地方再生物語

財政難、過疎、高齢化など地方が置かれている状況はどこも同じように厳しい。しかし、苦しい中
で、わずかながらも光明を見出している地方がある。都会にいるだけでは地方の本音は聞えてこな
い。そこに暮らす人の姿、風景、そして風土。実際にその地に足を運んでみれば、全く違う声が聞
えてくることもある。地域 間格差の本質と、再生に挑む人々の声をルポする。
【新潟県・松之山】
1. 異端が作った日本一高価なコシヒカリ
2. エリート社員はなぜ、自給自足を選んだか
3. 限界集落の豊かなコメ農家
4. “村八分”が土地の救世主に
5. こうすれば風景は売れる
6. なぜ過疎地の再生を願うのか
7. 官には頼らない、自分の足で立つ
8. I ターン者の孤独と焦燥
9. 遠方から集まった再生の担い手たち
10. 脱サラから 25 年、成功への道程
11. 過疎と過密を行き来する人たち
12. インターネットが加速した過疎地の再生
異端が 作っ た 日本一高価なコ シヒ カ リ
東京・渋谷の東急百貨店本店、地下食品売り場の米売り場、「米よし」の店頭にその米は売られて
いる。2 坪の店舗に並ぶ 10 産地の銘柄米のなかで最も値段が高く、5 キロ 1 万 4700 円。2006(平
1
成 18)年度産の小売米としてはおそらく日本一高い米。米櫃に立て掛けられた細長い白木の板に
は、「十日町市 松之山 戸邊秀治作」と墨書され、2 行目には「無農薬、無肥料、天日干し」と謳っ
てある。
脱サ ラ 後、米づ くり
その米を作った戸邊秀治さんは 1952(昭和 27)年 1 月生まれの 55 歳。東京理科大学を卒業後、
関東自動車工業に勤務、30 歳で脱サラ、自給自足的生活を実践してきた。福島県耶麻郡旧山都
町をはじめ、茨城などで田舎暮らしを続け、
2002(平成 14)年、新潟県十日町市松之山に田
畑付きの家を 350 万円で手に入れた。自然農法
でコシヒカリを作り、自給自足にちかい生活をし
ている。家族は 7 人。プロ棋士になった 21 歳の
長男と次男は自立して東京に暮らし、現在は、
三男、四男、末っ子の長女と 5 人。ごくふつうの
サラリーマン家庭に育った奥さんの聖子さんは
43 歳になる。
戸邊さんとは偶然の出会いだった。
この連載については中山間地の米どころから始めるつもりでいた。都市から遠く離れた地理的に
不利な土地は殺伐としたニュースばかり。きびしい世情を背負いながらも、ときおり、移住者の発案
が地域の光明になっているという噂が聞こえることがあった。過疎の町に新風を起こそうとしている
人の、熱い気持ちに触れてみたいと思った。かれらの情熱が、あるいは地域再生の端緒となるかも
しれない、眼には見えない希望の輪郭を写真に撮り、文章を綴ろうと考えた。
「日本の 原風景」と い わ れ る限界集落へ
具体的な土地を選定する段になってから、日本有数の豪雪地である「越後松之山郷」という地名
が脳裏に浮上してきた。「日本の原風景」が展がる農村として、風景カメラマンがいちどはファインダ
ーをのぞく場所である。ただ、紹介される写真のほとんどは風光明媚という視点に偏っていて、そこ
に土着する人たちの肉声が聞こえてこない。1955(昭和 30)年ころは 1 万 2000 人を数えた人口も
今は 2800 人(9 月現在)。急激に過疎化した土地である。35 の集落のうち、2 分の 1 が限界集落(人
口の半数が 65 歳以上で社会的共同生活が困難な集落)といわれている。風景の礼賛だけで松之
山の風土を語ることなどできるはずがない。
関越自動車道の塩沢石打インターチェンジを降りる。国道 117 号線を東進し、信濃川を渡り、こん
どは 353 号線を登っていく。およそ 1 キロに及ぶ豊原トンネルを抜けると空気が一変する。車窓から
吹き込む風には土と草木のにおいが濃い。連座する山々が視界に被さってくる。それらが五感に
働きかけてくる感覚は、自分が暮らしている東京郊外とはまったく異質の土地へ入り込んだことを教
えた。
江戸時代の 米づ くり を 学生に 伝授
2
松之山へ入り、初めての信号で停止した。街の中心地でありながら人の姿がない。民営化された
ばかりの郵便局の新しい装いだけが目立っている。道路標識に書かれた「松之山温泉」に引かれ
ながらも左折を断念して直進した。間もなく車道が狭くなる。左右に棚田が見えてきた。点在する農
家らしい家は、おしなべて屋根が急勾配になっている。なるほど、これまで多くの写真で表されたと
おり、美しい景観だ。ほとんどの田んぼが稲刈りを終えていて、ほうぼうに稲架(はさ・刈り取った稲
の天日干し)が見える。数千の稲の束が秋の陽に照り映えていて、これも見惚れてしまうほどの絶景
だ。そして豊かさを感じさせた。
稲刈りの集団に遭遇。20 歳ほどの男たちが黄
金色の田の中で黙々と作業をしている。初めて
車を降りた。若者たちは新潟市の専門学校(国
際調理製菓専門学校)の生徒で、稲作の体験
実習の最中だった。そこに戸邊さんがいた。
「江戸時代の米づくりです。すべて人力なんで
す」
生徒を引率している教師が苦笑いを浮かべて
耳打ちした。
「そうじゃない、稲の束はこういうふうに持って、こう結ぶんだ!」
小柄な壮年男性が大勢の若者に声を張り上げている。小柄ながら筋肉質でがっしりした体躯が作
業着の上から見て取れる。怜悧そうな薄い唇、眼鏡の奥の眼光が鋭い。撮影の許しを請うと、小さ
な声で「どうぞ」とだけ応じた。
昼過ぎから夕方まで、戸邊さんの言動に気を配りながらメモをし、撮影を続けた。
「宿が決まってないなら、今晩、うちに泊まりますか」
二つ返事で「日本三大薬湯・松之山温泉」を打ち捨てて戸邊さんの言葉に甘えることにした。2 晩、
やっかいになった。もちろんこのときは、松之山を訪問するたびに泊めてもらうことになろうとは、思
いもよらないことだった。
目利きが 太鼓判を 押す 「奥深い 米」
戸邊さんが耕作する田は 7 反余り(約 6942 平方メートル)。田植えも草取りも、もちろん稲刈りも、
すべて人力。いわゆる自然農法。農薬、化学肥料は一切使わない。田に機械を入れない。田んぼ
には常時、水が張られ水生昆虫が泳ぎまわっている。ドジョウ、カエル、ゲンゴロウ、タニシ、トビゲラ
の類が、土の正常を物語っている。
「こんな奥深い米に出合ったのは初めて」と、「米よし」を経営する北川大介さんは絶賛する。昨年
10 月、取引を始めるにあたって戸邊さんの田を検分。米づくりの理念も、じっくり聞いた。
「米には絶好の環境でした。ここで作られる米なら、この値段で売れる、と確信しました」
おいしい米を探して全国行脚を続ける目利きの言葉にはゆるぎがなかった。
3
「うまい米が食べたい」
素朴な願望から始まった戸邊さんの米づくり。どうしたら安心して美味しい米が食べられるのか。
「それは、戦前まで先人がやっていたことだった」と話す言葉には余計な力はこもらない。百姓という
ように、米づくりには百の手間がかかるという。きわめて重労働。「いや、“楽農” を体が覚えたから
きつい労働なんです」
機械化、農薬散布、化学肥料の投入、それらは安全でおいしい米づくりから離れることだったと話
す。さらに、戸邊さんには、機械で燃料を使うこ
とや化学肥料、農薬を使うことが地球環境を汚
している、という自覚がある。そして近い将来の
農業環境を見据えてもいる。
「石油がこのまま高騰しつづけ、米の生産コス
トはますます上がっていきます、機械(石油)に頼
った農業はやがて立ち行かなくなるでしょう。今
のうちに人力でできることを覚えていくべきで
す」
「い つ ま で続くか 見もの 」か ら “戸邊参り ”へ と 変化
縁も所縁もなかった松之山に暮らし始めて 6 年目。戸邊さんには自分のやり方を広めたい、との
願いがある。しかし、戦後の農業に慣れた地元の人には異端視されてきた。同じ地区で代々、米づ
くりをしてきた小見重義さん(58 歳)は、「自分も昭和 30 年代までは、ひたすら体を使った米づくりを
手伝わされてきたけど、今から昔に帰ることは不可能です」と戸邊さんのやり方には否定的。ほかに
も否定的な意見はたくさんある。
「引き返して再スタートするには年をとりすぎた」「そうとう変わった人、真似する気になれない」「い
つまで続くか見もの」「戸邊さんの体力だからやれること」「昔のように大家族農家なら、やれないこと
もないかもしれないが…」
ところが昨年秋、1 俵 17 万 7000 円という「米よし」の評価額が知れ渡り、米づくり農家が揺れた。
「魚沼コシヒカリ」の 1 等米でさえ 1 俵 2 万 5000 円。自分たちが作る「日本一」の米の 7 倍以上のコ
シヒカリとはどんな米なのか、戸邊さんへの関心が変わってきた。「田んぼを見ずにおられない」とい
う戸邊参りの人まで出てきた。
松之山 35 集落のうち半数は限界集落といわれる。共同体として社会的機能を失いつつある地域
に、ささやかながら、戸邊さんという光明が射してきた。
エ リ ー ト社員は なぜ 、自給自足を 選ん だ か
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「ぼくは弟子入りしたんです」
戸邊さんの米作りの弟子 1 号は高橋直栄さん(67歳)。新潟県立安田高校の校長を勤めた人物
で「なおえさん」と呼ばれて人望が厚く、県内でも松之山の碩学として名が通っている。松之山に生
まれ育った高橋さんは、故里の農的景観が荒廃していく様子を目の当たりにしてきた。
「それは忍びないわけです、なんとか再生の足がかりになれば」と決して若くない肉体を米作りに
奮い立たせたという。
「戸邊さんの孤軍奮闘ぶりに感じ入りましてね、再生をやるなら戸邊方式だと、それで今年から自
分でも米作りを始めたんです。もちろん師匠に教わりながら、来年もやりますよ」
うれしいことに、共感の声はこんなところでも聞こえてきた。
「ホームページ(当記事)を見たと言う人が何人も来店して
くれて戸邊さんの米を買ってくださいます。一番の遠方から
来られた方は、岐阜県の下呂市からでした」
東京・渋谷の東急百貨店本店地下の米売り場「米よし」で、
戸邊さんの米を買い求める人が増えたというのだ。問い合わ
せを含めると 20 余件の反響があっ た。下呂市から訪れた
人は、戸邊さんと同じように、不耕起(耕すとメタンガスが発
生するため)、無農薬、無肥料で米作りをする人だったとい
う。
今年の 新米は 「特級」。去年よ り 2、3000 円は 高くなる
11 月 13 日、戸邊さん夫婦が上京。自分の米が売られている「米よし」に、田ごとの新米を届けるた
めだった。一枚一枚の田で微妙に味が異なるという。
「今年は素晴らしい米が獲れたんです。最後に稲刈りをした田んぼです、天日干しの時間もかな
り長かったんです、精米にしてみたらまさに宝石のようで、ぜひ米よしさんに味わってもらおうと」
黒いビニールのショルダーバッグの中には、1 キロずつ小分けにされた 10 種類の新米。バッグの
紐が肩に食い込んでいる。今年は豊作だったという。目標だった反当りの収穫 5.5 俵(1 俵 60 キロ)
を上回り、およそ 6 俵、獲ることができた。
「新米を試食しました。これならもっと高価な値段がついてもいい、玄米でかじって、これほど甘み
がある米はそうは無い」
去年にも増して評価は高かった。
「今売っている戸邊さんの米は 10 キロ 2 万 9400 円ですけど、この米は、もう 2、3000 円高くなると
思います。戸邊さんの米に限っては、通常米と、この特級米には値段で区別する必要があります
ね」
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褒めすぎでは、と懐疑の視線を向けると「戸邊さんらしく、あそこまで正直にものを作った人への当
たり前の評価でしょう」と信頼は揺れない。戸邊さんにしてみれば、孤独を飼い慣らし、「いつかきっ
と」と信念を曲げずに米を作ってきた「褒美」の言葉だったのではないだろうか。
戸邊さん夫婦は満面の笑顔を残して東京の雑踏にまぎれ、見えなくなった。「このバスに乗れば
子どもたちが学校から帰る前に家に着きます」と、池袋発 14 時 05 分の高速バスに乗り、間もなく雪
をむかえる越後の山深い里へ戻っていった。東京の空が珍しいほどくっきりとして晴れ渡っている。
10 年余り の 闘病の 末、死を 選ん だ 母
それにしても戸邊さんは、なぜ、と思わないで
はおれない。東京理科大学を卒業し関東自動
車工業という大企業に就職、やがて花形に躍り
出るといわれた電算課に配属されながら、30 歳
という若さで自給自足の道へ踏み込んだ、その
わけが知りたい。なぜ機械も農薬も使わず人力
だけで米を作るという前時代的な農業を実践す
るようになったのか。悟りを開くにも厭世観を持
つにも早すぎる年齢ではないのか。何か大きな
きっかけがあったに違いないと予感されて、おそ
るおそる質問を投げかけてみた。
戸邊さんは大きく息を吸うと抑揚のない言葉で、「母親が自ら命を絶ったんです」と小声で語った。
その語尾を払うように席を立ち、棚から 1 枚のモノクローム写真を取り出した。
「母です」という。肖像写真は戸邊さんによく似ている。
「父は鉄工所を経営していました。鉄鋼不況で借金がかさんだこと、挙句に、将来は長男と一緒に
住もうと購入した土地を取り上げられる始末で、将来の希望を見失ったんでしょうね、それに鬱の持
病と父への不信感も大きかったと思います。発作的な自殺でしたね、58 歳でした」
鉄鋼の需要がピークアウトし、「鉄冷え」といわれた 1982(昭和 57)年の出来事だった。
母親が更年期特有の鬱病を発症したのは戸邊さんが大学 3 年(20 歳)のときだったという。亡くな
るまでのおよそ 10 年間、戸邊さんは母親の看病をした。 会社に勤めるようになってからは、定時の
5 時に職場を出てスーパーに立ち寄り夕食の買い物をして帰宅した。不平や不満を抱くこともなく、
当たり前に家族の料理を作った。
「父親が優柔不断で、不甲斐ないところがあったり借金をしたりしたものですから、母は駄菓子屋
を始めて子育てしたんです。大学を卒業して関東自動車工業という会社に就職したのは、横須賀
の実家から歩いて通勤ができたからです。母の看病が大事でしたから他の企業は念頭になかった」
なぜ こ の 仕事を す るの か 、なぜ 母を 助け ら れ なか っ た の か …
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当時は会社と家を往復するだけの日々だった。「お金は使わないから給料がそのまま貯まりまし
