ハンセン病図書館関係資料

多磨全生園の図書館・ハンセン病図書館 関係文献
目
次
・ 栗 下 鹿 骨 「 図 書 館 通 ひ 」( 1922 年 )
1
・ 原 田 樫 子 「 復 興 の 図 書 館 と 私 の 感 想 」( 1924 年 )
2
・ 栗 下 信 策 「 図 書 室 」( 1929 年 )
3
・「 全 生 病 院 昭 和 一 〇 年 統 計 年 表 」( 1935 年 )
4
・図書係員
後 藤 生 「 全 生 図 書 充 実 の 為 に 」( 1935 年 )
・「 待 望 の 図 書 館 竣 工 に 際 し
世 人 の 御 同 情 に 訴 ふ 」( 1936 年 )
5
6
・ 鈴 木 庫 治 記 「 図 書 開 館 記 念 短 歌 会 」( 1936 年 )
7
・「 全 生 図 書 館 の 開 館 式 」( 1937 年 )
8
・「 全 生 病 院 昭 和 一 二 年 統 計 年 表 」( 1937 年 )
9
・ 全 生 会 々 長 ・ 文 化 部 長 発 園 長 宛 「 御 願 書 」( 1951 年 )
10
・ 全 生 会 々 長 ・ 文 化 部 長 発 園 長 宛 「 御 届 書 」( 1952 年 )
11
若 い 人 大 い に 語 る 」( 1952 年 )
12
・「 座 談 会
・「〈 座 談 会 〉 学 園 、 少 年 団 、 児 童 寮 、 図 書 館 、 絵 の 会 、 書 の 会 」( 1959 年 )
・「 白 書
全 生 図 書 館 」( 1960 年 )
14
15
・〔 参 考 〕「 東 京 都 議 会 宛 の 請 願 書 」( 1965 年 )
18
・ 林 芳 信 「 回 顧 五 十 年 ( 17)」( 1966 年 )
20
・ 鈴 木 楽 光 「 全 生 園 む か し 昔 ( 五 )」 (1972 年 )
22
・ 松 本 馨 「 年 頭 に 当 り て 」( 1977 年 )
23
・ 松 本 馨 「 療 養 通 信 」( 1977 年 )
25
・ 大 竹 章 「 写 真 風 土 記 ( 64)」( 1977 年 )
26
・ 大 竹 章 「 写 真 風 土 記 ( 78)」( 1978 年 )
27
・ 原 田 嘉 悦 「 図 書 館 」( 1979 年 )
28
・『 倶 会 一 処 』 所 収 の 「 年 表 」( 1979 年 )
30
・「 ハ ン セ ン 病 図 書 館 内 規 」( 1983 年 )
31
・ 大 竹 章 「 写 真 風 土 記 ( 134)
32
図 書 館 別 館 」( 1983 年 )
・ 多 磨 全 生 園 ハ ン セ ン 病 図 書 館 を 訪 ね る ( 1988 年 )
33
・ 松 本 馨 「 文 書 伝 道 と 自 治 会 活 動 (10)~ (11)」( 1990 年 )
36
・ 山 下 道 輔 「 ハ ン セ ン 病 図 書 館 に か け る 願 い 」( 1990 年 )
38
・ 大 谷 藤 郎 「 資 料 の 保 管 等 に つ い て 」( 1990 年 )
39
・「 自 治 会 日 誌 」( 1990 年 )
40
・ 室 伏 修 司 「 〝 図 書 館 の 秘 儀 〟 ― ― 多 磨 全 生 園 ハ ン セ ン 病 図 書 館 を 訪 ね て 」( 1991 年 )
41
・ 大 竹 章 「 資 料 展 示 室 」( 1991 年 )
44
・山下道輔「ハンセン病資料調査会総会における報告――ハ病図書館・収集・保存・
展 示 の 現 状 ( 1992 年 )
45
・ 資 料 館 建 設 促 進 対 策 委 員 会 「 資 料 収 集 の た め の 各 園 訪 問 報 告 に つ い て 」( 1992 年 )
50
・ 松 木 信 『 生 ま れ た の は 何 の た め に 』( 1993 年 )
51
・「〈 座 談 会 〉 資 料 館 オ ー プ ン ま で ( 1 )( 5 )」( 1993 ~ 94 年 )
54
・ 小 杉 敬 吉 「 追 懐 の 記 ( 1 ) 原 田 嘉 悦 さ ん の こ と 」( 1996 年 )
58
・ 久 保 田 一 「 ハ ン セ ン 病 図 書 館 の 人 」( 1997 年 )
59
・瓜谷修治『ヒイラギの檻
20 世 紀 を 狂 奔 し た 国 家 と 市 民 の 墓 標 』( 1998 年 )
・「 ハ ン セ ン 病 図 書 館 運 営 規 定 」( 1999 年 )
・山下道輔「ズームアップ
63
65
ハ ン セ ン 病 図 書 館 」( 2001 年 )
66
・「 ハ ン セ ン 病 図 書 館 と 私 ― 山 下 道 輔 さ ん へ の イ ン タ ビ ュ ー 」( 2002 年 )
67
・ 江 連 恭 弘 「 多 磨 全 生 園 に お け る ハ ン セ ン 病 関 連 史 料 の 現 状 」( 2003 年 )
69
・ 山 下 道 輔 「 焦 ら ず 怠 ら ず 資 料 残 し に 励 む 」( 2003 年 )
73
・瓜谷修治「多磨全生園のハンセン病図書館の廃止と保管資料のハンセン病資料館移
管 に つ い て 」( 2006 年 )
74
・ 佐 川 修 「 資 料 収 集 の 思 い 出 」( 2007 年 )
79
開 講 の 挨 拶 」( 2007 年 )
・山下道輔「ハンセン病資料セミナー2007
82
・ 増 田 泰 重 「『 人 権 の 森 』 清 掃 ボ ラ ン テ ィ ア に 参 加 し て 」( 2008 年 )
84
・ 稲 葉 上 道 「 ハ ン セ ン 病 資 料 館 が 持 つ 意 義 」( 2008 年 )
85
増補(追加順)
・「 ハ ン セ ン 病 図 書 館 山 下 道 輔 氏 イ ン タ ビ ュ ー
バリアフリー図書館を――隔離による
文 化 の 行 方 ― ― 」『 ハ ン セ ン 病 文 学 全 集 第 一 期 全 10 巻 第 四 回 配 本 折 込 付 録 』 2003 年 3 月 、
皓星社
・「 愛 生 」 編 集 部 双 見 美 智 子 「 神 谷 書 庫 の こ と 」
・ OTA REPORT「 多 磨 全 生 園 『 ハ ン セ ン 病 図 書 館 』 を 残 し た い
入所者の生きた歴史そ
の も の を 、 永 遠 に 」『 お お た ジ ャ ー ナ ル 』 2006 年 9 月 号
・〔 山 下 道 輔 氏 講 演 原 稿
日時・場所不明〕
・〈 ハ 氏 病 文 庫 〉 収 集 図 書 お よ び 未 収 図 書 目 録 S48
・ハンセン病図書館の業務内容報告
1973 年 8 月 1 日
2000 年 10 月 26 日
・〔 ハ ン セ ン 病 図 書 館 の 活 動 に つ い て 〕〔 文 書 作 成 日 時 、 目 的 な ど い っ さ い 不 明 〕
・ハンセン病図書館利用者名簿より延べ人数と割合
『 山 桜 』 第 4 巻 第 2 号 、 1922 年 3 月
栗下鹿骨「図書館通ひ」
近頃降雪が続く實に寒い新聞には近年稀な寒気であると報じて居る
昨年開設になった全生図書館に此の降雪の幾日かを通ふた。図書館には澤山の金文字の
書籍や新刊の雑誌が整列して居る当時読書会に高名な死線を越えてを借覧しました。私が
此本を読ませて頂きたいと思ふた動機は或人が私の生活を評した文章の中に此死線を越え
ての文字を引用してあったのと又私共は現在の生活に至るまでには必ずや一度は此「死の
線」にぶつかって居るのでありますから、此文字が如何か動きて又解決はどうしてあるか
を思ふて一度見せて頂きたいと心に念じて居ったものであります。扨て読んで見ると一切
を恵みに生活して居る私の生活にはドウしても躰験するには、ふさわしくないと思はれま
す。されど信仰の点に至っては實に敬服せずには居られないのでございます。
次に読ませて頂きましたのは「ザンゲの生活」であります。私は此一書こそ一切を恵ま
れて居る私共生活には衆適の良書であって能く細かい所まで著者は身を以て御示し下され
てありますから私共は各自の健康の程度に応じてスグ躰験させて頂く事が出来ると思はれ
ます。憚りの言葉が知れませんが、私は多年恵みに生きる報恩の行につきては思念して居
りました。又多少実行もさせて頂いて居たことと喜びます。
私は各救護所に居らるゝ同病者に勿論私共の様な恵みに生活させて頂く諸彦各位に是非
本書の御一読をして頂きたいと念じて居る者でございます。
-1-
『 山 桜 』 第 6 巻 第 10 号 、 1924 年 12 月
原田樫子「復興の図書館と私の感想」
彼の大震の為めに倒壊した我が全生村の図書館はその後一ヶ年有餘の今日に至って立派
に復興致しました。それまでは礼拝堂の一隅を拝借致しまして佗して経営をして居り、又
諸宗の信徒の出入り頻繁に依って読者をして充分なる満足を與げることの出来なかったこ
とは甚だ遺憾に堪ませんでした。が、今般は誠に静粛である結構な以前に倍する復興の図
書館が完成されましたことは、私等共に喜ぶべき事だと思ひます。希望者は努めて御来観
下さる様お勧め致します。
著書の内容が重なるものは、漱石全集、紅葉全集、藤村全集、鴎外全集、二葉亭全集、
其の外、旧物新物は網羅して又洋物や新刊雑誌は山なしてあります。
開放時間は午前8時より午後4時まで。
コーレー君と私はその取締兼常務係の任を負ふて一般公衆の為めに出来得る限り便宜を
計るつもりで居ります。そして病室と不自由室の人を除くの外、健康病者には特に注意し
て頂きたいと思ふます。各自が通常労働の傍ら休暇を得た場合は唯空しく無益なる言論に
耽ったり鼻糞をほじくりながら隣の人のアラでも探して何か言ったり、阿保草を燻らして
専賣局の奉公をするよりは斯うした図書館に足繁く運んで有益な本でもたっぷり讀んで精
神 的 に 向 上 す る こ と が そ の 人 達 の た め に ど ん な に 幸 福 で あ る か 知 れ ま せ ん 。「 精 神 的 に 向
上するしかないものは馬鹿である」と夏目漱石氏は言はれてあります。實に人生に取って
精神的向上、所謂内容の充實を計ることが最上の本務であります。斯く云へば人の中には
「我々の境遇上勉強して何になる」と言ふ者もありますが、それは甚だ浅薄な考へと思ひ
ます。併して人生の目的は何んでありませう。それは幸福にあるのみ、誰しも言ふが世の
中の人は誰一人として幸福を望まぬ者はありません。
「俺は望みもなければ願もない。情熱もなければ勉強もしない」と厭世観じみた泣きご
とを言ひ洩す者もありますが、思ふにそれは虚偽であります。事実左の様な人があるなら
生きて居られる筈がありません。扨て私達はより多くの幸福を求めべく努めねばなりませ
ん 。そ は 如 何 に し て 求 め 得 べ き か 。勉 強 に 固 っ て 得 た 智 識 の 作 用 に 基 く の 外 は あ り ま せ ん 。
何は兎も角く、図書館は私等の為に設けられた恵みの倶楽部であります。
「悩みある者又不愉快に陥入れる者は図書館に来れ、図書館は必ず汝等をして幸福と愉
快とを與えしめる」と。これは私の独断かも知れませんが、恐らく事実に於てもそうであ
りませう。且つ読者中の或人などは問ひもせず問はれもせずに莞爾として頬笑んで居りま
す。時には声さへ出して頬笑むのであります。斯うした面白い著書に興味を引かれて不知
不識に心の中に尊い智識が蓄へられて何時となしにどっしりとした力ある頼母しい人間と
な れ る の で あ り ま す 。「 腕 力 よ り も 能 力 」 で 如 何 に 肉 体 的 に 力 が あ っ て も 精 神 的 に 能 力 の
ない人間なれば数ふるに足らぬものです。要するに能力の発達するところに自然光明が輝
くと思ひます。されば親愛なる同病の皆様、復興の図書館に足繁く通って心の中に閉鎖さ
れて居る幸福の扉を開くべき尊い錠を握って下さい。お互に肩の凝った時には茶器の準備
もしてありますから。
お茶でも飲んで楽しみませう。
-2-
『 山 桜 』 第 11 巻 第 9 号 、 1929 年 9 月
栗下信策「図書室」
明治四十三年東京浅草本願寺全生病院慰安会といふスタンプを押した、東京大川屋発行
の講談が三四百冊六尺の戸棚に入つて礼拝堂の南側の一隅にあつた娯楽文庫と云つて一週
一回づゝ午后一時から二時迄約一時間の貸出であつた。
大正二三年頃、故南條文雄師寄贈の宗教雑誌の合冊したものと宗教書籍若干とにて今一
つの文庫が増加せられた。又大阪毎日新聞社長、本山様の寄贈せられた國漢文叢書二拾余
冊は、見張所役人に於て病者に貸出をいたしたものであります。
大正十年八月一日、院長殿の深き思召しによつて患者秋山勇太郎氏に計り、患者図書室
を創立して下さいました。その条文に曰く
館則
第一条
名称及位置
本館を全生図書館と称し院内娯楽室内に置く
第二条
書セキ
本館の書セキは職員及び一般社会の有志者より寄贈せられたる新聞雑誌をよび単行
書を以て之に充つ
第三条
目的
患者の文藝趣味を鼓吹し内面的生活の向上を計る機関とす
第四条
館員
本館は委員八名を置き総ての事項を協議せしめ其内より係員一名を選定し館の常務
を処理せしめ特に各舎長を相談役とす
(但し係員の任期は六ヶ月とし再選重任は之をさまたげず)
以上の如き趣意と目的とをもつて設けていたゞきました。図書室は特に小林正金。田中
牧師殿の熱れつの御同情と各位各般の理解と切なる愛とに依つて成長して参りました。
只 今 主 な る 蔵 書 は 三 省 堂 の 百 科 辞 典 を 始 め と し て 仏 教 大 辞 典 、国 語 大 辞 典 、國 漢 文 叢 書 。
ソウ石、オホ外および藤村。明治大正文学、世界文学。戯曲、仏教説話。國やく大蔵経。
講談。修養。仏教童話。等々の全集或は既に購入済み、あるひは目下配本中であります。
現在単行本は一千余冊。新旧雑誌は七八百冊程あります。
図書貸出時間、毎日午後一時より四時までとし、外一般クワン内において読書子の為め
昼夜公開して居ります。本ト書クワンは当事者の理解と同情とにより益々書せきは書棚に
あふれ、本箱の不足新調を欲すると共に、かつ病者の増員につれ読者子の出入はげしきた
めト書室の狭あいはなはだしく為めに、きつ煙、茶話室と読書室との二室を有するト書ク
ワンの独立を一ばんは希望してやまざるし第であります。
因にト書カード破ソン書せきをせい本にいたすべく準備して居ります。
-3-
『第一区府県立全生病院昭和一〇年統計年表』
院 内 図 書 室 ハ 本 院 見 学 ノ 学 生 諸 氏 及 特 〔ママ〕志 家 ノ 寄 附 ニ 依 リ テ 漸 次 充 実 シ 図 書 ノ 閲
読及ヒ稗史小説ノ貸出シヲ為セリ之ニ依リ多数ノ盲目患者ハ団楽シテ小説ノ朗読ヲ聞クコ
トヲ一ツノ楽シミト為セリ。
-4-
『 山 桜 』 第 17 巻 第 11 号 、 1935 年 11 月
図書係員
後藤生「全生図書充実の為に」
今日吾等この安住の地に於て、専ら療養しあるは偏に、上御皇室の御仁慈と世人の御了
解並びに御同情による賜物と深く感激にたへないものであります。今や救癩運動の真只中
にある療養所の我等は何をもつて報ゆべきか?
より理想なる療養所建設の為に、努力す
る事を確信してやまないものです。就いては我等の心臓たる図書館が近きに再建さるゝに
當り、普く世人に御懇望致します。どうぞ世の心ある方々よ、本誌を通して全生村図書館
の為になんなりと御恵贈願ひますれば村人の喜びこれに過ぎたるものはありません。甚だ
さしでがましき事なれど、機関誌山桜をお借りして、図書充実の為に世に訴ふる次第であ
ります。
-5-
『 山 桜 』 第 18 巻 第 9 号 、 1936 年 9 月
「待望の図書館竣工に際し
世人の御同情に訴ふ」
最 近 癩 予 防 協 会 を 初 め 諸 所 に 結 成 さ れ つ ゝ あ り ま す M、 T、 L、 等 に 依 り ま し て 癩 撲 滅
運動が起され、一般国民の間にも次第に此の問題が理解されつゝありますことは、癩国日
本に取りまして誠に喜ばしいことであります。
救癩運動が盛んになるにつれまして各療養所も目醒ましい充実と発展を見るに至りつゝ
ありますことは、とりもなほさず、
皇太后陛下の厚き御仁慈の賜物と恐懼感激に堪へな
い次第であります。
我が全生病院に於きましても此處数年の間に見違える計りの改善進歩をみたのでありま
す 。旧 各 寮 舎 の 建 て 替 え を 初 め と し て 事 務 所 、炊 事 場 、重 病 室 の 新 築 、永 代 神 社 、御 歌 碑 、
納骨堂の建設等、其の他挙ぐるに暇なき程の改善を見たのであります。
しかも私共病者に取りまして此の上もない喜びは新装なつた図書館が愈々竣工したこと
であります。病者の心の太陽とも云ふべき図書館の新築は他の何ものにも替え難き療養所
文化への誇りであります。只憾むらくは未だ病者の精神生活の糧ともなるべき良書が少き
ことであります。
最近世人の御同情に依りまして段々と書籍も増加されつゝありますがまだまだ何一つと
して本当にまとまつたものがありません。しかも病者の智識は最近急速に向上しまして、
文学に宗教に、科学に、あらゆる部門に向つて研究の鉾が向けられつゝありますが、現在
の娯楽本位のみの書籍では系統的の研究などは思ひもよらざる有様です。何分いづれの部
門に致しましても、研究資料となる参考書がありませんため、残念乍ら中途挫折のやむな
きに至つてをるやうな有様であります。
将来療養所の理想的建設は病者の精神生活に重きをおかなければその目的を達すること
は困難と思はれます。
世の御同情ある方々に切に御願ひしたいと思ひます事は此の新装なつた図書館にふさは
しい書籍を御恵贈願ひたいことであります。勿論一部二部にても結構です。或は各部門に
ついて一纏めとして何々文庫として御恵贈願へれば此の上もなき喜びであります。
どうか理想的療養所を建設せんとする私共の念願に対しまして何分の御援助を御願ひす
る次第であります。
東 京 府 下 北 多 摩 郡 東 村 山 村 南 秋 津 1610
全生図書館
-6-
『 山 桜 』 第 18 巻 第 12 号 、 1936 年 12 月
鈴木庫治記「図書開館記念短歌会」
此 の 度 我 が 全 生 村 に 新 築 さ れ た 図 書 館 が 、 去 る 11 月 10 日 ( 恵 の 日 ) を 記 念 し て 開 館 さ
れた。
就 て 21 日 ( 土 曜 日 ) 午 後 6 時 よ り 、 待 ち に 待 つ た 新 図 書 館 に 於 て 、 記 念 短 歌 会 の 出 来
た事は、私始じめ会員一同の喜びと思ひます。
ペンキの匂ひ、新しい畳、白い壁、此の新しい図書館に始めて入いつた私は、何か心落
著く物を感じた。
当 夜 の 席 題 は 「 新 」 の 題 詠 一 人 二 首 と し て 20 餘 名 に よ る 歌 会 が 次 々 と は こ ば れ た 。 し
かし当夜は大野晃詩兄、柳澤勲兄、後藤凍水兄、又人気者の木谷花雄兄等が、病床にて欠
席された事は、誠に淋しかつた。時には笑はさるゝ第二の人気者森政太郎兄に、宿題及び
席題の発表をお願ひした。兄の得意の大声に、図書館の硝子戸がビリビリした。続いて席
題を互選し、お茶に移つたのは8時頃であつた。
久々に歌友等と渋いお茶をすゝりながらの慕しい座談に時は遠慮なく、9時を知らせた
閉会に鈴木楽光兄が挨拶して、最後まで賑ぎ賑ぎしく、記念歌会の出来た事を喜びつゝ、
9時半に散会した。
当夜の詠草の一部を左に
新しきトタンを切れば歯ぎれよきこの感触の身ぬち通るも
森 政太郎
ほのかにも石油の香り親しかり今日を届きし歌誌〈うたぶみ〉見れば
長谷川俊路
新しき住居に入れば青畳の香るがまゝに寝そべり見たし
木戸茂夫
新しき図書室に居て本読みつゝペンキの匂ひに落つかなくに
佃伊豆男
新しき図書室に入りて湧く親しさひそかに触れみぬま白き壁を
室岡直雄
新築のなりたる図書にはらからと歌詠むことの今宵たのしき
市川真佐保
新しき衣にあらねど母そばの心づくしはうれしかりけり
原田みのる
ペンキの香あはく漂ふ窓開けて掃ける箒の音の新し
郁澤雅晴
新しき住家の眸新吾蜻蛉と逝きたる長島を思ひわびしむ
直木 勁
この程を新築なりし図書室にそこはか漂ふ木の香よろしも
山本一石
一人ひたれる湯殿の高き窓に映ゆ夕茜空はうつろひそめぬ
高野房美
雨の日は家居静けし窓近き銀杏の黄葉音もなく散る
神戸宇多緒
霊柩車運ぶ後に見送りの並び続ける人ひそかなり
西山真琴
初めての百姓なれば不出来なる白菜とりつゝ心足へり
川崎澄雄
聲かけて過ぎ行く人の手に持てる鳥刺しのモチ陽に光る見ゆ
諸木詩朗
部屋深き陽ざしに落葉ころげきて小さく黒き影をつくりぬ
槇 佐貴雄
黄昏れの道邊に遊ぶ児等の聲聞きつゝ妻と墓に詣でぬ
櫻井千曲
ひそかにも満ち足る人か新妻の立居の癖を言に洩せる
大津哲緒
新木々のしるく香に立つ部屋ぬちに移り住みつゝ身は臥りゐる
鈴木庫治
-7-
『 山 桜 』 第 19 巻 第 1 号 、 1937 年 1 月
「彙報
全生図書館の開館式」
予て新築中であつた本院の図書館も、落成したのでこれが開館式を去る十二月十五日礼
拝堂に於て多数来賓臨席の下に挙行された。
当日は田無警察署長、榎本東村山村長、第二小学校長等より祝辞があり盛大であつた。
尚ほ併せて隣接町村小学校児童作品、全生学園児童学芸展覧会をも開催せられた。
因に当日の主なる来賓は
中山田無警察署長、榎本東村山村長、小平第二小学校長、小池化成小学校長、小平第一
小学校長、埼玉県所沢小学校出口訓導外七名。
-8-
『第一区府県立全生病院昭和一二年統計年表』
昭和十一年
〔中略〕
一
全生図書館開館式
昨年末ヨリ患者ノ手ニ依リ建築中ノ全生図書館ハ四月工事竣工シタルモ尚内部ノ設備其
他ニ日時ヲ要セシヲ以テ十一月旧図書館ヲ此処ニ移転シ十二月十五日開館式ヲ挙行シ併テ
テ本院学園児童学芸品展覧会ヲ開催シタルニ近隣町村小学校より七百余点ノ出品アリ頗ル
盛会ナリキ来賓トシテ中山田無警察署長榎本本村町、小池本村小学校長他近隣小学校長並
ニ教職員等多数列席セラレタリ
全生図書館
一棟
木造平屋瓦葺
四五坪五号
-9-
1951 年 6 月 13 日
「御願書」
園長
全生会々長
渡辺清二郎
文化部長
近藤隆治
林芳信殿
昭和二十六年六月十三日
次の月刊雑誌の御購入御下附を御願ひ申し上げます。
文芸春秋3冊
中央公論3冊
婦人倶楽部3冊
冊
詩学1冊
部1冊
主婦と生活3冊
みづゑ1冊
子供の科学1冊
新女苑3冊
改造3冊
リーダースダイジェスト3冊
短歌研究2冊
美術手帳1冊
太陽少年1冊
婦人生活3冊
日本短歌2冊
きやり(川柳)2冊
ひまわり1冊
女性改造1冊
装苑1冊
- 10 -
小説新潮3冊
女人短歌(季刊)1
演劇界1冊
少女クラブ1冊
被服文化1冊
少年倶楽
婦人公論2冊
近代映画1冊
1952 年 2 月 2 日
「御届書」
園長
全生会々長
原田嘉悦
文化部長
光岡良二
林芳信殿
昭和二十七年二月二日
書籍寄贈の依頼状を次の書店に出しました。御届け致します。
河出書房
講談社
三省堂
新潮社
中央公論社
春陽堂
- 11 -
六興出版社
文芸春秋新社
旺文社
『 多 磨 』 第 33 巻 第 10 号 、 1952 年 10 月
「座談会
若い人大いに語る」
出 席 者 : 今 村 文 夫 ( 26 才 )、 足 立 三 郎 ( 25 才 )、 谷 川 篤 ( 22 才 )、 山 西 昌 一 ( 20 才 )、 矢
代 禮 子 ( 19 才 )、 辻 よ し 子 ( 17 才 )、 三 木 ア キ ( 16 才 )、 千 田 和 枝 ( 16 才 )、 日 高 照 子 ( 16
才 )、 竹 中 雪 子 ( 16 才 )。 司 会 : 光 岡 良 二
〔関係箇所のみ引用〕
光岡
雪ちゃん、今どんなものを読んでいるの。
竹中
三木清の「人生論ノート」ジエームスの「宗教的経験の種々」など読んでいます。
三木
私 は「 罪 と 罰 」を 二 巻 目 の 途 中 ま で 。そ れ か ら 太 宰 治 の「 人 間 失 格 」を 読 み ま し た 。
光岡
「人間失格」どう思った?
三木
わからなかったわ。でも何だか不健康な気がしました。
光岡
本を読む時、自分で選んで読むの?
三木
先生がいいってすすめられて読むのもあるし、自分で題がよさそうだと思って読む
それとも誰かにすすめられて……
時もあります。
辻
題に釣られて読んで、がっかりするのがあるわ
光岡
アキちゃん「人間失格」が分からないのは当り前で、太宰の作品は今のあなた方に
は無理です。あれは劇薬の様なもので、ひん死の病人には何かになるかも知れない
が若草のやうに心の健康なあなた方には、今さしあたり用のない本です。少くとも
二十才になるまでは読まない方がいいと思います。禮子さんは、今何読んでるの?
矢代
今、岩波新書の「ロシア」をよんでいます。いろいろな報道機関はソビエットを無
理に隠そうとして、私達の知っていることは、ほんの少ししかありません。ただ何
も知らないで初めから恐わがっていていはいけないと思い、又一つの大きな力を持
った民族の歴史を知りたいと思って読み始めました。そのほか読んだものは「チボ
ー家の人々」です。とてもすばらしいと思いました。
光岡
「 ロ シ ア 」 は 僕 も 今 読 ん で い ま す 。 客 観 的 で い い 本 だ と 思 い ま す 。「 チ ボ ー 家 」 の
どんなところがすばらしかったの。
矢代
若い人達の心が生長してゆく姿が生き生きと感じられて……
光岡
谷川君は?
谷川
最近、全然読んでいません。
光岡
じゃ最近でなくても、今迄読んだ中で強く影響された本と云う様なもの。
谷川
芥川の全集、ポール・コランの「野蛮な遊び」それからゲオルギウの「二十五時」
には一番感動しました。
足立
僕は最近読んだ中では高桑純夫の「如何に生くべきか」がいいと思いました。
今村
主に仕事の関係で「装苑」や「洋裁」など、あとは「文芸春秋」くらいです。
山西
僕は今、マルクス、エンゲルス選集を系統的に読み進めています。
光岡
今伺って皆さんがいろいろなものをよく読んでいられるのに感心しました。只読む
本の選び方が一寸無秩序のような気がしました。いろいろなものを乱読するのも悪
くはないが、一方では是非読まねばならない、人間を作る上での基礎的な読書を一
- 12 -
応プランを作って読んで置くのがいいのではないかと思います。
〔中略〕
光岡
図書館の読書統計を見ましたが、女の人の読書率は絶対に低いですね。
矢代
女の人達は仕事に追われて時間がないんです。もっと手順よくやって、自分の時間
を作るということに努めなければいけないと思います。もっと生活の余裕が欲しい
わ。
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『 多 磨 』 第 40 巻 第 10 号 、 1959 年 11 月
「〈 座 談 会 〉 学 園 、 少 年 団 、 児 童 寮 、 図 書 館 、 絵 の 会 、 書 の 会 」
出席者:牧田文雄、田代馨、宇津木豊。進行係:編集部
「図書館」
――
田代さんは寮父になる以前は図書館にいたそうですが。
田代
ぼ く は 12 年 か ら 15 年 ま で で す 。
――
宇津木さんは?
