明治初期におけるアメリカ人

歴史地理学
44-3 (
2
0
9
) 22~38 2
0
0
2
.6
明治初期におけるアメリカ人
女性宣教師の日本報告
粛藤元子
1.はじめに
た。当時アメリカやカナダに住む女性の大半
I
I
. メソジスト監督派教会女性海外伝道協会
は,自分たちの大陸以外の世界について,こ
と日本伝道
れらの女性宣教師の報告から多くを学んでい
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nWoman'
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d
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l
. 機関誌 H切 t
9世
たと言われている 2)。日本に関しては, 1
N. H
eathen Woman沿 F
r
i
e
n
dに見る日本
紀末には,外交官,お雇い外国人,商人など
関係記事
によって書かれた見聞記も複数出版され,日
(
1
) 日本関係記事の特徴
本の情報は西欧世界にかなり伝達されていた
(
2
) 書き手としての女性宣教師の特徴
が,宣教師の文書は,第一次世界大戦までは
v
.一女性宣教師の見た明治初期の日本
量的に群を抜いていたへ
(1)メアリー・ホルブノレックとその報告書簡
(
2
) ホルブ、ルックの日本報告とその特徴
V
I
. おわりに
地理学では,日本に関する地理学的知識
(
g
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o
g
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p
h
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c
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lk
n
o
w
l
e
d
g
e
)の西欧世界への
普及という観点から,欧米人によって書かれ
た明治期の日本見聞記に関心を寄せてきた。
1.はじめに
だが,女性による見聞記は,英国人女性旅行
n
b
e
a
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e
nT
r
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c
k
si
n
家イザベラ・バードの U
1
9世紀アメリカのプロテスタント教会は海
h
ρanを除いては,ほとんど注目されていな
外伝道に多大な情熱を注ぎ,各教派が競い合
い4)。本研究は,明治期の日本に関する情報
うように宣教師を異教地に送り出した。そし
を広くアメリカに伝えた女性宣教師の報告を
て世紀後半は宣教師の多くが女性によって占
考察し,その内容を明らかにするとともに,
められた。日本へも,開固とともに様々なプ
地理学的知識を包含する史料としての評価を
ロテスタント教派が宣教師を派遣し,女性宣
提示することを目的とする。研究の対象とし
教師は,女子教育機関の設立を中心に日本人
て,プロテスタント教会の各教派内に組織さ
女性への伝道活動を積極的に展開した 1)。
れた女性海外伝道協会の中で,最大の会員数
女性宣教師は,伝道地での活動状況のみな
らず,その土地の地理や歴史,文化などを熱
心に報告し,海外伝道への理解を促す努力を
重ねた。女性宣教師の報告は,各教派の女性
海外伝道協会が発行する機関誌に掲載され
を擁したメソジスト監督派教会女性海外伝道
協会 (
TheWoman'sF
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Church) を取り上げ,その機関誌である
Hωt
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n Woman's Friend(
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'異教女性の
キーワード:アメリカ人女性宣教師,日本報告,明治初期,ヴィクトリア期の女性
2
2-
友d
l
)に掲載された日本に関する報告を考察す
けて行動を起こしたものである o 女性は牧師
る
。
や役員になることが認められていなかった当
本論の構成は,第 H章においてメソジスト監
時のキリスト教界にあって,女性だけの組織
督派教会女性海外伝道協会成立の背景と日本
を立ち上げることは教会内部からの反発を招
e
a
t
h
e
n
での活動,第 E章において機関誌 H
いたが,財政的な支援を求めないことなどを
Woman'
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n
dについての解説を行った
1月に 2名の女性宣
条件に承認された。同年 1
後,第 N章において,日本での活動が開始さ
教師をインドに派遣したのを皮切りに,中
れた 1
8
7
4(明治7)年より Hω t
h
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n 防'
o
m
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n云
国
, 日本,南米,メキシコ,アフリカ,ブル
F
r
i
e
n
dに掲載された日本関係記事について
ガリア,朝鮮,イタリアへと女性宣教師を送
紹介と分析を行う。その際,同時代に活動し
り出し,その数は 1
8
9
5年までの約 2
5年間で
ていた女性旅行家が残した記録との比較をも
2
6
7名に及んだ。この間,アメリカ国内の会
試みる。さらに第 V章において,明治初期に
5
3,
5
8
4名を擁する最大の女性海外伝道
員数 1
8
8
0
来日した一女性宣教師の日本到着から 1
協会に成長した 7)。
(明治 1
3
)年までの一連の報告書簡に焦点を当
メソジスト監督派教会女性海外伝道協会が
て,その内容をより詳しく分析する。考察の
他教派の女性海外伝道協会を凌ぐ勢いをもっ
8
8
0年までとしたのは,以下の理
対象期間を 1
て成長した要因には,その組織の轍密さに負
由に基づいている。 1
8
8
0年イザベラ・バード
うところが大きい。特に地理的な組織形成を
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nJ
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ρanが出版された
のU
大規模かっ詳細に行った点に特徴がある。ア
のを契機に,欧米人旅行家による日本見聞記
メリカのプロテスタント教会は,カトリック
8
8
0年以前は日本に関
の出版が盛んになる。 1
や英国国教会とは異なり,教区といったよう
する英文の文献は少なく
な地理的線引きによる領域性に対しては概し
5
)
女性宣教師の報
告は自らの直接経験あるいは宣教師仲間から
て規定が暖昧である。だが,メソジスト監督
の話をもとに書かれたものがほとんどであ
派教会は,カトリックの位階制をモデ、ノレ修正
るo したがって,明治初期の日本の様子を伝
した監督制を採用して,地理的にも系統立っ
える数少ない報告であると同時に,文献から
た機構を形成した。女性海外伝道協会もこの
の知識ではない女性宣教師本人の印象を読み
機構を生かす形で,全米に支部を展開し,そ
取るにふさわしい時期の報告と判断した。
a
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o
c
i
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t
y
)8) を配し
の下に補助協会 (
I
T
. メソジスト監督派教会女性海外伝道協会
と日本伝道
て,単独教派で初めて全国規模の女性組織を
作り上げた。また一方,活動形態は,上意下
達のスタイルを取らずに,各支部に様々なプ
メソジスト監督派教会 6)女性海外伝道協会
ロジェクトを一任させ,会員としての自覚や
8
6
9年 3月 8名の女性によってボストン
は
, 1
参加意識を促進させたことも組織の発展につ
で結成された。その動機は,同教会からイン
ながった 9)。
ドに派遣されていた男性宣教師の妻の報告に
メソジスト監督派教会女性海外伝道協会の
より,インドでは女性が社会的に隔絶された
8
7
4
(明治7)年に始まる。メソジ
日本伝道は 1
状況にあるものの,男性宣教師はそれに対し
8
7
3年に男性
スト監督派教会は,既に前年の 1
て無力であるのを知ったことによる。そし
宣教師を日本に派遣しており,横浜,東京,
て,インドの女性のために働けるのは,彼女
函館,長崎で伝道活動が始められていた。同
たちとの接触が許される女性宣教師であり,
教会は伝道地においても,活動の展開を左右
その派遣がぜひとも必要であるとの要請を受
する地理的要素を重視した。上述の 4都市を
- 23-
宣教師の駐在拠点地 (
s
t
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i
o
n
) として選定す
0セントに抑える。」凶と記されて
に,年間 3
るに当たっては,十分な調査を行った。その
し
、
る
。
協会発足 3カ月後の 1
8
6
9年 6月,H
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n
選定基準としたものは,外国人地域社会なら
びにアメリカ合衆国領事による保護の有無,
Womans
'F
r
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n
dと名付けられた機関誌第
蒸気船による交通手段の可否,日本の将来に
一号が発刊された。同誌は以降月刊誌として
及ぼす影響力,他のプロテスタント教会の活
毎月欠かさず出され,
動状況などで、あった問。
防 切n
an云 M
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n
