53
2009
紀要
金沢美術工芸大学
Belgica, Personification of the Low Countries in Prints
during the Eighty Years’ War
BROOK TAYLOR
Rôjin
インタラクティブインスタレーションの制作3 伊藤英高
[制作記録]
インタラクティブインスタレーションの制作3
伊 藤 英 高
2006 年に制作した作品「経箱」を、新たに「経箱−
2008」として制作、東京と金沢において展示を行った。
存されてあり、抽選器の回転スピードに応じて再生
スピードが変化するようになっている。
「経箱」は、中古の抽選器を改造してセンサを組
さらに鑑賞・操作法の変更点として、観客が音声
み込んだ作品で、鑑賞者が回転させることで般若心
を聞き取る方法を電話の受話器に変更した。今現在
経を唱える音声が鳴り響く。古ぼけた道具に、新た
ではほとんど使われることのなくなった「黒電話」
な機能を「憑衣」させ、それを操作することで新た
の受話器を改造、コンピュータから送信される音声
な感覚を呼び起こそうとするものである。
を無線(FM 電波)で受信できるようにした。
この作品は、
チベット仏教で使用される摩尼車(ま
もう1つ、機能として追加している点がある。今
にぐるま)をモチーフとしている。摩尼車とは、経
回、2台の抽選器を使用しているが、それぞれの回
文が納められた筒のようなもので、片手で持てるも
転スピードが一致したとき、聞こえる音声が入れ替
のから寺院に組み込まれた巨大なものまで様々な形
わるようになっている。
態がある。手を使って1回転するごとに経文を1度
抽選器は丸い形の箱が支柱の上に取り付けられて
唱えたことになる。「経を唱える」ということがこ
おり、取っ手がついている。一目見ただけで、その
れほどまで軽く、容易な行為で代替できてしまうと
機能を知らない人でも取っ手をつかんでまわし始
いうこと。それは布教する側の手厚いサービスとも
めるであろう。黒電話の受話器も、その形状から誰
考えられるが、辛く長い修行を軽く飛び越えてしま
でもまずは耳にあてて音を聞いてみるだろう。現在
う悪く言えば節操の無さ、そこに潔さと心意気を感
の携帯電話と比較しても非常に分かりやすい形状に
じてしまうのである。宗教的な行動様式の中に見え
なっている。形態が機能を示していることで、多く
隠れする人間の本質、それを作品のテーマに、コン
の人がためらわずに行動を起こせる、ということも
ピュータをより親しみやすい形で使用し、
制作した。
この作品の 1 つのテーマになっている。現在のコン
今回の制作にあたっては、単なる再制作ではなく
ピュータ、電子機器の操作において、操作の複雑
さが初心者の習熟の妨げになっているが、シンプル
技術的な更新と内容の変更を行った。
2006 年の制作時では抽選器に組み込む無線セン
サとしてワイヤレスマウスを使用したが、今回の制
な操作でより豊かな機能を体感できることが重要に
なってくるだろうと思われる。
作では、家庭用ゲーム機「Wii」のリモコンを改造
「経箱−2008」は、2008 年 7 月 14 日∼ 26 日「曖昧な
したものを使用した。Wii リモコンは三軸加速度セ
領域 ambiguous domain」
(ASK? art space kimura
ンサが用いられており、無線によって角度の情報を
東京)、2008年10月22日∼10月29日「美大アートワー
送信することができる。通信方法として Bluetooth
クス 2008」
(金沢市民芸術村)において展示された。
が採用されているので、展示会場の裏側に設置した
コンピュータによりデータを受信、
回転方向・スピー
ドを割り出し、音声ファイルの再生をコントロール
させる。音声ファイルには般若心経を唱える声が保
̶2̶
(いとう・ひでたか 共通造形センター/
映像メディア)
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
「経箱− 2008」
金沢市民芸術村での展示の様子
無線センサの仕組み
̶3̶
メキシコ・ハラパにおける研究活動「2人の日本人現代美術作家展」
遠藤研二
[制作記録]
メキシコ・ハラパにおける研究活動
「2人の日本人現代美術作家展」
遠 藤 研 二
2007 年 11 月 15 日から 12 月 4 日までメキシコ・ハ
工芸大学の出身で、現在はベラクルス州立大学芸術
ラパにおいて開催された、
遠藤研二と矢作隆一の
「2
学部美術科彫刻専攻の非常勤講師を勤められており
人の日本人現代美術作家展」について報告します。
ます。また同氏は現在、ハラパ市内で日本料理店を
この展覧会はメキシコ・ハラパ市にあるベラク
経営しており、その建物にはギャラリー・ネブロッ
ルス州立大学の協力の下、現地在住で本学卒業生
サという画廊も併設され、展覧会をする作家のレジ
の矢作隆一氏と昨年度金沢美術工芸大学CARK
デンス施設として機能しています
プロジェクトにより招聘されたアドレアン・メン
私の制作は矢作氏の協力により、ベラクルス州立
ディエタ氏の 2 名企画による展覧会です。ベラクル
大学の彫刻科スタジオを借用させていただき行うこ
ス州立大学所有の画廊でハラパ市内中心部にある
とが出来ました。公立大学のため設備は貧弱で不十
[GALARIA UNIVERSITARIA RAMON ALVA
分でしたが、矢作氏および専任教員のウロシュ氏の
DE LA CANAL]にて開催されました。大学所有
協力で無償で貸していただいたことは非常にありが
の画廊としては大規模なものでスタッフもディレク
たいことでした。市の郊外に位置するので通うのが
ターを中心に常駐しており、しっかりした体制を整
不便ではありましたが、バスが夜 1 1時くらいまで
えております。ベラクルス州立大学はこのほかに 2
通っていたので順調に制作をおこなうことができま
つの画廊を所有しており、大学の成果を社会に還元
した。矢作氏の画廊から片道約40分程度です。
していると言えるでしょう。矢作隆一氏は金沢美術
ベラクルス州立大学芸術学部美術科彫刻専攻スタジオ外観と内部の様子
11 月 15 日木曜日オープニングで、2 人とも厳しい
スケジュールのなか時間一杯まで制作し、どうにか
が貼られ、どこの床屋に行ったか鑑賞者に理解でき
るよう示してありました。
遠藤研二は往来のLED等の電飾関係を使わず、
開催することが出来ました。矢作氏は 3 年間におよ
び市内の床屋をくまなく歩き回り、職人を写真に取
今回新たな手法の作品を制作しました。コンセプ
り、自分の髪を刈って収集するというコンセプチャ
ト自身は以前からの宇宙進出に関する希望を表した
ルな仕事を発表しました。会場にはハラパ市の地図
もので変更は無いのですが、表現手法を変えてみま
̶4̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
した。素材は主に鉄を使い、今回初めて一部ステン
ら人工衛星が地上をカメラで捉えているというもの
レスを使用しました。軟鋼にステンレスを使用する
で、滞在制作の地であるハラパ周辺(ベラクルス州
ことでステンレス溶接ビードは腐食せず、鉄の部分
全体も含む)の地形を表したものです。地図を描い
のみが酸化することにより、色の違いが明確になる
たと言っても良いでしょう。タイトルは「神の目」
のです。平面作品も 5 点ほど制作し、大きな作品を
です。矢作氏は2階に作品を展示しました。
1 点会場の中心に据えました。コンセプトは宇宙か
会場風景:左は遠藤研二、右は 2 階矢作隆一氏の作品展示
オープニングには300人近くの鑑賞者が来場し
なうことができたと思います。
ました。企画者であるアドリアン・メンディエタ氏
の挨拶を皮切りに開会の儀式が執り行われ、TV局
も取材に訪れました。大変有意義な研究活動をおこ
̶5̶
(えんどう・けんじ 共通造形センター/
ミクストメディア)
オリジナルテキスタイルによるスカーフデザイン 大野悠
[制作記録]
オリジナルテキスタイルによるスカーフデザイン
大 野 悠
はじめに
ない。各工程につき何百から何千という本数の糸を
学生時代から織物を始め、その当時は自分で布を織
処理していくのだから、相当な忍耐力を必要とする。
り上げることに専念し、素材の温かさと表情の豊か
気の遠くなるような工程が続き、ようやく製織にか
さに魅了されながら制作を進めていた。卒業後勤め
かることができる。手織りにも機械にも共通して言
た会社では、学生時代の経験を生かすことができる
えることだが、織物制作の中でタテ糸を織機にかけ
部署に配属され、素材選びから織物の設計などを考
る工程が一番大変な作業である。
えオリジナルの布を企画するというやりがいのある
今回の企画では、このような織物特有の制約に配
仕事に恵まれた。学生時代との大きな違いは布の生
慮しながら効率を良くするために、2 つのデザイン
産現場と連携しながらモノづくりをすることで、そ
「potsu potsu scarf」と「shima shima scarf」のタ
れを経験できたことと、職人との出会いは一番の財
テ糸を共通で使用することにした。ただ、デザイン
産だと感じている。
性に差を持たせる配慮を徹底させ、見た目は全く違
産地ごとに特化した生地づくりを行う国内の現場
う印象のものに仕上げるように計画した。タテ糸に
は、和装が主流だった時代に引き続き、現在もなお
使った糸は 21 デニールを 2 本合わせた絹糸。髪の毛
緻密で繊細な仕事を得意とする。使用する素材、糸
より細く繊細な絹糸である。そしてそのタテ糸に打
の太さ、撚りの回数、織る時の糸の並びや密度、テ
ち込むヨコ糸はそれぞれの企画で差別化した。ヨコ
ンション、仕上げ方など、微妙なバランスの違いで
糸を変えることはタテ糸を変えることに比べれば比
仕上がりが大きく変化する。それゆえ手を抜くこと
較的容易なこと、ヨコ糸の違いにより布の厚みとテ
ができず大変奥深い。単純に細くて繊細、というわ
クニックに変化を持たせる。
けではなく、肉厚だったりざっくりした布でも、日
その他、今回配慮した点は染色コストを削減するた
本の布には繊細な気配りが見てとれる。日本の布が
め、使用量の少ないウールの糸に関しては、紡績工
評価される理由は、そのひとつひとつの工程に対す
場が常にストックしている染色糸のサンプル帳から
るこのような配慮があるからこそだと感じる。
ピックアップした。今回選んだラムズウールの糸は、
今回オリジナルのテキスタイル企画を進めるに当た
本来主に横編み用として使用する糸で、織物用の糸
り、これらをふまえて考察した経緯を報告する。
に比べると糸値が高く撚度が甘い。強いテンション
をかける織物の特にタテ糸用としては、強度が足り
織物の制約
ない等の物性的な問題が発生することもあり、一般
そもそも織物はタテ糸を張る為に多くの時間を要す
的に織物製品としての使用は避ける傾向にある。し
る。何百から何千という糸を、反物分の長さと本数
かし今回のような多色使いでありながらも小ロット
を測りながら整列させていく(整経)
。測ったタテ
でヨコ糸のみの使用というケースでは、染色を依頼
糸を一本一本「綜絖」という数ミリの穴に通してい
するより割安で物性面もクリアでき、しかも風合い
く。もしくは繋いでいく。その後、「筬」という櫛
が良いという理由から、使用する価値があると考え
のような部分に、やはり一本一本通さなければなら
た。選んだ糸はトップ(わたの状態で染色し、複数
̶6̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
の色を混ぜながら糸を紡績する方法で、霜降りに仕
風合いの良さを引き立たせる。
上がり、色に深みや立体感が出る)で豊かな色合い
が美しい。染色糸量 5kg や 10kg などという満たす
職人との布づくり
べきロットを満たさずとも、最小限に抑えることが
自分自身のテキスタイル企画に際して続けていきた
できた。
いことが、そういったいわゆる「職人」が存在する
このような糸選びや織物テクニックを検討する際、
生産現場との共同作業だ。職人と話し、理想の密度
信頼する糸商や織物工場の方とのコミュニケーショ
や素材使い、柄のイメージ、制作意図を伝えながら、
ンなしでは進めることはできない。あるものだけを
話を詰めていく。相手からも色々なアイディアが
使うのではなく、出来ない事を貫くでもなく、もの
出てくる。ひとつひとつの課題をクリアーしながら
づくりの現場と実現させたい企画をいかにすり合わ
布がイメージ通り、もしくは期待以上のクオリティ
せていくかが最大の山場でもあり醍醐味とも言える。
に上がっていく度に感動がこみ上げてくる。それは
テキスタイルを企画するに於いて、織物だけでな
自分の手だけではなしえないものづくりであり、職
く繊維を扱う上での様々な制約やルールを知ること
人の繊細で緻密な技術と知恵があってこそ完成す
で、コストの面から配慮することもでき、さらにこ
る。今回織物とは別に企画したフェルトによる「tun
だわりを徹底させることもできる。
tun muffler」
「en en muffler」では、日本のたなば
た飾りのシャープな美しさと立体感を利用したテキ
potsu potsu scarf 素材:silk・lamie・wool
スタイル作りを計画したわけだが、使用するフェル
細い絹のタテ糸に対し、ヨコ糸には着物の上布に
トは、以前から気になっていたフェルト作りを得意
使われる苧麻の細い糸を使う。その糸に追撚(メー
とする職人に依頼。より立体感を出すために表裏の
ター何十回、何百回と撚りを加えること)し、強撚
色を変え、さらにフェルトの風合いにこだわりを見
糸(撚りの強い糸。撚りの効果で糸が縮もうとしシ
せる等、試行錯誤を経て職人の勘と技術が光る仕上
ボの効果を持たせることができる。和装でいう縮み
がりとなった。現場にとって、こういった仕事は時
や縮緬に使われる。
)を作る。追撚の回数が少し違
間がかかり、決して儲かる布づくりではないが、そ
うだけで仕上がる織物の表情は大きく変わる。そこ
れでも「出世払い」といいながら私の布づくりに付
にも職人とのやり取りが生きてくる。その糸をヨコ
き合ってくださる。「面白くない企画をもってきて
糸として打ち、生地に独特の表情としっとりした肉
もやらないぞ」とプレッシャーをかけてくれる。デ
感を与えた上で、ジャカード織機の特徴と組織を駆
ザインをする側と技術をもつ現場が、お互いの良さ
使し、ウールフェルトのポツポツした意匠を加える。
を引き出し、刺激しあって新しい可能性を探ること
むす苔に光るしずくのイメージ。
が私のモノづくりのコンセプトであり、本物のスペ
シャリストたちとともに布に命を吹き込んでいく姿
shima shima scarf 素材:silk・wool
勢で仕事に携わりたいと思っている。
絹の細い強撚糸をヨコ糸に打ち込んだ透明感のある
(付記:本作品は平成 19 年度奨励研究の成果である)
地と、ざっくりとしたウールの組み合わせが、新し
い風合いをもたらした。表情の豊かな shima shima。
イレギュラーな縞構成に加え織組織による変化をつ
け、さらに奥行きを持たせた。上品さと温もりを損
なわぬよう、配色展開させる際の色彩バランスに配
慮した。見た目は重厚感がありそうだが予想に反し
て軽く、さらにラムズウールの柔らかさがますます
̶7̶
(おおの・ゆう ファッションデザイン/
テキスタイル)
オリジナルテキスタイルによるスカーフデザイン 大野悠
̶8̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
̶9̶
The Bulletin of Kanazawa College of Art No.53 2009
Belgica,
Personification of the Low Countries in Prints
during the Eighty Years’War1
YASUI Ayumi
I. Introduction
It is well known that many pamphlets and broadsides
were put out in the age of Reformation. Catholics
and Protestants used the image as a weapon. These
became the propaganda of both sides. One of
the most commonly used images was that of the
monsters from the Apocalypse, for example, the
seven-headed dragon. The seven-headed Popemonster with the text by Hans Sachs was brought
out against the famous seven headed Luther (fig.1, 2).
The Eighty Years’ War or Dutch Revolt began about
a half century after the Reformation. Although, in
fact, many more pamphlets and broadsides were
published during the Eighty Years’ War, only few
are generally known. 2 Belgica, personification of
the Low Countries, on whom I will focus in this
paper, is one of the most significant symbols from
this time. She was portrayed sometimes half naked,
surrounded by soldiers, and lamenting over the
misery of the war, sometimes rescued by the hero.
My purpose in this paper is to analyze various
representations of Belgica in prints and drawings
and to examine the meaning of this personification
from a gender perspective.3
First of all, I will explain the term Belgica,
which is not to be confused with present- day
Belgium. Each of the words, Belgica, Belgic,
Belgium means the whole of the Low Countries in
the usage of the 16th and 17th centuries. After the
divisions of the Low Countries, this usage persisted,
while also other names were used.4
Belgica belongs to t he t raditiona l
geographical personification of territories or lands
from the Roman Empire. The crown in the form of
a town wall, with which Belgica is often crowned,
alludes to her origin. Why is the personification of
territories or lands female? For now, I will not argue
about this problem, I shall return to it later. This
Latin name was already found in Caesar’s “Gallic
Wars”; Romans called people in the northern
region ‘Belgae’. From the end of the 14th century,
the Low Countries were for a long time a part
of Burgundy, and at the end of the 15th century,
became a Hapsburg territory. Charles V established
the seventeen provinces, and under his relatively
tolerant policy, a consciousness of regional unity
developed. When Phillip II, son of Charles V,
succeeded to the throne of Spain, he tried to abolish
all Protestantism and charged new taxes, because
Spain was in economic difficulties. Portions of the
Netherlands rebelled against the tyranny of the
Duke of Alva, sent by Phillip II. The personification
Belgica appeared at that time. People needed
probably a symbolic figure of national unity.
The female personification was portrayed
not only alone, but also as a group of seventeen
maidens representing seventeen provinces, or as
one definite province such as Brabant. Although the
personification of the Low Countries is somewhat
complicated, here I will consider all kinds of female
personification under the name of Belgica.
̶ 11 ̶
[Keyword]
Personification Gender Propaganda Print Drawing
Belgica, Personification of the Low Countries in Prints during the Eighty Years’War YASUI Ayumi
II. Five Types of Belgica
Through my analysis, I tried to divide the various
images of Belgica into five types. The first is ‘Belgica
in suffering’, the second, ‘Belgica in Glory’, the
third, ‘Rescue of Belgica’, the fourth, ‘Religious or
moral interpretation’, and the fifth, ‘Allegory of love
or marriage’. I will describe each type with some
examples.
I begin with a typical example of antiC a t hol ic o r a nt i - Sp a n i sh p r o p a g a n d a , t h e
‘Emblematic Contrast of Orange and Alva’ (fig.3).
Contrasting the images of ‘Good’ and ‘Evil’ is one
of the most frequently used means in propaganda
pamphlets and broadsides. ‘Good’ is represented
as a desirable state, and ‘Evil’ as undesirable. This
anonymous print has a very clear composition.
Here, the two main opponents in the first decade of
the Eighty Year’s War, Willem I, Prince of Orange,
and the Duke of Alva, are depicted accompanied
by allegorical figures on either side of the print.
The allegorical figures characterize their rule in
the Netherlands. It is not difficult to decode, as
each allegorical figure bears a name inscription.
The Duke of Alva is crowned by the double-faced
Falsehood (Fallacia), carrying a torch and a bucket
of water as symbol of her deceptive nature, and
the old woman Envy (Invidia). Next to Alva, we
find the naked chained Belgica with a city-crown.
Alva shears away her richness with a pair of shears
in his hand. On the ground, the People (Plebs) is
in poverty and begging. On the contrary Willem
is surrounded by Wealth (Divitiae), Wise Counsel
(Prud.Cons.) and Honor, crowning the laurel wreath
on the Prince. Above them, the female figure with
two trumpets heralds the Fame (Fama) of Willem
and, at the same time, the infamous reputation
(Infama) of Alva. In the background, we can see
Spanish plunderers in the city of Antwerp. Under
the image, there are inscriptions in Dutch and
French. This indicates that the print was addressed
also to French readers. Print was a means to
convey the situation to foreign countries. Next to
the inscriptions, there are two small images from
the Exodus. On Willem’s side, we can see the
supper of Passover, and on Alva’s side, the troops
of the Pharaoh in the sea. Willem is compared to
Moses who rescues the Israelites (representing the
Netherlands under the tyranny of Spain), Alva to
Pharaoh, who was punished by God. These episodes
from the Old Testament make the upper image more
universal.
The Belgica in this print I call the ‘Belgica
in suffering’. The Female personification is naked,
chained and in captivity. The next example,
‘Lament over the Desolation of the Netherlands’,
shows a more miserable Belgica, although she is
not chained (fig.4). Belgica is being raped, robbed
and pulled by her hair by four Spanish soldiers.
She is calling for help. On both sides of her there
are two allegorical female figures, one, richly
dressed Ambition (Ambitio), and the other, old
woman Greed (Avaritia), hunting for money. They
support the Spanish soldiers. At the top of the
image, Loyalty (Fiducia) preserves the unity of the
nation, represented by the shields of the seventeen
provinces, not to be broken by Distrust (Diffidentia)
and Envy (Invidia). By some allegorical elements
and the fact that Belgica has had her heart stolen
by soldiers, we recognize the image as an allegory.
Nevertheless, it looks like nothing other than the
female victim in war.
In contrast to this tragic Belgica, ‘Belgica
in Glory’ is wealthy, dressed, and sits on a throne
(Belgica florens – Belgica destructa). Her crown is
not a city-crown, but a normal one. In a drawing
̶ 12 ̶
The Bulletin of Kanazawa College of Art No.53 2009
by Maarten de Vos of 1585, Belgica is represented
twice, above and below, within the architectural
setting (fig.5).5 Lower Belgica in the architecture
is ‘Belgica in suffering’, surrounded by Spanish
soldiers. She is half-naked and lamenting over this
situation. Higher Belgica on the architecture is
richly dressed and majestic. On both sides of her,
scenes of prosperity through commerce on land and
sea are portrayed. ‘Belgica in Glory’ may represent
former prosperity or desirable glory in the future.
Although Belgica is suffering under Spanish
rule, she hopes to be rescued. She never does
anything by herself, but is rescued by someone.
The composition of ‘Rescue of Belgica’ is often
borrowed from traditional Christian or mythological
iconography. The ‘Good’ or hero fights the ‘Evil’ or
dragon to rescue the princess. Using a well-known
image makes the subject matter more recognizable
and universal. Hero, in this case, is none other
than Willem of Orange. ‘The Shield of Wisdom’
of 1577-1598 attributed to Hieronimus Wierix
reminds us of ‘Perseus and Andromeda’ (fig.6). As
Andromeda, a female personification is chained
to the tree, and she is identified as Brabant by her
shield. The sixteen other provinces are seated on
the ground, each with its own shield. Willem, as
Perseus, is armed with the shield of Wisdom and
attacks the huge sea monster with the coat of arms
of Phillip II on the back, and the shield of the Duke
of Alva on the breast. His actions are blessed by the
hand of God above the prince. This image would
be the reflection of a “tableau vivant” performed
in the festivities accompanying Willem’s triumphal
entrance into Brussels in 1577, which portrayed
Willem as Perseus, the liberator of the Netherlands.
Another example is ‘Saint George and the
Dragon’. Saint George is one of the most famous
Christian knights, fighting against the dragon,
representing the anti- Christ. In ‘Willem as St.
George’ by Marcus Gheeraerts the Elder, Willem
as Saint George slays the dragon and rescues the
princess with her city-crown (fig.7) .
As ‘Religious or moral interpretation’, I will
first consider the double image of Belgica and the
personification of patience (Patientia). The theme of
Patience was favored by Netherlands artists.6 Pieter
Bruegel the Elder is its prominent forerunner, who
executed ‘Patientia’ in much the same way as his
series of prints of the Seven Deadly Sins and the
Seven Virtues. Bruegel’s Prints of 1557 had much
impact on later artists (fig.8). In Gilis Mostaert’s
drawing, evil monsters surrounding ‘Patientia’ in
Bruegel turned into real Spanish soldiers (fig.9).7
The next example is somewhat exceptional:
it is a case of the Spanish tyranny depicted as
the wrath of God. ‘The Globe with Netherlands
Allegories’, by an anonymous artist, is a series of
four prints, depicting images in a globe with motto
and verse, mainly from the Old Testament.8 It looks
like an emblem book. The first print portrays the
rise of the country to wealth and power (fig.10). The
female personification is surrounded by her cities
and provinces as boys with city-crowns, engaging in
various trades. The map on her lap indicates the city
of Antwerp (the river Scheldt is seen). An angelical
figure of Fortune brings her the profits.
The second print depicts the misuse of her
richness and worldly pleasure (fig.11). Belgica is
seated on her throne with a peacock. Next to her a
young man takes her money and scatters coins on
the ground, which are gathered by two women, one
clothed and the other naked. Three boys with citycrowns argue over biblical interpretation. A fool
looks at their arguments.
The third print, entitled ‘Evil World’,
represents the punishment of God (fig.12). God has
̶ 13 ̶
Belgica, Personification of the Low Countries in Prints during the Eighty Years’War YASUI Ayumi
sent the Rod of His anger as shown in verse. The
Rod of God roots from Isaiah (10:5-6). The Rod is
here an armed warrior, whose helmet ends, in fact,
as the rod in the hand of God. Belgica herself lies
blindfolded, naked and bound on the ground. She is
trod upon by the Rod and the female personification
of Violence, who hands the sword to the Rod. The
Rod can be surely identified as Alva. In some cases,
the same allusion was used in this time.
The fourth print portrays the resulting
conversion and deliverance (fig.13). Belgica has
returned to God through prayer. God’s hand with the
crown is visible in the clouds above her. God casts
the Rod into Hell.
T h i s s e r i e s , r e p r e s e nt i ng r el ig io u s
interpretations of historical events, was executed
probably by Catholics. Because of her sin, the
unawareness that the prosperity of the Netherlands
was dependent upon God, Belgica was punished by
God. The richly dressed Belgica suggests, in this
case, the state of sin. Finally, she is saved, but still
naked and bound.
I call the representation of Belgica with
a male partner in the context of love, ‘Allegory
of love or marriage’. Joachim Wteweal’s series of
13 drawings, including copies, portrays a heroine
who meets various men, by whom her life is
changed. According to Elisabeth McGrath, the
story corresponds to the history of the Netherlands.9
A man looking like a bridegroom, nestling close
to her, is probably Phillip II. The one who treads
on Belgica is Alva, while Willem offers a helping
hand. The next leader of Belgica is Maurice, son of
Willem, who was assassinated in 1584. At the end,
she is seated on her throne, receiving gifts from
Indians. Her destiny depends on her partners.
A somewhat ridiculous example is a scene
from Joris Hoefnagel’s ‘Patientia’ manuscript
emblem book of 1569.10 ‘The Patient Lover’ depicts
Belgica as the beloved, saying ‘I do not believe
you’ and resisting the advance of the lover. His
name ‘señor don calf van Lire’ is a word play and
an elision of the name of Duc alfa. The servant
says ‘O how painful it is for the smitten one to love
and not to be loved’. She escapes cleverly from the
dangerous man (fig.14).
III. Representation of the Self
I suppose that ‘Belgica in suffering’ is the most
intensive representation of all five types. In this
type, sometimes, physical pain is emphasized. It is
an effective message. The symbolic figure seems
to have a real body. Interestingly, this ‘real body
of a symbolic figure’ is recognized also in the
representation of the Lion, another symbol of the
Low Countries (Leo Belgica). When the Lion is in
glory or fighting bravely, it is portrayed in the typical
pose of a coat of arms. We find the symbolic lion
with a sword and a Phrygian cap in Jan Saenredam’s
print, celebrating Maurice’s victory against Spain
in Nieuwpoort in 1600 (fig.17,18). When the Lion is
in suffering or has no power, it is represented as a
mere animal. ‘The Plight of the Netherlands’ Lion’
portrays the lion crushed in a wine press by Alva,
Margaretha of Parma and others (fig.16).11
As I have already mentioned, Belgica
belongs to the class of personifications of territories
or lands from the Roman Empire. The Roman
portrayed their territories as a naked woman,
conquered, chained and mourning. This tradition
was used as the representation of the conquered new
continent during colonial periods. In this case, the
conquered continent is the anti-Self or the Other,
contrasting with the civilized Self. But Belgica is
the representation of Self. How should we interpret
this image of Self? In war propaganda in the 20th
̶ 14 ̶
The Bulletin of Kanazawa College of Art No.53 2009
Century, it is sometimes seen to represent oneself as
a victim, with the enemy as a brutal assailant. But
the representation of Belgica should not be confused
with the modern propaganda imagery. We remember
the contrast between the desirable and undesirable
states in the fi rst example, ‘Emblematic Contrast
of Orange and Alva’. ‘Belgica in suffering’ is the
undesirable anti-Self, always entertaining the hope
of becoming ‘Belgica in Glory’ as the desirable Self.
It may be called ‘the divided Self’.
Belgica’s passive character also probably
reflects the historical background. At the beginning
of the Eighty Years’ War, the Netherlands did not
rebel against Phillip II, but the Duke of Alva. It was
not a religious war in a precise sense, Protestants
and Catholics both sought to hold their own rights.
It is interesting that, in the letter to Phillip II in
1571, Willem accused Alva of acting as if he were
the king, and emphasized the fight against the tyrant
to maintain the honor of the king Phillip.12 After the
Union of Utrecht (1579) the State abjured Phillip
II and asked the Duke of Anjou to he its new lord,
but its expectation was betrayed.13 It continued to
seek another lord, but did not succeed.14 Finally, it
chose the road to independence. Before its decision,
the relationship of Rulers to Subjects as Males
to Females, or of gendered Nations could rather
be emphasized. I suppose that the Netherlands
representing themselfs as a weak, powerless female
figure would reflect of the power politics of that
period.
On the frontispiece of a book about the
history of the Netherlands by Emanuel van Meteren,
Belgica is represented twice with other historical
scenes. In the Latin edition of ca.1600 (Fig.19) 15
and the German edition of 160416 , ‘Belgica in
Glory’ is depicted on the top and ‘Belgica in
suffering’ beneath, as in the drawing of Maarten de
Vos (fig.5). But in another book by the same author
of 160817, each Belgica is dressed and enthroned,
although the composition of the frontispiece is
almost the same (fig.20). Two Belgica with citycrowns are like twins. Since each scene has a
number, we find that the story begins from the top.
Behind Belgica on the top, we can see the soldiers
or the evil closing upon her. She is unharmed,
looking somewhat embarrassed (fig.21). The second
Belgica represented beneath is surrounded by the
people celebrating peace and liberty (fig.22). In
the year following 1608, a twelve years’ truce was
established between the United Provinces and Spain.
Perhaps the tragic representation of ‘Belgica in
suffering’ had served her purpose and disappeared.
IV. Conclusion – Could Belgica become
independent?
Lastly, I will show a print by Chrispijn de Passe the
Younger, representing the political situation of the
road to the Treaty of Münster through the allegory
of marriage. This belongs to the type of ‘Allegory
of love and marriage’ (fig.15). In the middle, the
bride Hollandia18 is seated. Two suitors, Spain on
the right and France on the left, bring her many
presents. Who does she choose? The verse under the
image tells us that she accepts neither courtship and
chooses the Netherlands behind her. It is interesting
to use the allegory of marriage to represent the
independence of the United Provinces. The bride
needs a bridegroom. The one who protects her is
a man. I suppose that, during the Eighty Years’
War, Belgica, after all, could not act by herself and
escape her original character of personification of
territories or lands which belong to someone.
̶ 15 ̶
Belgica, Personification of the Low Countries in Prints during the Eighty Years’War YASUI Ayumi
Notes
de Vos was registered as a Lutheran in 1585.
6
1
This paper is a revised version of my lecture on 14
see Boon Karel G., Patientia dans les gravures de la
March 2007 at University College Ghent, Faculty of
Réforme aux Pays-Bas, Revue de l’Art 56, 1982,
Fine Arts. I am grateful to University College Ghent,
pp.7-24.
Faculty of Fine Arts and Kanazawa College of Art for
7
De Temmerman, Prof. Peter Desmet and Mr. Jan De
8
this time. It is a device to make historical scenes more
also to Prof. Jean- Christophe Terrillon and Mr.
universal. Texts in prints are as follows; 1) Wisdom of
Mark G. Elwell, from the Japan Advanced Institute
Solomon(1:7); 2) Ephesians (4:9); 3) 2 Esdras(6:9); 4)
of Science and Technology, for help in correcting
Isaiah(14:11)
9
McGrath, op.cit. Joachim Wtewael was a Calvinist and
the Symposium ‘War and Memor y’ held under
anti-Spanish. McGrath dated these drawings just after
the auspices of Image & Gender and Meijigakuin
the 1609 Truce.
University on 18 October 2003, and published in
10
Japanese on 30 March 2004.
Joris Hoefnagel executed this manuscript during his
exile in England.
The following catalogue is very useful to study
11
prints during the 80 Years’ War. Tanis, James/ Hosrt,
It would be no coincidence that this image reminds us
of the iconography of ‘Christ in the Wine Press’.
Daniel, Images of Discord, cat. exh. Byn Mawr
12
Tanis/Horst, op.cit., p.30.
College Library, 1993. See also Harms, Wofgang(ed.),
13
The Netherlands had no intention to give political
Deutsche illustrierte Flugbl ä tter des 16.und 17.
power to Catholic Anjou. But the French Duke did
Jahrhunderts, 4vols., Tübingen, 1985; Bussmann,
not understand it. The Betrayal of Anjou caused the
Klaus/ Schilling, Heinz, 1648 War and Peace, cat.exh.
‘French Fury’ in 1583.
and articles, 3vols., Münster/ Osnabruck, 1998. For
14
They tried to ask King Henry III of France and
Dutch Revolt generally, see Paker, Geoffrey, The Dutch
then Queen Elizabeth of England, but both refused
Revolt, London, (1977)1990; Gelderen, Martin van,
the proposal. The Earl of Leicester, one of Queen
The Political Thought of the Dutch Revolt 1555-1590,
Elizabeth’s confidants, became Governor-General
Cambridge, (1992)2002.
1586, but he returned to England the following year.
An important study on the iconography of Belgica is
15
by Joachim Wtewael, Journal of the Warburg and
16
Emanuel van Meteren, Historia, Oder eigentliche und
warhaffte Beschreibung..., Arnhem, 1604.
Courtauld Institutes 38, 1975, pp.182-217. I was
greatly inspired by her article.
Emanuel van Meteren, Historia Belgica Nostri…,
Antwerp, 1600(?).
that of McGrath, Elisabeth, A Netherlandish History
4
Such images in a globe are often seen in prints from
Jonckheere for organizing the lecture. I am grateful
my English text. The paper was fi rst prepared for
3
Gilis Mostaert (1534 -1598) was a Catholic and
anti-Spanish.
the exchange program and especially to Prof. Wim
2
For the iconography of Patientia in the Netherlands,
17
Emanuel van Meteren, Commentarien ofte Memorien
For the north ‘Belgica foederata’, ‘Belgica libera’,
van den Nederlandischen Staet, Handel, Oozlogen...,
‘Batavia’ and ‘Hollandia’, for the south ‘Belgica
Amsterdam, 1608.
Cat hol ica’, ‘Belg ica H ispa n ica’ a nd ‘Belg ica
18
See note 4.
Archducibus subdica’. McGrath, ibid., p185, note 18.
5
This drawing was executed probably for print. Maarten
̶ 16 ̶
(Associate Professor of Art History)
The Bulletin of Kanazawa College of Art No.53 2009
Fig.1, Anon., The seven-headed Pope-monster,
Woodcut, 1530
Fig.2, Hans Brosamer, The seven-headed
Luther, Woodcut, 1529
Fig.3, Anon. (Theodoor de Bry?), Emblematic Contrast of Orange and Alva, Engraving, ca.1570-72
̶ 17 ̶
Belgica, Personification of the Low Countries in Prints during the Eighty Years’War YASUI Ayumi
Fig.4, Hans Colleart I after Ambrosious Francken, Lament over the
Desolation of Netherlands, Engraving, ca.1570-80
Fig.5, Maarten de Vos, Allegory on the
Decline and Prosperity of Antwerp,
Drawing, 1585, Muesum Boijmans Van
Beuningen, Rotterdam
Fig.6, Hieronymus Wierix (attr.) after Maarten de Vos(?), The Shield of
Wisdom, Engraving, 1577-1580
̶ 18 ̶
Fig.7, Marcus Gheeraerts the Elder, Willem
as St. George, Etching, ca.1576
The Bulletin of Kanazawa College of Art No.53 2009
Fig.8, Pieter van der Heyden after Pieter Breugel the Elder, Patientia, Engraving, 1557
Fig.9, Gillis Mostaert, Patientia, Drawing, 1585, Museum Plantin-Moretus/Prentenkabinet,
Antwerpen - UNESCO World Heritage
̶ 19 ̶
Belgica, Personification of the Low Countries in Prints during the Eighty Years’War YASUI Ayumi
Fig.10, Anon., The Globe with Netherlandish Allegories,
the first print, Etching, ca.1570-72
Fig.11, Anon., The Globe with Netherlandish Allegories,
the second print, Etching, ca.1570-72
Fig.12, Anon., The Globe with Netherlandish Allegories,
the third print, Etching, ca.1570-72
Fig.13, Anon., The Globe with Netherlandish Allegories,
the forth print, Etching, ca.1570-72
̶ 20 ̶
The Bulletin of Kanazawa College of Art No.53 2009
Fig.16, Anon., The Plight of the Netherlandish Lion,
Engraving, 1570
Fig.14, Joris Hoefnagel, The Patient Lover, from the
Manuscript ‘Patience’, 1569, Bibliothèque
Municipale, Rouen
Fig.17, Jan Saenredam, Allegory of the Victory of the
United Provinces, Led by Maurice of Nassau,
over Spain, Engraving, 1600
Fig.18, Detail of fig.17
Fig.15, Crispjin de Passe the Younger, Netherlandish Bride, Courted
by Suitors, Engraving, 1646-48
