進 士 五十八 氏 - NSRI 日建設計総合研究所

第 59 回NSRI都市・環境フォーラム
(no.299)
『日比谷公園
―110 年の公園生活史とパーク・マネジメント』
進
士
造園家
日時
五十八
氏
東京農業大学名誉教授
2012年12月13日(木)
場所
NSRIホール
講演内容
東京市区改正新設計で日比谷公園が告示されたのが110年前の明治36年3月。6
月に仮開園。それまでの10年間次々に提案された設計案はことごとく不採用、辰野
金吾案も却下され結局林学博士本多静六の案で着工した。文明開化の下、本格洋風で
3つの洋(花・食・楽)を提供した憧れの公園だ。その後、国葬の舞台など国家広場、
震災仮設住宅、戦災で仮埋葬地やイモ畑、GHQ接収と波乱万丈伝が続く。樹植祭、
モーターショー、彫刻展など第1回イベントもずらり。野音、公会堂の文化活動や政
治活動。地下鉄縦横、ビル高層化等都心開発に翻弄されるも、
「歴史的公園」のオーセ
ンティシティと周辺開発との調和型整備を模索中。これからの「パーク・マネージメ
ント」のあり方が課題。
講師紹介
進士五十八(しんじ・いそや)氏
造園学者、東京農業大学名誉教授・前学長・農学博士
1944 年生まれ。日本学術会議会員、日本造園学会長、日本都市計画学会長、日本生活学会長、日本野
外教育学会長、自治体学会代表運営委員、日本学術会議環境学委員長などを歴任。現在、社会資本整備
審議会臨時委員、自然再生専門家会議委員長。長野県、横浜市、川崎市、三鷹市、新宿区、江戸川区の
環境または景観審議会長。NPO法人美し国づくり協会理事長。
<受賞>
井下賞、田村賞、北村賞、今和次郎賞、日本造園学会賞、同特別賞、Golden Fortune 表彰、日本農学
賞、読売農学賞受賞。
紫綬褒章受章。
<著書>『アメニティ・デザイン』
『風景デザイン』
『ルーラル・ランドスケープ・デザインの手法』
『農
の時代』
(学芸出版社)、
『日本の庭園』
(中公新書)
、
『日比谷公園-100 年の矜持に学ぶ』」
(鹿島出版会)
『グリーンエコライフ』
(小学館)他多数
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谷 大変長らくお待たせいたしました。ただいまから第59回NSRI都市・環境フ
ォーラムを開催させていただきます。本日は、暮れのお忙しいところお越しください
まして、まことにありがとうございます。
本日のご案内役は、私、日建設計広報室の谷礼子でございます。どうぞよろしくお
願い申し上げます。
さて、本日のフォーラムは、ご案内のとおり、東京農業大学名誉教授でいらっしゃ
る進士五十八先生にお話をいただきます。本日は、
『日比谷公園─110年の公園生活
史とパーク・マネジメント』について、ご講演をいただきます。
進士先生は1969年に東京農業大学造園学科をご卒業され、その後大学で教鞭を
とられました。1999年から2005年の6年間東京農業大学長を務められました。
都市環境計画や景観計画などたくさん委員長も歴任され、2007年には紫綬褒章を
受章されました。進士先生と言えば日比谷公園、日比谷公園と言えば進士先生と言わ
れるほどご縁が深いと思われますけれども、今日は、日比谷公園の生い立ち、成り立
ち、そして、その歴史、日比谷公園のこれからの将来像などについてお話を伺えるも
のと楽しみにしております。
それでは早速、先生に講演をいただきたいと思います。皆様大きな拍手で先生をお
迎えください。(拍手)
進士 ご紹介いただきました進士と申します。どうぞよろしくお願いします。
日比谷は私自身の卒業論文のテーマでした。卒論は4冊提出したんですが、そのう
ち2冊が日比谷公園史と日比谷の現況利用編でした。当時の公園行政では日比谷公園
は古くなっていたので改造計画をやらなければいけないという気分がありました。5
0年近く前です。
その頃は古くて合わないという時代、何でも新しくしたいといった時代です。日本
中に造園学科はまだ少なくて、東大には林学と農学に教室が1つずつあったが、学科
は千葉大と私ども農大しかなかった。都の公園協会が卒業論文に賞を出していたので、
その賞を農大で必ずとりたいというのが私の恩師のこだわりでした。その前年、日比
谷改造プランを応募したんですが、図面は非常に良かったのですが、余りに現実離れ
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しているということで賞が取れなかったそうです。そこで、私にもう一度チャレンジ
させようというわけで、私は関心がないのに日比谷公園の改造設計をテーマにされた
んです。
私自身は庭園に関心があったので、日本庭園河原者造型論という論文を別に出しま
した。また、日比谷に通い乍ら気付いたマン・ウォッチング、考現学にも関心があっ
たので、そのテーマで1人間の占有空間特性として論文を出しました。この論文は協
会賞をもらいましたが、もうひとつ日比谷の歴史と現況の研究に一番エネルギーをか
けて、丸2年、日比谷に毎日のように通ってたんですが、それは読んでもらえず全く
評価さなかった。
そんなこともありまして、定年と同時に、ここをちゃんとクリアしてから死にたい
と思い『日比谷公園・100年の矜持に学ぶ』(鹿島出版会 2012)という本にまとめ
ました。この本は、日本造園学会特別賞や日本生活学会「今和次郎賞」をたまたまい
ただけることになりました。だから私としては殊のほかうれしいわけです。
今申し上げたように、日比谷公園は何回か改造の危機がありました。私は、改造設
計を卒論のテーマに与えられたのに研究すればするほどすばらしい公園で今では歴史
的建造物と同じように、歴史的公園として、文化財性もあるし、変化の激しい都心に
残すべきだと思います。ただ、周辺との関係で残し方のテーマがあって、日建設計の
総合研究所でそういう研究会をやって、私もそのまとめ役をさせていただきました。
そんなこともあって最後に今後の都心のあり方も考えてみたいと思います。
(図1)
「日比谷公園には近代日本のすべてがある」ということです。今日ご参会の多くの
方は建築系だろうと思います。少し観点が違うかもしれませんが、私は造園家ですか
ら、公園の重要性や意味についてもお話ししたいと思います。
建造物は今の東京駅のように、都心開発の象徴的なものとしてずっと評価され続け
ていますが、公園は残念乍ら違う。緑地はついでみたいな程度の認識です。
私は、昨日、NHKのラジオ深夜便という番組で、日比谷公園紹介の話をしました。
東京駅の設計者は辰野金吾さんです。今、見事に復元されてライトアップもされてい
ます。その辰野さんが造家学者として東京駅をつくる。その真正面には皇居がありま
すから、行幸道路ができてイチョウの並木道ができたわけです。当時、日比谷は練兵
場でした。近衛兵達の練兵場として使われていました。その前は江戸時代ですから、
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幾つかの大名屋敷があったわけです。文明開化で公園をつくる。今でいう都市計画的
で東京の中央公園がスタートするわけです。スタートまでのプロセスに、いろいろ曲
折がありますので、そこからお話をしたいと思います。日比谷公園は理想に燃えた近
代日本初の輝ける公園としてスタートしました。そして今、社会的格差問題の象徴と
して年越し派遣村が話題の舞台になっています。その間、110年の歴史を重ねてい
ます。
日比谷の野音は、私自身にもそうですが、学生運動の場所でした。音楽の舞台だけ
でなく政治集会の場所でもありました。そういう時代を経て今に至る。最後は、これ
からの都心づくり。先ほど言いました都心再生です。日比谷公園と周辺はどうあれば
いいか、そこまで議論してみたいと思います。日本近代の夜明けから、新しい東京へ
です。東京駅の再生、丸ビル、新丸ビル、大・丸・有のエリアマネジメントへ広がる
中で、公園は一体どういう意味を持つのか、そんなことも考えてみたいと思います。
(図2)
『ひろば』という東京都公園協会の広報に、今回日比谷公園が特集され、私が書き
ました。この特集は、ひとり歩きできるように詳しい。全体のポイントを説明して、
公園ですから、なるべく楽しくと思っております。
明治22年(1889年)に東京市区改正設計の委員会で、公園計画が議定されま
す。125年ぐらい前になります。日比谷公園の歴史は計画決定からだと125年に
なります。ただ、それから10年以上なかなか具体化しない。その間、約10種近い
プランが登場しますが、みんな没です。それは文明開化の公園というものに対する期
待の大きさでした。当時公園専門の技術者、いわゆる造園家はまだおりませんでした
から、いろいろな関係団体などがいろんなプランを出したわけです。こうしてようや
く明治36年、
「仮開園式」を行います。もっともその後「本開園式」はないのですが。
そして、平成15年には100周年バースデーイベントを盛大にいたしました。
このあたりから都の財政問題もあって、指定管理者など民間活力を使う努力をはじめ
ています。公園だって維持管理費がいる。質の高い管理には、資金だって調達を要す
る。日比谷の場所柄もあって利用希望者は非常に多いわけです。今や維持管理メンテ
ナンス運営管理ではなくてパークマネジメントの時代になりました。日比谷で、ビー
ル祭りオクトーバーフェスタやパークウエディングをやらせたりして、資金調達もし、
公園のサービス水準アップにもつながりました。1基10万円で思い出ベンチの寄付
