ミルトン「楽園失われて」を読むために 講 演 ミルトン「楽園失われて」を読むために ──自由につくられ自由にこわれ── 原 田 純 ミルトンの叙事詩「楽園失われて」はまともに,人間は喜びにつくられ たとうたう。古来,これほど人間の本性は喜びとうたいあげた作品はない。 アダムとイブの楽園生活で確認しよう: 果肉かめばかぐわしく,のど渇けば 樹液あふれるながれすくい, 話しあいやさしく,ほほえみに高まれば 二人きよらかそのまま青春愛撫, まじわる幸せにまじわりしかと, 二人いるだけだから。(IV, 335–340) 枝でうたれた実がそのまま口に落ちてくる。幹つたう樹液をすくって飲 めば甘露。仕事は花の手入れ。語りあいつつほほえみに高まれば愛撫。夕 ぐれになれば満点星空のもと創り主への祈り,自分の心のままの形である。 これが毎日の生活。さらに言えば,二人はつくられた青春のまま年をとら ない。病気も老いもない。つくられたままそのまま永遠。愛は一人の男と 一人の女の愛。互いにそれ以外の愛を知らない,知りようがない。楽園の 愛は性愛以上でも以下でもない。博愛やカリタスではない。性愛,それし ① ─ 1 ─ 金城学院大学キリスト教文化研究所紀要 かない。 日本語の楽園はギリシャ語パラダイスの訳である。このギリシャ語はヘ ブライ語ではエデン,喜びである。エデンの園とは喜びの場。喜びにつく られた人間は喜びの場におかれる。人間のあり方と環境の一致である。悲 しい人間は悲しい世界に生きる。自分が悲しければ自然のかがやきが悲し ませるようにはたらき,断絶距離,疎外要因になる。ワーズワスは「不死 のオード」をこの悲しみでうたい始める。人間のあり方と外なる世界との 不調和をどう調和させるか,ロマンティシズムの課題である。 喜びにつくられた人間が喜びの園におかれる完全調和,ルネッサンス期 ミルトンの叙事詩の基底である。ストーリーはこの調和がなぜどのように こわれるかとつづく。全知であり全能である創造者が喜びにつくったもの の,こわれるはずのないものがこわれる。すべて喜びであるものが悲しみ へ,永劫回帰の楽園神話世界が一回性で断続する歴史世界へ,宇宙史のこ の決定的転換を叙事詩はうたう。 (以下叙事詩とは「楽園失われて」を指す)。 Ⅰ 上の楽園場面の最後に「二人いるだけだから」とある。愛は二人だけの もの。楽園は二人が愛しうるかぎり愛しあえる保証の場である。他を全く 気にせず二人だけの愛の喜び,それが喜びの園。喜びが永遠につづくよう 楽園はつくられた。原始社会から古代ギリシャ・ローマ社会に流れた時間 意識は,同じものが同じように回帰する。神々からながれでたものは神々 へともどる,流出と回帰の永遠運動である。エデンの楽園は等質,単調, 反復の時間リズム。何事もなければ楽園はこのまま平安と幸福であった。 つくられたあらゆるものを乱し破壊してやまない力,つくりだす創造の 力すべてに叛逆する力,ヘブライ語で敵対を意味するサタンが,人間と楽 園創造以前すでに出現していた。英語ではセイタンと呼ばれ,破壊のため ─ 2 ─ ② ミルトン「楽園失われて」を読むために だけにはたらく悪天使である。叙事詩はこの集中破壊力をサタンとして再 神話化する。神からながれる創造エネルギーは,サタンによって中断され, そのたびに新しい創造が必要となる。異質のものが生みだされ,そのこと によっては時間は円環せず直線を走ることになる。ユダヤ・キリスト教時 間であり,現に歴史に流れている時間である。神話円環時間がこわれ,歴 史時間が生まれる。この転換にはたらく力がサタン。この叛逆天使によっ て楽園神話世界がこわれ,歴史世界へと転換した次第を叙事詩はうたう。 天と地そして人間をつくるため,神はこれを行う力,神の子を生む。こ の子の出現に大天使ルーシファー(光の子)は嫉妬し,天使たち三分の一 をそそのかし反逆する。