̶ 21 ̶
Belgica, Personification of the Low Countries in Prints during the Eighty Years’War YASUI Ayumi
Fig.19, Frontispiece of Emanuel van
Meteren, Historia Belgica Nostri…,
1600
Fig.20, Frontispiece of Emanuel van
Meteren, Commentarien ofte
Memorien …, 1608
Fig.21, Detail of fig.20
Fig.22, Detail of fig.20
̶ 22 ̶
The Bulletin of Kanazawa College of Art No.53 2009
Photo Acknowledgements
Fig.1, 2: Bott, Gerhard (ed.), Martin Luther und die
Reformation in Deutschland, exh.cat., Germanischen
National Museum, Nuremburg, 1983, p.234
Fig.3, 4, 6, 7, 8, 10, 11, 12, 13, 14, and 16: Tanis, James/
Hosrt, Daniel, Images of Discord, cat. exh. Byn Mawr
College Library, 1993, p.76, 107, 110, 33, 15, 96, 98, 100, 54
and 59
Fig.5 : Museum Boijmans Van Beuningen, Rotterdam
Fig.9: Museum Pla nti n - Moret us / P renten kabi net,
Antwerpen - UNESCO World Heritage
Fig.15: Harms, Wofgang (ed.), Deutsche illustrierte
Flugbluätter des 16. und 17. Jahrhunderts IV, Tübingen,
1985, P.333
Fig.17,18: Strauss, Walter L., (ed.), The Illustrated Bartsch 4,
1980, p.318
Fig.19, 20, 21 and 22: British Library, London
̶ 23 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
げん さい
屋外広告物の減殺効果
寺 井 剛 敏
はじめに
のではなく、屋外広告物が複数掲出された結果、本来
伝わる情報が伝わらない、わかりにくいなど弊害が
わが国の屋外広告の定義をまとめると、狭義と広
出ている。そのような現状をふまえ、金沢市景観政策
義の2つになる。
狭義では一般に
「屋外広告」
といい、
課からの依頼業務として、金沢市内の交差点に設置
「家屋や社屋の外に継続して掲出される広告」をい
されている、野立看板の調査と新しいデザイン提案
う。アウトドアというのは単に建物の外側というの
を求められた内容について、
2007年から継続している
ではなく、屋外にあって公衆の目や耳に到達すると
研究報告の中間報告を制作した画像を中心に行う。
ころと解釈できる。このような場所に掲出される屋
外広告には、広告塔、ポスターボード、ビル壁面広
野立看板の問題点と減殺効果
告、突き出し広告、懸垂幕、電柱広告、大型ビジョ
ンなどがある。
金沢市内の交差点に限らず交差点と言われる場所
広義ではOOH(Out Of Home)といい、
「住まいの
には、色々な種類の看板が設置されている、交差点
外で継続的に掲出されるあらゆる広告」をいう。これ
は進路が交錯する場所であり、車や自転車、人も信
には、上記屋外広告に加えて、交通広告(中吊り、額面、
号待ちで待機する場所でもある。広告を掲出したい
駅貼り、サインボード)
、施設広告(スタジアム広告)
、
企業からすれば効果的場所だと考えられる一方で、
店頭店内広告(POP広告)
、ストリート・ファニチャー
景観上重要な場所である。
(バスシェルター、バス・ベンチ、ニューススタンド)
このような沿道や交差点に掲出される屋外広告物
などが含まれる。これは住まいから一歩外に出ると
のことを「野立看板(のだてかんばん)」と業界用
きに接触する広告を指しており、駅や空港、スポー
語でよんでいる。
1
ツ施設、店などの内部に掲出されるものも含まれる 。
野立看板の多くは土地の所有者が屋外広告を仲介
このように屋外広告物といっても色々な種類があ
する業者等へ貸し出し、仲介業者は屋外広告を掲出
り、さまざまな大きさや目的で掲出されており、景
したい企業を集め、野立看板を設置する。同じ土地
観に配慮された広告物もあれば、企業等のアピール
に複数の業者が入ってくると、野立看板の形状や色
を全面に打ち出した広告も現状では多く見られる。
なども統一されず、業者ごとに製作した看板が同じ
高度成長期では都市の反映の象徴だった屋外広告物
土地に乱立することになる。
も近年では景観への配慮の見地から、デザインや色
今回モデルにした交差点でも複数の野立看板が設
など景観に配慮されていないものは敬遠される傾向
置されており、形状(縦型、横型)
、色、掲出内容
にあり、広告主も費用対効果から掲出を控える企業
のレイアウト、文字などがバラバラで統一されてい
も多くなってきた。中には景観や、環境への配慮を
ないため、せっかく誘導や企業名の認知などが目的
打ち出し企業イメージを向上させる効果を期待して
であるはずが、先に述べた要因が原因となりお互い
掲出する企業も現れているのも事実である。
が打ち消しあってしまい、本来の効果がなくなって
ここでは、屋外広告と広告主の関係について語る
しまう、そのような現象を「減殺効果」という。
̶ 25 ̶
[キーワード]
屋外広告物 サイン 景観
屋外広告物の減殺効果 寺井剛敏
新デザイン案の検討経過
現状の交差点(交差点は無作為に選定した)
1)現状から看板面をすべて消去
・高低差、色、書体が混ざって見えにくい
2)立看板下面揃え
3)立看板下面比率揃え
・下面を揃えるだけでもすっきりする
・比率も揃えるとバランスも良くなる
4)横看板下面揃え
5)横看板下面比率揃え
・縦型同様、下面を揃えるだけでもすっきりする
・縦型同様、比率も揃えるとバランスも良くなる
̶ 26 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
新デザイン提案 B
2 色にすることでわかりやすく、すっきりとさせた。フチを囲い、矢印部分がアイコンの代わりとなるデザインで遠くから見てもわかりやすい。
医療系がミドリ、その他がオレンジ
計 10 ㎡(3.3 ㎡ 3)
新デザイン提案 B
研究の方向性
今回は2カ所の交差点をシミュレーション候補
地として新しいデザイン案について検討を行った。
候補地の交差点まで出向いて、現状看板のサイズ、
基数などを調査し画像で記録して回った。現状設置
されている看板の周囲の状況なども合わせて記録し
検証する際の参考とした。
検証では広告物の面積を 10 ㎡以下、高さ 4m、色
数も制限、レイアウトや文字についても統一する
2 色に限定しフチを囲い、矢印部分がアイコンの代わりと
して視認性を高めた
など条件を設定し、協力してくれた学生3名のアイ
ディアを協議しながら、現状の状態から新デザイ
ン案までを金沢市景観政策課の方々と調整し進めて
いった。
̶ 27 ̶
屋外広告物の減殺効果 寺井剛敏
2 色の帯を利用して、看板の境界をわかりやすくし、レイア
ウトに自由度をもたせ視認性を高めた案
新デザイン提案 A
新デザイン提案 C
従来の看板で最も多かった医療系の看板には青をサブカラーに、その他のものにはオレンジ色をサブカラーに設定することで、より判別しやすくした。
また、必要な情報をフォーマット化することによって、レイアウトの統一感をはかった。
▼縦並べ
金沢市玉鉾 145-1
200M先 右折
営業時間 11:00∼24:00
(ラストオーダー 23:00)
☎ 076-231-2828
▼横並べ
放射線科・循環器科・胃腸科
イタリア厨房
吉田内科医院
100M先 左折
金沢市玉鉾 158-62
☎ 076-291-3800
放射線科・循環器科・胃腸科
吉田内科医院
金沢市玉鉾 145-1
200M先 右折
営業時間 11:00∼24:00
(ラストオーダー 23:00)
☎ 076-231-2828
新デザイン提案 C
地図、告知など必要な情報をフォーマット化することでレ
イアウトの統一を図った案
新デザイン提案 D
看板の基本情報である方向性を重視し、矢印を全面に押し
出した案
̶ 28 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
新デザイン提案 E
余白と文字の大きさ、フォントを事前に調整したフォーマッ
トの中に配置し、統一感を持たせた案
今回行ったデザイン案の経過を、学内デザイン科学生有志
102 名に対してアンケートを行った。
・アンケートの結果から、看板の高さ、大きさ、色相を合わせることが必要だとの意見が多かった。
̶ 29 ̶
屋外広告物の減殺効果 寺井剛敏
新デザイン提案について
(2)審美性はレイアウトが重要であるため、ある
程度の規制は必要だと思うが、あまり事前に
表示内容(配置など)を規制してしまうと、
現状の金沢市屋外広告物条例は、一敷地内の広告
物の面積合計を 30 ㎡以下にする規制しかなく、広
広告主が希望する表示内容によっては対応が
告物も形状や数量、設置位置に規制がない状態であ
しにくくなってしまう可能性があるため、柔
る。今後は面積などを制限する方向で条例を調整中
軟性を持たせるように検討を行った。
であり、提案させて頂いた、A から E までの5案に
ついても新しい条例の参考になるように、デザイン
(3)経済性については、現状製作されている仕様
を前提に提案を検討した。
案の提案を行うだけでなく、現状の状態から看板
面の整理やサイズの検討など、景観政策課担当者の
方々からも意見を頂き、一つひとつの案について協
(4)広告物が設置される背景や、周囲の環境など
と調和しているかを念頭においた。
議、修正を何度も行いながら進めていった。
一方的なデザイン案の提案では意味がなく、条例
そして上記4つの条件に加え、今回色々な調査を
や規制を検討する担当にも理解して頂くことも重要
行った経験からもう 1 点加える必要があると思うの
なポイントであると考えて進めていった。
は、倫理性も重要な条件だといえる。自分だけが目
今回、新デザインを提案するにあたり、一般的
立てば良いという自分勝手な表記は、全体のバラン
に広くデザインに求められる基本的条件として言わ
スを崩し、結果として広告面の効果がなくなってし
れる、3つの条件に屋外広告物の場合は、景観性を
まい、そのような表示はかえって印象を悪くしてし
加えた4つの条件として考えるのが妥当だと思われ
まうことを、掲出する企業は理解するべきである。
最近では景観に配慮した色遣いやデザイン変更な
る。
どを前向きに取り組む企業も増えてきており、企業
イメージ向上に貢献している。
(1)機能性(使いやすさ、伝わりやすさ)
今回検討した新しいデザイン案の提案は、金沢市
(2)審美性(美しさ)
長へもプレゼンテーションを行い、学生の新しい視
(3)経済性(合理的なものづくり)
2
点での提案についても理解を頂き、今後も継続して
(4)景観性(景観の質的向上への寄与など)
景観政策課と協力して、その他の検証も進めるよう
今回提案させて頂いた、A から E までの5案につ
に依頼を受けた。
いては、上記4つのポイントを全て取り入れている
というより、提案ごとにメリハリをつけてデザイン
今後の展開について
を検討し調整していった。
下記は、今回の新デザイン案の提案に際し、心が
けた内容を記載した。
屋外広告と景観政策は、自治体や業界、市民など
も含め色々な意見や視点からこれまでも論議されて
いる。論議の中にはもっと規制すればいいとか、な
(1) 機能性については、文字、色の統一を行い、
くせばいいという過激な意見もあれば、賑わいがあ
あまり複数の色や文字の種類が多いと伝えた
る、街の活性化につながるという意見もあり、立場
い情報が伝わりにくくなる、そのためできる
によって色々な意見があり、金沢のように古くから
だけ制限し、わかりやすさを心がけた。
ある歴史的景観と近代的な新しい景観の両方が混在
する都市の場合は、古さと新しさ双方のバランスが
̶ 30 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
アンケート協力
難しい。
今後も野立て看板以外にも、独立看板の高さにつ
いての検証や、その他の看板等についても検証を続
・金沢美術工芸大学デザイン科学生有志
けていく予定があり、研究は継続する予定である。
色々な検証を進めていく上で考えたことは、都市
参考文献
には遊びが必要だと感じたことである。遊びといっ
ても、子供が遊ぶ遊びではなく車のステアリングに
・『屋外広告の知識 第 2 巻 デザイン編』
遊びがあるように、都市の中にも遊びが必要だと感
第 3 次改訂版(株式会社ぎょうせい)
じている。景観を考えていく上でも規制や条例ばか
・『日本の街を美しくする』
りが先行してしまうと窮屈な印象を与えてしまい、
せっかく良かれと検討した規制や条例も、本来の目
土田旭+都市景観研究会編著
(株式会社学芸出版社)
的とは違う方向になってしまう、そうならないため
にも遊びをもったバランスが都市の中には大切なこ
取材記事掲載
とだと思う。また、バランスをどのようにするかに
ついて、自分自身もバランス感覚を持たなければな
・北国新聞 2007 年 9 月 27 日
らないと考えている。
・北国新聞 2007 年 12 月 20 日
今後は海外の事例等も積極的に調査、検証を行い
自分自身の課題として取組んでいきたいと考えてい
る。
(2008 年 10 月 31 日受理)
※今回モデルとした交差点に掲出されている、野立
看板や掲出されている名称については、現状に近
い状態を理解して頂きたいため、現状表記のまま
掲載した。あくまでも無作為に選択したことを付
け加えておく。
註
1
『屋外広告の知識 第 2 巻 デザイン編』
第 3 次改訂版(株式会社ぎょうせい)2 項
2
(てらい・たけとし 視覚デザイン/サイン計画)
『屋外広告の知識 第 2 巻 デザイン編』
第 3 次改訂版(株式会社ぎょうせい)90 項
協力
・金沢市役所景観政策課
・金沢美術工芸大学視覚デザイン専攻
西川俊三、水野愛美、吉田園子
̶ 31 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
金沢の町を舞台にした空間造形の研究
− 金沢のまちと環境デザイン −
田 中 寛 志
坂 本 英 之
角 谷 修
鍔 隆 弘
1. 研究の目的
3. 環境デザイン専攻の設立と経緯
環境デザイン専攻では、平成8年の成立から 12
3 − 1 専攻設立の経緯
年にわたり、教員と学生が金沢の街をフィールドと
開学より間もない昭和 28 年ごろに学制改革が行
して様々な空間造形に関わる活動を進めてきた。演
われ、その時点から空間デザイン系の専攻設置に関
習、修了制作、卒業制作、街並調査、地域イベン
する検討が行われてきた。昭和 30 年代初めに建築
トへの参加などを通して、環境デザイン領域の研究
意匠を開設する構想の記述も見られる。(金沢美術
と教育の実践の場を築いてきている。平成 19 年度
工芸大学 50 年史)平成 8 年4月、学科再編により産
の学内の特別研究として、これまで専攻の人間が関
業美術学科がデザイン科と工芸科に分離する折に、
わったデザイン活動を整理、検証する機会が与えら
科の専門性を充実することを目的に、デザイン科3
れた。
専攻の一つとして環境デザイン専攻が設けられた。
研究は、この街の社会環境、自然環境、生活環境
が徐々に変化してゆく中で、今後の環境デザイン領域
3 − 2 専攻の意義とその教育方針
金沢美術工芸大学のデザイン教育が当初より目指
に求められる活動の方向性と、街への関わり方につい
しているものは「モノのデザインをおこなう生産デ
て専攻の役割を明確にすることを目的としている。
ザインと伝達のデザインをおこなう視覚伝達デザイ
2. 研究の進め方
ンに加え、空間系としての環境デザイン領域が欠か
せない」とする理念である。(金沢美術工芸大学 50
環境デザイン領域に関わる活動状況として、次の
年史)「美術系大学として造形力や色彩、アートに
関する感性を高めることを基本とすること」により、
項目について整理を行った。
① 環境デザイン専攻の設立と経緯
領域が比較的類似している他大学工学部建築学科系
② 金沢の街における教員と学生の活動
との差別化を図り、実践してきている。
③ 修了制作および卒業制作の傾向
3 − 3 特徴的なカリキュラム
特に③では、学生が金沢の街に能動的に関わっ
環境デザイン専攻の特色あるカリキュラムのため
ている活動や制作について、それらの内容の分析を
に、空間系の演習および建築関連の講義を充実する
行った。学生の街中における活動と制作は、教育の
よう、次のような方針が立てられた。
体制と教員の活動を背景として成立していると考え
・ 造形基礎を含む空間的思考を育成する(素材、色
彩、描出に関わる演習の充実)
る。これら事項を俯瞰的に眺めながら、今後の環境
デザイン専攻のあり方について検討を行った。
・ 空間デザイン基礎を修得するため構造、意匠、設
備、工法を学ぶ
・ 現場体験や実地調査を取り入れる(地域との関わ
̶ 33 ̶
[キーワード]
卒業制作 カリキュラム 空間デザイン教育
金沢の町を舞台にした空間造形の研究−金沢のまちと環境デザイン− 田中寛志 坂本英之 角谷修 鍔隆弘
:インテリア、ディスプレイデザイン
りの深化)
・ 建築士受験資格を得るための専門科目を開講する
鍔 隆弘(平成 10 年∼)
:ランドスケープデザイン、庭園デザイン
これらの方針に沿った特徴的な演習等は次のような
非常勤講師陣では、平成8年当時は平井聖(建築
ものである。
・ 地図を読む:地図や地形図、現地調査をもとにス
史)、
天野正治(構造)、高畠秀雄(設備)、櫛多清(建
ケールモデルを制作する。これによりスケール感
築史)、林進(景観)、島崎信(屋内計画)、新村利夫(建
を理解していく。
築法規)、竺覚暁(建築史)、面出薫(照明計画)等
・ 専攻展示:原寸大の空間の設計と実際を体験する
による講義および演習が用意された。平成 19 年ま
ことを目的に、美大祭での環境デザイン専攻制作
でに、実業分野で活躍する下記のディレクター、デ
展示において実施している。
ザイナー、建築家を招聘するようになっている。
新保智子(株式会社ミキモト)
・ 屋外演習:都市化により市街地に飲み込まれた集
落の景観調査を通して、伝統的なものと新しいも
鈴木恵千代(株式会社乃村工藝社)
のが混在する現況を体感し、その場所性を読み取
平野湟太郎(グラッフィック・サインデザイナー)
ることと、景観の育成方法を学ぶ。
洪恒夫(株式会社丹青社)
文田昭仁(インテリアデザイナー)
・ 金沢題材演習:住宅、店舗、公共施設等金沢の敷
地や環境をテーマに取り組む。これにより現場調
米谷ひろし(インテリアデザイナー)
査の重要性や金沢の特徴を学ぶ。
隈研吾(建築家)
團紀彦(建築家)
・ 照明/色彩演習:空間には欠かせない照明計画と
妹島和世(建築家)
色彩を含む素材、材料加工について実地講習とと
もに実施する。
・ 身体空間:人一人が収まる最小空間を題材に原寸
3 − 5 現場体験を重視した活動
実寸を想定しながらデザインする能力や、縮尺模
大で企画、制作することにより構造、素材、感覚
型と現物との比較からスケール感覚の育成をするこ
を体験する。
とを目的に、生の現場を体験することを奨励してい
る。そのために専攻設立当初よりイベント現場や博
3 − 4 教員の構成
大学院を含む専攻の常勤教員の専門領域は次の通
物館、美術館の視察旅行、金沢市内をテーマとした
りである。
演習に付随する現場調査、空間デザイン領域に関係
内田祥哉(平成 8 ∼ 12 年)
する企業におけるインターンシップを実施してきて
:建築
いる。
小松喨一(平成 8 ∼ 10 年)
:工芸、インテリアデザイン
4. 金沢の場における学生および教員の活動
黒川威人(平成 8 ∼ 18 年)
:工業デザイン、環境デザイン
田中寛志(平成 18 年∼)
:インテリア、ディスプレイデザイン
坂本英之(平成 8 年∼)
:建築、都市デザイン
角谷 修(平成 8 年∼)
大学が立地する金沢のまちは、専攻の人間の日常
に深く関わっており、空間や環境を扱う制作過程に
大きく影響していると考えられる。金沢のまちを物
理的な都市の広がりだけでなく、人々の活動が生み
出すある種の雰囲気を持つ「場」として眺めた時に、
学生および教員がどのように「場」に関わっている
̶ 34 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
に可能性を多く含み、空間デザインにおける再生を
か、それぞれの活動を通して捉えることとした。
学ぶのに最も適した場である。さらに生活の為の基
本的な施設である商店街、市場、郵便局、病院が身
4 − 1 金沢のまちの魅力と学生
学生が学び住む金沢のまちは、
多様な風景を持ち、
近にあり、人々の集まる駅や美術館、庭園、種々の
歴史的にも江戸期から現代までが重層し豊かで奥の
学校が立地する。遠くには、卯辰山や内灘砂丘の自
深い様相を見せている。
然地や湯涌温泉、そして、未開発な駅西側地域や金
金沢のまちには水が豊かである。まちの中心を
沢港付近など多様な場が用意されている。
流れる犀川と浅野川はそれぞれが個性的な景観を見
金沢のまちは、京都のように観光スポットは多く
せ、訪れる人や住む人に歴史的、文学的な記憶を重
ない。その分感性を深める夢想が多く存在する。そ
ねながら、川辺や水の流れの魅力を体感させてくれ
れは毎日の日常生活の中で、目に見える豊かさと目
る。さらに、まちを流れる用水との出会いがある。
に見えない豊かさを、併せて身体的に学ぶことが出
光のゆらぎや心地よい音を目や耳で触れることがで
来るまちである。
きる。水上都市のように用水の上に増築された部屋
を発見したり、空中庭園のように用水の上にかかる
4 − 2 教室内での教育と金沢のまちでの活動
環境デザイン専攻は、建築とランドスケープを基
小さな橋に花々が盛られていたりするのを発見し、
夢想することを楽しむことができる。金沢の水の魅
礎に、インテリアデザインとディスプレイデザイン
力は、憂鬱な気分にもさせる雨の存在が大きい。雨
を中心とした空間デザイン領域を教える。制作過程
の日は、土塀や樹木、敷石が美しく輝く。学生はこ
では、学生はまず場所を選び、企画を行い、デザイ
の雨に空間の詩学を見いだす。デザイン演習におい
ンのためのスケッチを作成、決定されたデザインの
ては、
「雨の美術館」
、雨の日にはお店が楽器に変わ
パースを描き、図面と模型を制作する。演習で出さ
る「長靴屋」
、
常に変化する水たまりを取り込んだ「住
れる制作課題に対する成果の多くは、パースあるい
宅」を提案した。さらに窓のガラス面に流れ落ちる
は模型で終了する。そこでは、周囲の香りや音、光
しずくの表情や機能(すりガラスを透明にする)に
や風の揺らぎ、肌触り等を体感すること無くデザイ
着目し「ファサード」をデザインした。東京の学生
ンが評価され課題が終了する。しかしながら、教室
が決して発想しない、金沢に住む学生ならではの視
内でのデザインだけでは内容が限定される。現実社
点を持っている。
会での空間デザインは、視覚的な色や形だけでなく、
金沢のまちは坂が多く、路地が迷路のように曲が
空間に包まれた時に、身体として体感して起こるさ
り豊かな表情を持っている。「路地」
の方が「表通り」
まざまな感動の存在が、高い評価につながるものに
より文化的香りや音、落ち着きを感じさせるのは何
なる。環境デザインは、教室内だけでの教育には限
故だろう。それは、車のための道ではなく、歩く人
界がある。
のための道だからかもしれない。歩行の中で、人は
金沢のまちは、学内の教室に対して、もう一つの
記憶や歴史、時間、物語を体感する。小さいかけら
大切な教育の場となっている。課題で選んだ場所に
のような広場である「広見」を発見することもある。
立ち、まず身体で空間を感じる事が大切であること
特に坂のある路地は独特の空間である。それは迷宮
を、まちは教えてくれる。また、街の中ではさまざ
への入口のように見える。この路地は学生が夢想し、
まな「まちづくり」のプロジェクトが進行しており、
空間のデザインに取り入れる大好きな場のひとつと
学生がそれらに積極的に参加し、身体感覚を磨くこ
なっている。
とは、デザインの実践機会として貴重なものとなっ
金沢のまちには、時間を含み住人を含め、時代と
ている。
共に変化する町家が残っている。深い落ち着きの中
̶ 35 ̶
金沢の町を舞台にした空間造形の研究−金沢のまちと環境デザイン− 田中寛志 坂本英之 角谷修 鍔隆弘
○2年生
4 − 3 市立の立場を活かす教育と活動
金沢美術工芸大学は金沢市が設置者であり、学生
・「町家再生」
は金沢アートプロジェクトのほか、金沢市の関わる
金沢市「旧観音」や「東山」の歴史的街並に実在
さまざまな催事に参加できる機会が多い。現場に立
する町屋を調査し、新しい使い方を含めた提案に
つことで、アートマネージメントを学び、原寸大の
結びつける。併せて町を再生する。
空間デザインを体感することができる。
この経験は、
・
「商業施設」「空間演出」
デザイン教育の内容を高めるものとなっている。
金沢市内の中心市街地の環境、敷地を題材に店舗
等を企画・設計する。
・
「エコロジー」
4 − 4 金沢を舞台にした演習内容
環境デザイン専攻の教育が目指す方向は「学生一
郊外開発地区内に残る旧集落において、その自然
人一人の潜在能力を引き出し、空間デザイン領域の
的、人為的景観の特徴を調査し、その場所におけ
独創性と基本を教え、将来の社会における活躍の場
る人為および自然形態のあり方についてデザイ
を引き出す」ことである。また、学生に求める視野
ン提案を行う。
と視点は「グローバル視野、金沢の場の強みを活か
した一人一人視点」である。金沢のまちは、歴史的
○3年生
記憶とともに生活環境と自然環境が豊かである。学
・ 公共施設「まちなかのギャラリー」
生は学内の教室と金沢のまちという教室の二つを行
− みんなが集まれるかたち −
き来する。日常を舞台にした演習計画をこなすこと
建築を基本にインテリア、建築、エクステリア、
により、学生の潜在能力が引き出せると考える。卒
都市オープンスペースまでのひとつながりの空
業制作では、これまで約半数の学生が金沢市内に敷
間の造形を獲得する。敷地の特性を形態に反映さ
地を設定している。このことは、金沢の場で認識し
せ、様々なレベルと次元のつながりをまとめる訓
た視点が、演習により育ってきているものと考えら
練をする。
れる。
・
「ランドスケープデザイン」
具体的な演習内容は以下の通りである。
金沢のまちなかにおけるオープンスペースのデザ
インを通して、地域の魅力をデザイン提案に反映
○1年生
させる手法を獲得する。公園や緑地を眺望や利用
・「フィールドワークと空間デザイン」
者、周辺土地利用、将来変遷を意識した内容とし
て提案を行う。
「東山と主計町」を中心に、現場で空間さがしを
行い、金沢のまちの魅力を発見する。選んだ場か
ら得られるインスピレーションから、空間デザイ
○4年生
ンを行なう。
・
「卒業制作」
4年間の集大成として、毎年約 20 名のうち約 10
・「地図を読む」
名が金沢を舞台に空間デザインを提案している。
まちなかの一部の区域の実地調査を通し、地形や
眺望や街並などの環境を構成する要素を把握、確
認する。庭園、大学、社寺、用水周りなどの敷地
4 − 5 金沢の場や特色を活かした作品や活動に対
する評価
と建物を、現地での測量や調査に基づき模型を制
金沢の場や特色を活かした作品や活動は、各種の
作する。これによりスケール感を養い、空間デザ
インの糸口とする。
(平成 15 年まで)
コンペティションで評価されている。具体的な評価
は以下の通りである。
̶ 36 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
・「AMAMA」
(第 12 回空間デザインコンペティショ
りする過程は、制作においては自身が生み出す形に
非常に大きな割合で創造的に関与している。敷地を
ン銀賞 2004)
・「sarasa」
(第1回 ALLES 照明デザインコンペティ
探す段階、敷地をある場所に設定する段階から、制
作は始まっている。
ション最優秀賞 2005)
このことから、学生の制作傾向と、それらの市
・「PAPER WALL」(第 2 回 ALLES 照明デザインコ
内における分布を見ることで、学生がどのような環
ンペティション最優秀賞 2006)
・「雨に浸る家」(第 25 回日本建築家協会東海支部
境に魅力や問題点を感じているかを知ることができ
る。制作内容の傾向とそれらの分布は、学生の世代
コンペティション金賞 2006)
・「金沢アートプロジェクト」
(グッドデザイン賞
の目に映るまちのホットスポットを指標するものと
いえる。またこれらの制作の集合が表すものは、金
2006)
・「金沢冬のオフィスアート」(日本ディスプレイデ
沢の近未来の形の提案であるといえる。
ザイン特別賞 2005)
・「広坂ひかりプロジェクト」
(日本ディスプレイデ
5 − 2 制作内容の傾向の分析
94 点の修了・卒業制作のそれぞれについて、内
ザイン特別賞 2006)
・「箔祭り 2006」
(日本ディスプレイデザイン特別賞
容を示すキーワードを複数拾いだし、表中において
それらの出現パターンが似ているものを集めること
2007)
・「×沢○計画」
(石川県デザイン展 学生部門大賞
でグループ化を行った。キーワードは、主テーマは
3点、サブテーマは2点、前二つほど重要ではない
2006)
・ 武蔵地区地下道「地下づくアート」
(石川県デザ
ものを1点として点数を与え、表中でのグループ化
の作業を機械的に行うこととした。これにより、タ
イン展 学生部門銀賞 2007)
・「アートプロジェクト2007」
(最優秀賞IAD3年生。
イトルや制作敷地の場所が似ていることで、グルー
プ化の作業において先入観が働くような分類を避
優秀賞 IAD 1年生 2007)
け、グループ化後の考察において、制作物を場の条
5. 修了制作および卒業制作の傾向
件を含めた内容としてとらえることを機能させるも
のとした。
また、地図上において制作敷地の位置を落とし込
5 − 1 修了・卒業制作と金沢のまちとの関わりに
み、キーワードによるグループ化の結果と併せ、グ
ついて
環境デザイン専攻は平成 8 年の設立より、平成
ループ毎の制作内容の傾向の考察を行った。グルー
12 年から平成 19 年までに 11 名の修士課程修了生と
プ化の表(表− 1)および制作敷地位置図(図− 1)
152 名の学部卒業生を送り出してきた。修了制作や
は次に示す通りである。
卒業制作においては、合計 163 名のうちの 6 割近い
94 名が、テーマを金沢市内に設定し制作を行って
きた。
学生は、制作のための場として敷地を設定する。
敷地設定はデザインのための単なる空間量の確保で
はなく、土地利用、植生、眺望、人々の動きなど、
場を構成する様々な環境要素を読み込む重要な過程
である。これら場の要素を読み込みながら、制作し
ようとする空間から排除したり、あるいは活用した
̶ 37 ̶
金沢の町を舞台にした空間造形の研究−金沢のまちと環境デザイン− 田中寛志 坂本英之 角谷修 鍔隆弘
表− 1 卒業制作傾向の分類作業表
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金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
図1 制作敷地分布図(市内中心部のみ)
̶ 39 ̶
金沢の町を舞台にした空間造形の研究−金沢のまちと環境デザイン− 田中寛志 坂本英之 角谷修 鍔隆弘
用途・機能分類
① 公共施設
特 徴
①-1 建物施設
文化教育施設
スポーツ施設
学校/保育園
交通施設
①-2 オープンスペース
用水
商業施設、住居との融合
公園/広場
街路と一体
信仰空間
①-3 街路
広場と一体
照明による演出
交通施設との配置
② 民間施設
②-1 商業施設
物品販売店舗
ディスプレイ、古建築再生
飲食店舗
中心部
郊外
宿泊施設
集合住宅
②-2 居住施設
一般
高齢者向け
戸建て住宅
②-3 空間体験
③ 公共/民間
建築物
インフォメーション
ディスプレイ
表− 2 卒業制作傾向の分類グループ
分の一を含む。建物施設、オープンスペース、街路
5 − 3 制作内容の傾向
制作は表− 2 に示すように、大きく3つのカテゴ
空間の3つのグループからなる。郊外よりは、広坂
リーに分けることができる。公共空間、民間空間、
を中心とした小さなエリアに多くが分布している。
そして公共と民間の両方にまたがるものである。
敷地となった公共空間は、旧来の形態を色濃く残し
ており、多くの人に関わる場所である。デザインを
通してその場所のあり方を、見るものに問いかけて
① 公共施設(図− 2)
公共空間に関わるカテゴリーは、制作点数の約三
いる。
̶ 40 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
金沢駅
卯辰山
金沢城公園
犀川
金沢美大
浅野川
野田山
図 2 公共施設に関わる制作の分布図(市内中心部のみ)
̶ 41 ̶
金沢の町を舞台にした空間造形の研究−金沢のまちと環境デザイン− 田中寛志 坂本英之 角谷修 鍔隆弘
デザインを行ったものがある。
①− 1 建物施設
9点のうち8点がまちなかの敷地を設定してい
る。用途で最も多いのは、図書館などの教育文化施
② 民間施設(図− 3)
このカテゴリーには、94 点のうち 68 点の制作が
設である。
台地上の眺望に代表される地形の特徴や、
歴史的特徴である街の中心部のまとまった広さの敷
含まれる。制作点数が多いのは、デザインする施設
地を活かしたものが目立つ。加えて、古くからの施
の運用形態と空間形態の自由度が高いことが、学生
設建物や敷地を再生させるテーマ設定が多い。金沢
に好まれたと思われる。商業施設、居住施設のほか、
に関わる特徴的なものとしては、演舞場の再生や、
空間体験にテーマを設定したものが含まれる。
まちなかの人通りの多い交差点を含む一画での動物
②− 1 商業施設
園の提案が挙げられる。
このグループには、物品販売店舗、飲食施設、宿
また、金沢の現状課題であるまちなかの公共交通
を扱う制作は、乗物自体のデザインから、それが出
泊施設が含まれる。
物品販売と飲食の店舗は、23 点と全体の中でも
入りする施設のデザインまで、周辺景観とともに形
最も多くを占める。物品販売の店舗は、古い建築の
態が検討されている。
再生のものや土地の歴史性の活用のものも含めると
香林坊を中心とする比較的狭いエリアと、浅野川大
①− 2 オープンスペース
金沢の歴史的資産のひとつである用水を扱ったも
橋周辺に集中している。店舗の外観内装だけにとど
のが多いほか、公園や広場、墓地の敷地を扱ったも
まらず、商品陳列、ウィンドウディスプレイまでを、
のが含まれる。
街並との関係の中でデザインを行っている。
飲食店舗は、まちなかのものは基本的に内装の街
用水は市内での総延長が 150km 以上におよび、
景観を特徴づける大きな要素となっている。制作で
路からの見え方に配慮している。郊外のものは、地
はこの点に注目し、用水および隣接する街路、商業
形を取り込んだアプローチや席からの眺望、周辺果
施設、居住施設を含めたデザインや、商店街に用水
樹園との融合を特徴としたレストランなどが提案さ
を引き込み商環境の向上を図るデザイン提案がされ
れている。どれも内装において、外部に広がる金沢
ている。
の街並や自然の資源をデザインの一部としている点
公園や広場を扱う制作においては、地形の特徴に
を特徴としている。
宿泊施設は、犀川大橋と浅野川大橋のたもとに2
よる眺望や、河川の水辺を扱っており、まちなかに
点づつ、古くからの商店街に1点が提案されている。
入り込んだ自然資源をうまく活用している。
信仰空間では、江戸期からつづく野田山墓地の参
川沿いのものはどれも川の水面越しに街の中心部を
道を扱ったもののほか、市内全域の神社を対象とし
眺めとして取り込むことを特徴として、快適な滞在
たものがある。旧来の形の現代空間の中でのあり方
空間の創出を図っている。
について言及している。
②− 2 居住施設
このグループは集合住宅と一戸建て住宅の制作を
①− 3 街路空間
4 点と多くはないが、どれもまちなかの街路空間
を扱っており、歴史的な空間をもとに、歩行者の目
含む。制作点数は多く、学生の興味の対象を示して
いる。
線でデザインを行っている。シンボル的な大通りを
一般向けの集合住宅は、まちなかにおいて 7 点の
緑地と一体にデザインしたもの、町家が並ぶ旧街道
制作がある。分布としては、川や用水に隣接する敷
での街路デザインのほか、浅野川沿いの街路の照明
地設定や、旧来の町割りの中での敷地設定が特徴的
̶ 42 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
金沢駅
卯辰山
金沢城公園
犀川
金沢美大
浅野川
野田山
図3 民間施設に関わる制作の分布図(市内中心部のみ)
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金沢の町を舞台にした空間造形の研究−金沢のまちと環境デザイン− 田中寛志 坂本英之 角谷修 鍔隆弘
である。市の中心部における空洞化に対する策のひ
街並に与える効果をテーマとしている点である。2
とつとして、まちなか居住を促進する形態を提案し
点の制作は香林坊と尾山神社前の敷地を扱っている。
マップインフォメーションブースディスプレイ
ているものである。
高齢者向けの集合住宅施設の制作は、どれも比較
は、金沢の場所や歴史的な情報を、利用者に知らせ
的に郊外寄りに敷地を設定している。金沢の地形の
る装置のデザインである。2 点の制作は、機能と形
特徴である台地の斜面に敷地を設定し、それに伴う
態にふさわしい設置場所として金沢駅と金沢 21 世
眺望や屋内への日当りを活かした施設形態を追求し
紀美術館に設定している。
ている。
一戸建ての住宅は、まちなかでは 2 点が川沿い、
1 点が旧来の町割りの中で敷地を設定している。住
宅内部の空間構成には旧来の町家に見られる形式
を、敷地特性や周辺環境に加えてデザインに取り入
れており、場所性を活かした制作となっている。
郊外においては、農のある都市居住をテーマにし
た一戸建て住宅の制作が2点見られる。現状でアー
バンフリンジといえる都市開発と農地の境界部であ
り、まちなかの空洞化と対になる今様の問題に触れ
ながら、エコロジーの視点を含んだデザイン提案を
行っている。
②− 3 空間体験
このグループに入る制作の特徴は、敷地の特性
を反映した空間デザインではあるが、主題における
場所性の関わりはやや低い点にある。空間とそこに
入った人が感じることの関係性にスポットライトを
当てたものである。屋外空間でのライトアップ、客
席を含む演劇空間のデザイン、シークエンスが主題
のギャラリー、場所の特性を楽器に見立てた建築物
群、展示会場自体を展示物として扱ったもの、雨の
多い気候を利用した庭園の装置などが含まれる。
他のグループの制作に比べ、テーマ設定自体に特
徴があるといえる。環境デザインの領域としては、
芸術的な色合いの濃いものである。
③ 公共と民間の両方にまたがるもの(図− 4)
このカテゴリーには、建築、マップインフォメー
ションディスプレイが含まれる。用途や運用形態が
公共でも民間でもどちらでも可能なものである。
建築の特徴としては、外観と空間構成を重視し、
̶ 44 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
金沢駅
卯辰山
金沢城公園
犀川
金沢美大
浅野川
野田山
図 4 公共および民間施設の両方に関わる制作の分布図(市内中心部のみ)
̶ 45 ̶
金沢の町を舞台にした空間造形の研究−金沢のまちと環境デザイン− 田中寛志 坂本英之 角谷修 鍔隆弘
6. 金沢のまちと空間デザイン教育
とんど試みていない、というものだろう。それは、
言い換えれば、私たちは昭和、平成の伝統をつくっ
金沢の魅力は、重層する江戸から現代へのつなが
ていない、ということになる。パリ、ロンドン等は、
りに寄るところが多い。人口 45 万のコンパクトシ
過去の遺産を保全しながら、新たなスタンダード(世
ティーの中で、時間軸と風景軸がいい形で繋がって
界標準)をつくっている。それらはいくつもの試み
いる。
の複合であるが、基本的には町を回遊させて、楽し
坂と路地に特徴づけられるまちなかは、二つの川
くしようとしているものであるといえる。
金沢でまちを体験させようという試みを行うとす
と繋がる用水が縦横に流れる。そして、そのまわり
を斜面が緑を深くして囲み、都市の風景に陰影を与
れば、東山の様な観光地ではなく、学生作品からは、
えている。金沢において、歴史、文化、自然をとり
「スクランブル動物園」、「駅インフォメーション」、
まく伝統環境の保全はよく成されている。伝統芸能、
「郵便カフェ」など、日常の場所において、まちがもっ
文化を活かしたまちといえる。しかし、現在から未
と楽しくなるデザイン提案が見られる。また、
「か
来にかけてのそれはないといえる。近年で言えば、
なざわ港」、
「内灘の都市開発」等まちを楽しくする
せいぜい金沢 21 世紀美術館ぐらいであろうか。伝
ために、もっと開発してもよいのではないだろうか。
統芸能・文化を活かしていくのはよい。しかし、そ
ウォーターフロントの楽しい開発等が金沢のまちの
れと同時に、紅殻格子や 50 本、総延長 150km を超
開発の事例のサンプルになれば、世界に発信できる
える用水、借景として町を包む山川をもっと現代施
だろう。
学生作品はしかし残念ながら、実現性の高い事例
設などに活かしてよいのではないだろうか。
金沢は、その置かれた環境に満足しているように
提案には至っていない。今後もっと、金沢市や市民、
見えるが、京都の町のように観光的なものは意外に
民間企業と組んで、活かしていくことができれば発
少ない。その分、自らが構想しなければいけないだ
展が期待できる。郵政民営化に対する市からの発信
ろう。目に見える豊かさをイメージするように、目
は、時代の要請に応えるものとなるだろう。時代に
に見えない部分から形にするために、雨や路地等を
敏感に反応している学生作品は、時代に即応して提
使った学生作品がある。町を豊かにしたいという思
案している作品である。例えば、案内カフェは「ネッ
いが学生には強い。金沢からもっと世界に発信する
ト」
、小学校は「いじめ」等である。
今回の研究を振り返ってみると、多くの作品が金
きっかけになるはずだ。素敵な事例を示して世界に
沢について提案していた。この傾向はこれからも
発信する努力があっていいのではないだろうか。
建築家は、スケッチや図面、模型を多くつくり、
続くだろう。もう少しまちづくりと関連させて、金
構想を形にしてきた。そこには多くの努力がいる。
沢市の要望を入れて発展させていく必要があるだろ
金箔や陶磁、あるいは漆、漆喰に至るまでの素材や
う。これからは、市との連携を模索していく必要性
技法の豊富さ、または、借景のとりかたにしても、
を感じる。製品デザイン専攻や視覚デザイン専攻で
竪町の通りの向こうに山があることや、川の活かし
は、企業との連携が時代の潮流である。環境デザイ
方について、アムステルダムの運河の活用や、盛岡
ン専攻は、産官学協同の時代において、金沢市との
の北上川の利用が良い例となる。また、路地や坂に
連携を更に強めたい。これまでは、ウィンドウディ
ついては、先斗町、神楽坂などの活かし方が優れて
スプレイ、箔祭りなど、イベント的なものが多いが、
いるといえるだろう。商業空間と生活空間が同居し、
全国的なコンテストで高く評価される等、空間へ展
本来の空間を活かしている。
開する可能性を見せることが出来た。しかし、催事
多くの来街者による金沢の印象は、過去の遺産の
での参加はしているが、空間的な参加は十分にして
保全はしっかりしているが、それ以外についてはほ
いないといえる。これらの材料もって、市との連携
̶ 46 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
を模索していく時期に差し掛かっているのではない
だろうか。
環境デザイン専攻が十年以上の実績をつくり、専
攻の方向が見えてきたところで、次のステップへ入
る時期に来ているといえるだろう。学生にとっては、
現場に歩いていける幸せがあり、実際に日常で生活
している場である。これまでも、銀座と資生堂や芸
大と上野・御徒町等が行ってきたように、金沢と美
大もまちづくりでの強い絆をつくる時代に入った。
金沢美術工芸大学は美術とデザインに関しての教
育研究機関である。金沢は文化都市として、現在と
未来をもっとつくる使命がある。金沢 21 世紀美術
館で来街者、
外国人が増えた効果をパワーアップし、
文化と時代感覚をハイブリッド化していくことに力
を注ぐ時である。時代感覚は、これからの人たちで
ある学生たちが持っている。例えば、ビジネス空間
と文化空間との融合をめざすことが挙げられる。都
市のブランディングがまさにこの部分で起きてい
る。過去の伝統的なものはしっかりある(路地、坂、
城、用水、河川等)。一個の店(建物)とまちづく
りの融合が場の力を引き出す例は枚挙にいとまがな
い。現在は、個と全体の融合を図り、金沢の独自性
を打ち出すチャンスがあふれている、またとない時
期である。
(付記 本研究は平成19年度特別研究の成果である。
)
(たなか・ひろし 環境デザイン/
ディスプレイデザイン)
(さかもと・ひでゆき 環境デザイン/
建築デザイン)
(かどや・おさむ 環境デザイン/
インテリアデザイン)
(つば・たかひろ 環境デザイン/
ランドスケープデザイン)
(2008 年 10 月 31 日受理)
̶ 47 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
ヨーロッパに現存する木製銅版画プレス機の調査
神 谷 佳 男
はじめに
木製銅版画プレス機の実測調査
1645 年アブラアム・ボスが著した腐蝕銅版画技法書
木製銅版画プレス機とは
『Traité des Manières de Graver en Taille-Douce
銅版画用プレス機は、わずか1ミリないし数ミリ
sur l’
Airin par le Moyen des Eaux Fortes, & des
の厚さの金属板上につくられた浅い溝(凹部)に詰
Vernix Durs & Mols. Ensemble de la façon d’
en
められたインクを、紙に写し取るためのものである。
Imprimer les Planches & d’
en Construire la Presse,
強い印刷圧を必要とし、そのため円圧印刷機(シ
& autres choses concernans lesdits Arts』
(以下『腐
リンダ印刷機)の構造を持つ。木製銅版画プレス機
蝕銅版画技法』
(1645)と略記)には、銅版画プレ
は、ボルトなどの金具を除き円筒形のローラーや回
ス機とその構成部品の図版とともにプレス機製作に
転ハンドルなどすべて木製で、我々の知る金属製銅
必要な情報が詳細に述べられている。
版画プレス機同様、2本のローラーの間に銅版を通
筆者らが前出の技法書の翻訳1 に取り組んでいた
過させる構造になっている。
頃、東京藝術大学美術館所蔵の木製銅版画プレス
機を見る機会を得た。ボスの時代、プレス機と言え
ば木製だが、今日では金属製プレス機しかお目にか
からない。以来、木製銅版画プレス機に興味を抱く
ようになった。しかし、木製プレス機に関する情報
収集を始めたものの入手し難く、また銅版画用木製
プレス機自体あまり数多く存在しないことがわかっ
た 2。
オランダのアド・ステインマン氏は、フランス
やベルギーなどヨーロッパにある木製銅版画プレス
機 18 台の存在を確認しているようである3。
木製銅版画プレス機がどのように保管されている
のか。また現在でも使用されているのか。版画に携
わる者として非常に気にかかる。
本稿は、筆者がヨーロッパの美術館・博物館を訪
問した際の、幾つかの木製銅版画プレス機の実態及
び実測調査の記録である。ここでは、ベルギーのナ
ミュールにあるフェリシアン・ロップス美術館が所
蔵する木製銅版画プレス機とブリュッセルの印刷博
物館にある1台を取り上げる。
図1
̶ 49 ̶
[キーワード]
Etching Press Bosse Namur Bruxelles
ヨーロッパに現存する木製銅版画プレス機の調査 神谷佳男
すれば部品のプロポーションを知ることはできると
ボスの木製銅版画プレス機
画家や版画家のための銅版画技法書は今日まで多
コシャンは述べている6。
数出版されているが、腐蝕液や防蝕被膜の製法、プ
『腐蝕銅版画技法』(1645)は、その後ヨーロッパ
レス機製作など、広範囲でしかも詳細に書かれて
各国で翻訳され版を重ね普及し、多くの銅版画家に
いるものは、唯一ボスの『腐蝕銅版画技法』(1645)
影響を与えた。この事実を考慮すると、ボスのプレ
ではないかと筆者は考える。
ス機は世界中に点在する木製銅版画プレス機の原型
図1は、ボスの『腐蝕銅版画技法』
(1645)の中
にある 16 枚の図版のうちの一枚である。同図版は、
と位置付けられ、本稿でも他のプレス機との比較に
際して、そのように扱った。
1701 年セバスチャン・ル・クレールが『腐蝕銅版画
4
『腐蝕銅版画技法』(1645)の中で、ボスは長さの
技法』第二版 を出版した時にも使用されたが、ボ
単位として pied(ピエ)、poulce(プース)、ligne(リー
スの初版からちょうど 100 年後のコシャン版と呼
ニュ)を使用しているが、本稿では1ピエを 325 ㎜
ばれる大幅改定された『腐蝕銅版画技法』第三版
として換算した。
(1745)5 では姿を消し、ボスが描いたプレス機とは
ボスのプレス機は、高さは 1410 ㎜、横幅 802 ㎜(ハ
異なるプレス機の図版に差し替えられてしまう。蛇
ンドル部を除く)、脚部の長さ 1245 ㎜、ローラーの
足だが、ボスは複数の図版を用いてプレス機の多く
横幅 620 ㎜、直径 189 ㎜(上下2本とも同サイズ)、
の部品に寸法を詳細に記入していたが(図2)
、コ
回転ハンドルの全長 1490 ㎜、床から回転ハンドル
シャン版では省略されてしまった。プレス機の陰の
軸の中心までの高さが 920 ㎜となっている。
我々がベッドプレートと呼んでいる台板は、長さ
表現部分にある数字は読み取り難く、また数字を書
き加えると図版が煩雑になるとの理由から削除され
1056 ㎜、幅 581 ㎜、厚さ 40 ㎜である。
ボスのプレス機の構造自体、今日我々の知る金
たのである。ちなみに、第三版ではコンパスを使用
属製銅版画プレス機とさほど相違ないように思われ
る。しかし、ローラーの軸受けの役割を果たす垂直
に立った一対の支柱には、上下のローラーを支える
軸受け用の孔が、各々二箇所ずつ合計四箇所刳り貫
かれていること。また、シリンダー部の上下二本の
ローラーの直径が同じであること。以上の二点が、
ボスのプレス機の特徴といえる。100 年後の 1745 年
の第三版の図版では、上部ローラーに比べ下部ロー
ラーの径が大きくなっている。このことについては、
「ハンドルを回すことが容易になり、印刷圧も上手
くいき作品の仕上がりがさらに美しくなる」とコ
シャンは述べている7。
図1で若い刷り師が大きな十字ハンドルを手と足
を使って力一杯回している様子が描かれているよう
に、回転ハンドルがローラー軸と直結している場合、
ハンドルを回すのに強い力を必要とする。
回転ハンドルの負担を軽減するためには、ベッド
プレートの摩擦を少しでも減らすことが重要だと考
図2
えたボスは、ベッドプレートが2本のローラーの間
̶ 50 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
を通過する際に、腕部の横木から 30 ㎜ほど浮いた
較した場合、上下2本のローラーを別々の軸受けに
状態になるよう下部のシリンダーを高めに保つよう
収めるボスのそれではなく、細長く一体化した直
8
方体に刳り貫かれている。軸受け金具と厚紙や木に
に注意を喚起していることは、非常に興味深い 。
よって軸の高さや圧力を調整可能とし、プレス機の
フェリシアン・ロップス美術館所蔵の
木製銅版画プレス機
重要な部品であるローラーの交換に伴う直径の変化
にも柔軟に対応できるものとなっている。
(図4、
5)
1745 年の『腐蝕銅版画技法』
(コシャン版 1745)
画家であり数多くの版画作品を制作したことで
には、直方体の刳り貫き部の寸法の目安として高さ
知られているベルギー人、フェリシアン・ロップス
540 ㎜から 648 ㎜、幅 135 ㎜から 162 ㎜と書かれてい
の美術館がベルギーのナミュールにある。(Musée
るが9、ナミュールのプレス機では高さが 700 ㎜も
Provincial Félician Rops, Rue Fumal 12, 5000
ある。従って直径のさらに大きいローラーを使用す
Namur)
る場合の対応も、可能となる。
フェリシアン・ロップス美術館には、木製銅版画
図6では、ローラーと軸受けの上下とも、鉄製で
プレス機が1台あると聞いていた。同館を 2008 年
あることがわかる。割れたりかけたりする木製ロー
1月に訪問した時、美術館1階受付前にそれは置か
ラーを、耐久性があり重みのある金属製ローラーに
れていた。図3は、フェリシアン・ロップス美術館
交換したと推測される。鉄製ローラーを使用するこ
正面から見た美術館全体の写真である。入り口左の
とで、軸受けにもかなりの過重がかかるため、頑丈
自転車がおかれている窓から館内を覗き込んでも、
な鉄製の軸受けが使用されたのであろう。軸受け上
プレス機が見える。
同機は使用されていない様子で、
部には、大量の厚紙が、軸受け下部には、厚紙と木
ベッドプレートの上には美術館のポスターやチラシ
片が挟み込まれている。厚紙が、圧力のクッション
が並べてあった。
材として重要な役割を果たしている。
図4及び5は、同館で撮影した木製銅版画プレス
図7は、プレス機の天板を撮影したもの。ローラー
機の写真である。堅牢で、回転ハンドルが大きいこ
の軸をしっかり支える役目を担う一対の支柱を繋ぐ
とに気付く。同機は、高さは 1590 ㎜、横幅(ハン
天板は、支柱下部にある下板と対をなし、上下で絞
ドル部を除く)750 ㎜、脚部の長さ 1485 ㎜、ローラー
り込むようにプレス機を固定する必要不可欠な部品
の横幅470㎜、直径は下部ローラーが216㎜、上部ロー
である。
ラーが 214 ㎜、回転ハンドルの全長 1920 ㎜、床から
天板上部左に、穴が一つあいているのに気付く。
回転ハンドル軸の中心までの高さは 990 ㎜となって
おそらく四箇所あったものが、現在三箇所が既に埋
いる。ベッドプレートの長さと幅はそれぞれ1100㎜、
められている。これらの穴は何に使われたのか?以
400 ㎜、厚さはおおよそ 33 ㎜となっている。図5を
前アントワープのプランタン・モレトゥス博物館で
見ると同プレートが腕部の横木から若干浮き上がっ
見た木製手引き印刷機を思い出す。印刷機を固定す
た状態であることが確認できる。2本のローラー軸
るため、印刷室の天井からあて木が渡されていた。
を支える支柱の中心部の刳り貫き部は高さは700㎜、
ナミュールのプレス機も同じ理由により、工房で
幅 105 ㎜、軸受け部品及び上下2本のローラーは鉄
しっかり固定され使用されていたのだろう。銅版画
製である。
プレス機には、作業の過程で回転ハンドルを回すた
ここナミュールにあるプレス機の回転ハンドル
びに本体に強い力がかかり、木製であるという軽さ
は、本体に対し大きい。ハンドルの回転時、ハンド
ゆえ不安定な状態だったと思われる。また回転ハン
ルの先端と床との距離がわずか 30 ㎜しかない。
ドルには乾燥した黒インクや滑り止めの樹脂の粉末
またローラーの軸受けの形状は、ボスの図版と比
のようなものが層になって付着しているところを見
̶ 51 ̶
ヨーロッパに現存する木製銅版画プレス機の調査 神谷佳男
図 3 フェリシアン・ロップス美術館(正面)
図 5 木製銅版画プレス機(側面)
図 6 金属製のローラーと軸受け
図 4 木製銅版画プレス機
図 7 プレス機の天板
̶ 52 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
幅が450㎜、直径236㎜、回転ハンドルの直径1380㎜、
ると、同機はかなり使い込まれたと思われる。
床から回転ハンドル軸の中心までの高さ 730 ㎜、床
と回転ハンドルの先端との距離は 40 ㎜となってい
もう一つの木製銅版画プレス機
ナミュールの美術館を出発しようと関係者に挨拶
る。2本のローラー軸を支える支柱の中心部の刳り
をしていたときのこと、一人の従業員が突然「私た
貫きの高さは 985 ㎜、幅 125 ㎜、軸受け部は金属板
ちがキュイジーヌと呼んでいるところに、実はもう
で覆われた木製、上下2本のローラーも木製である。
一台プレス機があります」という。美術館で働いて
ベッドプレートは、長さ 1180 ㎜、幅 415 ㎜、厚さ
いる人たちが休憩に利用する台所兼休憩室という部
30 ㎜である。
屋の隅に、プレス機はあった。慌てて写真に収めた
が(図 8)
、プレス機の部品の詳細を採寸する時間の
余裕がなかった。ローラー部は、虫食いの穴だらけ
で近年細く削られたような木の色を呈していた。
プレス機の高さ 1280 ㎜、幅 680 ㎜、脚部の長さ
790 ㎜の小型プレス機で、回転ハンドルもベッドプ
レートも見当たらなかった。
手で持ち上げてみると、
かなり軽いプレス機という印象を持った。
ブリュッセルの印刷博物館所蔵の
木製銅版画プレス機
図8
ベルギーのブリュッセルにある印刷博物館
(Musée de l’
Imprimerie, 4 Boulevard de l’
Empereur,
1000 Bruxelles)は、図書館と印刷博物館が建物を
共有しており、印刷博物館に来たという印象を与え
ない。同館所蔵の木製銅版画プレス機は、閲覧室に
通じる廊下に展示されている(図9)
。
ここではプレス機の上に二枚の貼り紙があり、一
枚は「プレス機の上に荷物を置かないでください」
という注意書き、
もう一枚が展示品の説明書き。「こ
のプレス機は、ナミュール出身のベルギー人版画家
フェリシアン・ロップスが所有していたものと一般
的に考えられている。..」10 と解説されているが、プ
レス機がいつ製作されたのかは書かれていない。
プレス機の由来等資料があるかどうか、学芸員の
トノン氏(Patricia THONON)に問い合わせてみた
ことがある。あいにく不明との返答だった。
ブリュッセルのプレス機は、高さ 1605 ㎜、幅(ハ
ンドル部を除く)690 ㎜、脚部の長さ 1190 ㎜、下部
ローラーの幅 455 ㎜、直径 214 ㎜、上部ローラーの
図9
̶ 53 ̶
ヨーロッパに現存する木製銅版画プレス機の調査 神谷佳男
ずしも同じ大きさではなく、5㎜程度の差が生じる
「PERNET」と書かれた焼印が支柱にある。
ブリュッセルでは、下部ローラーに回転ハンド
場合もあった。プレス機を構成している個々の部品
ルが接続され、ローラーの直径も上部のそれより細
を組み立て、最終的に眼前にあるプレス機のように
くなっている。しかし、筆者が現在まで見てきた木
復元できるために、木の歪みは排除した。
製銅版画プレス機は、ブリュッセルを除いて、回転
古い銅版画プレス機を一度解体し再度組み立てよ
ハンドルは常に上部ローラーに接続され、下部ロー
うとしたところで、全く同じ部品を利用するにもかか
11
わらず、もはやプレス機は元には戻らない可能性があ
ラーの直径は同じか、より大きくなっていた 。
ローラー部を上下間違えてセットしたのか、ある
ろう。乾燥による木の歪みなど、図面に表せない。
図10では左からボスのプレス機、ブリュッセルの
いは理由あってのことかは不明である。
プレス機、そして右がナミュールのプレス機の側面
ボスの木製銅版画プレス機との比較
図である。ベッドプレートを加え、印刷可能な状態
のプレス機の側面図に改めた。従って、図2のボスの
ナミュールとブリュッセルの各々のプレス機とボ
プレス機の側面図と比較した場合、図10ではプレス
スのそれについては、数値で表したが、図面により
機のローラー軸の位置が異なっている。ボスはベッド
大きさを比較する。予めことわっておくべきだった
プレートを描かずにローラーの軸の位置を示したた
が、採寸の対象は古い木製プレス機であったこと。
めである。ベッドプレートは、床から約83cm∼87cm
時間と共に木は乾燥し、また実際使用されたことで
の高さで、三機ともそれ程差異はない。人のモジュー
無理な力がかかり、部品にねじれが生じ変形した可
ルに合わせて製作されているためであろう。ブリュッ
能性があること。プレス機を構築する各々の木製部
セルとナミュールのプレス機では、ローラーの軸を
品を採寸したものの、一対になった部品でさえも必
支える支柱は、ボスのプレス機では軸受けが二段に
図 10
̶ 54 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
分かれているのに対し、一体型で直方体型の刳り貫き
調査で美術館や博物館を訪ねると、片隅で忘れ
部になっている。それぞれのローラーの軸受け上部と
去られた存在という印象を与える木製銅版画プレス
下部には多くの厚紙(カルトン)を詰めることができ
機。美術館が所蔵するにも拘らず、その由来につい
る。ベッドプレートの厚さやフェルトの厚さの変化に
て不明な場合が殆どである。
ともなう軸の高さや圧力の変化に対し、調整可能とな
本稿で取り上げたブリュッセルやナミュールの木
る。また直径の異なるローラー部品の交換にも対応し
製プレス機についても、フェリシアン・ロップスが
やすい仕組みになっている。
使用したと思われてはいるが、果してどうか。
図5と図9のプレス機のベッドプレートの端を見
1875 年に描かれたポール・マテイの「フェリシ
ていただきたい。このように端が次第に薄くなってい
アン・ロップスの肖像」12 という油絵がある。もし
ると、上下2本のローラーに挟まれたベッドプレー
ブリュッセルやナミュールの所蔵する木製プレス機
トに十分な圧力を与えながらベッドプレートを上手
がその中に描かれていたなら、確かにロップスが使
くセットできる。ボスには、ベッドプレートの端を薄
用したといえるだろう。しかし、刷り上ったばかり
く処理するという指示はなく、フェルトをずらして順
の銅版画を入念に見るロップスの前に描かれている
に重ねて印刷するように助言しているだけだ。時代の
のは、金属製銅版画プレス機である。
変化とともに、プレス機にも工夫が施され改良されて
いく。
アド・ステインマン氏の木製銅版画プレス機リス
トには、筆者自身まだ確認していないものが少なか
らずある。
おわりに
簡単な道具1本で分解、組み立てができ、しかも
軽い木製銅版画プレス機を上層階の部屋まで容易に
アムステルダムのレンブラントハウスで、復元木
運搬できたことは、揮発性溶剤などを使って版画の
製銅版画プレス機で刷っている人がいた。プレス機
作業をしていたことを考えると、当時としてはもっ
の具合を尋ねると、調子が良いとの答えだった。
とも体に優しくまたエコロジーなプレス機だったと
リトグラフの場合、ヨーロッパの美術学校や版
認識させられる。アパルトマンの最上階の屋根裏部
画工房では現在も木製リトプレス機を使用している
屋に、今もひっそりと眠っている木製銅版画プレス
ところがある。今も使用され続け重宝されている理
機が、案外ヨーロッパにはあるかもしれない。
由に、金属製リトプレス機では味わえない木製リト
日本においても東京藝術大学美術館のほか、まだ
プレス機ならではのしなやかな印刷圧を生みだすか
見知らぬプレス機がどこかに埋もれている可能性は
らだと、その魅力を語る者も多い。
十分ある。『都の魁』
(石田有年編、1883 年、
1971 年)
では、木製銅版画プレス機の場合はどうか。回転
の「摺物工の部」の中に木製銅版画プレス機が描か
ハンドルを回すための強い力が必要なため、敬遠さ
れている挿絵があるが、このような和製銅版画プレ
れたのだろうか。強い荷重のため木製ローラーが頻
ス機が日本のどこかに存在するかもしれない。
繁に割れたのだろうか。
1758 年(あるいは 1773 年)に出版された『腐蝕
銅版画技法』第四版にも、ディドロ、ダランベール
付記 本研究の調査にあたり、平成 19 年度発展研
の『百科全書』の「銅版印刷」の項目の図版にも、
歯車付銅版画プレス機の図は見当たらない。ハンド
ルを回す労力軽減のために歯車をプレス機に取り付
けて利用するには、産業革命まで待たなければなら
ないと考えられる。
̶ 55 ̶
究として金沢市より交付金を取得した。
ヨーロッパに現存する木製銅版画プレス機の調査 神谷佳男
註
1
ボスの腐蝕銅版画技法書は、『17 世紀フランス銅版画
6
id.(p.136)
技法の研究 アブラアム・ボス「酸と硬軟のワニスに
7
id.(p.135)
よる銅凹版画技法」
』(訳者:川上明孝・上田恒夫・保
8
『腐蝕銅版画技法』(1645)(p.60)
井亜弓・神谷佳男 金沢美術工芸大学美術工芸研究所
9
『De la Manière de Graver à L’
Eau Forte et au
Burin. Et de la Gravûre en Manière Noire. Avec
2004 年)に全訳されている。
2
『L’
imprimerie Histoire et techniques 』(Michael
la façon de construire les Presses modernes,
TWYMAN ENS ÉDITIONS Institut d’
histoire du
& d’
imprimer en Taille-Douce. Par A. Bosse,
livre/Les Amis du Musée de l’
imprimerie, Lyon. 2007)
Graveur du Roy. Nouvelle Edition Revûe, corrigée
の中で、著者 Michael Twyman 氏は、
「… 70 台近くの
& augmentée du double, et enrichie de dix-neuf
木製手引き印刷機は現在まで生き延びている。そのう
Planches en Taille-Douce. 』Paris, 1745 (p.134)
ちの 7 台はアントワープのプランタン・モレトゥス博物
10
「PRESSE EN TAILLE-DOUCE EN BOIS
館が保管する。 ……銅版画用木製円圧プレス機は、か
3
4
つてかなり普及していたに違いないが、今日では木製
Cette presse est généralement considérée comme
活版印刷機よりも珍しい。
」(p.43 - 44,47、筆者訳)と
étant celle ayant appartenu au graveur belge,
述べている。現存する木製銅版画プレス機の正確な台
d’
origine namuroise, Félician Rops(1833-1898).
数には触れられていないが、木製手引き印刷機の総数
Elle est constituée d’
u n bâti de bois dont les
が 70 台程なので、それ以下の数になろう。
montants creux reçoivent les axes des deux
『KRONIEK van het Rembrandthuis 96/1-2 』の中の
cylindres et les blocages souples(carton, feutre,
Ad Stijnman 氏 が 書 い た「De ontwikkeling van de
…)qui assurent la pression entre ces cylindres.
houten etspers,1460-1850」によると、18 台の木製銅版
Le plateau mobile passera entre les rouleaux
画プレス機が存在することを述べている。ステインマ
de bois et entraînera avec lui la matrice de
ン氏のプレス機のリストには、東京藝術大学美術館所
métal encrée, le papier et les langes de protection.
