神と心の歴史 - fragment

日本史試論︵上︶
—
小路田
泰直
たとき、時として人に仇をなす。ヤハウェの神が、ことあるごとに
イスラエル人たち︵モーゼも含む︶の大量殺戮を繰り返したように
な技能や産業を発展させる。それが交換と分業を生むからである。
その大きな大脳と二足歩行の結果自由になった手を活かして、様々
くなった︶カインの末裔が銅と鉄をつくる人々の祖になったように、
弟︵アベル︶殺しの罪で大地を追われた︵即ち自分で捕食のできな
社会を生む。捕食ということをしなくてもよくなった人の一部は、
食さえ他者に依存するその徹底した他者依存ぶりが、分業をつくり
二四〇頁・以下﹃紀﹄とのみ記す︶といってのけるのが神なのであ
本古典文学大系﹀上、岩波書店、一九六七年︵下は一九六五年︶、
る。それを平然と﹁国の治らざるは、
是吾が意ぞ﹂︵
﹃日本書紀﹄︿日
バランスが崩れ、疫病や飢餓が蔓延すれば、大量の人が命を奪われ
とである。神は社会の秩序を守るためには平気で人を殺す。分業の
な社会の秩序に、ただ従順であり続けるわけにはいかないというこ
ただそこで問題は、人は、その神として表象される、自然発生的
である。だから人は、社会に意思を感じ、神を想像するのである。
だから社会は人︵ホモサピエンス︶が個体としての自立性を失っ
る。しかし命は一人一人の人︵個体︶に宿るのであって、社会それ
神は実在する。
た瞬間、殆ど自然発生的に生まれる。そして分業を構成するから、
自体に宿るわけではない。だから人は﹁生﹂の本能に突き動かされ
こころ
その形成に人為性はなくとも、一定の秩序︵分業のバランス︶をも
神が実在する所以である。
—
29 November 2011)
つ。そして一定の秩序をもつから、何らかの事情でその秩序が崩れ
[Article]
KOJITA, Yasunao
The History of the Divinity and Heart
人の本質はその自立性にではなく、他者依存性にある。そして捕
はじめに
: An Essay of Japanese History (1)
(Received
神と心の歴史
Article ❶
A Noon of Liberal Arts, No. 2, 2011
Article ❶
て、時として神に抗わざるをえなくなる。ヤハウェの神に殺され続
けたイスラエル人たちが、最後はヤハウェの神に次のようにいわし
第一章 記紀と神々の革命
にわたる神々の革命があったことがわかる。
一度は崇神天皇のとき、
﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄
︵記紀︶を読めば、この国の古代には、二度
第一節
崇神朝の革命
民 が お 前 に 言 う 通 り、 彼 ら の 声 を 聞 き 入 れ よ。 彼 ら は、 お 前
今一度は雄略天皇のときである。ではそれぞれのときにいかなる革
めてでも、人間の王︵ダビデ・ソロモン︶を求めたように、である。
を 拒 絶 し た の で は な く、 わ た し が 彼 ら の 王 で あ る こ と を 拒 絶
命があったのか。崇神天皇のときからみていこう。
崇神五年、人口の半ばを死に至らしめる激しい疫病の流行があっ
し た の だ。 わ た し が 彼 ら を エ ジ プ ト か ら 導 き 上 っ た 日 か ら 今
神 々 に 仕 え る こ と だ っ た。 そ の よ う に、 彼 ら は お 前 に 対 し て
たが、それに対して崇神天皇は二つの対策をとった。一つは﹃日本
日 に 至 る ま で、 彼 ら の し た 事 と い え ば 、 わ た し を 捨 て て 他 の
も し て い る の だ。 今 は 彼 ら の 声 を 聞 き 入 れ よ 。 た だ し 、 彼 ら
書紀﹄に
を以て治めむこと難し。是を以て、晨に興き夕までに惕り
六年に、 百 姓 流離へぬ。或いは背叛くもの有り。其の勢、
に は っ き り 警 告 し、 彼 ら を 治 め る 王 の 権 能 に つ い て 教 え て や
るがよい。︵旧約聖書翻訳委員会﹃旧約聖書﹄Ⅱ、歴史書、岩
波書店、二〇〇五年、一八四頁︶
徳
二 柱 の 神 を、 天 皇 の 大 殿 の 内 に 並 祭 る。 然 し て 其 の 神 の 勢 を
祇 に 請 罪 る。 是 よ り 先 に、 天 照 大 神・ 倭 大 国 魂、
畏 り て、 共 に 住 み た ま ふ に 安 か ら ず。 故、 天 照 大 神 を 以 て
て、 神
ての社会の秩序︶を捕捉、認識し、それを人の意思に置き換えなく
は、 豊 鍬 入 姫 命 に 託 け ま つ り て、 倭 の 笠 縫 邑 に 祭 る。 仍 り て
しかし神の意思に抗うためには、逆に、神の意思︵人の総和とし
それを日本史というフィールドの中で考えてみるのが本稿の課題で
磯 堅 城 の 神 籬 を 立 つ。 亦 日 本 国 魂 神 を 以 て は、 渟 名 城 入 姫 命
てはならない。ではその置き換えを人はどのようにして行ったのか。
ある。
に 託 け て 祭 ら し む。 然 る に 渟 名 城 入 姫、 髪 落 ち 体 痩 み て 祭 る
こと能はず。
︵
﹃紀﹄上、二三八頁︶
とあるように、天照大神と倭大国魂神を宮中から追放した。そして
2
人 文 学 の 正 午 No. 2 Dec. 2011
かむあさぢはら
今一つは、同じく﹃日本書紀﹄に
すなは
いでま
かむやまとととびももそひめのみこと
かか
かみたち
つど
ひき起された武埴安彦王の反乱も鎮圧された。
しかも一つの出来事がおきた。その後、大物主神を顕現させ、武
あきらか
埴安彦王の反乱を未然に防いだ功により、倭迹迹日百襲姫命が大物
うらと
くるつあした
是 に、 天 皇、 乃 ち 神 浅 茅 原 に 幸 し て、 八 十 万 の 神 を 会 へ て、
おも
くしげ
しまし
主神に嫁いだが、神は夜しか現れず、決してその姿を見せなかった
これ や ま と の く に
こをろち
吾が形にな驚きましそ﹂と応え、翌朝、姫の﹁櫛笥﹂の中に﹁美麗
ことわりいやちこ
みかほ
卜問ふ。是の時に、神明倭迹迹日百襲姫命に憑りて曰はく、
﹁天
い
く
ので、ある夜姫は意を決して﹁君常に昼は見えたまはねば、分明に
おほものぬしのかみ
か
皇、何ぞ国の治らざることを憂ふる。若し能く我を敬ひ祭らば、
其の尊顔を視ること得ず。願はくは暫留りたまへ。明旦に、仰ぎて
のたま
を
たひら
必 ず 当 に 自 平 ぎ な む ﹂ と の た ま ふ。 天 皇 問 ひ て 曰 く、﹁ 如 此
神も﹁言理灼然なり。吾明旦に汝が櫛笥に入りて居らむ。願はくは
美麗しき威儀を覲たてまつらむと欲ふ﹂とせがんでみせた。すると
さかひ
をしへ まにま いはひまつ
みすがた
教ふは誰の神ぞ﹂とのたまふ。答へて曰はく、﹁我は是 倭 国
みこと
いづれ
の域の内に所居る神、名を大物主神と為ふ﹂とのたまふ。時に、
神の語を得て、教の随に祭祀る。︵﹃紀﹄上、二三八∼二三九頁︶
さ け
しき小蛇﹂となって現れた。しかしそれをみた姫は驚きのあまり、
神の戒めも忘れて、つい﹁叫啼﹂んでしまった。そのために、神は、
ほと
はぢみ
とあるように、大物主神に対する祭祀を始めた。崇神天皇のときの
恥じて人の形となり﹁汝、忍びずして吾に羞せつ。吾還りて汝に羞
ほ
革命とは、天照大神や倭大国魂神に大物主神がとって代わる革命で
せむ﹂と言い残して、﹁大虚を践みて、
御諸山に登﹂っていってしまっ
おほぞら
あった。ではその革命の意味するところは何だったのか。それはそ
た。姫も自らの行いを悔い、箸で自らの﹁陰﹂を突いて死んだ。
あひつ
の後日談から読み取れる。
し
しかしそのとき出来事はおきた。人民が悲しみのあまり﹁相踵ぎ
ご
革命後崇神天皇は当然のことながら、疫病を鎮めるべく自ら大物
て、手逓伝にして﹂﹁大坂山の石﹂を奈良盆地を横切って運び、大
こ の 後 日 談 か ら 察 す る に、 大 物 主 神 は 明 ら か に 天 上 の 神 で は な