dに変更 15) した
女性宣教師は,横浜,東京,函館,長崎に
1
8
9
6年 に 誌 名 を
9
4
0年 8月まで実に 70年以上にわたって
後
, 1
加えて,福岡,名古屋,弘前,仙台,米沢,
発行され続けた。創刊号の頁数は僅か 8頁で
鹿児島,熊本,大館に女学校を設立し,女子
あったが,翌年には 1
2頁,さらに 1
6頁(18
7
2
教育に携わることを中心として,日本人女性
年
)
, 24頁 (
1
8
7
5年
)
, 28頁(18
86年
)
, 30頁
へのキリスト教伝道に力を注いだ 11に ま た
(
1
8
9
3年)と増頁されていった。また初年度の
1
8
9
7
(明治3
0
)年には,横浜に常磐社という出
000であったが,翌年度には
定期購読数は 4,
版社を起こし,日本の女性と子供のための邦
文書籍や雑誌を発行して,文書による伝道活
3倍 の 1
2,
000, 1
8
7
2年 に は 2
5,
0
0
0を 数 え
た16)。
p
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de
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s
m
) も行った 12)。明治
動 (
趣意書にも見られるように,子供も機関誌
末までにメソジスト監督派教会女性海外伝道
の読者として取り込もうとした背景には,将
協会より日本に派遣された女性宣教師の数は
来の宣教師を育成するという目的のほかに,
8
3名にのぼった 13)。
協会の資金源として子供からの献金にも期待
m
.機関誌 Heathen Woman's丹iend
する意図があったからである。協会の設立に
当たり,教会には財政的援助を乞わないこと
協会設立後,役員が直ちに着手したしたの
を確約したものの,女性のみの組織であるが
が,機関誌の発行で、あった。アメリカのホー
故に,大口の献金は望めず,少額の献金を多
ムベースと外国のフィールドとの聞に自由な
数集めなければならなかった。機関誌には,
コミュニケーションが聞かれていることが,
子供のための特別な頁が設けられ,女性宣教
協会の永続性と成功の鍵を握るとの確信によ
師から送られてきた異教地の童話や子供の話
る行動である。その趣意書には「この雑誌は
8
9
0年には子供の頁を独
などが掲載された。 1
異教女性のために働く仲間たちのために特別
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dとい
立させて ,H
に捧げられるものであり,異教地での実りあ
う月刊誌を創刊,年間購読料 1
5セントで販売
る働きを例証する興味深い事実や出来事が満
し
5年後には 1
7,
0
0
0の購読者を得た m。
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n 防Toman云 F
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n
dは
機関誌 H
載されるであろう。異教の人々の生活習慣,
3
キリスト教伝道の前に立ちはだかる様々な障
つの大きな柱によって構成されている。第一
害,その中での宣教師たちの活動の様子など
は女性宣教師からの報告を中心とした伝道地
が伝えられるであろう。女性による女性のた
に関する記事,第二は各支部の報告などアメ
めの海タト伝道という運動に関心を抱くすべて
リカ国内の活動に関する記事,第三は献金状
の人が興味をもって読める雑誌を目指すのみ
況や会計収支などの報告である
ならず,子供たちの海タト伝道に対する共感を
一の内容が占める割合は圧倒的である。イン
呼び起こし,宣教師の活動についてのより正
ド,中国, 日本などに派遣された女性宣教師
確な知識を提供することをも志す。したがっ
が設立した学校,病院,孤児院,異教地の風
て,雑誌の定価は,だれもが購入できるよう
景や女性の姿などが銅版画のイラスト(後に
2
4-
o
この中で第
写真)入りで巻頭に紹介されているのを初め
た。協会設立に難色を示した教会も「女性海
として,女性宣教師が記した異教地の地理,
外伝道協会のメンバーになることは高等教育
歴史,文化,生活習慣などについての読み物
を受けるに等しい」と,このシステムを後に
が続く。さらには,女性宣教師の近況報告,
称賛した 18) 20世紀初頭まで、にいずれかの教
伝道地に関連した新聞や雑誌記事の抜粋,異
派の女性海外伝道協会会員になったアメリカ
教地に関してより詳しく知ることができる文
6
0万人とも 200万人とも言わ
人女性の数は, 1
献の紹介などが掲載されている。
れている 19) が,地理学的知識の女性への普
また i
UniformReadingf
o
rt
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及という観点から見て, 1
5
万人以上の会員を
と題して,毎月異なったテーマが掲げられ,
擁したメソジスト監督派の機関誌の影響力は
そのテキストとなる記事が提示されて,それ
特に大きかったと推測できる。
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y
) 単位
をもとに補助協会 (
日本について言えば,メソジスト監督派教
での読書会が催されている o テーマは,イン
会女性海外伝道協会による女性宣教師の派遣
ド,中国, 日本といった伝道国についてや女
が開始された時期は,オールコックの『大君
性海外伝道運動の歴史,協会運営資金の調達
1
8
6
3年)が既に出版されていたので,
の都Jl (
方法など,多岐にわたっている。伝道地の学
全くの未知なる国で、はなかったはずである o
習は毎年繰り返し実施され,テーマも年を追
しかし,お雇い外国人や欧米人旅行者などに
うごとに詳細になっている。例えば初期には
よる日本見聞記が数多く書かれるようになる
国名が大きなテーマとして示されていたが,
のは,もう少し後のことであり,女性宣教師
次第に都市単位となったり,芸術,教育と
の報告は,女性の生活者による明治初期の日
いったより具体的なテーマへと進展してい
本体験記という希少かつユニークな特色を帯
る。また, 1
8
8
5年には iUniformR
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d
i
n
g
J
びてスタートしたと言える。次章以降は,ど
が i
UniformS
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u
d
Y
J と変わった。それぞれ
のような日本に関する情報がアメリカにもた
のテーマに沿ったいくつかの学習ポイントが
らされ,機関誌の読者がそこから何を学んだ
示され,読ませることから学ばせることへと
かを見て行くことにする。
姿勢の転換が図られている。
N. H
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n Woman's F
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i
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n
dに見る日本
以上示したように,機関誌を媒介として,
関係記事
女性宣教師による伝道地の情報がアメリカに
もたらされ,アメリカの女性たちはそこから
(1)日本関係記事の特徴
海外についての知識を得て,女性海外伝道運
1
8
7
4年日本への女性宣教師派遣開始以来,
動への参加意識を高めるという一つの流れが
e
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e
n
dには,ほ
機関誌 H
形成されていたことがわかる。 1
9
世紀北米に
ぼ毎号日本に関する記事が掲載されている。
住む女性の大半は,自分たちの大陸以外の世
設立した女学校の運営状況,その土地の様子
界について,その多くを女性宣教師の報告か
や風俗,習慣,さらには日本の地理,歴史,
ら学んでいたと冒頭に記したが,それは女性
, 1
8
7
4
文化などが紹介されている。表 1は
海外伝道運動の中にこのような学習のシステ
(明治 7)年から 1
8
9
5(明治2
8
)年に掲載された
ムが組み込まれていたことによるものであ
主要な日本紹介記事を示したものである。こ
る。グ、ループ学習を核とするこの統一学習シ
れらは,主に女性宣教師の在任地の様子や日
ステムは,地理的に徴密な組織を作り上げて
本の地理,歴史,文化などの紹介を目的に書
いたメソジスト監督派教会女性海外伝道協会
かれたものであり,生徒数や校舎の様子など
が編み出したもので,他教派にも影響を与え
女学校の運営報告を主目的としたものは除外
- 25-
H
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nWoman'
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n
dに掲載された日本関係記事
表
掲載年
巻号数
頁数
1
8
7
4
(明治7) 6
2
7
5
(明治 8
) 7
3
7
4
7
7
6(明治 9
) 8
7
7
(明治 1
0
) 8
8
7
8
(明治 1
1
) 9
8
1
0
5
1
0
6
1
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7
9
(明治 1
2
)1
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(明治 1
3
)1
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2
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(明治 1
4
)1
2
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3