天上に戦いが起き,神の子によって天から落とさ れる。そのとき子は反逆天使たちの落ちる場をつくる,これが地獄である。 かれらに代わるものとして人間をつくり,楽園をつくる。地獄に落とされ たサタンは人間を破滅しようと地獄を脱し,混沌を抜けて楽園につく。以 上宇宙史が示すのは,人間には自分に向かう根元破壊力がすでにはたらい ている事実である。人間はつくられたときすでに根元恐怖を背負う宿命者 である。喜びにつくられた人間はすでに破滅の恐怖におびやかされている。 人間より前に出現したサタンが,人間を破壊しようとついてまわる。 叙事詩は物語という虚構ストーリーによって,人間とは何かの問いに根 元的に答える文学ジャンルである。神やその子やサタンすべては,人間の 本性を明らかにする虚構形象(フィギュア)である。叙事詩がよって立っ ている旧約聖書創世記の神話は,人間を明らかにするための必要資料であ り,神も神の子も天使も必要場面に登場するフィギュアである。叙事詩へ のアクセスは人間理解の期待であり,裏切られない。 人間がつくられる以前,創造者の創造過程の中で意志に反し,人間破壊 の力が出現する。宇宙の始原秩序にねじれた要因が生ずる。原秩序を乱す 破壊力である。引用の至福場面は,実は,この本源敵対力に楽園人が最初 におびやかされる場である。全能の神といえどもサタンの人間攻撃を止め ③ ─ 3 ─ 金城学院大学キリスト教文化研究所紀要 させることはできない。神は天使を自分で行動する自由なものにつくった。 ルーシファーはこの自由をつかって自ら叛逆しサタンとなる。神は自分が つくり,そのようになったものを変更することはできない。変更は神自身 の誤り,自分の全知と全能の否定である。神の証左は創造したものの貫徹, 無変更,無矛盾。神は創造物秩序を配慮する閉じられた完全充足体であり, 創造されたものが運動する時間と空間の中心静止である。サタンは創造物 の完全をこわす不満体であり,破壊してやまない開かれた永久運動であり, 人間破滅の先行恐怖である。 自由につくられた天使と同じようにつくられた人間によって,すべては 引き起こされ展開する。自由は創造者自身の存在理由であり,創造原理で ある。神は思うように創造する。神は天使そして人間を自分と同質の自由 につくる。自由につくられた天使と人間は,この自由を軸にして行動する。 自由は神の創造秩序にたいしてさえ反逆し,叛逆者を不幸にする力である。 創造者自身がこのように自由につくったのである。最初につくられたまま であれば,喜びのままである。この生き方は天使にとっては天上の定住保 証である。この現存在を確保するかこわすか,天使自身の自由にかかって いた。 天上の定住を保証されながら,こわす方にまわるのがルーシファーであ る。追放されサタンと呼ばれ,今楽園に侵入したところである。第一巻か ら九巻までの主役は圧倒的インパクトのサタンである。怒りや悲しみを人 間の本質価値とした初期ロマンティシスト・ウイリアム・ブレイクは,ミ ルトンは知らずしてサタンの側にあったと「天国と地獄の結婚」の終わり でうたう。 ブレイクならではのミス・リーディングは十分重みをもっている。 これほどに自由をつきつめた作家はジョン・ミルトンが初めてである。 ついで十八世紀後半ジャン・ジャック・ルソーは「社会契約論」を「人間 は自由なものとして生まれた,しかもいたるところで鎖につながれている」 で始める。二十世紀なかばジャン・ポール・サルトルは「実存主義とは何 ─ 4 ─ ④ ミルトン「楽園失われて」を読むために か」の中で, 「人間は自由である。人間は自由そのものである」とし,つづ ける「人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられてい るというのは,人間は自分自身をつくったのではないからであり,しかも 一面において自由であるのは,ひとたび世界のなかに投げだされたからに は,人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。」