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中国「花」文化−桂花考 - 東京成徳大学・東京成徳短期大学

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中国「花」文化−桂花考−
王 敏*
かいどう
海棠には「花仙」「花中神仙」の別称を与えて
序 春の花のように、秋の花のように
きた。「花」は親の「華」を離れて独り歩き。
古代、中国で「花」と書かなかった。「華」
が「はな」の一般的な漢字だった。植物を表す
「
」冠に、美しく垂れ下がった形の「
」。
確固たる地位を占めるのに時間はかからなかっ
た。
花好きの中国人は古来、十大名花を競って選
中国の代表的な木、柳の枝と葉の姿から、
「華」
んできた。時代、地域によって違う十大名花を
の字は生まれたとされる。日本では、しだれ桜
一九八七年、全国投票でリストをつくった。順
がこの字にピッタリ。藤棚もふさわしい。
に花の名を記すと、梅・牡丹・菊・蘭・月季
「華大」「華名」「華彩」「華麗」「華美」「華
(コウシンバラ)・杜鵑(ツツジ)・山茶(サ
顔」
「華容」
「華洛」
。
「華」の字のはなやかなイ
ザンカ)・蓮・桂花(キンモクセイ)・水仙。
メージは、文明の発展した、文化が開けた栄え
中国は漢字の国。簡潔明瞭な漢字表現の「花
る状態を連想させ、これは中国そのものを象徴
言葉」の花壇がつくられていった。
するようになる。「華人」は中国人の自称。外
花中 両 絶 ……牡丹・ 芍 薬
国に居住し中国籍のままの商人や経営人は「華
園林三宝……木に銀杏・花に牡丹・草に蘭
僑」。「華語」は中国語のこと。「中華」は中国
花草四雅……蘭・菊・水仙・菖蒲
そのものである。中国人が自分の国を誇ってい
花中四君子……梅・蘭・竹・菊
うとき、伝説上の理想の国名「夏」と結びつけ
盆樹四大家……黄楊・金雀・ 迎 春 ・絨針柏
て「華夏」と書いてきた。
花間四友………蝶・鶯・燕・蜂
りょうぜつ
たいか
「花」の字が生まれたのは、四季折々の草木
の変貌が「花」誕生の基にあったのであろう。
しん
しゃくやく
つ げ
えにしだ
れんぎょう
宋代の曽端と明代の都卯は、友人を花に譬え
て色別したことで知られる。現代に通じる「花
しょく
「花形」
「花 色 」
「花弁」
「花粉」
「花紋」
「花唇」
は、さまざまの変化をみせる。人びとは「花信」
き
十友」は二人のたとえから選んだ。
蘭………芳友 梅………清友
じゃすみん
ろうばい
「花香」
「花様」
と「花譜」を読みとり、
「花気」
茉莉……雅友 臘梅……奇友
に酔うのである。「花」のない暮らしは考えら
蓮………浄友 梔子……禅友
れない。「花」は広い中国では草花を意味する
菊………佳友 桂花……仙友
くちなし
きんもくせい
かいどう
ところが多い。「花王」は牡丹といつしか決ま
しゃくやく
海棠……名友 芍薬……艶友
った。「花中君子」は蓮。バラ科の中国原産.
*
Min WANG 日本語・日本文化学科(Department of Japanese Language and Japanese Culture)
41
東京成徳大学研究紀要 第 5 号(1998)
宋代で客人、貴賓に譬えたのが、張敏叔。
「実もの」といういい方もある。初秋の芳香樹、
キンモクセイは赤黄の小花を多数つけ、まるで
「花十二客」である。
牡丹……賞客 梅………請客
春の息吹をただよわす。春と秋を同時に持つ欲
じんちょうげ
菊………寿客 瑞香……佳客
張りな、この花は中国人に愛されてきた−
−
らいらっく
丁香……素客 蘭………幽客
第1章 天女「嫦娥」との出会い
蓮………静客 山茶……雅客
桂花……仙客 薔薇……野客
満月は黄金色に輝く。中秋の名月のころ、そ
茉莉……遠客 芍薬……近客
の黄金色が最も鮮やかになる。これは、月世界
のキンモクセイが秋の満開を迎えたから、と中
張敏叔は十二人の「花客」と親しくなったの
だろう、詩を一首ずつ書き残した。この“付き
国人は昔から考えた。
中国で古来、民間に伝わってきた月の生きも
じょうが
合い”ぶりに感鳴を受けた後世の画家たちは、
のといえば、ウサギにカエル、天女の嫦娥、男
十二客をたびたび画題に取り上げている。
神の呉 剛 、それにキンモクセイ。それぞれが、
王安石は「石榴の詩」で、目にとまった情景を
特別のつながりのないまま、各物語を育みなが
見事に描写した。
ら月の生活を楽しむのである。キンモクセイは
ご こう
ばんりょく
万緑 叢中に紅一点あり
小さな花を葉にふりかけたように咲き、満開の
もち
人を動かす春色は 多きを須いず
詩に取り上げ、花の心を詠む。
「花品」
「花影」
「花陰」
「花候」
「花間」
「花界」が描かれる。花
が詩に取り上げられるうちに、花文化が成長し
たようだ。「史記」の中の話をもとにできたこ
とわざが、いみじくも言い当てている。
とき強烈な芳香を放つ。キンモクセイは中国語
で「桂花」とふつう書く。美しい嫦娥は満開の
「桂花」のように、いつでもどこでも目立つ魅
力的な天女とされてきた。
世の男性たちは、嫦娥に声をかけたくなるよ
うだ。あの「西遊記」のおなじみ「猪八戒」も
したおのずか みち
桃李言わざれども下自ら蹊を成す
案の定声をかけている。
「猪」は中国語で「豚」
花の美しさを見ようと大勢集まると、木の下
のこと。イノシシではない。「豚八戒」と日本
に自然と小道ができることをいっている。代表
向けに訳し直したいところだが、固有名詞だか
的な花ほど、大勢の注目を集め、歴代の詩人が
ら仕方がない。ちなみに中国でイノシシは「野
詠んできた。花文化の様相を深める。古今のい
猪」と二字漢字になる。
いならわしに、
猪八戒はどぢで頓馬なところが愛敬。にくめ
げつゆう
花朝月夕
ないが、好色の遍歴はすさまじい。良家の
けいしゅう