宇津木
私 は 14 年 5 月 か ら 現 在 ま で で す 。図 書 館 の 起 り も ず い ぶ ん 古 い よ う で す 。明 治 43
年に浅草本願寺から講談本が三、四百冊寄贈されてそれを「娯楽文庫」と名づけそ
れ を 旧 礼 拝 堂 の 一 隅 に 置 い て 一 週 一 回 貸 出 し た そ う で す 。 そ れ か ら 大 正 10 年 に 娯 楽
場の一室に図書室が設けられました。係はさつき名前の出た原田さんなどです。図
書は全部受贈品でしたが、立派なものもありました。仏教大辞典、国語大辞典、漱
石全集、鴎外全集などは現在でも残つています。現在の図書館の建物が出来たのは
昭 和 11 年 で す 。
田代
その頃の図書館の係は4人でした。閲覧時間は現在と同じく午後でした。
宇津木
図書室は今は2室ですがその頃は1室でした。図書数は全部かき集めて二千くら
いかな。
――
北 条 文 庫 と い う の が あ る が ……。
田代
あれは北条の死後、遺本をもとにして設けたものだ。それまでは図書館に外国文学
というものはなかつたんだね。だから北条文庫は重大な刺戟を皆に与えた。
宇津木
ドストエフスキー全集、トルストイ全集、哲学講座、メリメ全集、芥川全集など
があつた。
田代
宇津木
田代
宇津木
図書費は全々わからんね。秘密主義で教えてくれなかつたから。
雑 誌 は 「 富 士 」「 講 談 倶 楽 部 」「 キ ン グ 」 ……。
「中央公論」はアカだというので駄目だった。
所が「改造」はよかつた。
――
それは妙だね。
田代
改 造 は ア カ じ ゃ な い ん だ 。( 笑 )
宇津木
――
宇津木
とにかくアカは全部だめだった。
文芸誌は。
「文学界」だけ。
――
個人的に書籍を買うことはあつたですか。
田代
あつた。北条の影響で非常に文学意欲が強かつたから。
宇津木
新 聞 は 三 大 新 聞 が 一 部 づ つ 入 つ て い た 。( 現 在 は 各 舎 に 一 部 づ つ )
――
千人に三部か。
田代
それもね。検閲があつて事務所の気に入らない記事は切りぬかれるんだよ。
――
ひどいね。現在の図書費は。
宇津木
14 万 円 く ら い 。 外 に 藤 楓 協 会 か ら 二 、 三 万 円 も ら え る こ と が あ る 。
〔「 全 生 学 園 」「 少 年 団 」「 児 童 寮 」「 絵 の 会 ・ 書 の 会 」 の 部 分 は 省 略 〕
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『 多 磨 』 第 41 巻 第 10 号 、 1960 年 10 月
「白書
○ 35 年 8 月 現 在 蔵 書
全生図書館」
4,735 冊
戦後購入の主な全集類
現代日本文学全集(筑摩書房)
世 界 文 学 全 集 ( 欠 本 あ り )( 新 潮 社 )
ジイド全集
宮沢賢治全集
小林秀雄全集
大言海(3巻)
ニーチエ全集
毛沢東選集
スターリン全集
日本の歴史(読売新聞社)
世界地理大系
世界歴史大辞典
○予算
34 年 度
14 万 円 ( 雑 誌 、 書 籍 各 7 万 円 )
35 年 度
10 万 円 ( 雑 誌 6 万 円 、 書 籍 4 万 円 )
○ 34 年 度 購 入 書 籍 ( 153 冊 )
文 学 67 冊 、大 衆 文 学 27 冊 、社 会 科 学 17 冊 、外 国 文 学 13 冊 、自 然 科 学 10 冊 、芸 術 5 冊 、
語学3冊、詩・短文芸3冊、哲学2冊、教育2冊、思想2冊、歴史2冊
○ 34 年 度 購 入 雑 誌
世界1冊、中央公論2冊、文芸春秋2冊、新潮1冊、群像1冊、小説新潮1冊、オール
読物1冊、主婦の友1冊、婦人生活1冊、婦人クラブ1冊、主婦と生活1冊、近代映画1
冊 、 相 撲 1 冊 、 野 球 1 冊 、 平 凡 2 冊 、 明 星 1 冊 、 日 本 1 冊 、 娯 楽 雑 誌 12 種 類
新聞4種類
○ 35 年 度 貸 出 状 況
(種目)
( 年 間 貸 出 数 )( 一 人 平 均 )
文学
2,288 冊
3.3 冊
大衆文学
1,241 冊
1.8 冊
外国文学
564 冊
社会科学・自然科学
詩・短文芸
22 冊
その他
21 冊
雑誌
3,380 冊
0.8 冊
101 冊
〈 注 〉「 一 人 平 均 」 と あ る の は 園 内 の 読 書 可 能 人 口 を 七 百 人 と み て 、 年 間 の 一 人 平 均 の 貸
出を示す。
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(資料提供は鈴木一民氏)
一言にして言うと何ともお恥かしい限りである。五千冊に足りない蔵書はちょっとした
個 人 蔵 書 に お と る で あ ろ う 。年 間 4 万 円 と い う 書 籍 費 は 入 園 者 一 人 当 り に す る と わ ず か 40
円弱である。われわれ入園者が体力と時間均余裕に比して知的レベルが低い、といわれる
主な原因はたしかにここにある。
(編集部)
アンケート
1 、 あ な た の 生 活 に 大 き な 影 響 を 与 え た 書 ( 又 は 著 作 者 ) を 書 い て 下 さ い 。( 2 冊 又 は
2人以内)
2 、 あ な た が 最 近 読 ん だ 本 ( 雑 誌 を 除 く ) を 書 い て 下 さ い 。( 2 冊 以 内 )
国本昭夫(渉外部)
1、萩原朔太郎「月に吠ゆる」により私の文学的開眼があつたと言えます。
2、読書するという意欲を失いましたが、時折、記録文学を読みます。
北原紀夫(全患協)
1、共産党宣言・矛盾論実践論、ゴーリキー・河上肇
2 、 マ ル ・ エ ン 「 文 学 芸 術 論 」、 ゼ ー ガ ー ス 「 第 七 の 十 字 架 」
福田賢治(清掃部)
1、芥川竜之介
2、林芙美子全集
水谷 晃(印刷部)
1 、 し い て 記 憶 を た ど れ ば 、 カ ミ ユ 「 異 邦 人 」、 三 島 由 紀 夫 「 金 閣 寺 」
2 、 ロ ー ラ ン 「 魅 ら れ た る 魂 」、 ブ ロ ン テ 「 嵐 が 丘 」
大竹 章(放送部)
1 、 ス ノ ー 「 中 国 の 赤 い 星 」、 エ ン ゲ ル ス 「 空 想 か ら 科 学 へ 」
2 、 松 本 清 張 「 日 本 の 黒 い 霧 」、 阿 川 弘 之 「 ぽ ん こ つ 」
鈴村 清(物品部)
1、亀井勝一郎
2 、 D・ マ リ ア ン ヌ 「 愛 の 喪 章 」
野谷寛三
1、内村鑑三、バルト「教義学要綱」
2 、 向 坂 逸 郎 「 社 会 主 義 」、 鶴 見 俊 輔 「 現 代 日 本 の 思 想 」
沖 健二(小学教師)
2 、「 日 本 の 歴 史 」( 読 売 )
奥平 広(中学教師)
1 、「 ジ ャ ン ・ ク リ ス ト フ 」
2 、 内 村 鑑 三 「 余 は い か に し て 」、 同 「 宗 教 座 談 」
柳 径子(物品部)
1、竹内てるよの著書はいくらか生活に影響を与えていると思います。石川達三、荒畑
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寒村など関心をもつています。
木曽真澄(物品部)
1 、「 矛 盾 論 」、 柳 田 謙 十 郎 「 我 が 思 想 遍 歴 」
赤石秋夫(盲人会書記)
1 、 バ ン ヤ ン 「 天 路 歴 程 」、 江 戸 川 乱 歩 「 魔 術 師 」
2 、 金 井 為 一 郎 「 生 涯 と 思 想 」、 森 山 師 「 予 言 の パ ノ ラ マ 」
大森なみ子
1 、 畔 柳 二 美 「 姉 妹 」、 獅 子 文 六 「 娘 と 私 」
2 、 松 本 清 張 「 点 と 線 」、 シ ヨ ー ロ フ 「 開 か れ た 処 女 」
新美 健(文化部)
1 、「 経 済 学 教 科 書 」「 資 本 論 」
2 、 寺 尾 五 郎 「 三 八 度 線 の 北 」「 集 団 に 育 つ 子 ら 」
佐々木貞道(会計部)
1、聖書、田中菊雄「私の人生探究」
2、モーパッサン「女の一生」
芦川 晃(印刷部)
1 、 ラ ス キ 「 理 性 信 仰 知 識 」、 ス タ イ ン ベ ッ ク 「 怒 り の 葡 萄 」
2 、 フ エ イ ガ ン 「 平 民 の 叛 徒 」、 家 永 三 郎 「 数 奇 な る 思 想 家 」
北見洋介
1、トルストイ
2 、 ト ル ス ト イ 「 芸 術 と は 何 か 」、 講 座 「 文 学 の 創 造 と 鑑 賞 」
光岡良二(執行部)
1、自分の生活に「大きな影響を与えた書」と云うことになると、やはり聖書を挙げな
ければならないでしょう。もう一つ挙げるとなると一寸困ります。それに比肩するだけの
ものがないからです。ここには全然ちがつた意味で、少年時に読み耽り、自分の情緒生活
を決定された書として、三木露風や佐藤春夫の初期の詩集を挙げて置きたいと思います。
2 、 井 上 靖 「 敦 煌 」、 大 野 晋 「 日 本 語 の 起 源 」
村井葦己
1、マルクス・エンゲルス選集、レーニン
2 、 日 共 中 委 「 共 産 主 義 読 本 」、 シ ヨ ー ロ フ 「 静 か な る ド ン 」
氷上恵介(盲人会書記)
1、島木健作「生活の探求」
2、石田潔編「教師の人間関係」
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〔参考資料〕
東京都議会議長大日向蔦次宛「請願書」
国 立 療 養 所 多 磨 全 生 園 入 所 患 者 代 表 高 林 米 吉 、 1965 年 12 月 8 日 付
私共は国立療養所多磨全生園に入所し、療養中の患者でありますが、この度請願書を以
て貴議会の御配慮と御理解をいただきたく存じますので、何卒御善処下さいます様、御願
い申しあげます。
御 承 知 と は 存 じ ま す が 、 私 共 の 療 養 す る 多 磨 全 生 園 は 、 明 治 42 年 に 創 設 さ れ 、 55 年 余
にわたる歳月をこの武蔵野の一隅にありまして、この間国民の御厚情と都民各位の深い理
解をいただき乍ら、今日迄過して参りました。半世紀に及びこの間には、私共にとつて心
身共に忍び難い暗い時代もあり、筆舌に尽し難い痛苦をなめて参りましたが、平和憲法の
公布と、新薬プロミン等の使用による医療の急速な進展以来、私共と同様な疾病の患者が
過去数百年もの間渇望して参りました、人間復活がなされ、今日では年々多くの社会復帰
者を出しており、私共の病が治癒することが、実証されております。
然し乍ら、私共の日常の医療及び生活の中には、未だ充されぬものも多く、甚だ困惑い
たしておる訳でありますが、私共のそうした実状の一部を申しあげて、貴議会の御援助を
賜 り た く 存 じ 、 多 磨 全 生 園 入 所 者 1,095 名 を 代 表 し て 次 の 請 願 を 申 し あ げ る 次 第 で あ り ま
す。
請願項目
一、多磨全生園入所患者に対する文化助成金支給について
私共の療養はすべて国費でまかなわれておりますが、医療と生活を区分した予算の中で
特に不足しているものは文化的な経費であります。私共に国が支出している直接の生活費
と し て は 、 療 養 慰 安 金 月 額 850 円 ( 現 金 )、 日 用 品 月 額 168 円 ( 現 品 )、 被 服 費 月 額 352 円
( 現 品 )、 給 食 費 月 額 4,500 円 ( 現 品 ) 等 が 一 般 的 な 給 与 で あ り ま す が 、 そ の 外 に 不 自 由
者 慰 安 金 ( 月 額 250 円 ~ 750 円 )、 作 業 賞 与 金 ( 月 額 平 均 2,000 円 ) 等 の 特 別 給 与 が あ り 、
そ の 他 に 国 が 国 民 年 金 と し て 給 与 す る 傷 害 福 祉 年 金( 月 1,800 円 )、老 人 福 祉 年 金( 月 1,100
円)受給もあります。以上の様な現金支給なり、現品支給が、私共の一カ月の生活経費で
あ り ま す が 、 現 金 の 最 高 給 与 を 受 け て い る も の が 2,900 円 程 度 、 最 低 の も の は 1,600 円 程
度であります。この様な少額でありますため、現在の消費物価の値上がりした現状では、
個人の生活は非常に押しつめられて、煙草や給食補助等の嗜好品を求めることさえ不足勝
であり、趣味や娯楽に必要な経費は勿論、時には通信費さえにも事欠く場合もあります。
こうした状態は憲法で定められた、健康で平和な最低の文化的な生活には程遠い訳であ
りますので、私共は年毎に国に対して、文化的な関係予算を計上していただく様にお願い
して参りました。たとえば、図書や新聞等を購入する経費、ラジオやテレビを園内に何台
か設備するための経費、囲碁や将棋などの娯楽、菊や草花をつくり、盆栽をつくる趣味等
を助成する経費等でありますが、こうしたものは殆ど計上されておりません。僅かに文化
的 な 経 費 と し て 国 が 計 上 し て い る お の に 、 映 画 上 映 費 ( 一 施 設 年 額 208,000 円 ) と 講 師 や
指 導 す る 先 生 を 招 へ い す る 講 師 謝 金 ( 一 施 設 年 額 50,000 円 ) 等 で あ り ま す が 、 そ の 他 の 経
費は、少ない日用品費から支出せよということなのであります。
私共としても、その大方が長い闘病生活をおくつているものであり、その生活も一定地
- 18 -
域の中で、無聊なものです。そのため趣味を求め、娯楽を楽しむことは、毎日の療養の糧
となる訳であります。新聞、図書、ラジオ、テレビ等は、私共にとつては眼や耳であり、
欠くことの出来ないものであります。また二年に一度程バスによる所外へのレクリエーシ
ョン等もありますが、こうしたことも古い年代のバスであり、故障等によりとぎれ勝ちで
あります。
私共としては、この様な状態を国に訴えることが、本筋だとは存じますが、出来ますな
らば貴議会の御配慮により次の各項に対して都当局よりの御援助をいただきたくお願いし
たい訳であります。
一、図書購入費として年間一人一冊程度を援助していただきたい。
一、新聞購読費として二十人に一部程度を援助していただきたい。
一、テレビを一〇〇人に一台程度支給していただきたい。
一、趣味娯楽、文芸等を奨励する経費を助成していただきたい。
一、レクリエーション用バスを一台支給していただきたい。
一、入所児童の教育を、一般国立の小、中学校教育と同等の基準に引上げる諸対策の要請
について
〔以下略〕
- 19 -
『 多 磨 』 第 539 号 、 1966 年 11 月
林 芳 信 「 回 顧 五 十 年 ( 17)」
全生園図書館の建設
読書はわれわれの人生に欠ぐことの出来ないものであるが、殊に療養所の如き長期療養
者を多数擁しておる所ではなお更のことである。全生病院においても開院当初から篤志家
のご寄贈による若干の書籍が備えられており、その内娯楽的の講談本の如きは三、四百冊
あつて、礼拝堂の南側の一隅に六尺の書棚を置きそこに収められて、普通午後の時間に貸
出 し が 行 わ れ て 皆 ん な が 楽 し め る よ う に な つ て い た 。そ し て 少 し 高 級 な 立 派 な 本 に な る と 、
今日の分館その当時の見張所に所員管理の下におかれていて、希望者の申出により、随時
貸し出す制度になつていたようである。そんな状態で一定した専用の図書室或は独立した
図書館と称すべきものはなかつた。が、次第に入院者の生活の安定するに伴つて読書希望
者も増し又その読書慾も高まつて一定の読書室或は図書館設置の要望が大となつて行つ
た。そして大正十年に至り初めて図書室が設けられた。栗下信策君が「山桜」昭和四年九
月号に「図書室」と題しての記述を見ると「大正十年八月一日、光田院長殿の深き思召し
によつて患者秋山勇太郎氏と計り患者図書室を創立して下さいました」とあり、図書館則
も載せられておるが、それによると名称は全生図書館、位置は院内の娯楽室におくとなつ
ておる。この娯楽室は昔現在の全生開館の建つておる場所にあつたもので坪数八十坪、当
時としては礼拝堂と並ぶ大きな建物で、舞台と観客席、舞台裏には楽屋があり、この楽屋
は芝居の時以外は余り使用していなかつたので、この室(十坪位か)が平素図書室に使わ
れ た の で あ る 。昭 和 4 年 頃 に お け る 蔵 書 の 主 な る も の は 、三 省 堂 の 百 科 辞 典 、仏 教 大 辞 典 、
国語大辞典、国漢文叢書、漱石全集、藤村全集、明治大正文学全集、世界文学全集、国訳
大蔵経等の立派なものを初め単行本約一千冊、新旧雑誌数約七、八百冊あつた由である。
(栗下氏記載に依る)
この娯楽室は大正十二年九月一日の関東大地震の節倒壊し、その後再建される際、楽屋
裏の部が一部二階となり、そしてこの二階が図書室ともなり或は各種の会合にも使用され
た。会合といえば思い出すが、その頃病室附添人の間に親和会というが発足し石井国次郎
君が世話役会長役となつてこの二階で発会式兼茶話会を催し、私も招かれて出席し、皆ん
な和気あいあいの内に、お互いの連絡、協力の強化、互助事項、重症者に対するよりよき
世話などについて語り合い、誓い合つたが既に四十年の昔となつた。然し左程古いことと
も感じない。話が横にそれたが、兎に角この娯楽室の一部が十数年間図書室に当てられて
おり、蔵書も次第に多くなり、且つ入院者も千人を越す有様となつて読書子もそれに伴つ
てというだけでなく、院内の文化向上のためそれ以上に読書家を増加し、独立図書館の建
設は誠に切実な願いとなつた。然し当時の状況は収容施設或は治療設備がまだまだ不充分
で先ずこれが考えられ、図書館建設とまでは容易に行かなかつた。
処が昭和九年度において、開所当所そのままの狭隘且つ老朽化した事務所が改築される
こととなつた。そして一部増築とともに現在の事務本館が出来上つたわけであるが、その
旧建物の柱その他の骨組部分はまだしつかりしていて充分何かの建築に役立つものであつ
た。そこで考えられたことは、この四十数坪の古材を利用しそれに若干の材料を加え、工
事は患者の手によることとせば比較的少額の費用を以て図書館の建築が可能であろうとい
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うことであつた。これについては患者諸君ともよく協議して、もとより切望している図書
館である早速建築に一致し且つ協力の申し出もあつたので、この旨を具して東京府にもお
願いし、昭和十年度予算にそのための若干の経費が計上され連合県の協讃を得た。工事は
10 年 末 に 始 ま り 翌 十 一 年 四 月 に 完 了 し た が 、 内 部 設 備 も 出 来 開 館 式 を 挙 げ た の は 十 二 月
であつた。これについて全生病院昭和十一年年報には次の如く記載されている。
全生園図書館開会式
昨年(昭和十年)末より患者の手に依り建築中の全生図書館は4
月工事竣工したるもなお内部設備その他に日時を要せしを以て十一月旧図書館をここに移
し十二月十五日開館式を挙行して併せて本院学園児童学芸展覧会を開催したるに近隣町村
小学校より七百余点の出品あり頗る盛会なりき。来賓として中山田無警察署長、榎本東村
山村長、小池化成小学校長、その他近隣小学校長並に教職員等多数列席せられたり。
更に山桜誌昭和十二年一月号彙報欄にもこのことを報じ、上記来賓の外小平第一、第二
小学校両校長、埼玉県所沢小学校訓導等の列席及び新図書館、来賓の写真を載せている。
本図書館は現在なお使用しているもので大きさは四十五坪五合、既に建築後三十年を経
過し老朽化して如何にも古びたお粗末のものとなつておるが、この前に立つと色々と往時
が 思 い 出 さ れ る 。先 ず 南 の 表 入 口 か ら 入 つ て 玄 関 、東 西 横 に 通 る 廊 下 に 向 つ て 左 側 の 広 間 、
これはその頃各種の会合に使用のために取つたものであるが現在は他に幾つも集会場所が
出来ているので殆んど不用となつているようだ。右側には読書室、書庫、掛員詰所等があ
りこれは現在使用されている。北側に裏入口を設けてある、これは当時患者住宅が図書館
の北側にあつたのと、この入口に続いて一坪半程のコンクリの土間を設け、そこを新聞閲
覧所に当てて、各舎の人達が土足のまま入つて簡単に新聞が見られるようとの配意であつ
た 。そ の 頃 は 新 聞 も な か な か 買 え な く て 三 種 類 位 が 二 、三 部 づ つ 、や つ と で あ つ た と 思 う 。
その内の1部づつをこの閲覧室においたのである。そんなわけで我々職員も各自講読した
新聞はなるべく患者さん達にまわすようつとめたものである。今日では各舎へは勿論各個
人でも多数講読しておることと思うが、昔はなかなか左様には参らなかつたので、時勢の
進歩と日本国力の増大が感ぜられる。又話が外れかかつたが、兎に角図書館は全生の文化
面における歴史の一部を物語るもので、外観は貧弱であるが蔵書は相当になつておると思
うので充分に活用せられんことを切望するものである。
附記
昭和四十一年九月初め図書館掛り小泉君にお尋ね致した処現在図書館蔵書は総計
5,452 冊 で そ の 内 文 学 関 係 2,040 冊 、 宗 教 関 係 589 冊 、 短 歌 、 俳 句 、 詩 関 係 141 冊 、 文 庫 本
と し て は 北 条 文 庫 212 冊 、 藤 楓 文 庫 857 冊 、 岩 波 文 庫 384 冊 、 外 国 文 学 529 冊 、 芸 術 、 趣
味 関 係 42 冊 、 工 業 、 産 業 関 係 16 冊 、 教 育 関 係 12 冊 、 そ の 他 と の こ と で あ る 。
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『 多 磨 』 第 604 号 、 1972 年 4 月
鈴木楽光「きき書き
全生園むかし昔(五)入園した頃」
若い人たちにとって図書館は、娯楽というより救いのオアシスのようなものでした。
図書館といえばひびきがいいのですが、春とか秋の芝居のころになると、そこが片付け
られて楽屋になるという状態でした。畳もぼろぼろですし、冬なんか畳の上に南京袋を敷
いて、座布団の上に図書係の人たちはいました。
うす暗い所ですけど、百燭電燈が、こうこうと輝き、それがうれしくてね。舎の方では
十時に消燈ですし、その舎の電燈というのが大変で、天井の高い十二畳半に五燭しかない
のですから、とても本など読めるものではなかったです。だから私たち若者にとって、図
書館というのは、十時、十一時になっても、こうこうと電燈がついているし、その下で本
が読めるということは表現のしようのない救いでしたね。
そ の 当 時 、楽 し み に し て 読 ん で い た の に は 、石 渡 コ ト 婦 長 が 寄 付 し て く れ た「 大 菩 薩 峠 」
が あ り ま し た 。 こ れ な ど と て も 面 白 く 読 ん だ も の で す 。 他 に は 「 夏 目 漱 石 全 集 」、「 内 村
鑑 三 全 集 」、「 現 代 文 学 全 集 」、 宗 教 関 係 の 本 な ど い ろ い ろ あ り ま し た 。 貸 出 禁 止 の 本 や 、
新刊書なども入ってきたりするので、どんなに苦しくても、昼間働いて疲れていても図書
館に行くのが楽しみでしたね。読み疲れて、そのままグウグウ寝てしまったこともありま
す。
その時代の人たちは、大衆小説といったらほとんど片っ端から読んでいたから、昔の人
たちはそういうことはよく知っていましたね。あの頃の人たちは、小説という小説をほと
んど読みあさって、次から次と新しい本が出ないと読む本がないというくらい読んでいま
したね。
そのころ、図書館に夜来る人はだいたいきまっていましたからね。常連の人たちが、十
一時までも十二時までも本を読んで、そのあげくにですね。
今から引きあげうどんでも食おうではないかというのがいてね。そこでうどんを持って
きて茹で、生醤油と削りぶしを入れて、ろくろく煮えてもない熱いのを、ふきふき食べま
した。冬なんかよくやりましたね。そんなところを光田園長にみつかって「てめえたちは
豚 だ 」 と よ く や ら れ ま し た け れ ど …… 本 当 に そ の 頃 は 、 心 の あ っ た 人 た ち が 一 個 所 に 集
って雑談するだけでも、私たちは大変楽しかったですね。
そのころ図書館の果した役割は、私たち若い者にとって、教養をつけてくれたり、人間
的に高めてくれる修練道場のようなものでした。苦しい療養生活を支えてくれた大きな柱
であったと思います。今考えるとなつかしいですね。
- 22 -
『 多 磨 』 第 660 号 、 1977 年 1 月
松本 馨「年頭に当りて」
〔前略〕
このほかに藤楓協会を通し、自転車振興会及び船舶協会に要請しているものに、病棟と
新センター(特別重不自由寮)地区に建設する予定の老人ホームを要請している。昨年は
船舶協会の援助でハンセン氏病図書館(約一千五百万円)を建設した。この機会にハンセ
ン氏病の図書館建設の目的について言及しておきたい。
医療センターと共に、その実現を強く望んだものにハンセン氏病図書館があった。8年
前、自治会再建と同時に医療センターの運動と共に並行して行なったものにハンセン氏病
文献の収集があった。医療センターはハンセン氏病の終末的観点に立ち、運動を起したも
のであることは機会があるごとに本誌で訴えてきたところである。つまり、センターはハ
ンセン氏病の最後の医療を見ることが目的であるが、センター運動だけでは問題は解決し
ない。ハンセン氏病の文献を収集し、後世に遺しておくことである。ハンセン氏病は今世
紀のうちに日本から姿を消すことは確実である。人類史の中でハンセン氏病ほど悲惨で絶
望的な病気、差別と偏見によって虐げられた病気はない。その病気はやがて世界から消え
ようとしている。二十一世紀後の人間は文献以外にハンセン氏病を知ることができなくな
るであろう。それ故にハンセン氏病文献は貴重な資料として後世に遺しておかねばならな
いし、最後のハンセン氏病患者として現代に生きているわれわれの責任として収集し、保
管しておかなければならない。ハンセン氏病文献を持っておられる方はこの機会に協力し
て欲しい。個人で保管しておくことには限界があり、いつかは喪失してしまうであろう。
ハンセン氏病図書館は鉄筋コンクリートの不燃性の建物であり、後世に遺すわれわれの共
有財産として管理していかなければならない。なお、貴重な蔵書についてはその希望額に
そって買い取ることもしており、多くの方の協力を重ねておねがいしたい。
ハンセン氏病図書館は梅林の一郭に建った。ここは昔、有料の患者が入居していた「山
の手」という小住宅地区である。図書館の敷地は北条民雄が住んでいた秩父舎跡である。
北条が入居したときは有料制度は撤廃されていた。秩父舎は十二畳半二室に応接間があっ
た。北条は二号室に入居し、応接間を書斎として独占していた。当時としては特別待遇で
ある。十二畳半に八人から十人が普通であるのに、十二畳半一室と応接間を自由に使うこ
とができたのである。もっとも施設が特別に待遇したのでなく、同室者が北条との同居を
敬遠し、附添夫になるなどして出たために結果的に恵まれた環境が与えられたのである。
応接間の南窓の外には子供の腕ほどの紅葉が一本あったが、現在は大木となり、北条の
住んでいた唯一のしるしとしてだいじにされている。会員からこの紅葉のそばに北条の記
念碑を建てて欲しいという声があり、その要望に答えてハンセン氏病図書館を建てた。北
条を記念する意味で「北条民雄文庫」と命名するつもりであったが、寄贈者のことを考慮
し、固有名詞を付けることを遠慮した。しかし、名称はハンセン氏病図書館であるが、そ
の 精 神 は 、「 北 条 民 雄 文 庫 」 で あ る こ と に 変 り は な い 。 ハ ン セ ン 氏 病 図 書 館 は 梅 林 に 囲 わ
れ、その梅花の香りのように後世にわれわれの命を伝えることになるであろう。
自 治 会 が 独 自 の 考 え の も と に 起 さ な け れ ば な ら な い も の に 、多 磨 全 生 園 史 の 編 纂 が あ る 。
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1979 年 は 全 生 園 の 創 立 七 十 周 年 に 当 る 。 こ の 七 十 年 を 記 念 し て 、 わ れ わ れ の 手 で 全 生 園
史を編纂しておく必要がある。この編纂も後世に遺しておくためのものであり、今のとき
を逸しては編纂の機会がない。
多磨全生園は光田健輔によって創られ、長島愛生園を始め、後の国立療養所のヒナ型に
なったものである。この七十年の歴史の中で懲戒検束権が導入され、監房が造られ、終身
隔離撲滅の収容所が完成していくのであるが、全生園を語ることは日本のハンセン氏病療
養所の歴史を語ることであり、それだけに多磨全生園史は重要な意味を持つであろう。
〔以下省略〕
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『 小 さ き 声 』 №173、 1977 年 1 月 20 日
松本 馨「療養通信」
12 月 20 日
ハンセン氏病図書館が完成しました。検査の都合で開館は来年1月になるでしょう。矢
島公園は北端にあり、図書館は南端にあります。庭は梅園でこの一角は宗教地帯で7つの
お寺と会堂があります。後世に遺す図書館の場所としては最適のように思われます。前に
書いた記憶がありますが、図書館は北条民雄が住んでいた寮の跡で、北条が書斎に使って
いた応接間の前にあったもみじは巨木となって枝を張っています。図書館は入園者だけで
な く 、北 条 民 雄 の 愛 読 者 に も 愛 さ れ る も の に な る で し ょ う 。私 の 願 い は 、図 書 館 を 中 心 に 、
望郷台に至るまでの場所を公園にする事です。望郷台の下は学園のグランドで、庭をはさ
んで小中学校があります。生徒は中学生1名で、先生が2名、それに患者の補助教師2名
の4人で教えています。中学1年生ですが、社会復帰して外部の中学校に転校したい希望
を 持 っ て い る よ う で す 。〔 中 略 〕 生 徒 が い な く な る こ と を 前 提 に 、 来 年 は 学 園 グ ラ ン ド に 芝
生を植え、望郷台を延長した公園にしたいと思っています。グランドは災害の折り、周辺
の人達の避難場所を兼ねた公園にしておくとよいと思っています。
病棟、治療棟地区には、昔造った公園があります。其処には野球場もあり、最も公園ら
しくなっております。この公園は西に当り、東には墓地がありその境内には銀杏、楓が鬱
蒼 と と 繁 っ て お り ま す 。 私 が 入 所 し た の は 1935 年 ( 昭 和 10 年 ) で 、 墓 地 が 出 来 た ば か り
でした。銀杏、楓は若木でしたが、先日墓参の折りその銀杏、楓に触れ、巨木になってい
るのに驚きました。傍に寄りつけない程、根は地表に這い、青松園の松を思わせました。
2 人 3 人 で な け れ ば 抱 え き れ な い 程 の 大 木 な の で す 。約 半 世 紀 は 経 っ て い る と 思 い ま す が 、
改めて自分の療養の長さを知らされました。この墓地は矢島公園とつながりますが、今年
植 樹 し て 矢 島 公 園 が 森 林 ら し く な る に は 、 5 年 、 そ し て そ の 形 が 成 る ま で に は 10 年 か か
るでしょう。私の頭の中には、森林公園となった全生園があります。そして患者の居なく
なった時、この公園を地元住民に感謝の記念として捧げたい、という願いがあります。
1977 年 も 、 こ う し た 考 え の 許 に 、 全 生 園 は 医 療 セ ン タ ー と 公 園 の 二 つ の 面 か ら 整 備 さ
れ て ゆ く で し ょ う 。〔 後 略 〕
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『 多 磨 』 第 664 号 、 1977 年 5 月
大 竹 章 「 写 真 風 土 記 ( 64)」
船舶振興会の寄付金で「ハンセン氏病図書館」が宗教地区の南側、かつて北条民雄が住
んだという秩父寮のあとに建てられ、古ぼけて雨もりのひどい図書館から「ハンセン氏病
文 庫 」 が 移 動 、「 昇 格 」 す る こ と に な っ た 。
しかし、その古い図書館にあるたくさんの一般書籍はどうしたらよいか。現在では、殆
ど利用する人もなくなってしまったが、私たちの過去には、図書館へ通い、読書だけを楽
しみとし、読書のために生きていた、といってもよい時代があった。
人間が駄目になったのか、出来上ってしまったからか、本がなくても生きられるように
なったとはいえ、大切なものはやはり大切、思い出深いものも一緒に持っていこうと、図
書館員とともに引っ越し、古い図書館はときたま開館するだけとなった。
「ハンセン氏病図書館」にはまた、自治会や全患協の古い記録も、生きたしるしとなる
日のために保管する一方、昔の備品や貸与品、生活用具も一式、記念に保存することにし
た。
うどん縞の着物を着ていて「裏返しですよ」といわれ、つい「出ているほうが表です」
と こ た え「 か わ い げ の な い ひ ね く れ も ん 」と い わ れ た こ と が あ っ た が 、ど ち ら を 出 し て も 、
余り変り栄えのしなかった、それは、支給の単衣物であるとか、逃走させないため、お金
の か わ り に 持 た さ れ た 園 内 通 用 券 で あ る と か 、飢 餓 の 時 代 に さ つ ま 芋 を ふ か し た 鉄 の 大 鍋 、
味 噌 汁 を わ か し た 小 鍋 、 鉄 び ん 、 火 鉢 、「 ガ ニ 火 箸 」、 銘 々 が 必 ず 所 持 し た お 膳 箱 で あ る
とか金椀、等々。
例えば、金椀は一人前で五種類ずつであったが、今では使う人もなく、なかなか見当た
らなくなってしまった。事務補助の倉庫をはじめ、あっちこっち探しているうち、たくさ
ん集めているところがわかった。欲しい人は、動物飼育場へ行けば、一つくらいくれるか
も知れない。
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『 多 磨 』 第 680 号 、 1978 年 9 月
大 竹 章 「 写 真 風 土 記 ( 78)」
林芳信名誉園長が亡くなってはや八ヵ月、遺族の配慮によって膨大な蔵書のうち、ハン
セン氏病に関する一切を当園へ寄付して頂くことになり、一応の選別は済んだが、見落と
しがないかどうか見るようにと、図書館の山下君と一緒に大平副園長につれられて柏市へ
行った。
柏市は千葉県だが、武蔵野西線が敷かれて便利になり、一時間半で着いた。
そこは、長男の林芳雄先生が歯科医院を開いているお宅で、林園長が病床につかれてか
らは、その二階が病室にあてられていた。書斎は通りから少し裏に入ったところにあった
が、比較的新しい本は二階にあり、芳雄先生によれば「井上靖が好きで、最後まで読んで
いたので、全部揃っているでしょう。よかったらお持ち下さい」ということで、井上靖フ
ァンの林園長に改めて、親近感を覚えた。
奥さんは元気で「几帳面な人で、皆さんから頂いた年賀状や暑中見舞いをこんなに沢山
束ねて……」と見せてくれたが、耳が遠く、こちらの声がきこえたかどうか。
夕食時間になり、そばをよばれ、芳雄先生が昔の思い出を話してくれた。
頂くことになった書籍は段ボールに三十余、園長室に残された分とでは四十箱にも達し
たが、私たちは書斎で本館一号と書き、マル全の徽章のつけられた鉄カブトを見つけ、永
久保存のため、頂いて帰ることにした。
すると、玄関で若奥さんが「そのヘルメット、お持ちになるのでしたら、手さげ袋をあ
げ ま す か ら 入 れ て い っ て 下 さ い 。こ こ は 千 葉 県 で す か ら ね 」と い わ れ 、笑 っ て し ま っ た が 、
過激派と間違えられないよう、いわれた通りにした。
帰りは柏駅まで、車で芳雄先生が、人口二十四万という町の賑わいを見せながら送って
く れ た 。( 写 真 、 医 局 図 書 館 二 階 で の 整 理 作 業 )
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『望郷の丘
多 磨 盲 人 会 創 立 20 周 年 記 念 誌 』 1979 年 5 月 、 72 ~ 75 頁
原田嘉悦「図書館」
図書館は入院後間もなくできて、その係りは栗下信策さんと私がやったんですよ。当時
図書館と言ってもその書籍は、各県の予算で購入するということはなくて、主に仏教、キ
リスト教関係から寄贈になったものだった。図書館の棚の一部に、東本願寺から寄付され
た講談本がありました。それの係りは私どもと違って、瀬戸さんたちが一週間に一回くら
い本を貸すと言って、各舎を回って歩いたんです。その講談本のほとんどは大川屋のもの
で、後藤又兵衛とか荒木又衛門と言った英雄豪傑のたぐいに、滝の白糸のようなものと、
子供のための童話集とかね。そうした講談本を鼻の下の長い男たちが、女の作業に包帯巻
きがあって、その作業場で読んでやっていたんです。そのお礼とでも言うのか、女たちが
僅かずつ出し合って、茶菓子を買ってやっていた。
図書館の係りは、一日一銭五厘で、一カ月務めて四十五銭だった。私は初めから無報酬
でやるつもりでいたから、このお金はいりませんよって、見張所へ袋ごとほおり込んで来
たんだよ。そうしたら、二年ほど前に亡くなった比留間誠二さんのお父さんが、お前一人
お金はいらないよと言われても困るよって、無理にもらわされた覚えがある。一日一銭五
厘と言えば、当時のはがき一枚分だからね。図書館の大きさは、十二畳半くらいの板の間
で、西と南側に本棚があって、北側が入口、東側が娯楽場の舞台に続いたわけなんだよ。
だから春と秋の芝居の時には図書館は閉鎖して、そこが役者たちの化粧室に早替りしたん
です。とにかく、昼間でもううす暗い、洞窟のような室だったよ。本らしい本と言えば、
『 夏 目 漱 石 全 集 』 と か 、『 島 崎 藤 村 全 集 』 く ら い な も の で 、 他 は 単 行 本 、 そ れ も 読 み 古 し
た も の で 、 そ の 他 、 前 に も 触 れ た 仏 教 と か キ リ ス ト 教 の 本 が 多 か っ た で す 。『 ド ン キ ホ ー
テ』の翻訳ものがあったね。
光 田 院 長 が た ま た ま 図 書 館 へ ひ ょ っ こ り 来 て 、『 ド ン キ ホ ー テ 』 の 翻 訳 も の を 見 つ け 、
おいそれ取って見せろよって、その場で読み初めたんだよ。そして言うには、これは勇気
と決断を象徴したなかなかいい本じゃ。われわれは聞きたくもないのにながながと朗読し
て ね 。あ る 日 、私 が 漱 石 の 感 想 集 を 読 ん で い た ら 、ま た 光 田 院 長 が の こ の こ と や っ て 来 て 、
私にいきなり、原田お前はそんな難かしい本を読むのに、傍らに辞典を置かないなんて何
事だと頭からしかられたね。
そんなことを言われても、図書館には一冊の辞典もないんですよ。だったら院長さん買
って下さいよってね。数カ月してから三省堂の百科辞典と、五、六冊からなっている『大
言海』を買ってくれたんですよ。総合雑誌と言えば、その後しばらくして、すぐ上の二階
へ図書館が移った時に、当時の東京日日新聞社から、週刊誌『サンデー毎日』が寄贈にな
ったんだが、それが総合雑誌に近いものだったと思う。新聞は別な娯楽室の、旧礼拝堂に
面した花道においてあって、見たい人は自由にそれを読んだ。だが院の方で都合の悪い記
事は切り取ってしまっていたんですよ。新聞の検閲係りのようなものがいたんだね、職員
の中に。
『山桜』誌のガリ版印刷は、大正八年四月に図書館で始めたんですよ。開院十周年記念
にね。関という青年が、字がうまかったので、ほとんど専門にやっていた。そんな時、看
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護手の仲さんの妹が看護婦で入って来たんです。ところが彼はその人と蒸発しちゃったん
だよ。その後は石川という憲兵軍曹が刷っていた。私も二、三回ガリを切ったが、なれな
いと十枚も刷れば、原紙が切れてぱかぱか開いちゃうんだよ。当時原紙一枚二銭くらいし