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1
3
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8
2
(明治 1
5
)1
3
7
1
3
7
8
3
(明治 1
6
)1
4
1
2
1
5
4
8
4
(明治 1
7
)1
5
8
1
5
1
2
1
6
1
1
6
3
1
6
3
1
6
5
タイトル/トピック
6
9
3
5 函館の日曜日
5
7
8 弘前便り
7
6
7 津軽より
1
0
3 日光訪問
1
7
8 日本の女性について
1
8
1
2 日本の葬式
1
1
5 日本の教育
1
2
8
9 日本の着物
1
4
2 日本人形
1
6
5
6 日本の休日
1
7
6
7 日本の第一印象
1
9
3
4 日本の迷信
2
9
3
0 日本便り I
3
2
3 日本の下駄
5
0
2 日本便り E
1
0
5
6 日本の花々
2
2
2
3 函館について
2
4
l2 日本の女性
7
0 日本の子供
9
8
9 長崎人々と宗教
1
0
2
3 日光での休暇
1
2
5
7 長崎:人々と宗教 E
2
0
5
1
0 日本 I.I
2
2
9
3
2 日本 E
6
6
7 東京・横浜・函館・長崎
8
6
7 長崎について
1
0
5
6 函館とアイヌ集落 I
1
2
7
9 函館とアイヌ集落 E
1
3
4 M
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kとの蝦夷の旅
1
5
2
3 函館とアイヌ集落 E
1
5
3
4 仙台訪問
2
7
9
8
1 日本
8
1
2 大阪からの帰路
1
7
8 日本酒
2
8
7 日本の布団
1
3 アイヌの少女
5
9 鹿鳴館での慈善バザー
6
9 子供の日の横浜
9
7 函館の少女
ー
L
2
6
著
者
Haηis,F
. (宣教師の妻)
I
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. (宣教師の妻)
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. (宣教師の妻)
Womans
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. (宣教師の妻)
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. (女性宣教師)
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. (女性宣教師)
H
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. (協会ボノレチモア支部長)
H
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. (女性宣教師)
無記名
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. (女性宣教師)
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. (宣教師の妻)
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. (女性宣教師)
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. (女性宣教師)
掲載年
巻号数
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1
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6
(明治 1
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7
7
1
7
9
1
8
3
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7
(明治2
0
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8
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1
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(明治 2
1
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1
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2
1
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(明治2
2
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0
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0
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0
(明治2
3
)2
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2
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2
2
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1
(明治2
4
)2
2
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2
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2
2
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0
2
2
1
0
9
2
(明治2
5
)2
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2
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9
2
3
1
1
9
3
(明治2
6
)2
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(明治2
7
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(明治2
8
)2
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頁数
1
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2
0
3
4
2
6
1
3
6
6
7
7
7
9
1
7
7
1
8
8
タイトル/トピック
著
日本:社会習慣と宗教
H
a
r
r
i
s,F
. (宣教師の妻)
B
e
n
t
o
n,H
. (協会本部役員)
日本人女性の洋装
無記名
弘前・藤崎訪問
G
r
e
e
n, C
. (宣教師の妻)
仏教寺院
アイヌ
無記名
名古屋への旅
福岡への旅
H
o
l
b
r
o
o
k,M. (女性宣教師)
S
m
i
t
h,L
. (女性宣教師)
H本の習慣
長崎の女学校生徒
信州の寒さ
浅草寺
Elmer
,E
. (宣教師の妻)
S
p
e
n
c
e
r
,S
. (宣教師の妻)
Elmer,E
. (宣教師の妻)
VanP
e
t
t
e
n,C
. (女性宣教師)
日本の学校生活 I
おふさ(横浜の女学校生徒)
日本の学校生活 E
おふさ(横浜の女学校生徒)
日本の偶像崇拝 I
神道式埋葬
按摩
米沢について
Mc
I
n
t
u
r
f
,E
. (宣教師の妻)
Mc
I
n
t
u
r
f
,E
. (宣教師の妻)
H
o
l
b
r
o
o
k
,M. (女性宣教師)
H
o
l
b
r
o
o
k
,M. (女性宣教師)
G
r
i
f
f
i
t
h
s,M. (女性宣教師)
稲作と米
函館の女学校生徒
京都訪問
日本の偶像崇拝 E
浅間山登山
新しい宮殿
横浜の地震
Vance,M. (女性宣教師)
F
r
e
n
c
h,A
. (女性宣教師)
付録
東京・横浜・名古屋
無記名
付録
函館・弘前
無記名
C
h
a
p
p
e
l
l,M. (宣教師の妻・元女性宣教師)
1
0
2
3 有馬より
付録
九州(長崎・福岡・鹿児島) 無記名
1
5
5
6
1
5
6
7
2
2
7
9
2
2
9
1
5
7
8
2
0
1
2
2
6
1
2
孟蘭盆
付録
者
有馬より
日本における四時のお茶
S
p
e
n
c
e
r
,M. (宣教師の妻)
C
h
a
p
p
e
l
l,M. (宣教師の妻・元女性宣教師)
C
h
a
p
p
e
l
l,M. (宣教師の妻・元女性宣教師)
日本の議会
たかたたや(東京の女学校生徒)
日本の地震
日本の皇女
W
i
l
s
o
n,M. (女性宣教師)
P
a
r
d
o
e,E
. (女性宣教師)
P
a
r
d
o
e,E
. (女性宣教師)
日本の偶像と寺院
無記名
箱根
1
2
1
2 兵庫の大仏
S
p
e
n
c
e
r,M. (女性宣教師)
D
e
a
r
i
n
g,M. (パプテスト派女性宣教師)
1
3
9 日本の商底
3
3
0
2 弘前
Baucus,G
. (女性宣教師)
2
4
2
3 富士山
C
l
e
v
e
l
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d,M. (宣教師の妻)
H
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nWoman'sf
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,Vo
.
