卒業 / 修了研究・制作 - 富山大学 芸術文化学部

卒業研究・作品
棗再考
A Reconsideration on Natsume
田渕 可菜
Tabuchi, Kana
デザイン工芸コース
棗とは、重々しい雰囲気の中行われる正式な茶事である濃茶の会に
源西堂來臨。片時相看、次棗一合賜之
対し、略式で気軽に行われる薄茶の会に用いられる抹茶を入れておく
とあるのが最も早い事例とされている。合とは蓋の付いた容器を数え
ための小ぶりな容器のことで、果実の棗と形が似ていることからその
る単位の事であるから、棗型の合子である可能性が高く、内田篤呉氏
ように呼ばれる。濃茶の容器が陶製であるのに対し、薄茶の容器は、
はこの頃には「なつめ」と呼ばれる形態の容器が存在していたとする。
紙胎や籃胎の場合もあるが、基本的には木胎の漆塗りで、何の装飾も
更に、鎌倉極楽寺忍性塔から銅製棗型骨蔵器が出土したことから、金
施されていない黒一色で塗られたものが最上とされている。薄茶器の
属製ではあるが棗型の容器の受容が十五世紀には既にあったというこ
総称として棗の言葉が使われるなど、薄茶器の中でも代表的な存在で
とを加えている。しかし、谷晃氏がこのことに関して検討を要すると
ある。
いうのは、同じく『教言卿記』の応永十四年(一四〇七)三月二十七
棗は塗物の茶入(以下、塗物茶器と称す)の歴史から言うと、比較
日の条の、
的遅れて登場してきた。しかし、江戸時代中ごろから既に塗物茶器の
一建徳庵許ヨリ信濃ナツメノ小折一送賜、悦喜ゝゝ、
総称として、「棗」の言葉を用いる傾向が現れる。濃茶の会に薄茶器
によるもので、上記の棗は一枝の果実を示しているということから、
を使うことは許されないが、黒塗りの棗に限っては濃茶器として使用
先に述べた「棗」も一つの容器に入った果実である可能性もあるとい
することができ、「棗濃茶」というものが行われたりするなど、他の
う。確かに棗型の容器であると速断することはできない。
塗物茶器とは一線を画して扱われていることは明らかである。漆の滴
そして次に早いのが『䡬凉軒日録』の長享二年(一四八八)三月六
を閉じ込めたような艶やかさ、愛すべき優美で円やかな形態は棗なら
日の条の、
ではのものである。そのような愛すべき棗であるが、茶の湯が流行し
自衆林院信。棗一器贈之
た室町時代を遡る古格の作品が少ない事や、同じ抹茶を入れる容器で
である。こちらも果実の入った容器であった可能性もあるが、これと
ある陶製の茶入と比べ、歴史的に注目度も低く研究対象にはなりにく
近い時期に『君台観左右帳記』が記されたとされており、奥書による
かった。あくまでも棗は、濃茶を入れる陶製の茶入の従の存在に過ぎ
と能阿弥本は一四七六年、相阿弥本は一五一一年に成立となってい
ないとされてきたのが通例であった。しかし、過去の書物を繙いてみ
る。そこに記載された、今日でいう茶入にあたる「抹茶壺の事」の条
ると、我々の認識以上に棗は価値を有していたのではないかと考えら
には、
「茄子」や「大肩衝」「小肩衝」などと並んで「なつめ」という
れる。
名称の壺が図と共に掲載されており、少なくともこの時期には棗型の
まず第一章では、これまでの塗物茶器及び棗の先行研究の検討を
容器の受容があったと言える。加えて『お湯殿の上の日記』の享禄元
行った。そこから浮かび上がってきた問題点は、例えば茶会記に出て
年(一五二八)九月五日の条にも、
くる棗の条を紹介したり、回数を数えたりするだけでは、果たして如
少なこんなつめのふたまいる
何なる価値を持っていたのか、どのような態度で鑑賞されていたのか
という記述がある。「ふた」とあることから、蓋付の容器の事だと仮
ということが非常にわかりにくいということである。まだまだ棗の研
定できる。少しずつ容器としての「なつめ」が登場してきているのが
究は始まったばかりで、表面的であると言わざるを得ない状況である
分かり、意外と早くから「なつめ」という名称は使われていたようで
ことから、もう少し踏み込んだ研究を試みる必要があると考えた。
ある。
論者は池田巌氏や内田篤呉氏の研究から多くの刺激を受け、茶会記
しかし、確実に茶道具として使用されている棗の存在は、十六世紀
や古文献を主な資料としながら研究を進めてきた。本研究では、先行
に書かれた茶会記の記述に登場するまで待たなければならない。そこ
研究や古文書を基に棗の発生と展開を示すことで、どのような観賞態
で、
「桃山から江戸時代にかけての茶会記から」と題した第二節を設
度をとられ、どのように価値づけられていったのかを明らかにし、改
け、当時の代表的な茶会記である『松屋会記』
、『天王寺屋会記』、
『今
めて棗の茶の湯のおける位置を明確にすること、そして棗の起源の検
井宗久茶湯日記抜書』
、
『宗湛日記』
、『利休百会記』から、棗及び薄
討を試みた。
茶器の扱われ方を見ていった。すると、『天王寺屋会記』の永禄七年
第二章では、三つの節を設けた。まず第一節は「鎌倉・室町時代の
(一五六四)八月二十日に開かれた宗達の自会において棗が使用され
古文献から」と題し、棗が登場する以前の塗物茶器の様相を明らかに
たのを皮切りに、以前専ら使用されていた茶桶などの塗物茶器に取っ
した。塗物茶器は当時から非常に重宝され、目を驚かせるような代物
て代わる勢いで、以後棗は爆発的な流行をみせる様子が、全茶会記か
であったばかりか、進上品や質草として用いられるほど価値を有した
ら窺うことができた。その流行は町衆などの庶民にとどまらず、武家
ものであったのである。古文献の中に「棗」の名称が出てくるのは『教
の間にも及んでおり、天下人たる織田信長や豊臣秀吉でさえも棗を用
言卿記』の応永十六年(一四〇九)六月五日の条に、
いた茶会を開いていたのである。
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卒業研究・作品
更に、
『天王寺屋会記』にある永禄十三年(一五七〇)、十一月十四
擁していたわが国において喜んで受け入れられたかどうかは甚だ疑問
日の朝会の中で、宗及が長盆に志野茶碗と置き合わせ、棗を床に飾っ
であることから、論者は直接的な影響はなかったと考えた。それなら
たのである。このように床に棗を飾る事例は勿論この一回限りではな
ば、もっと受容され重宝されたものを参考にするのではないかと考え
い。床に飾ることができる茶道具は限られており、その茶会を象徴す
るのである。
るような道具、例えば墨蹟や高格の陶製の茶入などが飾られるのが一
そこで注目されるのは同じ抹茶を入れる容器である陶製の茶入、特
般的な中で、この事例を発見は、当時棗がその茶会を象徴し得るほど
に肩衝である。その肩の張り方や腰から裾にかけてすぼまっていく形
価値を有していたことの裏づけであると考えることができる。
態は棗を彷彿とさせるものがあり、さらに肩衝にある胴紐は、恰も棗
ところが、十七世紀江戸時代に入ると棗の記述が減少していく。そ
の合口のようである。陶製の茶入を写したとされる相阿弥好みの塗物
こで第三節を「江戸時代の茶書及び文献から」と題し、検討していく
茶器が現存しており、当時から茶入を模して塗物茶器を製作していた
こととした。すると、確かに茶会記における棗の登場回数は減少した
ことを裏付ける貴重な事例もある。
ものの、完全に消滅してしまったわけではなく、今日でも著名である
更に、第二章で取り上げた諸茶会記を見てみると、陶製の茶入と言
茶人たちが棗を使用している記述をみることができる上に、同時期に
えば肩衝であると言えるほど、肩衝の登場回数は頻繁であり、実に
は多種多様な、茶人の「好み」と呼ばれる棗が多く作られており、そ
様々な身分の人々が用いていることが明らかである。『山上宗二記』
の数の多さからも隆盛ぶりは明らかである。
に記載されている四十八項の茶入のうち、肩衝は二十五項と過半数を
その一方で、紹鷗や利休に由来する古格の棗は江戸時代中期以降、
占めており、天下三肩衝として「初花」
「楢柴」「新田」がもてはやさ
名物としての地位をもつこととなる。黒無地の簡素な棗と、装飾され
れ、権力者がこぞって所持したことからも、当時の肩衝礼讃ぶりが窺
華やかな棗という二つの側面を備え、茶の湯の中で重要な地位を占め
える。つまり、独特な棗の形に至るには肩衝という大流行品の存在が
ることとなる。相反するように見えるこの二面性は、どちらも「象徴
必要であり、そして肩衝の形態を真似て作り出された棗が、肩衝の代
物」という共通点があったことで、矛盾、対立をすることなく今日ま
わりとしての役割を果たすものとして審美眼に適い、頻繁に登場して
で発展してきたということができる。更に、数々の茶書に棗は小壺と
きたため、茶桶のなかでもその形態から「棗」と名付けられ、世間に
同じように扱うと述べた記述が度々登場することからも、当時一目置
広まっていったのではないだろうか。もしかしたら、茶会記に記載さ
かれた存在であったということができる。また、棗に対する当時の観
れている茶桶のうちのいくつかは棗であったとも推測できる。そし
賞態度を示すものとして、清巌宗渭の紹鷗黒漆棗添えた書状がある。
て、棗が肩衝を写したものであり、その形を彷彿とさせるということ
清巌はこの紹鷗の棗をただの黒棗で、そうであること以外「何もない」
から、陶製茶入と同程度の格を備えていると考えられ、他の茶入とは
からこそ、見どころがないからこそ、感激し賞賛した。美的対象とし
一線を引いた扱いを受けるようになり、床の間にも飾られ、濃茶を入
ての見た目の美しさを褒めるにとどまらず、棗にみることのできるそ
れることも許されたのではないだろうか。
ういった精神性から、当時の人々も同じように棗を象徴的な対象とし
以上のような、棗の価値づけを行った。
て眺め、用いていた様子が窺えるのである。
棗は天正年間に爆発的な流行をみせ、身分を問わず大いに使用され
第三章は「棗の起源」と題し、棗の独特な形態の起源は果たしてど
た。そして江戸時代に入ると、茶人の茶風を反映し得る有効な道具で
こにあるのかについて検討した。今まで述べられてきた説としては、
あった上に、侘び茶再興のための象徴的存在であったという点で重要
室町時代の塗師とされる羽田五郎なる人物の創作説、陶製の茶入の容
な地位を占めており、更に陶製茶入の代わりが務まるほど価値を備え
器である挽家の転用説、そして薬器の転用説があるが、どれも確証に
ていたのである。
かける。そこで、小池富雄氏の研究を足がかりに、棗の起源について
また、棗の形態は当時非常な価値を有した肩衝に起源をもった故
考えることとした。氏は、棗が茶の湯において日本独自の品と考えら
に、今日まで一線を画して扱われてきたとも考えられるのである。
れてきたことに疑問を投げかけ、近年考古学成果の目覚ましい中国
の、とりわけ宗・元時代の年代の明確な墓の副葬品から棗の祖形を見
出すことができるようになったと述べる。そして中国では、日常の生
活道具として棗型の容器が大小さまざまに用いられており、棗の姿は
日本の独創ではなく、中国から学んだものであると考えるに至ったと
いうのである。
しかし、それらはあまりにも簡素であり、当時から高い漆芸技術を
[主要参考文献]
○内田篤呉『塗物茶器の研究−茶桶・薬器・棗−』淡交社 二〇〇三年三月
十二日初版
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卒業研究・作品
蕗谷虹児のペン画に見るオーブリー・ビアズリーからの影響
About The influence from Aubrey Beardsley in Fukiya Kouji’s pen and ink drawing
碓井 美貴
Usui, Miki
文化マネジメントコース
はじめに
術を学び、タブロー画家として自立することがその最終目的であっ
たが、不運が重なった結果ますます経済的に困窮し、帰国して挿絵
蕗谷虹児は、大正∼昭和初期を中心に活躍した少女雑誌の挿絵画
画家を続けた。このパリ留学を経てビアズリーからの影響は薄く
家である。彼の画業は約60年と長く作風も様々で、中でも活動初期
なっていき、アール・デコなどの新しい要素も取り入れつつ、独自
の作品は、一九世紀末イギリスのイラストレーター、オーブリー・
の画風を築いていった。戦中は非戦時作家とみなされ、雑誌の仕事
ビアズリーからの影響が度々指摘されている。確かに蕗谷の初期作
を失う。さらに戦後になって少女雑誌の漫画雑誌化が急速に進んだ
品を見ると、ビアズリーの作品から構図や装飾デザインを借用した
ため、雑誌の仕事を離れ、絵本やアニメ映画の制作に尽力した。
ようなものが多く確認できる。だが蕗谷とビアズリーの作品を見比
このように、主に経済的な理由から、戦後に至るまで雑誌や絵本
べた時、論者は蕗谷の作品に見られるビアズリーの要素は、すべて
の挿絵など商業画家としての仕事から逃れられなかった蕗谷であっ
『サロメ』の挿絵からのみ借用されたものではないかという疑問を
たが、昭和40年代に至りやっと念願のタブロー画家として活動を始
持つに至った。
める。個展を6度開催。昭和54年、80歳で死去。
ビアズリーも、多様な作風を摸索した画家である。彼は『サロ
一貫して女性をモチーフに絵を描き、現実を超えた理想の美しさ
メ』、『アーサー王の死』、『髪盗み』など、シリーズ化した作品
を表現することに終生力を注いだ画家であった。
を多く描いたが、それぞれのシリーズには各々はっきりと異なる作
風があり、意識的に描き分けられている。例えば、『サロメ』と
ビアズリーとの比較
まったく同じ作風は、『サロメ』以外の作品の中には存在しないと
言える。
これらのことを踏まえ、蕗谷の作品とビアズリーの作品を詳しく
ここで蕗谷の作品に戻ると、蕗谷の作品に見られる「ビアズリー的
比較・分析した。論者は始め、蕗谷の作品のビアズリー要素とは、
要素」とは、ビアズリーの作品の中でも『サロメ』の中に見られる
すべて『サロメ』に由来しており、蕗谷は『サロメ』しか目にした
特徴とほぼ同一ではないかと推測された。
ことがなかった、もしくは『サロメ』以外のビアズリーの要素を排
そうだとすれば、蕗谷は『サロメ』以外のビアズリーの作品を見
除していたのではないかと推測していた。
たことがなかったのではないかと考えることはできないであろう
だが分析を進めると、蕗谷の作品の中のビアズリー要素とは『サ
か。あるいは、『サロメ』以外の作品も見ているかもしれないが、
ロメ』の要素だけに留まらないということが判明し、この仮説は成
何らかの理由によって『サロメ』以外の作品の要素を拒んだのでは
り立たないということになる。
ないかという可能性もある。
蕗谷の初期作品の中に見られる主なビアズリーの要素とは、①繊毛
本論ではこれらの疑問を明らかにしていくために、蕗谷の作風の
状の装飾 ②輪郭線などの曲線の描き方 ③白い点線の多用の3つであ
変遷と、彼の絵に対する姿勢などを読み解きながら論じていくこと
る【図1∼2】。しかし、①と②は『サロメ』に存在するものの、③
とした。
の表現は見られず、他の作品内で確認できる。この事実から、前述
の二つの仮説は成り立たないと結論づけられた。
蕗谷の生涯と作風
雑誌『白樺』
と蕗谷
蕗谷は明治31年、新潟県に生まれた。日本画家・尾竹竹坡の元で
日本画を学ぶ。大正9年、タブロー画家になることを目指していた蕗
前述の要素を踏まえ、ビアズリーの日本での初出とされる雑誌
谷は、生活の困窮からアルバイトとして少女雑誌の挿絵を描きだし
『白樺』と蕗谷の作品を比較すると、蕗谷のビアズリー要素とは、
た。だが日本画の技術と知識で描かれた彼の絵は少女雑誌にはそぐ
『サロメ』のみから来ているのではなく、『白樺』に掲載された作
わず、絵柄の変更を余儀なくされた。そこで「女学生に受ける作
品から借用されているのではないかと推測された。
風」として選択されたのが、アール・ヌーヴォー、そしてビアズ
『白樺』に掲載されたビアズリーの作品の中に、《自画像》と
リーの要素であったのである。蕗谷はビアズリーの作品、特に『サ
《メッサリーナの帰宅》という作品があるが、この作品の中に白い
ロメ』などのビアズリーの初期作品から特徴的な表現を借用し、挿
点線を用いた表現が見られる。だが『白樺』と現代の画集を比較す
絵を描いた。この努力が功を奏したのか、蕗谷は一躍人気挿絵画家
ると、この白い点線は、当時の日本の粗雑な印刷技術によって引き
となる。大正末期、人気絶頂の蕗谷はパリに留学した。最先端の芸
起こされたと思われるものであり、現在一般に販売されている画集
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卒業研究・作品
ではこのような表現は認められないと判明した【図3∼4】。『白
樺』に載ったものと現代のものを見比べると、白樺掲載版の《自画
像》では紐の縄目が潰れ、白い点線に見えていることがわかる。同
じく白樺版の《メッサリーナの帰宅》では、本来の細い白線の上か
らなぞったかのように、粗い点線が引かれている。おそらく、元々
の白線が印刷で出なかったために、このような点線を印刷段階で上
からなぞって引いたのではないかと考えられる。これらのことは、
蕗谷が『白樺』のみを見て表現を借用したのではないかとする推論
を後押しする。
また、蕗谷の作品には、『白樺』に載らなかったビアズリーの作
品、例えば、『髪盗み』のような、繊細な点線を多用してフリルや
レース、装飾などを描き込む手法の影響は蕗谷の作品の中には見ら
れない。また、『アーサー王の死』のような木版画調なタッチや、
図 2.《わが ATELIER(部分)》 蕗谷虹児 大正 13 年
copyright:同上
ケルト風の唐草文様なども認められない。
これらのことからも、蕗谷はビアズリーの作品を紹介した『白樺』
のみを見て、初期作品の参考としていたのではないであろうかとい
う結論が導き出された。
まとめ
蕗谷の画業は確かにビアズリーの技法の借用から始まったが、時
を経る毎にその跡は薄くなっていき、一部を除いてほとんどみられ
なくなっていった。
ジョルジュ・バルビエやカイ・ニールセンなどと同じように、ビ
アズリーの要素を取り入れつつ、上手く消化吸収して自らの作風を
確立することができた画家の一人に数えられるであろう。
図 1.《孤愁(部分)》 蕗谷虹児 大正 13 年
copyright:『孤愁の詩人・画家 蕗谷虹児展』 平成 23 年
繊毛状の装飾と白い点線の多用がわかる。
図 3.《自画像(部分)》 オーブリー・ビアズリー 明治 27 年
左が現在のもの、右が白樺掲載版。
copyright:
『白樺複製版』 昭和 44 年、『世紀末の光と闇の魔術師オーブリー・ビア
ズリー』 平成 24 年。
図 4.《メッサリーナの帰宅(部分)》 オーブリー・ビアズリー 明治 27 年
左が現代のもの、右が白樺掲載版。copyright:同上
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卒業研究・作品
藤田嗣治の動物表現の変化について
On the painted animal by Foujita Tsuguharu
高木 希和
Takagi, Kiwa
文化マネジメントコース
はじめに
藤田嗣治(1886-1968)は、1920 年代エコール・ド・パリの時
代にフランスで活躍した画家である。
芸術の中心地であったパリで、日本人画家としての自身のアイデン
ティティを模索し、西洋絵画と日本絵画の技法を取り入れた独自の表
現を編み出した。そうして描かれた乳白色の画面と余白を活かした繊
細な線による裸婦と猫の画題は高い評価を得ることとなる。
藤田は 19 歳で東京美術学校に入学してから 81 歳で亡くなるまで
常に絵画の制作に取り組み続けている。作品の画題や技法も様々であ
り、幾度かの画風の変遷も見られる。そのため画家の全画業について
の一貫した作品論や作家像というものを述べることは難しい。
図 1 《私の夢》
(1947 年制作)/『藤田嗣治画集 追憶』
(2014 年、p.12)
本論分では藤田の動物表現に着目し、戦後の動物画の変化の要因を
考察する。
動物表現に注目した理由は、「猫の画家」として著名な藤田である
が、彼の動物画について掘り下げた先行研究はあまり見られないため
である。
また、長きにわたり描き続けた動物画の表現の変化を研究していく
なかで、周りの状況に合わせて様々な画題に取り組んだ藤田の画家と
しての特質が明らかになるのではないかと考えたためである。
藤田の動物表現
藤田の動物画を見ていくと 1920 年代には人物の添え物として愛
らしい姿で描かれていた動物が、40 年代の戦時中から変化を見せは
じめる。そして戦後は動物が擬人化され、物語的要素の強い幻想的な
作品が制作されるようになる。
図 2 《ラ・フォンテーヌ頌》
(1949 年制作)/『藤田嗣治画集 追憶』
(2014 年、
p.27)
さらに戦後の作品はそれまでの抑制された画面から一転して線によ
る描きこみが目立ち、立体感の強い画風になっている。
なされていた。
なぜ戦後の動物画にはこうした画題や猫写の変化が生まれたのだろ
それでは、なぜ藤田はフランス文化を象徴するものとして『寓話』
うか。
の主題を選択したのか。
この点を考えていく上で、最初に擬人化の見られる《私の夢》
(1947 年制作)と《ラ・フォンテーヌ頌》
(1949 年制作)の二作品
藤田と『寓話』の関係性
を取り上げ、論を進めていくことにした。
なぜなら上述の二作は両者ともフランスの国民的な物語である、
この点に関しては画家のフランスでの挿絵画家としての体験が関係
ラ・フォンテーヌの『寓話』を主題としていることが先行研究からわ
していると考えられる。
かったためである。
フランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌによって書かれた『寓
1933 年にフランスから戻り終戦までの 15 年間を日本で過ごした
話』は 1668 年に刊行されて以来、高い人気を誇り多くの版が出版さ
藤田だが、戦後は再びフランスで活動することを強く希望していた。
れた。
そのため藤田が寓話を主題とする作品を制作した理由としてフラン
『寓話』はちょうどフランスの版画本が進化する時代に様々な画家
ス文化への愛着、称賛といった気持があったのではないかとの指摘が
たちによって挿絵がつけられている。
114
卒業研究・作品
この版画本の進化とは、木口木版などの新しい版画技術の登場の他
鳥など一定の動物に絞られていた。
に、挿絵とテキストの関係の変化や、それに伴う挿絵画家の地位の向
なかでも藤田の作品に頻繁に登場する猫は、表情やポーズが定型化
上、豪華本などに見られる版画本の価値の変化といったことである。
しており、複数の作品でよく似た表情や仕草の猫を見つけることがで
19 世紀の木口木版の発明により、文章と挿絵を同じページに印刷