蔵のプレス機は掲載されていないため、その木製プレ
L o r s q u e l’
ensemble aura subi le cylindrage,
ス機 1 台を追加すると、全世界に 19 台以上の木製銅版
i l s’
agira, après avoir levé les linges de
画プレス機が存在することになる。
<<démouler>>le papier de la gravure et de le mettre
『Traité des Manières de Graver en Taille-Douce
à sécher soit, à l’
origine, en le suspendant à un fil, soit
sur l’
Airain, Par le Moyen des Eaux Fortes & des
Vernis Durs & Mols. D’imprimer les Planches & de
5
プレス機についての説明文の全文は、次のとおり。
aujourd’
hui ,en le plaçant entre deux cartons.」
11
筆者が見た木製銅版画プレス機は、以下の美術館、
construire la Presse par le Sieur A. Bosse. Augmenté
博物館に所蔵されている。(ブリュッセルを除く)
de la nouvelle manière dont se sert Monsieur Le
ルーヴル美術館(フランス・パリ)
Clerc Graveur du Roy 』Paris, 1701(p.57) 印刷博物館(フランス・リヨン)
『De la Manière de Graver à L’
Eau Forte et au
プランタン・モレトゥス博物館(ベルギー・アントワープ)
Burin. Et de la Gravûre en Manière Noire. Avec
フェリシアン・ロップス美術館(ベルギー・ナミュール)
la façon de construire les Presses modernes, &
東京藝術大学美術館(日本・東京)
d’
imprimer en Taille-Douce. Par A. Bosse, Graveur
12 『Portrait de Félician Rops』Paul Mathey 作 , 1875 年
du Roy. Nouvelle Edition Revûe, corrigée &
Musée National du Château de Versailles et du
augmentée du double, et enrichie de dix-neuf
Trianon
Planches en Taille-Douce. 』Paris, 1745
̶ 56 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
図
1
『Traité des Manières de Graver en Taille-Douce
sur l’
Airin par le Moyen des Eaux Fortes,&
des Vernix Durs & Mols. Ensemble de la façon
d’
en Imprimer les Planches & d’
en Construire la
Presse,& autres choses concernans lesdits Arts』
A. BOSSE, Paris, 1645 年 (p.63)
金沢美術工芸大学付属図書館蔵
イメージ・サイズ 134 × 85 ㎜
id.(p.59)
2
イメージ・サイズ 132 × 79 ㎜
ベルギー、ナミュール市にあるフェリシアン・ロッ
3
プス美術館正面(Musée Provincial Félician Rops )
2008 年 1 月筆者撮影
4 ∼7
フェリシアン・ロップス美術館所蔵の木製銅版画プ
レス機
2008 年 1 月筆者撮影
8
フェリシアン・ロップス美術館内のキュイジーヌ
(cuisine)と呼ばれている部屋にある木製銅版画
プレス機。美術館従業員用休憩室兼キッチンとし
て利用されている部屋にあり、美術館従業員及び、
関係者以外に同機を公開できる状態ではなかった。
2008 年 1 月筆者撮影
9
印刷博物館(Musée de l’
Imprimerie, 4 Boulevard
de l’
Empereur, 1000 Bruxelles)にある木製銅版画
プレス機
2008 年 1 月筆者撮影
(かみたに・よしお 共通造形センター/銅版画)
(2008 年 10 月 31 日受理)
̶ 57 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
BROOK TAYLORの透視図法
井 村 俊 一
1. はじめに
のラバットメント(rabatment:折り返す)と称さ
れる視平面の回転で、Fig.7 に示すような、視点が
図学史の中で、筆者にとって興味深い分野であ
画面の上方に位置する透視図法に注目した。この方
る透視図法をルネサンス期から順に研究1を続けて
法は、現代図学しか知らない人には、戸惑い、困惑
きた。対象とした主な人物の図法はブルネレスキ
すると思われる。ところがこのような配置の透視図
(Brunelleschi,Filippo:1377 ∼ 1446)、アルベルティ
法は、詳細に検証すると現代図学で通常行われてい
(Alberti, Leon Battista:1404 ∼ 1472)、ピエロデッ
る、対象物の第2角法配置を副投影法により、透視
ラ・フランチェスカ(Piero della Francesca:1416
図から離すテクニックを思えば、勝るとも劣らない
∼ 1492)
、 レ オ ナ ル ド・ ダ・ ヴ ィ ン チ(Leonardo
図法という見方も成り立つ。
da Vinci:1452 ∼ 1519)とイタリア・ルネサンス期
本報告の主題として、既述の二つの課題を紹介
を代表する図法を筆者なりの総括を行った。次に透
するための代表的な透視図法として、イギリスのブ
視図法が、伝わったフランスに目を向け、ペルラン
ルック・テイラー 2(Brook Taylor:1685 ∼ 1731)
(Pélerin・Jean 通称 Viator:1440 ∼ 1524)
、次いで
を代表とする透視図法が、一番ふさわしいと考える
ドイツのアルブレヒト・デューラー(Albrecht・
に至った。テイラーの透視図法は、グラヴザンデ等
Dürer:1471 ∼ 1528)の図法を紹介した。次第に透
の方法を踏襲し、それを発展させたものである。特
視図法の理論が数学的に完成していく過程で、ジェ
に注目すべきは、透視図からもとの原図形を求める
ラ ー ル・ デ ザ ル グ(Girard・Desargues:1591 ∼
透視図の再構成の方法を種々創案しているからであ
1661)が、透視図法に当時の最先端の数学である座
る。また、彼は彼の著作のタイトルや序文で、画家
標幾何学を導入し、彼の弟子アブラハム・ボッス
や建築家、デザインする人々のために透視図法を、
(Abraham・Bosse:1602 ∼ 1676)がデザルグの図
今までのどんな書物よりも一般的で、より易しく記
法を主として絵画理論に適用した図法を工夫した。
述したと唱っているのも理由の一つである。Fig.1 3
そのような図法を検証紹介した。デザルグ以降の透
に 1715 年に出版された最初の著作の表紙を示し、
視図法の発展を考察していく過程で、オランダのシ
Fig. 2 3 に前著の改訂版で 1719 年に出版された著書
モン・ステフィン(Simon・Stevin:1548 ∼ 1620)
の表紙を示す。また、彼の協力者にキルビー(John
の傾斜画面を取り扱った透視図法に注目し、また、
Joshua・Kirby:1716 ∼ 1774)とハミルトン(John
透視図法の逆作業、即ち、透視図からもとの原図形
Hamilton:18 世紀)がいて、テイラーの著書やテ
を作図する手法(Inverse Problem of Perspective)
イラーの透視図法の各種の方法の展開に貢献した。
にも注目させられた。上述の二つの課題を現代図
テイラーの著書は、最初に本に出てくる用語の説明
学で解釈し、紹介したいと考えて、考察を続け、
を定義として、展開し,次に系として内容を説明し、
シ ュ ー テ ン(Frans van Schooten:1615 ∼ 1660)
定理として各種の内容を展開していく。次にデモン
の傾斜画面法から、グラヴザンデ(Willem Jacob s
ストレーションとして内容を言葉で説明していき、
Gravesande:1688 ∼ 1742)に至り、グラヴザンデ
イクザンプルを提示し、問題として各種の内容を提
̶ 59 ̶
[キーワード]
傾斜画面法 消失線三角形 透視図の再構成
BROOK TAYLOR の透視図法 井村俊一
示していき、最後にそれぞれに該当する図をまとめ
2. テイラーの透視図法 て展開するという形式をとっている。(本報告の末
尾に参考図として内容を紹介した)
そこで、
テイラー
Fig.3 に示すように、テイラーは、彼の透視図法
の図を説明するためにその図と同等の図を現代図学
の数学的モデルのイラストを描き、彼の図法の原理
に準じて、筆者が新規作成し、説明や検証を進める
や陰影を示している。
という形式で報告を進めた。
Fig. 3 テイラーの透視図法のイラスト
そして、Fig.3 のイラストモデルの解析的な見取
り図として、Fig.4 を提示している。ここで注目す
Fig. 1 テイラーの最初の著書の表紙
べきは、一般的に傾斜画面を取り扱っていることで
ある。
Fig. 4 テイラーの透視図法の見取り図
Fig. 2 テイラーの著書の改訂版の表紙
̶ 60 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
Fig. 7 テイラーの透視図法の原理図
Fig. 5 テイラーの透視図法の画面設定
Fig.7 に示すテイラーの原理図は、視点を含む水
平面(本報告では今後、視平面と表現する)を設
テイラーの協力者キルビー(Kirby)の Fig.5 に
定し、画面との交線、即ち、地平線を回転軸(ラ
示す図版を参照して、比較検証のため、現代図学の
バット軸)として、時計回りに画面に重ねるように
透視図法の原理の見取り図 Fig.6 とテイラーの図法
回転する。同時に原図形側の基面を、基線をラバッ
の原理の見取り図 Fig.7 を作成した。
ト軸として、時計回りに画面に重ねるように回転す
る。加えて、予め視点を含み画面に平行な面(テイ
ラーは、指示平面:Directing Plane と名付けている。
現代図学では、消滅平面:Verschwingsebene とい
う)を設定し、視平面と指示平面との交線(指示軸:
Directing Line)をラバット軸として反時計方向に
回転し、視平面に重ねておく。以上の作業で単面の
解析図が設定されるわけである。基線の下に原図形
の基面があり、基線と地平線の間が透視図の描かれ
る画面で、地平線の上部の視距離に視点の位置がき
て、その下、視高の位置に指示軸が設定される。但し、
この形式では原図形は原則として基面上の平面図形
を想定している。テイラーの指示画面、指示軸など
Fig. 6 現代図学の透視図法の見取り図
の独特なアイデアの根拠を推測したとき、例えば、
Fig.8 の現代図学の足点̶ 足線法の代りに、Fig.9 に
よる Fig.10 や矢印形図形対象の Fig.11 のように視
点を停点を中心として、基面上に回転した点(停点
は視高だけ移動する)と原図形(図版では半無限線
̶ 61 ̶
BROOK TAYLOR の透視図法 井村俊一
上の点と矢印形図形)
を構成する点の平面図と結ぶ。
このようにすると、足点は必要なく、目線との直接
の交点で、透視図を求めることができる。このよう
に直接的に作図可能という利点で、指示軸の設定が
考案されたのではないか。つまり、視点と指示軸上
の点(原図形の延長線と指示軸との交点)を結ぶ作
図線は、透視図の該当線分と平行になる。それに対
して、原図形の構成線の基線までの延長線分と、該
当する視点と地平線上の点を結ぶ作図線は平行であ
る。この性質を使い、透視図を作成する。この二つ
の方法は、適宜、使い分けをすればよいわけである。
Fig.10 Fig. 9の作図設定
Fig. 8 直接法による透視図法例
Fig.11 視点回転の作図設定図
3. テイラーの透視図法の例(2次元図形)
Fig.12 に示す図版は、テイラーの基本的な作図例
Fig. 9 Simon・Steven の透視図見取り図
である。
̶ 62 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
Fig.12 テイラーの基本作図法Ⅰ
Fig.14 テイラーの基本作図法Ⅱの説明図
図中で線Eは基線を示し、線SVは地平線を示し、
Oは視点を示す。Vは原図形である直線CADの消点
である。Sは視心で、対象点Aは直線CD上の点で
図 Fig.14 で原図形△ABCの各辺を延長し指示線
あり、A点から画面に垂直かつ、基面上の線Abを
DLとの交点Q,R,Tを求める。Q,R,Tと視
作図する。また、Dは始点をあらわすから、線DV
点Eを結ぶ。EQ,ER,ETと該当する透視図の
は全透視図となる。垂直線の始点bと視心Sを結ぶ
辺A C とERは平行。B C とEQとは平行。A B
線と全透視図との交点が求める透視図a点であるが、
とETと平行。以上の性質を使って作図する。この
原図形A点と視点Oを直接結んで透視図aを求めて
透視図作成法は、現代の立場でも興味深い方法であ
もよい。テイラーは、直接結ぶ作図方法を主として
る。次いで、Fig.15 に基本作図法Ⅰの透視図例を示
いるようである。次に、指示軸を使った例をFig.13に
す。
示し、説明用にFig.14の図版を作成した。ここで、視
距離と視高を同じにとれば指示軸と地平線は同一直
線となり、作図が簡略化できる。
Fig.15 テイラーの作図例−1
続く、テイラーの基本作図法Ⅰの透視図例 Fig.16
Fig.13 テイラーの基本作図法Ⅱ
は、五角形と正方形を組み合わせた原図形を対象と
̶ 63 ̶
BROOK TAYLOR の透視図法 井村俊一
したものである。図法で注目すべきは、原図形の各
Fig.17 の作図は、地平線と指示軸が同一線(視距
辺と視点と地平線を結ぶ作図線は平行である。本図
離=視高)の設定と推定される。故に、原図形の正
の一つは、二方向の平行線群で原図形が構成されて
方形(ハッチングで表示)の各辺を延長し、指示
いるので地平線上での2点に透視図作図線は集中し
軸 HI との交点を求める。その交点と視点 O を結ぶ。
ている。また、他の原図形五角形でも同様な作図が
これら線分は、透視図の該当辺と平行になる。この
なされているが、更に、透視図点の決定に原図形の
性質を利用して透視図を作成する。図で各々該当す
点と視点を直接結ぶ作図線を活用している。
る平行線は、透視図作成に必要な位置までしか作図
されていない。このことは、テイラーの透視図作成
法の特徴をよくあらわしている。続いての作図例と
して、Fig.18 を示す。平面図形(多角形)の透視図
である。Fig.18 に示すテイラーの図版で原形の多角
形は、透視図の左横に小さく示されている。この図
版では、既述のテイラーの作図法が適用できなくて、
透視図作成が不可能である。そこで、原図形(多角
形)の角度を利用したテイラーの別種の作図法を検
証するために、図版 Fig.19 を作成した。筆者が作成
した Fig.19 は、Fig.18 をコピーして、その図版に原
図形の作図を付加したものである。便宜的に透視図
Fig.16 テイラーの作図例−2
の a 点を通り地平線 FM に平行線(基線)を引き、
この線を基準として、テイラーの透視図作成の逆作
次に、基線の下に設定された原図形と上方に配置
業を行って作成したものである。Fig.18 は原図形の
された視点を使い、臨機応変に透視図を作成する典
見込み角により、視点 O と2消点 F,M を与えると、
型的なテイラーの基本作図法Ⅱの透視図例を Fig.17
それを結ぶ地平線 FM が決まる。次に、視心 V がき
に示す。
まる。以上の条件下で、原図形の多角形を一つの頂
点 A により三角形に分割、その三角形の各々該当す
る角度で、視点 O から地平線 FM に作図線を引く。
各々の作図線と FM との交点と、任意に定めた a 点
(これにより視高が決まる)とを結び、更に、原図
̶
形である多角形の一辺の透視図 abを図中に与えて、
b 点と FM 上の G 点を結ぶ。このようにして、透視
図を作成する方法を示している。故に原図形は、辺
と角度関係が示されれば、図版の横隅に配置しても
よいわけである。この方法は、理論的には正しいが、
Fig.19 の作図から検証するとテイラーの図版 Fig.18
の角度等の作図の精度に疑問が残る。また、同様な
方法、即ち、視点、地平線、消点と透視図の一辺を
与えた透視図作成例を Fig.20 に示す。Fig.20 は、テ
イラーの、透視図図版に筆者が破線で原図形を作成
Fig.17 テイラーの作図例−3
し、付加したものである。この図版も、テイラーの
̶ 64 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
図の片隅に示される多角形の原図形と筆者作成の原
図形とを比較するとその違いが歴然とする。透視図
が、正しいと仮定すると原図形の形、特に角度が、
地平線と視点の間の作図線と対応していないのでは
ないか。やはり、テイラーの図版の正確さの検証も
含めて、今後、解明しなければならないと考える。
テイラーは透視図作成に際して、上部に配置の視点
から形成される作図線の角度(本論では、見込み角
と称しているが)を、しばしば重要視して利用して
いるから。
Fig.20 テイラーの作図例−5
Fig.21 に平面図形(曲線:円)の透視図の例を示す。
Fig.18 テイラーの作図例−4
Fig.21 テイラーによる円の作図例
Fig.22 は、Fig.21 の説明用に作成した図版である。
原図形である円に交わる平行線群を利用する作図
法と一つの焦点に集まる線群を利用して、テイラー
Fig.19 テイラーの作図例−4への追加作図
の原理を適用する二つの方法を提示している。
̶ 65 ̶
BROOK TAYLOR の透視図法 井村俊一
Fig.22 Fig.21 の説明図
4. テイラーの透視図法の応用例
(2次元図形)
Fig.23 にテイラーの応用的透視図例を示す。こ
の図を説明するために、Fig.24 を新規に作成する。
Fig.24 は条件として、地平線を与え、その上に3点
の消失点V 1,
V2,
V3 を設定し、
次に透視図△ A’B’C’
Fig.24 Fig.23 の説明図
(斜線)を与える。そして、原図形△ ABC を見込む
角α、δを与え、視点と視距離を逆に求め、それに
より、原図形△ ABC を作図したものである。
Fig.24 で、地平線が与えられ、その上に3つの消
点が任意に V1 ,V2 ,V3 設定されている。透視図に対
応する2つの見込み角(図版参照)α、δがあらか
じめ与えられている。また、透視図(ここでは、三
角形)も与えられている。以上が条件で、視点の位
置(視距離も含む)と視心と原図形を求めること
である。与えられた V1 ,V2 の垂直2等分線を地平線
上に立ち上げる。また、V2 ,V3 の垂直2等分線も同
様とする。V1 ,V2 点で地平線に角度α、δの線分を
引 く。V1T,V2Q で あ る。 次 い で、V1,V2 点 で V1T,
V2Q に垂線を立て、前述の垂直二等分線との交点を
それぞれ O1,O2 とする。O1,O2 を中心とする2円
を描き、その交点の一方を E 点とする。E 点が求め
る視点である。E 点より、地平線に垂線を下し、交
点を S とすると S が視心である。線分 ES が視距離
Fig.23 一直線上の 3 消点と見込角から視点の作図法
である。以下、得られた視点と視心を使い、任意の
位置に基線 GL を地平線に平行に引き、テイラーの
̶ 66 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
作図法で原形の三角形を求めることができる。原図
いる。Fig.26 は以上の条件を使い、正方形の透視図
形△ ABC の各頂点と E 点を結ぶ破線は検証作業用
を作図したものである。
に作図したものである。
5. テイラーの透視図法例Ⅰ(3次元図形)
Fig.25 に基面上の立方体の透視図を示す。2つの
消点 K,I とそれを結ぶ消失線、即ち、ここでは地平
線と、透視図対象図形が立方体なので図の見込み角
は 90°。そこで、透視図作図作業では半円(直径に
対する円周角が 90°)が利用される。以上の予備知
識で、このテイラーの図版を検証すると、あらかじ
め、立方体の透視図が与えられていれば、各辺を結
ぶことにより、消点二つ K,I が求まりその結果、地
Fig.26 立方体の作図法手順1
平線 KI が決定する。次に、直径 KI の半円を描くと、
視点Oは半円上の点として求まる。視点が定まれば、
視心 L は、O 点からの垂線により求めることができ
次に、Fig.27 を作成する。この図は、立方体の高
る。基面上の図形であるから、基面に垂直な稜の透
さ方向の消点は、無限遠方となる。即ち、透視図
視図は、消点が無限遠方であるから、当然、基面に
は基面に垂直な方向となる。そこで、Fig.27 の透視
垂直となる。稜の長さは、視点からの距離、即ち、
図の前面の垂直稜の長さを透視図的に任意に定め
視距離で決まる。
る。(例えば、画面に接していれば実長)、本図では、
AK(実長:a)としている。この頂点 K と、V1 ,V2
を結ぶ。次に、頂点 B,D から、垂線を下ろし、KV1,
KV2 との交点 J,R を求め、作図が完成する。
Fig.25 基面上の立方体の作図例
今度は、立方体の原図形から、透視図を作図する
という問題に転換して、テイラーの方法を展開する。
先ず、新規図版 Fig.26 を示す。この図では、基線の
下方に原図形立方体の一つの面(2次元)である正
方形が設定され、今度は、地平線とその上の二つの
消点 V1 ,V2 、そして視点 E があらかじめ与えられて
̶ 67 ̶
Fig.27 立方体の作図法手順2
BROOK TAYLOR の透視図法 井村俊一
ここで、立方体の一つの稜を透視図的に任意に定
それに対する測点が設定されていない。立方体の高
めるとしたが、テイラーは、この稜の長さを定める
さ方向の測点法での解釈は、基点 b からの垂直稜そ
方法を知っていた。それは Fig.28 に示されるところ
のものが測線と解釈できる。
の現代図学でいう測点・測線法である。Fig.28 で、
線 HI は、地平線であり、DJ はあらかじめ与えられ
た線分の透視図で、その消点は V である。故に、線
分の全透視図は DV となる。また、線 BE は基線で
ある。E 点は視点の平面図で、EG は視距離である。
先ず、消点 V から垂線を下ろし、基線との交点を B
とする。線分 BE は原図形の線分と消点の定義から
平行となる。また、B 点を中心として半径 BE の円
弧を描き、基線との交点を A とし、A より垂線を
立ち上げ、地平線との交点を M とする。この M が
測点である。そして、D 点は測線の基点(測線の原
点)となる。この図では、
測線と基線は同じとなる。
Fig.29 測点法による立方体作図
BE上のT,S,R点をAEに平行に測線上に移して、各々
Q,P,O とする。そして、測点 M と結び全透視図 DV
との交点 Q , P , O を求めると測線上の実長 O,OP,PQ
以上の事柄を明確にするため、筆者は Fig.29 に加
の透視図が DO , O P , P Q となる。ここで測点法
筆した新規図版 Fig.30 を作成した。加筆部分は、消
の理論により、
△BEAは、
二等辺三角形
(B点を中心、
点 I に対する測点 P と測線 ML1,ML2,ML3、b 点は測
半径 BE の円弧 EA として作成)である。
線の基点であり、縦、横、高さ方向に立方体の稜(長
さが等しい)の実長(円で表示)をとっている。そ
れに測線上の点と測点を結ぶ線である。Fig.30 の方
法を適用すれば Fig.27 の問題は解決する。
Fig.28 テイラーの測点法の原理図
この測点法を Fig.27 に適用したテイラーの図版を
Fig.29 に示す。Fig.29 は Fig.28 と相違し、視点が上
部に位置するテイラー本来の設定がなされている。
HI は地平線で G 点は視心である。視点と消点 H と
の距離を半径とし、中心 H の円弧と地平線との交点
M が測点となる。即ち、消点 H に対する測点 M で
ある。ここで他の稜の消点 I が設定されているが、
̶ 68 ̶
Fig.30 Fig.29 の詳細説明図
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
6. テイラーの透視図法例Ⅱ(3次元図形)
この図は Fig.31 と相違し、消失線三角形(鋭角三
角形)を与え、立方体の透視図を作成する方法であ
テイラーは、Fig.31 に立方体の透視図 ABCDEFG
る。三角形の垂心より、視心 s。垂直線 QV3 を直径
(見える点のみ)を与え、
その図から3つの消点 H,K,I
とする半円と視心より垂線を立ち上げ、半円との交
3本の消失線、視点 O、視心 S を求める作図法を示
点で視点 E。測点 M は、消点を中心とした、視点
している。即ち、3つの消点は透視図の各稜を延長
と消点の距離 Vs1 を半径とする円弧上の点。透視図
して、その交点を求めればよい。3つの消点を結ぶ
作成は、始点 A を適当に定め、始点を基点とする、
線が消失線である。ここでは鋭角三角形を構成する。
3方向の測線(測線は消点とそれに該当する測点を
消失線三角形の垂心を求めれば、それが視心となる。
結ぶ線と平行)を設定し、立方体は稜の長さが等し
視心を通る一つの垂線、この図では KL を直径とす
いから、基点を中心とする円で表示。以上から始点、
る半円を描き、かつ視心から垂線をたて、半円との
測線、測点、消点により透視図を作図したものであ
交点を求めるとそれが視点である。
る。Fig.31 と Fig.32 は互いに逆の作図目的で作成さ
れた図版であるが、消失線三角形は、傾斜画面の場
合に必然的に設定される解析図で、目的は3次元の
原図形の透視図作成である。テイラーは、この方法
を熟知していたことが理解される。
7. 透視図の再構成と写真測量
同様なタイトルで黒田は彼の著書 4 で説明してい
る。本節では、黒田の著書との重複を避けて、テイ
ラーの図版を使い、基本を説明する。先ず、Fig.33
を示す。この図は、ある対象物を望む実角(2平面
間の角)を与え、その実角を消失線三角形内で作
Fig.31 立方体の透視図を与えた消失線三角形の作図法
図することである。ここでは、実角 C が図中に提
示されている。消点 A から消失線 BT に垂線をおろ
次に、参考のため、現代図学での3消点透視図を
消失線三角形により作図する方法を Fig.32 に示す。
し、交点を V とする。線分 AV 上に点 O をとり、∠
TOB を∠ C に等しくなるようにとる。(この場合、
消点 T、B 含む形で∠ C をとっている)視点と消点 B、
消点 T を結ぶ三角形(実形の平面)を消失線 BT を
軸として画面上にラバットしたときの視点の位置を
S とする。S は線分 AV 上にある。また、一般に AV
上の点と V との長さは、消失線 BT との距離を示す。
平面 OTB と平面 STB は、消失線 BT を共有してい
るので平行(一致の場合も含む)となる。即ち、∠
TOB は、視平面の一部である平面 STB と平行な面
上の角であるから、実角となる。(Fig.38 に、S の
作図用の半円と視心のための垂線を加筆している)
Fig.32 消失線三角形による立方体の透視図作成法
̶ 69 ̶
BROOK TAYLOR の透視図法 井村俊一
る。消失線三角形 BGD と消失線三角形 BEG は消失
線 BG、消失線 GD を共有している。同じ消失線を
共有している平面同士は、平行となる。Fig.35 は、
Fig.34 の作図の実際を試みるためにトレースした図
である。
Fig.33 与えた見込み角の作図例−1
次いで、消失線三角形に∠ H をとる例を Fig.34 に
Fig.35 与えた見込み角の作図手順
示す。
このように、テイラーは、透視図上での角の実角
を求める方法を考案している。この透視図の再構成、
即ち、透視図(ほぼ、写真画像と同じと考えてよい)
の実形を求めることは、現代の写真測量につながる
わけである。
8. テイラーの透視図法の総括
前節までテイラーの著書の図版を検証ないし解析
をしてきたが、本節では、改めてテイラーの透視図
Fig.34 与えた見込み角の作図例−2
法を基本にたちかえり総括を行う。先ず、Fig.36 は
現代図学での正方形を対象とした透視図の通常的な
Fig.34 で、C は視心、O は視点、△ BGD は消失線
基本作図法である。Fig.37 は、同じ図形を対象とし
三角形、直線 BPCF は、消失線 GD に引いた垂線。
たテイラーの基本作図法である。また、Fig.38 は、
直線 DCA は消失線 BAG への垂線。C 点は垂心であ
同じ図形を対象としたテイラーの指示軸を設定した
る。本図で、点 P を BE 上にとり、∠ GPE が∠ H に
別の作図法である。Fig.39 は、現代図学の方法とテ
等しくなるように、E 点を消失線 GD 上にとる。平
イラーの方法の比較検討を容易にするために一枚の
面 GPD と視平面は、消失線 GD の一部が消失線 GE
図版にまとめたものである。二つの方法を比較して、
点であるから、同じ消失線を共有しているので平行
特に強調したいことは、テイラーの作図方法が与え
となる。実形を表示する視平面
(実際は画面にラバッ
られた透視図から逆に原図形を作図で求める(透視
トして表示)と平行な面での∠ GPE であるので実
図の再構成)ことが非常に容易であることである。
角である。また、B と E を結び消失線 BE が得られ
テイラー自身、透視図の再構成の問題を熱心に研究
̶ 70 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
していたことは、彼の著書からも明らかである。
Fig.36 透視図法(消点−足線法)
Fig.38 テイラーの透視図基本作図法Ⅱ
Fig.37 テイラーの透視図基本作図法Ⅰ
Fig.39 透視図法の比較検討図
̶ 71 ̶
BROOK TAYLOR の透視図法 井村俊一
9. 傾斜画面法の座標解析
Fig.40 は、理解の便宜のため、垂直高さ h の矢印
形図形の傾斜画面法(仰観透視図)での透視図の見
取り図を示す。また、Fig.41 は、同じ対象図形の傾
斜画面法
(俯瞰透視図)
での透視図の見取り図を示す。
Fig.42 は、傾斜画面法での透視図を、解析的に作成
するための座標解析図の例である。理解し易いよう
に垂直画面と傾斜画面での透視図の関係を関連づけ
て解析図を設定している。基面(水平面)と画面と
の傾斜角εの値で仰観透視図か、俯瞰透視図になり、
両者は、一つの座標解析図(Fig.42)で統一的に扱
うことができる。傾斜画面上では、3つの消点とそ
れを結ぶ消失線三角形が形成される。この節は、最
近のように、高層建築が増えている現状で、従来あ
まり重視されなかった3消点の透視図の作成が必要
となっている。このような状況で最適な作図方法は、
Fig.41 傾斜画面法(俯瞰透視図)
傾斜画面法と筆者は考える。しかし、現在の図学の
教科書 5 では殆ど扱われていない、なじみの薄い傾
斜画面での透視図作成を少しでも容易に、かつ、理
解の助けとなるようにと、また、コンピュータのプ
ログラム作成の便宜のために Fig.42 を作成した。
Fig.40 傾斜画面法(仰観透視図)
Fig.42 傾斜画面法座標設定図(水平傾角:ε)
̶ 72 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
Fig.42 の解析の基本は、傾斜画面と等価な垂直画
の位置とは基本的に相違し、上方に位置している。
面を設定して、作図する方法を採用した。理解のた
このような設定のテイラーの透視図を筆者は、最初
めに Fig.43(俯瞰透視図注釈図)と Fig.44(仰観透
は理屈よりは肌で感じようと多数、トレースしてい
視図注釈図)を作成した。
る時(何故なら、図学は実用という側面が強い学問
の性格からであるが)
、初めは大いに困惑した。し
かし、次第に馴れてくると現代図学の方法との違い
が理論的にも理解できるようになった。概略的にテ
イラーの透視図法は、現代図学の透視図法の種々の
作図形式の基本に直結していることが理解された。
次に、テイラーの透視図法の特徴と本報のまとめを箇
条書きにすると、以下の通りである。
① 視平面を地平線を軸として上方にラバットす
る。次に、対象図形が設定されている基面を基
線を軸として下方にラバットする。すると透視
図は、地平線と基線の間の画面部分のみに描か
れ、他の図がこの部分には存在しない。この形
Fig.43 傾斜画面の等価垂直画面Ⅰ
式は、現代図学の対象図形を正投影法の第2角
法で表示する、透視図法の欠陥を自動的に回避
できるわけである。(尤も、現代図学は副投影
法を適用し、平面図、立面図を透視図から移動
する形式を採用しているが)
② テイラーの方法は、可逆的な作図法である。原図
形から透視図へ、透視図から原図形と容易に作図
可能な方法である。特に2次元図形ではそれが顕
著である。
(透視図の再構成に最適な図法)
③ テイラーは、透視図法で、現代図学の測点・測
線法とほぼ同様の内容の形式を考案し、適用し
ている。(但し、視点の位置は相違する)
④ 透視図法に、一般論として傾斜画面法を適用し
ている。その中の垂直画面法は、特に2次元図
形に有効な形式として採用している。
Fig.44 傾斜画面の等価垂直画面Ⅱ
⑤ 垂直画面法でも、3次元図形を取り扱うと同時
に、傾斜画面法で3次元図形を展開し、特に傾
10. 結論
斜画面法特有の3消点の設定で、消失線三角形
法が展開されている。
(現代図学の消失線三角
形法の確立)
テイラーの著書に挿図されている透視図を題材に
して彼の透視図法を検証解析した。テイラーを中心
⑥ 傾斜画面用の解析用座標設定図を作成し、コン
とする学者達の透視図法は、視点の設定が現代図学
ピュータ作図等での現代の学習者の便宜を図った。
̶ 73 ̶
BROOK TAYLOR の透視図法 井村俊一
参考 . テイラーの著書の内容抜粋例
参考図1(本文例)
参考図2(図版例)
̶ 74 ̶
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
注 Bishop s-Head In St.Paul s Church Yard. MDCCXV.
より、
1
例えば、金沢美術工芸大学紀要 第 49 号 2005 年
Fig. 4 :図版 Fig.2.
“アブラハム・ボッスの透視図法と絵画”p105
Fig.13 :図版 Fig.17. Fig.15:図版 Fig.20
金沢美術工芸大学紀要 第 51 号 2007 年
Fig.16 :図版 Fig.16. Fig.18:図版 Fig.18.
“ジェラール・デザルグの透視図法”p19
Fig.20 :図版 Fig.19. Fig.23:図版 Fig.40
金沢美術工芸大学紀要 第 52 号 2008 年
Fig.25 :図版 Fig.43. Fig.33:図版 Fig.10.
“アルブレヒト・デューラーの透視図法”p39
2
2
NEW
PRINCIPLES of Linear Perspective: OR
Brook Taylor :英国、数学者として解析学で、テイラー
THE ART of DESIGNING on a PLANE THE
展開、テイラーの定理等、物理学者として、波動方程
REPRESENTATIONS of all sorts of OBJECTS, in a
式の発見。
more General and Simple Method than has been done
日本では、テイラーの図学者としての業績や彼の透視
before.
図法は、殆ど紹介されていない。図学史の記述で、黒
Printed for R. Knaplock at Bishop s Head in St.Paul s
4
3
Fig.12:図版 Fig.6
BY
Brook Taylor, LL.D. and R.S.S LONDON:
田正巳の“空間を描く遠近法” p84 ∼ p85,p213 ∼ p214,
Church-yard. MDCCXIX. より、
ほぼ、同内容で同氏の執筆で“図形科学ハンドブック”
Fig. 3 :図版 Fig.1.
日本図学会、森北出版.1980、p18、に紹介されてい
Fig.21 :図版 Fig.13. Fig.31:図版 Fig.24.
る程度である。本報告執筆の動機のひとつである。
Fig.34 :図版 Fig.18.
BROOK TAYLOR’
S WORK ON LINEAR
3
Fig.17:図版 Fig.11.
BROOK TAYLOR’
S WORK ON LINEAR
PERSPECTIVE. Sources in the History of
PERSPECTIVE. Sources in the History of
Mathematics and Physical Sciences 10
Mathematics and Physical Sciences 10
KIRSTI ANDERSEN Springer-Verlag
KIRSTI ANDERSEN Springer-Verlag より、
上記、書物中にテイラーの二著とも複製、収録されて
Fig.9:p18,Fig.10:p19 以上、
いる。
Simon・ Stevin の透視図法の設定である。
4
空間を描く遠近法,黒田正巳 彰国社 1992、P212
5
手元の教科書で、
“図形と投象”前川道郎、宮崎興二 ,1979
art from Brunelleschi to Seurat
に解説されている。“図形科学ハンドブック”日本図
MARTIN KEMP YALE UNIVERSITY PRESS NEW
学会、森北出版.1980 に同内容で前川道郎氏執筆で転
HAVEN AND LONDON より、
載されている。数学理論として、
“基礎図学”玉腰芳夫、
Fig.5:p153 , Fig.29:p150 ,
Fig.30:p153
4
THE SCIENCE OF ART Optical themes in Western
長江貞彦、共立出版、1979 に僅かに解説されている程
本論文は平成20年度金沢美術工芸大学発展研究
度である。
費を受託して遂行したものである。
図版出典
(いむら・としかず 一般教育等・図学)
1
(2008 年 10 月 31 日受理)
LINEAR PERSPECTIVE: OR a New METHOD of
Representing justly all manner of OBJECTS As they
appear to the EYE IN ALL SITUATIONS. A Work
necessary for PAINTERS, ARCHITECTS to Judge
of , and Regulate Designs by Brook Taylor,LLD.
and R.S.S. LONDON: Printed for R.Knaplock at the
̶ 75 ̶
平成20年度 教員研究費・科学研究費研究題目一覧
基盤研究
○は研究代表者
土屋 一
美術科 日本画専攻
現代日本画における風景画
仁志出 龍司
美術科 日本画専攻
風景画に於ける自己主張
西出 茂弘
美術科 日本画専攻
現代日本画における風景の表現について
佐藤 俊介
美術科 日本画専攻
日本画に於ける表現および主題の「現代性」について
前田 昌彦
絵画に於ける人間の構成的表現
真鍋 淳朗
美術科 油画専攻
美術科 油画専攻
三浦 賢治
美術科 油画専攻
油彩画技法における裸婦
(人物)
を主題とした画面構成とその表現
鈴木 浩之
美術科 油画専攻
日常風景と抽象形体を組み合わせた絵画表現
高橋 治希
美術科 油画専攻
1.油画専攻基礎課程における教材研究 2.中国などでの発表活動及び現地アートシーンの調査
下川 昭宣
美術科 彫刻専攻
生物の原型の考察及び石材等によるその表現
長谷川 大治郎
美術科 彫刻専攻
現代彫刻研究*自然との共生 動物をモチーフに形体を考える
石田 陽介
美術科 彫刻専攻
立体造形における具象的表現の可能性の研究
土井 宏二
美術科 彫刻専攻
美術大学の彫刻教育研究
太田 昌子
美術科 芸術学専攻
北陸の物語絵研究、金沢絵馬悉皆調査研究、金沢城障壁画研究
上田 恒夫
美術科 芸術学専攻
様式論と表象論
川上 明孝
美術科 芸術学専攻
現代美学研究−分析哲学の動向
保井 亜弓
美術科 芸術学専攻
装飾版画 アート・アーカイブズ
山崎 剛
美術科 芸術学専攻
工芸の歴史と現状に関する研究
後藤 徹
デザイン科 視覚デザイン専攻
ビジュアルコミュニケーションデザイン教育研究
工藤 俊之
デザイン科 視覚デザイン専攻
広告デザインの研究
寺井 剛敏
デザイン科 視覚デザイン専攻
屋外広告物に関する研究ᰒ
鈴木 康雄
デザイン科 視覚デザイン専攻
デジタルメディアの教育的活用に関する研究
村井 光謹
デザイン科 製品デザイン専攻
イタリアのタルシア調査とフランスのブル工芸学校
(パリ)
のインタルシア
教育部門の調査
荒井 利春
デザイン科 製品デザイン専攻
ユーザー参加型ユニバーサルデザイン教育の社会化の研究 − 2 −
村中 稔
デザイン科 製品デザイン専攻
製品デザインにおけるコンピュータ・シミュレーションの可能性
浅野 隆
デザイン科 製品デザイン専攻
ソーラー電気自動車の研究4
田中 寛志
デザイン科 環境デザイン専攻
金沢の空間文化技術
坂本 英之
デザイン科 環境デザイン専攻
ショップ併設ギャラリーにおける建築とアートの関連性に関する研究
角谷 修
デザイン科 環境デザイン専攻
デザイン振興と空間デザイン分野の発展
鍔 隆弘
デザイン科 環境デザイン専攻
地域景観形成における緑の活かし方に関する研究
川本 敦久
工芸科
型による表現の展開性
中川 衛
工芸科
象嵌技法に用いる加飾の研究(Ⅱ)
板橋 廣美
工芸科
鋳込み成形による大物磁器作品の制作に関する研究
向井 武
工芸科
漆芸加飾技法「蒔絵」
城 英明
工芸科
テキスタイルアート作品の制作と発表
山村 慎哉
工芸科
伝統的加飾技法を用いた蓋物漆器の制作研究
(特に板紅漆器研究)
田中 信行
工芸科
現代における造形表現の研究
山本 健史
工芸科
土の相と質(強さと美しさ)
現代の都市空間におけるアート機能の研究
̶ 77 ̶
工芸科
杢目金の素材研究、並びに表現研究
中島 俊市郎
工芸科
織物と繊維造形の教育研究及び研究制作/デジタル機器を活用した
工芸織物制作および教育研究
林 泰史
工芸科
真土型鋳造法による表現の考察
寺田 栄次郎
共通造形センター
油性絵画下地の研究
神谷 佳男
共通造形センター
版表現
遠藤 研二
共通造形センター
現代美術においての立体造形の存在の研究
伊藤 英高
共通造形センター
美術大学における、
デジタル環境の有効的活用についての研究
荒木 恵信
共通造形センター
日本画天然絵具「群青」を用いる表現方法に関する研究
横川 善正
一般教育等
「アーツ&クラフツ運動」にみる芸術と福祉の関係
井村 俊一
一般教育等
担当講義科目の充実と新規研究題目の基礎調査
輪島 道友
一般教育等
現代日本における「教育言説」の批判的分析
(2)
小松 拓男
一般教育等
1.美術館・博物館研究 2.近現代美術研究
青柳 りさ
一般教育等
プルースト フランス語教育法 文学と映画
高橋 明彦
一般教育等
文献学の深化と展開(2)
大谷 正幸
一般教育等
石油減耗時代の社会・経済に関する研究
荷方 邦夫
一般教育等
教育心理学・美術教育に関する研究の発展
柏 健
大学院美術工芸研究科
絵画 現代における人間像についての研究
篠田 守男
大学院美術工芸研究科
現代彫刻の空間性とそれに伴う各種技術の研究
柳橋 眞
大学院美術工芸研究科
工芸史
伊藤 公象
大学院美術工芸研究科
陶造形による襞(ひだ)の概念の物体化(その7)
黒川 雅之
大学院美術工芸研究科
21世紀の価値の探求とデザインのあり方を探る研究
永澤 陽一
大学院美術工芸研究科
工芸とファッションの融合
大野 悠
大学院美術工芸研究科
テキスタイルデザイン研究 1 −素材と織物、加工技術による表現方法−
原 智 発展研究
○は研究代表者
仁志出 龍司
美術科 日本画専攻
水面の表現
西出 茂弘
美術科 日本画専攻
風景画 特に「林の四季」について
三浦 賢治
美術科 油画専攻
油彩画技法における裸婦(人物)を主題とした画面構成とその表現(その2)
長谷川 大治郎
美術科 彫刻専攻
木彫作品(動物)
をブロンズにする
石田 陽介
美術科 彫刻専攻
素材を複合的に用いた具象表現に資する木の研究
土井 宏二
美術科 彫刻専攻
現代日本における具象的彫刻表現の可能性研究
上田 恒夫
美術科 芸術学専攻
素材と手技からインテリアへーイタリアルネサンスの木象嵌
保井 亜弓
美術科 芸術学専攻
アート・アーカイブズの現状と可能性
荒井 利春
デザイン科 製品デザイン専攻
地場産業と連携したユーザー参加型ユニバーサルデザイン製品開発研究
角谷 修
デザイン科 環境デザイン専攻
地域文化施設の新たな展望を探る
中川 衛
工芸科
象嵌加飾と形状(金工)
との関係を求める
板橋 廣美
工芸科
鋳込み成形による大物磁器作品の制作に関する研究
城 英明
工芸科
志賀町熊野工芸工房での実践的体験学習
田中 信行
工芸科
海外における現代漆造形表現の研究
̶ 78 ̶
山村 慎哉
工芸科
仏像における乾漆技術の研究
中島 俊市郎
工芸科
デジタル機器を活用した工芸織物制作
林 泰史
工芸科
金属素材における表現の考察
遠藤 研二
共通造形センター
全天候型立体造形作品とLED照明および電気関係全般にわたる研究
荒木 恵信
共通造形センター
日本画制作にみる水面(みなも)
表現技法に関する研究
寺田 栄次郎
共通造形センター
油絵具シルバーホワイトの研究
神谷 佳男
共通造形センター
ルーヴル美術館カルコグラフィーに関する調査
井村 俊一
一般教育等
透視図法の理論の成立と変遷の歴史的研究
小松 拓男
一般教育等
1990年代以降の日本現代美術に関する調査研究
青柳 りさ
一般教育等
プルーストと脳科学
奨励研究
○は研究代表者
佐藤 俊介
美術科 日本画専攻
日本画制作に於けるその表現とデジタルデバイスとの融和性について
高橋 治希
美術科 油画専攻
地域創造における継続的な制作・発表・情報発信の在り方についての実践研究
鈴木 浩之
○ 山崎 剛 山村 慎哉
美術科 油画専攻
映像インスタレーションにおけるシステム構築の為のプログラミング言語に関する研究
美術科 芸術学専攻
五十嵐派の蒔絵技法に関する復元的研究
寺井 剛敏
デザイン科 視覚デザイン専攻
色弱者に配慮したカラーユニバーサルデザインの研究ղ
鈴木 康雄
デザイン科 視覚デザイン専攻
デジタルディバイスとインターフェイスの研究および教育的活用
上田 恒夫 山崎 剛
デザイン科 製品デザイン専攻
柳宗理先生のデザインプロセス全資料収集に向けての予備調査
鍔 隆弘
原 智
デザイン科 環境デザイン専攻
金沢の日本庭園の保全に関する研究 その2
工芸科
拡散接合技術を応用した杢目金技法研究
山本 健史
工芸科
越後妻有アートトリエンナーレ09
伊藤 英高
共通造形センター
○ 村井 光謹 デザイン科3専攻全教員
荒木 恵信
共通造形センター
横川 善正
一般教育等
高橋 明彦
一般教育等
荷方 邦夫
一般教育等
大野 悠
大学院美術工芸研究科
行為ー記憶ー音声を結びつけるメディアインスタレーションの研究
「国宝 平等院鳳凰堂内 西面扉絵 日想観」の学術的復元模写による
保存に関する研究 ホスピスの現場からみたアートの可能性
楳図作品とマンガ表現論に関する総合的研究
「わかりやすく
・使いやすい」マルチメディア・コンテンツについての研究
−認知心理学によるアプローチ−
テキスタイルデザイン研究 2
−工場との素材作りと商品化へのアプローチ−
特別研究
○は研究代表者
○ 下川 昭宣 石田 陽介 土井 宏二
美術科 彫刻専攻
大学が貢献できる地域に根差した若い世代(児童・生徒)への体験型美
術教育研究(立体造形・彫刻を通して)
○ 太田 昌子 上田 恒夫 川上 明孝 保井 亜弓 山崎 剛
美術科 芸術学専攻
金沢美術工芸大学所蔵作品に関する表現および素材についての調査
研究ー卒業優秀作品を中心にー
坂本 英之
デザイン科 環境デザイン専攻
金沢の町を舞台にした空間造形の研究
小松 拓男
一般教育等
金沢トリエンナーレ
(国際美術展)の可能性に関する調査研究
永澤 陽一
大学院美術工芸研究科
アートとファッションの融合
̶ 79 ̶
科学研究費
科学研究費補助金に採択された研究代表者、
および本学において研究分担者となっている教員を示しています。
新規
基盤研究C
研究代表者
研究分担者
保井 亜弓
17世紀腐蝕銅版画技法の総合的研究
神谷 佳男
研究分担者
山崎 剛
基盤研究C
17世紀腐蝕銅版画技法の総合的研究
YAMATO-Eからみる日・英・米の日本美術史観に関する比較研究
(研究代表者 鹿児島大 下原 美保) 基盤研究B
継続
研究代表者
横川 善正
研究代表者
荒木 恵信
研究分担者
寺田 栄次郎
研究分担者
伊藤 英高
研究分担者
高橋 明彦
研究分担者
山崎 剛
研究分担者
太田 昌子
研究分担者
山崎 剛
ホスピスの現場からみたアートの可能性について
「国宝 平等院鳳凰堂内 西面扉絵 日想観」の学術的復元模写による保存
に関する研究
「国宝 平等院鳳凰堂内 西面扉絵 日想観」の学術的復元模写による保存
に関する研究
「国宝 平等院鳳凰堂内 西面扉絵 日想観」の学術的復元模写による保存
に関する研究
「書物・出版と社会変容」研究の総合化に向けて
(研究代表者 一橋大 若尾 政希)
近代初期工芸にみる国際性 一大航海時代の寄港地間における美術交流
に関する研究 (研究代表者 国立歴民博 日高 薫)
北陸における説話画の研究 一 その機能と展示の変遷および現代に生
きる意味 一
(研究代表者 富山県立大 原口 志津子)
北陸における説話画の研究 一 その機能と展示の変遷および現代に生
きる意味 一
(研究代表者 富山県立大 原口 志津子)
̶ 80 ̶
基盤研究C
基盤研究C
基盤研究C
基盤研究C
基盤研究A
基盤研究B
基盤研究C
基盤研究C
子供と暴力−松本大洋『鉄コン筋クリート』、楳図かずお『Rôjin』、および『イアラ』続考− 高橋明彦
才になれば姥捨て山のように別の場所に
才になるときっかり死んでしまう、というような切迫感がある。た
〇〇四年七月号
歳になると恐竜に変
まず、明日になって海戦は起こった、とする。すなわち︿海戦は可能。かつ非海
戦は不可能﹀である。しかし、昨日の段階では︿海戦は可能。かつ非海戦は可能﹀
は真であった。昨日の命題と今日の命題を合わせれば、︽海戦は可能、かつ、非
海戦は可能かつ不可能︾である。
︿可能かつ不可能﹀は明らかに論理矛盾である。
また、明日になって海戦は起こらなかったとする。すなわち︿海戦は不可能。か
つ非海戦は可能﹀である。起こった場合と同様に矛盾する。しかも﹁海戦は可能
だ﹂と言った昨日の命題が偽になってしまう。結論として、
﹁Aならば、B が可
能である﹂という形式の命題は、
﹁A な ら ば ﹂ の 部 分 に 現 在 以 外 の 時 制 が 絡 む と
とたんに論理的でなくなるのである。つまり、来年の事を言うと鬼が笑うという
ことわざ通りで、可能性の言明は論理学的には無意味だということになる。しか
し、明日を論じることは日常生活では決して無駄ではない。日常感覚と論理とに
齟齬が生じるから、これがパラドクスなのである。
は不可能﹀でもなく︵これは真︶
、︿海戦は可能、または非海戦は可能﹀︵これは偽︶
なおこの命題︿海戦は可能、かつ非海戦は可能﹀は、︿海戦は可能か、もしく
とも、異なる。
近世前期︵バロック︶は、日本文学で言えば仮名草子の時代である。最後の神学
は教訓というかたちで現われている。ならば浮世草子は反形而上学であり経験論
であろう。井原西鶴はJ ・ロックであり、江嶋其磧がG・バークレー、浮世草子
的な反形而上学を徹底した多田南嶺はD・ヒューム。浮世草子から前期読本へと
懐疑主義からの転回を果たしつつも懐疑主義を根底に持つ上田秋成はI・カント
である。ならば本居宣長あたりがヘーゲルといったところであろう。
世界の名著﹃スピノザ・ライプニッツ﹄
﹃ ラ イ プ ニ ッ ツ 著 作 集 ﹄ 第9 巻・ 白 水 社。 中 央 公 論 社・ 世 界 の 名 著﹃ ス ピ ノ ザ・
ドゥルーズ﹃襞 ライプニッツとバロック﹄宇野邦一訳・河出書房新社・一二一頁
ライプニッツ﹄
15
い方には、
とえば、人口調整などの制度により、
歳﹄に通じるものである。
14
楳図かずお×岡崎乾二郎﹁子供が終わったとき、世界が始まる﹂
﹃ユリイカ﹄二
形してしまう﹃
み換えが行われて大人になってしまう﹃わたしは真悟﹄や
あるいはDNAなどにそのようにプログラムしてあるのか。これは、DNAの組
隔離・廃棄されてしまうのか、あるいは単純に殺されるのか。政府の方針なのか、
20
20
﹃ライプニッツ著作集﹄第8巻・白水社。岩波文庫﹃形而上学叙説﹄。中央公論社・
ド ゥ ル ー ズ﹃ シ ネ マ 2 * 時 間 イ メ ー ジ ﹄ 宇 野 邦 一 ほ か 訳・ 法 政 大 学 出 版
局・一八一頁。なお、底本では共不可能性とあるが、引用に際しては不共可能性
とした。共には可能でない、という部分否定であるから不共可能性のほうが良い
であろう。
ドゥルーズ﹃襞 ライプニッツとバロック﹄宇野邦一訳・河出書房新社・一四二頁
﹃イアラ﹄七諸本の校異表を作り、私のサイト半魚文庫で公開している。
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/hobby/era/
︵たかはし・あきひこ/一般教育等・日本文学︶
︵二〇〇八年一〇月三一日受理︶
̶ 81 ̶
( 74 )
14
17 16
19 18
11
12
13
14
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
﹃
楳図作品において多元宇宙で思い起こされるものと言えば、すなわち
えば﹃北斗の拳﹄のようなものを指している。単純に言えば、バカで愚かな話に
した殴り合いのインフレーション状態を緩和するための愛にすぎないもの、たと
J ・デリダ﹁暴力と形而上学﹂﹃エクリチュールと差異﹄法政大学出版局。
E・レヴィナス﹃全体性と無限﹄岩波文庫・熊野純彦訳・2005年、上、
。ネバーラ
綾辻行人編﹃楳図かずお怪奇幻想館﹄ちくま文庫、二〇〇〇年、四一五頁
発行﹂と記されている。
なお、貼り刊記があり、年記として﹁昭和
年
月
日印刷/昭和
月
日
﹄︵ ひ ば り 書
年
り 忠 実 で あ り、 内 野 純 緒 に よ る 絵 も デ ィ ズ ニ ー の タ ッ チ を 完 全 に 再 現 し て い る。
ンドをナイナイ島などと訳してあるが、ストーリーはディズニーアニメ版にかな
トモブック社版﹃ピーターパン﹄は、ディズニー長編漫画シリーズ
頁。
虫だったもんだ。﹂﹁5歳であとを継ぐ子なんてどこにもいなかったよ⋮⋮﹂と。
かった⋮⋮﹂
﹁昔の子はタバコなんか大きらいだった﹂
﹁昔の子はもっともっと弱
の子はそんなキズだらけの手をしていなかった。
﹂
﹁昔の子は遊ぶことしか感がな
いたのである。子供はロージンの言っていたような存在であったのだ。曰く﹁昔
かなだけの大人は大変困る存在である。が、そういう側面は誰もがかつて持って
おそらく誰でも持っていたということである。事の良し悪しで言えば、バカで愚
い︶。ただし、誤解は避けておきたい。大事なことは、こういうバカで愚かな面は、
少年っていうのはバカで愚かだと言ってもいい︵少女はちょっと私にはわからな
す ぎ な い の で あ る。 あ る い は、 役 に 立 た な い お 遊 び に す ぎ な い も の。 そ も そ も、
歳 ﹄ は、 地 球 の 危 機 と 脱 出 が 延 々 語 ら れ、 脱 出 し
歳 ﹄ で あ る。﹃
たら別宇宙に住む一箇の青虫が地球だったという結末を迎える物語であ
る。あるいは﹃神の左手悪魔の右手﹄第6話﹁影亡者﹂の結末で描かれ
た無限後退的な背後世界も、これと無関係ではないだろう。
一般に言われる﹁イアラの壮大な時間﹂というのは、単に直線的に長
い時間を言うのではなく︵地球誕生から太陽の赤色巨星までおよそ 億
年とかなり長いが︶、あるいは手塚治虫﹃火の鳥﹄式の円環的時間でも
なく、こうした入れ子式の多元宇宙のありかたそのもののイメージを言
うのであろう。
そして、作品そのものの多元宇宙を一つの作品とし、その一つの作品
を体験するわれわれがいるのである。
註
133
10
号 の 巻 末 に﹁ 特 別 読 物
あなたのアップリ
﹂のサインがある。﹃奇蹟﹄冒頭の野球の場面では楳図本人が﹁P﹂︵ピー
ケ特集﹂という全三頁の記事があり、﹁作・ピーター﹂の銘、また小さく﹁
全一三頁の特集記事がある。﹃虹﹄
房・一九六四年作品︶には、巻末に、﹁ピーターと遊ぼう﹂という楳図に関する
ピ ー タ ー 名 儀 の 使 用 例 を 挙 げ て お け ば、﹃ 城 跡 に ひ そ か に 集 ま れ
5
拙稿﹁ペコの左手アクマの右手﹂
﹃ユリイカ﹄二〇〇七年一月号。
木村が﹁ハイッ。﹂としか言えぬまま涙を流し、そして鈴木を撃つシーンは、シ
ロとクロの物語からは傍流ではあるが、本作の最も感動的なシーンのひとつであ
る。鈴木を撃ち殺す理由が、裏切り︵しかも自らは利用されているだけなのに︶
であるという点も、その感動に緊迫感と寂寥感を与えていて、見事である。また、
鈴木が親分に憧れたように、木村は鈴木にあこがれていた。木村が鈴木の人生の
反復を生きているのは、
﹃ピンポン﹄においてバタフライジョーの人生を反復す
るスマイルの関係とも構造的に似ている。実にしみじみさせられる﹁いい話﹂で
ある。他方、撃たれて死ぬ木村に対して女がつぶやく﹁産まないわ。男なんて絶
対産まない。
﹂というセリフには、安易なカタルシスを許さない現実主義がある。
12
ターパンのP︶の字のTシャツを着て登場するが、これもピーターパンの頭文字
才だと
と見て良いだろう。
﹃少年マガジン﹄増刊号︵一九六八年︶に載る﹁首なし人間﹂
は﹁うめずプロ﹂とともに﹁ピーター伴﹂と名儀されている。
拙稿﹁楳図かずおの恐怖概念﹂﹃日本文学﹄二〇〇五年一一月号。
年で死ぬのはどういう世界なのか、明示はされていない。平均寿命が
いうことではなかろう。平均寿命で人は死ぬとか限らないからだ。まなぶ君の言
20
そういう点でも、優れたいいセリフである。
4
32
!!