た」という若い日の戸邊さんが、唯一楽しみを見出したことがあった。会社の将棋クラブに入り、母親
の気分が良いときは仕事が終わって一局打つのが何よりうれしかったと振り返る。それから野球部
にも入部したという。そうした行動には、職場での生活を円滑に、楽しくやっていきたいという気持ち
が働いていたことが伺える。しかし、仲の良い友人を作るまでには至らなかった。
「仕事にも疑問を持ち始めていました。自分が作る車で毎年 1 万人以上の人が事故死するわけで
す。公害の原因も作っている。かといって、仕事を辞めることで事故がなくなるわけではない、でも、
何か行動を起こしたい、と悩ましい時期が長くあったのです。そんなときに母が命を絶った」
戸邊さんは母親の死後、およそ 1 年間、鬱状態に陥った。自分はなぜ母親を助けることができな
かったのか、苦しんだ。
「今後なにをやっていけば母に報いることがで
きるのか、母親との結びつきが大きかったのでし
ょうね、心にポッカリ穴が開いたみたいになっ
て」
母が 遺した 献身の 心を 抱きしめ て 生きる
精神の暗がりをさまよった挙句に、一つの回答
を求めて市民活動に身をおくようになる。横須
賀に入港した米原子力潜水艦に向かって「帰
れ」とシュプレヒコールを叫んだ。
「困っている人の力になりたい」と「援農(助けが必要な農家に労働力を提供するボランティア)」に
も参加。出かけていく先々の農家には「母のようなお年よりが援助を待っていてくれた」。31 歳の戸
邊さんは、がむしゃらに体を動かしながら母親に報いる方策について手探りを続けた。山形県長
井市の有機農園に泊り込み、本格的な農業体験をする。
「そこでは初めて、体ごと自然の摂理に触れたような気がしました。長井で出会った人たちの素朴
で温かな人情にも接して癒されましたし、農業のすばらしさや奥の深さも理解するようになりました」
それから 4 年間、有機農園への春と秋の農繁期の手伝いを欠かさなかった。そうした体験をするう
ちに「自分が食べるものだけでも自給したい」との思いが膨らんでいった。
長男誕生が 暮ら しの 指針を 示して くれ た
体力には自信があった。中学校では野球部、高校時代はレスリング部で活躍した。インターハイ
に出場するほどの選手で、体は鍛え抜かれていた。ボランティアは時にきつい仕事もあったが、「い
つでもきちんとこなした」という。その自己評価については、現在の戸邊さんの仕事ぶりを見ていれ
ば容易に想像がつく。
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会社を辞めてから 3 年後の 1985(昭和 60)年、宅配便のアルバイト先で知り合った聖子さんと結婚。
戸邊さん 34 歳、聖子さん 21 歳。翌年 8 月、もう一つの答えともいうべき長男が誕生した。
聖子さんが当時を語る。
「彼がやっていることや社会に感じていることなど、何も解らなくて、始めは黙って“援農”に付いて
いきました。知らないことはよく説明してくれるし、できないことは見本を見せてくれたんです。子ども
が生まれたことで、お母さんのこと、悔いるばかりではなく、ずいぶん前向きに考えるようになったん
です」
戸邊さんが松之山に暮し始めたのは 2002(平成 14)年 4 月。新生活が落ち着いた 8 月には横須
賀で孤独に暮らしていた父親を迎えている。
「妻は親身になって面倒を見てくれました、子どもたちとは
大の仲良しになって、よく遊んでいました」
87 歳で亡くなったという父親は「とても幸せな晩年を過ごし
た」と気持ちの上で決済をつけている。
「父が亡くなる前に話してくれたことなんですが、自分は死
んだ妻のような母親の元に生まれたかった、と言うんです。
それから、どんな形であれ、生きていてほしかったって…」
父親もまた妻の死に対して悔恨を抱き続けてきたことを知
った。戸邊さんがずっと心に閉ざしてきた父へのわだかまり
が消えた瞬間だった。
限界集落の 豊か なコ メ農家
戸邊さんの生活の理想を聞いてみた。生産米で 200 万円の収入が目標という。
「家族 4 人が米作りをしながら、この松之山でじゅうぶん安定した暮らしが営める金額なんです。こ
れには家族全員で仕事を持つことと、習い事や塾など子供に金をかけないという前提があります」
米需要の減少と増加する過剰米が、ますます米価を下落させるなか、戸邊家の経済状態は、意
外にも、豊かささえ感じさせる内容だった。そこで、今年収穫された 40 俵について、理想生活に、ど
う配分するのか、併せて、戸邊家の台所事情も明かしてもらうことにしよう。
理想の 年収 200 万円を 米作り でど う 稼ぎ 出す か
大前提は 1 俵(60 キロ)6 万円で 25 俵を売ること。150 万円になる。冬場の仕事として、餅米 5 俵で
自家製餅を製造、50 万円を稼ぐ。残りの 10 俵は 自家用だ。この皮算用が実現するためには、何よ
8
りも“戸邊米”に対する消費者の理解が欠かせない。田んぼに機械を入れず、ひたすら人力によっ
て、不耕起、無肥料、無農薬、天日干しで作られた、安全でうまい商品であることを分かってもらわ
なくてはならない。
確かに、1 キロ当たり 1000 円という米は、一般消費者からすれば高い。しかし、「安心でおいしい
米」なら高価でも買われるという評価は、すでにデパートの米売り場で実証済みである。しかもそこ
では 1 キロ 2800 円という、日本一高い米にもかかわらず、よく売れている。
余談ながら、世の中には富裕な人が、想像する以上に存在するのだ。筆者の当連載の原稿料で
は、相変わらず農薬の不安を打ち消しながら安い米を食べるしかないが、近ごろ、ニューリッチなど
と形容される経済観念のしっかりした金持ち層は、お金をどう使えば心地良いのか、考えたうえでし
か財布を開かないと聞く。
「米よし」の経営者、北川大介さんは「そうした人たちからも、
戸邊さんの正直な米が支持されたのでは」と分析している。
家族の た め に 作っ た “当た り 前”の 食べ 物に 高値が 付い た
ただ、戸邊さんは、高い米を作るために、あるいは、付加
価値を高めようと企図して、この農法を選んだわけではない。
食と農、自らに課した命題を深めるために、自給自足の道を
選んだという経緯がある。たまたま高い値段が付いたといっ
たほうが的を射ているだろう。
「家族が毎日食べて、健康に害が及ばず、むしろ滋養にな
り、それでいておいしい、という、当たり前の食べ物を作ろう
と決意したんです」
この根本的な考え方が、けっきょく消費者の求めと合致したということだ。戸邊さんが作る米は、結
果的に、いま最も求められる、安全・安心に偽りが無く、おいしさを味わうことのできる米だったという
ことになる。
戸邊さんは、家族の健康に留意する米作りを何よりも優先させたうえで、次の段階として、どうすれ
ば手塩にかけた米が生産者に割の合う価格で売れるのか、この一点に懸けて商品を作ってきたと
いえる。農薬が開発される以前の米作りを実践する、という、実にシンプルな方法で、強い競争力を
備えた米を産んだのだ。
政府が奨励する大規模なコメ作りでは、機械を使わず、無農薬で化学肥料を使用しない戸邊方
式を採用するのは不可能にちかい。しかし、角度を変えてみれば、モンスーン気候の荒々しい日本
の風土の中では、小規模、零細型の米作りが適しているということを、戸邊さんは実証したといえる
のではないだろうか。
さて、40 俵の米をどのように売れば、理想生活をするための 200 万円が得られるのか――。
9
すっかり収穫作業が終わった 11 月半ば、戸邊家の座敷に米俵が積み上げられて、ようやく、今年
の生産米から得られる収入の見込みが分かってきた。
今年は 12 俵のコシヒカリと、3 俵分の餅を「米よし」に出荷する契約を結んだ。出荷価格は明らか
にしてもらえなかったが、100 万円を超える収入になりそうだという。「米よし」の北川さんがその値段
についてこう話した。
「価格は戸邊さんに考えてもらいました。かかる経費や人力の手間など、きちんと算出して、戸邊
さん自身で決めてください、と申し上げました。戸邊さんの言い値で決めたんです」
後継ぎ の た め に 高く売るこ と は 義務だ と 考え た
売り値について戸邊さんは、自分の後継ぎの
ことを重視した。米作りが魅力的な職業であるこ
とを、後を引き受ける者に示す義務があると考え
たという。また、自分と同じように米作りをし、直
販に活路を求める人の、良い前例となることも考
慮した。
収入はさらに、この暮れから始める手作り餅か
ら 50 万円が見込まれる。友人や知人に販売す
る 1 俵 6 万円の米を合わせると、200 万円を超過
する。
生産米による収入のほか、アルバイト収入がある。豪雪地の松之山では冬の間、一人暮らしのお
年寄りに「老人憩いの家・松寿荘」という施設で集団生活してもらっている。ここで泊まり番のアルバ
イトをするのだ。1 日 4500 円になる。それから「松之山郷民俗資料館」でも自給 750 円ほどのアルバ
イトをしていて、月額 7 万∼8 万円の収入になる。さらに雪掘り(松之山では雪下ろしといわない)の
仕事があり、すべて合わせると 70 万円ほどになる。
収入は別のところからもある。補助金である。中山間地の直接支払い制度というのがあって、戸邊
家には年間 10 万円ほどが入る。一昨年まではもっと多い額だったが、制度の運用方法が変わって
半分ほどになったらしい。それから、児童手当が年 24 万円ほど支給されるから、子どもの教育費は
かからない。
毎月の光熱費などの支出は平均からみれば相当安い。ガス・石油はすべて薪で賄われるからゼ
ロ。テーブルの上の 2 つの煮炊き用七輪と掘り炬燵の暖房用七輪には、ストーブから出る炭が利用
される。水道代が 1500 円。電気代 3000 円程度。電話代 1 万円前後。ガソリン代 2 万円。
米作りは人力のため、多くの米農家が苦しんでいる「機械ビンボー」も無縁。健康には特に留意す
るため保険の類は一切加入していない。
「意外と収入が多いでしょ」
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と戸邊さんが笑う。まったく驚いた。
最初は 害虫被害でほ と ん ど 収穫できなか っ た
そうは言っても、ここまでくるには、並大抵の苦労ではなかったようだ。なかなか弱音は聞かせても
らえないが、1 年目、2 年目などは、いもち病やイネミズゾウムシ、イナゴなどの虫にやられて散々な
目に遭った。1 反当たりの収量は 3 俵程度だったという。
「あの田んぼで無農薬栽培は不可能」と言われ続けた。戸邊さんの前に米作りをしていた人も、そ
の前の耕作者も、農薬を使いながら病害虫対策に苦慮したという前歴があったからである。
なんとか、先行きに光が見えてきたのは去年(18 年度産)のことで、25 俵を収穫することができた。
そして反当たり 6 俵を収穫した今年(19 年度産)、ようやく「やっていける」という手応えを持つことが
できた。入植当時は 1 反 9 畝の耕作地も 7 反に増えた。5 反 1 畝は借り田で、反当たり年間 8000 円
を地主に支払っている。
物々交換、補助金が さら に 生活を 支え る
今年は豊作を喜ぶことができる年になったらし
い。戸邊さん一家は 11 月 24 日の夕、地元農家
の T 氏と大学時代の友人を自宅に招いて、ささ
やかな食事会をした。テーブルの上にはイノシ
シと牛肉がたっぷり並んでいる。藁を売却した越
後・柏崎の酪農家から頂戴したという。藁は 1 束
7 円で引き取られたという。これも米関連の収入
である。6500 束で 4 万 6000 円になった。
「肉は物々交換と言えなくないですね、肉をいただいて手作りの餅を差し上げましたから」
食べ盛りの 3 人の子どもたちは、無心に肉をほおばっている。奥さんの聖子さんは客人への気働
きで席が暖まらない。中座して外へ出てみれば満月の光が集落の輪郭をぼんやり浮かびあがらせ
ている。雪の上に浮上したような数戸の農家が、青い光に包まれている。美しい光景には限界集落
といわれる印象はなかった。
地元の 人に 「夢物語」と 言わ れ る の が 寂しい
本連載の取材では、戸邊さんのお宅に泊めてもらうことが多い。いつも感じるのは、暮らしにゆとり
があるということだ。家の中は雑然として見えるが、よくよく見れば整理整頓が行き届いている。暮ら
しの随所に生活の工夫はあってもビンボーくさいところはない。室温は薪ストーブで調整されてい
つも快適。11 月に降った雪の日でも、室内の子どもたちは薄着で過ごしていた。
パソコンはないが、必要なときは知り合いの家や公共の施設で利用する。すくなくとも戸邊家では、
限界集落といわれる地域に住んでいながら、都会は豊かで便利、といった負の格差感はさほど感じ
ていない。
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「ぼくはただ、こうすれば米がもっと高く買ってもらえるということと、生活は都会の人が想像するほ
ど困難じゃないということが言いたいのです。ぼくのような米農家がこの集落に 3 軒できれば、いや、
多ければ多いほどいいわけですが、車やパソコンなどをシェアリングしながら豊かになれると考えて
います」
社会的共同体として立ち行かなくなった集落で、今も、営々として米を作りつづける生産者に向か
って語りかける。「松之山の米は少なくとも 1 俵 6 万円で買われるほどの米ができる」と地元の人に
説いてきたが、「夢物語といわれるばかりで」相手にしてもらえない。
「ぼくが今、いちばん寂しく思うのは、そうした
理解が得られず、この家を誰も訪ねてこないこと
です」
ストーブの薬缶が湯気を上げる傍らで、ぽつり、
と、一般的に I ターン者がぶつかる近所付き合
いの難しさを口にした。
十日町市松之山大字黒倉に移住して 6 年目
の初冬、戸邊さんはいまだに異端なのか…。
“村八分”が 土地の 救世主に
ある朝のこと、戸邊さんの生命力を端的に物語る事件に遭遇した。
人間の味覚をうるわしく刺激する食物。噛み応え、喉越しに快感をあたえ、胃に下り腸を通過して
形を変え、再び外界に押し出された、雲古。戸邊さんの雲古を見たときのことだ。
戸邊さんの自宅で偶然目にすることになったそれは、黒い、ナマコのようであった。太い、ナスビ
のようにも見えたが、判然としない…。顔を近づけて、よくよく観察したのだった。
ヒ トが 本来持つ 強さを そ の 塊に 見た !
