日本人の起源と日本国家の成り立ち(後編)

クリニックだより
気・心・体
第94号
平成25年10月1日
高森内科クリニック
*
「日本人の起源と日本国家の成り立ち
(後編)
」
*
(1)国家の形成と信仰
1)縄文時代の信仰
精霊信仰(万物に霊が宿る)
天体信仰(太陽・月・星)や、自然の猛威を神の祟りと見なしていた。
この時代、石棒信仰も見られる。
2)弥生時代の信仰
穀霊信仰(穀物の霊に対する信仰で、精霊信仰のひとつ)
稲作が主要な生産様式となった
↓
鳥崇拝(鳥は穀霊を運ぶ生物)
東南アジア稲作民族に広く認められる、稲作と一緒に長江流域から伝わったと考え
られる。この段階では、すべての人の魂は平等に扱われる。
↓
次第に、共同体を守るための呪術が発達。
祖霊のお告げを聞く者が集落・村落の人々の農作業や祭祀を指揮する指導者になっ
ていった。 ↓
大型古墳、埋葬品(銅剣・銅鐸)の登場
3)古墳時代の信仰
天皇信仰
天皇霊(すめらみことのみたま)と呼ばれる神々の魂が大王の体に付いたもの
↓
首長霊信仰(大王と神が同一化し人々を治める)
古墳の大型化は大王と神の同一化の必要から
天皇霊観念+大型古墳(祭祀)による支配統合へ
↓
氏族毎の祖先神(首長霊信仰):氏神
神社ネットワークによる支配統合へ
4)大陸の信仰
祖霊信仰は北方騎馬民族にみられ、父系転換に伴い、集団統合観念としてより強固
になっていった。その後、中国各地の文化・王朝へと受け継がれていく。
祖霊信仰と、神社に似た生活様式を併せ持っていた民族は長江流域に見られる(倭人)。
倭人は海を渡り(あるいは朝鮮半島経由で)渡来し、稲作・祖霊信仰・神社様式など
を日本列島に持ち込んだ。
5)弥生時代の国の形成と信仰 (省略)
(2)日本の神々と神名
1、古代史を探る資料としての神社伝承
古代史を探る資料として次の三つがあります。
①古事記・日本書紀・神社伝承などの日本国内資料
②魏志倭人伝・後漢書東夷伝などの外国史料
③遺跡・遺物の出土状況
この中で神社伝承はアカデミズムにおいてはほとんど無視されているが、意外な
ことがわかることがある。その中で重要なことを解説する。
1)イザナギ・イザナミ
古事記・日本書紀ではイザナギ・イザナミが国生みをしたとあるが、神話に記録さ
れている場所の神社を調べてみると、イザナギ・イザナミが祀られているものはほと
んどなく、あっても具体的な行動を示す伝承を伴っていない。しかし、相当数の神社
がイザナギ・イザナミに代わりスサノオやニギハヤヒを祀っていて、国土の統一をし
たという伝承を伝えている。非常に広範囲の地方でこの現象がみられるということ
は、これは国土統一をしたのはスサノオやニギハヤヒであって、古事記・日本書紀で
はその業績をイザナギ・イザナミにすり替えているものと推定できるのである。
2)スサノオ
スサノオは全国の神社で「天王」さんと通称されている。天王神社の総本社は愛知
県津島市の津島神社であり、津島神社の記録に、「素尊(スサノオ)は則ち皇国の本
主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」とある。
全国の各神社の祭神を調べると、スサノオはタカオカミ・イカズチ・フツシミタマ
・ハヤタマオ・シラヒワケ・カミムスビ・オオワタツミ・カグツチ・ホムスビ・ヤチ
ホコ・八幡大神等として祀られている。
3)ニギハヤヒ
古代より代々の天皇が頻繁に参拝した神社は、大和の「石上神宮」、「大神神社」
、
「大和神社」が挙げられる。いずれも神話上の最高神である天照大神とは別人の人物
が主祭神として祀られているのである。日本最高の神社である伊勢神宮には、日本書
紀以前に参拝した形跡がほとんどない。そもそも、神話上の最高神(天照大神)を
祀った神社が大和にないこと自体がおかしなことである。
古代大和朝廷にとって重要な神社は上に挙げた三神社で、ここに祀られている神は、
朝廷にとって重要な人物であるということになる。その祭神とは、それぞれ、「布留
御魂神」「大物主神」、「大和大国魂大神」である。これらはいったいどういう人物な
のであろうか。それらを調べていくと、ニギハヤヒという人物がでてくるが、どうや
らこの人物の別名であることがわかる。
ニギハヤヒは籠神社の祭神でもわかるとおり、伊勢神宮の神の上に位置し、天照
(アマテル)という名をもつ神である。「天照」という名の付いた神社の祭神はたい
ていこのニギハヤヒを祀っているのである。「天照」とは天照大神を指すのであるか
ら、天照大神を祀っていなければならないはずである。ニギハヤヒは大和朝廷にとっ
てとても重要な人物で、古代の天照大神は、このニギハヤヒを指していたようであ
る。このようなことから、大物主は天火明命であり、ニギハヤヒミコトであることが
推察される。
ニギハヤヒは、そのほかに、クラオカミ・ワケイカズチ・コトサカオ・トヨヒワケ
・アメノミナカヌシ・クニトコタチ・カナヤマヒコとして全国の神社に祀られてい
る。古代から大和に祀られて、朝廷が頻繁に参拝している神社には、いずれもニギハ
ヤヒが祀られており、それも皇祖として祀られているようである。
全国の神社に伝わっている伝承は、古事記や日本書紀とは別のものであり、複数の
神社の関連を丹念に調べていって浮き上がってくるものである。ニギハヤヒは後代の
歴史改竄作業によって全国の神社から消されたが、完全には抹消できず、それらが現
代まで受け継がれてきたようである。
全国を統一したのはスサノオ・ニギハヤヒではなく、日向一族であることを神話化