32
200
本稿では、少年マンガという言い方をしている。これは例えば、愛だの愛の辛さ
12
K
A
Z
U
O
40
14
だのと一見高尚な事を言いながら、所詮は殴り合いをしているだけで、かつそう
U
M
E
Z
U
20
̶ 82 ̶
( 73 )
4
5
6
7
8
9
10
14
1
2
3
子供と暴力−松本大洋『鉄コン筋クリート』、楳図かずお『Rôjin』、および『イアラ』続考− 高橋明彦
新しいイメージとは何か、問題はこれである。特に、不共可能であるこ
いる、という点に価値を置くことにしようと思う。
﹃イアラ﹄にとって、
ルーズの言うように、論理的ではないにせよ新たなイメージが作られて
とりあえず単純にナンデモアリを肯定しているわけではなくて、ドゥ
などというロマンティックなものには決して収まらず、ここに見られる
であり、その働きである。そう考えれば、﹃イアラ﹄は永遠の愛の物語
ることのないもの﹂とは、土麻呂であると同時に﹁イアラ﹂という言葉
永遠・無限という世界に堕とされてしまったのである。
﹁何ら形を変え
そして、言葉の働きにより反復が可能となることによって、土麻呂は
ここまでが前々号拙稿で記したことである。
とによって導きだされる新しいイメージとは何か、である。つまり、
﹃イ
いる、このことをいかに記していくか。通常のストーリー分析を通して
これが、不共可能を抱えた﹃イアラ﹄という一つの世界が、その不共
のはむしろ無限反復の恐怖である。その反復・永遠を回避し永遠からの
見るなら、﹃イアラ﹄は矛盾を抱え込んだ意味不明な作品というもので
可能性ゆえに有する﹁新たなイメージ﹂に直接つながるものかと言われ
アラ﹄の持つインパクト、グルーヴ感は、論理的整合性を超えたところ
しかありえなくなるが、論理的な意味での瑕の多い作品である﹃イアラ﹄
れば、正直少々心もとない。ストーリー的にも、史実の利用においても、
解脱を試みた物語だということになるのではないか。
は、その瑕が隠蔽されているから名作なのではなく、たとえそれらが顕
無矛盾でありながらもこうした無限の恐怖は描けるのではないか。むし
に、と言うよりもむしろ論理的整合性を持たないことによって成立して
現されてもなお名作なのである。そのことを記していくのが楳図ファン
ろ無矛盾なほうがつまらぬところで引っかかる読者を減らしてすんなり
うにも言われているからである。
限輪廻からの解脱で収まらないのが、楳図作品である。最後に、次のよ
とによって無限反復の恐怖から解脱した土麻呂であったが、しかし、無
本稿において、最後に新たな指摘をしておく。小菜女と再び出会うこ
と受け入れられるのではないか。
としての生き方である。
︵3︶
﹃イアラ﹄における言葉と反復
もっとも、そうした﹁新しいイメージ﹂についての私の意見は、はな
はだ不満足ながら前々号拙稿とあまり変わるものではない。第一に、﹃イ
頭のナレーションが語る﹁くり返し﹂であり、第3話におけるストーリー
葉だ、ということである。ただし、これはすでに書いた。反復とは、冒
うちの一つにすぎなかったのである。宇宙はふたたび反復の中になげこ
う!いつかどこかで!﹂。解脱したと思ったら、その解脱もある宇宙の
さて、その﹁今度﹂とはいつなのか、どこでなのか。
﹁再びあいましょ
﹁イアラ﹂﹁今度その言葉を聞くのはいつのことだろう﹂
的反復︵りえ・はな・ゆき︶であり、利休と芭蕉の時間・自然観であった。
まれている。ここに見出されるのは、反復の多元宇宙であり、その一つ
アラ﹄は反復の物語であり、その反復を可能にしたのがイアラという言
そして、そうした出来事が反復しつづける世界が、﹃イアラ﹄が描き
はモナドの分岐・発散であって、常に一回性しか持たないからである。
その同一性を保証するものは出来事に内在しない。なぜなら、出来事と
ふつうそこで理屈は言わず﹁自然と出てきた﹂式に語るのが常套手段だ
は?などと、自分と同じ凡人レベルで考えてはいけない。また、作家は
楳図は大したことを考えたわけでなく、テキトーに言ってみただけで
のイメージである。
しかし、我々は通常、出来事が反復すると理解している。これは言葉の
が、そうならなおさら彼は天才である。
出した世界であった。反復する出来事。反復には同一性が要求されるが、
働きに拠るのである。
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金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
たはずである。
次に、一つの物語世界においても、複数の可能世界が存在すると考え
え方に過ぎない。ここまで従う必要はないだろう。ドゥルーズはそう考
える。
短編連載という形式がそれぞれ可能世界のバリエーションだとすれば、
のは存在しない。人は、適当なところで納得するに過ぎない。そして、
無矛盾性・十分な理由を欲するが、完全に﹁十分な理由﹂などというも
一般人、特に探偵小説的な論理の整合性を好む読者は、連載に統一的な
ツ式の﹁この世界が最良だ︵なぜなら、神によって、矛盾が消されてい
界とは別の可能世界がある、などという考え方は最終的には、ライプニッ
あり、これを肯定せずして人間は何を基準に生きていくべきか。この世
可能性︶があふれていようと、むしろそれこそが生命力であり、力能で
あらかじめ定められ運命付けられた真理などは無い。世界に矛盾︵不共
ドゥルーズが描きだす世界は、たった一つの世界である。世界には、
矛盾は存在しない。不共可能だ、とただ言えるのみであり、適当な﹁十
るから︶
﹂という現状追認か、プラトン式の﹁この世界ではない、見え
ることもできる。短編連載という形式は、そもそもそういうものである。
分な理由﹂が無いだけだといえる︵読者は推測で﹁十分な理由﹂を補い
ない本当の世界︵イデア界︶がある。イデア界によって、この世界は基
これに対し、芸術的なイメージとは、現実に対立するもの︵不共可能
パワー
うる︶。あるいは、﹁十分な理由﹂以上にインパクトのあるストーリーな
準付けられている﹂という運命論か、どちらかでしかない。
。これは現
どに魅了されることで、満足するにすぎない。
﹃イアラ﹄七諸本の校合作業を通じて感じたことがある
な、偽なるもの︶から生まれるのである。ドゥルーズはそう考えている。
これは、現実/虚構︵物語世界︶という二つの世界も認めない、単一世
実に、諸本それぞれが微妙に違った可能世界であることを示している。
吸収される︶。典拠と作品の関係も同様である。いかに典拠べったりで
界説である。このとき初めて芸術は、主食に対するおやつでも、死ぬま
ドゥルーズが肯定するのは、たった一つのこの世界である。だから、
あったとしても、逆に史実と齟齬していても、それぞれが別の可能世界
での暇つぶしでも、あるいは醜い現実からの逃避手段でもなくなる。バ
異本間の齟齬は別本として了解される︵不共可能は、可能世界によって
だと考えれば済む。実際、読者は典拠を知らなくても作品を読める。
さて、﹃イアラ﹄に戻ると、すると結局、作品内には矛盾・不共可能
ルトのアポリア︵三︶は、この途において解決される。
決になっていない。これだと︿別の可能世界なのだから、勝手にやって
な出来事がいくらあっても良い、ということになる、ライプニッツにし
以上、なんとなくうまく行ったように思えなくもないが、実は全く解
てくれれば良い﹀というだけの話である。自由とはそういうものではな
ても、ドゥルーズにしても。
SFやホラーが、現実とは違ってはいても現実とつながる一つの世界
いし、芸術はこの現実世界の外にあるものでもない。
さて次に、ドゥルーズ的にも考えてみよう。ライプニッツによるモナ
私は、良いと思うのだが。美術でも、もはや上手い下手などという区
の中にある、と考えるのは良いとしても、ストーリーがなんでもアリ、
様性にあふれている。尤もライプニッツは、神がそれらの分岐・発散を
別は不毛である。コンセプトの良さが作品の良さでさえ無い。鑑賞者が
ド説︵あらゆる述語・出来事を含んだ個体的実体がある︶は大変有効で、
取捨選択し、不共可能なものは別の可能世界へと境界付け︵振り分け︶、
どう考えるか、そこだけにしか価値はないから。とは言え、かならずし
というのを肯定するので良いのか?
この世界を最良の世界として神に選択された、と考えた。が、これは、
もだれもが賛同してくれるわけではないだろう。
世界とはモナドによる分岐・発散のプロセスであった。世界は自由と多
世界は調和がとれていて真理は存在している、と考える古典的理性の考
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子供と暴力−松本大洋『鉄コン筋クリート』、楳図かずお『Rôjin』、および『イアラ』続考− 高橋明彦
通路を表現しており、それぞれの通路に結びつく総合作用の中には
せることができた。それによれば﹁モナド﹂は、宇宙の中の様々な
のだ。近代の数学はこのような方向にファイバー状の概念を発達さ
から表現する共可能的な、収束する世界の上に閉じられてはいない
は救われないからである。
い。自由が他の可能世界で実現されていたとしても、われわれのこの生
人間の自由を保証しているように見えて実は根本的な解決にはならな
ラ イ プ ニ ッ ツ の 可 能 世 界 論 は、﹁ 海 戦 問 題 ﹂ の 解 決 に 典 型 な よ う に、
和音の脅威にさらされて崩壊した。しかし︿バロック﹀は古典的な
︿バロック﹀がなぜ一つの移行状態︹過渡期︺なのか、いまはよ
く理解できる。古典的な理性は、発散、不共可能性、不調和、不協
ンゲームの中で、われわれはそういう視点に立っている。物語の中でも。
イプニッツの神は、
そうした視点に立っている。
RPGやシミュレーショ
宇宙に属している、と考えることを妨げるものは何も無い。そもそもラ
ライプニッツは、神の正しさ︵=神の自由︶を保証するために、不共
理性を復興しようとする最後の試みであり、様々な発散︹出来事が
むしろ、物語=虚構=芸術というものはそういうものである︵例、ボル
いっていく。これは囲いではなく、
むしろ捕獲からなる世界である。
分岐して不共可能なものとなって分かれていくこと︺を、そのまま
ヘス﹃八岐の園﹄︶
。﹁ライプニッツの考えとはちがって、これらの世界
可能=矛盾と言った。しかし、もろもろの不共可能な世界が同じ一つの
可能世界に振り分け、様々な不共可能性をそのまま世界の間の境界
はすべて、同一の宇宙に属しており、同一のストーリーの様々な変形で
そして、不共可能性にしたがった可能世界を単純に認めず、この一つ
にしたのである。同一の世界に出現したもろもろの不調和は、暴力
がたい不協和音だけが、異なる世界に存在するからである。要する
の世界において不共可能性が存在する状態こそが﹁イメージの誕生﹂で
ある。﹂
にバロック的宇宙は、メロディーの線がかすんでいくのに立ち会っ
あり、芸術の成立である︵
﹃シネマ2*時間イメージ﹄︶。これがドゥルー
長い引用で恐縮であったが、話をすこしずつ戻すことにして、﹃イアラ﹄
可能性が侵入してくる。そこでセクストゥスはルクレチアを犯し、
共可能﹂なものしかなく、多くは適当に﹁十分な理由﹂さえあれば納得
出来事には﹁矛盾﹂と言うに値するような絶対的な必然性は無く、﹁不
をまずライプニッツ的に考えてみよう。
そして犯さない。シーザーはルビコン河を渡り、そして渡らない。
されてしまう︵真正の﹁十分な理由﹂なんてものは人間には分からない︶
。
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( 70 )
的なものではありえても調和において解決される。なぜなら還元し
て い る が、 和 音 に お い て、 和 音 に よ っ て、 失 わ れ て い く と 感 じ ら
ズの主張である。
︵2︶﹃イアラ﹄における﹁不十分な理由﹂と﹁不共可能性﹂
れ た も の を 再 び 手 に い れ る の だ。 不 協 和 音 の 権 力︹ 脅 威 ︺ に 直 面
し て バ ロ ッ ク 的 宇 宙 は、 は る か な、 法 外 な、 も ろ も ろ の 調 和 の 開
花を発見したのであるが、こうした調和は選ばれた世界において、
呪われたものさえ犠牲にして獲得されたのである。この復興の試み
は一時的なものでしかなかった。ネオ・バロックがやってきて、同
憑 は 殺 し、 殺 さ れ、 そ し て 殺 し も し な け れ ば、 殺 さ れ も し な い。
特に、物語世界とはこの現実に対して不共可能な可能世界だと考えれば、
じ世界に、発散する諸系列が押し寄せてくる。同じ舞台の上に不共
こんどは調和が危機に出会い、増大された半音階主義、不協和音の
幽霊があらわれ、死者がよみがえり、超能力が使えて、不老不死の男が
いる、等々は肯定される。元来、物語世界とはそういう可能世界であっ
解放、一つの調性にしばられない、非決定的な和音の解放が優位に
たつ。
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金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
さて、ドゥルーズの説は、ライプニッツの説から﹁神﹂の部分を廃棄
と い う こ と で は ま っ た く な い。 内 容 が 変 化 す る 可 能 性 が あ る と い
したものである。そして、不共可能性に従った可能世界を単純に認めず、
うことではないのだ。偽なるものの力能が真なるものの形態にとっ
この一つの世界において不共可能性が存在する状態こそがイメージの誕
てかわり、その地位を奪うのだ。なぜなら、偽なるものの力能は、
生であり、芸術の成立であると主張するのである。すなわち、
﹁真理を
不共可能的な様々な現在の同時性、あるいは必然的には真ではない
危機にさらす時間﹂こそが、時間イメージであり、芸術による新たな創
様々な可能の共存を主張するからだ。結晶的な描写はすでに現実的
造なのである。要するに一口に言えば、芸術は論理や理屈じゃないよ、
っ
なものと創造的なものとの識別不可能性に達していたが、偽る説話
てことである。
はそれに呼応しつつ、さらに一歩を踏み出して、現在に対しては説
という名のもとに、偽なるものの力能を真なるものの形態にとって
こなかった。ニーチェがその人である。ニーチェは﹁力への意志﹂
たことに関して本質的な作家のことを、われわれはこれまで述べて
ついてのあらゆるモデルは崩壊し、新たな説話に席を譲る。こうし
て︺ホワイトヘッドにとっては︵そして近代の多くの哲学者にとっ
る述語・出来事を潜在させた、それぞれ個別の実体︺。︹これに対し
する共可能的な世界を総体として包摂している︹モナドは、あらゆ
の真の境界を示している。したがって実在するモナドは、実在に達
ラ イ プ ニ ッ ツ に お い て は 既 に 見 た よ う に、 諸 系 列 の 分 岐 ま た は
発散は、もろもろの不共可能的な世界の境界、そのような世界の間
明不可能な様々な差違をつきつけ、過去に対しては真偽の間で決定
かえ、真理の危機を解決するのであり、決定的に、とはいえ、ライ
ては︶、反対に分岐、発散、不共可能性、不調和は、同じ︹一つの、
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( 69 )
不可能な様々な選択肢をつきつける。真正な人は嘘をつき、真理に
プニッツとは反対に、真理の危機にけりをつけ、偽なるものとその
しかし︺多様な世界に属し、この世界は表現的な統一性に包摂され
ることはありえず︹表現とは神の意志の模倣・コピー︺
、把握的な
芸術的で創造的な力能をそれにとってかえようとする。
統一性にしたがって、また可変的な配置や、変化する捕獲作用につ
ロブ=グリエの作品は、小説から映画にいたるまで、イメージの
生産原理としての偽なるものの力能を示している。それは﹁気をつ
れて、形成されては解体されるだけである。発散する諸系列は、同
け ろ! そ ん な の は で っ ち あ げ だ ﹂ と い う よ う な 単 な る 反 省 の 原 則
じカオス的世界の中に、たえず分岐する小道をはりめぐらせるので
や意識化ではない。それは霊感︹インスピレーション︺の源なので
あって、ジョイスやモーリス・ルブラン、ボルヘス、あるいはゴン
ある。イメージは、過去が必然的に真ではないような仕方で、ある
ブローヴィチに見られるように、それは﹁カオスモス﹂なのである。
いは可能なものから不可能なものが生ずるような仕方で生産され
もはや神さえも、もろもろの世界を比較し選択するような存在では
なければならない。︵中略︶ライプニッツの考えとはちがって、こ
なくなり、︿過程﹀となり、不共可能性を肯定し、また同時に不共
れらの世界はすべて、同一の宇宙に属しており、同一のストーリー
可能性を通過する過程となる。世界の戯れはまったく異なったもの
の様々な変形である。説話はすでに、現実的な︵感覚運動的な︶描
となった。それが発散する戯れになったからである。もろもろの存
写によって紡ぎ出される真正な説話ではない。描写が描写自身の対
在は引き裂かれ、それらを外に連れだす発散する系列によって、不
共可能的な集合によって開かれたままになる。もはやそれらが内部
象になること、説話が時間的になり、かつ偽なるものになることは、
まったく同時に起こるのだ。
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子供と暴力−松本大洋『鉄コン筋クリート』、楳図かずお『Rôjin』、および『イアラ』続考− 高橋明彦
全な、あらかじめ確立された決定と自由とはどのようにして一致す
して自由意志を持つのだろうか。分裂症的な自動人形の内的な、完
決定的に内に閉じ込めている﹂、そのような人間は一体どのように
証しない。﹁その個体的観念が自分にも起こるかもしれないことを
証しないし、海戦を欲したり、欲しなかったりする人間の自由も保
し不共可能性は、意志的といわれるような出来事の性格をなんら保
解けないパラドクス︺に陥ることなく解決することができる。しか
を︵明日海戦はあるだろうか︶
、ストア派のアポリア︹難問、難題、
は矛盾とはたいそう異なっている︶
。 ラ イ プ ニ ッ ツ に よ る と、 可 能
は、不共可能性という美しい概念を捏造しなければならない︵これ
ではない。それゆえ真理を救済しながらこの逆説を解決するために
こらないのであり、この二つの世界は可能であるが、
﹁ともに可能﹂
とではない。つまり、ある一つの世界では起こり、別の世界では起
うるし、起こらないこともありうるが、それは同じ世界の中でのこ
たものでもある。ライプニッツによれば、海戦は起こることもあり
ならないが、彼の解決方法はまた、最も謎めいており、最も屈折し
なものから生じるのは、不可能なものではなく、不共可能なもので
であったから︶という二つの帰結である。この逆説を詭弁といって
過 去 は 必 ず し も 真 で は な い︵ と い う の は、 起 こ ら な い こ と が 可 能
これば、もはや起こらなかったことはありえないから︶、もしくは、
いのか。つまり、不可能が可能から生じる︵というのは、海戦が起
真であれば、次の二つの帰結のうちの一つをいかにして避ければよ
に お い て 明 ら か に な っ て い る。 海 戦 が 明 日 起 こ り う る と い う の が
こうした危機は、古代にあってすでに、﹁不慮の未来﹂という逆説
容ではなく、時間の純粋な形態、あるいはむしろ純粋な力である。
ことではない。真理を危機にさらすのは、時間の単なる経験的な内
思想史を振り返ると、時間はつねに真理という観念を危機にさら
すものであったことがわかる。真理が時代によって変化するという
時間の迷路としての直線はまた分岐し、たえず分岐し続ける線でも
れがライプニッツへのボルヘスの答えである。つまり、時間の力、
て は 友 で あ る ⋮⋮﹂
︹ボルヘスの小説﹃八岐の園﹄
・岩波文庫︺。こ
う ち の 一 つ に お い て は、 あ な た は 私 の 敵 で あ り、 別 の 世 界 に お い
等々⋮⋮。あなたは私のところにくる。でも、可能な様々な過去の
一命を取りとめるかもしれないし、二人とも死ぬかもしれないし、
入者を殺すかもしれず、侵入者は憑を殺すかもしれない。二人とも
ンは秘密を握っている。見知らぬ誰かがドアをたたく⋮⋮。憑は侵
と断言することを妨げるものは何もないからだ。
﹁たとえば、
憑ファ
つの︺世界に属し、もろもろの不共可能な世界は同じ宇宙に属する
しかし真理の危機はこうして解決されるというよりも、むしろ中
断されるだけである。というのも、もろもろの不共可能性は同じ︹一
るのだろうか。
ある。そして、過去は必然的に真でなくても、
︹確実なものとして︺
かたづけるのは容易である。これは逆説であるといっても、真理が
あり、不共可能な現在を通って、必然的に真ではない過去にもどっ
真でありうる。
時間の形態に対してもつ直接的な関係を考えることの難しさを示
てくる。
め、本質的に偽なるものになる。﹁みんなにそれぞれの真理がある﹂
そこから説話︹物語世界︺の新しい規定が出てくる。つまり、説
話は真正であること、つまり真なるものであると主張することをや
しており、真なるものを、実際に存在するものからは隔たった、永
遠なるもの︹イデア︺
、あるいは永遠を模倣するもの︹エネルゲイ
ア︺
のうちに閉じ込めることを余儀なくさせる。この逆説に関して、
最も巧妙な解決方法を手にするのは、ライプニッツをまたなければ
̶ 87 ̶
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金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
八九、われわれには知ることができないのではあるが。
︹ただし神
越的にふくんでいる。その実体を、わたしは神と呼ぶのである。
が、しかし他方で、
﹁世界は常に多様で、可能性に満ちている︵その根
は知っている︺
真理にも二種類ある。思考の真理と、事実の真理の二つである。
前者は必然的で、その逆はありえない︵逆は矛盾となる︶
。後者は
本的実体がモナド︶﹂という趣旨のこと、つまりB も言っているわけで
ライプニッツは、いつも最後にはA﹁神は正しい﹂
におちついてしまう。
偶然的で、逆もまた可能である。真理が必然的である場合、分析に
ある。
しばらく見ておく。︵傍点は引用者による︶
しい批判を与えたのがG・ドゥルーズである。以下、ドゥルーズの言を
さて、こうしたライプニッツの可能世界論になかば共感しながらも厳
よって、その理由を見つけることができる。つまりその真理を、だ
んだんにもっと単純な観念や真理に分解していくと、最後にいちば
ん原初的な観念や、真理にまで到達する。︵中略︶
しかし十分な理由は、偶然的真理である事実の真理のなかにも、
かならずある。すなわち、被造物の世界にゆきわたった、もののつ
ながりのなかにもかならずある。その場合、自然の事物の多様さは
楽天主義の原理、あるいは︿最良のもの﹀の原理は神の自由を救
出する。この自由を保証するのは世界と神の戯れである。別の可能
無限であり、物体は無限にわけることができ︵かつ、わけられてい︶
世界には、罪を犯さない一人のアダムがおり、ルクレチアを辱めな
るから、個々の理由に分解していくと、こまかくなるばかりで、際
い一人のセクストゥスがいる。シーザーがルビコン河をわたらない
限がない。︵たとえば︶過去、現在の形や運動が無限にあって、そ
ということは不可能ではないが、ただ選ばれた最良の世界とは不共
れがいまこの作品を書いている、わたしの動力因︹わたしを動かす
可能的である。彼がルビコン河をわたることは、したがって絶対的
原因・力︺をつくっている。また、わたしの魂には、過去現在にわ
に必然的ではないが、総体的に、われわれの世界に関して確実なの
たる微小な傾向や気分が無限にあって、それがわたしの目的因︹な
だ。ただ人間の自由そのものは、それがこの実在する世界において
んのために生き、行動しているのか︺をつくっている。ところでこ
実現されなければならないかぎり、救われない。人間の視線にとっ
のような細部には、きまってそれに先だつ、ないしはもっと細緻な
ては、アダムがこの世界で確かに罪を犯すとしても、彼が別の世界
他 の 偶 然 的 要 素 が ふ く ま れ て い る か ら、 そ の 一 つ 一 つ に つ い て 理
で罪を犯さないこともありうるというだけでは不十分である。われ
由を明らかにするとなると、またおなじような分析が必要で、どこ
われは、ライプニッツはスピノザよりも、もっと強固にわれわれを
までいってもすこしも進んだことになりはしない。そこで十分な理
断罪しているという印象を受ける。スピノザには少なくとも、可能
由、すなわち最後の理由は、このような偶然的要素の細部がたとえ
な自由のプロセスがあるからである。ところがライプニッツにとっ
どんなに無限でも、結局そのつながりや系列の外になければならな
ては、すべてが最初から囲いの条件のもとに閉じ込められている。
いわけである。︹神は、やっぱりわれわれの世界の外にあり、だか
ライプニッツがわれわれに人間の自由を約束しているテクストの
て、ライプニッツは未来の偶発的な出来事をめぐる古くからの問題
大半は、単なる神の自由に方向転換する。確かに不共可能性によっ
ら神は完全なのである︺
とすると、ものの最後の理由は、必ず一つの必然的実体のなかに
ある。それは泉に似ていて、さまざまな変化の細部を、もっぱら優
̶ 88 ̶
( 67 )
子供と暴力−松本大洋『鉄コン筋クリート』、楳図かずお『Rôjin』、および『イアラ』続考− 高橋明彦
そうしたものは退けられてしまうが、それは不可能だからではなく、不
*この﹁矛盾の原理﹂とは必然的真理の問題に出てくるものであり、
なわち、カエサルがそのような行為を行ったのは、カエサルの個体的実
神が全能であるからカエサルに与えた性質のひとつであって、決して必
他方、偶然的真理の問題に出てくるのは﹁十分な理由の原理﹂である。
完全だからである。﹂︵一三︶
然的な帰結ではない
︹自由がある︺
。別の行為をすることは、その仮定︵三
ちなみに﹁不完全﹂というのは﹁十分な理由がない﹂ということである。
体概念によってではない、と。なぜなら、カエサルの個体的実体概念は、
頭政治を廃止して権力を手中に入れた︶からみれば矛盾となるが、仮定
い︵不共可能である︶のである。不共可能であるとは、十分な理由がな
偶然的真理の問題においては、矛盾があるのではなく、共に可能ではな
カエサルについての、こうした述語の証明は、数や幾何学の証明ほど
いためである。ある男が不老不死である︵ふつうはありえない︶という
が異なれば矛盾はしない。別の行為をしたとしても矛盾は無い。
絶対的な証明ではなく、
そこには神が自由に選んだ事物の系列︵セリー︶
設定は、矛盾ではなく、
﹁不老不死の薬を飲んだ﹂
﹁異界のものの仕為に
よる﹂等の十分な理由があれば矛盾にはならないのである。しかし、厳
が前提︹仮定︺されているだけである。
*︿仮定・事物の系列が異なる世界が、この世界とは別に存在してい
密に言い始めると、どれもが実は﹁十分な理由﹂などではない。適当に﹁十
分だ﹂と判断しているだけである。不老不死の薬?どのような組成の薬?
る﹀と考えれば、以上のすべてはすっきりする、とライプニッツは考え
という。
Possible World
その組成薬で不老不死になるのはどんな原理で?等々の疑問はきりなく
﹁神は、たしかに最善のものを選ぶけれども、だからといって、それ
どんな事実も真ではない、存在もできない。またどんな命題も、た
ということを、十分に満たすにたる︵究極的な︶理由がなければ、
̶ 89 ̶
( 66 )
た。この別の世界を、可能世界
﹁あらかじめ定められたとおりに起こることは、確実ではあるが、必
発することができる。が、人は適当なところで納得してしまうのである。
逆に言えば、この﹁十分な理由の原理﹂は、この程度のいい加減なもの
然的ではない﹂
。
*﹁確実である﹂とは諸可能世界のうちの一つの世界における真理で
だから、いくらでも使えてしまう。
以上が﹃形而上学叙説﹄の可能世界に関する部分だが、今出てきた矛
あり、
﹁必然である﹂とはあらゆる可能世界すべてにおいて真理である、
ということである。そして、必然であるのは神のこころであり、確実で
盾の原理と十分な理由の原理の両原理について﹃モナドロジー﹄ を見
盾するものを、真と判断する。もう一つの原理は、十分な理由の原
くんでいるものを偽と判断し、偽と反対のもの、すなわちそれと矛
わ れ わ れ の 思 考 の は た ら き は、 二 つ の 大 き な 原 理 が も と に な っ
ている。一つは矛盾の原理で、これによってわれわれは、矛盾をふ
ておこう︵三一∼三七節︶
。
あるところのこの世界も、神が選択した最良の可能性なのである。ライ
プニッツは、そう考えてしまう。しかも、この事物の系列は、常にこの
うえなく完全なことをしようとする、神の最初の自由な決定にもとづい
ており、神が行った人間の本性に関する決定、すなわち人間は︹自由で
はあるが︺常に最善と思われることをしなければならない、という決定
にもとづいている。
﹁その反対の出来事も可能であったわけであり、その意味で、起こっ
ほど完全でないものがそれ自体では可能であり、たとえそれが起こらな
だ し く な い と い う こ と に な る。 も っ と も こ の よ う な 理 由 は、 十 中
理である。これによると、AがなぜAであって、A以外ではないか
くても可能であり続けるということは、まったくかまわない。実際には
た出来事は必然的ではない。
﹂
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金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
だけに、このことはなおさら本当にである。それゆえ、職人の人柄を宿
る。﹁作品をよく考察すれば、それを作った職人を見出すことができる
神はもっと良い善を成しえたのではないかとかいう考え方は間違ってい
神の作品︹世界︺には善がないとか、
善や美の規範は任意であるとか、
ん持っている︵九︶。
いる。また、どの実体も神のもつ無限の知恵と全能という性質をいくぶ
出来事にともなういっさいの状況や世界の全系列︵セリー︶も含まれて
つまり、個別的実体には、その実体のあらゆる出来事が含まれており、
い。が、いつでも静観者でなければならないわけではなく、自由や努力
だから、我々は神を信頼し、神の作品に満足し承服しなければならな
おいてももちろん不評である。コマの性質はコマに内在しないと考える
評だが︹モノの性質はモノに内在しないと考える関係論的な現代哲学に
哲学風で、
︹デカルト、スピノザ以後の近世哲学においては︺極めて不
こうした実体︵形相︶の考え方は、古代ギリシャ哲学風・中世スコラ
の余地がある。﹁むしろわれわれは、考えられるかぎり神の意志を推し
マンガ表現の立場からも︺
、上手に用いる時には意外と有用なのである
しているにちがいない。
﹂
︵二、
三︶
測りながら行動し、全体のための善、とりわけわれわれにふれるものや、
神の作用は秩序に外れることはない︵五、
六︶。しかし、人間の行い︵作
させるのに貢献するよう全力をあげて努力しなければならない。﹂︵四︶
の特性が円の定義にふくまれているように、すでにその人に本性または
個体的実体という概念は、﹁いずれある人におこるすべてのことは、円
しかし、この個体的概念を認めるとすれば、難問がまちかまえている。
︵一〇、一一︶
用︶には区別が必要である。つまり、人間の行いが善いものであれば神
概念のうちに潜在的にふくまれている﹂ということである。つまり、各
﹁この難問の解決のためには、出来事の絶対的で必然的な結付きと、﹁仮
̶ 90 ̶
( 65 )
われわれの身近にある、いわば手にとどく範囲のもの、価値を高め完成
の意志に沿うが、悪いものである場合には神が悪を許していることにな
人の個体概念も個体的実体である。各人の個体概念は、いずれその人に
のあらゆる行為と世界のほかのあらゆる出来事を支配することになりそ
ならば、﹁人間の自由はどこにもなくなって、絶対的宿命がわれわれ
のおののできごとの真偽はアプリオリ・必然的に確定・証明できる。
起こってくることを一度に全部含んでいるので、その概念を見れば、お
る。しかし、それは神の意志が悪を欲しているわけではない。︵七︶
こうした神の作用と、被造物︵人間︶の作用とを区別するために、個
体 的 実 体 と い う 概 念 を 明 ら か に し て お く 必 要 が あ る。
︹ 個 体 的 実 体 は、
実体形相、エンテレケイア、モナドなどとも呼びかえられる︺
。
﹁あらゆ
る述語を内に含む主語﹂が実体である。
︵八︶
期的に回収される﹂等々の述語が可能である。
﹁多くの述語が同一の主
定によって﹂必然的に結付いた︵偶然ではあるが確実な︶出来事との区
うである。﹂
語に属し、その主語はもはや他のいかなる主語にも属さない場合、この
別 が 必 要 で あ る。 数 学 や 幾 何 学 は 前 者 に 属 し、 こ の 反 対 は 矛 盾 で あ る
*たとえば郵便ポストは、﹁赤い﹂
﹁四角い﹂
﹁丸い﹂
﹁投入口がある﹂
﹁定
形相︶の考
︵
usia
が、人の行いの多くは後者に属し、それが起こらなくても矛盾とは言え
主語が個体的実体である﹂
。アリストテレスの実体
え方と同じである。個体的実体︵=モナド︶とは、それらの述語を含ん
体的実体概念のうちに含まれていた。しかし、次のようにも言える。す
ローマ共和国の人々の自由を失わせたが、この行為はカエサルという個
ライプニッツは次の例を掲げている。カエサルは、終身独裁官となり
ない。﹂
さて、おのおのの個体的実体は、それなりに宇宙全体を表現している。
述語の束、記述の束が、主語を確定している。
本性︵本質︶とはこの実体である。述語とは、性質であり出来事である。
だ︵潜在的で、まだ現われていない場合も含む︶完全体である。モノの
≒
子供と暴力−松本大洋『鉄コン筋クリート』、楳図かずお『Rôjin』、および『イアラ』続考− 高橋明彦
ラ﹄について、補足的に論述しておく。論じきれなかった問題は、虚構
な物語は作りうる﹂と思われているはずである。
学的世界においても矛盾やパラドクスが生じる一方で、根強く﹁無矛盾
A 神は存在している。
B 人間には﹁自由﹂がある。
世界は神が創っている。神は間違うはずがなく、この世界は正しい。
あった。すなわち、
ライプニッツが考えたことは、神︵正しさ︶と人間︵自由︶の両立で
参照してみよう。
そもそも出来事における矛盾とは何か。ここでライプニッツの考えを
における可能世界の問題、および言葉と反復の問題である。また、前々
号拙稿では﹃イアラ﹄が参考文献としたと思われる典拠を具体的に示し
た上で、その典拠の利用のしかたなどを検討した。ほぼ典拠論のみに終
始した前々号拙稿は、いくつかの典拠のまずい利用を取り上げざるを得
なかったため、
﹃イアラ﹄自体が孕む矛盾の提示として、
﹃イアラ﹄を楳
上の齟齬︵土麻呂の子孫か土麻呂自身か︶、理由が作品中に明示されて
あるいは、神が居なければ﹁正しさ﹂は保証されない。﹁正しさ﹂とは
図の最高傑作の一つだと信じて疑わない私自身としても、いささか戸惑
いない︵小菜女のホクロの位置など︶
、史実との齟齬︵東大寺大仏の造
無 矛 盾 性 で あ る。 こ れ が A の 主 張 で あ る。 近 世 以 前 は こ れ が 根 本 理 念
を擁立する立場が除々に出てくる。近代以後はBが根本理念となるとし
わざるをえないものとなった。そうした矛盾とは、たとえばストーリー
営期間など︶
、典拠の誤解︵越前吉崎の西にある加賀金沢など︶
、種々の
として了解されていた。しかし一方で、ルネサンスを経て人間の自由B
さて、通常、矛盾はストーリーの破綻などと言われ非難の的となって
て、近世とはこのABの両立が問題となった時代なわけである。すなわ
世界は神が決定しており、人間の自由や努力の出番はないということに
かつ非海戦は可能﹀。これは今日の段階では真である。どちらもありだ
説明であることを特に明示する場合には︹ ︺で括るか、段落頭に*を
みよう。なお、数字は節番号︵全三七節︶
。﹁ ﹂は引用。私自身の補足
理学者・哲学者がこのパラドクスに挑んで現代に至る︶
、ましてや現実
ともかく、論理学でさえ矛盾やパラドクスがあるのだから︵様々な論
れぞれに含んでいるエネルゲイアへと生成する積極的な性質。エネルゲ
しいものである。︹完全性とは、可能的なもの︵デュミナス︶が各自そ
神は絶対的に完全な存在であり、神の行いはすべてこの上もなく望ま
̶ 91 ̶
( 64 )
レベルで現れていた。
しまう。一般に矛盾は歓迎されないからである。論理学や数学において
ち、神が信じられなくなった時代の最後の神学
。Aを優先させるなら、
矛盾は避けられるべきものであり、起こりえないものであり、われわれ
の現実においてもつじつまの合わないことは歓迎されない。が、実際は
なる。あるいは、Bを優先させれば、人間の行う悪までも神の意志となっ
てしまう。
この両立のためにライプニッツが考案したのが可能世界説である。そ
の著﹃形而上学叙説﹄ にそってライプニッツの思考をすこしたどって
と言ってる点では排中律︵AはBか非Bである︶によって絶対に正しい
。
世界でも虚構世界でも、あって当然ではないか。⋮⋮などというのは詭
イアへと至り得ないものは、完全ではない︺
︵一︶
か偽か︶が変わってしまうからである
置いた。
海戦︶もどちらも可能という命題である。形式化すれば︿海戦は可能、
う命題があるとする。海戦が起こること︵海戦︶も、起こらないこと︵非
たとえば、可能性言明のパラドクス。
﹁明日海戦が起こりうる﹂とい
論理学こそ矛盾の宝庫である。
13
ように思われるが、実はパラドクスに陥る。明日になれば、真理値︵真
14
弁というか、あるいはあまりにお気楽な考え方にすぎない。数学的論理
12
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
ここに哀しさは皆無である。しかし、﹃ Rôjin
﹄のまなぶ少年のそれは違
覚し自立しようとする健気さだけで出来ているセリフであろう。だから、
では保護される対象であるのだ。小野田勇一の発言は、幼いながらに自
ごのみや考えは、もっているのです。つまり私たちだって、子供な
生き方をしてはいても、やはり同じように、私たち少年なみの好き
二人とも普通、私たちの年輩の子たちの生活とは、まるでちがった
らしい、まじめ一方の、小さい二人の人間と思っては、だめです。
みの遊びごとが好きで、一日でも、一しょに玉ころがしをしたり、
う。ここに描かれる少年は、働かねばならない子供である。
岡崎乾二郎は楳図との対談の中で﹃まことちゃん﹄に触れて、青年期
毬 な げ を し た り、﹁ 馬 乗 り と び ﹂ を し な い で は 過 ご さ な い の で す。
いに﹁やらない?﹂と、言います。と、二人とも、すぐに背のうを
。
大人になんかなってられません、これが人間どすえ、という﹁絶対
おろし、楽器をおいて、往来で遊戯を始めるのでした。もし、私が
に﹁すごく励まされた﹂と言って次のように述べている
的な肯定﹂にたぶん勇気づけられたんですね。
︵中略︶最後まで自
時計を持たないで、時間というものを思い出さなかったら、夜にな
マティアは、それこそ、しょっちゅう、なんの理由もなく、ただふ
分が﹁子供﹂でしかないと認めたというか、もう﹁断固として子供
るまで、やりつづけたことでしょう。そんなことは、一度や二度で
岡崎は次いで、戦後のドイツで子供らしく生きることができず、大人
た。だもんで、私は痛い肩へ、ふたたび、竪琴の革ひもをかけて、
﹁さ
食 っ て ゆ く 金 を も う け な き ゃ だ め じ ゃ な い か と、 私 に 言 う の で し
である﹂という感じ⋮⋮。
の中に混じって戦後の混乱を行きぬかざるを得なかったエドモント少年
あ、行こう﹂と言って、立って行くのでした。
はありません。けれども、時計が、おまいは仲間の頭だよ、働いて、
を主人公とするR・ロッセリーニ監督の映画﹃ドイツ零年﹄を例にもあ
﹃まことちゃん﹄に勇気づけられたという岡崎乾二郎は、それだけ大人で
ものは、たぶん何時の時代にも居るのだろう。それは哀しいことである。
子供が子供らしくいられず、大人離れしなければならない子供という
身が、両親に保護され十分に遊びまわった平凡で幸せな子供だった時期
ない子供たち。尤も、そういう子供にある特殊な感慨を抱くのは、私自
あるのだ。保護されつづけるのではなく、大人=社会と係わらざるを得
まだ子供でありながら大人にならざるを得ない子供。そういう存在が
げている。
もあった。実はすでに子供の孤独に耐えうるだけの大人だったのである。
を過ごせたからなのだが。
アラ﹄における典拠と出来事﹂で論及しきれなかった楳図かずお﹃イア
以下、前段とは異なる話題となるが、本誌前々号拙稿﹁楳図かずお﹃イ
︵1︶矛盾と可能世界
3.
﹃イアラ﹄における言葉と反復
逆に、大人離れしなければならなかった子供こそ、ほんとうに子供の孤
独を抱えているのである。そういう子供には、絶対的に子供を謳歌して
いる沢田まことをおそらく安穏として読むことはできないであろう。
﹃家なき子﹄に次のような部分がある。
だって、私たちを、お金をもうけることしか考えない、しかつめ
﹁第二部の八、
エクトール・マロー・作/鈴木三重吉・訳﹃家なき児﹄
王子の雌牛﹂
︵角川文庫︶
̶ 92 ̶
( 63 )
11
子供と暴力−松本大洋『鉄コン筋クリート』、楳図かずお『Rôjin』、および『イアラ』続考− 高橋明彦
この奇妙な話に、少年は泣きやんでいる。
たいな。
﹂
﹁もしうまくできたらタバコを返すよ。
﹂
﹁やってくれるね。
﹂
のあり方にある。
上に本作の独自の価値があるとすれば、こうした現実に生きている子供
だけならば、この手の作品は楳図には事欠かないとも言える。この点以
て く れ る か い。
﹂
﹁さあ何をしてるんだね。あとを継がなくちゃなら
﹁さあまなぶくん。﹂﹁約束だよ。﹂﹁ほらそこに落ちているビンでやっ
かった。うなぎ屋を継ぐのでなく、本当になりたいものがあるのだ。
年が躊躇するのは、うなぎを裂くのが怖いというだけの理由からではな
ス ト ー リ ー を 少 し 戻 る。 指 を 裂 い て く れ と い う ロ ー ジ ン に 対 し て 少
檻のようになっていた板や棒ははずされ、それを梯子がわりにして老
人が穴から出てくる。
本 作 の 動 的 な 視 点 変 化 は、 異 形 は 少 年 の 側 で あ っ た こ と が 明 ら か に
なって一件落着したわけではなかった。指が新しく生えかわり、若返る
というロージンも、やはり当初の印象通りファンタジックな異形なのだ
ろうか。
書いておこう。少年は結局指にビンを突き立てることができなかった。
パイロットになりたいんだ、ジェットの。
﹂﹁いま学校でパイロットの
﹁違うんだ、ぼく本当はうなぎ屋にはあわないんだ。
﹂
﹁ぼくは本当は
ないんだろ。﹂
が、ロージンは、指が生えかわり若返るというのはウソだからねと優し
勉強をしてるんだ、コンピューターのシミュレーションを使って。﹂﹁う
少年は、その指を裂くことを躊躇しているのだが、物語の結末を先に
く言い、ひとりでそのまま公園を去っていく。すなわちロージンは、穴
歳になったら、﹂﹁3か月も飛べるんだよ ﹂
んと勉強をして
歳までしか生きられな
!!
葉である。
あろうと、もしやそうではなかろうと︵たとえば神の変化とか︶、少年
⋮⋮⋮⋮⋮﹂﹁きっとこんな世界にならないようにする ﹂
﹁ ユ ウ ち ゃ ん、 約 束 す る も ん
﹂﹁ う ん と お 勉 強 し て え ら く な っ て
こ と の あ る セ リ フ で あ る。
﹃漂流教室﹄の終盤、幼児の小野田勇一の言
この﹁うんと勉強をして﹂というセリフは、かつて楳図作品で聞いた
19
勉強と遊びとが同質化している子供は幸せであるか、どうか。趣味と
は捨てきれない。ただ確実なのは、われわれ読者にとってただの老人で
100
て述べたことのあるファンタジーの形式で言うなら本作は、
﹃北風物語﹄
先に、本作のファンタジーとしての形式について述べておこう。かつ
はどうであろうか。現実の多くは、勉強が好きだと思いこむか、勉強を
仕事が同質化している大人は、確実に幸せである。しかし、子供の場合
おそらく、子供もつねにすでに社会の一員である。しかし、ある程度ま
けではない。これは基本的常識から大きく逸脱しているだろう。そして
自然児として子供があることが最高に良いなどということを言いたいわ
化しないこと︶なあり方なのだろう。私はもちろん、教育をしないまま
子供は大人の保護下にあり、社会化せずにいることが、非暴力的︵変
いか。
ゲームのごときものとして楽しむか、といったあり方しかないのではな
!!
に お け る﹁ 怪 異・ 幻 想 性 を 十 分 に 肥 大 さ せ て お き な が ら、 最 終 的 に す
。
。ただし、
歳で死ぬという現実なのである
べて日常的な合理性へと収束させている﹂パターンである
本作の場合、回収された現実が、
10
9
本作の素晴らしさは、こうした視点の動的変化にある。ただし、それ
︵2︶
﹁子供は遊んでばかりいたのかな?﹂
20
̶ 93 ̶
( 62 )
に落ちて自力で出られなかっただけのただの老人だったのである︵おそ
らく︶。いささか不思議な点があるとすれば、
歳の老人が紛れ込んできた、という点だけである。
その意味で、ロージンがただの老人ではなかった可能性も パーセント
いエリアに、この
20
にとってはロージンこそが決定的な異形・他者だということである。
!!
70
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
﹁ そ う だ よ 聞 い た こ と な い か い? 男 の 老 人 が お じ い さ ん で 女 の 老 人 が
﹁おじいさんと⋮⋮﹂
﹁おばあさん?﹂
ともかくこのまなぶという少年は、ロージンという存在を知らないのだ
事態は不可解ながらも沈静化に向かっているかのごとくである。そして、
からはずっと一人暮らしさ。﹂﹁でも子供のころ遊んだ場所が懐かし
佳境を迎える。少年が家に帰ろうとして立ち上がった瞬間、ポケットか
あたりは暗くなりはじめ、カラスの鳴き声も聞こえる。突然、物語は
が、それ以外は極めて常識的な了解可能な世界である。
くてね。﹂﹁矢もたてもたまらずここへやって来たのさ。﹂﹁このへん
ら一箱のタバコが落ち、それが穴の中まで落ちてしまう。少年はとたん
おばあさんさ。﹂﹁そのおじいさんとおばあさんも死んじゃってそれ
は昔とちっとも変わっていないね。
﹂
﹁でもこんな穴があるなんて気
に表情を変え、タバコを返してくれと泣きじゃくりはじめたのだ。
歳なんだ。﹂﹁人間は
この時、老人は何かの策略をめぐらしているわけではなかろう。ただ
がつかなくて、うかつだったね。﹂﹁老人のわたしにはどうしても出
ることができなくて、きのうからずっとこうしているのだよ。﹂
﹁いざという時?﹂
穏やかに少年に語りかける。
老人の話に不自然なところはまったく無い。
﹁もうすぐなんだ。お父さんは年よりなんだ、
歳で死ぬだろ!﹂
﹁だから。
﹂
﹁だって、
﹂
﹁お父さんが死んだ
20
歳 で 人 が 死 ん で し ま う 世 界! そ こ に 生 き て い
う名であること、妹がいること、母親は優しく美人であること、家は﹁う
ロージンは少年の名前や家の状態などを聞く。少年は﹁まなぶ﹂とい
裂いちゃってくれないかな。
﹂﹁そしたら新しいのがはえてくるんだ。
﹂﹁そ
まったんだ。
﹂
﹁ 年も使ったからね。
﹂
﹁だからこれをうなぎのかわりに
﹁ほらわたしの指⋮⋮﹂
﹁あんまり永いこと使ったからこんなになってし
よし
な義 ﹂といううなぎ屋であること。ロージンは、かつてここに住んでい
したらわたしも君みたいに若くなると思う わたしももう一度若くなり
﹁聞く。﹂﹁聞くから早くタバコを。﹂
﹁ぼうや。﹂﹁タバコのかわりにお願いを聞いてくれるね。
﹂
う必要がある︶。
いてくれ、と持ちかける︵裂くためには、必然的に、穴から出してもら
ロージンは、タバコを返すかわりに、自分の指をうなぎに見立てて裂
る子供!
ほう だ っ た の で あ る。
解 説 し た よ う に、 異 形 な の は ロ ー ジ ン で な く 少 年 お よ び 少 年 の 世 界 の
こ こ に お い て、 不 可 解 な 事 態 は 一 転 し て 明 ら か に な る。 綾 辻 行 人 が
よ。﹂﹁いつもはずれるんだ。﹂
ウナギを裂かなくちゃならないんだ。﹂﹁ギャーッ。﹂
﹁ぼくできない
らぼくがあとを継がなくちゃいけないもん。﹂
﹁あとを継いで生きた
誰でも
ただ、老人は本当の事を言っているのだろうか。少年を︵そして私
﹂
20
たので、うな義も名店として知っているよと言う。おだやかに話は進み、
!!
70
̶ 94 ̶
( 61 )
たち読者を︶だまそうとしているのではないか。
﹁きのうから
﹁そうしたらぼうやがやって来たというわけさ。
﹂
﹁わたしの
﹁そう!﹂
言った話のわけがわかったかいぼうや。
﹂
歳 だ。
﹁ 話のわけ?﹂
﹁もちろんさ。
﹂
﹁ロージンということば以外はね。
﹂
﹁だ
け ど ぼ く は ぼ う や な ん か じ ゃ な い ぞ。﹂﹁ だ っ て ぼ く は も う
歳か⋮﹂
5
歳の就学前の幼児
歳さ⋮⋮どんな難しいことだってできるぞ。﹂
だれもぼうやなんて呼ぶ者はいないぞ。
﹂
﹁
﹁そうさもう
小学生くらいかと思って読んでいたこの少年は、
20
!!
5
なのであった。私など、ここでいくらかびっくりしてしまう。
5
5
子供と暴力−松本大洋『鉄コン筋クリート』、楳図かずお『Rôjin』、および『イアラ』続考− 高橋明彦
﹁遊ぶこと﹂と﹁生きること﹂とが乖離する。
も、一方で冷静になろうと努めている。ロージンと名乗るその者は、た
エビのように曲がっていること、などを聞く。ロージンはやはり自身が
ま た ま こ の 穴 に 落 ち て し ま い、 若 く な い の で 自 力 で 穴 か ら 出 ら れ な く
若くないため、この穴から自力で出られないのだと告げ、そして板か何
楳図作品において、この問題を全面的に扱ったのが﹁ Rôjin
﹂
︵一九八
綾辻行人は本作を
﹁奇跡のような作品﹂
と絶賛する。設定やストーリー
かがないかと言う。少年は素直に板や棒を探して持ってくるが、再び穴
なったことを少年に告げる。少年はロージンに、頭に毛がなく、また残っ
的な面白さだけで言えば、イアラ短編群には本作をはるかに凌ぐと思わ
の中のロージンを見て驚き、
﹁怪物だっ﹂と叫び、上がりかけていたロー
〇年・短編作品︶である。本作は、主人公の少年が物語最後のほうで言
れる作品が多数あり、本作はそこまでの絶賛に値しないと言えるかもし
ジンをふたたび穴底に突き落とす。持ってきた板や棒で檻のように穴に
た髪も真っ白であること、顔じゅうがひびわれだらけであること、腰が
れない。しかし、綾辻は子供という視点において楳図作品を透視した上
蓋 を す る。
﹁ そ う さ、 だ っ て 檻 だ も ん。﹂﹁ ロ ー ジ ン な ん て 知 る も ん か。
う言葉﹁子供は遊んでばかりいたのか?﹂に集約されるだろう。
で 絶 賛 す る。 こ の 立 場 を 私 な り に 引 き 継 ぐ か た ち で、 こ の﹁ Rôjin
﹂に
そして、ロージンに向かって石を投げつける。
お父さんやお母さんだって知らないっていうから。﹂
ついて考えておく。
本作のすばらしさ、上手さは、まずもって動的な視点変化にある。
少年が都会のビル街を抜け緑あふれる公園に入る。手にはラジコン飛
角な穴が大きくあいており、
﹁うーん﹂という声が聞こえている。気に
こ こ か ら 物 語 は 動 き 出 す。 公 園 の 中 ほ ど に た た み 三 畳 分 く ら い の 四
の父母さえも老人を知らないらしい︶
、という少年自体も不可解である。
者の視点は、少年の側にある。しかし、潜在的には、老人を知らない︵そ
ただの老人なのか、それとも別種の存在なのか、未だ不明ではある。読
ともかく、このあたりまで、この作品の描かれた世界は、不可解な世
なってその穴を上から覗くと、しわしわの顔をして頭ははげ、残った髪
以下、フキダシごとに﹁ ﹂を付し、話者が変るごとに改行した。
行機を持っており、公園を走り回って操縦している。少年は、小学校と
の毛も白く、目もうつろな生き物がいる。ページをめくって現れる、こ
﹁やーいお前みたいな怪物出られるもんか。﹂﹁血?﹂
界である。都会にある緑あふれる公園や、そこでラジコン飛行機に興じ
の者の像は、楳図ならではのタッチで描かれ、強烈である。その者は、
﹁ぼうや、わたしもぼうやみたいなころがあったんだよ。﹂﹁それでやっ
い っ た 感 じ で あ ろ う か︵ 年 齢 は 後 に 明 記 さ れ る ︶
。ラジコンなどという
穴から這い上がろうとしてこちらを見ている。少年は驚くて腰を抜かす
ぱりヘビとかそんなものを見ると石をぶつけたりしたもんさ。﹂﹁そ
る 少 年 が い る こ と は、 何 の 不 可 解 も な い。 公 園 の 穴 に 老 人︵ ロ ー ジ ン ︶
が、その生き物は﹁たすけてくれ!﹂と呼びかける。﹁わたしは老人だ
し て そ の こ ろ の わ た し も こ の へ ん に 住 ん で い て、 こ の 公 園 に も よ く
高級玩具は、小学生低学年には似合わない。かといって、中学生という
から出ることができなくて⋮⋮⋮﹂
。少年は穴に再び近づき、﹁ロージン?