1
5-2
6,1
8
7
41
8
9
5
o
s
t
o
n
) より抽出
(
T
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eWoman'sF
o
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a
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p
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lC
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h,B
タイトル/トピックは筆者による翻訳
-2
7
した。
(
2
) 書き手としての女性宣教師の特徴
女性宣教師からの書簡が記事の大部分を占
機関誌の日本関係記事に女性についての言
めてはいるが,最初の数年は同じメソジスト
及が多いのは,読者層と活動意識が反映され
監督派教会から派遣されていた男性宣教師の
たものであることは上述した。このことは究
妻の書簡が頻繁に見られる(1函館の日曜日 J,
極的には,女性海外伝道協会の活動を「女性
1
8
7
4;I弘前便り J, 1
8
7
5
; I日本の女性につ
のための女性の仕事」であると強調すること
8
7
7など)。それは恐らく女性宣教師
いて J,1
により,教会という男性中心の権力機構に協
の数が少なかった 20) ことと,女学校の設立
会の存在意義を承認させようとする戦略の表
など伝道活動の足場造りに女性宣教師のエネ
れと見ることができる。同時代に活動したイ
ルギーの大半が注がれていたため,当初は宣
ザベラ・バード,メアリ・キングズリといっ
教師の妻が日本紹介の役割を引き受けていた
た女性旅行家が,旅の記録を男性中心の地理
i
s
s
i
o
n
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η
のではないかと推測できる。また,M
学界に認知したもらうために,自らの女性性
Link
,L
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セandL
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g
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t
,Woman'
s Workf
o
r
,H
e
l
t
i
n
gHand といった他教派の
Woman
基準に合致するような記述を志向した 22) の
女性海外伝道協会機関誌からの転載記事が多
とは対照的である。
を極力覆い隠し,地理学界が求める客観性の
いのも初期の特徴である 21)。教派間の垣根を
女性宣教師は女性性を強調,女性旅行家が
超えて,女性宣教師の数少ない報告を利用し
女性性を隠蔽と,方法は対極的であるが,そ
合っていたことがうかがえる。年数が経過し
の目指すところは,男性中心の権力機構への
てくると,女性宣教師が設立した女学校の生
挑戦という点において共通していた。それは
徒からの書簡が見られるようになる(I日本の
当時彼女たちの生活を規定していたヴィクト
,1
8
8
8
; I日本の議会 J,1
8
91)。これら
習慣J
リア期の規範,つまり女性は家庭を中心とし
は女性宣教師の指導により書かれたものであ
た私的領域に止まって生きるべきであるとい
ろうが,女性宣教師による教育活動の成果を
うモラルへの挑戦で、もあった。ヴィクトリア
示そうとする狙いがあったと思われる
期とは,言うまでもなく,英国ヴィクトリア
O
取り上げられているトピックは多彩であ
女王の統治期間 (1837年 ~1901 年)を指すが,
る。日本の歴史,地理,伝統文化,生活習
同時期のアメリカもヴィクトリア期のアメリ
慣,宗教, 自然などを紹介したもの, 日本の
カという呼称が定着している。そして,ヴィ
女性と子供のこと,横浜,東京,函館,長崎
クトリア期の規範は,アメリカにおいても同
といった在任地の様子,休暇の際の旅行記な
様に,白人中流女性の行動様式や活動空間を
ど多様な話題が扱われている。ただし,日本
規定していたことが,地理学の研究において
の女性に対する関心は非常に高く,ほとんど
明らかにされているお)。
の記事において女性への言及が見られる。つ
アメリカにおいて 1
9
世紀後半,女性海外伝
s本の女性について様々な視点から報
道運動に参加した女性は,このヴィクトリア
告がなされていると言えよう。これは読み手
期の規範の中で生きていた中流白人女性であ
まり
のほとんどが女性であるということと,
り,日本に派遣された女性宣教師も例外では
I
women'sworkf
o
rwomen(女性のための
なかった。女性海外伝道運動は「女性のため
女性の仕事)Jという女性海外伝道協会の活動
の女性の仕事」をスローガンに,母親が家庭
意識が,女性宣教師の報告書簡に反映された
において家族に愛情を注ぐことの延長線上に
結果であろう。
ある活動であると主張されたが,異教女性へ
のキリスト教伝道のために海を渡った女性宣
2
8-
教師の行動は,移動距離の大きさやその目的
教会女性海外伝道協会派遣の在日女性宣教師
からして,女性の領域を家庭という私的空聞
は東京に 2名,横浜と函館に各 1名の計 4名
から社会という公的空間へと拡大するもので
で、あった。既に述べたように,この時期女性
あった 24) ことはまちがいない。歴史家ウィ
宣教師は女学校の設立など足場造りの活動に
リアム・オニーノレは, 1
9世紀後半の女性海外
多忙で, 日本を紹介する報告書簡は主に宣教
伝道運動を評して, ソーシヤノレ・フェミニズ
師の妻に委ねられていたようだが,ホノレブ
ムの起源のーっと位置付け,参政権獲得を目
ルックは来日直後より定期的に日本の様子を
指したラディカノレ・フェミニズムとの差異を
報告し,表 1からも明らかなように,初期の
示している 25)。ソーシャル・フェミニズムが
女性宣教師報告の中でその数は群を抜いてい
ラディカル・フェミニズムと異なる点は,実
る
。
用主義的かっ非イデオロギー的に運動に取り
まずは簡単にホノレブルックのプロフィーノレ
組んだ姿勢にあり,ヴィクトリア期アメリカ
8
5
2年 1
2月2
5日イングラ
を紹介しておこう。 1
の繁栄に異議を唱えるものではなく,当時礼
ンドの地方牧師の家庭に長女として生まれた
womanhood)に
賛されていた女性聞の友情(
ホルブルックは
3歳のとき一家でアメリカ
一致することから,多くの信仰心篤い中年層
のペンシノレベニア州に移住。 1
3
歳でコモン・
が抵抗なく運動に参加することができた 26)。
スクールを終了し,同州にあるワイオミン
女性宣教師は,フィーメイノレ・セミナリー
グ・セミナリーに進学した。最優秀の成績で
あるいはフィーメイル・アカデミーと呼ばれ
3年後に卒業,校長の推薦を得てボルチモア
た女子中等教育機関を卒業後,教師をしてい
近郊の教師となった。教職にあった間二人の
た者が多かった。良き妻,良き母として家庭
妹の学費を負担し,末の妹の卒業と同時に長
を守ることが理想的な女性の生き方とみなさ
年心に暖めていた宣教師になる夢の実現に動
れたヴィクトリア期において,白人中流女性
き出した。 1
8
7
8年 5月ボストンで開催された
に唯一許された職業である教師の道を選択し
メソジスト監督派教会女性海外伝道協会の総
たり,さらには,その経験を生かすべく,単
