る の 年 他 。 灌 。 記 、 詳 ・ 近 頂 こ 録 方 細 記 年 に は 載 、 に の 、 関 資 不 智 別 が こ 表 す 料 可 院 項 次 れ 紙 る に 虫 仁 に 々 ら に 旧 3 は 払 真 譲 に の 箱 箱 、 箱 と る 発 記 番 が 禅 事 仁 が 見 録 号 存 浄 ︵ 弁 、 さ を と 在 房 第 に ひ れ し し 書 四 よ と て る て て と 部 る つ い 時 は る 期 記 い し 第 載 た て 一 禅 、 。 の さ こ ︵ 五 浄 鎌 経 れ と 少 一 房 倉 蔵 時 て を な 函 に い 示 く 15 聖 代 つ る す と 号 教 後 い 記 も 1 に 期 て 禅 録 ︶ ︶ つ 元 の 浄 5で い 応 が 2 資 房 あ 箱 あ て 元 19 1 こ の 時 代 の 整 理 に 関 し て は 、 既 に 先 行 研 究 が 多 く あ り の で あ る 。 ② 江 戸 時 代 寛 永 頃 時 代 に 再 整 備 さ れ た 目 録 と の 対 応 関 係 を 具 体 的 に ず れ か の 経 蔵 蔵 書 と し て 類 さ れ た こ と が 判 明 し 、 れ 江 る 戸 て 見 た こ 、 。 の い 期 わ を ば 経 て 、 的 現 管 在 理 高 山 へ 寺 と の 昇 格 的 し な た 聖 の 教 で 目 あ 録 ろ が う 完 。 成 を 寺 に お け る 真 言 事 相 を 中 心 と し た 教 学 活 動 の 一 端 と し ら の 記 載 が あ れ ば 、 少 な く と も 江 戸 時 代 初 期 に は 上 記 い で な さ れ た も の で あ る 。 実 証 的 に 進 展 さ せ る こ と と な っ た 。 聖 教 の 表 紙 等 に こ れ 結 果 的 に 、 こ の 作 業 は 現 代 の 高 山 寺 資 料 調 査 を 極 め て ︵ 三 六 ︶ 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) そ の 時 期 は 現 存 の 資 料 に 記 録 が 見 え ず 明 ら か で は な い 寺 宝 物 寄 附 物 古 文 書 什 物 取 調 牒 ︵ 三 七 ︶ が あ る 。 本 書 の 識 語 は そ の 編 成 の 主 な 部 を 引 き 継 い で い る と え ら れ る 。 近 時 、 新 た に 発 見 さ れ た 資 料 と し て 、 明 治 十 八 年 高 山 の よ う な 編 成 が な さ れ た こ と が 推 定 さ れ 、 現 在 の 箱 番 号 れ を 論 事 経 、 無 こ 視 れ 鈔 相 し て ら 一 四 三 を 、 八 八 六 経 合 箱 箱 箱 ・ す ︵ ︵ ︵ 事 る も 相 に し ・ 、 く 論 あ は 〃 〃 そ 鈔 る の 時 れ 讃 期 以 上 に 類 、 ︶ ︶ ︶ に そ よ れ る ま 整 で 理 の が 箱 行 番 わ 号 変 遷 を 年 代 順 に 治 以 降 数 度 の 所 属 替 え 等 を 経 て 現 状 に 至 っ て い る 。 そ の っ て い く こ と と す る 。 ③ の 状 態 を 基 に し た と し て い る が 実 際 に は 、 さ ら に 、 明 先 行 研 究 で は 、 現 在 の 高 山 寺 経 蔵 の 編 成 は 、 基 本 的 に ④ 現 在 の 高 山 寺 経 蔵 の 編 成 で あ る と し か 言 い よ う が な い 。 網 羅 的 に 調 査 し た 上 で 以 下 の よ う に 述 べ て お ら れ る 。 と い う 点 の み を 指 摘 で き る に と ど ま る の は 、 極 め て 残 念 19 0 ・ 現 在 の 高 山 寺 聖 教 の 編 成 と も 合 致 し な い 。 奥 田 氏 は 、 高 山 寺 に 現 存 す る 経 箱 に 記 載 さ れ た 記 事 を ・ そ の 改 編 を 記 録 し た 目 録 ・ 記 録 も 現 存 し て い な い か に つ い て の 詳 細 は 判 明 し て い な い 。 ・ そ れ は 鎌 倉 ∼ 寛 永 期 の 状 態 を 大 幅 に 改 編 し た 目 的 、 そ し て そ の 結 果 と し て 、 ど の よ う な 体 制 に な っ た ・ 経 ・ 事 相 ・ 論 鈔 と 再 編 成 が 行 わ れ た こ の 時 期 の 経 蔵 整 備 ・ 再 編 成 に 関 し て は 、 そ の 時 期 ・ の で は な く 、 ③ 江 戸 時 代 中 期 以 降 る こ と に な る 。 実 際 に は さ ら に る 別 系 統 の 旧 箱 番 号 が 存 在 し て い 結 局 、 現 状 で 判 明 し て い る こ と は 先 行 研 究 を 超 え る も が 、 箱 に 記 る さ も れ の た で は 改 な 経 い と な 思 ど わ︵ の れ注 三 筆 致 る十 ︶ 。 か ら 、 幕 末 よ り さ し て 遠 く 北海学園大学人文論集 聖 教 以 外 は 基 本 的 に は 一 点 ず つ 名 称 ︵ 書 名 ︶ 、 点 数 を 示 し 、 教 ︶ ・ 高 山 寺 法 臺 古 文 書 の 五 類 と な っ て お り 、 法 臺 第 57号(20 14年8月) わ 基 て 明 翻 要 蔵 路 に 検 の 資 以 □ 構 か に 同 印 原 料 前 所 表 の 確 刻 な に 証 よ 成 る 実 、 と 本 が に □ 紙 解 な が 資 お 成 る に 明 点 あ 料 け 師 と は 。 際 一 お に 新 す の ぼ 当 た で と は は 、 る︵ 、 注 と る に 、 項 高 し た に に い 、 今 未 の三 宝 十 言 聖 よ 明 山 、 き る 作 原 う 明 後 検 で一 え 教 り 治 物 ︶ 寺 資 成 形 書 治 の 討 、 る の 作 十 部 第 蔵 封 料 さ と 込 十 課 の 詳 。 収 成 八 ・ 書 七 は れ も が 八 題 部 細 本 蔵 さ 年 什 は 資 状 れ 七 等 項 と 見 た 言 あ 年 で 物 が な い 出 と え り 七 あ が そ 料 況 た 月 部 点 ど う さ い る 、 月 る 多 ち は を 記 二 ・ 検 の 印 れ う 取 こ 二 。 く ら す 物 録 日 什 さ 書 記 て こ 調 れ 日 、 に で 語 で に 物 れ き や い と 牒 に 改 資 譲 に る あ 当 追 た 入 欄 な に が よ 正 料 る 書 も り 時 加 も れ 外 い な あ れ 新 の 。 