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も受け付け、評判をとりました。
平成15年の100周年バースデーイベントは、東京都のパーク・マネジメント元
年の意味合いも持ちました。これからの新しい時代の公園管理はどうするか、公園経
営論の本格スタートです。
私の大先輩の井下清は明治38年に東京高等農学校を出ました。やがて井下は、東
京市の公園行政の元締めになります。生涯を東京公園経営に捧げた人です。東京の公
園は、皆様さんご存じないでしょうけれど、独立採算制で戦後までやって来たんです。
公園には、税金を投入していないのです。上野公園の不忍池のボートや井の頭公園の
ボートの利用料、墓苑も利用料をいただいてそういうものを貯金して日比谷公園の建
設資金もまかなったのです。皆さん、どうしてと思われるでしょう。
日本は明治6年に公園制度をスタートさせます。明治維新直後の混乱期に何で公園
行政が始まったのか不思議です。文明開化と富国強兵の時、公園という市民福祉の制
度ができるわけがない。私の考察では、江戸幕府、つまり徳川体制からの終戦処理で
すね。幕府関係の寺、社地、上野の寛永寺、芝の増上寺、こういう土地をどう扱うか
課税上とても難しい。江戸時代、高外除地といって免除していた場所がありました。
明治政府はそれを引き継がなければいけない。徳川家由来の土地、地方では大名由来
の土地国有化したのです。ただ地盤は国有化したものでも大衆に親しまれていた園地
をとりあげたり閉鎖するわけにいかない新政府の評判が落ちてしまう。それで、そう
いう場所は大蔵省に届ければ「公園」というものにして、免税扱いにする、というこ
とにしたんです。上野公園、芝公園などそうやって出来ました。浅草公園も同様、浅
草寺は徳川の寺ではありませんが、庶民人気の寺です。浅草寺境内を浅草公園に公園
設定して国有地化しました。それを一区、二区、三区と区画割りして貸したのです。
浅草六区には芝居小屋を認めたのです。仲見世とかその店賃、使用料を公園の収入に
し、土地は国ですが、その地上の利用権は東京市が持ちました。昔から公園など身近
な施設は積み立てて日比谷公園の建設費などにしたわけです。
やたら細かい話をしましたが、
「公園」は最初から市民権を与えられずに、意外と苦
労してきたことを知っておいてほしいと思います。税金なしで自前で稼いで、次々に
公園を整備し、途中からは幹部職員も含めすべての公園スタッフの給料までも公園財
政から出すほどのことをやってきました。造園家は結構苦労して精いっぱい公園をつ
くってきた。それでも足りないので岩崎さんなどにお願いして六義園や清澄公園など
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を寄付してもらったのです。それも井下の仕事でした。
その井下の卒業した東京高等農学校は今の東京農業大学の前身で、飯田町が発祥で
す。この会場の近くに飯田橋駅から九段に向かったところに東京農業大学発祥の碑が
立っています。農大は旧旗本の榎本武揚という人がつくりました。幕府の海軍をつく
り五稜郭で敗れて捕まる。でも、人材として惜しいというので、明治政府は彼に4つ
の大臣をさせています。その榎本が創立した農大は、甲武鉄道が通るので渋谷に移り、
戦後世田谷に移ったのです。厚木キャンパスは日建の設計です。
さて、明治6年の太政官布達公園は、いろいろ申し上げたような背景から、江戸時
代遺産を公園と呼びかえたものです。それまでのストックを公園という新しい名前を
つけ、一般市民に開放したわけです。政府自らが文明開化にふさわしい、条約改正に
ふさわしい東京づくりをやるための市区改正設計が出されます。もっとも、最初にこ
れも申し上げておきますが、市区改正設計の当初案には日比谷公園はありません。
土木学会をつくったのは古市公威。フランス留学の土木の大家です。古市が審査会
の中で発言します。「あの練兵場の跡は、公園にしたほうがいい。」ずっと前エンデと
ベックマンの中央官衙街計画で、あのあたりに公園構想は描かれていますが、日比谷
公園の位置を明確に公園にしたらどうかと提案したのは古市公威です。私は時々思う
んです。審議会というのは意外と役に立っているのではないか。原案にない公園がで
きるんです。審議会メンバーはそれを意識しないとダメなんです。私は事務局のシナ
リオを読むだけということはしませんよ。
吉野芳継というちょんまげをずっと結っていたという小石川区の議員がいて、古市
に賛成するんです。そのふたりが提案して原案にない公園が決定する。それが明治2
2年の市区改正です。
では第一の話題「誕生期:西洋文明の受容」です。日比谷公園はいろいろな人が案
を出しましたが、みんなダメで、辰野金吾設計案が最後に出てくるんです。ところが、
その案も納得されなかった。ここがポイントだと思います。文明開化であっても日本
人は和魂洋才だった。日本人が慣れ親しんだ緑については、完全な西洋式デザインで
は納得できなかったのでしょう。そこで当時ドイツの留学から帰ったばかりのまだ若
い造林学者の本多静六を辰野が紹介設計案を提案をします。それが採用された。そこ
から、日本のランドスケープ、つまり近代造園が始まる。東京帝国大学の林学科にで
きるのです。後に農学科の園芸でもやりますので、農科大学の農と林両方に造園を講
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義する教室ができるわけです。もし、辰野金吾のプランが通っていれば、工科大学に
ランドスケープ教室ができたかと私は思います。世界的に見れば、農学系にも多いが、
工学系やデザイン系にもたくさんあるわけです。工学部か、農学部か、面白い。きっ
かけは日比谷公園ということになります。
第2は、公園とは何か。
「Parks for People」公園は人間のための空間です。もちろ
ん建築だって同じ。この理想を、現実の都市公園は十分やり実現していないのではな
いかと危惧を私はしています。私は公園を限りなく愛していますが、現実の公園は迷
惑施設と言われたりしています。もちろん管理費の足りなさも大きいですが、公園の
理想を考えているかどうかが大事です。自分の作品をつくろうと作家は思っているか
もしれない。しかし公園はプライベートガーデンとは違う、パブリックなものです。
つまり、利用者が喜ぶものでないといけない。それには行動科学や環境心理学にもと
づく普遍性があります。
公園の理想何か。日比谷公園の場合は「3つの洋」を意識的に目指しました。当時
の市民が憧れる洋風の象徴です。洋風の花、洋風の音楽、洋風の食事です。この3つ
を提供したわけです。セントラルパークの近くにもヨーロッパ各地にもパークホテル
というのがあります。公園とホテルは関係ないのに、パークというのはきっと理想世
界。パークは好ましいイメージなんでしょうね。現実の公園とはずれがあるかもしれ
ませんが、本来公園、パークは、市民あこがれの世界であったということを確認した
いものです。だから私は、公園の究極は「文化」でなければならないと思っています。
第3は、空間。
「幕の内弁当のような洋風公園」が日比谷です。多様性いっぱいの空
間です。日比谷公園は後で細かくお話ししますが、大きなS字型カーブの園路で区切
られているので、6つのゾーンができ、その中がさらに細かく池とか噴水とかいろい
ろな施設がつくられています。多分何十もの違った空間があり、まさに幕の内弁当で
す。いろいろな味がある。私は好き嫌いがあって魚介類がダメなんです。でも、幕の
内弁当ならほかに食べられるものが必ずある。都心に幕の内弁当は有利でしょ。どん
な人でも、日比谷公園です。個人、カップル、グループ、家族連れと誰でも、十分に
味わえる公園空間です。
そのようにさまざまな利用に対応できるかは、辰野案にはなかったと思う。明快な
機能を掲げ目的にあわせてデザインするのでは、今の日比谷公園は生まれない。有名
建築家は非常に明快な建築をつくる。でもそれで本当に100年、200年もつかと
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いうと疑問だし、多数の多様なユーザーに受け入れられるかは別です。日比谷公園は
そういう意味で明快でない。むしろ迷子になってしまうという声もある。日比谷公園
は実に幕の内弁当のようなものです。
第4は、「生活史」。空間時間です。日比谷は開園してから間もなく110年を迎え
ます。計画されてから120年を越え、当初は木もまばらで撹乱公園と呼ばれたほど
緑が弱かった。大体、植栽費が不十分。本多静六は東京帝国大学農科大学の農場から
安い苗木を払い下げてもらって植えたといいます。日比谷公園に行くと日射病になる
と言われたくらいひどい緑だった。今それがやっと100年を経て豊かな緑に育った
わけです。日比谷はもともと「シビヤ」といわれたように東京湾の入江で海苔を栽培
するシビが立っていた海です。ですから、1メートルも掘ると地下水が出てくる。根
がまっすぐ入っていかないので、植物が育つには本当に時間がかかるんです。そうい
う悪い条件を時間が克服したのです。日比谷の現在は、設計者というより時間がつく
った。といえるかもしれない。
公園にも人の人生と同じように生活史がある、一生があると思っています。それで、
私は公園生活史を大切に考えてきました。元勲達の国葬会場として日比谷公園は使わ