して残し、それを古事記・日本書紀としてまとめ、全国の神社からスサノオ・ニギハ
ヤヒの伝承を抹殺させたように思われる。
2,日本の神々の起源
1)海神(綿積ワダツミ)族
紀元前300年頃、戦国時代の中国では鉄器が本格的に使用されました。しかし、越
という国は青銅器しか持たないため追いやられ、難民の一部が北部九州に流れ着いた
と言われ、日本では海神(ワダツミ)族と呼ばれている。
すなわち、中国江南沿海部の原住地から山東半島、朝鮮半島西南部を経て、紀元前
3~2世紀に日本列島に到来した種族がいた。主として、筑前・肥前北部の沿岸地域
に居住し、水稲稲作農業を行い、青銅器を使用して、わが国の弥生文化前期の主力を
担ったもので、航海・漁労にすぐれた能力を持つ人々たちである。
2)イザナギ・イザナミ
紀元前296年、越の攻撃によって中山国(黄河下流・遊牧系)が滅亡する。そして、
この国の白狄人が日本に渡来するが、一説にはイザナギ・イザナミの一族ではないか
と言われている。 イザナ :イサカラ(大東加羅、後期百済系倭国)の転訛
イザナギ:大東加羅の男神の意
イザナミ:大東加羅の女神の意
3)海人(アマ)族
前3世紀から前2世紀初頭、中国の南東部(長江河口域)で激しい戦乱が起こり、
そこの河姆渡人と思われる海人(アマ)族が渡来します。対馬経由で、出雲、その後
北部九州・志賀島を拠点に、筑前・肥前の沿岸部に居住します。海人族の特徴は、温
和、漁労(潜水漁)、海洋技術、金属技術(青銅・銅鐸・銅矛の製作)、全身入れ墨、
稲・葦・竜蛇・鴨を祀る、というもので、出雲神話と一致します。「大国主の命」で
はないかという説があります。
4)天孫族
中国東北地方の内陸部を原住地として、朝鮮半島を経て、半島南部を根拠として、
紀元一世紀代頃に日本列島に到来した種族がいた。鉄器文化や鳥トーテミズムをも
ち、支石墓や後期の朝鮮式無文土器に関係したとみられる。古代朝鮮の箕氏朝鮮、扶
余・高句麗や百済・新羅、あるいは渤海を建国した部族とも同族の可能性が強く、
「天孫族」と呼んでおく。彼らも弥生人の一大構成要素であった。
この種族は、邪馬台国の前身たる部族国家を二世紀初頭前後頃から形成し、それ
が、魏朝の頃に最盛期をむかえ、女王・卑弥呼を生み出した。
天孫族の特徴は、鉄鍛冶、製塩、土器・鏡・玉・剣・弓矢・衣類の製作、粟・麻・
熊・鳥(白鳥・鷹・鷲)などの動物を祀る、ことなどです。彼らが、天照大神、つま
り皇室の始祖との説があります。
神産巣日神系:海賊、東シナ海、越、高御産巣日神系:学者系、大伴氏、秦王族関係
者
5)素戔嗚尊(スサノオ)
紀元前190年頃、衛満の反逆により箕氏朝鮮(南朝鮮の王族)が逃亡し、日本に渡
来する。箕氏朝鮮の特徴は、牛頭天王や海神を祀り、遼寧式銅剣(祭祀用)を持ち、
もと殷(商)人(漁労・農耕民族)であり、その神話から遊牧系との混血の可能性が
ある。彼らがスサノオであるという説がある。 ①スサノオ族:高木神、伽耶の製鉄集団の支配階級であるという説もある
②乱暴者スサノオ
「記紀ではスサノオが乱暴者(悪者)として扱われている理由」
支配層(物部氏)の存在を否定し、力を封鎖するためである。記紀を編集した天
武、天智の勢力が「かって日本を支配していたのは土着の物部氏であり、その祖が
スサノオ一族であった」ことよく知っていた。そして、後の政権(特に藤原氏)
は、その力を封鎖するために物部氏を歴史から抹殺し、そのシンボルであるスサノ
オを否定的に記述したのである。
③スサノオ:スサ(須佐)→スガ(須賀)→ソガ(蘇我)
神名スサノオは「蘇我の男」を意味するで、スサノオは蘇我氏の祖神ということ
になる。
④スサノオと応神
応神以降のヤマト朝廷は、応神天皇の霊をスサノオとして日本各地の神社に祀ら
せた。その理由は、応神の出自がスサノオ族(箕氏朝鮮)であると理解していたか
らと推定される。
6)山祇族(縄文人)
日本列島の形成が数万年ほど前のこととして、その前後から原日本人が居住してい
たと考えられる。彼らを縄文人とか「山祇族」と呼ぶことにする。彼らは狩猟・漁労
・焼き畑農業を行い、火具土神(火産霊神)・火雷神・丹土神を奉斎し、月神・犬狼
信仰がみられる。
7)ニギハヤヒ
天皇家祖神である天孫ニニギは神名のニニギでもって火神であることを示してい
る。また神名ニギハヤヒは「富み栄える威力ある日神」の意と考えられるので、ニギ
ハヤヒも日神とみられる。
①石上(イソノカミ)神宮
イソノは後期百済系倭国の別称イソカラ(大東加羅)が
イソカラ→イソアラ→イソナ→イソノ、と転訛したものであり、カミはカキ(大き
な城)の転訛である。したがってイソノカミは「イソカラ(大東加羅)の大きな
城」の意。
②ニギハヤヒとホアカリ(天火明)
ニギハヤヒの存在があいまいなのは「消された」のではなく、多数の海神族のオ
サ(長)をニギハヤヒという個人に代表させて表現したからだと考えられる。ま
た、ある時代での最強グループとなったゆえに、旧事本紀では濃尾に渡った天孫の
天火明(ホアカリ)を同一人物として記述させたと考えられる。
③ニギハヤヒの異名
天火明命、大物主、大和大国魂神、布留御魂神、大歳御祖神、天照御魂神、など
の多くの神名をもっている。それは、ニギハヤヒという大王と関わりをもった氏族
がそれぞれに神名をつけたからであろう。
④大和国之開祖、皇祖としてのニギハヤヒ
大和朝廷以前の邪馬台国倭国には5人の王が君臨した。スサノオ・オオクニヌシ
・アマテラス・トヨウケ姫・ニギハヤヒである。アマテラスを除く四人は天武天皇