たですね。ローラーなども古くなって固くなると、それをとかし、作り直して、ごろごろ
やっていたんですね。本の名前は山桜で、多磨と改名されたのは昭和二十七年十一月で、
全国文芸特集号からだったんじゃないかな。初めのころは栗下さんが、後沢看護長や赤羽
看護婦に頭をペコペコ下げながら、紙代をもらって来て、四、五枚で一部だったから、三
十部ぐらい作ったかな。百部くらいと言う声もあったが、金もなく、紙もなく、配る所も
確定したあてもなしでね。しばらくはカンジンヨリでとじていたね。配った先は、職員、
それに本願寺を初めキリスト教関係、社会事業関係などだった。送料は一部二銭くらいだ
ったので、私たちが負担していたんです。
『山桜』誌がガリ版から、活字の印刷になったのは、昭和四年に創立二十周年記念の一
つとして、印刷機その他一式が購入されてからなんです。そのころ、北海道大学出身の林
文雄先生と、昔の薄舎の一室で原稿を集めて『山桜』の編集をしたこともあったです。
昭和の初めに慶応大学を出られた職員の佐武さんが、患者にエスペラント語を教えられ
た が 、 そ の 後 、 林 文 雄 先 生 が 受 け 継 が れ た 四 、 五 年 こ ろ 、『 悲 惨 の ど ん 底 』 と 言 う ロ シ ヤ
の小説を黒川ひとみが翻訳したんだよ。だけど彼にはそうしたものを翻訳するだけの語学
力はなかったので、林文雄先生が、黒川ひとみの名義で発行したと言うことですね。
当時、病院の出版物は、歌集『東雲のまぶた』とか句集『雑林』は長崎書店だった。私
の処女作『野路の足跡』は、昭和の初期に静岡の土井書店から、飯野牧師があっせんして
出してくれたんです。随筆集だが、俳句もやっていたので、巻末に少しのせたんです。発
行部数は百五十部くらいかな。とにかく患者の出版物としては第一号なるわけだ。私の第
二号は『天路を開く』ってのを、昭和十二年ごろ、銀座の教文館から出したんです。それ
か ら 四 十 八 年 に 『 生 命 の 真 珠 』 っ て の を ね 。 こ れ は 信 仰 的 な 内 容 の 随 想 集 で す 。〔 後 略 〕
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1979 年 8 月
『 倶 会 一 処 』( 一 光 社 ) 所 収 の 「 年 表 」 よ り
1909 年 9 月 28 日
1910 年 12 月
全生病院開院
礼 拝 堂 の 一 隅 に 書 棚 を 設 け 、浅 草 本 願 寺 寄 贈 の 講 談 本 600 冊 ほ ど が 置 か れ 、
希望者に貸出される。
1921 年 8 月 1 日
娯 楽 場 内 の 一 廓 に 図 書 室 ( 10 坪 ) が 出 来 る 。
1923 年 9 月 1 日
関東大地震で娯楽場など倒壊。
1926 年 11 月 15 日
1928 年
図書館常任委員改選。原田樫子、熊倉双葉が当選した。
医局及び図書室(一棟)整備。
1930 年 1 月 11 日
正午より図書室にて広畑渓鶯の追悼歌会。
1936 年 12 月 15 日
4月竣工した新図書館へ旧図書館より移転し、開館式。
1950 年 2 月 21 日
自治会では各出版社に、入園者の教養を高めるため、書籍の寄贈を要
請 し て 来 た が 、 こ の 日 初 め て 岩 波 書 店 よ り 180 冊 の 寄 贈 を 受 け た 。( 以 後 、 旺 文 社 、
三 省 堂 、 新 潮 社 、 春 陽 堂 、 河 出 書 房 よ り 逐 次 書 籍 の 寄 贈 が あ っ た 。)
1950 年 8 月 8 日
玉川学園(学園長小原国芳)より書籍多数寄贈され、園内学園内に「玉
川文庫」を設ける。
1969 年 10 月 28 日
創 立 60 周 辺 記 念 式 典 を 行 う 。 自 治 会 で は 記 念 事 業 と し て 「 ハ ン セ ン
氏病文庫」を設置。
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1983 年 9 月
「ハンセン病図書館運営内規」
1.ハンセン病図書館は、ハンセン病関係の文献及び歴史的な生活物品等を集め、極限に
生きた入所者の軌跡を後世に遺すことを目的とする。
2.ハンセン病図書館は、中央委員会が管理者を任命し、総務部長が責任にあたる。
イ.図書館管理係は2名とする。
ロ.なお、オブザーバー若干名をおき、資料の充実及び運営について助言を受ける。
3.ハンセン病図書館の資料は館外持ち出し禁止資料(禁帯出のラベルつき図書、写真、
録音、録画テープ、書画及び保存物品)と貸出し図書とに分けて扱う。
イ.貸出し図書は所定の「借用証書」に住所、氏名、電話番号等を記入し、貸出す。
ロ . 館 外 持 ち 出 し 禁 止 資 料 を 特 別 に 貸 出 す 場 合 は 、 保 証 人 を 必 要 と し 、「 図 書 館 資 料
特別貸出し保証書」の各欄に必要事項を記載し、貸出す。
ハ.保証人の資格は、自治会々員または施設職員とする。
ニ.保証書の記載事項は氏名、住所、電話番号、職業及び保証人の氏名、捺印等とす
る。
ホ .「 保 証 書 」 の 用 紙 は 自 治 会 及 び 図 書 館 の 各 受 付 に お く 。
ヘ.図書の貸出しは3冊まで、期間は1週間以内とする。
付記
ハ ン セ ン 病 図 書 館 は 、 多 磨 全 生 園 の 創 立 60 周 年 記 念 事 業 と し て 東 京 都 の 助 成 を も っ て
旧 図 書 館 内 に 設 置 し た 「 ハ ン セ ン 氏 病 文 庫 」 を 発 展 的 に 解 消 し 、 創 立 70 周 年 を 機 に 財 団
法人船舶振興会からの基金援助を受け、ありし日の北条民雄ゆかりの寮舎跡に名称を改め
て建設、極限に生きた者たちの記録を遺すと共に研究者の利用に供するものである。
1983 年 9 月
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『 多 磨 』 第 741 号 、 1983 年 10 月
大 竹 章 「 写 真 風 土 記 ( 134)
図書館別館」
図 書 館 の 南 側 に 礼 拝 堂 の 鬼 瓦 を 組 立 て 、 柵 で 囲 み 、 由 来 を 書 い た 立 札 と 、「 キ ケ ン 」 だ
から、のぼったりしないようにと、子供向けの立札をたててあるが、まだ知らない入園者
が多いのではないか。
その横にプレハブの小屋を建て、なつかしい物、古い物を保存している。
鉄びん、鉄なべ、ガニ火箸、金わん、膳箱、七厘、火鉢、なた、包丁。舎長の道具の焼
印、金板、硯箱。ブリキの義足と真竹で作った松葉杖。戦争中のゲートル、メガホン、鉄
カブトもあり、ますとはかりとそろばんと、夜警の拍子木、歌舞伎の木、羅宇のすげかえ
道具とねずみ取り、柳行李と糸車、てんでの時間を指して止まった柱時計が幾つも。
いちいち書ききれないほど増えたが、もっと増えるよう、一度文化祭会場に展示し、宣
伝しようじゃないかと、図書館係の山下さんと話しあっているところ。
「 ハ 氏 病 文 庫 」 の 当 時 の ま ま の 規 定 も 今 度 、「 ハ ン セ ン 病 図 書 館 運 営 内 規 」 に 改 正 、 ハ
ンセン病関係の文書だけでなく、歴史的な生活物品も保存の対象に入れ、従来の「貸出し
は し な い 」 原 則 を 改 め 、「 館 外 持 ち 出 し 禁 止 資 料 」 で あ っ て も 、 保 証 人 と 保 証 書 へ の 必 要
事項の記載を条件に貸出すこととし、付記で、これを「ありし日の北条民雄ゆかりの寮舎
跡に名称を改めて建設、極限に生きた者たちの記録を遺すと共に研究者の利用に供するも
の」となった。
さて、最近、十九世紀半ばから生産されたパルプ紙が、百年たった今、自壊作用でボロ
ボロになり、名のある図書館の蔵書が何万、何十万冊という単位で閲覧不能になりつつあ
る、といわれている。ここでも、すでに「全患協ニュース」のバックナンバー等、手に負
え な い い た み 方 で あ り 、和 紙 や 正 倉 院 の 御 物 は 千 年 を 経 て な お 、燦 然 た る も の が あ る の に 、
所詮、私たちのそれは、やがて空しいものになっていくのであろうか。
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『 Monthly 新 刊 情 報 October 1988』 Vol.2. No.10、 282 ~ 285 頁
多磨全生園ハンセン病図書館を訪ねる
読 者 の 皆 さ ん は 、「 ハ ン セ ン 病 」 と い う 病 気 を ご 存 じ だ ろ う か 。「 ら い 病 」 と 言 い か え
ても分らない世代も、すでに多いかもしれない。先日、このハンセン病について話を聞く
機 会 が あ っ た 。そ し て そ の 話 の 内 容 に シ ョ ッ ク を 受 け た 。信 じ ら れ な い よ う な 話 も あ っ た 。
そして、知らないということは罪であるということを改めて思った。
東 京 の 近 郊 、 東 村 山 市 に 全 国 16 ヶ 所 に に あ る ハ ン セ ン 病 療 養 所 の ひ と つ 、 国 立 療 養 所
多磨全生園がある。その一角に、全国でも唯一の「ハンセン病図書館」があり、様々な関
連図書が収められている。ハンセン病と全生園について知るには最適のところである。
一、病への偏見
9月半ばのある雨上りの午後、はじめて多磨全生園を訪れた。第一印象は、緑の豊かな
こ と だ っ た 。 全 生 園 の 患 者 さ ん が 執 筆 し た 『 倶 会 一 処 』( 一 光 社 ) の 序 文 に は 、 地 域 住 民
の 援 助 に 対 す る 感 謝 の し る し と し て 、 緑 の 少 な く な っ た 東 村 山 市 に 森 を 残 す た め 、 71 年
より植樹をはじめたものである、と記されている。植込みはきちんと手入れをされ、家々
の庭先には花や果実が栽培されている。落ちついた穏やかな空気が園を満たしている。
し か し 開 園 当 時 は 、 こ ん な 雰 囲 気 と は 程 遠 か っ た よ う だ 。 今 で こ そ 池 袋 へ 30 分 も あ れ
ば出られる、全国の療養所の中でも交通の便のよい所だが、当時は松や杉の大森林におお
われ、追いはぎが出没するような田舎だったそうだ。一般社会から隔離するのにふさわし
い場所ということだったのだろうか。また、園の建設に反対する地元農民との間に流血を
み た こ と も 記 録 さ れ て い る 。 そ の 反 対 の 理 由 は 、「 病 毒 が 伝 染 し 、 農 作 物 の 値 が 下 が る 」
といったものであったが、根本的には、当時一般的だった無知と偏見による情緒的な動機
からくるものであったろう。つまり、ハンセン病は天刑・不治の病とみなされており、そ
の外見とともに、忌み嫌うべき病だったのである。
しかし、正確にはハンセン病(らい病、レプラ等とも呼ぶ)の菌自体は抵抗力が弱いの
で、その感染力も非常に弱いものである。そのため通常、菌に直接的長期的にくり返し接
触するのでもない限り感染することはないし、伝染が接触感染かどうかについても明確に
はなっていない。現在では様々な治療薬が開発されており、大正8年には1万6千名以上
を数えた収容患者も、現在では7千名弱と、どんどん減少しており、いずれこの病気がわ
が国から姿を消すことは間違いないと言われている。
二、隔離の園へ
このように、適切な治療によって社会復帰が可能な病気であるにも関わらず、つい数年
前 ま で は ( あ る 意 味 で は 現 在 で も )、 こ の 病 に か か っ た 人 々 に は 、 病 気 以 上 に 辛 い 偏 見 と
差別と迫害が襲っていたのである。
明 治 40 年 、 浮 浪 者 の 救 護 と ら い 病 の 予 防 を 目 的 と し て 「 ら い 予 防 法 」 が 制 定 さ れ て い
る 。そ の 後 、数 度 の 改 正 を 経 て 、昭 和 16 年 、全 国 5 ヶ 所 の 公 立 療 養 所 が 国 立 に 移 管 さ れ 、
この時点でわが国におけるハンセン病対策が一応完成した。国家にとっては、治療と予防
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を目的とした療養所の設置である。しかしそれは、患者にとっては隔離撲滅のための生涯
強制収容所の完成であった。
全生園の歴史をみてもると、とくに戦前は「患者のとりあつかいは罪人より罪一等を減
じた程度」であり、警察関係者が園長になるなど、われわれの抱いている「療養所」もし
くは「病院」というイメージからは遠いものであったようだ。子どもをつくらせないため
に断種させたり、様々な検閲や厳しい懲罰が行われるなど、とても治療されるべき病人の
扱いとは思えないことがなされた時期があった。さらに戦中・戦後の食糧難の時代には、
いかに悲惨な状況であったかは想像に難くない。
三、療養所のドン・キホーテ
このような非人間的な差別に対して、断固戦った人々も多い。國満静志もそのひとりで
あ る 。(『 漂 泊 の 日 に 』 皓 星 社 )。 國 満 を よ く 知 る 多 磨 全 生 園 の 國 本 衛 氏 は 、 彼 に つ い て こ
う語ってくれた。
「彼は何度も何度も社会復帰を試みるんだけれど、昔のことで、社会から拒否されては
療 養 所 に 舞 い 戻 っ て く る 、ま た 出 て い っ て は ま た 戻 る と い う こ と を 繰 り 返 し て い た ん で す 。
そ の う ち 、昭 和 30 年 頃 、特 効 薬 の プ ロ ミ ン の 効 果 で 、社 会 復 帰 を す る 者 が ど ん ど ん 出 て 、
それに伴って園の外出規制もゆるやかになってきたんです。そこで彼はもう一ぺん出よう
と思うんだけれど、その時はかなり体も不自由になっていて、病気のために指も曲がって
しまったんです。彼は、社会復帰を妨げているのはまずこの曲がった指だと思って、医者
に指をまっすぐにする手術を頼むんですけど、そんな手術はないと断られるんです。だけ
ど納得できない彼は、とうとう思いつめて、つっぱった指の皮をカミソリで全部切るんで
す。そしてハブラシの柄に一本一本ほうたいで巻きつけてまっ直ぐにしたんです。すごい
こ と を す る な と 思 い ま し た ね 。」
奇蹟的にまっ直ぐな指を得た國満は、運転免許証を東京で取得すべく日雇い人夫として
働く。しかし東京で得た車の免許証も就職にはつながらなかった。ようやく遠隔地の養豚
場で職を得るが、重労働のため体力の消耗は極限に達する。その後、廃品回収の仕事を始
めるが、やはり生活は苦しかったという。
「後日、働いて残ったのはこれだけだと腕時計一個を見せてくれたことがある。その時
の 彼 の 顔 に は 後 悔 の 色 は な か っ た 。 む し ろ 満 足 し き っ た 顔 で あ っ た 。」( 同 書 解 説 よ り )
四、影を生き抜いた人々の記録
「ハンセン病図書館」には、全生園の文芸誌はもちろん、各園の機関誌や患者自身の発
行した本、および関連図書や寄贈図書が数万点にわたって収められている。現在は、山下
道輔氏が管理されている。
「退園者がふえて、だんだん患者の本が少なくなってきたんです。それで破損や紛失を
防いで長く後世に残すために、当初、都の援助金をもとにこの図書館を設立したんです。
現在は患者自治会の会費と、ボランティアの方々の協力で運営しています。毎年少しずつ
蔵 書 や 備 品 を そ ろ え て い っ て 、 こ こ ま で に な る の に 20 年 か か り ま し た 。」
つ い 最 近 、 山 下 氏 と 電 話 で 話 を し た と き 、「 近 く 、 東 村 山 市 公 民 館 の 手 で 、 全 生 園 で 若
く し て 死 ん だ 作 家 、 北 条 民 雄 の 文 学 碑 が 建 つ ん で す よ 。」 と う れ し そ う に 語 っ て く れ た 。
この病のもたらす不幸は患者自身に止まらず、その家族にも影響を及ぼす。國満の場合
も、彼が郷里へ戻ったとたん、地域での弟一家に対する偏見と差別は容赦のないものであ
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ったという。このような、犠牲者のための犠牲者になる例は少なくない。なぜこのような
悲劇がおこるのだろうか。
われわれの心の中には光と闇の両方の世界が存在している。人の心の中に神と悪魔が共
存している以上、自身の暗黒の部分を外界に投影し、それを忌み嫌うことによって自分自
身の善良さと幸福を確認しようとすることはごくふつうの心性である。また、一般の人た
ちの住む中心社会が、周囲に辺縁社会を置くことによって、その優越性と健全さを保証す
るという構造も様々な社会で観察されるものである。したがって、ハンセン病患者とその
家 族 の 上 に 起 き た こ と は 、他 の 傷 害 や 病 を か か え た 人 々 の 上 に も お こ っ て い る 悲 劇 で あ る 。
その意味で、ハンセン病患者とその家族の戦いは、永久的にくり返される人間性回復の戦
いといっても過言ではない。ここにおさめられているハンセン病患者たちの著書には、影
を生き抜くことによって、自己実現を達成していった軌跡がみてとれるのである。
参考文献
○村松武司『遥かなる故郷
○島田等『病棄て
ライと朝鮮の文学』皓星社
思想としての隔離』ゆみる出版
○島比呂志『片居からの解放
○谺雄二『わすれられた命の詩
ハンセン病療養所からのメッセージ』社会評論社
ハンセン病を生きて』ポプラ社(児童書)
(今回の取材および原稿をまとめるに際しては、皓星社社長の藤巻修一氏、同社能登恵
美 子 氏 の ご 協 力 を 頂 き ま し た 。)
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『 小 さ き 声 』〔 第 二 期 〕 №23、 1990 年 4 月 15 日
松 本 馨 「 文 書 伝 道 と 自 治 会 活 動 (10)~ (11)」
〔前略〕
再 建 の 年 の 1969 年 9 月 28 日 は 国 立 療 養 所 多 磨 全 生 園 の 前 身 で あ る 第 一 区 府 県 立 全 生 病
院 の 創 立 60 周 年 記 念 日 で あ っ た 。 再 建 自 治 会 は 期 間 が 短 か っ た 為 に 記 念 行 事 の 計 画 を 立
てることが出来なかったが、記念事業としてハンセン病図書館を建設し、癩文献の収集を
始めることにした。ハンセン病図書館は宿泊所と同じく藤楓協会を通して、外部からの援
助を仰ぐことにした。それまでは、図書館の会議室を癩文庫として使うことにした。会議
室は戦後全生園に始めてテレビが入った時、その放映室に使われたが、その後は痛みがひ
どく空室のまま放置してあった。すすけた天井や壁をペンキで塗り替え、腐った畳を外に
出 し 、 床 を は り 替 え た 。 そ し て 書 棚 を 購 入 し た 。 そ の 費 用 は 東 京 都 が 60 年 の 記 念 事 業 と
して援助してくれたものであった。
文 書 伝 道 と 自 治 会 活 動 ( 11)
私が始めて図書館に勤めた時、図書館にライ文庫が無い事に疑問を持ち、一般書籍の中
にあったライ文献を収集しらい文庫を作った。ライ文庫は図書館の骨格をなすものでなけ
ればならない、将来、収容所の歴史を調べようとしてもライ文庫が無ければ調べようがな
い。しかし、その当時は検閲が厳しく、収容所に批判的な事を一言半句でも書けば没収さ
れ て し ま う 。そ れ だ け で は 済 ま な い 、情 況 に よ っ て は 収 容 所 の 秩 序 を 乱 す 危 険 分 子 と し て 、
監房に監禁されてしまうのだ。
患者が自由に書いたり物が言えたのは、政治的な事は一切抜きにした文学か、宗教だけ
であった。図書館にあるライ文献は、花鳥風月を歌った詩、短歌、俳句か、北條民雄、明
石海人が主題にしたライ苦に限られていた。しかし、この様な文学からは収容所の歴史を
知ることができない。文学に歴史が欠落しているのだ、この空白は、私達の手で埋めなけ
ればならない。その為にも、ライ関係の資料を収集しておくことは必要なのだ、しかし、
私の文献収集は寮父となって終った。私が再び図書館に勤務したのは、戦争が終った直後
であったが、その時は既にライ文庫は影も形もなく消えていた。一般の書籍と同じ扱いを
して貸し出した為に、紛失してしまったのである。私は、胸をえぐられる様な痛みを感じ
た。
戦後、連合軍によって超国家主義の指導者は公職から追放され、農地改革による小作人
の土地取得や財閥の解体など、民主主義の波が国の隅々まで押し寄せていたが、なぜか収
容所の超国家主義は追放されなかった為に、収容所の改革は遅れた。
それにもかかわらず、連合軍と共に、アメリカで開発された科学療法、プロミンが上陸
し 、 豚 の ご と く 扱 わ れ て い た 患 者 は 、 プ ロ ミ ン に よ っ て 「 我 も 人 な り 。」 の 自 己 認 識 を し
た。
1951 年 の 光 田 健 輔 の 国 会 証 言 、 科 学 療 法 プ ロ ミ ン を 否 定 し 、 あ く ま で も 脱 走 罪 の 法 律
を作り隔離撲滅を求めた証言は、結果的に患者の憤激を買い、ライ予防法改悪反対闘争を
起こし、彼の隔離撲滅政策に終止符が打たれたことは既に書いた。
1963 年 、 林 芳 信 は 高 齢 化 の 為 に 退 職 し 、 栗 生 楽 泉 園 園 長 矢 嶋 良 一 が 後 を 継 い だ 。 患 者
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自治会は林芳信の功績を称える為に彼の胸像を医局正面玄関に立てることを決め、患者を
二分する様な騒ぎになった。功績を称える前に、彼の犯した誤ちについても、自治会は正
しい評価をする必要があった。彼の為に幾十幾百の患者が監房に監禁された。私の知って
いるだけでも監房内で三人も首を括った。この林の胸像については、個人の寄付に委ねる
ことによって結果的には胸像は建ったが、私はその時、自治会がしなければならない事は
林を顕彰することではなく共同の費用でライ文献の資料館を造る事が責務であると思っ
た。今の内にライ文献の資料を収集しておかなければ、超国家主義者の文献だけが残り、
収容所の歴史は闇に葬られてしまうだろう。
そ の 時 か ら 6 年 後 、 私 が ラ イ 文 庫 を 初 め て 作 っ た 時 か ら 30 年 後 に 、 私 は 再 建 自 治 会 の
総 務 部 長 と な り 創 立 60 年 の 、 自 治 会 の 記 念 事 業 と し て 、 ハ ン セ ン 病 図 書 館 を 建 て る こ と
にしたのだった。資料収集には遅過ぎた感がしないでもなかったが、まだ、生きた証人は
大勢居た。今の内なら聴き取りでも収容所の歴史を知ることが出来る。この時私は、自治
会に勤めている内に全生園史を編纂し出版する事を秘かに決めた。全生園史は収容所の超
国家主義者(所長)を世に告発することになると思った。
自治会の記念事業として起こしたハンセン病図書館に共鳴し、協力してくれる者が一人
現れた。祥風寮時代の子供で、下山道雄であった。道雄は中央委員の一人であると共に、
図書館に勤めていた。道雄は、ライ文献収集を自己の使命として、ハンセン病図書館に深
く係わった。
道雄はまた、私が外出する時の付き添い人となって私を助けてくれた。全患協はその年
の 運 動 を 決 め る 支 部 長 会 議 を 5 月 に 開 催 し た 。 会 場 は 各 支 部 の 持 ち 回 り に な っ て い た 。 18
年 間 の 私 の 自 治 会 活 動 の 中 で 、私 は 13 支 部 に 少 な い 所 で 2 回 、多 い 所 で は 4 回 も 行 っ た 。
支部長会議の他に、臨時支部長会議やらい予防法の研究会など、出席する機会が多かった
のである。その度毎に私の付き添いをしてくれたのは道雄であった。
私は、行く先々で施設を見学させてもらった。夫婦舎の居室の構造と独身軽症舎、不自
由舎の居室はどう出来ているのか、道路と下水の整備など尋ね調べた。全生園の整備の参
考にする為であった。
道雄は、会議の合間を見ては各園の図書館を訪ね、全生園に無い文献はハンセン病図書
館の事を話し、譲ってもらえる物は譲ってもらった。各自治会の図書館関係者は道雄に協
力してくれた。また、貴重な資料を寄贈してくれる先生も現れた。こうして道雄の努力に
よってハンセン病図書館は我が国唯一のライ文献の資料館となったが、決定的に資料館と
しての重みを持ったのは、林芳信名誉園長の遺族より、林が持っていたライ文献の寄贈を
受けた事である。林は医者以外の趣味は何もないと言っていたが、彼はライ文献収集の趣
味 を 持 っ て い た の で あ る 。そ れ だ け に 、彼 の 残 し た ラ イ 文 献 は 貴 重 な も の ば か り で あ っ た 。
こ の 他 に 、 1979 年 に 出 版 し た 全 生 園 史 『 倶 会 一 処 』 を 編 纂 す る に 当 っ て 福 祉 室 の 物 置
き に 埋 も れ て い た 「 監 督 日 誌 」 が 発 見 さ れ た 事 だ っ た 。 1972 年 の 事 務 本 館 の 火 災 に よ っ
て 、 貴 重 な 資 料 は 全 て 灰 に 帰 し て し ま っ た が 、「 監 督 日 誌 」 だ け は た ま た ま 福 祉 室 ( 見 張
所)の物置に埋もれていた為に、火災から免がれたのである。
現在は、ハンセン病図書館を利用する者は、内よりも外の方が多い。卒論を書く為に学
生の利用も多かった。
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『 ハ ン セ ン 病 と 真 宗 』( 真 宗 ブ ッ ク レ ッ ト № 1 )、 1990 年 7 月 20 日
山下道輔「ハンセン病図書館にかける願い」
このほど立教大学史学科山田ゼミナールによる全生園の朝鮮人・韓国人の聞書『生き抜
いた証に』が出版された。人権を剥奪され苦難に満ちた人生抗路を綴ったハンセン病者の
図書は総じてその記録であり証といえる。
治癒薬による病苦からの解放と処遇の向上に伴い趣味娯楽の享受が多様化し、さらに老
齢が重なって、書き手、読み手が著しく減り、療友が闘病の中で書き残したそれぞれの文
芸作品や手記をまとめた図書を身近に顧みる大切さが失われて散逸がおびただしくなっ
た 。 そ う し た 過 渡 期 、 自 治 会 長 の 提 案 で 全 生 園 創 立 六 十 周 年 を 迎 え た 二 十 年 前 ( 1969 年 )
に記念事業として「ハンセン病関係の文献を広く集め、極限に生きた人間の記録を後世に
遺 す こ と を 目 的 」と し た ハ ン セ ン 病 文 庫 が 設 け ら れ た 。文 化 担 当 者 だ っ た 私 が 、設 立 以 来 、
資料の収集と整理、貸し出し等の仕事を続け、文庫も「図書館」に改称され新築の専門館
に移行するまでに資料増となった。とはいえ、日本のハンセン病の事ならハンセン病図書
館に行けば何でもわかるというほどにはまだ収集は果たされていない。ハンセン病者の辿
った歴史の裏も表も文献資料でしか確かめようのない時代がもうすぐそこに来ており、全
国各療園発行の機関誌をはじめ貴重な記録類を一カ所に集めて破損図書は補修し、酸化作
用で変質したものは再製して整理保存し、利用者の求めに生かすための一カ所集中化の道
筋を整えておくことが必要で、療友すべてのこの遺産が、やがて歴史資料の価値を成す形
にできるかどうかにかかっている。幸いいま外部の奉仕者の尽力を得て稀覯本等の製本を
手掛けていただいており、また外部利用者の厚意で未収資料の提供を受けるなど有り難い
協力を得ている。園内からこの宝庫作りの協力者は得難く、友園から転園して来て欲しい
とすら願う。それも夢でしかない状況下で今後の運営と在り方をどう確立していくか、こ
の 難 題 を 抱 え 、 園 創 立 八 十 周 年 を 迎 え た 今 年 ( 1989)、 図 書 室 が 狭 く な っ た の で 新 た に 資
料展示室を加えた増築が自治会の財産で施工することに決まった。
これまで以上に園内外の協力を仰ぎながら「ハンセン病を正しく理解する」ために役立
つ百科全書的な使命を果たす内容豊かなハンセン病歴史資料館を目ざし、これが社会認知
を 受 け て 存 在 し 続 け 、 陽 の 光 に 包 ま れ て あ る こ と を 念 じ て い る 。( ハ ン セ ン 病 図 書 館 係 )
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1990 年 9 月 28 日
藤 発 第 44 号 文 書
財団法人藤楓協会理事長 大谷藤郎「資料の保管等について」
ハンセン病資料調査会 xx殿
ハ ン セ ン 病 資 料 調 査 会 専 門 員 の 会 合 を さ る 8 月 30 日 に 開 き 、資 料 館 に 保 存 す べ き も の 、
後世に役立つ収集すべき中心的資料は何か等について意見交換を行いました。
この意見に基づき、当面は次のことについてご協力を賜りたくご多用中恐縮ですがよろ
しくお願いいたします。
なお、この会合には厚生省保健医療局整備課長、結核・感染症対策室長、国立療養所課
長補佐の方々のご出席をいただきました。
記
1
資料の保管
資料館建設後には各種資料(図書、文献、生活道具など)を積極的に収集し、これ
を整理、保管して利用に供するが
(1)現在、各療養所・自治会及び個人等で保管している資料は廃棄処分をしない
で、保管していただきたい。
( 2 ) 保 管 で き な い 場 合 に は 目 録 を 添 え 当 協 会 へ 送 付 し て い た だ き た い 。( 経 費 は
協会負担)
2
録音テープの作成
入園者の体験談を録音する。なるべく多くの方々のお話しをテープに録音したいと
考えており、来年度以降にも継続実施いたしますが、
(1)各国立療養所の実状に応じ、2・3名の方のものを作成し、当協会へ送付し
て い た だ き た い 。( 経 費 は 協 会 負 担 )
(2)聞き取りについては別紙「録音テープ共通聞き取り事項」を参考にして下さ
い。
(3)私立療養所については別途、打ち合せいたします。
3
資料目録の作成
各療養所、自治会に保管の資料のうち図書、出版物については、順次、目録を作成
していただく予定で、カード方式を検討中ですが記入方法など具体案を作りお願いい
たしますので、今後ともご協力方よろしくお願いいたします。
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『 多 磨 』 第 71 巻 第 11 号 、 1990 年 12 月
「自治会日誌」
〔前後略〕
9月1日
手狭になったハンセン病図書館に接続させて事務室、図書閲覧室、資料展示室
を 内 容 と す る 増 築 工 事 ( 建 坪 154 平 米 ) が 、 全 生 園 創 立 80 周 年 記 念 事 業 の 一 つ と し て 入
所 者 の 資 産 ( 消 費 税 別 で 3,100 万 円 互 恵 会 々 計 よ り 支 出 ) に よ っ て 行 わ れ 、 竣 工 す る 。
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親 和 女 子 大 学 付 属 図 書 館 報 『 一 つ 鍬 山 』 No.14、 1991 年 3 月 。『 解 放 新 報 』 1991 年 5 月 10 日 号 に 転 載
室伏修司「〝図書館の秘儀〟――多磨全生園ハンセン病図書館を訪ねて」
田 舎 司 書 の 経 験 か ら 、図 書 館 に つ い て な に か 書 い て み よ う 。― ― 題 し て「 図 書 館 の 秘 儀 」。
と、この著者は島尾敏雄である。
島尾は言う。
書 物 を え ら ぶ と き 日 本 十 進 分 類 法 の 分 類 基 準 が 、 司 書 の ま え に 立 ち ふ さ が る か ら 、「 い
きおいその分類のわくを通して、刊行されるすべての書物を見てしまいがちなのだ。その
分 類 に あ て は ま ら な い 書 物 は 、 な ん と な く つ ま ら な い 雑 書 に 見 え て く る か ら お か し い 。」
し か し そ れ は 、「 書 物 を え ら ぶ と き の ひ と つ の わ な だ 。」「 ど の 書 物 も 、 も と も と 分 類 を は
み だ そ う と す る 要 素 を か く し も っ て い る は ず だ 。」「 本 来 固 定 化 の か た む き を も っ た 分 類
表のわくの中からだけ見ていたのでは、弾力性に乏しい選択をしてしまうことになるだろ
う 。」
島 尾 は 、「 多 く の 人 に 喜 ば れ る 書 物 を え ら ぶ こ と の ほ か に 、 た っ た ひ と り の た め に し か
な ら な い よ う な 書 物 を も 買 い こ ん で 置 き た い 」「 つ い そ の よ う な 書 物 を 熱 心 に 見 つ け だ そ
う と し て 時 間 を か け す ぎ 」 悔 い を の こ す こ と を く り か え し て い る 。 そ し て 、「 決 し て 多 過
ぎることのない人数だけれど、そしてまだ日なたくさい子どものにおいのとれていない少
年 や 少 女 が 」「 自 分 だ け の ふ し ぎ な 書 物 に め ぐ り 合 う 儀 式 に あ ず か っ て い る 若 者 が い る か
もしれないと思うと」身もこころも若やぐ。
こ う い う こ と だ 。「 そ れ が 刊 行 さ れ た こ と 自 身 信 じ ら れ な い か く れ た 状 態 の 下 で 、 し か
も 印 刷 さ れ 、若 干 の 複 数 の 書 物 と な っ て わ ず か の 人 々 の あ い だ に 吸 収 さ れ た よ う な 書 物 を 」
図 書 館 で 見 つ け 、「 手 に と っ て み た と き の 、 お ど ろ き は 、 そ の ひ と に と っ て は 創 造 に 似 た
よ ろ こ び を も た ら す 。」 そ れ が 「 た だ ひ と り の 利 用 者 だ け と の 精 神 的 交 通 で あ ろ う と 、」
そ の 利 用 者 に と っ て そ の 図 書 館 は 生 涯 忘 れ 得 な い も の と な る だ ろ う 。」と り も な お さ ず「 図
書 館 は そ の と き 役 割 を 果 た し た の だ と 言 わ な け れ ば な ら な い 。」
以 上 が 、 作 家 、 島 尾 敏 雄 が 奄 美 の 地 に 居 た と き の 短 文 だ 。(『 浪 花 の れ ん 』 35 号 初 出 、
晶 文 社 版 ・ 島 尾 敏 雄 全 集 14 巻 所 集 )。 そ こ か ら 長 い 引 用 を し た 私 も ( 作 家 に 近 づ い た の
か )、 十 年 ・ 五 十 年 に 一 度 、「 利 用 者 」 と 出 あ う 本 を 「 選 択 」 し た い と の 隠 喩 を も つ 。 が 、
しかし私は、田舎司書ではなく図書館職員として、以下〝図書館の秘儀〟を書く。
図書館の秘儀
私 は 昨 年 末 ( 1990 年 12 月 )、 東 京 大 学 総 合 図 書 館 と 国 立 多 磨 全 生 園 ハ ン セ ン 病 図 書 館
の施設見学をした。どちらからも親切な案内を受け、私ひとりで好きに館内を歩くことを
許された。その人(案内者)は共に、如上、島尾の〝秘儀〟と通底するところがあったと
いえる。
東 大 総 合 図 書 館 は 蔵 書 百 万 冊 ( 学 部 図 書 館 等 を 入 れ た 附 属 図 書 館 と し て は 六 百 万 冊 )。
ハ ン セ ン 病 図 書 館 は 数 千 冊 に と ど ま る 。2 館 は 貴 重 な 書 物( い わ ゆ る 貴 重 書 だ け で は な い )
を所蔵してくれている。ここでは、ほとんど知られていないか、無視されているハンセン
病図書館を通して〝秘儀〟の具体を述べたい。
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多磨全生園ハンセン病図書館は患者自治会によって運営されている。同館は、園誌『多
磨 』 の 前 身 『 山 桜 』 誌 の 発 刊 ( 1919 年 ) に 伴 い 、 そ の 発 行 製 作 所 の 必 要 場 所 に 集 め ら れ
た辞典や参考書を利用する投稿者たちで、自然に図書倶楽部を形成したところから生れた
と い う 。 現 在 の よ う な ハ ン セ ン 病 図 書 館 と し て の ス タ ー ト は 1969 年 か ら だ 。 そ し て 療 養
者の高齢化とともにハンセン病が終息に向かっているのでその資料を収集している。福祉
と医療の名において「明治」以来、ずっと患者の終身隔離と断種手術で撲滅を続けてきた
・ き て い る 政 策 ( 差 別 ) か ら の 解 放 の た め で あ る 。 こ の 20 年 間 、 ひ と り で 図 書 館 づ く り
を し て き た 山 下 道 輔 さ ん は 、自 分 た ち 患 者 の「 意 志 」を 、資 料 を 通 し て 伝 え た い 、と 言 う 。
抵抗と闘いの継承
「いまは『多磨』誌の執筆者別索引作りに専念しております。患者が自由に本当のこと
が言えるようになった年代の各園誌だけでも揃えておきたいものと思っております。書く
ことも話すことも大の苦手な自分にとって、そうした面での活動は全く駄目なので、自分
にできることは、らい(ハンセン病)の裏も表も読み取って理解してもらうための資料を
収集整理しておくこと、自分から創られる何ものももたないので、せめて療友のものをし
っかりととのえ、後世の人々に役立つものにしておきたいと思います。そうした努力をは
らうことが、らい予防法にたいする私の抵抗であって、敢えて言えば『らい予防法闘争』
と 言 え な く も あ り ま せ ん 。」( 以 上 、 山 下 さ ん か ら 著 者 へ の 私 信 に よ る )
そして山下さんは、ハンセン病にかかわる記載の印刷物は、細大漏らさず集めておきた
い 、「 エ イ ズ 予 防 法 」 も き な く さ く 、 そ れ が 浮 ん で く る 下 地 に ら い 予 防 法 が あ る の で 資 料
を必要とする人たちのためにいまから集めておく、とリューマチや目、手の不自由のなか
で、毎日、図書館に通っている。
天皇制の秘儀
と こ ろ で 、 い ま 、「 ハ ン セ ン 病 資 料 調 査 会 」 が 「 藤 楓 協 会 」 内 に 設 置 さ れ て い る 。 全 国
ハ ン セ ン 病 患 者 協 議 会 ( 全 患 協 ) は 、「 今 日 ま で ハ ン セ ン 病 に 対 し 、 多 く の 人 び と が 様 様
の形でかかわってきており、喜びも悲しみも共にしながら今日をむかえてきた。この際、
ハンセン病に対する正しい理解と認識を深めるとともに後世に貴重な資料を集め、将来は
資料館を建設して、保管、公開展示したい」との提案を受け、これに賛成し組織から委員
を出している。
し か し 、 こ の 目 的 は 、「 藤 楓 協 会 は 昭 和 27 年 、 貞 明 皇 后 さ ま の ご 遺 志 を 継 が れ た 、 故 、
高 松 宮 宣 仁 親 王 殿 下 を 総 裁 に 推 戴 し て 設 立 し 、 昭 和 62 年 、 殿 下 薨 去 の あ と は 、 高 松 宮 喜
久 子 殿 下 を 戴 き 、 救 ら い 事 業 一 筋 に 努 力 い た し ま し た が 、 平 成 4 年 は 創 立 40 周 年 を 迎 え
ます。その記念事業として過去百年にわたるハンセン病事情の変遷と、その対策事業の歴
史 を 明 ら か に し 〝 高 松 宮 記 念 ハ ン セ ン 病 資 料 館 〟 を 建 設 し て 、こ れ を 公 開 」
(募金趣意書)