無神論者 サルトルは自由についてはミルトンと違わない。 ミルトンの自由観は,自ら参加したイギリス革命の中できたえられた。 かれの自由は人間解放の戦列に積極的に加わった実践に裏打ちされている。 ルソーの自由はフランス革命を準備する。かれはまぎれもなくフランス革 命の先駆者である。サルトルは社会運動への参加をランガジュマン(le engagement)として,積極的に政治行動をした。かれらの自由論が新鮮に 人の心をうつのは,時代の解放運動にコミットしたからである。生き方の 現実方向は精神活動の羅針盤である。人間はどこに向かって生きるべきか。 かれらは答える,自由をうばわれ不平等の人々の側にあって,平等を回復 するため。自由に生き,人々を自由へと導いた人々はちゃんとした生き方 をちゃんと生きた。 Ⅱ 自由につくられ自由によって叛逆するサタンが,自由につくられた人間 をどのように叛逆させるか。自分を自由につくった創造者にたいしその自 由による叛逆。これほどの叛逆はありえない。文学は第一に人を楽しませ, 次いで教える。この定義はアリストテレス以来変わらない。アダムとイブ の愛撫抱擁をかいま見るサタンが上げる声を聞こう: おお 地獄 ! この目は悲痛にもなにを見る, われらが至福の中へとかくも上げられ, ⑤ ─ 5 ─ 金城学院大学キリスト教文化研究所紀要 別材料からできている生き物,たぶん土から生まれ, 霊であるはずないものが,天の光の霊たちに 劣らないとは。そやつらにおれの思いついていく 感嘆して,好きになりそう, 神の似姿かがやき,つくった手がそそいだ いつくしみ,似姿にそのまま今も。(IV, 358–65) 「二人いるだけだから」と夢中の二人,実はそれどころではない。自分を 破壊しようとする力に一番見られたくないさまを見られている。 「おお,地 獄」と,落ちた地獄を自分の中に再現するサタン。神の子によって落とさ れた地獄と人間によって落とされた地獄がかさなる。神の子への嫉妬に人 間への嫉妬がかさなる。復讐心が燃えあがる。外と内の二重地獄,神がサ タンに科した罰である。叛逆した自由の責任である。これに反して,つく られたままにある人間は外の楽園と内の楽園に生きている。人間はそのま ま二重楽園。そして今,宇宙史に出現した負の部分であるサタン=地獄が 楽園に侵入。かれの声は宇宙史が歴史時代へと転換する凶兆である。 それにしてもサタンは人間をよく見ている。土でできた人間が天使と変 わらないほど霊的であり,神の姿に似ていると。見てとったのは神,天使, 人間の連続性である。霊と姿において天上につながる。この存在の連続に おいて,神や天使と同じく人間は自由につくられた。自由は自分を天に上 げる自由であり,地獄に落とす自由である。人間は本源的敵対者と本源的 救済者を選択する可能複合体である。サタンがつけねらうのは,複合体の 落ちる部分である。対になっているもう一つの叙事詩「楽園回復されたり」 においても,サタンは主人公である人の子(イエス・キリスト)をつけね らう。この場合神の子の神性がはたらいて失敗する。イエスにあっては人 の子と神の子は一体で区分されない。これにたいし, 「楽園失われて」の人 間は自由複合体であり,霊的要素はあっても,それ以外は圧倒的に肉体諸 ─ 6 ─ ⑥ ミルトン「楽園失われて」を読むために 器官である。サタンがねらうのは人間存在の決定的側面である物質基盤で ある。 ミルトンと同時代人トマス・ホッブズは「リヴァイアサン」(1651)にお いて人間のあり方を利己とする。ここから近代的個人,合理的個人がみち びかれた。しかしここからは人間の自由と尊厳,人間の価値はみちびかれ ない。