ちょとつもうしん
花晨月夕
閨秀 から、女妖怪にまで、大胆に“猪突猛進”
花朝月夜
する。今風にいえば「ストーカー」である。
春花秋月
彼は天上界の統轄軍幹部の一人だった。天蓬
がある。朝の、春の花をほめている。夕方の、
元帥という要職につき、名誉・地位・権威を手
秋の月との並列は、双璧とみたからだ。しかし、
にしたうえに美貌もあった。ある晩、天上界の
言外に、夕方の、秋の花がすばらしいとしても
パーティー会場で、天女嫦娥の踊りを見て一目
……と内に含んでおり、秋の花をも推薦してい
惚れ。ストーカーになって、住まいまで追っか
るといっていいだろう。春は「花もの」、秋は
けた。声をかけたものの振られる。しかし、情
42
中国「花」文化
欲を抑えきれず「突進」したため、嫦娥は天上
界の支配者に告発した。高い位の「天蓬元帥」
えてきたのだ。
また、近代文学を研究している聞一多氏によ
の彼はあえなく失脚の憂目。下界へ追放処分さ
ると、月の兎についても蟾蜍から説明する。蟾
れる。たまたま、下界で豚が出産しようとして
蜍は中国語の「顧菟」とほぼ同音。顧菟は、兎
いたときの処分決定で、子豚に生まれかわった。
のこと。カエルとウサギが月に共存していると
豚への変身処分は死刑以上に厳しい。中国社
いうのは民間の伝承だ。古代から、この生きも
会では古来、邪悪な生物と位置づけてきた。汚
の二体を月精、あるいは月魂と崇敬心をもって
い、大飯食い、だらしがない、貪欲な人の比喩
受け継いできたのだ。月にウサギが住む説は、
に「豚」が用いられてきた。馬鹿にして、のの
インドにもチベットにも、遠く離れてメキシコ
しるときによく豚が登場する。便器のことを、
の原住民にも伝えられてきた。日本の餅つきウ
や ちょ
豚の名を入れて「夜潴」という。自分の息子を
サギがどこから来たか、恐らくインドや中国が
表現するとき最大の謙遜語として「豚児」、さ
ルーツなのだろう。
らに犬ともいっしょになって「豚犬」とへり下
る。
中国では、月のウサギは薬を搗いている姿を
想像する。嫦娥が夫の
それに比べ、嫦娥は古今、なんと人気ものか。
の大切な不老不死の薬
を盗んで反省し、償いに同じものをつくろうと
作家たちは好んで題材にし、めいめい好きな別
懸命に作業しているように見える。愛敬のある
名をつけてきた。常娥、恒娥、
動物のウサギは、カエルに比べて得なのだ。
娥、常羲、
常儀、虚上夫人、広寒仙子……。数多くの求婚
日・月を表現するのに「金鳥玉兎」という。
げい
者から選んだのが、伝説上の弓名人の だ。尭
「蟾蜍」より日本人に親しめる別称だろう。月
帝の時代に一度に太陽が十個も上がってしまっ
と太陽に対する時間感覚を映して「兎走鳥飛」、
て人民が困りはてたとき、九つの太陽を射落し
また太陽と月が交代するので「金鳥西墜、玉兎
た物語りの主人公が
東昇」の諺もいい古されてきた。隋の煬帝は
だった。
この嫦娥にまつわる故事は数多い。夫の
が
「望江南」の詩で、
女神・西王母から不老不死の薬をいただいた。
清露 銀兎の影を冷たく浸し
誰でも欲しい貴重な、この薬を彼女が盗んで飲
西風 桂枝の花を吹き落す
んでしまった。西王母は、孫悟空が盗んで食べ、
将軍の身分を証明する兵符として、銀製の兎
厳罰を受けた不老不死の仙桃の所有者。超能力
が下賜される。銀兎は隋から唐代初めに流行し
の西王母は、他の神たちの協力で、嫦娥の盗み
た。季節は秋。風に吹かれてキンモクセイの花
を糾弾し、月へ追放してしまった(戦国・帰蔵)
。
が散り、小さな花びらから香りが月明りの中で
美しい嫦娥への懲罰は、月への放遂にとどま
らなかった。追加の天罰で、みにくいカエル
かおってくる。
漢・武帝に仕えた忠臣の東方朔は、武帝に気
せんじょ
「蟾蜍」に変えられた。ヒキガエルだ。中国で
に入られようと虚偽の報告をした。「月宮に立
は、月面をカエルがいるように描く。太陽には
ち寄ってきました」
(海内十洲記)
。嫦娥の近況
三本足のカラス「
を語り描いて喜ばれただろう。
鳥」が棲むと信じてきた。
せんしゅん
「蟾 」と書けば、月と太陽を表わすのである。
嫦娥の情熱タイプの事例がいくつか伝わる。
美女とカエルというのは辛いが、中国人は古来、
水神の河伯に対してとった行動は、その一端。
月にカエルが棲み、それは嫦娥の化身と言い伝
夏の深夜、嫦娥は月明りの中で川面を鏡に化粧
43
東京成徳大学研究紀要 第 5 号(1998)
していた。川の主でもあった河伯は嫦娥を下か
ていない。希大な「詞人」だった……
らながめては見とれた。彼女が不思議な琴弦の
毛沢東を詩文へと誘い、詞心を潤わせたのは、
揺れを感受する。たまたま、かんざしを落とし
すばらしい女性がいたから。一九二〇年の冬、
てしまった。かんざしは、愛の表現とされる。
恩師の楊昌済の娘で七歳下の開慧と結婚した。
河伯は嫦娥の愛を受けとめたかったが、水神と
湖南省出身の毛沢東は地元の湖南第一師範学校
天女の愛の交換は天界のルール違反。河伯は、
で、倫理学の楊昌済に高く評価され、卒業する
かんざしを手にして、川面に浮上した。ところ
と北京大学図書館に推薦されて勤務。そこでマ
が川面には蓮の花が咲き乱れ、それは愛を形に
ルクス主義者の李大
したかんざしのようだった。蓮の花びらと、か
の転機になる。ともかく、楊昌済に気に入られ
んざしが同じ形であったのは、迷いの象徴。二
て家を訪ねることが多くなって、娘との恋愛が
人の間の愛が実らないことを知らせている。
膨らんだ。しかし、結婚後の毛沢東は革命への
に出会ったのが革命家へ
嫦娥の魅力は、“流刑の地”の月で大きくふ
道を走りだす。楊開慧に定住の生活を提供でき
くらんだ。月に対して、人間は畏敬の念を惜し
ないまま、国民党政府に開慧は逮捕される。周
まなくなった。実に多くの月の異名が生まれた
囲から離婚をすすめられても拒絶。夫の毛沢東