す る も の で 、「 こ の 資 料 館 は 今 は 亡 き 高 松 宮 様 の ご 仁 慈 を 伝 え る と と も に 、 か つ て 明 治 、
大正、昭和にわたってハンセン病患者さん方に対して偏見差別のために誤った処遇の数数
の事蹟の跡を若い人人に見ていただき、再びこのような誤ちを繰り返さないために、資料
館 を 後 世 に 残 す 計 画 」(「 全 患 協 ニ ュ ー ス 」 1991 年 1 月 1 日 ) で あ る と い う 。
為にする見本である。
全生園の光岡良二さんに「癩と天皇制」という文章がある(わだつみ会編『天皇制を問
い つ づ け る 』 筑 摩 書 房 、『 解 放 教 育 』 No.174〈 1983 年 〉 明 治 図 書 )。 藤 楓 協 会 の 前 身 、 癩 予
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防協会について光岡さんは、同協会の強力な支援を得て強制収容隔離の遂行に着手する、
と 書 い て い る 。「 そ の た め に は 『 ラ イ は 恐 る べ き 伝 染 病 で あ り 、 日 章 旗 の 汚 点 で あ り 、 文
明 国 の 恥 辱 で あ る 』 と の 宣 伝 が 強 力 に な さ れ 、『 無 癩 村 ・ 無 癩 県 ・ 無 癩 国 へ ! 』 の ス ロ ー
ガンのもとに、町村役場、学校、警察、部落会、婦人会などを末端とする熾烈な〝ライ狩
り 〟 が 展 開 さ れ る こ と に な る 。」 そ し て 、 皇 室 の ら い へ の 慈 善 は 、「 御 仁 慈 」 と し て 癩 撲
滅の遂行の「錦の御旗」になった。このことは戦前・戦後を通してかわりはない。現在も
年 1 回 、「 貞 明 皇 后 の 徳 を た た え 」「 ハ ン セ ン 病 を 正 し く 理 解 す る 集 い 」 を 催 し 、 東 京 な
ら 天 皇 ・ 皇 后 が 出 席 す る 。「 何 と い う こ と だ( 略 )天 皇 が 出 て く る の は( 略 )そ れ だ け で 、
ナ ン ト モ ト リ ワ ケ 特 殊 な 病 気 と い う 印 象 が 起 こ る の が 普 通 で あ る 。『 正 し く 理 解 す る 』 ど
ころの話ではない。今もなお『ライ』の世界は天皇制の濛気にすっぽりとつつまれている
の で あ る 。」
光岡さんは「癩と天皇制」という標題で書くのだったが、それは「明治」以後のらい対
策を述べる以外のことではなかった。
自らの名において患者を抹殺して自らを顕彰することが、島尾のいう秘儀とはにてもに
つかない天皇(制)の秘儀(象徴)なのである。
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『 多 磨 』 第 831 号 、 1991 年 4 月
大竹 章「資料展示室」
ハンセン病図書館に接続させて事務室、閲覧室、資料展示室が増設、完成してから半年
が経ち、閲覧室への書籍の移動は大方済んだものの、手不足もあり、展示室の方はプレハ
ブからブツを運び込み、殆んど足の踏み場もなかった状態が幾らか整理されつつある、と
いったところ。
先ず、東西両壁面に年表を貼り、それぞれの事項に沿って例えば、大正五年「懲戒検束
規定に併行して監禁室が設置され」のところで監房内の写真を、同年「入院者心得を模造
紙に印刷し各舎室に掲示」ではそれそのものを、大正八年「院内通用券の発行、使用」で
は 各 種 園 券 を 、と い っ た 具 合 に 、そ し て 戦 争 中 の も の と し て は 、反 物 を 割 い た 包 帯 や 金 椀 、
警防団の団旗やゲートル、鉄カブトなどを展示することにした。その他、ブリキや竹製に
はじまる義足や松葉杖の変遷、患者作業で使われた道具類も適当に配置、予防法闘争につ
いては写真を主体とした。
フロアの中央には畳を何枚か敷き、火鉢、飯台、膳箱等を置いて昔の舎室を再現、その
うちマネキンにうどん縞の袷を着せて座らせておく予定。正面にガラスのはまった陳列棚
があり、①主として礼拝堂にあったものを収めた物故者コーナーと、②入所者による出版
物、書画、焼物等作品コーナーと、③補装具、補助具、鳥籠、軍配、トランペット、優勝
カップ等生活用品コーナーおよび④見張所勤務日誌、逃走患者記録ほかの古文書コーナー
にそれぞれ設定、陳列するつもり。お勝手の水がめとか、園券廃止時の保管金の不正糾弾
患者大会における決議書とか、わっか下駄、カニューレ、北条の似顔絵、洗濯場事件のど
んさんの写真とか、両手で筆を持ち、書に励む草野さんや医者よこせデモでの昇平さんの
写真とか、貴重なものが沢山あるが、あれが欲しい、これが惜しかった、もっと早くに保
存に気がつけばよかった、と思うものは数え切れない。
何れにせよ、早く整理し、入園者だけでなく、参観者の見学コースにも入れて、見て貰
いたいものだ。
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『 多 磨 』 第 845 号 、 1992 年 6 月
山下道輔「ハンセン病資料調査会における報告
――ハ病図書館・収集・保存・展示の現状」
お手もとにある当館の簡単な図書館規則を記した「ハンセン病図書館運営内規」の一項
に、ハンセン病図書館の目的が掲げられています。目的は明瞭なのですが、それでは目的
達成のためにどのようにしてハンセン病の文献資料を後世に受け継いでいくのかという継
承の手続きがこれまで成立していなかったのです。このことが一番気がかりで、当館資料
を行く先どのようにするのか、責任ある方々や個人で資料を持っている方にも蔵書の行く
末をどのように考え、決めているのかを尋ねたり聞いてもらったりもしたのですが、つま
るところ資料の分散化に繋がる考えしか聞かれなかったので、なんとも思案に暮れていた
のです。手放すという末路を予定していては、当然力を入れる筈もなく、出費も渋りがち
になり、収集もおぼつかなくなってくるこの行く先不案内な暗さの中で、ハンセン病資料
が役立つ形で後世に残される可能性のある方法はないものかと、あれこれ思案して来まし
た。今その構想はともかくとして、これから建つ資料館へ寄せる思いと希望も含め、多磨
のハンセン氏病図書館の収集と保存の状況など述べてみたいと思います。
これまでにも関係者の個人蔵書が各所に寄贈分散されてしまっておりますが、同じケー
スを当館資料も辿るとしたら、多くの方から後世伝達の願いを込めて寄託された折角の遺
産資料も、やがては生きた形では決して残らないと思います。分散化は消失の方向に落ち
ていくからです。豊かにまとまった形であってこそ価値を生み、社会的認可も生まれ、大
事 に 保 存 管 理 す る シ ス テ ム が 作 ら れ 、運 営 の 機 能 性 を 高 め る ス タ ッ フ を 揃 え る こ と に な る 、
そう思いますので、かつての人権模様の記録や生活実態が窺われる資料を通し、再び斯く
あってはならない日本のハンセン病歴史資料館として患者自らが成し遂げなければ決して
残されてはいかない、そうした内容、性質のものであると思い、これまで取組んできた私
達がハンセン病終焉間近なこの終局に設けられる機会を積極的に引き寄せて、将来にわた
っての資料館確立の基礎固めを、現場参加の形で関与していくことが大事だと思っていま
す。管理能力がなくなってから資料を委託提供するというそれ以前に、資料館に資料を持
参して、自らの手で遺産資料の相続手続きを完了しておくことの必要性を図書館作りの中
で痛感して参りました。資料を後世に残していく意志を実際に結実させるには、人任せで
はなかなか形成されてはいかないということです。
当館を訪れる人は様々ですが、来館目的は均しくハンセン病資料が対象です。来館者の
なかには、当館にない文献や書籍を既に収集しておられる方もいますから、来館利用者に
資料を提供すると共に利用者が持っている当館にない資料をコピーなどで提供いただくと
いう相互交換の方法で収集を図っております。
毎年、ハンセン病を主題に卒業論文を書くための資料を求めて学生さんが来館しており
ま す が 、全 面 的 に 協 力 し て 、卒 論 完 成 の 際 に は 卒 論 を コ ピ ー し て 提 供 し て 頂 い て お り ま す 。
したがって開館時間も来館者の都合にあわせて利用できるように開いております。遠来の
利用者には園内宿泊所の利用手続きをとって便宜をはかっております。昼の休み時間でな
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いと利用困難な職員の方や遠来の利用者には、前以って利用申込みの連絡があれば、土、
日曜日でも開館して利用者の希望に応じられるようにしております。
長い間、多磨誌に「日本らい史」を執筆連載された山本俊一先生には、資料調べに宿泊
所を利用されましたが、連載終了ののちも容易に手に入らない資料をいろいろ寄贈いただ
いております。また、今年の新年号から〝「いのち」の近代史〟と題して連載されている
藤野豊先生には、当館にない多種多様の未収文献を所々から収集されて寄贈いただいてお
ります。資料情報のネットワークを持たず、当館の情報窓口も狭く、収集機能も欠如して
おりますので、その面を補って収集するには、ハンセン病に関心を寄せて来館する利用者
に敢えてお願いするということで収集成果をみておりますが、ハンセン病に関心を持たれ
て来館される方々は、とても真面目に取組まれておりますので、こちらも自然に同じ姿勢
になって対応することになります。そうした訳で来館利用者が当館の一番の理解者、協力
者としてハンセン病図書館作りに参加して頂いております。
関 係 の 出 版 図 書 は 、各 園 機 関 誌 や 他 の 出 版 情 報 誌 な ど の 紹 介 で 購 入 手 続 き が と れ ま す が 、
非売品であったり、発行がかなり古いものであったりすると、入手の手続きに手間がかか
りますし、努力しても入手できないこともあります。そうした場合、よく来られる利用者
の力添えを願ったり、全国の通信販売の古書紹介誌や古書展示即売会などを利用して入手
に努めております。
ハ ン セ ン 病 図 書 館 に な っ て 本 格 的 に 収 集 に 取 組 み 、園 内 の 個 人 、俳 句 会 、短 歌 会 を 始 め 、
栗生楽泉園の谺雄二さんには楽泉園療友の出版図書のことごとくを収集して寄贈いただい
ておりますし、全生園名誉園長の林芳信先生が亡くなられて医学関係の蔵書を医局図書館
に、そのほかの関係資料を当館に頂きましたが、これが当ハンセン病図書の主要資料とし
てそれ以後の資料収集の基礎資料となりました。しっかりした受皿が目の前にあれば、そ
の受皿にお任せしますと提供いただけると願ってもない献本もある訳ですが、もっと積極
的に托鉢方式で寄贈のお願いをいたしております。
最近のことですが、蔵書を所有されている方に、もし蔵書の整理をするようなことがあ
りましたら、当館に寄贈して下さいと随分厚かましいお願いをして承諾を頂きました。そ
してその後、その方が亡くなられて蔵書寄贈の連絡がありましたので、いつでも頂きに行
けるよう万全の準備を整えて、次に来る引取りの通知を待ちましたが、不可抗力的な手違
いもあって遂に惜しまれてならない貴重な文献の一冊も入らずに終ってしまったというこ
ともありました。
また、全患協会長を長期間務められた小泉孝之さんも、書籍と物品類を大事にしておら
れるので、小泉さんに「死後は、それらの所有物をハンセン病図書館に寄贈する旨の遺言
状を書いておいて下さい」とお願いしたこともあります。小泉さんからは「よし、書いて
おこう」と約束を頂きました。この約束事は、多磨のハンセン病図書館が手狭になって増
設が見通される時点での話で、今回の資料館の芽生えすらなかった時のことですから、今
は納め先変更の遺書書替えをされているのではないかと思います。要は大事に保有してい
るご当人の資料が、やはり大事に保存され、生かされることにありますので、その意味か
らそうあってほしいと思っております。
以前はその園の生活史を語るその園ならではの主要な生活用具なども集めておこうと算
段したのですが、関心が寄せられず、一人相撲に終始しましたが、新資料館建設の情報が
聞かれるようになってからは、これから各園で資料収集に努めることになるものと期待さ
れるので、この点では気が楽になりました。資料館建設については、全患協ニュースや他
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園機関誌、そして園内放送などを通した範囲で承知しておりますが、委員会での、運営方
針の基本部分についての内容など知りませんので見当違いの注文希望を申し上げているの
かも分かりません。
収集協力の話を続けます。
奄美和光園園長の滝沢英夫先生には文庫からハンセン病図書館に看板替えして以来ずっ
と関係図書の収集と寄贈の協力を頂いております。また、同園の佐々木良夫さんからは、
外国のハンセン病関係の難解な文献を翻訳され、冊子にまとめられた資料集を順次送って
頂 い て お り ま す 。 既 に 23 冊 の 多 き に 及 ん で お り ま す 。
今日出席されている愛生誌の編集を長くされておられる双見さんには、各園療友の出版
図書と機関誌の発行明細も収録された愛生の書誌的事典とも謂える利用者に大変必要な手
引書作りをされておられますが、当館に無い資料の問い合わせがあると、収集保存の伝統
を守っておられる愛生にあるいは有るかもしれませんので伺ってみて下さい、ということ
で何かとお世話になっております。また、同園の島田等さんからは専門分野の資料、殊に
このごろは中世時代のハンセン病関係の資料の寄贈と情報を頂いております。青松誌の編
集をされていた中石俊夫さんには、当館所蔵の青松誌のうち欠けているナンバーを探し出
してコピーして頂き、送付に至るまでご面倒をかけて寄贈頂くなど例を上げると収集の協
力者は次々に有る訳で、誠に多くの方々から有難いご支援を頂いております。この機会に
あらためて心より御礼申し上げる次第です。
こうして入手した資料を次に書架配置する訳ですが、新刊図書でしたら寄贈、購入別に
それぞれの手続きを経て分類登録等のカード記入をして書架に収めます。寄贈図書には寄
贈 者 の 芳 志 に 感 謝 し て 見 返 し に 寄 贈 者 名 、寄 贈 受 入 日 、受 入 番 号 の 順 に 記 載 し て お り ま す 。
単行図書だけでなく雑誌や小冊子のすべての寄贈書をそうしております。
頂いた資料の中には、破損したり、痛んでいたりするものもありますから、補強、修理
を施して改装製本します。それでも修理のきかない資料もありますから、これは解体し復
元の再製本にしますが、そのまま復元しても保存寿命が短い資料はコピーしてこれを製本
しております。昨年、楽泉園に行く機会があって、新館の自治会に設けられた資料室を拝
見いたしましたが、やはりコピー製本されている模様でしたので、そこまで話がまとまっ
ていて各園競って製本に取組んでいるのでしたら、出来るだけ上質紙でコピーしてほしい
と思っております。
資料の散逸防止と長期保存のため、製本の一部を製本業者に委託していますが、機械作
業の上程に不向きな資料もありますから、以前は自分も我流の製本をしておりましたが、
ただ今は正統技法をマスターしておられ硲先生の奥様に来館いただいて、在庫する各園機
関誌の合冊製本を始め、復元資料や施設で記録した古文書的な資料の和綴じ製本、洋装製
本、そして様々なケース作りなど色々な図書製本をこの十年来ずっとご奉仕いただいてお
ります。
こうした古い資料の製本工程は、一枚一枚入念に鏝やアイロンを使って皺延ばしをする
ことから始まります。虫くいや欠損部分を切張りしたり、裏打ちをして修復し、きちんと
四隅を整え、裁断機がないので、これも一枚一枚カッターで切り整えてゆきます。この前
段階から既に大変な集中力を根気よく続けなければならない、しかも総てが手仕事ですか
ら非常に時間がかかります。ですから来館のときだけではとても仕上げられません。そこ
で自宅に資料を持ち帰られて、自宅工房で製本されてご持参いただいております。
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資料保存に欠くことのできない製本ですから、昨年資料館増設が実現して増員一名が叶
えられましたので、新同僚の佐藤さんが技術修得に励んで目下、製本作業に打ち込んでい
ます。しかし館内外の掃除を始めもろもろの事務がありますので、製本に専念という訳に
はいかないのです。専門図書館になればなるほど文献資料のいのちを支える縁の下の力持
ちを果している製本の人手は、図書館を成り立たせている担い手ですから実際に図書館製
本に携わる人材採用は欠かせない訳です。
製本完了の図書はカード記入に移ります。簡略記載の文庫時期からハンセン病図書館に
なって、定員二名の内掃除担当者が辞めたので、代って光岡さんの協力を得て日本十進分
類法による分類カード作りをお願いしました。その時分は、細かく分類するほど多くの種
別 図 書 が な く 、こ れ か ら も さ ほ ど 多 く 扱 う こ と は な い の で は な い か と の 予 想 を 前 提 と し て 、
在庫図書を整理作成したのが当館専用の分類カードです。ハンセン病の文献資料を求めて
来る利用者にスムーズに提供できる、そうした手続きを有効に果すことができればよいと
いうことで現在の英字記号による分類カードになっている次第です。それと著者別索引カ
ードと関係記事索引カードを補助として、いずれも手書きで作成しております。なお、資
料収集の巾が広がって、当初よりもその分だけ種別の巾も増しております。
各種の小冊子もこれらのカードに準拠して登録していますが、登録の次ぎに公用の書棚
に配置することになります。薄い冊子ですと背文字タイトルの印刷されていないものもあ
りますので、タイトルを記入できるものにはワープロで作成して張り付けます。そう出来
ないもっと薄いものは、同系統の冊子を追加収納できる余裕を持たせたケースを作り、こ
のケースに小冊子の書名タイトルを書入れ、更に新しい冊子が入るその都度ケースに書名
タイトルを加えてゆきます。こうして利用者の目につき易く、引き出し易いようにしてお
き、一定の分量になった時点で収録目次を作成して製本する方法を採っております。しか
し、製本してしまうと、コピー依頼があった場合、機械にかけるので資料が傷むのでコピ
ー用スペヤーとして製本まえに複写しておくように心がけております。例えば、各園の機
関誌を当館に直接ご寄贈いただいておりますが、この分は館内の閲覧用にとどめ、館外貸
出用には自治会から回覧読みの後に委託されてくる各園機関誌を当てて、この方をコピー
用保存に、当館当ての各園誌を製本に当てる、このようにしております。また、各園療友
の出版図書も入手できるものは二冊入れて一冊は保存用、一冊は貸出用の方法をとってい
ます。中には一冊しか入らないものもあって、貸出し厳禁の表示ラベル付きなのですが、
どうしても借用をと請求される方もありますので、資料の特別貸出しの手続きが設けられ
ております。しかし、どうしても貸出し出来ない門外不出の謂わば国宝級のハンセン病資
料ともいうべき物は、事情を話してお断りしております。特別貸出しの保証人が当然責任
を負う訳ですが、特別貸出し以外の図書でも貸出者が、貸出期限が過ぎても返還のないも
のに対して、貸出した当人が返還請求を直接行うことにしております。園内なら出向いて
請求返納してもらう訳です。外部の場合には葉書で貸出図書名と貸出期間の過ぎているこ
とを書いて返還請求の通知を出します。今までこの通知状で外部利用者から戻らなかった
ケースはありません。そうした手続きが書名、借用期間と共に記入して頂き、借用者にも
図書名と期間を記した借用書を、返還請求を受けた際の照合控えとして持ち帰ってもらっ
ております。
資料保存の上で当面する問題として、印刷文字が消え、用紙がボロボロ寸前の状態にあ
ることです。特に戦後間もなく復刊をみた当園機関誌「山桜」や自由にものが書ける時代
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になって、各園でも文化活動が盛んになり、機関誌に発表するだけに止まらず、同人誌な
どを孔版印刷で出版し発表しておりますが、そうした資料は、極度の酸性紙を使っていま
すから急速に劣化が進んでいます。そうした最も重視される資料が消滅の危機にさらされ
ています。このことは各園とも例外ではないと思います。既に再生製本されている園もあ
る訳ですが、真剣に資料の保存対策に取組んで行かなければならない共通の緊急の解題だ
と思います。
当館では現在、痛みのひどい資料を自治会の複写担当者に委託してコピーによる再生を
図っています。コピー用紙にも問題はありますが、マイクロフィルムによる収録保存の設
備がないので当面はコピーの対応策一本に力を入れています。しかし図書館に複写機がな
いので、自治会で使用中でないときコピーして貰っております。来館利用者のコピー要望
にも制約内のコピー化ですから思うにまかせない実情です。資料消滅の事態を打開するに
は保存に対する関心を強くもって対処する以外よい手だてはないので、切実にコピー設備
がほしい訳です。
当ハンセン病図書館は資料展示室と図書室が増設され、空調と冷暖房も設けられ、従事
者と利用者にとって前よりずっと良くなりました。しかし資料保存にとって必ずしもよい
面ばかりでないので、保存上、都合の悪いものは出来るだけ近付けないよう工夫していま
す 。当 館 は 樹 木 に 囲 ま れ 大 気 汚 染 の 公 害 か ら 比 較 的 緩 和 さ れ て い る 場 所 に 建 っ て い ま す が 、
目に見えない埃の付着をより少なく防ぐためガラス戸書架に資料を収めております。なお
埃をたてないように掃除できる設備、工夫が必要ですが、資料保存はなんといっても結局
は人手でありますから熱意をもって当たる従事者を得ることが何より大事と思います。
これから建つ資料館は、謂わば日本のハンセン病歴史資料館になる訳ですから、資料館
の周辺も公園ふうに造園して、哲学の道ではありませんが、藤や楓や四季折々の樹木に覆
われた小道をつくり、道沿いにはやがて碑なども移され、どの入口から入っても、この道
をたどって行くと人権問題について知ったり考えたりする資料が収められた殿堂に至りつ
く 。建 設 図 面 を み ま す と 二 階 は 多 目 的 に 使 う こ と の で き る 広 間 に な っ て い る よ う で す の で 、
障害者の作品展示会場に使用したり、人権を守る砦の役割を担った生き生きと呼吸し成長
し続ける資料館であって欲しいと願っておりますので、藤楓協会の終の栖として単なる文
献管理所、資料展示館として静寂に包まれた冬眠館におち入ることのない進展を願って話
( 1992 年 2 月 25 日 )
を終ります。
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1992 年 12 月 21 日
資料館建設促進対策委員会「資料収集のための各園訪問報告について」
年の瀬も押し迫り、何かと気忙しい毎日ですが、貴台始め貴園会員の皆様には、益々御
健勝にて療養に御専念のことと拝察しお喜び申し上げます。
さて、この度は藤楓協会の依頼により、多磨にあります対策委員会より大竹、佐川、他
の委員が前後6回に亘り、次の日程で各園を訪問し、資料収集についての話合いと協力を
要 請 し ま し た 。〔「 各 園 訪 問 日 程 」 は 省 略 〕
施設、自治会双方で対策委員会をつくり対処している園や、自治会内に資料室を設け、
収集のための専門委員によって対処している園など、それぞれ対応の差はありますが、先
ず感じたことは、どこの園でも施設整備がすすみ、度々の引っ越しで、古い物がその都度
整 理 さ れ 捨 て ら れ て し ま っ た と の こ と で 、「 時 期 的 に 10 年 、 せ め て 5 年 早 く 資 料 収 集 を 行
っていたらなあ」という思いでした。
しかし、各園の全面的なご協力により、別紙の如く予想以上の資料が発掘され、提供を
受けることとなり、関係者一同喜んでいる次第です。あらためて各園関係者の皆様に厚く
御礼を申し上げます。
資料収集についてのお願い
9 月 24 日 付 け で 資 料 収 集 に つ い て の 再 要 請 を 致 し ま し た が 、 締 切 期 日 な ど 、 各 園 よ り
の意見を参照し、あらためて次の如く要請致しますので、よろしく御配慮の程をお願い申
し上げます。
記
1.資 料目 録の 送付に つい て〔省略〕
2.写 真の 送付 につい て〔省略〕
3.図書目録について
現在、全生園のハンセン病関係の図書を、全部、図書流通センターに依頼し、ワープロ
へのインプット作業をすすめております。年内一杯には新しい図書目録が出来上がる予定
ですので、明年早々には各園へ図書目録を送付できるものと思います。
現在までに2、3の園より図書目録が送付されておりますが、こちらから多磨の図書目
録を送付しましたら中を御覧の上、そこにないもので、二冊以上あるものは、一冊を資料
館の方へ提供して下さるようお願い致します。
なお、一冊しかない本でも必要な場合は、コピーをお願いすることがあるかも知れませ
んが、その節はよろしくお願い申し上げます。
4.ビ デオ テー プにつ いて 〔省略〕
5.電 光案 内板 用のス ライ ドに つい て〔省略〕
6.提 供資 料の 送付に つい て〔省略〕
7 .「 聞 き が き 」 に つ い て 〔 省 略 〕
以 上 、取 り 急 ぎ ご 報 告 と お 願 い を 致 し ま し た が 、資 料 館 は 完 成 後 永 続 す る も の で す の で 、
こ れ か ら で も 新 し く 資 料 と な る も の が あ り ま し た ら 、い つ で も 結 構 で す の で 送 っ て 下 さ い 。
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追記
入園者個人の絵、書、陶芸、写真等の作品については、展示にふさわしい物を自治会に
おいて選んで送って下さい。
なお、写真は療養所内を対象とした物、及び外部においてもハンセン病に関する物に限
定しますので、その点よろしくお願い致します。
年末も押し迫って参りました。皆様にはご自愛の上、良き新年をお迎え下さるよう祈念
申し上げます。
資料館建設促進対策委員会
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委員長
成田
稔
事務局長
佐川
修
教 文 館 、 1993 年 2 月
松木 信『生まれたのは何のために
第一章
7
ハンセン病者の手記』
いのちの重み
図書館にて
図書館は桔梗舎のすぐ目と鼻の先にあった。万国博覧会の建物の払い下げで、所内では
珍しい和洋折衷のモダンな建物であった。旧図書館にはなかった製本の仕事場と受付を兼
ねた詰所の外に、読書室と新聞閲覧室、さらに会議室と呼ばれた畳敷の大部屋があった。
この大部屋は、小説、詩、短歌、俳句の会、宗教団体、囲碁、将棋会、県人会の会合に使
われた。それまではどんな会合でも、所長に願書を提出し、許可を得なければ開くことが
できなかったが、その必要がなくなったのである。私が後藤の案内で旧図書館を初めて訪
ねたのは3年前であったが、この3年間に大変な変わりようであった。図書室には北条文
庫がもうけられた。そのために図書館の利用者が数倍もふえたのである。
北 条 民 雄 は 、 私 が 勤 務 し た 前 年 の 1937 年 12 月 5 日 、 24 歳 で 世 を 去 っ た 。 死 因 は 腸 結 核
で あ っ た 。 北 条 が 収 容 さ れ た の は 、 21 歳 の 時 で 、 3 年 6 ヵ 月 が 彼 の 隔 離 さ れ た 期 間 で あ
った。北条はこの短い期間に命を燃やしつくしたのである。
私の図書館での仕事は、貸出カードの整理と、僅かな図書費と寄付金で新書を購入し、
内容の充実をはかることであった。このほかに私の考えで始めたのは、らい文献の収集が
あった。私は図書館に当然らい文庫があると思っていたが、そのようなものはなかった。
収容所内で何が起こっているのか外部の人には隠されていた。しかし、いつの日か真実は
明らかにされなければならない。その日が死後であっても名誉は回復されなければならな
い。名誉の回復は人権の回復であり、人間復帰である。こうしてらい文庫を作り、それに
鍵を掛けて館外への貸出を禁じた。
この年の秋から私は図書館に寝泊りするようになった。表向きは火の用心のためである
が 、 本 心 は 夜 の 自 由 な 時 間 が 欲 し か っ た か ら で あ る 。 舎 の 消 灯 時 間 は 10 時 で あ っ た 。 私
は そ れ を 待 っ て 蝋 燭 の 明 り で 勉 強 し た 。蝋 燭 の 明 り が 洩 れ な い よ う に 屏 風 を 立 て て お い た 。
このほかにも図書館に泊まる理由があった。それは監督の監視から逃れることであった。
桔梗舎には、元博打うちの親分だった吉岡がいた。彼は時々どこかで博打を打っていると
いう噂がたっていた。また、二度も逃走を企てて監房に入った明石がいた。モルヒネを打
っているのではないかと噂されている望月がいた。桔梗舎は監督の特別監視の下におかれ
ているのであった。しかし、舎の大部分の人たちは悪いことをしていないのだから、監視
されても恐れることはないと割切っていたが、私はそのような気持ちになれなかった。毎
夜、中の様子をうかがっている監督たちが、私の知らない間に私を罪人に仕上げ、ある日
突然呼び出されて監房に入れられるかも知れないのだ。そのようなことは絶対あり得ない
という保証はどこにもない。
私が図書館に泊ることについて、後藤は反対した。図書館と道路をへだてて建っている
学園の敷地は、昔の墓地跡であった。この敷地内にひと抱えもある松の木があるが、昔土
葬の折、墓標の代りに植えた実生の松であった。雨の日に松の根元で燐が燃えているのを
見たとか、人魂が飛んだのを見たと言う者が何人もいた。後藤もその内の一人で、夜中に
- 52 -
何が起こるか分からないと、私の身を心配して反対したのである。しかし、私の「幽霊が
出ても心配ない」という言葉に、後藤も承知した。こうして夜は図書館に泊り、通い婚の
人たちのように朝帰りするようになった。収容所に入って初めて、夜の自由な時間を持つ
こ と が で き た 。 誰 に 気 が ね す る こ と も な く 、 10 時 ま で は 電 燈 が 使 え る し 、 そ れ 以 後 も 気
の向くままに起きていられた。後藤が心配したようなことは起こらなかったが、幽霊に代
わって夜になると読書室に一人の青年が現れ、消灯時間になるまで本を読んだり、ものを
書いたりしていた。そして、いつの頃からか言葉を交わすようになり、二人でお茶を飲む
ま で に な っ た 。 青 年 は こ の 年 の 7 月 に 入 院 し た 。 島 崎 周 一 、 27 歳 で あ っ た 。 彼 は 収 容 所
に入るまで新聞社に勤めていたのであった。
8
冬日
読書室は冬は寒さのために使えなかったが、島崎は詰所に時々現れ、二人で話し合った
結 果 、 収 容 所 の 制 度 に つ い て 勉 強 を 始 め た 。 こ れ は 私 に と っ て 珍 し い こ と で あ っ た 。 37
~ 39 頁
第6章
3
自治会活動・その一
らい文献の収集始まる
再 建 の 年 の 1969 年 9 月 28 日 は 国 立 療 養 所 多 磨 全 生 園 の 前 身 で あ る 第 一 区 府 県 立 全 生 病
院の創立六十周年記念日であった。再建自治会は期間が短かったために行事計画を立てる
ことができなかったが、記念事業としてらい図書館を建設し、らい文献の収集を始めるこ
とにした。らい図書館の会議室をらい文庫として使うことにした。会議室は戦後全生園に
初めてテレビが入った時、その放映室に使われたが、その後は痛みがひどく、空室のまま
放置してあった。すすけた天井や壁をペンキで塗り替え、腐った畳を外に出し、床をはり
替 え た 。 そ し て 書 棚 を 購 入 し た 。 そ の 費 用 は 東 京 都 が 60 年 の 記 念 事 業 と し て 援 助 し て く
れたものであった。
私が初めて図書館に勤めた時、図書館にらい文庫がないことに疑問を持ち、一般書籍の
中にあった文献を収集し、らい文庫を作った。らい文庫は図書館の骨格でなければならな
い。将来収容所の歴史を調べようとしても、これがなければ調べようがない。しかし当時
は検閲が厳しく、一言半句でも批判を書けば没収されてしまう。それだけではない。状況
によっては、収容所の秩序を乱す危険分子として監房に監禁されてしまうのだ。
患者が自由に書いたり物が言えたのは、政治は一切抜きにした文学か、宗教だけであっ
た。図書館にあるらい文献は、花鳥風月を歌った詩、短歌、俳句か、北条民雄、明石海人
が主題にしたらい苦に限られていた。しかし、このような文学からは収容所の歴史を知る
ことができない。文学に歴史が欠落しているのだ。この空白は私たちの手で埋めなければ
ならない。そのためにも、らい関係の資料を収集しておくことは必要なのだ。しかし、私
の文献収集は寮父となって終わった。私が再び図書館に勤務したのは、戦争が終わった直
後であったが、その時は既に、らい文庫は影も形もなく消えていた。一般の書籍と同じ扱
いをして貸し出したために紛失してしまったのである。私は胸をえぐられる思いだった。
〔 中 略 〕 1963 年 、 林 芳 信 が 高 齢 で 退 職 し 、 栗 生 楽 泉 園 園 長 矢 島 良 一 が 後 を 継 い だ 。 患 者
自治会は林芳信の功績をたたえるため、彼の胸像を医局正面玄関に建てることを決めたの
で、患者を二分する騒ぎになった。功績をたたえる前に、彼の犯した誤ちについても、自
治会は正しい評価をする必要があった。彼のために幾十幾百の患者が監房に入った。私の
知っているだけでも監房内で3人が首を括った。この林の胸像については、個人の寄付に
- 53 -
委ねることで、結果的には胸像は建ったが、私はその時、自治会がしなければならないこ
とは林を顕彰することではなく、共同の費用でらい文献の資料館を造ることであると思っ
た。今のうちに資料を収集しておかなければ、超国家主義者の文献だけが残り、収容所の
歴史は闇に葬られてしまう。
そ の 時 か ら 6 年 後 、 私 が ら い 文 庫 を 初 め て 作 っ た 時 か ら 30 年 後 に 、 私 は 再 建 自 治 会 の
総 務 部 長 と な り 、 創 立 60 年 の 自 治 会 の 記 念 事 業 と し て 、 ら い 図 書 館 を 建 て る こ と に し た
のだった。資料収集には遅すぎた感があったが、まだ、生き証人は大勢いた。今の内なら
聴き取りもできる。この時私は、自治会に勤めている内に全生園史を編纂し出版すること
を秘かに決めた。全生園史は収容所の超国家主義者(所長)を世に告発することになると
思った。
自治会の記念事業に共鳴し、協力してくれる者が一人現れた。祥風寮時代の子どもで、
下山道雄であった。道雄は中央委員の一人であるとともに、図書館に勤めていた。道雄は
らい文献収集を自己の使命としていた。道雄はまた、外出の時の付添人となって私を助け
てくれた。全患協は、その年の運動を決める支部長会議を毎年5月に開催した。会場は各
支 部 の 持 ち 回 り に な っ て い た 。 私 は 18 年 間 の 私 の 自 治 会 活 動 の 中 で 、 13 支 部 の そ れ ぞ れ
に何度も出かけた。支部長会議のほかに、臨時支部長会議やらい予防法の研究会など、出
かける機会が多かったのである。その度に付添いをしてくれたのは道雄であった。
道雄は、会議の合間を見ては各園の図書館を訪ね、全生園にない文献で譲ってもらえる
も の は み な 譲 っ て も ら っ た 。 216 ~ 219 頁
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『 多 磨 』 第 861 ~ 865 号 、 1993 年 10 月 、 1994 年 2 月
「〈 座 談 会 〉 資 料 館 オ ー プ ン ま で ( 1 )( 5 )」( 抄 録 )
出 席 者 : 平 沢 保 治 ( 自 治 会 々 長 )、 山 田 義 信 ( 全 患 協 事 務 局 長 )、 大 和 田 喜 一 ( 藤 楓 協
会 業 務 部 長 )、 佐 川 修 ( 自 治 会 副 会 長 )、 山 下 道 輔 ( ハ 病 図 書 館 主 任 )、 大 竹 章 ( 編
集 部 )。 司 会 : 杜 美 太 郎 ( 編 集 部 )
大竹
全国各園を回ってみて、資料の面でやはり決定的に感じたことというのは、よそに
比べてうちはよかったなあということです。山下さんと最初、ハンセン病図書館でも
って、書籍の収集を始め、ちょっと気がつくのが遅すぎたということはあったんです
けれど、それでもまだよそに比べればうちは、長島あたりの恩賜記念館を真似したよ
うな面もあったんですけれど、かつて使った品物を集めはじめ、かなり図書館に集め
ていたから、今度、あれがだいぶ内容を充実させるのに役立ったという感じをもちま
した。さっき佐川さんの話で、沖縄の林さんたちが引っ越しのたびに古いものを捨て
てきたという話が出ましたけれども、放っておけばうちでもやはりそういう形になっ
たと思うんです。しかし、うちの場合、なるべくそうならないようにということで、
文化祭や全生園祭りなどで、面倒ではあったんですけれど、その都度山下さんにはっ
ぱをかけて展示室からいろいろなものを持っていって、みんなに見せ、こういうふう
に大事に保存しているんだ、だから、かつて使ったものを簡単に捨てないように、何
でも古いものをとっておけば、いつかまた価値が見出されることもある、ということ
で集めてきたんですけれどね。そういう面で、うちはよそに比べれば早く気がついて
よ か っ た 、 と い う ふ う に 思 う ん で す 。〔 中 略 〕
杜
多磨の資料の収集の話が出ましたけれども、多磨全生園の場合はかなり早くから長い
あいだ山下さんが非常に苦労して収集してきたわけです。山下さんにすると、収集さ
れたものにはたいへんに愛着があるはずです。多磨全生園独自に資料展示室というも
のが造られ、展示して、外部の人たちに見てもらった。これが全く違う場所に移され
てしまうと、趣旨は同じにしても、自分が大事に集めてきたものを移されてしまう。
最初、話が起きたときは、複雑な気持ちがあったんじゃなかろうかと思うんだけれど
も、そのへん山下さんどうだったですか。
山下
私が集めたものがどう生かされるのか、とても心配でした。特に文献資料などは不
安がいっぱい残りました。展示物の方は発展的にそれがもっと膨らんでいくような形
になるので、また非常に、なんていうかな、そういう段階に移っていくのは、自分の
集めたものが部分的に展示されるのではなく、やはり全国的規模に膨らんだというこ
とで、よかったかなとは思いました。それから自分が集めたといっても、やはり非常
に熱心に協力してくれて、提供してくれた方々がいたわけで、そういう人たちにこの
際感謝を込めて、こういうふうに展示したから、是非見に来てほしいというようなこ
とを伝えているわけです。だから、コーナーコーナーに展示され紹介されているとい
うことで、自分としては、物が、語り訴えるよりよい展示場所を得たという形で喜び
になっているということで、むしろ、文献資料のほうに離れがたい思い入れがあるの
- 55 -
で、その面から敢えていうなら愛着があると思います。
杜
資料の収集を始めるのが遅かったというような話がさきほどから出たわけだけれど、
山下さん、うちの場合はいつごろから始めたんでしょうか。
山下
あれはね、杜さんが自治会でうちの新しい図書館作りをやってくれたでしょう。そ
こでああいう建物が出来たのだから、ただ本だけではなくて、資料もね、生活物品や
なんかでも取っておいたほうがいいんじゃないかなという、はじめはそんな簡単な重
いから集めてきたんです。それでだんだん増えたので、自治会に特別に小屋を設定し
てほしいとお願いして、それができて、本当に収納庫の役目を果たすだけのもので、