会の場において,正式に東京への派遣が承認
身海を渡った女性宣教師たちは,かなり行動
され,同年 1
0月 1日サンスランシスコを出発
的な女性であり,その意味ではヴィクトリア
0月2
1日東京に到着し,築地居留地
した 27) 1
期の規範を逸脱した女性と言えるかもしれな
に同協会が設立した海岸女学校(青山女学校
い。このようなパックグラウンドを背負って
の前身)の教師として活動を開始した。 1
8
8
1
日本にやって来た女性宣教師が,いかに明治
(明治 1
4
)年から 8
4
(明治 1
7
)年まで同校校長を
期の日本を捉え,どのような表現を用いてそ
務め, 1
8
8
7(明治2
0
)年から 9
0
(明治 2
3
)年まで
れをアメリカの読者に伝えたかを,次章では
華族女学校(女子学習院の前身)で教鞭をとっ
一女性宣教師の書簡をもとに考察したい。
8
9
0(明治2
3
)年メソジスト監督派教会宣
た
。 1
教師ベンジャミン・チャペルと結婚。 1
8
7
8
V
. 一女性宣教師の見た明治初期の日本
(明治 1
1
)年の来日以来,数回の休暇帰国を除
(1)メアリー・ホルブノレックとその報告書簡
いて,生涯の大半を日本で過ごした。 1
9
1
2
本章で考察対象として取り上げるのは,
(明治4
5
)年 7月1
0日癌のため 6
0
歳で死去,東
1
8
7
8
(明治 1
1
)年 1
0月下旬に着任した女性宣教
京の青山墓地に埋葬されているお)。
H
e
a
t
h
e
n Womans
'F
r
i
e
n
dに掲載された
師メアリー・ホノレブノレック (Ma
可 H
o
l
b
r
o
o
k
)
の1
8
8
0年までの一連の報告書簡である。ホル
を参照しな
ホルブ、ルックの報告書簡を,表 1
ブ、ルックが来日した当時,メソジスト監督派
がら見て行きたい。表 1中,ホルブルック書
- 29-
簡は太字で示した。 1
8
7
9
(明治 1
2
)年の「日本
時代にまで糊って紹介した「日本における四
の 第 一 印 象 」 に 始 ま り 日 本 便 り 1J '日本
時のお茶」を記している。
便り IJ,日本の四季折々の花を紹介した「日
セミナリ一時代の思師は,ホルブルックを
本の花々」と,着任初年よりホルブルックは
評して「すべての教科にバランスよく優秀で
8
8
0(明治
積極的に日本紹介を試みている。 1
あったが,特に語学力と文章カは抜き出てお
1
3
)年には,夏の休暇報告である「日光での休
8
8
1(
明
暇」を記している。ホルブルックは 1
治1
4
) 年春に腸チフスに擢患する。その静養
り,作文は殊更に上手であった。」と語ってい
も生かされ,彼女の日本語力は宣教師の聞で
のため同年夏は函館で過ごしているが,病状
8
8
5(
明
も一目置かれていたようである 31) 1
が回復するとアイヌ集落を訪ねる旅に出る。
8
)年にホルブルックが日本人女性向けに
治1
る30)。ホルブノレックの語学力は日本語習得に
旅の準備から帰宅までを紀行文にまとめたも
日本語で、行った講演の記録が,小冊子となっ
のが「函館とアイヌ集落」である。この紀行
て残されている 32)。それを見ると,流暢に日
文はホルブノレックの報告の中で最も長文のも
本語を使いこなしていたことがわかる。日本
3回にわたって分載されている。
1
8
8
3
(明治 1
6
)年には大阪で宣教師会議が聞か
語能力や文章力に優れていたホルブ、ノレックに
れる。代表として出席したホノレブルックは,
というよりも一種の楽しみで、あったのではな
会議終了後,大阪,奈良,京都を見物し,陸
いだろうか。ホルブワレックが他の女性宣教師
路東海道を経て東京に戻る。その様子が「大
よりも頻繁に報告を書き送っていたどうかは
のであり
とって,日本の様子を報告することは,職務
阪からの帰路」と題して報告されている。
定かではない。しかし,ホルブ、ルック書簡が
1
8
8
4(明治 1
7
)年には,上流階級の女性たちに
他よりもはるかに多く機関誌に掲載されてい
よる慈善バザーが鹿鳴館で催され,成功を収
る事実は,機関誌編集者から内容を評価さ
めたことが報告されている(,鹿鳴館の慈善ノ〈
れ,多くの掲載機会を得ていたことを示して
8
8
4(明治 1
7
)年 7月より 8
6
(明治 1
9
)
ザー J
) 1
いる。次節では,ホルブルックの最初期の報
年 8月まで休暇で一時帰国 29)した後, 1
8
8
7
日
告である「日本の第一印象 J '日本便り 1J'
(明治2
0
)年には,女学校の視察に訪れた名古
本便り IJ '日本の花々 J '日光で、の休暇」の
)。
屋の印象を報告している(,名古屋への旅 J
5書簡に焦点を当て,その内容を分析した
1
8
8
9(明治2
2
)年には「浅間山登山」と題して
8
8
7(明治2
0
)年よ
登山の体験を記している。 1
0
(明治2
3
)年まで,ホルブ、ノレックは華族女
り9
8
8
8
学校の教師であった。その関係から, 1
(明治 2
1)年には完成した皇居新宮殿の内覧に
8
8
9
(明治2
2
)年の「新しい宮
招かれている。 1
8
9
0
殿」は,その様子を伝えたものである。 1
(明治 2
3
)年に結婚した後も, ミセス・チャペ
い。なお,本文中に引用する書簡文は,筆者
0
の拙訳による。
(
2
) ホルブ、ルックの日本報告とその特徴
欧米人による明治日本探訪記の多くが,横
浜港へと近づく船のデッキから臨む富士山の
光景を,感動をもって記しているように,ホ
/レブルックの書簡も,雪を戴いた富士山の姿
(
M
r
s
.MaryH
o
l
b
r
o
o
kChappe
ll)の名
を称賛することから始まっている。横浜上陸
で,ホノレブルックは引き続き書簡を送ってい
後,初体験の人力車に揺られ,狭い道をうね
8
9
0(明治2
3
)年には,夏の休暇について
る
。 1
りながら山手の居留地へと向かう道中で自に
ル
有馬から 2回の報告がなされている(,有馬よ
したものは「建物が整然と立ち並びアメリカ
8
9
0・1
8
9
1
)。また 1
8
9
1(明治 2
4
)年に
りJ, 1
の都市と見まごう居留地と,家屋や商居が低
は,日本の茶の湯について,その歴史を室町
く軒を連ねた日本人町との著しい景観の違
-3
0ー
い」であった。山手居留地は海外沿いの居留
で交差していた。しばらくの間,道の両側に
地が手狭になったため,新たに設けられたも
小川が静かに流れていた。それは柔らかく低
ので,ホノレブルックを乗せた人力車は,波止
い音色でデュエットを奏でているようであ
場から海外沿いの居留地と日本人町を抜けて
り,無趣味な私でさえも詩を口ずさんでしま
山手へ至ったと考えられる。ホルブ、lレックは
いそうなほど甘美な歌声で、あった。沿道には
山手居留地の宣教師宅に一泊し,翌日,活動
大きな金色の核をもったユリとピンクの房の
の場となる東京築地の居留地へと向かった。
ついたオジギソウが咲いていた。また,そこ
築地居留地もまた「アメリカの町のようであ
ここにたくさんの山アジサイが見られ,それ
り,ここが東京の中にあるとは信じがたい」
らはスコットランドの雪の塊のように白かっ
とその第一印象を記している。 (
r日本の第一
た。さらに堀には白やパラ色のハスの花が美
印象」・「日本便り 1J,1
8
7
9
)
しく浮かんでいた。それはアメリカに咲く艶
ホノレブルックの日本報告には,多くの植物
やかな花弁をもったスイレンの花と愛らしさ
が登場する。秋の日本到着に始まる四季の体
の点において,甲乙つけがたい。それから可
験を,樹木や花々の紹介を通して巧みに表現
愛いシダや上品なハンショウズル,華麗なツ