れたり、政治的事件の舞台ともなりました。
第5は「理想と憧憬」。日比谷公園はあこがれの空間だった。3つの洋をはじめ、彫
刻展のようなモダンアートから江戸以来の伝統菊花展まで。また子どもに人気のミニ
動物園もありました。公園には生き物も大切なんです。ネーチャ-・スタディーとい
うコンセプトで公園における子育てがおこなわれました。それが日比谷公園での児童
遊園です。まさに次の世代をどう育てるか。結核が多い時代、排気ガスがひどく子育
てなんておよそ無理という中で、日比谷の児童遊園に行けば、すごく健康によくて病
気にならない。しかも、頭もよくなって、一高、東大に行くと言われました。これが
日比谷児童遊園物語です。環境教育の先駆ですね。ともあれ戦前の日比谷公園は高質
のパークライフを提供しました。
戦後は、GHQに接収され、後、復帰してさまざまな形で使われます。国家広場の
ような時もありました。東京のど真ん中ですから、公会堂があり、野音があり、政治
の集会拠点にもなったわけです。戦後は国家的な位置づけから、まさに都民のための
空間に変わっていきます。例えば東京モーターショーの第1回~4回は日比谷公園で
した。宇部や須磨離宮など日本中の公園が彫刻をテーマにしていますが、その最初は
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日比谷です。日比谷公園は、これからの都民生活の舞台として、また一方で、都心の
再開発の中でどういう役割を果たすか何を求められるかですね。
先ほど『日比谷公園』の本で日本生活学会「今和次郎賞」をもらったとありました
が、
「考現学」という言葉は今和次郎がつくった造語です。考古学に対して考現学。現
在をウォッチング、観察して、現代を明らかにしていく。私は、卒論のとき、明治神
宮内苑で調査しました。広大な芝生の中で利用者は一体どこにどういうふうに位置を
占めるか、カップル間距離は40フィートぐらいなどいろいろ調べました。これには
公園は利用者のものだという価値観があったからです。造園学科に入ると、授業で図
面を描かせる。みんな美しいカッコいい図面を描くんです。建築もそうだと思います。
でもそれが本当にユーザーのためかどうか考えもしない。デザイナーは自分の好きな
絵を描くわけです。これに強く疑問を持ちました。
「卒論で日比谷の改造設計案をやれ」
と言われた時真っ先に、利用者は何を求めているかを詳しく調べようと思いました。
それが考現学です。当時、今和次郎や考現学という言葉は知りませんでした。知りま
せんでしたが、今先生と同じことを私も実はやっていた。その一部は後でご紹介しま
す。公園での24時間利用調査もやりました。日比谷公園の空間はほんとうに多様で
いろいろ違うので、利用の形も本当にさまざまです。
第7は、公園というものと都市開発との関係です。
「負から正の関係性へ」です。先
ほど私は、建築界は恵まれている、また公園はやっと生きてきたと申しました。さら
に言えば、公園という空間は建物に占拠される空間であり続けました。上野公園が典
型的です。つい最近、上野公園では、全国緑化フェアがあり、数年前石原知事に「文
化の森構想」を立てよと言われ、私は委員長を務めました。上野公園内の森の中を少
し明るくして、通れるようにスターバックスや、オーガニックレストランを東京都多
摩産材木材でカフェもつくりました。噴水を新しくし、イベントも可能に親しまれる
公園にしようと頑張りました。ただとにかく上野公園は、美術館、博物館、科学館が
ビッシリで、建物の間にある緑地が公園というふうで、つまり公園はほとんど建物用
地です。
日比谷公園もそうです。第一国立劇場の計画時にも、建築界のかなり偉い方が、日
比谷公園を敷地にしたらどうかと言いました。二国(現、新国立劇場)の時もまた家
協会の幹部が言っている。私からみると信じられない。建築家だって職能から環境プ
ランナーであり、デザイナーのはずです。環境全体を見るプロでしょう。それなのに、
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国立劇場の敷地は日比谷公園のほうがいい。今の二国は初台で、あんな不便なところ
はダメで、日比谷公園がいいとはっきり書いておりました。立地を議論するのは構わ
ないが、公園を建築用敷地の予備地としか考えていない建築家がいること、オープン
スペースの意義を理解していないリーダーがいることは信じがたい。しつこく言って
済みませんが、そういう現実を皆さんはご存じないだろうと思います。日比谷公園は
日照権はないのかという都民の問題提起もあって周辺の高層化に市民の批判が出され
たこともこれまでに起きました。
私は、世田谷の都市美委員会委員でいたとき、内井昭蔵さんと知り合って、砧公園
の一角に世田谷区が美術館をつくることになりました。当初私は、
「公園面積を減らす
のか」と異論を唱えましたが、内井さんのプランを見て賛成し、オープニングイベン
トの植樹祭を企画実践して応援しました。美術館ができて、結果的に砧公園の利用者
は何倍にも増え、公園の存在感も強まりました。私は内井さんに公園建築という新し
いジャンルをつくってはどうですかと話したこともあります。彼は公園を十分に意識
した建築をデザインした。高さを抑え、分棟化して、屋根も丸屋根にしたり、タイル
1つ1つの非常に細かいディテールまで追求されて、緑に調和する建築を内井さんは
完成しました。私は桂離宮が代表するように日本の美は本来建築と造園が協力し合い
コラボして、共生してきたと思います。緑を、建築の外構としか考えない建築家にだ
け文句を言いたいです。
私は、歴史も研究を基調にしてきましたので、日比谷公園の歴史性の重さを強調し
ています。だからといって決してすべてにアンタッチャブルという考えではないんで
す。現代都市の中で生きている重要な経済空間都民共有の財産としてそれが適切に生
かされなければならないとも思っています。重要なことは、一方的に建築や開発に侵
されていくのではなくて、むしろ堂々と日比谷公園の歴史的公園都市開発で強さを総
合することで新しい環境を創造すべきだと思っています。
(図3)
公園協会でつくったパンフレットです。これがあればお1人でも行けると思います。
写真にはたくさんの利用者、小さな子どもから、カップル、オフィスマンの昼休みの
風景まで入れました。それは公園は人が主人公だといいたいからです。デザイナーは
とかく自分の作品だとしっかり言いたい。イサム・ノグチのモエレ沼公園みたいなも
のはいかにもイサム・ノグチの作品です。それでも公園は、利用するのは人がメイン
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なんです。日本庭園と根本的に違うのは、公園は人がいないと絵にならないというこ
とです。利用者が多ければいい公園だといっていいでしょう。公園とは、そういう入
れ物だということを知ってください。大勢来てくれる魅力がなければならない。先ほ
ど、幕の内弁当だと申しました。さまざまなニーズに応える空間が要る。オープンな
空間、クローズな空間。明るい空間、暗い空間。ハードあり、ソフトあり。水のある
場所もあれば、歴史のある場所もある。それが揃っているのが日比谷公園です。
(図4)
日比谷公園の生みの親、本多先生。小さな写真ですが、本多静六です。いつも詰め
襟を着ていた人です。本多静六は埼玉で生まれました。折原から後、本多になります。
没落した折原家は、厳しい経済状態でしたので山林学校に進みます。帝室林野局の時
代、森林は天皇のもので、それを管理する森林官を養成する山林学校は授業料が要ら
なかったんです。そこから次にドイツに留学、造園学、国家経済学のドクトルになり
帰国後、東大教授になる。本多先生は結構な苦労人でした。ですから、先生の処世法
や経営論はすごい。『私の財産告白』(実業之日本社)、『わが処世の秘訣』(三笠書房)
という本が現在も版を改め現役の本として出ています。日比谷に関してもそのことが
反映しています。
本多の話をすると長くなりますが、利殖の法、それは何のためか。頭がよくても学
校に行けない人のために奨学金をつくるんです。今も本多財団はあります。当時国有
鉄道が日本中に広がる、すると枕木が必要ですね。枕木はかたい栗などが材料です。
それで枕木材になる樹林を買い利益を生む。まだ巨大な東京に水源林が要る。奥多摩
の水源です。水源林の経営というのはこれまた大変なんです。樹木は伐って材木にし
た時は商品になりますが、植える時は大金がかかるだけです。1年や2年では大きく
なりません。20年、30年かかる。先行投資ですね。それをやらないと東京の水源
は守れない。誰も手をつけないのを本多は引き受け、水源林の経営に乗り出す。自分
のお金をつぎ込まないと森林経営の理論は本物にならないからだと本多は言う。当時
の東大教授はすごいですね。評論だけでなく自分でマネジメントをやる。
実学の人ですね。本多が留学して帰った直後、たまたま辰野の部屋に行った。日比
谷の図面を見ながら、これはこうしたほうがいいんじゃないかといろいろ言ったらし
い。それで、辰野案が受け入れられなかった時、
「どうもあんたのほうがおもしろいの
がやれそうだ」と辰野におしつけられたと、本多はかいています。本多は、何にでも
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関心を持ち、積極的で本多静六は日比谷公園で成功し、次に明治神宮の森をつくりま
