大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物について

大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物について
(項 目)
○茨木市の千提寺・下音羽のキリシタン遺物について (概要)
○茨木市の千提寺・下音羽のキリシタン遺物発見の経過など ○千提寺、下音羽で発見されたキリシタン遺物
・千提寺4軒( 東家 中谷(仙)家、中谷(源)家 中谷(栄)家 )
・下音羽4軒( 高雲寺 井上家 原田家 大神家 )
○多くのキリシタン遺物のうちキリシタン伝道にかかわる幾つかのもの
-チースリク神父著の「高山右近領の山間部におけるキリシタン研究」より-
①ザビエルの絵、マリア15原義図 ②メダイ(教皇グレゴリオ、1600聖年、ザビエル)
③ドチリイナ・キリシタン写本 ④キリシタン墓碑
○千提寺等の地区における当時の布教の状況
-右近の時代、高槻領であった千提寺等における布教に関するフロイスの日本史等の記述-
1.1579年 忍頂寺五箇荘が高山右近領地となる
2.1581年 巡察師ヴァリニャ-ノ畿内視察のため高槻に来た時山間部を視察
3.1582年 忍頂寺五箇荘、能勢での本格的な布教開始
(1)能勢の布教 (2)忍頂寺五箇荘での布教
4.1585年 高山右近明石転封後の状況
(1)チースリク神父資料から (2)茨木市資料から
5.1591年 巡察師ヴァリニャーノ神父が高槻を視察 6.1596~1597年 26聖人殉教の時の対応
○徳川時代の厳しい「禁教令」後の信徒の状況
1.山間部の領主
2.信仰が守られていた (資料:総合清渓村史)
○キリシタン遺物発見後の千提寺地区でのキリスト教の布教等について
ビロー神父の手記など
○高雲寺(下音羽)について
○キリシタン遺物から、感じる当時のキリシタンの信仰心について
(参考資料)
・茨木市史 豊能町史 高槻市史、高槻市広報課資料「いにしえ物語」
・新修茨木市史 第9巻 資料編 美術工芸
・千提寺・下音羽のキリシタン遺跡 (茨木市資料)
・新修茨木市史 年報第4号(2005年11月)
・キリシタン研究 「高山右近領の山間部におけるキリシタン」(チースリク神父著)
・高山右近史話、キリシタン史考 (チースリク神父著)
・総合清渓村史 (奥野慶治著)
・日本26聖人殉教記 (フロイス)
・日本史 (フロイス)
・日本キリシタン宗門史(レオン· パジェス)
・ビロー神父手記 (産経新聞記事で紹介されたもの)
○茨木市の千提寺・下音羽のキリシタン遺物について (概要)
1.右近とキリシタン遺物の関係
・歴史の教科書にも出てきます「聖フランシスコ・ザビエル画像」は、茨木市の山間部
の千提寺地区で発見されたものです。
・キリシタン遺物が発見された茨木市の山間部の「千提寺・下音羽」地区は、高山右近の
時代は高槻領で、信長、秀吉によって加増されたものです。
江戸時代においては高槻藩主永井家の領地でした。
・右近の時代、この山間部でも熱心な布教が行われた結果、多くの信徒が誕生し、秀吉・
家康の禁教令後も信仰共同体が維持されていたことが宣教師の記録からもわかります
・この遺物が発見された地区は高山右近の出身地である高山地区のすぐ近くに在り、
昭和30年茨木市に合併されるまでは、高山地区と千提寺地区は「清溪村」という同じ村
に属していました。清溪村が茨木市に合併した時、高山地区のみが東能勢村(現豊能町)に
編入されました。
・大正8年以降、多くのキリシタン遺物が発見されましたが、これらは右近の時代の信徒に
繋がる遺物であることは間違いないと思われます。
・そういう意味で、宣教師や高山親子等の布教でキリシタンとなったこの山間部の信徒を
思い浮かべながら、この茨木市のキリシタン遺物を見学すると当時の過酷な状況下で
信仰を守り抜いた信徒の強い信仰心が伝わってくると思います。
2.発見されたキリシタン遺物について
・大正8年(1919年)2月、茨木市の北部山間部の千提寺で、キリシタン墓碑が、
発見されました。
・翌年の1920年、千提寺の東家の「あけずの櫃」から聖フランシスコ・ザビエル画像
(列聖後の作成 つまり禁教令後も信仰継続)、マリア十五玄義図をはじめとする多数の
キリシタン遺物が発見され、また、中谷家等からも多数の遺物が発見されました。
・京都大学は直ちにこの地の調査に入り、昭和5年までの間、かつての信者の末裔達の母屋
や納屋の屋根裏などに固く秘められていた多数の遺物が発見されました。
昭和5年(1930年)には、下音羽の原田家でマリア十五玄義図が発見されました。
・これらの発見は、千提寺を一躍有名にし、学者などの関係者の訪問が絶えなかったと
いわれています
・このように1919年~1930年の間に、当時の信仰生活を偲ばせる、墓碑、教義書(ドチリ
ナキリシタン等)、教義図(マリア十五玄義図等)、聖像(聖フランシスコ・ザビエル画像等)、
聖具(十字架・ロザリオ苦行の鞭・聖杯等)等メダイなど多岐にわたる遺物が数多く発見
されました。
・聖フランシスコ・ザビエル画像、マリア十五玄義図(原田家・京大)は国の 重要文化財
に指定されています。
・マリア十五玄義図(原田家・京大)は、2004年修復され、2006年公開。
・マリア十五玄義図(東家)は、2011年修復 公開。
・現在、これらの貴重な遺物は東京大学、京都大学、神戸市博物館等に保存されていま
す。 (一部は千提寺の「茨木市キリシタン遺物史料館」に展示、中谷家、大神家などが今も保存)
・これらの遺物以外に、口碑(昔からの言い伝え)として、東イマ、中谷イトさんから、キリスト
教の儀式や風習、オラショ(祈祷文)等の貴重な口伝えの資料も収集されました。
・大正15年(1926年)に、ローマ政庁より教皇使節一行が千提寺を訪問され、遺物をご覧に
になり、先祖の信仰を守った東家、中谷家の方に賛辞を述べられました。
・なお、東家の「あけずの櫃」は、全部で三個あったそうで、二個は発見前の明治末の火災で
消失してしまったとのこと 本当に惜しいことであったし、よくぞ1個でも残ってくれて、今日
見ることができることに感謝せざるをえません。
○茨木市の千提寺・下音羽のキリシタン遺物発見の経過など -茨木市史年報第4号等を参考-
・大正8年(1919年)2月、茨木市の北部山間部の千提寺で、キリシタン墓碑が、
藤波大超氏によって発見された。
(墓碑は、正面「✝ 上野マリア」、右に「慶長8年」、左に「正月10日)(若衆が力自慢に使う)
*なお、発見の年については、藤波氏は1932年8月20日の新聞記事の発言にあるよう
に大正8年(1919年)と主張されている しかし、橋川氏や天坊氏は1920年であると主張
(この件は、茨木市史年報第4号に詳述されており、その概略は次のとおり)
(墓碑発見の新聞記事)
①1920年10月1日 大阪毎日新聞 発見者:橋川氏と報道 (間違い)
②1923年11月8日 大阪朝日新聞 藤波氏が「千提寺小字寺山で始めて
石碑一基を発見し、「在った、在った」と手を打って欣喜
雀躍したのは大正9年(1920年)2月17日」と報じた