遊びに来たんだ。
﹂﹁そして大きくなって大学を出て区役所に勤めて、﹂
がはまっている事は、不可解ではあるが、それ自体は不自然ではない。
⋮⋮⋮﹂とつぶやく。﹁へ、へんな声⋮⋮⋮⋮﹂﹁しゃべることができる
﹁結婚したけど妻も子供も早く死んでしまってね。
﹂
﹁ほ か に は わ た し
感じではない。
んだ⋮⋮⋮﹂﹁でも人間とはまるで違う種類かもしれないぞ。気をつけ
のおじいさんとおばあさんが生きていたけどいなかで農業をしてた
⋮⋮﹂
なければ!﹂
﹁ な っ な ぜ そ ん な と こ ろ に 隠 れ て い る の だ っ。﹂ 少 年 は お び え な が ら
̶ 95 ̶
( 60 )
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
供の物語である。
社会化せずにはいられない。通常、子供はよいこになろうとする。例え
ると云える。
楳図作品においても松本作品においても、このことは作品の大前提と
ば﹃まことちゃん﹄において沢田まことはいつも自分のことを﹁よいこ
子供は保護されずには生きられない生き物である。他者たる子供とて、
なっている。楳図においては﹁怪獣ギョー﹂
﹃漂流教室﹄
﹃わたしは真悟﹄
﹂﹃
Rôjin
らもーん﹂と思っている。沢田家で、聖秀幼稚園で、それぞれの共同体
﹁
本作品においても﹃鉄コン﹄もそれに当たるが、もっと典型的なものが
通常、子供は大人に隷属している。大人の権力下に置かれている。隷
ある。実際には常に他者性を露呈してしまう。
完全な他者とは、異なる共同体に存する全く共同性を持ち得ない存在
属とは暴力の抑圧・潜在化である。が、子供が自立するとき、子供の暴
自立の諸相には、物理的経済的に自活すると言った明快なものもあれ
ではない。多くは共通していても絶対的な矛盾を持つ関係。絶対的な断
楳 図 自 身、 こ の﹁ 非 連 続 点 ﹂ を 具 体 的 に は﹃ ピ ー タ ー パ ン ﹄ に 依 拠
ば、自己の価値観を持つとか自己の感情を持つとか、自我意識を持つこ
力性は顕在化するのである。
するかたちで、その実人生においても踏襲している。楳図がいつ初めて
憎悪は、ある種の隷属のかたちであり、社会化のかたちでもある。シロ
クロは、何かに憎悪を抱いている。シロはそうでもなさそうに見える。
ろち﹄を﹁憎悪する子供たち﹂と評した。
とそれ自体において現れることもあろう。ある評論家はかつて楳図の
﹃お
ク社版﹃ピーターパン﹄ は読んでいる。そして、自身のペンネームを
。
の憎悪の無さは、彼が社会化されていない証拠でもある。
ない。言葉の基本的作用は暴力に根ざしているからである。そして、信
おそらく、子供は言葉を持たない。そして、愛も暴力の一形態に過ぎ
説︵ビルディングス・ロマン︶というものがあげられるだろう。古くは、
じることは、対象︵他者︶の存在を前提としているのである。
といった、
苦難を乗り越え人間的成長を遂げる物語である。E・マロー﹃家
なき子﹄なども、苦難を経て大人になる。ここにおいて、大人になるこ
とは肯定的に設定され、目標となっている。もちろんどのような大人に
なるかは作品ごとに異なろうが、立派な大人になることが望まれている。
いま一つは、子供の喪失を扱ったもの。甘美な少年時代の思い出を描い
たヘルマン・ヘッセ﹃少年の日の思い出﹄だとか、ローリングス﹃仔鹿
物語﹄などがそうである。
しかし、人間はそもそも﹁生きること﹂を達成せねばならない。この時、
そのまま﹁遊ぶこと﹂であるようなあり方が、子供の幸福なのである。
子供の仕事は、おそらく﹁遊ぶこと﹂なのである。
﹁生きること﹂が
︵1︶動的な視点変化
2.
﹃ Rôjin
﹄
ゲーテ﹃若きウェルテルの悩み﹄
、ロマン・ロラン﹃ジャン・クリストフ﹄
及できず、ただ思いつくままにあげるだけであるが、一般にまず成長小
子供を扱う物語として、私は児童文学に詳しくないので網羅的には言
度ではない
﹁ピーター﹂﹁P 太﹂﹁ピーター伴﹂などと表記していることも一度や二
7
﹃ピーターパン﹄を読んだのかは未確認であるが、少なくともトモブッ
絶を持つ関係にある者である。
﹃ GOGO
モンスター﹄である。
でよい子であることが求められ、自身もそうであると自負しているので
歳﹄などの諸作品において、この前提が貫かれている。松
6
そして、﹃ピーターパン﹄とは、いうまでもなく、成長を拒否した子
̶ 96 ̶
( 59 )
14
8
子供と暴力−松本大洋『鉄コン筋クリート』、楳図かずお『Rôjin』、および『イアラ』続考− 高橋明彦
一緒にいたころのものと、シロと別れた後のものとで、違っていること
るものではない。文字通り物理的なものである。クロの暴力は、シロと
クロとシロの暴力は、ただ単に大人をたじろがせるというだけで収ま
いてである。
り、共通平面がはじめてかたちづくられなければならない場所にお
は、関係の諸項のあいだに共通性が欠けているところにおいてであ
て暴走しているかのごとくである。そしてそれは、﹁伝説の餓鬼﹂と言
﹁お遊戯の時間﹂でもあった。が、
後者においては歯止めが効かなくなっ
た地平がないところで、互いに異邦人であっても、両者を架橋する力能
何かしらの共通の地平が予め用意されているからでなく、むしろそうし
すなわち、レヴィナスによれば、言葉が通じるということは、両者に
は、作品上で明確に示されている。前者においてクロの暴力はある種の
われるイタチを呼び出すものとなる。イタチとは作中の言葉で言うなら
を持つのである。これをレヴィナスは﹁言葉の啓示的機能﹂と呼んでい
M ・アリエスのアニメ映画版では意外なことに端折られていたセリフで
的な批判を加えたのがJ ・デリダであった。デリダの批判は、存在や認
しかし、このレヴィナスの言語観に、半ば好意的でありながらも根底
る。そしてそれこそが、暴力の無い人間関係を作り出すのである。
あった。が、
私はこの﹁言葉を持たない﹂という点は極めて重要だと思う。
。無垢さ。シロの共感する能力。イタチを排除する力は、
シンクロ
識はもとより、言葉も他者との出会いも暴力抜きではありえないのだと
いうのである
それこそが実は暴力なのである。
︵3︶子供の隷属と自立
子供と大人とは、完全に他者である。子供が成長して大人になるので
はない。大人と子供とは全く別の生き物である。このことを綾辻行人は、
て可能にするものである。ことばは対話者たちを前提し、多元性を
これほどに楳図がこだわる﹁子供﹂とは、いったい何なのか。
楳図かずお論として次のように述べている。
前提している。対話者たちの交渉は、一方によって他方が表象され
ことばという関係では、超越が、根底的な分離が、対話者たちはた
にあずかることでもない。
︵中略︶
﹁子供﹂であることをある日突然終えて﹁大人﹂という別の存在に
ことは確かだろう。﹁子供﹂はだんだんと﹁大人﹂になるのではない、
歳﹄
変わってしまうのだ
といった捉え方。
﹃わたしは真悟﹄
や﹃
̶̶
がいに異邦人であることが、私に対する︿他者﹀の啓示が前提され
に至っては、それが作品の中心的テーマそのものにまで昇華してい
ることではなく、言語という共通平面において両者が普遍性にとも
﹁子供﹂と﹁大人﹂
一言で答が示せるような問題では到底ないが、
との間には決定的な非連続点が存在する、という認識がそこにある
ことばは普遍性と一般性を前提とするどころか、その両者をはじめ
いか。反レヴィナス的な意味でのそれである。
しかし、共感・共同性を支える無垢さこそ、根源的な暴力なのではな
クロの最終的選択であった。ここに、言葉もかかわってくる。
る。より強力な暴力によってでなく、シロを信じるということ選ぶのが、
本作は、社会的暴力︵クロの︶を放棄し、共感・共同性へ進む話であ
ディアである。
かし、同時に言葉は暴力を超える可能性をも有する。言葉は両義的なメ
先に述べたように言葉のあり方は、本源的に暴力的なものである。し
持たない﹂というセリフは、原作のセリフを多用した脚本になっていた
﹁愛を捨て言葉を持たない暴力だけを信じる〝餓鬼〟
﹂である。﹁言葉を
4
ているからである。べつの言い方をするなら、ことばが語られるの
14
̶ 97 ̶
( 58 )
5
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
人が他者と関係し、モノが変容を続けていく限り、暴力は馴致しきれ
ない。遍在する暴力。暴力は細部に宿るとでもいってもいいだろう。
べきは狭い共感であり、如何に共感を拡大していくかが重要となる。
エゴイズムを抑えるのは理性の働きであり、理性の客体化としての法
律の働きである。
そ れ ぞ れ が 自 由 で あ り︵ 力 を 持 ち ︶、 か つ 他 を 侵 害 し な い あ り か た。
近代社会は、この社会=暴力というシステムをいかに馴致するかとい
う課題を背負っていた。たとえば、ホッブスの言う万人の万人に対する
社会の害悪たる暴力を、理性︵法︶などのより強力で正当︵と思われ
しかし、現実は既に暴力がシステムとして存在する場︵近代資本主義社
成する。これが社会契約説である。たとえば、なぜ人を殺してはいけな
ている︶力によって乗り越えるのではなく、共感の拡張によって乗り越
自然状態という考え方。人は利己的であり、ほうっておくと気ままにふ
いのか、という問いに対して、それを認めたら自分も殺されるからだ、
えようとするヒュームのあり方は、政治思想としては理想主義的すぎる
会。大人と子供が存在する社会︶。
と答えるのは社会契約説的な発想である。これは、より大きな力へ依拠
かもしれないが、芸術的作劇法としてはむしろ主流である。そして、本
るまう。他人を信じるな、隣人を疑え。ゆえに、契約によって社会を形
したがる発想であり、設問に対する正答の実在を信じる立場でもある。
作はまさにそういう作品である。
さて、﹃鉄コン﹄に戻ろう。問題は、
シロとクロの暴力のあり方である。
ま た、M・ ウ ェ ー バ ー は、 権 力 と 暴 力 と を 正 当 な 力 と 不 当 な 力 と し
は、 英 語︵ 日 本 語 ︶で 言 う
Gewalt
本作における暴力の特色は、暴力が国家権力に対立するかたちで顕現
て 区 別 し た。 そ も そ も、 ド イ ツ 語 の
︵権力︶とを含む語彙である。近代国家は、正
power
しているという点、およびそれが子供によってなされている︵子供/大
ち な み に、 楳 図 作 品 に は こ れ に 類 す る 舞 台 設 定 は 無 い。﹃ 漂 流 教 室 ﹄
より大きな国家権力に依存・従属している。ホッブス的発想が根本にあ
子供/大人の対立を前提としている作品でも考えてみよう。﹃わたし
界の存在であるため、単純に言えば勧善懲悪によって合理化されている。
̶ 98 ̶
( 57 )
︵暴力︶と
violence
当な暴力を一元化して掌握する。警察権・裁判権などがこれに当たろう。
の小さな暴力のみを否定する。それは警察権や裁判権などが正統だから
における子供たちによる暴力は、権力構造それ自体が成立していない極
人の対立を前提としている︶点、この二点にある。
と認められる限りにおいてである。犯罪抑止︵マイノリティ・リポート、
限状態が舞台である。﹃神の左手悪魔の右手﹄における暴力は、敵が異
﹁暴力はいけない﹂という際、ほとんどが国家権力を認め、それ以前
、
等々︶
。われわれは、
自身の暴力も他人からの暴力も否定する代りに、
るからである。あるいは、物語世界においては、絶対的正義のヒーロー
例えば﹃まことちゃん﹄の沢田まことも、大人にとっては暴力的な存
は真悟﹄で東京タワーに登るさとるとまりんは、確かに犯罪すれすれの
社会契約説では暴力を超えることができないと考えたのは、たとえば
在と言ってよいだろう。楳図作品以外でも、こうした子供像の作品があ
︵ウルトラマン、ドラえもん、水戸黄門︶に。あるいは、宗教や奇跡︵愛
D・ヒュームである。ヒュームは、人間が乗り越えるべき本性は、万人
る。大人をたじろがせる存在としての子供を描いている点で、玖保キリ
行為を行っているが、警察で大目玉を食らうことにはなったろうが基本
に対する闘争状態を作るとされるエゴイズム︵利己主義︶ではない。人
コ﹃いまどきのこども﹄や臼井儀人﹃クレヨンしんちゃん﹄なども同様
や救済を与えてくれる存在。
﹃ナンバー吾﹄のワン、
﹃わたしは真悟﹄の
は決して利己的な存在ではなく、むしろ共感する動物である。そして社
の部類とみなすこともできるだろう。
的には子供ゆえに不問に付されている。
会の害悪となるのは、そうした狭い共感なのである。つまり乗り越える
エルサレム以後のシンゴなど︶において。
24
子供と暴力−松本大洋『鉄コン筋クリート』、楳図かずお『Rôjin』、および『イアラ』続考− 高橋明彦
本作が、平凡な少年マンガ
に留まらないのは、暴力の本源まできっ
が味わうべき作者のスタイルであり、また主人公の二少年が空を飛ぶの
居しているがそれがひっくるめてファンタジーというものであり、読者
さ れる﹁いい話﹂でしかなく、かつ、舞台設定に幻想性と現実味とが雑
た だ し、 本 作 は 最 終 的 に 人 間 の 二 面 性 が 善 や 無 垢 さ の 勝 利 へ と 統 合
力はいけない﹂というサブ・コンテキストも、単なる倫理的お題目では
うものとして暴力が描かれている。本作に底流する﹁犯罪はいけない﹂﹁暴
も社会化の一形態である︶、しかもそれは﹁お遊戯﹂でもある。こうい
のために、日本の平和のため、という自己流の正義を生きており︵これ
恐喝をしているのである。しかも、二人はそれぞれに、自分の街・宝町
︵2︶暴力論
もそれがファンタジーというものだから、とだけ言っていて済むのであ
なく、こうした状況に対置されたものである点で、いっそう意味のある
ちり照らし出しているところにある。シロとクロは、生きていくために
れば、まったく本作を読む価値はないだろう︵少なくとも、楳図ファン
メッセージとなっている。
まず、暴力は単にイコール腕力・武力というわけでない。言葉の暴力、
とは何なのか。これを順に考えていく。
さて、ではそもそも暴力とは何なのか。そして、子供にとっての暴力
にとって︶
。
本作の醍醐味は、何よりもその暴力シーンにある。本作に対して感情
移入を許す要因は本作に描かれた暴力性にある。それは一つには、カタ
ルシスとしての暴力、あるいは物語のエンジンとしての暴力である。例
本主義化として描かれる。また、国家権力の暴力は、ピストル所持など
るがまま︶の疎外である。AがAのままであれば、暴力は成立していな
少しこれをまとめてみよう。まず一つ目として、暴力とは、所与︵あ
経済的搾取などもふつう暴力とみなされる︵社会的暴力︶。グローバリ
瑣末なディテールとしても描かれ、同時に、人権の保護や人命尊重とい
い。AをBに変容させることが暴力である。例えば、殴られて顔が傷つ
えば、旧ヤクザの暴力は地域を守る周縁的存在であり、必要悪として描
う面としても描かれている。これらは、物語を進めるための補助エンジ
くのは顔の変容であり、心が傷付けられるのは心の変容である。自由を
ゼーションも、搾取と同様ではないにせよ、暴力である。
ン的なものである。そして、カタルシスとしての暴力とは、物語のメイ
奪われることも、所与としての自由からの疎外であるがゆえに暴力とみ
かれている。他方、新ヤクザの暴力はグローバリゼーションであり、資
ンエンジンであり、読者に高揚感を与えるものである。尤も、シロとク
二つ目として、暴力とは、他者とかかわることそれ自体に根ざしてい
なされるのである。
い分、必ずしも気分良く読めない読者もいるだろう。しかし、物語序盤
る。暴力・力は、他者へ及ぼす力である。その点で、暴力はシステム的・
ロとが修学旅行生を恐喝するといったシーンなどは、倫理的とは言えな
の山場でもある、拉致されたチョコラの救出も兼ねてヤクザの事務所に
自らの変化︵植物の成長など︶も暴力であろう。植物の成長なども暴
構造的なものであり、関係性である。たとえば、複数の自由の定立は、
ただし、暴力がカタルシスで終わってしまうのが平凡な少年マンガで
力であり、描線のデュナミスがエネルゲイアへ生成されるのも、暴力で
窓から殴り込みをかけるクロの活躍に驚喜しない読者は、本作向きでは
ある。本作の暴力にはもう一つの側面がある。それは、社会関係・他者
ある。その意味ではむしろ、力が起きる時、自他の区別が事後的に成立
対立的であり、可能性として暴力関係にある。
関係それ自体を暴力としてとらえる視座である。そして、その関係に子
するのだとも言いうるだろう。
なかろう。
供がその一員として存在しているのだということ、これである。
̶ 99 ̶
( 56 )
3
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
た木村は鈴木を射殺しまた自らも後に撃たれて死ぬが、これは倫理的で
本作品におけるスターシステムを支える名脇役的存在であるが、本作に
おいては、若いころからの因縁の関係のようである。ただし因縁それ自
体は記されておらず、現在の二人の会話などによって匂わせる程度のも
。
宝町の再開発を狙う外国勢力のヤクザとて常識的存在であろう。ただ、
のとなっている。彼らは、過去という厚みを持った存在として現在化し
はないにせよ、すばらしく﹁いい話﹂である
﹁蛇﹂の使う三人の殺し屋﹁蝶・虎・龍﹂のみ、少々非現実的ではある。
ている。
また、双方にはそれぞれ沢田と木村という若者を配してあり、警察対
が、空を飛ぶ二少年ほどのファンタジーは付与されておらず、単に人間
離れした強い奴らといった程度だと理解して良いと思う。三人は未知の
るといった設定なども常識的であり、今日的実感に極めて近いものがあ
この他、街の開発や、それに関連して子供のサイフをターゲットにす
位で無責任でなげやりな当初の沢田が、中盤以降、シロと触れ合うこと
どには活躍の機会が与えられていないような印象が否めないが、興味本
ている。なお、ストーリー展開に直結する木村に比べて、沢田は予想ほ
ヤクザの関係は物語上では同等の権利を有して均衡を保ったままとなっ
る。そして、ストリート・チルドレンの存在などは、今日の日本では幸
で優しさ・人間らしさ︵のようなもの︶を回復していく様は﹁いい話﹂
不死の生命体でも戦闘用アンドロイドでもなさそうである。
い未だ問題化されてはいないが、世界的に見れば大きな現実的問題であ
さて、以上の二点を要するに本作の不可解さは次のような構造を持っ
ただしこれは、もうすこし具体的に言えば、松本大洋的だなという印象
壁の落書きも、スラム的リアルさの印象を持たせるものとなっている。
の典型的実例でもある。
ている。すなわち、具体的状況としては、近未来風な風景と現実的な社
を持たせるものであり、つまり作者の様式であり、それによって一層現
る。
会状況とが雑居しており、物語的関係としては、原因理由を持たぬファ
実味を帯びた街の風景を作り出し、同時に上述の二点の雑居性をいい具
や書籍に見える松本大洋のプライベートな趣味性も同様の効果を持って
合に統一している。街中にあふれるファンタジックな動物たちも、看板
スタイル
ンタジーと、現実的で常識的に理解可能な設定とが同居している。これ
が、本作の根本的な設定なのである。
三つ目として、物語的に了解可能な部分がある。それは、虚構にお約
る。あるいは、一個の独立した松本作品として、作家の個性・様式とし
える時には、実は了解可能な要素となる。それは人間の二面性︵闇と光、
シロとクロという二人の存在も、子供と大人の対立的な物語として考
いる。
て了解可能な部分である。これらの点によって、上述の二点が矛盾とし
善と悪︶から善の勝利へという物語的な約束であり、﹁いい話﹂へ回収
束や作劇法として、ありがちながらそれゆえ却って了解可能な部分であ
てでなく、一つの作品という統一体へとまとめあげられているのである。
チーフであるが、これについては後に述べる事にしよう。また、シロと
雑居は、虚構としての作品という中においてシェイクされいい具合に混
以上、不可解さを三点から見たが、不可解な部分と常識的な部分との
される回路でもある。
クロという二人の性格が正反対であるというも、人物配置という側面か
合されているのである。
それはまずもって大人と子供の対立︵根源的な。楳図的な︶というモ
らは出来すぎなくらいにありがちであるが、二人の対比が作品のエンジ
ンであることは確実である。ただしこれも後述することにする。
人物配置という点では、警察の藤村とヤクザの鈴木とは、二人とも松
̶ 100 ̶
( 55 )
2
子供と暴力−松本大洋『鉄コン筋クリート』、楳図かずお『Rôjin』、および『イアラ』続考− 高橋明彦
狗、黄金バット、スーパーマン、ピーターパン。彼らは翼、マント、ケー
べるのか。われわれは、空を飛ぶ生命体を少なからず知ってはいる。天
シロとクロを理解し諭している。そして、シロ自身、人を傷つけること
る。また、シロとクロの唯一の守り神的立場にいるオジイさんも、常に
識を超えて、二人がそこから脱却できることを希望しているように見え
ピクシーダスト
プ、妖精の粉といった、飛ぶための原因理由が付与されているが、シロ
を肯定していない。
これを一口でいうならば、
﹁いい話である﹂ということである。
こうした、
われわれの一般的倫理に合致し常識的に了解可能な設定は、
とクロにはそれがない。尤も、ケープや妖精の粉で何故飛べるのかとい
う原因理由が記述できない以上、原因理由が無いにもかかわらずシロと
クロが空を飛ぶと、それは程度の差でしかないとも言えるだろう。しか
他にも常識的に了解可能な設定をあげておこう。まず、暴力や犯罪は
勿論、人を鉄パイプで殴り傷つけることは決して﹁いい話﹂ではない。
さて、
こうしたファンタジーという観点から言えば、シロとクロが﹁第
警察が取り締まっているということ。街にヤクザが暗躍しているという
し、そうではなく、理由なく二人が空を飛ぶこの点は、他の飛行する生
一級ぐ犯少年﹂︵藤村︶であることの原因理由のなさも、まことに説明
こと。ここに、現行の日本の姿以上のものは無い。例えば、非現実的な
が、幼い弟分を守るためにそうする時これは﹁いい話﹂となる。
﹁いい話﹂
不足である。父母が居ないのであろうこと、二人は兄弟でさえないのだ
悪の秘密組織が存在しているわけでもなければ、科学特捜隊のごとき架
命体たちと決定的な差異があるのではないだろうか。おそらくここに本
ろうこと。彼らの出自が全く明らかにされておらず、それに類する会話
空 の 国 際 特 務 機 関 が 存 在 す る わ け で も な い。 あ る い は、 今 日 の 日 本 政
かそうでないかの境目は、すなわち行われた事・行為それ自体をもって
さえ無いのも、最終的にはファンタジーというものであるからである。
府とは異なる社会・政治体制下のある街として宝町が設定されているわ
作の秘密が隠されているように思うのだが、ただ、今は答えを急がない
尤も、本作において家族的なものは皆無ではない。チョコラことたけし
けでもなさそうだ。シロとクロによって、そして外来のヤクザによって
これを分別するのは、権利上は存外微妙である。にも関わらず、﹁いい話﹂
には田舎︵青森県︶に母親がいる。木村にとってネズミこと鈴木は父親
引き起こされる暴力的かつ超人的世界は、﹃北斗の拳﹄のような核戦争
でおこう。シロとクロがなぜ飛ぶのかを取り敢えず一言で言うならば今
的な存在であり、鈴木にとっても親分がそうであった。そして木村には
後の荒廃した地球といった極端に非日常をもってせずとも実現されてし
かどうかは、現実の作品世界においては常に決定的である。
女がいて近々子供も生まれる。このように家族的なものそれ自体が完全
まっている。
は、それがファンタジーというものだからとしか言いようが無い。
に排除されている作品ではないのだ。シロとクロだけが、意図的に、家
バイオレンスを描いた作品ではあるにしても、暴力は根底では決して肯
はいけない﹂というサブ・コンテクストが地下水脈のごとく流れている。
的に了解可能な設定がある。まず、作中には﹁犯罪はいけない﹂﹁暴力
二つ目として、上述の説明不足でファンタジックな面とは逆に、常識
それらは最終的に﹁いい話﹂へと回収される。たとえば、チョコラは母
はあるが、そうした要素も存在的には常識的には了解可能であり、かつ、
がいるということ。これらは実際には﹁いい話﹂で済まない困った話で
がっているだけの新人がいるということ。ヤクザにあこがれているバカ
良 グ ル ー プ が い る と い う こ と。 警 察 組 織 の 中 に 単 に ピ ス ト ル を 撃 ち た
同様に登場人物たちも極めて現実的である。街には治安隊気取りの不
定されていないのである。第一級虞犯少年たるシロとクロに対して警察
親を思って田舎に帰り、沢田はシロと接することで変わる。鈴木に憧れ
族的な色彩を帯びていないのである︵これも後述する︶。
の藤村たちは、職務に忠実ゆえに暴力を取り締まり、のみならず職務意
̶ 101 ̶
( 54 )
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
子供と暴力
│
高 橋 明 彦
﹄、および
﹃イアラ﹄続考
Rôjin
はおよそ三点にまとめられる。
│松本大洋
﹃ 鉄コン筋クリート﹄、楳図かずお
﹃
私の楳図研究も取り敢えずのまとめを行っておく時期にそろそろ入っ
一つ目は、作品内で説明がなされていない部分についてである。まず、
時代や場所が不可解である。時代設定は近未来の日本のような印象を受
̶ 102 ̶
( 53 )
ているので、統一感の無い雑多な印象は否めないと思うが、これまでの
諸論考で述べ切れなかった問題点などを、本稿において補足させていた
ける。が、それは舞台である宝町に立ち並ぶビルなどの持つ雰囲気ゆえ
てピンとこないというわれわれの先入観にも拠っているだろう。しかし
の印象であろう。また、こうした荒れ果てた都会は現在の日本の姿とし
だくことにする。
1.松本大洋﹃鉄コン筋クリート﹄における子供と暴力
一方で、マイケル・アリアス監督のアニメ映画版によって極端に誇張さ
れた、いわゆる昭和レトロな感覚を許容する要因が本原作に読み取るこ
かれていないが、宝町と明記されてはいるし、日本であることも明記さ
︵1︶作品世界
先に﹁ペコの左手アクマの右手﹂と題して、松本大洋﹃ピンポン﹄論
れている。また、登場人物の固有名詞が日本語であり、これはもう日本
とができるような作りにもなっている。とは言え、都道府県名までは書
、 そ の 際﹃ 鉄 コ ン 筋 ク リ ー ト ﹄ 論 を 予 告 し て お い た ま
を執筆したが
し か し、 本 作 の 舞 台 は 近 未 来 の 日 本 な の か、 あ る い は 昭 和 の 日 本 な
が舞台であるとしか言いようがないのは確かである。
題を考えるに際して、松本﹃鉄コン﹄は意義ある比較対象だと考えられ
のか。またはパラレルワールドとしての日本なのか。はたまた一つの寓
まとなっていた。楳図かずおが子供をどのように描いてきたかという問
るので、まず﹃鉄コン﹄を特に子供の生と暴力の問題として考えておき
台設定における座りの悪さは、それらがよくわからないところにある。
話的世界として選ばれ設定されたのが日本だっただけなのか。本作の舞
﹃ 鉄 コ ン ﹄ は、 一 口 に 言 っ て 不 思 議 で 不 可 解 な 作 品 で あ る。 極 端 に
尤も、説明無しで与えられている最も理解しがたい設定は、クロとシ
たい。
幻 想 的 な 要 素 と、 他 方 極 端 に 現 実 的 で 常 識 的 な 要 素 と が 入 り 混 じ っ て
ロが空を飛ぶという点である。なぜ彼らは、そして彼らだけが、空を飛
ファンタジック
いる。まずこのことについて、順を追って確認しておこうと思う。それ
[キーワード]
マンガ(漫画)
1
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
参考文献
東京藝術大学大学院文化財保存学日本画研究室編集﹃図解日本画の伝統と継承
模写・修復 ﹄
̶株式会社東京美術 二〇〇二年
芸術教育の歩み
̶
素
̶材・
﹄
̶東京藝術大学
絵画﹄中央公論社一九九五年
̶
東京藝術大学大学院文化財保存学日本画研究室編集﹃図解日本画用語事典﹄株式会社
東京美術
二〇〇七年
平山郁夫編集委員代表﹃在外日本美術の修復
東京藝術大学 岡倉天心展実行委員会﹃岡倉天心
二〇〇七年
日本美術に捧げた愛と魂の記録
̶
﹄
̶日本アイ・ビー・エム株式会社 昭和五十八
日本テレビ放送網株式会社﹃日本テレビ開局三十周年記念特別番組ボストン美術館物
語
年限定配布
﹃在外 日本の至宝 別冊 解説資料編﹄毎日新聞社
鈴木敬﹁東洋部の絵画﹂
﹃ぎゃらりぃ メトロポリタン美術館美術全集第十一巻︽東洋︾
付録﹄福武書店
一九八七年
ジャン・フォンテーン編集﹃講談社版 世界の美術館 第二十回配本 ボストン美術
館
東洋﹄株式会社講談社
一九六八年
フリーア美術館編集﹃講談社版
世界の美術館
第三十四回配本
フリーア美術館Ⅰ﹄
株式会社講談社
一九七一年
フリーア美術館編集﹃講談社版
世界の美術館
第三十五回配本
フリーア美術館Ⅱ﹄
株式会社講談社
一九七一年
文化庁﹃文化財保護法五十年史﹄株式会社ぎょうせい
平成十三年
謝辞
修復室見学のご許可およびご案内いただきましたボストン美術館アジ
ア修復室ジャッキー・エルガー氏、フィリップ・メレディス氏、ジョー
ン・ライト氏、上田ターニャ氏
フリーア美術館アーサー・M・サック
ラー美術館保存科学部東洋絵画修理室アンドリュー・ヘア氏、上田二郎
氏、樋口恒氏
メトロポリタン美術館大場武光氏、各修復室との連絡に
関しまして多大なご尽力を賜りましたメトロポリタン美術館渡辺雅子氏
本学教授太田昌子先生に深く感謝いたします。
最後になりましたが、行程を共にしてくださいました、現在は修復師
として修業に励む前田優羽さん、在学中の高岡暁さんにもこの場を借り
てお礼申し上げます。
本研究は平成十九年度︵二〇〇七︶金沢美術工芸大学教員奨励研究に
よって行った成果報告である
︵あらき・けいしん 共通造形センター/
材料修復、文化財保存︶
︵二〇〇八年一〇月三一日受理︶
̶ 104 ̶
( 51 )
在外日本美術品、特に絵画に関する保存修復室の現地調査報告 荒木恵信
ての病院であり病室である。特に在外日本絵画は祖国を離れ、慣れない
手術も施さなくてはならない。この例えでいうと修復室は文化財にとっ
6
5
アーネスト・F・フェノロサ︵一八五三∼一九〇三︶米国の哲学者、美術研究家
ウィリアム・S・ビゲロー︵一八五〇∼一九二六︶米国の医学者
エドワード・S・モース︵一八三八∼一九二五︶米国の動物学者
﹄
̶
7
明治期・フェノロサを中心に
̶
電子線や紫外線などを照射して人工的に強度を低下させた絵絹。補
平
̶安時代初期︵八世紀 九
̶世紀︶麻布着彩
作者未詳
鎌倉時代︵十三世紀後期︶紙本着彩
絵巻
作者未詳
奈良時代末
修絹に使用する。
人工劣化絹
山口静一著﹃在外 日本の至宝 別冊 解説資料編﹄毎日新聞社 参照
8 ﹃日本美術の海外移動︵2︶アメリカへの移動
土地で一生懸命働いているのであるから病院である修復室はより安心で
きる場所がよいだろう。つまり在外日本絵画に最も適した環境と道具、
材料が整っていること、そして言葉を話さない在外日本絵画を理解して
あげられる心強い修復師がいることがなによりも重要である。その修復
師にとっても修復室はよりよい仕事をするために機能的で使いやすく、
緊張感の中にも安らぎのある空間でなくてはいけない。各修復室に日本
をつくりだす必要性があるのはこのためであろう。
米国では日本美術の価値は積極的に受け入れられ、巨額な人件費や設
備費などを投じて財産である日本絵画を確実に守り継承している。その
在外日本絵画は日本文化を国外の多くの人々に伝えている。この﹁文化﹂
を我々はどのように受け止めるべきであろうか。発展した既成品だけを
鵜呑みにして根底を既に忘れてしまい、再度、国外から積極的に教えて
もらわなければいけないのだろうか。
註
尾形光琳
︶ 紙本金地着彩
江戸時代︵十八世紀初期 六曲一双屏風
作者未詳
︶ 紙本着彩
平安時代︵十二世紀末 絵巻
チャールズ・L・フリーア︵一八五六∼一九一九︶米国の実業家
作者未詳
藤原時代︵十二世紀︶絹本着色金彩
掛幅
野々村宗達
江戸時代
紙本金地着色
六曲一双屏風
﹃序﹄フリーア美術館館長ジョン・A・ポープ、フリーア美術館中国美術部長トー
マス・ロートン著 フリーア美術館編集﹃講談社版 世界の美術館 第三十四回
配本
フリーア美術館Ⅰ﹄十三ページ
株式会社講談社
一九七一年
参照
と同様
いられないとの説明を受けた。しかしその有害性に関しては不明。
詞 書 に 関 し て は 菅 原 光 重 と 推 定 さ れ、 絵 に 関 し て は 作 者 未 詳
︵一二五七︶紙本着色
絵巻
十三日
フリーア美術館アーサー・M・サックラー美術館保存科学部絵画修理室
尾形光琳
江戸時代
絹本金地着色
六曲一双屏風
見学、十八日
メトロポリタン美術館の東洋絵画修復室︵正式名称は今回確認で
所に和紙を繊維状に戻したものを充填する。
漉填または漉嵌とも書く。古文書や典籍の料紙の修復方法の一つ。料紙の欠損箇
正嘉元年
桐材からは何らかのガスが発生すると認識されているようで、文化財保存には用
17
作者未詳
鎌倉時代︵十三世紀︶絹本着色金彩
掛幅
きなかった︶見学
辻善之助著﹃日本文化史﹄春秋社
画がなかったとはいいきれないが、その数は少数であろう。
が高かったのは現代でいう工芸の分野の品であったため、輸出品のなかに日本絵
十七世紀頃から日本はヨーロッパへ漆器や磁器などを大量に輸出している。需要
21
平 成 十 九 年︵ 二 〇 〇 七 ︶ 九 月 十 一 日
ボ ス ト ン 美 術 館 ア ジ ア 絵 画 修 復 室 見 学、
﹁ SHAIHENS
﹂ ̶
海外でのグループ展の試み ] 参照
1 ﹃金沢美術工芸大学紀要第五十二号﹄
[平成十八年度共同研究報告
十五
2
3
4
22
̶ 105 ̶
( 50 )
9
10
11
12
13
14
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金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
いた造りからなのか大変落ち着きのある安らいだ雰囲気を感じた。板の
間の一画には六人ほどが席に着ける木製のテーブルが置かれており会
議や休憩などができそうである。板の間の広い壁面全体には棚が造り付
けてあり表具裂や和紙などの材料や道具が収納されている。この棚に向
かって左手には小さな部屋が二つあり、棚に向かい合うようにある部屋
は床に水を流せる造りになっており染織にも使用できる。もう一つの部
屋ではパーソナルコンピューターを使用した作業や事務が執り行われて
おり、資料ファイル、書籍、書類などが置かれている。この部屋には小
さな窓がある。この開閉可能な窓の向こう側はなんと板の間の隣にある
作業部屋であり、この窓によって事務部屋と作業部屋とが簡単に情報交
換ができる仕組みになっている︵図⑨︶。作業部屋の出入り口は棚に向
かって右側にあり、部屋の広さは約四十畳もある。出入り口の正面はす
おわりに
図⑪ 絵巻物の補彩作業中であった
ので完成して七年目になる。実際に修理に携わってきたからこそ考案で
この修復室は案内いただいた修復師 大場武光氏のデザインによるも
までも状態よく健康でいられるとよいのだが、時には怪我をしたり具合
収蔵庫などで保管されている状態は休憩中である。文化財も人間もいつ
患者を診る医師のように、修復師も文化財の様子を詳細に観察して、そ
が悪くなったりする。そうなると医師に診てもらわなくてはならない。
文化財が展示活用されている状態は、人間に置き換えると仕事中の状態、
文 化 財 と 修 復 師 の 関 係 は、 患 者 と 医 師 の 関 係 に し ば し ば 例 え ら れ る。
図⑨ 窓の向こうには事務処理をする
スタッフがいる
の原因を探り、悪化しないよう処置し、状態が深刻だと解体修理という
̶ 106 ̶
( 49 )
べて窓になっており、自然光がブラインドと障子風の衝立で調整され、
修復に必要な照度を得ることのほか、本紙の折れなどを確認しやすい側
光としても有効である。この部屋は中程で二つに区切られており、出入
り口に近い箇所は畳が敷かれ装潢台が二台と中国絵画の修理に使用され
る装潢台が一台置かれている︵図⑩︶
。奥は前述の窓で事務部屋と繋がっ
ているところで、床に敷物が敷かれてここにも装 潢台が一台置かれてい
る︵図⑪︶。こちらの壁には大小様々な仮張りやシナベニヤ板が立て掛
けてある。畳を敷いてないのは仮張りやシナベニヤ板を移動させる時に
その角などが畳の目に引っかかる危険を防ぐためであろう。壁には﹁敷
居﹂と﹁かもい﹂が取り付けられており板戸のように仮張りやシナベニ
図⑩ 赤い天板の装潢台では
中国絵画の修復中であった
きる様々な工夫が随所にみられる修復室である。
ヤ板を取り付けられるように工夫されていた。
図⑧ 入り口付近様子。
大場氏が棚をあけている
在外日本美術品、特に絵画に関する保存修復室の現地調査報告 荒木恵信
図⑦ 大学院生が絵具の
分析調査をしていた
図⑤ 作業台が2台あり、その奥が水場
図③ プラスチックの太巻きが使用され、
軸棒の周りに空間が確認できる
図⑥ 向かって奥に畳が敷かれており、
靴を脱いで上がる
図④ 入り口付近の様子
メトロポリタン美術館
東洋絵画修復室
一八七〇年創立のメトロポリタン美術館はニューヨーク市との共同
運営である。所蔵品の多くが寄贈によるもので、日本美術品は十九世紀
末から所蔵され始めている。初期の所蔵品には浮世絵版画も含まれてい
たが、多くは陶器類であり、その後、徐々に浮世絵版画の点数は増えた
ものの日本美術のコレクションとしては分野や時代に偏りが残った。し
かし、一九七五年、ハリー・G・C・パッカード氏の寄贈によりその偏
り は 解 消 さ れ、﹁ 観 音 経 絵 巻 ﹂、﹁ 八 橋 図 ﹂
、﹁ 十 一 面 観 音 補 陀 落 浄 土
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図 ﹂などを含む充実したコレクションが成立する。
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修復室の設置時期は今回訪れた中では最も新しい。スタッフ数は普段
三名だが、プロジェクトによる修復の場合は他に希望者を募る。修復物
件は主に紙や絹を使用した作品で、その多くは中国美術品が占め、この
他に日本やインド、ベトナムなどの作品がある。文書は所蔵されていな
いため﹁すきばめ ﹂はないという。常時約二十件の物件を平行して修
た。 中 に 入 る と そ こ で 靴 を 脱 ぎ、 横 長 に 広 い 板 の 間 に 上 が る︵ 図 ⑧ ︶。
バックルームに入り、その一カ所にある大きな扉から修復室に案内され
複雑に入り組んだ展示室を通り抜け美術館の管理運営などが行われる
修復室内について
年もかかった物件もあった。
いものを入手するのは難しく、適した表具裂が無かったために修復に何
かでも表具裂は重要で、今日では多く生産されなくなったため本当によ
いる。必要な材料や道具は日本で仕入れてストックされており、そのな
力できる。修復内容などは内部資料として取りまとめられて保管されて
ている。また、科学的な調査は研究者によって行われ、必要な場合は協
以上かかる作品や状態が悪いものは基本的には展示をしないこととなっ
復している。学芸員は六ヶ月に一度展示計画を提出するが、修復に一年
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この行為からなのか、天窓から自然光を取り入れ、木材をふんだんに用
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金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
当 初 の 所 蔵 点 数 は﹁ 宝 楼 閣 曼 荼 羅 図 ﹂ や﹁ 松 島 図 屏 風 ﹂ な ど の 名
正式な公開は建造物や内部施設が完成した一九二三年からである。創設
ション﹂に自らのコレクションを委託し、
基金を設立した一九〇六年で、
アが国立博物館などの運営機構である
﹁スミソニアン・インスティテュー
パーソナルコンピューターが備えてある︵図④︶
。事務机の後ろには大
きる。一つは出入り口付近の場所で事務机が数台並べられ、それぞれに
広々とした修理室は、一部屋を作業内容によっておおよそ四つに区分で
奥へ進むと東洋絵画修理室がある。大きな窓から自然光が射込む明るく
品を含む約九千点、その後も二千点以上が追加されている。フリーアの
きな本棚があり、大型図版や日本で開催された展覧会の図録、資料ファ
る。古糊はこの修理室で寒の時期に新糊をつくってねかしてあるそうだ
庫 で、 中 に は 表 具 裂 や 和 紙 の ス ト ッ ク な ど の ほ か 古 糊 も 保 管 さ れ て い
一九五一年に設置された修理室では﹁古代の作家達の手法と材料の研
が、日本と気候の変化が異なるためかよい古糊にするのはなかなか難し
識を増大し、当美術館に委託された美術品をよりよく保存し保護するこ
とを可能にするという、二つの目的 ﹂がある。
映され、とりわけ表具裂の取り合わせにはこのことが現れやすい。修復
際して最初の段階から携わる。そのため修復には日本人の感覚が強く反
修復師には二名の日本人雇用枠が決められており、日本絵画の修復に
約 十 四 枚 敷 か れ、 装 潢 台 が 二 台 置 か れ て い る︵ 図 ⑥ ︶
。案内していただ
覚に分かりやすくするためである。四つ目は小上がりになっており畳が
る︵図⑤︶。この台の天板は赤色と黒色で、これは和紙の湿り具合を視
中だった。この奥の壁には大小様々な仮張りが立て掛けてあり、中には
ものがある。桐材もその一つで、軸装の開閉時に本紙に与える負担を軽
口には塵や埃などを除去するフィルターが独自に取り付けてある。修理
温 湿 度 の 管 理 は 建 造 物 に 既 設 の 空 調 で 行 わ れ、 こ の 空 気 の 吹 き 出 し
完成間近の物件が張り込まれているものもあった。
減する太巻きや保存用の収納箱には国内では桐材を用いるが、米国では
室の一画にある水場も整理され、刷毛や補彩道具などが整然と並べられ
クの板を筒状にして弾力の強弱を加減したもの︵図③︶
、収納箱には中
ている。この修理室の隣には中国絵画の修理室があり、互いの表具形式
ている。修復に用いる水に関しては全て水道水を純水に浄化して使用し
ショップも実施され、前述の目的に合ったすばらしい環境である。
から物件の考察が可能である︵図⑦︶。和紙や料紙などに関するワーク
る。また、科学分析の専門スタッフや機器も充実しており、様々な視点
性紙を利用して温湿度を管理する工夫が凝らされ、日本人と米国人双方
チを受け取り、様々な修復室や科学分析機器が並ぶ研究室の間の廊下を
美術館内の一画にある扉が出入り口である。守衛から来訪者用のバッ
修理室内について
全に展示替えができる機能を備える配慮もされていた。
や修復の差異などについて修復師同士が考察する機会をもつことができ
敬遠されている
。そこで日本人修復師により太巻きにはプラスチッ
日本人には馴染みの深い材料でも国外では認識の違いから敬遠される
積極的に参加できる体制が整えられている。
いたときはここにライトテーブルを設置して肌裏打ちを除去している最
る。三つ目は床に直接作業台が二台置かれており立ったまま作業ができ
いという。実際に物件に触る修復作業が行われるのは次からの場所であ
究を進めて ﹂おり、
﹁この仕事は、アジアの技術師に関する我々の知
賞できない。
イルなどが収まっている。二つ目はこの本棚の裏側の壁で仕切られた倉
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意思によりコレクションの貸借は堅く禁じられているためここでしか鑑
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師たちは年に一回以上、研鑽を積むための出張が許可され、学会などに
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が理解し合えると同時に、軸装の取り扱いに慣れていない学芸員にも安
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在外日本美術品、特に絵画に関する保存修復室の現地調査報告 荒木恵信
作品の貸借に関する事項は全て修復室のスタッフで行うことになって
合はそこに通した紐で輪をつくりフックに掛けるのだが、ここではフッ
ける箇所がある︵図②︶。刷毛の柄には丸い穴が開いており、多くの場
道水と浄水器を通した水とに区別されている。水場の上方には刷毛を掛
おり日本への出張も多く、情報交換や修復の材料や道具の調達ができる
ク自体が刷毛の柄の穴に合わせてあるので紐が要らない。実際に紐があ
資金調達ができないと停滞する恐れがある。
利点はあるが、これによっても修復の仕事を一時停滞せざるを得ない場
る刷毛を使うと持ち手の邪魔になることがあるためこれはなかなかよい
温湿度などの環境について尋ねると、建造物の構造上展示室と繋がっ
合があるという。材料や道具の調達に関しては日本や中国から取り寄せ
もある。予算がある時には和紙などできるだけ多く購入して棚にねかせ
ているために観覧者数で湿度の変化が少々生じるほか、海に近いことも
方法である。
ておき、状態の良いものを使えるようにしている。一方、現地で調達で
影響があると考えられるとのことだった。修復室が広すぎると空調の制
るものもあれば、表具裂のように日本の修復師と協力して購入するもの
きるものや現地でも行える加工はそれを活かしたいと考えており、人工
な大きな影響はないものと思われる。この空間の中に修復に必要な多種
御が難しくなるが、ここは程よい広さであることから問題視されるよう
美術館のホームページでは作品ファイルや陳列に関する歴史のほか、
多様な道具が配置よく整理整頓して納められており、こぢんまりとした
劣化絹に関しては現地で加工できる可能性が高いという。
修理報告も閲覧できる。詳細な情報まで掲載されるよう配慮され、より
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居心地のよい雰囲気である。
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開かれた美術館、修復室を目指している。
修復室内について
片開きの厚い扉を開くと幅約一メートル、長さ約六メートルの廊下が
続く。片側の壁面全てに造り付けの棚がはめ込まれており、表具裂や和
紙のストック、見本帳が棚いっぱいに整理されている。廊下を抜けると
修復作業場が広がる︵図①︶。突き当たりの室内全体を見渡せる一画に
は修復師が事務処理や打ち合わせを行う席を設けてあり、書籍やパーソ
ナルコンピューターなどが整理されて置かれている。実際に物件を扱う
場所の中央には畳を約十四枚敷き、そこに寸法四尺×八尺の装潢台が二
台置かれている。それぞれの台上には修復中の物件がのせてあった。畳
フリーア美術館アーサー・M・サックラー美術館
敷きの奥の床には立ったまま使用できる大きな机があり、この卓上では
版画の修復を行っている最中であった。照明は天井の固定照明のほか、
フ リ ー ア 美 術 館 は 日 本 美 術 を 愛 好 し た チ ャ ー ル ズ・ L・ フ リ ー ア
保存科学部絵画修理室
も設置されている。仮張りも天井から吊せるように工夫され空間を上手
が高い審美眼で蒐集した膨大なコレクションを所蔵する。創設はフリー
図② 水場と刷毛干場
く利用している。修復に使用する水は当然のことながら用途によって水
手元をより明るく照らしたり測光にしたりもできる吊した形状のライト
図① 室内様子
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
⑾ 補絹 本紙欠損箇所にその形と同じ形に切り出した人工劣化絹
をしっかりと貼り込む。本紙と同種で強度も同様の絹を用いる。
⑿ 補彩︵一回目︶ 補絹を施した箇所に作品の地色と同じ色調の色を
さす。この時点では濃くなりすぎない様にする。また、制作当初を
止める箇所への加筆は厳に慎む。
⒀ 表具裂の調整と肌裏打ち 表具裂をはじめ旧表装材料の再利用を検
討し、新調するものに関しては本紙に合わせて調和のとれた取り合
わせを検討する。表具裂にも肌裏打ちを行う。
⒁ 増し裏打ち 本紙と表具裂双方の厚みや柔軟性の調整のため、それ
ぞれに適した裏打ち紙を用いて行う。
⒂ 折 れ 伏 せ 折 れ の 再 発 や 悪 化 を 防 止 す る た め、 本 紙 裏 面 に 折 れ に
沿って細く切った和紙を貼って補強する。
各修復室について
前置きが長くなってしまったが、以下、見学した修復室の様子を記し
たい。まずどの修復室にも共通していることは、日本で経験を積んだ修
復師がいることと、日本の修復室の雰囲気と大きな差異がないことがあ
げられる。修復室に案内いただき中へ入るとそこには日常的な日本が広
がり、帰国したような錯覚を感じたくらいだ。しかしながら、当然そこ
は米国であり、その様な空間を創り出す必要性があるものと考えられる。
ボストン美術館アジア絵画修復室
一八七六年創立のボストン美術館に日本美術品が充実するの
は、一八九〇年新設の日本部初代部長にフェノロサが就任した頃からで
ある。収蔵品には﹁法華堂根本曼陀羅 ﹂や﹁平治物語絵巻︵三条殿焼
討 の 巻 ︶ ﹂、﹁ 浜 松 図 ﹂ を は じ め と す る 貴 重 な 作 品 を 含 む、 フ ェ ノ ロ
10
ろである。
ンなどがある。 ま た、﹁吉 備大 臣 入 唐 絵 詞 ﹂ の 所 蔵 も 関 心 の 高 い と こ
サ=ウェルドコレクションやビゲローコレクション、モースコレクショ
12
紀初期である。当初は日本美術品が中心であったが、現在はアジア一帯
の掛軸や巻子、屏風、版画、冊子など様々な物件を扱う。美術館にはこ
のほか西洋絵画やデッサン、染織品や家具など様々な美術品に応じた修
復室と、科学分析ができる設備がある。
修復に関わるスタッフは約七十名でそのうち約三十名は修復師、その
他は大学出身のアーティストやインターンシップなどである。アジア絵
画修復室では各国の作品に応じるため約六名の人員配置をすすめている
が、現段階では三名で対応しているという。修復の物件が決まるのは、
美術館が九ヶ月ごとに展示替えを行うのでこれに応じる場合や、緊急を
要するものはその都度、また、大々的な修復プロジェクトによって行う
場合もある。全ての修復は寄付金など外部資金でまかなわれているため、
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修復室が設立されたのは、岡倉天心が同美術館学芸員就任中の二十世
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⒃ 切り継ぎ 本紙と表具裂を寸法に合わせて断ち、各々を糊で継いで
掛軸の形態にする。この後、中裏打ちを行う場合もある。
⒄
総裏打ち 掛軸全体の裏面を平滑にして、開閉時に本紙にかかる負
付くものではないことが理解できよう。
承されていくのであり、必要とされる知識や技術は誰にでも簡単に身に
以上の様に非常に多くの工程を経て文化財は慎重に修復され、永く継
収納 太巻きや収納箱などを必要に応じて用意する。
完成後の記録 修理後の写真撮影、報告書などを作成する。
⒇
仕立て 軸棒、八双、風袋、軸首、紐などを取り付け仕上げる。
⒅