す。このときは神社林の植生構造を調査、それに基づいて神宮内苑の森の造林計画を
つくるんです。ちょうど昨年90年を迎えますが、荒地の50、100、150年後
の予測図を描いてあの森をつくったのは本多静六です。
ドイツに留学したけれども、ドイツ林学のまねではない日本の鎮守の森、橿原神宮
や伊勢神宮の神社林がどうなっているか。今なら生物多様性、たくさんの種類とたく
さんの高さの違う木をまぜて植えれば、時間がたつと、うっそうとした照葉樹林にな
っていくという科学的知見をもとにつくったわけです。いつも詰め襟の洋服1つでつ
つましい。
本多は湯布院温泉の振興計画を指導し、また福岡の大濠公園設計もしている。中国
に西湖十景があって、その西湖をモデルにイメージした設計です。名古屋の鶴舞公園
もそう。本多静六の専門は造林学ですが、日本で初めて造園学を講義した造園家で広
く何事にも関心を持った人です。私は、日比谷公園は本多という人物に設計されて本
当に良かったと思います。本多以前、日比谷公園の案を出したのは、日本園芸会・小
平義親、宮内省の技師です。また田中芳男は上野の博物館をつくった大先生です。日
本園芸会会長田中芳男だったかもしれません。伝統的日本庭園の趣きの案は、公園改
良取調委員会・長岡安平のものです。前述の辰野金吾博士案もあります。ほんの1例
です。先ほど申し上げたように、いろんな案が出ました。いろんな図面案が提供され
ます。当時、東京市の参事会議長は星亨です。彼だけでないと思いますが、東京市の
幹部は、辰野のシンプルな様式案にも納得しなかったのです。このことを私は和魂洋
才的だというのです。洋式そのものは和風案は文明開化にふさわしくないと思ったし、
かといって受け入れがたい。日本人的繊細さなどを感じさせる洋的な意匠ではないと
受け入れにくい。
だから結論は本多静六案になる。一見洋風です。曲線の園路がずっと入って、広場
もある。だけど、実際に中に入ると非常にきめが細かくて、幕の内弁当的です。アノ
ニマスとかバナキュラーな、自然発生的な雰囲気がある、日本人的緑地観ですね。浜
離宮は10万坪ありますが、10万坪全部が見える場所はどこにもない。日本人のア
ウトドア空間利用は、広大なのは不安で、幾つもの小部屋に分けてしまう。樹林で囲
まれた1つずつの部屋。そのヒューマンスケールの中に落ちつくというやり方です。
辰野案は全部一望する。そんなプランは受け入れがたい。
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(図5)
これは長岡安平案です。今、ひ孫の都市工出身の建築家長岡嶺男氏がいます。長岡
安平は長崎大村藩の人です。大村藩出身の幹部明治維新に楠本正隆という政治家がい
ます。楠本正隆は新潟県の県令(知事)のとき、東京府の知事になります。新潟市に
白山公園をつくる。新潟はロシアに開いた港で、その一角に公園をつくる。そのとき
公園をつくる技術屋、専門家がいない。長岡安平はお茶の宗匠、茶道家です。お茶に
は茶庭があり、庭をやれば公園もやれるだろうと同郷の長岡を呼び寄せ公園をつくら
せる。楠本は次に東京府知事で、東京にも長岡を連れてくる。
こうして東京市吏員として長岡は日比谷の案をつくらされる。しかし、お茶人です
し、日本的世界を描きます。この図面、おもしろいのは一ケ所ミスして消していると
ころ。図面を書く人はピンとくるでしょう。紅葉しているのはモミジ。この辺は梅、
桜、杉、モミ。図面の本物は、畳1枚ちかい大きさで、日本画のようなすばらしい絵
です。エジプトの絵のように、アクソメふう。大名庭園のようですが、池はない。多
数の利用を考えた長岡的公園イメージで、よく見ると日本的公園のあり方を示してい
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ておもしろい。ただ当然文明開化の象徴にはならないでしょうね。
(図6)
7~8枚いろんな案が出たが、どうしてもダメだ、これはという案が決まらない。
そこまで星亨は言う。そんな案がなくてダメなら国に返せ。それで当事者の市役所が
考えたのが辰野大先生。帝国大学の造家学科教授で、辰野はヨーロッパで勉強して、
東京駅も設計した。でも、公園は無理ですよね。でも当時の人は、何でもできると考
えていたのです。図面は、うすくて強い和紙で、ラインはカラス口できれいに墨入れ
されています。ただ、造園家でないことがすぐにわかるのは樹木です。水彩絵の具の
筆でトントンと着色して、一応植栽位置がわかる程度です。あとセンターに整形池の
水面があります。線はきれいなんですけど、公園としての雰囲気が出るかどうか。5
万坪の広さのデザイン密度としては、粗で、シンプルすぎると私さえ思いますし、き
っと明治の人たちはもっと感じたでしょう。
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(図7)
その最終段階に登場したのが本多です。本多は留学直後の30代。名声も地位もな
かった。ただ、辰野の部屋に行って、ああだこうだ言うから、
「それなら、おまえがや
れ」と言われてバトンタッチすることになった。でも、ここで本多静六の人間性が出
てくるわけです。
図案で言うと、園路や入口、各部のゾーニングは、各案の共通項を踏まえており、
意匠の描き方はドイツから持ち帰った図書からのコピーです。ここはコウーニッツ市
の公園の一角のコピーです。ただし裏返ししてトレースしたこの丸はこっち側で、こ
れがあっち側です。雲形池の形は、ベルトラムの本の図面を真似したもの。またここ
は、ベンゼンにある病院の庭園部分の模倣です。
ただこの四角はオリジナルです。当時日比谷に公会堂を安田財閥が寄付する話が後
藤新平との間で話合われていたんです。その予定地をあけておかなければいけないの
で四角にした。当分の間、建物は建たないというので花壇にしておきました。洋花で
人気が出たので、今の公会堂の場所に移るのですが。ここは草地、池をつくると土が
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出るので、その土を3つに盛ったので三笠山と呼びます。
当時小沢圭次郎という人がおりました。評価すべき人物です。小沢酔園と号します。
日本庭園の専門家です。横浜の原三渓みたいな人です。明治の初期は中国の文化大革
命みたいに、廃仏毀釈で古いものはぶっ壊せ、寺はつぶせです。ですから、仏像はみ
んな海外に流れてしまう。お城や天守閣は風呂屋のたきぎにするため払い下げるとい
うことが日本中で起こっています。そんな時代に小沢は、自分ひとりで、日本の古典
を、一生懸命庭園書を買い集めて保存したのです。今、国立国会図書館に酔園文庫と
して残っています。有名な『作庭記』
『前栽秘抄』など庭園を全部私財を投げうって保
存したのです。雑誌『国華』に「国苑源流考」を連載した学者でもあります。本多は、
三笠山はその小沢に日本庭園をつくらせる場所としたんです。文明開化時代、日本庭
園など不用と結局つくれませんでしたが。
石垣があります。日比谷見附の御門枡形がありました。山下濠があって、築地川に
抜けて浜離宮に行く。本多はこの日比谷見附の石垣を残した。これはすごいです。古
いものをみんなぶっ壊す時代に、石垣を生かす。石垣を生かすには前の濠を池の形で
つくりなおそうというわけです。これはドイツで学んだ歴史の保存という本多静六の
高い見識です。
大きな曲線園路が雲形定規で引かれ、そのためいかにも洋風に見えますが、門の位
置を見ると、桜田門があるから桜門、霞が関があるから霞門、有楽町門から有楽門、
正門としての日比谷と名前がつけられています。ただその位置は、日本園芸会案でも、
他の案でも殆どの案に共通しているというのが私の見解です。それまで提出されたも
のの共通的を重ねてみれば、たぶん誰もが納得できるものになるでしょう。共通点を
上手に拾えば普遍性も出てくる。
意匠はいかにも洋風。ドイツのパルク、ドイツ林苑風。全体は森のようなで自然風
景式曲線の園路を入れ原っぱをつくり、自然樹の樹木が散在するという方法です。
これはドイツ留学から持ち帰った本の図面からとっていく。実際にトレースしたのは
助手の本郷高徳という長野県人だったと思います。だけど、コーニッツ市の公園広場
の形を左右ひっくり返したり、ドレスデンの図案を模倣したり、ベンゼンの病院の庭
をまねたりしている。三笠山近くの日本庭園部分は小沢酔園に任せ、公会堂予定地を
あけて第一花壇にしたのです。こうやってきたんです。
私ふうに言いますと、デザインの上手さだけが日比谷をつくったわけではない。む
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しろその後の歴史、時間の積み重ねが今日の日比谷公園をつくった。ここが建築空間
とランドスケープ空間の基本的な違いです。植物、自然で構成されたランドスケープ
空間は時間とともに成長し、発展していくのです。熟成しだんだんよくなっていく。
だんだん悪くなるのではなくて、だんだんよくなるわけです。日比谷はまさにそうい
う公園の味わいの象徴です。それだけの時間を待たなければいけないということでも
あります。
本多先生の気配りがもうひとつあります。自分がまだ若くて信用がないことをカバ
ーすべく一流の先生の名を借りるんです。衛星については、軍医で有名な石黒忠悳を
アドバイザーにする。第一花壇の部分は、公会堂予定地ですが、パンジーやチューリ
ップという西洋の花を植えるわけです。造林学者ですから、花は素人です。