③1932年8月20日~23日連載記事 大阪朝日新聞
藤波氏談「大正8年(1919年)2月の雪の日、・・・
墓石・・発見」
(藤波氏の妻の兄で京大国史科依託生橋川氏 後に大谷大学教授の記述)
・1920年正月に橋川氏は藤波氏にキリシタン遺物の調査を託し、その後藤波氏
は調査し、・・1920年9月藤波氏に案内されて「墓碑」を巡見したとの回顧談
・1923年、藤波氏と一緒に忍頂寺址を探索多くのキリシタン遺物を発見した
(藤波氏の恩師である、郷土史家天坊氏の記述)
・自身の著作物で1920年の発見と明記
*茨木ロータリークラブが25周年で作成した「クルス山の夕映え」
( 藤波大超氏の語り 90歳)
・戸数35戸、100人余り 昔も変わらない
・隠れキリシタンうわさはあった、中学校の頃、教師から聞いていた 小学校の教師時代、時間を
みて、調査を開始した大正8年頃キリシタン墓標を発見した 東藤次郎氏が雪をかきわけて
上野マリアと書いた墓標を見せてくれた 大正9年東氏のあけずの櫃
(東 ゆた(藤嗣の母)の話)
・おばあさんが「明治の初めの踏み絵の話えしていた」、「あけずの櫃にあったお椀の蓋と同じ✚
の入ったお椀を拾ってきた」
・大正9年(1920年)9月千提寺の東家の「あけずの櫃」から聖フランシスコ・ザビエル
画像、マリア十五玄義図をはじめとする多数のキリシタン遺物が、藤波氏、その妻の兄の
京大国史科依託生橋川氏等によって発見された。
この発見に、千提寺は一躍有名になり、学者などの関係者が絶えなかったといわれている
・大正10年(1921年)4月24日、京都大学の新村出教授(しんむら いずる)、浜田耕作
教授が東家に調査に入る
・1923年7月頃、京都帝国大学文学部考古学研究報告」第7冊が出版され、千提寺など
のキリシタン遺物の論考が載る (京大報告書)
・大正14年(1925年)5月17日 裕仁皇太子夫妻が京大文学部陳列館でキリシタン
遺物を見学 (1925年6月7日 週刊朝日報道)
・大正15年(1926年)4月22日、ローマ政庁より教皇使節一行が千提寺の中谷源之助
宅を訪問され、キリシタン遺物をご覧にになり、先祖の信仰を守った東家、中谷家の方に
賛辞を述べる 翌日の「大阪毎日新聞」に、中谷イトがローマ法王使節マリオ・ジアルジニ 師に天使礼賛のことばを誦する写真が掲載される
東家の芳名録には、同氏が「主よ聖霊を遣わし給え、しかして万物は造られん、地の面は
新たにならん」とラテン語で記している
・昭和5年(1930年)4月23日、下音羽の原田辰二郎宅で屋根裏より竹筒に入った無傷
の「マリア十五玄義図」を発見される (同宅に下宿していた藤波氏の同僚が藤波氏に通報)
藤波氏が京大の新村出氏に斡旋し、京大に寄贈される
・1931年秩父宮雍仁(やすひと)高槻に行啓したおりに、藤波氏キリシタン遺物を説明
・1933年10月31日、聖フランシスコ・ザビエル画像、マリア十五玄義図(東家蔵)、象牙彫
キリスト磔刑像(下音羽大神家蔵)が重要美術品の指定を受ける
(現在、聖フランシスコ・ザビエル画像、マリア十五玄義図(原田家・京大)は国の
重要文化財に指定されています。)
(マリア十五玄義図(原田家・京大)は、2001年に重文指定、2004年修復され、
2006年公開)
(マリア十五玄義図(東家 個人蔵)は、2006年大阪府有形文化財、2011年修復・公開)
・戦前の最大の南蛮美術のコレクターである神戸の素封家、池永孟(はじめ)氏は、1927年から
コレクションを形成し、1935年12月6日、垂水の私宅を売却し、藤波氏の仲介で、
ザビエル画像を東家より購入する
・1949年(昭和24年)6月4日~6日にわたり、ザビエル400年祭が行われた
ギルロイ法王特使ら74名が関西を巡る 一行の中のマクドネル司教らは「高槻城跡の
除幕式」を執り行う(朝日新聞 1949年6月3日)
・1987年(昭和62年)茨木市立キリシタン遺物史料館が開設される
・以上のような経過のなかで、1919年~1930年の間に、墓碑、教義書(ドチリナキリシタン等)
、教義図(マリア十五玄義図等)、聖像(聖フランシスコ・ザビエル画像等)、聖具(十字架・ロザリオ
苦行の鞭・聖杯等)、メダイなど多岐にわたったキリシタン遺物が数多く発見されたが、残念
ながら、分散されてしまい、全部をこの地で見ることはできない
現在、これらの貴重な遺物は東京大学、京都大学、神戸市博物館等に保存されていま
す。 (一部は千提寺の「茨木市キリシタン遺物史料館」に展示、中谷家、大神家などが今も保存)
・これらの遺物以外に、口碑(昔からの言い伝え)として、東イマ、中谷イトさんから、キリスト
教の儀式や風習、オラショ(祈祷文)等の貴重な口伝えの資料も収集された
・なお、東家の「あけずの櫃」は、全部で三個あったそうで、二個は発見前の明治末の火災で
消失してしまったとのこと 本当に惜しいことであったし、よくぞ1個でも残ってくれたと感謝
せざるをえない
藤波大超
・1894年教誓寺生まれ 千提寺の近く安元の教誓寺の住職となる
・忍頂寺尋常小学校→茨木中学校(天坊幸彦に学ぶ 郷土史に関心をもつ))
・忍頂寺小学校教師→1949年忍頂寺中学校校長退職→同校講師1960年→茨木市
文化財調査委員→1987年開館の茨木市立キリシタン遺物史料館の初代館長
・著作物:「摂津三島のキリシタン」「茨木市文化財資料集第9集 千提寺・下音羽の
キリシタン遺跡」など
・千提寺キリシタン遺物の第一発見者
・1993年亡くなる
○千提寺、下音羽で発見されたキリシタン遺物
(茨木市2006年3月~2007年5月現地調査) -茨木市資料より-
1.千提寺 4軒
・①東藤次郎(奥所 オクンジョ)、②中谷源之助(北)、③中谷栄次郎(隠居)、
④中谷仙之助(ナカヤ)
・昭和初年を生きた三姉妹(キリシタン女性の意)
東イマ(東藤次郎)、中谷イト(中谷源之助)、中谷ミワ(中谷栄次郎)
オラショや信仰生活を伝えた(中谷イト:教皇使節前で「天使祝詞」を唱える 写真)
①東藤次郎宅 (現在 久嗣)
・墓碑(上野マリア)
(1920年あけずの櫃より多数発見)
・あけずの櫃、聖フランシスコ・ザビエル画像(重要文化財 池永コレクション→神戸市立博物館)
マリア15玄義図、殉教者立像、天使讃仰図(洗礼)、キリスト磔刑像、象牙彫聖母マリア像
、メダイ容器2点、メダイ7点(教皇グレゴリオ14世・ザビエル他)、金蒔絵天目茶碗形椀、
キリスト昇天図、切支丹抄物、天神坐像
②中谷仙之助宅 ( 現在 茂→光)
(1922年以降登場)
・キリスト像(東大)、ロレータ聖母子像、どちりいなきりしたん(東大)、ぎやどぺかどる(東大)、
こんてむつすむん地断片(所在不明)、キリスト磔刑像(所在不明)、印籠型容器(所在不明)、、
遺物入れ(所在不明)メダイ4点(所在不明)、十字架(所在不明)、念珠3連(所在不明)、
ヂシピリナ(所在不明)、十字章入煙草盆、十字入脇差
③中谷源之助宅 ( 現在 清→孝)
・聖母子像、、キリスト磔刑像、アニュス・デイの布袋、ヂシピリナ、
「ほろひんしあ」ほか断簡(4片)(護身符か、管区長からの手紙か?)