が目論む正史の基本構想によって抹殺されたのである。
⑤三輪山の崇神の霊
オオヒコ(大日子)、アマテルオホヒコ(天照大日子)、アマテルオホヒ(天照大
日)などの神名で呼ばれていた(ちなみに、当時、応神の霊はスサノオとして祀ら
れていた)。
⑥ニギハヤヒと物部氏との関係
物部氏は多数の氏族の混合体であり、単一の氏族ではない。弥生~古墳時代の強
力な海運業組織(ギルド)であって、単一の古代氏族を祖にするのではない。ニギ
ハヤヒはある時代のギルドの代表者だったのかもしれない。AD100年以降の寒冷
化とともに海運者から商社的な傾向を強めていったのが物部氏の祖ではないかと考
えられる。
8)アマテラス(天照大神の誕生)
AD250年頃:中国春秋戦国時代の論理化の余波をうけて、シャーマン的な卑弥呼が誕生
AD300~400年頃:大和周辺の太陽信仰を集約した三輪王朝
AD400~500年頃:全国の太陽信仰を男神伊勢荒祭宮に集約した河内王朝
AD507~671年 :儒教、仏教の伝来に対抗して全国の太陽信仰を見直して女神・オ
オヒルメムチに再集約した継体王朝
AD672~712年 :女神オオヒルメムチを伊勢に祭って天皇が現人神になる天武王朝
AD712~720年 女神オヒルメムチを女神天照大神と呼び代えて古代神話が完成した
690年、オホヒメ・オホヒルメ・アマテルヒメ・アカルヒメはアマテラス・オホヒル
メ・アマテラスヒルメ(天照日女)・アマテラスオホヒルメと呼ばれるようになった。
「アマテラスのスは尊敬の助動詞(天照る→天照らす)
ヒルメのルは「へ」の意の連体助詞(ヒメ日女→日る女→ヒルメ)」
9)大国主・大物主・大穴持
大国主:個人名ではなく、国譲りまでの九州時代の、出雲王朝歴代王の共通称号だと
考えられる。
大物主:国譲り以後の出雲王朝の王の共通称号であり、最後の王が奈良纒向(三輪山)
に在住したようである。
大穴持:初期開拓者や先住縄文系の王か? 出雲伝承もスサノオ系と天穂日(アメノ
ホヒ)系の二種ある。大穴持の名は天穂日系伝承の伝える名かもしれない。
祟り神にされたオホモノヌシ
令制国家は、神代以来の出雲の神オホモノヌシを神代以来の大和の三輪山の神と
し、705~707年までの疫病の流行・災害の発生の原因をオホモノヌシの祟りとし
た。
(3)出雲王国
1,出雲・大和・倭国の歴史の概略
BC500~300頃:中国大陸の戦乱で呉・越から住民が日本海側の島根半島へ渡来し、
原始出雲国ができた。天穂日に率いられた、いわゆる出雲臣(イズ
モオミ)族である。
BC3世紀末:島根の出雲から京都・奈良地方へ出雲臣族が移住し、大和の開発をする。
BC100頃:箕氏朝鮮を祖にもついわゆる出雲神族(スサノオの一族か?)が北部九州
から日本海側の島根半島に進み、ここで先住の出雲臣族と出会う。
BC15頃:スサノオが島根に出雲国を建国。その後、国を筑紫東北部と豊前・豊後・
長門・周防の沿岸部に広げ、古出雲王国ができた。
AD25頃:スサノオがニギハヤヒに命じて、近畿に向かわせる。ニギハヤヒは国東半
島(宇佐)と琴平に拠点を作って瀬戸内海を支配下に置いた。その後、大
和に入り西日本を統一し日本(ヒノモト)と命名した。
AD83頃:出雲追い落としをねらったサヌが九州から大和に入り、大和朝廷の大王
(神武天皇)となる。
その後、加羅系の集団により西日本の各地が占領されはじめ、加羅系の小国が西日
本に多数できた。そして342年には加羅系倭国ができ、崇神が大王になった。
AD350頃:出雲王朝は滅亡(出雲王国600年の歴史の中で、4回も大きな侵入があっ
た)
2,出雲王国の形成
紀元前、スサノオの一族は豊前の宇佐・豊後の大分に拠点を置いて古出雲王朝(出
雲神族)を建国し、それから瀬戸内海を東進した。
BC100頃には出雲臣族は若狭を経て琵琶湖、京都に進出した。出雲神族もまた瀬
戸内海から兵庫、河内にへ上陸して大和の開拓を開始した。こちらでも祖を異にする
二つの出雲が接続して、瀬戸内海と日本海をめぐる「環出雲王朝」が成立した。すな
わち、スサノオ(出雲神族)と同郷の天穂日命(出雲臣族)が出雲を拠点に近畿まで
出雲王朝を作ります。この時期には、九州を天孫族が、四国・近畿を出雲神族が支配
する形になります。
その後、九州の天孫族・アマテラス族・海神族の地に天孫が降臨した。その天孫の
神武は出雲追い落としの作戦を練り、九州を統一し倭国を作り、そして大和へ向けて
東征に向かったのである。
3,出雲への移住者
弥生中期の終わり頃、辰韓から出雲へ集団が渡来した。農具・工具・武器・水田稲
作と製鉄の技術等を身につけた多数の移住集団であった。
出雲は鉄・青銅器の技術を基礎にして交易で栄えた。弥生後期(3世紀)には盛大
な勢力になった。そして、2~3世紀の大和建国には出雲が多大な力を出した。
また、出雲は鉄を基調にして富を蓄え、青銅器を得てこれを原料にした別の器具や
調度品を造りだして、これも利益を生み出した。さらに従来から盛んだった地場産業
の「玉の製作と交易」による利益を加えることにより、出雲は当時の日本列島では突
出した工業国・交易国であり、経済的にも富裕な国であった。
騎馬民族の血を引く扶余族によって伝えられた青銅器の武器や生産工具と、主に江
南あたりから移住してきた稲作農耕民族によって作られた銅鐸などの祭器は、日本列
島において同体となった。その頃、盛んになった鉄器の製造と沿岸交易によって、多
大な利財を蓄えた出雲は、権力と財力を握る古代有数の大国として、青銅器や鉄器を