のは、その証し。詩人や作家、画家たちの風流
に不利益な言動は口をつぐみ、強靭な信念に業
な雅号と同じ背景だろう−
−
を煮やした国民党政府の手によって殺害される。
白兎・玉兎・金兎・蟾兎・兎魄・兎輪・兎
影・蟾蜍・蟾魄・蟾影・蟾光・蟾窟・蟾輪・蟾
まだ若い二十代後半であった。後には幼い二児
が残された。
宮・清蟾・明蟾・玉蟾・豊蟾・桂月・桂宮・桂
毛沢東にとって、最初の結婚であったことは
輪・桂魄・月桂・月魄・月輪・宝鏡・金鏡・玉
いうまでもない。子どもは幼く、相思相愛の気
鏡・水鏡・氷鏡・飛鏡・玉盤・玉環・玉輪・玉
持ちがまだ温かいうちの伴侶の死だった。以後、
鈎・玉羊・玉弓・玉鑒・水鑒・水輪・素娥・銀
革命事業を共有する女性は何人か登場するが、
鈎・
毛沢東にとって楊開慧の光彩は衰えず輝き続け
鈎・碧華・圓景・老兎寒蟾……このほか
に月の異名で忘れてならないのは、「嫦娥」。
「常娥」とも書く。
る。
毛沢東は新中国誕生から八年近く一九五七年
天女の嫦娥は、かんざしに愛を託した。「鏡
五月、故郷の中学で教壇に立つ女性同志の李淑
に対して誰か憐れまん。痛みの定まれる身」と、
一に、革命戦争で夫の「柳直荀」を亡くした遠
清代の杭世駿は「中秋の月蝕」の中で「感じて
き思い出を念頭に置きつつ−
−
いや
賦す」
。続けて詠んだ。
「何の薬か、能く医さん。
ほこりたかきよう
りゅう
我は 驕楊 を失い 君は柳を失う
はし
たか
こん
きわみ
月に奔るの人」と、嫦娥の心の病いを、杭世駿
楊柳軽く り 直ちに重き霄の九に上る
は自分の痛みとした。
呉剛に有てるは何ぞと問い訊ぬれば
も
第2章 月で生まれた仙酒
呉剛は 捧げ出だす 桂花の酒
「蝶恋花 李淑一に答える」と題して、この
毛沢東は、日本軍と闘っている間も、また国
ように詠んだ。楊開慧の死から三十七年も経っ
共内戦を継続している間も著作を怠らなかった。
ていたが、思い一筋を裏付ける。詞の「楊柳」
偉大な革命家であり、偉大な思想家であったが、
はそれぞれの伴侶の姓名を表わしている。この
偉大な詩文を数多く残したことは意外と知られ
一方で、春の樹木の代表でもある。擬人を逆に
44
中国「花」文化
「擬植物」の手法は絶妙。亡き伴侶が心の中で
一片の玉を手にしたにすぎません、といいきっ
生きている。愛をうたった毛沢東の詩文はそう
たのだ。ところが後世、この「桂林一枝」は優
多くない。二十代後半の「虞美人」、三十歳の
秀な人材の譬えに変わった。例えば「丹桂五枝」
ころの「賀新郎」ぐらいだ。このどちらも、楊
というと、宋代の竇家の儀・儼・侃・ ・僖の
開慧への深い愛情がこめられている。
こと。五人兄弟が次々と科挙試験に合格したた
どう
毛沢東の詩に戻る。「楊柳」の霊が月宮へ昇
っていった。月の先住者、仙人の呉剛は桂花酒
を手にして恭々しく迎えた。
「桂花」または「桂」は、日本でいう「キン
モクセイ」のこと。中国の一般的表現は先述の
めだ(宋史・竇儀伝)
。
これで桂花は立身出世を象徴することになっ
た。唐のころから科挙に合格する「登科」のこ
とを、
「折桂」
「攀桂」といいかえるようにもな
った。
ように「桂花」。樹木のことでもあり、同時に
「桂」の発音「gui」は「貴」と同音。桂花
花のことでもある。分かりやすい例として「桜
が咲くときには決まって「貴人」が訪ね来ると
桃」と書いて、樹木であり、花であり、実のサ
され、幸運を招く木である。古来から吉祥紋様
クランボであるのと同じだ。楊柳にプレゼント
に富貴・貴重の意味をもたせて桂花を描く。例
された桂花酒は、呉剛の手造りの仙酒だった。
えば「玉堂富貴」を願う紋様は、玉蘭・海棠
桂花の精から醸造。芳香がそのまま生かされ、
(堂はtang・棠が同音)・芙蓉(富はfu・芙が
甘さが優る濃厚な飲みものだ。
桂花が古来、天上界の仙木とされてきた。月
が原産地と、中国人は信じてきた(准南子)。
木の高さは五百丈(酉陽雑俎・天咫)。八本が
同音)・桂花を組み合わせる。なお、この「玉
堂富貴」を託した別の組み合わせ紋様に、玉
蘭・海棠・牡丹がある。
幸運・吉祥を呼びこみたいと願い続けて、
生い茂っただけで森林の状態になる巨木から
「富貴萬年」紋様も考えついた。芙蓉(富)・
「八桂成林」の言い方(山海経・海内南経)が
桂花(貴)・萬年(萬年青)の植物三種で構成
生まれ、そのうちの二字をとった「桂林」とい
する。「蘭桂斉芳」の紋様は、子孫繁栄を祈る
う観光地も有名になった。
もの。蘭と桂花のコンビでできあがる。
広西チワン族自治区の交通の要地にある桂林
「桂」が冠になった語句を繙くと、ほとんど
は山水に恵まれる。桂林は、南北朝時代の詩人
が吉相を示す。王の冠は「桂冠」。美しい宮殿
顔延之の詩に取り上げられ賛美される。しばら
を「桂宮」。進士の科挙試験に合格した者の名
くして南宋の地方長官として範成大が桂林に赴
簿は「桂籍」といった。「桂香」は最高の芳香
任。当地を天下一の奇山に恵まれた地として紹
になる。桂花材で造った美しい舟は「桂舟」。
介した詩を発表。こうしたことが重なって、桂
四季の中で草木が美しい花を咲かせる「桂秋」。
林の名が広く知れ渡るようになる。
「桂月」は陰暦八月の別名だ。ただ、
「桂枝」は
桂林は、顔延之や範正大より前にすでに、知
「忠貞の士」の代名詞として意義ある地位を占
る人ぞ知る桂花の産地だった。晋代、雍州とい
めるが、時には悲しい使われ方もする。才色兼
げきしん
しょうぼう
う地方宮の刺史郤 が進士の試験に受かり皇帝
備、佳人薄命の女性が死んだとき「桂枝銷亡 」
に「あなたは自分のことをどう思うか」と問わ
と表現した(漢武帝劉徹・悼李夫人斌)
。
れた折、即座に「桂林之一枝、崑山之片玉」と
同じ秋の花・菊が隠逸花と別称されるのに対
答えた。謙遜してわずかに桂林の一枝、崑山の
し、桂花は天上界生まれの陽性の花。「桂」の
45
東京成徳大学研究紀要 第 5 号(1998)