④中谷栄次郎宅 (現在 与一郎?→栄→さとる)
・キリシタン墓碑2基(佐保カララ、不明)
1600年聖年の教皇クレメンス8世のメダイ
(個人蔵のキリシタン遺物を保管している家 4軒)
・東宅、中谷孝宅、中谷さとる宅、中谷光宅
2.下音羽 4軒
①高雲寺
・キリシタン墓碑2基(「ぜにはらまるた」)、「小泉某氏」)
②井上与平次宅 (現在 政彦)
・キリシタン墓碑(久保マリア)、女性立像
③原田辰二郎宅 ・マリア十五玄義図(重要文化財 京大)
④大神金十郎宅 (現在 敏治 →三雪) 付近の信者の世話役
・あけずの櫃、象牙彫キリスト磔刑像、天使讃仰図(主禱・堅信・品級・聖体・婚姻)
十字架、念珠
○多くのキリシタン遺物のうちキリシタン伝道にかかわる幾つかのもの
-チースリク神父著の「高山右近領の山間部におけるキリシタン研究」より-
1.聖フランシスコ・ザビエルの肖像画 (東家)
ロザリオ15玄義(マリア15玄義図) (東家、原田家)
これらの絵には、いずれもザビエルを聖人としてあらしている
ザビエルの名にはS(Sanctus 聖の略)が冠してあり、また、ザビエルの肖像画は、
1619年から1620年のザビエルの列聖運動のためオランダの銅版画家・・・が
初めて作った銅版画の影響を受けているので、この絵画はみな、ザビエルの列聖
に際して描かれたことが明らかである
この3点の聖画は、1624年、1625年にも教会との連絡が絶たれていなかったこと
を示している
・ザビエルの列福式は1619年10月で、1621年に日本にその知らせが届いた
列聖式は1622年3月で、1623年8月大勅書が執行され、その知らせは1623年
長崎についた いずれも弾圧下であったため祝典は開かれなかった
しかし、宣教師たちはこの知らせを喜びのうちに各地の信徒に知らせたと思われる
中国地方を担当していたポロ神父が1625年、山口に聖人の絵を携えた行ったこと
を報告している
・水彩、油絵、 1583年イタリア人宣教師ジョバンニ・ニコラオが聖画を描くために
派遣され天草、有馬、長崎などのセミナリオで指導 彫刻・オルガンも指導
千堤寺のザビエルの画もセミナリオ系統の画家が描いたものではないか
*千提寺のキリシタン遺物史料館のパンフレットでは、1623年頃狩野派の画家が描いたと説明
2.メダイ
(1)教皇グレゴリオ14世のメダイ(東家)
教皇グレゴリオ14世は在位僅か1年(在位:1590年12月~1591年10月)に過ぎなかったの
に、この山奥にそのメダイが残っている これは山間部の伝道についての重要な参考
資料で、千提寺のキリシタン達がよく団結し、教会側からも特別な世話を受けたことを
示している
・キリストと聖母の像がある表面のラテン文は「フィリッピン諸島への恩恵」という意味で、フィリッピン
と関係がある
・教皇グレゴリオ14世のメダイ作成に関する当時のヴァチカンの小勅書において、・・片面に主キリ
ストかマリア・・か、片面(裏)には教皇の像を描き、・・かの地方の信者・・に、これについてる贖宥
を得るため、・・(教皇の)好意のしるしとして配布すべきと書かれている
・そして6種類の贖宥の内容が挙げられている・・・キリスト教の伝道にリーダー的な役割を果たし
功績があった人等に贖宥が与えられる・・これらは、フィリピン原住民に対するキリスト教
伝道に精神的肉体的福祉を促進させる狙いがある・・贖宥の有効地域に日本も含まれていた
個数は1万個相当の数・・その枠は拡げられたそう
・重要なことは、このメダイは、一般には配布されず、伝道・・のリーダー役に当たる人々の布教心
を励ます目的であった それで、千提寺東家の場合、東家が・・組頭、庄屋・・キリシタンの頭で
はなかったかと推察できる
・日本には1595年~1600年頃に届いたのであろう 日本で現存しているのは、この千提寺と
長崎の大浦天主堂にある
(2)聖年のメダイ(中谷茂) (教皇クレメンス8世を銘じた聖年1600年のメダイ)
・聖年にローマの4大聖堂を訪問し、告解・聖体拝領すれば全贖宥が受けられる・・聖年の門を
開く儀式によって開始され、遠隔地の日本では司教が教皇勅書により執行されることになっていた
・このメダイは日本でも聖年がお行われたことを示している 聖年の規定によれば、極めて厳重な
信仰上の準備が必要とされていたので、やはり一人の神父がこの山間部へ来て、説教・告解・ミサ
が行われたことは確実である 単なる「おみやげ」ではない
(3)福者フランシスコ・ザビエルのメダイ(東家)
1619年のザビエルの列聖を記念するメダイがある
・技術的にはあまりいいものではないが、・・図柄や年号からみて、ザビエルの列福に際して作られた
ものとわかる 列福を記念するため、神父がこの山間部を訪れたのではないだろうか
1620年~1625年のかけての伝道を裏付ける資料である
3.ドチリイナ・キリシタンの写本(千提寺中谷茂宅で発見されたもの)(現東京大学所蔵)
1591年加津佐で印刷された木活字本(初版本)の写しである
・1590年巡察師ヴァリニャ-ノの要請で遣欧少年使節が日本に持ち帰った印刷機がコレジョに据え
置かれ、キリシタンの教理書等が印刷され、「ドチリイナ・キリシタン」も200~300部程度印刷され、
各地に送られ、各地ではそれが筆写されていった それらの一つではないかと思われる
・摂津に何時届いたかわからないが、・・・1593年頃か? (パウロ人見の暦)
4.キリシタン墓碑
・千提寺2萁(中谷与一宅には判読できないもう1基ある)、下音羽3基
・千提寺は二支十字形の十字架記号のある立石、下音羽は花クルス記号のある伏碑
・上野は名前であるが、銭原、久保、佐保は地名(五箇所の地域に相当)
・何れも女性の墓
・年代的には何れも慶長年間のもので、徳川時代初期のものである
○千提寺等の地区における当時の布教の状況
-右近の時代、高槻領であった千提寺等における布教に関するフロイスの日本史等の記述-
(「キリシタン研究」 チースリク神父著の「高山右近領の山間部におけるキリシタン」が詳しい) 1.1579年忍頂寺五箇荘(千提寺・下音羽が含まれる) が高山右近の領地となる
・1578年荒木村重謀反後、その論功で、1579年頃、右近は忍頂寺五箇荘を信長
より拝領する (イエズス会年報他)
(忍頂寺五箇荘とは)
・忍頂寺は平安時代初期建立の真言宗の大伽藍で、その周辺に集落が形成される
後に忍頂寺は京都御室の仁和寺の末寺となる ・14世紀以来、京都御室の仁和寺領の荘園が成立し、「忍頂寺五ケ村」あるいは「忍頂寺五ケ庄」