ともに栄えた。
このようにして、2世紀の初め頃から成長の速度を速めた出雲は、倭国の大乱とそ
の後の経済成長に乗じて、国内における当時なりの工業立国に成功し、3世紀の頃に
はほぼその頂点を極めたようである。このようにして多くの富を蓄えた弥生時代後期
の出雲には、侮ることができない勢力が存在して、2~3世紀の頃の大和で行われた
建国に、この出雲勢力が多大な貢献をしたことが明らかになっている。
4,出雲王国への侵略・攻撃(4回)
①最初はスサノオによるもの
②記紀に「国譲り神話」として記された天孫族との戦い
尾張氏と物部氏が葛城山とその支配地域の自治権を要求した。タケミカツチ=尾
張氏が主役。尾張ー物部の連合政権であったが、次第に物部が主となり、尾張は追
われることになった。三輪山麓の大和王朝と葛城山麓の葛城王朝との二朝併立状態
となる。いわゆる欠史八代と言われる時代である。
③九州より攻め入った神武一族
④物部を将としたアメノヒボコ族が天孫族と組み、出雲神族に壊滅的な打撃を与えた
もので、いわゆる出雲戦争といわれるものである
5、記紀の出雲隠し
まず、スサノオ、ニギハヤヒの国家統一事業は、日向族の祖であるイザナギ・イザ
ナミの業績に置き換え、出雲一族との関連で無視できいないところは、出雲族でも日
向に関係の深かったオオクニヌシの業績に置き換えた。次に、卑弥呼を抹殺し、卑弥
呼及びニギハヤヒが持っていた天照大神の称号を、日向女王に与え、天上に上げた。
スサノオはその業績を奪われ、日向女王の弟で高天原の乱暴者にされた。ニギハヤヒ
は大和の創始者であることを抹殺することができなかったので、ニニギの兄にされ、
神武天皇以前に大和に天下ったことにした。スサノ・ニギハヤヒの業績はすべて抹殺
し、全国の彼らを 祭っている神社から彼らの名を消すように指示したのである。
このようにして、日本国を統一したのはスサノオでなく、日向一族であることを神
話化して残し、それを古事記・日本書紀(記紀と略す)としてまとめ、全国の神社か
らスサノオ・ニギハヤヒの伝承を抹殺させた。このように地方からこの二柱の信仰を
弱めた上で、国分寺を全国に建立し、仏教を広めることができたのである。
(4)邪馬台国(九州説の立場による)
1、邪馬台国関連年表
BC9~8世紀:集落が形成され始める
BC3世紀:甕棺墓、青銅器製造が始まる
BC210頃 : 原邪馬台国誕生
AD57:倭の奴国王、後漢に朝貢
106: 邪馬台国誕生
107: 倭国王帥升等、後漢に遣使
2、邪馬台国の読み方と狗奴国の読み方
ヤ(邪):大を意味するカがヤと訛った
マト(馬台):マロ(宗主)が訛った
従って、邪馬台国は大宗主(ヤマト)国を意味するし、邪馬台ヤマトと読める。
ク(狗)は古代朝鮮語の「大」を意味するカ・クのクである。伊都国の東隣にあっ
た奴国とは別の国であり、「ずっと大きな奴国」の意味づけで、クナ(狗奴)国と呼
ばれた。
3、倭奴国から奴国への変化
九州の地方国家であった「奴国」が、当時の「倭」と呼ばれる土地にあった国々を
統したことによっておこった。
古代語では奴国はナラと呼ぶので奈良という字に置き換えた(奈良は奴国の当て字)
邪馬台(ヤマト)は首都の意で、「大和」という言葉になって残っている。
2世紀に入る頃、奴国の力が低下し、2世紀半には不安定期に入った。
倭国大乱:180年頃、最大の争乱が起こる、それで卑弥呼を邪馬台連合国(邪馬台
国を中心とした北九州倭国のことで、単に邪馬台国と呼ぶことが多い)
の女王として共立することで、大乱が収束した。
卑弥呼を共立→統一奴国が邪馬台国と旧奴国(くぬこく)とに分裂し対立する→邪
馬台国の和平派が北九州を脱出し近畿に入り、原大和朝廷を作った。
邪馬台国は、馬韓から渡来した勢力が作った狗奴国と対立した。
弁韓(伽耶、任那)を故国とする邪馬台国連合(29カ国)
。
狗奴国は馬韓(後の百済)を宗主国とする。
北九州や狗奴国へは朝鮮半島西南部からの来住者が多く、最も多いのは中国江南方
面からきた人々である。
吉野ヶ里は、1~3世紀において、狗奴国が邪馬台国に侵入するのを防ぐ基地の働
きをしたようである。
そして、266年~413年まで147年間、日本関係の記事が中国の正史から消えてい
る。
4、吉野ヶ里遺跡関連年表
183 卑弥呼を共立
247 郡司張政らが吉野ヶ里に来る、卑弥呼死亡
266 倭の女王(台与)
、西晋に遣使
320年代:邪馬台国が狗邪韓国(金官加羅国)に滅ぼされる
342 加羅系倭国誕生
313 楽浪郡が滅ぼされる
314 帯方郡が滅ばされる
320頃:狗邪韓国を宗主国とする加羅(伽耶)連合王国が成立した
320年代後半:狗邪韓国の軍勢が北九州に侵入し、倭国の邪馬台国連合王国の宗主国
・邪馬台国を滅ぼした。そして、瀬戸内海を東進していった。そして、330年
代頃に岡山県の吉備地方に本拠を置き、ついには近畿・中部まで征服した。
342年 崇神は纒向を王都とする加羅系倭国(大加羅)を建設し、その初代王となっ
た
(5)大和建国
1、4世紀初頭の日本列島における政治勢力 九州:旧奴国→神武勢力、中部・北陸:ホアカリ族連合 関東以東:蝦夷(エミシ)
本州西日本:新奴国(出雲、三丹ー丹後・丹波・但馬、近江を含めた近畿)
2、近畿天皇家
近畿天皇家は本来九州王朝の支配層に属する一族だと考えられる。紀元前後の時期
に、九州王朝から分派して大和に入り、その地方の豪族との闘争を通じて、次第に生
存の基盤を拡大していった。
①第一次に、「神武の東征」という形でみられる九州王朝分派勢力の東進