きる。
することが可能となったことでテキストと挿絵の関係はより密接にな
独自の表現による動物画の制作に慣れていた藤田が、
『寓話』を題
る。
材とした戦後の作品では今まで描いてこなかった種類の動物を着衣の
またこの時代、人間を欺くものとして軽視されていたイメージ固有
姿で表している。
の価値が見直されたことで職人的な挿絵画家から芸術家による挿絵が
この戦後の二作品の大きな特徴は、西洋の画題を参考に動物画を描
付けられた版画本も制作されるようになる。
いている点である。1910 年代に見られたように、日本などアジアの
それまで、テキストは挿絵より上位の存在で挿絵はあくまで補助的
絵巻や仏画を参考にした東洋的な動物画を手がけた事はあった藤田だ
な立場でしかなかったが、画家による自由な表現の挿絵が生まれると
が、西洋を表象する画題を由来に動物画を描くことはそれまでなかっ
両者は対等な存在として捉えられるようになっていく。
たことである。
このように、『寓話』はテキストと挿絵の融合が目指された版画に
また、戦後の二作品は動きのある多くの動物が一つの画面に収まり
よる挿絵本の歴史と深いつながりがあったのである。
よく配置されている点や、それぞれぞれの登場人物の心情が動物の描
そして藤田は、画家による挿絵の付けられた豪華本の黄金期であっ
写に表され、作品に物語性を与えている点など、戦争画制作の経験が
た 1920 年代にフランスで多くの版画本制作に取り組みその技術を
活かされた結果だと思われる。
吸収した。帰国してからも挿絵画家の仕事を続けているが、日本では
このように画家が、その時その時に熱中して取り組んだ画業の蓄積
版画ではなく印刷による本・雑誌の挿絵や表紙が中心であった。
と、動物の表情や仕草などに見られる画家生来の遊び心、そして西洋
フランスには希少な書物を収集し、その紙質や装丁など物体として
版画への愛着が戦後の動物画制作に繋がったと考えられる。
の本を愛でる愛書家の歴史が長く存在する。こうしたフランス独自の
また、戦時中フランスとの交流は途絶えることとなり、結果として
版画本の世界を藤田は肌で感じていたのではないだろうか。
終戦後には身近な物語から着想を得た空想的な作品が生み出されるこ
彼は戦後フランスに戻ってから再び大型豪華本の制作に取り組み、
ととなった。
20 年代に自身が手がけた版画本を買い集め手元に置いていたとい
40 年台後半の実在のモデルを必要としない空想的な画題を選ぶこ
う。こうしたことからも画家の版画本の挿絵という仕事への愛着を感
ととなった要因には戦時下の事情も関係していたのだろう。 じられる。
絵画制作とは異なる挿絵ならではのテキストと挿絵の融合や、版画
まとめ
という手法、画家と刷り師の連携といったより作業的な版画本の挿絵
の仕事は、職人的な手作業を好んだ藤田にとって長年に渡り創作意欲
藤田と『寓話』の繋がりを明らかにしていく中で、画家の手仕事へ
をかき立てられるものであったことが想像される。
の愛着や細部へのこだわりといった職人的な性格やフランスへの強い
藤田が『寓話』の主題を取り上げた背景には単に物語の受け手とし
想いが明らかになった。
ての関心だけではなく、本の作り手としてのフランスでの体験の蓄積
《私の夢》や《ラ・フォンテーヌ頌》は新天地で新しい画業の展開
があったと考えられる。
を期待する藤田の強い想いがフランスやその出版文化とゆかりの深い
戦後の二作品に見られる細かな線による描きこみの目立つ描写は版
画題を選ばせ、その結果生まれた作品であったといえる。
画の細密な表現とよく似ている。
藤田と『寓話』には挿絵、版画といった共通の世界が存在し、動物
表現の変化にはこうした版画本の影響があったと考えられる。
[主要参考文献]
○ 林洋子『藤田嗣治作品をひらく−旅・手仕事・日本−』名古屋大学出版、
戦後の藤田の動物表現
2008
○野村正人『テクストとイメージの 19 世紀
諷刺画家グランヴィル』精興社、
2014
藤田は 1920 年代に裸婦と猫の画題で画壇に認められてからは、独
自の容姿の犬や猫を表している。描かれる動物の種類は馬、犬、猫、
○林洋子『藤田嗣治
本のしごと』集英社、2001
○尾崎正明、清水敏男 / 編『藤田嗣治画集
素晴らしき乳白色』講談社、2002
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卒業研究・作品
《聖ペテロの悔悟》から見る
ラ・トゥールの光について
The Light in La Tour’s Paintings :
A Consideration of the Expression in his Saint Pierre repentant
牧田 彩里
Makita, Ayari
文化マネジメントコース
はじめに
ラ・トゥールが描いた照明装置について
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは生前ロレーヌで活躍したが、没
ラ・トゥールの夜景画の中で描かれている人工照明は蠟燭、オイ
後間もなく忘れ去られ20世紀になり再発見された画家である。
ルランプ、ランタン、松明の四つある。その中で蠟燭を光源とする
画家の作品には様式が大きく異なる「昼の情景」と「夜の情景」
ものが多く、光源を覆い隠すという表現も蠟燭を用いた場合に多く
が存在し、特に蠟燭などの焔の光が闇に浮かぶ夜の神秘的な情景の
みられる。
表現が評価され、その多くは人工照明を唯一の光源としている。
光源を隠すという表現はろうそく画の創始者とされるサラチェー
しかし《聖ペテロの悔悟》では画面上からの光と、人工照明であ
ニ以降、北方のカラヴァッチェスキ達によって好まれ、当時出版さ
るランタンの二つの光源が存在し、また、昼の情景で見られる表現
れていたエンブレム集にも掲載されていたことから、そのような表
主義的な人物の表情と夜の情景で進められた簡素化や様式化の両方
現は既に一般的であったことが分かる。また、生誕図像に由来する
が伺える。そして、ランタンの光が衣服を透ける様、鶏の質感、色
ヨセフが光を隠す行為は伝統的な図像であることや、マグダラのマ
彩の対比など細部にまで行き渡る丁寧な筆致は画家の熟達した技術
リアの絵画に見られる照明の描き分けなども既に試みられており、
の境地を示しており、ラ・トゥールの作品の中でも極めて完成度の
照明装置自体にも独自性は見受けられない。
高い作品の一つとなっている。
先行研究と時代背景
伝統的なペテロ像と
《聖ペテロの悔悟》で描かれた事物について
ラ・トゥールは一般的にカラヴァッチェスキとして紹介される
《聖ペテロの悔悟》はペテロがキリストの仲間であることを三度
が、カラヴァッチェスキの厳密な定義付けは困難であるため、一概
否認した後、鶏が二度鳴いた時キリストの予言を思い出し涙する場
にラ・トゥールをその一人とすることは出来ない。
面である。この主題は当時プロテスタントが否定した悔悛の秘蹟の
カラヴァッジョの光は画面の外から、絵画世界の一つの現象の一
手本として勧められた。聖ペテロは美術作品に現れる際、その容貌
部分を照らす。それに対し、ラ・トゥールの光は画面の中にあるこ
の特徴が一貫しており、ラ・トゥールも本作では、伝統的且つ一般
とにより、絵画内に閉鎖した世界を築いており、光と暗闇の対比と
的な容姿の聖ペテロを描いている。しかし、天国の鍵が聖ペテロの
いう点では同じ表現をしているが、光の使用の本質が異なっている
持物として最も代表的でありながら本作では描かれていない。
と考えられる。しかし、本作のように光線自体が斜めに射している
画家がある主題やある人物を表現する際、重要な事物を描き込ま
表現はラ・トゥール作品では珍しく、カラヴァッジョの光線を彷彿
ない例は、《聖ヨセフの夢》で天使がその象徴とも言える翼を持たな
とさせるものとなっており、当時画家がカラヴァッジョ様式に直接
い姿で描かれていることが挙げられる。
触れる機会があった事実などからも、その様式を取り入れ、時代に
しかし、そもそも聖書には天使が有翼である記述は存在せず、聖書
沿うような意識が伺える。
に忠実であろうとする画家たちによって無翼の天使は描かれており、ま
また、ラ・トゥールの夜の情景の作品は、神秘主義、静寂主義な
た逆に主題の分かり難さを狙い、あえて翼を描かないという例もあっ
どの言葉で表現され、作品の独自性を前提としての画家の精神や信
た。
仰の原点がしばしば語られる。だが、ラ・トゥールの作品にそれほ
本作では鶏を描き、ペテロの容姿をごく一般的な姿で描いている
どの独自性を見出すこと自体検討の余地があると考える。
ことから、その効果を狙ったとは考え難いが、同時代に描かれたペ
画家が過ごした時代は反宗教改革時代であり、政治的にも宗教的
テロ像では鍵を身に付けない例も存在する。天国の鍵が、聖ペテロ
にも不安定で、ペストの蔓延や戦争の激化など、常に死が隣にある
像を決定づける重要な事物であることは確かだが、必ずしも所持さ
ような時代であった。当時の精神的環境が画家の画風や主題選択に
せなければならない事物ではないことが分かる。本作で描かれてい
影響を与えたと考えられるが、逆に画家は周囲の状況に合わせたよ
る蔦は、ヨハネの福音書にある「…わたしが葡萄の木、あなた達は
うに考えられる。当時流行した主題を繰り返し描き、金銭や地位に
蔓である。」というキリストの言葉を暗喩しており、エル・グレコの
対する執着心が強い性格が伺えることから、ラ・トゥールの夜の情
作品にも見られるものである。また、画面上からの光により照らさ
景の神秘的主義的な絵画世界は「時代に即した売れる絵」を追求し
れたペテロの手が、背景の闇と強く対比され、祈りの手が強調され
た結果生み出された様式であるとも言えるのではないだろうか。
ているが、宗教上祈り自体に重点が置かれているため手の組み方に
116
卒業研究・作品
は規定は無く自由であった。同時代に描かれた聖ペテロの悔悟でも
しかし、ペテロの悔悟は基本的に暗闇の中で行われたとされ、周
様々な手の組み方で描かれている。ここまで記述した事物や主題に
囲を照らすための照明器具が描かることは極めて稀であり、本作で
は、特別な独自性を見出すことは出来ないが、この主題にランタン
はランタンが描かれる必要性はなく、むしろ描かれない方が主題に
という人工照明が描かれている点は特異であるといえる。
適しているとさえ思われる。また、ラ・トゥール作品の中で足元に
照明が置かれる例は他になく、ランタンはペテロの足元を照らすに
ラ・トゥールの光について
留まり、絵画上での照明の役割もそれほど重要なものではない。本
作以外に光源を二つ用いる作例が存在しないこともその疑いを増幅
ラ・トゥール作品の夜景画のほとんどは、絵画内に描かれた人工
させる要因である。
照明が唯一の光源であるかのよう見える。しかし《大工の聖ヨセ
もう一つの光源である画面上からの光が何による光であるかを決
フ》や《生誕》、《聖ヨセフの夢》では蠟燭などの人工照明が唯一の
定づけるには、描かれた場面の時間と場所の設定が重要なものとな
光源ではなく、人物の顔などの人物自体からも光が放たれ、人工照
る。だが、聖書にはそのことに関して一切記述がない。そのため画
明による人為による光の中に、質の異なる光が溶け込んでいる。こ
家によって様々な時系列の設定がなされ、ラ・トゥールの作品と同
の表現が用いられる作品は、絵画内の光源が覆い隠されているもの
様に時間、場所を明確には表してはいないものも多い。
が多く、絵画上で一番明るくなるはずである部分を覆い隠すことに
しかし当時、画面外からの光が描かれる際、その光を絵画世界の現
よる明暗の複雑な反射と相まって、よく観察しなければ分かり難い
実的な目線による状況と直接結びつけず描かれていたことが伺える。
ものとなっている。このような光の表現は特に信仰上で神聖視され
《聖ペテロの悔悟》は既に人工照明の光の扱い、構図、熟達した
る人物から光が放たれていることが伺え、不定の光は宗教上の光で
描写技術など、今日ラ・トゥールらしいとされる夜の情景の絵画の
あるとも言えるだろう。
様式をほぼ習得した段階である。画家が当時人気であった聖ペテロ
また、絵画上に射すような光線ではなく、克明に人物のみが浮き
の悔悟の主題を描こうとした際、自身が得意とする夜の情景とする
出る強烈すぎる光でもなく、穏やかに周囲の空気に溶け込み、包み
ため、「不定の」光にのみ照らされる主題に、通例では用いられない
込むような光の進行である。このような光の使用の厳粛さが、ラ・
照明を描くに至ったのではないだろうか。
トゥールの絵画が神秘的であると呼ばれる所以に大きく関わってい
ることは事実であり、作品を語る上で非常に重要な特徴であること
結び
は確かである。
しかし、このような光の使用だけがラ・トゥールの夜景画に神秘
以上のことから、画家は人工照明を用いた夜の情景を多く描いた
性をもたらしている訳ではなく、描かれた人物の細部の簡素化が大
が、その中でも《聖ペテロの悔悟》はそのこだわりが一層強く表れた
きく関係していることが重要視されてよいだろう。人物の平坦な
作品と言えるだろう。そして、闇の中で浮かび上がる光に照らされた
顔、デフォルメされた手、衣服の皺が極端に少ないなど細部を見る
絵画世界は、作品に漂う死を想うような瞑想や生の儚さが直接的に画
と不自然とも思える簡素化、形式化が為されており、人体造形に見
家自身の思想と繋がるという
られる幾何学的な形態の強調などもその不自然さを際立てている。
よりも、逆に時代に適合し売
だが、絵画全体を一見した際に見られるリアリズムは確かなもの
れる絵を生み出し続けること
であり、描き込まれた人物以外の事物、光に照らされた人物の全体
で、時代を強く生きようとす
像には確かな質量を感じることは事実である。リアリズムと簡素化
る画家の姿勢の表れであるよ
の絶妙な均衡をもって描かれる事物を、厳密な明暗法に基づく光で
う に 考 え ら れ る 。そ の 点 で
照らすことで、完全な現実世界の投影ではない絵画世界にラ・
は、ラ・トゥールの光は神秘
トゥールの他の画家と一線を画す、神秘的な雰囲気が醸し出されて
的というよりも非常に現実的
いると考えられる。
であったと言えるのではない
だろうか。
《聖ペテロの悔悟》の光
本作の光源はランタンの光と画面上からの光の二つである。
《聖ペテロの悔悟》1645 年 油彩 × カンバス 114×95
『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展 光と闇の世界』
2005 年
117
卒業研究・作品
J・M・W・ターナーの色彩表現
A Theory of colors in the Panintings of J.M.W.Turner
森田 愛
Morita, Ai
文化マネジメントコース
はじめに
抜け出し、ターナー特有の色彩による表現が確立されていった。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)
2.色彩の分析
は、18世紀末から19世紀に活躍した、イギリスの代表的な画家であ
る。昨年には展覧会も開かれ、日本でもまた新たに注目を集めてい
ターナーの色彩への探求心は「カラー・ビギニング」のような試
る。ターナーの絵画の特徴としてとりわけ頻繁に言及されるのが、
行錯誤の実験だけではなく、理論的な面にも向いている。彼は色彩
光と大気の描写と色彩表現についてである。彼は作品の制作を続け
に関する書籍をいくつも読んでおり、その中でもヨハン・ヴォルフ
る中で、晩年まで光を描くことに尽力した。「光と色彩の統合」な
ガング・フォン・ゲーテの『色彩論』について、並々ならぬ関心を
るものを目指し、色彩で光を表現しようとしたのである。ターナー
持っていた。いくつもの書き込みを行い、実際にその理論にのっ
は色彩についての研究内容を形にすることはしなかったものの、彼
とって絵画を制作したのである。そうはいっても、彼はゲーテの意
の中で一つの理論として確立したと想像することか可能である。そ
見に完全に同意したわけではなく、むしろ否定的であったが、その
してその理論を、自身の作品の中で存分に発揮させたであろうこと
ゲーテの見解に刺激され、自らの論を展開していったのである。特
も考えることができる。
にターナーは、分極性という概念について反応を示した。ゲーテは
しかしながら、これこそがターナーの作り上げた色彩論だと作品
色彩を二項目的に見ていたのだが、ターナーはそうではなかった。
から感じ取るにしても、作風が幾度も変化しているため、どの部分
常に光の中に影を見ていた彼は、ゲーテの中の色彩や光と影の対立
をもってして見ればよいのかが確定していない。そこで本論文で
的な関係について大きく反論した。
は、ターナーが定めたであろう色彩論がどの時点で確立され、どの
理論的なターナーの意見は、ロイヤル・アカデミーでの遠近法の
ように移り変わっていったのかを検討していくこととする。
講義内での発言からも知ることができる。そこでは、二点のことを
強調して訴えていた。一つ目は、色彩それぞれから喚起される感
1.水彩画の表現
情、印象があるということについてである。しかしターナーの作品
からは、彼がそこで述べたような色と感情の結びつきは見られな
ターナーは幼少期から絵を描き、幾人かの師の教えを経て、英国
い。そのためターナー自身は、個別の色彩に見るイメージを持って
の伝統的な水彩画技法を身につけていった。そのため彼は水彩画に
いても、作品を制作する際には意識していなかったことがうかがえ
関して、通常の画家たちよりも造詣が深いと判断することができ
る。もうひとつの主張は赤・黄・青の三原色についてである。講義
る。ターナーは水彩画の中で自らの表現方法を常に追及していた
内でも三原色がいかに自然に根ざしているかを語り、彼の作品から
が、その描き方に大きな変化が訪れたのは、1819年のイタリア旅行
もその三色を、印象的な色彩としてみていくことができる。
で、ヴェネツィアに訪れて以降である。理想の光に出会ったことに
より「光と色彩の統合」という意識へ直接的な影響が及んだ。しか
3.色彩表現の確立
しその効果はすぐ油彩に現れたわけではなく、主に水彩画に反映さ
れていった。
ターナーの表現方法は初期から晩年までの変化が激しく、表現の
また、色彩を主軸とした実験である「カラー・ビギニング」で
変遷に伴って分類されている。その分類方法はジョン・ラスキンが
も、水彩画による積極的な取り組みが見られる。「カラー・ビギニン
最初に行っており、それを元に、彼の表現が大きく変化することと
グ」は色彩の面によって構成された水彩画で、色彩の混じり合いや
なったイタリア旅行の期間と合わせてみていくと、ターナーの最も
絵の具の扱い方を摸索していったものでもある。この「カラー・ビ
思うがまま表現が可能であったのは、第二から第三の時期にかけて
ギニング」の制作を通じて、ターナーは色彩面の配置によって画面
であると考えられる。
の大まかな構想をあらわしたうえで、線描で細部を描き込んでいく
ターナーは多くの水彩画、油彩画を描いてきたが、その中で変わ
という、それまでの地誌的風景画とは全く異なった画面構成の方法
らずに表現しようとしてきたのが「光」である。彼は色彩に関する
を確立させた。こうして、常に持ち歩いていたスケッチブックへの
自身の考えを光の表現と同じほど深めており、どちらも最重要項目
水彩での描画や、「カラー・ビギニング」の実験で獲得した描法は、
であったに違いない。元々、色彩のみで何かを表現することが可能
徐々に油彩画へと取り入れられていった。ターナーは水彩で得た新
であるという考えで制作をしており、イタリア旅行にてこの言葉の
たな表現方法を油彩に取り入れ、そして同時に、従来の明暗法から
まま作品を描くことができるようになったのであろう。第一回のイ
118
卒業研究・作品
タリア旅行での感激の後、二度目のヴェネツィアを迎える前に、彼
の頭の中では光と色彩に関して一段落の整理がついていたのだと思
われる。細部への描きこみはまだあるものの、その表現はこの時期
から第三期の間にかけて徐々に発展していき、頂点に達するのであ
る。
まとめ
実際にターナーの描いたものを見ると、彼が頭の中で組み立て、
人々に主張していた色彩に対する見解の全てが現れているわけでは
ない。ターナーの、作品を通しての色彩論はまた別に存在するので
ある。イタリア旅行で理想以上の光に出会い、彼の中の表現方法は
さらに上の段階へと進む。色彩で光を描こうと完全に思い至り、自
≪光と色彩(ゲーテの理論)≫1843年 カンヴァスに油彩 78.5×78.5cm London, The National Gallery
身の描き方を徐々に変化させていく。何度も展開していった彼の表
現方法、感覚的なもう一つの色彩論は、ラスキンによる区分の第2の
時期(1820-35)にターナーの中で一度確立されたのである。そし
て、二度目のヴェネツィア訪問により、さらに彼の中の光は色彩と
融合していく。
彼は分析的に色彩を見つめてはいたし、その考えを述べたことも
あるが、彼はその論に沿って描いたわけではなかった。目の前の光
景の捉え方や、その光景の表し方を自らの経験の中で学び、描き、
そしてその表現を展開させていったのである。風景に光と色彩、影
を見て、自身の感情と感動に従ったまま描いていったのではないだ
ろうか。そうであるからこそ、時代の流れに埋もれることなく、現
代でも評価され続けているのである。
≪城≫1820-30年頃 水彩、紙
34.6×45.1cm London, The Tate Gallery
[主要参考文献]
○ジャック
・
リンゼー著、
高儀進訳『ターナー―生涯と芸術』講談社、
1984年
○関口葉子、
1988年「J・M・W・ターナー研究―イタリア旅行の意味について」
『哲学
会誌』
(12)
、
65-77
○加藤明子
「J・M・W・ターナーの色彩研究」
『 色彩からみる近代美術―ゲーテより現
代へ』110-125、
2013年、
三元社
○イアン
・ウォレル監修、
木下哲夫訳『ターナー展』2013年、
朝日新聞社
≪奴隷船≫1840年 カンヴァスに油彩 91×122cm
Boston, Museum of Fine Arts
○小村みち、
1993年「J・M・W・ターナーにおける伝統と革新」
『待兼山論叢』
(27)、
1-21
119
卒業研究・作品
エミール・ガレ作《手》について
A study on «Hand with Seaweed and Shells» by Emile Galle
長谷田 優佳
Haseda, Yuka
文化マネジメントコース
はじめに
オーギュスト・ロダンの「手」
ガラス作品《手》は、同型のものが全部で三体存在する。本研究で
ガ レ と 同 時 代 を 生 き て い た 彫 刻 家 に、 オ ー ギ ュ ス ト・ ロ ダ ン