と呼ばれた (五ケ庄:忍頂寺、音羽、銭原、泉原、佐保)この中に千提寺、下音羽も入っている
・千提寺はこの荘園村落を母体とした後発の村の一つで、キリシタン信仰を軸として下音羽と結合し
ていったと思われる
・高山家の出身地高山荘とも近い位置関係にある
・当初、各寺院には信長の安堵状があり、本格的な布教は控えられていたようである。
とはいえ、相当な布教が行われ、かなりの信者ができたであろう
2.1581年、巡察師ヴァリニャーノが畿内視察のため高槻に来た時、山間部を視察
・高槻で盛大な復活祭が行われる (周辺から15000人~20000人が集まる)
・高山右近の領内の信徒は既に18000人(領民の約70%)おり、20か所に礼拝所
や小聖堂が設けられていた・・本年の受洗者は2500人を超え・・受洗が絶えない
・巡察師は視察を終える前、聖体の大祝日の日に、再び高槻を訪れ、荘厳なミサ、行列
を行った 高槻での司祭の常駐を願い、これが受け入れられた
それから、巡察師を連れて山間部の知行地を廻った
・・・巡察師が数日間かけて巡ったのは・・高山領と忍頂寺五箇庄であった
そして、この山間部では、既に20か所で礼拝所ができていたそうである
3.1582年忍頂寺五箇荘、能勢での本格的な布教の開始
・1582年の本能寺の変以後、その論功で、能勢3000石を秀吉から拝領し、本格的
な布教が始まった。(江州で1000石、全部で4000石) (イエズス会年報)
(1)能勢の布教)
・フロイスは1582年の項で、信長が・・右近に・・能勢という・・・知行地を与えたので、
右近の父ダリヨは神父(高槻主任神父フォルナレティ イタリア人)修道士ヴィセンテと
一緒にかの地へ出かけ、・・布教を始めることにした (ダリオ越前から戻る)
そこで2000人以上が受洗した
・ところが、・・高槻の教会で急な用事がおこり、神父は急いで帰らなければならなくなり・・・
布教を続けることが出来なくなった
(1585年イエズス会年報)
・フォルナレティ神父、セミナリオで多忙極め、布教時間がないので神父を増加するよう報告
・秀吉が右近に新たに与えた領地に出かけ、約3日間で2065人に洗礼を授けた
他に1000人余り洗礼を授くべき地が数か所あるが、伝道する人がいない
・右近の父ダリオは、これらの地に十字架及び聖堂を建てることを命じた
彼らは洗礼を受けるに先立ち、同所に在った寺院を取り壊した 彼らはずっと前から進んで
教えを聞き、これを解してキリシタンになりたいと願っていたので、教会の門をくぐるに違いない
(2)忍頂寺五箇庄での布教)
・1583年フォルナレティ神父、忍頂寺を根拠地にして、一ヶ月間の集中的な布教
を行う 230人の受洗 (布教の様子)
・・坊主達は、信長の生存中は・・キリシタンになることを望まなかったが、・・右近は人
を遣わして、自由に説教を聞き、悟らないものは他の生活の途を求めることを命じた
ので皆決心して、約100人がキリシタンとなった
その領内にある神仏の殿堂は、不用になったものは焼き、適当なものは教会とした
その中の忍頂寺という・・有名な寺院は・・・立派な聖堂の一つとなった
ほぼ同じ時期に能勢でも同じような布教活動が行われた
(能勢方面の布教は、恐らく1563年布教が行われた高山、余野等の地を根拠地として行われたのであろう)
4.高山右近明石転封後の状況
(概要)
・1585年右近は明石へ転封となり、セミナリオ大阪移転 フォルナレティ神父高槻に残る
領地は秀吉直轄となる 山間部はキリシタンのシモン安威了佐の管理となる。
・1587年の秀吉の「禁教令」までは、右近がいた時とほぼ同じ状態で信仰が維持され
たようであるが、それ以降は外部の宣教師と連絡を取りながら、信徒によるある種の
「信仰共同体」(コンフラリア)が形成され、信仰が維持されていたようである
・キリシタンの庇護者であった安威了佐がいつまで山間部の管理者としていたのか
わからないが、1600年の年報では「異教徒の支配下」と記述されており、安威了佐
の名前は出て来ない
・その後も、大阪、京都の宣教師が山間部の信徒を訪ねており、信仰共同体が維持
されていたことがわかる
・「フランシスコザビエル」の画は、列聖後に作成されたもので、日本に列聖の知らせは
1623年頃に届いたともいわれているので、その頃にも信仰が維持されていたことが
わかる
・江戸時代の厳しい禁教令下のなかでも、千提寺、下音羽の人々は固い結束のもとに
信仰を維持してきたと思われる
・次に、(1)のチースリク神父の資料と(2)の茨木市の資料をもとに当時の状況を考える
(1)キリシタン研究 右近領地の山間部におけるキリシタン チースリク神父著より抜粋
(大阪の神父セスぺデス神父書簡)
・右近の明石への転封に際し「高槻の・・全ての聖堂は、秀吉の指示により、神父達の意志に任せ
・・留まり・・キリシタンの世話をしてもよい・・妨害してならぬということになった
今まで通りフォルナレッティ神父を高槻に残すことに決めた 彼はヴィセンテ修道士及び数人の同宿
と共に同地にいる
・秀吉は右近の旧領地の大部分の代官・・管理人として祐筆安威殿という善いキリシタンを任じた
彼の管理におかれた地域には、かの山間部のキリシタンの大部分が含まれている
・高槻へは16~17歳の秀吉の甥(羽柴秀勝)が移ってきた そして山間部は・・自分の所有にし
安威殿をその代官に任じた
・1587年秀吉禁教令 フォルナレティ神父高槻を去る 聖堂の破壊
(1587バテレン追放令後)
・小豆島のオルガンティーノ神父と連絡をとっていたことがフロイスの書簡でわかる
1587年オルガンティーノの小豆島からの手紙:「高槻及び・・山間部のキリシタンについて
甚だよい知らせを受けた
(1596年フロイスの報告)
・大阪から一人の神父が度々高槻及び旧高山領のキリシタンを訪れていることが明記されている
「・・・彼等は皆信仰を堅く保ち、信心の業を続けており、彼らと付き合っている人に多大の感化
を与えている
(1600年の年報)
大阪の町から我らの会員は・・・高槻の山間部へ行った それは異教徒の支配下にあるにもかか
わらず、彼等は先年の試練の最中でも、信仰をよく守り通してきた(安威了佐はいない)
以前司教のごとき者であったある坊主たちによって我らの聖なる教えに帰依するように説得された
彼等はキリシタンでなければ・・仲間に受け入れない・・ほとんどは純朴な人で農業を営んでいる
・・・右近の時代に改宗して以来・・我らの事をよく理解している・・その模範と権威によって・・