②第二次に、崇神 ③第三次に、応神
という時期に九州王朝の勢力は大和に進出し、ついに大和を支配し、日本を支配する
に到った。これらの歴史から、天皇家の出自は伽耶族の支配層であったと考えられ
る。
(6)崇 神
1、崇神の渡来
4世紀半ば加羅から、軍事集団が北部九州へ渡来し、邪馬台国を滅ぼし、北部九州
に前進基地を作る。ついで瀬戸内海を東進し、吉備に前進基地を作る。そして、大阪
湾・難波に入り、河内を征服し、大和に入る。そしてついに、九州から東海地方まで
この加羅系渡来集団により征服されたのである。
342年頃、崇神は南加羅の国王となり金海に王都を置いた。
350年頃、崇神は倭国に渡来し、加羅諸国と日本列島の諸加羅系王国からなる連合
王国の首長となり、大和盆地の東南部にその王都を建設した。
崇神を始祖とする金官伽耶国は、南加羅・南伽耶・任那加羅・任那・加羅(伽耶)
などと呼ばれていて、加羅諸国の中で盟主国となっていった。4世紀中頃、崇神は三
輪山のふもとに王都を移して古代国家を建設し、その初代王となったと考えられる。
この古代国家の領域は、朝鮮半島南部の加羅(伽耶)地域と、西は北部九州から東は
関東地方までの日本列島の広い地域からなっていた。
畿内王国は、金官伽耶国を通じて、加羅諸国を支配した。
崇神の和風諡号「ミマキイリヒコイニエ」の意味は「三輪山のふもとのマキ(王城
・王都)に入った王」である。 金官加羅国は狗邪韓国とも呼ばれていた。
加羅系倭国と百済は340年代の両国の建国以来親密であった。
邪馬台国の王都と推定される吉野ヶ里の大環濠集落が古墳時代初頭に急激に衰弱し
ているのは、崇神勢力から破壊されたからだと推定される。
2、崇神と狗邪韓国
320年頃 狗邪韓国王の勢力は邪馬台国を滅ぼし、邪馬台連合王国を特別自治区と
して旧邪馬台国王に支配させた。狗邪韓国王は新邪馬台国の国王ともなった。その
後、狗邪韓国王兼新邪馬台国王の勢力は瀬戸内海を東進して近畿に入り、342年に大
和の纒向を王都とする新邪馬台国=加羅系倭国(大加羅)を建国した。母国の狗邪韓
国は金官加羅国と国名を改め、加羅系諸国の宗主国であるとともに、日本列島の加羅
系倭国に属することになった。
崇神の建設した加羅系倭国は日本列島の各地に作られた多数の加羅系小王国と朝鮮
半島南部の加羅諸国と併せた「大加羅連合王国」ともいうべき政治的連合体であっ
た。「大加羅連合王国」は、対外的には「倭国」という国名を使用し、朝鮮半島南部
の加羅諸国とは別の国家のように装った。
3、崇神と百済との軍事同盟
崇神が百済と軍事同盟を結んだのは、崇神王朝の支配下にあった加羅諸国を高句麗
の侵略から守るためであったのであろう。もし百済が高句麗の支配下に入ると、次は
加羅諸国が高句麗の侵略の対象になる。そこで、崇神は、高句麗が百済を支配下に置
く前に、百済と連合して高句麗を叩くのが得策とみたのであろう。371年頃、百済が
高句麗に侵攻できたのも、倭国軍の強力な援助があったためと思われる。
4、任那、三輪山ということばの意味
ニム(主)・ナ(国)のニムがミマに訛ったもので、 ミマナは主国の意味である。
任那は加羅系諸国の総称名詞である。
大駕洛国(金官加羅国、加羅、南加羅)が加羅諸国の宗主。
ミワはミカラ(大加羅)のミカが訛った語であり、三輪山は「大加羅の山」の意で
ある。
5、伽耶ー百済ー日本との関係
①紀元前、伽耶系が日本に定着(主に鉄の交易拠点作り)
②対高句麗戦略の伽耶系王朝として大和朝廷ができあがる
伽耶系崇神天皇が初代大和朝廷天皇(当時は天皇はなく大王である)として喚ばれ
る
③475年、百済が侵略を受けたので遷都する
それ以後百済から亡命多数(百済人が日本列島に渡来)
④大和朝廷(伽耶人が主体)が百済人取り込みを決意、その結果百済系の応神天皇即
位
6、伽耶と日本との関係
伽耶は大和を市場として取り扱ってきた。また、朝鮮半島内で常に戦争圧力に苛ま
れ、侵略に怯えていた小国であるので、いざという時に避難する先を確保している必
要があった。それで、海という防波堤を備える日本の地を切実な避難先としてとらえ
ていた。そしてこの日本が有事の際の後方支援基地・後方支援部隊となると考えてい
た。
そのため伽耶は日本に大和朝廷を興した。とくに新羅によって国家を失ってから
は、対高句麗、対唐、対新羅を前に、百済人を取り込んで国家の体制を整えていく決
意をしたようである。伽耶人が大和朝廷の骨格を作り、後に百済人が乗り込んで合流
した国家が大和朝廷であり、日本国家と思われる。つまり伽耶と大和は連合国となっ
たのである。
(7)応 神
昆支は百済王朝より倭国に来た。崇神王朝の入り婿となり、義兄・興の死後に即位
して倭国王・武となった。5世紀後半、高句麗の侵攻に脅かされていた百済は、倭国
と修好して、高句麗に抗しようとした。倭国も高句麗と仲が悪く、もし高句麗が百
済を征服して南下をすれば、倭国の一部である加羅諸国の安全も脅かされることに
なる。そこで高句麗の侵攻を防ぐために、倭国の側も百済との修好を進めようとし
た。
そして、百済が高句麗によって侵され、百済は一度滅亡する。このことは倭国の
支配層に大きな衝撃を与えた。高句麗の侵攻をおそれ、百済の復興を援助するととも
に、百済との結合を一層強めようとした。
したがって、入り婿・昆支(倭国王武・応神天皇)の立場は強くなり、倭国の王位
につくことになった。
(8)半島情勢と渡来人
1,支配勢力の渡来
①神武一族
弁韓あたりの「倭の国」の王族 であり、いわゆる天孫族か?