二四六∼二四七頁︶
。
た
主神を祭った。しかし全く効果があらわれなかったので、天皇はあ
うれ
きよまは
市ということころに姫の墓を築き始めたのである。結局夜になると
みあらか
神もそれを手伝うはめになり、日ならずして墓は完成した。人はそ
ゆかはあみものいみ
らためて﹁沐浴斎戒して、殿の内を潔浄りて﹂大物主神にその理由
つ
を尋ねた。すると神は﹁天皇、復な愁へましそ。国の治らざるは、
お ほ た た ね こ
まうしたが
ま
れを、姫の死に方にちなんで、箸墓と呼んだのである︵﹃紀﹄上、
こころ
是吾が意ぞ。若し吾が児大田田根子を以て、吾を令祭りたまはば、
わたのほか
上、二三九∼二四〇頁︶と夢告してきた。そこで天皇は和泉国﹁陶
かった。祖先神としての性格を色濃くもつ神であった。自らの子孫
に平ぎなむ。亦海外の国有りて、自づから帰伏ひなむ﹂︵﹃紀﹄
たちどころ
邑﹂から大物主神の子、大田田根子を呼び寄せ、大物主神を祭らせ
にしか、自分を祭らせなかったこと。自らと交わった倭迹迹日百襲
立
た。すると効果覿面、疫病はたちまち終息し、疫病の流行に乗じて
神と心の歴史̶日本史試論(上)̶
3
Article ❶
いづものおほかみ
をさ
みまほ
それに対して天照大神や倭大国魂神は、明らかに天上︵高天原︶
してそれを奪いとってしまう。激怒した振根は帰郷後、飯入根を殺
い立ち、使者を派遣して、出雲振根の留守中、その弟飯入根をだま
いひいりね
に起源をもつ神であった。天照大神はいわずもがなの高天原の主宰
してしまうが、それに対しては、吉備津彦と武渟河別を派遣し、今
いづものふるね
を、出雲大神の宮に蔵む。是を見欲し﹂︵
﹃紀﹄上、二五〇頁︶と思
神 で あ っ た し、 倭 大 国 魂 神 も 、 私 の 推 測 に よ れ ば 、 高 天 原 に 生 ま
度は振根を殺させてしまった。この崇神天皇の出雲の神宝への異常
姫命が死後神になることを許したことがその理由である。
れ、 天 孫 降 臨 に 深 く 関 わ っ た、 大 山 祇 神 で あ っ た。 す な わ ち 天 照
な執着は、明らかに素戔鳴尊の大和への勧請をともなうものであっ
ほあかりのみこと
ほのににぎのみこと
大神の命を受けて高天原から地上に降臨した火瓊瓊杵尊と結ばれ、
祭る出雲大社のことだとも考えられるが、やはり素戔鳴尊を祭る出
た。もともと﹁神宝﹂のあった﹁出雲大神の宮﹂とは、大国主尊を
の父神であった。ではそう推測する根拠は。倭大国魂神は、奈良県
ある。そこに﹁蔵﹂されていた﹁神宝﹂とは、天 夷 鳥 命︵武日照命︶
雲国意宇川沿いの﹁熊野大社﹂のことだと考えるのが自然だからで
このはなのさくやひめ
天理市にある大和神社に祭られているが、﹁大和﹂の語源が一般に
が天から持ち帰った﹁神宝﹂であったが、天すなわち高天原での生
か し つ ひ め
ひこほほでみのみこと
火闌降命︵海幸彦・隼人の祖︶と彦火火出見尊︵山幸彦︶と火明命︵尾
いわれているように﹁山門﹂だとすれば、その神社の名は大和盆地
活を一度でも経験したのは、大国主尊ではなく素戔鳴尊であったか
ほのすそり の み こ と
張氏の祖︶の三人の子を生んだ鹿葦津姫=木花之開耶姫︵木の精︶
に多数散在する山口神社と一致する。その山口神社の祭神は、ほぼ
らであった。
なおつけ加えておくと、大和に勧請された素戔鳴尊は﹁出雲の神
あめのひなどりのみこと
例外なく山の神=大山祇神だからであった。大和神社の境内には、
瀬戸内海芸予諸島に浮かぶ大三島にたつ大山祇神社の三祭神の一
宝﹂と共に多分石上神宮に祭られたと思われる。石上神宮境内に摂
社としてたつ、出雲建雄神を祭る出雲建雄神社はその名残だろう。
神社︶。それなどもその根拠であっ
神 も祭られている︵高
たかお お か み の か み
柱、高
た。
そもそも石上神宮は、大和王権の神宝を収蔵する蔵が転じて武器庫
まひ
崇神革命の意味は明らかであった。神の居場所が空間的彼岸︵高
になった施設である。垂仁二十七年、垂仁天皇が﹁兵器を神の幣と
つはもの
天原︶
から時間的彼岸︵死者の国=根の国︶に移動したことであった。
せむ﹂ことを決し﹁弓矢及び横刀を、諸の神の社に納﹂︵﹃紀﹄上、
た ち
だから当然、大物主祭祀は大物主祭祀にとどまらなかった。根の
二七一頁︶めると、それをうけて、当時王権の軍事部門の責任者に
いにしきのみこと
国の主宰神素戔鳴尊、及びその命を受けてこの国を造った大国主尊
任じられていた五十瓊敷命︵垂仁天皇の長男、景行天皇の兄︶が、
次の如く、﹁茅渟の菟砥川上宮﹂で﹁剣一千口﹂をつくり、石上神
や少彦名神ら
への祭祀にも及んだ。
—
俗にい う 出 雲 系 の 神 々
—
きた
崇神天皇が晩年、出雲の神宝の獲得に執着したのは、それ故であっ
も
宮におさめた。
たけひなてるのみこと
た。崇神六十年、崇神天皇は﹁武日照命の、天より将ち来れる神宝
4
人 文 学 の 正 午 No. 2 Dec. 2011
かむなづき
ぢ
ち
ぬ
うとのかはかみのみや
かはかみのとも
三 十 九 年 の 冬 十 月 に、 五 十 瓊 敷 命、 茅 渟 の 菟 砥 川 上 宮 に 居 し
ち
あかはだがとも
をさ
ま し て、 剣 一 千 口 を 作 る 。 因 り て 其 の 剣 を 名 け て 、 川 上 部 と
つかさど
ちひさこべのむらじすがる
七年、雄略天皇は次の如く稀代の力持ち小子部連蜾贏に命じて、三
みもろのをか
おも
諸山の神、大物主神の捕獲に向かわせた。
われ
ちから
い
だ
すみさかのかみ
とらへゐ まうこ
う
朕、 三 諸 岳 の 神 の 形 を 見 む と 欲 ふ。 或 い は 云 は く、 此 の 山 の
みことおほ
謂ふ。亦の名は、 裸 伴 と曰ふ。石上神宮に蔵む。是の後に、
神 を ば 大 物 主 神 と 為 ふ と い ふ。 或 い は 云 は く、 菟 田 の 墨 坂 神
いまし
五十瓊敷命に 命 せて、石上神宮の神宝を主らしむ。︵﹃紀﹄上、
なりといふ。汝、膂力人に過ぎたり。自ら行きて捉て来︵
﹃紀﹄
上、四七二頁︶
いかづち
一見他愛もない物語だが、相当に重要な物語だったらしく、わが国
命じて、﹁岳﹂に放たせた︵
﹃紀﹄上、
四七二頁︶
。かかる物語である。
くそれに近づき、殺しこそしなかったが、
﹁雷﹂と改名することを
いかづち
と天皇は、かつての崇神天皇とは違い、特に﹁斎戒﹂することもな
ものいみ
小子部連蜾贏は首尾よく捕獲に成功し﹁大蛇﹂を持ち帰る。する
をろち
二七六頁︶
これなどがそのことを示唆していた。石上神宮はは鉄の国﹁出雲の
神宝﹂と素戔鳴尊が居を定めるのにふさわしいところだったのであ
る。
第二節
雄略朝の革 命
次に雄略朝の革命だが、それは次の二つの逸話に象徴される革命
最初の仏教説話集﹃日本霊異記﹄の冒頭にも﹁電を捉へし縁﹂の話
としてのせられている。ただし后とのセックスの最中を、少子部栖
であった。
一つは一言主神出現の物語である。雄略四年、雄略天皇が葛城山
軽にみられてどぎまぎした雄略天皇が、とっさの思いつきで栖軽に
やつかれ
で狩りをしているとき、天皇そっくりの神が現れた。﹁何処の公ぞ﹂
雷の捕獲を命じたという、やや下世話な話に改変はされているが。
名乗りが終わると、二人は轡を並べて日が暮れるまで狩りを楽み、
格であった大物主神が雷神に変容させられる革命であった。ではそ
雄略天皇のときの革命とは、
﹁現人神﹂が出現し、祖先神の代表
と天皇が問うと﹁現人神ぞ﹂
﹁僕は是、一言主神なり﹂と神は応えた。
日が暮れると、神が天皇を宮殿まで送っていった。するとそれをみ
ま
れは何を意味したのだろうか。
おむおむ
人神であったというのである。
この世の神であることは確かである。
現の物語である。一言主神は雄略天皇と全く同じ顔かたちをした現
一つ一つ物語を紐解いてみなくてはならないが、まず一言主神出
ていた﹁百姓﹂たちが、口をそろえて雄略のことを﹁徳しく有しま
す天皇なり﹂︵﹃紀﹄上、四六六∼四六七頁︶といったという物語で
ある。
今一つは、雄略天皇が大物主神に改名を命じた物語である。雄略