取り上げるのは、このうちのオルセー美術館収蔵の作品である。三点
(1840-1917)がいる。工芸家ガレと、彫刻家ロダンの二人には交
は主題や意匠は共通するが、技法や形態など、それぞれに少しずつ差
流があった。それは造形の点から批判の的となっていた、当時のロダ
異が見られる。オルセー美術館収蔵の《手》は、三点のうちでもっと
ンの作品をガレが擁護した事実によって裏付けられる。ロダンは生涯
も手、貝、海藻が一体化し、指先や指の造りも動的でありながら滑ら
で人体の「手」を主題とした彫刻作品を複数制作している。
かに整っているため、研究対象として設定した。エミール・ガレの生
ロダンと彼の彫刻作品との遭遇を契機として、ガレは「工芸家」か
涯の中での《手》の特徴を明らかにすることが本研究の目的である。
ら「芸術家」へ移りかわっていく傾向にあった。工芸家と芸術家の間
で揺らぐガレの思いが《手》から見えてくる。
彫刻《手》とは
「手」は何者か
エミール・ガレ(1846-1904)晩年の 1904 年に制作された《手》
は、一般には海藻と貝殻のある手の彫刻作品と捉えられている。海を
《手》には五指や扁爪など「人間」の手と合致する特徴が確認できる。
表した台座は渦巻く重々しい波を思わせる。その台座から、一本の右
一方で、筋組織や骨の欠如の可能性、不自然な反り方をした指先の造
手が伸びている。全体的に黄みがかり、手首から五本の指先にかけて
形を合わせて考えていくと、
《手》に見られる組織の不足は「人なら
次第に透明さを増す。手には茶褐色の海藻が這い、それぞれ指の外側
ざる者の具象」、或いは「人間の抽象」を表現したものと言える。
には貝殻が付着する。また、本作には掌中央部に深さ五センチほどの
「人ならざる者」の具象として、東洋の神仏を挙げる。《手》のふく
穴が穿たれており、このことから《手》は「容器」の意識が垣間見え
らみある形態は仏像彫刻の「手」と近似しており、またオルセー美術
る「オブジェ」と評価づけることもできるかもしれない。
館所蔵の《手》はキャプションが手掌を正面として設置され、仏像と
ガレはアール・ヌーヴォーを代表するガラス工芸作家の巨匠として
同様に「正面観照性」の高さが言える。さらに、貝は女性の性の象
知られている。しかし、晩年は白血病に侵され、死の間際でガレが制
徴とされることから、ヴィーナスとの関連性が考慮できる。一方で、
作したガラス作品が《手》であった。ガレ生涯の創造の中でも「芸術」
シェークスピア戯曲『ハムレット』に登場するオフィーリアが、最期
作品と見なされるガラス作品が増えてくるようになるのは、1890 年
にもつ花束を貝と見立てた、ガレによって翻訳されたオフィーリアの
代頃からである。ガレの作品を「工芸」から「芸術」に昇華させていっ
「手」と本作品を解釈することも可能である。他方、ガレは海洋学の
た要因として、彼が用いていた技法の変化が考えられる。削りから溶
発展が装飾家に与える影響の大きさについて述べており、海洋探索に
着の技法への移行により、ガレの創作物は道具から彫刻、やがて実物
貢献した船乗りたちへの哀悼の意ともとれる。
へなり替わるような表現になっていた。ここに、実体に迫る晩年のガ
次に「人間」の抽象として、本作品の「手」の持ち主にガレを挙げ
レの制作の姿勢と《手》の関連性が考えられるに違いない。
る。すなわち《手》はガレの手の等身大ではないか、という推測であ
る。ロダンは等身大の「手」を制作した人物でもあった。ロダンの「手」
なぜ形を「手」としたのか
と本作品の「手」は、どちらも死の間際に作られた点が共通する。
芸術作品を生み出すのは芸術家の「手」であり、作品を世に送り出
ガレの作品の中で人体像を表した作品は少なく、身体の一部を作品
してきた「証拠」として語るに足りる部位とも言えよう。本作品の「手」
化しているものは《手》の他に存在しない。本作品は「ホット・テク
は、ガラス作品の創出に生涯を賭けてきたガレが、己の存在を目に見
ニック」という、ガラスが熱い状態で成形する技法が併用されている。
える形で遺そうとしたものとも考えられる。
このことは可塑素材を用いて肉づけを行う塑像の加算する技法を意味
する。彫塑的な技法からも、晩年、ガレが表現に重きを置いた芸術家
「手」の意味
の姿に近づいていったことがうかがえる。しかし、ガレは工芸の範囲
内にとどまろうとした。工芸として最高度の技巧を駆使し、表現する
本作品の「手」は右手である。左右によっても手の意味合いは変化し、
ことができた限界が「手」だったのではないか。
キリスト教で左右の優劣は左よりも右が上位となっており、右は神の
右手として絶対視される。また、手という部位は触れる行為を果たす。
120
卒業研究・作品
触れ合う行為は時に安堵をもたらし、時に愛情を示す手段として扱わ
おわりに
れる。ガレの白血病の兆候が表れ始めたのは 1900 年のことで、病の
ため仕事を完全に禁じられた 1902 年には父・シャルルを亡くしてい
《手》は社会的芸術作品とはいえず、ガレ自身のために作られたと
る。《手》は、死の淵に立たされた恐怖や苦しみ、痛みを分かち合う
言える。これは《手》が量産品扱いされていないことが第一の理由で
ことが叶わなかったガレの「孤独」を表したものなのだろうか。
ある。第二の理由は展示にあり、ナンシー装飾美術展で、本作品は陳
列ケース《海の底》に配置された。つまり《手》は人々の暮らしの中
海洋作品群の中で《手》を見る
ではなく、《海の底》に置かれることで作品として完成するのである。
また本論では、
《手》は「容器」であり、
「工芸作品」であると結論
1880 年代から、ガレは海の神秘に迫る作品群を生み出していっ
づけた。まず、本作品は正面観照性が高い。本作品を収蔵するオルセー
た。その作品群のひとつとして《手》は制作されている。
美術館の展示は、手掌側を正面としている。ここで、本作品の手掌に
ガレは文学からも海の要素を抽出し、
《海藻文花器》
(1900 ∼ 04
は穴が穿たれていることを思い出したい。本作品の展示は手掌の開口
年)では、ボードレールの『惡の花』(1857 年)より「人と海」の
部を見せるもの、すなわち、
《手》を「彫刻」ではなく、用途のある「容
一節が刻銘されている。また、花器《クモヒトデ》(1902 ∼ 04 年)
器」として扱っていると考えられる。
の制作にあたり、ガレはクモヒトデの養殖を試みており、ガレがこれ
ガレはなぜ「芸術家」としてガラスによる表現の更なる摸索はせず、
まで行ってきた植物採集と同じく作品づくりのための生物研究の側面
死の間際で「工芸家」に留まろうとしたのであろう。彼は創造者であ
を窺わせる。一方、ボードレールなどの詩の引用からは、海を人知で
ると同時に経営者でもあった。大量生産が作品の価値を貶めていると
は測り知ることのできない象徴的な存在として、ガレが探究心を寄せ
批判されても、ガレは美を普及する姿勢を崩さなかった。ガレにとっ
ているように捉えられる。
て、美は万人のためにあるものだった。その実現の手段が「工芸」で
ガレが海洋に関して影響を受けた人物に、ダーウィニスムスの主要
ある。ガレは政治問題や戦争が起こるごとに、作品を介して己の主義、
な普及者でもあったドイツの生物学者エルンスト・ヘッケル(1834-
主張を唱えようと試みていた。ガレの「工芸」とは、不条理に苦しめ
1919)を挙げる。ガレはダーウィンの理論の信奉者で、水の中に生
られた人々に寄り添うことができるものであり、手段だったのではな
命の誕生を見ていた。つまり本作品の「手」は、死の間際であれ、誕
いだろうか。常にガレの目には、ガラスの元に集う人々の姿が目に浮
生の瞬間であれ、あらゆる生物へ変化を遂げ得る可能性をも有してい
かんでいたに相違ない。
るのである。
ガレは持ちうる技術の結晶を「手」という形にして後世に遺そうと
しただけでなく、本作品に自己を切り出そうとしたのではないだろう
高島北海
か。《手》とは後継者に恵まれなかったガレが、己の境遇、人生、美
を感じる心をわかちあえる「唯一」を探す「孤独の手」なのである。
北海は 1885 年から三年間ナンシー森林学校に留学していた日本
政府の官吏であり、後の画家である。北海はガレを始め、ナンシーの
芸術家たちと交流をもった。北海が見せた、下書きのない白紙に筆で
もって画を仕上げていく即興のパフォーマンスはナンシーの人々を驚
かせたという。ガレも北海の筆致を称賛している。北海は帰国前、日
本の植物相に属する植物を網羅した『日本植物名彙(Nomenclature
of Plants)』という語彙目録をガレに贈っている。北海はガレの日本
の植物に対する好奇心に応える人物だった。
晩年、ガレの作品は描線から解放され、熔解したガラスの流動を目
に見える形で留める造形になっていく。絵付けや彫刻などの技法から
ガラスの特性を活かした溶着の技法へ変化した背景にあるのは、ガレ
が高島に見た描線の自由、創造の自由だったのではないかと考える。
[主要参考文献]
○エミール・ガレ『ガレの芸術ノート』由水常雄編訳、瑠璃書房、1980
121
卒業研究・作品
クライドルフ論
On the world of Ernst Kreidolf
林 憧子
Hayashi, Shoko
文化マネジメントコース
はじめに
絵本作家として歩み始めたクライドルフは、テキストよりも絵の
方を重視し、絵本から教育的な要素を排除した。当時の絵本の常識
エルンスト・クライドルフ(1863-1956)はスイスのベルン生
から考えれば、非常に先進的な試みであったのである。
まれの画家であり、絵本作家である。ドイツ語圏では偉大な絵本作
家として知られ、日本でもいくつかの作品が翻訳され出版されてい
絵本作家として
る。クライドルフの絵本作品は、植物や虫など「小さな世界」の擬
人化を中心とした、空想的でありながら生物学に忠実で緻密な表現
クライドルフは生涯で25冊の絵本を制作しており、中には他人か
を特徴としている。クライドルフは幼少期から自然に親しみを持っ
ら挿絵のみを依頼されて制作されたものもある。本論では、クライド
て育ち、絵の才能を発揮した。その後彼は油彩画を学び、しばらく
ルフ自身が文章・挿絵共に制作した作品に焦点をあて、見てみる。
は画家として活動しており、絵本の制作を始めたのは30代半ばから
クライドルフ絵本の表現の特徴として、まず動植物の擬人化が挙
であった。本論文では、クライドルフの絵本作品に焦点を当て論を
げられるだろう。特に、クライドルフを語る上で昆虫や草花といっ
進めていく。クライドルフの特徴的な表現(特に植物や虫たちの小
た「小さな世界」を擬人化する表現は欠かすことができない。しか
さな世界を擬人化する表現)が生まれた背景を、新たな視点を加え
し彼はいたずらに生き物たちを変容することなく、自然をよく観察
て明らかにすることとしたい。また、彼の絵本作品が年月や国境を
し、生物学に忠実に描いている。また生き物たちを細やかに描いて
越えて現代の日本でも親しまれる理由とは何だったのかについても
いるだけでなく、よく研究し特徴をとらえ、擬人化の表現やテキス
話を及ぼすこととする。
トに生かしている。この点から、クライドルフが自然に対して並々
ならぬ興味と愛情を持っていたことが見てとれる。
絵本を制作するまで
彼は子供の頃から動植物の擬人化を想像し、初めて擬人化の様子
を絵にしたのはパルテンキルヘンで療養中のことであった。幼少期
クライドルフがはじめて絵本を制作したのは30代半ばのことであ
の自然体験に加え、パルテンキルヘンでの療養生活が彼の絵本表現
り、それまでの長い間タブロー画家やリトグラフ師として生計を立
の始まりといえる。
てていた。幼少期から絵の才能を発揮していたクライドルフは、や
幼少期から青年期にかけて自然と密接に関わってきた体験が、ク
がて画家を志すようになる。しかし彼の画家としての評価は振るわ
ライドルフの絵本に最も大きく影響しているのはいうまでもない。
ず、順調とは言えなかった。そんなとき絵本の制作を始めたクライ
しかし、私はクライドルフの自然体験と同じくらい、彼のリトグラ
ドルフは、たちまち「絵本作家」として世に知られるようになるの
フの技術が「小さな世界」の表現に大きく影響しているように思え
である。自らの本業をあくまでも画家であり素描家だと考えていた
てならない。彼はリトグラフ技法に習熟していたが故に、植物の繊
彼は、絵本作家としての評価を喜ぶことが出来ず、しばらくの間葛
細な表現や虫たちの細かな描写に拘ったのではないだろうか。
藤の年月が続いたという。
画家としてのクライドルフは、様式の変化がほとんど見られない
クライドルフ作品の魅力
とされている。ただし、パルテンキルヘンでの療養生活は彼の創作
活動に大きな影響を及ぼしている。雄大な自然の姿を描くようにな
ここまでクライドルフの作品から表現を見てきたが、他の絵本作
り、自然の脅威を擬人化して表現するようになったのもこの時期か
家たちと比較するとどのような特徴が見えてくるのか。クライドル
らである。
フと近い時代に活躍し、加えて彼と同様に動植物の擬人化という表
また、彼はリトグラフ工房での見習い期間を経てリトグラフ師と
現を用いた作家を挙げ、比較をしていきたい。検証する作家は、
しても活動しており、石版リトグラフの高い技術を持っていた。彼
ウォルター・クレイン(1845-1915)、ビアトリクス・ポター
の絵本作品を見てみると、その多くが手間や費用を顧みず石版リト
(1866-1943)、エルサ・ベスコフ(1874-1953)である。
グラフの技術で印刷されていることがわかる。さらに、クライドル
クレインの表現との大きな違いは、擬人化された植物に人間らし
フ絵本の特徴的なテーマである「小さな世界」を表現した作品には
さが強く残っている点と、明確な輪郭を中心とした描き方であろ
特に、他の印刷方法ではなく石版リトグラフを用いていることか
う。クライドルフもクレインも非常に繊細な描写ではあるが、クラ
ら、彼のリトグラフ師としての技術は「小さな世界」を擬人化する
イドルフの方が水彩画特有の柔らかさが感じられる。
表現と大きく関係しているのではないかと考える。
一方、ポターの表現と比べてみると、自然をよく観察し生き物の
122
卒業研究・作品
本来の姿を残している点は両者共通している。しかし動物を擬人化
重んじ、「小さな世界」に目を向けたクライドルフの自然観は、我々
したポターに対し、クライドルフはより小さな世界に目を向けてい
日本人に共通するところがあるからであろう。
ることがよくわかる。加えて、ポターの絵本には当時のファッショ
ンの流行がしばしば取り入れられており、これもクライドルフと異
なっている点である。
エルサ・ベスコフとの比較から見えてくるのは、「可愛らしさ」
「子供らしさ」がクライドルフの絵本は薄いということである。エル
サの「子供らしい」絵と比較するとそれがはっきりとわかるだろう。
三人の作家との比較を通して、クライドルフの絵本では、人間が
衣装を着ているような擬人化ではなく生き物の特徴を強く残した表
現であること、時代の様式や流行を積極的に取り入れていないこ
と、そして「可愛らしさ」や「子供らしさ」に欠けていることが特
徴といえる。
クライドルフの絵本に登場する生き物の多くは植物や虫といった
小さな生き物たちである。しかし、彼が唯一動物を主人公にした作
品についても触れておかねばならない。犬や猫の姿を描いた『犬の
祭り』である。本作に見られる動物の描き方と小さな生き物たちの
《Bei den Stiefmutterchen》
(
『Lenzgesind』
)
、1926年以前、水彩・墨・厚紙
に貼られた紙、27.7×34.4 ㎝
『クライドルフの世界:スイスの絵本画家』
2012 年、Bunkuma ザ・ミュージアム、Bunkuma
描き方は異なり、同じ空間に描かれることもない。このことからク
ライドルフは、動物たちの世界と「小さな世界」を別々に捉え、絵
本を制作するとき、より想像を膨らませる「小さな世界」を選択し
たのではないだろうか。そしてその選択には、自信のあるリトグラ
フの技術を持っていたことが大きく関係していると推察する。
おわりに
スイス生まれの絵本作家エルンスト・クライドルフは、幼少期か
ら培った自然への愛情を持ち続け、一貫して子どもの立場に立った
絵本制作をおこなった。彼は子どもの頃から頭に思い描いていた
「小さな世界」を独自の表現で描くことで、ドイツ語圏のみならず
世界に名を広めたのである。彼の表現の原点には、自然の中で過ご
した幼少期の記憶があり、そのとき身に付いた想像力を彼は生涯大
《Rennen》(『Das Hundefest』)、1928年、水彩・墨・厚 紙に 貼られた 紙、
19.7×28.4 ㎝
『Faltertanz und Hnderfest ERNST KREIDOLF UND DIE TIERE』
2013年、Michael Imhof Verlag GmbH & Co.KG
切にしていたのだろう。大人になって心を病んでしまったとき、パ
ルテンキルヘンで彼を救ってくれたのは、やはり自然の生き物たち
だった。クライドルフの絵本からは、そんな彼の自然への愛情がひ
しひしと伝わってくるようである。
[主要参考文献]
クライドルフの絵本はそれまでの絵本の形式を大きく変化させ、
○
『クライドルフの世界:スイスの絵本画家』
当時は批判を受けることもしばしばであった。しかしクライドルフ
の絵本が長く愛され続けていることを考えたとき、一見すると短所
のような彼の表現こそ、時代も国も越えて親しまれる大きな所以と
なっていることに気づく。とりわけ日本人にとっては、クライドル
フの絵本は親近感を覚えるものかもしれない。自然の移り変わりを
Bunkamuraザ・ミュージアム、
Bunkamura、
2012年
○
『E.クライドルフの絵本における
「子どもから
(vom
kinde aus)
」の思想』
馬場 結子、
関西教育学会、
関西教育学会紀要(26),pp96-100, 2002年
○
『はじめて学ぶ英米絵本史』
桂宥子、
ミネルヴァ書房、
2011年
○
『野の花の本 ボタニカルアートと花のおとぎ話』
海野弘、
パイインターナショナル、
2012年
123
卒業研究・作品
エドワード・ホッパーの絵画世界
- 描かれた主題とモチーフ -
Edward Hopper’s Art World Painted Thema and Motif
高橋 由佳
Takahashi, Yuka
文化マネジメントコース
はじめに
もの、美しくないモデルをあえて扱うという姿勢に少なからぬ影響を
与えている。初期のホッパー作品に表れる対象物をおおまかにとらえ
20 世紀前半のアメリカ美術を代表する画家の一人、エドワード・
る方法や立体的な絵具の厚み、素早い筆触や構成の単純化といった特
ホッパー(Edward Hopper 1882-1967)の作品は、現代の映画、
徴は、美術学校時代にロバート・ヘンライ達教師陣の教えに則ったも
舞台、写真、絵画に繰り返し登場する姿である。1930 年当時として
のであり、描写方法の一面でも初期の礎を築いたことが分かる。
は新しいアメリカ人像や現代生活像をつくりあげたとみなされ、アメ
第二に、ホッパーはパリ留学を通じて都市のもつ生活の表情に目を
リカ国内で独自の美術作品が形成、発展する過渡期の中で、約 60 年
向け自分なりの絵の主題と表現方法の方向性を見出したが、作品が否
もの間、具象絵画を描き続けた。ホッパーはガソリン・スタンドや小
定されたことで、彼の関心はより自らの内側を見つめるものへと移行
規模の商店、映画館、鉄道などのサービス業といった日常的なモチー
していった。留学先で都市生活の風景を描きはじめた彼にとって、帰
フや、中流階級の白人女性やヴィクトリア調の古い家を描いている。
国後改めて彼の日常的な光景とは何であるのか、アメリカの美術動向
その一方で、ニューヨークの下町や労働者階級の人々が働くエネル
に沿い、主題の意図に適う事物とは何であるのかを追求したことが、
ギッシュさといった、アメリカの新しい文化が誕生する時代の熱気は
具体的なモチーフの方向性を決定づけたと考えられる。ホッパーがア
描いていない。作品の人物同士の視線はすれ違い、コミュニケーショ
メリカで優れた画家として活躍することができたのは、制作方向を
ンも欠落している。
誤った経験の失望と、独自の作品の主題や様式を長期間模索し続けた
作品に描くことを選んだモチーフに焦点を向けると、その一貫した
という背景に基づいている。
制作姿勢や選択の仕方、描写の特殊性は注目に値する。これはホッ
パーが独自の主題と構成を模索し、意識的に描く対象を選んできたた
めである。本論では、ホッパーが描いてきた主題とそのモチーフに着
目して論じることを構想した。作品がもつ様々な側面を、画家自身と
描かれている対象との関係、あるいは鑑賞者と作品の間の視覚的な関
係から迫ることによって、ホッパーの作品制作の意図を探り、主題の
本質を捉えることができると考える。
日常的なモチーフ
ホッパーが当時描かれていた一般的な主題を選ばず、限られたモ
チーフを繰り返しもちいた効果とは何かを考えてみると、彼は身の回
手段の一つとして用いていることが分かる。彼の作品は変化し続ける
図 1.《朝の日ざし》(1952 年)
、油彩・キャンバス、71.4 × 101.9cm、
コロンバス美術館、オハイオ / アプト・インターナショナル・読売新聞社編『エドワー
ド・ホッパー展』アプト・インターナショナル、2000 年
先端的な世界や大衆社会の主流からはずれたところにある、個人的な
第三に、ホッパーが人物よりも建築物や風景を繰り返し描いた理由
体験や関心をもった出来事を扱っている。
に、自然への関心がある。彼は日常生活における事実や様々な出来事
ホッパーの作品内に描かれたモチーフの選び方は、彼に影響を与え
を媒介として、記憶と想像に基づき再構築された架空の光景を描いて
た画家自身とモチーフの関係を元に、四つの原因を挙げることができ
いる。彼の個人的な経験と結びついた風景を用いるのは、旅先で見つ
る。それは、美術学校の師であるロバート・ヘンライによる身の回り
けた現実の風景から、自身の内面を通じて構成された情景を生み出す
の生活を注視し、芸術と日常を統合させるという主張に感化されたこ
ためである。その元となる事実を得るために、主題の探求を目的とし
と、アメリカで起こった様々な美術動向による他の潮流への忌避と都
て何度も旅を繰り返したと言える。郊外の自然や、都会の日常生活に
市生活という独自の主題の確立、旅やバカンスを通じた主題の探求を
存在する身近なモチーフを用いることで、彼は我々に彼の気性を通し
目的とした自然への関心、映画や劇場に通い、妻ジョーと過ごした
た人生を見せている。
ホッパー夫婦の中産階級的生活の四つである。
第四に、作品にはジョーとの夫婦関係の緊張や高層ビルなど、彼の