②崇神
扶余あたりの王族の後裔、高句麗などとともにまず辰韓に南下し、その後北九州
に渡来し、ついで大和に東進した。
③応神
扶余が本貫の地、朝鮮半島西側に向かって南下し、馬韓王家に入り、その後九州
の狗奴国に迎えられた。
2、高句麗の脅威と広開土王(好太王)
朝鮮半島北部の新興国家・高句麗は江南系や朝鮮半島系の農耕民族とは異なり騎馬
民族である。騎馬民族である高句麗はその高い機動力と戦闘力で朝鮮半島を席巻す
る。そして、対馬海峡を挟んだ日本にとってもその高句麗の勢いは脅威であった。
広開土王は「倭」と戦っており、強敵とみなしているが、このときの「倭王」は第
二代加羅系倭国(加羅連合王国)の王・垂仁である。垂仁は高句麗から圧迫された百
済と加羅諸国を守るために、九州から大軍を朝鮮半島に送り、強敵・高句麗と戦った
と考えられる。
3、朝鮮半島南部からの大量渡来の秘密
5世紀末~6世紀末に少なくとも100万人の渡来者があったと推定されている。こ
れは朝鮮半島の戦乱を逃れて渡来したのではない。応神王朝が倭国と友好関係にあっ
た国の政権と協力して国家事業として計画的に行った大規模な植民政策によるもので
ある。そしてその国は百済以外にはない。したがって応神王朝は百済系倭王朝という
ことになる。
4,渡来人の経路
1)弥生時代
1134:殷が滅び周が興る→朝鮮半島に流入し、箕氏朝鮮を興す
770:春秋時代 中国系渡来者あり
661:晋が魏を滅ぼす
473:呉が越を滅ぼす→呉系倭人が九州・瀬戸内海に流入し、北九州に巨大集落を作
る。熊本へ、球磨国を建てる(イザナギ族、南九州に上陸)
400頃:周が解体し、戦乱状態→朝鮮半島や九州へ流入
403:戦国時代、晋が韓・魏・趙の三国に分かれる
334:楚が越を滅ぼす→越系倭人、すでに呉がいた九州を外して出雲・北陸へ定着
呉人→九州・瀬戸内、越人→出雲・北陸、楚人→出雲・近畿
296:趙によって中山国(黄河下流、遊牧系)が滅亡、白狄人が渡来
長江河口域で戦乱→中国南部の河姆渡人と思われる海人(アマ)族が渡来、長
江三苗が半島西・南岸へ移動 220~200:楚滅亡、次いで秦滅亡→半島へ大量の避難民
214:匈奴が東胡を追い出す→日本へ天孫族が渡来
221:秦の始皇帝が中国を統一
219:徐福が渡来、佐賀平野に上陸
195:箕氏朝鮮滅亡→衛氏朝鮮が生まれる、この頃スサノオ族の来日か?
楚人は秦から逃げ出して半島の辰韓に渡り、そこから出雲・丹後・近畿へと移住
154:呉楚七国の乱→天孫の親の渡来(天之忍穂耳、天穂日→出雲臣族へ)
2)古墳・飛鳥・奈良時代
紀元前頃より:多数の伽耶系の人が鉄の交易拠点を作るために北九州に定着
280:半島より移民多数
4世紀中頃:古墳時代が始まる、南加羅から渡来集団が北部九州に渡来し、大和まで
進み、西日本を支配下においた。崇神王朝と言われている。
4世紀後半~5世紀前半:応神朝頃の渡来の波(弓月君を中心とする秦部族、阿智使
吏を中心とする東漢部族が二大要素)
5世紀後半:雄略朝頃の大量の渡来の波(今来の漢人)
7世紀後半:百済・高句麗の滅亡による大量の避難民
8世紀:半島からの移住の最大のピークがこの世紀であった
(9)蘇我氏~藤原不比等の国作り
1、応神以後の年表
5世紀末:応神が大和に入る
6世紀中頃:蘇我氏を百済人の統制役として抜擢、蘇我氏によって国の骨格ができる。
645:出過ぎる蘇我氏が邪魔になり、伽耶系により暗殺(乙巳の変)
663:百済が滅亡し大量の百済系亡命者が渡来
663:無駄な合戦・白村江の戦いで百済人の人減らしを企む
672:天武天皇による天皇制初代統治、大王は高市皇子(左大臣であるが)
不比等による「百済ー伽耶の権力闘争」の決着→象徴と実権の分離
以後は百済~伽耶合併王朝として国作り
平安時代に百済系天皇が立ち、そして伽耶系は地下に潜り明治時代に伽耶系王朝復活
2、蘇我氏:蘇我氏のソカはソカラ(東加羅)に由来する。
3、応神死後
欽明がクーデタで継体系王統から王権を奪った。
欽明死後、二つの王統での権力闘争が繰り広げられる
*応神系(用明系)王統→蘇我大王家
*継体系(敏達系)王統→中大兄皇子(天智)が645年に蘇我大王家を滅ぼした
660年:百済系倭国の母国である百済が唐ー新羅連合軍によって滅ばされる
663年:白村江で中大兄皇子(天智)の軍は唐ー新羅連合軍に大敗を喫す
4、持統天皇と日本国
689年 飛鳥浄御原令を施行、国名を「日本国」に改め、日本国の初代天皇として
即位したとみられる。すなわち、日本国(旧日下国)が九州島の「倭国」を併合した
ことにしたと推定される。日本国を「倭の奴国の後身」とすることにした。国名「日
本」が「日下(ひのもと)」に由来することを完全に隠すことにした。
「九州の倭国が大和の日本を併合して、国名を日本に改めた」という、日本国の新
しい歴史を創作したのである。今回も「持統天皇ー藤原不比等」ラインによる歴史と
国体の改変である。
国名「日本」は百済系倭国の別称「日下(クサカ)」の「下」の字を「本」という
好字に代え、「ニッポン」(呉音)、「ジッポン」(漢音)などと音読みしたもので、訓
読みにすれば「ひのもと」である。
ひのもと→日下→日本→ニッポン・ジッポン
5、応神以降の権力闘争
応神以降は伽耶系、百済系で交互に天皇の地位に着くが、百済系の渡来人が増えて