キリシタン達を保持している
(日本キリシタン宗門史 第2章 1600年) ・京都に隣接した諸州でも、宣教師を求めていたが、思うに任せなかった わずかに大阪や京都の
神父達の訪問を受けるくらいのものであった かくて、神父はジュスト右近殿の旧高槻の山間に
入り込んだ ・・同所の住民は全てキリシタンで、未信者が彼らの中に入ることは許されなかった
キリシタンになった仏僧達の力によって百姓はおおかた改宗した
・慶長年間(1596年~1614年)も、毎年あの山間部の信者を訪れていたことは確かである
しかし、それは他の巡回と一緒に行われていたので大雑把でしか言及されていない
慶長年間の年度報告で見ると、京都下京の教会から毎年、丹波・丹後に出かけたので、ついでに
あの山間部の信者を訪れたことが度々明記されている
(1604年の年報)
教会側では、・・遠距離のため都に来られない人々の世話も怠らず、彼らを訪問するよう配慮した
たとえば、津の国の山間部のキリシタンは、今年も数回にわたって、告解や聖体の秘跡を授け
られた・・・彼等は極めて単純な人々で、かの森林と山岳の中で異教徒に囲まれて、あたかも
茨の中のいとも美しいバラの花に例えられるほどに清らかな心と純粋な信仰とを
守っている・・・
(1606年の年報)
丹波に出かけた神父が途中あの山間部を訪れた
(1606年の年報)
一人の神父があの山間部を訪ねた・・告解・聖体拝領・・今まで罪のつまずきとなっていた信者間の
対立が調停された 皆ははなはだよく理解されたので、以前敵対していた人々は今やきわめて
親しくつきあい、全ての信者に感化を与えている
(1616年のジェロニモ・ロドリゲス神父の書簡 -日本に潜入して残ったイエズス会の上長-)
上地区の上長であったクリストヴァン・フェレイラ神父は・・・津の国の山間部の信者の世話をしていた
(2)茨木市の資料「茨木のキリシタン遺物と歴史」より抜粋
(安威了佐について)
・キリシタン 霊名シモン 秀吉の側近で信任が厚かった 祐筆 教会のために尽力した
・「エヴォラ屏風文書」の中に、安威了佐とキリシタンや秀吉との関係を物語る資料となる様々の
書状(1580年~1587年頃のものと思われる)が含まれている
・1586年日本布教長コエリヨが大阪城を訪問した時の接待役を務める
・その後も祐筆の職に在り、摂津守に任じられたらしい ・秀吉のバテレン追放令に際しては、追放処分の内容をコエリヨに伝える役目をしている
(海老沢有道著「屏風文書の研究」)
(安威了佐のキリシタン庇護)
・かって高山右近の領地であったは、「シモン」と称せられるキリシタンの願いにより、
オルガンティーノ師はダミアン・マリン師に対し、(高槻の)山間部のキリシタンの世話を
するように命じた
右近が去った後、前領地が異教徒によって管理されたため信徒は甚大な損害を被った
・・・かって一向宗の信徒であった人々が信仰に動揺をきたしていたが、ダミアンがきた
ので再び強い信仰を取り戻し再びキリシタンの数は増加しし、司祭が定住することに
なった・・・ロケと呼ばれた、元仏僧で良きキリシタンとなった老人は、清水という寺院の
長を務めていた人で、その寺院は、教会となっている (フロイス 書簡 日本史)
(当時の信仰生活) -「コンフラリア(信仰共同体)」が信仰を維持した-
・一種の組を組織し、様々のキリシタンがその中に振り分けられ、グループができ、日曜ごとに 全員は一軒の家に集合し、長時間にわたって霊魂のためになる行事を催して過ごす
そのためには、霊的読書とそれに基づく語らい、一緒に短い祈りを唱え、キリシタン集団の将来
をデウスに委ね司祭等が復帰できるように祈願した
これらの家においては、復活祭、降誕祭、そのほか主要な祝日を祝い、四旬節の金曜日には
鞭打ちの苦行を行った
また、聖週間には血が流れるほどの鞭打ちの行をした
都だけでもこうした組が7~8できており、婦人たちは、男子と別に、これまた同じ仕方で互いに
組を組織する方法を講じている
デウスは・・組織をよりよく運営させるために、・・あらゆる場所において・・熱心で献身的な
キリシタンをあてがった それらのキリシタンは、これらの組頭のような役割を果たし・・・
見事に信仰をたもっていく
彼らの中には、幾人かの盲人がおり、彼らはキリシタンの教義をよく理解していて、説教したり
教理を教えたりして大きな成果をもたらしている
彼らはこうしたことを実行することによって・・毎年多くの霊魂を改宗させていった
これらの頭目(カサベ)の第一人者とみなされるのは、加賀の国いるジュスト右近殿である
本年かれは・・加増され・・32000俵の俸禄をえている・・
(フロイス 3 第66章 (地方のキリシタン達が司祭なしに信仰をよく保ち得た次第))
5.1591年巡察師ヴァリニャーノ神父が高槻を視察
・「かつては右近、三ケ、池田、結城に属し、4万人以上のキリシタンが・・いた領地は、・・まるで荒れ
果て・・・荒涼とした無人の地を思わせた」
キリシタン達は、異教徒の間に分散して押し込められ、・・その多数は棄教させようとして異教徒
から迫害と侮辱を加えられて、それを忍び、歓喜のうちに神父を向かえ、告白をしようと来訪した
迫害前のの状態に戻るようにと、祈り・苦行・断食に励んでいた。
・高槻領内でも幾つかの農民のキリシタン集落では、・・聖なる教えを捨てる決心をせぬばかりか、
自分たちの間に異教徒が来て住むことを断じて許さぬようにして団結している
・・その状態を・・困難をなめたが・・克服し・・維持してきた
なぜなら、領主たちは、異教徒であるが、・・領土を耕作するこの民を失うことを恐れ、・・
放任して置くことに決めたからである
従って、高槻領の農民が多数、隊をなして、巡察師に逢った
また、彼等の頭目となっている二人のキリシタン・・一人はジョウチンといい、彼らの教師でも説教師
でもあり・・その地の統治者は、・・執拗に棄教させようと・・脅かし・・承知しないので実際に・・十字架
を造らせ・・死刑を受けようと心の決めたとき・・右近の友人の働きでまぬがれた
・高槻に死亡し埋葬されたいたアルメイダ修道士の骨を持ち出し、長崎に埋葬した。
(フロイス 5 第25章) 6.26聖人殉教の時の対応 (フロイス 26聖人殉教記 P248)
1596年~1597年 高槻の山のキリシタンは都で起こったことを聞いて、全員教会に
集まり、男女・子ども等が死ぬ準備をしていた。
○徳川時代の厳しい「禁教令」後の信徒の状況
1.山間部の領主について