誌 の 、 の 之 の が な 。 ろ り ば 写 持 成 、 と 当 高 部 資 う 、 で つ 立 全 し 時 山 あ 京 ど 、 ・ ︵ あ り に 料 。 そ 明 府 意 に 文 て の 寺 の 法 る 、 丸 現 の 治 庁 味 は の 極 高 住 随 こ 本 印 在 後 十 に な 影 め 山 職 臺 と 書 や 所 、 、 八 法 つ お 印 て 寺 錦 に 聖 が を 、 そ 本 年 務 い 不 と 重 経 小 、 二 部 ら 日 か に に と な 上 明 る 書 治 糸 訂 十 口 正 八 が し 年 出 て 七 来 お 月 た り 二 と 、 日 言 ま え た の る ︵ 上 。 法 か こ ら の 臺 墨 資 聖 書 料 教 で に は ︶ 部 九 、 の 月 奥 末 十 書 も 発 見 さ れ 、 今 後 、 高 山 寺 に お け る 明 治 初 期 の 様 相 が 明 さ ら に 近 時 、 こ の 資 料 の 浄 書 版 と も 言 え る 新 た な 資 料 事 相 ・ 論 鈔 と い う 類 と も 合 致 し な い 。 の 内 容 と も 合 致 し な い し 、 前 項 で 取 り 上 げ た ③ の 資 料 に 記 載 さ れ た 箱 と 聖 教 の 収 蔵 状 況 は 、 寛 永 期 の 経 目 ・ 録 留 ま っ て お り 、 全 容 を 知 る こ と は 難 し い 。 加 え て 、 こ の を 示 し て い る が 、 破 損 の 甚 だ し い も の は 大 ま か な 記 述 に 18 9 は さ ら に 増 加 す る 。 聖 教 の 記 載 は 、 箱 ご と に 書 名 と 員 数 什 物 部 に も 聖 教 類 が 別 に 記 載 さ れ て い る の で 、 そ の の 記 載 計 し と て い え る て 。 良 こ い れ の は で 、 あ 当 ろ 時 う の か 高 。 山 こ 寺 れ 聖 以 教 外 類 に を 、 収 宝 め 物 た 数 ・ 箱 問 題 な の は 、 ︵ 法 臺 聖 教 ︶ 部 で あ り 、 計 百 二 十 箱 を 査 者 に よ る も の で あ ろ う か 。 に 記 録 し て い る 。 こ れ ら は 高 山 寺 外 の 府 庁 な ど の 外 部 調 に 前 半 の 宝 物 ・ 什 物 部 に は 点 検 の 印 記 ・ 書 き 入 れ を 詳 細 必 要 に 応 じ て 筆 者 ︵ 作 者 ︶ 、 体 裁 等 の 情 報 を 記 載 す る 。 特 ︵ 三 八 ︶ 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) で︵ 注 署 あ三 十 ヲ る二 ︶ 要 。 ス 神 社 並 寺 院 ニ 於 テ 其 社 寺 ノ 為 メ 金 穀 ヲ 借 入 ル ヽ ト キ 若 ク ︵ 三 九 ︶ 大 正 期 の 経 蔵 に つ い て は 、 伝 承 に よ る も の と し て 、 大 が 伺 わ れ る の で あ る 。 そ の 布 告 と は 、 明 治 十 年 五 月 十 六 十 年 の 太 政 官 布 告 が こ の 取 調 牒 作 成 の 契 機 に な っ た こ と 重 要 な ヒ ン ト が 書 き 込 ま れ て い る 。 詳 細 は 省 く が 、 明 治 こ の 取 調 牒 が ど の よ う な 経 緯 で 作 成 さ れ た か に つ い て の こ の 浄 書 版 に は 、 末 尾 近 く に 貼 り 紙 が あ り 、 そ こ に は 、 注 目 こ さ の れ 時 た 期 か 以 に 降 つ の い 高 て 山 一 寺 言︵ 注 経 す三 十 蔵 る三 聖 ︶ 。 教 が ど の よ う に 扱 わ れ 、 年 七 月 ま で の 間 で あ る と 特 定 で き る こ と に な る 。 つ ま り 、 本 資 料 の 作 成 時 期 は 、 明 治 十 年 以 降 、 明 治 十 八 に お い て 作 成 さ れ た も の と 見 て 良 い の で は な か ろ う か 。 本 資 料 ︵ 取 調 牒 ︶ は 、 こ の 太 政 官 布 告 を 受 け て 高 山 寺 日 に 、 太 政 官 と 第 い 四 う 十 も 三 の 号 で と 、 し 布 て 告 布 の 告 全 さ 文 れ は た も 以 の 下 の 代 で 通 ノ あ り 連 る 。 点 が 国 宝 に 指 定 さ れ た 。 時 の 国 宝 に 指 定 さ れ て 以 来 、 昭 和 二 十 四 年 ま で に 三 十 一 治 三 十 二 年 か ら そ の 表 題 は 、 社 寺 ノ タ メ 金 穀 借 入 等 ハ 氏 子 檀 家 明 治 中 期 に 東 京 玉 帝 篇 国 大 学 冥 報 料 記 編 纂 篆 掛 隷 の 万 採 象 訪 名 が 義 あ り が 、 当 明 18 8 素 と な り 得 る 。 と い う 書 き 込 み が あ り 、 本 資 料 の 作 成 時 期 を 検 討 す る 要 明 治 十 八 年 五 月 三 十 一 日 ※ 候 做 [ 事 シ 縦 令 ] 右 内 ノ は 抵 原 当 文 ア 小 ル 書 モ 双 其 行 効 ナ キ 者 ト 為 ス ヘ シ 此 旨 布 告 書 有 之 可 崇 重 尤 可 秘 蔵 者 也 右 者 悉 皆 写 経 聖 教 シ 若 シ 此 連 署 ナ キ ト キ ハ キ ハ 必 ス 氏 子 檀 家 ト 協 議 シ テ 該 社 寺 神 官 僧 侶 ノ 私 債 ト 看 尾 に は 、 ニ シ テ 七 八 百 年 以 前 之 稀 世 之 珍 代 二 名 以 上 ノ 連 署 ヲ 要 ス ヘ 物 什 器 [ 宝 物 古 文 書 類 ヲ 除 ク ノ 外 ] 等 ヲ 抵 当 ト 為 ス ト ハ 金 穀 ヲ 借 入 ル ヽ 為 メ 社 寺 附 地 所 [ 除 税 地 ヲ 除 ク ノ 外 ] 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 観︵ て さ 山 一 い 帝 正 認 問 れ る と 五 専 祝 注 高 す三 十 最 識 印 な 。 も 年 門 夫 昭 施 れ 寺 括 う 国 末 山 る五 し 信 い 村 に 前 領 と 和 入 整 典 し 。 大 頃 ︶ 後 寺 。 に て ・ 資 上 経 後 域 い に さ 理 籍 て そ 学 に 聖 、 い 課 料 師 蔵 の に っ 入 れ し 文 長 の の 、 教 現 る 業 な の 内 村 従 た る て た 書 櫃 際 高 大 は 在 形 印 ど 著 の 上 っ 先 と い 。 