そこで福羽逸人をアドバイザーにする。子爵福羽逸人です。東京帝国大学農科大学
の卒業生で、フクバイチゴを開発した人でもあります。新宿御苑を実質的に完成させ
た人です。博覧会のパリに行ったときパリのベルサイユの園芸学校の校長アンリ・マ
ルチネーに図面を頼んで帰る。福羽さんは、その図面をもとに今の御苑をつくったん
です。図面はお願いしたが、全部日本人が施工した。福羽が監督しました。そういう
大先生、福羽先生のご指導でやったということです。ただ福羽の本を読んでみました
が日比谷のことは記録に出てこないのです。だから、どの程度、指導したのかわかり
ません。ともかく福羽の名前を使った。園芸の先生も衛生の先生も庭園も一流の小沢
圭次郎という具合。本多の処世術はでは「手柄は他人に」、
「苦労は自分が」、これが大
事だということです。現代のデザイナーとは違う面を持っていたようですね。
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(図8)
さて、空間の中身です。ざっと日比谷をご案内しておきます。
本多案の日比谷公園はどういう組み立てになっているかみてみましょう。帝国ホテ
ルの真ん前が正門にあたる日比谷門。今はここに日比谷花壇があります。今の日比谷
花壇は帝国ホテルの中に入っている花屋さん。戦後は、大体公園にフラワーショップ
があるので、それをつくれと知事の命令で入れます。日比谷アメニスという造園会社
がありますが、そのもとはこれです。日比谷花壇、日比谷花壇土木、日比谷アメニス
となります。最近、建て替えましたが日比谷花壇はおしゃれな建物としてグッドデザ
イン賞をもらいました。
そして、大噴水があって、右手に小音楽堂です。当時は奏楽堂と呼びました。軍楽
隊が演奏、水曜と金曜のコンサートをやりました。ブラスバンド、これが洋楽です。
次に松本楼があります。松本楼はフランス料理のレストランです。松本楼は今も昔
も小坂という人が経営しています。初代小坂氏は、当時銀座で商売をやっていて、日
比谷公園ができた時入札に参加します。まだ海のものとも山のものともわからない日
比谷で商売をやるというのは冒険だったでしょうね。亡命中の孫文を支援した梅屋庄
吉と小坂家との関係も新聞でよく話題になっているからご存じかと思いますが、そう
いう心意気があった小坂家なのでしょう。洋風の食事、洋食。特にフランス料理店と
してスタートします。
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音楽も花も食事も、ヨーロッパのパークライフでは当たり前のことです。日本の行
楽地にもその伝統がありました。江戸の気延し場所には茶屋があり、緋毛せんの縁台
でお酒を飲んだりお団子を食べたり。花もあり、食もある。それが本来の公園でした。
戦後日本はずっと禁欲的にやってきましたので、公園のレストランや売店は汚い、安
いということになっていました。そろそろそれは卒業ですが、日比谷公園では昔から
ヨーロッパの公園と同じように立派な公園レストランをつくり、そして美しい花壇を
つくり、心地よい音楽を聞く設計にしてきたわけです。
開国2年後、小音楽堂がバンガロー風のおしゃれなデザインで完成した。それはし
かし関東大震災でペちゃんこになってしまいました。確かに柱が細い。日本のような
地震の多いところでは厳しかったのかもしれません。周りからよく見えたんです。そ
の後の2代目はコンクリートの丈夫な柱で、ゴツイものでした。今の3代目はこんな
ものです。
次、雲形池です。ここの鶴の噴水はいつも話題になります。暮れになると噴水につ
ららが下がるのを新聞社は冬の風物詩として写す。雲形池の平面形は、ドイツの図案
をトレースしたものですけれども、ヨーロッパのディテールはわかりませんから、全
部江戸前のやり方なんです。沢庵石のような玉石を積み上げた護岸です。浜離宮でも
やっています、特別のものではありません。藤棚とパーゴラを重ねた洋風デザインが
効果的です。雲形地畔の東屋も一応洋風のガーデンハウスがつくられています。噴水
は美術学校の先生が設計したとか。戦中は金属回収で撤去されました。ただ、噴水は
どこかに隠してあったのか戦後戻るんです。そういう歴史もありました。
戦後間もなく、GHQは第一生命を司令部にしますから、一番近い日比谷公園は格
好の場所です。公会堂も野音も接収されます。松本楼も接収され、松本楼の真横にあ
る雲形池の水を抜いて、床を固くしてダンスホールにしたそうです。我々が知らない
ような苦難の歴史が日比谷公園にはあるんです。
第二花壇はもともと大きな運動場で、そこで国葬や国家的行事が行われました。そ
この地下を丸ノ内線が通ります。昭和33年です。そして35年には地下駐車場がつ
くられました。そこで芝生しか植らないので、第二花壇となったのです。
(図9)
大運動場のときは全部原っぱ。ぐるっと1周トラックになっていた。これだけの大
空間。当時都心にはここしかなかった。ここで行われたのは伊藤博文の国葬、大山巌
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の国葬、大隈重信の国民葬。大隈重信の国民葬で、主体的に国民がやる。大隈のすぐ
後に山県有朋の国葬が行われます。山県は陸軍をつくり、椿山荘も自分でつくったす
ごい人ですが、人気がなかったらしく閑散としていた。大隈重信のときはここがあふ
れてしまうぐらい、ずっと遠くまで列が続いたそうです。政治家も時代でいろいろ。
それから、日露戦争の戦捷記念、不平等条約の時は、それに対する反対運動。さまざ
まな政治集会がこの空間で行われる。ですから、私は「国家広場」だと言っているわ
けです。明治、大正期までの日比谷公園はそういう国家的意味合いも持っていました。
(図10)
日比谷公園の先進的なもののひとつがイベントです。モーターショーの最初は日比
谷公園でした。昭和29年です。いろいろなイベントが行われてきました。
意外とご存じないと思うのはサッカーです。天皇杯のサッカーの第1回蹴球大会、
大正10年ですが、これが日比谷で開かれているんです。
だから、私は「近代日本のすべてがここに始まる」というのです。
(図11)
祝田濠に隣合って存在した日比谷御門を残し、もとの濠の水面を心字池にしました。
心の字の池は日本庭園の方法です。池の護岸の石、黒の使い方も江戸時代以来の溶岩
の活用です。日比谷見附の石垣をはじめそこのケヤキやイチョウを保存する。この文
化財保存活用プランはほかの案にはない本多静六のオリジナルです。他のには石垣を
残し、濠を生かして池をつくるという案はひとつもなかった。本多静六には、歴史的、
文化財的な空間の重要性がわかっていた。
文化財的空間を都市の公園で、残そうとしたのは立派なもので高く評価されるべき
です。
日比谷公園には門が幾つもありますが、その門の石は全部江戸城の石垣などを使っ
たもの。小松石の廃材の利活用です。
次、洋花の人気第一の第一花壇。花壇にはいろいろあります。震災直後にはバラッ
クを、今でいう仮設住宅をつくっています。花壇コンクールや彫刻展を初めてやる。
彫刻展というのは今や当たり前だと皆さんは思っておられるでしょうが、どうして日
比谷で彫刻展をやったか。実はセメントの彫刻なんです。小野田セメントが、オリン
ピック前だと思いますが、白色セメントを開発するんです。これを普及したいので、
白色セメントを材料として提供して、いろいろな彫刻家に彫刻作品をつくってもらっ
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て日比谷公園で彫刻展をやるのです。その後、公園における彫刻展は一般化していき
ます。
記念物は説明し切れないほどたくさんあります。ヤップ島からの石のおカネ。大正
時代、自慢げにやったんでしょうね。ヤップ島のおカネを支庁長が持ってきた。それ
から、南極の石。戦後、北回りの航路開設を記念して、スカンジナビア航空からバイ
キングのモニュメント。こういうのが公園にはあり過ぎて困るぐらいあるんです。放
っておくとどんどんいっぱいになってしまいますから、今は制限して入れないのです
が、銅像を入れたい、彫刻を入れたい、記念植樹したいという要望は多い。日比谷で
の記念植樹の代表格はアメリカと尾崎市長の桜とハナミズキの交流。それらも全て日
比谷公園からスタートしたのです。
そういう国際交流行事もありました。
(図12)
今、公園のシンボルツリーになっているのが、本多の首賭けイチョウです。祝田橋
の交差点あたりにありました。それが今の松本楼の横に移植されました。松本楼の火
事でイチョウの半分がこげてしまって、外科手術しました。とても大きいイチョウで
す。首つりのイチョウではない。首賭けのイチョウです。本多静六が日比谷公園の設
計にかかわって間もなく、日比谷通り、祝田橋交差点あたりにあった江戸時代以来の
イチョウが道路の拡張で伐られることになっていました。本多はそのイチョウをぜひ
公園に移してシンボルにしたいと思った。ところが、東京市はこんな古い大木は移植
できないと切ろうとした。抗議して、本多静六は星亨に対して、
「俺が責任持って活着
させるから、俺にくれ」と言った。
「専門家の職人がダメだと言っているのを無理だよ」、
「俺の首を賭けてでも移植を成功させる」と言って移動したというわけです。
有楽門のほうから、松本楼のあたりへ。公園の中心まで引っ張って移植した全部の
枝を切って、根も縮めて鉢をつけてコロの上をころがして移動するんです。その間1