字を分解して造りの「圭」が天子からさずかっ
まって、ついわれを忘れて踊り始めた。そばに、
た玉の意があり、高貴な印象を育む原点が字の
男神呉剛がいた。嫦娥の舞姿にひきよせられ、
中にもある。人間界で珍重される「天下りの花」
興が乗じて思わず桂花の幹をたたき拍子をとっ
と特徴付けできる。
た。すると「天香桂子」と呼ばれる種が振動で
桂花の「天下り」はその種「桂子」の数々の
こぼれ落ちた。しずくの「桂子」に霊感を感得
秘話が語り伝える。白居易が晩年、洛陽に居住
した嫦娥は、自分が生まれ育った地上に分霊を
しながら「山寺月中に桂子をたずね」ようと歌
施す気になった。桂花と桂子がパラパラ、パラ
い、桂子を捜しあてる夢を抱いた。しかし、桂
パラ落ちていく。そのとき、杭州の霊隠寺の和
子の目撃者は古今いない。唐代の詩人 宋之問
尚が夜中なのに起きだして栗粥をたいていると
は桂子の行方を探しあてたと思わせる詩を書い
ころだった。そこへ舞い落ちてきた桂花と桂子
た。
「桂子、月の中落つ。天香、雲の外飄わる」
を、和尚はついでに粥の中に入れてしまった。
(霊隠寺)
。桂子が地上に舞い降りてきたという
ひと口食べて、そのおいしいこと。香ばしさが
のだ。「西湖遊覧志余」にもこの記述がある。
口の中にしばらくの間残る。口では表現できな
霊隠寺付近に、白、黄、黒の三色、丸い豆のよ
い、上品なその味。粥の中の粥の珍品、杭州の
うなものが降りそそいだ。かんでみると辛い味
「桂花鮮栗粥」の起こりだ。
がした……こうした話は民間に数多く伝承され
長江の中流城、湖北省咸寧市も桂花どころ。
てきたが、降りそそぐところを見た人はいなか
生産量は中国二番目だが、質は中国一が自慢。
った。人知れず、桂子は地上にたどりついたと
桂花で次々と特産をつくってきた。桂花酒・桂
いうのだ。
花餅・桂花月餅・桂花団子・桂花飴・桂花茶…
桂子は適地に江南の地を選んだ。集団で根づ
…。それに、たばこの桂花煙もある。
いた。杭州に近い満覚隴村。七千本ともいわれ
地上の最長寿の桂花といえば、陜西省漢中市
る桂花が小さな村を埋めつくす。秋の花咲くこ
の近郊、聖水寺で咲く。紀元前二〇六年、漢の
ろは「満隴桂雨」であり、「桂花源境」の絵の
高祖(劉邦)に仕えた名大臣蕭何が植樹したと
ようである。その村からの芳香は数キロ先にも
伝わる。二十メートル四方の広さで枝を広げ、
漂う。村を訪ねるのに、地図は不要、香りをか
年に二回は花を咲かせ、樹齢二千年でありなが
ぐ鼻があれば十分にというほどだ。
ら樹勢の衰えをみせていない。漢中市は、漢江
浙江省の省都杭州は西湖に臨む景勝地。周辺
の村々とともに桂花が至るところ植わって馥郁
を経て長江に通じる。長江とは一衣帯水。桂花
の縁だろう。
たる匂いがどこからも漂ってくる。桂花との縁
中国人は古往今来、桂花を尚んできた。この
は月宮の嫦娥にある。古今の物語本に紹介され
ことは、花について香りを基準に「三状元」を
ているが、宋代の「輿地経勝」を中心にその由
定めてきっちりと桂花を選んでいる。いわば状
来をたどる−
−
態別の香花ベストワンである。観賞用で芳香第
唐のころ中秋名月の夜、月宮で退屈な時間を
一が蘭、薫茶としては茉莉花(ジャスミン)を
過ごしていた嫦娥はふと下界の杭州を見下ろし
それぞれ選び、桂花は食用部門のベストワン。
た。人間の世界で杭州が天堂と並ぶほどの美し
その香りは、清香型と濃厚型の大きく二タイ
いところと聞いていたからだ。西湖畔の「三潭
プに分類できる。花を顔を近づけるまでもなく、
映月」は月見の最高の名所。嫦娥は見とれてし
桂花の香りは一般的に強い。それでいて濃厚か
46
中国「花」文化
というと、澄んだような清純さもある。二つの
めた酒「桂花酒」を発明したという。仙木の精
タイプを満たすのは桂花だけとされる。清く濃
と仙人の魂が入った酒だから「仙酒」としてあ
い香りであることから、桂花の香りは「九里香」
がめられると歌った。
と称賛されてきた。
地上で桂花が地歩を築きえたのも、仙木の威
光のお陰だろう。神秘の桂花を、男神・呉剛が
第3章 桂花酒満々の湖
桂花酒は、キンモクセイの花の精を極上の白
守護し続けているという秘話が伝わっている。
ワインに浸して一年間熟成させる−−漢代が誕
まず、中国人なら子どもでも知っている董永な
生して間もなく、皇帝専用の秘醸酒として、そ
る幸運児から話は始まる−
−
のつくり方は宮廷外に漏れ出ることを許さず、
董永は、「桃花運」に恵まれ、天女と結ばれ
限定生産され続ける。仙酒であるから不老不死
た。二人の間に息子が一人生まれたが、天女と
に通じると信じられた。香りよい可憐しい花を
人間の結婚は許されず、天女は天上に戻らざる
みて美貌を願う女性の飲みものともされた。
いじら
をえなかった。残された子は母を懐しんで泣く
飲みやすさは酒であることを感じさせないほ
日が続いた。悲痛な泣き声は、男神呉剛の心を
どだ。一年余り寝かせる熟成がまろやかな、ま
打った。呉剛は子にそっと「登雲靴」を渡し、
ったり味にするのだろう。「陳腐」の「陳」に
天上へ母を訪ねる方法を教えた。子どもは十五
意味をこめ桂花酒のことを「桂花陳酒」ともい
夜の月が出るのを待ち、登雲靴をはいて天上に
う。若い女性が酒を味わうことが珍しくない今、
たどりついた。再会を母は温かく迎え、嫦娥か
中国酒コーナーには決まって、桂花酒(桂花陳
らいただいたという桂花飴を子どもに与え、ま
酒)が並ぶ。別名で「貴妃酒」「美容酒」と呼
たピーナツとクルミをあん代わりに月形の餅を
ばれるのも道理である。
つくってあげた。しかし、母子でも天女と人間
酒に弱い人たちにもすすめられるのが桂花酒。
の交流につながればタブー。子はキリンに乗せ
上質な口当たりと上品な香りが飲むものを虜に
られ地上に送り返された(捜神記など)
。
する。果実酒として味は極められ、数々の世界