綜 の の 楠 正 現 の 跡 信 も 書 聖 素 た 学 、 る そ 合 中 調 順 新 在 教 道 経 の 村 の れ 調 に 査 次 脩 あ 高 が 栂 を 師 蔵 採 上 で が 査 収 中 郎 大 、 見 と り 高 尾 山 ら︵ い 注 山 第 寺山 博 は 調 訪 素 あ 、 団 め に 博 蔵 注 寺 れ三 う 目 明 捜 、 査 が 道 る 現 に た 、 士 経 一 十 聖 る四 明 さ 恵 さ 当 が あ 、 。 在 よ と 大 が の 部 ︶ 教 。 恵 れ 上 れ 時 行 り 吉 か の り い 破 高 企 の ら 高 開 う し 山 画 上 る 人 て の わ 、 沢 第 山 山 。 た 寺 ・ い 高 れ 高 義 人 。 収 五 寺 堂 こ 聖 経 出 由 ま に る 山 て 山 則 蔵 部 聖 の の 教 蔵 版 来 た は こ 寺 い 寺 、 状 に 、 と 主 る 資 土 教 土 長 類 調 に の 、 況 土 。 料 宜 現 類 蔵 櫃 を 査 関 が 掛 こ の に 類 第 か は 反 を わ 板 時 在 判 宜 特 を 成 つ し 四 ら 、 故 行 っ の 期 で 明 覚 に 各 雄 い 収 部 運 後 と っ た 存 に は し 了 、 方 、 て 蔵 見 て 師 昭 面 中 と び に し た 東 在 さ し 出 高 て と 京 を 学 ら い と 和 の 田 概 て 様 で あ ◎ い 々 る 第 る な 。 四 。 理 部 今 由 は 、 に 現 そ よ 在 れ り 二 を 現 二 整 状 〇 理 は 函 す 往 で る 時 あ 。 の 姿 る か 。 ら 内 相 訳 当 は の 、 変 以 下 を の 受 通 け り 第 四 部 が 、 高 山 寺 聖 教 箱 の 基 本 で あ る 。 し か し な が ら 、 た も の で あ る 。 以 前 の い ず れ か の 時 期 に 、 高 山 寺 聖 教 箱 か ら 取 り 出 さ れ こ の 第 二 部 と 第 三 部 は 、 文 化 財 保 護 委 員 会 に よ る 調 査 主 体 で あ る 。 第 三 部 ︵ 1 号 ∼ 号 ︶ は 、 同 じ く 修 理 済 み の 冊 子 本 が 18 7 子 本 で あ る 。 第 二 部 ︵ 1 号 ∼ 号 ︶ は 、 修 理 を 施 さ れ た 巻 子 本 ・ 冊 か ら 選 別 し 取 り だ し た も の と さ れ て い る 。 が 高 山 寺 経 蔵 を 調 査 し た 際 に 、 当 時 の 高 山 寺 聖 教 箱 の 中 第 一 部 三 〇 六 点 は 、 昭 和 二 十 八 年 に 文 化 財 保 護 委 員 会 複 雑 な 経 緯 が あ る の で 、 そ れ ぞ れ 整 理 し て 示 す 。 れ て い る 。 こ の よ う な 状 況 に な っ た の に は 以 下 の よ う な ︵ 四 〇 ︶ 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) ◎ 昭 和 四 十 三 年 以 降 、 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 に よ ︵ 四 一 ︶ ◎ こ の 後 、 別 置 の 箱 の 中 に あ っ た 近 世 の 写 本 ・ 版 本 類 い た 欠 番 等 は 解 消 さ れ た 。 第 一 二 〇 函 第 一 〇 八 函 第 一 〇 六 函 第 一 〇 五 函 第 一 〇 一 函 典 籍 は 二 〇 九 函 ま で 連 続 し た 番 号 と な り 、 当 初 存 在 し て 第 一 七 七 函 以 下 と し て 新 造 の 桐 箱 に 収 め た 。 そ の 結 果 、 調 査 に よ り 収 め ら れ た も の も 含 む ︶ は 整 理 を 施 し た 上 で 、 簡 、 虫 損 ・ 破 損 の 著 し い 聖 教 類 ︵ 大 正 末 頃 の 高 楠 博 士 の ◎ さ ら に 、 高 山 寺 経 蔵 の 唐 櫃 か ら 大 量 に 発 見 さ れ た 断 第 七 三 函 て 欠 番 を 埋 め た 。 た し 第 化 第 。 か 一 財 ◎ 五 し 七 保 こ 六 な 六 護 の ・ が 函 委 函 五 ら ま 員 番 七 、 で 会 号 ・ こ の に の 五 の 番 よ 基 八 調 号 る 本 ・ 査 が 調 と 五 の 付 査 な 際 さ で っ 九 、 れ あ た 函 以 、 る の 下 合 。 は の 計 こ 、 10 一 の 昭 箱 六 時 和 は 六 は 二 欠 函 第 十 番 で 一 八 で あ 函 年 あ っ か の っ た ら 文 。 さ れ た 聖 教 ︵ 箱 ︶ 、 坊 外 か ら 買 い 戻 さ れ た も の 等 を 整 理 し た 1 0◎ 函 文 は 化 、 財 高 保 山 護 寺 委 典 員 籍 会 文 に 書 よ 綜 る 合 調 調 査 査 の 団 際 に に よ 欠 り 番 新 と た さ に れ 見 て 出 い 18 6 と し て 、 新 た に 番 号 と 函 を 再 編 成 し た 。 第 三 〇 一 函 ∼ 第 三 一 〇 函 の 古 文 書 が 収 め ら れ た 5 函 は 、 合 計 二 二 〇 函 第 一 七 二 函 ∼ 一 七 五 函 第 一 五 五 函 古 典 文 籍 書 文 化 財 保 護 委 員 会 に よ り 与 え ら れ た 函 番 号 の 内 、 第 三 〇 一 函 ∼ 第 三 一 一 函 第 一 函 ∼ 第 二 〇 九 函 以 下 の 通 り で あ る 。 る 調 査 ・ 整 理 に よ り 、 再 度 変 が 加 え ら れ た 。 そ れ は 、 北海学園大学人文論集 録 の な い ま ま 個 別 の 、 あ る い は 的 な 調 査 が 行 わ れ 、 昭 7 の 地 蔵 院 聖 教 目 録 ︵ 第 四 部 一 三 五 函 14 号 ︶ は 、 江 の れ い て ず い れ る の が 収 、 蔵 こ 状 こ 況 に と 示 も さ 合 れ 致 た し 聖 な 教 い 類 と︵ 注 の い三 十 記 う六 載 ︶ 。 状 さ 況 ら は に 、 、 前 記 後 で あ る 。 明 治 十 八 年 に は 詳 細 な 宝 物 や 聖 教 の 記 録 が 残 さ 8 7 쐍 地 善 蔵 財 院 院 聖 聖 教 教 目 ︶ 録 目 ︵ 録 第 ︵ 四 第 部 四 一 部 三 一 五 三 函 五 1 4 函 号 1 8︶ 号 ︶ 残 さ れ て お ら ず 、 手 が か り が 途 絶 え て し ま っ て い る 状 態 第 57号(20 14年8月) ら れ る 。 