第一に、ヘンライの示した身の回りの生活をみつめることが大事だ
生活にストレスをもたらすものも描かれている。ホッパー自身と題材
とする教えは、ホッパーの日常生活への注視や身近な所から不器用な
に描いた事物との関係は必ずしも親和的なものではない。ホッパーの
りに日常的に存在した物事を、彼の創造した世界により近づくための
126
卒業研究・作品
作品は、近代生活に対する視覚的なアイロニーの背後に、映画や車な
は明確に示されることになる。彼が制作経験を積み重ねることによっ
どの自由と便利さを享受しながら現代生活への根深い疎外感を抱いて
て得た一定の形式と主題の関係はどちらも互いに作用し合って形作ら
いる。これらの要因が、ホッパーが日常に関心を抱いた核となった。
れている。ホッパーは主題の核となる特徴を把握し、それを純化して
鑑賞者にとって生活する中で起こりうるであろうと想像できる、親し
本質を露にすることによって、モチーフの特徴を見極めた上でより主
みのある一場面を描いたことが、作品のもつ日常性の特徴と言える。
題を強調する手腕に長けていることが分かる。
ホッパー作品の普遍性とは、明暗の対比をはじめとする圧倒的な視
また、彼は映画や絵画作品などの架空の創作物にこそ、共感を誘う
覚的演出により、歴史や神秘性の含まれていない風景と庶民の姿を描
現実味や納得のできる実在感を求めていた。登場する人物の情報設定
いて日常生活の本質を掴んだことにある。都市生活の日常的な生活
や身の回りの出来事といった面から物語性に説得力を持たせることに
は、20 世紀前半に台頭したアメリカの近代的な生活は現代社会に影
よって、世俗的な現実感に裏打ちされた世界観を確固たるものにし、
響を及ぼしたため、結果的に産業発達化した世界のどの場所にでも共
虚実を織り交ぜて描かれた作品を創造することができたのである。
通性を見出すことのできる、ありふれた日常性を扱うこととなった。
このように、ホッパー作品の光に照らされた沈思する空間や人物像
は、個人によって異なる見え方をさせる強い想像性を持ち、作品が内
主題の追求
包する多面的な側面と解釈の広がりは、鑑賞者に心理的な判断をゆだ
ねる空白の余地を残すものである。それは、彼が自分の作品のテーマ
ホッパーが日常的なモチーフを通して優れた作品を描くことができ
がどう相手に伝わり、評価されるのかをある程度想定した上で様式と
たのは、構図を描く独自の様式が確立していたためである。その様式
モチーフを扱う、優れた描き手であったためである。自身の作品の評
とは、観察者との距離や光の造形表現、音の聞こえない静止した図像、
価を周囲に任せることのできるような「名づけがたい性質」があるこ
簡略化され洗練された形態といった三つの方法が挙げられる。
とを認めた上で、作品制作の段階から緻密な計画をもって描いている
まず、ホッパーが描いた人物同士が無関心な光景は、一定の距離を
ことこそ、ホッパーの主題がもつ本質の大きな特徴であると言えよ
もって他人の生活を覗く、映画のような画面である。それは、先入観
う。
や感情を伴わない建築物や無表情の人物像が描かれた他人の生活の中
の人物だからこそ、鑑賞する側が想像の余地をもつものである。ホッ
おわりに
パーの内面を通じて再構成し客観視された情景は、鑑賞者が視線をな
げかけることによって、自己を投影した姿を映し出しているのであ
ホッパーが創造した世界の中で焦点合わせているのは、彼の現実空
る。
間に存在した矛盾である。工業化する都市機能と隔たる郊外の自然、
次に、作品の空間内では、画面に一人だけ描かれた人物と物に光が
必要とされ発展する商店やサービスと取り残されていく古い建築物、
出会っているまさにその瞬間や、時間を止めたかのような静止したイ
喧騒と熱気に満ちた都市での人々の疎外感といった様々な物事に光り
メージとして表現されている。この構図は、照射する線と幾何学的な
をあてて、日常的な生活に潜む物事の不確かさを浮き彫りにしてい
色面、コントラストの強い明暗対比が組み合わさることで形づくられ
る。それは、人物を中心に置かなくても存在し続ける世界や、繋がり
ている。彼は屋内や建物に直進する光を題材に扱い、光の色面による
を絶てば人と交わらずに生活する個人、他人の視界に捉えられてはじ
画面の構成力と表現方法を突き詰めた。その結果、建築物ではなく制
めて認識される自己などである。ホッパーの作品は、彼の客観的な視
限の多い室内の中で、人物を描かずに光のみを主題として見せるとこ
点によって、普段の日常生活の中で忘れさられている真理が光の下に
ろまで独自の様式を確立している。彼の光への関心は、大戦や美術動
描き出されているのである。
向、表現の変遷という激しい環境の変化に関わらず、自己を見つめ続
け関心を純化させる作業を押し進めた結果であると言える。
ホッパーの主題は光と光に照らされた人物あるいは物体、そして彼
の興味を引いた光景という三つの要素である。作品の構成や明暗表
現、全体のバランスや主題と様式の相互関係が織りなす調和、統一、
洗練といった要素が、彼の作品を印象的なものに特徴づけていること
が分かる。主題の内容と描写方法の形式が一致すること、想像性の元
に作品が描かれることによってはじめて、作品の主題に描かれた意図
[主要参考文献]
○ Gail
Levin,
(W. W. Norton &
Company, Whitney Museum of American Art, New York, 1995)
○東京都庭園美術館編『エドワード・ホッパー展:ホイットニー美術館所蔵
作品より』東京都文化振興会、1990 年
127
卒業研究・作品
尾形光琳における雪村周継の影響の
重要性について
About importance of the influence
of Shukei Sesson in Kourin Ogata
松浦 佳奈子
Matuura, Kanako
文化マネジメントコース
要旨
風 宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造』展図録に、光琳が宗
達本をトレースしたという説が発表され、「時間と手間を惜しまず実
際に宗達の作品を正確に写し取った」と論じられた。しかし、奥井素
子氏は、この説に反論を唱え、「宗達本と光琳本の比較と考察から、
輪郭線の捉え方の相違や、宗達本に描かれているが、光琳本にはない、
あるいは宗達本にはなくて光琳本には描かれている個所があるという
ことから、光琳が宗達本をトレースしたのではなく、それ以外の粉本、
あるいは下絵から制作したと考えられる」と指摘している。光琳が宗
達に深く影響を受けていたことは事実だが、この例のように琳派の系
譜を重視するあまり、事実を見誤ることも多かったように考える。
写真 1 《紅白梅図屏風》尾形光琳筆 4 曲 1 双 各 156.0 × 172.2㎝
静岡 MOA 美術館 江戸時代
光琳を宗達の後継者とし、抱一を光琳の後継者として、一口に琳派
とくくられるが、彼らは生きてきた時代も顧客層も階級も、そして作
従来、尾形光琳(万治元年(1658)∼正徳六年(1716))は、琳
風すら違う。今では琳派の画家たち一人一人の知名度が上がり、個人
派を代表する画家であり、琳派の始祖である俵屋宗達(生没年未詳)
での展覧会も増えてきている。最早琳派という枠組みを通してではな
を乗り越えるべき壁とし画業大成にまい進したとされてきた。しか
く、一人一人の独自性に注目する時代に来ているのではないだろう
し、光琳を琳派の継承者として見ることによって、彼の作品の印象は
か。
制限されていたのではないだろうか。光琳はより広い視野と社会的な
関係性の中で作品制作を行っていたと考える。本論では雪村周継(生
没年未詳)からの構図とモティーフの影響を検証し、光琳の大名との
第二章 雪村画の特質
交友によって、自らの商品価値を高める現実的な姿を導き出し、より
雪村画の特徴をまとめると以下のようになる。
本質的な光琳像の提示を行った。
①精緻な描き込みをする
第一章 伝記的事実と先行研究検討
②画面に物語が展開されている
③屏風の場合は対角線や三角形など、厳格さのある構図を好む
④人物画の場合は人物を大きく動かし勢いのある構図をつくる
光琳と宗達の関係には、当時の時代背景が影響しているとする説が
⑤モティーフを太さが一定に保たれた太い輪郭線でくくる
多い。光悦や宗達は、江戸草創期、新興商人たちが領主から与えられ
⑥人物の表情を力強く、豊かに描く
た権限を利用し都市づくりに参加した時期に、彼らの庇護を受けて活
⑦同じ髪型や表情の使い回しはほとんどない
躍した。光琳は、そのような商人たちの一員であった高級呉服商に生
⑧好みのモティーフは繰り返し描く
まれた。後に家業は衰退し、光琳は四十四歳で絵師となることを選ん
⑨好みのモティーフをふんだんに画面に詰め込む
だ。つまりは、宗達画は商人たちが自由に権力をふるった時代の象徴
特徴②∼⑥は、雪村の生きた戦国時代の特有の、力に特化した表現
であり、幼少期への憧憬が光琳を宗達画に向かわせ、光琳芸術を成立
と見ていいだろう。大名に施行していた経験からか、武家に生まれた
させたというのである。
にもかかわらず武士になれなかった経歴からか、雪村は特にこの傾向
しかし光琳にとって、その憧憬が晩年まで作品を生み出す原動力に
が強い。
なっていたとは必ずしも言い切れない。光琳は借金を返済するために
特徴⑦∼⑨は、画面に自身の感覚を素直に投影できる、雪村の個性
大名貸しに手を出して失敗している。第二の手段として絵師として仕
だと考える。この特徴をさらに一言で言ってしまえば、それは「強調」
事をすることを選んだ以上、現実的に作品を商品として売っていかな
ということになる。《呂洞賓図》は、呂洞賓の武力や胆力を強調した
くてはならない。元禄八年(1694)
、光琳は借金の返済のために宗
作品であるし、
《花鳥図屏風》の柳の幹をびっしりと覆う小枝の描き
達作の勝手屏風を売り払ってすらいる。また、大名が好む室町水墨画
込みも、
《呂洞賓図》の拡大された粘着性の水もモティーフを強調す
を模写したり、江戸の町人が好む七福神などの作品を制作したりして
るための表現である自身の感情や見たものを鑑賞者に伝えたいという
いる。
思いが、「強調」の表現につながったのだと考える。この「強調」の
平成十八年(2006)出光美術館で行われた『国宝、風神雷神図屏
特徴が戦国時代の様式と強く組み合わされていることが雪村の最大の
124
卒業研究・作品
特質であるといえる。
にくい。幼少期から洗練された社交界で生きてきた光琳は、自身の作
第三章 光琳像の本質
二百点以上の作品が残る雪村画は比較的身近な手本であったに違いな
光琳は、雪村の対角線や三角形の構図をほとんど受け継いではいな
彼は他者の作品を意匠化することに対して、高い技術と洗練された
い。雪村は細かいモティーフを大量に描いて絵画世界を構築していく
才覚を持ち合わせていた。作品に自己のこだわりを語らせるのではな
が、光琳はモティーフを数点に絞って画面全体の情報量を減らし、見
く、宗達や雪村など、日本人に親しまれてきた作品の魅力を抽出し、
る者の視線を引き付けることが多い。遠くからでも人の心を捉える力
要素を組み合わせて提供するのが光琳の絵師としての在り方だった。
を持っているともいえる。
また、光琳には、作品を模写する際に実際の作品より人物を幼く描
く傾向がある。それは自身の作品であっても同じで、頭身の低い人物
品がどう映るかという視点を常に持っていたはずである。現在でも
い。
おわりに
を描くことが多い。単純な構図や幼い人物は、より多くの層に受け入
光琳が絵師として成功しなければならない
れられるための戦略だったと思われる。しかし雪村の屏風以外の作品
とももっと指摘されてよいと考える。彼は自分の描きたいものに拘る
からは、構図に関しても影響を受けていると考えられる。
のではなく、多くの人に受け入れられる作品を求められていたに違い
例えば、光琳筆《蹴鞠布袋図》は、雪村筆《布袋図》と《呂洞賓図》
ない。しかも、当時は一生をかけて画業を大成させていた者が多かっ
の構図を参考にしていると判断される。《蹴鞠布袋図》は落款、大袋、
たにもかかわらず、光琳の絵師としてのキャリアは四十四歳から死去
布袋の腹、顔、布袋の頭上の毬と、球体が積み重なる構造をしている。
する五十九歳までの十五年足らずであった。在世時から高い評価を得
大袋に乗った布袋の無邪気な風貌は《布袋図》と共通する。そして、
ていたとはいえ、仕事の成果を実感するには相当短い年数である。し
この下から上へ遷
かし、その追い詰められた状況が、《燕子花図屏風》のように、いか
していくような構図は《呂洞賓図》と共通する。
迫した状況にあったこ
また、《紅白梅図》も、雪村がよく描いていた三幅対の構図に刺激を
に最短距離で観る者に視覚的快楽を与えられるかという独自の視点を
受けたに違いない。
もたらしたとも言える。
光琳はモティーフにおいても雪村様式を取り入れている。《呂洞賓
光琳はパトロンである大名との関係性を重要視し、大名の好みに応
図》や《住之江蒔絵硯箱》にみられる粘着力のある水の表現や、《琴
えるため、雪村画を作品の中に取り入れた。光琳の雪村からの影響と
高仙人図》の波の一部を拡大したような表現は、雪村の描く水を想起
は、光琳が社会の関わりの中でその芸術を積み上げていったことを意
させる。しかし、光琳は雪村の様式をそのまま取り入れるのではなく、
味するのである。
《住之江蒔絵硯箱》で、波に空く穴からさらにその背景の波を見せた
ように、意匠の面白さに生まれ変わらせている。
また、光琳は多くの作品で、まったく異なる墨の表現を一つの画面
に併用させることを行っている。雪村の独特な描線を学んだことで、
光琳は自身の墨の表現の幅を広げることができたのではないだろう
か。
光琳の顧客であった大名との関係性について今一度考察してみた
い。当時雪村画は高価格で取引されていた。光琳の伺候先である酒井
家が所蔵品を運び込み江戸城にて座敷飾りを行った際も、御守殿の床
には雪村筆《猿猴》が飾られたとする記録が残っている。光琳のパト
ロンであった江戸大名にも、雪村は高く評価されていたと考えられ
る。雪村画に強く残る戦国時代の様相が大名の人気を集めたのかもし
れない。これらのことから光琳は大名の好みを取り入れるべく、雪村
の摸写を行い、構図やモティーフを取り入れたのだと考える。社会的
な関わりの中で作品を製作していた光琳が、京都で公家衆をパトロン
としていた時と全く同じ宗達風の作品を江戸でも制作していたと考え
[主要参考文献]
○林進 『日本近世絵画の図像学―趣向と深意―』 (八木書店 平成十二年)
○ 江村知子 「根生いの分限、絵描きへの道―尾形光琳を取り巻く環境と作
品制作について―」 (美術研究三九二号 平成十九年七月)
○内田篤呉 『光琳蒔絵の研究』 (中央公論美術出版 平成二十三年)
125
卒業研究・作品
細見美術館蔵《春日神鹿御正体》について
ー平面作品の立体化に関する諸問題ー
True figure of the sacred deer of Kasuga at Hosomi Museum
谷口 菜苗
Taniguchi, Nanae
文化マネジメントコース
要旨
《春日神鹿御正体(かすがしんろくみしょうたい)》(以下、本作品と
はじめに
春日大社や春日大社に祀られる神を信仰する春日信仰の流れの中
記す)は、金工の立体作品である。本作品は、神が鹿に騎乗して春日の
で、本作品と春日鹿曼荼羅は制作された。
地に影向したとする春日大社の縁起を元に制作された平面作品の春日
春日鹿曼荼羅と呼ばれる平面作品は鹿の背に神を乗せて、春日の
鹿曼荼羅を立体化したとされている。本作品がいかなる春日鹿曼荼羅
地へ影向したとする春日大社の縁起を元に制作され、本作品はその
をどのような段階まで参考として立体にしたのかを明らかにするため
春日鹿曼荼羅を立体化したものだとされている。
に、春日鹿曼荼羅と本作品の間で、図像と形状の分析と比較を行った。
本作品の制作年代は、最近の研究では鎌倉時代後期から南北朝時
その結果、表されたモチーフは両者で全て一致せず、どのような春日鹿
代にかけてであり、春日講や遥拝目的で作られたと考えられてい
曼荼羅を参照したのかは明らかに出来なかったものの、春日鹿曼荼羅
る。ただし、これは本作品に関わる史料が少ないため、本作品の形
に描かれるモチーフをある程度までは取り入れたことが明らかとなっ
状の特徴や春日鹿曼荼羅との関係を結びつけての推測にとどまる。
た。モチーフの特徴が全て一致しなかったのは、立体作品を制作するう
その他、制作者や制作依頼者などは明らかにされていない。
えで重要となる作品の安定性や重さといった制作上の理由に加え、立
本作品が春日鹿曼荼羅を立体化したとされる問題について、日本
体作品と平面作品のモチーフの形は各々の歴史で出来上がったこと、
美術史を振り返ると、本作品と春日鹿曼荼羅以外にも平面作品を元
また立体作家の伝統と独自性が反映されたからだと考えられる。
に立体化したのではないかと考えられる作品があることから、その
一例ととらえられる。
しかし、本作品に関係する先行研究では、いずれの春日鹿曼荼羅を
参考にしたのかは明らかにされておらず、両者の作品全体を含めた記
述と比較はされていない。そこで本論では、本作品の形状の詳細な記
述と分析、そして本作品と集められる限り集めた春日鹿曼荼羅の図像
の比較を通して、本作品の関係性や制作背景を検討することとした。
《春日神鹿御正体》と春日鹿曼荼羅の分析と比較
本作品は鹿、
、鏡板、雲形台座からなり、框の上に設置され
る。作品の総高は108.0㎝、鏡板の直径は23.7㎝である。鹿は角と
睾丸を持つオスの姿で表され、頭部や胸部、尻には三懸を、背に鞍
橋を、胴部側面に人が足を乗せるための鐙を垂らしている。鞍橋の
上には蓮華座が乗り、そこから
が伸びるが、
上部には、春日大
社の一宮から四宮、若宮の五体の本地仏を線刻する鏡板が懸けられ
る。鹿の四肢は雲形台座上に左前脚と左後脚を半歩踏み出すように
して立つ。そして、本作品と集めることの出来た三十例の春日鹿曼
荼羅の作品の特徴をまとめた結果は以下の通りであった。
《春日神鹿御正体》の特徴
(1)作品全体が立体感や実在感のある作りをしている。
(2)鹿の姿や馬具などは実在する要素を取り入れて組み合わ
せて表現している。
(3)一つの立体作品として重さや安定性を意識して意匠化され
ており、それによって均整を保つことを重視している。
(4)制作上の理由などで実在する要素とは異なっている。
図1.《春日神鹿御正体》
『神仏習合:特別展:かみとほとけが織りなす信仰と美』図録(2007 年、p.120 )
126
卒業研究・作品
(1)春日鹿曼荼羅三十例を年代順に見ると、初期の作品を除き、
「背景も含めて円相と 、本地仏を鞍上に乗せた鹿」の姿で
描かれており、春日鹿曼荼羅は初期の作品を除いて定型化が
起きているといえる。また本作品も定型に沿っている。
(2)春日大社の縁起には現れない、もしくは縁起とは異なる
モチーフがある。
このことから、本作品が春日大社の縁起ではなく、春日鹿曼荼羅
のモチーフの要素のみを参照したのだと考えられる。そして最終的
に本作品の形を決定づけるのは、立体作品の歴史の中で生み出され
たモチーフの形と立体作品としての重さや安定性、さらには制作者
の独自性であるといえる。
図 2. 春日鹿曼荼羅図二点 左図:
『春日大社名宝展』図録(陽明文庫所蔵、1995 年 ,p.36 )右図:
『神
仏習合:特別展:かみとほとけが織りなす信仰と美』図録(奈良国立博物館所蔵、2007 年 ,p.121 )
春日鹿曼荼羅三十例の特徴
《春日神鹿御正体》の制作背景
以上の結果と本作品や春日鹿曼荼羅に関する先行研究を元に、先
(1)平面作品ならではの鹿の毛や斑点、画面に収まり切れな
行研究では明らかにされていなかった本作品の制作者や制作依頼
いほどに大きく描かれたモチーフ、背景の表現がされて
者、制作目的などを考察した。
いる。
その結果、制作者は実在感だけでなく均整を保つ意識が強い人物
(2)鹿の脚の置き方などで実在感を無視した描写がある。
であると想定し、制作依頼者は一宮の本地仏を阿弥陀如来とする信
(3)実在する馬具の形状を表したり、他の平面作品にみられ
仰があったと推定した。また制作目的は、先行研究で示されたのと
る鹿や雲に酷似した描写がなされるなど、現実の事象や
平面作品から取り入れた要素がある。
(4)厳密に均整を意識していない描写があるが、本作品と同
様に左右対称のモチーフは多いことから、本作品には劣
るが、ある程度均整を意識して描かれている。
同じく、春日講や遥拝目的の可能性があると考えられる。
おわりに
以上から、本作品は、春日大社の縁起で記述された鹿の姿から様々
(5)実在の馬具とは異なる装着方法がなされ、実在の馬具に
な要素が加わって定型化した春日鹿曼荼羅の図像に、立体作品でみら
あるモチーフが描かれない例があるなど、実在の要素か
れる形状の特徴を取り入れて立体に起こしたと考えられる。それに加
ら簡略、改変が行われている。
えて、制作上の理由や制作者の工夫により春日鹿曼荼羅とは異なる造
(6)初期の作例を除く作品で、背景も含めて円相と
、本地
仏を鞍上に乗せた鹿という姿で定型化している。
形が出来たのであろう。そのため、本作品がどの春日鹿曼荼羅を参考
にしたのか明らかに出来なかった。しかし、春日鹿曼荼羅に描かれる
上記の記述から本作品と春日鹿曼荼羅とでは、実在感の表現の差や
モチーフの形状はある程度参照したと考えられる。
均整の意識の違い、背景や鹿に装着するモチーフの有無がみられた。
しかし、同じ春日信仰の元で制作され、また上記の鹿の姿のモ
結果として本作品は完全に春日鹿曼荼羅三十例の特徴を満たしていな
チーフが描かれる、鹿島立神影図という平面作品や他の立体作品と
かったため、どの春日鹿曼荼羅を取り入れたのかは明らかに出来ず、
は比較しなかった。さらに制作者や制作依頼者、制作目的などの考
春日鹿曼荼羅の図像を完璧に参考にしたとは、言えない。
察は状況証拠による推測のみであり、断定するには不充分である。
《春日神鹿御正体》と春日鹿曼荼羅との関係性
とはいえ、《春日神鹿御正体》に関しては、立体化するために参
考にしたとされる春日鹿曼荼羅の図像分析と図像と形状の比較を通
して、両者の関係性をより明確に出来たのではないだろうか。
本作品がどの段階まで春日鹿曼荼羅を参考にしたのかという問題
について、さらに以下の点から指摘したい。
[主要参考文献]
○久保智康「春日神鹿御正體」
(『國華』112巻
3 号、2006年、p.35∼ 39)
127
卒業研究・作品
美人画における眉の表現について
About the expression of th eyebrows inBijingain modern Japan.