もしや、と思うと同時に、筆者は後ずさった。おそるおそる、再び近寄ってみる。間違いない。とっ
さに水洗のノズルを引いた、勢いよく水が流れる。しかし、それは流れない。さらに顔を近づける。間
違いなく、雲古だ。
しかし、それにしても力強い塊! しかも臭いがしない。食べ物が完璧に消化されたということだ。
なんという健全な雲古か、ああ、これが戸邊さんの命の強さなんだ、と見入った。
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稲にしてもそうだ。全長は 1 メートル 20 センチと長く、茎は見たこともないほど太い。根は長く、絡
まりながら茂っている。数束の稲を借りてスタジオに持ち込み、撮影用のライトを当てたとき、稲とい
う生物の逞しさに唸った。
茨城県土浦市の友人の農家から頂戴したコシヒカリと比較して、その、あまりの違いに驚いた。長
塚節の『土』だったか、稲には百姓の思いが乗り移る、と いったくだりが出てくるが、この根も茎も穂
も、戸邊さんの雲古、いや、肉体そのものではないのか、とファインダーに映る稲を見つめた。いつ
になく、シャッ ターを切る指に力が入る。
ヒト科ヒトが持つ、生物としての強さを、スポーツ選手はとも
かく、周囲に見ることは久しくなかった。筆者の友人たちは、
戸邊さんに比べればおしなべてひ弱にすぎる。誰にでも備
わっているはずの動物としての肉体の力を、便利と手軽に
堕して弱体させてしまった。
江戸時代か ら の 土地の 有力者が 異端の 扉を 叩い た
人口 2800 人、限界集落を多く抱える松之山で、戸邊さん
の生き方は「地方再生」の道筋を示すことができるのだろうか。
筆者はその生命力の強さに期待をこめて、光明を感じ取っ
ている。
いつの時代もそうであったように、たった 1 人の情熱が時代
に変革をもたらしたという「物語」を見聞きしてきたからだ。異
端と言われようが、訪問者がいなかろうが、横溢する戸邊さんの生命力が輝いていれば、やがてそ
の生きざまに共感する人が出てくる。
いや、すでに、今年になってから数人が、戸邊さんの「生き方」という扉を叩いている。それこそ、
松之山再生の先駆けともいえる動きが、すでに出ている。
「滝沢農園」を経営する滝沢繁(52 歳)さんもその 1 人といっていい。本家は江戸時代から米を作
ってきた家系で、根っからの農家の家長が、この 11 月下旬、戸邊さん宅での食事会の招きに応じ
た。
牡丹鍋をつつき、ヨタ話に花を咲かせ、子どもたちとひとしきり遊び、ほろ酔いで雪の夜道を帰っ
ていくという、戸邊さんにしてみればうれしい訪問だった。
たったそれだけのこと、ともいえるが、前回書いた通り、「誰もこの家を訪れない」という寂しさに甘
んじてきたという日常を考えれば、滝沢さんを迎えた戸邊さん夫婦には、いかに喜ぶべき訪れであ
ったか、容易に想像がつく。
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それというのも、滝沢さんは過日、戸邊さんに頼み事をしていたらしい。「うちの餅米で餅をついて
ほしい」というのだ。滝沢さんは現在、5 町歩(4.95 ヘクタール)の耕作面積でコシヒカリを作っている。
松之山では 5 指に入る大農家といっていい。
全収穫量の半分を直販し、半数を JA に出荷している。限りなく無農薬に近いコシヒカリは 1 俵 2
万 8000 円(小売価格)。父親の代から独自に直販の販路を広げてきた。農繁期には毎朝 4 時過ぎ
に起床して田んぼを見回り、昼間は地元の建設会社に勤めるといった働き者だ。
独自の 販売ル ー トを 開拓した こ と へ の 興味
餅に関してはこれまで、加工所に頼んでついていた。ただ
し、販売はせず、ほとんどが米の直販契約をしている客や友
人知人に進呈するためだったという。
しかし、かかるコストはばかにならない。それでも毎年暮れ
の“プレゼント”を楽しみにしている客がいる以上、餅作りを
やめるわけにはいかない。そこで一計を案じた。
「今年は 1 俵(60 キロ)の餅米を戸邊さんに託すことにした
んだ。杵でつく餅のおいしさは十分、分かっているわけでね、
戸邊さんにも儲けになればと思って」
いつかは自分でも餅を加工して販売にまでもっていけたら、
と野心もある。戸邊さんの餅は今年から、東京の百貨店で販
売されることになった。6 個入り 1260 円(税込)。滝沢さんの
野心の中には、そうした販売ルートを開拓した戸邊さんへの
興味も尽きない。
「がんこでしょ、自分が正しいと思うこと以外は受け付けないところがあったから」
それがここのところ気持ちに変化が起こっているというのである。
「なんといっても米がうまいから。あの(慢性的に病害虫が出た)田んぼでどうして1俵 18 万にもな
る米ができたのか、努力したんだわさ。この頃はちょっと戸邊さんを見直した」
「1 俵が 6 万や 8 万で売れ る 米を 作っ て み た い わ さ」
しかし、当初はなかなか戸邊さんその人を認めることができなかった滝沢さんである。特に米作り
に関してはいまだに一線を画している。
必要最小限の農業用薬剤しか使用しない滝沢さんだが、5 町歩にもなる田のすべてを無農薬で
耕作するわけにはいかない。ましてや人力となれば人手がない。なにより、長い年月「安全でうまい
米」を消費者に届けようと研究を重ねてきた。その矜持は、そう簡単には捨てられない。
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ところが、今年 10 月、新米の試食会の席で、滝沢さんから意外な発言が聞かれた。
「戸邊さんの米は確かにうまい、おやっ、と思うほどおいしかった。来年は 1 反だけでも戸邊さんの
やり方に近づけた米作りをしてみようと考えている」
試験的に無農薬の米を作り、うまくいけば耕作面積を増やすことも可能かもしれないという。一律 2
万 8000 円(1 俵)で売ってきた米の中にも、付加価値の高い米があっていいと考えるようになった。
「1 俵が 6 万や 8 万で売れる米を作ってみたいわさ」と本音ももらす。
反目して い た 豪農が 「救世主」と 言っ た
つい先日も筆者が同席した食事会で、滝沢さ
んは戸邊さんの米を称賛した。「炊かれた米は、
粒が大きくてふっくらしている」。牡丹鍋をつつき、
酒を酌み交わし、“戸邊米”をほおばりながら、
何度も「うまい」「確かにうまい」ともらした。
もしも滝沢さんが来シーズン、戸邊さんのやり
方に近い米作りに乗り出したとすれば、それこそ
が地域再生の第一歩になる。滝沢さんの次の言
葉が、戸邊さんに続く農家の誕生を期待させる。
「松之山は 5 反ばかりの農家がほとんどでな、そういう人たちには、戸邊さんは救世主になるかもし
れん」
筆者は、そうした滝沢さんの発言を聞きながら、うるわしい雲古や逞しい稲を思い浮かべていた。
胸裏に冬の陽射しのような温もりが宿ったのだ。戸邊さんという強い生命体の根っこが、良い形で松
之山の土をつかんだのではないか、と感じた。
そして初めて、元気を失くした地域が、たった 1 人の異端によって、再び活力を取り戻すということ
が起こるかもしれない、と考えるようになった。
11 月下旬、戸邊さんから連絡があった。12 月 4 日に滝沢さんの餅をつく、という。
1 俵 12 臼、奥さんと 2 人で作業しても 2 日かかることになるらしい。つき手は戸邊さん 1 人。肉体
的にはきつい仕事であるに違いないだろうが、この餅つきは、つき始める前から、心地よい疲れが
約束されているようなもの。是非もなく立ち合いたいと思った。杵の一振り一振りが、地元の農家と
の繋がりを深くする だろうと、「地方再生」の力強い音を聴きに行こうと思った。
こ う す れ ば 風景は 売れ る
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松之山郷の風景は、「売れる」と、この秋初めて訪れた山里で、はからずも直感したことを、3 カ月
を経て、間違いではなかった、と確信するようになった。「売れる」要素とは、風土・風景の力のこと
である。
最近になって読み直した和辻哲郎の『風土』に影響されたかもしれないが、筆者のいう風土・風景
とは、その土地に固有の歴史的自然環境を風土といい、風景とは個人の眼差しによって様々に了
解される景観のことをいう。
もっといえば、その土地固有の風景が展開し、
風土に旅人を癒す包容力が備っていること、と
いうことになる。
松之山にはそれらが潜在している。撮影行は
頻度を増し、出かけるたびに何がしかの感動を
享け、それが作品づくりの原動力になっている。
見過ご され て きた 風景が 一大観光地に なる
風景が売れる、という実感を、写真家はしばしば持つことがある。ただし、独自に発見した美が、い
つまでも変わらず、そこに在ってほしいと願うために、公言をはばかり、場合によっては秘匿すること
になる。しかし、1 枚の作品が、やがて数を増すにしたがって、世の中に知らしめたい、と願望や野
心を持つようになるのも、写真家の性癖といえる。
写真家を含めた映像作家や音楽家や詩人といった、いわゆる表現者といわれる者たちの、社会
的な役割の 1 つは「それまで誰も気がつかなかった美を発見し提示する」ことである。彼らの、一風
変わった(と見える)視点が、ときに、世間を喧しくするほどのブームを作ることがある。
とある、何でもないと見えた光景が、ある日、風景に昇華されたり、思想を生み出す端緒となったり、
あるいは、地道な取り組みが一大観光地として生まれ変わるといったことが、確かに、身の周りでも
起こっている。
長野県南木曽町の妻籠宿は、行政と町民が一体となって歴史的景観の保全に成功した先駆的
例証だ。合掌造りの民家集落として知られる白川郷は、観光地として世間に認知されていない時代
に、ほんの数人の地元の人手によって宣伝の努力がなされ、ついにはユネスコの世界遺産に登録
されるに至った。北海道富良野や美瑛の景観は、前田真三という風景カメラマンの創作活動によっ
て、観光の側面から見過ごされてきた畑地の風景が、超人気の観光地になった。
思い もよ ら ぬ 被写体が 「売れ る風景」に
パリの失われてゆく情景を捉えたウジェーヌ・アッジェ(1857∼1927 年)の作品は、写真史上にお
いて初めて、消えていくものの惜別の情が写し留められていることを、観る者(多くが画家のために
撮影された)に教えた。アッジェが撮影した「風景」は相変わらず世界中で売れ続けているし、パリを
訪れる観光客は、作品に表された古き良き時代のパリを探すのである。
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石川賢治の『月光浴』は、月の光が照らし出す情趣を写真という装置で紹介し、『竹取物語』以来
かもしれない月の神秘を、日本人に改めて知らしめた。最近ではイラストレーターの石井哲の写真
集『工場萌え』に見られるように、それまでは「観光」に供することなど思いもよらなかった被写体が、
多くの受け手の心を揺さぶっている。
他分野でも、すぐに思いつく例がある。松尾芭蕉は俳句という 17 文字の短詩型の中に、常に動く
世情と不変の事象とを「不易流行」という概念で包み、俳句を連歌から独立させた。独自の詩型に
高めたことが、今日の俳句ブームの礎になっている。谷崎潤一郎は当時の文学界の意表をついて、
陰翳を礼賛した。日本美を陰や隈の内側から引っ張り出して見せたのだ。
こうして過去を概観すると、「売れる風景」はい
つでも、こうした表現者の内側に生まれたがって
いた、と感づく。
棚田ブ ー ム は 中高年層中心に ま だ ま だ 続く
富士山や桜の情景など、オーソドックスな「風
景」は変わりなく売れ続けている。
棚田がカメラマンの格好の被写体として脚光
を浴びるようになったのは、1995 年ころのことだ
った。石川県能登の千枚田、京都市右京区の傾斜地、佐賀県肥前町の海辺の斜面、高知県吾川
村、宮崎県日南市、奈良県明日香村、長野県更埴市など全国 50 カ所ほどの棚田で、「日本の原
風景」を表現しようとカメラマンが群がった。今日まで制作された写真集は、自費出版も含めれば 50
冊を下らないだろう。
新潟県松之山郷(旧松之山町、松代町)の棚田の風景と生活の撮影を続ける、佐藤明彦さん(松
之山出身・在)は、
「棚田のブームが一時、下火になったかな、と感じることがあったけど、ここのところまたカメラマン
が増えましたよ」
と、棚田ブームが依然として続いていることを話してくれた。関西や関東のカメラクラブの面々が、
マイクロバスや貸し切りバスで訪れる。筆者もそうしたアマチュアカメラマンの団体に何度も遭遇し
た。
ただ、10 年前とは世代が異なっている。よく出かけた石川県輪島市の千枚田では、フィルムカメラ
を肩に担いだ 30 代から 40 代の撮影者が多かった。近ごろの傾向は、デジタル一眼レフを携えた
50 代から 60 代が多数派となっている。
もう 1 つの特徴は、客層である。この秋に松之山郷で遭遇した観光客がカメラ愛好家に限らなかっ
たということだ。ごく一般の観光客が棚田を歩くようになったことに、少なからず驚いた。服装や履物
に呆れることはあっても、アマチュアカメラマンの貢献を考えないわけにはいかなかった。
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耕作放棄地の 増加は 観光業に と っ て も死活問題
旧松之山や旧松代町は、そうした棚田ファンのために「棚田マップ」を作った。観光協会によれば、
予想を上回る一般からの反響があり、マップを欲しいという引き合いが関東、関西を中心に今も後
を絶たないという。
「カメラマンが棚田ブームの発端になりましたけれど、今は一般の方の問い合わせも多いですね」
と、最近の傾向として一般客の入り込み数が増えているという。
いっぽうの松之山温泉組合でも、浴客のほか
に、棚田の風光を求める観光客が少なくないこ
とに着目し、自ら棚田の保護・保全に乗り出した。
松之山大字天水島字留守原にある棚田で米作
りを始めたのである。組合長を務める温泉旅館
「千歳」の女将・柳則子さんは話す。
「田植えの時期、稲刈りの時期、初雪のころ、
留守原の棚田の景色を目当てに、大勢のお客
様がお見えになります。松之山温泉にとっても、
あの棚田はなくてはならないのです」
留守原の田んぼは松之山一の棚田景観が見られる場所である。そこで撮影された写真は、多く
の写真集や観光パンフレットに掲載されている。つまり「売れる風景」である。
ところが、この風光明媚な棚田の耕作農家が高齢化し、農作業ができなくなった。このまま米作り
が放棄されれば、棚田は荒廃する。雑草がはびこり、脆弱になった畔は地滑りの危険にさらされる。