子は、やがて成長し、立派な役人になった。
レベルのコンテストで金賞や1位に輝く。
月形の餅は「おふくろの味」だった。忘れられ
自然の酒を自然に浸りながら飲む。李白にふ
ず、中秋の夜、月に供え、会うことができない
さわしい酒のようだ。後漢の大儒学者・鄭玄は
母をしのんだ。子は「月餅」と名づけて周囲に
一日三百杯の酒量だったという。これを知る李
広めていったという。
白は、人生百年の間毎日三百杯を続けると宣言
ところで、呉剛は天上界のルールを破って董
した。もちろん、その実行はかなわなかったが、
なんじ
永を助けた罰で、月宮の仙木・桂花の管理を未
酒器に「汝」と呼びかけ、死生をともにしたい
来永劫続けることを言い渡されていた。仙木は
感慨を詠んだ(襄陽歌)
。
成長が早い。剪定しても枝がすぐに伸びる。一
李白ほど、酒びたりの生き方を許容された文
日も怠けられない労務だ。中秋の名月に月餅を
人・詩人はいなかった。杜甫の詩に、
供えつつ、呉剛の身の上話として語り伝えてき
天子 呼び来れども 船に上らず
たのである(唐・段成式・酉陽雑俎など)
。
自ら称す 臣は是れ 酒中の仙
魏代の曹植の「仙人篇」によると、呉剛は毎
日の労務を積むうちに桂花に情を寄せ、心をこ
(飲中八仙歌)
と、ある面では皮肉られた。天子は李白の詩
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東京成徳大学研究紀要 第 5 号(1998)
才に免じてたしかに、李白は四十二歳で道士
ほしかったのだろう。呉剛に会い、桂花酒を酌
呉
みかわしたかった。李白の最期には他の説もあ
に推薦され宮廷に入った時、玄宗皇帝は
自ら出迎えた。
るが、月宮で呉剛と差し向かいで嫦娥の舞いを
ながめて一斗百篇。酒はつきない本場の桂花酒
李白は一斗にして詩百篇
がふさわしい。
長安市上 酒家に眠る
李白の詩は今、千五十首ほど残っている。こ
(同)
のうち酒を歌ったのが百七十首ほど。歴史上の
むしろ、天子は、李白に詩を所望していたと
詩人では群を抜いて多い。「酒仙」の面目躍如
ころだったから、詩作に耽る李白に酒を届けさ
である。湖水を酒に、天地を酔わせよ、と酔狂
せたのではなかったか。楊貴妃を牡丹に譬えた
な詩を書いた−
−
有名な詩も酒に浸りながらの作だった−
−
君山を 却すれば好からん
ふた
……名花傾国 両つながら相歓ぶ
平舗に湘水流る
長く君主の笑を帯びて
巴陵にて限り無き酒
看るを得たり……
洞庭の秋を酔殺せん
(清平調、三首)
(侍郎の叔に陪し、洞庭に遊び酔後その三)
この詩は玄宗皇帝が李白に特製の金花箋を届
らいらく
け、李白はこれに書いて提出した。金花箋には、
湖南省の洞庭湖は長江に通じる。豪放磊落な
きっと酒の「差入れ」が添えられていただろう。
詩だ。洞庭湖をあふれた「酒」は長江に流れ出
日本人にも愛された李白は、江戸の川柳で尽
る。桂花酒であることを祈りたい。……李白は
死して、豪快な夢を残したものである。
きないテーマだったようだ−
−
李太白 一合づつに詩を作り
日本で人気の歌人・若山牧水は
白玉の歯にしみとおる秋の夜の
四日めに あき樽を売る李太白
酒はしずかに飲むべかりけり
李白は、月をよく詠みこんだ。月が酒の飲み
と詠んだとき、李白を思い浮かべていていたこ
仲間のようなものだった。
いっこ
花間 一壷の酒
とだろう。李白と相通じる酔郷の世界が描けそ
く
独り酌んで相親しむもの無し
うだ。
「酔郷」にはもちろん、
「酒仙」の李白を
むか
杯を挙げて 明月を邀え
呼ぶ。「酔伊」と名乗った白居易も招く。自称
影に対して 三人と成る
「酔士」の皮士休も招待する。しかし、唐代の
(月下の独酌)
人ばかり。“唐代閥”ができあがりそうだ。酔
郷をどこにするか、決めたいが、唐代の王績の
こう詠んだとき、月宮の呉剛と向かい合い、
呉剛が創製した桂花酒がもっともふさわしいは
「酔郷記」には、参考にしたいのに所在地が書
かれていない。
ずだ。李白は酔いのなすまま、水に浮かぶ月影
酒の字もおもしろい。「酉」は酒器の象形字
を追っかけ水死したと伝わる。生前から月を友
だ。殷の時代、酒器は地面に突き差していたた
とし、月を捕捉して死んだことから李白に「捉
め「
月仙」
(五代十国期の王定保「唐 言」
)の名も
ため後の時代に、「酉」の形になった。「酋長」
ついたほど。月に昇って、月宮特製の桂花酒が
の「酋」は「酉」の上に屋根のある形だ。それ
48
」のように底を尖らした。卓上に置く
中国「花」文化
は、酒を統轄した祭司の地位を意味している。
頭に記憶させて宮殿に急いで戻った。一心不乱
玉串奉奠や香奠の「奠」の字にも発展していく。
に譜面に書きおこすが、半ばあたりで進まなく
醵出・醵金の「醵」は相互に提供し飲み合うこ
なった。その折、西域駐在官・西涼節度使の楊
と。酪農の「酪」はもともと乳酒を表した。
敬述が西域の名曲「婆羅門」の譜面を献上。皇
ば ら も ん
「醐」はそのうちの良質のものをいい、
「醍」は
帝はその演奏を聴いて感動。参考にして天女の
濃い酒を意味。「醍醐味」は、すばらしい酒の
音曲を思い起こして「 霓裳羽曲 」の創作は完
味から来た言葉だ。「酎」は三度かもした濃厚
成した(雲笈七籤)
。
げいしょうういのきょく
な酒が原義。客に酒をすすめれば「酬」の字を
誤解を恐れずに、大胆にいうと、唐代音楽の
あて、逆に客が返杯すると「酢」……。中国人
記念碑ともいうべき「霓裳羽曲」は、安史の乱
は、酒にまつわる事物・動作を一字で表意しよ
(七五五−六三)の中で散逸してしまった。西
うと次々と創作していった。酉部の字数は意外
域異国風のメロディーが聴衆をロマンの世界へ
と多いのだ。
一気に運ぶものであったらしい。幸い、譜面の
第4章 清風朗月
昔、沖縄では月の光を「月しろ」と呼び、照
射される地表を祝福の聖地と信じた。聖地に