そ れ が ま た い っ ぱ に な っ た 時 点 で 、あ そ こ へ 資 料 展 示 室 を 作 っ て ほ し い と い う こ と を 、
ずっと前から、松本さんの代からお願いしてあったのが、5年くらいかかってやっと
出来た。その出来た時点で、今度は高松宮の話が出てきたということなんです。
平沢
ハンセン病の図書館の歴史というのは、古くは創立六十周年の事業でハンセン病文
庫の名称で取り組んだんですね。そのあと、いま山下さんが言ったように、八十周年
の記念事業として資料展示室を自治会のほうで作ったという経過です。山下さんが言
われたように、山下さんから僕にも、書籍や本は収集しているけれども、全生園が先
細りで、我々が管理できなくなったときはどうしたらいいんだろうと、東村山の図書
館とか郷土館とか、そういうところで管理してもらえるようにしてもらえればいいん
だけれどなあ、ということをときどき言われていました。
山下
それは全く反対で、平沢さんがそういう意見を出したわけでしょう。そういうこと
であれば、市の図書館で特別に地域の患者さんたちの本を維持して、そういうコーナ
ーを設けるということは非常に難しい思いがしたわけで、だからその段階でちょっと
失望感を味わったんだよね。それ以後、それではどうするかということで、やがては
自分たちの管理能力が失われていく段階で、やはり協力者として、他の身体障害者な
ども加えた書籍を集めて、そういう形で残していけば、会員制度のようなものを作っ
てね、やる以外にないのではないかと思って、そういう相談にも平沢さんに直接陳情
に行ったんですよ。
平沢
そうだったか。ちょっと頓珍漢しちゃったけれど。あの話を聞いて、お宅からあと
どうするのかということはときどき問われていた問題だからね。
大竹
ハ ン セ ン 病 関 係 の 図 書 を 集 め よ う と い う 動 き は 今 の 自 治 会 の 再 建 ( 昭 和 44 年 ) と
ほとんど同時に始められた。いま床屋になっている旧図書館の閲覧室でだいぶああい
うふうなものを集め、あそこでは収まりきらなくなってきて、それで新しい図書館を
作ってもらった、そういう経過があったわけですよ。特に、ハンセン病関係の書籍、
資料集めに取りかかったというのは、今までは今日明日の医療や生活を充実させるた
めの運動に夢中になってきたけれども、ここらで自分たちがどういう生き方をしてき
たか、その記録を残しておくことも大切じゃないか、自治会の中でそういう議論が生
まれ、その考えからハンセン病の資料を集める、それ以来ほとんど全部山下さんが担
当してあれだけのものを集めてくれたわけですよね。
ハ ン セ ン 病 関 係 の 図 書 は 昭 和 44 年 こ ろ か ら で 、 物 品 に つ い て は 、 あ の 図 書 館 が 出 来
杜
て か ら と い う こ と に な る と 、 51 年 に 出 来 た か ら 、 52 年 こ ろ か ら 物 品 の 収 集 が 始 ま り 、
そ し て 53 年 に 収 納 庫 が 出 来 た 。 と に か く い ろ い ろ な 経 過 が あ っ た わ け だ ね 。
佐川
物 品 の ほ う で 言 え ば 、長 島 が だ い ぶ 前 か ら 恩 賜 記 念 館 で 資 料 集 め を や っ て い た の で 、
うちよりも先輩なわけです。書籍だけの図書館については長島も神谷文庫があるけれ
- 56 -
ど、うちのほうが全般的なハンセン病の資料は集めているのではないかと思います。
ただ全国的には長島とうちくらいなもので、他ではこういうふうに系統的にハンセン病
の資料を集めているところはないわけで、その意味で、今度資料館を建てることにつ
いても、出来てもほとんど他の園では資料は入手できないのではないかという心配が
あった。うちの資料が七割占めるのではないかという心配もあった。けれど、実際出
来て集まってみると、うちにはずいぶんあったような気がしていたけれど、それが霞
んでしまったような感じです。ということは、今まで想像もつかなかったような、他
の ほ う で 大 き い 資 料 が ど か っ と 入 っ て き た ん で す ね 。 た と え ば 、 860 キ ロ も あ る 青 盛
の治療薬TRの蒸留釜だとか、大島の監禁所の扉だとか、栗生の温泉木管だとか、東
北の軍手編み機だとかね。うちでも包帯巻き機のように大きいものもあるし、消防ポ
ンプや神社の雛型など大きい品物が後からドカドカ来て、他の園でも資料は結構入っ
てきたので、やはり全国的に物品は集まっているような感じですね。
〔中略〕
杜
それから、山下さんね、これまでハンセン病図書館のほうで収集した資料の行く末と
いうのが、山下さんにすれば気になるところではないかなと思うんですけど。
山下
あそこに落ち着いたということで、一段落して、よかったなという思いはあるけれ
ど、収められたあの状態を維持管理するに止まるのではなく、はやり書物を生き物と
して扱うこと、傷つけたり破損したりしたら修復の手当てをして、多くの利用者に読
み継がれる寿命の長い書籍作りを心がけることと、絶えず資料収集をしていることを
基本に、図書資料室を育てていくことが大事だと思うし、ハンセン病の資料に通じて
いて価値を知る人に携わってもらって、国内のハンセン病資料だけでなく、海外の資
料も集めておこうという意欲をもった後継者が出てくるといいなと思うし、そういう
受け継ぎが出来る人材を求めていかなければならないと思うんだよね。
杜
世界的なものにしなければならないと。
山下
それと形のうえで、各園からの資料受け入れルートが整ったということを前提にし
て、各園別に資料を収蔵する書架方式にしたので、これからの形成過程にある言わば
発展途上の図書資料室なので、各園の積極的な資料提供によって、まだ余裕もあり増
やせる書架を満たして質量共に充実させたいものと願っています。文献資料の充実が
評判を呼んで利用価値が高まれば、資料館の占める社会的評価が定着していくのでは
ないかと思うので、第一に資料を整えていくことを優先させて、これまでどうり利用
者にも協力をあおいでゆくという実績のある方向をとっていきたいと思う。その場合
やはり、係の人がそういう意欲をもって対応していかないといけないんじゃないかと
思っています。
平沢
外国関係ではね、多摩研の平田先生が来てたでしょう、平田先生は東南アジアのハ
ンセン関係に相当明るい人だし、もう一人は、大谷先生に頼んでみようと思っている
んだけど、湯浅先生とか、そういう人たちに委員じゃなくても参与とか何かで参加し
て も ら う と 、外 国 の 史 料 な ど も 少 し ず つ 積 み 上 が っ て い く ん じ ゃ な い か な と 思 い ま す 。
そういう構想があるんだったら、運営委員会に山下さんの方からこうしたいんだとい
う意見を出してもらって、藤楓協会の方でお願いしてもらったらいいと思うけど。
〔中略〕
杜
資料収集はとりもなおさず、日本の恥部をさらすことでした。その恥部をさらすこと
が、これからの日本の福祉や医療の問題、教育の問題等で、その在り方を問い直す機
- 57 -
会となれば、資料館の存在意義は大きいし、更に、資料館はハンセン病の過去の過酷
な歴史を語るだけでなく、これまでやってきてハンセンの医療、多摩研の役割を含め
て、世界に向けて世界的な存在感というものを確かなものにしていくべきであり、資
料館はそうあってほしいと、そういうことを願って今日の座談会をこれで終わりにし
たいと思います。
- 58 -
『 多 磨 』 第 891 号 、 1996 年 4 月
小杉敬吉「追懐の記(1)原田嘉悦さんのこと」
〔前略〕入院した原田さんの最初の作業は図書係で、楽な仕事ではあったが一日の手当は
一銭五厘であったと記している。もうひとりの図書係は先輩の栗下信策さんで、多磨全生
園の患者が綴る七十年史『倶会一処』のなかでただひとり、患者として名前を挙げられて
いる活動家であった。現在も全生園の機関誌である「多磨」の前身である「山桜」の創刊
者として栗下さんは有名である。栗下さんが「山桜」を創刊したのは原田さんの入院した
年 で あ る か ら 、 原 田 さ ん も 当 然 こ れ に 協 力 し た と い わ れ る 。「 山 桜 」 は ガ リ 版 刷 り の 小 冊
子であったが、応募数や出版数も少なかったけれど、当時の切ない患者生活の中ではその
費用もたいへんといわれ、栗下さんなどが特別に好意を持っている職員の方に協力を願っ
て出版を続けたのだが、これはやがて園当局が助成をするようになり、昭和初期の初めに
活版印刷となる。原田さんの随想・短文芸などが「山桜」誌上に掲載されるのは再入院後
の 大 正 11 年( 1922)の こ ろ か ら で 、資 料 館 の 山 下 さ ん の 調 べ に よ る と 原 田 さ ん の 作 品 は 、
「 山 桜 」「 多 磨 」 を 通 し て 百 六 十 点 に 上 る と い わ れ て い る 。〔 後 略 〕
- 59 -
『 母 の 友 』( 福 音 館 書 店 ) 1997 年 3 月
久保田 一「ハンセン病図書館の人」
東京は西武池袋線の清瀬駅から久米川行きのバスに乗って暫く行くと、武蔵野の面影を
いまだに残す地域となり、およそ十五分くらいで国立療養所多磨全生園に着く。この全生
園は明治四十二年(一九〇九年)に〈旧・らい予防法〉に基づき開設されている。このと
きは候補地となった地元民の強固な反対があり、いくつかの地を点々としたあげくに現在
の地に決まったという。
その三万坪の敷地の一角に〝ハンセン病図書館〟という小さな建物が存在する。そこは
その名の通り、ハンセン病に関する文献を集めているところであるが、そこを管理してい
る人は山下道輔さんという方で、ハンセン病のことを調べに行った者は皆この方のお世話
になっている。
山下さんは昭和四年(一九二九年)東京の板橋区に生まれ、ご自身の記憶によれば十歳
の こ ろ に 発 病 し 、十 二 歳 で 全 生 園 に 入 園 し た と い う 。以 来 、五 十 六 年 間 を 全 生 園 で 過 ご し 、
今年で六十八歳となる。ハンセン病図書館には設立のときから関わり、今もそれを続けて
いる。
ハンセン病図書館は、〝ハンセン氏病文庫〟の名で昭和四十四年(一九六九年)に産声
をあげた。その年は全生園の自治会が、二年八カ月ぶりに再建された年で、全生園創立六
十周年にもあたっていた。
自治会は再出発の記念事業の一環として、謂れなき差別に苦しみ、人間として極限の世
界に生きたハンセン病者が、命を削って書き遺したものを後世に残すことを目的として文
庫を設立。提案者は当時の総務部長で、後にハンセン病者の人権闘争にも深く関わった松
本馨さんだ。
当時自治会の文化担当だった山下道輔さんは東京都庁を訪れ、設立資金を「どんなに僅
かな金額でもいいから、設立の基礎になるのだから」と熱心に頼み込み、今は男性理髪所
となっている三十六畳敷きの集会所に、スチール製の書架三台で出発した。
そ の 後 は 、今 か ら 六 年 ほ ど 前 に S さ ん が 来 る ま で 、ほ と ん ど 山 下 さ ん が 一 人 で 作 業 を し 、
図書館を守り発展させてきた。文庫設立から七年後には、現在の建物が新築され、名称も
ハンセン病図書館と変わり、今に至っている。
私は『いのちの初夜』の作者である北條民雄のことを聞きに、北條と共に文学サークル
を や っ て い た 光 岡 良 二 さ ん( 一 昨 年 四 月 に 八 十 三 歳 で 亡 く な ら れ た )を 全 生 園 に 訪 ね た 折 、
光岡さんに紹介されて山下さんに出会った。そのときが初めてだったから、およそ十二年
ぐらいのつきあいとなるが、お会いしたのはそのときと昨年の夏の二度でしかない。
初めてお目にかかったときにも、山下さんの資料収集の情熱は、私の持っている北條関
係の資料にも向き、図書館にないものがあればコピーしてくれませんか、とおっしゃり、
もちろん私の持っていないものはその場で快くコピーしてくれて、私が長年探していた大
竹章の著書『らいからの解放』もそのときに戴いた。
二度目のときは忙しいにもかかわらず「暑いときはどこへも出かけませんから」とさり
気ない気配りで迎えてくれて、三年前に新たに建てられたハンセン病資料館に案内して、
- 60 -
展示されているものひとつひとつを丁寧に解説までしてくださった。
こうした山下さんのやさしく真摯な姿勢は何も私にだけ特別に、ではなく、ハンセン病
のことを調べに来る人には皆同じようにしているようで、そのときも図書館で山下さんと
話していると、日大写真学科の女子大生が卒論にハンセン病をとりあげるので、と訪れた
が、その人に対しても私のときと同様だった。そして私たち二人はビール付きの昼食まで
ご馳走になった。
山下さんが一生懸命に集めた約四千冊の本のほとんどは図書館から資料館に移したとの
ことだが、山下さんの本集めは今もない続いている。
[p.14-15]
- 61 -
三 五 館 、 1998 年 7 月 刊
瓜谷修治『ヒイラギの檻
20 世 紀 を 狂 奔 し た 国 家 と 市 民 の 墓 標 』
〔ハンセン病図書館について最も詳しく紹介している文献。ハンセン病図書館主任の山下道輔氏を主人
公にして書かれ、全ページの約三分の一以上で図書館に言及しており、ここに抜き書きするのは不可能
で あ る 。 こ こ で は 2 箇 所 か ら の み 引 用 す る 。〕
松 本 〔 馨 〕 は 1937( 昭 和 12) 年 か ら 寮 父 に な る ま で は 前 の 図 書 館 に 居 た 。 い つ か は 、
わ れ わ れ が「 ら い 」の 歴 史 を 告 発 し な け れ ば 、と 、そ の こ ろ か ら 考 え て お り 、そ の た め「 ら
い」の文献だけの書棚を作り、貸し出しはせずに、カギをかけて保管していた。
前 の 図 書 館 で は 、 松 本 が 全 生 園 に 入 っ た 翌 年 、 1936( 昭 和 11) 年 に 大 正 博 覧 会 の 建 物
を譲り受け、現在のところに移築したものだ。いまのパーマ店、神社通りに面したところ
が閲覧室だった。その反対側、西のほうの男性の理髪室のところが会議室、患者の集会所
だった。使用するには許可が要った。
そ こ の 一 部 が 図 書 室 で 、 松 本 は 、 そ こ に 書 庫 を 造 り 、「 ら い 」 の 文 献 を 集 め る よ う に 言
い 残 し て 子 供 舎 の 寮 父 に な っ た 。 1945( 昭 和 20) 年 、 結 婚 し て 寮 父 を 辞 め 図 書 館 に 戻 っ
て み る と 、「 ら い 」 の 文 献 を 集 め た 書 庫 は 無 残 な 状 態 に な っ て い た 。 一 般 に 貸 し 出 し 、 北
条民雄のものを集めた「北条文庫」も消え、本らしい本は残っていなかった。
山 下〔 道 輔 〕が「 一 生 を か け る 」と 言 っ た 資 料 室 、「 ハ ン セ ン 氏 病 文 庫 」が 、現 在 の「 ハ
ンセン病図書館」のはじまりだが、当時の図書館は、大衆雑誌、大衆小説、一世を風靡し
た立川文庫や講談本、仏教説話集などが主流の娯楽施設のひとつだった。患者の作品とし
ては短歌、俳句集など、短詩型のものが多かった。
そ れ 以 前 、そ も そ も の 図 書 館 の は じ ま り は『 倶 会 一 処 』の 年 表 に よ る と〈 1921( 大 正 10)
年 8 月 、 娯 楽 場 内 の 一 部 に 図 書 室 ( 十 坪 ) 出 来 る 〉。 こ れ が 、 な か な か の 人 気 で 、 独 立 し
た 図 書 館 が 必 要 だ 、 と い う こ と で 1936( 昭 和 11) 年 に 旧 図 書 館 が 実 現 し た 。〔 190 頁 〕
「心得の継承」山下道輔
【自分たち患者の「意思」を資料を通して伝えたい】
療 養 所 に は 、図 書 館 が そ れ ぞ れ の 園 に 設 け ら れ て お り ま す が 、各 園 の 図 書 館 設 置 の 経 過 、
誕生年代の違いがあっても、おそらく在園者の自力で実現した図書館であろうと思うので
す。各園の図書館の誕生物語を読むことができれば、患者の生活の内面史がうかがえるも
のとなるでしょう。全生の図書館は「多磨」誌の前身「山櫻」の発刊に伴い、その発行製
作所の必要場所に集められた辞典や参考書、それを利用しに集まる投稿者たちで自然に図
書倶楽部の形を成して生まれた模様です。
…………
い ま は 、 当 館 所 蔵 の 各 園 機 関 誌 の 通 巻 号 数 表 作 り 、「 多 磨 」 誌 の 執 筆 者 別 索 引 作 り に 専
念しております。患者が自由に本当のことが言えるようになった年代の各園誌だけでも揃
えておきたいものと思っております。
書 く こ と も 話 す こ と も 大 の 苦 手 な 自 分 に と っ て 、そ う し た 面 で の 活 動 は 全 く 駄 目 な の で 、
- 62 -
自分にできることは、らいの裏も表も読み取って理解してもらうための資料を収集整理し
ておくこと。自分から創られる何ものももたないので、せめて療友のものをしかっりとと
の え 、後 世 の 人 々 に 役 立 つ も の に し て お き た い と 思 い ま す 。そ う し た 努 力 を は ら う こ と が 、
らい予防法にたいする私の抵抗であって、敢えて言えば「らい予防法闘争」と言えなくも
ありません。しかし、それは自分の心得の「継承」であって評価は別のものです。
【ハンセン病にかかわる記載の印刷物は、一字一句、癩の一文字であっても、細大漏らさ
ず集めておきたいと念じています】
…………
今度の増設(全生園ハンセン病図書館の)には、資料展示館も建つので、ゆくゆくは日
本のハンセン病歴史資料館をめざした規模内容のものにしたいと思って、現在、栗生楽泉
園で戦前戦中に炭焼小屋の山中から園まで患者作業として木炭を背負って運んだ、その運
搬 用 具 や 給 食 に 使 っ た も の 等 、患 者 の 辛 苦 の 歴 史 を 黙 々 と 告 げ る そ う し た 生 活 用 品 用 具( 各
園 で の 園 内 通 用 券 や 古 い 写 真 も 含 み ま す ) を 集 め た い と 計 画 し て い ま す 。 ……
…… 夏 も 体 の 局 所 か ら し か 発 汗 し な い の で 、 ア セ モ が 出 や す く 暑 さ は 大 の 苦 手 で す 。
リ ュ ー マ チ を 気 遣 い な が ら ク ー ラ ー で む し 暑 さ に 対 処 し な が ら の 図 書 館 作 り で す 。 ……
手が不如意で不自由ですが、眼の質も良い方でないので、ワープロも眼の調子がおかし
くないとき、鏡で自分の眼を確かめてから打つ訳です。少しでも充血ぎみだったり、まば
たきしておかしいときは本も読みません。
…………
【「 人 権 問 題 ― ― 患 者 は 、 人 権 を 徹 底 し て 無 視 し た 非 人 扱 い の 収 容 所 に 生 き て き た 】
ハンセン病にかかわる資料は、今のうちにその保存の基盤作りをしなければならないの
で、全支部(注、全患協の各園支部)で取り組むことは必要ですし、一か所に集合させる
入れ物としての資料館を設けておくことも現時点で望ましいことなのですが、その館が純
粋 な 資 料 館 た り 得 る も の と な る か ど う か 、 そ こ が 問 題 で す 。( 藤 楓 協 会 の 計 画 し て い る 故
高松宮を記念するハンセン病資料館は、はなはだうさんくさい、自分からはかんばしくな
いポイントとして皇族があるもので、日本のらい者の遺産として純然と終始一貫した資料
館 を 目 指 し た も の で な い 、ど う し て も 割 切 れ な い も の が よ ど み と し て 心 に わ だ か ま り ま す )
……
〔 206 ~ 208 頁 〕
- 63 -
1999 年 6 月 18 日 改 訂
「ハンセン病図書館運営規定」
(前文)
ハ ン セ ン 病 図 書 館 は 、 多 磨 全 生 園 創 立 60 周 年 記 念 事 業 と し て 、 東 京 都 の 助 成 に
第1条
よって、旧図書館内に「ハンセン氏病文庫」を建設した。その後、同「文庫」を
発 展 的 に 解 組 し 、 創 立 70 周 年 を 機 に 財 団 法 人 船 舶 振 興 会 か ら の 基 金 助 成 を 受 け 、
在りし日の北条民雄ゆかりの寮舎跡に改めて建設された。当館はハンセン病関係
の文庫等を集め、極限に生きた入所者の軌跡を後世に遺すことを目的とし、広く
研究の用に供するものである。
(運営)
第2条
ハンセン病図書館は、その基本的な役割として、資料の収集・管理・保存を主要
な業務とする。その使命を果たすため調査・研究を深め、資料の適切な保存、修
理、製本に努め、最良の条件を整えるものとする。
2
ハ ン セ ン 病 図 書 館 の 管 理 者 は 、執 行 委 員 会 が 指 名 し 、総 務 委 員 が 総 括 責 任 に 当 た る 。
①
図書館管理係は3名とする。
②
オブザーバーを若干名置き、資料の充実及び運営について助言を受ける。
(収蔵資料と貸し出し)
第3条
資料は、館外持ち出し禁止資料(禁帯出のラベル付き図書、写真、録音テープ、
録画テープ、書画及び保存物品)と、貸し出し図書とに分類して取り扱う。
2
3
館外持ち出し禁止資料は、館内閲覧に留め、原則として貸し出しは認めない。
①
写しが必要な場合は、係員に申し出て、館内でコピーすることができる。
②
コ ピ ー 料 金 は 、 1 枚 に つ き 10 円 と す る 。
図書の貸し出しは、次のようにする。
①
所定の「借用証書」に必要事項を記入の上、身分を証明する書類(身体障害者
手帳、運転免許証、健康保険証、住民票等)を提示して、認可を受けることを要
する。
②
図書の貸し出しは、3部を限度とする。
③
「借用証書」用紙は、図書館の受付に備える。
附則
こ の 規 約 は 、 1983 年 9 月 1 日 か ら 施 行 す る 。
こ の 規 約 は 、 1999 年 6 月 18 日 か ら 改 正 す る 。
- 64 -
『 多 磨 』 第 958 号 、 2001 年 11 月
山下道輔「ズームアップ
ハンセン病図書館」
ハ ン セ ン 病 図 書 館 は 、『 い の ち の 初 夜 』 の 作 者 ・ 北 条 民 雄 の 住 居 ( 秩 父 舎 ) 跡 に 昭 和 52
年春に開設しました。
そ の 後 25 年 が 経 過 し 、 外 壁 の ひ び 割 れ や 塗 装 の 剥 げ 落 ち な ど 老 朽 化 が は じ ま っ て い ま
した。
昨年の秋、当館の出入り口と、その隣室の「多磨」誌をはじめ各園誌等の製本前の資料
整理場所が雨漏りしてしまいました。すぐに園の方に修繕方をお願いしていましたが、時
間の経過につれて、雨水を吸収した天井板が今にも落ちんばかりに垂れ下がり、床も反り
返って剥がれ出してしまいました。そのうちに通路も危ない状態になってしまったため、
来館者にも裏口をまわって出入りしてもらっていました。
先に自治会から藤楓協会を通して、日本財団に修繕費の助成を求めていましたが、財団
の 2000 年 度 事 業 予 算 か ら 100 万 円 の 助 成 金 を 受 け る こ と が 急 遽 決 ま り 、 残 り 不 足 金 を 自
治 会 が 負 担 し て 、雨 漏 り 直 し を は じ め 床 板 、外 装 の 工 事 が 短 期 間 で 進 め ら れ 完 成 し ま し た 。
これで再び千客万来、いつなりとも来館者の方々に正面入口から館内に入ってもらえる
こととなり、図書館本来の活動、図書・文献資料の提供をはじめ、資料の収集・整理・製
本の仕事、ボランティアによる〝ハンセン病資料を生かすネットワーク〟発信・発行の編
集、また様々な目的、要望を持った利用者との情報交換や啓発交流の場として、資料の残
しの拠点として開館を続けています。
開館時間
午 前 8 : 30 ~ 12: 00
休刊日
- 65 -
水・土・日
『 ハ ン セ ン 病 図 書 館 通 信 』 第 4 号 、 2002 年 8 月 15 日
「ハンセン病図書館と私―山下道輔さんへのインタビュー」
1.多磨全生園ハンセン病図書館の概略
―現在のハンセン病図書館設立のきっかけは何でしょうか。
山 下 : 現 在 の 図 書 館 の 原 型 は 、 1969 年 に 多 磨 全 生 園 創 立 60 周 年 を 記 念 し て 、 苦 し み の 中
で生きてきた患者の歴史、文献、記録資料、各園の機関誌などを将来に残そうという
ことからハンセン病文庫が自治会によって設立されたことにあります。当時私は自治
会 の 文 化 担 当 で あ っ た の で 私 が ハ ン セ ン 病 文 庫 を 担 当 す る こ と に な り ま し た 。そ れ が 、
私がハンセン病図書館を担うきっかけとなったのです。
当時ハンセン病文庫は、現在の男子理髪店にありました。ハンセン病文庫立ち上げには
資金面で苦労し、東京都に要請して、図書館の内部改装、図書収納ケースなどの資金
援助を受けました。当時の資料についてですが、中心は多磨編集部から譲り受けたも
のが中心でした。
―現在のハンセン病図書館の状況、将来の課題はどんなものでしょうか。
山 下 : か つ て ハ ン セ ン 病 資 料 館 設 立 時 に 、ハ ン セ ン 病 文 庫 時 代 か ら の 資 料 を す べ て 譲 渡 し 、
収めましたが、ハンセン病図書館には、資料の保存をベースにする資料館とは別に、
資料を収集、整理、製本する場として、また利用者への文献などの貸し出しを行う場
としての役割があると考えています。
現在ハンセン病資料の保存については復元が大切で、特にガリ版時代ののも、手書き
のもの、物不足の時代の紙質の悪い時代に書かれたものなどの復元が課題でしょう。
そうしたことで資料が活用されるようにするには、どんな資料があるかということも
大切ですが、その前に資料の保存、復元がなければならないと考えています。またハ
ンセン病に関するものであればどんなものでも残していくという気概をもっていきた
いものです。
―ハンセン病図書館の構成、位置づけ、人材について教えてください。
山下:この図書館は多磨全生園の自治会の下にあり、私は図書館の運営、維持管理を担当
しています。また資料館の図書購入の際の手助けなどもしています。私のほかに2人
図書館の仕事をしており、3人で行っていますが、私は製本のための資料収集および
復元、利用者対応、調査依頼など渉外を担当しています。1人は資料の製本を中心に
作業を行っており、もう1人の方は自治会関係資料の収集、整理を主に担当していま
す。人材についてですが、現在の図書館の人材が少ないことが悩みの種となっていま
す。
―ハンセン病図書館の利用者層について教えてください。
山下:利用者の層は地元住民、職員、学生など様々です。サロンとして利用されている方
もいますし、ここに来ることをきっかけにボランティアをされる方もいます。私が期
待しているのは学生です。学生の多くは卒論で終わることが多いのですが、ライフワ
ークとしてハンセン病問題に携わってほしいと願います。ジャーナリストなどの場合
には社会の問題意識として取り上げることがありますが、継続して取り上げてくれる
人が少ないのが残念です。
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―ハンセン病図書館の意義についてどうお考えになりますか。
山下:この図書館の利用者は一般の人が多いという点で社会性をもった図書館として活用
されている部分が多いと思います。今後ハンセン病療養所がなくなった際にも活用さ
れ続けるためには他の身体障害者、精神障害者、難病、エイズ、ヤコブ病など病気で
苦しんでいる人などのための総合的な観点からハンセン病を考えるという視点の図書
館であるべきと考えています。そのことでハンセン病に関する歴史を将来に活かすと
いう発想が生まれるものと考えます。
〔 本 紙 は 、 高 橋 渉 氏 が 編 集 責 任 者 と し て 発 行 さ れ た が 、 5 号 以 降 は 見 当 た ら な い 。〕
- 67 -
『 東 村 山 市 史 研 究 』 第 12 号 、 東 村 山 ふ る さ と 歴 史 館 、 2003 年 3 月 、 pp.67-90
江連恭弘「多磨全生園におけるハンセン病関連史料の現状」
1
はじめに
市 史 編 集 調 査 会 ・ 近 代 部 会 で は 、 2001 年 ( 平 成 13) 3 月 か ら 翌 年 の 9 月 に か け て 、 国
立療養所多磨全生園(以下、全生園)内にある自治会図書館(以下、図書館)と高松宮記
念ハンセン病資料館(以下、資料館)に所蔵されている図書資料の調査・目録作成作業を
行った。作業の結果、膨大かつ多様なハンセン病関連史料がのこされていることがわかっ
た。この調査を行うことについて、東村山市および市史編さん係の側には、全生園という
施設を抱える自治体として全生園の歴史と今後のあり方に無関心であってはならないとい
う問題意識があった。ハンセン病の歴史を記録したものを保存し、これからの社会のため
に 活 か し て い く こ と は 、 社 会 的 な 責 任 の 問 題 で あ る か ら だ 。〔 中 略 〕
なお、図書館で行った調査・作業については、新聞報道がなされたほか、市報の「市史
編 さ ん だ よ り (62)」( 平 成 11 年 ) に も 簡 単 に 報 告 さ せ て い た だ い た 。 大 ま か な 作 業 の 様 子
と史料の特徴を記しておいたので、再掲しておきたい。
多磨全生園の史料保存に取り組む
〔中略〕
市史編さん係では、昨年夏から近代部会を中心に園内の史料調査・保存の取り組みを始
めました。先日、自治会図書館所蔵の主要な史料の目録化を終えたところです。長年ハン
セン病史料の帆zんと活用に邁進されている図書館主任の山下道輔さんや歴史学専攻の大
学生らの協力を得て、ダンボール箱や本棚に詰められた史料を一点ずつパソコンに打ち込
ん で い き ま し た 。 図 書 ・ 雑 誌 ・ 綴 類 な ど 、 ダ ン ボ ー ル 箱 で 100 箱 以 上 、 本 棚 に 整 理 し た も
のも含めるとおよそ2万点にものぼる膨大なものとなりました。
特 に 目 を 引 い た の は 、「 患 者 入 退 院 ニ 関 ス ル 書 類 」「 私 宅 療 養 癩 患 者 調 」「 癩 患 者 徴 兵 検
査 関 係 書 類 」「 厚 生 省 往 復 文 書 綴 」 な ど 、 設 立 年 以 降 の 患 者 に 対 す る 強 制 収 容 隔 離 政 策 の
実態を裏付ける貴重な綴史料の数々でした。こうした綴類以外にも、入園者が著し収集し
た 俳 句 ・ 短 歌 関 係 の 図 書 、 1950 年 代 以 降 全 国 的 に 展 開 す る 患 者 運 動 関 係 の 書 類 、 様 々 な
宗教関係の冊子、園内分校の文集、自治会日誌など、入園者の生活史にせまる史料群が残
されています。とくに入園者であった故光岡良二さん所蔵書籍の存在は、ひとりの入園者
か ら み た ハ ン セ ン 病 史 、 さ ら に は 患 者 思 想 史 へ の 問 い か け で あ る よ う に 感 じ ま し た 。〔 後
略〕
2
史料の収集と保存の現状
(1)多磨全生園の歴史と史料収集
〔中略〕
療養所における史料収集・保存の取り組みが組織的に行われるようになったのは患者運
動 と の 関 連 が 大 き い 。「 ら い 予 防 法 」 闘 争 以 来 、 生 活 保 障 と 権 利 獲 得 、 社 会 復 帰 を 通 し て
「人間回復」を実現するための運動を進めてきた患者運動の一定の成果をまとめる作業が
1970 年 代 に 進 ん だ 。 患 者 運 動 の 歴 史 と 成 果 は 、 全 国 ハ ン セ ン 氏 病 患 者 協 議 会 編 『 全 患 協
運 動 史 ― ハ ン セ ン 氏 病 患 者 の た た か い の 記 録 』( 一 光 社 、 1977) に ま と め ら れ た 。 2 年 後
- 68 -
に は 、 多 磨 全 生 園 の 患 者 自 治 会 が 創 立 70 周 年 の 記 念 事 業 と し て 『 倶 会 一 処 ― 患 者 が 綴 る
全 生 園 の 七 十 年 』( 一 光 社 、 1979) を 編 纂 し て い る 。 そ の 際 に 、 園 内 に の こ さ れ た さ ま ざ
まな史料が収集され、運動史・自治会史として収録されるなかで、その希少性と重要性が
確認されてきたのである。なお、国家賠償訴訟を経て、あらたに全国ハンセン病療養所入
所 者 協 議 会 編 『 復 権 へ の 日 月 ― ハ ン セ ン 病 患 者 の 闘 い の 記 録 』( 光 陽 出 版 社 、 2002) が ま
とめられた。
なお、全体的にみると国立療養所多磨全生園としての公的な史料は分量としては少数し
か確認されていない。おそらく相当数処分されたものと思われる。史料の大半は、文芸作
品 や 手 記 、患 者 運 動 関 係 資 料 な ど 、入 園 者 の 生 活 や 様 々 な 活 動 に 関 わ る 史 料 で あ る 。今 日 、
国家賠償訴訟というかたちで国の政策が世に問われ、国・国会の責任が明らかにされてき
て い る な か で 、こ う し た さ ま ざ ま な 史 料 群 が 語 る こ と は 、重 く 深 い 意 味 を も つ と 思 わ れ る 。
(2)図書館と資料館における史料保存の状況
全国の療養所には、それぞれ入園者向けの図書館が設置されており、全生園の図書館も
そのその一つである。図書館の内部は、①入園者が講読してきた図書資料が収められた図
書室、②各療養所の機関誌や患者作品など、ハンセン病関連の史料が収められた資料室、
③展示資料やダンボール箱が積みあげられ倉庫的な役割をはたしている展示室に分かれて
いた。
展示室は、資料館建設前までハンセン病関係の図書や生活用品・工芸品などを展示して
いた場所である。戦前以来、園で購入された図書・雑誌などを入園者が閲覧する場所とし
て機能していた図書館であるが、現在は、ハンセン病関連図書の収集や製本・保存作業、
資料貸し出しなどを行っている。
〔中略〕
今 回 の 作 業 の 結 果 、 図 書 館 に は 約 17000 点 、 資 料 館 に は 約 6000 点 の 史 料 が 遺 さ れ て い
ることがわかった。同じ史料が両館で重複している場合もあり、その点を考慮しなければ
な ら な い が 、お お よ そ 2 万 点 以 上 の 史 料 が 遺 さ れ て い る と 言 っ て 良 い だ ろ う 。そ の 中 に は 、
病 院 設 置 か ら 1950 年 代 に か け て の 史 料 を 中 心 に し て 、保 存 状 態 が 心 配 さ れ る も の も 多 く 、
早急な保存・目録化が望まれる。
以下、図書館と資料館に遺されているものの中から、全生園関連の史料を中心に、特徴
的な史料について紹介していきたい。
3
遺された史料とその特徴
(1)収容・退院・徴兵等に関わる史料
〔略〕
(2)統計・療養所運営・医療に関する史料
(3)患者運動に関する史料
〔略〕
(4)患者の生活記録に関する史料
(5)教育・宗教に関する史料
〔略〕
〔略〕
(6)地域・社会とのつながりに関する史料
4
〔略〕
〔略〕
光岡良二、人と史料
(1)光岡良二の略歴
〔略〕
(2)光岡良二の所蔵資料
〔略〕
- 69 -
5
おわりに――ハンセン病史料のゆくえ
近年の動向として注目したいのは、復刻版史料集刊行などの動きである。藤野豊編・解
説 『 近 現 代 日 本 ハ ン セ ン 病 問 題 資 料 集 成 〈 戦 前 編 〉』( 全 8 巻 、 不 二 出 版
2002)、 滝 尾 英
二 編 ・ 解 説 『 植 民 地 化 挑 戦 に お け る ハ ン セ ン 病 資 料 集 成 』( 全 6 巻 、 不 二 出 版
2002)、 清
水 寛 「 解 説 ・ 植 民 地 台 湾 に お け る ハ ン セ ン 病 政 策 と そ の 実 態 」(『 植 民 地 社 会 事 業 関 係 史
料集・台湾編』近現代資料刊行会
2001)、『 ハ ン セ ン 病 文 学 全 集 』( 第 一 期 、 全 10 巻 、 皓
星 社 2002 ~ ) な ど で あ る 。 資 料 集 刊 行 の 作 業 は 、 史 料 の 収 集 ・ 保 存 か ら そ の 活 用 へ と つ
ながるものであり、ハンセン病問題を後世に継承し教訓化することにもなるだろう。こう
した仕事がなされるのも、ここ十数年間にわたる医学・歴史学・社会学・教育学などの分
野を中心としたハンセン病問題の調査・研究の進展があったからだろう。同時にこれは、
ハンセン病関連の史料収集やその保存の取り組みが、永年にわたって地道にかつ着実に行
われていたからでもある。それは、実際には「外」の人間がハンセン病療養所に入ってい
ったこと、そして入園者の人たちが積極的に「外」へ出て行ったこと、そういう時代状況
と無関係ではないだろう。いずれにしろ、療養所の内と外の関係改善は、差別と偏見の問
題を克服していくためにも必要なことであり、それがあってはじめて研究も進展するのだ
ろう。
また、図書館や資料館ではハンセン病関係の史料に限らず、史料収集にあたっては、社
会的に弱い立場にあるひとびとの存在に目を向けようとしている。図書館では、薬害エイ
ズや障害者差別問題など、幅広い視点で病者・障害者をめぐる問題に注目している。こう
した動きは、これからの史料保存・活用を進展させる可能性を包含しているといえよう。
さらに自治会では、全生園の森を「人権の森」として地域の中に残し、園内の建築物を保
存する動きも進んでいる。
史料を収集・保存し活用するという作業は、これまでとられて来たハンセン病政策の過
ちを見つめ、それをくり返さず、一人ひとりにとってのハンセン病問題として引き受ける
という道筋を作り上げる意味をもつ。そのためにも、いま考えねばならないいくつかの課
題がある。
まず、史料保存に関する他の療養所との情報交換と連携の確立である。長島愛生園(岡
山)での機関誌『愛生』の史料目録の作成や「神谷文庫」の創設、栗生楽泉園(群馬)で
の資料室設置などの動きもがあるが、ほとんどの療養所ではそうした取り組みも充分なさ
れないまま史料が散逸しているというのが実情ではないだろうか。第三者もふくめて史料
の価値や史料保存への認識の共有化を早急にはかる必要がある。
次に、政府や療養所、研究期間での史料の掘り起こしである。なかでも医療・看護師・
職員らがのこした史料やききとり作業も解題だろう。さらに、療養所が置かれている自治
体での史料編さんの動向を把握するなど、情報交換や相互の連携が必要だろう。それによ
って、地域の中の療養所の視点からハンセン病(者)に対する認識を深められるのではな
いか。
市史編さん係(ふるさと歴史館)としても、今後の課題として、打ち込まれたデータを
データベース化し、活用できるシステムをつくり上げる必要がある。また、劣化している
文書史料の保存と管理の手段・方法を検討しなくてはならない。歴史と経験を語り継いで
いくとともに、人権を考える拠点としての全生園という存在とそこにのこされた膨大な史
料のもつ意味は重く大きい。それは、全生園だけの問題ではなく、東村山市としての問題
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でもあるのだという認識を共有する地点に立つことが、まず必要であろう。
注
( 1 ) 2000 年 8 月 15・ 16 日 に 行 っ た 図 書 館 お よ び ハ ン セ ン 病 資 料 館 で の 予 備 調 査 を ふ ま
え 、 2001 年 3 月 6 日 ~ 4 月 22 日 お よ び 7 月 26 日 ~ 9 月 4 日 ま で 図 書 館 で 打 ち 込 み 作 業 、
ま た 、 2002 年 8 月 十 ~ 十 九 日 ま で 資 料 館 で 打 ち 込 み 作 業 を 行 っ た 。
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『生き抜いた!