し か し 、 江 戸 時 代 中 期 以 降 の 編 成 替 え 、 特 に ③ に は 鎌 倉 時 代 の 状 態 を 保 持 し よ う と い う 意 図 と 努 力 が 見 成 に つ い て は ︵ 災 害 等 の 欠 失 は 見 ら れ る も の の ︶ 、 基 本 的 え る こ と は 、 少 な く と も 寛 永 期 の 聖 教 類 の 点 検 と 目 録 作 れ る ︶ 聖 教 目 録 に つ い て の 変 遷 を 概 観 し た 。 こ こ か ら 言 の 寺 二 内 点 子 で︵ 注 院 あ三 十 の る七 聖 ︶ 。 教 目 録 に つ い て 検 討 す る 。 そ の 目 録 と は 次 か つ 、 あ る 程 度 素 性 の 明 か な 一 | 二 に お い て 紹 介 し た 、 そ こ で 、 本 章 で は 視 点 を 変 え て 、 江 戸 時 代 に 作 成 さ れ 、 お け る 聖 教 群 の 伝 来 状 況 に つ い て は 不 明 な こ と が 多 い 。 と 言 わ ざ る を 得 な い 。 特 に 江 戸 時 代 中 期 以 降 、 明 治 期 に で 示 し た 時 期 の 改 編 に つ い て は 、 そ の 改 編 意 図 も 記 録 も 18 5 綜 合 調 査 団 か ら 高 山 寺 へ 寄 贈 さ れ た 一 点 で あ る 。 以 上 、 高 山 寺 経 蔵 典 籍 と 、 そ れ を 記 録 し た ︵ と え ら の よ う な 変 遷 を っ た か を 明 確 に 跡 づ け る こ と は 難 し い 的 な 、 あ る い は そ れ に 準 じ た 記 録 だ け で は 、 聖 教 類 が ど さ て 、 前 項 ま で に 見 て き た よ う に 、 高 山 寺 に お け る 第 五 部 は 、 高 山 寺 旧 蔵 の 典 籍 で 、 近 時 高 山 寺 典 籍 文 書 三 江 戸 時 代 の 目 録 年 の 調 査 時 よ り 増 加 し て 合 計 二 二 〇 函 と な っ て い る 。 の 基 礎 と な っ た 。 こ の よ う な 編 成 替 等 を 経 て 現 在 の 第 四 部 は 昭 和 二 十 八 う や く 聖 教 の 収 蔵 状 況 が 固 定 化 さ れ 、 現 在 の 高 山 寺 聖 教 が 、 第 三 一 一 函 と し て 新 た に 追 加 さ れ た 。 和 二 十 八 年 に 文 化 財 保 護 委 員 会 に よ る 調 査 に よ っ て 、 よ ︵ 四 二 ︶ 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) 作 潅 顕 悉 四 法 頂 経 曇 度 方 方 次 章 第 沢野 疏 表 血 傳 尊 尊 白 脈 受 法 法 沢野 記 野沢 沢見 沢野 等 諸 講 諸 事 諸 大 式 次 相 儀 事 第 式 沢野 沢野 表 紙 に は 以 下 の よ う に 記 さ れ て い る 。 神 図 教 重 道 像 相 書 御 作 伝 受 類 聚 鈔 は こ の 後 、 前 述 し た ︵ 四 三 ︶ 明 治 十 八 年 高 山 寺 も の と し て 極 め て 貴 重 で あ る と 見 ら れ る 。 中 世 以 降 の 高 山 寺 に お け る 宗 教 活 動 と そ の 変 遷 を 物 語 る 伝 受 類 聚 鈔 が 記 載 さ れ て い る こ と か ら み て 、 本 資 料 は さ た れ が た 、 こ 後 と に が 中 推 世 定 末 さ の れ 高 て︵ 注 山 い三 十 寺 る八 僧 ︶ 。 弁 地 智 蔵 に 院 よ 聖 り 教 地 目 蔵 録 院 に に も こ た の ら て い る 。 伝 受 類 聚 鈔 は 、 当 初 十 無 盡 院 に 保 管 さ れ て い 事 も あ り 、 善 財 院 と の 関 連 が 注 目 さ れ る と こ ろ で あ る 。 善 財 院 を 改 称 ︵ あ る い は 統 合 ︶ し た と 見 ら れ る よ う な 記 は 江 戸 時 代 書 に 写 の 観 意 高 房 山 □ 寺 善 代 才 々 院 記 後 ︵ 改 第 地 一 蔵 九 院 九 函 と 1 い 号 っ ︶ た の と す る 、 高 山 寺 で は 比 較 的 新 し い 僧 坊 で あ る 。 こ の 僧 坊 い が 、 室 町 時 代 後 期 に 仁 和 寺 の 弁 誉 上 人 ︵ 信 厳 ︶ を 開 祖 い 。 塔 頭 と し て の 地 蔵 院 の 成 立 に つ い て は 不 明 な 点 が 多 記 載 な ど が 見 ら れ 、 そ の 浄 書 版 た る 写 本 は 現 存 し て い な い か も し れ な い 。 目 録 の 至 る 所 に 加 筆 、 抹 消 、 補 入 、 未 り 、 未 完 成 な も の で あ っ て 、 正 式 な 聖 教 目 録 と は 言 え な る 聖 教 の 目 録 で あ る 。 表 紙 に も 作 法 、 印 信 等 の 口 決 を 類 聚 し た も の で 、 高 山 寺 に 現 存 し 第 三 世 恵 林 上 人 経 弁 の 作 成 で あ り 、 勧 修 寺 流 の 諸 尊 法 、 る 。 伝 受 類 聚 鈔 は 、 方 に お い て 重 要 典 籍 の 一 つ と 目 さ れ る 目 す べ き 典 籍 を 一 点 あ げ て お く 。 そ れ は 、 当 時 の 高 山 寺 の 典 籍 を 含 む も の も あ る の で 消 さ れ た 到 な 構 成 と な っ て い る 。 記 載 さ れ た 典 籍 類 の 載 さ れ 、 必 要 に 応 じ て 欠 本 や 所 在 に つ い て 記 す な ど 、 周 誤 は 存 在 す る も の の 、 ほ ぼ 記 載 さ れ 、 実 際 に 記 載 さ れ た 内 容 は 、 本 文 と は 若 干 の 錯 地 蔵 院 の 部 智 院 仁 真 の 資 で あ る 十 無 盡 院 18 4 伝 受 類 聚 鈔 で あ 点 数 は こ れ を 上 回 る 。 注 を 除 く と 一 三 五 点 を 数 え る 。 実 際 に は 、 複 数 数 は 、 抹 て の 項 目 に 亘 っ て 典 籍 が 記 下 書 と 記 載 さ れ て お 戸 時 代 初 期 に 作 成 さ れ た と 見 ら れ る 地 蔵 院 の 所 蔵 に か か 右 に あ げ た よ う に 、 次 第 か ら 始 ま り 大 事 ま で が 北海学園大学人文論集 内 容 に つ い て で あ る が 、 表 紙 に は 以 下 の よ う に 記 載 さ れ 教 目 録 が 作 成 さ れ た の も 自 然 な こ と で あ ろ う 。 