(パネル 1) 柴田是真(1807 年-1891 年)は日本史の曲がり角に登場した傑物である。是真は工 芸家としての前期を徳川幕府の下で過ごし、明治維新とともにその後期をスタート させた。西洋と邂逅した明治日本は、政治、経済、文化のいずれの面でも大きな転 換期に入っていた。武家政治の倒壊後、是真の仕事は芸術の大変革の一翼を担うも のとなる。当時の日本は明治天皇の御意向に沿って、殖産興業のみならず芸術も刷 新することにより、西洋列強に伍する近代国家の創設を目指したのであった。柴田 是真はウィーン万国博覧会(1873 年)、フィラデルフィア万国博覧会(1876 年)、 パリ万国博覧会(1889 年)、及び内国勧業博覧会などにも積極的に出品している。 このことは、日本の美術の振興に本人がいかに力を注いでいたかを如実に示してい るだけではない。それは、作品のクオリティーを向上させるためにはどんな努力も 惜しまない職人魂の表明でもあった。晩年、帝室技芸員に任命された柴田是真は日 本漆工会の創立に際しても大きな役割を果たしている。 (パネル 2) 柴田是真(1807 年-1891 年)は明治漆工界の重鎮として知られている。しかし、幅 広く美術を学んだ是真は絵師としても存分に実力を発揮した。その作風は嫋やかで 諧謔に富んでおり凜とした粋なタッチがうかがえる。 是真は生粋の江戸職人の家系に生を享けている。父親は宮大工の子供であったが煙 草入れ商人の養子になった。是真は 11 歳の時、古満寛哉〔二代〕(1766 年-1835 年)の門に入って蒔絵を学び始めた。古満寛哉は徳川将軍家お抱えの蒔絵師古満家 の花形であった。5 年後 16 歳の時、是真は下絵を描く画技を学ぶために四条派の画 人鈴木南嶺(1775 年-1844 年)の門を叩いた。 その後、1830 年には四条派の本場で修業すべく京都に遊学した。四条派は松村呉春 (1752 年-1811 年)を祖とする画家集団で、京都の四条通周辺を拠点にしていたこ とからその名が付いたものである。この京都では岡本豊彦(1773-1845)に師事し て、呉春が創始した固有の画法を会得するとともに、岡本豊彦自身が実践していた 文人画(南画)のスタイルも吸収した。 (パネル 3) かわりぬり 柴田是真は 1840 年頃からさまざまな 変 塗の開発や復興を行うようになる。その背 景には、いわゆる天保の改革の倹約令で金銀の使用が制限されていたことがある。 せ い が い は ぬり かくして是真は例えば青海波塗 を再興した。これは卵白などを混ぜた絞漆を薄く塗 し た ん ぬり せいどう ぬり り、先端が鋸状の篦などで波文を描く手法である。また是真は紫檀塗 や青銅塗 等々 も駆使して、作品の外観を紫檀や青銅や陶器などのように見せる「だまし漆器」を 数多く生み出した。これらの技法は込み入った工夫と大変な手間を要するものであ った。 常に斬新さを追求し続けた是真は漆絵でも才覚を働かせた。漆絵の技法については、 蒔絵師の原羊遊斎(1768 年?-1845 年)が団扇に施した先例があったが、是真は独 自のやり方でこれを大幅に改良した。すなわち、透漆に多種の顔料を混ぜ合わせて から特殊な保存剤を入れて、掛軸として巻いても剝がれない漆絵を開発したのであ った。 (パネル 4) 日本には世界一とも言われる長い漆の伝統がある。ウルシノキから採れる樹液を精 製した漆は、既に縄文時代から日用又は儀式用器物の塗料として使われていた。現 在確認されている最古のものとしては、北海道の南茅部町の垣ノ島 B 遺跡から 2001 年に発見された 9000 年前の縄文前期の漆器である。 ウルシオールを主に含んだ漆は固有の化学特性を持っている。液状のウルシオール は触れると皮膚に発疹を生じることがある。ウルシノキから採取したばかりの荒味 漆は濾過するなどの工程を経て精製漆にする。また、必要に応じて顔料を加えて色 を付ける。出来上がった漆を木地、皮革、紙、陶磁器その他の素地の上に幾重にも 塗り重ねる。 漆器を装飾する技法は種々あるが、代表的なものとしては金粉や銀粉を蒔いて模様 を作り上げる<蒔絵>、貝殻を薄く研磨したものを漆の表面に嵌め込む<螺鈿>、 刀で漆の表面を線刻しその彫り跡に金箔や銀箔を擦り込んで模様を作る<沈金>な どがある。 漆塗りにおいては、各層を乾かしたり研磨したりすることは非常に根気の要る作業 である。温度 25~30 度、湿度 75~85%程度が漆を乾かす好条件とされている。漆は 水分を蒸発させることによってではなく、ラッカーゼの働きを利用して高い湿度で 「乾かす」のである。 (パネル 5) 柴田是真は海外の万国博覧会に何度も参加したおかげで、世界的に高名な日本人美 術家として押しも押されもせぬ存在になった。是真の漆工の多くが西洋の美術館に 所蔵されている事実がそれを物語っている。是真は 1873 年のウィーン万国博覧会に、 せ い が い は ぬり 青海波塗 などを駆使した『富士田子浦蒔絵額』を出品して進歩賞牌を受賞した。ま た、1876 年のフィラデルフィア万国博覧会には漆絵画帖三冊を出品して賞牌を受け た。さらには、1889 年のパリ万国博覧会に『立波海老蒔絵額面』を出品して金賞牌 を受賞している。そして同年、上野日本美術協会列品館で、是真翁絵画蒔絵展覧会 が開催され、絵画 596 点、蒔絵 146 点などが展示された。まさに、現存作家として は最大級の大規模な回顧展であった。 当時、西洋で行われた万国博覧会は、柴田是真のような優れた日本の工芸家を公衆 に知らしめる良い機会になっただけではない。それは、日本美術の特異な技巧を紹 介する役割も果たした(展示の紹介パネルを参照)。例えば、1878 年のパリ万国博 覧会では、日本の漆装飾の多岐にわたる可能性について来場者たちを啓蒙したので ある。
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