ハ ン セ ン 病 元 患 者 の 肖 像 と 軌 跡 』( 高 波 淳 編 、 草 風 館 、 2003 年 8 月 ) 118 頁
山下道輔「焦らず怠らず資料残しに励む」
ハ ン セ ン 病 に 関 す る 資 料 の 収 集 ・ 整 理 に 情 熱 を 注 い で い る 。「 入 所 者 の 生 き た 証 で あ る
資料を社会に生かし、伝えたい。隔離の中で育まれた文化が何だったのかを歴史として残
し、今後の社会に役立てたい」と語る。
東京に生まれた。少年時代、父の仕事が休みのときは、夜釣りや鳥捕りの手伝いをして
過 ご し た 。 そ の 父 と 一 緒 に 1941 年 、 多 磨 全 生 園 の 前 身 の 全 生 病 院 に 入 所 し た 。 12 歳 だ っ
た。
少年舎で出会った入所者の寮父は、子どもたちに自作の小説を読み聞かせ、書くことの
面白さや大切さを伝えた。俳句や短歌も手ほどきした。そんな寮父の影響を受けて成長し
た。
18 歳 の と き 、 父 が 亡 く な っ た 。 病 棟 で 父 を 看 取 り 、 死 に 顔 を 絵 に 描 い た 。「 お や じ の 思
い出になる写真や形見もなかったからね」という。その後、頭の中が真っ白になり、葬儀
の様子も覚えていない。座棺に納められた父がリヤカーに乗せられたのと、園内の火葬場
から煙が立ち上るのを見た、それだけは覚えている。
病棟の付き添い作業や実験用動物の飼育係をしながら療友と文学や芸術を談じ、夏目漱
石や芥川龍之介などの著作に親しんだ。
自 治 会 で 文 化 部 を 担 当 し て い た と き 、 園 創 立 60 周 年 の 記 念 事 業 と し て 、 こ れ ま で 入 所
者が書き記した作品などの文化遺産を残そうと「ハンセン氏病文庫」を設立することにな
った。資料に一生をかけるつもりで資料集めに取り組んだ。
知人を頼り、入所者の短歌や俳句などの出版物や、自治会や園の機関誌を集めた。機関
誌を手書きで書き写す苦労もいとわなかった。新聞記事の切り抜きや、療養生活用具など
の「物」の収集もした。
園 内 に あ る「 ハ ン セ ン 病 図 書 館 」の 責 任 者 と し て 活 動 し て い る 。文 献 資 料 を 製 本 す る 際 、
二部作り、一部は学生などに貸し出しができるようにした。資料を活かし切るための取り
組みだった。
い ま は 「 焦 ら ず 怠 ら ず 」 資 料 残 し に 励 む 心 境 。「 資 料 は 生 き 物 だ と 思 っ て い ま す 。 ハ ン
セン病だけでなく他の難病や障害者も含む、総合的な図書館ができたらいいと思っていま
す」という。
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ハ ン セ ン 病 回 復 者 と と も に 歩 む 関 西 連 絡 会 「 支 援 す る 会 ニ ュ ー ス 」 第 25 号 、 2006 年 1 月 12 日
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9874/news/25/library.html
瓜谷修治「多磨全生園のハンセン病図書館の廃止と
保管資料のハンセン病資料館移管について」
2001 年 5 月 、 国 が 控 訴 を 断 念 し ハ ン セ ン 病 国 賠 訴 訟 判 決 が 確 定 、 原 告 の 一 人 が 「こ れ で
人 間 に 戻 れ る 」と 喜 び を 爆 発 さ せ た 、 あ の と き か ら 程 な く 5 年 に な り ま す 。
しかし、手が届くと思えた人間回復の夢は、未だに叶わぬままで、それどころか遠のい
ていくようにさえ思えるのです。
こ の よ う な 流 れ の 中 で 「多 磨 全 生 園 ・ ハ ン セ ン 病 図 書 館 」の 廃 止 が 決 ま っ た の で す 。 ハ ン
セン病関連の資料・文献などは、わが国の愚行の歴史をを物語る負の文化遺産として貴重
であるのはもちろんですが、判決後に国が約束した人権無視政策の再発防止、真相究明、
啓発活動などハンセン病政策の犠牲となった人たちの欠くことの出来ない “ 道具 ” でもあ
るのです。軽々に扱っていいはずはありません。
そんな思いから、この原稿をまとめました。
Ⅰ.多磨全生園自治会がハンセン病図書館の廃止と資料の移管を決定
多 磨 全 生 園 の 自 治 会 ( 平 沢 保 治 会 長 ) は 2005 年 3 月 、 園 内 に 併 設 さ れ て い る 「高 松 宮 記
念 ハ ン セ ン 病 資 料 館 」の 建 て 替 え が 完 了 す る 2007 年 を 目 処 に 、 自 治 会 が 管 理 す る 「ハ ン セ
ン 病 図 書 館 」を 閉 鎖 、 収 蔵 資 料 を 資 料 館 に 移 管 す る こ と に 決 め た 。
ハ ン セ ン 病 資 料 館 は 国 の 施 設 で 、 財 団 法 人 「藤 楓 協 会 」に 運 営 を 委 託 、 自 治 会 も 協 力 し 資
料の保存・管理には在園者が大きな力となっている。
ハンセン病隔離絶滅政策に関する豊富な文献、資料のほか、かつての療養所では定番だ
った雑居部屋の復元ジオラマ、義足や障害者用のスプーンといった手作りの生活用具、患
者の手になる絵・陶器など、療養所の実態を伝える展示品が全国規模で集められている。
資料・文献に関して言えば、資料館では原本の保存に重点を置き、閲覧・コピー(有料)
はできるが、貸し出しは認めていない。
これに対し図書館は、開館以来、“ 原則として貸し出し自由 ” の方針を貫いてきた。“
患 者 の 声 を 広 く 一 般 の 人 に …” と い う 願 い を 込 め て 在 園 者 の 一 人 が ハ ン セ ン 病 関 係 の 資 料
集めを始めたのが図書館設立のきっかけであり、そのような先輩の思いは現在の作業責任
者によって誠実に引き継がれている。
“ 知らせる、知ってもらう ” の資料活用がモットー。原本の保存は言うまでもないが、
傷みの激しい資料の復元保存にも力を入れ、コピーや閲覧よりあくまで復元コピーの貸し
出しに重点が置かれている。
Ⅱ.ハンセン病図書館の歴史的評価を無視した今回の措置
“ いつか誰かが私たちに振り向いてくれる ” -その日の来るのを信じた患者の手でハン
セン病関連の資料集めが始まり、のちに自治会の運動として展開された。やがてその資料
・文献・患者の作品などをまとめた現在の図書館が生まれ、発案者の志を引き継いだ関係
- 73 -
者(在園者)によって、ハンセン病専門の図書館として、さらに充実の度をまし現在に至
っている。
ハ ン セ ン 病 資 料 館 設 立 の 際 に は 、そ の 基 礎 と な る 大 量 の 資 料 を 提 供 、そ れ だ け で な く 「ら
い 」予 防 闘 争 の 時 期 か ら 国 賠 訴 訟 判 決 に 至 る 時 の 流 れ の 中 で 、 患 者 の 集 め た 資 料 は 、 そ の
願い通り隔離絶滅政策の告発・解明と啓発に大きな役割を果たした。
このことは、ハンセン病国賠訴訟で書証として採用された書籍の多くにハンセン病図書
館に対する謝辞が記されており、上記の期間に多数世に出たハンセン病に関する書籍をは
じめその他の刊行物の多くにも同様の記述があることから見ても明らかだと考える。
こ の よ う に 、 「ら い 予 防 法 」体 制 告 発 の 思 い か ら 生 ま れ た “ 患 者 の 、 患 者 に よ る 、 患 者 の
た め の 図 書 館 ” 「多 磨 全 生 園 ハ ン セ ン 病 図 書 館 」は 、 隔 離 絶 滅 政 策 の 歴 史 に 打 ち 込 ま れ た “
告発の楔 ” であり、歴史遺産として顕彰・保存するのが本来である。その歴史を正しく認
識するなら、今回の自治会の措置が不適切であることは明らかである。
Ⅲ.ハンセン病図書館の歴史
1.“ いつかは療養所の現実を白日の下に- ” 患者の決意
ハンセン病図書館の生みの親は、資料集めを最初に始めた松本馨さんである。松本さん
は 、 去 る 2 月 、 87 歳 で 亡 く な っ た 。
松 本 さ ん は 1935( 昭 和 10) 年 、 17 歳 で 発 病 し 多 磨 全 生 園 に 入 る 。 3 年 後 、 患 者 作 業 の
職場が旧図書館になり、本の貸し出しを担当。ほとんどが娯楽本で療養所にもかかわらず
「ら い 」関 連 の も の が 全 く な い の に 気 が つ い た 。 こ れ が 資 料 収 集 の き っ か け と な っ た 。
療養所で何が行われているか、外部の人たちには非人道的な隔離絶滅政策の実態は一切
知 ら さ れ て い な い 。 こ の ま ま で は 虫 け ら の よ う に 扱 わ れ た 患 者 は 浮 か ば れ な い 。 21 歳 の
松本さんには、とうてい受け入れられない現実だった。
“ 死んだ後でもいい。いつか必ず療養所の現実を白日の下に- ” と、松本さんは密かに
資 料 ・ 文 献 の 収 集 を 始 め 、 旧 図 書 館 に 「ら い 文 庫 」と 名 付 け た 特 別 の 場 所 に 保 管 し た 。 1941
( 昭 和 16) 年 、 少 年 舎 の 寮 父 を 務 め る こ と に な り 資 料 集 め を 中 断 し た 。 “ お と っ つ ぁ ん ”
と 呼 ば れ た 寮 父 は 男 子 児 童 の 親 代 わ り と し て 寮 舎 に 住 み 込 み 、日 常 生 活 一 切 の 面 倒 を 見 る 。
「ら い 文 庫 」に 時 間 を 割 く 余 裕 は な か っ た 。
1945( 昭 和 20) 年 に 目 の 状 態 が 優 れ ず 療 父 を 退 き 、 図 書 館 に 戻 っ た が 、 集 め た 資 料 を
収 納 し た 「ら い 文 庫 」は 、 一 般 の 本 と 同 じ よ う に 貸 し 出 さ れ 、 現 状 を 留 め て い な か っ た 。
2 . 旧 図 書 館 に 「ハ ン セ ン 氏 病 文 庫 」
1960( 昭 和 35) 年 春 、 一 夜 に し て 視 力 を 失 い 、 や が て 手 足 が マ ヒ 、 車 い す の 重 度 障 害
者となる。それでも松本さんの気力は衰えなかった。
60 年 代 の 療 養 所 は 、 労 外 ( 労 務 外 出 )、 年 金 な ど 生 活 格 差 め ぐ る ご た ご た に 明 け 暮 れ 、
自 治 会 は 問 題 を さ ば き き れ ず 、 つ い に 機 能 を 停 止 、 1966( 昭 和 41) 年 9 月 、 閉 鎖 さ れ た 。
程 な く 松 本 さ ん は 、 療 養 所 の 機 関 誌 「多 磨 」の 誌 上 か ら 自 治 会 再 建 を 呼 び か け た 。
呼 び か け に 応 じ て 幾 人 か が 立 ち 上 が り 、 1969( 昭 和 44) 年 6 月 、 施 設 に 協 力 す る た め
の組織ではなく、会員の求めに応じて要求する自治会、本来のかたちの再建自治会(平沢
保治会長)が発足した。松本さんは自治会の実質的代表者のポストとされる総務部長を任
さ れ た 。 こ の 年 は 多 磨 全 生 園 の 60 周 年 に 当 た り 、 松 本 さ ん の 発 議 で 記 念 事 業 と し て 旧 図
書 館 に 、 「ら い 文 庫 」を 継 承 す る 「ハ ン セ ン 氏 病 文 庫 」を 自 治 会 の 施 設 と し て 設 置 す る こ と に
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なった。
つ い で に 言 え ば 、 こ の と き 「ハ ン セ ン 氏 病 文 庫 」と 併 せ
▼多磨全生園のハンセン病センター化-最後の一人まで医療の責任を求める。世界一千
万患者に対する国際的責任を果たす。
▼地域住民に対し感謝の印にセンターと園の緑を残す。
▼患者の手で多磨全生園史を編纂する。
など、先駆的な目標を決議している。
松 本 さ ん の 「文 庫 」つ く り の 提 案 は 、 全 員 一 致 で 決 ま り 、 現 在 の 「ハ ン セ ン 病 図 書 館 」の 作
業 責 任 者 、 山 下 道 輔 さ ん ( 76 歳 ) が 旧 図 書 館 に 設 け ら れ た 資 料 室 の 責 任 者 を 任 さ れ た 。
1941( 昭 和 16) 年 、 11 歳 の 時 、 父 子 で 入 所 、 少 年 舎 で は 寮 父 だ っ た 松 本 さ ん の 下 に い
た 。 再 建 自 治 会 の 役 員 の 一 人 で 「お と っ つ ぁ ん 、 オ レ に や ら せ て く れ 。 資 料 に 一 生 を か け
る 」と 申 し 出 た 。 山 下 さ ん は 、 そ の と き 40 歳 、 3 年 で 役 員 を 退 き 、 こ の 仕 事 を “ 遅 れ て き
た 「ら い 予 防 法 闘 争 」だ ” と 自 分 の 中 に 位 置 づ け 、 資 料 集 め に 専 念 し た 。 各 地 の 療 養 所 で 開
かれる全患協支部長会議の度に松本さんの車いすを押して付き添い、園の自治会関係者に
お願いして資料集めの協力を頼んだ。そして暇を見つけては東京・神田の古本屋を巡りハ
ンセン病に関わりのありそうなものは、財布の許すかぎり買い集めた。
3.ハンセン病図書館完成
山 下 さ ん の 資 料 集 め は 順 調 に 進 み 、 「ハ ン セ ン 氏 病 文 庫 」は 手 狭 に な っ て い た 。 1974(昭
和 49)年 に 自 治 会 長 に 就 任 、 3 期 目 を 迎 え た 松 本 さ ん は 、 二 度 と 資 料 を 散 逸 さ せ な い た め
独立した図書館を建てようと思い立った。
だ が 、 自 治 会 役 員 の 大 半 は 「意 味 が な い 」と 反 対 。 し か し 、 将 来 を 考 え 資 料 の 収 集 を 最 優
先と考える松本さんは譲らず、最後は会長の権限でやる、どうしても反対だというなら会
長を辞める、とまで言って反対を押し切った。
こ う し て 翌 1977(昭 和 52)年 春 、 コ ン ク リ ー ト 造 り で 現 在 の ハ ン セ ン 病 図 書 館 (当 初 は 「ハ
ン セ ン 氏 病 図 書 館 」)が 完 成 し た 。 藤 楓 協 会 を 通 じ て 見 つ け た ス ポ ン サ ー の 援 助 を 受 け 施 設
側の負担は建設費の3分の1ですんだ。
図書館の建設を契機に、園内の友人たちの積極的な協力もあり、山下さんの資料集めに
拍車がかかった。この年5月には再建自治会の公約の一つ “ 患者の手になる全生園史 ” を
編 纂 す る 「全 生 園 創 立 七 〇 周 年 記 念 誌 編 集 委 員 会 」が 発 足 、 2 年 後 に 「倶 会 一 処 - 患 者 が 綴
る 全 生 園 の 七 十 年 」が 完 成 し た 。 患 者 に よ る 園 史 の 皮 切 り で 大 き な 反 響 を 呼 ん だ 。
1977 年 6 月 に は 、 記 念 誌 委 員 会 は 同 じ 顔 ぶ れ で 「全 患 協 運 動 史 - ハ ン セ ン 病 患 者 の た た
か い の 記 録 」(全 患 協 編 )を 刊 行 し て い る 。 双 方 と も 「図 書 館 の 資 料 が な け れ ば 、 あ れ ほ ど の
も の に は な ら な か っ た 」と 委 員 会 の メ ン バ ー の 一 人 は 語 っ て い る 。
資 料 の 収 集 ・ 充 実 に は 運 も 味 方 し て く れ た 。 図 書 館 が 完 成 し た 翌 年 の 夏 、 前 年 11 月 に
亡くなった林芳信名誉院長の遺族からの申し出で、自宅の倉庫に保存されていた園長時代
(1931 年 か ら 32 年 間 ) の 膨 大 な 資 料 が 手 に 入 っ た の も そ の ひ と つ だ っ た 。
それから数年後、施設側が大量の古い事務書類を焼却するという情報があり、職員の了
解の上、トラックで運び出される寸前の書類の中から情報提供者と二人でめぼしいものを
かき集め図書館に持ち帰った。
まさに宝の山、郵便、面会人、死亡、葬式などはもちろん患者の見張を担当する職員が
園 内 で 見 聞 き し た 一 切 を 記 し た 第 一 級 史 料 の 「見 張 所 日 誌 」の ほ か 、 療 養 所 の 実 態 、 ハ ン セ
- 75 -
ン病隔離政策の本質を明確に物語るものばかりだった。
こ れ ら の 資 料 (原 本 )は 保 存 し 、 何 部 か と っ た コ ピ ー を 製 本 し て 貸 し 出 し て い る 。 こ う し
て 集 め ら れ た 収 蔵 資 料 (書 籍 を 含 む )を 基 礎 に 「ハ ン セ ン 病 資 料 館 」は で き あ が っ た 。現 在 、
資料館に移した資料のコピーと整理を終わっていない資料が図書館にあり、山下さんたち
が処理を進めている。
4.資料に関心のない自治会
各園の機関誌集めは最後まで難航したが、各園に呼びかけ、お願い、図書館見学などあ
らゆる手を尽くして成果を積み重ねた。おおよその目処がつくと、山下さんは患者の生活
を 偲 ば せ る も の 一 切 へ と 資 料 収 集 の 範 囲 を 広 げ て い っ た 。 図 書 館 開 設 か ら 10 年 ほ ど 経 っ
ていた。
患者の手になる絵、工芸品などから園内作業の器具、生活用品、療養器具などで、書い
たものと同じく患者の心を伝えるものじゃないか-そう考えてのことだった。そうした彼
の発案で自治会の中に “ もの集め ” を進めるための “ 図書館運営推進委員会 ” といった組
織 が う ま れ た 。 1987(昭 和 62)年 、 松 本 さ ん が 引 退 、 後 を 引 き 継 い だ 自 治 会 の 役 員 た ち に も
関 心 を 持 っ て も ら う た め だ っ た が 、予 算 は ゼ ロ 、結 局 、委 員 会 は 二 回 開 か れ た だ け だ っ た 。
自治会の無関心とは逆に園内外に “ もの集め ” の協力者が増えた。収納小屋に入り切ら
な く な り 、 多 磨 全 生 園 創 立 80 周 年 の 1989(平 成 元 )年 、 資 料 展 示 場 も 含 め 50 坪 ほ ど の ス ペ
ー ス が 拡 張 さ れ た 。図 書 館 の 仕 事 を す る 山 下 さ ん た ち 3 人 は 、て ん や わ ん や の 状 態 だ っ た 。
「集 め て も 利 用 す る 人 が な け れ ば 資 料 は 死 ぬ 。 患 者 の 思 い も 伝 わ ら な い 。 そ ん な こ と に
なれば先輩たちの無念を晴らせない」
資料をハンセン病医療行政を告発する “ 武器 ” とするには、誰でも簡単に利用できるこ
とが必須条件である。そのためには資料の収集はもちろんだが、それの整理・保管、貸し
出し、コピーとなれば、現在の 3 人だけでは、十分と言うにはほど遠い。閲覧スペースも
いる。現状のままでは将来の展望は開けてこない。
考えあぐね山下さんが資料と図書館の将来について自治会(平沢保治会長)に質したと
ころ、その答えは次のようなものだった。
「後 継 者 が な く 図 書 館 の 仕 事 が 出 来 な く な れ ば 、 資 料 は 東 村 山 市 (全 生 園 の 所 在 地 ) の 図
書館に寄贈すればよい。本職だからきちんと管理してくれる」
資 料 の 価 値 、 図 書 館 の 役 割 に 対 す る 認 識 の 違 い は 画 然 た る も の だ っ た 。 「高 松 宮 記 念 」の
冠をいただく資料館に資料を委ねることに抵抗はあったが、ほかの途を探ることは、もは
や山下さんの力だけでは及ばぬことだった。
資 料 館 を 運 営 す る 「藤 楓 協 会 」に 任 せ よ う と 決 心 し て 1 年 、 要 請 に 応 じ 建 設 準 備 の た め の
「ハ ン セ ン 病 資 料 調 査 会 」の メ ン バ ー に 加 わ っ た 。 図 書 館 か ら 運 ぶ 資 料 の 選 別 や 各 園 か ら 寄
せ ら れ る 生 活 器 具 の 整 理 に 当 た り 、 1993(平 成 5 )6 月 、 「高 松 宮 記 念 ハ ン セ ン 病 資 料 館 」が
誕生した。
しかし、“ 資料を生かす ” ということに関しては、人件費の問題も絡み資料館・藤楓協
会の理解は得られず、最初やっていた貸し出しも中止となり、山下さんは資料館を離れ担
当者3人、孤立無援のままボランティアーの協力を得ながら図書館で資料を生かす途を探
り続けている。
現 在 、 約 2200 点 の 文 献 ・ 資 料 を 所 蔵 、 そ の 中 に は 「ら い 予 防 法 」廃 止 後 、 ハ ン セ ン 病 問
題に関心を持ち、山下さんの助言を得て図書館を中心に資料を探り、まとめた大学生・院
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生 の 卒 業 論 文 約 60 点 も 含 ま れ て い る 。
Ⅳ.結論-図書館と資料類の適切な扱い
①ハンセン病国賠訴訟判決は、長年にわたってハンセン病患者の隔離絶滅政策を継続、
人間の持つ発展可能性を圧殺する “ 人生被害 ” を原告らにもたらした責任が国にあること
を明らかにし、賠償を命じたのはご存じの通りである。
しかし、司法の場で明らかにされたのは、原告を中心とした被害の態様だった。やむを
得ぬことながら、無念の裡に亡くなった者も含め裁判に参加しなかった人たちのそれは埋
もれたままだ。同時に、なぜこのような無残な政策が公然と行われたのか、その解明も十
分ではない。
多 磨 全 生 園 の 「ハ ン セ ン 病 図 書 館 」を は じ め 長 島 愛 生 園 、 菊 池 恵 楓 園 な ど の 図 書 館 に も 、
文芸作品を中心に患者の書き残したもの、療養所の実態を物語る文献・資料類が大量に残
されている。
この資料群の価値を生かし、被害実態をより明確にすると共に無残な歴史の真相究明に
役立てていくことこそ図書館・資料館に課せられた使命だ、と考える。
②自治会があくまで決議に固執するなら、資料・文献類について資料館の所蔵とするこ
と は 別 に 差 し 支 え な い 。そ の 場 合 、現 在 、図 書 館 に お い て 行 わ れ て い る 「資 料 を 死 蔵 せ ず 、
貸 し 出 し ・ 閲 覧 を 十 分 に 行 う 」と い う 考 え 方 を 引 き 継 ぎ 、 移 管 さ れ た も の に 限 ら ず 、 す べ
ての資料に適用し、これを期に原本の保存とコピーによる活用を両立させる効率的な態勢
を整えるべきである。
図書館については、顕彰すべきものとして、物置に転用されるようなことは許さず、歴
史的施設として文献・資料と同等の扱いを検討するよう望む。
③決議を取り消し、自治会独自で扱いを決めると言う場合は、Ⅱ.で述べたハンセン病
図書館の歴史的功績、資料の果たした役割を考慮し、どのようにすべきかについて十分な
議論を進めていただきたい。
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『 藤 楓 協 会 創 立 五 十 周 年 記 念 誌 』( 藤 楓 協 会 、 2007 年 6 月 ) 161 ~ 164 頁
資料館運営委員 佐川 修「資料収集の思い出」
昭 和 39 年 10 月 、 全 患 協 本 部 が 菊 池 恵 楓 園 か ら 多 磨 全 生 園 に 移 管 さ れ た 時 、 光 岡 良 二 、
x x x x 、 x x x x 〔柴田の判断で伏字とする〕さ ん ら と と も に 、 私 も 渉 外 部 長 と し て 事 務 局 へ
勤めることになった。すでに発足していた事務部長研究会と同様に藤楓協会がスポンサー
であった全患協の療養生活研究委員会(療研)の会議に出て、調査事項、記録のまとめ、
講演(録音)の文章化などの作業を行った。第二回療研(多磨)では藤楓協会の浜野理事
長 が 、視 察 し て き た『 韓 国 の ハ ン セ ン 病 事 情 』に つ い て 講 演 さ れ た が 、そ の 中 で 韓 河 雲( ハ
ンセン病患者の詩人)の詩『小鹿島への道』が、若い人、学生たちの間でベストセラーに
なっている、との話が印象的であった。当時、全患協は大蔵省との交渉は藤楓協会(新栄
ビル)で行っていたが、女子事務員の方がいつもにこやかに応対してくれた。
39 年 か ら 46 年 の ら い 調 査 会 答 申 に よ る 自 用 費 確 定 ま で の 間 、 毎 年 、 全 患 協 は 厚 生 省 ロ
ビ ー で 泊 ま り 込 み 、座 り 込 み の 7 、8 月 行 動 を く り 返 し て き た が 、藤 楓 協 会 へ の 要 請 で は 、
いつも聖成理事長が真摯に話を聞いてくれた。社会交流バスの譲渡式、三越での療養作品
展、日比谷公会堂での「らいを正しく理解する集い」など、藤楓協会に関わる思い出が意
外と多いのに気づく。
大 谷 先 生 と は 昭 和 47 年 、 先 生 が 国 立 療 養 所 課 長 に な ら れ た こ ろ か ら の 知 り 合 い で あ る
が、まさか先生が藤楓協会の理事長になられ、資料館をつくり運営をする中で、私たちが
決 定 的 な 関 わ り を 持 つ こ と に な ろ う と は 夢 に も 思 わ ぬ こ と で あ っ た 。 1990( 平 成 2 ) 年 7
月 10 日 、 資 料 館 建 設 を 前 提 に 学 識 経 験 者 、 各 園 の 園 長 、 自 治 会 長 な ど 40 人 に よ る 「 ハ ン
セン病資料調査会」が発足、その中から専門委員に、全患協各ブロックからは、東部・佐
川修、瀬戸内・双見美智子、九州・太田明、沖縄・松岡和夫の各氏が推挙された。
専門委員会、資料調査会総会が開かれるなか、多磨全生園では職員、入所者、東村山市
関係者が一体となって資料館建設募金協力委員会を結成し、活発な募金活動を展開した。
また、資料館建設促進対策委員会を設置し、資料収集の具体的作業に入ることになった。
ハ ン セ ン 病 資 料 調 査 会 が 発 足 し て か ら 2 年 後 の 平 成 4 年 6 月 25 日 、 全 生 園 内 の 資 料 館
建設予定地で、大谷理事長をはじめ関係者が集まって安全祈願祭(修祓式)が行われ、1
年度の完成を目途に佐藤工業による建設作業がはじまった。
後から聞いた話であるが、当時、大谷理事長は「資料館ができたら1、2年で資料を集
め、それから開館する予定だった」そうである。ところが私たちは「資料館が完成したら
すぐに開館する」ものと決めてかかり、何回も対策委員会を開き協議を重ねた。
環 境 整 備 の 方 は 山 下 十 郎 〔 入 所 者 〕、 立 川 造 園 主 が 、 資 料 収 集 、 展 示 関 係 は 大 竹 章 、 山 下
十郎、佐川がそれぞれ中心となって検討をすすめてきた。自治会のハンセン病図書館で長
年、山下〔道輔〕さんが収集、管 理し てきた書籍のうち四千 冊と物品(園券、生活 用具な
ど ) を 資 料 館 へ 持 っ て く る こ と に し た が 、 こ れ だ け で は ど う に も な ら な い 。「 各 園 に あ る
資料を集めよう」ということになり、大谷理事長から各園の園長、自治会長に協力依頼書
を出していただいた。以下、資料収集の思い出をいくつか拾ってみた。
各 園 に ど の よ う な 資 料 が あ る の か 、 実 際 に 見 て 送 っ て も ら お う と い う こ と に な り 、 11
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月 17 日 か ら 22 日 ま で 大 竹 章 と 佐 川 が ま ず 松 丘 保 養 園 と 東 北 新 生 園 を 訪 問 し た 。 松 丘 で は
園幹部、自治会役員と懇談。図書室などのほか菊地正実さんに園内をくまなく案内してい
ただきた。給食棟の裏側にころがっていたTR釜を見つけたのは幸いだったが、何しろ一
トン近い重量で送る方も、また資料館でも二階に上げて展示するのに一苦労であった。松
丘の宿舎で大竹さんとこの先どうなるのか、集めた資料をどう整理し、どう展示したらよ
いかなど夜の更けるのも忘れて語り合ったのも今はなつかしい思い出である。
東北新生園ではすでに廃屋となった東北農場の豚舎、宿舎などを見学、宿舎、作業場の
表札「楓の家」などを送ってもらった。韓国の定着村は成功しているのに、なぜ東北農場
は閉鎖されてしまったのか、残念な思いがする。
10 月 25 日 か ら 29 日 ま で は 、 成 田 先 生 と 佐 川 が 宮 古 南 静 園 と 沖 縄 愛 楽 園 を 訪 問 し た 。 ど
ちらも戦争の被害が大きく資料となるものはほとんどなく砲弾の薬莢で作った灰皿などが
特徴的であった。愛楽園では専門委員でもある松岡和夫さんが園内や青木恵哉さんがひそ
んでいた岩穴などを案内、青木さんの苦心談も聞かせてもらった。
11 月 18 日 に は 日 帰 り で 、 佐 川 、 大 竹 、 山 下 道 、 平 野 、 天 野 ら が 栗 生 楽 泉 園 を 訪 問 。 自
治会役員に納骨堂、自由地区、青年会館、聖公会教会、重監房跡、湯之沢部落跡などを案
内してもらった。青年会館は開園当時からのしっかりした建物で、現在資料室として利用
さ れ て い る の は 嬉 し い こ と で あ る 。 村 越 化 石 さ ん の 紫 綬 褒 章 な ど 45 年 の 提 供 が あ っ た 。
11 月 23 日 か ら 30 日 ま で は 、 大 竹 、 佐 川 が 、 菊 池 恵 楓 園 、 琵 琶 崎 待 労 院 、 回 春 病 院 跡 、
星塚敬愛園、奄美和光園など九州各園を一気に訪問した。菊池では専門委員の太田明さん
が 車 で 待 労 院 、 回 春 病 院 跡 ( リ デ ル ・ ラ イ ト 記 念 館 )、 敬 愛 園 ま で 案 内 、 同 行 し て い た だ
いて大変助かった。恵楓園では自治会の書類はきちんと整理、保存されているのに、本館
図書館の膨大な書籍は雑然としていて、窓ガラスは割れ、鳩が出入りしていたようだ。菊
池 先 生 か ら 大 風 子 油 注 射 液 を い た だ い た が 、 太 田 さ ん か ら 、「 コ ン ク リ ー ト 塀 を 一 部 持 っ
ていって資料館の庭に置いたら」といわれたが、運搬に困るので婉曲に断った。リデル・
ライト記念館、竜田寮跡を見せていただいたのは思わぬ収穫であった。待労院では板倉和
子院長から写真、十字架などの提供を受けたが、入院者代表の井手隆士さんに会えたのは
奇 跡 で 、 そ の 後 、 井 手 さ ん か ら は 自 著 の 『 良 き 人 生 』『 ロ ザ リ オ の 珠 に つ な ぎ て 』 な ど 多
数の本が寄贈され、いま多くの人に読まれている。
星 塚 で は 資 料 室 の 竹 牟 礼 さ ん に 案 内 さ れ 鉄 瓶 、食 器 、短 靴 な ど の 36 点 の 提 供 を 受 け た 。