つまり、観光資源として「売れる風景」を失うことになりかねない。
およそ 15 軒の旅館は危機感に直面した。「日本三大薬湯に浸り日本人の心の風景を歩く」という
セールスの主題喪失は死活問題なのだ。松之山の再生は、そうした風景を活性させ、守ることにほ
かならない。
高度成長と と もに 進ん だ 挙家離村
松之山郷には耕作放棄の田が多い。時おり「風景」が死んでいる、と呟くことがある。かつての田
んぼが藪に覆われていたり、林に埋もれていたり、それらは、人の気配や面影が宿っているだけに、
痛々しい光景として映る。
いつごろから農的景観が損なわれていったのか、『松之山町史』を開いてみた。
松之山では昭和 40 年代に挙家離村の嵐が吹いている。67 軒の離村家族を出した昭和 46 年を
ピークに、その前後で 200 軒以上の離村が記録されている。 ちょうど、いざなぎ景気の 5 年間に符
合する時期である。背景にあるのは高度経済成長が生んだ地方と都市の所得格差が要因だろう。
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全国的に農家の兼業化が進んだのもこの時期であり、格差是正のため、出稼ぎが日常的になり、
または、農家の長男が働きに出るという自助努力がなされるようになる。都会は農村から一方通行
的に労働力を吸収しつづけた。さらに稲作減反政策(昭和 45 年)が採られたことによって農業に見
切りをつけた一家も少なくなかった。また、農業の担い手は次第に高齢化し、豪雪の年になると離
村件数が跳ね上がるという現象も起こっている。
松之山の農的風景は、挙家離村とともに崩れ
ていった。
明治以降の近代化と、第 2 次世界大戦後の高
度経済成長期に、日本人は大切な何かを失っ
てきた、と、よくいわれる。今まで、その「何か」は
知識の上で咀嚼しているだけで、どこか漠然とし
ていた。それが、松之山を訪れるようになってか
ら、ようやく、失くしたものの実態に触れる思いが
している。
「農的風景」がそれである。この国の祭りの多くは、農耕儀礼を背景にしている。そうした一面から
みれば、日本人は農耕民族といえるだろう。しかし、それにもかかわらず、農にまつわる祭祀、習俗、
芸能といった、じつに日本そのものを支えていた文化を捨ててきた。捨てざるを得なかった時どきの
世情が恨めしく思えてくる。
「日本の 原風景」は 世界遺産に ふ さわ しい
荒廃した戦後の景観の中で、誰が「国敗れて山河あり」と杜甫の詩文を呟いたのか、あるいは絶
唱したのかは知らない。
しかし、その感懐には大切な道理が含まれている。悲しく、荒み、疲弊した気持ちが故国の景観
に救われた、といっているのである。日本人としてのアイデンティティーを抱きしめている。
筆者はここ 20 余年、国内の撮影に明け暮れてきた。脚を踏み入れない市町村はない。そうした経
験から、国内の観光地を見渡したとき、いくつかの「売れる風景」が思い浮かぶ。伝統的な文化を守
り、景観を保全し、それとなく土地のプライドを演出してきた地域が、何がしかの成功を収めているこ
とが理解される。そこでは日本の原風景を体験することができるからだ。
松之山郷にしても同様の可能性を持っている。限界集落を多く抱えるとはいえ、日本人の心の故
里、といわれてきたゆえんが、この山間の郷村を歩けば身にしみてくる。人はいつでも家郷に帰りた
がっているものだろう。筆者は長崎産でありながら、日々に痛めつけられた細胞が、越後の山間で
癒やされる。
松之山郷の再生は農的風景が活性される以外にない。何百年と続けられてきた米作りの結果、
出来した「日本の原風景」が守られ、継承されるなら、世界遺産に登録されるにふさわしい。
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今、その先駆けとも言える動きが出てきた。高齢化で労働力を失くした複数の農家に、とある若い
集団が民泊し、米作りを通じて農的風景の保全に乗り出そうとしている。この再生への熱い思いを、
まだ誰も知らない。
なぜ 過疎地の 再生を 願う の か
携帯電話から聞こえる戸邊秀治さんの声は嬉しそうだった。
「とてもいいことが起こりそうなんです」
松之山で米作りを通して、農業体験をカリキュラムに取り入れている専門学校から吉報が届いたと
いうのだ。新潟市内に 2006 年に開校した国際調理製菓専門学校が、昨年から続けている松之山
での「食育」実習を、2008 年度からさらに発展した形にしていきたい、と構想しているらしい。
「ゆくゆくは、繁(滝沢)さんや直栄(高橋)さん
宅など、生産者の家に泊まりこんで、農的生活
を実践したいと相談を受けました。今年は 40 人
だった学生が来年は 100 人ほどやって来ること
になりますよ。もちろん、無農薬、人力の米作り
が趣旨の基本です。ゴミ拾いなど環境美化もし
たいと言いますから、ぜひ協力したい」
戸邊さんの弾んだ声の奥に、松之山の美しい
棚田風景が浮かんだ。人手を欠く大規模農家
や高齢で耕作困難になった農家に、若者たち
が同じかまどの飯を食べながら、額に汗をする光景を思い描いてみた。それは過疎が極まった集
落には奇跡的な出来事ではないか。
この 10 月、戸邊さんに出会った日、稲刈りをしていた専門学校の若い集団が思い出された。へっ
ぴり腰の女性副校長や作業に疲れた学生の表情、怒気をはらんだ戸邊さんの声…。
しかし、みんな好感が持てる若者たちだったと振り返ることができる。戸邊さんの叱咤にめげず、
稲刈りにも餅つきにも、将来のコックたちは実に真面目に取り組んでいた。彼や彼女たちなら、きっ
と松之山の力になるだろう。戸邊さんの朗らかな声に、こちらも気分が良くなった。
過疎の 集落に 集ま る 若い パ ワ ー に 期待
さっそく学校側の意向を聞いてみた。実習を担当する伊藤隆志さんが話す。
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「若いパワーだけが取り得といいますか、学生の力を借りれば、松之山でお役に立てるかもしれま
せん、何よりも、将来、食に携わる学生たちが、素材の生産現場で実体験を持つということが、大き
な財産になると思います。戸邊さんや松之山の人たちに教わりたいと考えています」
前回紹介した松之山の大規模農家、滝沢農園を経営する滝沢繁さんは、当初、「実習用の田を 1
反か 2 反、提供してもいい」と言っていた。ところが、戸邊さんが計画の詳細を説明した段階では「5
反でも提供できる」と、積極的な協力を約束してくれたというのだ。
松之山の農的風景の喪失に胸を痛める、高橋
直栄さん(元新潟県立安田高校校長)も、専門
学校とのシェアリングに諸手を挙げて賛成する。
この秋、自分の田んぼの稲刈りを学生に手伝っ
てもらったという経緯もあって、日頃は生クリーム
やメレンゲを泡立てている若者たちに鍬や鎌を
持ってもらい、共に米作りをすることに大きな期
待を寄せている。
「大変ありがたい話で、学生の受け入れにつ
いては、こちらも丁寧でなければ、と話し合って
います。これが地域再生の問題提起となってく
れるのではないかと、単なる労働力だけではない様々な期待感が高まります」
このように話す高橋さんは「未来ある松之山を創る会」の発起人の 1 人でもある。以前は「会は開
店休業状態」と残念そうに話していたが、「戸邊さんから学生との共同耕作の話を聞いた時、明るい
兆しを感じた」と言い、再び会の活動に火を灯したい、と埋み火に手をあぶっている。
米作り の 委託先に も棚田の 景観維持を 要請
高橋直栄さんの在所の、松之山大字天水島小字留守原の棚田は、前回も紹介した通り、松之山
で一番の棚田の景勝地。しかし、地主の農家に後継者が育たず、5 反余りの田んぼを「農業担い手
公社」が小作の契約をして米を作っている。
松之山温泉組合と松之山観光協会は、留守原の棚田を重要な観光資源として捉えている。カメラ
マンの格好の撮影スポットであり、浴客に案内する絶景ポイントでもある。そのため、温泉組合と観
光協会は公社に対していくつかのお願いをしている。
最たるものが景観の維持。棚田の形状を変えることなく昔通りに保全してもらうこと。
この点では耕作をする担い手公社は、トラクターを入れにくいなどの不便があるが、観光を優先さ
せて申し出に協力している。
また、この棚田の田植えや稲刈りは、一般から希望者を募るなどして労働力を確保、田と周辺の
保護と農的景観の保守が図られている。この秋には、留守原で収穫された稲が温泉街に稲架掛け
21
(はさがけ・天日干し)され、その米を客に振る舞って好評を得た。松之山では再生に向けた成功例
だ。
ただ、そうした景勝も一夜にして成ったわけではない。稲作農民が、何百年という時間をかけて築
き上げた。
棚田の 絶景は 夫婦 2 人の 休み ない 働きが 作っ た
10 月 16 日、2 度目に戸邊さんの家に泊めてもらった翌日のこと。有名スポットと聞いて、初めて留
守原の棚田に出かけた。棚田は山の中にあって、天水島の集落からは車で 10 分ほど登った。
深い谷になっている。谷の斜面に水を張った田んぼが見えた。林道の大きなカーブを右に折れる
と、左手の崖の下に茅葺きの屋根が目に飛び込んできた。右手に 20 台ほどの車が停められる駐車
場があり、観光客に配慮されていることが分かる。
高台の林道からは眼下に、傾斜地に張りつい
た棚田が見渡せる。急勾配だ。こんな山中の山
の斜面を切り拓いて田を作ったのか、と先人の
労苦を想像した。心地良いシャッターを切り続け
ながら、ふと、この棚田で豊凶の祈りをしながら
生きてきた人に会ってみたい、と思った。
1 台の軽トラックが林道の脇に停まっている。
側に 1 人の初老の男性が田を見下ろしている。
「この棚田の持ち主はわしろ(屋号)いうて、下
の集落の人ですわ」
「わしろ」は高橋仙吉さんのお宅だった。すでに故人だが、家を訪ねると奥さんのマツさん(78 歳)
が庭の畑で草取りをしていた。
「2 人して朝から晩まで山(留守原の棚田)で働きましたがね。じいちゃん(夫)は冬も夏も出稼ぎし
てくれて、ほんとに働くことが楽しみだった人での、パチンコするでもなく、働いて働いて死んだわ
さ」
マツさんの自宅から留守原まで歩いて約 1 時間。25 歳で嫁に来て、昭和 50(1975)年頃までは徒
歩で田に通ったという。夜が明けると、まず仙吉さんが山道をたどり、奥さんのマツさんは、洗濯をし、
弁当づくりなどして夫の後を追う。来る日も来る日も、1 町歩余りの田が 2 人を待っていた。
囲炉裏を 切っ た 田ん ぼ の 小屋で子ど もが で きた
「昼になれば、小屋(前述の茅葺き)で弁当を食べて、昼寝をして、また夕方まで仕事をして家に
帰りました」
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弁当のおかずは、味噌漬けと沢庵くらいのものだったと振り返る。馬を飼い、牛を飼い、一緒に農
作業をしたのだという。家畜のエサは山で草を刈り、 干した後に牛の背に乗せて家に戻り、家の 2
階の作業場で「ザッコ、ザッコ切って」飼い葉を作った。10 日もすればエサはなくなり、また草刈りを
した。
「雪堀り(雪おろし)は女の仕事、どこの家でも夫は出稼ぎに行ったからの、今のよう(機械化され
た農業)であれば腰も曲らんかった思うが、昔は手足を使うのが当たり前だったからの。今は、年寄
り同士でお茶のみして、難儀した話をするんが楽しみ」
マツさんは話をしながら草を抜き、時折、優しい笑顔で筆者の目を見た。今はもう、何もかも終わ
った、とエプロンの泥を払いながら立ち上がり、畑から庭に移動し、干されている花の種を混ぜてい
る。
「あの小屋には囲炉裏が切ってあってな、家で取れたトウモ
ロコシを焼いて食べたよ。昼寝をしておったら、雉が鳴いたり、
鳥がたくさんきたな」
子どもは 3 人。「じゃあ、子どもはその小屋でできた?」と筆
者が訊けば、即座に「そう」と返事をし、笑った。
「最後に行ったんは 5∼6 年前かな、じいちゃんの病院の帰
りに娘が車で連れて行ってくれた、あれが山に行った最後じ
ゃった」
長男とその嫁と 2 人の孫と暮らしている。筆者が去ろうとした
時、「春は田の畔にゼンマイがたくさん出た」と、引き止めた。
「秋は紅葉がきれいな所でなあ、もういっぺん行ってみたい」
と言葉を継ぐ。
そう、留守原の棚田はマツさんには過酷な労働を強いただけではなかったのだ。
「稲が育つのを見るんが楽しみでな、大風が吹かず、稲が実ってくれるんが一番嬉しかった」
マツさんの感慨には、農家の誰もが抱く素朴な祈りと喜びがある。それに何よりも、仙吉さんと共に
あったという満足が、マツさんの人生を支えてきた。
後継を 信じた 先人た ちの 姿が 見え るか ら 再生を 願う
日本各地で「日本の原風景」を売り物にして成功した地域は、先人が築き上げた伝統への敬愛を
基本理念とした。松之山郷の景勝の背景にも、マツさんのような農家の嫁と、仙吉さんのような根っ
からの百姓の屍が累々と横たわっている。
23
戸邊さんも高橋さんも、松之山に失われた農的景観の再生を夢見ている。2 人にはこの土地で生
きるために耕し、後継を信じて死んでいった先人の屍が見えるのだ。そんな視点を持つに至ったか
らこそ、自らの生き方を通して地域再生の力でありたいと願っている。
願わくば、新潟の専門学校の学生たちが、農業体験の中で戸邊さんもまた、やがて土地の歴史
に堆積する 1 人ということに触れることができれば、携帯電話から聞こえた戸邊さんの喜びの声は、
いっそう幸福に彩られる。
官に は 頼ら ない 、自分の 足で立つ
国の政策に期待せず、独自の理念と創意工
夫で、棚田という厳しい環境を逆手に取って完
全無農薬の米作りを続ける“戸邊秀治という生き
方”がメディアの注目を集めている。
このコラムが契機となって全国紙が戸邊さんを
大きく取り上げた。全国ネットのテレビ局は戸邊
さんの米作りを 1 時間番組にするために取材中
だし、フランスのテレビ局が「日本特集」の農業
コーナーで戸邊さん一家を取り上げる。
戸邊さんを異端視したり、ある距離を置いてつき合いを避けてきたりした農家の人たちも、メディア
を通じて、Iターンの戸邊さんがどのような人物であるかを知るようになり、態度を軟化させるようにな
った。戸邊さんと同じ集落に住む小見重義さんは言う。
「こうした田舎は新参の人がどんな人なのか、強い興味を示しますが、相手の姿がはっきりするま
では安心しないんです」
子ど もた ちが 良く育っ て い るこ と を 羨む 近隣住人
筆者はこの 3 カ月の間、松之山郷の多くの家庭を訪問し、様々な人と対話を重ねてきた。当初、