逆に,利己の衝突を防ぐために絶対君主支配が正当化され,自由が 否定される。ホッブズを始祖とする思想史学者たちの近代化理論は最初で つまずいている。絶対君主制を廃し,議会主導を実現するのはミルトンが 参加したイギリス革命である。近代における自由はホッブズからロックの 道ではない。ミルトンからルソー,イギリス革命からフランス革命にいた る人間の市民的解放の系譜が自由の本道である。 叙事詩において混沌を行くサタンは海に浮く怪物リヴァイアサンにたと えられている(I, 200–05)。夜の海に漂流する舟人が島と思ってイカリを おろすや怪物が立ち上がり,海に投げ出される。比喩はサタン=リヴァイ アサン=絶対君主制の危険に対する共和主義者ミルトンのホッブズ批判を 底流にしている。 Ⅲ 破壊力であるサタンが侵入しなければ,人類は楽園に繁栄したであろう。 天使ラファエルはそのことをアダムとイブに語る。知恵の木の実を食べる か食べないか,楽園の保証はこの選択にかかっていると。これを盗み聞い たサタンは以下引用場面から人間破壊の戦いを始める: ひきがえるみたいにうずくまり,イブの耳元近く, 妖術つかい彼女の想像器官に とどこうとし,それら器官をつかい ⑦ ─ 7 ─ 金城学院大学キリスト教文化研究所紀要 おもうまま幻想つくり,空想と夢想生もうと, あるいは,もしできるなら毒吹きこみ, きれいな川から上がるやさしい蒸気みたいに きれいな血から上がる生気をけがし, そこからせめて乱れ満たされない思い生み, ありもしない希望,空しい目的,大それた欲望を 妄想でふくらませ,とてつもないうぬぼれつくりだせたらと。 (IX, 799–809) かれの手順をみよう:イブに的をしぼる,ひきがえるに化ける,妖術を つかい耳から想像器官にたっしようとする,器官が幻想,空想,夢想をつ くる,あるいは毒を吹きこもうとする,血から昇華する生気(スピリット) を不浄にする,不浄スピリットが乱れ満たされない思いやうぬぼれをつく りだす。 詳しく見たのは,サタンがなにを目指しているか知るためである。妖術 や毒で直接イブを思うようにはしない。彼女の想像器官やスピリットがは たらき,内から都合よく動いてくれるよう目論である。作用因は外にある が作用器官とはたらきは彼女の内にある。自由につくられたイブが自分で 自由に落ちるようにしむける。良心や理性をとおさず,操作された深層心 理から行動するマインド・コントロールである。深層心理のエネルギー型 をあらかじめ変更しておき,刺激を出せば反応は内から出てくる。サタン がイブにおこなうのは,禁断の実を自分の意志で食べるようにさせる本格 攻撃のための先制心理攻略である。無意識領域の操作による意識行動の自 動操作。創世期のタブーは犯罪動因にまでふみこまない。これにたいし叙 事詩はサタンによるイブ内面の操作にまでこと細かくおよんでいる。ここ に近代叙事詩の人間複合体理解の深さ,自由の本源的弱点についての考察 がある。現代の犯罪論は無意識過失の犯罪性可否について厳密であろうと ─ 8 ─ ⑧ ミルトン「楽園失われて」を読むために し,深層心理の解明に立ち入っている。叙事詩は現代の人間理解の方向に 積極的な示唆をあたえる。 問題は,原文が “might taint…at least” と仮定法過去になっていることで ある。 「もしできるならせめて……つくりだせたらと」とした。時制に即し ていえば願望の段階であって,行為にいたってはいない。ここで楽園警戒 の天使イツリエルの槍先につかれ,サタンは逃げさる。行為がなされるか なされないかの瞬間である。妖術がイブにはたらいたかどうかわからず, 読書期待となっている。 事実は悪夢からさめたイブがアダムに話す場面で明らかになる。天使ら しい姿が禁断などどうでもいいと実をとって食べる。味の良さをたたえ, 人間を神々にするものといい,イブを「うるわしの天使イブ」と呼び,食 べるよう口までもっていく。