奄美では滝沢園長に小笠原登先生の書をいただいたが、田中一村画伯が小笠原先生と懇意
で、機関誌『和光』の表紙絵を描き、和光園のすぐそばに小さな住居があったことなど奇
遇な感じであった。
12 月 4 日 は 日 帰 り で 成 田 、 大 竹 、 平 野 、 佐 川 が 駿 河 療 養 所 、 神 山 復 生 病 院 を 訪 問 し た 。
駿河では加藤博子さんに邑久高校新良田教室の教科書と、八十号の絵画『樹立の間より』
をわざわざご主人と資料館まで届けて下さったのが大変有難かった。復生病院では湯川智
院長、事務長より井深八重婦長のナイチンゲール章、写真乾板など百点の提供を受けた。
12 月 7 日 か ら 13 日 ま で は 大 竹 、 佐 川 で 大 島 青 松 園 、 邑 久 光 明 園 、 長 島 愛 生 園 訪 問 と 専
門委員宇佐見浩さんが同行、奈良・むすびの家、北山十八間戸にも足を伸ばした。
大島では現全療協事務局長である神実知宏さんに、山の上の草むらの中にあった監禁室
まで案内してもらったが、今その監禁室の扉が資料館に展示されている。邑久では金券、
食 器 、 飯 台 、 架 橋 運 動 横 断 幕 な ど 52 点 、 長 島 で は 宇 佐 見 さ ん が 管 理 し て い る 恩 賜 記 念 館
と、専門委員の双見美智子さんが管理している神谷美恵子文庫に案内してもらい、多くの
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書 籍 や 明 石 海 人 愛 用 の 机 な ど 65 点 を 提 供 し て く れ た 。 ま た 、『 む す び の 家 』 で も 故 人 と な
られた飯河梨貴さんよりハンセン病関係の多くの書籍の寄贈を受けた。
1993( 平 成 5 ) 年 2 月 11 日 、 神 山 復 生 病 院 と 駿 河 療 養 所 の 資 料 を 受 け 取 り に 行 き 、 各
園の資料も3月末日までにいただき半年間に及ぶ資料収集作業は一応終わった。
後 は 6 月 25 日 の 開 館 に 向 け て 連 日 資 料 の 整 理 、 展 示 の た め の レ イ ア ウ ト 、 業 者 と の 対
応などで天手古舞であった。開館前日はほとんど徹夜で展示作業が行われたが、大竹さん
と レ イ ア ウ ト の 栄 一 夫 さ ん が い な け れ ば と て も 開 館 は 無 理 だ っ た と 思 っ て い る 。と も あ れ 、
ハンセン病資料館の開設は啓発と、らい予防法廃止、国賠訴訟にも大きな影響を与えてお
り、藤楓協会の最大の事業であったと大谷理事長の先見と英断に深甚なる敬意を表する次
第である。
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ハンセン病図書館友の会・ハンセン病市民学会図書館資料部会編『「将来構想」の歴史に学ぶ
「第二回ハンセン病資料セミナー 2007」報告』(皓星社、2007 年 12 月)
山下道輔「開講の挨拶」
今日はお暑いなか皆さんお集まりいただきまして、ほんとうにありがとうございます。
このセミナーは、ハンセン病市民学会図書資料部会とハンセン病図書館友の会の共催です
ので、ハンセン病図書館について若干お話しさせていただきます。
松 本 馨 さん 〔多磨全生園入所者自治会・元会長、故人〕が いな かっ た ら、 いま の 図書 館は 存
在しなかったと思いますし、また、それにつながって、いまのハンセン病資料館もいまの
ようなかたちでは実現しなかったのではないかと思います。
かつて自治会がいろいろな事情で一時期閉鎖になったときに、不自由舎の方たちが日常
生活で一番打撃があったものですから、松本馨さんが自治会再建のために起ちあがりまし
た。それまでは自治会が何でもかんでも、施設のやることまで請け負っていたものですか
ら、役員のやり手がいなくなってしまった。一例を挙げますと、患者による付添、患者が
患者を看るという制度が当時あったのですが、そのために自治会の役員が付添をやってく
れる人を探しまわらなければならなかった。プロミン登場後、軽症の人が退園したり労務
外出したりして、それまでは付添に出なくてもよいような、いわば自分が面倒をみてもら
うような人たちまでが付添に出されるようになった。そういう状況の中でさまざまな事情
が 重 な っ て 自 治 会 が 閉 鎖 に 追 い 込 ま れ た 〔 1966 年 9 月 〕。 そ れ で 不 自 由 舎 の 方 が 一 番 打 撃 を
蒙ったために、不自由舎の中から松本さんが起ちあがって、自治会再建を呼びかけ実現し
ま し た 〔 1969 年 6 月 〕。 そ の 頃 私 は 政 党 の 委 員 を し て い た し 、 松 本 さ ん に は 子 ど も の 頃 か ら
お世話になっていましたので、私も自治会の再建に参加しました。
その年は全生園創立六〇周年ということで、患者がこれまで書いてきた記録を、なくな
らないうちに整えておかなければならないということになり、ハンセン氏病文庫を全生図
書館の一室に設置してもらいました。自治会は、再建したばかりで資金がなく、東京都の
衛生課に資金調達のために二度ほどお願いに行って資金が提供されたので、それで本箱を
二つ入れました。また、全生図書館の一室は会議場として使用されていて畳が入っていた
ので、その畳を替えたりしました。そうこうしているうちに、これは片手間ではやれない
ということで、私は自治会を退き、それ以来ずっと資料の収集・保存とともに、利用者に
利用してもらう仕事を続けてまいりました。
しだいに資料が集まり、場所が手狭になったので、いまの図書館西側部分の土地にプレ
ハブを建てて保管していましたが、松本さんが藤楓協会にお願いし、日本船舶振興会の寄
付を得て、宗教地区の南側、かつて北條民雄が住んだという秩父寮のあとに、鉄筋コンク
リ ー ト の 建 物 を 建 て て も ら い ま し た 〔 1976 年 9 月 着 工 、 翌 年 一 月 開 館 〕。 さ ら に 資 料 が 集 ま っ
てくると、物品資料も同時に集めておいたほうがいいと思い、まず手始めに療養生活に欠
かせない日用品などを集め、ある程度集まったところで、ふたたびプレハブの保存庫をつ
く っ て も ら い ま し た 〔 1979 年 7 月 〕。 そ れ が い ま 庭 に 立 っ て い る プ レ ハ ブ で す 。 そ れ か ら 10
年後に、全生園創立八〇周年記念事業として、事務室、図書閲覧室、資料展示室を増築し
て も ら い ま し た 〔 1990 年 9 月 〕。
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そこに資料を展示して二、三年経ったときに、高松宮記念資料館ができることになり
〔 1991 年 3 月 準 備 開 始 、 1993 年 6 月 開 館 〕、 図 書 も 含 め て め ぼ し い も の は 全 部 、 図 書 館 か ら 資
料館に提供しました。ところが、しだいに資料館がスマートになったのはよいのですが、
私たちの思いがぬけたような資料館になってしまいました。残念だなと思います。私たち
としては、患者同士が支え合って生きてきた、先輩たちのさまざまな苦労などが展示を通
して見て感じられるようにするとか、図書を貸し出して利用者が利用しやすいようにする
とかしてほしい。資料を保存することも大切ですが、それを死蔵させてはいけないと思い
ます。ハンセン病図書館では、展示物に短歌を添えて患者の思いが浮かび上がるような工
夫をしたり、図書を貸し出せるように複数冊揃えたり、園誌や卒論などは保存用と貸し出
し用に3部製本したりしています。また、資料館ではハンセン病を一般的に展示していま
すが、私は多磨独自のものを収集し、展示したいと思っています。
そういったようなことで、もし松本さんがいなかったら、ハンセン病図書館もないし、
資 料 も 散 逸 し て 無 く な っ て い た と 思 い ま す 。松 本 さ ん が 亡 く な る 3 日 前 に お 会 い し た と き 、
これまでやってきた図書館をしっかりやれよと言われ、これが私への松本さんの遺言にな
りました。
今日ここにお出でになっている山城正安さんや国本衛さん、それから大竹章さんや金子
保 志 さ ん〔いずれも入所者か退所者〕な ど に は 、物 品 や 文 献 資 料 を 提 供 し て い た だ き ま し た 。
また、ハンセン病図書館のユニークな点として、利用者が即資料提供者になるということ
があります。学生さんが資料を使って卒論を書くと、その卒論を提供してくださる。東大
の 山 本 俊 一 先 生 は 、 図 書 館 で 調 べ て 、『 多 磨 』 誌 に 「 日 本 ら い 史 」 を 連 載 で 書 い て く だ さ
い ま し た 。 藤 野 豊 先 生 も 利 用 者 と し て 来 て 、「 い の ち の 近 代 史 」 を 『 多 磨 』 に 連 載 し て く
ださいました。東大の荒井裕樹さんは、内務省時代に全国募集した散文の生原稿を整理し
て く だ さ い ま し た し 、今 日 総 合 司 会 を し て い た だ い て い る 坂 田 勝彦さ ん〔 筑 波 大 学 大 学 院 生 〕
には、全生園の盲人会の機関誌『道標』の目録をつくっていただきました。また、機関誌
『 山 桜 』『 多 磨 』 の 総 目 次 を 東 洋 大 学 の 柴 田 隆 行 先 生 が デ ー タ 化 し て く だ さ い ま し た 。 フ
リーカメラマンの黒崎彰さんは、昭和の初めからのハンセン病に関する新聞資料を写真に
撮ってデータ化してくださって、いつでも利用できるかたちにしてくださいました。
このように、利用者が資料収集の力になってくださるという歩みを続けています。今日
ここに来てくださっている皆さまもそのようなかたちで図書館を利用していただけたらと
願っております。
最後に、ハンセン病図書館友の会の皆さんには日頃たいへんお世話になって感謝してい
ます。私は手書きで蔵書目録をつくっていたのですが、いまは友の会の人たちがパソコン
で目録をつくってくださったり、文書や書棚の整理をしてくださっています。
ぜひ、皆さまもハンセン病図書館にお出でください。
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『多磨』第 1043 号(2008 年 12 月)
増 田 泰 重 「『 人 権 の 森 』 清 掃 ボ ラ ン テ ィ ア に 参 加 し て 」
〔前略〕
本当の意味で全生園のなかに入ったのは平成一三年、市史編さんの近代部門の調査のと
きでした。
園内の、寺院や教会の立ち並ぶ一角に「自治会図書館」があり、膨大な文献資料が入所
者の方々の手でこつこつと整理されていました。私たちはその資料のデータを作成したの
です。最終的には二万点ほどにもなりました。
こんなことは誰も書かないと思いますので、そうした作業のなかで強く印象に残ったこ
とを一つ書きます。
図書館の奥の広い部屋は展示スペースにもなっていて、積み上げた文献資料とともに、
さまざまな生活用具や、
「 の ぼ り 旗 」な ど の 患 者 さ ん の 長 い 闘 い を 示 す 資 料 も あ り ま し た 。
そのなかに、小さな座り机がありました。これは何ですかという私の問いに、たしか山下
さんだったと思いますが、それは患者さんのなかの職人さんが作ったもので、みんなが作
っ て も ら う 順 番 を 待 っ て い た 、と い う 話 を さ れ ま し た 。説 明 を 聞 か な け れ ば た だ の 机 で す 。
この部屋に何気なく置かれている「もの」には、すべてそうした患者さんたちの多くの歴
史と想いが詰まっていることを感じ、改めてもう一度室内を見回しました。
話は清掃作業からは大分ずれてしまいましたが、うっそうと繁る樹々のなかを歩きなが
ら、園内のひとつひとつのものが、全生園の長い歴史なんだと感じた次第です。
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『 博 物 館 問 題 研 究 』 第 31 号 (2008 年 )
稲葉上道「ハンセン病資料館が持つ意義」
〔前略〕
このような状況の中で多磨全生園では、自治会への不信・関心の薄れや財政問題での内
部 対 立 な ど に よ り 、 1966 年 か ら 69 年 ま で 、 入 所 者 自 治 会 が 組 織 で き な い と い う 異 常 事 態
に 見 舞 わ れ た 。 再 建 さ れ た 新 自 治 会 は 、 全 生 園 創 立 60 周 年 記 念 事 業 、 来 る べ き 全 国 の 療
養所の医療低下を視野に入れた園の医療センター化、遅れていた園内整備のために自主財
源を確保するマスタープラン、園の敷地維持を目指した緑化運動、地域の障害者団体との
連帯を目指す東村山身体障害者患者連絡協議会の結成などの取り組みを始めた。
こ れ ら の 取 り 組 み の 中 に 、「 ハ ン セ ン 氏 病 文 庫 」 の 創 設 が あ っ た 。「 ハ ン セ ン 氏 病 文 庫 」
は、開園以来数多く生み出されてきた患者たちの文芸作品や記録を集めて後世に残すとい
うもので、自分たちが生きていた証を後世に伝えていく目的で自治会図書室の中に設置さ
れた。当時はあくまでも書籍の保存が主だった。
1977 年 に 自 治 会 図 書 室 が 新 し い 建 物 に 移 転 し 「 ハ ン セ ン 氏 病 図 書 館 」 と 名 づ け ら れ る
と 、「 ハ ン セ ン 氏 病 文 庫 」 も 新 た な 展 開 を 見 せ る こ と と な っ た 。 当 初 書 籍 類 だ け を 対 象 と
していたものが、書籍ばかりでなく入所者の生活用具などモノも収集し保存するようにな
っ て い っ た 。 つ ま り こ の 段 階 か ら 、「 ハ ン セ ン 氏 病 図 書 館 」 は 実 物 資 料 の 収 蔵 庫 と い う 背
質も合わせ持つことになったのである。集めたモノを園の文化祭で展示するなど、古いモ
ノはゴミではなく貴重な資料なのだとの意識を入園者の間に高めるアピールが功を奏し
て、モノの数は増え続けていった。
1990 年 、 自 治 会 で は 園 創 立 80 周 年 記 念 事 業 と し て 「 ハ ン セ ン 氏 病 図 書 館 」 に 資 料 展 示
室を増設した。この資料展示室には、来園する一般の人々に向けて自分たちの歴史を見せ
ていくという意識がはっきりと表れていた。保存から公開へと目的が拡大し、資料展示室
は入所者の生きた証を見せる手作りの博物館となっていった。
一方、厚生省からハンセン病の正しい知識の普及や回復者に対する更正援護などの事業
委 託 を 受 け て い た 財 団 法 人 藤 楓 協 会 は 、 1987 年 に 亡 く な っ た 総 裁 高 松 宮 の 記 念 館 を つ く
る計画をたてた。理事長大谷藤郎は、〝救らいの歴史〟における皇室の「ご仁慈」を記念
すると同時に、この先ますます散逸していくだろう全国の療養所の資料保存を図りたいと
考 え た 。大 谷 は こ の 考 え を 、多 磨 全 生 園 入 所 者 自 治 会 会 長 の 平 沢 保 治 、平 沢 ら と と も に 1969
年 自 治 会 を 再 建 し 、「 ハ ン セ ン 氏 病 文 庫 」 設 置 の 発 案 者 で も あ る 松 本 馨 、「 ハ ン セ ン 氏 病
図書館」の実務担当者山下道輔の3人に相談した。やがて多磨全生園ではこの記念館を、
当時課題となっていた園の敷地維持と入所者の納骨堂保存のための楔として、納骨堂の脇
に誘致することにした。園長の成田稔は、敷地の維持は入所者の生活や医療を保障するこ
と に な り 、 納 骨 堂 の 保 存 は 身 よ り の な い 入 所 者 の 死 後 へ の 不 安 を 取 り 除 き 、「 決 し て 繰 り
返してはならない人間の過ちを、後世に語りつぐ」ことになると述べ、入所者自治会は園
内外への調整を行なった。
この記念館建設の計画と、自治会の図書室である「ハンセン氏病図書館」の資料展示室
設置とは、別々の取り組みとして同時期に進んでいた。高松宮の記念館建設はやがて高松
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宮 記 念 ハ ン セ ン 病 資 料 館 建 設 へ と 変 わ り 、 1990 年 7 月 、「 ハ ン セ ン 病 資 料 調 査 会 」 が 藤 楓
協会に発足した。一方「ハンセン氏病図書館」の資料展示室が完成したのは同年9月だっ
た。目的も異なっていた。高松宮記念ハンセン病資料館の計画当初、藤楓協会が主な役割
の1つとして考えていたのは資料の散逸防止と保存だったが、自分たちが生きてきた証を
残 す た め に 資 料 を 保 存 し 、さ ら に そ れ を 社 会 に 対 し て 見 せ て い く と い う 意 識 を 持 っ て い た 。
その両者が重なってくるのは多磨全生園自治会が、藤楓協会のハンセン病資料館建設資
金難に直面して、自主的に募金を集め、その後藤楓協会の協力要請に基づいて「ハンセン
病資料館建設促進対策委員会」を設置したからだ。これ以降、最終的に建設資金の大半を
財界から集め、運営費も厚生省から引き出す手はずをつけるなど財政面を大谷が固め、資
料館の中身をつくる実務は同委員会が担っていくこととなった。
「ハンセン氏病図書館」の担当者山下道輔は、図書室と同資料展示室ですでに収集して
いた多くの書籍類や実物資料を提供し、独自に確立したノウハウを資料館の図書室整備に
活用した。患者の全国組織である全患協結成以来の歴史を綴った『全患協運動史』と、多
磨 全 生 園 入 所 者 自 治 会 の 歴 史 を ま と め た『 倶 会 一 処 』の 編 纂 を 手 が け た 大 竹 章 と 佐 川 修 は 、
全国の療養所を回って資料収集にあたった。2人はモノが帯びている意味を見て取る目を
も っ て お り 、 こ の 資 料 収 集 に よ っ て 資 料 館 の 収 蔵 資 料 が 多 磨 全 生 園 1 園 か ら 全 国 16 園 へ
と広がった。それは全国の療養所共有の施設としての資料館という趣旨を実現するものだ
った。さらに大竹は、展示プランの制作とディスプレイの監修を行った。大竹は「ハンセ
ン 氏 病 図 書 館 」 の 資 料 展 示 室 に 関 わ る と と も に 、『 全 患 協 運 動 史 』『 倶 会 一 処 』 編 纂 よ り
前 に 、患 者 と し て ハ ン セ ン 病 の 歴 史 を 綴 っ た『 ら い か ら の 解 放 』( 後 に 増 補 し『 無 菌 地 帯 』
と改題)を執筆していた。展示は、大竹の当事者としてのハンセン病史観と経験があった
からこそ成立し得たと言っても過言ではない。ハンセン病回復者の歴史は、その頃まだ世
に広く知られてはいなかった。そのような社会に向けて自分たちの存在証明を訴えかける
展示の誕生は、来館者や一部新聞記者に衝撃をもって受けとめられることとなった。
そ の 結 果 、 藤 楓 協 会 の 40 周 年 記 念 事 業 だ っ た に も か か わ ら ず 、 実 質 的 に は 、「 ハ ン セ ン
氏病図書館」の理念を継承し、さらに発展させたものとして、高松宮記念ハンセン病資料
館 が 設 立 さ れ た 。「 自 分 た ち が 生 き 抜 い て 来 た 証 を 残 す こ と 」 と 「 社 会 に 同 じ 過 ち が く り
返されないようにすること」の2つが主な目的だった。そこに先に述べた、多磨全生園入
所者の生活と医療の保障や、皇室の「ご仁慈」の記念などの目的が重なって、高松宮記念
ハ ン セ ン 病 資 料 館 の 性 格 を 形 作 っ て い っ た の で あ る 。〔 後 略 〕
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p.9-10
増補
ハンセン病図書館
山下道輔氏インタビュー
バリアフリー図書館を――隔離による文化の行方――
ハ ン セ ン 病 文 学 全 集 第 一 期 全 10 巻 第 四 回 配 本 、 2003 年 3 月 、 折 込 付 録
ハンセン病の歴史を伝えてゆくためには、資料を残さなくてはならない。残された資料
には、必ずそこに生きていた人の歴史がある。隔離された生活を強いられた人々、患者た
ちが互いに支え合って生活をしてきた姿がある。こうした資料が失われれば「事実」も忘
れ去られてしまう。
私 は こ の と こ ろ し き り に 、「 隔 離 に よ る 文 化 」 と い う の を 考 え る 。 諸 外 国 に は 見 ら れ な
い、日本だけの隔離されたがゆえに生じた文化。最近は社会との交流も多くなった。本も
いっぱい出て、国立国会図書館とか公共図書館にお入っているだろうけど、この文化は、
この先どうなることか。この文化が後の世の中の役に立つものにならなければならない。
そのためにも資料を整備していきたい。
歴史を風化させないって言ったって、歴史は必ず風化するんだから。
全国のハンセン病療養所では、それぞれ園内で機関誌を刊行している(ちなみに多磨全
生 園 機 関 誌 「 山 桜 」 1928 年 か ら 入 園 者 の 手 に よ り 毎 月 刊 行 さ れ 、 1952 年 に 「 多 磨 」 と 誌
名 を を か え て 現 在 ま で 続 く 。)
今 は そ れ を 各 園 が 大 事 に 保 存 し て い る け れ ど 将 来 ど う な る か 。私 た ち が 死 に 絶 え た あ と 、
これらの機関誌はどこへ行ってしまうのか。今までこうした資料を守ってきた入園者たち
も高齢化が進んでいて、資料の行く先のことを考えると夜もおちおち眠れなくなる。
ハ ン セ ン 病 関 係 の 資 料 を 総 合 的 に 集 め て い る の が ハ ン セ ン 病 資 料 館 だ け れ ど も 、 50 年
後 100 年 後 ま で そ の 役 割 を 果 た せ る だ ろ う か と 思 っ て し ま っ て ね 。 ま た 資 料 は 使 わ れ な け
れ ば な ら な い 。 資 料 は 「 集 め る こ と 」「 保 存 す る こ と 」「 公 開 す る こ と 」「 利 用 す る こ と 」
この 4 つが整って始めて意味があると思うんだ。このシステムの実現の難しさには、私は
何度も突き当たってきているからね。
昨 年 か ら 、皓 星 社 で 入 園 者 の 作 品 を 残 す『 ハ ン セ ン 病 文 学 全 集 』の こ こ ろ み が 始 ま っ た 。
不 二 出 版 も 『 ハ ン セ ン 病 問 題 資 料 集 成 』 を 出 し て く れ て い る 。 し か し 100 年 も の ハ ン セ ン
病の歴史は膨大だからね。それらの書籍の中からもこぼれおちるものもたくさんある。し
かし一つの歴史の「証言」としての役割は大きいよね。公共図書館や大学図書館に残って
ゆくわけだから。人間がどん底に、極限の世界に追いつめられる。その中で「生きる」と
は ど う い う こ と だ っ た の か 。 ど ん 底 の 叫 び 、「 い の ち 」 の 叫 び が 綴 ら れ た 文 芸 、 こ の 中 に
歴史は凝縮されていると思う。
『ハンセン病文学全集』が刊行されたことで、私のあせりが少し解消されたんだ。
話 は 戻 る け れ ど 、「 ハ ン セ ン 病 図 書 館 」 は 、 は じ め は 多 磨 全 生 園 自 治 会 が 再 建 さ れ 、 創
立 60 周 辺 記 念 に 「 ハ ン セ ン 氏 病 文 庫 」 と し て 設 置 さ れ た 。 そ こ に 「 多 磨 」 編 集 部 の 機 関
誌などを蔵書として持ってきたのが始まりだ。松本信さんや国本衛さんと自治会文化部に
所属していた私などが中心になってこの文庫を作った。友人たちが協力してこの図書館の
前身を作りあげたといってもいいだろう。栗生楽泉園の谺雄二さんも協力を要請したら、
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ある日楽泉園で刊行された単行本をどっさり寄付してくれたこともある。
「ハンセン病資料館」もそう。全国の療養所内でもそうした機関はない。ここが国立ハ
ンセン病図書館になればいいと思うが、入所者がいなくなってしまってから存続するかど
う か あ や し い 。 い ず れ 多 磨 全 生 園 自 体 、「 隔 離 」 の 園 と し て の 役 割 を 終 え る だ ろ う 。 そ う
なったときにはこの図書館の存在も忘れ去られてゆくだろう。患者がいなくなれば社会も
行 政 も 当 然 の こ と と 関 心 が 薄 く な る 。 け れ ど こ う し た 〔 こ と が あ っ た の は 〕「 事 実 」。 決
し て 忘 れ ら れ て は な ら な い と 思 う 。私 が さ っ き 謂 っ た 、
「夜もおちおち眠っていられない」
(笑)というのはそういう不安のことで、図書館の存続を本腰入れてやる役人がいるか非
常 に 心 細 く 思 っ て い る 。「 歴 史 」 を 残 す 責 任 を 国 の 方 が 背 負 っ て い く 形 に な ら な い と 。 日
本に本当にあった歴史として残さないと。そして二度と偏見や差別を作るいおうな土壌を
な く す た め に も 、「 ハ ン セ ン 病 の 歴 史 」 の よ う な 過 ち は 二 度 と 起 こ し て は な ら な い と 思 う
よ。
そ の た め に も 資 料 を す べ て そ っ く り 残 さ な け れ ば な ら な い け れ ど 、 34 年 間 図 書 館 運 営
を し て き て 、「 ハ ン セ ン 病 」 だ け で は 資 料 が 永 久 に 生 き て ゆ く こ と は 難 し い と 思 っ た 。
そこでバリアフリー図書館の構想が自分の中で生まれてきた。障害者団体も日本だけで
も相当な数にのぼるだろうし、そこと連帯してバリアフリーの総合図書館を作って、その
中にハンセン病元患者の本や資料を収めこんでしまう。その総合図書館はもちろん全国か
ら利用できるようなシステムを作って、当事者も生きがいを持って働けるような図書館が
いい。勉強することもできて情報交換もできる。そこで生きる勇気をもらえるような魅力
のある図書館になるとよいと思う。また、いまの「ハンセン病資料館」の存在を、先の裁
判 の 文 脈 で あ ら た め て 位 置 づ け し な お す こ と も 、当 然 必 要 だ と 思 う 。資 料 館 も 存 続 さ せ て 、
行政も真剣に取り組んでゆく。たえず過去を振り返って同じ過ちを犯さないようにする。
障害者や支援者たちが集まって、社会に必要な図書館として大きな包容力を持った図書
館に成長したら、国に要求を出すこともできる。
文 学 全 集 や 資 料 集 が あ れ ば 、そ こ も 入 り 口 に な る だ ろ う 。も っ と 知 り た く な っ た ら 、
「安
平フリー図書館」へ行く。
そ う な れ ば 私 も 安 心 し て よ く 眠 れ る よ う に な る よ 。( 笑 )
そんな図書館が夢なのだけれどもね。
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「愛生」編集部
双見美智子
神谷書庫のこと
愛生園には、神谷書庫と名づけられた小さな建物があります。ここは私達の資料庫なの
です。そこには、編集部の先人、秋山老人が誰かの死亡か転宅があれば、早速フゴ(藁製
のモッコ)を持って出かけて、棄てられた紙屑の中から、らいに関わる資料を執念に近い
収 集 の お か げ で 、書 庫 の 基 礎 に な っ て い る 蔵 書 が 、茶 箱 に 十 数 杯 も 集 め ら れ て い た の で す 。
( 全 国 療 養 所 の 機 関 誌 、 ら い の 文 献 、 論 文 の 抜 き 刷 等 等 )。
加えて、後に入部した私達がまた同類で、園が書類を整理したと聞けば、早速小型トラ
ックを動員して、ゴミ捨て場へ急行、目ぼしいものを拾い集めてきました。入所者でなけ
れば意義を見出せない紙屑のもろもろです。書庫には、それらをすべて、分類整理して収
められています。
書庫の中には、明石海人が、資力の衰えを予想して、その時に読もうと筆太に書き残し
た万葉集の写しも、推敲のあとのある詩稿も、スケッチ風な素描もほとんど完全な形で残
されています。それは、海人の最後を看取った者が、彼の遺品を整理したあと、それら海
人の所産を長島短歌会に移管したからです。
昔は恩賜道場と呼んだ修練道場をらい参考館と改称、園の文化遺産の陳列所として、管
理 す る こ と に な り 、短 歌 会 の 棚 に は 海 人 遺 稿 も 並 べ ら れ て 、自 由 に 見 る こ と が で き ま し た 。
が、建物の雨漏りなどによる補修のためにと、いつのまにか棚からはずされていました。
ある日、編集部で、あれはどうなったのかと話題になて、記念館にまで出かけてみたの
です。館の東の入口の土間に、リンゴ箱に入れられて、俳句会や詩話会の蔵書とともに積
み上げられてありました。同じ場所には、入所者の焼いた愛生焼なども数多くあったはず
なのですけれど、それらは四散してしまっていて、遺稿は紙屑なみに人の注意を引くこと
もなく、ひっそりと箱に入って、そこにあったのです。
そのあと「海人のリンゴ箱は事務分館い持って行ったよ」と人づてに聞いたのですが、
その分館のある丘が住宅に変わることになり、分館は水星病棟あとに引っ越してしまいま
した。
編集部では「海人はどうなったろ」とまたまた話が出て、空家になった分館に入ってみ
ました。
ガランドウになった分館の床の上に見おぼえのリンゴ箱 1 つ。ポツンと……。
早速持ちかえりました。
「空巣かな」
「いやいや、資料移管だぞ」と……。
今それらは、分類整理して書庫に保管されています。
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『 お お た ジ ャ ー ナ ル 』 2006 年 9 月 号
多磨全生園『ハンセン病図書館』を残したい
入所者の生きた歴史そのものを、永遠に
国立療養所「多磨全生園」内に、ハンセン病図書館(以下略称・図書館)があるのはご
存知でしょうか。園内にある高松宮記念ハンセン病資料館を見学する人は多い(現在は新
館 造 設 に 伴 い 休 館 中 ) の で す が 、 図 書 館 を 尋 ね る 〔ママ〕人 は 、 限 ら れ て い ま す 。
私がその図書館に行く契機となったのは、大田区社会教育の人権問題講座に参加したこ
とからです。図書館に初めて訪れ、入所者である図書館主任の山下道輔さんに出会いまし
た。山下さんの「ハンセン病の歴史を風化させたくない」という強い思いとハンセン病の
歴史を残すために、ハンセン病にとどまらずあらゆる人が利用しやすい「福祉図書館」
〔を〕設立したいという熱い思いに共感したのです。
ハンセン病図書館とは?