神と心の歴史̶日本史試論(上)̶
5
Article ❶
それに加えて雄略天皇と一言主神が二人並んだ姿をみて人は雄略天
皇のことを﹁有徳﹂の天皇と評したというのだから、雄略天皇と一
体化したとき、雄略天皇を有徳の︵完全な︶天皇に変える力をもっ
た神でもあったことがわかる。ということは、徳は内面のことだか
岸から時間的彼岸に移った神が、今度はこの世に移り、さらには人
の心の中に移ったということであった。
第三節
それぞれの革命の原因
ではそれぞれの革命はなぜおきたのだろうか。そこでみておかな
おしへおもぶ
ら、一言主神は単にこの世に宿るだけでなく、雄略天皇の心に宿り、
おほみたから
くてはならないのは、最初の革命がおきた崇神朝でとられた、現実
わざはひ
きみのおもぶけ
祇 を 礼 ひ て、 災 害 皆 耗 き ぬ。 然 れ ど
つ
その理性を掌る神であったということになる。それが何かの拍子に
り
あまつかみくにつかみ ゐやま
の政策である。天皇は崇神十年の七月に﹁ 民 を導く本は、 教 化
ことだま
の
姿を表しただけだった。その意味で一言主神は﹁人言主神﹂、すな
ひとども
く る に 在 り。 今、 既 に 神
とほきくに
わち雄略天皇の言霊だったのだろう。
き び つ ひ こ
よ
も
おほみたから
ひこますおう
たにはのちぬしのみこと
たけぬなかはわけ
も遠荒の人等、猶正朔を受けず。是未だ 王 化 に習はざればか。其
す
め
次に雷となった大物主神の物語だが、それに関連して面白いのは、
い
ひ
れ群卿を選びて、四方に遣して、朕が憲を知らしめよ﹂
︵﹃紀﹄上、
ら
ら
大物主神と上賀茂神社に祭られる別雷神の差異と類似である。﹃古
た
た
二四二∼二四三頁︶と命じ、各地に﹁教化﹂のための四人の将軍︵孝
た
だ
事記﹄によれば大物主神は、自ら丹塗りの矢となって川を流れ下り、
や
元天皇の皇子︵開化天皇の兄︶大彦命とその子武渟川別、孝霊天皇
せ
用便中の美女勢夜陀多良比売の陰部に突き刺さって、後に神武天皇
と
め
の皇子吉備津彦と開化天皇の皇子彦坐王の子丹波道主命︶を派遣し
ほ
ひ
の皇后となる富登多多良伊須須岐比売を生ませたとある。それに対
た。道徳を国民に強制する、教化国家をつくろうとしたのである。
き
して﹃山城国風土記﹄逸文によれば別雷神は、賀茂川を流れ下って
ではそれは何のために。崇神六十二年に出された次の命令がヒント
す
きた丹塗りの矢が、神武天皇の母親玉依姫の陰部に突き刺さった結
になる。
なりはひ あめのした
たの
果生まれたとある。それらからいえることは、二柱の神は同じ物語
を共有する神であったということである。その意味では、雄略天皇
うなね
ここ
農 は天下の大きなる本なり。 民 の恃みて生くる所なり。今、
さは
はにた
に﹁雷﹂への改名を命じられた大物主神こそが、上賀茂神社に祭ら
河 内 の狭山の埴田水少し。是を以て、其の国の百姓、農の事
かふちのくに
れる﹁別雷神﹂の元の姿であった。しかし大物主神はこの世に外か
に怠る。其れ多に池溝を開りて、民の業を寛めよ。
︵﹃紀﹄上、
ひろ
らやってきた神として描かれ、別雷神はまさにこの世で生まれ神と
二五二頁︶
あくまでも﹁推測するに﹂とつけ加えるべきだが、農本主義を国是
ほ
して描かれている。この物語の示唆するところは、神の現世神化で
あった。
かくて雄略朝の革命の意味は明らかであった。崇神朝に空間的彼
6
人 文 学 の 正 午 No. 2 Dec. 2011
にするためであった。
農本主義を国是にしようと思えば、﹁今、河内の狭山の埴田水少し。
おほみたから かむが
ことは周知のとおりである。だから崇神天皇にとって農本主義の選
択は、必然的だったのである。
あら
くにこほり みやつこをさ
あらた
あがたむら
あがたむら
いなき
おびと
た
爾 に し て、 野 き 心 を 悛 め ず ﹂、 ゆ え に﹁ 山 河 を 隔 ひ
にまかせ、自らは﹁得手﹂とするところに生きようとする、その徹
たが、人が分業を発展させ社会を形成する原動力は、捕食さえ他人
できなかった。王の下僚︵臣︶として働くだけの人に、
人をまとめ、
業共同体︶をつくることもできないし、実のある教化を行うことも
おくことであった。それなしには、水系ごとの緊密な人間関係︵農
三一八頁︶てんと述べたように、地域々々に勧農と教化の責任者を
くにあがた
くにこほり ひとごのかみ
で は 農 本 主 義 を 選 択 す る た め に は、 武 力 を 背 景 に、 教 化 国 家 を
さきのち
是を以て、其の国の百姓、農の事に怠る﹂現状に鑑み、まずは大規
おほせつかふこと
つくるだけでよかったのだろうか。もう一つ必要なことがあった。
ついで
模な勧農事業を起こす必要があったが、そのためには﹁人民を校へ
それは、成務天皇が﹁是国郡に 君 長 無く、県邑に首渠無ければ﹂
このか み お と と
て、長 幼 の次第、及び 課 役 の先後を知らしむ﹂︵﹃紀﹄上、二四八頁︶
﹁黎 元 蠢
さか
こと、すなわち戸籍をつくり人民に課税することが必要であった。
て国県を分ち﹂
﹁国郡に造長を立て、県邑に稲置を置﹂︵﹃紀﹄上、
底した他者依存性にあった。ならば、可能であれば農業︵食料獲得︶
人を教化する人格的な力は生まれえないからであった。
しかも人は放っておいて農民にはなってくれない。冒頭でも述べ
おほみたから むくめくむしのごとく
そのためには教化国家をつくる必要があったのである。
から離れようとするのが人の本性であり、農民になることは、その
あまね
とよきのみこと
しかし地域々々に勧農と教化の責任者をおくためには、国家の地
おとと
人の本性に反する。だから人の相当部分を農民にするためには、た
いくめのみこと
し
方分権化=封建化が不可欠だった。崇神天皇が二人の息子 豊 城 命
あづまのくに
だ﹁農は天下の大きなる本なり﹂とお題目を唱えるだけでは足りな
このかみ
まさ
︵兄︶と活目尊︵弟︶に、それぞれ見た夢について語らせ、それに
たかみくら
ひとかた
かった。そのお題目の受け皿となる人の禁欲的態度を培養しなくて
基づいて﹁兄は一片に東に向けり。当に東国を治らむ。弟は是悉く
西分割統治の実現をはかったのも、景行天皇が、次にあるように、
も
はならなかった。だから農本主義を国是とするためには教化国家の
四方に臨めり。朕が 位 に継げ﹂
︵﹃紀﹄上、二五〇頁︶と命じ、東
しかも崇神天皇にとって、農本主義の選択は避けて通れないこと
八十人もの子供をもうけ、その多くを各地の首長に分封したのも、
よ
建設が不可欠だったのである。
であった。捕食さえ他人に依存する人の他者依存性は、分業と社会
みこ
考えてみれば、そのためであった。
やそはしら
の発展を一方でもたらすが、他方、必ず捕食行為に携わる者の過度
の減少をもたらし、飢餓を必然化させる。この矛盾の爆発が、実は
さきのちあは
いほきいりびこのみこと
お
夫 れ 天 皇 の 男 女 、 前 後 并 せ て 八 十 の 子 ま し ま す。 然 る に、
ひこみこひめみこ
崇神朝初期の疫病の流行と、それにともなう飢餓の進行だったので
日 本 武 尊 と 稚 足 彦 天 皇 と 五 百 入 彦 皇 子 と を 除 き て の 外、
やまとたけるのみこと わかたらしひこのすめらみこと
ある。そしてそれに対応することが、崇神天皇の全統治を規定した
神と心の歴史̶日本史試論(上)̶
7
Article ❶
ななそあまり
くにぐに
ことよ
わけ
ゆ
わけのみこ みあなすえ
七十余の子は、皆国郡に封させて、各其の国に如かしむ。故、
くにぐに
今 の 時 に 当 り て、 諸 国 の 別 と 謂 へ る は 、 即 ち 其 の 別 王 の 苗 裔
なり。︵﹃紀﹄上、二八六頁︶
や次々と前方後円墳に祭られていく先王たちであった。この二つの
タイプの始祖をつくり出そうとすれば、
神の居場所は空間的彼岸︵高
か
つかさつかさ おほみたから
いた
なりはひをうむこと
天原︶にあるよりも時間的彼岸︵根の国︶にある方がよかった。崇