本 資 料 の と な く 江 戸 時 代 ま で 続 く 。 そ の 僧 房 の 所 蔵 に つ い て の 聖 世 と す る 歴 た も の が 何 ら か の 理 由 で 記 載 さ れ な か っ た も の と 見 て よ い て 目 録 を 用 意 す る の も 不 自 然 な の で 、 本 来 存 在 し て い は 不 明 で あ る 。 常 識 的 に 見 て 、 存 在 し て い な い も の に つ の あ る 僧 房 で あ り 、 以 後 代 々 が 途 切 れ る こ え ら れ る 。 善 財 院 は 明 恵 上 人 の 高 弟 法 智 房 性 実 を 第 一 高 山 寺 僧 房 で あ る 善 財 院 所 蔵 に か か る 聖 教 目 録 で あ る と あ り 、 善 財 院 と の 関 連 を 伺 わ せ る 。 従 っ て 、 実 質 的 に は し な が ら 、 原 本 に は 表 紙 右 下 に し て い る の か 、 後 に 切 り 離 さ れ た の か に つ い て は 現 状 で 一 る の 本 は 経 第 二 に の あ た 真 る 言 部 事 相 が 部 そ も か そ ら も で 存 あ 在 る し 。 て こ お れ ら は ず 、 欠 落 第 い た こ と が 想 像 さ れ る 。 し か し 、 実 際 に 聖 教 の 記 載 が あ こ と か ら 、 少 な く と も 五 善 財 院 と 書 き 入 れ が 類 さ れ た 聖 教 類 が 収 蔵 さ れ て と 仮 題 の み 記 載 さ れ 、 書 名 の 特 定 は で き て い な い 。 し か 第 57号(20 14年8月) 移 と 現 在 8 動 も の の の 記 高 ︵ 実 載 山 善 態 す 寺 財 な る 典 院 ど な 籍 聖 を ど 文 教 知 、 書︵ ︶ る 江 目注 四 目 上 戸 録十 で 期 ︶ 録 に 興 に お ︵ 味︵ 注 お 第 深三 い 十 け て 四 い九 る ︶ は 部 。 高 、 一 山 書 三 寺 名 五 聖 が 函 教 ︵ 18 の 目 号 収 録 ︶ 蔵 は ︶ 、 や こ の よ う に 、 本 経 か ら 始 ま り 、 雑 ゝ ま で が 記 さ れ て い る 智 院 聖 教 目 録 籍 の 旧 所 蔵 を の 所 在 を 示 す 旧 箱 番 号 で あ る 石 水 院 と 墨 書 追 記 し 、 さ ら に 勧 は 内 本 方 第 第 第 第 第 五 四 三 二 一 雑 ゝ 目 録 不 詳 法 則 私 記 等 真 言 教 相 お 宝 聖 教 ま り 物 目 た 、 寄 録 、 現 附 本 在 物 に 資 に 古 記 料 至 文 載 に っ 書 の は て 什 聖 、 い 物 教 い る 取 も わ 。 調 収 ゆ 牒 蔵 る さ の れ 長 什 て 目 物 お 録 部 り で に 、 あ 記 掲 る 載 出 さ し 高 れ た 山 て 典 寺 目 録 て い る 。 真 本 言 経 事 相 善 財 院 ︵ 別 筆 ︶ ︵ 四 四 ︶ 18 3 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) 明 す る か も し れ な い 。 今 後 の 課 題 と し た い 。 ︵ 四 五 ︶ た ま 部 た 、 に 本 以 資 下 料 の の よ ︵ う 法 な 記 臺 述 聖 も 教 見 ︶ ら と れ 推 る 定 。 さ れ る 箱 を 記 載 し 存 本 ・ 典 籍 文 書 目 録 と を 照 合 す る こ と で 新 た な 事 実 が 判 八 年 の 記 録 と い っ た 、 四 つ の 中 継 点 と も 言 え る 記 録 と 現 さ れ る 、 経 ・ 事 相 ・ 論 鈔 へ の 編 成 替 え 、 さ ら に 明 治 十 す な わ ち 寛 永 期 の 聖 教 目 録 と 江 戸 時 代 末 期 に 行 わ れ た と わ︵ し 不 い い 注 無 院 聖 い て 今 れ四 十 盡 聖 教 。 き 以 な 明 て の 後 る一 教 目 た た 上 い と も で ︶ 院 、 。 に 目 録 だ 。 、 が せ 本 は こ 蔵 録 ︵ 、 こ 二 、 ざ 資 な れ 記 れ 点 少 る 料 か 書 い ら と と わ 録 以 の な を に ろ 江 そ の ゆ 上 外 江 く 得 は う 戸 の 記 る は の 戸 と な 聖 か 時 目 載 旧 、 子 時 も い 教 。 代 録 が 目 室 院 代 江 。 の ま の が 見 録 町 に 書 戸 本 記 た 子 存 ら ︶ 時 つ 写 時 目 載 、 院 在 れ の 代 い に 代 録 が 第 の に て か 中 の な 、 し 室 第 書 の か 期 成 い 五 聖 九 て 町 教 写 目 る 以 立 。 い 時 秘 さ 録 聖 前 に こ 雑 目 録 る 代 録 れ は 教 で つ の ゝ こ 文 部 た 現 目 あ い 点 目 と 、 と 明 に 存 録 ろ て も 録 そ が 年 し を う は 現 不 方 の う 間 十 て 概 。 判 状 詳 前 か に 無 智 い 観 然 で に 後 が 十 盡 院 な し と は つ 、 ︵ ︵ 一 中 什 八 聖 略 物 ウ 部 ︶ 教 目 ︶ 録 出 し て 示 す 。 箱 入 十 一 巻 18 2 目 録 は 一 括 し て 記 載 さ れ て い る 。 以 下 に そ の 実 例 を 抜 き 高 か か の 山 ら か 痕 寺 も る 跡 読 聖 は 宝 み 教 現 物 取 目 存 寄 る 録 の 附 こ に 古 物 と 、 目 古 が 一 録 文 出 括 、 書 来 し す 什 る て な 物 。 記 わ 取 先 載 ち 調 に し 江 牒 あ よ 戸 げ う 時 を た と 代 見 し 以 て 明 て 前 も 治 い の 、 十 る 製 聖 八 こ 作 教 年 と に 目 録 を 重 要 な も の と し て 位 置 づ け て い た よ う で あ り 、 そ さ て 、 高 山 寺 は 鎌 倉 時 代 草 期 以 来 、 連 綿 と し て 聖 教 四 一 三 五 函 に つ い て 北海学園大学人文論集 の 示 唆 を 与 え て く れ る の で は な か ろ う か 。 