香りのよさに彼女は食べざるをえない。する と一緒に天にのぼる飛行にわれを忘れる。瞬間相手が消え,落ちる(V, 48–92)。アダムより高い身分に禁断を解かれ,実を口までもってきてもら う。食べるや天上飛行のエクスタシーに入る。フロイトの夢解釈のモデル ケースになりうる不倫にしてセクシュアルな夢ではないか。この種の性抑 圧は楽園現実では起こりえない以上,夢はサタンの妖術によるものである。 ひきがえる=サタンはイブの深層心理エネルギー型の変造に成功した。彼 女の無意識領域に自分の力を入れる先制攻撃をやりおおせた。あとは彼女 の内にあるこの影響力を活性化させる機会をつくればよい。自分の内なる 器官を自分ではたらかせ,自分で落ちる器として準備されたイブ。 蛇となって誘惑する前,ひきがえるになって操作するサタン。蛇などの 爬虫類より下の両生類レベルでなされるサタンの内面侵入。耳をとおって 想像器官にはいりこむ発声なき攻撃は,良心も理性も防ぎようがない。動 物存在の連鎖の中で下等に位置されるひきがえるは,人間にあっては嫉妬 のような盲目恐怖に相当する。事実ひきがえるはシンボリックには嫉妬で ある。神の子に嫉妬し地獄に落とされ,ついで愛のカップルに嫉妬し,サ ⑨ ─ 9 ─ 金城学院大学キリスト教文化研究所紀要 タンはひきがえるになる。イブの内部に注ぎこまれる妖術や毒は,かれの 全身を焼いている嫉妬コンプレックスである。これがイブの深層心理の楽 園エネルギー型を悪魔的なものに変質し,悪夢となって現れる。個人的一 過性のものではなく,ユングのいう原型的なもの,類的反復性の夢である。 この種の夢は人間の無意識層に固着潜在し, サタンの本格攻撃の伏兵となっ て内部に配置され,必要に応じ反復出現する。ひきがえる=サタンの妖術 とイブの夢の場面は,のちにフロイトによって解明される深層心理抑圧メ カニズムの先行文学表現である。 悪夢をつげられたアダムはいう, 「神や人の心に入る悪は/来て行き,固 定されず,/どんな汚れもとがも残さない:私に希望をくれるのは,/忌 み嫌った夢をお身が目覚めて同調しようとしないこと」(V, 117–121)。サ タンによって操作された悪夢であることを知らず,アダムは「固定されず」 といいきる。固着されているのに。ストレスがないアダムであれば当然で あろう。決定的な悪夢にたいし,かれの理性はきちんと対応せず,この程 度にしかはたらかない。この無知無防備がイブの内に入った危険を見過ご し,事態を取り返しのつかないものにしてしまう。叙事詩がうたうのは, こうならざるをえなかったすべての原因と過程である。楽園の神話秩序に はありえないもの,楽園人の感性と思考の域をこえている。だれがアダム を責められよ。 夢のあと事態を重く見た神は,天使ラファエルを使者として楽園に送り, サタンの攻撃から身を守る教育をアダムとイブにする。かれの最後の言葉 は意味深い, 「立つか落ちるかは/自由,お前の決定による」 (IX, 640–42) 。 サタンによるどのような攻撃があろうとそれを越えていける人間の力を信 じ天使は教育する。教育とはそういうものである。喜びにつくられ,今喜 びの場にいる二人の現存在のイナーシャは,楽園に侵入しイブの内面にト ラウマをきざんだサタンの力にくらべれば,はるかにまさる力。喜びの方 につねに全身で傾斜している人間の喜びは,それをはなそうとするサタン ─ 10 ─ ⑩ ミルトン「楽園失われて」を読むために のどのような攻撃にもまさるはず。一つの危ぐは知恵の実のタブーである。 これとて楽園にいる以上なんら必要ない知恵である。天使はこれら楽園の 既成安心事実を条件に教育する。 「立つか落ちるかは/自由」というとき,天使は人間の意識レベルの自由 決定に信をおいている。