いはむ
神朝の革命がおこる必然性がそこにあった。
にぎはひ
し か し や が て﹁ 況 や 厥 の 百 僚、 万 族 に 曁 る ま で に、 農 績 を
くらひもの
す
ではどうすれば国家の封建化がスムーズに行えるのか、崇神天皇
廃棄てて、殷富に至らむや﹂
︵﹃紀﹄下、
二十四頁︶
︵継体天皇︶とか、
たつく
なりはひ
こかひ
いや
や景行天皇が実際に行ったように、多くの地方首長たちを強固な血
﹁ 食 は天下の本なり。黄金 万 貫 ありとも、飢を療すべからず﹂︵﹃紀﹄
すめらみことおほみづ
いひうゑ
縁の紐帯で結びつけておくしかなかった。垂仁天皇の時代、反乱に
下、五十八頁︶︵宣化天皇︶とか、同じ農本主義を語るにしても、
こ が ね よろづはかり
たちあがったが狭穂彦王が、妹であり天皇の皇后でもあった狭穂姫
﹁ 帝 王 躬ら耕りて、農業を勧め、后妃親ら蚕して、桑序を勉めた
すす
に呼応を求めるにあたって、次のように語り、血縁と夫婦の絆を天
まふ﹂
︵﹃紀﹄下、
二十四頁︶ことが求められる時代がやってきた。
﹁帝
くはのとき
秤にかけさせたように、血縁こそ、人と人とを結びつける最も強固
王﹂の言動が、即規範になる時代が、である。隋唐帝国成立過程の
かもしれない。そして自らの言動を規範︵礼︶として社会に提供し
きさき
な紐帯だったからである。それなしの国家の封建化は、国家の分裂
あめのした
東アジア情勢の激動が、王により臨機応変であることを求めたから
めぐみ や
につながりかねない危険性を孕んでいた。
つか
たの
なくてはならない王は現人神になるしかなかった。それが雄略天皇
かほ
ひたぶる
夫 れ、 色 を 以 て 人 に 事 ふ る は 、 色 衰 へ て 寵 緩 む 。 今 天 下 に
たがひ
のときの革命を必然化したのである。
よ き を み な さは
第二章
古事記的世界と仏教的世界の形成
佳 人 多 な り。 各 逓 に 進 み て 寵 を 求 む 。 豈 永 に 色 を 恃 む こ と
得むや。︵﹃紀﹄上、二六一∼二六二頁︶
だが国家の封建化を支える強固な血縁紐帯をつくりだすために
今一つは、今現在王や首長の地位に就ける者の範囲を限定する、
﹁先
よって王権が継がれること自体に正統性を与える、神としての始祖、
からもつ秩序を、神の意思としてとらえ、それを自らの意思に重ね
きっかけにすぎなかった。冒頭述べたように、人には、社会が自ず
しかし以上述べてきた二度にわたる神々の革命の原因は、所詮は
第一節
高皇産霊尊の発明
の王﹂としての始祖である。上記の物語でいえば前者が大物主神で
合わせなくてはならない必然があったからである。
は、二つのタイプの始祖をつくり出す必要があった。一つは血縁に
あり、後者が倭迹迹日百襲姫命︵卑弥呼︶であった。すなわち死ぬ
8
人 文 学 の 正 午 No. 2 Dec. 2011
その必然が貫徹して雄略天皇のとき、神は人の心の中に宿っただ
が、なぜ人の心の中に宿りうるのか、それを説明しなくてはならな
くてはならない問題が二つあった。一つは、本来超越的なはずの神
においても
﹃日本書紀﹄
においてもたびたび登場する。しかし人代︵神
尊が出現したのである。確かに高皇産霊尊は、神代には、﹃古事記﹄
﹁月﹂や﹁日﹂までが﹁我が祖﹂と仰ぐ、天地鎔造の神、高皇産霊
のたまふ。︵
﹃紀﹄上、五二四∼五二五頁︶
かった。神の彼岸への宿りは自然だが、内面への宿りは不自然だか
武天皇即位前紀が対象とする時代は除く︶に入ると全く登場しなく
けであった。しかしそれを成功裏に宿そうとすれば、未だ解決しな
らである。そしてもう一つは、その神の内面への宿りが、ほんの一
なる。高天原の主として登場するのは常に天照大神だ。この顕宗天
ということは、こうなりはしないだろうか。高皇産霊尊という万
皇のときが、最初の、そして唯一の登場ということになる。
面にも神が宿るとなれば、あまりの常識との乖離に、人は茫然自失
物鎔造の神は、
実は顕宗天皇のときに初めて発明された神であって、
る現象ではないことの理由も説明しなくてはならなかった。誰の内
してしまうからである。ではそれらのことを雄略天皇以降の支配者
それほど古い神ではない。ただ鎔造の神であるがゆえに神話の冒頭
握りの人にだけみられる現象であって、決して万人に等しくみられ
はどう説明したのだろうか。まずは前者の説明からみていくことに
に持っていかれ、
その位置づけが記紀編纂時に確定したのだと。﹃古
あへのおみことしろ
おほみこと
う
まろかれ
とを示唆しているように、私には思える。
やつこ や す ま ろ まを
きざし
あら
事記﹄の序文冒頭、太安万侶が次のように述べているのは、そのこ
しよう。
そこで重要なことは、雄略天皇の二代後の顕宗天皇のときのこと
ひのとのみ ついたちのひ
として、
﹃日本書紀﹄が次 の よ う に 記 し て い る 点 で あ る 。
きさらぎ
つかひ
つきのかみ
かか
かた
いさをし ま
のたま
さいはひよろこび
しわざ
も
おや
と
うしお
く
ら
はじめ と
ほ
そえに
よみぢうつせみ
いでい
あまつかみくにつかみ
すす
くに
あら
祇 身を滌くに呈は
もとつおしへ
さきつひじり
よ
れ た り。 故、 太 素 は 沓 冥 け れ ド モ、 本 教 に 因 り て 土 に 孕 み 嶋
かれ
霊 群品之祖ト為れり。所以、 幽 顕 に出入りて、日月目
ふたはしらのかみ も ろ も ろ
め を ここ
臣 安 万 侶 言 す。 夫、 混 元 既 に 凝 り て、 気 象 未 だ 効 は れ ず。
みまな
いた
たてまつ
はじめ
三年の春二月の丁巳の 朔 に阿閉臣事代、 命 を銜けて、出で
あめつち
まま
あへのおみことしろ
みはしらのかみ む す ひ
名 モ 無 く 為 モ 無 け れ ば、 誰 か 其 ノ 形 を 知 ら む。 然 あ れ ド モ、
みおや たかひむすひのみこと
こひ
かか
あめつち
て任那に使す。是に、月神、人に著りて謂りて曰はく、﹁我が
乾坤初メテ分れて、参 神 造化之首ト作れり。陰陽斯に開ケて、
つかまつ
ひのかみ
かきところ
祖 高 皇 産 霊 、 預 ひ て 天 地 を 鎔 ひ 造 せ る 功 有 し ま す。 民 地 を
二
あ
以 て、 我 が 月 神 に 奉 れ 。 若 し 請 の 依 に 我 に 献 ら ば 、 福 慶 あ
を洗ふに彰はれ、海水に浮沈みて、 神
そ
らむ﹂とのたまふ。︵﹃紀﹄上、五二四頁︶
ひのえたつ ついたち かのえさるのひ
たてまつ
し
を 産 み し 時 を 識 り、 元 始 綿 邈 け れ ど モ、 先 聖 に 頼 り て 神 を 生
うづき
いはれ
夏四月の丙辰の 朔 庚 申 に、日神、人に著りて、阿閉臣事代
のたま
み 人 を 立 て し 世 を 察 れ り。
︵
﹃古事記﹄
︿ 日 本 思 想 大 系 ﹀、 岩 波
かた
に謂りて曰はく、﹁磐余の田を以て我が祖高皇産霊に献れ﹂と
神と心の歴史̶日本史試論(上)̶
9
Article ❶
すめろぎのひつぎ
書店、一九八二年、十一頁・以下﹃記﹄と記す︶
きは
まこと
もとつおしへ
くに
ほ
さきつひじり
よ
次 に、 成 り ま せ る 神 ノ 名 は、 宇 比 地 迩 神。 次 に、
妹 須 比 智 迩 神。 次 に、 角 杙 神。 次 に、 妹 活 杙 神。 次 に、
根拠は二つ。一つは、高天原も天地に挟まれたこの世の一部とみ
て神世七代と称ふ。︵
﹃記﹄十九∼二十一頁︶
上 ノ 件 ノ 国 之 常 立 神 自 り 以 下、 伊 耶 那 美 神 よ り 以 前、 併 せ
意富斗能地神。次に、妹大斗乃弁神。次に、於母陀流神。次に、
たづ
ら
﹃古事記﹄の編纂が、単に天武天皇から命ぜられた﹁ 帝 紀 を撰び
ふること
く
妹阿夜訶志古泥神。次に、伊耶那岐神。次に妹伊耶那美神。
しる
と
録し、旧辞を討ね覈メて、偽を削り実を定め﹂︵﹃記﹄十五頁︶るだ
も
はじめ と
けの作業ではなく、﹁太素は沓冥けれドモ、本教に因りて土に孕み
し