林 朝海
Hayashi, Asami
文化マネジメントコース
はじめに
からの文化が本格的に輸入されたことにより、冒頭で述べた通り、現
女性を見る際に、一番注目する部分はどこであろうか。目や口に
にはおよそ明治時代までは、それ以上の役割があった。眉化粧が行わ
在では女性の印象づくりを支える間接的な役割でしかない。しかし眉
目がいくということは至極当然であるが、眉に注目したことはある
れていたことは日本最古の書物古事記にも記載されていることであ
だろうか。ところで、平成25年の流行語候補に「困り顔メイク」
り、それが身分によって決められていたのは、平安時代ごろからであ
というものが挙がった。これは眉を八の字に、目をたれ目にメイク
る。国風文化の隆盛によって、もともとの眉をすべて抜き、生え際を
することで、か弱さをアピールする化粧法のようである。このこと
剃って額中央に楕円形の眉を描く化粧法が行われていた。また、眉化
からもわかるように、眉は顔全体の印象を決める部分である。で
粧は限られた一部の身分の者しか行わなかった。そのため、この頃か
は、美人画において眉とはどのような役割を果たすのだろうか。女
ら眉は身分、年齢、既婚を表すものであった。そして眉化粧の文化が
性を見る際と同じく眉に注目することは稀であるが、美人画にとっ
庶民にまで広く浸透し、栄えたのが江戸時代であり、眉の形が礼法で
て眉は欠かすことのできない重要な部分であると言えるだろう。本
決められるまでに至った。そのため江戸時代では眉を取り上げた礼法
論は膨大な美人画の定義について述べた後、眉化粧の変遷から美人
の書物や化粧法の書物が無数にまとめられた。
画における眉の重要性を論じることを目的としている。
美人と美人画
このように現在では印象を変えるためだけの眉は身分、年齢、既
婚を示す礼法で決められたものなのである。従って眉は女性の見た
目に影響を与えるだけでなく、その女性がどのような人物なのかを
伝える役割を持つと言えるだろう。そして実際の化粧だけでなく美
美人画の定義は非常に曖昧である。しかし我々は「美人画」と聞
人画においても重要であったことは、上村松園の『眉の記』より、
くだけで、具体的かつ鮮明にその作品の数々を思い浮かべることが
「美人画を描く上でも、いちばんむつかしいのはこの眉」であろう
できるのである。そこで、いくつかの定義を挙げながら美人画の定
という言葉からも窺える。
義について述べていきたい。まず美人画は時代によって変化する
「風俗」を捉えたものであるという内容は多くの定義に共通するも
のである。また美人画という名称からも、女性を「理想化」してい
美人画での眉
ることが絶対的条件であり、これら2点を定義の中核としたい。更
以上をふまえて、近世の美人画家として上村松園、鏑木清方、池
に美人画は展覧会場などの公の場で展示されることを前提として描
田輝方と蕉園の4人3組の画家を取り上げ、その作品と眉について見
かれているため、卓上芸術の浮世絵や小説の挿絵などとはその普及
ていきたい。
範囲や技法は異なり、西洋美術の裸婦とも表現目的が異なるもので
松園は、その存在なしで近世美人画を語ることができない程、美人
ある。また女性たちは戦後の近代化社会によって洋服に身を包むこ
画にとっては大きな存在である。それは松園が生涯を通して「女性の
ととなるが、このことから着物が美人画の定義において必要であっ
美」または「母の美」を探し求めたからであろう。松園の晩期の作品
たのではないかと考える。以上のことから美人画とは理想化された
には母性あふれる母の姿がよく描かれており、眉に注目するとそれは
美人の「顔」そして「着物」を纏った女性の描かれている絵画とい
母になった証として眉を剃り落す「青眉」が描かれている。ここで具
う、非常に限定された範囲のものであると定義付ける。
体的な作品として昭和11年に描かれた《秋の粧》(図1)について
更に美人画に描かれている美人も、画家の理想の込められた「理
見ていきたい。母と娘が仲むつまじく紅葉狩りを楽しんでいるところ
想」の美人であるだろう。それら美人は現実の世界に存在することは
だろうか、母のつつましさと娘の華やかさが対比的に描かれている。
ない、あくまでも幻想である。また美人の条件として「色白」や「瓜
この母も青眉に描かれているが、青眉について松園は自身の描いた青
実顔」、「柳腰」という要素がよく挙げられる。これらは男性主体の
眉はすべて自身の母をモデルにしていると述べている。松園にとって
社会によって生まれた典型化された条件であることからも、美人そし
青眉は母親の面影であったのかもしれない。またこの作品から眉は既
て美人画は男性たちに作られた定義であることが言えるだろう。
婚を示し、母と娘という女性の年齢も表している。
眉の歴史
次に眉の歴史について述べていくこととする。眉は明治時代に西洋
128
次に清方について見るが、清方も美人画を語る上で欠かすことの
できない存在である。清方は浮世絵師出身の日本画家、水野年方に
支持し、自身も泉鏡花の小説に挿絵を付けるなどその活躍の幅が非
常に広い。しかし美人画自体にまだ社会的な悪評が多かったため、
卒業研究・作品
清方はその名誉を
回すべく松園と気品あふれる美人画を生み出し
ていったのである。その活躍と西洋からの浮世絵の再評価により美
人画に対する評価も見直され、現代では決して低いものではなく
なっている。清方の作品について見ていくと、清方の描く女性の眉
は細くおだやかな弧の眉が濃く描かれていることがわかる。この眉
は三日月眉と言い、美人の形容の典型的な一例である。ここで大正
6年に描かれた《薄雪》(図2)を見てみたい。描かれた女性の眉
は、清方の描く眉のもうひとつの特徴的な眉である。顰めた眉で、
顰に倣うという故事にもあるように、男性はこの眉から女性のか弱
さや艶めかしさを感じるのである。また描かれた女性の感情の
れ
をも描き出しているだろう。
最後に池田輝方、蕉園夫妻であるが、前述の二人に比べて未だ知
名度は低いが、二人に勝るとも劣らない非常に優れた作品を残して
いる。清方に同じく水野年方に支持した夫妻は合作をよく描き、お
しどり夫婦として当時有名だった。輝方の描く女性は艶めかしさと
内に秘める狂気さを持ち合わせ、歌舞伎など芝居に取材する作品が
代表的である。一方、蕉園はあどけない可憐な女性を描くことを得
図1
図2
意としていた。二人の描く女性の眉はある程度の太さを保った柔ら
かな眉がほとんどではあるが、どれも描かれた女性に合わせて多様
な眉を描いているだろう。具体的な作品として大正初期に描かれた
とされる《さくら》(図3)を見てみよう。右を輝方、左を蕉園が
描いている。輝方の描く女性の眉は茫眉という幼い女性に施す眉
で、眉の幼さと大人びた表情により艶めかしさが強調されている。
蕉園の描いた女性の眉は三日月眉でおっとりと上品に見えるだろ
図 1.「秋の粧」
(部分)
上村松園
昭和 11 年 絹本着色 一幅
『アート・ギャラリー・ジャパン 20 世紀日本の美術 上村松園/伊東
深水』
1986 年
う。更に眉と目の間が非常に広く描かれているが、江戸時代にまと
められた『都風俗化粧伝』によれば眉と目の間をわざとゆったりと
空間を作ることが、当時上品とされていたようである。
以上のことから見ても、美人画の眉は、女性の基本的な情報を伝
図 2.「薄雪」(部分)
鏑木清方
大正 7 年 絹本着色 一幅
『美人画の系譜ー鏑木清方と東西の
名作百選福富コレクション』
2009 年
えていると言えるのである。
おわりに
以上のことから、多様な美人画が誕生することによって美人画の
定義は既に曖昧さを超えて、破綻しているように考えられる。そし
図3
図 3.「さくら」
(部分)
池田輝方・蕉園
右幅・輝方、左幅・蕉園
大正時代 絹本着彩 双幅
『美人画の系譜ー鏑木清方と東西の
名作百選福富コレクション』
2009 年
て、美人画において眉は描かれている女性の基本的な情報を提示す
るために大きな役割を果たしていると言うことができるだろう。
現代の私たちに眉を身分や年齢によって変えるという習慣はない
が、明治時代までは眉の存在がこれほどまでに重要視されてきたの
である。このように顔の中で、描いたり剃ったりすることで一番変
化を与えることのできる眉を、身分や年齢を伝える印として選んだ
ことは必然的であったように考えられはしないだろうか。
[主要参考文献]
○
『日本美人画一千年史』 (2002年、株式会社人類文化社)
○
『現代日本美人画全集 上村松園、鏑木清方、日本画編名作選Ⅰ』
(1979年、株式会社集英社)
○
『特別展 美人画の誕生』展図録 (1997年、山種美術館)
○
『眉の文化史(眉化粧研究報告書)』 (昭和
60 年、ポーラ文化研究所)
129
卒業研究・作品
G.F. ワッツの身体表現の考察
A study on the Representation of Figures in G.F.Watts s Painting
岡田 実沙子
Okada, Misako
文化マネジメントコース
要旨
2.芸術に対する野心
ジ ョ ー ジ・ フ レ デ リ ッ ク・ ワ ッ ツ(George Frederic Watts,
ワッツ自身の芸術に対する考えについて、
「芸術というのは、自宅
1817-1904)は、19 世紀イギリス・ヴィクトリア朝の画家である。
に飾る家具の一つというよりも、人をより良く高める財産として見ら
近年の研究ではワッツの作品の特質について、暗示的な画面や思想的
れるべきものである」
という言葉を残している。ワッツは自身の作品
な画題が注目され、象徴主義や唯美主義といった美術動向の中で評価
について、個人のための商業的なものではなく、人をより高めるもの
する傾向にある。そのため、日本でも世紀末の象徴主義に関する文献
であるべきであると主張し、美術館や公共の場で作品を展示する計画
の中でしばしば紹介されている。
を立てていた。
だが、その見解では、ワッツの作品の持つ重要な特質を見落とすこ
またワッツは、自身の作品は「nation」ないし「public」に向けた
とになる。それは、当時のヴィクトリア朝で好まれた様々な美術様式
が画中にとり入れられている点である。ヴィクトリア朝では、国内外
のあらゆる美術に関心が向けられ、画壇は多様な様相を見せている。
の遺産」と称す記述が記録に残っている。本論文では「nation」ない
ワッツの作品にも、当時のヴィクトリア朝画壇と同様に、多種多様な
し「public」は、
「芸術に関心を寄せた教養あるヴィクトリア朝の人々」
美術様式がとり入れられている。
と広義に定義しておくが、このようなワッツの野心は、画中の多様な
このような観点から、ワッツの作品は、より多角的な視点から評価
様式をとり入れた表現に表れていると考える。
することが出来ると考えられる。そこで、明らかにされ得るワッツの
長年の間、大陸の伝統的な美術理論が確立していなかったイギリス
特質として、画中人物の身体表現に着目する。これまでは、象徴主義
では、19 世紀になっても保守的なものも前衛的なものも明確に区別
や唯美主義との関係性から、専ら画題や色彩表現が注目され、身体表
されることなく、人々は様々な芸術を享受していた。このような社会
現の考察はあまり重視されていない。しかし、多様な美術様式をとり
背景を持つ「芸術に関心を寄せた教養あるヴィクトリア朝の人々」へ
入れたワッツの作品には、身体表現を重視する新古典主義的性質も見
自身の作品を遺贈するという目的のため、ヴィクトリア朝の様相を反
ることができ、そこには評価すべき特質が表れている。
映するように、ワッツの作品には多様な美術様式がとり入れられてい
本論文は、ワッツが多様な様式を画中にとり入れていることを証明
ると推察される。
し、特に画中の身体表現にみられるワッツの作品の特質を明らかにし
た上で、ヴィクトリア朝の画家としてのワッツの位置づけについて再
考察することを目的とする。
1.先行研究の検討
近年の研究では、ワッツは当時から《愛と死》
(1885-87 年)な
3.様式の試行錯誤
まず、ワッツが画中にとり入れた要素として、古代ギリシア・ロー
マの芸術が挙げられる。ヴィクトリア朝は、古代ギリシア・ローマの
芸術への関心が顕著に表れた時代であった。特に、19 世紀初頭にイ
ギリスにエルギン・マーブルスが持ち込まれると、古代ギリシア彫刻
に注目が集まり、さらに 19 世紀中葉には古代ギリシア・ローマの遺
の画家に影響を与えていたことが明らかにされている。また、古代ギ
跡の発掘事業が最盛期を迎えた。このような関心事を反映するよう
リシア彫刻やヴェネツィア派の色彩表現などを模範としていた唯美主
に、ワッツはエルギン・マーブルスの素描を重ね、19 世紀中葉には
義運動が活発になる頃、ワッツも古代ギリシア彫刻とヴェネツィア派
古代遺跡の発掘調査にも立ち合い、これらの経験からワッツの作品に
の色彩を学び、画中にとり入れようと試みていた。
は古代ギリシア彫刻を霊感源とする表現が隨所で見られる。
しかしワッツ作品には、象徴主義や唯美主義以外にも、当時のヴィ
さらに、ワッツは唯美主義以外にも、同時代の国内外の画壇に目を
クトリア朝の画壇で注目されていた美術様式が同じ画面の中で様々に
向け、その様式を研究していたことが作品から判断できる。イギリス
試されていると判断できる。この特徴は決して見落としてはならな
のラファエル前派や、アングルなど同時代のフランス画壇に見られる
い。何故ならば、当時注目されていた多様な美術様式を画中にとり入
様式が画中で実験的にとり入れられている。
れるという特徴は、ワッツ自身の芸術に対する考えを踏まえても、重
このようにワッツは、「芸術に関心を寄せた教養あるヴィクトリア
要な特質であると考えられるためである。
朝の人々」が享受した国内外の様々な芸術の要素を画中にとり入れる
ことで、ワッツが抱く理想的な芸術作品を完成させていたと考えられ
132
卒業研究・作品
る。つまり、ワッツの作品の特質は、これまでの研究のように象徴主
質や感情などを伝える役割を担っていると推測できる。
義や唯美主義といった美術動向の中でのみ評価する必要はないわけで
さらに、画中の人物の手と手を重ねるという所作には繊細な量感表
ある。
現が完成されおり、ここから鑑賞者は人物同士の関係性や心情を読み
そこで、多様な美術様式がとり入れられたワッツの作品の特質に
解ける。伝統的な大陸の美術様式の中でも、手が接触するポーズは人
ついて、イギリスの新古典主義的性質としての身体表現に着目する。
物の関係性などを表すことが指摘されている。背景や装飾物を最小限
ワッツは理想的な人体表現の完成のため、様々な構図の素描を重ねた
まで省いているワッツの作品の中でも、手と手の交わりは人物の関係
身体表現を心掛けていた。このような洗練された身体表現は、ワッツ
性や心情などを示す重要な役割を担っている。
の作品において重要な特質の一つであると考えられる。
4.身体表現にみるワッツの特質と新古典主義
例えば《愛と生命》
(1882-93 年)は、画中のやせ細った女性を生
命、羽を背に抱えた者を愛のアレゴリーとし、愛が生命の手を引き断
崖を登る姿から、愛が生命を支え、より高尚なものへ引き上げるとい
う思想を表した寓意画である。生命は不安と安
の色が混ざったまな
古典彫刻に学び、背景を極力省き、身体そのものの表現に重きを置
ざしで愛を見つめ、愛も生命に顔を向けて、優しく微笑みかけている。
く新古典主義的様式は、ワッツの生涯の作品の中で見ることが出来
しかしながら、愛と生命の性質や関係性などは、顔の表情だけでは
る。さらに、新古典主義的要素とワッツの身体表現を結びつけること
なく、手の表現からも十分に読み解くことが出来ると考える。生命の
が出来るならば、ワッツの作品における素描の重要性も認められるだ
細くか弱い印象を与える指先は、心身共に弱っている姿を鑑賞者に想
ろう。新古典主義では、色彩よりも素描が重視され、理性的な形態把
像させ、一方で、愛の太く大きな手からはその力強さや包容力の大き
握が必要とされていた。ワッツも同様に素描を重視し、1 つの絵画作
さを伝えている。また、重ねられた手の所作について、恐る恐る愛の
品を制作する上で、様々な構図の人体素描を何枚も重ねていたことが
手に添えた生命の手の表現からは生命の不安な心情が伺え、さらに、
明らかになっている。
強引ではなく優しく生命の手を包み込む愛の手の表現には、生命が愛
また、ワッツが残した多くの素描から、ワッツは理想的な身体表現
の支えを必要とするまで待つ愛の寛大な姿勢が表れていると考えられ
の完成のために体のあらゆる部位に細心の注意を払っていたと判断で
る。
きる。実際に、老若男女の顔から手足の指先までのあらゆるポーズの
このように、手と手が触れ合うといった単純な手の所作にも、絶妙
石膏や素描が、現在もワッツ・ギャラリーで保管されている。ここで、
な量感表現が完成されている。以上のことから、「芸術に関心を寄せ
身体の部位の中でも特に注目したいのは、画中人物の手である。何故
た教養あるヴィクトリア朝の人々」に向けたワッツの作品の特質とし
ならば、ワッツの作品の中で、特に手の部分には素描を重ねた堅固な
て、指先まで細心の注意を払った丁寧な身体表現に着目することが可
量感表現が達成されていると理解できるためである。
能なのである。
5.手の表現
まとめ
大陸の伝統的な美術様式では、手のポーズや量感表現から画中の人
ワッツは当時のヴィクトリア朝の人々が関心を寄せていたあらゆ
物の心情や関係性を鑑賞者に読み解かせていたとされている。前述し
る美的要素を画中に実験的にとり入れていると判断できる。さらに、
たように、ワッツの身体表現に新古典主義的性質が認められるなら
ワッツの作品は象徴主義や唯美主義だけではなく、新古典主義的性質
ば、画中の手の表現が持つ意義を無視することは出来ないだろう。さ
も持ち合わせており、ことに画中の身体表現には評価すべきワッツの
らにワッツは、手首から指先にかけての部分で多様なポーズをとった
特質が表れている。特に手の表現にワッツの技巧が顕著に表れてお
彫塑や素描を数多く残していることからも、ワッツが手の表現に細心
り、古典的な量感表現が達成されている。
の注意を払っていたことが伺える。さらに、完成された絵画作品から
以上で述べたように、多種多様な様式をとり入れたワッツの作品
も、画中の手の表現の重要性を明らかにすることが可能となる。
は、「芸術に関心を寄せた教養あるヴィクトリア朝の人々」が求めた
ワッツの作品の中には、人物の身体や顔の表情を自然物や構図に
芸術の理想が反映されていると判断できる。つまり、当時のヴィクト
よってあえて隠すような表現が随所で見られる。これとは対照的に、
リア朝の流行に敏感に反応し、それらの要素を画中に調和させたワッ
画中の手ははっきりと描かれる傾向にある。隠した部分では鑑賞者の
ツは、まさにヴィクトリア朝の芸術に対する理想を体現した画家とし
想像力を刺激し、一方で、はっきりと描かれた手は、画中の人物の性
て位置づけられるのである。
133
卒業研究・作品
枕草子の「あを」
The image of “Ao” by Sei Syonagon
長沼 ふみ
Naganuma Fumi
文化マネジメントコース
はじめに
場合では、松葉や柳の芽、青麦などと共に使われており、植物の緑を
指していることが考えられる。
『枕草子』(以下、枕草子とする)と色彩についての研究は数多い。
次に「青色」を挙げる。この時代の「青色」と「青」は色相が大き
しかし、先行研究では、ひとつひとつの色相の具体的な指摘はなく、
く異なっている。「青色」は黄檗と紫根をかけあわせてできる色相を
全体的な、文学と色彩の関係についての一般論を述べているものが多
指し、別名「山鳩色」、「麴塵」、「青白橡」とも言われる。別名からも
い。本論では、特に多くの問題を含む色名である「あを」に注目し、
分かるように、コウジカビのような色相だと言われている。この色は、
より細かくみていきたい。
染色技術の難しさから天皇以外の禁色であったが、六位蔵人だけが着
古代日本では、「あを」は色相があるという広域の色を指す意味で
用を許されていたという。
使われていた。古代と現代では異なった意味であるが、平安時代に生
枕草子でもその多くが六位蔵人の服色として登場する。そして、そ
きた清少納言はどのように感じていたのだろうか。また、枕草子と色
の表現からは下臈の蔵人達や清少納言自身からも「青色」に対する憧
彩を関連づけた研究が多くされているが、清少納言の色彩に対する感
れの強さを感じる。また「青色」と天皇のイメージは強く結びついて
覚は評価されるべきものだろうか。この二点を「あを」の表現を通し
おり、「青色」という言葉だけでも素晴らしいと感じていたと言える。
て本論で明らかにしていくこととする。
また、他の「青」が入っている色名のほとんどは、服の色として使
われている。そして染料や色名から、植物に似せた色、また今の緑系
枕草子の「青(あを)」は何色だったか
統の色相を指すと考えられる。
「青(あを)」は、自然の草木や空間、紙の色、服飾、調度品などを
清少納言は「青(あを)」をどのような意味でとらえていたのだろ
表す際に使われており、色彩表現対象となる範囲が他の「青」がつく
うか。枕草子の中で「あを」と読む言葉は、数えたところ 53 例ある。
色名より広い。だが、ひとつひとつを見ていくと、草がいきいきと生
この中で、色の表現として使われていないものは、「襖」という衣服
えている状況や、若く新しい植物を使った人工物を形容する時に使っ
の種類を指す言葉の 3 例のみであり、それ以外は何らかの色相や色に
ていることがほとんどであることがわかる。ここから清少納言がとら
関する表現として用いられている。
「青(あを)」がつく色彩表現には、
えていた「青(あを)」は、草と強く結びつき、多くが今の緑系統の
「青(あを)」、
「青色」、
「青鈍」、
「青裾濃」、
「青朽葉」、
「青摺」、
「青葉」、
色相を指していることが言えるだろう。
「青ざし」、
「白馬」、がある。
「青ざし」とは青麦をついた菓子のことで、
「白馬」とは年中行事に「白馬の節会(あをむまのせちえ)」という宮
「あを」が現在の青になるまでのどの位置にあるのか
廷の儀式があり、このことを指す。その他は、色名や服色名である。
先行研究には、安谷ふじゑ氏の「枕の草子に見える服飾上の青と赤
枕草子の「青(あを)」は、色彩表現の対象が広範囲ではあるが、素
とについて」がある。氏の研究は、その時代の全体的な色相を述べ、
材や語源をたどっていけば植物という使い方になってきていると言え
枕草子での使用例を並べるにとどまっている。「青」に関しては、『古
る。古代日本の「あを」は、現在の黄や緑から紫、白や黒の色相、表現
事記』や『延喜式』からの色相の記述が多い。枕草子というよりも、
対象もカワセミや服飾など様々なものを指していた。これに対して、
古代や平安時代の大きな範囲での記述であり、あまり清少納言がとら
枕草子の色相は限定されてきており、定まってきている。
「青(あを)」
えた「青」には触れられていない。そこで、ここからは、清少納言が
は植物との結びつきが強くなっており、それにともない色相は広がり
「青(あを)」をどのようにとらえていたのか、服飾以外の言葉も含め、