時 代 か ら 近 代 に 至 る 高 山 寺 経 蔵 の 変 遷 に つ い て 、 何 ら か つ い て 構 成 と 伝 来 が 判 明 す れ ば 、 従 来 不 明 で あ っ た 江 戸 類 が 多 く 収 蔵 さ れ て い る 聖 教 箱 で あ る 。 こ の 一 三 五 函 に 一 三 五 函 は 、 目 録 函 と い う 名 称 が ふ さ わ し い ほ ど 目 録 5 4 3 2 1 法 法 高 쐍 聖 山 教 臺 臺 寺 目 聖 聖 聖 録 教 教 教 ︶ 目 目 目 録 録 録 中 上 方 智 院 聖 教 目 録 第 三 一 一 一 一 一 巻 巻 帖 冊 冊 五 函 と し て 登 載 さ れ て い る 函 に 該 当 す る と え ら れ る 。 쐍 五 四 ウ ︶ に 記 載 さ れ た 聖 教 目 録 は 、 現 在 第 四 部 第 一 三 て の 聖 教 を あ げ る 。 第 57号(20 14年8月) れ て い る 点 な ど 状 況 的 に は 一 致 す る 。 わ な い も の の 、 箱 単 位 で 他 の 聖 教 と 切 り 離 さ れ て 収 め ら 結 果 、 新 た に 作 成 さ れ た も の で あ る 。 現 在 で は 、 九 巻 が は 、 江 戸 時 代 寛 永 期 に 行 わ れ た 聖 教 と 目 録 の 照 合 作 業 の の 二 点 の み で あ る 。 以 下 に 、 一 三 五 函 の 別 置 62 2 5録 と 仙 쐍 全 奥 洞 く 御 書 無 所 集 関 御 ︶ 係 祈 一 な 石 冊 資 水 料 院 は 御 開 帳 第 一 章 で 取 り 上 げ た よ う な い わ ゆ る 一 括 し て 木 箱 に 収 め ら れ て い て 、 明 治 の 記 録 と 数 量 は あ 一 巻 広 い 意 味 で の も 含 め た 目 18 1 め の 十 一 巻 に わ た る 聖 教 目 録 は 、 恐 ら く 現 在 高 山 寺 聖 教 が 合 計 二 箱 、 高 山 寺 内 に 存 在 し て い た こ と と な る 。 は じ こ の よ う に 明 治 十 八 年 時 点 で は 、 聖 教 目 録 を 一 括 し た 箱 一 高 山 寺 並 山 内 支 院 聖 教 目 録 ま 文 り 化 、 財 現 保 在 護 は 委 1 0員 号 会 か が ら 行 の っ 十 た 八 調 点 査 を に 収 よ 蔵 る す も る の 。 で こ あ の ろ う う ち 。 、 つ れ 別 置 し て い る 。 こ の 処 置 を 行 っ た の は 昭 和 二 十 八 年 に す る が 、 現 在 1 ∼ 9 号 は 第 一 部 一 第 三 四 五 部 函 第 に 一 つ 三 い 五 て 函 概 に 観 は 的 、 に 1 検 号 討 か し ら て 2 7い 号 く ま 。 で の 番 号 が 存 類 第 一 部 号 の 目 録 九 巻 で あ ろ う 。 こ の 聖 教 目 録 類 ∼ 号 と し て 取 り 出 さ ︵ 五 四 ウ ︶ 一 箱 そ こ で 本 稿 で は 、 と り あ え ず の 試 み と し て 、 第 四 部 第 ︵ 四 六 ︶ 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) 1 20 19 1 21 22 5 14 1 31 24 23 2 61 1 10 9 8 7 6 8 17 1 쐍 宋 版 一 切 経 目 録 ︶ 梅 尾 聖 教 目 録 諸 常小 栗 暁栖 師 制 圓霊 作 厳 行寺 目 録 恵安 祥 運寺 諸 師 制 作 惣 録 上 華 厳 宗 章 疏 目 録 쐍 善 財 院 聖 教 ︶ 目 録 今 回 所 奉 授 之 密 経 儀 軌 目 高 山 寺 密 経 蔵 真 第 四 箱 入 目 録 真 第 四 箱 目 録 言 う よ り 、 貸 出 証 や 特 定 の 書 籍 等 を 対 象 に し た 目 録 で あ た 地 蔵 院 と 善 財 院 の 二 院 の み で あ っ て 、 そ の 他 は 目 録 と あ る が 、 筆 者 の 調 査 に よ れ ば 、 実 際 に は 三 章 に 取 り 上 げ 高 山 寺 地 蔵 院 聖 教 目 録 方 高 山 智 寺 院 聖 聖 教 教 目 目 録 録 付 諸御 目流 六目 録 高 山 寺 聖 教 目 録 録甲 外乙 高 山 寺 聖 教 目 録 쐍 聖 教 目 録 ︶ 禅 上 房 書 籍 欠 目 録 高 山 寺 経 蔵 聖 教 内 真 言 書 目 録 聖 教 目 録 灌禅 頂浄 房 円 載 進 宦 聖 一 一 教 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 冊 巻 道 冊 冊 冊 冊 冊 冊 帖 冊 冊 冊 冊 冊 巻 巻 巻 巻 具 等 録 一 冊 る と 見 ら れ る が 、 詳 細 は 今 後 の 課 題 と し た い 。 ︵ 四 七 ︶ ︵ 未 了 ︶ せ た も の か 、 俄 に 決 し が た い 。 恐 ら く は 後 者 の 理 由 に よ れ た の か 、 そ れ と も 明 治 期 に お け る 調 査 時 に 簡 略 表 示 さ る 。 元 々 は 子 院 の 目 録 が 他 に も あ っ て 、 そ れ が 現 在 失 わ 18 0 さ れ た 目 録 類 と 山 内 支 院 の 目 録 が 収 蔵 さ れ て い る と 目 の 目 録 は 録 、 類 一 明 を 箱 治 一 十 括 と 八 し 高 年 て 山 の 収 寺 記 蔵 の 録 し い に た わ は 聖 ゆ 教 る 一 箱 高 で 的 山 あ な 寺 る 管 並 。 理 山 た の 内 だ 下 支 、 に 院 疑 作 聖 問 成 教 な 以 上 の 一 覧 を 見 て 明 ら か な よ う に 、 一 三 五 函 は 意 図 的 に 5 62 2 72 仙 쐍 奥 取 洞 書 出 御 集 申 所 ︶ 御 祈 石 水 院 御 開 帳 一 一 一 紙 巻 冊 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 同 同 一 四 輯 、 二 〇 〇 七 年 三 月 ︶ 高 山 寺 初 期 に お け る 聖 教 の 保 管 と 整 理 얧 古 目 録 を 手 掛 か り と し て 얧 ︵ 訓 点 語 学 会 、 訓 点 語 と 訓 点 資 料 第 一 同 同 禅 浄 房 に 関 年 高 高 倉 高 時 高 す 三 山 月 山 山 代 山 る 寺 ︶ 寺 寺 語 寺 論 蔵 典 研 蔵 に 籍 お は 禅 文 究 聖 以 け 教 下 上 書 る 房 綜 第 目 の 聖 書 合 二 灌録 教 通 禅 籍 調 十 頂浄 り 目 三 房 欠 査 録 。 