戸邊さんへの関心は薄いか無関心、あるいは、また聞きやさしたる理由もなく敵愾心をむき出しに
する人もあった。
しかし、明らかに、取材を始めた昨秋 10 月とは、住人の評価は違ってきている。相変わらず一定
の距離を置いて交際を避ける人はいるが、好意を口にするようになった人も少なくない。
好感を持ち始めた人たちに共通するのは、戸邊家の子どもたちへの高い評価である。口々に良く
育っていることを羨むのだ。それは筆者には意外な理由だった。米が良く育ち、高価で売れるよう
になったことが評価につながったと思っていたからだ。しかし、考えてみれば、もっとも自然な受容と
いえる。
24
棋士の戸邊誠 4 段は長男(21 歳)。次男(17 歳)は調理師、三男はこの春中学を卒業し次男と同
じ調理師専門学校に進む。四男は 5 年生だが父親の後継を目指すだけあって、ひと通りの農作業
ができるようになった。小学 2 年生の長女は天才的な運動能力に誰もが舌を巻く。
それに何より、子どもたちが両親を敬っている。よく家の手伝いをする。農繁期は学校を休んで農
業に専念する。次男と三男は戸邊さんに匹敵するほどの働き手に育った。都会に出て働くことを 10
代後半の生き方に選んだ彼らだが、いざという時はいつでも農業で自活できる技量を備えている。
容易に想像がつくことだが、例えば父親が苦
境に立った時、彼らはたちまち帰郷して米作りを
継続させるだろう。
地域の ボ ラ ン テ ィア 活動に も労を 惜しま ない
過疎の郷村が再生を期して歩き出す時、こうし
た人物(家族)の登場が欠かせない。官公庁の
制度から助成金をどのように引っぱってくるかと
いった、旧態依然とした功利主義では揺るぎな
い基礎は固まらない。
国の政策や補助金を当てにせず、自力で立つことのできる人物が、その生き方を通じて、ご近所
の理解から地域活性が始まることを“戸邊秀治の生き方“が教えている。
戸邊さんはその努力を惜しまない性分らしく、夫婦で持つ 2 枚のボランティアカードは、奉仕を果
たした印で真っ赤に染まっている。一人暮らしのお年寄りに弁当を届ける回数は年間 50 日を超
す。
屋根の雪掘り(雪おろし)、草刈り、何年も続けているボランティアだ。前述したメディアは、そうした
“戸邊秀治という生き方”に着目しているのだ。
天水と肥沃な土壌が 日本一の 米を 育む と確信
戸邊さんが移住先を決めるにあたって希望した環境は、雪国であることと水源地であることだった。
つまり、米作りに欠かせない水が豊富なことに加え、その水が流入河川などによって汚染されてい
ないということが条件になった。この 2 点は最上の米を作るうえでは必要不可欠である。
2001 年の夏、移住先に決めた松之山は天水を田に直接いただく米作りの適地だった。更に、清
らかな水に加えて土壌が肥沃ということも分かった。 もともと森を開墾した田んぼの土は、ミネラル
などの栄養素をたっぷり含んでいた。そのおかげで春になると、畔という畔に極めて上質の山菜が
生えてくる。しかも大量に採れるため、農家の副収入になっているほどだ。
松之山で熱心に米作りをしてきた百姓たちは、おいしい米ができる土地に恵まれた、と胸を張る。
流入河川の多い平地の米作りには真似のできない、天水による米作りに大きな自負を持っている。
25
連載第 1 回目に書いたことに関連するが、戸邊さんの米を 1 俵(60 キロ)およそ 18 万円で売るこ
とを決めた「米よし」の北川大介さんは、農法はもとより、こうした環境なら「魚沼コシヒカリ」を凌駕す
る日本一の米ができる、と初めて戸邊さんの田を歩いた時確信したのだった。
効率の 悪い 棚田と い う 条件を 逆手に 取っ て ブ ラ ン ド化
政府は昨年、4 ヘクタール以上の田畑を所有する単独の農家と、20 ヘクタール以上の耕作面積
の集落営農組織に補助金を支払う制度を導入した。
しかし、松之山の農家のほとんどがこの制度の対象とならない小規模農家だ。戸邊さんももちろん
対象外。
そうした政府の大規模農家優遇策とは無縁に
成功したのが戸邊さんの米といえる。
耕作に手間のかかる棚田を逆手に取り、苗は
手植え、農薬は一切使用せず、稲刈りは手刈り、
収穫された稲束は昔ながらの稲架(はさ)場で
天日干しされた安全でおいしい「松之山米(コシ
ヒカリ)」を作った。これが現在デパートで売られ
ている戸邊さんの米である。
よそでは決して真似のできない米が生まれた。
その文言が誇張ではなく、ありのままを宣伝することができる商品(米)だからこそ、“本物志向”の消
費者に強烈なインパクトとして届いているのだろう。すでに戸邊さんの米は「戸邊米」としてブランド
イメージさえ出来上がっている。
この正月、戸邊家を訪ねた時のこと。松之山は大雪に見舞われ、街はひっそりとして静まり返って
いた。戸邊さんはいつになく、近い将来の展望を熱く語った。
「完全無農薬の米を松之山からたくさん産出したい。需要があることは『米よし』さんが実証してく
れましたからね。私の田は 7 反(70 アール)で手いっぱいです。これ以上に拡張する気はありません。
私以外の人が生産してくれることで、供給量が増やせます。その米は、『魚沼コシヒカリ』を優に超え
る存在になることができます」
「地域貢献を考えながら真剣に米作りをする人が、私を訪ねてくれることを待っています。逆に私
が農業者の集まりに出かけていくことも可能です」
I ター ン 者の 孤独と 焦燥
26
いつも生気がみなぎっている戸邊秀治さんの双眸に陰りを見た。あの日の眼差しになっている。
「誰も我が家を訪ねてくれない」と、呼びかけても、待っても、それがかなわない、と筆者に打ち明け
た時の曇りが再び表れているのだったが…。
小正月の行事が終わって子どもたちが登校していった後の、しん、とした時間。時折屋根の雪が
滑り落ちる音が頭上を支配し、ストーブの薬缶が蒸気を噴き上げている。幾人かの共感者を得なが
ら、なおも心の深奥は虚しいのだろうか。
孤立無援に甘んじながら、あくまで信念を曲げ
ず、賛同者のドアを開ける日を待ち続けよう、と
稲を刈り、餅をついてきた戸邊さんでも、ふと、
不安が胸裏をよぎることがあるらしい。虚しさや
孤独を飼いならすことの難しさを感じることがあ
るらしい。数少ない理解者に救われることはあっ
ても、いまだに同じ道を行く者が現れないという
焦燥に起因するのかもしれない。
そういえば、戸邊さんの家庭に足しげく通うよう
になったある日、「松之山での暮らしが、もう、駄目かもしれないと思うこともあった」と話していたこと
を思い出す。前年よりも 2 割増しに近い収穫米を背にして、戸邊さんが初めて、心の奥に居座る孤
独をさらけだした。「一緒に完全無農薬で米を作る仲間が欲しい」とも語っていた。
夫の 道に 心か ら 賛同し付き従う 妻
そこへ筆者が現れた。誰も訪れない家の訪問者になった。戸邊さんは「こうした外部の人との出会
いや地元の人と触れ合う機会がなければ、見ず知らずの土地で生きていくことは難しい」と、何気な
く I ターンと形容される入植者が、越えなければならない高い壁を懸命に言葉に換えて話してくれ
た。
都会なら、その孤独は繁華街の賑わいや人の気配に紛らわすこともできる。こうした過疎に極まっ
た集落では、ひとたび寂しさを感じてしまえば、剥き出しの傷は清浄な大気でさえ痛みを増長させ
る。
筆者はその時、夫人の聖子さんに視線を移した。夫が決めた道に心の奥から賛同し、共に歩くこ
とが自分と家族の幸福と信じ、ひたすら付き従ってきた人である。そうした夫の苦悩も、すべては聖
子さんが受け止めてきた。
携帯電話は圏外区域、パソコンはない、洗濯機がない、都市ガスもプロパンガスもない。ブランド
品には無縁、身を飾り立てるわけでもなく口紅を欲するわけでもないが、唯一、近くに同世代の友
人がいないことが寂しい。戸邊さん自身も、「妻に友人がいないことが最も気がかり」と時々口にする。
それでも聖子さんは、「私には子どもたちがいますよ」と笑顔で話してくれる。
27
「私はただ、やらなければならないことを淡々とやるだけなんです。昔風の生き方のようではありま
すけど、それが精神的にも体にもいいんです」
いつも気丈とも思える答えが返ってくる。
困難な仕事に立ち向かう者には、たった一人、圧倒的な理解者がいれば倒れない。それが身内
であっても、「おまえのやる仕事が素晴らしいことを私は解っている」と、評価してくれるなら、道を行
く者は救われ、さらに遠くを目指すことができる。
男はいつでも、このような圧倒的な理解者を求めている弱い存在なのかもしれない。筆者は「今日
の表情の陰りはなんですか」と尋ねてみた。
「新聞にあれほど大きく紹介されましたけど、地元の人は
何も言ってきません。ぼくがマスコミの取材を受けるのは、
私の生き方を知ってもらい、そこから米作りの友人ができる
ことを期待しているからです。良質の米作りについて、意見
交換できる人たちと交流を持ちたい。やりたいことがいっぱ
いある。今すぐ試してみたいことも山積しています」
小正月の 行事で 集落の 人々と 交流を 図る
戸邊さんが暮らす松之山大字黒倉(約 20 戸)で小正月の
行事、サイノカミ(賽の神)が執り行われた。注連縄や門松、
書初めで未来を揮毫した半紙が持ち寄られて、様々な幸福
への願いが火炎を借りて天へ伝えられた。戸邊さん一家も
地元の人たちと同じ炎を見つめていた。
サイノカミの後は集会所で親睦会が行われた。子どもの数が意外に多い。乳飲み子から高校生ま
で 17 人。全人口は 68 人。なんと 3 割ほどを占めている。集会所に敷かれた座布団に全員が腰を
下ろすと、トイレに立つのも窮屈だ。会場にあふれる子どもの歓声とその姿は、いかにも福を招き寄
せる行事にふさわしい光景を生み出していた。
戸邊さんと集落の人との交流を注視した。戸邊さんは様々に立ち働いていたが、彼のグラスにビ
ールを注ぎに来た人は 4 人。戸邊さんは黒倉に移住してきて 6 年目、まだまだ土地の産土神の心
は開かれていないように見えた。
「先日、また別のテレビ局が米の特番を計画しているから協力してほしい、と連絡がありました」
相変わらずメディアの取材依頼が続いている。
「それから、繁さん(滝沢農園の経営者)が無農薬の米を、今年から 5 反ほど作ることを決めました。
ぼくにはうれしい出来事です」
28
繁さんは松之山で生まれ育った大規模米農家。地元では人望の厚い人物である。次男がすでに
跡取りを決心し、父親が経営する農園の働き手になっている。戸邊さんの周囲では、このように明ら
かに以前とは違った賛同者が出てきている。あるいは、戸邊さんには見えない場所や知らない人が、
圧倒的な理解者になろうとしている。それでも、筆者にまで不安の陰を見せるほど、入植地で暮ら
すことは困難が付きまとうということなのだろう。
大学を 卒業して タイ に 渡っ た 青年が 帰っ て き た
戸邊さんが今、最も親交を結びたいと思う人物がいる。相沢堅さん、26 歳。父親の成一さんは松
之山大字水梨を拠点に 2 町 5 反の田を耕作している。大学で心理学を学んだ後、タイで農業研修
のコミュニティーに参加、帰国後、父親とは一線を画した独自の農業を模索し始めた。
十日町市と松之山が合併を協議しているさな
か、ある集会で相沢堅さんが発言をした。その
内容の詳細は分からないが、参加者は、彼のも
のの考え方、そのセンスに聞き入ったという。
「その堅君が農業を目指しているというんです。
26 歳ですよ、大きな可能性を感じています。ぼく
が失敗したことや今やろうとしていること、様々な
ことを一緒にやれないか、と考えることがありま
す」
父親と は 違っ た や り 方で農業を 継ぎた い
戸邊さんは若い頃“援農“で体験した人と共に理想を追うという希望に、松之山で再会できるかも
しれない、と堅さんに淡い期待を寄せ、すでに心を開き、受け入れようとしている。戸邊さんの米作
りは、なんといっても協調する人物が増えないことには集落の活性も地域の再生も進まない。
筆者は若い彼に 2 度会っている。自分の考えをしっかり持った好青年である。
「父の農業は父がやることができます。ぼくがやりたいことは米とは別にあります。山菜を計画栽培
することや餅米を使った加工食品、主に杵搗き餅ですね。それらをどのように起業できるのか、具
体的に計画をしている段階です。それから、タガメなどの希少生物の繁殖もやってみたい。すでに
つがいを 100 匹ほどに増やした経験がありますから、ブリーダーとして仕事につなげたいとも考え
ています」
父親の成一さんが言う。
「タイの政情が不安になって、帰国を促したんですけど、さて、俺の後を継げと無理強いも言えま
せん。この土地での農業は辛いもんがありますから。 ただ、ここで農業をやることも選択肢の 1 つで
はないかと言っておいたんですが、本人はやりたいと言うもんですけ…そりゃあ親としてはうれしい」
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堅さんの試算では初期投資に 1000 万円ほど掛かるという。主に加工場と設備費。父親の成一さ
んは資金繰りについても、「なんとかしなくちゃなりません」と全面的に支援する腹積もりだ。
気になるのは戸邊さんの堅さんに対するラブコールとも言える思いだ。そのことを 2 人に伝えてみ
た。
成一さんが即座に応じた。
「良い米を作るための情報交換はしたいが、機械を使わず、しかも完全無農薬で米作りすることに
はついていけない。立派なことをやっていると思っていますけどね、同じやり方はできないですね」
当面は既存の耕作をしながら、一方で、餅米などを加工し、いかに付加価値のある商品を作り出
すのか、独自の路線を歩むことになるという。
あ の や り 方では や が て 消え て い くの じゃ ない か
今のところ戸邊流の米作りを基調にすれば、
堅さんと戸邊さんが共に収穫を喜ぶという姿は
見られそうにない。つまり、堅さんは戸邊さんが
待望する「同じ道を行く人」ではないのかもしれ
ない。そのことを堅さんに話すと、戸邊さんが見
込んだ若者だけのことはある、と思わせる返事
が返ってきた。
「戸邊さんのやり方を否定するものではありません、むしろ尊敬を持っています。しかし、あのやり
方では 1 町歩が限度です。戸邊さんのような人が増えない限り、やがて消えていくのじゃないでしょ
うか」
戸邊さんの陰りは、「やがて消えていく」と堅さんが語る、まさにそこにあるのかもしれない。
戸邊さんはいつも「松之山という地域に好都合の 5 反百姓が増えてくれれば」と口癖のように語る。
「家族 4∼5 人が無農薬の米を作り、心も台所も豊かに暮らせるんです」それなのに「誰も我が家を
訪ねてこない」。いまだに「同じ道を行く者が現れない」。
果たして、日本有数の豪雪地に暮らす戸邊さんに春は来るのだろうか?