良心(conscience)の語幹─science は知る(scire) であり,意識が前提になっている。しかしサタンがねらいさだめるのは無 意識・無意志領域である。上の引用の「きれいな血から上がる生気をけが す」戦術である。中世・ルネッサンスにあっては,血液から植物,動物, 知力の三種の生気(スピリット)が生じ,人間はこれらすべてをもつ最上 位とされた。想像器官にはたらくのは知力スピリットであろう。これが妖 術でけがされれば,思考は内からサタン的なものになる。どうして正常な 自由決定ができよう。このような悪魔力の前に立つか落ちるか自由複合体 である人間をおいたら,どうなるか。エミール・ゾラの実験小説論を地で いくのが叙事詩である。サタンによってすでにトラウマをきざまれたイブ は,天使の信頼にこたえ良心と理性で乗りこえていけるだろうか。これが 叙事詩前半の見ものである。 Ⅳ 結果としてイブもアダムも落ちる。イブは悪夢が正夢となる仕方で。ア ダムはイブに実を食べたと告げられた瞬間内深くすでに落ちる。自分の骨 の骨,肉の肉であるイブの無条件優先である。女にあっては深層心理,男 にあっては身体のつながりが自由選択に先行する決定因となる。良心や理 性がはたらく以前身体の内深く決定がなされる。サタンが恐ろしいのは, 意識レベルではなく無意識領域においてである。サタン攻撃になんともろ い人間,これが叙事詩の人間理解である。 自分を立たせておくため創造者は人間に良心と理性をつくる。だが落ち ⑪ ─ 11 ─ 金城学院大学キリスト教文化研究所紀要 るか落ちないかの危機とは,身体の内がすでに落ちる方向に落ちようとし ているときである。この落下イナーシャに抗して自分を立たせようとする 力,不可能に近いこの抵抗力が,いざ必要な時の良心と理性である。アダ ムの場合,良心に攻められつつ,理性ではいけないと承知しつつ,理性が 十分はたらかないよう選択する。問われるのは良心や理性ではない。人間 の内深く意識や意志に先行し機能する身体内の想像器官のはたらき方であ る。サタンがねらい定めたのはこの器官,欲望を先行させ肯定するエネル ギー型の発生装置である。かれが的確であるのは,自身深層レベルの嫉妬 によって落ちた先行者だから。 この場合,自由は天使のいう「落ちるか立つか」二者どちらか五分五分 の選択ではない。問題は「落ちるか」にあって,すでにイブは落ちていく 傾斜にある。アダムにあっては,落ちたイブへと落ちようとする全身傾斜 にある。その自分をイブから引きはなせるかどうかの意志決定,これがか れの自由である。しかし良心の痛みとか理性判断の意識レベルまで上がっ てこない深部にどんな自由があるか。創造者はどのように自由をつくった のか。倫理観と思考論理が動く前,直感で内にはたらく無意識レベルにお ける傾斜,その反動としてはたらくべき良心と理性が問われる。ルビコン の川に入ったカエサルの軍勢を押し返そうとする至難の抵抗,敗北の戦い である。 アダムとイブとの愛を告げられたラファエルは当惑し,正しい愛につい て教育する。そのあとアダムはたずねる,天使たちの愛はどんなものか。 しかし十分に答えるひまなく天使は去る。そして運命の朝がサタンととも にやってくる。教育されただけで実践しなければ身につかない。アダムの 血となり肉となっているのは肉と肉の愛であって,ラファエルのいう空気 と空気,魂と魂が結びつく天上の愛ではない。肉のレベルの愛,人間的, あまりに人間的な愛しか知らないアダムがイブをはなすはずがない。かれ にそなわる理性は試行錯誤の理性(discursive reason)であって,天使の直 ─ 12 ─ ⑫ ミルトン「楽園失われて」を読むために 観理性(intuitive reason)ではない。アダムが期待どおりの優等生でなくて も仕方がない。 創造者と人間をつなぐものはなにか。創造者をはなれて落ちようとする 人間を,はなさない恵みの力はあるのか。