目 団 輯 に の 、 録 形 武 記 続 成 載 の 高 蔵 さ に 野 書 山 つ れ き 寺 書 た い 院 入 経 て 聖 れ 蔵 、 教 ︵ に 古 二 に つ 目 〇 つ 築 い 録 〇 い 島 〇 て 裕 年 て 博 ︵ 解 一 士 北 題 〇 얧 傘 海 ︵ 月 高 寿 学 東 ︶ 山 記 寺 園 京 念 現 大 大 国 存 学 学 語 本 、 出 学 と 版 人 論 対 文 会 集 比 論 、 し 、 集 二 て 〇 汲 古 第 〇 書 얧 二 二 院 ︵ 六 年 、 ・ ︶ 鎌 二 二 倉 七 〇 時 合 〇 代 併 五 語 号 年 研 、 ︶ 究 二 会 〇 編 〇 鎌 四 徳 永 良 次 一 二 三 宮 奥 池 澤 田 田 俊 証 雅 勲 寿 ・ 七 白 二 高 高 年 井 年 山 山 、 寺 寺 三 月 純 一 経 経 頁 蔵 蔵 ︶ 高 ︶ と 古 山 そ 目 寺 の 録 旧 古 に 箱 目 つ 番 録 い 号 に て デ つ ︵ ー い 宇 タ て 都 ベ ︵ 宮 ー 高 大 ス 山 学 の 寺 教 構 典 育 築 籍 学 ︵ 文 部 平 書 紀 成 綜 要 十 合 、 八 調 第 年 査 二 度 団 六 高 続 号 山 高 第 寺 山 一 典 寺 部 籍 経 、 文 蔵 一 書 古 九 綜 目 七 合 録 六 調 年 査 ︵ ︶ 団 東 研 京 究 大 報 学 告 出 論 版 集 会 、 、 二 二 〇 〇 〇 〇 17 9 こ の 点 に つ い て は 、 以 下 の 論 に 詳 し い 。 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 続 高 山 寺 経 蔵 古 目 録 ︵ 東 京 大 学 出 版 会 、 二 〇 〇 二 年 ︶ 高 山 寺 経 蔵 古 目 録 ︵ 東 京 大 学 出 版 会 、 一 九 八 五 年 ︶ 奥 聖 田 教 目 勲 録 の 高 主 山 要 寺 な 経 研 蔵 究 古 ・ 目 資 録 料 に と つ し い て て は 以 ︵ 下 宇 の 都 論 宮 大 が 学 あ 教 る 育 。 学 部 紀 要 、 第 二 六 号 第 一 部 、 一 九 七 六 年 ︶ 注 ︵ 四 八 ︶ 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) 十 十 九 八 例 え ば 第 八 九 と 函 い 九 う 号 名 称 金 は 玉 、 同 、 時 同 期 一 以 〇 降 号 の 多 異 く 水 の 資 な 料 ど に で 見 あ い る だ 。 し う る も の で あ る 。 詳 細 な 例 ・ 検 証 等 は 注 三 の 諸 論 禅 浄 房 箱 ︵ 四 九 ︶ に つ か 十 七 出 版 会 、 二 〇 〇 〇 年 、 三 八 三 頁 ︶ こ の 影 印 ・ 翻 刻 ・ 解 題 は 以 下 の 資 料 に よ っ て 開 さ れ て い る 。 明 恵 上 人 資 料 第 五 ︵ 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 、 東 京 大 学 出 版 会 、 一 九 九 九 年 ︶ 十 十 十 十 十 十 十 六 五 四 三 二 一 注 全 明 高 方 注 続 三 十 高 の 文 恵 山 の 上 寺 智 一 山 論 影 人 典 院 に 寺 印 資 籍 聖 同 経 、 ・ 及 じ 文 翻 料 書 教 。 蔵 び 古 刻 第 綜 目 目 続 ・ 四 合 録 解 録 高 ︵ 調 ︵ 題 ︵ 山 高 査 高 は 高 寺 以 山 団 山 山 経 寺 寺 下 寺 蔵 典 高 典 の 典 古 籍 山 籍 資 籍 目 文 寺 文 料 文 録 書 経 書 で 書 ︵ 綜 蔵 綜 綜 高 開 合 古 合 合 山 さ 調 目 調 調 寺 れ 査 録 査 査 典 て 団 ︵ 団 団 籍 い 、 東 、 文 る 東 京 続 東 書 。 京 大 高 京 綜 大 学 山 高 学 大 合 寺 出 山 出 学 調 経 寺 版 版 蔵 出 査 会 本 会 版 団 古 、 東 、 会 、 目 一 域 一 、 東 録 九 傳 九 二 京 八 燈 九 〇 大 東 五 目 八 〇 学 京 年 録 年 二 出 大 、 年 版 ︵ 、 奥 学 ︶ 会 高 石 田 出 の 、 山 塚 勲 版 徳 二 寺 晴 氏 会 永 〇 典 通 解 、 良 〇 籍 氏 題 二 次 二 文 ︵ 二 〇 担 年 書 書 七 〇 当 ︶ 綜 誌 六 二 解 の 合 ︶ 頁 年 題 徳 調 解 ︶ ︶ 。 永 査 題 良 団 三 次 、 五 担 東 三 当 京 頁 解 ︶ 大 題 学 。 17 8 九 八 七 六 注 八 、 三 二 六 頁 。 五 四 同 徳 注 奥 石 同 注 永 三 田 四 塚 良 の に 晴 次 諸 勲 同 通 論 じ 三 高 法 明 。 月 高 高 お 山 山 恵 ︶ 寺 山 よ 寺 臺 び 経 蔵 寺 聖 얧 地 教 遍 ︵ 蔵 、 蔵 目 歴 善 院 江 古 録 と 財 聖 戸 目 解 夢 院 教 時 録 題 聖 目 代 に 教 録 の つ ︵ 얧 聖 い ︶ 高 ︵ 目 に 教 て 山 東 録 つ 目 ︵ 寺 京 典 大 い 録 に て に 宇 籍 学 都 つ つ 宮 文 出 ︵ い い 書 版 て 平 て 大 綜 会 学 成 合 、 ︵ 二 は 教 、 調 一 平 十 育 査 九 成 四 以 学 下 団 七 二 年 部 八 十 度 の 紀 高 年 五 高 論 要 山 、 年 山 、 寺 二 度 寺 と 第 経 七 翻 高 典 二 蔵 六 山 籍 刻 六 古 頁 が 寺 文 号 目 ︶ 典 書 あ 第 録 る 籍 綜 一 、 文 合 。 部 東 書 調 、 京 綜 査 一 大 合 団 九 学 調 研 七 出 査 究 六 版 団 報 年 会 研 告 ︶ 、 究 論 一 報 集 九 告 、 八 論 二 五 集 〇 年 、 一 、 二 三 三 〇 年 二 一 三 四 四 月 頁 年 ︶ ︶ 北海学園大学人文論集 三 三 十 十 一 石 塚 晴 通 明 治 十 八 年 高 山 寺 宝 物 寄 附 物 古 文 書 什 物 取 調 牒 ︵ 平 成 二 十 年 度 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 研 究 報 告 論 集 、 注 二 十 二 、 二 八 頁 。 二 十 九 見 つ か っ て い る 。 を 網 羅 的 に は あ げ て い な い 。 