嶋を産みし時を識り、元始綿邈けれどモ、先聖に頼りて神を生み人
教﹂で、誰が﹁先聖﹂かは詳らかでないが、その編纂が事実上﹁無﹂
なされているように、世界にはこの世しかないという認識が示され
を立てし世を察﹂る作業でもあったことが、うかがえる。何が﹁本
から﹁有﹂を生み出す、極めて創造的な作業であったことがわかる
ていること。その認識を示すために、逆に天地そのものは神の被造
物とはせず、自ずからなったものとして、与件化していることであ
からである。
事実﹃古事記﹄冒頭の次の叙述は、雄略革命を経た後にしか書け
る。
全て一人で完全な神︵
﹁独神﹂︶であると同時に、一応高天原︵天︶
ない内容になっていた。
天 地 初 メ て 発 り し 時、 高 天 ノ 原 於 成 り ま せ る 神 ノ 名 は、
には生まれるが、生まれると同時に身を隠す、特定の居場所や姿形
そして今一つは、
高皇産霊尊=高御産巣日神他の﹁別天つ神﹂が、
天 之 御 中 主 神。 次 に、 高 御 産 巣 日 神。 次 に、 神 産 巣 日 神。 此
を も た な い、 天 地 の 間
神の居場所を空間的、時間的、何れかの彼岸に求める人たちには絶
ことである。
それはこの世の神にこそふさわしい描かれ方であって、
こ
= の世に遍在する神として描かれている
ノ三柱ノ神者、並に独神ト成り坐し而、身を隠しましき。
次 に、 国 稚 く 浮 け る 脂 ノ 如 く し 而 、 久 羅 下 那 州 多 陀 用 弊 流
対に描き得ない神のイメージであった。
時、 葦 牙 ノ 如 く 萌 江 騰 る 物 に 因 り 而 成 り ま せ る 神 ノ 名 は、
宇摩志阿斯訶備比古遅神。次に、天之常立神。此ノ二柱ノ神亦、
高皇産霊尊は顕宗天皇の時代に発明された。だとすればその発明
こそが、本来超越的なはずの神がなぜ人の心の中に宿りうるのかの
並に独神ト成り坐し而、身を隠しましき。
上ノ五柱ノ神者、別天つ神。
説明だったのである。この世のあらゆるものは鎔造の神、高皇産霊
尊の産物である。したがって万物に神は宿る。当然人にも宿る、と
次に、成りませる神ノ名は、国之常立神。次に、豊雲野神。
此ノ二柱ノ神亦、独神ト成リ坐し而、身を隠しましき。
10
人 文 学 の 正 午 No. 2 Dec. 2011
こうなるからである。ちなみに鎔造の神、高皇産霊尊の産出が、人
二つの物語ではなく、
二つが一対の物語になる。面白いではないか。
だったのかもしれない。そうであれば旧約聖書と新約聖書は別々の
溶かし全てを生む火山のイメージからきているとのことだが、ヤハ
保立道久によれば、鎔造の神、高皇産霊尊のイメージは、全てを
の内面になぜ神が宿りうるのかを説明するためであったことを推量
させてくれるのが、次の継体天皇の発言である。
あめのした
み
ウェの神のイメージも、彼がモーゼに﹁十戒﹂を託したシナイ山を
きみ とも
祇 に は 主 乏 し か る べ か ら ず。 宇 宙 に は 君 無 か る べ か
あまつやしろくにつやしろ
き
神
な
介して火山のイメージと重ねられている。それは両神の共通性を物
おほみたから
ら ず。 天、 黎 庶 を 生 し て 、 樹 つ る に 元 首 を 以 て し て 、 助 け 養
また
語っているのではないだろうか。
つかさど
いのち
ふことを司らしめて、性命を全からしむ。︵﹃紀﹄下、二十二頁︶
ために手白香皇女との婚姻を承諾する場面での発言であるが、ここ
く、一部の人の心に選択的に宿ることの説明だが、注目すべきは高
次に、神は人の心に宿る、しかし万人の心に等しく宿るのではな
第二節
修行の時代へ
には﹁神祇﹂の﹁主﹂、﹁宇宙﹂の﹁君﹂を想定することが﹁黎庶﹂
皇産霊尊が誕生したときの天皇、顕宗天皇︵弘計王︶の即位の理由
これは、天皇が、大連大伴金村の勧めに応じて、よき後継者を得る
の﹁元首﹂を正当化することにつながるとの認識が示されている。
れたために、難を避けるべく兄億計王とともに、逃亡生活を続けて
弘計王は、父市辺押磐皇子︵履中天皇の子︶が雄略天皇に殺害さ
いちのへのおしはのみこ
証明するのに、鎔造の神、造化の神の存在を想定するというのは、
いるところを、子なき清寧天皇︵雄略天皇の子︶に見出されて、皇
こ け お う
である。
何も日本にだけみられたことではないということである。キリスト
子になった人物であるが、当初清寧天皇が皇太子に指名したのは憶
なおここで一言つけくわえておくと、人の内面に神の宿ることを
教世界においてもそれはみられた。神︵父︶が精霊となってイエス
計王の方であった。その億計王が、清寧天皇亡き後、執拗に次のよ
お け お う
の神の創造物であったとする﹁創世記﹂の考え方が根底にあればこ
︵ 子 ︶ の 内 面 に 宿 り え た の は、 こ の 世 の 森 羅 万 象 す べ て が ヤ ハ ウ ェ
つど
お
け
みかど
みしるし
うに述べて弟弘計王に即位を迫ったことが顕宗即位の理由となった
のである。
もものつかさ
そであったからである。
—
に書かれていたという点である。もし
—
その点で注目すべきは旧約聖書中、﹁創世記﹂が実は一番最後
キリスト誕生に近い時代
す
みまし
お
が
まへつきみ
つ
十 二 月 に、 百 官、 大 き に 会 へ り。 皇 太 子 億 計、 天 子 の 璽 を 取
は
かしたら高皇産霊尊の発明同様、﹁創世記﹂も、人に神が宿ること、
り て、 天 皇 の 坐 に 置 き た ま ふ。 再 拝 み て 諸 臣 の 位 に 従 き た ま
し
キ リ ス ト 誕 生 の 理 由 を 説 明 す る た め に、 わ ざ わ ざ 発 明 さ れ た 物 語
神と心の歴史̶日本史試論(上)̶
11
Article ❶
いさをしひと
を
たふと
ひて曰はく、﹁此の天子の位は、有功者、以て処るへし、貴き
おのづからなる
ちか
の勇気を称えての発言だが、その勇気ゆえに弘計王が﹁ 造 物 に隣
く﹂なったことをさして﹁功﹂といっているのである。﹁功﹂とは、
いろと はかりこと
なお﹃日本書紀﹄の編者にとって、清寧天皇亡き後億計王がなか
高皇産霊尊のことであったことは間違いない。
神﹂
︵﹃大字源﹄
︶のことを指す言葉であることからいって、
鎔造の神、
もそも﹁造物﹂が﹁造物者﹂の略であり﹁天地間の万物をつくった
物﹂に近づくことであった。ちなみにここでいう﹁造物﹂とは、そ
ことによって﹁造
—
こ と を 著 し て 迎 へ ら れ た ま ひ し は、 皆 弟 の 謀 な り ﹂ と の た ま
あめのした
禁欲する
—
感情の自然の流れにあえて抗う
あめのした
ふ。天下を以て天皇に譲りたまふ。
︵﹃紀﹄上、五一五∼五一六頁︶
﹁有功者﹂であること、それが理由であった。
このかみ
ではその﹁功﹂とは何を指すのか。それは億計王の次の発言から
想像できる。
しらかのすめらみこと
さだ
そ
は
な
げ
おもひみ
ふ
めぐみ
あ
いひとよのひめみこ つのさしのみや
いひとよのひめみこ
なか即位しようとしなかったので、万やむをえず一時期政務をとっ
つ
のが
うれへたるうまひとのこ よろこ
かた
白 髪 天 皇 ︵清寧天皇︹小路田︺︶は、吾 兄 の故を以て、天下
たくみ
つち
ひ
た飯豊皇女が、次にあるように一度だけセックスを経験し、以後性
あ
はじ
ひと か な し
かなしびたるおほみたから
は
の 事 を 奉 げ て、 先 づ 我 に 属 け た ま ひ き。 我、 其 れ 羞 づ。 惟
こ
あらは
いただ よろこび にな
ぐ
欲を断ったことなども﹁功﹂の一種だったのだろう。
み
あめ
ま
る に 大 王 は、 首 め て 利 に 遁 る る こ と を 建 む。 聞 く 者 嘆 息 く。
きみのみこはな
帝 孫 な る こ と を 彰 顕 す と き、 見 る 者 殞 涕 ぶ。 憫 憫 搢 紳 、 忻
よ
も
よろづよ
さかり
ひとはしをみな
いづく
け
飯 豊 皇 女、 角 刺 宮 に し て、 与 夫 初 交 し た ま ふ。 人 に 謂 り て 曰
よ
とほ