瀬戸際で良心と理性が無力であ るのは,どうしようもなく楽園人が落ちた事実が証明する。より完ぺきな はずの天使の良心と理性さえ無力であるのは,ルーシファーと全天使三分 の一が落ちたことでわかる。天使一人でもおちれば直観理性は問われる。 人間と人間をつないでいるのは骨と骨,肉と肉であり,霊ではない。これ 以上もっと根元的に創造者と人間をむすぶものはないのか。天使にあって も人間にあっても最も確実かつ決定的とされるのは,判断と行動の原理で ある自由である。これほどまでに自由は天上にあっても地上にあっても, 本源的かつ根元的に存在し実存している。そしてこの自由によって,落ち るものは落ちる前に深いところですでに落ちる選択をしてしまう。自由は 意識や意志のレベル以前に,心理深層ですでにはたらく。人間は自由の刑 に処せられているとサルトルはいう。自分が知らない間にもう選択してい る事実,どうしようもないこの選択は人間の現存在そのものに根ざしてい る。人間ははじめから自由の刑に処せられており,自由から自由ではない。 叙事詩は人間が人間である深淵,どうしようもない矛盾を実現しつらぬい てやまない人間をうたう。 創造者は人間を創造者にたいしてさえ叛逆できる自由をつくる。自由は 創造者の意図をはなれて,人間を唯一固有な自分にする全方向ダイナミズ ムの生存エネルギーである。人間存在の根元にあるもの,実存とよばれる ものである。このような人間は人類史の中で近代という歴史段階で出現し, 叙事詩がサタン,イブ,アダムとして形象化する近代人間像である。自由 は近代人の自己アイデンティティであって,旧約創世記には知られていな かった。ミルトンの叙事詩は再神話の形をとる近代文学である。 「ユリシー ズ」が再神話の形をとる現代文学であるのと同じである。 ⑬ ─ 13 ─ 金城学院大学キリスト教文化研究所紀要 良心や理性は自由の属性であり,創造者の創造意図を報せる方向指示器 である。指示するのであって,その方に行動するしかないかは別である。 それは指示器の主人公である人間にある自由の仕事である。良心や理性は 機能(ファンクション)であって,実体ではない。実体は行動原理の自由 である。叙事詩は楽園が失われるストーリーに登場するフィギュアたちを とおし, 自由が唯一実存である人間を外からも内からも照射する文学である。 楽園は失われる。喜びにつくられ喜びの園におかれた楽園人の現存性は 仮象と,叙事詩はうたう。外から人間をおそう力のおそろしさは,それが まず内にはたらくからである。外に敵を見たとき,すでに内が占領されて いる。反撃はほとんど動かない,動けない。落ちる傾斜を立てなおそうと する復元方向性,これが良心と理性である。創造者はそのように人間をつ くった。教育天使ラファエルもそう信じた。しかし大天使ルーシファーは すでに落ち,楽園人イブもアダムとおなじように自分の内から落ちる。 楽園にあっては悲しみは喜びの仮象にかくれて見えない。楽園が消える や,悲しみはむきだしにおそってくる。歴史世界のわれわれの現実である。 「人間は自由に生まれながらいたるところ鎖につながれている」 , 「人間はす でに自由の刑に処せられている」,これらの言葉は歴史世界だけでなく楽園 においても人間のあり方の真実を突いている。意識以前に鎖につながれ刑 場にひきだされている人間,叙事詩はこのようにして落ちた人間が再び立 つよう,人間の内に楽園がおかれると最後にうたう。内とはどこか,楽園 とはなにか。これらはイブとアダムが落ちた原因と過程をはなれてはわか らない。問題をこのようにもって読めば,つづく第九巻は期待の地平であ り,その向こう十巻─十二巻へと約束の夜明がひろがる。 ─ 14 ─ ⑭
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