している。 1
0月下旬の着任以来秋を深め,冬
タも見えた。そして,これらすべてのほか
へと移り変わりゆく東京の風景を「茶色い落
に,遥かかなたの丘陵地帯や緑たつ水田がそ
ち葉と裸木から成る単調で死んだようなアメ
の麓まで伸びている風景,古風な趣のある屋
リカの景観とは異なり,常緑樹と竹林が豊富
根と良く手入れされた前庭をもっ絵のように
にあることによって依然美しさが保たれてい
美しい農家といった豊かな美がさらに存在し
るJ (
r日本便り IJ,1
8
7
9
) と伝え,アメリカ
ていた。人力車の全行程を今思い返すと,そ
との対比を用いて東京の景観の特徴を説明す
れは一つの美しい夢のようであり, 目覚める
ることにより,読者の理解を容易にしてい
ことに苦痛さえ感じるほどである。」と記述さ
る。「日本の花々 J (
1
8
7
9
) はタイトノレ通り,
れ,詩的な表現を用いた詳細な植物観察記と
日本の花を紹介したものである。短い報告の
なっている。
ホルブルックは明らかに植物に対する関心
中に,日本到着時に咲いていたキクに始ま
り,ツバキ,モモ,サクラ,パラ,ツツジ,
が高く,またかなりの知識も持ち合わせてい
フジ,ヨシ (
s
p
i
r
e
a
) と,満開の花の様子を
たと推測できるが,これは彼女個人の資質と
次々に解説している。例えばツツジは「緋色
いうよりも,ヴィクトリア期の白人中流女性
のツツジはまるで山肌に広がるキャンプファ
に共通する資質と見ることができる
イヤーのように照り輝き,白いツツジは燃え
らば,植物に関心をもつことは,女性にとっ
立つ緋色の姉妹ツツジの中で溶けてゆく雪の
て一つの教養であり,英国ヴィクトリア期を
ようである」と記し,一枚の絵画をイメージ
専門とする歴史学者の井野瀬は,ヴィクトリ
o
なぜな
させるような視覚性に富んだ描写がなされて
ア期ほど女性と植物とが密接に結びついた時
いる。「日光での休暇 J (
1
8
8
0
) では, 日光ま
代もなかったのではないかと述べている。そ
での道中と東照宮の様子が報告されている
の理由として,女性は植物に関心をもつこと
が
, 日光へ至る例幣使街道の風景や道端に咲
で,知的になりすぎるという危険を冒すこと
く花の記述に,ホルブノレックの個性が強く表
なく,ほどよい教養や美意識,女性らしい気
れている。「翌朝私たちは人力車に乗った。
配りを育むことができる。しかも,動物とは
旅の最後の 6
0マイルは雄大な古い杉並木を通
異なり,植物においては性の問題をさほど気
り抜けた。その枝々はほとんど私たちの頭上
にしなくてもよいので,性のタブーを犯す心
-31-
配もなかったからである
o
当時多くの学術団
て,清潔,健康は共通の関心事となりつつ
体が女性の入会を拒否していた中にあって,
あった。そして,その普及を実践的に担って
英国植物学会が当初から女性会員を認めてい
9
世紀のアメリカは
いたのが女性で、あった。 1
たこと,絵画の世界でも植物画の分野では,
平均寿命の延びや乳児死亡率の低下が著し
女性が男性以上に優れた作品を残しているこ
かったが,それは単に医学の発達によるばか
となども,ヴィクトリア期の女性と植物との
りではなく,中流階級の女性が健康管理,公
深い関わりを示していると井野瀬は指摘して
いる 33)。
衆衛生,栄養改善などの問題に対して積極的
ヴィクトリア期のアメリカにおいても,女
康の専門雑誌や女性雑誌の特集を通じて,女
性は花に親しむことが奨励されていた。この
性は科学的に根拠のある情報を得,日常生活
な取り組みを行ったことも一因している。健
時期ホーム・ガーデニングが中流階級のレ
の場でそれを実践した 35)。また女性宣教師を
ジャーとして人気を呼んでいたが,芝生の手
多く輩出した教育機関フィーメイノレ・セミナ
入れは男性の領分,花を育てることは女性の
リーやフィーメイル・アカデミーで最も使用
領分と明確な線引きがなされ,女性が一日を
されていた教科書には,血液の循環など医学
家事と花の栽培にあてている姿こそ,最も女
的な知識が盛り込まれていた問。このような
らしく見えるとさえ言われた制。ホルブルッ
健康に対する関心が高まる中,次世代を生み
クが日本で目にした植物の名称を詳細に記述
育てる性としての女性の身体や健康について
し,読み手であるアメリカ人女性が,それを
の再考も始まる。コルセットによる締め付け
もとに日本の風景をイメージするという図式
から身体を解放し,体を動かすこと,特に屋
が可能であるのは,ヴィクトリア期の女性が
外での運動が健康維持に不可欠であるとの論
身につけていた教養によるものである。今日
説が医学雑誌に掲載され,教育関係の雑誌で
ではあまり馴染みのない植物も,ヴィクトリ
は女子教育における体育の必要性が叫ばれ
ア期の女性の間では,よく知られた存在だ、っ
た。フィーメイノレ・セミナリーやフィーメイ
たのであろう。
ル・アカデミーの多くは率先して多様な体育
本章で取り上げたホノレブ、ルックの日本報告
活動を取り入れた 37)。ホルブ、ルックが日本の
の中では,植物の記述にヴィクトリア期の女
第一印象として日本人の健康状態に触れてい
性の教養が最も顕著に表れていると考える
るのは,以上のようなヴィクトリア期アメリ
が,その他のトピックにおいても,ヴィクト
カ社会の共通の関心とホルブルック自身の
リア期の女性の規範,教養,良識といったも
フィーメイノレ・セミナリーにおける経験に由
のを象徴するような記述が認められる。ホル
来するものと言えよう。
またホ/レブルックは「来日前に読んだ文献
ブノレツクは来日早々,東京には盲人の多いこ
とに驚き,その原因は暗い風通しの悪い家
には, 日本人は風呂好きで清潔で、はあるが,
屋,栄養価の低い食事,様々な生活の悪習慣
その風呂とは煮えたぎる揚が満ちた釜で,辛
にあるのではないかと推測している(I日本の
うじて頭が出せる蓋に覆われており, 日本人
8
7
9
)。また,築地居留地に設立
第一印象 J,1
はその中に一時間も浸っている,と書いて
した女学校の生徒が,おしなべて虚弱体質で
あった。奥地ではそうなのかもしれないが,
あるのを憂慮し,彼女たちに自己の健康管理
東京とその周辺に限って言えば,それは誤り
意識と屋外運動の習慣が欠如しているためで
である。湯船はアメリカのものより深く,湯
IJ,1
8
7
9
)。
あろうと記している(I日本便り I
の温度はアメリカ人にはまだ少し熱すぎるだ
ヴィクトリア期アメリカの中流階級にとっ
ろうが,快適な暖かさである。」と伝えている
3
2-
(rS本便り IJ, 1
8
7
9
)。実際, 1
8
7
3(明治
規範は, 日本の外国人居留地にも持ち込まれ
6)年東京府は熱い湯好きの江戸つ子が多い
ており,ホルブノレックは靴やドレスの流行を
のに対して,銭湯の熱湯を厳禁とする通達を
とやかく言う居留地婦人のことを後に苦々し
出していた 3へ文献情報と実地見聞との差を
く記しでもいる 39)。
ホノレブツレックは指摘しているのであるが, こ
ヴィクトリア社会から地理的に離れた日本
れも健康問題に関心の高いヴィクトリア期女
という場所に身を置いたことにより,それま
性らしい観察である。
での自己を規定していた文化を,相対化して
東京の気候に関しては,ホノレブルックは
見つめ直すという作業が自ずとなされ,その
「冬は雪が少なく心地よいが,夏の蒸し暑さ
結呆として,自国の文化における健康や衛生
は,良き主婦であるならば,とても平静では
に対する取り組みなどを改めて評価するとと
いられないものである。」と表現している(r日
もに,女性を肉体的にも精神的にも束縛する
本便り IJ,1
8
7
9