-チースリク神父著の「高山右近領の山間部におけるキリシタン研究」より-
・「ザビエル」の画が山間部にもたらされた時期は、恐らく1625年頃であろう
この時期はキリスト教の禁教政策を徹底した三代将軍家光の世であった
・山間部の地域は、既に異教徒支配下(1600年年報)にあったが、領主は誰であったか
明確でない その一部が京都所司代の知行地となっていた
・「大阪府全志」によれば、銭原、長谷、清坂、下音羽、忍頂寺、大岩、大門寺、安元、
泉原、千提寺、高山、佐原を含む地域は、1649年永井直清が高槻城主となった際に
永井家の知行地にあてられたとある
・上音羽は、1619年京都所司代板倉氏の領地に、1655年は徳川直轄領、1660年以来
松下氏の知行地とされている・・いくつかの疑問がある・・恐らくあの地域は徐々に永井家
の領地となって行ったと思われる 結論として・・17世紀前半は大部分が所司代板倉氏
の知行地で、・・最後には銭原、桑原の2地区を除いて全部永井氏の手に入ったと言って
も差し支えないだろう (所司代板倉氏:1619年着任~1655年まで在任)
・所司代板倉氏はキリシタンに対し寛容な態度をとっており、なるべく流血の迫害を避けて
いたそうである その間は比較的平穏な状況であったかもしれない
ところが、島原の乱後は、取り締まりが一段と強化され、組織だったキリシタン政策が
徹底されるようになった その役目を一任されたのが大目付井上筑後守であった
この井上筑後守(1639年着任~1655年まで在任)の在任中徹底的な探索が行われた
「摂津国・・板倉周防守領分、下音羽より宗門多く出で申し候」 (計利斯督記)
・また、永井家文書に、その時に徹底的な捜索を裏付ける資料(永井家文書)があり、
キリシタンであるがゆえに「特別監視されていた」作兵衛が病死した際に不審なる点が
あるかどうか検死が行われ、浄土宗の寺院で葬儀されたことなどが記述されている
このことからも山間部における取り締まりの厳しさを示している
・1635年の鎖国以後、幕府のキリシタン追及は厳しさを増し、その直後、山城・乙訓の
勝竜寺城城主永井直清(1649年 高槻藩永井家初代藩主)、老中から領内のキリシタン
探索と捕縛を命じられ、転宗を誓約した「南蛮起請」を提出させている 1649年高槻藩の領主となった直清は領内で10人ばかりキリシタンを摘発し、同じ頃
高槻領となった下音羽で、かねてキリシタンの嫌疑を受けていた農民が病死し検死を 受けています (高槻市いにしえ物語)
2.徳川時代の禁教令後も山間部で信仰が守られていたことについて
・中谷清宅の1607年のイエズス会からの手紙でもわかるように、宣教師と連絡を取り
合っていたことがわかる
(中谷家所蔵の手紙)
・イエズス会に日本管区長が中谷家に送った手紙が聖母マリア画像の裏から発見され
た 慶長14年(1609年)の手紙 (久保義明氏資料)
・また、イエズス会報では、1596年、1600年、1604年、1607年の報告書で山間部に
立ち寄ったといわれている
・聖フランシスコ・ザビエル画像の「S」は、列聖された1619年以降の作であり、厳しい
迫害にあいながら信仰が守られていたことがわかる
・発見されたキリシタン遺物が示しているように、宣教師の巡回等が全くなくなってからは、
聖具などを主だった家に集め隠し、キリシタン同士婚姻を続け、外部の人間を入れ
なかったことで、明治まで信仰を守りとおせたものと思われる。同地は、人里離れた
不便な奥地の山間部であったことが幸いしたと言える。
3.大正の遺物発見時に、隠れキリシタンとして残っていた家
(新修茨木市史年報第四号より抜粋)
・清溪村地域千提寺では、7戸
①東藤次郎、②アチャ(廃絶)、③中谷儀右衛門、④中谷要助、⑤中谷源次郎
⑥中谷藤太郎(廃絶)、⑦中谷源之助
・(大正11年(1922年)の中谷糸子の話)
旦那寺は、下音羽村曹洞宗高雲寺であるが、深夜オラショを唱え、ときに寺尾山の
尾根で夕日に祈りをささげた。糸子の父右衛門は、復活祭の前四旬節の断食を守り
、行開きの日には、右手の御縄を持ってオラショを唱えながら何度も左肩を打ったという
(「総合清溪村史」奥野慶治著)
奥野氏は最後の隠れキリシタンから唯一の聞き書きという貴重な仕事を残した人で、
茨木中学校で藤波氏とほぼ同時期に天坊氏の教えを受けた
(総合清溪村史 奥野慶治著 昭和10年より抜粋)
・確認されたキリシタン9戸(千提寺7戸 高山村2戸)
①千提寺
東藤次郎、アチャ(中谷源之助下の所に在り 今廃絶)、中谷儀右衛門(現戸主中谷義一)、
中谷要助(現戸主中谷栄太郎)、中谷源二郎(廃絶)、中谷藤太郎(現戸主 中谷千之助)
中谷源之助
②高山村
高山村には2軒(北中清太郎の一族)あったが、村方より奨められて転宗、光明寺の
門徒となった
・また、佐保村の古き時代の墓地であったと伝える字地にクルス、サンマイ谷と称する所が並んで
存在して居る・・・佐保カララの墓碑と重ね合わせると佐保にも相当信者がいたものと考えることが
できる
・幕府の迫害によって幾程の犠牲者を出したかについては、「キリシタン出で申す國所の覚」
(萬治元年、明暦4年6月16日 1658年)摂津の所に高槻18下音羽多数とあり、永久寺
記録には、文政13庚寅(1830年)キリシタン異法改御仕置6人別記とある
「禁教令下の信仰生活-中谷糸子より聴衆せし事実を基礎に記す」
・外面は政府に従順にし、旦那寺は高雲寺(下音羽・曹洞宗)・・葬式等もその宗旨で行う
・内面は天井裏、部屋の隅の小暗き長押等に小さい棚を設けて祭壇とし、深夜オラショを唱えた
・・このことは絶対秘密で夫にすら話さない ただ肉親の親が子どもに伝授し、問答書の写本を
伝えた(東家蔵キリシタン抄物、中谷千之助蔵ドチリナキリシタン等)
・10歳のころ祖父の死に際し高槻から検死がたち、皆恐れて色々御馳走して帰し、事なきを得、・・
高槻藩では、彼らをキリシタン類族として要視察人扱いにしてたからであろう
高雲寺も「千提寺にくるとそれがあるから何となしに変な気持になる」と・・語っていた
・父吉衛門はなかなか熱心で、春燕がくる時分になると行をした その行は30日間(48日とも言った)
入りの日から開きの日まで2食にし、開きの日になると風呂で身を清め「お縄にかかる」と言って
お縄を右手に持ってオラショを唱えながら左肩を何度も打ち、それが済むと鶏肉で精進落としをする
とのことで、彼らにとって・・一年中の最も大切な行事であった (四旬節 復活祭)
・降誕祭には明瞭でない