だから、神が人に内在化した雄略朝以降、天皇をはじめ支配層に
の神の宿りの偏在をいうための論理だったということである。
し、とらえることのできるのは﹁有功者﹂だけ、これが、人の心へ
り手であるがゆえに万物に、そして万人に宿る、しかしそれを発見
では以上のことからわかることは何か。高皇産霊尊は、万物の作
ほり
びて天を戴く慶を荷ふ。哀 哀 黔 首 、悦びて地を履む恩に逢ふ。
とがくい
あ
は く、﹁ 一 女 の 道 を 知 り ぬ。 又 安 に ぞ 異 な る べ け む。 終 に 男
い
はるか
是を以て、克く四維を固めて、永く万葉に隆にしたまふ。功、
きよきみち
て
に交はむことを願せじ﹂とのたまふ。
︵﹃紀﹄上、五〇六頁︶
なづ
おのづからなる ちか
ここ
を
造 物 に隣くして、清猷、世に映れり。超きかな、邈なるかな。
よ
粤 に 得 て 称 く る こ と 無 し。 是、 兄 と 曰 ふ と 雖 も、 豈 先 に 処 ら
いさをし
たしなみ まぬか
むや。功に非ずして拠るときは、咎悔必ず至りなむ。︵﹃紀﹄上、
五一六頁︶
また
全をはかってそのまま逃亡生活を続けようと制止したにもかかわら
属する人たちは、いかにして﹁功﹂を積み、自らに内在する神をと
これは、自ら︵億計王︶は﹁身を全くして厄を免れむ﹂と、身の安
ず、
王を失う民の嘆きを考えて、﹁名を顕し 貴 を著さむ﹂
︵﹃紀﹄上、
らえるか、勢い修行ということに熱心になっていったのである。
あらは たふときこと あらは
五一〇頁︶ことを決意し、逃亡生活にピリオッドをうった弟弘計王
12
人 文 学 の 正 午 No. 2 Dec. 2011
第三節
仏教的世界 の 導 入
ではいかにすれば人は﹁功﹂を積み﹁造物﹂に近づくことができ
るのか。
﹁ 功 ﹂ を 積 む と は と り あ え ず は 禁 欲 に 励 む こ と だ が、 当 然
それだけでは足りなかった。目的は内なる鎔造の神、高皇産霊尊に
近づくことであるから、鎔造の神が万物生成の神である以上、全て
の場合にわれわれの比喩で語られた人が、目に見える世界︵可
視界︶の究極に至るのと対応するわけだ。
︵プラトン著・藤沢
令夫訳﹃国家﹄﹃プラトン全集﹄十一、岩波書店、一九七六年、
五三六∼五三七頁︶
なぜならば、
たるとハデスの国︵黄泉の国︹小路田︺
︶たるとを問わず、いっ
こ う し て、 魂 は 不 死 な る も の で あ り、 す で に い く た び と な く
を知ること、全体知を獲得することが、その禁欲︵修行︶の目的に
しかし問題は全体知を獲得するとは、いったいいかなることをい
さ い の あ り と あ ら ゆ る も の を 見 て き て い る の で あ る か ら、 魂
ならなくてはならなかった。全体知の獲得を目指して禁欲に励むこ
うのかがなかなかはっきりしない点であった。そこでその獲得方法
が す で に 学 ん で し ま っ て い な い も の は、 何 ひ と つ と し て な い
生 ま れ か わ っ て き た も の で あ る か ら、 そ し て、 こ の 世 の も の
を定式化する人の登場が待たれた。例えば西欧世界ではソクラテス
の で あ る。 だ か ら、 徳 に つ い て も、 そ の 他 い ろ い ろ の 事 柄 に
と、それが﹁功﹂を積み﹁造物﹂に近づく方法だったのである。
とプラトンが現われ、次のように述べた。
そ れ で は、 グ ラ ウ コ ン よ ⋮ ⋮ い ま よ う や く 、 こ こ に 本 曲 そ の
も不思議なことではない。
︵プラトン著・藤沢令夫訳﹃メノン﹄
る 以 上、 魂 が そ れ ら の も の を 思 い 起 す こ と が で き る の は、 何
つ い て も、 い や し く も 以 前 に も 知 っ て い た と こ ろ の も の で あ
も の が 登 場 す る こ と に な る の だ。 こ の 本 曲 を 演 奏 す る の は、
﹃プラトン全集﹄九、岩波書店、一九七四年、二七七∼二七八頁︶
す る ま で 退 転 す る こ と が な い な ら ば、 そ の と き ひ と は、 思 惟
の そ れ 自 体 を、 知 性 的 思 惟 の は た ら き だ け に よ っ て 直 接 把 握
前 進 し よ う と つ と め、 最 後 に ま さ に︿ 善 ﹀ で あ る と こ ろ の も
論︵ 理 ︶ を 用 い て、 ま さ に そ れ ぞ れ で あ る と こ ろ の も の へ と
れ変わり膨大な数の生を生き抜いてきたのだから、まさに知らない
魂は、不死であり、肉体が滅んでも死滅することなく、何度も生ま
ば、人は全体知に行き着くはずである。なぜならば、人に内在する
﹁哲学的な対話・問答﹂によって、純粋に自らの内面を掘り下げれ
からであると。
話・ 問 答 に よ っ て、 い か な る 感 覚 に も 頼 る こ と な く、 た だ 原
哲 学 的 な 対 話・ 問 答 に ほ か な ら な い 。 ⋮ ⋮ ひ と が 哲 学 的 な 対
さ れ る 世 界︵ 可 知 界 ︶ の 究 極 に 至 る こ と に な る。 そ れ は、 先
神と心の歴史̶日本史試論(上)̶
13
Article ❶
全体知を抽象的な知ではなく網羅的な知ととらえ、その獲得方法
の 上 な く 完 全 な﹁ さ と り ﹂ を 達 成 し よ う と し て、 気 力 を 振 る
千 万 億 と い う 多 く の 仏 に 親 近 し た か ら で あ る。 か れ ら は、 こ
解 し が た い。 そ れ は 何 故 か と い え ば、 か れ ら 如 来 た ち は、 幾
を、人の一生をこえた経験の蓄積としたのである。そしてそれを可
い 立 た せ て 幾 千 万 億 の 仏 が 行 っ た 修 行 に な ら っ て 修 行 を し、
ことのない存在だからであると。
能にするために、霊魂の不滅をいい、霊魂との対話︵哲学︶という
か れ ら に 遠 く ま で 随 行 し て 驚 異 驚 嘆 す べ き 教 え を 体 得 し、 理
解 し が た い 教 え を 会 得 し、 理 解 し が た い 教 え に 通 じ て い た か
方法を考えたのである。
ではその種の言説をアジアにおいて提供したのは誰だったのか。
人が全体知を得て、悟りにいたるためには、途方もなく膨大な経
岩波文庫、一九六二年、六十七頁・以下﹃華﹄と記す︶
ら で あ る。
︵ 坂 本 幸 男・ 岩 本 裕 訳 注﹃ 法 華 経 ﹄ 上﹁ 方 便 品 ﹂、
のりのわざ お ぎ ろ
の 百 済 聖 明 王 の 欽 明 天 皇 へ の 勧 誘 に も あ る よ う に、 そ れ が 釈 迦 で
﹁解脱﹂とは全体知を獲得して悟りにいたることだと考えれば、次
あった。
ほとけ
験を積み重ね、知を網羅しなくてはならない。当然そのためには人
けだ
すめらみこと
け
しかしながらいけるもの
や
蓋 し 聞 く、 丈 六 の 仏 を 造 り た て ま つ る 功 徳 甚 大 な り 。 今 敬 ひ
も
しろし
め
み
の一生は短すぎる。だから人は悟りにいたるまで膨大な回数の輪廻
みいきほひ
て 造 り た て ま つ り ぬ。 此 の 功 徳 を 以 て、 願 は く は、 天 皇 、
ぐ
を繰り返さなくてはならない。したがって悟りを開いた如来の智慧
す
勝善れたる 徳 を獲たまひて、天皇の所用めす、弥移居の国、
あ
わかるはずがない。わかりたければさらに輪廻を繰り返し、
—
さらには﹁菩薩﹂
—
は、悟りを開く前の﹁声聞﹂や﹁独覚﹂などに
さいはひ
にも
倶 に 福 祐 を 蒙 ら む。 又 願 は く は 、 普 天 の 下 の 一 切 衆 生 、 皆
このゆゑ
しかしそうはいいながら、その一方で釈迦は、自分以外の誰かが、
脱 を蒙らむ。故に造りたてまつる︵﹃紀﹄下、九十二頁︶
やすらかなること
自分と同じように長い年月をかけて輪廻を繰り返し、近い将来悟り
