平成25年06月01日 - So-net

院外茶話
vol.97
平成 25 年 6 月 1 日
栄華を極めた花街が
ラブホテルの街に変わって
その中にライブハウスができて
円山町は異空間
おでんを買ったと聞けば、坂を登った角にある
コンビニと想像がついた。
その円山町とは古くからの三業地で、昭和
の始めには置屋や待合がおよそ 100 軒もあり、
芸者の数も 400 名を越えた。代々木練兵場から
は夜毎将校たちが通って、円山町の全盛期であ
った。
ところで、老婆心ながら三業地という言葉
に馴染みがない若者のために。
三業とは待合、料亭、芸妓置屋のことを言
って、要するに花街の別名です。
ご用聞きや小間使いが、料亭に出入りをす
る時には、勝手口を使って裏手に出る。そこに
は細い坂道が入り組んで、これを猫道という。
急勾配は階段になって、着物の芸者衆に合
わせて段差は低く、一歩幅に作られている。ど
こを見ても、この街の主役は客と芸妓であった。
円山の中心、
円山の中心、道玄坂地蔵。
私は渋谷円山町の夜をこよなく愛する。劇
団朋友の芝居、「円山町幻花」を見たのがきっ
かけだった。
芝居のモチーフになったのは、90 年代にお
きた東電 OL 殺人事件で、円山町で殺された娼
婦が昼間は一流企業の OL だったことから、新
聞も週刊誌もこぞってセンセーショナルな報
道をした。
殺人犯として逮捕されたのは、1 人のネパー
ル人で、15 年の間服役をしていたが、DNA 鑑
定の結果、無罪判決が出て母国に帰ったニュー
スは記憶に新しい。
芝居はあるビルの屋上を舞台に展開をする
が、中味は別として背景に映し出されたラブホ
テルの風景がとても懐かしかった。
断っておきますが、私はラブホテルにも娼
婦にも縁があったわけではなく、円山町から歩
いて数分の桜が丘に住んでいたので、地元の風
景としてよく覚えていただけです。
役者の台詞に道玄坂地蔵が登場すれば、近
くの料亭が目に浮かぶ。殺された OL がパンや
段差の低い階段は芸者衆のため。
段差の低い階段は芸者衆のため。
一時は黒塗りの車で溢れたけれど、オイル
ショックの後は急速に寂れ、加えて地上げが始
まれば、料亭も次々と姿を消した。それでも私
が桜が丘に住んでいた 80 年代までは、花街と
して栄えていたような記憶が残る。
昼間に歩けば、二階から稽古をする三味線
の音色が聞こえてきた。
その料亭や旅館の経営が傾く頃、岐阜の御
母衣(みほろ)ダムの建設に伴って、立ち退き
を強いられた人々が円山町に移り住み、その保
証金を元手にできたのがラブホテル群です。
今では大小 100 軒くらいのホテルの合間に
老舗の料亭や居酒屋が散在する。続いてクラブ
やライブハウスができれば若者も集まってき
て、実に混沌とした街並みのできあがり。
現場になった建物もそのままで、この地下にあ
る居酒屋は、妙に落ち着いて酒が飲める。
私が入れない若者の店も増えたが、若者が
入れない大人の店も、まだまだ残っている。
そのうちの 1 軒が、パリの番地プレートだ
けを看板に掲げたバー。プレート以外は普通の
マンションの入口と変りはないので、バーと見
分ける人はいないと思う。中に入れば全く静か
な異空間で、ここで飲む一杯のスコッチは格別。
失礼して撮らせてもらった
失礼して撮らせてもらった島
撮らせてもらった島田。
ここ 30 年の変遷を思って、感慨にひたりな
がら入った小料理屋には、80 歳も過ぎようか
という女将がいた。品書きもなければ、食材の
ケースもない。
とりあえずビールを頼むと、あとは女将の
気まぐれでポツリポツリと肴が出てくる。それ
は精進揚げだったり、ハンペンの焼き物だった
り。客の方から何を食べたいという、意思表示
をすることはできない。
皿を出す間も膝が痛むようで、すぐに腰を
かける。聞けば、かっては待合を営んでいて、
料亭との違いは、自前の料理を出さないこと。
客は待合で時間を潰し、お座敷の準備ができれ
ば料亭に行く。
この間提供されるものは、どこの待合でも
決まって、ビールと何故かメザシが2本。こん
な話しだったけど、他の人に聞けばメザシが何
かに変わるのかもしれない。
大勢いた芸者も今は 10 人ほどになってしま
った。その芸者の花代は関東では玉代とも、線
香代とも言って時間あたり 3000 円とのこと。
いったい、いつの時代の話だろう。
線香代とは線香1本燃え尽きる程度の時間
を目安とする。測ったことはないけれど、30
分もかかるだろうか。最後にぼそっと木遣りく
ずしを歌ってくれた。
あれから数年ご無沙汰をして、円山町を訪
れたら、案の定くだんの店は姿を消して、街の
雰囲気も若者に押されがち。それでも、老舗の
居酒屋は、そのままの形で営業をしていたし、
飛び切りの魚を出す寿司屋もある。殺人事件の
これだけを見てバーとわかる人はいない。
これだけを見てバーとわかる人はいない。
今、円山の芸者は 4 人に減った。当然置屋
も検番もなくて、本当に芸者と呼んでいいもの
か、わからないが、今はこの人たちも個人営業
を始めている。
そのうちの 1 人、鈴子姉さんが新たに開店
をしたバーが藤むら。畳敷きのちょっと変わっ
た造りの店で、出迎えてくれたのは、若いなが
らきちんと着物を着た芸者さん。
帯の左側には扇子、右側には今風に携帯電
話が挟まっている。厨房にいるママは、ふきの
とうを煮てみたり、鯛の潮汁を出してみたり、
どれも春の香り。
鈴子姉さんはお座敷が撥ねると、この店に
顔を出すので、運が良ければ会うことができる。
もっと運がよければ、お座敷のままの島田を見
られるかもしれない。
大人の遊ぶところが少なくなったこの街に、
大人の居場所を取り戻したい。そのためには昔
のスタイルにこだわらず、芸者が芸を披露して、
本物の和を残す。これが鈴子姉さんの取り組み。
円山を歩けば、町並みの変遷が見える。粋
な遊びの変遷が見える。あれだけ栄えた街の主
役たちも、表舞台から去った。
でも、そんな人たちも、今は小料理を営ん
でいたり、アパートを経営したり。円山の栄光
をしまったまま、この街でひっそりと暮らして
いる人が、沢山いるに違いない。