カ月以上もかかったので、新しい芽が吹いてきたそうです。それぐらい時間をかけて
移植しました。ただ、林学の専門家なら、イチョウは非常に丈夫で十分移植に耐える
木だとわかっているはずで、そこには若干演出があると思います。首を賭けてでもと
カッコよく言った。世の中こういう話が一番残るんです。
私は歴史をやっていてつくづく思うのは、どっちでもいいような話がすごく大げさ
に残る。それが結構話題になる。日比谷公園を案内する時、本多の首賭けイチョウと
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言うと話を聞くんです。若い学生は首つりイチョウと勘違いする。こういうエピソー
ドが意外に大事なんですね。
(図13)
ここに動物のゲージの写真があります。私も昔の新聞を調べていて発見したことで
す。そうしたら日比谷に動物園ができるという見出しがあった。大草地のところにあ
ったようです。公園行政でも絶えず管理者、担当者がかわりますし、利用者もそんな
に注目しておりませんから、結構簡単にかわるんです。今は跡形もない。ただ動物は、
私から言うと非常に大事な公園の要素なんです。ヨーロッパの歴史をみると、動物園
は公園にとって非常に重要で、最も大事な要素の1つなんです。
古代中国の皇帝の園林、皇家園林といいますが、国王や皇帝たちの造園にはほとん
ど禽獣園が併設されています。鹿、獣物、鳥、孔雀などたくさん飼っている。本来、
動物と植物と両方あってこそランドスケープだということです。
戦後の公園管理では、正月でも動物はえさを食べるでしょ。公園の職員も休みをと
りたい。公園からは動物を締め出して、動物好きが集まっている動物園行かないと動
物にふれあえなくなってしまった。今や、動物園と植物園は完全に分離されました。
これは便宜的過ぎて間違いですね。生物多様性や自然を話題にするなら、動植物はセ
ットなんです。植物を食べて昆虫が生き、昆虫を食べて野鳥が生きるんです。動物と
植物は共生関係にある。それを別々に管理したり眺めるのは本当はおかしい。
ともあれ、新聞記事には、チンパンジーが来た。チンパンジーの子どもを熊が食べ
てしまったと、いくつも出てきます。私は、生き物文化といっていますが、それを公
園で日比谷はやろうとしたのです。戦争が激しくなる中、万が一のときに野生動物が
町に出ると問題だということで、上野の動物園ですら動物を殺してしまう。戦争は悲
しい歴史です。
曲線の大園路の話をしておきます。今の図面には中央分離帯が入ってますが、もと
もとはなかった。非常に長く幅の広い大園路でした。もともと馬車道です。当初のプ
ランでは、曲線の大きな園路が門から入って幸門や霞門へ抜ける。その1つは鹿鳴館
に行きます。貴族たちは馬車に乗って日比谷公園の中をぐるっと通って鹿鳴館に横づ
けできたでしょう。ベルばらの漫画みたいでしょう。本来の貴族の暮らし方です。そ
ういうものとしても描かれていた。戦後、緑がないと叫れた頃、こういう分離帯みた
いなものまで入れてサツキや並木を植えたりしたんです。こういうのは余計なことだ
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と私は言いたいわけです。本来のきれいな線を壊してしまったということです。園路
広場を生かす方法もあるのですから。他にも変化はあります。
テニスコートが大正9年に入ります。当初3面だったものが8面に増えました。三
笠山も崩れて、霞が関側の桜田通りも祝田側の築地通りも、両方道路拡張によって面
積が減ります。それできれいな曲線が一部つぶれてしまったんです。細かく見ていく
と本当はいろいろ変化しています。
三笠山とは3つの山。江戸の「築山庭造伝」というのに出てくる形です。日本庭園
の典型的で、東屋がつくられ、溶岩でが組まれた、江戸の庭芸です。
次は、草地です。草地広場の写真を覚えておいてください。2つあります。1つは、
戦中の話です。食料難で、園地に畑ができています。上野の不忍池は田圑になりまし
た。イモや麦が作られました。第一花壇あたりは死体の埋め場所になります。公園も
戦争のつらい目に遭っています。東京大空襲ではすごい数の人が亡くなり、それを全
部公園が面倒を見たんです。戦中の東京市の規則ではそういう仕事を公園の担当者に
した。ですから、公園に仮埋葬して、敵が来なくなった掘りおこして身元を調べて遺
族に戻すという大変な作業しました。
もう1つは、いい話。日比谷児童遊園の話です。末田ますという女性が大正時代、
震災直前に日本に帰ってきました。横浜YWCAのスタッフでした。その人がアメリ
カの大学に行って保育学を学んだ。子育はどうあるべきか。そこで学んだのが、ネー
チャースタディー。今風に言うと環境学習、自然学習、子育ての基本は自然の中で育
てることだというものです。戦後の幼稚園教育とは全く違いますね。ネーチャースタ
ディーの概念は公園における児童指導にぴったりだと、その女性をつかまえたのが井
下公園課長です。当時は少国民という発想があったのでしょうが、子どもたちを健全
に育てるのは国の大事。関東大震災の前年、大正11年ぐらいから児童指導を始める。
やがて、震災浮浪児もたくさん出てくる。そういう子どもたちを健全に育てるために、
イチョウの葉っぱをつないで首飾りをつくるなど草木遊び。集団遊戯で協調性をやし
なったりさまざま。児童遊園の評判は高まり300坪からはじめたものが300坪の
特児童遊園にまでなります。またそれが三笠山の裏側の広場から草地にかけて行われ
たのです。
東京市公園課公園児童掛の専任30余名の体制も作り、後100人近い公園児童指
導員という専門職までも誕生させました。本物の保育関係者、公園関係者、児童文学
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者あるいは童謡詩人、そういう人たちが子育てのために努力し『児童生活』という雑
誌を発刊、児童遊園協会が出来たのです。今、少子化、少子化と言われながら、今の
社会はこういうものに無関心です。当時は一流の人たちがちゃんと子育てのためにい
ろいろ考えたわけです。この児童遊園史は、忘れられない話です。
(図14)
運動場は国民的広場で、国葬が行われたと言いましたが、公会堂もそういう大きな
歴史です。日比谷公会堂は、よくご存じのように佐藤功一の設計です。出資者は安田
善次郎。提案者は後藤新平です。公会堂の舞台の脇に左右、お2人のレリーフが入っ
ています。東京市政調査会をつくって東京の都市行政のシンクタンクをつくったので
す。これはニューヨークのまねです。最近、東京市政調査会は後藤・安田研究所に名
前を変えました。今でいうホールがほとんどなかった時代、公会堂の果たした役割は
大きかった。さまざまな音楽会などの文化的催し、政治集会も行われました。浅沼稲
次郎という社会党委員長が山口二矢に刺されたのも日比谷公会堂の檀上でした。
日比谷公会堂は国会通りに面したファサードが正面形ですが、公園側も正面性を持
つ形になっています。ランドマークでのありますね。公会堂の収入で市政調査会を運
営して研究活動を続けるという制度設計でした。
図書館をつくりました。現在は千代田区の文化施設として使われています。
大正12年、野外音楽堂が震災直前にできる。もともとここの樹林地は非常に雰囲
気のいい林苑でした。戦争用に遠くから集めた軍馬をつないでおきました。馬が木を
かじって木が枯れたので、そこを大音楽堂にしたのです。当時ライトが帝国ホテルを
設計をしていて、大谷石をたくさん使いました。大音楽堂の外回りにも大谷石を積ん
でいます。そういうタイミングのものです。日比谷を歩くといろいろなことがつなが
ったきます。
(図15)
以上、公園各部と公園生活史でした。
結論を繰り返しますと、日比谷の成立期は、市区改正設計、文明開化の方針で条約改
正もできる近代国家、それを象徴するための日比谷公園、5万4000坪であった。
デザインにはたくさんの案が出たが、最終的に林学博士の本多静六案になる。そして
明治36年6月1日開園へ。開園時の人気は3つの洋。第一花壇の西洋の花、小音楽
堂のブラスバンド、洋楽。そして松本楼のフランス料理もしくはカレー、洋食。文学
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者などいろいろな人々のサロンとしても松本楼は存在感を示します。政治的には日露
戦争があり、戦勝祝賀会場になり、伊藤博文、大山巌、大隈、山県、の国葬などの舞
台になる。震災後は直ちに仮設住宅を設け救済に当たる。
ここで付言しておきたいのは、阪神大震災の時もそうでしたが、大学を開放したん
ですが、入居者がいつづけたので、授業再開が困難になった。だからここで井下の見
識がすごいと私が思うのは、災害で直ちにバラックをつくって収容する。翌日から水
も提供する。しかし、それを長引かさないで、落ち着いたら直ちに撤去してしまう。
冷たいと言われても、今度は公園は公園としての機能を発揮しなければいけないとい
うことで実行します。
昭和、戦争体制になります。金属回収で外柵や噴水など第一花壇の柵もなくなりま
す。戦災で荒れ、農地化。戦後はGHQの接収がはじまる。公会堂も野音も、雲形池
も松本楼も接収。やっと平和になって各種イベントが展開され日比谷公園も復旧しま
す。
飯野ビルの反対側、国会通りの角に昔の貴族院議長官舎、後の裁判所用地がありま
した。それが今かもめの広場になっています。公園でないものがやっと外れて198