を見せず、ひとつのものに集まってきているということである。
探っていきたい。
また、色名としてひとつの単語になっているものは、まだ古代の「色
まず、
「青(あを)」をみていこう。ここには「青し」や「あをみたり」
相」という意味が残っているのではないかと考える。
「青朽葉」と「青
なども含めるが、先ほど挙げた 9 つの言葉の内、使用例が最も多く、
色」において言え、緑系統の色だとは感じにくい。色を表す数値で見
色彩表現の対象物も広範囲である。そして、そのほとんどが植物と関
ても言えるが、緑より黄に近い値を示している。植物の新しさという
係のある使用になっている。24 箇所中、4 箇所以外はすべて、今の
緑系統と判断できる書き方である。
意味の他に、青という色相を強調するためでなく、古代と同じように
「くろ」でも「あか」でもない「色相」という意味で使っていたので
例えば、
「青き薄様」や「あをき紙」と使われている。これらは、
はないだろうか。
手紙や菓子の敷き紙として使われ、手紙では文付枝の植物、懐紙では
中国的である「若い」、「新しい」といった意味で使われる「青」も
菓子の色にあわせて色が選ばれている。「青(あを)」が使われている
多い。今でも使う青葉をはじめ、色名ではなく直接植物を指していう
122
卒業研究・作品
際は、より若さの意味の比重が大きいと感じる。これは、日本の風土
しかし、それはあくまで規定の使い方である。良しとしている色を
が四季ごとに多様な植物を育てられるものであることも理由の一つで
列挙している章段もあるが、それは色自体への評価ではない。文字に
あろう。様々に変わっていく自然へのあこがれを強く持っていたこと
し、文章にする力、貴族としての色彩の知識を豊富に持っていること
が言葉の広まりにつながったのではないだろうか。
が清少納言の能力と考える。彼女の能力は、宮廷人として優れたもの
枕草子全体では、やまとことばの意味も中国的意味も両方残ってい
であり、また宮廷人だからこそのものと言えるのではないだろうか。
ると言える。また、「青色」に対する強い憧れの感覚は独特であり、
色彩に敏感であることが宮廷人としてのしきたりとされ、重色目
平安時代ならではの意味もできてきていると言えよう。
で、季節や年齢、行事ごとに、○○にはこの色と決まっていた平安時
代では、色彩感覚の善し悪しは分からないのではないだろうか。清少
清少納言の力 先行研究の検証
納言は、この時代の貴族たちが当たり前としていた色彩感覚を身につ
けていた一人である。その意味からするならば、感覚を言葉にするこ
枕草子では色彩語が多用されている。そのことによって、彼女の色
とができたということが、清少納言が最も評価されるべき点であると
彩に対する感覚は評価されているが、実際のところはどうだったのだ
考える。
ろうか。ただ単に、色彩語を多く文中に使っているだけではないだろ
うか。
おわりに
まず、いくつかの先行研究から清少納言と色彩語についてみていき
たい。伊原昭氏と田畑千恵子氏の研究によるならば、清少納言の感覚
第一の疑問点であるが、今までみてきたように、清少納言が感じて
は当時の一般人と同じようなものであったことや、「青色」は色相で
いた「あを」は、植物との関連が強く、緑系統に定まってきていると
良い色としているのではなく、天皇の拝領品であるから良しとしてい
言えよう。また、彼女の身近にありふれていた色相であった。「あを」
ることが述べられている。また「あを」は、同じく最も古い色彩名と
が指す範囲は、古代にも現代にも共通する部分がそれぞれあるもの
されている「あか」、「くろ」、「しろ」に比べ、清少納言にとって日常
の、平安時代の貴族ならではの「青(あを)」がみられる。
的で親しみを感じていた色であることが理解される。
そして、続く第二の疑問点については、即物的で瞬間をきりとる書
枕草子の「あを」は、色相以外の何か別の要素の価値で取り上げら
き方をする枕草子では、色の表現が多くなり色彩語が注目されるが、
れていた。六位蔵人の「青色」や、五月の祭りで使われる菖蒲の「青」
色そのものをしっかり見つめていたとは言い切れない。清少納言は、
をはじめ、何かの要素を「青(あを)」が引き立たせていると感じる。
色彩に対して鋭い感覚の持ち主というよりも、宮廷人としての知識を
清少納言は、他の「あか」、「くろ」、「しろ」より、「あを」の色相自
最大限に生かしたうえで、感じたことを文章にする力があった人物と
体に興味を示していなかった。色相を主役として評価することは少な
いうことが言えるのである。
かったと言えるだろう。
清少納言の力
平安時代の貴族たちは、細かい所で色彩に気を配っていた。色彩に
敏感になっていたのは清少納言だけではない。教養として身に付けな
ければならなかったものである。よって、このように服や紙の色を気
にかけているのは、色彩感覚の善し悪しでなく、当時の宮廷人たちは
皆意識していたことと言える。
それでも、色彩と枕草子が関連づけられることが多いのはどうして
だろうか。みずからも、ものの色の組み合わせを考えているのももち
ろんのこと、さらに、他の宮廷人たちがそれぞれ気をつかって、服や
薄様の色を考えて組み合わせているのを、清少納言は気付き、文章に
している。それだけ、宮廷人としての知識が豊富であったことが言え
るであろう。
[主要参考文献]
○吉岡幸雄『日本の色辞典』紫紅社 2006 年 11 月 10 日
○前田雨城『色 染と色彩』財団法人法政大学出版局 1980 年 7 月 10 日
○ 清少納言 (解説)渡辺実『枕草子 新日本古典文学大系 25』岩波書店
1991 年 1 月 18 日
○伊原昭「色彩における寒暖の感情―枕草子を主として―」
『和洋國文研究 8
号』和洋女子大学 1972 年 3 月 pp26-35
○ 田畑千恵子「枕草子における『昔』
『今』の意識―六位蔵人と『青色』を
めぐって―」『国文学研究 75』早稲田大学国文学会 1981 年 10 月 pp41-49
○ 安谷ふじゑ「枕の草子に見える服飾上の青と赤とについて」
『神戸山手女
子短期大学紀要 2』神戸山手女子短期大学 1957 年 pp77-95
123
卒業研究・作品
松尾大社女神像の美術史的意義
- 造形表現の変遷とその背景について -
The statue of female deity at the Matsunoo Taisha shrine
-a study of the representation in the history of art松本 郁
Matsumoto Fumi
文化マネジメントコース
はじめに
過度の認識が、これまで神像の造形表現を個々に検証することを妨げ
てきたのではないだろうか。彫刻としても、仏像の一分野としての認
古来、日本の神々は姿形を持たず、人々は生活の中で猛威を振るう
識が根強く、神像彫刻として詳細に分析されてきていないように思わ
様々な自然現象を強力な力として捉えていた。これがすなわち、古代
れる。本論文では、神像が発生した頃の制作として現存する代表例で
における神であった。神は目に見えない存在であり、それゆえに日本
ある、京都松尾大社の女神像(写真1)を取り上げ、その造形表現の
では、偶像崇拝は発展してこなかった。しかし六世紀、仏教が日本に
変遷とその背景を考察していくことを目的としている。
公伝したことで状況は大きく変化した。特に八世紀頃を境として、神
仏が互いに接近するようになるのである。このいわゆる神仏習合のひ
第一章 松尾大社女神像に関する先行研究
とつの動向として、神像が成立するようになったと考えられる。
そして神像はその成立期において、神社本殿ではなく境内に併設さ
本章では、本論文の主題である松尾大社女神像に関する先行研究を
れている神宮寺に安置されていたと考えられる。その神像に関する現
再検討し、以下論文で考察すべき点を明らかにした。
存する最古の記述とされているのが『多度神宮寺伽藍縁起并資財帳』
松尾大社は山背国葛野(かどの)郡、現在の京都市西部の嵐山のふ
である。これによると、多度神宮寺は、天平宝字年中に満願禅師が多
もと近くにある。現在、松尾大社の祭神は、大山咋神(おおやまくい
度神のために小堂を造営したのが始まりである。そして資財部に記載
のかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)であるとされてい
されている「金泥弥勒像」が縁起部にある「神御像」であるという。
る。松尾大社には男神像二体、女神像一体の計三体の神像が伝えられ
縁起には、この「神御像」は小堂とともに造営されたとあるので、こ
ており、本論文では、松尾大社の祭神は男神像のうちの老年相像が大
れが小堂における本尊であるとすると、仏像の姿であるものの、神を
山咋神、女神像が市杵島姫命という先行研究の見解に従った。
神として造像し奉祀したことを事実として確認できるのである。
松尾大社三神像の制作年代については、本像に関する記述が見られ
しかしながら、神像が仏像から派生したという事実、それに対する
る平安時代後期の貴族の日記の記述に従って、智証大師の手による造
立であると考えられている。智証大師とは、天台宗を開いた最澄の弟
子円珍のことである。この円珍と松尾大社との関わりは考慮すべきで
あるが、神像の造立との関係は明らかではない。そこで、本論文では
二体の男神像が笏(現在は欠失)を持つことに注目した。紺野敏文氏
は、嘉祥二年(849)、松尾大社の禰宜と祝に把笏が勅許されたこと
から、制作年代として、これを契機に松尾大社の三神像が制作された
可能性を指摘した。また松尾大社は、秦氏の政治的貢献などにより、
次第に社の格を上げていき、貞観元年(859)には正一位を叙位さ
れているので、この社格の上昇に伴う事業の一環として神像が制作さ
れたと解釈した。したがって本論文では、松尾大社三神像の制作年代
は、嘉祥二年を上限とし貞観元年を下限として、九世紀半ば頃(850
~ 860 年代)であるとした。
祭神および制作年代に関しては先行研究の見解に従ったものの、そ
の作風については、各研究で解釈に幅が見られた。これは、先行研究
ではいずれも造形表現の細部に至るまでの分析が不十分であるためで
あると考えた。そこで、本論文では松尾大社像の造形表現について詳
細に考察していくこととした。
第二章 松尾大社女神像の造形的特質
本章では、松尾大社女神像を詳細に分析しその造形的特質を検討し
写真1.松尾大社女神像 『松尾大社の神影』
(松尾大社 2011 年)p18
124
た。ここでは、松尾大社の二体の男神像も比較対象として詳細に分析
卒業研究・作品
を試み、松尾大社三神像全体に特徴的な造形表現を明らかにし、その
この時代、日本には様々な美術様式が集まっていた。さらに、延暦年
特質を他の神像と比較した。
中には造東大寺司や造法華寺司などの官立の造仏所が解体するなど、
松尾大社の二体の男神像を比較すると、老年相像では面部に刻まれ
造仏の担い手に大きな変化が訪れていた。この担い手の変化は「個人」
たしわや細身の体躯などが特徴的であり、これは壮年相像のはつらつ
作家の出現を促し、また「個人」による造像には個人の技術や人間性、
と張った頬や充実感あふれる体躯とは異なる。各像には、年齢に特徴
知性が反映されやすく、様々な解釈による多種多様な造形表現が生ま
とされる表現を示していることが判明した。また、女神像には、豊か
れることになったのである。これら様々な要因が重なり、貞観彫刻期
な髪やふくよかな肉取りによる頬の表現など、女性性を顕著に示す造
は複雑な流れを作り出し、その結果非常に個性的な造形表現が出現す
形表現が見られた。このことから、松尾大社三神像の造形的特質とは、
ることとなった。
人体に則した身体的特徴を神像にあらわすことであると結論した。
この貞観彫刻期に制作された仏像の中にも、女性性や人間的表現が
続いて、この松尾大社像の造形的特質を東寺八幡三神像、薬師寺八
看取されるものが多々ある。しかし、そこに表現される女性性は一様
幡三神像、熊野速玉大社三神像と比較した。東寺像では三体を互いに
ではなく、ここにも多種多様な造形表現がうかがわれた。このことか
比べると、それぞれに年齢的な差や性別による違いが見られず、松尾
ら、松尾大社女神像の造形表現もまた、貞観彫刻期という時代である
大社像のような人間の身体的特徴を表現しているとは言い難い。ま
からこそ出現し得た特質なのではないかと解釈した。すなわち、個性
た、松尾大社像に次ぐ制作の薬師寺像や熊野速玉大社像は、各像の表
表現のひしめき合う中にあって、神像彫刻に個性を追求しようとした
現に全体的な統一が見られ、面部や女神像の髪形などに手慣れた造形
時、松尾大社女神像のような造形表現が現れたのではないだろうか。
とともに簡略化・単純化が見られたことから、神像としての形式を整
え、造形的にも成熟期へと展開していった段階であると解釈した。こ
おわりに
こにおいて、松尾大社三神像は、神像に特徴的な造形表現を明確にし
始めた段階であると考えられる。
以上、本論文では松尾大社の女神像について、その造形表現を主眼
女神像のみの変遷を追っていくと、松尾大社女神像では細部に至る
に置いて変遷とその背景を考察してきた。
までの丁寧な表現が見られたのに対し、薬師寺像や熊野速玉大社像で
これまで彫刻としては、仏像の一分野としての認識が根強かった神
は、松尾大社像に見られた部分の造形表現が省略されているところが
像であるが、松尾大社女神像の造形表現の特質は仏像にはない神像独
随所にあった。しかし、東寺像では松尾大社像のような明確な性別表
自の表現であった。これらは、神像としての造形表現が出現したこと
現が見られなかった。このことは、神像がその成立最初期に仏像に倣
を示すものである。
わざるを得なかったことを示唆している。
そして、松尾大社女神像には人間の身体的特徴に則した造形表現が
なされ、またそれを神像彫刻の表現として初めてあらわしたことが、
第三章 松尾大社女神像の美術史的意義
美術史上における意義であると考えられる。
本章では、松尾大社像の造形表現についての先行研究を検証しつ
つ、松尾大社女神像の造形表現の意義を貞観彫刻期に範囲を広げて考
察した。
まず、岡直己氏と岩佐光晴氏の見解を再検討した。岡氏はその衣文
表現から天台系造像であると分類し、岩佐氏は円珍による造立である
ことから天台宗を背景とした造像であると解した。しかし、これらの
見解では、松尾大社像に見られた人体に則した造形表現がなぜ現れる
ようになったのか、その造像の本質的な理由を明らかに出来ないと考
えた。
平安時代前期に当てはまる九世紀は、いわゆる貞観美術期として美
術史上位置付けられている。大陸から移入してきた中唐以降の美術様
式や密教の美術様式、そして前代の天平時代からの技法やそれに伴う
様式を受け継ぐもの、新しい解釈のもとに生まれた私的な造像など、
[主要参考文献]
○近藤喜博「日本の神―その発生を中心として―」
(
『古美術』3 1963 年 10
月)
○ 田中惠「八世紀の神宮寺と仏像について」
(『岩手大学教育学部研究年報』
42(2)
1983 年2月)
○ 伊東史朗「神の出現、神像の成り立ち」
『松尾大社の神影』
(松尾大社 2011 年)
○岡直己「松尾神社の神像」
『神像彫刻の研究』(角川書店 1966 年)
○紺野敏文「平安彫刻の成立(9)
」(
『仏教芸術』221 1995 年 7 月)
○片岡直樹「八幡神像」
(大橋一章、松原智美
編著『薬師寺 千三百年の精
華―美術史研究のあゆみ―』所収 里文出版 2000 年)
○岩佐光晴「神仏習合と一木彫」
(『日本の美術』457 至文堂 2004 年6月)
○ 倉田文作「貞観彫刻」
『原色日本の美術 第五巻 密教寺院と貞観彫刻』
(小学館 1997 年)
○久野健「貞観木彫の誕生」
(『國華』824 1960 年 11 月)
125
卒業研究・作品
日本におけるコンクリート・ポエトリー
の動向と特徴
The Concrete Poetry Movement and its Feature in Japan
寺田 彩花
Terada Saika
文化マネジメントコース
はじめに
音詩」というようにわけて掲載し、「象形詩」はことば(おもに漢字)
の分解、配置において紙面(ページ)を構成しているものなのである。
コンクリート・ポエトリーという言葉は、一般には耳慣れない言葉
かもしれない。日本では、具体詩、視覚詩など、詩の表現の変化に合
タイポグラフィとの比較
わせて様々な呼称を持っている。視覚性を重要な要素とするコンク
リート・ポエトリーは 1950 ~ 70 年代において活発な活動が見られ
タイポグラフィとコンクリート・ポエトリーはしばしば、一見どち
るのだが、現在は目立つ活動は認められない。それは、コンクリート・
らともつかない作品が多いのだが、ここでは、その共通性と違いにつ
ポエトリーがコンクリート・ポエトリーとして完成しきってしまって
いて検証した。
いたからではないだろうかと考える。
コンクリート・ポエトリーには活字で表現されたものと手書きのも
コンクリート・ポエトリーは他の芸術との境界について、常に問題
のとがある。活字を使用している作品のほとんどは明朝体である。明
視されてきた。しかし、タイポグラフィとの境界に関してはあまり述
朝体は日本の活字が始まってから現在まで、可読性の良さ、時代に左
べられていない。タイポグラフィとコンクリート・ポエトリーは表面
右されないという点で読み物に多く使用されてきた、基本的な書体で
上ではきわめて、視覚的に似通った性格のものであるが、両者の違い
ある。この基本的な書体を使用することによって、ことばの物質的な
はどこに存在するのであろうか。
かたちを出来るだけ普遍的にし、ことばに対する第一印象をつけず、
さらには、日本の伝統的芸術である書との比較についても、まった
ことばを概念的に物質化するということがより感じ取りやすくしてい
く触れられていない。
たのではないかと考える。
そこで本論では、タイポグラフィや書との共通点と相違点を検討す
タイポグラフィとコンクリート・ポエトリーの共通点は、ことばを
ることで、コンクリート・ポエトリーとは何であるのかについて論じ
視覚的に強化し、出来るだけ短時間で理解されることを目標にしてい
ることとする。
ることに他ならない。これは、ことばの意味を目に見えるかたちにし
て表現をしているということである。この場合の「意味」は、タイポ
コンクリート・ポエトリーの歴史
グラフィの場合、伝えたいことであり、多くが共通認識のもとで成り
立つ。コンクリート・ポエトリーの場合は、伝えたいことであると同
コンクリート・ポエトリーは、日本では具体詩や視覚詩とも呼ばれ
時に作者の思考や発見をあらわしている。これは必ずしも共通認識を
ている。
必要としていないが、出来るだけ理由がわかりやすい表現(配置など)
これは、従来の行分けの詩の体裁をとらずに、視覚的に強化した詩
をしたほうが、鑑賞者がイメージを重ね合わせやすく、支持を得やす
のジャンルのひとつである。1955 年、スイスの詩人オイゲン・ゴム
いものとなる。
リンガーとブラジルの詩人グループ「ノイガンドレス」がマックス・
また、相違点としては、タイポグラフィは見る人に「伝えなければ
ベンゼの具体芸術(コンクレーテクンスト)の考えを応用し「コンク
ならない」が、コンクリート・ポエトリーは見る人に「必ずしも伝わ
リート・ポエトリー」と呼んだことが始まりであり、世界的にコンク
らなくてもよい」という点が指摘できる。
リート・ポエトリー運動が始まった。作品としての始まりは詩人ステ
タイポグラフィがデザインの範疇である所以は、それがあくまでも
ファン・マラルメの《骰子一擲》(1897 年)とされ、空間的な文字
ツールに過ぎないということである。タイポグラフィは、全体の構成
やことばの配置は、未来派の詩人やダダのコラージュにもみられる。
が自由であっても、内容は伝えなければいけないものである。それに
一方、日本のコンクリート・ポエトリーの始まりは北園克衛の《単
比べてコンクリート・ポエトリーは目に見えているものが伝わらなく
調な空間》(1958 年)とされている。しかし、北園はその後、写真
てもいい。伝えなければいけないということは、意味がわかるもので
を使用することで、詩の新しい可能性を示したが、コンクリート・ポ
ある必要がある。しかし、必ずしも伝わらなくてもよいということは、
エトリー運動に積極的に関わることはなかった。
意味が完全に理解されなくてもいいということだ。コンクリート・ポ
実質的に日本のコンクリート・ポエトリー運動を牽引したのは、仙
エトリーの求めている視覚的な理解は、作者の緻密な計算の上で成り
台出身の新国誠一である。驚くべきことに、新国は海外のコンクリー
立ち、タイポグラフィの要素を十分に持ち合わせていながらも、意味
ト・ポエトリー運動を知っていたわけではないのにもかかわらず、ほ
上でのあいまいな部分が、作品をわかりにくくさせていると考えられ
ぼ同時期に、ゴムリンガーらの運動と似たことを日本で行っていたの
るのである。
である。1963 年の詩集『0音』では視る詩を「象形詩」、聴く詩を「象
126
卒業研究・作品
書との比較
は時間的、空間的な芸術とされている。それは、紙面で解決するもの
ではなく、物理的な肉体性を持ったものであるということだ。書を通
コンクリート・ポエトリーと書は、表現の手法は異なるにしろ、目
して作者の心情を読み取る。読み取るとまでいかないとしても、感じ
に見えるかたちとなってわたしたちの前にあらわれるまでの、作者が
るはずである。コンクリート・ポエトリーと書とを分け隔てているの
ことばに対峙するさまは似ているのではないかとも考えられる。書は
は、その部分にあると考えられるのである。
ことばを持って存在し、ことばのイメージや思いを時間的経過と空間
同時期に起こった前衛への動きがあるにも関わらず、書とコンク
的経過の結果としてあらわれる筆跡に託している。ことばの意味を深
リート・ポエトリーの直接的な関わりはなかった。しかし、紙に文字
く考え、ことばの居所がいいように筆を動かす。そのためには精神の
を「並べる」コンクリート・ポエトリーの作者たちは、詩を書くとい
集中も必要であり、己とことばとの対話をしながら、最後の一筆まで
うよりは、むしろ書の性格をイメージすることも少なくはなかったの
気が抜けない。ことばへの真摯な態度なしにはいい書が書けない。
ではないだろうか。
コンクリート・ポエトリーも、ことばとの対話を通した自己との対
話を行いながら、文字の配置を探っていくのではないだろうか。文字
結論
が生き、なおかつ新鮮な驚きを示すような配置、変形を試行錯誤して
いると思われる。ことばのもつ可能性を信じ、その可能性を十分にく
コンクリート・ポエトリーはタイポグラフィのように、内容を伝え
みあげてあげることが、コンクリート・ポエトリーの示したものであ
るものであるが、その内容の伝わり方、意味の受け取り方が、タイポ
ると考える。
グラフィよりも自由である。コンクリート・ポエトリーは作者の感情
コンクリート・ポエトリーには、色彩がある作品はほとんどないの
を表わさない。思考を、目に見えることばというかたちを使って、実
である。だれも白黒でなければいけないなどといった定めは設けてい