解
では釈迦は全体知の獲得法についていかに語ったのか。日本では
経験を積むしかない。まず釈迦はこういう。
仏教導入以来一貫して重視されてきた教典﹃法華経﹄を手掛りに整
の域に達するなどとはつゆほども思っていなかった。それほど彼は
ないか、模索を続けた。そして次のような発言に到達した。
いはずの﹁菩薩﹂以下の人々が、それでも悟りに到達し得る方法は
オプチミストではなかった。そこで本来であれば悟りに到達しえな
理すると、以下のとおりである。
シャーリ
プ
= ト ラ よ、 仏 の 智 慧 は 深 淵 で、 見 き わ め が た く、
理 解 し が た い。 完 全 な ﹁ さ と り ﹂ に 到 達 し た 阿 羅 漢 で あ る
如 来 た ち が さ と っ た 智 慧 は、 す べ て の 声 聞 や 独 覚 た ち に は 理
14
人 文 学 の 正 午 No. 2 Dec. 2011
家 の 息 子 た ち よ、 余 が こ の 上 な く 完 全 な ﹁ さ と り ﹂ を さ と っ
し か し、 そ の よ う に 見 る べ き で は な い。 そ う で は な く て、 良
完全な﹁さとり﹂をさとられた。﹄と、このように思っている。
いて、﹁さとり﹂の勝れた壇の頂に坐って、いま、この上なく
シ ャ ー キ ヤ 族 の 王 家 か ら 出 家 さ れ、 ガ ヤ ー と い う 大 都 城 に お
ム
= ニ︵ 釈 迦 牟 尼 ︶ 如 来 は
し て、 完 全 な﹁ さ と り ﹂ の 境 地 に 入 る と 告 げ る の だ。 そ れ は
の 二 倍 も あ る の だ。 従 っ て、 今 ま た、 余 は 入 滅 す る こ と な く
な い の だ。 余 の 寿 命 が 満 了 す る ま で に は、 今 な お 幾 千 万 億 劫
す べ き 所 行 を 果 た し て い な い し、 余 の 寿 命 も 未 だ 満 了 し て い
の だ。 し か も 今 も な お、 余 は 求 法 者 と し て 前 世 に お い て は た
る こ と な く、 教 え 導 く た め に 完 全 な﹁ さ と り ﹂ の 境 地 を 示 す
無 限 の 寿 命 の 長 さ を も ち、 常 に 存 在 す る の だ。 如 来 は 入 滅 す
い ず れ に せ よ、 久 し い 以 前 に﹁ さ と り ﹂ に 到 達 し た 如 来 は、
て 以 来、 既 に 幾 千 万 億 劫 と い う 多 く の 時 間 が 経 過 し て い る の
何 故 か と 言 え ば、 余 が こ の 方 法 で 人 々 を 成 熟 さ せ る の は、 余
世 間 は﹃ 今、 世 に 尊 き シ ャ ー キ ヤ
である。︵﹃華﹄下﹁如来寿量品﹂十三頁︶
に せ よ、 捨 て な か っ た 世 界 に せ よ 、 そ れ ら 幾 千 万 億 と い う 世
に 多 く の 世 界 が あ ろ う と も、 か の 男 が 微 粒 子 を 捨 て た 世 界
良 家 の 息 子 た ち よ、 余 は 汝 ら に 告 げ 知 ら せ よ う 。 ど の よ う
困難ではないという意識がおこらないようにと願うからであ
は 常 に い る ﹄ と 思 い こ み、 意 識 が 麻 痺 し て 如 来 に 会 う こ と は
愛欲に溺れて盲目となり、邪見の網に覆いつつまれて、﹃如来
が善根を養い育てることなく、福徳を失って貧しい者となり、
が実に長いことこの世にいるために、余をたびたび見て、人々
界 の す べ て に、 ど れ ほ ど 多 く の 微 粒 子 が あ っ た と し て も、 そ
る。
︵
﹃華﹄下﹁如来寿量品﹂十九∼二十一頁︶
千 万 億 劫 の 数 に 及 ば な い の だ。 そ の と き 以 来、 こ の サ ハ ー 世
に 教 え 説 い て き た。 し か も 、 そ の 間 に は 、 余 は デ ィ ー ハ ン
界において、またその他の幾千万億の世界において、余は人々
こ れ ら の 如 来 た ち の 完 全 な﹁ さ と り ﹂ の た め に、 余 は 巧 妙 な
かも悟りに到達してから既に二╳﹁幾千万億劫﹂年の歳月を生きて
がら経験と修行を積み重ねてきたから悟りにいたったのである。し
千万億劫﹂年という気の遠くなるような時間を、輪廻を繰り返しな
に わ た っ て 修 行 を 積 み 重 ね た か ら 悟 り に い た っ た の で は な い。
﹁幾
私は、釈迦族の王子として生まれながらその地位を捨て、数十年
の 数 は 余 が こ の 上 な く 完 全 な﹁ さ と り ﹂ を さ と っ て 以 来 の 幾
=
手段を用いて教え説く現実の手段をつくりだしたのだ。
︵﹃華﹄
きている。悟りにいたった者は死ぬのではなく、無限に近い長寿を
カラ如来をはじめとしてもろもろの如来を賞賛した。そして、
下﹁如来寿量品﹂十五∼十七頁︶
手に入れるのだ。そしてこれからもさらに﹁幾千万億劫﹂年ほどの
神と心の歴史̶日本史試論(上)̶
15
Article ❶
時間を生き続けるだろう。
それは、悟り︵全体知の獲得︶を知の網羅ととらえたために、たと
ついに﹁巧妙な手段を用いて教え説く現実の手段をつくりだ﹂すこ
な経験を積み重ね続けなければ悟りの状態を維持することはできな
け変化する知である。だから釈迦とはいえ、悟りを開いた後も新た
どういうことか。網羅されるべき知は時間の経過とともに増え続
え釈迦が﹁巧妙な手段を用いて教え説く現実の手段﹂︵方便︶を確
とに成功した。それが﹁方便﹂なのである。聞き手のレベルにあわ
い。だから﹃法華経﹄も、釈迦の悟りを、その涅槃への第一歩とは
だから私はこの﹁幾千万億劫﹂もの間、いかにすれば、自分とは
せて教えを説く方法である。したがって自分のレベルにあった﹁方
立したとしても、釈迦の悟りが言説化された瞬間、それはもう全体
便﹂
︵経︶を信じて修行を重ねれば、﹁菩薩﹂であれ﹁声聞﹂であれ﹁独
考えず、無量寿獲得のきっかけとしたのである。ならばどの時点で
違い、悟りに到達するにはまだまだ経験の不足している人たちに、
覚﹂であれ、もうこれ以上の輪廻を繰り返すことなく、この世で悟
釈迦の悟りを言説化したとしても、それをした瞬間を一分一秒でも
知ではなくなるという矛盾であった。
りに到達することができるはずだ。釈迦はこう述べた。
過ぎれば、すでにその言説化された悟りは全体知ではないことにな
悟りの何たるかを教えることができるか、考え続けてきた。そして
こ の 釈 迦 の 発 言 を 信 じ、 と い う こ と は 久 遠 実 在 す る 釈 迦 の 存 在 を
だから仏教には、時間の経過とともに釈迦の教えが劣化していく
る。それがその矛盾であった。
のが仏教だったのである。その意味で百済の聖明王が、それを﹁普
と考える、釈迦入滅後の時間を正法・像法・末法に分ける三時説や、
信じ、
﹁ 方 便 ﹂ に 従 っ て 簡 易 な 全 体 知︵ 悟 り ︶ の 獲 得 法 を 実 践 す る
天の下の一切衆生、皆解脱を蒙﹂る教えとしたのは的を射ていた。
末法思想が必ずつきまとったのである。
直接対話に道を開こうとして、密教を開いた。
釈迦をこの世に派遣した全宇宙の中心神﹁法身﹂︵大日如来︶との
空海は、釈迦の限界を﹁化身﹂の限界とし、釈迦を飛び越えて、
を想定し、末法観を取り除こうとした。
を用いて教え説く現実の手段﹂
︵方便︶を更新し続ける釈迦の存在
最澄は﹃法華経﹄を根拠に、久遠実在するがゆえに﹁巧妙な手段
力は多様になされた。
当然その仏教の限界を克服し、改めて悟りに到達しようとする努
当然それは、内なる鎔造の神と出会い、全体知を獲得するために﹁功﹂
を積むことを目指し始めていた人々にとっては、願ってもない教え
仏教の終焉
—
であった。だから欽明天皇は、五三八年、仏教の受け入れを決断し
たのである。
第三章
神の心か ら の 離 脱