くるにつれて、その整理が必要になった。百済系の官僚である蘇我氏に百済人の統制
の責任を担わせることになった。蘇我氏は極めて有能であり、その後の日本の中央集
権国家の基礎となる制度・システム・組織を作ります。また、本国百済から仏教を取
り入れ、神道中心であった物部氏を権力から外してゆきます。また、蘇我氏は伽耶系
で支持・統括されていた天皇を中心とする中央組織を百済系に改変し始めた。
それに対して、再び伽耶系の王朝に戻すクーデターが645年の「乙巳の変」なので
す。暗殺の首謀者である中臣鎌足、その後の天智天皇は伽耶系の一派です。
さらに、朝鮮半島で百済の敗北が決定的になった6世紀半ば、斉明天皇による白村
江の戦いが企てられます。すでに敗北が決まっているにもかかわらず、はるばる朝鮮
半島に舟で出陣し、大量の死者を出します。表向きは唐からの百済奪回を目指す戦い
ですが、勝ち目はなく、謎の戦争と言われています。「伽耶系による数千人の百済人
を一気に減らす百済人減らしの戦略であった」のではと疑われています。
6、百済人・不比等の目指したものは何か?
「権力闘争の決着を差配したのは天皇制を作った百済人・不比等である」
差し迫る大国・唐の圧力を前に、国を失って日本に亡命した百済人は何を考えたで
あろうか。旧い百済でもなく、旧い大和朝廷でもなく、大国・唐につぶされることも
ない、新しい国を作ろうとした。それが、「日本国」であった。この国名は彼らの決
意表明でもあった。天武天皇は伽耶系であり、伽耶系天皇は天武天皇の末裔として、
その後奈良時代を通じて飛躍しますが、平安時代になるといよいよ百済系天皇・桓武
天皇が立ちます。それがはじめて実権と象徴が一体になった時期だったのでしょう。
平安時代以降は京に都を移し、百済系の文化が宮廷を支配します。伽耶系はこの時期
に完全に地下に潜り込みます。そして、明治時代に再び登場してくるのです。
原国号である「日本」とは「白村江の戦い」に敗れ、帰る国を失った「百済」民族
が、海を隔てた辺境の亡命地を「日の昇る」国だからと、自らを納得させた呼称なの
である。それは、彼ら(百済民族)は亡命地「日本」で生きていくしか仕方なかった
からである。
7、本国を失った百済貴族
彼らは日本に渡来した。亡命百済貴族たちは倭国でしか生き延びる術はなかった。
そして、その瞬間から、「倭国」を「日本国」とする謀が画策されだした。それは百
済から見た日本列島の呼称であり、百済人の第二の故郷を「新羅」、「唐」より精神的
に優位に置くための改名であったのかもしれない。この「百済=日本」という改名を
実現したのが鎌足の意思を継いだ不比等であろう。
最後の百済王族・貴族たちは「倭国」に亡命したのではなく、日の昇る国「倭国」
に新国家「日本」建国を夢見て渡来したものである。
8、「壬申の乱」以後の政治(天皇の誕生と大王との関係)
神大王、すなわち天皇は天武であり、人間大王とはそれこそ高市(高市皇子)であ
る。
高市は戦勝国の総大将として、従来の大王(これまでの天皇)、つまり政治・軍事
の最高責任者に納まり、「大海人」は天皇と称し、神として祀り立てられたのである。
この時から天皇制が発足したのである。天皇制は大義名分を必要とした「高市」王
権だけの天武一代に限った政策だったからである。つまり、天皇は天武だけに与えら
れた称号であり、継承されることはないはずであった。
そして天武の称した天皇は絶対的な王位ではなく、天武のためだけの称号であり、
いわば象徴的な地位であった。そういう意味では、現代の天皇制と似ているかもしれ
ない。したがって「日本書紀」が主張する万世一系の天皇家に名を連ねるのは、そん
な象徴天皇の天武ではなく、古代より面々と続く歴史ある大王を名乗った「高市」で
あったはずである。ところが、この天皇という称号をまんまと利用し、大王位にすり
替えて即位してしまったの「菟野讃良」・持統なのである。
*「菟野讃良」の天皇即位
本来、天皇は天武だけの称号であったのであり、名誉職ともいえる一代限りのも
のであった。「菟野讃良」は天武の皇后であったことを理由に天皇号を継承した。
「軽皇子」は即位し、大王を継承する。そして、祖母である「菟野讃良」からは、
「藤原邸」での即位で得た自称「天皇」を贈られた。この瞬間から大王=天皇にな
り、天皇は大王格まで引き上げられたのである。
9、藤原氏
旧「百済」王族の血を引く不比等は倭国王にはなれないことを自覚しており、それ
ゆえ政権を乗っ取る方針をとることにしたようである。藤原氏の政治的手法は皇室と
姻戚関係を結ぶことによって他氏を排斥し、権力を増強していくものであり、ここか
ら藤原北家の系統は明治まで栄え至るのである。
蘇我氏の後釜に坐った不比等は、自分の立場を正当化するために「蘇我氏」を悪玉
にする必要があった。そのために世紀の悪玉にされた「蘇我氏」は汚名を着せられて
歴史に悪名が残ることになった。
10、日本の対外戦略
①推古~天武天皇~桓武天皇という段階を経て、向こうから贈られる一方ではなく、
受容を主体的に選択する外交への転換
②中国、朝鮮半島との交流を深めるかどうかも判断できるように
③利用価値がないと判断した時点で、遣唐使を廃止→鎖国政策をとる
④以後、明治政府に至るまで、開国と鎖国を繰り返す