一部が残り、宋代の「自石道人歌曲」集に保存
された。また、この曲の華麗な演奏情景は白居
易によって描写され、「霓裳羽衣舞歌和微之」
は貴重な、時代の記録といえる。
「侵入」できるのは女性のみ。男たちは屋外に
唐の時代、中国にとっては西域文化が目新し
出ることは禁止される。無垢な白装束の女性た
いものであり「舶来品」であった。造型・色
ちが、月しろを浴びながら神に心をこめて舞う
彩・創造が中華にないものばかり。違うだけで
……
なく質も高い。
水墨画の幻想的な情景だ。これは、唐の第六
玄宗皇帝が音楽の才幹を振るったのも、世界
代・玄宗皇帝が月宮を訪れた伝承を連想させる。
の知恵に興味を抱き、刺激を受けたからだろう。
風流天子の呼称が残る由来にもなった−−皇帝
各種民族楽器を使いこなし、作詞・作曲・指揮
は月宮で、大勢の天女に迎えられ、白い素衣で
をし、コンサートの企画まで皇帝自らあたった。
舞う天女たちの踊りを見たという(開天伝信記
音楽好きはますます昂じていく。宮廷内の梨園
など)。想像力豊かな皇帝であったに違いない。
を教室あるいは舞台に、彼は自ら選抜した楽士
夢想であったのか、蜃気楼であったのか。かつ
による楽団を指導する。歌曲に合わせて宮廷の
て秦の始皇帝が蜃気楼で海の彼方の蓬莱山を見
女性たちは舞う。皇帝を師と思って仕える弟子
て不老不死の国を信じたように、月宮訪問で玄
たちであり、「梨園弟子」は今も舞台俳優を意
宗皇帝の歴史は変わった。
味するほどだ。
都・長安は美しい平原に囲まれている。玄宗
この音楽がついに楊貴妃との出会いの場にな
皇帝は河南省で美女の舞い姿を思わせる山容か
った。開元二八年(七四〇)十月、楊貴妃二十
ら名付けた「女児山」を眺めていた。意識が朦
二歳のとき、「霓裳羽衣」の舞を皇帝の前で懸
朧、夢を見る……月宮に入っていった。そこは
命に演じたのだ。皇帝はその時五十六歳。最愛
華やかな世界。数百人の天女たちが羽衣をかぶ
の武恵妃を亡くして、気が沈んでいた。中国史
り、優雅な音楽に合わせて舞っている……皇帝
上稀にみる一目惚れがここに起きた。
は月宮世界が音曲にオーバーラップ、その曲を
楊貴妃は、すでに皇帝と武恵妃の間の子、寿
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東京成徳大学研究紀要 第 5 号(1998)
王と結婚していた。愛に世代の差はない証明だ。
はよく知られている。楊貴妃の数奇な運命を悼
唐の時代、宮廷に仕える女性は三千人以上。才
んだのか、日本に亡命して生きのびたという。
色兼備でみるなら楊貴妃も及ばない女性はたく
京都の泉涌寺には楊貴妃観音が祭られている。
さんいただろう。なぜ、後世の史家の中に、楊
玄宗皇帝と楊貴妃は乱を起こした安禄山に長
貴妃を「女禍」の代表のように引用するのか。
安を追われ、蜀に逃げる途中、楊貴妃は殺され
皇帝の寵愛がなければどうしようもない。しか
た。死が目前に迫ったことを悟ったとき、二人
し、楊貴妃には出色の何かがあったことは容易
はかつて十五夜の月に向かって祈ったことを思
に想像できる。それは、歌舞音曲への天賦の才
いだす余裕があったろうか。「長恨歌」は、十
能だ。音楽に興じた皇帝に共鳴・共感・共歓を
五夜の祈りに燃えあがる愛を歌っている。古来
ひき起こさせたのだ。音楽に通じ、舞に抜群の
からの月崇拝の考えが下地といえる。
艶っぽさもあったのだろう。
玄宗皇帝作曲の「霓裳羽衣」が完全な形で残
陰暦八月十五日。夕方から月を愛でる「賞月」
、
祈りや願いをかける「拝月」、供えものを食べ
っていれば、後世の諸王を満足させられたはず
る「喫月餅」の儀式が順々に展開する。
「賞月」
だ。唐が滅んで間もない五代十国の時代の「前
の風習は周代にはすでに始まっていた。月に桂
蜀」皇帝だった王建墓が一九四二年に発掘され
花を捧げたとされる。線香を立て、月神と太陰
たとき、一枚のレリーフが出土した。それには、
星君を祭る。王宮は、月の沈む方向の西域壁に
演奏隊が整然と並び、舞姫たちは羽根つきの華
祭壇を設営。王は白衣を着て白馬で祭祀場へ。
麗な衣裳を着ているのが描かれていた。「霓裳
月の光の中で荘厳な儀式がとりしきられた。白
羽衣」と想像できた。現存する確かな「霓裳羽
で浮かびあがる「賞月」の儀式はその後の王朝
衣」の情景とされる。これは、唯一の「史料」
に受け継がれ、玄宗皇帝の夢の中にも登場した
とされ、四川省の成都市で見学できる。
のだ。玄宗の見た月のファンタジーは、天女の
白居易の有名な「長恨歌」が語る−
−
全員が白い鸞という鳳凰に似た鳥に乗り、桂花
「天に在っては願わくは
比翼の鳥と作らん
地に在っては願わくは
の香りが漂う中で歌ったり舞ったりした(龍城
録)
。
唐代を経て宋代に「賞月」の儀式は頂点に達
連理の枝と為らん」と。
した。南宋の都・臨安城で儀式の会場として選
天は長く 地は久しきも
ばれたのが徳寿宮に特設した橋。そこで、すべ
時有ってか尽きんか
ての祭祀具は水晶でつくられていた。白装束の
此の恨みは綿々として
女宮たちが白玉製の笙や笛の音に合わせ舞う。
とき
尽くる期無からん。
池には名月も映え、白く輝くような幻想の舞台
が繰り広げられた。この天上の月宮と競い合っ
元代以来、大衆相手の芝居は人気を集める。
「長生殿」(清・洪昇)「梧桐雨」(元・白仁甫)
の一般的演目は玄宗皇帝と楊貴妃の愛がテーマ。
ても見乏りしない白い「賞月」儀に啓発され、
同じ宋代の文人たちは、白い鶴の舞を「賞月」
の儀式に出し始めた。
白居易の「長恨歌」が二人の愛を有名な歴史事
明は漢文化の再興をめざした王朝でもある、
件にしてしまった。日本にも影響を与え、「源
「賞月」の儀式は元朝で改変させられたため、
氏物語」が借用したほか、謡曲の「霓裳羽衣舞」
原点に戻ることはなかった。ザクロの花を飾り、
50
中国「花」文化