しかし、人が﹁功﹂を積み、心に宿る鎔造の神、高皇産霊尊と出
会うための手段としての仏教は、最初から深刻な矛盾を孕んでいた。
16
人 文 学 の 正 午 No. 2 Dec. 2011
しかし仏教の基本的考え方に立ち返れば、結局釈迦の教えで足り
二人は、立場こそ違え、共に輪廻を繰り返し、にもかかわらず、悟
大系﹀
、岩波書店、一九六四年、三五一頁︶
な経験を積み重ねていくしかなかった。しかしそれをした帰結は、
ることに失敗したのである。
なければ、その分は、一人一人が改めて自ら輪廻を繰り返し、新た
次の法然、日蓮の絶望だったのである。
国の人々の、鎔造の神、高皇産霊尊が出現してから数えて八〇〇年
そしてその結果、法然と親鸞が悟りの不能を宣言したとき、この
安楽集の上に云く、﹁問うて曰く、一切衆生は皆仏性あり。遠
返り咲いたのが、その何よりの証拠であった。当然神も人の心から
に も 及 ぶ、 内 面 に 宿 る 神 と の 出 会 い の 努 力 も 終 わ り を 告 げ た の で
答 へ て 曰 く、 大 乗 の 聖 教 に よ ら ば 、 ま こ と に 二 種 の 勝 法 を 得
どこかへ移らざるをえなくなった。ではどこへ移ったのか。突然ル
ある。最高神の地位から高皇産霊尊が退き、天照大神がその地位に
て、 も つ て 生 死 を 排 は ざ る に よ る。 一 に は 謂 は く 聖 道、 二 に
ソーを引き合いに出して当惑されるかもしれないが、次の言説空間
か、今に至るまでなほ自ら生死に輪廻して、火宅を出ざるや。
は謂はく往生浄土なり。その聖道の一種は、今の時、証し難し。
に移ったのである。
劫 よ り 以 来、 ま さ に 多 仏 に 値 ひ た て ま つ る べ し 。 何 に よ つ て
一 に は、 大 星 を 去 れ る こ と 遥 遠 な る に よ る 。 二 に は 理 は 深 く
解は微なるによる﹂と。︵法然﹃選択本願念仏集﹄岩波文庫、
主 権 者 は、 立 法 権 以 外 の な ん ら か の 力 を も た な い の で、 法 に
王 と 生 て、 万 民 を な び か す 事 大 風 の 小 木 の 枝 を 吹 が ご と く せ
く。 其 上 下 賤、 其 上 貧 道 の 身 な り。 輪 廻 六 趣 の 間、 人 天 の 大
此 に 日 蓮 案 云、 世 す で に 末 代 に 入 て 二 百 余 年 、 辺 土 に 生 を う
が二千年前にはそうではなかったのだ。
︵ルソー著・桑原武夫・
だ! というかもしれない。なるほど今日では、空想である。
と し て 行 動 し う る で あ ろ う。 人 民 の 集 会、 と ん で も な い 空 想
き に 他 な ら な い か ら、 人 民 は 集 会 し た と き に だ け、 主 権 者
一九九七年、九∼十頁︶
し時も仏にならず。大小乗教の外凡・内凡の大菩薩と修あがり、
前川貞次郎訳﹃社会契約論﹄岩波文庫、一九五四年、一二七頁︶
よ っ て し か 行 動 で き な い。 し か も、 法 は 一 般 意 志 の 正 当 な 働
一 劫・ 二 劫・ 無 量 劫 を 経 て 菩 薩 の 行 を 立 、 す で に 不 退 に 入 ぬ
大 通 結 縁 の 第 三 類 の 在 世 を も れ た る か、 久 遠 五 百 の 退 転 し て
よ っ て 存 続 し て い る の で あ る。 昨 日 の 法 律 は、 今 日 は 強 制 力
国 家 は、 法 律 に よ っ て 存 続 し て い る の で は な く、 立 法 権 に
べかりし時も、強盛の悪縁におとされて仏にもならず。しらず、
今に来か。︵日蓮﹃開眼抄﹄﹃親鸞集・日蓮集﹄︿日本古典文学
神と心の歴史̶日本史試論(上)̶
17
Article ❶
律を廃止することができるのに、それを廃止しない場合には、
それ自体は形をもたない神を思い描く力が欠けているからであっ
そもそも人には、鎔造の神、高皇産霊尊のような、万物に宿るが、
しての﹁仏教の限界﹂だけが理由ではなかった。
彼 は た え ず そ の 法 律 を 確 認 し て い る も の と な さ れ る。 主 権 者
た。裏を返せば偶像崇拝こそが人の本性だったからであった。だか
を 失 う。 し か し、 沈 黙 は 暗 黙 の 承 認 を 意 味 す る 。 主 権 者 が 法
が ひ と た び こ う 欲 す る と 宣 言 し た こ と は、 す べ て、 取 り 消 さ
ら先に引用した﹃古事記﹄冒頭の書き出しなども、八年後に編纂さ
ていたのである。
れた﹃日本書紀﹄では、せいぜい次のような書き方になってしまっ
ないかぎり、つねにそれを欲していることになるのである。
そ れ で は、 古 い 法 律 に 、 あ の よ う に 尊 敬 が 払 わ れ る の は
な ぜ か。 そ れ は、 古 い と い う こ と そ れ 自 体 の た め で あ る。 昔
なりい
一 書 に 曰 は く、 天 地 初 め て 判 る る と き に、 始 め て 倶 に 生 づ る
の︹ 人 々 の ︺ 意 志 が す ぐ れ て い た の で な け れ ば、 古 い 法 律 を
そ ん な に 長 く 保 存 は で き な い、 と 考 え な け れ ば な ら な い。 も
神 有 す。 国 常 立 尊 と 号 す。 次 に 国 狭 槌 尊。 又 曰 は く、 高 天 原
くにのさつちのみこと
し 主 権 者 が、 そ れ を た え ず 有 益 な も の で あ る と 認 め な か っ た
に所生れます神の名を、天御中主尊と曰す。次に高皇産霊尊。
まう
な ら ば、 彼 は そ れ を 千 回 も 取 り 消 し た で あ ろ う 。 よ く 組 織 さ
次に神皇産霊尊。
︵
﹃紀﹄上、七八頁︶
あ
れ た す べ て の 国 家 で、 法 律 が 弱 ま る ど こ ろ か、 た え ず 新 し い
力 を 獲 得 し つ つ あ る の は、 こ の た め で あ る。︵﹃ 社 会 契 約 論 ﹄
ここに、生まれると同時に隠れる神への理解はない。
ば、 人 の 心 に 神 が 宿 る な ど と い っ た 言 説 を 構 築 す る こ と は で き な
自体、人には困難だったのである。その困難をあえて克服しなけれ
一二六頁︶
﹁人民の集会﹂と、その歴史的蓄積の中に移行したのである。では
かった。その無理がたたったのである。それも神が人の心から離れ
だからそもそも、万物に遍在し、人の心に宿る神を想定すること
その移行はどのようになされたのか。ただここでは紙数も尽きた。
ざるを得なくなる理由であったというべきだろう。
それを考えるのは次の課題にしておきたい。
むすびに
さて、最後に一言つけ加えておけば、人が心に宿る神を発見する
ことができなくなったのは、先ほど述べた、それを発見する手段と
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︻参考文献︼
上原雅文︹二〇〇四年︺
﹃最澄再考
依
—
日本仏教の光源﹄ぺりかん社
—
加藤 隆︹二〇〇八年︺﹃旧約聖書の誕生﹄筑摩書房
小路田泰直︹二〇〇七年︺﹁人・社会・神の誕生についての仮説
大 澤 真 幸 著﹃ ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 由 来 ﹄ を 素 材
—
存理論の確立に向けて﹂﹃日本史の方法﹄Ⅵ、︹二〇〇九年︺
﹁ナショ
ナリズムとは何か
に
﹂
﹃歴史評論﹄七一〇号
—
佐藤弘夫︹二〇〇〇年︺﹃アマテラスの変貌
座﹄法蔵館
中世神仏交渉史の視
—
保立道久︹二〇一〇年︺
﹃かぐや姫と王権神話﹄洋泉社新書
水林 彪︹一九九一年︺
﹃記紀神話と王権の祭り﹄岩波書店
こじた・やすなお︵日本近代史/奈良女子大学︶
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