験的につくられている。それは、作者の感情が込められる書とも異な
ないが、多くの作品は文字が黒、紙が白である。新国の晩年の作品は、
る点である。
色が付いているものも作られているが、やはり、白黒であるほうが、
また、書との大きな違いとして、書かれた順に沿って感じる時間と
ことばに対するイメージが限定されないため、ことばがより自由に動
いうものが、コンクリート・ポエトリーには見当たらないのである。
いているように感じる。
同じように黒と白の画面構成であるが、コンクリート・ポエトリーは
コンクリート・ポエトリーは、さまざまな書のジャンルの中でも、
より「面性」が強く、書は「線性」が意識される。
文章ではなく文字で紙面を構成している少文字数の書と一番近い性格
コンクリート・ポエトリーはことばをことばとして扱いながらも、
を有していると考えられる。それは、ことばが少ないほうがよりこと
伝えたいことが伝わらなければいけないという決まりを持たない。こ
ばに対しての抽象度が高まり、表現の幅が広がるからだ。たとえば、
とばの非日常的配置によって、ことばとの対峙のしかたをわれわれに
「心」ということばがある。「あたたかい心」なのか「冷たい心」なの
問いかけているものであると考える。
か、心にも多くのバリエーションがあるが、「心」に修飾語を付けな
いことにより、その修飾語の部分のバリエーションを、空間構成や墨
の濃さ、線の揺らぎなど、書表現によってあらわすのである。書家が
どんな状態、感情を持ち合わせていても、少文字数のことばは、それ
らを受け入れてくれるかのように様々な表情をみせる。
目に見えるかたちとなって残っているものに関しては、ことばを
使っているという点で同じ部分があるコンクリート・ポエトリーと書
であるが、根本的に違う部分がある。それは、時間をたどれるかどう
かである。書は筆跡が残り、どう筆を動かしたのかを追うことが出来
[主要参考文献]
る。パッと見のイメージから入ったとしても、おそらく視線は筆順を
○国立国際美術館編集『新国誠一 works
追って動かしているだろう。それに対し、コンクリート・ポエトリー
○『現代詩手帖』思潮社、2000 年4月号
は、筆跡が残らないため、いったん視線が迷子となる。それでも、空
間配置のしかたやことばの密度によって視線は誘導されるが、いった
い作者がどういった手順で文字を配置していったのかは掴めない。書
1952-1977』思潮社、2008 年
○『現代詩手帖』思潮社、2009 年2月号
○松岡正剛・田中一光・浅葉克己監修『日本のタイポグラフィックデザイン
1925-95』株式会社トランスアート、2001 年
○石川九楊『書はどういう芸術か』中央公論社、1994 年
127
卒業研究・作品
ハイレッド・センター史 再考
Reconsideration on the history of the Hi-Red Center
長尾 萌佳
Nagao Haruka
文化マネジメントコース
はじめに
この名称は、その後の彼らの活動にとって重要な意味をもち、独特な
集団の在り方を生み出していく。そのため、「ハイレッド・センター」
ハイレッド・センター(以下 HRC)は、日本の 1960 年代の美術動
というグループ名が誕生した時点を彼らの活動の始点とみなし、それ
向を代表する前衛美術家集団として知られている。その活動について、
以前は前史として区別して捉えるべきなのである。
例えば『日本近現代美術辞典』では、
「1963 年高松次郎、赤瀬川原平、
また、活動の終わりについてもやはり、諸説あるが、
《首都圏清掃
中西夏之により結成された前衛芸術グループ。新宿・第一画廊での『第
整理促進運動》以降 HRC の名を冠して行われた活動はない。これは
五次ミキサー計画』の際、それぞれの頭文字を取って命名。活動は前
高松の回顧談や中西の証言からも明らかである。したがって、HRC の
年『山手線事件』の頃より開始。メンバーは活動ごとに変化し、路上・
活動は 1963 年5月の《第五次ミキサー計画》から 1964 年 10 月の
電車の中・ホテルなど日常空間で非日常的行為を行う『イヴェント』
《首都圏清掃整理促進運動》までとするのが正しいと結論づけられる。
を数多く実施した。
」と説明されている。
その一連の活動内容の詳細については、メンバーの一人である赤瀬
2、構成メンバー
川による回顧録『東京ミキサー計画』で語られている。しかし、研究
者による包括的な検証は未だ十分ではなく、活動期間や構成メンバー
HRC は明確な理念のもとに集まった集団というわけではなく、高
についての解釈は研究者によって様々である。
松、赤瀬川、中西の三人が集うことで成立していた「実験の場」とで
そこで、本論では、こうした曖昧さの上に積み重ねられてきた先行
もいうようなものであった。しかし、前衛芸術家たちの新たな本拠地
研究や回顧談、同時代批評を改めて検証することで、誤解や脚色のな
となった内科画廊で、和泉達との交流が深まり、彼も「いつのまにか」
い、より真実に近い HRC の姿を明らかにし、彼らの活動の本質的な
加わった。これ以後は和泉を含めた四人が基本メンバーとなって活動
意義を追及することを目的としている。
を続けるが、和泉は話し合いの場であまり発言することはなかったとい
う。したがって、中心となって活動を進めていたのはやはり初期からの
三人であったと言える。
しかしながら、彼らは周辺の人物の影響を強く受けてきた。その一
人が今泉省彦である。今泉は、自分は HRC の一員でないと明言して
いるが、彼の批評によって、HRC の活動は、単なるオブジェ作品の
展示から脱し、日常への「増殖性」という性質を現実空間の中で実現
するという手法に進展したのである。
また、特に和泉が加わった 1964 年以降 HRC は匿名的なメンバー
が複数いるというイメージを構築していった。実際には三人が中心と
なって活動していたのであるが、この時期は、個人で様々な合同パ
フォーマンスの場に介入していた風倉匠や、「グループ・音楽」の刀
根康尚らとの交流も深まっており、彼らとともに行った活動も認めら
れることは確かである。
ハイレッド・センター略年表
1、活動期間
3、本質的な活動
HRC は正式結成から 1963 年末にかけてグループの在り方や活動
内容という点で変容過程にあった。そこで、これ以降、つまり 1964
HRC というグループ名が誕生したのは、紛れもなく 1963 年5月
年1月に行われた《シェルター計画》から最後の活動である《首都圏
の《第五次ミキサー計画》においてである。しかし、多くの先行研究
清掃整理促進運動》までに実施された活動を検証することで、HRC
ではそれ以前の活動も、HRC の活動の一環として同列に扱っている。
の活動の本質的な意義は何であったかを明らかにした。
それは、HRC というグループは結成以前からの三人の交流の延長線
この期間に行われた活動は《シェルター計画》、《通信衛星は何者に
上にあるからである。しかし、三人の頭文字をとって偶然に生まれた
使われているか!》という「予言イヴェント」、《大パノラマ展》、《ド
128
卒業研究・作品
ロッピング・イヴェント》そして《首都圏清掃整理促進運動》である。
これらに一貫しているのは、架空の企業や公的機関などに擬態し自ら
の正体を曖昧にして活動するという点である。そうすることで日常の
中に紛れ込み、人々の漠然とした常識を裏切り、日常と非日常の境界
を顕わにさせた。そしてまた、個人ではない、集団としての表現活動
の在り方を切り拓いたのである。
60 年代前半は一つの会場で複数の人物による合同パフォーマンス
が盛んに行われ始めていたが、HRC はそこから一歩進み、個人が集
団の中に解消される表現の在り方を実現させたのである。
4、神話化
HRC は正体の曖昧なものとして振舞うことを、表現活動の手法の
一つとしてきたが、それは同時に前衛芸術家グループとしての存在を
ハイレッド・センター《首都圏清掃整理促進運動》銀座・東京 1964 年 10 月 16
日/〈アクション 行為がアートになるとき 1979‐1979〉展日本語版図録、
1999 年、東京都現代美術館)
誇張することともなった。彼らは実際に身体を用いてイヴェントを行
うと同時に HRC という存在そのものを一つの「作品」として構築す
られた名前とでもいうようなものであった。しかし、この名前はやが
ることで、神話的な存在へと仕立て上げていったのである。
て「センター」という曖昧な組織名のような響きを生かし、変幻自在
そして、実質的な活動停止以降はとくに、前衛芸術家グループとし
で匿名的な集団というイメージへと発展していく。
ての存在が、本人たちだけでなく周辺の者たちによって神話的に語ら
この変容には、今泉の批評や和泉の加入など周辺の人物の影響が強
れるようになった。正体を曖昧にして日常の中に芸術と非芸術の境
くみられた。HRC という集団は、その構成員を匿名的にすることに
界を浮かび上がらせようとする HRC の一連の試行は、70 年代初頭に
よって、より曖昧なものと成りえた。彼らは曖昧で匿名的な集団とし
60 年代の美術動向を代表する前衛グループとしてたびたび取り上げ
てのイメージを構築し、それを最大限活用することで日常に介入し、
られる中で、「芸術」として位置づけられたのである。
人々に釈然としない違和感をもたらしたのである。
HRC は 1964 年に行われた《首都圏清掃整理促進運動》をもって
5、結論
活動を停止してしまう。すると今度は、伝説的な前衛芸術家グループ
として語られ始めた。HRC が行ってきた日常と非日常の境界を顕わ
HRC とは紛れもなく高松、赤瀬川、中西の三者の出会いによって
にする試みは、「芸術」として定義され再び制度の中に回収された。
誕生したものである。当時、彼らの周囲には既存の制度への反発と新
そして、それが「芸術」として納得された瞬間に、その効力を失って
たな創造力のエネルギーが渦巻いていた。美術の分野においては、毎
しまう彼らの活動は、二度と立ち現すことのできないものとして、伝
年開かれる無審査自由出品の公募展〈読売アンデパンダン展〉を中心
説的に語り継がれるほかなく、今日、人々の想像力を掻き立てる絶好
舞台に、新しい表現を求め、あらゆるものを芸術として拡張させよう
のフィクションとして語り継がれていると考えられるのである。
という動きがあった。美術だけでなく音楽や演劇の世界においても、
こうした既存の制度を打ち壊し新たな表現を展望する試みが始まって
いた。それらはハプニング、あるいはイヴェントと呼ばれるような表
現として合流しつつあり、また既存の枠の外、日常空間へと拡張しつ
つあった。しかしその一方で、この拡張は、芸術とは何かという問い
をもたらした。
このような状況下で、彼らは芸術とは何かというその本質を顕わに
することが必要であった。HRC はそのための様々な試行の場であっ
た。偶然に生まれた「ハイレッド・センター」という名称は、グルー
プというより、高松、赤瀬川、中西の三人の緩やかな結びつきに与え
[主要参考文献]
○千葉成夫『現代美術逸脱史 1945-1985』
(1986 年、晶文社)
○赤瀬川原平『東京ミキサー計画』
(1994 年、ちくま文庫)
○多木浩二・藤枝晃雄監修『日本近現代美術事典』
(2007 年、東京書籍)
○黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960 年代・日本美術におけるパフォー
マンスの地下水脈』(2010 年、グラムブックス)
○〈アクション 行為がアートになるとき 1979
‐ 1979(Out of Actions Between Performance and the Object 1949-1979)
〉展日本語版図録(1999
年、東京都現代美術館 ※主催:東京都現代美術館、ロサンゼルス現代美
術館)
129
卒業研究・作品
アンビルト・アーキテクチャの魅力
The History and Charm of the Unbuilt Architecture
石川 雅士
Ishikawa Masashi
文化マネジメントコース
はじめに
な特性と反建築的な特性を同時に有していることも多い。
このことは、
建
築史の流れの中で発生した複数の建築様式が、
次第に近代主義建築と反
アンビルト・アーキテクチャと呼ばれる建築群は、建物としての実体
建築にふるいわけられていったのだと考えることができるのではないだ
を持たない構想であり、
ドローイングや模型で表現される。それらは幻
ろうか。
具体的には以下のような流れとなるだろう。
想的なイメージや未来的なテクノロジーが描かれていたり、独特な形態
まず、
近代主義建築に影響を与えた最初のアンビルト・アーキテクチャ
や色彩を持つものが多い。それらの建築案は建造されなかったにも関
は、
18世紀イタリアの考古学者であるジョバンニ・バッティスタ・ピラネー
わらず、
ときには建造された建築以上に注目され、記憶に刻まれ、語り
ジの銅版画であると考えられる。
ピラネージは無数の古代ローマの廃墟
継がれることがある。
の断片をブリコラージュすることで空白を埋め尽くし、
《カンプス・マルテ
また、
アンビルト・アーキテクチャは、建築史上の様々な時期に現れ、そ
の表現も多様である。
このような建築群をアンビルト
(建てられざる)
と
ィス》
という空想の都市図を作った。
この作品が近代主義建築に与えた影響は、
古代ローマやギリシャの建
いう概念で括り、建築の一分野として研究されてきた経緯がある。
築に理想や規範を求める新古典主義的な観点であり、
バロック様式やロ
アンビルトという概念が初めて述べられたのは、20世紀のイギリス
ココ様式などの装飾過多なものとは異なり、建築の原理や本質にこそ普
の建築家であるピーター・クックが当時のイギリスの建設に至らない
遍的な価値があるとする、
合理的、
理性的な考え方である。
建築群の動向をまとめた『アンビルト・イングランド』
という特集に寄稿
一方で、反建築に受け継がれたものは、ブリコラージュの表現手法で
したエッセイにおいてであると考えられ、以後、個々のアンビルト・アー
ある。
ブリコラージュによる建築表現は反建築運動の主要な担い手であ
キテクチャの歴史的意義や作品分析がなされてきた。
り、クックが主導していたアーキグラムという建築グループの作品や、多
しかしながら、
アンビルトの領域に横断する普遍的な魅力、美的性質
くのアンビルト・アーキテクチャに用いられている。
については深い考察がなされていない現状がある。なにゆえ、建物とし
ついで現れたのが、
18世紀、
フランス革命期の幻想建築家たちである。
ての実体を持たない未遂の建築群が我々の興味を引き、
また、それらが
近代主義建築の重要な要素である幾何学的構成の兆候はこの時期から
ひとつの領域として把握されうるのだろうか。
始まったものであり、
背景には新古典主義の合理性があった。
本論の目的は、
アンビルト・アーキテクチャの普遍的な魅力を明らかに
近代主義建築の観点からすれば、
重要なものはエティエンヌ=ルイ・ブ
することである。
レの作品であり、
《ニュートン記念堂》
という建築構想では、
従来のバロッ
ク的要素は完全に排除され、
完全球のような初等幾何学の規則性によっ
アンビルトの歴史
て統一されている。
一方で、反建築の観点からすれば、クロード=ニコラ・ルドゥーの《ショ
アンビルト研究の第一人者である建築家の磯崎新は、歴史上、
アンビ
ー》
と名付けられた空想の都市計画が関係深いものである。ルドゥーの
ルト・アーキテクチャはのちに建造された建築や新たな建築様式の原
都市には、幾何学的要素、バロック様式やロマン主義の要素が混在して
始のヴィジョンであり、その概念を最もよく表している記念碑的な位置
おり、特定の統一性から自由であることを創作理念としていた。
づけであると述べている。
19世紀に入ると、
イギリスで起こり、直にヨーロッパに広がった産業
一方で、
ピーター・クックが主導した、近代主義建築に対するカウンタ
革命の影響で、衛生問題や居住環境の悪化などの問題が起こった。その
ーとしての反建築運動ように、実物の建築とは無縁でアンビルト・アー
なかで、工業化を肯定した上で前向きに環境問題を解決しようとしたフ
キテクチャとして独立している作品も少なくない。
ランスの建築家であるトニー・ガルニエの《工業都市》という都市計画
すなわち、
アンビルト・アーキテクチャは、実際的な建築の機能や合理
は、都市の機能を効率よくゾーニングし、緑地で分離帯を作ることで環
を重視した近代主義建築と、それを真っ向から否定し、個性や建築表現
境改善をはかっており、機能主義的な都市計画の先行例として、建築家
を重視した反建築の双方に関係しているのである。
のル・コルビュジエによって高く評価されている。
また、発展途上であっ
しかしながら、近代主義建築と反建築は概念として対立しているのだ
た鉄筋コンクリートによる合理主義的なデザインにも新古典主義の思
が、
完全に分離したものではなく、
むしろ密接に関係し合っているもので
想が根底に見出される。
ある。
例えば、
テクノロジーという要素ひとつとっても、
それがその時点で
一方で、
劣悪な近代都市の環境からの脱出を試みた社会主義者たちが
未知の技術であれば未来的で反建築的な表現となり、ひとたび科学的に
おり、
彼らはユートピアンと呼ばれている。
そのなかで、
フランスの哲学者
確立されてしまえば、
今度は合理的、
機能的な表現に変わる。
であるシャルル・フーリエは、都市から離れた理想の共同体である《ファ
また、ひとつの建築様式や、同時期の建築動向であっても、近代主義的
ランステール》
という田園都市を構想したのだが、
この都市計画の特徴と
130
卒業研究・作品
して、合理性や理性といった見地から離れた、人間の感情的な働きをシ
ロッシ、批判性はイギリスのレオン・クリエとロシア・ペーパー・アーキ
ステム化していることが挙げられる。
また、
住民が共同生活をする建物に
テクト、急進性は共にアメリカのニール・ディナーリとマイケル・ソーキ
は、
のちの近代主義の機能的都市に多く発見できる人車分離の交通路が
ン、実験性においてはアーキグラムの級友であるセドリック・プライスと
用いられているのだが、
建物全体の意匠はバロック様式で、
ここでも反建
日本のメタボリストたちを挙げた。詩性については、ファシズムの時代
築の系の都市の特徴である多様性が確認できる。
のイタリアのジョゼッペ・テラーニと現代のオランダの建築家であるレ
20世紀になって、先に美術の分野で起こったアヴァンギャルドの影響
ム・コールハースの作品を具体的に示した。
を受け、
ヨーロッパ各国で前衛建築運動が盛んに起こる。
その結果、
アンビルト・アーキテクチャが反建築性を備えており、
また、
そのなかで、近代主義建築に影響を与えたものとして、
ドイツ工作連
ひとつの作品が複数の反建築性を有していることが理解された。
盟から発展した建築学校であるバウハウスで求められた合目的性と幾
何学的美の統合に関する実験、ロシア構成主義の抽象的な形態の構成
アンビルトの建設
による多数のコンペ案、建築家アントニオ・サンテリアの《新都市》に代
表されるイタリア未来派の複合的な機能を統合したひとつの巨大な機
アンビルトとして設計された建築計画が実際に建造されると、反建築
械のような都市である。
性はどのように変化するのかを検証した。検証に用いたのは、反建築性
一方で、反建築に連なっていくのは、建築家ブルーノ・タウトの《アルプ
を最も総合的に有していると考えられるピーター・クックの《インスタン
ス建築》のような、バウハウスから排除されたドイツ表現主義の動向、ロ
ト・シティ》
という都市構想と、それをイギリスの建築家であるマーク・フ
シア構成主義の画家マレーヴィチが作成した《シュプレマティズム.・アル
ィッシャーが、
イギリスのロックバンドであるローリング・ストーンズのラ
ヒテクトン》や建築家エル・リシツキーの《プロウン》のような平面表現
イブツアーの舞台セットとして実用化した《スティール・ホイールズ》
とい
と立体表現の中間にある作品、
イタリア未来派の動的な建築表現と過剰
う建造物である。
なテクノロジーのイメージである。
これらの作品を比較、
分析した結果、
当初《インスタント・シティ》が有し
このような近代建築史の流れがあって、1933年にCIAMでまとめら
ていた反建築性の諸要素はいずれも減退し、
変わって建築性の諸要素が
れたアテネ憲章に盛り込まれたル・コルビュジエの《輝く都市》計画にお
発生していることがわかった。
このことは、
反建築性がアンビルト・アーキ
いて、近代主義建築の都市は完成形に至った。その後、1950年代になっ
テクチャの特徴的な魅力であり、
反建築性は建設の過程で建築性に交換
て、
イギリスの建築家であるスミッソン夫妻が主導したチームXによって
されることを示していると考えられる。
CIAMは解散に追い込まれ、
ついでスミッソンの後継としてアーキグラム
が登場する。近代主義建築と反建築の対立による相対化から、前者が有
おわりに
する性質を建築性、後者が有する性質を反建築性と呼ぶことができるの
ではないだろうか。
これらの考察結果は、
アンビルト・アーキテクチャの鑑賞をする際に
アンビルトの魅力
で有効な根拠になるものと考える。
また、
アンビルト・アーキテクチャに
評価の基準となるであろうし、
より個々の作品に対する理解を深める上
よってしか求められない魅力がある以上、設計図としての建築図面にと
建てられた建築を評価する基準が建築性であるなら、建てられなか
どまらず、ひとつの作品として成立することを示している。
った建築を評価する基準は反建築性と呼ぶべき性質であろう。建築性の
したがって、
アンビルト・アーキテクチャの作品を制作するにあたって、
内容は機能性、安全性、構造性、人間性、経済性、芸術性の6つからなる。
反建築性の諸要素から逆算して作品を構築すれば、
より魅力的なアンビ
また、反建築性は映像性、概念性、批判性、急進性、実験性、詩性の6つか
ルト・アーキテクチャを制作できるのではないだろうか。
らなる。建築性についてはすでに十分に語られていることであるので、
アンビルト・アーキテクチャにおいて、
反建築性は目的であり、
方法であ
本論においてはアンビルト・アーキテクチャ特有の評価基準であると思
り、
魅力なのである。
われる反建築性の諸要素を強く持つ作品を作るアンビルト・アーキテク
トの作品について考察した。
映像性はイタリアの建築家であるマッシモ・スコラーリとアメリカの
建築家であるレベウス・ウッズのドローイングによく表れている。概念
性においてはイギリスのラウー・ブンシュホーテンとイタリアのアルド・
[主要参考文献]
○ 磯崎新『Unbuilt/反建築』TOTO出版、
2001年
○ 浜田邦裕『アンビルトの理論』INAX出版、
1995年
○ Robert
Harbison『建築と非建築のはざまで』鹿島出版会、
1995年
○ Archigram『ARCHIGRAM』鹿島出版会、
1999年
131
卒業研究・作品
原爆戯曲について
What is the Japanese atomic bomb drama?