図書館には、ハンセン病に関する資料や入所者の作品集などの図書資料が多く保存され
ています。
患 者 の 資 料 が な く な る こ と を 憂 え た 当 時 の 自 治 会 長 の 下 、患 者 自 治 会 が 、多 磨 全 生 園 60
周 年( 1969 年 )の 記 念 行 事 の 一 つ と し て 、ハ ン セ ン 氏 病 文 庫 を 創 立 し ま し た 。そ し て 、1976
年には、現在の場所(北條民雄が住んだ秩父舎の跡地)に当時「資料館」と呼ばれた「ハ
ン セ ン 氏 病 図 書 館 」 が 建 設 さ れ ま し た ( の ち に 「 ハ ン セ ン 病 図 書 館 」 と 改 称 )。
山下さんは当時の自治会長より資料収集の仕事を薦められ、今日まで休むことなく続け
られてきました。そして、資料は入所者ばかりでなく、研究者や学生、一般市民に公開さ
れ、一定のルールの下、図書の貸し出しも行っています。資料は活用することで生きてく
るので、大いに読んでほしい、読まれることで図書館は使命を果たしていく、と山下さん
はっしゃっています。
図書館存続の危機
図書館の地道な活動が基点となって、今の高松宮記念ハンセン病資料館(以下略称・資
料 館 ) が 設 立 さ れ た の で す が 、 こ の 36 年 に も 及 ぶ 図 書 館 の 活 動 が 資 料 館 の 拡 充 に 伴 い 危
ぶまれています。それは、図書館を閉鎖し、図書館の資料を資料館に譲渡する予定が出さ
れているからです。
資 料 館 は 、 財 団 法 人 籐 楓 協 会 ( 総 裁 ・ 高 松 宮 寛 仁 親 王 、 厚 労 省 の 外 郭 団 体 ) の 40 周 年
記 念 行 事 と し て 着 工 さ れ 、 翌 1993 年 に 開 館 し ま し た 。 な ぜ 「 高 松 宮 記 念 館 」 と い う 名 前
がつくのか?というと、ご仁慈を賜った亡き高松宮寛仁親王を追慕し、合わせてハンセン
病の歴史的真実を明らかにするという趣旨の下、建設されたそうです。
資料館は、資料の保管展示を主としていて、図書館のような図書の貸し出しは行ってい
ません。また、図書館は入所者の生きてきた歴史そのものであり、患者側に立ったハンセ
ン病の歴史の真実を永久的に残していかなければ、ハンセン病はもとより、人権侵害につ
ながるあらゆる問題を解決していくことはできないと思うのです。
資 料 館 と は 機 能 ・ 性 格 を 異 に す る 図 書 館 。資 料 館 だ け で な く 、図 書 館 の 存 続 が 必 要 で す 。
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ハンセン病図書館友の会発足へ
図書館の存続を願う市民が集まり、友の会を昨年 5 月に発足させました。現在、図書館
の図書資料の整理・保存作業、会報発行、夏季資料セミナー開催、全生園まつり展示会参
加、ハンセン病市民学会図書資料部会設置の要請(認められました)等の活動を行ってい
ます。
少 し ず つ 、友 の 会 の 入 会 者 も 増 え て き て い ま す 。会 員 は 、一 般 市 民 だ け で な く 、入 所 者 、
退所者の方々、研究者、学生など、多彩な顔ぶれです。関心のある方は、ぜひお声をかけ
てください。
(高橋慶子・ハンセン病図書館友の会)
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山下道輔さん講演元原稿
(『 多 磨 』 第 845 号 、 1992 年 6 月 、
「 ハ ン セ ン 病 資 料 調 査 会 に お け る 報 告 ― ― ハ 病 図 書 館 ・ 収 集 ・ 保 存 ・ 展 示 の 現 状 」)
始 め に お 断 り し て お き ま す が 、自 分 は こ う し た 大 勢 様 の 前 で 話 を し た こ と が あ り ま せ ん 。
ですから、どれほどに聞き取って戴ける話が出来るか、とても心もとない訳ですが、これ
ま で ハ ン セ ン 病 図 書 館 作 り を 、 出 発 当 初 の ( 1968 年 ・ S44) 文 庫 設 立 の 運 動 以 来 、 ず っ と
取り組んで来ましたし、後世にハンセン病資料を何としてでも残して行かなければならな
い、そう思い続け、難儀な事に突き当たる度に、この意識に説得され、今日まで持続して
来て、いま正に実りの段階を迎えておりますので、この際、ハンセン病図書館作りをして
来たあれこれを、私達患者の意志が生かされる資料館作りに役立つようにしたいものと、
何より苦手な話を思い切ってする事にいたしました。とにかく初めてで、どんな風に話を
すれば良いのかわかりませんので、ピントずれして聞きづらい点があるかと思います。そ
れでこの点、先ず、ご勘弁を願っておきます。
お手もとに当館の簡単な図書館規則を記した「ハンセン病図書館運営内規」の1項に、
ハンセン病図書館の目的が掲げられています。目的は明瞭なのですが、目的達成の為に、
それではどのようにしてハンセン病の資料を後世に受け継いで行くのかという、継承の手
続きがなかったのです。このことが一番気掛かりで、当館資料を行く先どのようにするの
か 、 責 任 あ る 方 々 や 個 人 で 資 料 を 持 っ て い る 方 に も 、 蔵 書 の 行 く 末 を ど の よ う に 考 え ,決
めているのかを尋ねたり、聞いてもらったりしたのですが、つまるところ資料の分散化に
つながる考えしか聞かれなかったので、なんとも思案に暮れていたのです。手放すという
末路を予定していては、当然、力を入れる筈もなく、出費もしぶりがちになり、収集もお
ぼつかなくなってくる行く先不案内なこの暗さのなかで、ハンセン病資料が役立つ形で後
世に残される可能性の方法はないものかと、あれこれ思案して来ました。いま、その構造
はともかくとして、今度建つ資料館に寄せる思いを希望も含めて、多磨のハンセン病図書
館の収集と保存の状況など、述べてみたいと思います。
これまでにも関係者の個人蔵書が各所に寄贈分散されてしまっていますが(長丘智郎・
内 田 守 人 )、 同 じ ケ ー ス を 当 館 資 料 も 辿 る と し た ら 、 多 く の 方 か ら 後 世 伝 達 の 願 い を 込 め
て委託された折角の遺産資料も、やがては生きた形では決して残らないと思います。分散
化は消失の方向に落ちて行くからです。豊かにまとまった形であってこそ価値を生み、社
会的認可も生まれ、大事に保存管理するシステムが作られ、運営の機能性を高めるスタッ
フを揃えることになる、そう思いますので、かつての人権模様の記録や生活実態を、再び
斯くあってはならない日本のハンセン病歴史資料館として、患者自らが成し遂げなければ
決して残されては行かない、そうした内容、性質のものであると思い取り組んで来た私た
ちが、この終局に設けられる機会を積極的に引き寄せて、将来に亘っての資料館確立の基
礎固めを、現場参加の形で関与して行くことが大事だと思っています。管理能力が無くな
ってから資料を委託提供するという、それ以前に、資料館に資料を持参して自らの手で遺
産資料の相続手続きを完了して置くことの必要性を、図書館作りの中で痛感して参りまし
た。資料を後世に残して行く意志を実際に結実させるには、人任せではなかなか形成され
ては行かないということです。
まず収集についてですが、来館する方は様々ですが、来館目的は均しくハンセン病資料
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が対象です。来館者の中には、当館にない図書資料を既に収集しておられる方もおります
から、利用者に資料を提供すると共に、利用者が持っている当館にない資料をコピーなど
で提供いただくという、相互交換の方法で収集を図っております。
毎年、ハンセン病を主題に卒業論文を書くための資料を求めて学生さんが来館しており
ますが、全面的に協力して、卒論完成の際には、卒論をコピーして提供戴いております。
開館時間も、来館者の都合に合わせて利用できるように開いております。遠来の利用者
には園内宿泊所の利用手続きを取って便宜をはかっております。昼の休み時間でないと利
用困難な職員や遠来の利用者には、前以て利用申込みの連絡があれば、土、日でも開館し
て利用者の希望に応じられるようにしております。
長い間、多磨誌に「日本らい史」を執筆連載された山本俊一先生には、資料調べに宿泊
所を利用されましたが、連載終了後も、容易には手に入らない資料をいろいろ寄贈頂いて
おりますし、今年の新年号から「いのち」の近代史と題して連載されている藤野豊先生に
は、当館にない多種多様の未収文献を所々方々から収集して提供頂いております。
資料情報のネットワークや情報の窓口も狭い上に、収集機能も欠如しておりますので、
その面を補って収集するには、ハンセン病に関心を寄せて来館する利用者に、敢えてお願
いするということで、収集成果を見ておりますが、ハンセン病に関心を持たれて来館され
る方々は、とても真面目に取り組まれているので、こちらも自然に同じ姿勢になって対応
することになります。そんな訳で、来館利用者が当館の一番の理解者、協力者としてハン
セン病図書館作りに参加して頂いています。
関係の出版図書は各園機関誌や他の情報誌などの紹介で購入手続きがとれますが。非売
品であったり、発行がかなり古い物であったりすると、入手の手続きに手間が掛かります
し、努力しても入手できないこともあります。そうした場合、よく来られる来館利用者の
力添えを願ったり、全国の通信販売の古書紹介誌や古書展示即売会などを利用して入手に
努めています。
(関係資料の入手方法として古書店と契約して入れることもできる訳ですが、これには
か な り の 予 算 を 必 要 と す る こ と な の で 採 用 し て お り ま せ ん 。)
(新聞広告・図書新聞・出版ニュース・古書彷徨・各種出版物掲載の新刊紹介など)
ハ ン セ ン 病 図 書 館 に な っ て 収 集 も 本 格 的 に 取 り 組 み 、園 内 の 個 人 、俳 句 会 短 歌 会 を 始 め 、
栗生楽泉園の谺雄二さんには楽泉園療友の出版図書のことごとくを収集して寄贈頂いてお
り ま す し 、全 生 園 名 誉 園 長 の 林 芳 信 先 生 が 亡 く な ら れ て 、医 学 関 係 の 蔵 書 を 医 局 図 書 館 に 、
その他の資料を当ハンセン病図書館に頂きましたが、これが当館の主要資料として、それ
以後の資料収集の基礎となりました。しっかりした受皿が目の前にあれば、その受皿にお
任せしますと提供して頂ける願ってもない献本もある訳ですが、もっと積極的に、托鉢方
式で寄贈のお願いを致してもおります。
最近のことですが、蔵書を所有されている方に、もし蔵書整理をするようなことがあり
ましたら、当館に寄贈して下さいと、随分厚かましいお願いをして、約束を頂きました。
そしてそのかたが亡くなられて、蔵書寄贈の連絡がありましたので、いつでも頂きに行く
こ と の で き る 万 全 の 準 備 を 整 え て 、 次 に 来 る 、 引 き 取 り の 通 知 を 待 ち ま し た 。 49 日 が 過
ぎたら通知があるものと待ちましたが、実際にはどうだったのか不明なのですが、不可抗
力 的 な 手 違 い も 重 な っ て 、( 焚 書 処 分 さ れ て ) 遂 に 惜 し ま れ て な ら な い 貴 重 な 資 料 の 1 冊
も入らずに終わってしまったということもありました。
また、全患協会長を長期間務められた小泉孝之さんも、書籍や物品類を大事にしておら
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れ る の で 、 小 泉 さ ん に 、「 死 後 は 、 そ れ ら の 所 有 物 を ハ ン セ ン 病 図 書 館 に 寄 贈 す る 旨 の 遺
言状を書いておいて下さい」とお願いしたことがあります。小泉さんからは「よし、書い
ておこう」と約束を頂きました。この話は、多磨のハンセン病図書館が手狭になって増設
が見通される時点での話で、まだ今回の資料館の芽生えすらなかった時のことですから、
今は納め先変更の遺書書き替えをされているのではないかと思います。要は大事に持って
いる当人の資料が、やはり大事に保存され、生かされることにありますので、その意味か
ら、そうあって欲しいと思っております。
以前はその園の生活史を語る、その園ならではの主要な生活の用具なども集めておこう
と算段したのですが、関心が寄せられず、一人相撲に終始しましたが、新資料館建設の情
報が聞かれるようになってからは、これから各園で資料収集に努めるものと思われ、この
点では気が楽になりました。資料館建設については全患協ニュースや他園機関誌、そして
園内放送などを通した範囲で承知しておりますが、委員会での、運営方針の基本部分につ
い て の 内 容 な ど 知 り ま せ ん の で 、見 当 違 い の 注 文 希 望 を 申 し 上 げ て い る か も わ か り ま せ ん 。
収集協力の話を続けます。本日出席の、奄美和光園園長の滝沢先生にはハンセン病図書
館と看板替えして以来ずっと関係図書の収集と寄贈の協力を頂いておりますし、同園の佐
々木良夫さんからは、外国のハンセン病関係の難解な文献を自ら翻訳され、冊子に纏めら
れ た 資 料 集 を 順 次 送 っ て 頂 い て お り ま す 。( 21 冊 )
今日出席の、愛生誌の編集を長くされておられる双見さんには、各園療友の出版図書と
機関誌の発行明細も収録された愛生の書誌的事典とお言える利用者に大変必要な手引き書
作りをされておられますが、当館に無い資料の問い合わせがあると収集保存の伝統を守っ
ておられる愛生にあるかも知れませんので伺って見て下さい、と言うことで、何かとお世
話になっております。また、同園の島田等さんからは専門分野の資料、殊にこのごろは中
世時代のハンセン病関連の資料の寄贈と情報を戴いております。また、青松誌の編集をさ
れていた中石さんには、当館所蔵の青松誌のうち欠けているナンバーを探し出してコピー
して頂き、送付に至るまでご面倒をかけて貴族頂くなど、例を上げると次々とある訳で、
今日の当館はそうした協力の集積の結果でもあります。誠に多くの方々から有り難いご支
援を頂いております。この機会に改めて御礼申し上げる次第です。
こうして入手した資料を次に書架配置する訳ですが、新刊図書でしたら寄贈、購入別に
それぞれの手続きを経て分類登録等のカード記入をして書架に収めます。寄贈図書には寄
贈 者 の 芳 志 に 感 謝 し て 見 返 し に 寄 贈 者 名 、寄 贈 受 入 日 、受 入 番 号 の 順 に 記 入 し て お り ま す 。
単行図書だけでなく雑誌や小冊子すべての寄贈書をそうしております。
頂いた資料の中には、破損したり、傷んでいたりするものもありますから、補強、修理
を施して改装製本します。それでも修理のきかない資料もありますので、解体復元の再製
本をします。そのまま復元しても保存寿命が短い資料はコピーしてこれを製本しておりま
す。
昨年、楽泉園に行く機会があって、新館の自治会の中に設けられた資料室を拝見致しま
したが、やはりコピー製本されている模様でしたので、そこまで話がまとまっていて、各
園競って製本に取り組んでいるのでしたら、出来るだけ上質紙でコピーして欲しいと思い
ます。
資料の散逸防止と、長期保存のため、製本の一部を製本業者に委託していますが、機械
作業の工程に不向きな資料もありますから、以前は自分も我流の製本をしておりました。
ただ今は正統技法をマスターしておられる硲先生の奥様に来館頂いて、在庫する各園機関
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紙 の 合 冊 製 本 を 始 め 、復 元 資 料 や 施 設 で 記 録 し た 古 文 書 的 な 資 料 の 和 綴 じ 製 本 、洋 装 製 本 、
そ し て 、 様 々 な ケ ー ス 作 り な ど 、 色 々 な 図 書 館 製 本 を こ の 10 年 来 ず っ と ご 奉 仕 い た だ い
ております。
こうした古い資料の製本工程は、一枚一枚入念に鏝やアイロンを使って皺延ばしをする
ことから始まります。虫食いや欠損部分を切り貼りしたり、裏打ちをして修復して、きち
んと四隅を整え、裁断機がないので、これも一枚一枚カッターで切り整えてゆきます。こ
の下準備の段階から、既に大変な集中力を根気よく続けなければならない、総てが手仕事
ですから、非情に時間が掛かります。ですから、来館の時だけでは、とても仕上げられま
せん。そこで自宅に資料を持ち帰られ自宅の工房で製本されてご持参頂いております。
資料保存に欠くことのできない製本ですから、昨年資料館増設が実現して増員 1 名が適
えられましたので、新同僚の佐藤さんが技術修得に励んで、目下、製本作業に打ち込んで
います。しかし館内外の掃除やもろもろの事務がありますので、製本に専念という訳にも
行きません。図書館を支える縁の下の力持ちを果たしている製本の入手は、資料保存を成
り立たせている担い手ですから、実際に図書館正本をする人材採用は欠かせないことと思
います。
製本完了の図書はカード記入に移されます。簡略記載の文庫次代からハンセン病図書館
になって、定員 2 名の内の掃除担当者が辞めたので、代わって光岡さんの協力を得て日本
十進分類法による分類カード作りをお願いしました。その時分は、細かく分類するほど多
くの種別図書がなく、これからもさほど多く扱うことはないのではないかとの予想を前提
として、在庫図書を整理作成したのが、当ハンセン病図書館専用の分類カードです。ハン
セン病の文献資料を求めて来る利用者にスムースに提供出来る、そうした手続きを有効に
果たすことができれば良いということで、現在の英字記号による分類カードになっている
次第です。それと著者別索引カードと関係記事索引カードを補助として、いずれも手書き
で 作 成 し て お り ま す 。な お 資 料 収 集 の 幅 が 広 が っ て 、そ の 分 だ け 種 別 の 幅 も 増 し て い ま す 。
(総記、医学、歴史、評論、詳伝、伝記、宗教、職員・関係者書籍、文学一般、創作、
随筆、短歌、俳句、川柳、雑誌、児童、特殊研究・手稿、縮刷版・新聞、全患協資料、特
殊 稀 覯 本 、 各 園 機 関 誌 、 関 係 記 事 掲 載 図 書 、 参 考 書 、 写 真 、 カ セ ッ ト テ ー プ 、 BDO、( テ
レ ホ ン カ ー ド ))
各種の小冊子もこれらのカードに準拠して登録していますが、登録の次に公開の書棚に
配置することになります。薄い冊子ですと背文字タイトルの印刷が無いものもありますの
で、タイトルを記入出来るものにはワープロで作成して貼り付けます。そう出来ないもっ
と薄いものは、同系統の冊子を追加収納できる余裕を持たせたケースを作り、このケース
に小冊子の書名タイトルを添付して、更に新しい冊子が入る、その都度ケースに書名タイ
トルを加えて行きます。こうして利用者の目につき易く、引き出し易いようにして置き、
一定の分量になった時点で収録目次を作成して製本する方法を取っております。しかし正
本にしてしまうと、コピー依頼があった場合、機械に掛けるので資料が傷みますから、コ
ピー用のスペヤーとして製本まえにコピーして置くように心懸けております。
例えば、各園の機関誌をハンセン病図書館に直接ご寄贈戴いておりますが、この分は館
内の閲覧に止め、館外貸出用には自治会から回覧読みの後に委託されて来る各園誌を当て
て、この方をコピー用保存に、当館当ての各園誌を製本に当てる、このような方法を採っ
ております。
また各園療友の出版図書も入手出来るものは 2 冊入れて 1 冊は保存用、1 冊は貸出用の
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方法を採っています。中には 1 冊しか入らないものもあって、貸出厳禁の表示ラベル付き
なのですが、どうしても借用させて下さいということもあって、資料の特別貸出しの手続
きが設けられております。しかし、どうしても貸し出すことの出来ない、言わば国宝級の
ハ ン セ ン 病 の 資 料 と も 言 う べ き も の は 、 お 断 り し て お り ま す 。( プ ラ イ バ シ ー に 関 わ る 文
書・物故者使命記載掛け軸)
そ し て 、特 別 貸 出 の 保 証 人 が 責 任 を 負 う 訳 で す が 、特 別 貸 出 し 以 外 の 図 書 で も 貸 出 者 が 、
貸出期限が過ぎても返還のないものに対して、貸し出した当人が返還請求を直接行うこと
にしております。園内なら出向いて請求して返納してもらう訳です。外部の場合は、葉書
で貸出図書名と貸出期限の過ぎていることを書いて返還請求の通知を出します。それでも
戻らないときは、電話で請求する訳ですが、今までこの通知状で外部の利用者から戻らな
か っ た ケ ー ス は あ り ま せ ん 。( 沖 縄 出 身 で 一 時 治 療 の 入 室 者 が 借 用 し た ま ま 社 会 復 帰 し
た 。)
そうした手続きが取れるゆに貸出用紙には氏名、住所、電話番号も図書名と貸出期間と
ともに記入して頂き、借手にも図書名と期間を記した借用書を、返還請求の際の照合控え
として持ち帰って貰っております。次に台帳に貸出事項を記載して置く訳ですが、貸出者
名も書き込んでおきます。こうした事務は資料確保上欠かせない訳です。
資料保存の上で当面する課題として、印刷文字が消え、紙がボロボロ寸前の状態にある
ことです。特に戦後間もなく復刊を見た当園の山桜や自由にものが書ける時代になって、
各園でも文化活動が盛んになり、機関誌に発表するだけに止まらず、同人発表誌などを孔
版 印 刷 で 出 版 さ れ て お り ま す が 、そ う し た 多 く の 印 刷 物 が 消 滅 の 危 機 に さ ら さ れ て い ま す 。
こ の こ と は 各 園 と も 例 外 で は な い と 思 い ま す 。既 に 再 生 製 本 さ れ て い る 所 も あ る 訳 で す が 、
真剣に資料の保存対策に取り組んで行かなければならない共通の緊急の課題だとおもいま
す。
当館では現在、痛みのひどい資料をコピーして再生を図っています。コピー用紙にも問
題はありますが、フィルム収録の設備がないので当面はコピー化の対応策しかない訳で、
これに最も力を入れています。しかし図書館にはコピー機がないので、自治会にあるコピ
ー機が使われていないときにコピーして貰っております。利用者のコピー要望にも制約内
のコピー化ですから思うようにない実状です。資料消滅の事態を打開するには保存に対す
る関心を強くもって対処する以外、よい手だてはないので、切実にコピー設備が欲しいと
思っています。
当ハンセン病図書館は資料展示室と図書室が増設され、空調と冷暖房も設けられ、従事
者と利用者にとっては、前よりずっと良くなりました。
しかし資料保存にとって必ずしもよい面ばかりではないので、保存上、都合の悪いもの
は出来るだけ近づけないように工夫しています。
当館は樹木に囲まれ大気汚染の公害から比較的緩和されている場所に立っていますが、
目に見えない埃の付着をより少なく防ぐためにガラス戸書架に資料を収めております。な
お埃を立てないように掃除する設備、工夫が必要です。
資料保存は結局人出でありますから、熱意をもって当たる従事者を獲られるかというこ
とが大事と思います。
これからの資料館は、言ってみれば日本のハンセン病歴史資料館となる訳ですから、資
料館の周辺も公園風に造園し、哲学の道ではありませんが、藤や楓や四季折々の樹木に覆
われた小道をつくり、道沿いには碑なども移され、どの入口から入っても、この道をたど
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って行くと人権問題について知ったり考えたりする資料の収められた殿堂にたどり着く、
建設図案を見ますと、2 階は多目的に使うことのできる広間になっているようですので、
障害者の作品展示会場に開放したりして、人権を守る砦の役目を担った生き生きとした呼
吸し成長し続ける資料館であって欲しいと願っておりますので、籐楓協会の終の栖として
単なる資料展示の静寂な冬眠館にすることのない伸展を願って話を終わります。
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1973 年 8 月 1 日
〈 ハ 氏 病 文 庫 〉 収 集 図 書 お よ び 未 収 図 書 目 録 S48
こ の 目 録 は 、 多 磨 全 生 園 患 者 自 治 会 ハ 氏 病 文 庫 開 設 の 昭 和 45 年 6 月 よ り 昭 和 47 年 9 月
までの間に寄贈・購入等によって文庫に納本済みの単行本(ハ氏病療養所入所者出版図書
単行本の収集、未収目録)及び、おその他ハ氏病関係記載図書収集目録の二つに区分し、
これまでの収集結果報告を意図して作成しました。
図 書 収 集 の 手 掛 か り と な る 必 要 な 文 献 目 録 と し て 、 S32 年 4 月 1 日 、 長 島 愛 生 園 発 行 の
「 ら い 文 献 目 録 ― ― 社 会 編 」と 愛 生 園 機 関 誌「 愛 生 」S45 年 10 月 号( 開 園 40 周 年 記 念 号 )
掲載の「全国ハ氏病療養所入所者出版図書単行本一覧」を収集の手引きとして活用すると
共に、この目録作成に当っても参考書として用いました。
図書利用者の検索の便と、今後の収集にも役立つように各園別に(私立療養所を除き)
そ れ ぞ れ の 施 設 設 立 年 代 順 に 紹 介 し 、 項 目 の 冒 頭 に 未 収 欄 を 設 け 、 ○ 印 ( 一 部 ○印 ) を 以
つて未収図書であることを表示し、図書紹介順は発行年代早期順にだいたい組みました。
項 目 の 配 列 は 、未 収 記 号 、書 名 、著 訳 編 者 名 、発 行 所 名 、発 行 年 月 日 、印 刷 判 型 、頁 数 、
定価、寄贈者名、購入とその年月日、部数、備考欄の順に組みました。
以上の項目中、発行年号を日本暦に統一しましたが、年号のみ印されてあって月日のな
いもの、全く年号もないものは、その図書に月日が、また年号も記載ないものでは無印に
しました。また、定価欄に定価、非売品の表示のないものも、同じく原本通り無印としま
した。
判型は、標準規格にしたがい統一し、規格外の型は変をもって表わしました。
寄贈者名・購入とその年月日の欄に、月日のみ記入、または無記のものは、その図書が
購入その他の方法によって入手をみたものなので、その性格を示すため無記、または入手
の年月日のみ記しました。
購入金額、索引、初版重版の区別、改訂、増補、新編等の諸事項は誌面に余裕がないの
で省略しました。
各園機関誌を始め、同人誌、特別刊行出版物、市販雑誌等ハ氏病関係資料収録の印刷物
については、別に紹介目録を作成する予定ですので、この目録には掲載しませんでした。
こ の 目 録 中 に 不 揃 い な 漢 字 体 が 随 所 に 見 ら れ ま す が 、こ れ は 当 用 漢 字 外 の 漢 字 の た め か 、
活字販売店にもなく、やむなく特別あつらいのゴム印文字を以って補ったからで、タイプ
印刷者側のミスによるものではありません。その他、見苦しい訂正個所や不統一な配列な
ど不備な点が多く目だちますが、これらはすべて編集者の手落ちによるものです。改めて
( S47 年 9 月 以 降 の 収 集 図 書 を 加 え ) 文 庫 の 目 録 作 成 を 期 し て お り ま す 。
この目録に載っていないハ氏病関係の図書を知っておられたら文庫までご連絡くださる
ようご協力の程お願い申し上げます。また、そのほかのご意見お寄せ下さるようお待ちし
ております。
S48/8/1
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2000 年 10 月 26 日
ハンセン病図書館の業務内容報告
ハンセン病図書館は、利用者への図書貸出しを始め、資料の問い合わせ、調査依頼、学
生等の論文作成者による相談、読書案内、コピーサービスなどの業務のほか、ハンセン病
に関する文献資料を後世にわたって生かし続け、残していくための基盤となる仕事を軸に
行われています。
その仕事は、
1.資料の収集
2.資料の整理
3.資料の保存
に大別されます。
この 3 つの項目は、いずれも切り離せない仕事であり、同時進行して取り組まれていま
す。
現在、図書館の専従従事者は 3 名であり、業務を分担して仕事にあたっています。資料
収集と製本前段準備の担当者、特別な技能を要する製本には一冊を仕上げるまでの全行程
を一人の従事者が担当しています。また 1 名は蔵書の点検、自治会資料の収集・整理、各
園機関誌の整理を担当しています。図書館の清掃は、必ず週 1 回従事者全員で行っていま
す。
年月の経過に伴う資料の劣化に対応するため、復元・製本作業は出勤日には必ず繰り返
して行われており、製本に至るまでの一連の工程作業として、資料の劣化状況に応じた補
修、改修のほか、まるまる一冊の図書を解体してコピーし、紙面の汚れを消して頁順に張
り合わせ、組み合わせてから更にコピーして仕上げの製本に回すものもあり、かなりの手
間と手先の器用さが求められるので、この復元作業はボランティアの協力を得て行われて
います。
ボランティアは、この製本前段の作業のほかに、資料の探索、古書の入手やハンセン病
関係の記載された印刷物などの収集にもあたってもらています。また新聞記事等の切り抜
き、拡大コピー、分類別ファイル整理もボランティアの協力でまとめています。
ボランティアとの交流作業のほかに、地域の住民と交流して週 1 回の製本教室を催し、
希望者に製本実習を行っています。ボランティアは、土・日曜日が来館日ですが、ボラン
ティアに時間の余裕がある限り、随時来館し、協力を得ています。
復 元 さ れ た 資 料 は 必 ず 2 部 以 上 作 成 し 、1 部 は ハ ン セ ン 病 資 料 館 資 料 室 に 納 め て い ま す 。
文献資料のほか、ビデオテープ、録音テープなども収集されており、ハンセン病に関して
は、あらゆる資料を網羅しハンセン病の歴史を確実に後世に伝えるため、日々の活動を行
っています。
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〔筆者、文書作成日時、目的などいっさい不明〕
〔ハンセン病図書館の業務内容と現状について〕
1.ハンセン病資料の収集について
ハンセン病図書館は、ハンセン病独自に関係する資料・文献を収集保存し、利用者の要
望に総合的に受け入れ対応している。実務的に図書館職員の人数に応じて役割分担を決め
られるけれど、担当者ご一人だと当事者の裁量ご一任方式となる。従ってあれもこれも同
時進行させたために中途半端な状況を作る結果となった。基本的に図書の保存管理システ
ム・利用方式が確立されておらず、まして将来展望が不透明な霧の中にあり、真っ先に取
り組む館長はおらず将来いかように返信して行くか分からない中、ハンセン病文献資料を
後世に活き活きと伝達して行くためには、限りない努力を継続させて行く以外の方法しか
ない。にもかかわらず途中リタイヤし申し開きできず御免なさい。ともあれ資料残しの意
志変化はないので、今後引き続き健康心身でいる限り、ハンセン病図書館にて作業に勤し
む所存です。以下思いつくままに資料館で取り組んで来た事柄ややり残しの思いを含め記
します。
初入手のハンセン病関係の文献・図書は、眼を通してから引用など参照・参考文献から
未収の資料の有無を調べ、めざす未収資料の所在を確認、入手の仕方を問い合わせて発注
の手続きをする。
古本市場の見聞
新刊紹介、古書紹介等に目を通して未収の資料の収拾に当たる。
ハンセン病資料利用者からの情報提供による入手方法。
文献資料の入手確保の方法はさまざま、従って対応手続きもさまざまです。
人を介しての資料入手、図書館等に出向いてのコピーによる資料の入手。資料収集の手
立ての確立・入手不能資料の所有者の住所の認知控え。ハンセン病図書館は利用されるこ
とによって価値と発展を生む。従って利用し易い条件・環境を整えて行く必要がある。と
にかく当館にない文献資料が他館その他の箇所に有ると知った時点から資料の収集は開始
される。
同一図書の 2 部導入に努める。購入不可の図書もあり、価値判断・利用度判断・超高価
等で 1 部どまりの導入にとどめている文献類もあるが、利用者への 1 部貸し出しに当てた
い。
新聞・雑誌等の関係記事の確保
探 索 図 書 の 国 立 国 会 図 書 館 、専 門 図 書 館 、古 文 書 館 、大 学 図 書 館 や 個 人 へ の 問 い 合 わ せ 。
利用者による資料提供の要請
2.ハンセン病資料の入手に伴う精算と登録
1、資料の入手方式の違いに従っての精算
購入図書の精算は請求用紙に図書名・著者名・発行所と金額を書き入れ、購入者明記の
うえ捺印し、請求年月日を記入し籐楓協会に提出して処理する。
2 、寄 贈 図 書 の 扱 い : は が き ・ 手 紙 で 礼 状 を 出 す 。寄 贈 本 に 寄 贈 者 名 ・ 寄 贈 年 月 日 記 入 。
3、パソコンによる登録・登録カードの作成
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新入手図書の蔵書館名の添付と図書登録記号の記入。書架配本。
3.破損図書の補修。紙質劣化に因る図書の復元作業
目下、甲田の裾・山桜等の造り直し製本を手掛けている。
各園寄贈機関誌の年刊発行分の合冊製本
その外、数本の単行図書と随時提供される卒業論文・裁判関係の複写製本を成し、破損
図書の修繕を必要に伴いおこなっている。
1、製本完了までの工程:図書解体と整え補修正――コピー化と修正――頁順張り合わ
せ――最終点検の修正・コピー・二つ折りにたたみ製本に移る。製本は現在ナカバヤシと
ハンセン病図書館の協力で製本している。
2、新聞雑誌等の整理保存のためのコピー製本。又は利用者向けのファイル。
4.利用者への対応・貸し出し方式
1、利用者による利用請求に基づく利用者登録カード作成の説明とその手続きと記載済
み登録者証明専用紙の保管。
2、利用者の要求に応じて借用資格要件となる身分証明の学生証・運転免許証のコピー
をさせて貰い、そのコピーを記載済みの登録証明用紙に貼付する。
3、利用者の要望・意向に沿ったお相手をする。質問や相談に応じる。
4、特別貸し出しにも応じる。その手続きをしてもらう。
5 、 電 話 、 FAX、 文 書 に よ る 問 い 合 わ せ の 対 応 。
6、返却
5.ボランティアの受け入れと実質的効果の評価
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ハ ン セ ン 病 図 書 館 利 用 者 名 簿 よ り (延べ人数)
1977 年 か ら 1988 年
教 員 ・ 研 究 者 88 名 、学 生 ・ 生 徒 1299 名 、付 属 看 護 学 校 生 57 名 、出 版 ・ メ デ ィ ア 関 係 39
名 、 病 院 ・ 諸 施 設 43 名 、 全 生 園 職 員 55 名 、 ハ ン セ ン 病 回 復 者 39 名 、 宗 教 関 係 77 名 、 ボ
ラ ン テ ィ ア 43 名 、 諸 種 職 業 32 名 、 外 国 人 22 名 、 不 明 76 名
2001 年 か ら 2002 年
教 員 ・ 研 究 者 70 名 、学 生 ・ 生 徒 162 名 、付 属 看 護 学 生 2 名 、出 版 ・ メ デ ィ ア 関 係 98 名 、
病 院 ・ 諸 施 設 68 名 、 全 生 園 職 員 26 名 、 ハ ン セ ン 病 回 復 者 68 名 、 宗 教 関 係 11 名 、 ボ ラ ン
テ ィ ア 271 名 、 諸 種 職 業 20 名 、 外 国 人 4 名 、 不 明 77 名
合計割合
教 員 ・ 研 究 者 6 % 、学 生 ・ 生 徒 52 % 、付 属 看 護 学 校 生 2 % 、出 版 ・ メ デ ィ ア 関 係 5 % 、
病院・諸施設 4 %、全生園職員 3 %、ハンセン病回復者 4 %、宗教関係 3 %、ボランティ
ア 11 % 、 諸 種 職 業 2 % 、 外 国 人 1 % 、 不 明 5 %
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ハ氏病文庫規定
第1条
ハ 氏 病 文 庫 は 、 国 立 療 養 所 多 磨 全 生 園 創 立 60 周 年 記 念 事 業 と し て 設 置 す る 。
第 2条
ハ氏病文庫は、ハ氏病関係の文献を広く集め、極限に生きた人間の記録を後世に
遺すことを目的とする。
第3条
ハ氏病文庫は、中央委員会が管理し総務が運営の責任にあたる。
第4条
総務委員長は、文庫運営のためぐちの委員をおく。
1.責任者
文化担当
2.図書館従業員
3.委員
1名
若干名
第5条
委 員 は 定 期 的 に 委 員 会 を ひ ら き 、ハ 氏 病 文 庫 の 運 営 と 文 献 収 集 に つ い て 協 議 す る 。
第6条
ハ氏病文庫の目録は自治会総務部と図書館におく。
第 7条
ハ氏病文庫は資料として保管するもので貸出しはしないが、資料を必要とする場
合は文庫内で利用していただく。
第 8 条
付記
ハ 氏 病 文 庫 は 創 立 60 周 年 記 念 事 業 と し て 東 京 都 の 助 成 金 で 設 置 し た も の
である。
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