そんな心配をしているところへ 1 通の手紙が、小正月の終わった戸邊家のポストに届いていた。差
出人は千葉県在住の、あるデパートに勤務する 36 歳 の男性だった。妻と子どもが 2 人。農業の経
験はないが、戸邊さんの生き方に感銘を受け、できれば教えを請いながら百姓になることができな
いか、というのである。近いうちに戸邊家を訪問して、暮らし向きを見学させてほしい、と結んであっ
た。戸邊さんの表情が上気する。
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遠方か ら 集ま っ た 再生の 担い 手た ち
その手紙は東京都内の有名デパートにバイヤーとして勤める、木村義一さん(仮名・36 歳)からだ
った。妻は投資ファンドの営業職という第一線で働いている。5 歳の息子と 2 歳の娘がいる。その彼
が“戸邊秀治という生き方”に共感し、百姓になろうとしている。
一般的に推量すれば、なんの不自由もなく、ひたすら現代風のシアワセを享受できる“御身分”
ではないか。なにが悲しゅうて未経験の百姓に席替えを望むのか…。
ところが話をしてみると、彼の決意には微塵の甘えもない。自分の前に現出した道を毅然とした態
度で見据えていることが分かる。過度の生産と無秩序な大量消費の世の中に疑問を持つようになり、
人間の豊かな生活とは何か、という一点において思索を深めてきたという。そして今、30 歳の戸邊さ
んが脱サラして自給自足の道を歩き出した時のように、高邁な理想を頼りに未知の領域へ漕ぎ出
そうとしている。
36 歳の 男に は 自分の 価値観に 対す る揺るぎない 自信が あ っ た
新しい地平を目指して笈(きゅう)を負うことに
異を唱えるものではない。けれども、本をただせ
ば当コラムがきっかけになっていることもあって、
生唾を呑む思いで木村さんの考えに耳を傾け
なければならなかった。なんといっても、農業は、
道に行き詰まったり傷ついたり、戦線を離脱する
ビジネスマンの救済世界ではない。浅慮や一考
を要することがあれば、その都度、振り出しに戻
ることも提案しなければならないだろう。
「良い商品を良いサービスで提供し消費者の
方に喜んでいただく、ということを一義と考えてきました。けれども、そうした誠意を尽くそうと努力す
る一方で、無駄な消費を煽るような売り方をしてきたのも事実です。これまでは、立ち止まって熟慮
する暇もなく、がむしゃらにやってきたんです。でも、そのことに気づき、考えれば考えるほど、今の
仕事に納得ができなくなってきました」
真っ正直に生きる、という衝動を押し殺しながら暮らすことに大きな疑念を持つに至った、と話す
36 歳の男の息遣いは、だからといって激することはなく、詠うこともしない。その話し方に迷いが感じ
られないし、余分の力がこもらない。
そうした物言いを、はて、どこかで聞いたことがあるな、と記憶を遡ってみる。そう、戸邊さんの米を
日本一高価な米として販売した、北川大介さんに通じることに思い至った。北川さんが戸邊さんの
米を称賛した時の語り口に似ていた。2 人に共通していることは、自らの価値観への揺るぎない自
信である。
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説得し切れ ない 伴侶と と もに 戸邊家を 訪れ るこ と に
筆者は過去に多くのジャンルの人とまみえてきた。話を聞き、行動につき合い、人物を書き表し、
ファインダー越しに穴が開くほど表情を凝視し、彼らの人格がフィルムに焼きつくよう念じながらシャ
ッターを押してきた。不遜ながら、何事かを成さんとする人物の、真摯な姿勢の内側に潜む力量を、
いつの間にか嗅ぎつける嗅覚を発達させた。そんな職業的経験から、戸邊さんと初対面した時と同
様に…この人はやり遂げるだろうな…と直感するものがあった。
「自分の手で、自分の責任で、誇りを持って物づくりがしたい。もうすぐ 40 歳になります。いい人生
の転換期と受け止めているんです」
そこから得られる達成感を最上の幸福にした
い、と精神的な充足が得られなくなった今と、近
い将来に開けるはずの展望を語るのだ。
それにしても、と重ねて筆者は思うのだ。投資
ファンドに勤める奥さんの、当面の苦労を想像
するからだ。外国からの客をアテンドすることも
あるという、その、颯爽としたスーツ姿などが眼
前にちらつくではないか。そんな奥さんが、松之
山の山間で泥まみれになりながら米を作り、自
給自足を旨とする暮らしに、馴染むことができる
のだろうか。そうした素地が、あるのだろうか…。
「まだ、完全に説得し切れていません、おいおい、理解してもらおうと考えています。取りあえず
近々、戸邊さんの家に家族 4 人で泊まりに行くことになっています。戸邊さんの暮らしぶりに触れる
ことで、妻の理解が深まることを期待しているんです。子どもたちがどんなリアクションをするのか、
それも大きな楽しみです」
言うなれば、仕切り直しをする人生に妻を巻き込むのである。伴侶との摩擦をできるだけ小さく収
めたい。そのために、言葉で補えないもどかしさを肌で感じてもらおうというのだ。それ相応の葛藤
を伴侶に強いることになるのではないのか、と余計な心配をしてしまうが、戸邊さんは、そんな彼の
苦慮する気持ちまで受け止めようと、家族の来訪を待っている。
全国各地か ら 寄せ ら れ る戸邊さん に 「会い た い 」の 声
昨年末頃から、戸邊さんに会いたい、家庭を訪問したい、という問い合わせが後を絶たない。多く
の人は農業従事者で、戸邊さんの米作りや生き方に心を打たれたという人たちだ。
NB オンライン編集部にも戸邊さんに関連した問い合わせが寄せられる。「戸邊さんの生き方に共
感を覚え、また、羨ましいと思いました」というのは、堀江兼治さん(59 歳)だ。当コラムの担当者が
社内規則に準じて教えてくれ、電話で話す機会を得た。
32
「私自身も 150 坪ほどの畑で様々な野菜を作っています。農家の苦労がよく分かりますから、戸邊
さんはえらいなあ、と感心しています。今 59 歳で間もなく定年を迎えますが、これからは準専業で野
菜作りをしていこうと考えています」
福岡県筑紫野市に本社を置く「味の兵四郎」の野見山正秋社長は戸邊家を訪問した。新年早々
の出来事だった。同社は「あご入り兵四郎だし」を全国の有名百貨店で販売、急成長している会社
だ。
戸邊家を訪問した理由は、近い将来、安全でおいしい米を販売していきたい、という計画の地歩
を固めるためだ。地元の筑紫野で米作りにも参画する計画があり、戸邊さんの完全無農薬の米作り
について、強い興味を持ち、教えを請うために訪れたのだ。
「い て もた っ て もい ら れ ず に 連絡しま した 」と い う “同業者”
この原稿を書いているさなか(23 日)1 人の男
が 1 泊の予定で戸邊家を訪れている。佐々木崇
さん(仮名・43 歳)。戸邊さんよりも 4 年ほど以前
から、新潟県上越で完全無農薬の米作りをして
きた人物だ。27 歳で脱サラ、農業研修などを重
ねながら、農薬を使わない米作りを理想とするよ
うになり、実践してきた。
当コラムを「楽しく、興味深く読み続けてきた」
が、前回の文中に、戸邊さんの米作りを「やがて
消えていく」と評した若者の談話が紹介されたこ
とについて、「自分のことのようにも受け取れて、いてもたってもいられずに連絡してみました」という
のである。筆者のホームページに直接メールが届いた。
「戸邊さんの火も私の火も、そう簡単に消えるものではありません。消してはならないのです。単な
る労働力でもいいから、戸邊さんの手伝いがしたい、力になれないだろうかと思っています。もちろ
ん、お互いの米作りについて情報交換ができたらいいと思います。とにかく一度、お目にかかって
話がしたい」
多い時には 2 町歩の耕作地で米を作ってきたという。現在は、「標高 300∼400 メートルの場所に
1 反ほどの田んぼがありまして、完全無農薬の米を作っています」。平成 19 年度は 5 俵を収穫した
という。
終末期の 会社組織を 思わ せ る 過疎地の 実態
かくして、当初の予想を覆し、戸邊さんの賛同者は地元からではなく、遠方からやって来ることに
なった。それも、フタを開けてみれば、「異端者」への賛同者が、こうも多かったのか、と驚いている。
今回は紹介する紙幅がなかったけれど、戸邊さんを訪ねたいという個人や団体は多く、かれらは豪
雪地の雪解けを待って戸邊詣でを計画している。
33
予想通りだったのは過疎地の疲弊。昨日(22 日)戸邊さんからかかってきた電話は、そのことを端
的に物語っていた。深刻な内容だった。
「日曜日のことなんですけど、屋根の雪掘りに行ったんです。官舎の屋根です。休日にもかかわら
ず職員の 1 人として手伝いに出てくる人がいませんでした。それはまあ、それぞれの人に事情があ
るとして、何よりも愕然としたのは、皆で使う食堂のありさまです。料理が入ったままの鍋のフタは開
きっぱなし、流しは洗われていない茶碗が散乱し、テーブルも雑然としていて、床は掃除がなされ
ていない。残念で残念で、今日は落ち込んでいます」
米作りでは、決してよそが真似をすることので
きない、固有の優良資産を所有しているのが松
之山である。ところが、競争力のある米を産む
「土地」を持ちながら、それを生かしきれず、自
尊心を忘れ、理想の実現を諦念し、保身術だけ
は研ぐことに余念がなく、日々に与えられた作
業をこなしていれば俸給が振り込まれる、といっ
た、疲弊しきった一面が垣間見える。
戸邊さんの電話は、終末期を迎えた会社組織
を彷彿させた。
冒頭で紹介した木村さんは、だらしない官舎の食堂のありさまに抱いた戸邊さんの心情に似た虚
しさを、自分が勤めるデパートに感じているのかもしれ ない。そういえば、木村さんが呟いた「老舗
にあぐらをかいて、この体たらく」という言葉が耳朶に残っている。夫婦の給料を合わせると年収
1000 万円を超える。それを投げ打ってでも、戸邊流の生き方をしたいというのだ。「この体たらく」と
いう言葉に、百姓への強い動機が込められているような気がする。
これから、松之山に入植する人たちが増えることが予想される。外部から入ってくる人たちが、この
過疎の郷村を新しい街に変貌させるかもしれない。注意しなければならないのは地元に対する礼
儀を欠かないことだ。先住の人たちへの敬意を損なわないなら、松之山の産土神は、米作りの高邁
な理念という笈を負った人々を歓迎するはずだ。
脱サ ラ か ら 25 年、成功へ の 道程
自給自足を目指し、独り身の 30 歳で脱サラして以来、前回詳述したように、賛同者の来訪までに
かかった年数は 25 年。
その間、まるで流離を余儀なくされた民のように、各地を転々とする。田舎暮らしを始めた若い日
には、厳格な玄米食で家族全員が体を壊し、何年もの間、体調回復に努めることになる。ようやく 6
34
年前、天の水をいただく越後松之山郷という棚田の里へたどり着いた時、戸邊秀治さんは 50 歳、5
人の子どもの親になっていた。
農業が 国の 基本と 考え る姿に 賛同
人力で米作りをするのは厭世観に支配された世捨て人を標榜するわけではなく、また、望外の価
値を付与するためでもない。やがて直面すると予想する食料不足に背中を押されているに過ぎな
い。
コンバインもトラクターも使わないのも、おっつけ、ガソリンが入手困難に陥ると予測しているため
だ。田んぼの土を耕さない、という、弥生時代以来の米作りに反するような農法を採ったのにも理由
がある。耕せば土中のメタンガスが大気中に放出され温暖化の原因になると考える。
こうした考えに基づいた米作りを実行するため
に、肉体や精神の支払う代償をものともしない。
どこから見てもカタブツとしか見えない“戸邊秀
治の生き方”である。賛同する人たちに問えば、
彼の考えが、個人の受益だけにとどまらず、黒
倉という在所の活性と、松之山という行政区の再
生を念じながら、「農業が国の基本」とする大局
への視点に惹かれているからにほかならないと
答える。
時折、ぼそっ、と戸邊さんの口から発せられる、呟きのような、独り言のような言葉を拾う中に、「う
ちの田んぼでは生き物が世代交代をします」と言った言葉がある。戸邊さんは、農政や環境、エネ
ルギー問題など、とにかく勉強を怠らない人だ。この呟きは、新しい農基法(「食料・農業・農村基本
法」) の第 1 章・第 4 条を筆者に教えるためだったと後に気づいた。
年々、田ん ぼ の 雑草が 少なくなっ て い く
「農業の自然循環機能(農業生産活動が自然界における生物を介在する物質の循環に依存し、
かつ、これを促進する機能をいう)が維持増進されることにより、その持続的な発展が図られなけれ
ばならない」
また一方では、農業が自然と都市をつなぐ回廊であるとする、環境基本法についても独自の考え
を、やはり、ぼそっ、と呟くことがあった。「農薬を使わないのはここが最上流部だから」と言い、「環
境問題と農業が抱える問題は根を同じくしている」とも言うのだ。確かに、これからの農業は、完全
無農薬を目指すなど、環境保全型でなければ生き残れないだろう。
米作りの最大の難関は除草にあると言われる。松之山郷の年寄りたちは、「あの草取りさえなければ、戸邊さん
のやり方は金もかからんで、ええんやが」と言うくらい厄介なことらしい。それが、戸邊さんの田んぼでは「年々、雑
草が少なくなっていく」という。
35
「様々なことを試しながら、少しずつ前進しているところです。最大の目標は、草取りが楽になる農
法です。それから、ぼくのような無農薬、人力の農法をやる人が全国に点在してくれることを切望し
ているんです。米作りは農薬を使わなくても、そして人力でも作ることが可能ということを広めていれ
ば、国の食料が緊急の事態に陥った時も慌てずに済みますよね。もちろん、環境にも負荷がかかり
ません」
松之山の 米作り の 将来は 消費者が 握る
戸邊さんの田んぼに雪が降り始めた頃だった。一般的には季節はずれと思われるかもしれないが、
田に張られた水の中にオタマジャクシを見つけた。カメラのファインダー越しに、その小さな生き物
を眺めていたが、田んぼという限られた空間の中で、かろうじて生息しているのかと思えば、意に反
して、いかにもオタマジャクシらしく、ゆったりと生を全うしているふうに感じられた。
戸邊さんの田は、農薬や化学肥料を使わない
ため、狸などの小動物が昆虫を求めてやって来