現 在 ま で に 発 見 さ れ た 旧 旧 箱 番 号 と も い う べ き 禅 浄 房 箱 を 示 す 記 録 は 数 十 の 単 位 で 第 一 一 四 輯 、 二 〇 〇 五 年 三 月 、 六 六 頁 ︶ な ど 、 注 三 で あ げ た 論 に 随 時 取 り 上 げ 検 討 し て い る が 、 ま だ 、 発 見 し た す べ て 二 二 十 十 八 七 徳 は 奥 注 永 、 田 六 良 勲 に 次 高 氏 同 山 は じ 高 寺 表 。 山 経 紙 寺 蔵 識 初 典 語 期 籍 、 に 文 宮 お 書 澤 け 目 俊 る 録 雅 聖 氏 教 完 は 結 の 表 保 編 紙 管 ︵ 箱 と 高 番 整 山 号 理 寺 な 典 ど 얧 籍 と 古 文 表 目 書 記 録 綜 し を 合 て 手 調 い 掛 査 た か 団 が り 、 、 と 東 現 し 京 在 て 大 で 学 は 얧 出 旧 ︵ 版 箱 訓 会 番 点 、 号 語 二 と 学 〇 し 会 〇 て 、 七 い る 訓 年 。 ︶ 点 そ 語 参 の 照 と 具 訓 。 体 点 的 資 な 料 資 料 第 57号(20 14年8月) 二 二 二 十 十 十 六 五 四 土 井 光 祐 注 二 文 献 参 資 料 高 照 山 。 第 寺 九 関 十 係 五 聞 輯 書 、 類 一 の 九 資 九 料 五 的 年 性 三 格 と 月 学 、 統 九 一 頁 얧 講 ︶ 義 聞 書 と 伝 授 聞 書 を め ぐ っ て 얧 ︵ 訓 点 語 学 会 、 訓 点 語 と 訓 点 17 7 先 行 研 究 と は 、 注 一 ∼ 三 の 各 論 を 指 す 。 一 九 七 八 年 、 二 二 一 頁 ︶ 二 十 三 二 二 十 十 二 一 奥 田 勲 氏 は 二 六 点 を 奥 注 田 二 十 勲 に 同 高 じ 山 。 寺 典 籍 の 集 積 と 伝 来 ︵ 一 ︶ 江 戸 時 代 以 前 の 古 目 録 と し て 紹 介 し て い る 。 奥 田 勲 明 恵 얧 遍 歴 と 夢 얧 ︵ 東 京 大 学 出 版 会 、 九 八 二 年 、 三 一 頁 ︶ 얧 経 函 に つ い て の 察 얧 ︵ 宇 都 宮 大 学 教 育 学 部 紀 要 、 第 三 二 号 第 一 部 、 一 二 十 宮 澤 俊 雅 八 五 年 ︶ 三 二 三 頁 れ た い 。 高 山 寺 経 蔵 聖 教 内 真 言 書 目 録 解 題 ︵ 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 高 山 寺 経 蔵 古 目 録 ︵ 東 京 大 学 出 版 会 、 一 九 ︵ 五 〇 ︶ 高山寺における聖教目録の変遷(一)(徳永) 三 十 九 三 三 十 十 八 七 徳 永 良 次 ︵ 五 一 ︶ 高 山 寺 地 蔵 院 聖 教 目 録 に つ い て ︵ 平 成 二 十 四 年 度 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 研 究 報 告 論 集 、 二 〇 一 三 年 三 九 五 年 三 月 ︶ 同 宮 伝 澤 俊 受 雅 類 聚 高 伝 鈔 山 受 に 類 に 於 聚 つ け 鈔 い る 目 て 理 録 は 、 明 房 ︵ 以 興 昭 下 然 和 の 流 五 論 口 十 に 決 九 年 詳 の 訓 度 し い 点 高 の 山 。 相 寺 承 典 に 籍 つ 文 い 書 て 綜 合 ︵ 調 訓 査 点 団 語 研 学 究 会 報 、 告 訓 論 点 集 語 、 と 一 訓 九 点 八 資 五 料 年 三 第 月 九 ︶ 十 五 輯 、 一 九 三 三 十 十 六 五 三 十 四 注 三 十 三 に 同 じ 。 同 徳 永 良 次 注 石 五 塚 に 晴 同 通 じ 二 。 〇 明 〇 治 九 十 年 八 三 年 月 高 ︶ 山 寺 宝 物 寄 附 物 古 文 書 什 物 取 調 牒 ︵ 平 成 二 十 年 度 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 研 究 報 告 論 集 、 学 問 印 信 学 問 印 信 掛 板 と そ の 写 本 類 ︵ 平 成 二 十 一 年 度 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 研 究 報 告 論 集 、 二 〇 一 〇 年 三 月 ︶ 掛 板 に つ い て ︵ 北 海 学 園 大 学 人 文 論 集 第 四 十 五 号 、 二 〇 一 〇 年 三 月 、 二 一 六 頁 ︶ 17 6 三 十 三 同 籍 文 書 綜 合 調 査 団 、 東 京 大 学 出 版 会 、 二 〇 〇 七 年 、 五 五 五 頁 ︶ 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 の 歩 み 얧 あ と が き に 代 へ て 얧 高 山 寺 経 蔵 典 籍 文 書 目 録 完 結 編 ︵ 高 山 寺 典 〇 年 、 一 七 頁 ︶ 三 十 二 築 こ 原 島 の 法 文 令 部 全 は 裕 以 の 書 下 高 記 の 山 述 巻 資 十 寺 は 料 経 、 巻 を ︵ 蔵 以 参 典 下 内 照 籍 の 閣 し に 論 官 た 報 。 つ い を 局 て 参 、 原 ︵ に 本 高 し 明 山 て 治 寺 適 二 典 宜 十 籍 加 三 文 筆 年 書 ・ 、 の 修 原 研 正 書 究 を 房 に ︵ 行 よ っ 高 る 山 た 復 。 寺 刻 典 版 籍 、 文 昭 書 和 綜 五 合 十 調 ︵ 査 一 団 九 、 七 東 五 京 ︶ 大 年 学 九 出 月 版 ︶ 会 、 一 九 八 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 研 究 報 告 論 集 、 二 〇 一 〇 年 三 月 ︶ 石 塚 晴 通 ・ 池 田 証 寿 ・ 徳 永 良 次 明 治 十 八 年 高 山 寺 宝 物 寄 附 物 古 文 書 什 物 取 調 牒 ︵ 影 印 ・ 翻 刻 ︶ ︵ 平 成 二 十 一 年 度 高 二 〇 〇 九 年 三 月 ︶ 北海学園大学人文論集 第 57号(20 14年8月) 四 四 十 十 一 注 十 三 に 同 じ 。 高 山 寺 経 蔵 月 典 ︶ 籍 文 書 目 録 第 四 ︵ 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 、 東 京 大 学 出 版 会 、 一 九 八 一 年 、 一 九 六 頁 ︶ ︵ 五 二 ︶ 17 5
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