・洗礼は・・子が生まれるとまずマリア様に水(オスチャという容器に盛る)を供へ、それを頂いて中指
に紙を巻いて筒の形にし、供えた水に浸して額に捺印するのが儀式であった
これを御判を頂くと言って、・・布製の御判を用いたこともあった
・・教名もつけたも相違ないが表向き使用しなかった
・高槻藩では天和2年(1682年)5月制札を出した
・毎年の始めに宗旨改めとして、村民を庄屋宅または寺に集めて禁教の事を申し渡し、時々大改め
として15歳以上の男子を集めて注意したりした
・宗旨人別御改諸入用帳、寺送り証文、寺受証文、人別送り状、宗旨改帳等数多く残っている
・中谷源次郎の姉フミが・・役人が調べに来た時に、不用意に秘密を漏らしてしまい・・恐ろしく
なって山に逃げ込だ その後も役人が数回来たが山に逃げ込み押し通してしまった
以来皆恐れて、下音羽の人は器物を堂山に埋蔵してしまった
・人々は大臼の筋だとし危険視して結婚等はしなかった 信者は信者でないものを嫌った
秘密が漏れることを心配して、信者相互の結婚が行われていた
・幕末期における信仰の程度は、「この仏を信じると災厄にかからないとか、牛の病を治すとか
に止まっていた
*ほぼ同じようなことが、「茨木市史第6巻資料編近代 第4節キリシタン遺物 459キリスト教
信仰についての聞き書き(藤波大超)」や、「茨木市史 第9巻資料編 美術工芸 茨木の
キリシタン遺物と歴史 千提寺・下音羽の習俗・口碑・祈祷文」、「ビロー神父の手記」において
も書かれている
○キリシタン遺物発見後の千提寺地区でのキリスト教の布教等について
・1873年(明治6年) キリスト教解禁
.1878年(明治11年)千提寺の婦人2名 大阪川口教会でキリシタンであることを打ち
資料確認のこと
明ける
パリ外国宣教会の千提寺調査2回 ・1925年(大正14年)千提寺教会献堂式(ビロー神父)
-隠れキリシタンへの布教のための教会建設-
(1925年は土地購入で、教会建設は3年後の昭和3年という記事もある)
(この教会は、当時の司教座聖堂であった川口教会の主任司祭ビロー神父
に託され、伝道師の大前氏、人見氏が布教活動を助けるため常駐した)
・1926年(大正15年)ローマ教皇庁使節千提寺訪問
・1948年(昭和23年)千提寺教会廃絶(約20年ほど存続)
・1980年(昭和55年)千提寺に黙想の家「愛と光の家」が建てられる
・1987年(昭和62年)茨木市立キリシタン遺物史料館建立
年代確認のこと
・ビロー(Birraux)神父
・フランス人 パリ外国宣教会の司祭
・明治23年6月来日 広島・宇和島・京都・伊勢・津・名古屋と移動する
・1924年大阪司教座聖堂川口教会主任神父となる 15年間の在任中千提寺近辺の
信徒を探し、彼らを一つの共同体に育てていく事に献身 千提寺に教会建設(東側入り口付近)
1939年神戸住吉教会で帰天
(ビロー神父の手記がある 主な内容)
・1923年9月、ピエール(日本人信徒)は、ビロー神父に会い、4家族のうち2家族(オガミキンジロウ
とナカタニゲンノスケ)に会えた
大阪では、・・この発見に驚き・・司教や宣教師たちも・・喜び・・この昔のカトリック信徒を蘇らせるため
になみならぬ努力をした
同年12月ビロー神父は・・見山(下音羽)の村落に行った・・高雲寺・・に行った・・石の墓・・大神さん
・・と出会い・・先祖伝来の宗教用具・・を見せました
さらに千提寺・・まで足を運びましたが・・そのあたりのひとは皆、口のきけないような人のように完全
に口を閉ざしていました。
・1924年1月ピエールはこの村でアパートを借りることができ、そこに住むようになり、ビロー神父は
再び千提寺を訪ね、ピエールのお陰で、壁が破れ、2月には中谷源之助と86歳の祖母と懇意に
なった
(中谷源之助の祖母中谷イトの話)
・祖母はロザリオをくりながらアベマリアを暗誦した 350年間先祖から受け継がれた口伝えの
アベマリアはラテン語で、全く誤りのないものであった
この祈りは時々唱え、家族に良くないことが起きた時には特別に唱えることや、昔、人が亡くな
るとロザリオ3環唱えていたことや死者の死体を確認するため高槻から役人が来ていたことや
葬式にはお坊さんを呼びお経の間、小さな声でアベマリアを唱えたことなど話した
・1860年以来の事を話し、8~10家族の近隣の人たちや、親戚の者たちが人目を避けて
毎日曜日、順番を決めた各家庭に集まり、ロザリオの祈りをしていたことや春(四旬節)の40日
間の食事は夕食だけであったことから近隣の人は「春になるとあの人たちは顔色が悪くなる
奇妙な習慣だ」と噂されたことや40日がすぎると鶏やイノシシの肉を食べてお祝いをしたことを
話した
・また、祖母はキリシタン信仰の危険性を危惧していたので、今は何の恐れもないことを知らせた
・昨年(1926年?)見山(下音羽)の井上と言う人をピエールは見つけた
(井上の話)
・20年前祖父が臨終のときに、そばに呼び寄せ、私にキリスト教徒であること、親戚の3~4家族 は皆信徒であると教えてくれた
迫害を恐れて信仰上の用具を一つの箱に入れて山の中に隠したことを告げられ、その場所に案内
された その場所を探したが見つけることが出来なかった
(「カミ(上) サイジロウ」についての話) -確認された10人目の信者(サンケイ新聞)-
・約50年前に私の家の横に「絵踏み」の様子を伝える大きな石があった 私の父は踏み絵を避ける
ため十字架のそばで転び者となったと話した
・軍人で、中国・台湾で多くの勲章をもらい恩給を受けていた人で、宣教師を丁寧に扱い、・・ビロー
神父の手助けをしてくれた
・ビロー神父やピエール行き来することに好感持てなかった近くに住む仏僧は、警察に共産主義者
ではないかと讒言したため、ピエールはアパートを移らざるをえなくなり、カミ サイジロウに相談
したところ、新しい住居を手に入れることについて助けてくれた
そして、この件を大阪府知事に申し出たところ、知事は宣教師に1通の書状を与えた これにより
中傷は無くなり、二つの村に自由に出入りできるようになった
・新たに借りた家でビロー神父が4月29日聖なる犠牲のミサを捧げた それは300年ぶりに行われた
初めてのお祝いの日であった
・8月7日、初めて6人の昔の信徒に繋がる子孫が聖なるミサに参列した
・千提寺の村には40家族を数え、ほとんどの人がキリシタンであったに違いない 今日までたしか
なのは6人、まだ名乗り出るかもしれない
(見山(下音羽)の「パゴダ」思わせる仏教寺院 高雲寺?)