る、鳥類も飛来する、そして、まだ目撃してはい
ないけれども、夏には平家蛍が飛び交うという。
このうるわしい水田を、戸邊さんは在所の人に
見せたいのだ。松之山の住民にも都会の人にも
見てもらいたい、と希望を語る。それは例えば、
「無農薬で米作りをする里」へ発展する可能性が
ある、と期待するのだ。
戸邊さんは商品がどのように流通するのが理想か、という点でも、現実的な考えを持っている。い
かに素晴らしい環境で、安全な米を謳っても、お金を支払ってくれる人がいなければ耕作もできな
い。
良質米の裁定を下すのは政府でもなければ農協でもない。松之山の米作りが持続可能な農業で
あるか否かを懸けて、すべては、米を買ってくれる消費者に委ねられていることを、戸邊さんは熟知
している。
前回も紹介したとおり、戸邊さんの生き方に賛同する人や、会いたいと申し出る人、見学したい、
と私信を送ってくる人は多い。戸邊さんは、そうした申し出を、この土地に土着することができた顕
われ、と見ている。しかし、ここまで来るのに 25 年という歳月を要したのだ。戸邊さんは自分の来し
方について も、包み隠さず話す人だ。戸邊さんの流儀に共感する人のために、この 25 年の生き様
を簡単に紹介しておこう。
ワ ゴ ン 車に 家財道具を 積み 廃校へ
長男が 2 歳 9 カ月になった平成元(1989)年 5 月のこと、一家 3 人は、現在の松之山に通じる長
い旅路に就くことを決意する。
36
長男の教育と食と農を根本に置いた自給自足の生活を目指しての旅立ちだったという。生まれ育
った横須賀を後にした戸邊さん一行 3 人は、軽ワゴン車 に詰め込めるだけの家財道具を押し込ん
で、福島県耶麻郡山都町(現喜多方市)大字早稲谷字本村に入植した。飯豊連峰山麓の静かな
集落だった。
住宅は「よそ者には貸せない」という会津気質に阻まれて、役場が紹介する小学校分校跡に入っ
た。家賃 4800 円。当時の早稲谷の人口は 191 人、戸数は 54 戸(現在は 140 人、50 戸・1 月現在)
だった。
入植して間もなく、戸邊さんは 1 反の畑を無償
で借りている。そこで、農薬を使わない自然農
法で米や蕎麦、野菜を作った。また、「子どもに
良いものを食べさせたい」との一心で、米作りの
経験もほとんどないにもかかわらず、5 反の田ん
ぼで不耕起米を作った。しかし、「雑草に負け
て」さんざんな結果に終わったという。自然の法
則に基づいた生活、という、戸邊さんが描く将来
像が、この頃、輪郭を明らかにしていく。
夫婦は子育てにできる限りの手をかけた。母親の聖子さんは良い母乳を飲ませるために徹底した
食事制限を行い、乳腺炎など、乳房にトラブルが起こらないよう努力を惜しまなかった。父親の子育
ての役割りは、家事の多くを引き受けることと、授乳後、ひたすら遊び、“かまう”ことだった。
しかし、最初の田舎暮らしは経済の破綻によって振り出しに戻ることを余儀なくされる。教室とホー
ル、宿直室と倉庫、分校跡を快適な住まいに改築したり、田舎暮らしを友人知人らに報せるための
冊子を発行したり、活動費の出費がかさんだ。
「町名の山都(やまと)という響きを気に入っていたんですよ。次男が授かって家族は 4 人になって
いましたけど、皆が体に変調を来して、出直すしかありませんでした」
玄米食の 失敗で 体調を 崩す
希望を持って始めた最初の自給自足計画は、3 年半で行き詰まった。現金収入がないために、サ
ラリーマン時代に貯めた 1000 万円を取り崩しながらの生活だったという。厳格な玄米食を続けたせ
いで、すっかり体調を崩してしまった。戸邊さんは激しい倦怠感にさいなまれるようになる。
長男 5 歳、次男 1 歳の時に行った毛髪分析で、2 人の子どもの毛髪からは大量のアルミニウムが
検出された。夫婦はミネラル失調。記載された所見には思い当たることが「びっしり書かれていまし
た」と振り返る。
「玄米を食べやすくするために 3 時間ほど炊いていたんです。それも、アルミ製圧力鍋で長時間
にわたって炊飯するという方法で、5 年間も続けたんです、加圧がいけなかったんです。全く間違っ
ていたんですね」
37
妻の聖子さんは、数年の間動物性食品を口にしなかったため、ビタミン B12 が欠乏、「それはひど
い悪性貧血」を患ってしまった。戸邊さん自身は体のだるさは消えず、気力は減退する一方だった。
生まれて間もない次男は栄養失調に陥っていた。
飯豊山麓の山都から鎌倉に引っ越すことにした。
「いつも、子育てを第一義に考えて行動していましたから、
マイナス思考で鎌倉に戻ったわけではありません。3 男の妊
娠が分かった年は作付けも中止して出産に備えたほどです。
それに、以前アルバイトをしていた鎌倉の宅配便の会社が二
つ返事で契約社員として雇ってくれたんです。貯金は底を突
きましたけど、お金の有る無しで行動するようなことは今まで
もなかったですね。現状よりも、少しでも子育てに有利と思え
ば、すぐにそちらへ鞍替えをするというように、常に子育てが
優先しました」
戸邊さんはしかし、いつかは山都へ戻るつもりでいたらしい。
家賃は払い続けていたし家財道具は置いたまま、年に一度
の消防団の集いには鎌倉から通った。2 年ほどはそうした二
重生活だったという。
新聞配達と 宅配の ア ル バ イトで生計立て る
鎌倉では田舎暮らしをする前にアルバイトをしていた宅配便の仕事に就いた。しかし、その鎌倉
には半年という短い間生活しただけで、今度は長男の小学校入学のため、横浜の聖子さんの実家
近くに転居。戸邊さんは「相変わらず体調はよくなかった」と言いながらも、宅配の仕事はきちんとこ
なしていたと話す。仕事に精を出しながら、自給自足生活の再スタートに備えた。
平成 6(1994)年、茨城県緒川村で 2 度目の田舎暮らしを始めた。引っ越し先は水戸市の友人に
探してもらった。また緒川村には有機農場を経営する友達がいた。家賃 3 万 6000 円の村営住宅に
入居、しかし、自給自足を目指しながら、緒川村では米も野菜も作らなかった。生計を立てることと
子どもと遊ぶこと、体力づくりのために、家族全員で新聞配達をすることにした。
ただ、人づき合いがうまくいかなかったらしい。一家は 2 年と半年で緒川村を後にすることになる。
今度は、ひたちなか市の市街地に家移りした。戸邊さんは 毎日午前 2 時に起床して新聞販売店
に往復 2 時間をかけて通い、新聞の配達を続けた。それだけではない。昼間は宅配のアルバイトを
して稼いだ。それでも、戸邊さんの胸の奥には、自給自足への道へ軌道修正したいという欲求が秘
められていたという。
一方で、戸邊さんは地元のレスリングスポーツ少年団の指導者となっている。高校時代、レスリン
グでインターハイに出場した経歴が買われたのだった。
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「長男と次男、三男にもレスリングを教えました。もちろん体を鍛えるためです。あの時の鍛錬を今
振り返れば、健全な肉体と精神力を養うことができたという、大きな財産になっていますよ。私の体
力も次第に回復して、子どもたちのスパーリングにつき合うことも可能になっていきましたし、妻も悪
性貧血から立ち直っていきました」
こうして、子育てと体力の回復に全力を傾けた、
ひたちなか市の生活は 5 年 3 カ月に及んだ。平
成 14(2002)年 4 月、松之山に引っ越してくるま
で米作りをすることはなかった。
独特の 子育て 哲学
“戸邊秀治の生き方”でもうひとつ、記しておか
なければならないことは、子育ての方法である。
地方再生には直接関わることではないが、再生
は人である、と書き続けてきたことでもあり、この
問題を抜きに戸邊さんという人となりは語れない。
「うちの場合、子どもの教育は中学までです。あとは自立を勧めます。15 歳では、まだ自分の道を
定めることはできません。成績が良くても、なんとなく高校へ行き大学に入って、取りあえず会社に
勤めるという道には進ませたくない。勉強は一生続けるものです、今の教育は教えることしかしませ
ん。本当にやりたいことができれば、30 歳からでも大学へ行ったり、海外へ雄飛したりしてくれれば
いいと考えています」
長男は中学を卒業と同時に将棋に専念。聖子さんの実家に転居した。次男は中学卒業後に、や
はり奥さんの実家から調理師専門学校に通い、首尾よく免状を取得、現在は都内の飲食店で働い
ている。3 男はこの春に中学を卒業、次男と同じ道に進むことが決まった。
特筆すべきは収入のある長男と次男の経済観だ。2 人とも、給料のかなりの額を家に入れている。
次男に関しては毎月 10 万円を実家に送金していることを教えられた。戸邊さんはその全額を次男
の名前で預金、彼が、20 歳になった時渡すことにしている。成人する頃には 300 万円を超す金額
になっているはずだが「社会人の契機にお金の使い道について考えてもらえればいい」と言うので
ある。
戸邊さんの子育ての負担も、ひところに比べればずいぶん軽くなったのだろう。3 人の子どもたち
が自立の道へ進んだことで、米作りに専念することができるようになったと言える。
こうして、子育てと米作りにおいて一定の結果を出したことが、地元の異端視を免れたばかりか、
多くの共感者を発掘することにつながった。このことは、松之山郷という過疎に極まった土地の、活
性の足がかりにもなるはずだ。筆者としては、読者諸兄の心にも“戸邊秀治の生き方”が地域再生
の一例として根づくことを願っている。
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過疎と 過密を 行き来す る 人た ち
俳優の菅原文太さんが筆者に「なぜ戸邊さんを追うようになったのですか」と問うた。偶然に出会
ったその日に、何かを為す人と直感したと答えた。間もなく、戸邊さんと菅原さんの対談が始まった。
テーブルの上には当コラムのコピーがずらっと並べられている。
菅原さんがパーソナリティーを務めるラジオ番組の収録は、戸邊さんの母親の思い出話から始ま
った。
「勝手に 決め ない で」と 妻に 釘を 刺され た
戸邊さんとラジオ局の社屋を出て、有楽町界隈を歩いた。
「今朝はきのうの雪のために JR のダイヤが乱れていて、ラ
ジオ局との約束の時間に遅れるのじゃないかと、ちょっと心
配しました」
豪雪地から上京してきた戸邊さんが、わずかな積雪を観測
して混乱する都市機能を嘆いた。そして、「都会は消耗しま
す」と、かつては東京の大学に通った人とは思えない物言い
をする。すっかり越後の山間の自然児になったということだろ
うか。
「昨日、木村さん(仮名・前々回紹介した戸邊流の自給自
足を模索するデパート勤めの会社員)と話しながら、彼のや
る気が伝わってきました。今月半ば、予定通り家族 4 人でう
ちに来ます」
戸邊さんと木村さんが初対面した千葉県市川市のファミリーレストランに、筆者も同席させてもらっ
た。“戸邊秀治の生き方”を、戸邊さん本人から聞きながら、木村さんの双眸は輝いていた。いまだ
に奥さんの理解は得られていないものの、今の生き方を変えたい、という願望は、いささかも変わっ
ていない。
ただ、戸邊さんに会いに行く木村さんに奥さんは「勝手に決めないで」と釘を刺したという。木村さ
んは「もちろん、妻を無視してできることではありませんから」と説明した。その言葉を受けて戸邊さ
んが言う。
「家族の理解がなければ難しい。ぼくの周囲に、ぼくのようなやり方をする 5 反百姓が増えればい
いと思うけど、仕事は家族で分担するのが理想です」
優良企業に 勤め なが ら なぜ …
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戸邊さんにしても木村さんにしても、大学を卒業して就職した会社は国内では優良企業。世間並
みに暮らすには何不自由なく生活できるはずだ。そこからわざわざ、終着駅のない道を選ぶという
のだから、筆者としては余計な心配もしたくなる。
菅原文太さんも、なぜ安泰な道を捨てたのか、と疑問を戸邊さんに投げかけていた。目的地のキ
ップを買い、新幹線に乗車することができたのに、なぜ途中下車をし、わざわざ鈍行列車に乗り換
える必要があったのかと…。
この 2 人を突き動かしているものは何か。戸邊さんは一応の結果を出したとはいえ、いまだに途上
であることに違いはない。木村さんは、かつて戸邊さんが自給生活を求めて、特急列車から各駅停
車に乗り換えた、そのプラットホームに立っている。
一方は過疎に極まった山里で、一方は過密に
極まった都市で、閉塞感の打開にもがいている。
いうなれば、山間地と都市という、ふたつの限界
集落で、人間らしい豊かな生活とは何かという、
真理を追究する情熱が彼らを動かしているの
だ。
その光景は決して無様ではなかった。真っ正
直なあまり、不器用ではあるが 2 人の姿は、現状
に甘んじることを良しとしない人の耳目を惹き、
吸引する力を持っている。荒廃した山間地の農
業の担い手として、あるいは、地域活性の役割を背負う光明として期待される。
何よりも、無肥料、無農薬の“戸邊米”が、1 俵およそ 18 万円で販売されているという事実は、米の
生産者や農業を視野に入れた企業には軽視できない存在として受け止められた。
地元の 建設会社が 農業参入を 検討
戸邊さんによれば、地元の建設会社で当コラムが読まれるようになり、良し悪しは別として、話題を
提供しているという。近頃の地方の建設会社は、地方交付税の減額やカットによって公共事業が激
減、厳しい経営を強いられている。
中には、業種を超えた取り組みをするなどして、生き残りに懸命な事業所も少なくない。もちろん
松之山に 5 社ある建設会社も例外ではない。その中の T 社総務課長は話す。
「上越市の同業者が米作りに参画したことはよく知っています。うちでは具体的な検討を始めたわ
けではありませんが、可能性がないわけではありません」
と前向きな姿勢を見せる。何しろ、地元を知り抜いた企業集団である。ひとたび、天水の恵みで無
農薬コシヒカリを売り出せば、商売にならないわけがない。 戸邊さんの「安全・安心・おいしいコシヒ
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カリ」は東京のデパ地下で多くの消費者を獲得した。デパートに卸される 19 年度産米は間もなく供
給切れになる。商品があれば売れるのに、もったいない話である。