6年に戻ってきて、公園の一部になったのです。
こうして、大時代の公園生活史は一応終わりを告げ、百周年ぐらいからは、日比谷
公園は歴史的公園としての認識が定着。その利用は日常化、市民生活化します。それ
で、
「日常性・イベント・パークマネジメントの時代へ」としました。例えば、200
5年にはオクトーバフェスタをやります。5月に何で、オクトーバフェスタかわから
ないのですが、ドイツのビール会社に場所を貸して、場所代を何千万円かいただいて
いる。それが公園の管理費に回る仕掛ですか。財政難の自治体が水準の高い管理で公
園都市の中の役割を果たすためには、パークマネジメント(公園経営)が不可欠にな
りました。第24回の全国都市緑化フェアの会場にもなりましたが、このときより一
層、この考え方が加速しました。
(図16)
日比谷公園の特色は、幕の内弁当だと考えてきました。公園全体の時間による利用
者数の推移グラフです。平日は午前中にピークが来る。すごく高いピークです。とこ
ろが、日曜日になると全く違う。ぐっと夜の方にに移動します。利用者の層や性格も
変わるんです。霞が関、有楽町側はオフィスで、オフィスメンの利用があり、土曜・
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日曜は家族利用がある。日比谷公園にはとバスもとまり、観光の場でもありました。
とにかく平日と日曜は大違い。空間を分けてみると全く違う利用があることがわかり
ます。最初に申し上げたように、この公園は幕の内弁当ですから、いろんな場所があ
るが誰でも受け入れどんな人でも喜ばせ、みんなに満足を与えてくれる公園空間が多
様で、利用も多様なのが日比谷公園だということです。
ベルサイユみたいに宮殿を中心にビスタを通す明快な形のほうが写真映りはいい。
建築家も写真映りを先に考えるでしょう。デザインとは写真映り。そこまで言うとい
けませんが、そういう面もなくはない。近年は公園デザインでもそうなっている。い
きなりドーンと大噴水を上げてみたりする。造園の基本は土地柄、場所柄、利用者を
考えることなのに、どうも自分の作品だとデザイナーは考える。日比谷公園からデザ
イナーが学ぶべきは、さまざまな空間とそれぞれに似合った多様な利用があることで
すね。
(図17)
例えば単独利用。吉田修一さんが芥川賞をもらった『パークライフ』という小説が
あります。それは日比谷公園が舞台です。日比谷公園で、恋人もいない寂しい男が登
場する。それは単独利用というんです。世の中、ひとりぼっちはたくさんいる。草食
系もいる。そういう人は雲形池に面したベンチがいい。藤棚で覆われてとても落ちつ
く場所です。1人、ポツンといるのにはいいんです。誰かとコミュニケーションしな
くてもいい。池と鶴の噴水とコミュニケーションすればいいわけです。ひとりぼっち
の人には最高の場所ですね。もちろん時間帯はお昼で、深夜はだめです。
カップルはどうか。私の調査のころはアベックと呼びましたが、今はカップルです。
カップルの場合はどういう場所か、どういう時間帯か。最もわかり易いのは第一花壇
です。あそこは完全に四方が囲まれたある種のクローズドスペースです。ここが最も
落ちつく場所です。しかも、四隅にベンチがあります。通過利用は曲線のところを通
っていくので、邪魔にならない。そういうよどみ空間のようなところは滞在時間もす
ごく長い。カップルは相手がいるからもっと楽しい。時間帯は夜の8時を中心に10
時。結構いい時間帯をそこで過ごしています。それから心字池の石垣の上もカップル
には最良ですね。
家族連れは、草地ですね。先程動物舎があったと言いましたが、大きな草地で、戦
後は麦畑になったり、イモ畑になったような場所です。今も時々、菊花展などをやり
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ますが、あそこはフリーなんです。輪をつくろうと、グループで来ようと、何でもや
れる。だから、家族連れとかグループはこの大きな草地がいいんです。施設は要りま
せん。ただ空間があればいい。以上、ほんの1例です。ともかく私たちは結構細かく
調査しているということだけは、覚えて置いていただければいい。(笑)
(図18)
では公園の利用者は公園
空間をどういうふうに捉え
ているか。イメージマップ
法。これは小音楽堂。テニ
スコート。花壇。これが敷
地全体だと思って考えてく
れ、といろんな利用者にイ
メージ地図を描いてもらう
んです。かなり細かく図書
館、公会堂と描く人もいれ
ば、いろいろです。多くの
人は噴水だとわかる。イメージがそれぞれの人にあるにはある。その中で非常に強く
イメージされるものは何か読み取っていくわけです。そうやって見ていきますと、日
比谷公園でイメージが高いのは噴水広場ですね。第二花壇が整備され、噴水はドイツ
から輸入しました。
水のある空間は利用者にとってとても魅力的な空間です。水は景観上も大事です。
イメージの高いものを拾うと噴水広場、第一花壇、第二花壇、小音楽堂、心字池とい
うことになります。
次、居心地のいい場所はと質問すると、第二花壇と噴水の周り、小音楽堂、第一花
壇。好きな空間と、嫌な空間も調べました。浮浪者のいる位置と「×危険を感じる空
間」は重なるようです。やや暗くて陰に当たるような部分が多い。また、
「眺めがいい
と感じる」をみると、石垣の上や第一花壇と噴水のところ。
危険を感じるというのと、のぞきの分布も大体近い。のぞきの分布もちゃんと我々
が調べたものです。
(笑)何せ私達の研究室では、日比谷公園24時間調査をやりまし
たからね。そのためには、日比谷交番に届け出ておまわりさんと仲よくなりましたよ
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公園考現学は結構事前の準備が大変なんです。ただ私は、マンウォチングはランドス
ケープのフィールドスタディとしてぴったりで教育法だと思っています。農大の造園
学科では1年生に日比谷の1000分の1の図面を渡して、どの門から入って、どこ
のベンチで何分いて、どの門から出たか、公園で何をやっているか、尾行調査し、詳
しく写真や地図に書き込ませさせました。ここにおられる何人かは尾行されているは
ずです。
(笑)通過ルート。滞留した時間。そこに座って抱き合ったとか、パンを食べ
たとか、本を読んだとか、行動の種類をみんな書きこむ。それを3組以上やる。
デザインというのは、デザイナーが意図したようには使われない。ユーザーは全く
違う使い方をする。空間や場所をチョイスしている。どこでもいいわけではない。そ
のことが本当によくわかるんです。私は、馬を水辺に連れていくのと同じで、学生を
公園現場に行かせ、利用の実態を観察すること、これがデザイナーの教育の入り口だ
と思います。と同時に、それを今度は計量的におさえればちゃんとした研究論文も書
けると思う。研究と教育とトレーニングはワンセットです。24時間の利用者調査を
やってみると、いろいろなことがわかってくるわけです。のぞきがいるのは、のぞか
れる人がいるからです。公園利用者は、他の公園利用者にとっては、景観資源にもな
っている。テニスをプレーする人、それを眺める人。共に公園利用なんですね。
ついでに紹介しておきます。三笠山です。一番暗い。照度も低くて寂しい場所です。
だからここはヘビー級のカップルの場所です。次にここがミドルクラスです。噴水広
場などはライト級で明るくて比較的大勢いる。ライト級とはまだ初心者の新鮮なカッ
プル。そういうふうに見事にゾーニングされます。
(図19)
公園とは何か。一般的
な機能論で考えてはいけ
ない場所です。どういう
目的で来たか。公園利用
の目的を整理してみます。
直接的な目的としては、
「休憩」、「散歩」、「待ち
合わせ」とあります。し
かし明快でない目的、つ
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まり目的なしの、
「時間つぶし」、
「近いから」、
「なんとなく」というのが多いし、むし
ろ私が言いたいのは、本来、公園空間の本質はこういうものです。普通多くのプロは、
何のために何をデザインするかを追求する。建築家は工場、学校、オフィスの機能と
形態を掲げるでしょう。機能を満たすためにデザインする。だから、これにはこうい
う施設がいい、こういう空間がいい、こういう雰囲気にしようと考える。でもしかし、
我々人間には明快な目的や機能を持たないでぼんやりしたい時が必ずあるんです。こ
の「時間つぶし」や「なんとなく」という空間をどういうふうに提供できるか。これ
は大事な公園の役割です。機能的な空間として当然建造物は設計される。だけど、ぼ
んやりしたい、しかもおカネもないけどぼんやりしたい、いい時間をどうやって過ご
させるか。それはパブリックパークの役割なんです。
都心の公園が都市開発の中でどういう役割を果たせるのか。それはそういう意味の
役割分担なのです。その両方がなければならない。共生関係ですね。
(図20)
次に、公園環境の評価調査もやりました。回りの「ビルが悪い」という意見が多い。
他は省略。
(図21)
次、公園利用者についての意見。悪い評価。
「浮浪者がいて困る」、
「ごみをちらかす」
などたくさんあります。いい評価では、
「マナーが良い」、
「楽しくしている」、
「のんび
りしている」、
「多様な利用ができる」、
「アベックが多くて来やすい」。それから利用状