)。なぜならば「湿度があま
ような慣習を無意味なものと確信するという
りに高いため,衣類に徴びを生やさないよう
態度が報告に表れている。ホルブノレツクの日
にするのは至難の業である。家具の接着剤は
本報告は,明治初期の日本体験記であるのと
柔らかくなり,いすに座ると一体どこまで体
同時に,ヴィクトリア期アメリカの姿を逆照
が沈み込んで行くのか不安になる。」ほどで,
射するものでもあると言えよう。
きちんと家庭を整えておきたい主婦にとって
は問題の多い季節ということになる。とのよ
羽.おわりに
うな家事に纏わる具体的なエピソードを引い
女性宣教師の明治期における日本報告と
て,日本の気候の特色を語ることも,家庭は
は,書き手である女性宣教師と読み手である
女性の領域の中心であるというヴィクトリア
アメリカ人女性が共有するヴィクトリア期の
期の規範を映し出していると言える。
女性に求められた規範,教養,良識といった
日本の少女の姿で、第一にホルブルックの目
ものを媒介とした'情報伝達であったというこ
を引いたのは,小さく骨張った手と特徴的な
とが,本研究では明らかにできたと考える o
髪形であった。「彼女たちの髪は非常に複雑
だが,その情報の正確さについては,今後よ
に結い上げられており,それに誇りをもって
り詳細な検証がなされるべきであるのは言う
いることは疑いない。アメリカの母親は毎年
までもない。例えば,イザベラ・バードの
春と秋になると,娘のために流行のスタイル
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ρanにおける動植物
の帽子やボンネットを求めて,あちこちの庖
の記述に関して,英国人動物学者ブラキスト
を捜しまわれなければならないが, 日本の母
ンがその信憲性に疑問を呈した 40) ように,
親はそのような煩わしさから解放されてい
ホルブルックの植物に関する記述も,植生地
て,なんとうらやましいことか。」とコメント
理学の観点から正確に考察される必要があ
8
7
9
)。ホルブルッ
している(r日本便り IJ,1
る。また,ホノレブノレックの記述から受ける印
クの日本報告は,これまで見てきたことから
象のごとく,当時の日本人が健康や公衆衛生
も明らかなように,ヴィクトリア期の女性に
に対してほとんど無知無関心で、あったと判断
求められた規範が色濃く反映されている。し
するのは早計である。ヴィクトリア期アメリ
かし,女性がコルセットで体を締め付けた
カのように,女性がそれらの責任を自覚する
り,帽子の流行を追うことに忙殺されるよう
ようになるのは明治期の後半になってから 41)
な習慣に対しては批判的であり,規範を絶対
と言われているが,ホルブルックが報告を書
視していたわけではない。ヴィクトリア期の
いた時期には,すでに行政政策として,公選
- 33-
の衛生委員制度が設けられ,公衆衛生や食品
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dに変更された後, 日本の
衛生に関する条例や取り締まりが府県や町村
時事問題を取り上げた報告が登場してくる。
単位で実施されていた 42) ことを看過すべき
女性宣教師が生活者の視点から日本の時事を
ではない。女子教育における体育の必要性も
いかに報じていたかを考察することも,今後
またすでに認識されていた。数年間をかけて
の研究課題としたい。
f
子った女子体育術に関する調査結果をもと
(お茶の水女子大学大学院・院生)
に
, 1
8
7
7(明治 1
0
)年には,東京女子師範学校
において体育術の授業が取り入れられてい
〔
注
〕
た43)。メソジスト監督派教会女性海外伝道協
1
)1
9世紀アメリカのプロテスタント教会におけ
会が築地に開設した女学校は,貧困家庭の女
る女性海外伝道運動については,斎藤元子
r
1
9世紀後半アメリカにおける女性の領域と
子を奨学生として積極的に入学させていた 44)
0,
女性海外伝道運動 J,お茶の水地理, 4
1
9
9
9,33~38頁参照。
ことから,ホルブルックが目にした女学生の
多くは,それまで十分な教育を受けてこな
2
) プラング, M. 著,鳥海百合子訳『東京の白
かった女性たちと思われる。したがって,彼
い天使 一近代日本の社会改革に尽くした
女性宣教師キャロライン・マクドナルド
女らを当時の女学生の典型的な姿と見なすこ
とはできない。
ーd],教文館, 1
9
9
8, 6頁
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)
Macdonald0
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) 402~403頁。
3
) プラング,前掲2
4
) 例えば,竹内は 1
9
世紀末までに西欧世界へ
筆者は,本研究の冒頭において, 1
9世紀ア
メリカの女性の大半は, 自分たちの大陸以外
の世界について,その多くを女性宣教師の報
告から学んでいたと記した。女性海外伝道協
もたらされた日本に関する地理学的知識を
会の中で、最大の組織であったメソジスト監督
以下のように系統だてている。 1
4世紀初頭
のマルコ・ボーロによるジパングの記述を
嘱矢として, 1
6世紀後半におけるイエズス
派教会女性海外伝道協会の機関誌における日
本に関する報告を考察した限りにおいては,
情報量の多さという点のみならず,選択され
会宣教師による日本通信,江戸時代のオラ
ンダ商館長付医師ケンベノレやシーボルトら
たトピックがヴィクトリア期アメリカの女性
に共通の関心事を多く扱っている点から,読
による江戸参府の記録,そして開国後は,
者は内容の理解が容易であり,多くのことを
英国公使オールコックの The Ca
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1863年,山口光朔訳『大君の
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知り得たと言えよう。
都一幕末日本滞在記d]1
9
6
2年,岩波書応)を
皮切りに, 1
8
7
4年外国人に対する旅行規制
本研究は, 1
8
7
8(明治 11)年に来日したメア
リー・ホ/レブ、ルックという一女性宣教師が記
の緩和により, 7
5年以降お雇い外人や商人
らによる日本見聞記が欧米で出版されるよ
うになる。それらは西欧人の旅心を刺激し,
8
8
0(明治 1
3
)年までの書簡に焦点を当て
した 1
8
8
1
(明治 1
4
)年以降のホノレブルック書
たが, 1
簡にも,多くの地理学的に興味深い情報が記
更なる日本探訪記を生む。その中でも英国
人女性旅行家イザベラ・バードの U
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されている。中でも, 1
8
8
1(明治 1
4
)年から 8
2
(明治 1
5
)年にかけて 3回にわたり機関誌に連
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ρan(1880年,高梨憲吉訳『日
本奥地紀行Jl 1
9
7
3年,平凡社)は,ガイド
載された「函館とアイヌ集落」は,欧米人女
ブックとして長いこと読み継がれる。また
英国公使館員サトウらの手により,旅行者
のためのハンドブックも 1
8
8
1年に編纂され
性による蝦夷探訪記として注目すべきもので
あり,稿を改めて論じたいと考えている。ま
た,本研究では詳しく触れなかった 1
8
9