社員は 米作り の プ ロ だ っ た
ところで、T 社の総務課長が話した上越の同業者とは、同市の頸城(くびき)建設のことだ。平成
16 年から 6 町歩の田でコシヒカリを作っている。総務部の T さんが語る。
「始めたきっかけは危機感です。公共事業がどんどん減っていきますから、売上金の維持、雇用
維持のために踏み切ったんです。従業員は 50 人ですが、ほとんどが自宅で米を作っていますから、
米作りに関してもプロだったわけです」
まだ 4 年目ではあるが、米の販売が事業収入
の 3 パーセントを占めるようになった。農法は 3
種。JAS 認定米と稲架け米をはじめ、除草剤を 1
度だけ使用する特別栽培米、全体の半数にな
る無農薬米。販売先は東京新宿のデパートやレ
ストランなどの飲食店がほとんど。お膝元の新潟
市の百貨店にも卸しているという。
「世の中は安心な食べ物を求めるという追い風が吹いていますから、じょうずに帆を張りたい。これ
からはもっと市場調査を綿密に行い、全国展開するファミリーレストランなどに販路を拡げていきた
い」
と、米作りに希望を託している。田中角栄の「日本列島改造論」以降、新潟に吹き荒れた建設バ
ブルが収束し、廃業を余儀なくされた建設関連業社の中で、頸城建設は全国で初めて農業特区の
認定を受けるなど、上手にソフトランディングした例だろう。
T さんに戸邊さんの話をすると、「目と鼻の先にそんな方がいらしたんですね、お会いしたいです
ね」と、先を行く事業所でありながら、あくまでも前向きな答えが返ってきた。松之山の建設業者が、
この成功例に倣うことができないものだろうか。
建設会社はこれまで、山を削って道路を作り、トンネルを掘り、ダムや堰を造成し、三面コンクリー
トの川を造ってきた。これからは、自然と共生しながら、荒廃した故里の再生に力を貸すこともできる。
そこでは、I・U ターン者を生むなど、雇用が促進されるだろうし、社会生活が限界に達した過疎地
の、活性化にもつながるはずだ。
思い が け ない 賛同者た ち
水田が国土の自然保護や環境保全に果たす役割を金額に換算すると最大で 11 兆 8700 億円
(ヘドニック法・三菱総合研究所)になるという試算が「食料・農業・農村白書」に書かれている。また、
田んぼは日本人の主食を産出するばかりではなく、洪水や地滑りを抑止するという公益機能を持つ。
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農薬や化学肥料を投入しない田んぼは、自然環境の保全に果たす役割も大きく、車などから排出
される二酸化炭素を、光合成によって酸素に変える浄化機能も備えている。
松之山郷の基幹産業は江戸時代も今も農業である。その屋台骨が崩壊しなければ、美しい景観
は、いつまでも日本の原風景として在り続けるだろう。
自給自足の田舎暮らしを模索する木村さんと別れた戸邊さんは、自ら会員に名を連ねる「日本不
耕起栽培普及会」(岩澤信夫会長)の総会に出席した。 会員は全国に 200 余人。それぞれが一国
一城の主であり、安全でおいしい無農薬米作りには、確固とした思想と哲学を持った百姓集団であ
る。
会長は挨拶の中で、戸邊さんの米を紹介し、誰にでも付加価値の高い米作りが可能であると言い
「私たちの安全でおいしい米を消費者が求めている」と 語った。松之山では孤独に苛まれることも
ある戸邊さんだが、こうした褒め言葉に、筆者は
自分のことのようにうれしかった。ありがたいこと
に、多くの人から、このコラムを欠かさず読んで
いる、と聞かされた。
戸邊さんは自家製の餅を会場になった成田市
の宿に送っていた。1 袋 6 個入り 500 円の餅が、
インテリ百姓たちに飛ぶように売れていく。同行
の士たちの、戸邊さんに向けられる視線は温か
いものだった。
数人の会員が戸別に、戸邊さん宅を訪ねたいと申し出ていた。具体的な日取りを約束する人もあ
った。明朝話がしたい、と言う人もあったが「明日はラジオで菅原文太さんと対談があります」と上気
した表情で答えていた。筆者は胸が熱くなった。知らないうちに、こんなに大勢の人が戸邊さんを支
えていたのだ。
イ ン ター ネ ッ トが 加速した 過疎地の 再生
連載を始めて三月が経った。その間、戸邊秀治さんの周辺で変化していく状況を、季節の移り変
わりと共に見つめてきた。驚いたことに、わずかの期間にもかかわらず、戸邊さんの生活や松之山と
いう過疎の町に、急激な変化が起こっている。それらはインターネットの力と言うほかない。
当コラムの最終回に当たって、戸邊さん自身に、この三月で変わったことを語ってもらった。すると、
筆者と同様に、最も顕著だったことは急速な変化だったことを挙げた。その回答は、世の中がこのよ
うなスピードで動いていることを如実に物語り、改めて、こうしたコラムを発信するインターネットの影
響力を思い知る結果となった。
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「3 年後に想定していたことが今まさに訪れています。これほど早く、こちらの希望どおりに米が売
れるようになって、ちょっと、多忙すぎて困っているほどです。それに、見向きもしなかった地元の農
家が、私に関心を持ってくれるようになりましたし、一緒に米作りをする仲間もできそうです」
そう言いながら、発送の準備を終えた米袋を指差した。戸邊さんの米を販売するデパート向けの
荷物である。
「米よし(東京・渋谷の東急百貨店本店地下の米店)さんに送る最後の米、100 キロです。19 年度
産米は 12 俵(1 俵 60 キロ)の契約で、これが最後です。米よしさんは、あるだけ欲しい、と言ってく
れるんですけど、残っているのは、直販する親しい人の分と我が家で食べる分だけです」
圧倒的な生命力こ そ が 地域の 光明に なり 得る の では
これまでも書いてきたとおり、戸邊さんの生き方は、強い信
念に裏づけられていた。母の自死、脱サラ、社会矛盾との葛
藤といった、いわば絶望からスタートしているだけに、その、
生きんとする意志は圧倒的な力を備えていた。戸邊さんの
生き様を丁寧に書き込んでいけば、おのずと「地方再生物
語」のテーマが浮き彫りになる、と筆を進めてきた。
地方疲弊の声はかまびすしいけれど、現地はどんな風体
をしているのか、近頃語られる限界集落は強い言葉には違
いないけれど、そうした集落は時間とともに消えるだけの運
命なのか、救いはないのか、五感で確かめたいと思った。
そんな思いを抱いて、ロケハンに訪問したのが越後松之山
だった。そこで戸邊秀治さんと偶然の出会いをし、瞬く間に
“戸邊秀治の生き方”が疲弊した地域には光明ではないか、
と確信した。
イ ン ター ネ ッ トが 人を 引き寄せ た
農薬や化学肥料を一切使用せず、人力に頼った米作りのこだわり、子育てに懸ける情熱、その圧
倒的な生き様が過疎地を救うと信じることができた。世の中の変革は、ときに、たった一人の異端者
から始まることがある、という、持論に基づく直感のせいで、ロケハンはそのまま本取材になった。
連載当初は、戸邊さんに見いだした光明が紹介できれば、と考えた。4∼5 回程度で、それは完
成し、次の地域へ視点を移そうと目論んでいた。ところが、連載 1 回目にして、予想をはるかに上回
る反響があった。
東急百貨店本店の米売り場で「米を買いました」という声が回を追うごとに寄せられるようになった。
また一方では、戸邊さんの生き方に共感、賛同して「戸邊さんに会いたい」と申し出る人が現れるよ
44
うになった。中には直接、戸邊さん本人に連絡を取る人があったり、編集部や筆者が仲介したりす
るケースも 出てきている。
初めは地元の人に異端視されていながら、1 人、2 人と、まるでハッピーエンドの演劇を観るように、
理解者が登場する現場にも立ち会ってきた。それまでは 戸邊さんが何をやっているのか、理解し
ようとしなかった人たちも、各々が戸邊さん像を解釈して、異端視を解いていった。すべてはインタ
ーネットが仲介したのだった。
過疎地に住む人々がコラムを通じてつながった
こうした新参者への無理解は、すべてディスコミュニケーシ
ョンがもとで起こっていた。戸邊さんを覆っていた霧を晴らし
たのがインターネットである。
ただ、松之山の農家は高齢の人が多く、パソコンの普及率
が低い。当コラムは、前述した(第 2 回、第 6 回)高橋直栄さ
んが所有するパソコンからプリントアウトされ、さらにコピーさ
れて“戸邊秀治という生き方”は多くの人に伝播していった。
余談だが、コラムの「フォトアルバム」を高精細で出力するた
め、申し訳ないことに、高橋さんはプリンターを新調するとい
う事態を招いた。
もしも、高橋さんのインターネット環境がなかったら、戸邊さ
んへの理解は、どうなっていたのだろう。戸邊さんが述懐するように「3 年後に想定した」ことは、旧
来どおり“牛歩”を免れなかっただろうし、当コラムも、三月という短期間では一応の結末が得られな
かった。
十日町市は平成の大合併(2005 年)に呼応、限界集落を多く抱える 4 町村を吸収したこともあっ
て、ネット環境を改善、充実するための「高速情報通信基盤整備事業」構想を昨年 10 月に発表し
た。
その計画によれば、市内全域を光ファイバーネットワークで結び、2 年後には情報格差の解消を
目指すとしている。こうしたインターネットの整備・普及は、米作りや販売にも大いに役立つことにな
ると期待されている。もちろん、偏見や誤解の早期解決にも有効だろう。
地元の 有力者を 動か す きっ か け に も
連載中、最も筆者が関心を寄せたのは松之山の豪農の 1 人、滝沢農園を経営する、滝沢繁さん
(53 歳)の動向であった。当初は戸邊さんに理解を示さない 1 人でしかなかったが、コラムの存在を
知り、めったに開かない自宅のパソコンで戸邊さんの来し方、現況を知った。それが契機になって、
戸邊さんのお宅を訪問するまでになり、今年は“戸邊流”の無農薬米を初めて作る決心を固めた。
滝沢さんが言う。
45
「現在、戸邊さんが耕作している田んぼは、俺を含めて何人かの人が米を作ってきたところなんだ
けど、病害虫に苦しめられてきたという経緯があってね、農薬を使っても散々な結果しか出なかった
んだから、まして無農薬でできるはずがないと踏んでいた。ところが、あの通り、おいしい米をこしら
えてしまったからね、びっくりしている。戸邊さんを見直したよ」
そして、戸邊さんの「弟子 1 号になりました」という、元新潟県立安田高校校長の高橋直栄さんの
“戸邊流”米作り実践は、戸邊さんと地元農家とを親和させる、絶大な影響力を発揮した。
「孤軍奮闘する戸邊さんの姿を見続けてきて、
この人物を埋もれさせてはならない、強くそう思
っての弟子入りでした。あなたのコラムをせっせ
と印刷して皆さんに配ったのも、戸邊さんの生き
方を広く伝えたかったからです」
1 俵およそ 18 万円で売られる“戸邊米”が、こ
のふた月で底をつこうとしている。米よしは「ある
だけ欲しい」と言うほど消費者に受け入れられて
いることを考えれば、松之山の米は、容易にヒッ
ト商品になることが想定できる。
高付加価値の 米作り に こ れ ほ ど 適した 土地は ない
雪解け水は沢を作り、一部は伏流し、何年もかけて地上に湧水するという、天水に恵まれた土地
である。ましてや、河川の最上流部であり、生活雑排水に汚染されないで米作りができる。松之山
の米作り環境は、稀有な優良生産現場である。この土地での米作りが、個人ばかりか、企業にとっ
てもウマ味があることは繰り返し書いてきた。
しかも世情には「食の安全」を求める追い風が吹いている。福岡県筑紫野市に本社を置く「味の
兵四郎」の社長が戸邊家を訪問(第 9 回で紹介)したのも、消費者が求める耕作をすれば、米作り
が商売として成り立つと算段したからに他ならない。
戸邊さんが語る。
「前回のコラムで紹介された松之山の T 建設会社が農業参入するとしたら、これは大きな出来事
です。松之山の米を全部無農薬にする力を持っているわけですから。松之山米が安全でおいしい
米として、たいへんなブランドを獲得する可能性だってありますよね。ぼくは 6 年前、この土地に来
たばかりの頃に、松之山の米は 1 俵 10 万円で売れる、と言ってきました。でも、夢物語と一笑に付
された経験があります。
それだけに T 社に期待するところは大きいです。ぼくは今、あなたが前回のコラムに書いた頸城
建設と話し合いの場を持ちたいと考えています。組織立った米作りの可能性について意見交換が
したい。それに、米作りや販路のことなど、ぼくが知り得たノウハウのすべてを参考にしてもらえたら
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うれしいんですけどね。なんといっても組織は雇用を生みますからね、間違いなく過疎地の活力に
なるわけです」
“戸邊秀治と い う 生き方”が 新た な物語を 生む
昨年 10 月初旬に戸邊さんと出会って、まる 4 カ月。地方再生の兆しが表れた時に連載が完結す
ると考えていた。それが、これほどのスピードで結果が出るとは思いも寄らないことであった。インタ
ーネットの底力を肌で感じる仕事になった。
これまで紹介してきたとおり、戸邊さんのお宅を訪問した人たちや、これから訪れようとしている
人々、T 社の農業参画など、この先、彼らや企業が松之山にどのような活性をもたらすのか、大い
に期待しながら見守っていきたい。
“戸邊秀治という生き方”はさらに発展して、新たな「地方再生物語」を生むだろう。また後日、折を
見て紹介することができれば望外の喜びである。
最後になったが、取材に当たって多くの人たちの助言と励ましをいただいた。この場を借りて感謝
の意を記しておきたい。
(了)
宮嶋 康彦
(みやじま やすひこ)
1951 年長崎県佐世保市生まれ。写真家、作家。『紀の漁師 黒潮に鰹を追う』(草思社)、『誰も行
かない日本一の風景』(小学館)、『蛍を見に行く』『この桜、見に行かん』(文藝春秋)、『花行脚・66
花選』(日 本経済新聞社)、『たい焼の魚拓』(JTB)、『脱「風景写真」宣言』(岩波書店)、『写真家
の旅―原日本、産土を旅ゆく。』(日経 BP 社)など著書多数。自身のホームページでは写真と文章
を毎日更新。
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