態、「アベックが多い」。アベックが多いというと、昔は風紀が乱れるとすぐに新聞が
書きました。今は書きません。私は昨日ラジオでも言ったんですが、少子化の時代、
アベック、カップルが楽しく、いい時間を過ごせて、結婚したくなるような場所をい
かに提供するかは大事な公共事業ではないかと思っています。
(図22)
夜の公園利用についての意見です。「賛成」、「反対」、「どちらでもない」。これから
は、夜の利用を本気で考えなければいけないと思います。夜の公園をどれだけ楽しめ
るようにするかという配慮。照明だけではありませんで、安全安心な利用施設のデザ
インとメンテナンスが大事だと思います。
(図23)
次に公園イメージ調査をやり、因子分析をしてみました。
「使用感」、
「利用感」、
「占
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有感」と書きました。座り心地や素材、デザイン。目の前にあるものの感じ、清潔感
や清涼感。囲繞感、プライベートな空間をちゃんと手にしているかということがこの
中で出てきます。
(図24)
最後に、日建設計総合研究所と一緒にやった研究をご紹介して終わりたいと思いま
す。これからの話です。日比谷公園というのはいわゆる歴史公園ではない。歴史公園
とは何かというと、例えば昔の風土記の丘や歴史そのものを素材にした公園という意
味です。つまり、考古学や古い歴史を素材にした公園。これはあくまでテーマは歴史
で、それを公園という入れ物に入れているだけです。私は、それを歴史的公園だと言
いたい。日比谷は110年たった立派な歴史があります。公園の歴史そのものを自ら
体現した空間です。これはしっかりと守られるべきです。その守るということの重要
な公園として幾つかの歴史的公園をこれからか考えていくべきだと思っています。
ただ、都心に16ヘクタール(5万坪)あることの価値はあります。だから、ただ
歴史だから残しておけというわけにいかない。この経済的価値、その地価を考えたら
都民の財産としてどうあればいいかという議論はしなければいけないでしょう。
それから、公園と周辺開発の関係です。例えばニューヨークのセントラルパークは
できてから大体5~6年で元を取っています。マンハッタンの北のほうにあるおよそ
ニューヨークとしては大したことのない場所です。セントラルパークを造成すると、
周囲の土地の利用価値が上昇します。公園ができることによって周りがよくなる。そ
れによって地価が上がる、地価が上がると税金が高くなる。税収4~5年分でもう元
を取りました。つまり公園をつくることの開発価値を知っておいていただきたいわけ
です。公園は区画整理なんかではどうしようもないから市役所にとられてしまう。減
歩といって、ただ取られるんだと開発者は思う。でもそうではない。それがあること
によってどんなに価値が上がるか。価値が上がるようにつくっていかなければいけな
いし、育てなければいけないとは思いますが、そういうことでもあります。
そこで、日比谷の場合です。歴史的公園としての日比谷を現代的にどうするか。今
のままそっと保存するというプロテクションではないでしょう。やっぱりコンサベー
ションでいく。
「公園のオーセンティシティ」と書きました。日比谷の日比谷らしさと
は何か。これがオーセンティシティです。その真実性というものをちゃんと守りなが
ら、利用もしていくということです。
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(図25)
日比谷公園のオーセンティシティ。日比谷の構造、例えば大園路による地割りや、
それぞれの空間の持つ特質、あるいは樹木そのものが110年たって立派に成長して
いる。これは1本でも切らないようにしなければいけません。そういうことをやりな
がら使えるところはどこかということを考えていこうというわけです。
もう1つ公園にとって大事なことは周囲との関係です。私は、霞が関側の官庁街も、
グランドフロアは本来はパブリックなものにすべきだと思います。今はゲートをつく
って、どうでもいい守衛さんがたくさんいて、面倒くさいことをやらせていて、あれ
は本当にナンセンスですね。あれこそパブリックにして、外国人が来ても、そこが国
交省なら国づくり、まちづくり、農水省なら日本の農業、そういうのものが展示され
ていて、情報機器も置いてある。ここに来れば日本の全てがわかるとなれば、もっと
高度な観光スポットになるでしょう。都心というのはそういうものであるべきです。
もちろんそこにおしゃれな喫茶店やレストランもあったらいいでしょう。
そういうふうに考えていくと、日比谷公園というのはある種の時間的座標軸だと思
っているわけです。ここに100年前と変わらないものがあるということです。それ
が大事です。ビルや建物はどんどん変化していきます。変化する中に変化しないもの
がある。それは都市では河川や国分寺崖線とかの崖線。玉川上水。東京都の景観計画
ではそれを私は景観基本軸という名前をつけて、そこはしっかり守ろうと言いました。
私が委員長だったんです。そういうものが大事。皇居もそうです。そして日比谷もそ
うなんです。多分上野なんかもそうでしょう。
そして、周りとの関係を結んでいく。本当はこのあたりからデッキを通して、皇居
外苑ともつなぐべきですね。都市計画上は全体が都市計画中央公園になっているわけ
ですから、都市計画中央公園として日比谷から北の丸までをつないで、一連のものと
してこのオープンスペースを使えば、東京の都心はもっと楽しく、よくなるだろうと
思っています。専らこちらの建物側だけの再開発が進められているんですが、ぜひ緑
とのネットワークを忘れないでいただきたいと思っています。
(図26)
使える場所を探そうというわけです。
(図27)
日比谷公会堂の前の今の第二花壇の部分です。地下に道路公団がつくった駐車場が
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ある。都心に駐車場がなくてダメだというのは一時期のもので、今はみんなどのビル
も駐車場を内包していますから、不要なんです。そういう空間も活用しながら、オー
プンカットにした広場をつくって、いろいろなイベントもやれるようにしようという
提案です。それであれば、ほかに影響を与えません。それから、日比谷通り側の柵を
とって、楽しそうな喫茶店やレストランを入れていく、公園と有楽町側をつなぐとい
う提案であります。
少し雑然としていたかもしれませんが、日比谷に一度ぜひお運びいただきたいこと
と、そういう目で見ていただきたい。緑の空間という言い方で単に木が生えていると
いう価値しか皆さんは認めてくださらないんですが、私はそうではないと思っていま
す。東京の新しいビルには新しいビルの価値があるでしょうが、逆に、歴史的、自然
的な空間が持っている人を包み込むような温かさがここにあるだろうと思います。そ
ういう味わいと、周辺の新しい空間開発によって生み出す価値があるので、お互いに
役割分担をすることが必要ではないかと思います。
私は、日比谷公園の本をまとめるに当たって、公園というものが余りにも表面的に
しか理解されていない、その後ろに社会のさまざまなもの、例えば大都市最後の自由
空間であるということを書いたりしました。それはホームレスの話です。カップルの
話もそうです。そういうものはみんなおもしろ半分にしか捉えない。だけど、今日こ
こにおられる100人なら100人の中の3人はホームレス予備軍かもしれませんよ。
そういうことを考えれば、その居場所は、地下鉄もダメですし、デパートもダメです。
オープンな時間は全部認めます。だけど、必ず閉鎖して、ある時間から追い出すんで
す。追い出さないのは公園だけです。市民がうるさいことを言うから、ベンチに一々
出っ張りみたいのを入れて寝られないようにしている。ベンチというのは1人分寝る
にはちょうどいいんです。間に出っ張りをつくる。浮浪者の場合はそこにちゃんと段
ボールを詰めて平らにします。そうすると公園管理者は金具を入れて邪魔しようとす
るというイタチごっこをやっている。
私の尊敬する井下先生は、夜の公園利用や、公園とルンペンという論文を書いてい
るんです。その中でそういう浮浪者に対して温かく受け入れるべきなんだ、公園とは
そういう空間なんだと書いています。井下さんは多摩墓地の設計もやった人です。そ
の人がそういうことを書いておられます。もう1つ、公園の管理というのは現実だけ
ど、理想を持ってやらなければいけないということも書いておられる人です。
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このフォーラムは都市計画や建築が中心かもしれませんが、たまにこういう造園の
話も聞いていただきたいと思うし、今日は聞いていただいて大変ありがとうございま
した。終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。(拍手)
谷
公園として多くの興味深いお話を伺いました。私も、この冊子を見て先日行って
まいりましたけれども、今日先生のお話をいただいて、また新しい発見がいろいろあ
りますので、ぜひいらしてください。
そろそろお時間も来ましたので、これで終了させていただきます。先生、どうもあ
りがとうございました。(拍手)
(了)
進士 五十八 氏
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