カニを食べ放題の項目が加わった。清朝は、漢
代の王安石はこの伝説を「画扇に題す」で引用
文化を大切にした満州族の王朝といわれるよう
し「王斧 宝月を団く修成す」と書いた。
まる
に、この王朝のもとでさまざまの伝統風習が保
円形に強大な循環力があると信じられるのは、
護され、時には発展した。「賞月」の儀式は、
月の満ち欠けが太古から繰り返されてきた事実
東方に屏風を立てて祭壇を設けた。月の象徴で
があるからだ。一定不変の円形でないことが逆
ある月餅の大型を中心に果実や菓子を供えた。
に、生命の不思議を意識させる。
しゅうや
屏風に沿って鶏頭花、枝豆、レンコンも供えた
(中国文化史など)
。
明代の劉基の詩「秋夜の月」がよく描写して
いる−
−
秋夜の月 黄金の波
王宮から目を外の民間に移そう。王朝代々を
こく
通じて守られた拝月の考えは庶民の間にも普及
人の哭するを照らし 人の歌うを照らす
した。月夜に女性は、親しい友人を訪ねて歩く。
人歌い人哭し月 長 に
こく
とこしえ
月欠け月円かに人自ら老ゆ
「走月亮」だ。陰陽説でいえば男性は「陽」
。女
性は月と同様に「陰」。月夜に月の光の下で女
月が崇拝されてきたのは、人間の誰とも対面
性の魅力は増すと信じた。男性は月の夜は大人
する。公平・忠実・清潔の手本だったためだ。
しい。出歩かず、月を拝みながら今夜の美女を
月はすなおに多くの文人の思いを受けとめてき
待つのだ。月が婚姻の神をつとめるとする民間
た。
さんごしちげん
信仰の所以だ。これは、家族や家庭の安全・円
李白は「三五七言」で
満を祈る気持ちにも連なっていく(北京歳華記)
。
秋風清々くして
儒教は、親不孝を最大の悪と教える。親孝行
秋月明らかなり
あつ
ま
が欠けることを嫌う。孔子の「孝」は、親から
落葉聚まりては 還た散じ
遠く離れないことでもある。家族全員が一緒に
寒鴉棲んで 復た驚く
そろい、心身とも健康を享受しつづけたい……。
相思い相見ること
この願いを形に描けば「円」だ。満月の丸い形
知んぬ 何れの日ぞ
は、理想を意味する。満月は、円満・完全・完
此の時 此の夜
備。円の形は無限の循環、不滅の生命力。ダイ
情を為し難し
かんあ す
ナミックな霊力を感じさせる。
ま
王建は「十五夜 月を望む」で
ちゅうてい
大晩日、一家の団欒は円形に食卓を囲む。中
からす
中庭 地白くして樹に 鴉 棲み
国語の「団座」だ。困難を乗り越え、家族全員
冷露 声無くして桂花を湿す
がそろえば「大団円」という。そろったところ
今夜 月明
で「団円飯」を食べる。
人 尽 く望むも
ことごと
中国人は、円満・幸福な生活を別な言葉で表
現するとき、「花好月円」といる。中秋節の別
の表現にも「団円節」がある。家族団欒ををす
るからである。
知らず 秋思の誰が家にか在る
三詩人ともお互い月を愛でつつ、離別や郷愁
を表現している。
浙江省や福建省では、月宮の女神・嫦娥が傍
伝説には、月の「欠け」を修理する職人がい
役になる。この南方地域は、媽祖という航海守
る。満ち欠けで欠けたときが出番。いつも石を
護や安産の女神を信奉する。中秋節の日、人び
八万二千個を持ち歩く(酉陽雑俎・天咫)。宋
とは媽祖廟に月餅を供える。参拝の人びとは食
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東京成徳大学研究紀要 第 5 号(1998)
べていい。この中秋節のときだけ許される習慣
ゴマ・クルミ、果物などが持ちこまれた。クル
で、無料飲食OK。食べれば儲かる「発財餅」
ミあんの「胡餅」が生まれた。
とも呼んで、ご利益を信じる。ただし、食べた
唐・宋代に食品も大発展をみる。餅類でも桂
人は翌年以降に「倍以上返し」しなければなら
餅が登場、宮餅・小餅・五福餅などもつくられ
ないことになっている。
ている。「月餅」という言葉の初見は宋代のこ
日本ではどうだろう。奈良時代、中国の風習
と。呉自牧の「夢梁録」に出ている。同時に、
が日本へ次々と渡った。「古事記」「日本書紀」
中秋節の重要な供物になった(「西湖遊覧志」
つきよみのみこと
つ き よ み
に、月 読 尊 ・月夜見・月弓の表現がでてくる。
など)。元から明にかけて、欠かせない供物の
また、羽衣伝説や白馬伝説、竹取物語、どれも
位置を占め、上皮の絵に月宮伝説など、月にま
月に結びつく。
「源氏物語」の須磨巻、
「平家物
つわるモチーフが描かれる。さらに月餅は清代
語」の月見の章は、月物語の双璧とする説があ
にめざましい“成長”をみる。直径三〇センチ
る。
ものも珍しくなくなる。大・小の月餅をいくつ
遣唐使で中国に渡った阿倍仲麻呂(七〇一−
も積み重ねピラミッド状で高さを競う。頂点の
七七〇)は帰国を果たせず、奈良の都への望郷
月餅だけ「桃頂月餅」と特別に名をつける。日
を月に委ねた−
−
本の鏡餅は「円餅」ともいわれるが、大・小二
天の原ふりさけみれば春日なる
個重ねが普通。多い少ないはあるが、「円満」
三笠の山に出でし月かも
の願いをこめた点では共通している。
漢代からすでに中秋節は陰暦八月十五日にな
ところで「餅」の字を使っても、中国は小麦
った。それまでは立秋の日をあてていたらしい。
粉が主原料。水で練り、蒸すか焼くかする。混
春節に次ぐ大節句になる。清が倒れて中華民国
ぜ合わせる香辛料などの違いで、各種の餅にな
政府は新制度を次々と公布した中に、四大節句
る。春巻や餃子の皮もこの餅の一種だ。インド
制定もあった。元旦は春節、端午は夏節、中秋
のナン、イタリアのピザも同じだ。日本の餅に
を秋節とし、冬至が冬節。春夏秋冬に各一節を
対応する中国の字は「
」
。
「gao」と発音する。
もちごめ
決めた。
原料は糯米だ。
中秋節は、賞月、拝月とともに「喫月」も欠
月餅は、中国で秋の贈りもののナンバーワン
かせない儀式。神との共有・共食を意味するか