返し張り 仮張りから外し、裏摺りを行い、再度仮張りにかける。
⒆ 補彩︵二回目︶ 作品と補彩箇所のバランスを確認しながら行い完
成させる。
仮張りにかけて十分乾燥させる。
担を軽減させるための裏打ち。上巻絹や軸助けも貼り込む。この後、
9
在外日本美術品、特に絵画に関する保存修復室の現地調査報告 荒木恵信
作品の物質的変化を予測できない作り手は技量がないのと同じといえる。
表装と修復
日本絵画は本紙だけの﹁まくり﹂の状態では脆弱であり鑑賞するにも
保存するにも適さない。そこで軸装や屏風、和額装などに仕立てられる
ことで強度を加えられ用途に供する。仕立てられた本紙は表装とともに
温湿度の変化で伸縮し、画面に定着している膠もその変化に呼応するよ
うに作用して絵具の剥落や画面の崩壊を防いでいる。これは日本の風土
に適した﹁モノ﹂のありようであり、制作のありようでもある。このこ
とは古くから継承されてきている日本絵画自体が証明している。
前述の︿日本の風土に適した﹁モノ﹂のありよう﹀には﹁修復﹂も含
まれる。表装は脆弱な基底材に強度を付加しているのだが、基本は糊で
和紙を何重にも貼り合わせた構造であり、いつまでも現状を維持できる
わけではない。本紙を保護しながら表装自体も劣化が進むのである。し
かし、糊には可逆性があり、水分を与えることで裏打ち紙である和紙を
すべて除去でき、本紙をまくりの状態にして新たな表装に仕立て直せる
のである。これにより、この時点の本紙に最適な強度が付加されて再び
作品は受け継がれていくのである。
表装の修復もそうであるが、本紙の修復についても豊かな知識と柔軟
な発想力そしてなにより豊富な経験が不可欠である。作品はそれぞれ異
なった表現がされておりこれに伴う技法もひとつひとつ異なる。基底材
の加工や地塗りの施法、膠水の濃度や絵具の溶き方、彩色では発色を考
りかたもひとつとして同じものがない。
修復は様々な要因が複雑に組み合わさった本紙を読み解き、倫理にも
沿った改善を求められる大変責任の重い保存方法なのである。修復工程
の具体例として絹本着彩画、掛軸の場合を以下に記述する。
⑴
修復方針の検討 修復物件の現状を詳細に確認して所蔵者、修復担
当者、関係監督者などで修復の方針や計画を検討決定する。次工程
の結果も踏まえることでより安全な修復を実行できる。
⑵ 修復前の記録・調査 修復前の状況を調査、記録する。写真撮影で
は、本紙の折れの状態を明瞭に撮影できる測光写真撮影も行う。欠
損地図や損傷地図を作成する。
⑶ 解体 本紙から表装を切りはなす。旧表装の中には表具裂や軸首な
ど検討によって再利用される材料もある。
⑷ 本紙の剥落止め︵一回目︶ 次工程のクリーニングで本紙に湿りを
与えるため、これにより剥落の恐れがある箇所を低濃度の膠水など
で接着する。
⑸ クリーニング 本紙に付着している汚れや不要物を本紙に湿りを与
え、吸い取り紙を利用するなどして取り除く。
旧肌裏打ち紙除去に際して、本紙表面や裏彩色を保護する
⑹ 本紙の剥落止め︵二回目︶ 使用する膠の種類や濃度に配慮して絵
具に必要な接着力を補強する。
⑺
表打ち
ために本紙表面に養生紙を布海苔で貼る。
⑻ 旧肌裏打ち紙除去 肌裏打ち紙に湿りを与え、
少しずつ剥がしとる。
この時、裏彩色まで取り去ることがないよう配慮し、必要に応じて
記録、撮影をする。損傷の程度によっては肌裏打ち紙を剥がさない
慮した重色や混色の方法などどれも一様ではない。また、同一の画家の
作品であったとしても画家は作品に求める表現内容によって技法を変化
こともある。
⑽
表打ちの除去
布海苔を除去しながら表打ちを剥がしとる。
⑼ 肌裏打ち 本紙裏面に直に貼り合わせる肌裏打ち紙は、本紙表面の
色調に多大な影響を及ぼすため修復方針に則って慎重に選択する。
させるため、技法の上では全く異なった作品といえる。さらに、本紙に
は経年変化や保存環境によって様々な要因が加えられる。例えば、基底
材や膠の物質としての強度の低下、絵具の変退色、虫・黴害、取り扱い
による人為的な負荷による剥落や劣化、損傷などがあり、これらの加わ
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金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
せる。
が、大筋は以下の通りであろう。
また、松や菜種油を燃やした煤を膠で練り固めた墨、天然に産出される
麗な質感が漂い、そこには既に崇高な空間が存在するかのようである。
絹、檜や杉を加工した壁扉、これら基底材の表面には神々しい光沢と流
木の繊維を細かく叩解して流し漉きした和紙や平織の生絹からなる絵
的な材料には画家の利便性を追求するような変化は見受けられない。樹
潔にしようと試行錯誤を繰り返すものである。しかし、日本絵画の基本
れる。しかし、明礬は酸性であることから濃度の高すぎるドーサ液は基
ることで、滲み止めのほかに膠の凝固作用や防腐作用などの効果も得ら
質からなる膠を水で溶かした接着剤︶を加えたドーサ液を画面に塗布す
礬水に膠水︵動物の皮などを煮詰めて抽出したコラーゲンや動物性蛋白
り、最も用いられている加工法はドーサ引きである。ドーサ引きとは明
類の基底材を用いるにしてもたいていは滲み止めの加工を施す必要があ
大下図を写すまでに基底材を用意しておかなければならない。どの種
まず、主題を決める︵発注者の要望の場合もある︶。次に手本となる
鉱石や土を細かく砕いて水篩した顔料、動植物から得られる染料など自
底材の劣化を早めるものと考えられる。このほかの滲み止めの方法とし
日本絵画には千数百年以上の長い歴史がある。この間に中国や韓国を
然界から生み出される色素は人間にはつくり得ない色調を呈し、特に、
ては和紙では打ち紙、絹では砧打ち、木材では漆の塗布があげられる。
粉本や写生などを基に本画よりも小さな画面の﹁小下図﹂を作り、構図
サラサラとした粒子を伴う岩絵具には圧倒的な存在感がありこれ自体
大下図の転写は、滲み止めした基底材にそのまま写す場合や、地塗りや
経由して日本に伝えられた美術的文化を吸収し、それらを様々な形で日
が作品といっても過言ではない。現在にも受け継がれているこれら材料
箔を押した後に写す場合など様々である。顔料や箔自体には接着力がな
や図像の形、配置、配色、雰囲気を十分に検討する。その後、本画と同
には素朴とも言える普遍性があり、そこに備わる多くの魅力は日本人の
いため膠水を必要とする。この濃度が低いと接着力が弱く、画面に絵具
本独自の﹁モノ﹂へと発展させてきた。このことは美的表現のみならず
感性からは何ものにも代え難く、仏画や縁起図など想像を具現化するに
を定着できない。濃度が高すぎると膠層が絵具層を覆い発色を妨げて色
じ寸法の﹁大下図﹂を作成して細部の微調整を入念に繰り返す。﹁大下図﹂
も、四季絵や風俗画など自分たちを取り巻く風土を表現するにも最適な
調を鈍らせたり、乾燥時の収縮により絵具を剥落させたり、時には画面
表現するために用いられる道具や材料についても同様であろう。人間は
効果を生み出した。その作品は各々の生活の中にしっくりととけ込み、
を引き裂いてしまうこともある。紙本は画面の表面にのみ描くのが主流
が決定したらこれを透き写しや念紙で基底材に写しとる。
時代と共にさらに馴染んでいったのではないだろうか。この魅力は今な
だが、絹本は裏彩色や裏箔と称される特徴的な技法があり、画面の裏面
使用するものを風土に適合させ、自らにとって便利で扱いやすくより簡
お我々を魅了し続けている。
明治時代以前に制作された日本絵画にはこのような材料的特徴があ
に彩色や箔を押して絹越しに表面に表れる効果を利用して表現する。
を扱う画家には大変高度な技術が要求され試練が課せられる。しかしな
る。現代はパルプを主原料としながらも﹁和紙﹂と称した紙や様々な種
一方、自然界から直接得られる材料は最も素朴であるがゆえにこれら
がら、私には扱いの難しさから容易には思うような表現ができないこの
作されたものも見受けられる。その様なものには今後どのような経年変
類の人造絵具、化学合成の接着剤が氾濫しており、これらを乱用して製
この様な材料を用いての制作工程は、絵所や各派の工房、絵仏師や絵
化が現れ、どのような修復が求められるのであろうか。そもそも自己の
手厳しい試練さえも魅力のひとつに感じられるのである。
師、画家個人による差異や工房での分業化に伴う差異なども考えられる
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在外日本美術品、特に絵画に関する保存修復室の現地調査報告 荒木恵信
、 特 に、 明 治 時
下、在外日本絵画︶
。これら在外日本絵画のほとんどは、日本が外交を
野派、淋派、肉筆浮世絵、浮世絵版画など多くの絵画も含まれている︵以
美術についてのより深い理解力と高い鑑識眼を希求、修得し、研究者と
これを蒐集し始める。研究熱心で政府から高額な収入を得る彼らは日本
日本人の概念にはない﹁ art
﹂としての価値基準から日本美術品を認め、
しての能力を猛烈に発揮して古美術商や生活のために家宝を手放さざる
展開する江戸時代後期から徐々に国外へ持ち出され
代にはボストン美術館やフリーア美術館が所蔵するような系統的でまと
を得ない所蔵者などから次々と購入し、自らのコレクションを充実させ
、フェ
まりのあるコレクションが成立するほど膨大な点数にのぼる。これには
やビゲロー
た。そうして蒐集品と共に帰国した彼らは日本美術の普及活動に努めて
新 た な コ レ ク タ ー を 開 発 す る の で あ る。 モ ー ス
江戸幕府から明治政府への政権交代に伴う政府による日本人への意識改
革と世界の動向が大きく影響している。
な ど は そ の 最 た る 人 達 で あ ろ う。 こ の 三 名 の 蒐 集 品 の 多 く は
ボストン美術館に収蔵されたのだが、一九七〇年の日本絵画の点数だけ
。
を否定して西洋文化を賞賛し、積極的に受け入れることをよしとする気
ノロサ
6
をみても絵画五千点、浮世絵版画六万点を数える
当時国内では明治維新により日本旧来の学問や思想、風俗、習慣など
5
運が高まっていた。さらに、慶応四年︵一八六八︶神仏分離令布告によ
7
焼却され、別のものは雨ざらしの中に放置され、また別のものは二束三
は国宝や重要文化財に指定されるような仏像や仏画、経巻があるものは
るためだけに焼却されそうになったことが生々しく伝えている。現在で
興福寺五重塔が明治初年の入札により金二十五円で落札され、金具をと
歴史的遺産を手放すことに賛同する事態を助長した。その混乱の様子は、
る廃仏毀釈がこれに拍車をかけ、日本人自らが自我のよりどころである
伏の混乱期にも多くの日本絵画が日本を離れていったのではないだろう
画が国外に渡ったか計り知れない。さらには、第二次世界大戦無条件降
︵一九三五︶に制定されるまでの三十八年間でどれほどの点数の日本絵
美術品を流出から守る﹁重要美術品等ノ保存ニ関スル法律﹂が昭和八年
移動をくい止める措置を講じた。しかしながら、国宝以外の重要な日本
年︵ 一 八 九 七 ︶ 古 社 寺 保 存 法 を 定 め、 国 宝 に 指 定 さ れ た 美 術 品 の 国 外
明治政府は﹁輸出﹂は奨励するが﹁流出﹂は禁止するとして明治三十
させ、旧権力者を困窮に陥らせ、所蔵する美術品を手放さざるを得ない
廃藩置県など近代国家の早期樹立を目指す政策は新旧権力の交代を促進
年︵一九五〇︶﹁文化財保護法﹂成立により廃止されたが、重要美術品
か。興味深いことに﹁重要美術品等ノ保存ニ関スル法律﹂は昭和二十五
一方、西欧では十九世紀半ばから明治四十三年︵一九一〇︶頃まで日
に保存されているからであり、そして何より日本文化を守り、世界に広
的で意味を持たない。現在もこれらの作品を鑑賞できるのはそこに大切
多くの日本美術品が国外に渡ってしまい寂しいことだと思うのは短絡
本美術ブーム﹁ジャポニズム﹂が沸騰して日本絵画の需要が高まってい
れたことがわかる。このことから保存修復に重要な材料的特徴を見いだ
﹁在外日本絵画の誕生﹂からその作品の多くは明治時代以前に制作さ
在外日本絵画の材料と制作工程
めてくれてもいるのである。
市場は様々な日本美術品で溢れていたのである。
の指定は今なお効力を有し、その国外輸出、移出は禁止されている。
文の値で売りに出されたのである
。 ま た、 明 治 四 年︵ 一 八 七 一 ︶ の
8
た。これに対して明治政府は現地で人気の高い浮世絵版画をはじめ様々
な日本美術品を積極的にそして大量に輸出する。そこには新たにつくら
れた商品以外の輸出品、つまり国内の市場に出回る日本絵画も当然存在
していた。
他方、欧米では明治政府に招聘されたお雇い外国人たちが、この頃の
̶ 113 ̶
( 42 )
3
状況へとさせた。藩主の屋敷に代々伝わる家宝も次々と売りに出され、
4
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
があるのではないだろうか。
在外日本美術品、特に絵画に関する保存修復室の現地調査報告
はじめに
荒 木 恵 信
日本絵画の保存修復室︵以下、修復室︶を実際に現地で見学することを
本調査では私がこれまで一度も機会に恵まれてこなかった国外にある
れに出品するため絹本着彩画を二点制作し、現代にも生きる日本文化の
目的とした。国内からの視点ばかりに偏ってしまっていた自らに国外か
。こ
ひとつとしての意味も込めてそれぞれ掛軸に仕立てることを検討した。
らの視点を付加させることで文化財保存についての新たな考察が展開さ
平 成 十 八 年︵ 二 〇 〇 六 ︶ ス ペ イ ン に て グ ル ー プ 展 を 開 催 し た
検討の中で最も危惧していたことは展示会場や輸送用梱包内の作品を取
れることを期待したのである。
訪れた行程
の 順 に ボ ス ト ン 美 術 館 ア ジ ア 絵 画 修 復 室、 フ リ ー ア 美 術
見学の許可をいただいたのは当初より予定していた三つの修復室で、
り巻く保存環境であった。随分と迷っていたのだが結局二幅の掛軸は仕
立てあがってスペインへ渡り、会期を終了してまた日本へ戻ってきた。
覚悟はしていたが少々表具裂がはずれている箇所があった。日本美術品
館アーサー・M・サックラー美術館保存科学部絵画修理室、メトロポリ
以下、修復室を考察する上で必要と思われる事項、﹁在外日本美術品
と日本国外︵以後、国外︶の気候との調整の難しさは文献資料や学会報
れた。残念ながら私は会場へ赴くことはできず仕舞いで、実際の環境を
の誕生﹂
、
﹁在外日本絵画︵後述︶の材料と制作工程﹂
、
﹁表装と修復﹂に
タン美術館の東洋絵画修復室である。
確かめられなかったものの、国外での作品展示や輸送に関して考察する
ついて簡単に記した後、現地調査について報告したい。
告などで伺い知ってはいたが、想像以上に過酷であることを実感させら
よい機会となった。これと同時に、在外日本美術品の保存についてもこ
れまで以上に考えを巡らすこととなった。
日本の土壌で日本人が創造した様々な種類の美術品の中には、文化の
在外日本美術品の誕生
の日本絵画が所蔵されており、それらはそれらに存在する美術的価値や
異なる国の人々に受け入れられて国外で所蔵されるものがある。それら
日本とは風土の異なる国々に設置されている博物館や美術館にも多く
歴史的価値など様々な文化価値を損なわれることなく、展示、鑑賞され
は包括して在外日本美術品と総称される。その中には仏画や大和絵、狩
[キーワード]
文化財 修復 在外日本美術品
2
ている。そこには日本国内︵以後、国内︶とは異なる﹁保存﹂のあり方
̶ 114 ̶
( 41 )
1
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
一三三、金箔、不明、ドイツ、ペータードレッシャー、八〇ミリ、切紙にあかしてある。
一三四、錫箔、中塚金属箔粉工業、一二七ミリ
一三五、真鍮箔、不明、ドイツ、ペータードレッシャー、八〇ミリ
一三六、金箔、ミャンマー、シュウェ・ニン
一三七、錫箔、断切、打放し、今井金箔、特注、〇・九ミクロン
一三八、錫箔、断切、打放し、今井金箔、特注、三・五ミクロン
一三九、金上澄、一号色、今井金箔より購入
一四〇、金上澄、四号色、今井金箔より購入
一四一、金箔、四号色、厚箔、五倍厚、断切、今井金箔、一五〇ミリ
一四二、金箔、四号色、厚箔、四倍厚、断切、今井金箔、一五〇ミリ
一四三、金箔、四号色、厚箔、三・五倍厚、断切、今井金箔、一五〇ミリ
一四四、金箔、三歩色、厚箔、五倍厚、断切、今井金箔、一五〇ミリ
一四五、金箔、四号色、厚箔、四倍厚、断切、今井金箔、一五〇ミリ
一四六、金箔、四号色、厚箔、三・五倍厚、断切、今井金箔、一五〇ミリ
一四七、金箔、三歩色、縁付、今井金箔、一〇九ミリ
、縁付、高岡製箔、一〇九ミリ
24k
一四八、金箔、水色、縁付、今井金箔、一〇九ミリ
一四九、金箔、
一五四、金箔、
一五三、金箔、
一五二、金箔、
一五一、金箔、
、断切、箔一、一〇九ミリ
18k
、断切、箔一、一〇九ミリ
21k
、断切、箔一、一〇九ミリ
22k
、断切、箔一、一〇九ミリ
23k
、断切、箔一、一〇九ミリ
24k
一五〇、純金プラチナ箔、縁付、高岡製箔、一〇九ミリ
一五五、金箔、
一五六、パラジウム箔、今井金箔、一一二ミリ
一五七、金箔、梅色、断切、高岡製箔、一〇九ミリ
︵四八時間後︶
付記
本論文は平成二〇年度発展研究の成果である。
註
1
2
チェンニーノ・チェンニーニ、辻茂編﹃絵画術の書﹄
、 五八、五九、九五
岩波書店、一九九一年
九七頁、
̶
3DPHOD +DWFKÀHOG 5LFKDUG 1HZPDQ¶$QFLHQW (J\SWLDQ *LOGLQJ 0HWKRGV·
報告書﹃金箔接着剤の研究﹄金沢美術工芸大学美術工芸研究所、二〇〇二年
SSµ*LOGHG:RRGµ6RXQG9LHZ3UHVV
3
報告書﹃世界の金箔総合調査﹄、七九 八
金沢美術工芸大学美術工芸研究所、
̶ 四頁、
芸研究所、二〇〇一年
山本元﹃表具の栞﹄二五三
二
̶ 五六頁、芸艸堂、一九七八年
報告書﹃世界の金箔総合調査﹄
、七一、七二、七六頁、金沢美術工芸大学美術工
二〇〇一年
4
5
6
︵てらだ・えいじろう 共通造形センター/絵画組成︶
︵二〇〇八年一〇月三一日受理︶
̶ 116 ̶
( 39 )
ミッショーネの研究 寺田栄次郎
一〇三、金箔、
一〇二、金箔、
一〇一、金箔、
一〇〇、金箔、
九九、金箔、
九八、金箔、
九七、金箔、
九六、金箔、
九五、金箔、
九四、金箔、
九三、金箔、
九二、金箔、
九一、金箔、
九〇、金箔、
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Blanc
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Gris
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Capalin
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Jaune Vif
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Perse
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Règence
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Jaune AD
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
1 /2 Citron
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Rouges
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Versailles
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Supéieur31
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Supéieur23
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Supéieur20
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、八〇ミリ
Supéieur17
フェストナー、ドイツ、シュバーバッハ
PDgold
八〇ミリ
ドーヴェ、フランス、エクセヌヴェクス、九三ミリ
Argent
ド ー ヴ ェ、 フ ラ ン ス、 エ ク セ ヌ ヴ ェ ク ス、 八 〇
Paradium
一〇四、金箔、
一 〇 五、 パ ラ デ ィ ウ ム 箔、
一〇六、銀箔、
、 24Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇ミリ
Turmgold
ミリ
一〇七、金箔、
、 23.75Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、
Rosenobel-Doppelgold
、 23.75Karat
、 ド イ ツ、 ゲ ル ス テ
Turmgold Drei-Kronen Gold Platin
一〇八、 金箔、
八〇ミリ
一 〇 九、 金 箔、
ンデルファー、八〇ミリ
一 一 〇、 金 箔、 Rosenobel-Doppelgold
、 23.5Karat
、 ド イ ツ、 ゲ ル ス テ ン デ ル フ ァ ー、
八〇ミリ
一一一、金箔、 Altgold-Doppelgold Dunkel
、 23.25Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、
八〇ミリ
一一三、金箔、
、 23Karat
、 ド イ ツ、 ゲ ル ス テ ン デ ル フ ァ ー、
Dukaten-Doppelgold
、 23Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇ミリ
Rotgold
一一二、金箔、 Palastgold
、 23Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇ミリ
一 一 四、 金 箔、
八〇ミリ
一 一 五、 金 箔、 Asamgold Speziallegierung
、 22.75Karat
、 ド イ ツ、 ゲ ル ス テ ン デ ル
ファー、八〇ミリ
、ドイツ、ゲルステ
22.5Karat
一一六、金箔、 Feinstes Polier-Doppelgold
、 22.75Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、
、
Orange-Doppelgold ÅSpezialµ Dunkel
八〇ミリ
一一七、金箔、
、 22.5Karat
、ドイツ、ゲルステンデル
Orange-Doppelgold ÅSpezialµ
ンデルファー、八〇ミリ
一 一 八 、 金箔、
ファー、八〇ミリ
一一九、金箔、 Dunkelorange Doppelgold
、 22Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、
八〇ミリ
一 二 〇、 金 箔、 Orange Doppelgold
、 22Karat
、 ド イ ツ、 ゲ ル ス テ ン デ ル フ ァ ー、
八〇ミリ
一二一、金箔、 Dunkelorangegold
、 22Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇
ミリ
、 21Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇ミリ
Gelbgold
一二二、金箔、 Orangegold
、 22Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇ミリ
一二三、金箔、
一二四、金箔、 Dunkel-Citrongold
、 20Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇
一二九、金箔、
一二八、金箔、
一二七、金箔、
一二六、金箔、
一二五、金箔、
、 6Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇ミリ
Weißgold
、 12Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇ミリ
Weißgold
、 15.3Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇ミリ
Hellgrüngold
、 16.7Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇ミリ
Grüngold
、 13.25Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八四ミリ
Weißgold
、 18Karat
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇ミリ
Citrongold
ミリ
一三〇、金箔、
、︵
Mondgold
一一〇にプラチナの入ったもの︶、ドイツ、ゲルス
No.
一三一、金箔、
テンデルファー、八〇ミリ
く黄色味の強いもの、通常のもの、裏側を貼りあわせる。
、 ド イ ツ、 ゲ ル ス テ ン デ ル フ ァ ー、 八 〇 ミ リ 焼 け が ひ ど
Zwischgold
一三二、 Zwischgold
、ドイツ、ゲルステンデルファー、八〇ミリ
︵一三二
二
︶
̶ ̶ 117 ̶
( 38 )
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
四〇、三号色﹁つ﹂
、縁付、今井金箔、一〇九ミリ
三九、四号色﹁け﹂
、縁付、今井金箔、一〇九ミリ
三八、四号色別上二枚掛︵四寸二分︶
、縁付、作田金銀製箔、一二七ミリ
三七、一号色厚打三枚掛、縁付、作田金銀製箔、一〇九ミリ
三六、四号色厚打三枚掛、縁付、作田金銀製箔、一〇九ミリ
三五、四号色平押用一枚半掛、縁付、作田金銀製箔、一〇九ミリ
三四、一号色特厚︵釉裏金彩用︶
、断切、作田金銀製箔、一〇九ミリ
三三、プラチナ箔、断切、作田金銀製箔、一〇九ミリ
三二、定色金箔、縁付、安江金箔店、一〇九ミリ
三一、三歩色金箔、縁付、安江金箔店、一〇九ミリ
三十、四号色金箔、縁付、安江金箔店、一〇九ミリ
七〇、銅箔、断切、森荘︵名古屋︶にて購入、一二七ミリ
六九、アルミ箔、断切、作田金銀製箔、一二七ミリ
六八、黒箔、断切、作田金銀製箔、一二七ミリ
六七、赤貝箔、断切、作田金銀製箔より、一二七ミリ
六六、赤貝箔、断切、今井金箔、一二七ミリ
六五、玉虫箔︵青貝箔︶、断切、作田金銀製箔、一二七ミリ
六四、光陽箔、B、墨色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
六三、光陽箔、B、濃ブルー、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
六二、光陽箔、B、サックス、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
六一、光陽箔、B、せいじ色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
六〇、光陽箔、B、青竹色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
ソ
̶ ウル︶一〇九ミリ
七三、中金箔︵純銀箔︶、断切、今井金箔 一二七ミリ
七二、金箔、断切、韓一金箔︵韓国
七一、金箔、断切、東洋金箔︵韓国 ソ
̶ ウル︶一〇九ミリ
̶ 、断切、作田金銀製箔、一〇九ミリ
四一、純金プラチナ箔、断切、高岡製箔、一〇九ミリ
四二、御幸箔G
四三、御幸箔G 5
̶ 、断切、作田金銀製箔、一〇九ミリ
五五、光陽箔、B、濃朱色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
五四、光陽箔、A、濃紫、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
五三、光陽箔、A、ブルー、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
五二、光陽箔、A、濃サックス、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
五一、光陽箔、A、納戸色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
五〇、光陽箔、A、新橋色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
四九、光陽箔、A、黄味青竹、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
四八、光陽箔、A、金茶色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
四七、光陽箔、A、紫色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
四六、光陽箔、A、朱色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
四五、光陽箔、A、赤色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
八六、金箔、
八五、金箔、
八四、金箔、
フェストナー、ドイツ、シュバーバッハ
3 1/2/16
八〇ミリ
フェストナー、ドイツ、シュバーバッハ
22 1/2Kar.
八〇ミリ
フェストナー、ドイツ、シュバーバッハ
23Kar.
八〇ミリ
フェストナー、ドイツ、シュバーバッハ
23 3/4 Kar.
八〇ミリ
八三、金箔、 24Kar.
フェストナー、ドイツ、シュバーバッハ
八〇ミリ
八二、金箔、インド、パンミ・シャーテル方
八一、アルミ箔、中国、南京金箔集団公司
一四〇ミリ
八〇、銀箔、中国、南京金箔集団公司
一〇〇ミリ
七九、銀箔、中国、南京金箔集団公司
一〇〇ミリ
七八、金箔、七
七七、金箔、九 八
̶ 金、中国、南京金箔集団公司 九三ミリ
七六、銀箔、ドゥーサディ、タイ、チェンマイ
四八ミリ
七五、金箔、アチラ、タイ、バンコク 三六・五×四二・五ミリ
七四、金箔、ドゥーサディ、タイ、チェンマイ
三八・五ミリ
五六、光陽箔、B、ピンク、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
八七、金箔、
1
̶ 、断切、作田金銀製箔、一〇九ミリ
五七、光陽箔、B、牡丹色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
八八、金箔、 3 1/2/16
フェストナー、ドイツ、シュバーバッハ
八〇ミリ
四四、御幸箔A
五八、光陽箔、B、三歩色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
八九、金箔、 Rotgold
フェストナー、ドイツ、シュバーバッハ
八〇ミリ
四
̶ 金、中国、南京金箔集団公司 八三ミリ
五九、光陽箔、B、純金色、断切、今井金箔、銀箔ベース、一〇九ミリ
̶ 118 ̶
( 37 )
45
ミッショーネの研究 寺田栄次郎
スが銀箔であり、
銀箔は最も変色しやすかった。色箔はこの銀箔の上に、
三、二号色金箔、断切、作田金銀製箔、一〇九ミリ
二、一号色金箔、断切、作田金銀製箔、一〇九ミリ
一、五毛色金箔、断切、作田金銀製箔、一〇九ミリ
変色の問題で、
とりわけ興味深いのは色箔である。色箔のばあい、ベー
なにがしかの色料が施されているわけであるが、この多くは染料であり、
十五、洋金箔四号、断切、作田金銀製箔
一一五ミリ
十四、銀箔、断切、作田金銀製箔、一一五ミリ
十三、ホワイトゴールド、断切、今井金箔、一〇九ミリ
十二、黄金箔、断切、作田金銀製箔、一一五ミリ
十一、三歩色金箔、断切、作田金銀製箔、一〇九ミリ
一〇、定色金箔、断切、今井金箔、一〇九ミリ
九、水色金箔、断切、今井金箔、一〇九ミリ
八、仲色金箔、断切、作田金銀製箔、一一五ミリ
七、金華︵銅抜き四号色金箔︶、断切、作田金銀製箔、一〇九ミリ
六、四号色金箔、断切、今井金箔、一〇九ミリ
五、四号色金箔、断切、作田金銀製箔、一〇九ミリ
四、三号色金箔、断切、作田金銀製箔、一〇九ミリ
顔料のばあいもあると云うが、
おそらく有機顔料ではないかと思われる。
したがって、外候に対して、とりわけ紫外線に対しても、また薬品に対
しても敏感である可能性が高い。
しかし、色箔について云えば、本学で実施した﹁世界の金箔総合調査﹂
と、又多くの金箔関係文献で見る限り、海外ではこれらの色箔の存在は
全く見ることができなかった。日本独自のものであろう。しかも、業者
によっては、一〇〇種類近くの色箔を販売している。したがって、これ
らについては、今回実施した十二時間用ミッショーネだけでも、すべて
手板を作成して試してみる価値はあろう。
保護ニスの効果については、箔そのものの変色が抑えられ、それゆえ
反応が遅くなるから、促進実験をしない自然環境では、少なくとも三年
くらいの観察期間が必要ではないかと考えている。
十六、洋金箔三号、断切、今井金箔 一二七ミリ
十七、四号色金箔、縁付、京箔、中塚金属箔粉工業1、一〇九ミリ
断切箔については、製法も製造者による個性も、それほど差があると
は思えない。これに対し、縁付箔については、その差はきわめて大きい
十八、四号色金箔、縁付、京箔、中塚金属箔粉工業2、一〇九ミリ
二六、四号色金箔、縁付、松村製箔、一〇九ミリ
二五、三号色金箔、縁付、松村製箔、一〇九ミリ
二四、二号色金箔?、縁付、小間、松村製箔
二三、二号色金箔、縁付、松村製箔、一〇九ミリ
二二、一号色金箔、縁付、松村製箔、一〇九ミリ
二一、五毛色金箔、縁付、松村製箔、一〇九ミリ
二〇、四号色金箔、縁付、京箔、厚手、k氏より直接頂いたもの、一〇九ミリ
十九、四号色金箔、縁付、京箔、中塚金属箔粉工業3、一〇九ミリ
ものがある。しかしながら、現在の箔の流通制度では、基本的に製造者
は分からない仕組みになっている。ただし、自製自販をしている人もあ
るから、それらの人の製造した箔だけでも、作成する手板の中に加えて
いくことは意味があろう。
以上の課題については、さらに引き続き実験を継続したい。
使用した箔の種類
二八、二号色金箔、縁付、安江金箔店、一〇九ミリ
二七、一号色金箔、縁付、安江金箔店、一〇九ミリ
先、大きさの順で記してある。また、海外の箔については、私が﹁世界
二九、三号色金箔、縁付、安江金箔店、一〇九ミリ
以下に、手板実験に用いた箔の種類を記す。基本的に箔の種類、入手
の金箔総合調査﹂の際、個人的に購入したものである。
̶ 119 ̶
( 36 )
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
一
̶ 五七については、箔を置いてから時間が経っておらず、そ
⑶ 変色と保護層の問題
手板一
れほどの変化は認められない。しかし、予備実験で行なった幾つかの箔
4.ミッショーネの評価と今後の課題
⑴ 評価
ぷん糊、漆またはカシュウ系、それに一部の合成樹脂である。これらの
現在、わが国で通常用いられている箔用接着剤は、膠または膠とでん
最も変色の度合いが大きいのは、銀箔と銀澄で、全体が淡い茶褐色に
うち、膠や膠と麩糊の混合物は、光沢が無く、水に弱く、作業時間がき
では、数ヶ月であるにもかかわらず、明らかに変化が認められた。
なり、その中にこげ茶色の直径一乃至二ミリのシミが多数生じている。
わめて短く、箔足が残り、又立体部分には作業が困難であるうえ、さら
漆は専門家でなければ作業は難しく、かぶれの問題もある。押箔液な
さらに弱くではあるが、同様のシミは色箔︵御幸箔︶にも認められた。
メントで箔置きしたばあいは、変色は起こるものの、このような小円形
どは、比較的使いやすいとは云うものの、あまり一般性はないし、希釈
に黒箔などでは切紙からの箔離れも悪い。
のシミは目立たないから、ミッショーネが何がしかの作用をしているこ
にシンナー系を用いることが多いから、誰にも安全と云うわけではない。
これら以外では、銅箔と洋箔でも若干の変化が認められた。銀箔をポリ
とも考えられる。ただし、これがミッショーネそのものによるのか、そ
一部の業者では、屋外に箔置きするばあい、エポキシ樹脂系を用いて
いると云うが、結果を見る限り問題も多いようである。
れとも他の原因による変色をミッショーネが触媒的に促進しているの
か、それともこれ以外になにか別の要因が考えられるのかは今のところ
保護ニスを実験手板に施したのはこの問題の解明のためである。ミッ
で現在用いられている、幾つかの箔用接着剤と同等に用いられても良い
定した結果を生ずる。西洋と同じとまでは行かなくても、せめてわが国
これらに比べると、ミッショーネは、扱いやすく、安全で、比較的安
ショーネが変色の原因なら、保護層は役に立たないはずである。もし、
のでは無いだろうか。
不明である。
硫化ガスのような外的な原因なら、保護層の重なりに応じて変色はなく
なるか少なくなるはずである。これについては、さらに観察時間が必要
面の表情は全く変わってしまい、本来の美しいマチエールは消えてしま
又、金箔ではこうした色の大きな変化は無いものの、それでも、その表
青貝箔、それに黒箔では施した瞬間に全く表面の色が変わってしまう。
ただし、保護層に関しては、どの保護溶液であれ、とりわけ赤貝箔、
類のミッショーネを時間も変えて実験したが、他の箔のばあいでもどの
条件の下で異なる箔を置くことに終始し、四号色断切箔のみ、異なる種
数が増え、予定していた手板の数を上回ってしまった。そのため、同一
た。当初一〇〇乃至一二〇枚程度の見込みであったが、予想以上に箔の
今回の研究で実施した手板実験では、できる限り多種類の箔を試験し
⑵ 今後の課題
う。これに対し、保護溶液をかけて、最も変化を生じなかったのは色箔
ような結果になるか、試す必要があろう。従って、今回用いた箔の大半
であろう。
である。
を、再び異なるミッショーネ溶液で、少なくとも指定時間と溶剤の全く
異なる水性十五分用ミッショーネを用いて、同様の手板実験を行なうべ
きかと考えている。
̶ 120 ̶
( 35 )
ミッショーネの研究 寺田栄次郎
薄く吹き付けたときには、細かいすき間ができる。アルキド樹脂であれ
ことを考えたが、スプレーを用いたばあい、霧状の細かい点になるため、
用、十二時間用、ホルベイン社製の順に、光沢を増す。
くなる。つまり、最も光沢の弱いのが水性ミッショーネで、順次三時間
早 め で あ れ 遅 め で あ れ、 箔 置 き し た の ち の 艶 も、 こ れ と 同 じ 順 に 強
に付け、乾燥時間も長めに置いてから箔置きすると良いであろう。
指定時間の長いミッショーネを用い、これをできるだけ薄くしごくよう
したがって、光沢を出したいばあいは、下地拵えはもちろんであるが、
刷毛塗りの際にできるだけ手早く薄く延ばす方が効果的であった。
を強めるため、薄く付けるには、ミッショーネを希釈剤で薄めるより、
なり、とりわけ脱脂綿で擦った後、この傾向が強かった。従って、光沢
ミッショーネの量では、多めに刷毛塗りしたばあいほど、光沢は弱く
ば、油絵用の保護ニス︵いわゆる、タブロー︶も同じ成分で、同じ用途
のものであるから、これをテレビン油で二倍に希釈し、軟毛の平筆を用
いて施した。
即ち、タブロー︵ホルベイン︶一対テレビン油一︵体積比︶である。
3.手板実験の結果
⑴ ミッショーネの製品による違い
今回の実験に関する限り、溶液を塗布する際の作業性は、どれもほぼ
ショーネは乾燥が速く、これに伴う作業性の困難を生ずると思われる。
後に箔置きした全ての手板で比較すると、箔の厚いものほど光沢が強く、
十二時間用ミッショーネを倍に希釈して塗布し、この上に二十四時間
⑵ 箔による違い
また、油性のものも、使用する面積が広くなったばあいは、揮発製油の
脱脂綿で強めに擦ってもその光沢の弱まりが、薄い箔のばあいに比べて
同じで変わりは無かった。ただし、
広い面積になったばあいは、水性ミッ
蒸発時間があるから、塗り継ぎ部分でにじみを生じ、やはり薄く均一に
少なかった。箔が薄くなるに従い、光沢は弱くなりやすかった。
同種の金箔どうしで、断切と縁付を比べると、乾燥時間の短いばあい、
ていると思われる。
付かない部分を生じることがあった。ただし、これは箔の厚みも関係し
付きは良かった。これに対し、銀箔や銀箔ベースのものは、重なり目で
箔の金属により、金の含有量の極めて高いものは軟らかく、それゆえ
ネの乾燥状態の進んでいるばあいには、付きが悪かった。
ただし、銀澄や錫箔のような極めて厚手のものは、とりわけミッショー
塗ることは難しいと思われる。
日本の押箔液を使うときは、薄く付けるために、拭き取りを行なうが、
ミッショーネでは、揮発製油の蒸発と共に、塗布されたミッショーネの
粘度が高くなるから、
拭き取りを実施するのは難しい。これについては、
水性ミッショーネでは全く無理である。
箔置きできる時間は、指定時間の最も短い水性が、きわめて長いもの
であった。指定時間の記されていないホルベイン社のものが、箔置きで
きる時間が割合短かったが、作業に差し支えるほどのものではないと思
すべてのミッショーネで、早めに箔置きしたものの方が艶が弱く、遅
とは無かった。この金沢箔と京箔の差は、﹁筋入れ﹂を実施しているせ
微かに現れるものもあった。しかし、京都の箔では、全くこのようなこ
断切では中心からの放射状の線が現れる。ただし、縁付でもこれがごく
めに箔置きしたものの方が、艶が強い。その時間差による光沢の差は水
いであろう。
う。
性で最も幅が狭く、三時間用、十二時間用、ホルベイン社製の順で差が
大きくなった。
̶ 121 ̶
( 34 )
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
性 の 高 い、 山 本 元 の﹃ 表 具 の 栞 ﹄ に 記 さ れ て い る 処 方
に基づいて実
これには、膠一〇匁、明礬三匁、水一升と云う﹃画筌﹄に記されてい
枚、合わせて十二枚の箔置きを行なった。これには、﹁四号色金箔、断
箔置きした部分は一〇五ミリであるが、最初の十五ミリは、脱脂綿で
る処方をもとにしながら、明礬は膠の八分の一以下が良いとしている。
施した。
押さえただけにし、残りの九〇ミリは脱脂綿で押さえたのち、軽く擦っ
すると膠と水の割合は、この処方では一対四八になる。しかし、上記の
切、一〇九ミリ﹂を用いた。
て均した。
ように、箔の下にはシェラックの吸収止めをし、その上にミッショーネ
わけである。それゆえ、使用する膠は通常、表装や日本画で用いられて
溶液を施してあるから、絹本や紙本と異なり、下層の吸収性は殆ど無い
銀箔や、銀箔をベースにした箔、また金箔でも銀の含有量の多い箔、
いる三千本膠を用いながらも、これに対する水の割合は四〇にし、明礬
⒩ 保護層一
あるいは洋箔や銅箔などは大気の影響で変色することがあるから、なん
は八分の一と、やや膠を強目にし、軟毛の平筆で施した。
の割合である。
即ち、三千本膠一対水四〇の溶液に対し、生明礬八分の一︵重量比︶
らかの保護層を施す必要がある。また金箔でも屋外におかれるばあいは、
保護層を施すことが多い。
この保護層には、水性、油性、アルコール性が考えられる。伝統的に、
日本画では水性の礬水が、テンペラ画ではシェラックのアルコール溶液
いられているが、
すべて刷毛塗りして比較できるものを選んだ。したがっ
に⒦の、ボールス層の吸収止めに用いたシェラック溶液とほぼ同じであ
ここで用いたシェラックの濃度と成分、および道具や方法は、基本的
⒪ 保護層二
て、
油性保護層には油彩画用のタブローを用いた。市販箔用保護スプレー
るが、用いたシェラック樹脂は、最も精製度の高い﹁キアーラ﹂を用いた。
が用いられてきた。金箔用として、近年は揮発性溶剤型のスプレーが用
の皮膜主成分が、アルキド樹脂であるから、それと同じ成分の、刷毛塗
金箔に似せるためにも用いられるものであり、それゆえニスを塗った当
精製度の低いものは、赤色を呈しており、銀箔やアルミ箔の上にかけて、
保護層、
一、
二、
三は、
それぞれ均等にずらして塗布してある。したがっ
初から箔の色を変えてしまうことになるからである。軟毛の平筆を用い
りできる溶液を選んだわけである。
て、箔のみで保護層の無いところ、三種類の保護層がそれぞれ一層だけ
て施した。
倍に薄めた溶液である。
に入れ、ヒタヒタにエタノールを入れて溶解した溶液︶をエタノールで
即ち、シェラック・キアーラ溶液︵シェラック・キアーラ樹脂をビン
掛かっているところ、三種の保護層が、一と二、二と三、一と三と云うよ
うに、異なる二種類が重なっているところ、それに三種類すべてが重な
るところができるよう、枠を作って塗り分けた。
三種の保護層は、弾きを生じないよう、礬水、シェラックニス、アル
キドニスの順で、それぞれ一日以上の乾燥を待って施した。
現在、箔問屋で販売されている金箔保護スプレーに含まれている主成
⒫ 保護層三
る。礬水の濃度は、人によりさまざまであり、特に明礬の割合にはかな
分は、前述のようにアルキド樹脂である。当初はこのスプレーを用いる
前述のように日本画ではこの目的に、膠水に明礬を加えた礬水を用い
りの開きがあるようである。そこで、今回の実験では、古い処方で信頼
̶ 122 ̶
( 33 )
6
ミッショーネの研究 寺田栄次郎
を用い、これの水練りボールス一に対するゼラチン溶液の割合を四にし
先の⒢黄色ボールスのばあいとほぼ同じであるが、固形赤色ボールス
ガラスビンに入れ、このうえからヒタヒタになるまでエタノールを入れ
毛で薄く一層塗布した。シェラック溶液は、薄片状レモンシェラックを
一 二
̶ 日の乾燥期間を置いたのち、シェラック溶液を、軟毛の礬水刷
⒦ 吸収止め二
て実施した。軟毛の平筆で、やはり乾燥を待って二層塗りした。ポリメ
て密栓のうえ放置して溶解し、この原液の上澄みを採って、これを等量
⒣ ボールス二︵赤︶
ントのばあい、このボールスに、微量の卵黄を入れることがあるが、今
の工業用アルコールで希釈したものである。
ショーネを、等量のテレビン油で希釈し、これをできる限り薄く筆塗り
異 な る 様 々 な 箔 を 用 い た 手 板 で は、 ル フ ラ ン 社 の 十 二 時 間 用 ミ ッ
⒧ ミッショーネ
回は行なわなかった。
黄色ボールスのばあいも、
塗料が冷めてゲル化しないよう時々湯煎し、
かつあまり温度を上げすぎないよう注意しながら施した。
⒤ カラ磨き
筆で擦り、カラ磨きした。これにより、ほこりを取ると共に、ボールス
時間用、同水性の十五分用、それにホルベイン社のジャパンゴールドサ
これ以外に、ミッショーネの種類の違いを見るため、ルフラン社の三
して使用した。
表面を磨いて滑らかにできる。この工程も、ポリメントに準じたもので
イズを、それぞれ指定された時間
︵ホルベインのものは時間指定なし︶
と、
一日以上の乾燥期間ののち、⒣のボールス表面を、毛足の短い豚毛の
ある。このカラ磨きを、メノウで擦ればより強い光沢を生ずるが、今回
さらに長めの乾燥と二種類ずつ実施した。
で、いずれも二倍に希釈して用いた。
ミッショーネは、油性のものはすべてテレビン油で、水性のものは水
はポリメントではなく、あくまでもミッショーネで箔置きを実施するか
ら、行なわなかった。
⒥ 吸収止め一
箔は、すべて市販の﹁あかうつし紙﹂にあかしてから箔置きした。た
⒨ 箔置き
ネを施すと、ミッショーネ溶液がボールス層や地の中に吸い込まれてし
だし、例えば五倍厚金箔のような、厚みのある一部の箔はあかしうつし
カラ磨きしたボールス表面は吸収性があるため、そのままミッショー
まい、箔の付かない部分を生ずることがある。ミッショーネではこれを
紙にきれいに移らないから、このばあいは切紙と共に箔箸で運んで押箔
下記の様々な箔の手板では、箔置きはすべて塗布後二十四時間で実施
した。
防ぐため、通常、吸収止めを行なう。
これにはまず、水性接着剤溶液で若干吸収性を抑えておき、その上か
らシェラックの薄い溶液でさらに吸収を止めるのが良い方法である。本
一層目の水性溶液にはゼラチン溶液を用いた。食用板ゼラチン一対水
間、九十六時間の六枚を実施した。この時間の異なる六枚の手板と、さ
ため、これとは別に三時間、六時間、十二時間、二十四時間、四十八時
した。ただし、同じ十二時間用ミッショーネで、時間による違いを見る
四〇︵重量比︶を、軟毛の礬水刷毛で薄く一層塗りした。溶液の温度は
ら に 異 な る ミ ッ シ ョ ー ネ 三 種 類 を、 乾 燥 時 間 を 変 え て 各 二 枚 ず つ 計 六
実験ではこれに従った。
やはり三十二 ℃前後である。
̶ 123 ̶
( 32 )
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
たものを入手し、これを用いた。現在のものよりゲル化する温度が高く、
四〇 ℃︶を、礬水刷毛で一層塗りした。膠は、数年前まで販売されてい
ウサギ膠︵ホルベイン︶一に対し水一〇︵重量比︶の溶液︵三五乃至
後半を三層にしてある。
になってしまうから、刷毛塗りの方向の違いを見せるため、前半を五層、
を二段階に分けたが、その際、四層ずつでは刷毛跡が前の段と同じ方向
が、ばあいによっては、五層と三層に分けたものもある。手板ではこれ
塗装後、削り迄一週間以上の乾燥期間を置いた。
ゼリー強度や接着力も強いように思われたからである。
⒞ 地塗り一︵ジェッソグロッソ︶
地塗りの表面に、木炭の粉を叩き、エッジを砥石で平に研いだ鋼パネ
⒠ 削り
に 焼 き 石 膏︵ 吉 野 石 膏 ︶ を ヒ タ ヒ タ よ り や や 少 な め に 振 り 込 み 入 れ し
ルで表面を平滑に削った。これは、ポリメントで箔置きするばあい、鏡
上記の膠引きに用いたのと同じ膠水︵ウサギ膠一対水一〇、重量比︶
て 攪 拌 し た 塗 料 を、 豚 毛 の 下 地 筆 で 二 層 塗 り し た。 約 三 〇 度 位 の 角 度
面的な平面を生ずるための、伝統的な方法である。
手順段階見本の中に、木炭粉の層は入れていない。
で、×印を描くようにしながら交互に筆を動かして塗り重ねた。二層目
は、一層目がほぼ完全に乾燥してから、板を九〇度まわして塗り重ねた。
チェンニーノ・チェンニーニはこのジェッソグロッソについて、四層
⒡ 吸収止め
市販食用板ゼラチン一に対し水六〇︵重量比︶の溶液を、礬水刷毛で
薄く一層塗りした。溶液の温度は、三〇 ℃前後で実施した。
⒢ ボールス一︵黄︶
ポリメントで箔置きするばあい、現在のヨーロッパではイタリアであ
。今回は
れ、ドイツであれ、フランスであれ、下層に黄色ボールスを二層塗りし、
この上に一乃至二層の赤色ボールスを塗るのが普通である
これに従い、赤、黄二層ずつ塗り重ねた。
̶ 124 ̶
( 31 )
塗りを指示しているが、現在、一般に行なわれている石膏地の下層は二
層塗りで行なっていることが多いから、それに従った。
一 層 目 の み、 や や 温 度 を 上 げ て 四 〇 ℃く ら い で 実 施 し た が、 ジ ェ ッ