・下音羽の北西3キロの緑に埋もれた集落の仏教寺院は、その場所に信徒が集まるに違いないと
思われるほどの建築様式で、・・多くの信徒の家族がその周りに住んで、話し合いが決まった日に
は喜んで集まる この寺院の墓地には二つのキリスト教徒の墓石があり、埋葬されている人が
アベマリアの祈りの始まりと言われている
・愛と光の家
フランス人のマルタ・ロバン列聖を望む信徒の共同体の黙想の家
あるとき この共同体の2人が来日し、神戸の中山手を拠点に活動場所を探していたら、
大阪教区田口司教より、千提寺を紹介されたのがきっかけ 最初は村人には反対された パリ外国宣教会ケヌエル神父が尽力
フランス人マルタ・ロバンは、聖痕を受け、長い間ご聖体のみで生きた女性として知られています。
主と受難を共にし、主への愛に生きた彼女を通して「愛と光の家」は始まりました。これは
父親である一人の司祭の指導のもとに、自分を奉献した信徒で成り立っています。
「愛と光の家」は世界中に広がり、日本では大阪の茨木市にあります。
(感想)
長き禁教の時代を信徒の共同体によって信仰を守ってきたという千提寺という里に、
「愛と光の家」という信徒の共同体が黙想の家を設置され、右近時代の信仰心やこの
千提寺での信徒の獲得を願ったビロー神父の志が継続されていることに、神と右近の
働きを感じざるを得ません
何よりも入口に右近の像が置かれていることは、このことを象徴しているのではないか
今でも千提寺の方々は、集落内の人との間で結婚が行われているようで、互いを姓で呼
ぶのは分かりにくいのか、ザビエルさん(東家)、ロレータさん(中谷(仙)家)、クレメンス
8世のメダイさん(中谷(栄))、ロザリオさん(大神家)などと呼び合っておられるようで、
信徒ではないそうであるが、先祖のキリシタン遺物を大切に守っておられ、我々にもそれら
の遺物を自宅で拝見させて頂くことに、いやな顔をせず協力して下る姿に聖霊を感じざる
を得ません
中谷(仙)さんのお宅では、イタリアの「ロレータ」に行かれたそうで、遺物を大切にされて
おられる思いが伝わってきました
また、資料館の受付等のお仕事も、遺物が発見された家の方々で行われているようです
この静かな里に、クルス山をかすめるように第二名神の線引きがされ、工事が進んでいる
ことが大変残念である
高雲寺(下音羽)について
1.高雲寺について
・1610年代の後半(1619年?)に創建
・千提寺・下音羽のキリシタンの「仮託の寺」であった
「旦那寺は高雲寺(下音羽・曹洞宗)・・葬式等もその宗旨で行う」 (中西イトの話)
≪茨木ロータリークラブ作成のビデオで「高雲寺」について語られていたこと≫
-茨木ロータリークラブが25周年で作成した「クルス山の夕映え」(藤波大超氏の語り)- ・曹洞宗の寺である
・キリシタン墓碑がある 何れも地元の花崗岩でできている
①左側 かまぼこ型墓石 上部ギリシャ十字章 その下に「銭原(ぜにはら)まるた」
左右に「けい長15年10月11日」 寺の手水舎の台石に使われていた
②右側 左より少し小さめのかまぼこ型墓石
上部にギリシャ十字章 人名・霊名は不明(小泉の名?) 慶長18年5月24日 寺の靴脱ぎ石に使用
・親寺は大阪「崇禅寺(そうぜんじ)」(細川ガラシャの墓)である
(”なんと、高雲寺と崇禅寺は結びつている-親と子の関係であった-)
・高雲寺の過去帳は崇禅寺に預けられていたと言われているが不明(第二次大戦後不明)
200年前しか遡ることができない
・キリシタン遺物が発見された中谷○○○、東、大神○○は、何れもこの高雲寺の檀家
であった
・つまり、高雲寺(崇禅寺)は、この地域でのキリシタンと密接な関係があったのであろう
その関係は、キリシタンの隠れ寺であったのではないか
(崇禅寺)
崇禅寺(そうぜんじ)は大阪市東淀川区にある曹洞宗の仏教寺院。山号は「凌雲山」。
寺伝では天平年間、行基により創建されたとされる。この経緯から当初は法相宗寺院であった。
嘉吉元年(1446年)6月、嘉吉の乱により赤松満祐に殺害された足利義教の首は、本領に引き上
げる途中の赤松氏軍勢によってこの寺に放置された。この因縁により、以後義教の菩提寺の一つ
となり、管領細川持賢により伽藍と所領を寄付され曹洞宗に転宗、また細川氏菩提寺の一つとなった。
明治2年には一時摂津県の県庁が置かれていたことから、境内は大阪府史跡、大阪市史跡に指定。
細川持賢による大伽藍は文明15年(1483年)、早くも戦火によって焼失、その後慶安年間になって
ようやく再建されたが、それも昭和20年(1945年)6月7日の大阪大空襲によりことごとく焼失
した。現在の伽藍は平成元年(1989年)になってようやく再建がなった鉄筋コンクリート造り
のものである。
(細川ガラシャ菩提寺)
ガラシャは自らを家臣に殺害させて、細川家大坂屋敷に火をつけ、死去した。その後
、宣教師オルガンチノが焼失した細川屋敷より遺骨らしき物を掘り起こし、細川家菩提寺
である崇禅寺に納めたとされる。この経緯から崇禅寺は細川ガラシャの菩提寺となり、
先述の足利義教の首塚と並んでガラシャの墓が残っている。
(細川家菩提寺である京都大徳寺塔頭高桐院にもガラシャの墓がある)
2.下音羽 4軒から発見されたキリシタン遺物
①高雲寺
・キリシタン墓碑2基(「ぜにはらまるた」)、「小泉某氏」)
②井上与平次宅 (現在 政彦)
・キリシタン墓碑(久保マリア)、女性立像
③原田辰二郎宅 ・マリア十五玄義図
④大神金十郎宅 (現在 敏治 →三雪) 付近の信者の世話役
・あけずの櫃、象牙彫キリスト磔刑像、天使讃仰図(主禱・堅信・品級・聖体・婚姻)
十字架、念珠
て作られた
5章) 資料確認のこと