だろう。手土産として無難なのがいい。こうし
らだ。「喫月餅」と書けば文字通り。さまざま
た習慣が定着したのは元代にさかのぼる。この
な供えものの中で、月餅が最も一般的。西瓜も
ため「月餅」が通信手段に使うことができ、元
多い。満月にふさわしい丸型だ。家族団欒に通
が滅んだ歴史的故事が伝わる。
じることは先述したが、月餅に「団円餅」の別
称があることはあまり知られていない。
モンゴル族の元王朝は、風雲急を告げる情勢
に敏感になった末期、白色恐怖の政策を次々と
月餅の起こりは古い。殷の時代にすでにあっ
出した。その一つに、金属鉄器類の没収策があ
たと伝わる。一説に、皇帝に命をかけて仕えた
った。日常品として必需の包丁についても十世
名大臣 聞仲をしのんで、領域南端の江蘇・浙
帯に一本と制限した。この中で、反乱の将・朱
江地方で「発明」されたという。そのころは
元璋は準備を進める。一斉蜂起の日時を味方に
「辺薄心厚太師餅」と呼ばれた。漢代、シルク
周知徹底するのに、月餅のあんに通信文を隠し
ロードが張騫の遠征で開拓され、西域の珍しい
52
て贈答した。一三六八年、元は滅びる。
中国「花」文化
この故事で、中国人が月に寄せる崇拝は強ま
ったことだろう。月餅はいっそう不可欠の供え
の模様や絵を刻む。
太陽に対して、山東省辺りで中秋節になると、
ものになった。中秋節が中国の大地に根付く強
月への感謝祭になる。饅頭もここでは満月を模
みになった。
す。
「月」とよぶ。
「筵席」の真中に祭祀台。肺
と胃によく、血行を促進するから、粥と相まっ
第5章 不老不死を願って
て健康に効果的だ。
「宴会」
「酒宴」
「宴」と書けば、日中両国と
桂花の特産地・桂林で紹介し忘れてならない
も同じことを表わす。しかし、中国では長い間
ものに、桂花酒の逸品「三花酒」がある。由来
「筵席」
「酒筵」を使った。
が伝わっている……
「筵」は粗末なむしろ、「席」は筵の上に敷
くやや上等なむしろのこと。
桂林近くの桂花島に勤勉実直な象郎という男
がいた。一本の桂花を丹念に育てていたので十
漢代、西域との交流が拡大して、椅子を利用
八年目の十五夜に桂花仙子が象郎の前に現われ、
した食卓が入ってきた。両足を折り曲げて座わ
二人は愛し合う。結婚式の夜、妖怪の亀王と蛇
りこむより楽な食事スタイルはまたたく間に一
夫人が桂花仙子をさらい、不老不死の桂花仙酒
般化した。近・現代まで中国文化が変わるきっ
を彼女に強要した。象郎は桂花仙子を救い出す
かけはシルクロードのルートがほとんどだった。
ため妖怪に立ち向かい、救出したが、毒剣の傷
この結果、筵と席は改まった食事の集いを意
がもとで死んでしまう。嘆き悲しんだ桂花仙子
味するように変わった。筵席の格上げだ。「宴
は桂林一帯に桂花の花と種をまき、桂花の里に
席」の同音というのも、この格上げを後押しし
した。象郎をしのぶ桂花仙子の愛が籠っている。
たのだろう。
桂林の人たちが、一面に咲く桂花と美しい漓江
古来、宮廷の「筵席」は多種多様。季節を区
の水でつくりだしたのが、三花酒という。
切り、節句を祝い、花鳥風月に親しみ、交遊を
もうひとつ、粥を食味した舌とマッチする陶
堪能した。春は春宴・花夜宴・聞春宴……。夏
酔に誘う飲みもの、杏花酒を忘れずに挙げてお
の夏宴・澆紅宴・紅雲宴……。秋の秋宴・菊花
きたい。アンズを使わず、意外とアルコール度
りょうは
宴・爽心宴……。冬の冬宴・梅香宴・凌波宴…
が高いのが特徴。不老不死の薬用酒に入いる。
…。
晩唐の杜牧は、杏花村の酒贔屓だった−
−
花に関してだけ少し抜きだせば、蟠桃宴・桜
清明の時節 雨粉々
桃宴・菊花宴・桂花宴・杏園宴・桃李宴・茘枝
路上の行人 魂を絶たんと欲す
宴・牡丹宴・
借間す 酒家は何れの処にか有る
梅宴……。中国人ほど宴会好
きはいないと、冗談ではなく真面目にいってよ
牧童 遥かに指さす 杏花村……
いだろう。一年三百六十五日、毎日何かの名目
で「筵席」を開くことができるほど、中国は
「宴文化」を蓄積してきたのだ。
北京地方では陰暦二月一日の「中和節」を大
切にする。太陽に感謝する日と受け継いてきた
ので、人びとは小麦粉で太陽型の饅頭をつくる。
太陽餅と呼ぶ。饅頭の表面に鶏やカラス、太陽
いったいどの杏花村を念頭に置いていたのだ
ろうか。杏花が特産の杏花村は古来四ヵ所知ら
れている。
①山西省汾陽県にある。唐代、酒蔵は七十
二を数えた
②安徽省貴池県にある。酒づくりが隋代か
53
東京成徳大学研究紀要 第 5 号(1998)
池の面に 照る月なみを数えれば
ら知られている
今宵ぞ秋のもなかなりけり
③江蘇省豊県にある
(後撰和歌集)
④南京近くに金陵杏花村の名である
杏花村の酒はどの産が推薦されるのか。杜牧
雅びな歌を味わいつつ、優雅に「最中の月」
の詩に、その指摘のないのが惜しまれる。が、
を味わう。庶民にまで一般化した江戸時代、皮
杏花村の酒は桂花酒と口当たりが合うので、よ
の材料に糯米の粉を使うようになり、こねて薄
く一緒に飲まれる。
くして焼く。二枚重ねて小豆あんをはさんで、
甘いもので、月に関係する食べものに、日本
文字通りの「最中」になった。和風化の冴えは
の菓子「最中」がある。中国の「筵席」が日本
この「最中」にも発揮された。「最中」の皮が
に渡り、平安の貴族たちは詩歌管弦の夕を催し
方形も生まれ、中のあんが丸く、月を意味させ
た。その席に、小麦粉を練り蒸す。伸ばし丸く
て「窓の月」という表現まで考えだされた。
切った白い餅が出た。満月の形に似ているとい
うより、模したのだろう。中秋の月見の宴で、
宮廷の貴族の目に止まる。「最中の月」の食べ
ものと、優雅な名をつけた。
54
最中を食べて、窓の外の月をながめて、乾
杯!
桂花酒で。嫦娥と呉剛にめぐり合えることを
願って…
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