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)1
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8
0年 以 前 に 出 版 さ れ た 欧 米 人 に よ る 幕
家)と榔検されたことに始まる。アメリカへ
7
6
0年に最初の宣教師が送られ,独立
は
, 1
7
8
4年米国メソジスト監督派
戦争を経て, 1
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教会 (
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のプロテスタント教派となる。日本キリス
ト教歴史大事典編集委員会編『日本キリスト
9
9
8,1
3
9
5頁
。
教歴史大事典.J],教文館, 1
末・明治日本滞在記としては,既に紹介し
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3(オーノレコック,R.著,山口光朔訳『大
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君の都一幕末日本滞在記』岩波書底, 1
の他, G
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3.p
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2
9.pp.
4
2
3
4
31
.
8
)メソジスト監督派教会女性海外伝道協会憲章
によると,年間 1
0ド/レ以上の寄付を行った
女性は誰でも,居住地から一定の範囲をテ
治日本体験記.J] (Ii'皇国』第二部)平凡社,
リトリーとする補助協会を組織することが
1
9
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.著,安部純子訳著『横浜の女性宣
名以上,書記,通信係,会計各 1名を選出
教師メアリー
できた。会長 l名,副会長もしくは幹事 3
し,これらの役員が集まって地方の実行委
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. が挙げられる。グリ
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したアメリカ人,プラインとカロザースは
ともにアメリカ人女性。プラインは超教派
の女性一致海外伝道協会より派遣された女
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1年から 7
5年まで横浜で活動
性宣教師で 1
1
0
)本多繁「米国メソジスト監督教会の外国宣教
した。カロザースは長老派宣教師の妻で
機関と明治中期迄の日本宣教 J,キリスト教
1
9
6
9年から 7
7年まで東京と広島に暮らした。
欧米人女性による明治日本見聞記は,本研
史学, 4
3,1
9
8
9,28~29夏。
1
1
)1
8
9
4(明治2
7
)年の条約改正までは,宣教師
究の対象も含めて,女性宣教師と宣教師の
が居留地外に不動産を所有する権利が認め
られていなかったので,福岡以下の都市で
妻が先鞭をつけたと言うことができる。
6
) メソジスト教会は 1
8世紀英国国教会から分
は,地元の有力なキリスト教支持者,信者
離したプロテスタント教派。メソジストの
あるいは知識階級が発起人となって女学校
由来は,ジョンとチャールズのウェスレー
を設立し,経営面の責任を負った。本多繁
兄 弟 。ohn&C
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) らが指導
『続・米国のプロテスタンテイズムと日本
するオックスフォード大学学生による神聖
9
9
4,3
2・5
4頁
。
人』丸善仙台支底, 1
1
2
)斎藤元子「米国メソジスト監督派教会女性海
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)が敬度な信仰に基づく
クラブ (
厳しい戒律に従い,神学研究などに励み,
外伝道協会による明治期の日本における文
修道者的な生活を重んじ,メソジスト(方法
書活動一雑誌『常磐』を中心として
- 35-
J,ウェ
M.著,斎藤元子訳「地理学の新しいフェミ
スレー・メソジスト研究, 2
,2
0
0
1,37~54
頁
。
ニスト歴史叙述をめざして J,空間・社会・
1
3
) Isham,M.,V
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)p
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3
.
1
4
) Baker,前掲7
1
5
) 誌名変更の理由として ,Heathen Woman'
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dの人気のある部分を残しつつも,よ
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) Wheeler,前掲8
)p
.
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)クランメ/レ, ].W.編『来日メソジスト宣教師
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)米国女教師メリ,ゼ¥ホルブロック『霊魂の
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6一
頁
。
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3
) 井野瀬久美葱『女たちの大英帝国』講談社,
1
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8,73~75 頁。
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) Heathen Woman's Friend
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られるが,ブラキストンのバード批判の中
に「ラテン語の学名が不必要に羅列されてい
る(中略)ふつうの読者なら植物学辞典と
首っ引きして参照しないかぎり,何が何だ
かさっぱりわからない J (ブラキストン, 3
4
3
頁。)という指摘がある o ここからもバード
がヴィクトリア期の女性として植物に強い
関心を抱いていたことがわかる。
4
1)成田龍一「衛生環境の変化のなかの女性と女
性観 J(女性史総合研究会編『日本女性生活史
第 4巻近代d],東京大学出版会, 1
9
9
0
),
1
2
0頁
。
4
2
) 成田,前掲4
1
)9
3頁。下川歌史・家庭総合研
究会編『明治・大正家庭史年表 1
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。
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) 桑原三二『高等女学校の成立 高等女学校小
史一明治編」高山本庖, 1
9
8
2, 1
8
1頁
。
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