ソ グ ロ ッ ソ の 二 層 目 と、 そ れ 以 後 の ⒟ ジ ェ ッ ソ ソ テ ィ ー レ は、 す べ て
三二 ℃前後で実施した。
手板では、このジェッソグロッソ二層で、一段階にしてある。
⒟ 地塗り二︵ジェッソソティーレ︶
上記のジェッソグロッソを数日間乾燥させた後、ウサギ膠一対水十一
黄色の固形ボールスをナイフで削り、これを大理石の練り板の上で、
ガラスの練り棒でよく水練りして濃いクリーム状にし、これを容器に入
ゼラチン一対水二〇︵重量比︶のゼラチン溶液を用意し、水練りボー
込み入れして調製した塗料を、筆刷毛で八層塗り重ねた。各層はできる
八層と云うのは、チェンニーノ・チェンニーニが指示している最低限
ルス一に対し、このゼラチン溶液五︵体積比︶を加えて攪拌し、さらに
れ、さらに上から水を加えて攪拌し、数日間放置して沈殿させた。
度の層数であり、
かつ現在でも基準として考えられる層数だからである。
方向を変え、均一に薄く塗るよう心がけた。
少量の微温湯を加えて調整した塗料を、軟毛の平筆で塗布した。各層は
に九〇度ずつ順に回して交差させ、基本的に一日に四層ずつ塗り重ねた
ジェッソグロッソと同じく、×印を描きながら、各層は手板を同方向
だけ薄く塗るよう心がけた。
︵ 重 量 比 ︶ の 膠 水 に、 ボ ロ ー ニ ャ 石 膏︵ ホ ル ベ イ ン ︶ を ヒ タ ヒ タ に 振 り
5
ミッショーネの研究 寺田栄次郎
ないと云ってよい。しかし、海外、特に欧米では上述のように、極めて
広く用いられている。その用法は、他の接着剤や箔置き方法に比べ、決
して難しいものとも思われない。
ただし、わが国は欧米と気候、風土も異なり、さらに色箔に代表され
るように、販売されている箔の種類の異なるものも少なくない。
本研究では、現在までに収集してきた内外の箔に加えて、さらに現在
2.研究の概要 手
̶ 板の作成
⑴ 手板調製
西洋で行なわれている、さまざまな箔置きの技術のうち、最も入念な
下地拵えを必要とするのが、いわゆる﹁ポリメント﹂の箔置きである。ミッ
ショーネのばあいは、下地拵えも、これを簡略にしたもので済ますこと
加え、手板にミッショーネで貼って資料を作成すると共に、その作業性、
おり、そのばあいは基本的に同じ条件で実施する必要があるから、煩雑
しかし、本研究では、他の技術による箔置きとの比較も視野に入れて
が多い。
効果、変化を観察することを目的とした。ただし、市販ミッショーネに
ではあるが、このポリメントのばあいと同じ下地拵えを行なった。
販売されている金属箔をできるだけ多く収集し、これに﹁澄﹂の一部も
は前述のように数種類があるから、それぞれによる違い、乾燥時間によ
やすく、それゆえ保護層が必要である。さらに、金箔といえども屋外に
これに加え、とりわけ銀箔や銀の含有量の多い箔は、硫化黒変を生じ
でも四層を重ねることになり、全部で二〇工程を超えるから、地塗りと
だし、全工程を示すとなると、例えば地塗りでは合計一〇層、ボールス
分かるように、つまり工程見本として役立てられるように作成した。た
手板の作成にあたっては、どの手板一枚を見ても、下地からの手順が
用いるばあいも、同様に保護層が必要である。また、近年は屋内に用い
ボールス層、木炭粉叩きと削りは、数層ずつまとめて一段階になるよう、
る違いも考慮に入れて検査、実験した。
た四号色金箔が変色したと云うことも問題になった。これが、大気汚染
各 段 階 は 一・五 セ ン チ ず つ で 順 に ず ら し て あ る が、 ⒟ の ジ ェ ッ ソ ソ
実施した。
しかの成分によるのかは不明である。しかし、接着剤に問題があるなら、
ティーレは合計八層であるから、ここだけは二段階にしてある。最後の
などの環境問題から生じているのか、用いられた接着剤に含まれる何が
これに変えてミッショーネを試みることは十分検討の余地があるし、大
一〇・五センチが箔である。
その手順と組成構造は下記のとおりである。
気汚染が問題なら保護層の研究が意味を持つ。
これらの事情に加え、わが国の金箔のほとんどと、銀箔やプラチナ箔
のすべてが金沢で作られており、しかも箔問屋の多くも金沢にあるにも
シナベニヤの耐水二類、十二ミリ厚で、縦・横それぞれ三〇〇ミリと
⒜ 支持体
い。したがって、
作成した手板は、
それらの箔の見本としても意味を持ち、
九十ミリの大きさを用意した。現在、金地背景テンペラ画はもちろん、
かわらず、金沢でどのような箔が売られているか、意外に知られていな
かつ一枚一枚の手板が、すべて作業手順見本にもなるように配慮した。
その他の絵画下地に、最も良く用いられている素材であることから、こ
れを選んだ。
以下に、その手板の組成構造を記す。また使用した箔の種類、入手先
等は文末に記してある。
⒝ 膠引き
̶ 125 ̶
( 30 )
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
ミッショーネの研究
1.本研究について
寺
田
栄次郎
現在では、このミッショーネと云う接着剤の名が技法の名前としても
用いられている。
ポリメントであれ、オイルギルディングであれ、共に紀元前から実施
さまざまなミッショーネについては、かつて本学の美術工芸研究所の
の高いと思われる、ルフラン社の十二時間用ミッショーネを主に、でき
るだけ多くの箔を施す手板実験を実施した。
西洋では、屋外に箔置きするばあいや、屋内でも湿気の高い場所に箔
置きするばあい、それに安価な家具製品には、もっぱらこのミッショー
部の金地背景テンペラ画家たちのみで、それ以外では全く使用されてい
̶ 126 ̶
( 29 )
⑴ ミッショーネとは
つは、ポリメントによる箔置き、即ちウォーターギルディングである。
研究事業で実施した﹁金箔接着剤の研究﹂ ですでに手板実験を行なっ
きわめて古い伝統的な方法である。
これは、まず入念な下地拵えをし、その表面を水で濡らして箔を置き、
ている。今回はその結果を受けてさらに発展させたものであるから、ま
されている
適当な乾燥を待って、これをメノウなどが付いた棒で磨いて仕上げるも
ず市販の四種類のミッショーネに絞り、さらにその中で、最も使用頻度
西洋の箔置きは、現在、基本的に二通りの方法がとられている。ひと
のである。
もうひとつは、乾性油をベースにした接着剤を用いる箔置き、即ちオ
イルギルディングである。中世の技法書には、乾性油に乾燥促進剤を加
。一八世紀半ばに、
これを改良して箔置き用接着剤として販売され始めたのが、﹁ミッショー
。 し た が っ て、 西 洋 で 行 な わ れ て い る 箔 置 き の
ネが用いられている
4
現在私が知る限り、わが国でこのミッショーネを使っているのは、一
⑵ 研究の目的と方法
ネ﹂である。当時のものは、リンシードオイルにマンガンや鉛系の乾燥
えて煮立て、樹脂を溶かした処方が記されている
3
ほとんどがこのミッショーネによっていると云ってよかろう。
ン油で希釈して用いられた。現在でも国産のものは、ほぼこの処方で製
造されているが、
西洋の市販品は、
接着成分が合成樹脂に変わってしまっ
ている。さらに、外国製品には水性と油性があり、油性も乾燥時間に差
のあるものが販売されている。
[キーワード]
箔 オイルギルディング 手順見本手板
2
促進剤を加えて煮立て、これにコーパル樹脂を溶解したもので、テレビ
1
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
︵
︵
︵
︵
地方派や天才芸術家の弟子たちを扱う場合にはモレッリの作家判定の精度の揺
ら ぎ が 増 幅 し 説 得 力 に 乏 し い こ と も あ っ て、 モ レ ッ リ の 直 観 的 判 断 は ど う で あ
るか見失いがちだが、そのような箇所を読み進めるときにこそ、モレッリのバ
ランス判断が背後にあったことを認めなければならないと訳者︵上田︶は思う。
さらに一歩進んで作家判定と真贋判定では芸術的価値の問題に行き当たること
︶頁∼四十二︵
︶頁参照︶。
も念頭に置いてこの種の文献を読むのが大切である︵本紀要五十一号所収の﹁追
記 なぜ今、モレッリか﹂四十四︵
39
︶ ガ ン デ ン ツ ィ オ・ フ ェ ッ ラ ー リ︵ ヴ ァ ル ド ゥ ッ ジ ァ 一 四 七 五 ∼ 八 ○
︶所在不明。
ナルド的構想はそれほど顕著ではない。
の方向にあり、フランドル絵画と初期マニエリスム的な構成があらわれ、レオ
サン・クリストーフォロ教会の祭壇画とフレスコ画︵一五二九∼三十二︶もこ
ている点でガウデンツィオの新しい方向を示している。続くヴェルチェッリの
キ リ ス ト 受 難 の 場 面 を 彫 刻 と 一 体 化 し て 表 現 し、 劇 的 感 情 表 現 を 強 く 打 ち 出 し
ロモンテ︵ヴァラッロ︶のサン・ヴィダルド礼拝堂壁画︵一五二○∼二六頃︶は、
館︵ ミ ラ ノ ︶ に も 所 蔵 さ れ る。 一 五 三 九 年 以 後 死 ぬ ま で ミ ラ ノ に 住 ん だ。 サ ク
受 け た。 作 品 は 故 郷 の 近 く の ヴ ェ ル チ ェ ッ リ と そ の 周 辺 に あ り、 ブ レ ー ラ 美 術
マ ン テ ィ ー ノ と ベ ル ナ ル ド・ ゼ ナ ー レ の ほ か、 ピ エ ト ロ・ ペ ル ジ ー ノ の 影 響 を
一五四六︶ 画家・彫刻家。師匠はジャン・ステーファノ・スコット。最初ブラ
ミラノ
̶
︶ ここに掲げられるレオナルドのデッサンの真贋の判断は今日もゆるぎない。
37
︶今日ガローファロに帰されている。
3+272 &5(',767ZR LOOXVWUDWLRQV LQ WKH SUHVHQW WH[W DUH WDNHQ
IURP*LRYDQQL 0RUHOOL 'H /D 3HLQWXUH LWDOLHQQH (GLWLRQ pWDEOLH SDU
-$QGHUVRQ3DULV
︵うえだ・つねお
芸術学/イタリア美術史︶
︵二〇〇八年一〇月三一日受理︶
̶ 128 ̶
( 27 )
23
24
25
26
ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(8)−ロンバルディア派(ベルナルディーノ・ルイーニからガウデンツィオ・フェッラーリまで) 上田恒夫
︵
リ自身も﹁全体的直観﹂は否定していないと再三言明してはいるが、レオナル
なものであるか。これを読む際の問題意識としたいものである。もちろんモレッ
読者には期待はずれの感が強い。なぜレオナルドが唐突にここに扱われるのか。
ド の 項 で そ れ を 具 体 的 に 感 じ 取 る こ と は で き な い。 目 利 き の 判 断 と そ れ を 語 る
︶ 以下に見られるようにレオナルドの項が置かれた位置と記述の少なさについて
もしモレッリに北イタリアにおけるレオナルドの影響の裾野の広がりを検証し
︶ ボ ル ゲ ー ゼ 美 術 館 で も 古 く か ら レ オ ナ ル ド 作 と し て き た が、 3'HOOD3HUJROD
言葉とは別物であることを印象づける。
︵
﹂ と い う の は、 目 利
FRQFHWWRVSLULWXDOH
に帰す。
0DHVWURGHOOD3DOD6IRU]HVFD
︶ モ レ ッ リ が こ こ で﹁ い わ ゆ る 精 神 的 内 容
︶頁︶
。胸に迫る文章である。作品全体の美的直
だとする批判は一面的である。もっとも、本書におけるレオナルド批評前後の
フリートレンダー︵﹃芸術と芸術批評﹄
︶の、モレッリの方法は事後の証拠固め
術批評史﹄︶の、モレッリは作品の全体的価値を軽視したという批判や、マックス・
立っている。その限りでは、何度でも言うが、リオネロ・ヴェントゥーリ︵﹃美
観と特殊細部のデッサンとの双方のバランスの上にモレッリの作家判定は成り
﹁基本理念と方法﹂
、一○二︵
る限り・
・
・美術史は相変わらず砂上の楼閣のままに終わると言いたい﹂
︵同じく
得して得られた知識を検討に入れずに、ただ美術品の全体印象だけに頼ってい
者らの判断である。
﹁美術品の作家判定が、個々の大作家に固有の形を観察し会
否 定 し て は い な い。 モ レ ッ リ が 否 定 す る の は、 直 観 の み を 頼 り に 結 論 を 出 す 学
な画家の手法・習癖を作家判定の基礎とするが、しかし﹁全体印象﹂
﹁直観﹂を
うな精神的内容なり魂の直観的把握に対して、作品に現前している個別具体的
︵
﹃金沢美術工芸大学紀要﹄第四十七号、七十五︵4︶頁︶
。モレッリは、このよ
目利きとは違って、私は何はさておきまず芸術家の精神の形を見極めたと思う﹂
い。したがって、芸術家の作品のなかで特に筆づかいの習癖に注目する多くの
れるが、魂は伝授できないであろうから。魂は本質的に模倣することはできな
方がはるかに重要である。なぜなら、技法は習得でき、筆法は伝授され模倣さ
る。
﹁一枚の絵の真贋の判定には、画家の技法よりもその精神を理解することの
第 一 章 序 論﹁ 基 本 理 念 と 方 法 ﹂ で モ レ ッ リ が 引 用 し た ブ ラ ン の こ と ば を 再 引 す
こそを見なければならないとするシャルル・ブランの言葉を指している。本書
きの細部分析を批判してレオナルドほどの大芸術家の真贋判定には芸術家の魂
は
RSFLWSS
︵
従来の正確さに欠ける作家判定をやりなおすという意図があったなら︵実際そ
れがあったことは本文を読めば明かである︶、ロンバルディア派の章の冒頭でま
︶頁の﹁付記﹂を参照してい
バルディア派﹂の章に見る画家名列は以下のようである。
ソードマ︵本紀要五十一号︶
、ジャンピエトリーノ、ボルトラッフィオ、ニコー
ラ・アッピアーニ、チェーザレ・ダ・セスト︵以上本紀要五十二号︶
、ベルナル
ディーノ・ルイーニ、アンドレーア・ソラーリオ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、
ガウデンツィオ・フェッラーリ︵以上紀要本号︶
、アンブロージォ・デ・プレー
ディス、ベルナルディーノ・デ・コンティ、フランチェスコ・フランチャ、ソフォ
ニスバ・アングィッソーラ。
ロンバルディアにおけるレオナルドの影響についてのモレッリの批評を読む
際、 も う 一 点 注 意 し て お き た い。 モ レ ッ リ は 大 体 に お い て 対 象 作 品 中 の 顔 の モ
デリングとスフマートを指標にしてレオナルドの影響について語る一方、非レ
オナルド的性格、
例えばアンドレーア・ソラーリオの︽十字架を担うキリスト︾︵図
版①︶の北方的性格についても指摘するが、例えばガウデンツィオ・フェッラー
リ の い く つ か の 作 品 に 即 し て み る と、 画 家 独 自 の 新 し い パ ッ シ ョ ン へ の 傾 向 が
レオナルドの影響を打ち消すほどに強いことがある。モレッリ的作家判定のレ
21
22
ずレオナルドを論ずべきではなかったか。ミラノの壁画︽最後の晩餐︾が名の
み 挙 げ ら れ る の は な ぜ か。 モ レ ッ リ の 扱 う の が 主 に イ ー ゼ ル 画 で あ っ た に し て
も、 ソ ド マ の 項︵ 本 紀 要 五 十 一 号 ︶ で は ソ ド マ の 壁 画 に も ス ペ ー ス を 割 い て い
る。 こ の よ う な 疑 問 は 当 然 予 想 さ れ る が、 し か し モ レ ッ リ が 直 面 し た の は レ オ
ナルド圏内のロンバルディア派画家をめぐる作家判定の甘さという現実であり、
その評価替えを喫緊の問題としたモレッリにとって通常の美術史学に求められ
る記述方法と構成はあまり意識されていなかったように見える。事実、この﹁ロ
︵
ンバルディア派﹂の章の画家名列を見ただけでも疑問な点があるが、これにつ
い て は 本 紀 要 第 五 十 号︵ 平 成 十 八 年 三 月 ︶
62
ただきたい。参考までに、フリッツォーニ版︵この日本語訳の底本︶の﹁ロン
59
ベルと全体的芸術的判断のレベルとが総合された記述があるとすればどのよう
29
̶ 129 ̶
( 26 )
20
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
後ミラノを統治するシャルル・ダンボワーズ二世のために制作。次いでローマ
に行ったと思われる。アンドレーアの生涯にわたる作風は初期の克明・堅牢な
描写から後年の優美な絵画的表現へのゆるやかな展開を示すが、そこにはフラ
ンドル絵画の影響も認められる。モレッリも指摘するレオナルド的な柔和なフォ
︶の傾向を強め、ボルゲーゼ美術館の︽十字
GHYRWLRQDOSDLQWLQJ
ルムはアンドレーアの傑作︽緑のクッションの聖母︾
︵ルーヴル美術館︶に顕著
だが、祈念画︵
架を担うキリスト︾
︵図版① ただしモレッリはフランドル派画家に帰している︶、
︵
︵
︶ 作家について異論ないが、制作時期について意見が分かれる。初期の作とする
︶︽エジプト逃避途上の休息︾は一八五五年モレッリがジャン・ジャコモ・ポルディ
︵ ,'LSLQWL
︶ S
*DOOHULD%RUJKHVHYRO,
に 売 却 し、 モ ル テ ー ニ が 修 復 し た。 ミ ラ ノ に お け る モ レ ッ リ と 友 人 ら に ま つ わ
るエピソードである。
モレッリの判断が妥当か。
の署名は当時ポルディ=ペッツォーリ美術館長だったモ
-2+$1(6%(//,186
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︶ ロンドン、ナショナルギャラリーの︽ジョヴァンニ・クリストーフォロ・ロンゴー
による。
$QGHUVRQSQ
︶ ポルディ=ペッツォーリ美術館の二点は同美術館が一八六○年にモレッリから
た。
レッリの友人︶がモルテーニの仲介でこれを購入し同ギャラリーの所有となっ
ロンドンのナショナルギャラリー館長チャールズ・ロック・イーストレーク︵モ
の絵を取得するよう館長に働きかけたが受け入れられず、当時イタリアにいた
修復家モルテーニはこの絵が海外流出するのを避けるべくブレーラ美術館がこ
ニの肖像︾。ロンゴーニはソラーリオの友人。一八六三年モレッリの友人の画家・
11
︶ モレッリと交流のあったウィーンのオットー・ミュントラーがルーヴル美術館
購入したものである。
12
ポルディ=ペッツォーリ美術館の︽エジプト逃避途上の休息︾
︵一五一五年︶に
見られるごとく北イタリアにおける祈念画の発展に貢献した。ヴァザーリはソ
ラーリオについてコレッジォ伝で触れるのみで詳しく取り上げない。ソラーリ
オの再評価はミュントラーとモレッリの功績であり、モレッリは以前から研究
してきたソラーリオについて本書で修正を加えて収録している。
︵
︶ 主題は︽聖母子︾
。ソラーリオの若年の作とされる。
6
ルテーニによって取り去られた。
で認め、アンドレーア・ソラーリオ作と判定した。
︶アンドレーア・ソラーリオが描いた肖像にもとづく、同時代の画家によるコピー
であるとされている。
︶今日プリンストン︵ニュージャージー州︶のJ ・スチュワード・ジョンソン夫
妻所蔵。
︶ 今日ミラノのカステル・スフォルツェスコ所蔵。ボルトラッフィオ作とする説
もある。
︶ ミラノのガッララーティ=スコッティ所蔵。ソラーリオ作と認められている。
︶作者について異説あり。
︶ ワシントンのナショナル・ギャラリー・オフ・アート所蔵。今日バルトロメーオ・
ヴェネトに帰される。
̶ 130 ̶
( 25 )
︶ 板 に 油 彩 で 描 か れ る。 裏 に 書 か れ た ソ ラ ー リ オ の 署 名 と 一 五 一 一 年 の 年 紀 は
︵
︶ ブレーラ美術館の︽カーネーションの聖母︾︵二八三番︶。かつて画中にあった
7
疑 わ し い が、 絵 自 体 は 今 日 ソ ラ ー リ オ の 真 作 と 認 め ら れ る。 3GHOOD3HUJROD
︵
8
13
14
15
16
17
18
19
9
10
ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(8)−ロンバルディア派(ベルナルディーノ・ルイーニからガウデンツィオ・フェッラーリまで) 上田恒夫
ガウデンツィオ・フェッラーリ ︵
︶
フ ィ レ ン ツ ェ、 ロ ー マ、 パ レ ル モ、 ナ ポ リ の ど こ に も ガ ウ デ ン ツ ィ
オ・フェッラーリの絵は存在しない。思うにこの事実は、ガウデンツィ
オは一度もアペニン山脈を越えたことがないということの、またこの画
家がピエトロ・ペルジーノの門で修養しラファエロの友人であったとい
うのは単なる作り話であるということの、消極的ではあれ、証拠である。
︶
は不
これについては後で論証しよう。パラッツォ・シャッラ=コロンナの大
祭壇画︽聖ベルナルディーノ・ダ・シエナのアポテオーシス︾︵
TXL
と記され、当時の館長は都市名をフェッラー
)HUUDUD
︶ 少なくとも
家の目にも一目見ただけでガローファロ派の作と写る ︵ 。
ラ派の画家名と誤解したのであろう。この小さな絵は目の利かない専門
きこの板絵の裏側に
﹂による。按ずるに、この絵がフェッラーラからローマに来たと
SURTXR
妙な作家判定はその他の絵の場合と同様、まず間違いなく﹁勘違い
ある。カピトリーノ美術館の小さな︽聖母子︾︵第一室二一○番︶の奇
リア派の作品でもない。思うにこれは十六世紀末シエナの画家の作品で
思議にも同館ではガウデンツィオ作としているが、彼の作品でも北イタ
25
訳注
の注に負う。その他は訳者︵上田︶の注である。
$QGHUVRQ
*以下の訳注において、作品の所在、今日における作家判定、作品にかかる項
目等は主に
︵1︶ ベルナルディーノ・ルイーニ︵一四八○/八五∼一五三二頃︶はロンバルディ
ア・ルネサンスの代表的画家。レオナルド・ダ・ヴィンチとラファエロら中部
イタリア及びヴェネツィアの古典期の絵画の影響を受けたが、とくにレオナル
ド的なスフマートと人物の顔のフォルムが容易に認められる。その作品は後世
広く愛好され、十九世紀には彼の壁画や板絵の多くがカンヴァスに移し替えら
れ、補修されたので、彼に帰される作品は多いものの、真贋の判定がむずかし
く、モレッリが指摘するようにレオナルドに帰された作品が少なくない。モレッ
リはそうした時代の試練を経た後のルイーニの作品の真贋に分け入った。
︵2︶ 今日サンディエゴのファイン・アーツ・ギャラリー所蔵。作者について異論も
ある。
︵3︶ ルイーニ作と認められる。
︵4︶ ルイーニ作と認められない。
︵5︶ アンドレーア・ソラーリオ︵ミラノ一四六五頃∼ミラノ一五二四︶ ソラーリオ
四 兄 弟 の な か で ア ン ド レ ー ア の み 画 家 で、 ア ン ド レ ー ア は 自 身 の 工 房 を も た ず
兄弟と一緒に制作したらしい。クリストーフォロ・ソラーリオ︵通称ゴッボ︶は兄。
ア ン ド レ ー ア の サ イ ン の あ る 作 品 は 一 四 九 五 年 か ら 一 五 一 五 年 に 及 び、 初 期 に
はアントネッロ・ダ・メッシーナの影響が認められる︵一四九五年のブレーラ
トーフォロとともにムラーノ島︵ヴェネツィア︶に行ったさいの作品であろう。
美術館の︽聖母子と諸聖人︾︶。モレッリが本文で指摘するように、兄のクリス
さて、
私の知っている二人のミラノの画家、アンブロージォ・デ・プレー
同じ一四九五年ミラノに戻り、名声を確立。その後一五○七年∼一五○九年フ
ランスのガイヨンで枢機卿ジョルジュ・ダンボワーズ一世の城館で制作。帰国
ディスとベルナルディーノ・デ・コンティについて語らねばならない。
にして専門家であり、単なるディレッタントではなかったのだ。
さんありはしないかなどと詮索したくはない。ミナルディは絵画の教授
うかとかミナルディの著書が我が聖なるロシアや学術の国ドイツにたく
彼がローマと各地の教皇領で芸術学の権威として通っていなかったかど
ガウデンツィオ・フェッラーリとミラノ派について書いている。存命中
ミナルディ教授は他の学者と同様、
疑いもせずこの作家判定を受け入れ、
そう信じられている。しかしそうではない。最近亡くなったトンマーゾ・
26
̶ 131 ̶
( 24 )
24
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
リス、イタリアにあるレオナルドの手稿のデッサンを分析し、優れた判
の観点から﹁アトランティコ手稿﹂の全デッサンを検討し、パリ、イギ
うことがあった。もし私の考えが正しいかどうか確認したかったら、こ
通例だったからであり、﹁丸味のある物体を描くとき﹂にのみ右手を使
が、これはレオナルドが書字のさいもデッサンのさいも左手を使うのが
あってもそれらのすべてに同じレオナルドの精神と手を認めようとしな
窟の聖母︾と比肩されるとしたら、ボーデ館長の仲間ないしその徒党で
チカン美術館の︽聖ヒエロニムス︾、ルーヴル美術館の︽モナリザ︾︽岩
術館の︽授乳の聖母︾などが、ウフィツィ美術館の︽羊飼いの礼拝︾
、ヴァ
性頭部像と未完の男性頭部、サンクトペテルブルグのエルミタージュ美
両側の七つの頭部は
地面に座る聖母と幼児キリストのペン画及び猫とたわむれる四人のプッ
ヴァザーリとマリエッテ旧蔵の大フォリオ
二 一○九番︶は真作ではない。
五つの戯画と横向きの二つの頭部をあらわすペン描きデッサン
三つの戯画とその上にレオナルド・ダ・ヴィンチの名と一四七六年の年
寓意像︵鏡をもつ青年ほか︶をあらわす水彩デッサン。真作はルーヴル
のと同じように、ヴェネツィアではティツィアーノ、ティントレット、パオロ・ヴェロ
中部イタリアにおいてミケランジェロがそれ以前の芸術家たちの存在を陰に追いやった
がジョヴァンニ・ベッリーニ、
ジョルジョーネほかの画家たちに降りかかったが、
それは、
二点のデッサンをレオナルドに帰したほどであった。ヴェネト地方においても同じ運命
出のゆえに軽んじてはならないとされた︶、自ら所蔵していたあのフォリオに含まれる
術家を見誤り︵レオナルドの作品は、最も取るに足らないものも含めてすべて、魂の表
誤って美術愛好家に紹介され、先に見たようにヴァザーリがごとき人でさえ同郷の大芸
注目すべきことだが、すでに十六世紀にイタリアの内外でこの国の大芸術家らがいかに
美術館のサル・オ・ボワットにある︵ブラウンの図録五十三番︶。
⑥大英博物館
物館の歯を見せる老人の頭部︵ブラウンの図録二十七番︶もフランドル派の作。
記のあるペン描きデッサン︵ブラウンの図録四十九番︶はフランドル画家の作。同博
⑤大英博物館
︵ブラウンの図録九十八番︶。
④アルベルティーナ
に目と髪のデッサンを見てほしい。
サンとその横の戯画︵レイセの図録三八二番。贋作、ブラウンの図録一七四番︶
。特
③ルーヴル美術館のサル・オ・ボワット
右向き、左向きの青年の頭部のペン描きデッ
レオナルドの真作だが、中央の女性頭部と童形の洗礼者ヨハネ︵ブラウンの図録一○
②アルベルティーナ
トの習作︵ヴローヴノア・ギャラリー図録五十七番︶。
①ウィンザー
︶
種の贋作であるデッサンを半ダースほど示したい ︵ 。
︵a ︶ 芸術学の初心者の教育のために、ここでレオナルドに帰されているものの私見ではこの
取ることのないよう願う。誠意から出たことなのである。
が肝要なのであるから、今言ったことはとんでもない侮蔑であると受け
いのはわかりきったことである。私と同じくボーデ館長にとっても真実
︶
-35LFKWHU7KH/LWHUDU\:RUNVRI/HRQDUGRGD9LQFL/RQGRQ
断にもとづいて選ばれたJ ・P・リヒター博士の第一級のレオナルド論
︵
︶を 根 拠 に、 あ る い は、 よ く あ る こ と
に掲載されたデッサンも検討されることである。そうすれば、公平な読
者ならば、あの﹁精神的内容﹂︵
だが恣意的に、レオナルドに帰された多数のデッサンと絵に対して、私
が正当な異議を申し立てたのは間違いではないと確信していただけると
23
ネーゼらの栄光がそれ以前の画家たちを見る目をくらませてしまったからなのだ。
̶ 132 ̶
( 23 )
思う。レオナルド作とされるこれらのデッサンの最良のものはすでに見
たように、ボルトラッフィォ、ソードマ、チェーザレ・ダ・セスト、ジャ
ンピエトリーノといったレオナルドの弟子たちに、あるいはアンブロー
ジォ・デ・プレーディス︵ヴェネツィア︶
、ベルナルディーノ・デ・コ
ンティ︵アンブロジアーナ、ルーヴルほか︶といった模倣者に、帰され
る。ボルゲーゼ美術館のこの女性頭部のごとく亜流作は、後にあらわれ
た芸術家のコピーか贋作でもあろう。しかもこの種の贋作は少なからず
︶
ある ︵a 。
もし私のような南の人が軽はずみに北の人を、特に W・ボーデ館長の
ような地位にある人を悪く言おうものなら、まことに許すべからざる傲
慢な人だと思われよう。しかし他面、ベルリンのこの博士が自信満々に
レオナルドに匹敵する芸術家のデッサンと絵を作家判定してこうした画
家に途方もない害を与えたことを考えるにつけ、この際、そのような冒
涜は許されないと公に抗議せざるを得ないのである︵公平な人間である
私を悪く思わないでいただきたい︶。もしボーデ館長がレオナルドの作
としたいくつかの絵、例えばウフィツィ美術館の︽受胎告知︾
、ベルリ
ン美術館の︽キリストの復活︾、アンブロジアーナ美術館の横向きの女
−
22
ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(8)−ロンバルディア派(ベルナルディーノ・ルイーニからガウデンツィオ・フェッラーリまで) 上田恒夫
に帰しうる作品はイタリア国内では私は知らない。
られた︽最後の晩餐︾以外には、確証をもってこのフィレンツェの巨匠
の礼拝︾︵図版②︶と、幾度も補筆を重ねているものの世にあまねく知
す絵である。この絵と、同じく荒描きのウフィツィ美術館の板絵︽マギ
れに対して、ヴェネツィアのアッカデミア美術館は二十五点、トリノの
︶ こ
とされるデッサン中、私が真作とするのはわずかに五点である ︵a 。
にもナポリにも存在せず、ウフィツィ美術館の二十七枚のレオナルド作
ではないだろう。私の知る限り、レオナルドのデッサンの真作はローマ
レオナルドの作とするボルゲーゼ美術館︵十一室、五一四番︶の女性の
ちをめぐる考えをめぐってあまりにも広く深い亀裂があるから、博士が
先に見たように、ボーデ館長と私との間にはイタリアの大小の画家た
レオナルドのデッサンはすべてにおいて、線は左から右に引かれている
ンを、それぞれ所有している。すでに指摘されているように、これらの
コ手稿﹄に収められた多数のデッサンは別にして十点の真作のデッサ
王立美術館は十一点、また、アンブロジアーナ美術館は﹃アトランティ
図版② レオナルド・ダ・ヴィンチ《マギの礼拝》フィレンツェ ウフィツィ美術館
︶
は、質的にせいぜいベルナルディーノ・デ・コンティ
頭部のデッサン ︵
の模倣者の作でしかないと私が判断しても、まったく読者の驚くところ
⑰四四八番・四五○番・四五一番︵模作︶
[M]
⑯四四七番︵贋作︶
⑮四三三番・四三四番︵模作︶
⑭四三二番︵ロレンツォ・ディ・クレーディによるコピー︶
⑬四三一番︵レオナルド派︶
⑫四三○番︵レオナルド派︶
⑪四二九番︵レオナルド派︶
⑩四二八番︵フランドル派画家によるヴェロッキォのコピー︶
、ブラウンの図録四二九番
⑨四二七番︵A・デ・プレーディス?︶
⑧四二六番︵レオナルド派︶
⑦四二五番︵レオナルド派︶
⑥四二四番︵コピー︶
⑤四二二番︵レオナルド派︶
④四二一番︵ソードマ︶、ブラウンの図録四四八
③四二○番︵レオナルドとするには弱すぎる︶
②四一九番︵コピー︶
①四一四番︵後の画家による︶
これに対して真作ではないと判断するのは以下のデッサンである。
⑤一四七三年のペン描きの風景。以上、全五点が真作である。
④四四九番︵ペン描きの横向きの男の頭部︶
デッサン︶
③四四六番︵一四七八年の年記をもつ戯画的老人の頭部と青年及び機械装置のメモ的
②四三六番︵板絵︽マギの礼拝︾の背景のための構想︶
①四二三番︵赤チョークによる向き合った老人と青年︶
のデッサンが真作である。
ンと、同館が誤ってレオナルド作とするデッサンとを指摘すべきであろう。私見では次
ら、正当にも、と確信するのであるが、ウフィツィ美術館がレオナルド作とするデッサ
︵a ︶ このような断定に対して私の友人ないし支持者のなかに私を信用しない人もいようか
̶ 133 ̶
( 22 )
21
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
︶ 一五一五年、ソラーリオは、ミ
ンドル派の作と思えるほどである ︵a 。
派 の 画 家、 特 に パ テ ィ ニ ー ル を は っ き り と 想 起 さ せ、 一 見 す る と フ ラ
しているから、コンポジションのみならず紫の色調からもアントワープ
冷 た い︽ こ の 人 を 見 よ ︾ は、 フ ラ ン ド ル 派 絵 画 の 特 徴 を は っ き り と 示
一五一五年の︽エジプト逃避途上の休息︾や精妙に描かれているが少々
︵ 。
︶ 私 の 間 違 い で な け れ ば、 こ の 男 が 大 書 記 官 に 任 命
としている ︵ d ︶
しと口もとは意志的である。スコッティ家では書記官モローネの肖像画
あり、レオナルド作として展示してある。肖像の主の表情は鋭く、眼差
点は一五一五頃描かれた。ミラノのスコッティ公の絵画コレクションに
ここで、三点の男の肖像について触れておかねばならない。最初の一
ラノへではなかったかもしれないが、ともかくイタリアに戻ったようで
されたのは一五一八年のことに過ぎない。
レ・ボルジャと思われ、同家ではラファエロに帰していた。修復により
ミラノのカステルバルコ伯旧蔵の二点目の肖像画の像主はチェーザ
︶
少し画面が損なわれている ︵ 。
$QGUHDVGH
と署名していることからもわかる。
6RODULR0HGLRODQHQI
ある。このことは上に挙げた︽エジプト逃避途上の休息︾に
こ れ 以 後 の 彼 に つ い て は 何 も 知 ら れ な い。 一 五 一 五 年 以 後 に チ ェ ル
ていた画面上部を修復したに過ぎないだろう。思うに画家は作品を上か
たとする言い伝えがあるからであるが、おそらくカンピは、当時損傷し
た上部はベルナルディーノ・カンピによって一五七六年頃最終完成を見
る︶を描いたことはあり得る。なぜなら、ソラーリオが未完のままにし
トーザ・ディ・パヴィーア修道院の祭壇画︵今日同修道院新聖具室にあ
サンには、兄のクリストーフォロからデッサンを学んだ跡が認められる
ア修道院の聖具室の絵のためのペンによる素描である。思うに、このデッ
カデミア美術館の一点のみであり、これはチェルトーザ・ディ・パヴィー
私の知るアンドレーア・ソラーリオのデッサンは、ヴェネツィアのアッ
︵ 。
︶
画はミラノのペレゴ家にあるが、軽視されてきたきらいがある ︵e ︶
三番目の肖像画は一番できがよい。気品のある騎士を描いたこの肖像
18
︶
ら描きはじめるのであって、下からではないからである ︵ b 。
カルヴィが繰り返し主張する、ソラーリオは一五一三年頃アンドレー
ア・ダ・サレルノ︵サレルノ出身だって?︶をつれて南イタリアに行き、
ナポリでは彼と協力してサン・グアディオーゾ教会の礼拝堂の壁画を描
いたとする説 ︵c ︶はまったく支持できない。カルヴィはチェーザレ・ダ・
セストと混同しているのだろう。
︵a ︶W・ボーデ館長︵第二巻、七四五頁︶は反対に、ソラーリオのこの絵にローマの影響︵?︶
を見ている。
[M]
︵b︶事実、特に聖母の顔と、聖母に冠をかぶせる二人の天使の顔にはカンピによる改筆が認
められる。
︵c ︶ *&DOYL1RWL]LHVXOODYLWDHVXOOHRSHUHGHLSULQFLSDOLDUFKLWHWWLVFXOWRULHSLWWXUHFKH
ÀRULURQRLQ0LODQRGXUDQWHLOUHJQRGHL9LVFRQWLGHJOL6IRU]DUDFFROWHHGHVSRVWHGD*
[G・カルヴィ﹃G・カルヴィの収集・展示にかかるヴィ
&DOYL0LODQRS
スコンティ家とスフォルツァ家時代のミラノで活躍の主要建築家・彫刻家・画家の生涯
と作品﹄
]認識の乏しい純朴な史料研究者がいかにして自分の思い込みから間違いを犯
したかが知られる。
[M]
館にある︶。
レオナルド・ダ・ヴィンチ ︵
︶
︵クリストーフォロの数点のペン描きデッサンがアンブロジアーナ美術
19
は一四七○年に生まれ一五二九年に亡くなっ
*HURODPR0RURQH
切な修復のおかげで良好な状態を保っている。[F]
︵e ︶今日カヴァリエーレたるB・クレスピの所有であり、修復家ルイジ・カヴェナーギの適
あろう。勲章の比較によってこのように判断できる。[M]
たのは一五一八∼一五二○年頃であろう。事実この肖像画は書記官としてのモローネで
た。この肖像画は五十歳間近の男として描かれている。従ってソラーリオがこれを描い
︵d︶ジェローラモ・モローネ
の絵は、専門家には最高に興味をそそる作品だが、門外漢には嫌悪を催
一点所有している。ひざまづいて苦行する聖ヒエロニムスをあらわすこ
ヴァチカン美術館は非常に興味深いが未完のレオナルドの大きな絵を
20
̶ 134 ̶
( 21 )
17
ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(8)−ロンバルディア派(ベルナルディーノ・ルイーニからガウデンツィオ・フェッラーリまで) 上田恒夫
ディア、ヴェネツィア各派の寄せ集めなのだ。さらに両氏にとって背景
ア派の影響も認める。両氏にとって、この絵はフィレンツェ、ロンバル
レオナルドのほかにアンドレーア・ヴェッロッキォ︵!︶とヴェネツィ
公爵夫人所蔵の女性の肖像 ︵
ギャラリー所蔵、七三四番︶を描いているからである。ミラノのアッダ
年に友人でミラノの人C・ロゴーニの肖像︵現在ロンドンのナショナル
ンツェで制作されたのではない。なぜなら、ソラーリオは同じ一五○五
︶も 同 じ 時、 つ ま り ソ ラ ー リ オ の フ ラ ン
の風景は、何はさておき、ベルガモの画家プレヴィターリを想起させる
のだが、一四九五年にこの画家は高々十五歳でしかない。
このような印象だの類似といったつまづきの道を両氏に付き従って、
ス行きに先立つミラノ時代に描かれたと私は考える。
一五○七年の半ば、ソラーリオは、フランス人のミラノ総督シャルル・
と記されているからミラノで描かれたものではない。二
0HGLRODQHQVLV
︶
い た 小 さ な 絵 を 二 点 所 蔵 し て お り︵ 三 幅 祭 壇 画 の 一 部 ︶︵ 、
$QGUHDV
ポルディ=ペッツォーリ美術館は洗礼者ヨハネと聖カタリナを描
野心的な枢機卿ジョルジュは、ガイヨンの自分の城館の礼拝堂の装飾を
皇ピウス三世の死後教皇に登位したいというはかない望みを抱いていた
フ ラ ン ス に 旅 立 ち、 以 後 二 年 間 ソ ラ ー リ オ は ガ イ ヨ ン に 逗 留 し た。 教
枢機卿ジョルジュ・ダンボワーズ宛の推薦状をたずさえて、ミラノから
ド・ショーモン︵イタリアでは彼はチャモンテと呼ばれた︶から叔父の
作ともヴェネツィアからミラノにもたらされた。洗礼者ヨハネはまった
ないほどであった︵ガイエの﹃史料集﹄第二巻、九十四∼九十六頁参照
受けていたので、国王ルイのための聖母図の制作に費やす時間すら取れ
告げたが、当時レオナルドはミラノの防塁と水利工事につき強い要請を
高名なレオナルド・ダ・ヴィンチに依頼したいと甥の総督ルイ十二世に
さ て、 年 代 順 に、 同 じ く
︶が 続 く。 同 じ
ダンボワーズであるとされたが、奇妙なことに、アンドレーア・ソラー
さかのぼるだろう。近年、この肖像はフランス人のミラノ総督シャルル・
ボルゲーゼ美術館の男の肖像︵三九五番︶も、これとほぼ同時期にまで
わした。アンドレーアは一五○九年九月にガイヨンの城館の礼拝堂壁画
家であると判断して、レオナルドの代わりにソラーリオを彼のもとに遣
ソラーリオはフィレンツェの巨匠レオナルドにつぐミラノ最大の現存画
︶
。そこでショーモンは、アンドレーア・
*D\H&DUWHJJLR,,SS
彼 が フ ラ ン ス に 発 つ 前 か、 あ る い は そ の 直 後 に、 今 日 ル ー ヴ ル 美 術
リオ作とされるのみである。三十代から四十代の男が描かれ、ベレーに
描かれる。仕事はこまやかだが、汚れた厚塗りのニスが画面を損ねてい
館 の 所 蔵 す る︽ 緑 の ク ッ シ ョ ン の 聖 母 ︾ の 通 称 で 知 ら れ る 聖 母 像 を 描
当時フランドル派絵画
̶
にも行ったとする説は、あり得なく
̶
はないと思う。彼の数点の絵、中でもポルディ=ペッツォーリ美術館の
ちから知識を得ていたに違いない
は絶頂期にあり、ソラーリオはイタリアにいたときこの画派の愛好者た
る 前 に、 フ ラ ン ド ル に、 た ぶ ん ア ン ト ワ ー プ
後もフランスにとどまったかどうかわかっていない。イタリアに帰国す
る。この肖像画もアンドレーア・ソラーリオが十六世紀のはじめにミラ
を完成させた。
ル 美 術 館 の 一 五 ○ 三 年 の 小 さ な︽ 磔 刑 ︾︵ 三 九 六 番 ︶︵
の署名のあるルーヴ
$QGUHDV0HGLRODQHQVLV
︶
ンバルディアの風である ︵a 。
くレオナルド風であるのに対して、聖カタリナはアンドレーアの郷土ロ
茨の荒野か沼地に至りたくないものである。
16
いただろう。今日までのところ、ソラーリオはガイヨンの仕事を終えた
︶
も一五○五年の作であろう。これも描かれたのはミラノ
ンドレーア・ソラーリオのこの聖カタリナを強く想起させる。[M]
︵a ︶トリノ美術館所蔵の一五○六年マクリーニョ・ダルバ筆の絵のなかの聖カタリナ像はア
̶ 135 ̶
( 20 )
12
聖ミカエル騎士団の徽章があり、背景にミラノから見た雪のアルプスが
13
︶ 画家カルガーニ旧蔵の︽十字架を担う
ノで制作したものであろう ︵ 。
キリスト︾︵
14
であって、カルヴィが自身の結論を導くために考えているようにフィレ
15
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
て、一四六○年頃の生まれに違いない画家アンドレーアがミラノで光明
入念に仕上げることのできた画家もいない。しかしソラーリオは手の描
館︵ミラノ︶の︽この人を見よ︾︵ 8 ︶に見られるように、頭部を彼ほど
ラ美術館の聖母図︵一○五番
︶は、私の知る限り最も早い時期の作品
ELV
︶ ブレー
いる。ポルディ=ペッツォーリ美術館の二点の小さな聖母図 ︵ 9 と
を見いだしたことはまず間違いなかろう。その長兄はクリストーフォロ
︵a 。
︶
写では、レオナルド、ソードマ、ジャンピエトリーノよりも相当劣って
﹂といった
JREER
といい、彫刻家・建築家であったが、身体の欠陥のせいであだ名を﹁せ
むし
ク リ ス ト ー フ ォ ロ と か た く 結 び つ け ら れ た ア ン ド レ ー ア は、 ク リ
︶ はバルトロメーオ・スアルディ
である。このブレーラ美術館の作品 ︵ に
のはこれに由来するのであろう。前者はミラノから遠いところで描いた
︵ ソ ラ ー リ オ の ア ン ド レ ー ア ︶ と、 サ イ ン を 使 い わ け て い た
GH6RODULR
︵ミラノのアンドレーア︶と、あるいは
$QGUHDV0HGLRODQHQVLV
の美しい肖像︵現在ロンドンのナショナルギャラリー所蔵︶を描いただ
行き、おそらく一四九二∼一四九三年頃、ヴェネツィアの一元老院議員
ドレーア・ソラーリオは兄のクリストーフォロに従ってヴェネツィアに
︶ 一四九○年アン
通称ブラマンティーノの影響も指摘できるだろう ︵c 。
ス ト ー フ ォ ロ の 旅 に つ い て 行 っ た こ と だ ろ う。 ソ ラ ー リ オ が あ る い は
作品に見られ、後者はミラノで描いた作品に見られる。古い著述家らは
︶ こ の 絵 に は ジ ョ ヴ ァ ン ニ・ ベ リ ー ニ の 影 響 が、 ま た そ れ 以 上
ろう ︵ 。
は誰もいない。この点について、たとえばポルディ=ペッツォーリ美術
ほど、モデリングにおいてレオナルドに近い画家はロンバルディア派に
︶ アンドレーア・ソラーリオ
もとで学んだ修練のあとが確かにある ︵ b 。
からない。頭部ほかに見る精妙なモデリングには、彫刻家だった長兄の
が、まったく支持しかねる。アンドレーアの師匠は誰だったか、今もわ
レがこれに続き、この画家に当てた一章で新しいことを付け加えている
︶の功績である。クローとカヴァルカセッ
QRWLFHGHVWDEOHDX[GX/RXYUH
の は 故 オ ッ ト ー・ ミ ュ ン ト ラ ー︵ 2WWR0QGOHU$QDO\VHFULWLTXHGHOD
が 何 人 か い る。 ア ン ド レ ー ア・ ソ ラ ー リ オ の 画 業 に 最 初 に 光 を 当 て た
ン チ の 召 使 い た る ア ン ド レ ー ア・ サ ラ イ ー ノ と 混 同 し て い る 美 術 史 家
だったのだろう。アンドレーア・ソラーリオを、レオナルド・ダ・ヴィ
ろから推測するに、クリストーフォロは末弟アンドレーアの父親代わり
と想像されるのである。しかしクローとカヴァルカセレ両氏はこの絵に
ラーリオがフィレンツェの大画家[レオナルド]から強い影響を受けた
ら、一四九三年ないし一四九四年のヴェネツィア滞在から帰った後、ソ
にレオナルド風で、デッサンはボルトラッフィオを想起させるところか
問題の絵を描いたことは大いにありうる。この祭壇画の聖母の顔は非常
確言できない。しかし、彼がもう一度干潟の街[ヴェネツィア]を訪れ、
ブレーラ美術館所蔵、一○六番︶を︵一四九五年に︶描いたかどうか、
ヴェネツィアのムラーノ島で殉教者サン・ピエトロ教会の祭壇画︵現在
弟は一旦ミラノに帰ったようである。それで、はたしてアンドレーアが
リ ー ニ の 作 と し て 通 っ て い た ほ ど で あ る。 一 四 九 三 年、 こ の 二 人 の 兄
かつて所有していたジェノヴァのガヴォッティ家ではジョヴァンニ・ベ
に、アントネッロ・ダ・メッシーナの影響も見られる。事実、この絵を
の
̶
の偽署名がありヴァザーリの注解者
[ミラ
-RKDQQHV%HOOLQXV
︵c ︶ こ の 絵
聖母は流行の頭巾帽を被っているが、これはブラマンティーノがよくその聖母に被らせ
ネージ]︵第五巻二十四頁︶もこの作をジョヴァンニ・ベッリーニとして引いている
たものであり、ガウデンツィオ・フェッラーリも好んで女性像に被らせていた。ミラノ
と呼んでいる︵画家に失礼な賛辞だ︶。他方ルーヴル美術館の新しいカタログではクリ
のジャンジャコモ・トリブルツィオ公のコレクションにクリストーフォロ・ソラーリオ
による男の肖像
︵薄肉彫り︶があり、
これは兄弟アンドレーアの描く肖像を想わせる。[M]
︵b︶ソラーリオ家にはクリストーフォロのほかに、ピエトロ・ソラーリオという彫刻家がお
ストーフォロはアンドレーアの父親に格上げされている。[M]
かつてこの絵に
̶
︵a ︶ヴィヨ︵ 9LOORW
︶はルーヴル美術館のカタログのなかで、アンドレーアその人を﹁せむし﹂
$QGUHDV
おしなべてアンドレーアを﹁せむしのアンドレーア﹂と記しているとこ
10
り、
ミラノのサンタンジェロ教会の側面入り口に彼の名を入れた高肉彫の聖母子がある。
[M]
̶ 136 ̶
( 19 )
11
ジョヴァンニ・モレッリ『イタリア絵画論−ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館』翻訳(8)−ロンバルディア派(ベルナルディーノ・ルイーニからガウデンツィオ・フェッラーリまで) 上田恒夫
︶ ルイーニには多く
の芸術家としてはソードマにはるかに及ばない ︵a 。
の弟子と追随者がいたが、ブレーラ美術館においてさえ、たとえば十三
番及び二十三∼四十二番のごとく、
ルイーニに帰されている︵四六一番︶。
アンドレーア・ソラーリオ ︵ 5 ︶
ボルゲーゼ美術館にはもう一人、ミラノ派の﹁黄金時代﹂の画家の作
品があり、アンドレーア・ソラーリオの作とされている。二人の手下の
間の十字架を担うキリストをあらわす︵図版①︶
。調子は冷たく、筆使
いは技巧的、陰影は黒いが、かなり入念に描かれている。二人の手下は
戯画風で、かなりフランドル風なところから、私はフランドルの画家の
作であることをまったく疑わない︵†︶。確かにキリストの顔はソラー
作とくらべてキリストは優美に、構成はしっかりと描かれ、色彩はより
暖かく柔和であって、こうした美点はすべて、ポルディ=ペッツォーリ
美術館の名品︽エジプト逃避途上の休息︾
︵一五一五年︶︵ 7 ︶に認められ
るものである。
アンドレーア・ソラーリオはロンバルディア=ミラノ派のなかでまっ
たく特殊な位置を占めており、テクニックに関する限り、同派のなかで
最 も 卓 越 し た 画 家 で あ ろ う。 こ の 画 家 を め ぐ っ て ま だ 学 者 の 間 で も し
かるべき一致が見られないから、この機会にこの画家について詳細に語
ることにしよう。芸術家︵建築家、彫刻家︶の家系であったソラーリオ
家は、ちょうどヴェネツィアのロンバルド家と同じように、コモ地方の
ソラーリオ村の出であるが、十五世紀前半以来ミラノに定住した。従っ
̶ 137 ̶
( 18 )
リオから採っているが、歯を見せる手下や、見にくい親指の爪は、イタ
︵6。
︶
リアで学んだアントワープの画家の産物であると思う ︵ b ︶
この主題はしばしばアンドレーア・ソラーリオの取り上げたものであ
り、ブレシャ市立美術館の小品とシエナの画家ガルガーニ旧蔵の二点も
この主題による。これらのどの作品においても、ボルゲーゼ美術館の本
⑥ルーヴル美術館の二人のプットの頭部のデッサンはレイセ氏が疑問符つきでルイーニ
⑤ウフィツィ美術館の水彩のフォリオ︵版画室一九四○番︶
④ヴェネツィア、アッカデミア美術館の、楽園追放をあらわす木炭デッサン
③同じくアンブロジアーナ美術館の赤チョークの聖母図
鉛白で描いたデッサン︵ブラウンの図録一七九番︶
②同じくアンブロジアーナ美術館の、父親を前にした小さなトビアスをセピアの水彩と
一七五番︶
①アンブロジアーナ美術館の三人のプットを水彩で描いたフォリオ︵ブラウンの図録
︵a ︶ 今日知られるルイーニのデッサンはわずかであり、次にそのいくつかを挙げる。
に帰すが︵レイセのカタログ二三七・二三八番︶
、私の判断では真作である。[M]
︵b︶フランドル派画家によるソラーリオの写しは、このほかに、トリノの美術館、シエナの
市立美術館︵六○番︶、ウィーンのベルヴェデーレ宮︵第一室、七十六番︶にあり、す
べてヘロデアを描く。盆にのった洗礼者ヨハネの首を描くルーヴル美術館の絵もフラン
ドル派画家によるソラーリオの写しにほかならないと考える︵†︶。[M]
図版① アンドレーア・ソラーリオ[モレッリはフランドルの画家とする]
《十字架を担うキリスト》ローマ ボルゲーゼ美術館
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
ジョヴァンニ・モレッリ
﹃イタリア絵画論│ローマのボルゲーゼ美術館とドーリア=パンフィーリ美術館 ﹄
翻 訳︵8 ︶│ロンバルディア派︵ベルナルディーノ・ルイーニからガウ デンツィオ・
フェッラーリまで︶
ボルゲーゼ美術館は、一四七五年に生まれ一五三三年にまだ存命中の
である。洗礼者の後ろに聖エリザベスがいる。この見事な構想による絵
礼者ヨハネに接吻しようとするのはルイーニがひんぱんに使うモチーフ
[キーワード]
ジョヴァンニ・モレッリ ボルゲーゼ美術館 アンドレーア・ソラーリオ レオナルド・ダ・ヴィンチ
上 田 恒 夫
ローマにあるもう一点のルイーニの絵を挙げる。幼児キリストを抱く