⑤これが、現在に至るまで日本の外交に対する見方を決定していく(日本にとって都
合の悪いものは取り入れず、もしくは取り入れた後で排除する)
11、天皇制律令国家
天武・持統期にほぼ確立をみる天皇制律令国家の本質は「天皇の神格化」であっ
た。天武・持統期は、天皇自身が「神」であると高らかに宣言した時代、「大君は神
にし坐せば」とうたわれた時代であった。
それは日本史の上では、明治から先の敗戦までとともに、特異な一時期であった。
この両時代、なぜ天皇は「神」とならねばならなかったのか。その最大の要因は唐と
西欧列強という外圧があり、そのために天皇中心とした強力な国家を作らねばならな
かったから、天皇の「神」への道が選ばれたのであろう。
また、藤原政権が、旧来の氏姓制社会の絆を断ち切り、律令国家形成のためにそれ
まで無名に等しかったアマテラスと伊勢神宮を利用したのに対し、明治政府は、その
長年培われてきた人気の故に、近代国家形成のための人心統一のシンボルとして、や
はりアマテラスを利用したのである。
12、日本書紀の編集方針
古事記・日本書紀は、二つのヤマトの国(スサノオとニギハヤヒが開いた邪馬台国
と倭国)の誕生の歴史を神話の風に包んで天上に押し上げてしまった。そして、その
後の両国の交渉や合併に至る歴史を何一つ書き残すことなく、初代神武から十代崇神
までの記述を簡略化してしまった。国史編纂に当たって天武天皇が打ち出した最大の
方針は、十代崇神天皇までの歴史を史実に基づいて記すのはやめるということであっ
た。こうして「アマテラスー神武天皇」というラインが明確にされ、「スサノオーニ
ギハヤヒ一族」というラインは消されたのである。
日本書紀(藤原不比等)は、継体系の天皇家が日本の支配権を太古からもっていた
と主張するために、加羅系の崇神王朝から百済系の応神王朝に王朝が交代したこと
や、ヤマト王朝の中で、昆支王統と継体王統が王権をめぐって争ったこと、蘇我馬子
・蝦夷・入鹿が大王であったことなどを隠してしまった。日本書紀は、特に、蘇我大
王家の存在を隠すことに力を注いでいる。
(10)総 括
1、多数のグループの渡来、多数の神と文化の流入
数万年前、日本列島に三系統のグループが渡来し縄文人を形成した。その縄文人も
次第に融合していった。そして、中国大陸の各地から、朝鮮半島の各地からいくつも
のグループが渡来し、弥生時代を形成していった。古墳時代になると朝鮮半島南部か
ら多くの渡来があった。そして、その後百済が滅ぼされたときは特に大量の渡来が
あった。
渡来したグループはそれぞれの神と信仰と文化を日本に持ち込んだ。そのため、日
本には八百万の神が生まれ共存することになった。
その「日本の神々の歴史とルーツを理解すること」は「我々日本人のルーツと特質
を理解する」ためにはとても重要なことである。
2、中国大陸と朝鮮半島の情勢は多大な影響を日本列島に与えた
中国大陸の戦乱により、中国大陸より朝鮮半島へ逃げ込む者が多数あった。また中
国による朝鮮半島への侵入は朝鮮半島の国家を混乱に導き、追われた人たちは日本列
島に渡来してきた。中国大陸の争乱や中国国家の政策は朝鮮半島のみならず日本列島
にも多大な影響を与えた。朝鮮半島や中国大陸の政治に振り回されながら日本は国作
りを行ってきた。
3、日韓連合国の時代もあった
崇神~応神の時代は日本と朝鮮半島南部は連合王国の状態であった。天皇家のルー
ツは伽耶・百済にあったといえる。この歴史的事実は日韓両国ともあまり認めたくな
いことのようである。
4、日本書紀・古事記の編集方針をよく理解しないと歴史認識を誤る
①大和朝廷は二つの朝廷(九州王朝と出雲王朝、もしくは邪馬台国と倭国)が合併し
て成立したことを隠している。
②そのため、スサノオを悪者にし、ニギハヤヒを隠してしまい、オオヒルメムチを
天照大神に祀り上げてしまった。
③蘇我氏を悪者にし、大王であったことを隠し、歴史から追放してしまった。
④現実の歴史において崇神と応神の霊をどのように祀ってきたかは長い転変がある。
それなのにスサノオ、ニギハヤヒ、アマテラス、崇神、応神の祀られ方の歴史を
正しく記載していない。
⑤万世一系の天皇家を強調するための編集と記載になっている。
⑥天武天皇、持統天皇の意向を踏まえながらも、藤原不比等が編集と記載を完全に
掌握していたようである。
5、日本の復興と再生のために歴史認識が不可欠である
「大和朝廷の成り立ち」と「中国大陸・朝鮮半島の政治情勢が日本列島に与え続け
た影響の歴史」を理解することは、東日本大震災・福島原発事故からの復旧のみなら
ず、これから日本が進む道を選ぶために必要不可欠なことと思われる。
現在は「中国・北朝鮮+ロシア」と「日本・韓国+米国」との対立という図式で
あり、かなり複雑になったが、基本図式はあまり変わっていないようである。過去の
歴史を見つめ直し、これから日本がどの方向に進むべきか熟慮断行の状況に直面して
いる。
6、日本古代史の学習の困難さ
日本古代史に関する本当によい本がありません。このクリニックだよりも多くの人
にとって初めて読むものであったり、理解しがたいものであったり、納得しがたい
ものであると思いますが、これをたたき台にして、日本古代史の勉強をされんことを
願います。