ベルナルディーノ・ルイーニのオリジナルの作品を一点も所有していな
はパラッツォ・コロンナの最後の部屋にあるが、手のほどこしようもな
ベルナルディーノ・ルイーニ ︵ 1 ︶
い。他方、シャッラ=コロンナ美術館には、厚いニスで覆われているも
いほど描き改められている。ローマのコルシーニ美術館にもルイーニ作
︶ キリストがかがんでほほえましく洗
柔和な︽聖母︾がそれであり ︵ 3 、
のの、︽節制と虚栄︾の題名で知られるルイーニのすばらしい板絵が一
少なくとも南イタリアと中部イタリアの公立美術館にはルイーニの絵
︶
とされる女性の肖像画があるが︵三十一番︶、間違いであると思う ︵ 4 。
ちなみにこの絵は、
これとほとんど同じ題名のティツィアーノの作品︵ボ
は存在しないが、ウフィツィ美術館のトリブーナにある過ぎた修復をほ
︵2、
︶ レ オ ナ ル ド・ ダ・ ヴ ィ ン チ に 帰 さ れ て い る。
点 あ り︵ 四 三 番 ︶︵a ︶
ルゲーゼ美術館第四室︶とほぼ同じ時期の作とされており、ゆえにそれ
どこした︽ヘロデア︾と、ナポリ美術館︵十五番︶のルイーニの特徴を
想像力豊かだったとは言い切れないが、謹厳にして優美な作風のこの
と同じく︽天上の愛と地上の愛︾とするのが適切であろう。知られるよ
私には文化史上の興味をいだかせない。ルイーニのこの絵は、﹁灰色の
画家はミラノとその周辺︵受難教会、サン・ジョルジョ・イン・パラッツォ
よく示すが表現の十分でない聖母図は、例外である。
﹂
︵一五○八∼一五二○年︶と呼ばれる第二様式で描
PDQLHUDJULJLD
教会、サン・マウリツィオ教会、アンブロジアーナ美術館、ブレーラ美
うに、同時期の他の画家たちも流行のこのテーマを取り上げているが、
かれる。すなわちルイーニがレオナルドの影響のもとでその作品を研究
術館、ポルディ=ペッツォーリ美術館、ボッロメーオ美術館、レニャー
様式
し、特に顔の形を初期の作品よりも入念に造形的に描いていた頃の作品
ノとサロンノ、コモ大聖堂、ルガーノほか︶以外には知られない。彼の
べリーニのそれのように非常にたくましくかつ広い。ルイーニも、正真
描く体は太めでいくぶん重く、足はたいてい長すぎ、手はジョヴァンニ・
である。
︵a ︶この作品は当主がパリに売却した作品中の一点であることが知られている。[F]
̶ 138 ̶
( 17 )
金箔からみた文化度金沢城二ノ丸御殿−『御造営方日並記』を主要資料として 太田昌子
̶ 139 ̶
( 16 )
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
註
1
金沢美術工芸大学美術工芸研究所編﹃金箔調査報告書﹄二〇〇二
2
北國新聞社出版局編﹃日本の金箔は %が金沢産﹄時鐘社、二〇〇八
金沢金箔については、本格的研究といえる下出積與﹃加賀金沢の金箔﹄
︵北國出
3 ﹃石川県史﹄第三編︵石川県教育委員会 一九二九︶
4
版社、一九七二︶、﹃稿本 金沢市史﹄︵名著出版、一九七三︶以来、最新の長山
直治﹃金沢箔の再興と﹁箔業祖記功碑﹂について﹄
︵
﹃石川郷土史学会々誌﹄第四
十一号二〇〇八︶に至るまで文化度金沢城造営に際しての金箔需要が近代に至る、
金沢金箔の萌芽期にあたるという点では一致している。
川口悟﹁文化期二ノ丸御殿再建にみる造営奉行と領民﹂
︵
﹃金沢城調査研究﹄第六
頁を示しておいた。
研究調査室 二〇〇四・五︶なお、本文中の引用文下の︵ ︶内には、該当巻・
5 ﹃御造営方日並記﹄二巻︵
﹃金沢城史料叢書2﹄石川県教育委員会文化財課金沢城
6
号、二〇〇八︶
木澄子﹁金沢城二ノ丸御殿再建時における町肝煎の役割に関する一史料﹂
︵
﹃加能
7
前掲註4所引の﹃日並記﹄下巻に所収。留書と金箔の関係については、すでに荒
の先行研究が一致して、元治元年二月に幕府から越野佐助が藩御用箔の
史料研究﹄3
1988︶において指摘されている。
前掲註
打ち立てについて公認されたことを金沢箔が産業化する契機としてとらえてい
る。
文化度造営金沢城二ノ丸御殿の
̶
金沢城調査研究所﹃蘇る金沢城﹄北國新聞社出版部、二〇〇六
註
に同じ。
︵おおた・しょうこ
芸術学/日本・東洋美術史︶
︵二〇〇八年一〇月三一日受理︶
̶ 140 ̶
( 15 )
99
拙論﹁近世後期の城郭建築にみる儀礼と障壁画
註
に同じ。
に同じ。
註
8
8
8
9
4
8
襖絵・杉戸絵と年頭儀礼をめぐって﹂
︵
﹃金沢城調査研究紀要﹄第六号、二〇〇八︶
10
13 12 11
金箔からみた文化度金沢城二ノ丸御殿−『御造営方日並記』を主要資料として 太田昌子
一、一万七千弐百五拾枚
同断四寸箔員数
ニ
ニ
付百九十六匁三分
四寸箔三千四百五十枚 候事、
但、壱双
・六月二十二日︵下372︶
技も息を潜める時期が来るのは、この後文政四年を境として法度が厳し
くなってからであった。その後何度かの波をくぐり抜け、箔打ちの技は
継承され、いまに至ることになる。
この文化度の造営事業を金箔という側面から見ると、その一枚に至る
までも厳しくチェックを受け、全体計画の中で試算・調達・管理が行き
届いていたことがわかる。これらは絵師も含めて職人から申請があれば、
休止され、四月に再開された。その時点で金地屏風五双が竹之間付とし
文化七年の正月九日には先代藩主が亡くなり、その後喪中は造営も一時
らは覚え書きなどから面影を推測するか、または兼六園の一郭をしめる
に輝く御殿が完成したのであったが、明治十四年に全焼してしまってか
場の職人たちからの献上もまじえて、文化七年七月には内外ともに黄金
基 本 的 に は 内 作 事 奉 行 を 通 じ て 裁 可 さ れ て い た。 と き に は そ う し た 現
て銀三百九十匁で入札され、これには各双に四寸箔三千四百五十枚が置
成巽閣の対面所によってその一端を偲ぶことしかできなくなってしまっ
一、八百九拾目
屏風五双張箔置等、箔 ︵屋脱カ︶伊助
一、弐百八拾七匁五分
右同断、金具五双分、餝や小兵衛
一、百六拾五匁
右同断縁、塗師次兵衛
かれて、この合計が九百八十一匁五分であったことがわかる。六月二十
た。
また、途中で触れた才記家文書には、豊富な箔押作業の実態をうかが
うことができるのだが、紙面の都合もあり今回は割愛した。
なお、本論中に﹃日並記﹄から引用した部分については、当用漢字に
統一するなど一部分を私に改めたところがある。
二日にさらに箔置き代として箔屋伊助に八百九十匁、飾り金具代として
餝や小兵衛に二百八十七匁五分、そして縁の漆塗り代として塗師次兵衛
に百六十五匁が支払われており、この合計が千二百四十二匁五分であっ
た。結局、金箔押し屏風五双は、箔屋、飾り職人、塗師の手を経て、総
計二万二千二百四十匁、一双当たり四百四十八匁で仕上がったことにな
る。
おわりに
いままで見てきた二ノ丸御殿が再建されたのは、文化文政というもっ
とも江戸の奢侈がピークに達したといわれる時期であった。前田家は、
御三家に次ぐ家格を誇る加賀に百万石文化の威風を示すものとして、細
部にまで藩主の斉広の意向を色濃く反映させてこの御殿を完成させたの
であった。その際に必要となった主として表廻りを飾った少なくとも十
六万枚余りの金箔のうち、十万枚かそれ以上の購入先は江戸であり、残
りの多くが地元で生産されたと考えられる。ちょうど幕府の箔打ちの禁
制もやや緩まりを見せていた時期であった。このとき根付いた箔打ちの
̶ 141 ̶
( 14 )
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
一、三百五拾目
︵以下割書︶御式台御紋大小拾九、布着
堅地、蝋色塗立之上、金箔置ニ仕、箔相
立出来代、塗師四郎兵衛等
一、五百六拾五匁
︵ 以 下 割 書 ︶ 御 式 台 千 鳥 破 風 ・ 唐 破 風 、
御小書院破風・懸魚三枚御紋共、四寸金
箔 弐 百 枚 相 渡、 四 百 枚 指 出、 塗 出 来 代、
塗師四郎兵衛等
渡、同断
文化七年五月二十一日︵下329︶
一、四百五拾六匁七分三厘
御式台箱棟御紋等塗箔等代、塗師吉蔵
右令印章事
塗 師 四 郎 兵 衛 等 は、 式 台 に 大 小 十 九 の 前 田 家 の 梅 鉢 紋 を 布 着 堅 地 に
蝋色塗りとしてそこに金箔置きの仕事と式台や小書院の破風や懸魚に同
じようにしてやはり紋を施し、その手間賃を計九百匁ほど受け取ってい
る。このとき四郎兵衛は必要な金箔のうち二百枚を受け取って、残りの
四百枚は献上している。さらに翌七年五月には別の塗師、吉蔵が、御式
台箱棟に御紋等の﹁塗箔等代﹂として四百五十匁ほど手間賃を受け取っ
ている。かくして文化六年の暮れから七年五月にかけて、御殿の屋根や
破風に梅鉢紋が金色に輝きはじめていたわけだが、これに先立つ六年六
月には、
台所の屋根瓦についても紋所を金にするようにと藩主の意志を、
造営奉行の関屋氏が再度確かめたところ、それには及ばないとの答えが
あって取りやめになっている。どこに金の紋所を付けるかも藩主が決定
していたことがうかがえる。
六月二十六日︵上348︶
一、御台所屋ね鬼瓦御紋、金ニ可被仰付哉之旨、関屋氏被相伺候処、
先不及其儀旨被
仰出候事、
ついでに蒔絵師について文化六年十二月の記事をみておこう。
一、三百五拾目
御小書院橘形蒔絵、太五郎
十二月四日︵下138︶
一、御小書院櫛形蒔絵、下絵を以奉伺候処、亀ニ亀甲之内花菱之下
絵之通、本切金も遣ニ可申旨、被 仰出事、
十二月六日︵下141︶
文化六年の師走といえば、藩主が采配を揮った御殿のいわば第一期工
事が終盤をむかえつつあった時期だが、四日、六日に太五郎なるものが
小書院の櫛形と橘形の窓に蒔絵の本切金で亀甲花菱を施し、やがてこの
後下旬に入ると、支払い一覧と翌年に持ち越した継続工事の詳細な書き
立てがなされている。
最後に、屏風と衝立が御殿の調度類としては必須のものであったこと
がわかり、そのうち屏風については制作費用や使用金箔枚数までわかる
文化七年の四月と六月に興味深い記事がある。
四月晦日︵下296︶
、先達 而入札申渡置候竹之御間附屏風、壱双 ニ付三拾八匁、五双
一
代三百九拾目ニ付、右銀渡町会所渡之義相願候 ニ付承届、印章指
紙面肝煎共へ相渡候事、
︶ ・五月七日︵下308 一、先達而申渡置候五双ノ御屏風張立・箔置、町方於手合入札申渡
置候所、表具師金助、下札ニ付、同人 江申渡候様、肝煎伊助へ申
渡置候、且五双ニ付、直段図り箔入用員数、左之通ニ候事、
一、九百八拾壱匁五分
五双出来直段
̶ 142 ̶
( 13 )
金箔からみた文化度金沢城二ノ丸御殿−『御造営方日並記』を主要資料として 太田昌子
5
̶繰・箔押・蒔絵・金屏風
表具師・塗師と金箔 箔
御殿造営で金箔を扱って仕事をするのは、いままで見てきた絵師、箔
師、表具師ということになろうが、いったいこの御殿造営には何人ぐら
いの表具師が参加していたのだろうか。表具師は建具師とは仕事内容も
近いところがあるが、﹃日並記﹄
中でも職人が列記されるような場合には、
近接して記載され、しかも建具師の方が先に記されるようだ。文化六年
四月二十一日条には御移徙の祝賀に出席した職人達の記載がある。そこ
には﹁建具師棟梁両人、
表具師棟取三人﹂に加えて﹁建具師四十三人﹂
﹁表
具師七拾四人﹂とあり、この時点で少なくとも棟梁も含めて、建具師は
四十五人以上、表具師も七十七人以上いたと思われる。
、四貫八百五拾四匁三分︵中略︶
一
有壁拾壱坪、七匁五厘計
金張付下地より上張迄金箔代、表具師手間共、惣御入用
但
金形から紙張ニ被
仰 付 候 へ ハ、 四 百 五 十 八 匁 弐 分 五
厘減シ、百六拾目七分四厘、同断、下塗ヨリ中塗、白土
上塗乞、惣御入用、
・九月十二日︵下61︶
一、九匁九分
地紙唐紙、二篇裏打箔代共、表具師金助
ここに挙げたのはごく一部だが、﹃日並記﹄を見る限り、関連記事は
時期的には文化六年四月から七月までに多く、さらに決済の十二月に集
中している。金箔に関連する作業として挙げられるのは、﹁繰上﹂
﹁箔押﹂
﹁箔置﹂﹁砂子蒔﹂であり、このうち﹁箔押﹂と﹁箔置﹂は同じく金箔で
用紙の表面全体を覆うことをさすと思われる。箔屋伊助は、七月二日条
によれば、繰箔、箔押そして砂子蒔などを行いその手間賃をまとめて受
け取っている。個別にわかるのは、六月十一日条にある、四寸箔千枚を
繰上げて五匁、三寸では二匁八分一厘が支払われている。また格天井一
区画に箔押しすると五分、内側角では二分というふうにかなり細かく作
業によって分けられている。この造営では、職人一人の賃料はほぼ一匁
̶ 143 ̶
( 12 )
彼らの仕事のうち金箔を扱う作業とその手間賃について、文化六年の
六月から九月にかけての記事をみてみよう。
・六月十一日︵上306︶
一、五匁
四寸金箔操手間、千枚ニ付、
一、弐匁八分壱厘
同断、三寸箔
一、五分
天井碁之内張紙金箔押手間、壱枚ニ付、
一、弐分
内角之分
といわれ、じっさい襖絵を地元の武士や町人が手伝った場合は一日一匁
︶
から、比較すればそう桁外れではない。
つぎには塗師の仕事のわかる、文化六年十二月から文化七年五月の記
事をみてみる。
が支払われている ︵
・六月十二日︵上309︶
並
一、弐百三拾二匁五分六厘
操箔 箔押、同砂子蒔等、箔屋伊助
文化六年十二月六日︵下140︶
一、壱匁五分
三尺鳥の子惣金押手間、壱枚ニ付、
一、弐分
同壱歩切砂子蒔手間、壱枚之内、
一、壱匁八分弐厘九毛
三角紙惣金箔、同断
︵中略︶
一、四分弐厘
鳥の子紙一枚裏打、砂子蒔共手間
一、御小書院懸魚等金箔六百枚、内四百枚職人より指出申候筈、跡
江
江戸箔四寸箔渡候義、金谷佐大夫 申談ル事、
同年十二月二十七日︵下185︶
一、壱分五厘
白鳥子壱枚裏打手間
一、八分
鳥の子紙壱枚金箔置手間
・七月二日︵上359︶
13
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
而
一、浅黄ニ金砂子張御天井紙、右砂子蒔ニ 厚薄有之故、繋キ蒔立
ノ分ニ極ル事、
右三口御張付紙、明後二十六日指出旨
二月晦日条によれば、当地で文様を付した唐紙の例として、藩主の居間
近くにある仏間の唐紙がある。松文様は唐紙一枚に五つ紋を付けるから、
唐紙は六十枚、紋は三百箇、これに要する四寸箔は四百二十枚であり、
・四月四日︵上200︶
一、御仏間松之模様地紙壱枚ニ紋五ツ充ニして、地紙数六拾枚、紋
数三百ニ付、四寸箔入用四百二十枚、但、紋数拾ヲニ ︵ マ マ ︶付拾
つまり紋十箇につき金箔十四枚宛というふうに細かく算出している。
而
江戸唐紙屋太左衛門より買上、同人より未直段
極書出不申、本勘渡指支、金谷佐大夫引請、直
段極書出承届、
ども今後の課題として残されている。
屋太左兵衛から買い上げている。唐紙についてのより細かい比較考察な
きな四角に納まった金の浮線蝶文様唐紙地百枚を一貫五百八十目で唐紙
先にみた四月八日条にあった、広式の対面所の天井用とおもわれる、大
六月二十七日︵上349︶
一、壱貫五百八拾目
大碁之内浮仙蝶、金模様御唐紙地、百枚直段、
最後に江戸から購入した唐紙の値段がわかる、文化六年六月二十七日
をみておく。
唐紙が届いている。しかし、この場合には金箔の使用量は不明である。
て、四月には江戸から、金文様︵桐・野筋・唐花輪・浮線蝶丸など︶の
とに襖と同じ金文様、つまり唐花・中桐・松と決めている。これを受け
ので、藩主の意向を伺って、地についてはみな同じく白、文様は部屋ご
めの二月晦日には浅黄地の天井用かとおもわれる唐紙地が不足してきた
や文様にも藩主の意向が反映していたことがみてとれる。つまり、はじ
ついで江戸からの唐紙購入の例。表向き以外の座敷では、襖と天井は
唐紙張付けがほとんどであったが、先の四月八日条によるとそれらの地
四枚充、
一、浅黄之唐花輪地紙不足之由ニ而、於御次金谷左大夫より関屋氏
江
相達候由ニ 、伺被仰出、左之通︵以下六行略︶
右白地ニ金唐花輪之事
一、御仏間御張付、御唐紙共、
一、御見物所御張付、御唐紙共、
右白地ニ金中桐之事、
右之通被
仰出候事、
・四月八日︵上218︶
戸表より三月二十二日不時立今日着、左之通来ル旨ニ 而、金
一、江
谷左大夫より指し出也、
弐百二十枚
上ノ御間御天井御張付地金唐花
四百枚
白地ニ金桐形御唐紙地
弐百枚
同断、野筋形
六拾八貫四百五拾目
銅板七百枚
但、弐百五十八番より二百七拾壱番迄
︵中略︶
一、弐千六百枚
金四寸箔
御対面所御天井浮泉蝶丸御張附、金ニ 而白地
外ニ四寸箔千八百枚、二十九日迄ニ可指出、是ニ而皆済、都合一万枚
ニ角ニテ、右浮泉蝶
一、百二十枚
一、六拾枚
右同断、壱口分
一、参拾枚
右同断、壱口分
̶ 144 ̶
( 11 )
金箔からみた文化度金沢城二ノ丸御殿−『御造営方日並記』を主要資料として 太田昌子
から七月に購入したものであろう。
方がぴったりと合うので前節の最後にみたように屑箔を扱う網屋右兵衛
︶ 杉戸絵の特徴として花鳥系の着彩画が多く、そのなかには
ていた ︵ 。
化七年の四月以降に﹁手透﹂の絵師が随時参加するというかたちをとっ
文化六年の十月から翌七年の六月にかけての岸駒、
別のケースとして、
岸岱および佐々木泉景の例を見よう。
・文化六年十月十八日︵下119︶
一、岸越前介より蒔箔三千枚受取度旨ニ付、寝箔弐千七百枚相渡義、
江
金谷佐大夫 申談ル事、
・同年十二月三日︵下135︶
江
一、泉景 蒔箔百五拾枚、三寸箔を相渡候事、
・同年十二月四日
ニ
一、今日御衡︵衝︶絵︵立脱カ︶箔置も出来 付、指上候事、
・文化七年六月十二日︵下359︶
ニ
付、明日より箔屋伊助呼
一、鵞御衝立、筑前介より下絵付指出候
ニ
出、箔為置候様 可被申渡旨、内作事方へ申談候事、
江
つぎのような文化七年五月三日条に見られるように蒔箔を施されたもの
・五月三日︵下302︶
もあった。
一、八ツ頭御杉戸出来ニ付、蒔箔四寸箔百枚被相渡候様、内作事
、
申談ル事 この八頭をえがいた杉戸絵は、虎ノ間と竹ノ間の間を仕切る御殿の対面
所入口の顔ともいえるものであり、藩主の斉広が画題を選び、所持する
﹁ 生 写 図 巻 ﹂ を 参 考 に す る よ う に 与 え て 仕 上 げ さ せ た も の で あ っ た。 担
当した狩野墨川が八頭鳥の杉戸を仕上げると、必要な蒔箔用として四寸
箔百枚を渡すことを金箔管理をしている内作事奉行に伝えている。こう
した細かい配慮のもとに八頭図杉戸絵は、金箔を蒔き付けて完成したの
げるようにとの内意であろうか。また、息子の岸岱が衝立の鵞鳥図下絵
られたから、膨大な数量に上ったはずだ。それらの紋様は、場所ごとに
4
天井と襖の金紋様唐紙
唐紙の使用箇所は、表向きでは広縁や廊下に面した側の襖と天井であ
り、襖絵の描かれていない座敷の場合はその内部、つまり襖と天井に張
だった。
を提出すると、早速翌日には箔屋伊助を呼んで箔を置くように内作事方
適切と思われたものが選定されそのまま部屋の名前になっていることが
岸駒は九月から制作していた虎ノ間の絵がほぼ出来上がり、仕上げに
蒔く箔を三千枚申請したところが、寝箔二千七百枚を内作事奉行の金谷
へ連絡する指示が出されている。これにより、御殿の衝立は、絵師が下
多い。﹃日並記﹄などに﹁金模様﹂と記されている場合は、今風にいえ
佐大夫に渡すよう申しつけている。これは、一割ぐらいは倹約して仕上
絵を完成すると、それが金地箔押しの場合は、箔屋が箔置きをしてから
ば金で紋様をプリントした唐紙と考えられる。唐紙は地元で表具師が造
・二月晦日︵上179︶
ら四月にかけては居間廻り周辺の唐紙についての記述が多く見られる。
る場合と江戸などから購入する場合の二通りがあった。文化六年二月か
絵師が制作に取り掛かったことがわかる。
3
杉戸の蒔箔
二ノ丸御殿の杉戸絵は、下絵はほとんどが佐々木泉景の手になり画題
とその設置場所についてもほぼ判明してきているが、最後の仕上げは文
̶ 145 ̶
( 10 )
12
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
﹁才紀家文書﹂中には表具師として床張付や襖に箔押し関連の記録が
いくつかみえる。そのうち最も御殿表向きの金箔使用状況を一覧できる
のが、文化七年四月二十三日付けの御造営方御作事所留書所から才紀仁
右衛門に宛てたものである。これによって部屋ごとに一覧表に整理して
みると前の表のようになる。
この内装一覧からみて式台から小書院、装束間まで、表向きの座敷は、
室内は床︵とこ︶から張付、
襖、
天井に至までほとんどが﹁惣金﹂
﹁無地金﹂
﹁金箔﹂
﹁金筋﹂などと表記され、いわば黄金空間として仕上げられてい
る。地味な小書院でも山水に砂子蒔きされており、室町時代の山水襖絵
が素地がおきまりであったのとはまったく様変わりしている。また、居
︶ この表向きの儀礼空間は黄金に
間や奥書院も砂子蒔きされており ︵ 、
輝く、他の座敷とははっきりと異なる空間として特徴付けられていたと
いえよう。
2 黄金の襖絵 ̶
絵師と表具師の共同
襖絵は、基本的には絵師が下絵から本絵までを担当するのだが、すで
に述べたとおり、
二ノ丸御殿の襖絵など室内装飾の彩色部分については、
絵師十五名が分担し、それぞれのグループには主要画家が当てられた。
表向きの座敷の主要部分である居間、奥書院、小書院、竹ノ間とその関
連座敷は、江戸から招聘された狩野祐益・墨川親子が担当し、玄関から
表式台、虎ノ間、実検ノ間は京都の岸駒・岱父子、そして杉戸は在地の
︶
で述べたとおりである。
佐々木泉景、天井は梅田九栄︵八代︶というふうであったことは、既に
拙論 ︵
一、奥御書院御張附砂子ニ被 仰付、松之間ハ砂子薄︵箔︶被仰付、
・文化六年四月三日︵上192︶
御作事奉行等 江申談候事、
・同年五月十五日
、
一、千百枚奥書院蒔箔受取度旨友益申由故、御国制箔相渡遣事 江
但、村田三郎兵衛 相渡事
・同年八月十一日︵下22︶
一、狩野祐益、奥御書院御唐紙蒔箔ニ屑箔、正味金箔三匁三分三厘
相渡候、村田三郎兵衛へ相渡候事
︵中略︶
而
一、奥御書院蒔箔御用、重 御当地出来金箔受取申度旨、祐益申聞、
四百枚村田三郎兵衛へ相渡事、
・文化七年二月二十二日︵下247︶
一、芙蓉之御間蒔箔四寸箔千枚、請取度旨申渡候ニ付、内作事方へ
申談事、
・同年三月朔日︵下255︶
、当四日より於御楽屋多、祐益義萩ノ御間、墨川義ハ竹ノ御間仕
一
残之分、取懸候様申渡、尤箔置之表具師之義も、同日より懸渡被
申様、内作事方へ申談候事、
・同年六月二日︵下342︶
一、松ノ御間有壁蒔箔、祐益手透無之ニ付、梅田九栄於御楽屋多手
伝為致度旨、金谷佐大夫申聞、其通 与申談候事、
まず四月に藩主の指示として、奥書院の壁張付を砂子蒔きにすること、
隣 接 す る 松 ノ 間 の 方 に は 砂 子 を 薄 く 蒔 く こ と が 作 事 奉 行 に 伝 え ら れ た。
これから一ヶ月後の五月十五日に、祐益から砂子蒔き用の箔千百枚の受
取が申請され、これに加賀産の箔を充てる旨を内作事奉行から村田三郎
兵衛に指示がなされている。さらに八月十一日の祐益の申請に対しては、
同じ奥書院用唐紙の蒔き箔用に屑箔三匁三分三厘に加えて当地産金箔四
百枚を渡すことを同じ村田三郎兵衛に申し渡している。この屑箔は、目
̶ 146 ̶
(9)
10
つぎに狩野祐益が奥書院とこれに隣接する松の間の襖絵をほぼ仕上げ
た段階で、金砂子蒔を施す工程を辿ってみよう。
11
金箔からみた文化度金沢城二ノ丸御殿−『御造営方日並記』を主要資料として 太田昌子
金で紋所を付している。こうした内装と別に儀礼用の調度として御殿の
要枚数を四寸箔で総計十六万六︵五︶百枚と試算している。さらに、こ
が、金箔を使用する箇所を小書院︵等カ︶、竹ノ間等、式台等とし、必
六万枚金箔が必要になったはずである。
いうことになろう。座敷の面積に比例すると考えれば、奥書院では、五、
小戸袋などに砂子を施すだけだから、大量に必要なのは、奥書院中心と
数は記されていない。しかし、﹃日並記﹄によれば、奥向きでは、床や
じつは、この六月の記事に先立つ、四月にも奥書院、広式の対面所な
どについて、同じように金箔入用箇所のかき立てはあるものの、必要枚
いると考えられる。
くめた儀礼のさいには一まとめにして用いる事の多い周辺座敷を含んで
味するところは、﹃日並記﹄の記述からみて、隣接する矢天井の間もふ
れ以外の廊下などは金模様の唐紙にするという。この﹁竹ノ間等﹂の意
必需品であった屏風、衝立にも金箔は用いられていた。
本章では二ノ丸御殿内の種々の座敷が登場するが、それらの位置や襖
絵の画題、さらに周辺の杉戸などについては、末尾の図表﹁文化度金沢
城二ノ丸御殿襖絵・杉戸配置図﹂を参照されたい。
1
御殿の表廻りは黄金空間
﹃日並記﹄文化
まず、二ノ丸御殿のうち金箔を用いた座敷について、
六年六月十六日条にまとまった記述がある。
六月十六日︵上321︶
一、此間しらへ金御張附一件、絵図ニ付札を以相伺置候分、檜垣ノ
二ノ丸御殿表廻りの金箔からみた内装一覧
※空欄部は記述のないことを示す。
̶ 147 ̶
(8)
御間より御小書院 江之御廊下 並同所より瀧ノ御間ノ方へ之御廊下
与
並
ハ、常御唐紙地 被
仰出候、
一、御装束之御間ハ、野筋を指止、模様相伺可申旨、仰出、同所前
あ
い
ろ
形
、
さ
や
形
碁
す
み
き
り
金
箔
さ
や
形
、
式
台
同
様
碁
す
み
き
り
金
箔
御廊下も同御唐紙用可申旨被
仰出候、
与
一、御小書院御床ノ後、三尺ノ御廊下も金模様 被
仰出候、
︵中略︶
天
井
碁
天
井
、
折
上
、
唐
草
板 碁
天 天
井 井
・
折
上
鳥
襷
金
筋
一、御小書院等・表御式台都テ金箔御入用高しらへ、申談置候所、
、 金谷佐大夫左之通り被書出候事 金
箔
矢
さ
お
ふ
ろ
板
天
井
惣
金
虎
板
天
井
一、拾六万六︵五︶百枚
四寸金箔惣御入用高
内六万弐壱千百枚
竹ノ御間等
五万三千弐百枚
御小書院
襖
惣
金
惣 惣
金 金
ひ桐 惣
な金 金
た箔
白か
地け
惣 砂
金 子
山
水
板
天
井
四万五千三百枚
表御式台等
右之御入用之旨ニ付、猶更御国箔出来方之増方詮議之趣、肝煎
幸蔵江申渡事、
ここにみえるのは御殿のうちの表向き座敷の内装についての施工案だ
若
松
無
地
金
春
草
等
四
季
草
張
付
惣
金
惣
金
惣
金
若
松
床
︵
と
こ
︶
惣
金
無
地
金
惣
金
惣
金
砂違 有
子棚
納等
戸
構
惣
金
惣 砂
金 子
山
水
部
分
式
台
部
屋
名
実
検
間
廊 虎
下 ノ
間
瀧
間
矢 竹
天 ノ
井 間
間
表 芙
書 蓉
院 間
横 牡
廊 丹
下 間
萩
ノ
間
装
束
間
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
す箔の一辺の長さで表すから、三寸、四寸といった呼称はいまも用いら
安であるから大量注文したのも納得できる。箔の大きさは、正方形をな
ば、中金、本金あるいは中焼のいずれであれ四寸箔であれば、確かに割
この一覧表によって先に算出した江戸箔百枚二十八匁という値段をみれ
れたこと ︵ 8 ︶を考えると、その先行形態を考える資料となる。
元年には破損した箔の打ち直しを名目に特別に金沢での箔打ちが公認さ
払っている。屑箔はときには打ち直した可能性も考えられ、後年、元治
分三厘の屑箔の値段を百三十匁二分と決め、これをつぎの八月二日に支
はじめの七月十二日条では、屑箔を網屋弥兵衛なるものに対して三匁三
そがもっとも御殿としての中心をなすわけだが、そこは襖絵はもとより
︶ そして一歩城の中に足を踏み入れれば、対面空間こ
が高いという ︵ 9 。
の金沢城発掘調査報告によれば、初期金沢城も金瓦に輝いていた可能性
城郭建築を外から見れば、天守閣はそのシンボルということになろう。
織田信長の建てた安土城では天主跡から金箔瓦が出土しているし、最近
二
絵師・表具師・塗師の仕事
金箔から見た御殿の内装 ̶
れているものだが、
品質についての
﹁本焼﹂﹁中焼﹂﹁青焼﹂﹁中金﹂﹁本金﹂﹁色
宜﹂などの表現が現行のものとどのように対応するのかは今後の課題と
したい。
さらに表向きの造営に本格的にとりかかった文化六年四月四日条につ
ぎのような記事がある。
四月四日︵上199︶
、御居間書院台御張付金砂子浅黄地百八拾枚共出来、指出候ニ付、
一
見届、請取、内作事 江相渡候事、
城郭建築とその内部、とくに襖絵を中心とした研究は少なくない。しか
天井までが金と極彩色によって目もあやに色どられていた。近世初頭の
藩主の表の居間たる書院に貼る﹁金砂子浅黄地﹂
︵浅黄地に金砂子蒔き
し、京都御所や江戸城といった権力中枢がその中心であり、それ以外の
にところにより杉戸にも金を施し、窓には蒔絵、瓦にも破風や懸魚には
は襖はもとより、天井から有壁もふくめて室内全体に金が施され、さら
奥書院・小書院・竹ノ間・式台とそれらに関連する座敷であり、そこで
まえば、金箔・金砂子が多様されたのは御殿の中でも表向き、すなわち
﹁書留﹂などの関連記事を用いることになるが、さきに結論をいってし
たかをたどってみる。文献資料としては、﹃日並記﹄に加えて、﹁才記文書﹂
どのような作業手順によって襖、杉戸、唐紙、天井などを仕上げていっ
本節では、文化度造営の金沢城二ノ丸御殿において、金箔が使用され
た箇所の確認をし、さらに箔を実際に扱った絵師・表具師・塗師たちが、
であり、今後の課題として残された部分が多いといえよう。
まった、熊本城あるいは金沢城の研究が近年ようやく緒に就いたばかり
ものとなるとぐっと密度が低くなる。ともに明治には入って焼失してし
の紙であろう︶百八十枚が出来上がって内作事方へ渡されている。
最後に屑箔について触れておこう。屑箔は運搬中あるいは作業工程中
に生じてくる、そのまま箔としては使えない箔をさす。つぎの文化六年
の七、八月の記録によって業者が重量でそれらを売買していたことがわ
かる。
・七月十二日︵上384︶
一、百三拾三匁弐分
屑箔目形三匁三分三厘、壱分ニ付
四匁充、網屋弥兵衛
右直段極、令割印事、
・八月二日︵下5︶
一、百三拾三匁弐分
屑箔目形三匁三分三厘代
̶ 148 ̶
(7)
金箔からみた文化度金沢城二ノ丸御殿−『御造営方日並記』を主要資料として 太田昌子
5
金箔の値段と種類
は金箔の取引値段についても細かい記録を残している。当時、
﹃日並記﹄
東日本が金本位であったのに対して、西日本は銀本位であり、文化度造
営における金沢藩では、国もとでの支払いは銀本位であり、江戸の購入
では金支払いというふうに、
購入先の支払方式に従った対応をしている。
江戸時代においては金の相場は変動していたから、江戸で急落したと
きには、加賀藩は急遽大量に購入を決定していたことは先に見たとおり
である。改めてこのときの江戸金箔の購入価格をみると、九月に中勘と
して十五貫目、十二月に十三貫目支払って完済としている。これが金箔
十万枚の総価格だとすれば、
金箔百枚につき二十八匁ということになる。
一、百九拾目
本焼金三寸箔、千枚
代百枚ニ付、
十九匁、
一、百九十目八分
中金四寸金箔、五百三拾八枚代
百枚ニ付、三拾六匁
一、三拾九匁
本金四寸箔、百枚代
〆四百拾九匁八分
④同年五月十五日︵上273︶
一、弐千八百枚
本焼金四寸箔百枚、四十目かへ
代壱貫百二十目
④
5
・
15
これを別の例と比較してみるために。
40
匁
̶ 149 ̶
(6)
⑤文化七年三月十一日︵下268︶
金谷佐大夫奥書
一、三百五拾五匁
色宜金箔千枚ニ付直段極、
右令奥印事
③
4
・
9
まず、主な関連記事を以下に列記する。
39 36 19
匁 匁 匁
これらにより、各種の金箔をいまも用いられている百枚単位の値段に
直して以下の一覧表に整理してみた。
日
付
①文化六年二月十九日︵上97︶
、江戸箔屋清兵衛︵中略︶但、百枚ニ金三拾壱匁五分、銀ニ直江
一
戸六拾六匁五分、相場図三拾四匁九分壱厘、尤四寸箔之事、
②同年二月二十日︵上105︶
一、壱匁三分三厘五毛
極上大焼足四寸切抜、金箔三枚代、壱枚ニ
付四分四厘五毛
一、八分五厘五毛
中焼三寸四寸分、金箔三枚代、壱枚ニ付弐
分八厘五毛充
金箔三枚代、壱枚ニ付弐分五
一、七分六厘五毛
光沢三寸四分、
厘五毛
一、六分七厘五毛
青焼三寸四分、金箔三枚代、壱枚弐分弐厘
五毛
〆四匁四分五厘五毛
③同年四月九日︵上224︶
⑤
3
・
11
35
匁
5
分
①
2
・
19
33
匁
5
分
②
2
・
20
44
匁
5
分
28
匁
5
分
25
匁
5
分
22
匁
5
分
四 種
寸 類
箔
極
上
大
焼
足
四
寸
切
抜
本 青 光 中
焼 焼 沢 焼
三
金
寸
三
四
寸
分
色 本 中
宜 金 金
四 四
寸 寸
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
・三月四日︵上185︶
一、千三百二十枚
金箔町会所出来之内取揚砂子方ヘ遣、金谷
左大夫 江渡
・十月十二日︵下98︶
而
一、先達 町会所預置候八千枚之金箔、此間三千枚取揚、表具師へ
相渡、写替ニ取懸り候所、寝箔 ニ相成、御費懸申由故、右三千枚
者、追 而蒔箔ニ振向候へハ御用立申 ニ付、右三千枚ハ内作事へ預置、
先日江戸表より到来之壱万之分被相渡候様 ニ金谷佐大夫 江申渡候
事、
三月四日に金箔千三百二十枚を町会所で出来た分から取りあげて、砂子
方に遣ったという。同じように、十月十二日には、町会所に預けておい
た金箔八千枚のうちから三千枚を表具師へ渡して写し替えにかかったと
ころ寝箔になり、費用がかかるので、この三千枚は蒔箔用にすることに
して、とりあえず必要な三千枚は先日江戸から届いた一万枚の内から渡
に申しはかるようにとある。杉戸絵の完成を見て、直接管轄する内作事
奉行に大工から必要な金箔の枚数を申請するように指示が出されている
のである。
4 金箔売買の関連者
ここでは金箔を扱った箔屋などといった町人側の関連者たちについて
考察しておく。
金沢、
文化度金沢城造営に当って、金箔の購入先は、﹃日並記﹄によれば、
江戸、そして高岡であったが、そのうち名前のわかる町人は、金沢の箔
屋伊助とつぎに引く文化六年六月二十五日条の金や忠兵衛、そして先に
六月二十五日︵上344︶
四寸本焼金箔三百四十二枚、三寸、同断、千
も触れた江戸の箔屋清兵衛と箔屋権兵衛である。
一、四百九拾六匁八分
伊助は箔を売るばかりでなく、﹁箔繰﹂
﹁箔押﹂といった関連する仕事も
八百枚、金や忠兵衛
現場の大工や蒔師などが必要な金箔を入手する方法はどのようであっ
行っていることがわかるのだが、江戸の清兵衛と権兵衛については、購
たのか。これについては、
つぎのような記事がある。玄関廻りも仕上がっ
入記事のみである。これもさきにも触れたが、清兵衛からは文化六年に
すことが内作事奉行の金谷左大夫に申し渡されている。
て造作も最終段階に近づいた、文化七年四月以降の杉戸絵がつぎつぎと
金沢には﹁大坂金箔梅印等百枚﹂の値段を聞かれている中村屋彦助、屑
年十二月六日﹁三寸箔買上﹂とあるが、
購入枚数などは不明である。また、
枚購入した可能性がある。高岡からはこれもさきに触れたように文化六
十万枚を十三貫目で購入しており、その翌文化七年には権兵衛から五万
江
仕上がってきている頃のことである。
五月三日︵下302︶
一、八ツ頭御杉戸出来ニ付、蒔箔四寸箔百枚被相渡候様、内作事
本として百枚が単位となっていたことがわかるのだが、すでに大坂箔は造
箔を扱っていた網屋弥兵衛、あるいは道具屋治右兵衛の名もみえるもの
この八頭鳥を描いた杉戸は、虎ノ間と竹ノ間の境をなす御殿の要所に位
営早期に色の悪さと高価なことから購入対象から外されていることは触
申談ル事、
置する︵末尾の図表参照。図中④にあたる︶ものだが、絵が出来たので、
れた。
の、 いまひとつ具体がつかめず、今後の課題にしたい。彦助の場合、見
これに蒔くための四寸箔百枚を渡してもらうように内作事奉行︵金谷か︶
̶ 150 ̶
(5)
金箔からみた文化度金沢城二ノ丸御殿−『御造営方日並記』を主要資料として 太田昌子
しないので、すでに渡した金は目方を精算して差し出すように指示して
これをみるとさきに町方に申し渡した金箔打ちのことは、もはや入用と
、先達 而町方 江申渡候金箔為打候義、最早箔御入用無御座筈 ニ付、
一
先達 而御渡之金目方等、夫々遂勘定可指出旨、肝煎幸蔵 江申渡候事、
左衛門方より内分
許中村屋彦助方へ罷越居申ニ付、左右七を以、箔検儀仕候処、六
与
而
一、大坂箔屋問屋酢屋六左衛門手代左七 申者、買用ニ 、幸蔵才
九月十二日︵下61︶
一、大坂金箔之儀、及 議候処、肝煎幸蔵より申遣、見本三、四通
指出候処、金色不宜、第一高貴 ニ付、指止之事
とも平兵衛以外に三人の箔打ち職人が来ており、そこへ新たにこの京都
に四人が打ち込み、七人にてとあるから、地元にこのときすでに少なく
そのうえで、大坂の箔屋問屋酢屋六左衛門の手代左七がちょうど金沢に
の色も悪く、第一に高すぎるということで購入は取りやめにしている。
これによれば大坂の金箔を肝煎幸蔵から四種類を提出させたところ、金
江
江
但、町用︵同カ︶心 も相達置候様、幸蔵 申渡候事
旨等、肝煎幸蔵申渡候事、
速呼寄候様申渡、若旅用等之儀申聞候者、取計、少充ハ貸渡可申
ニ而
箔 打 拾 四、 五 人 も 可 指 下 旨 申 越 候 ニ 付、 早
いる。じっさいこれを境に金箔購入関係の記事はぐっと少なくなる。
2 地元生産
現地生産に関しては、文化六年二月十九日に平兵衛が京都から三人の
からの三人が加わって、七人体制を組んだことがわかる。一方、箔屋伊
来ており、主人の意を受けた左七から箔打職人十四、五人ばかりを金沢
箔打ち職人を雇い入れて連れ帰っている。これに先だつ十六日からすで
助はつぎに挙げる二月七日条によれば、二、三月中に毎月三千枚︵四寸
に指し下す用意があると聞くと、早速呼び寄せたいから、旅費など少し
3 保管場所
保管場所として浮かび上がってくるのが﹁町会所﹂だが、ここはまた
て円滑に金箔を供給できる体制を整えていたと考えてよかろう。
地元生産によって、次節で見てゆくように、絵師などからの要請に応じ
当地生産量に関する記事は少なく詳細は分かりにくいのだが、購入と
ついての関連記事は見あたらないため、以後のことは不明である。
ならば貸し渡すようになどと幸蔵に申し渡している。この後、この件に
箔︶計六千枚を確かに仕上げるという旨の書面を出している。
合六千枚、急度出来候旨、箔屋伊助書出候事
一、金箔上澄金相渡入情︵精︶候へハ、当月三千枚、三月三千枚都
二月七日︵上148︶
じっさいにこのあと二ヶ月間で金箔六千枚が出来上がっているから、精
こうして金沢における箔生産の目処が立つと、京都から買い上げる必要
当地産の金箔制作の場となっていたと推測される。生産した金箔をその
勤すれば一人が一月当たり四百三十枚程度は仕上げられたと思われる。
はないと決定されている。しかし、このすぐ後に江戸の箔が値下がりす
まま町会所に保管しておき、必要な分を配るという体制が基本であった
がわかるつぎのような文化六年の記事もある。
ようだ。ときには、ここで﹁寝箔﹂が生じればそれを蒔き用にした経緯
ると江戸箔購入の決定されたことは、すでに述べたとおりだ。
つぎに文化六年の秋、九月十二日条にある肝煎幸蔵から出された大坂
の箔打ち職人招聘に関連する記事を見てみよう。
̶ 151 ̶
(4)
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
などについて、
主として
﹃日並記﹄
によりながら具体的に見ることにする。
1 購入方法
造営が本格化しはじめた文化六年︵一八〇六︶正月元旦に、早くも金
箔の入手先として京都と地元との双方について検討がなされている。こ
れを受けて、同月二十六日には、京都と金沢の箔が差し出され、また、
ほぼ同時に江戸の箔も金谷左大夫から差し出されており、これら三ヶ所
のサンプルをじっさいに吟味検討して購入先を決定している。つぎに購
入先のわかる九つの関連記事を時系列順に抜粋してみる。
・文化六年四月三日︵上197︶
一、江戸上箔三寸之分千枚、同箔百枚、肝煎より御当地有合分指出、
江
相渡遣候事、
不残御召上ニ為致、金谷左大夫
・同年九月朔日︵下34︶
一、拾五貫目
江戸表へ申遣候金箔等中勘
・同年九月四日︵下40︶
一、於江戸金箔御召上方及僉議候所、拾□枚当十一月中旬迄出来、
︵中略︶但又十月中旬頃迄ニ六、七万出来之趣 ニ、金谷 江申談ル事、
・同年九月十二日︵下60︶
一、弐千枚
江戸箔本焼金
右来月中可指上旨、道具屋次右衛門申聞候段、肝煎幸蔵申聞、承
届、為指上候様 ニ申渡候事、
・同年十月七日︵下90︶
︵前略︶金箔壱万枚到来之旨、
︵中略︶金谷佐大夫委曲聞之金箔
一、
箱共佐大夫江ヘ指預置候事、
・同年十二月八日︵下147︶
一、千四百五十枚
高岡より買上候三寸箔︵後略︶
・同年十二月十二日︵下152︶
一、壱万六千八百枚
江戸箔
而
而
右二十四日出、昨日到来旨、是ニ 先達 申遣、拾万枚之分、皆
納之段金谷佐大夫申聞之事、
︵中略︶
一、拾三貫目
江戸箔屋権兵衛渡、右同断
・同年十二月二十四日︵下175︶
而
江
一、先達 江戸表 申遣置候箔之内、左之高今日致着候旨、金谷佐
ニ
江
ニ
大夫申聞 付、同人 直 相渡候事、
壱万三千枚
金箔四寸切抜
但、壱万千枚入壱箱
弐千枚入壱枚︵箱カ︶
︶
・文化七年三月七日︵下262 、江戸表へ、跡より申遣候金箔五万枚買上人違候間、重テ直段極
一
内作事被指出、御算用者へ相渡置候事、
これらからみて、文化六年九月四日時点で、江戸箔を年内の十一月中
旬までに十万枚購入する計画をたて、まず十月中旬までにそのうちの六、
七万枚は出来るだろうとしている。記録にみえる江戸箔当来の記事は、
十月七日の一万枚、十二月十二日の一万六千八百枚だけだが、この時点
で予定どおり十万枚が完納されたとあり、しかもこのとき、代金十三貫
目が江戸箔屋権兵衛に渡され、それで決済となっている。翌文化七年三
月七日の条には、江戸の別の箔屋からさらに五万枚を購入する予定で、
価格を確認させている。こうした江戸箔購入の大きな流れがある一方で、
この間にも十月七日には高岡から千四百五十枚、十二月二十四日にも当
金沢で五百枚というように随時少量の調達がなされている。造営の最終
局面に近づいた、文化七年二月十九日には金箔の必要が無くなり、さき
の肝煎幸蔵につぎのような申し渡しがされている。
二月十九日︵下246︶
̶ 152 ̶
(3)
金箔からみた文化度金沢城二ノ丸御殿−『御造営方日並記』を主要資料として 太田昌子
︶
たであろうとされている ︵ 4 。
以前においては金箔を売買する箔屋はあっても、箔打はされていなかっ
にこの系譜がどこまで命脈を保てたのかは明瞭でなく、むしろ文化五年
が管理の任にあたっており、さらにその配下に纏め役の町人、町肝煎幸
によればその配下の御造営内作事奉行六名のうちの金谷左大夫︵建尚︶
の御造営奉行のうちの関屋政良が金箔を管理していたが、同年七月四日
蔵の系列で金箔は管理されていたようだが、たまに関屋以外の造営奉行
幸
̶
﹃御造
本小論では、文化年間に再建された金沢城の造営記録である、
︶ 以後﹃日並記﹄と称す︶を主たる資料として、金箔の
営方日並記﹄︵ 5︵
が金箔の申請した場合には、中間の金谷を通さずに、直接に幸蔵からそ
金谷
̶
調達・管理、あるいはこれを扱う職人たちや使用箇所とその使用量など
の奉行に届けられることもある。町方の肝煎幸蔵については、彼の商売
り被
仰渡之事、
四月十日︵上229︶
一、七百五拾枚箔
三拾人組小頭、同並二十三人
一、三百四拾枚箔
三拾人組御手廻、手明九人
右金箔為冥加奉指上度旨願紙面、金箔品付御達申候様、御用番よ
にみえる文化六年四月十日条の献上例をみておこう。
造営のための金箔は、購入と献上のふたつの入手経路がみられ、数量
的には購入分が大部分を占めている。ここではむしろ例外的な﹃日並記﹄
おり、これによって彼の役割と内容について詳しく知ることができる。
記録としての﹁肝煎幸蔵諸留書﹂
︵以後﹁留書﹂と称す︶︵ 7 ︶が遺されて
蔵 な る も の の 存 在 も 浮 か び 上 が っ て く る。 基 本 的 に は 関 屋
について纏めてみた。
一 金沢城二ノ丸御殿造営に関わる金箔の購入・生産など
文化五年︵一八〇五︶一月十五日に二ノ丸御殿が全焼するや十二代藩
主・斉広︵一七八一 ̶
一八二四︶は江戸から金沢へ戻り、造営のための
采配を揮い、文化七年七月にはほぼ再建を成し遂げ、ここに加賀藩には
一八一〇︶による公務日誌で
̶
五代綱紀以来といえる本格的な政庁が整うことになった。このときの造
営方奉行であった高畠厚定︵一七五三
ある、
﹃日並記﹄によって、造営の全体計画からその変更、資金の調達、
資材の調達や支払いなど、さらには職人の出入り、賃金などについても、
築城といういわば総合的プロジェクトの進行とともに詳細を知ることが
出来る。以下本論において年月日のみを記す場合は、この﹃日並記﹄に
これによれば合計千九十枚の金箔が三十人組小頭等三十余名によって差
で仕上げるにあたって職人が六百枚のうちの四百枚を献上している例も
よることを意味する。
金箔についても造営開始の早い段階で、必要な枚数が算定され、それ
を確保する体制が整えられはじめている。文化六年二月一日には居間は
ある。
し出されている。これ以外にも、最後の方で触れるが、棟瓦の紋所を金
﹁絵のところすべて金砂子﹂などと決定が下されはじめ、ついで五、六
月にかけて使用箇所を絵図に落としたうえで必要枚数を試算し、総計で
購入する場合は、実物を取り寄せて価格と品質とを見比べて吟味した
うえで、主として江戸から購入し、また地元の金沢や高岡からも調達し
ることによって必要量を確保するための模索もはじめていた。以下によ
約十六万六千枚という数字がはじき出されている。
造営に関わる金箔の管理は、﹃日並記﹄によれば造営方奉行とその配
下の内作事奉行 ︵ 6 ︶があたっていた。文化六年二月一日といえば本格的
り詳しくこの文化度造営における金箔の購入方法・地元生産・管理場所
ている。その一方で職人を京都や大坂から連れてきて金沢で箔打ちさせ
造営開始からまだ一月足らずという初期段階であり、このときは、五人
̶ 153 ̶
(2)
金沢美術工芸大学 紀要 No.53 2009
太 田 昌 子
とが金箔生産を支える大きな要因となってきたといわれている。金箔研
金箔からみた文化度金沢城二ノ丸御殿
﹃
御造営方日並記 ﹄を主要資料として
̶
はじめに
究は、韓国、中国、東南アジア、ドイツなどの調査・報告書 ︵ 1 ︶はある
碧障屏画ともなれば、金箔そのものが画面を覆うようになり、その後の
料紙装飾などに切金装飾が大流行し、さらに時代が下って桃山時代の金
まっていたことは確実である。その後、平安後期になると仏画や仏像、
すでに切金が使用されているから、この国での金箔使用は7世紀には始
用いられていることを発見して驚くはずだ。古くは法隆寺の玉虫厨子に
に工芸品などを注意して見れば、金箔からつくられる砂子や切金が多々
答えられない、そうしたところが金箔にはある。古い仏画や仏像、さら
めの竹箆などといった材料・道具である。逆にいえば、これらの条件が
技と箔の接着を防ぐために挟む薄い和紙あるいは皮、そして箔を扱うた
ち伸ばされたものもある。これを可能にするのが、根気のいる箔打ちの
こうが透けて見えるほどに薄く、一万分の一ミリメートルほどにまで打
いえば、よく知られているように、その驚異的な伸展性を利用して、向
の他の条件が整っていることの方が大切であるように思われる。金箔と
世界的に見ても金の産出地と金箔生産とは必ずしも重ならず、むしろそ
現在、日本で金箔といえば金沢産が全国シェア九十九パーセントを占
︶ 金沢は金の産出地を近くにひかえているわけではない。
めるという ︵ 2 。
もののより精密で総合的なものは今後の課題となっている。
城郭建築装飾の中心部分にこれが引き継がれてゆく。本小論で対象とす
整えばそこが生産地になるわけである。金沢では二俣和紙や根気強い労
ば、前田利家︵一五三七
[キーワード]
金箔 金沢城 障壁画
金箔を知らないひとはまずいないだろう。しかし、改めてそのつくり
方や使用法について問われると、逆にまたほとんどの人が自信をもって
るのは、江戸後期の大名御殿における金箔使用の実体についてである。
文化年間の金沢城二ノ丸御殿造営だったとよくいわれる。歴史的に見れ
る、この箔打ちの技術は、薄く伸ばしてゆく過程で、箔同士がくっつき
の三輪遠兵衛に金箔製造を命じているから、この時能登に箔打職人のい
働力といった条件とともに、さらに加えて大きなきっかけとなったのが、
金の箔打ち技術をみると、じつに古くから世界のいたるところで、し
かも多様に行われてきたようだ。金の薄板を打ち伸ばして薄い箔をつく
合わないように、
一枚ごとの間に挟みこむものが、紙か動物の皮かによっ
たことは確実 ︵ 3 ︶なのだが、その後元禄以降の厳しい幕府の統制のもと
一
̶五九九︶が文禄二年︵一五九三︶に七尾城
て、大きく二大別され、日本では優れた和紙の供給が保障されていたこ
̶ 154 ̶
(1)
53
2009
THE BULLETIN OF
KANAZAWA
COLLEGE OF ART
ISSN 094 - 6164
A Creation of Interactive Art 3
ITO Hidetaka
2 Artistas Japoneses de Arte Contemporaneo
ENDO Kenji
Original Textile designed for Scarves
OHNO Yu
Belgica, Personification of the Low Countries in Prints
during the Eighty Years’ War
YASUI Ayumi
Mutual Reducing Effect of Outdoor Advertising
TERAI Taketoshi
A Research of Spatial Design in Kanazawa
TANAKA Hiroshi
SAKAMOTO Hideyuki
KADOYA Osamu
TSUBA Takahiro
A Research on some Wooden Etching Presses in Europe
On Brook Taylor’s Linear Perspective
Childlikeness and Violence
-Matsumoto Taiyo’s “Tekkonkinkurito”, Umezu Kazuo’s
“Rôjin”, and “IARA”
A Report of the Inspection of Foreign Ateliers
for the Conservation and Restoration of Japanese Art,
especially Painting
A Study on Mixtion
KAMITANI Yoshio
IMURA Toshikazu
TAKAHASHI Akihiko
ARAKI Keishin
TERADA Eijirou
UEDA Tsuneo
Della Pittura Italiana. Studi storico-critici di Giovanni Morelli.
Le Gallerie Borghese e Doria Pamphili in Roma.
(Japanese Translation 8, from Bernardino Luini to Gaudenzio Ferrari)
The Use of Gold Leaf at the Early 19th Century Kanazawa Castle
-A Consideration through “ The Diary of the Construction Magistrate
(Gozoeikata-Hinamiki)”
Titles of Researches and Studies in 2008
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