中谷 光里
Nakatani Hikari
文化マネジメントコース
はじめに
のではなく、あくまでも背景として取り上げられている。この戯曲
は、被爆した浦上天主堂から、傷ついたマリア像を盗み出し、秘匿し
原爆投下から現在まで、絵画、映画、演劇、小説など、さまざまな
ようとするキリスト信者たちの物語である。物語の根底には「罪の意
分野で原爆を題材とした作品が創作されている。文学においては原爆
識」があり、被爆した信者たちは、原罪のために原爆に遭ったのだと
文学という作品群が確立している。一方、演劇の分野において、原爆
解釈している。物語の中で、学生運動家の男が、顔にケロイドがある
を主題とした戯曲は少なくはないものの、原爆戯曲という言葉は一般
女に運動に参加するよう頼む場面がある。男は原爆問題の解決のため
的に使用されているとは言い難い。本論では、原爆を中心的主題とす
に、運動による闘いで立ち向かおうとするが、女は取り合おうとしな
る戯曲を原爆戯曲と定義づけ、それらの戯曲を時代ごとに分析してい
い。女にとって被爆したマリア像を秘匿することが、原爆から自らを
く。そして、戯曲の表現手法や社会的背景を通して、原爆戯曲とは一
救うことにつながるからである。キリスト教徒は原爆への怒りや悲し
体どのような性格のものであるのかという問題を考察していくことと
みを、運動に参加することによってではなく、信仰に救いを求めるこ
する。
とで癒そうとしていた。
『マリアの首』において宗教が、原爆問題からの救済という役割を
初期原爆戯曲の特徴
担ったように、『島』においても浄土信仰が重要な要素になっている。
このような色濃い宗教性も、初期原爆戯曲の特徴の一つとして挙げら
初めて原爆を中心的主題として描いた作品は、堀田清美の『島』で
れる。
ある。また、続いて書かれた田中千禾夫の『マリアの首』、別役実の
初期原爆戯曲の特徴として、原水禁運動との距離と、宗教による救
『象』の三作を初期原爆戯曲の中心的な作品として、これらの特徴を
済を挙げた。これらに共通するのは、原爆問題を演劇的に再構成して
明らかにしていく。
おり、原爆問題を直接観客に投げかけようとしていないということで
1954(昭和 29)年3月、アメリカのビキニ水爆実験により、日
ある。『島』では、学は人間の生きる強さを信じることによって、被
本の第五福竜丸が被爆した。この事件をきっかけとして、原水爆禁止
爆者である自らの運命を乗り越えようとしていた。『マリアの首』は
運動が始まる。この運動は、日本に落とされた原子爆弾に対する抗議
キリスト教によって被爆者を救済し、『象』では身体感覚として原爆
ではなく、原水爆実験による放射能の拡散に対する抗議を目的として
問題を取り上げることにより、その当時の原爆をめぐる状況を描いて
いた。54 年当初は、署名活動として始まり、翌 55 年8月には原水
いた。初期原爆戯曲は、原爆を演劇的に再構成することで、原爆問題
爆禁止世界大会を開催した。やがてこの運動は、64 年の原水禁世界
を乗り越えようとしたのである。
大会開催時に分裂状態に陥り、その後に社会党系の原水爆禁止日本国
民会議と、共産党系の原水爆禁止日本協議会とに分裂する。原爆戯曲
原爆戯曲の変化
が多く書かれた時期は、1950 年代後半から 60 年代全般と、原水禁
運動の高まりが見られる時期と重なっている。そのため、原爆戯曲の
原爆投下から 20 年後、昭和 40 年になると、原爆に対する怒りや
創作の背景として、原水禁運動があるという指摘がなされている。し
悲しみを、そのまま観客に投げかけようとする戯曲が発表される。
『ヒ
かし、初期原爆戯曲では、原水禁運動を扇動するような描き方は見ら
ロシマについての涙について』は 16 の場面に分けられており、複数
れない。
のエピソードによって、物語が構成されている。この戯曲は、被爆者
『島』において、被爆者であり主人公の栗原学が、原爆や運動につ
の様々な苦悩を盛り込むことで、原爆問題の幅広さを見せているので
いて話す場面がある。学は運動に対して否定的であり、力と力で争う
ある。一方、大橋喜一の『ゼロの記録』では、原爆症とたたかう医師
うちには平和は訪れないと考えている。なぜなら、被爆によって瀕死
の姿が、原爆投下直後から約8年に渡って描かれている。また、戯曲
の怪我を負いながらも生き残った学は、自らのその経験から、運動に
には 1945 年秋に広島を直撃した枕崎台風や、1950 年のストックホ
よる変革よりも、幸福に生きようとする人間の生きる強さを信じてい
ルム・アピールの場面など、実際にあった出来事が盛り込まれている。
るからである。また、学は運動ではなく生き抜くことで、原爆や被爆
そのため、人物の心情の変化よりも、出来事の説明的部分が多く、原
者である自らの運命に、立ち向かっているのだ。運動から距離を置く
爆や被爆者に関する記録をとどめようという要素が強い。
ことで、個人である栗原学の、そして人間の生きる強さを、この戯曲
このように昭和 40 年代、初期原爆戯曲と異なる手法で原爆戯曲が
では描いているのである。
描かれたことについて、二つの理由が挙げられる。一つは「原爆問題
また、『マリアの首』においても、原水禁運動は中心的に描かれる
の風化」である。原爆投下から 20 年以上が経過する中で、原爆問題
132
卒業研究・作品
に対する人々の関心が薄まっていた。しかし、たとえ時間によって、
の背景には、79 年に起こったアメリカのスリーマイル島の原子力発
原爆を忘れることができたとしても、原爆の恐ろしさからは逃れられ
電所の事故があると考えられるものの、原爆戯曲において見られるよ
ない。原爆問題に対して改めて関心を持ってほしいという、作者の観
うな深刻さは無い。架空の世界の中で、軽妙に核問題を描いている。
客への投げかけが戯曲に強く表れているのである。
70 年代から 80 年代にかけて、原爆や核をめぐる戯曲は大きく変
もう一つの理由は、原水禁運動との結びつきである。初期原爆戯曲
容している。原爆は主題として描かれるのではなく、一題材として扱
では、作者は原水禁運動と距離を置いており、内容も原水禁運動を背
われるようになり、さらに、モチーフも原爆から SF 的なイメージの
景として扱っていた。しかし、昭和 40 年代になると、原水禁運動に
核へと移行する。そして 80 年代には、原爆戯曲に替わり、架空の世
関わる人物が中心的に描かれるようになる。これは、『河』が 1963
界の中で軽妙に核問題が取り上げられるようになる。核を題材とし
年の原水禁世界大会の際に上演されたことからも分かるように、作者
て、原爆戯曲とは全く性質の異なる作品が書かれるのである。これら
自身が運動と近い距離にあり、観客に原爆と闘い続けることを訴えて
の背景には、より享楽的なものへと引きつけられていく社会があり、
いるためである。
それによって、原爆戯曲は減少しているのである。
昭和 40 年代の原爆戯曲は、原爆を中心的主題として描くだけでな
90 年代になると、再び原爆戯曲は描かれるようになる。その中で
く、原爆投下という悲劇をふたたび繰り返してはならない、というこ
代表的な作品は、井上ひさしの『父と暮せば』である。この作品にお
とを観客に訴える目的のもとで描かれた。この目的の変化が、初期原
いて原爆問題は、原爆によって亡くなった死者と、生き残った者との
爆戯曲との手法の違いの要因となっている。初期原爆戯曲は、原爆問
対話という設定によって描かれている。これは死者の証言を取り入れ
題を演劇的に再構成することで、より普遍的な問題として観客に投げ
ることで、戦争や原爆を知らない世代に向けて、原爆の悲惨さを強く
かけていた。
訴えている。戦争や原爆が投下された時代を知らない人々が増える中
一方、昭和 40 年代には、原爆を繰り返してはならないという作者
で、「原爆を語り継ぐ」という目的のもとに描かれているためである。
の強い意志のもとに、原爆はより生々しく観客に訴えられた。しかし、
いずれは原爆の悲惨さを、被爆者から語り継ぐことができなくなる。
その中で共通するのは、原爆を乗り越えようとする姿勢である。原爆
『父と暮らせば』は、原爆を語り継ぐことによって、原爆問題の生々
戯曲は様々な手法や視点で描かれているが、原爆問題に対抗しようと
しさを、原爆を体験していない観客に伝えることに重きを置いてい
する作者たちの姿勢は一貫しているのである。
る。また、これこそが 90 年代の原爆戯曲の役割だといえる。
70 年代から 90 年代へ
結論
1970 年代になると、発表される原爆戯曲は減少する。これは、
これらの原爆戯曲に共通する点は二つある。一つは、原爆戯曲の目
70 年代以後の演劇は 80 年代以後の高度消費社会への準備段階とい
的は、現実にあった原爆による様々な問題に基づき、それらを解決し
う時期もあり、より享楽的なものへと引きつけられたためである。そ
ようとしているということにある。そしてもう一つは、いずれの原爆
のような享楽的な社会の中で、原爆戯曲は求められなくなり、それま
戯曲も、原爆問題すべての解決はできない、ということである。多岐
での原爆戯曲は少なくなったと考えられる。
にわたる原爆問題すべてを描き、確固たる解決の道を指し示すという
そして、70 年代に描かれた二作品を契機として、原爆や核をめぐ
ことは不可能ではあろう。
る戯曲は大きな変容を見せている。ひとつは、つかこうへいの『広島
しかし、だからと言って原爆を戯曲化することが無意味だというわ
に原爆を落とす日』である。この作品では、原爆は在日の人々を主と
けではない。原爆戯曲は様々な時代や社会の中で地道に描かれること
した、マイノリティの問題を描くための題材に過ぎない。原爆を取り
が大切なのである。多くの作家や、戯曲の登場人物によって、原爆問
上げているように見えながらも、実のところは、観客に原爆問題を訴
題の解決の道を指し続けることに原爆戯曲の意味はあるに違いない。
えかけることを目的としていないのである。『広島に原爆を落とす日』
以前の原爆戯曲では、原爆を劇化するに当たり、題材と主題は一致し
ていた。しかし、この作品において、原爆は一題材として別の主題の
ために描かれたのである。
もう一作の北村想の『寿歌』では、物語の舞台を近未来の核戦争後
の世界にして、SF のようなイメージの核が描かれている。この戯曲
[主要参考文献]
○宮下展夫「
『山脈』から『寿歌』まで」(テアトロ 1985)
○高橋宏幸「原爆演劇と原発演劇」
『述5 反原発問題』
(論創社、2012)
133
卒業研究・作品
伝統的街並み再生
- 丹波篠山と工芸 -
Traditional rows-of-houses reproduction
-Tanba Sasayama and craft中西 遼
Nakanishi Ryo
文化マネジメントコース
要旨
課題を改善することが先決で、そのためには、住民だけでなく外部の
人材も交えた NPO が中心となりコミュニティ再生を視野に入れ、ま
現在、日本の各地では重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝地
ちづくりを考えていくことが必要であるに違いない。
区という)と呼ばれる歴史的街並みが、2012 年の段階で 41 道府県
また高山市のもうひとつの強みの部分は、高山市では生産と拠点の
82 市町村の 102 地区、選定されている。これは、歴史的街並み・風
場というものがしっかりと確立している。商店を営んでいる人は実際
景の中で特に価値の高いものを国が保存していくために、1970 年の
にその場に住み、工芸や特産品のお土産などの生産の場があるところ
文化財保護法の改正の中で整えられていったものである。
にも人が住み拠点の場となっている。このように、生産と活動拠点が
本論文では、その重伝建地区の中で、近年の観光客数の減少や定住
整えられているのが高山市というまちなのである。生産と活動拠点が
者の減少と言った問題を抱える、兵庫県篠山市河原町通りを例に挙
あり、この2つがしっかりしているということはこのまちは、歴史的
げ、重伝建地区の中でも高い人気を誇っている高山市や金沢市との比
街並みというものが機能しており、訪れた人々を楽しませることがで
較を通じて、重伝建地区での地域活性化の方法を、工芸というものが
きるのである。
その地域活性化の要素となり得るのかということを考察していこうと
こういった高山市にみられる強みというものを参考に篠山市に還元
するものである。
していくことができれば篠山市での魅力が出てきて重伝建地区の篠山
市河原町通りの地域活性化に繋がっていく可能性があるだろう。
丹波篠山という土地
ことに篠山市は工芸が盛んであり、これを利用することで、篠山市
の強みとなり地域活性化する上でも、有効になるのではないかと考え
篠山市は、1999 年(平成 11 年)4月1日に、平成の大合併の先
る。
駆けとして、旧多紀郡篠山町・今田町・丹南町・西紀町の4町が合併、
市制が施行され誕生した。それから5年後の 2004 年(平成 16 年)
工芸と街並み活性化
に篠山市河原町通りは、重伝建地区に選定された。妻入りという独特
の造りをした商家が並んだ街並みで、休日には観光客も訪れ、観光地
それでは工芸を用いて、街並みを活性化している地域とは具体的に
としての様はなしているが、近年河原町は少子高齢化が進み、平日に
挙げるのならばどこであろうか。
は活気が見られないという問題が生じている。篠山市は、重伝建地区
まず例として挙げたいのは、栃木県益子町と石川県金沢市である。
という認識は持ってはいるものの、政策的には今一つの感が否めない
益子町を挙げた理由としては、濱田庄司が作っていたことでも有名
のである。
な益子焼があり、「益子大陶器市」や「土祭」といったイベントがあ
同じような重伝建地区の中でも、高い人気を誇り、年間数多くの観
り、工芸というものを町全体で取り上げている。なおかつ、益子町で
光客が訪れる高山市さんまち通りなどと比較してみると、次のような
も高山市にみられるような、生産と活動拠点がしっかりしている。販
ことが指摘される。
売店であるお店の裏には、窯元があり生産の場がある、この様子がま
まず高山市の強みというものは、そこに住む住民や行政の文化や景
さに生きた工芸であろう。生産された場でお客の手に届く、これが工
観を保存しようとする意識が非常に高いこといわゆるホスピタリティ
芸を扱う上で一番重要になることであり、この部分が実際この土地を
と呼ばれるところに表れてきている。実際さんまち通りを歩いてみる
訪れ感じ、河原町とは異なる点である。またホスピタリティといった
と、それを強く感じることができる。2012 年8月上旬にフィールド
点でも、益子では益子焼が強みであるということを住民が理解してお
ワークを行った際、店を営んでいる民家や、歩いている住民に道を尋
り、そのうえでイベントなどにも積極的に住民が参加している。こう
ねてみる、どちらにしても丁寧な返答が返ってきた。住民の高い意識
いった点が、益子町の最大の強みであると言える。
の表れというのは、このような何気ないところに大きく表れてくるの
一方の金沢市は、加賀友禅や九谷焼、金沢漆器といった、全国的に
ではないかと考える。住民・行政のホスピタリティの強さというもの
見ても豊富な工芸品にかこまれている。こういった工芸品の理解や保
が伝統的空間を活用する上で、欠かせないものとなっている。
存のために金沢市は金沢職人大学校や金沢美術工芸大学などを設置
一方、篠山市河原町通りはというと、平日は、外に仕事に出ていて、
し、人材育成・後継者養成へと早くから取り組んでいる。このように
通りには人が出ず、寂れた雰囲気を醸し出し活力が感じられないもの
市が大学と提携して工芸の保存に力を入れると言う時点で金沢市が、
となっている。これは、コミュニティの欠如が問題であり、まずは、
工芸について強い認識を持っていると言えよう。さらには、工芸を活
観光的な計画云々は置いといて、身近であるコミュニティ再生という
かしたイベントなどの効果により金沢 21 世紀美術館は年々入館者数
140
卒業研究・作品
も増え金沢全体への観光客数増加へ大きく貢献している。このような
篠山と工芸
市の工芸に対する意識の高さや住民達の工芸に対する認識、工芸を取
り扱ったイベントを起こすことで、このような地域は、工芸が地域活
篠山の工芸とはどのようなものがあり、どのようにいかしていける
性化の要因となっている。
のか。河原町通りの中には、江戸時代末期に生まれた王地山焼と呼ば
一方、それとは逆に、工芸が今一歩地域活性化の要因となりえてい
れる陶磁器が現在もあり、王地山陶器所と呼ばれる生産の場が残って
ない場所もあるある。それは富山県高岡市金屋町である。富山県高岡
いる。その技術は、3人の陶工たちの手によって、保存・伝承されて
市は、400 年あまりの歴史を持ち、銅器、漆器、仏具といった伝統
いる。しかし河原町通りでは、その王地山焼を販売する活動の拠点が
工芸が、いくつもある工芸のまちである。その中で金屋町というのは、
無く、王地山焼という工芸はどこかこの町から忘れ去られているよう
鋳物産業で栄えたところである。
な気さえする。
現在、金屋町にはいくつかの鋳物工場が残され、職人が住み鋳物を
高山市や益子町に見られるような生産と活動拠点が無ければ、王地
守ろうとする活動がなされている。だが近年、多くの工場は郊外の銅
山焼がいくら素晴らしいものであっても、その工芸を知る機会は無く
器工業団地へと移転していき、その活動は縮小されている。このよう
なっていくであろう。このままでは、工芸の技術は衰退していき、い
に金屋町では生産と活動拠点が欠如しており、生きた工芸というもの
つしかなくなっていくものである。そうしないためにも、高山市や益
を見つけることはできず、鋳物という名前だけが取り残されてしまっ
子町のように住民のホスピタリティの向上、金沢市の様々な政策な
たようにも思われるのである。
ど、工芸の魅力に再認識し、新たなイベントなどを起こしていくこと
それでは、金屋町では何か工芸を活かしたようなイベントは開催し
が地域活性化へと繋がっていくと考える。
てはいないのか。なるほど、「金屋町楽市(以下、楽市とする)」の開
催を忘れるわけにはいかない。楽市とは、金屋町全域を使い行う生活
結論
空間内展示のことで、ストリートマーケット、イベントを組み合わ
せた工芸と生活と産業が同居するゾーンミュージアムのことである。
以上で述べてきたことから、工芸が地域活性化の要素になるために
2008 年より行われ、多くの集客率が見込まれている。学生の手も加
は、イベントなどで工芸を取り上げ、訪れた人々へ工芸の魅力を発信
わることで、より大きなイベントへと変貌していった。しかし、定期
していき、そしてホスト側である住民のホスピタリティを向上させて
的なイベントが開催されてはいるものの、メインとなっているのが楽
いくことが、工芸を地域活性化させるなかに取り入れられる要素と
市のみという点が、金屋町が工芸を活性化の要因とはしていない理由
なってくる。言い換えるならば、しっかりとした工芸へ対する支援の
である。
確立をさせていき、工芸へ対する知識や愛着といったものがその土地
楽市は富山大学芸術文化学部協力のもと始めたイベントであるが、
に残っていなければ、いくら工芸が素晴らしいものであっても、活性
先ほども述べたとおり、学生、地元以外の人の手が加わることで、よ
化の要因とはなっていかないと考えるのである。
り大きな規模のイベントに出来る点は、素晴らしくこのイベント自
体、工芸を生活空間の中へ展示するというとても興味深く、成功して
いるイベントだとは思う。だが、学生や外部の協力だけが頼りになっ
て住民自体がまちを盛り上げる、工芸を取り上げるという点が、感じ
取れないのである。これは、楽市が行われていない日に訪れていただ
くわかることだとは思うが、楽市以外では、主要なイベントが金屋町
では行われておらず、先にも述べたように、外部の協力に住民たちが
依存しているのである。高山市のように住民自らのコミュニティとい
う土台がしっかりしていなければ、いくらその上に工芸やイベントと
いうものを積んでいっても、活性化はしないだろう。
[主要参考文献]
○佐々木一成、
『地域ブランドと魅力あるまちづくり』
、学芸出版社、2011 年
○藤木庸介、
『生きている文化遺産と観光』、学芸出版社、2010 年
○古池嘉和、
『地域の産業・文化と観光まちづくり』
、学芸出版社、2011 年
○北國新聞社編集局編、
『風景 工芸王国』、北國新聞社出版局、2011 年
141
卒業研究・作品
和紙の包み
ー和紙に見る日本の心ー
Washi wrapping
The mind of Japan which appeared on the Washi
西井 ひかり
Nishii Hikari
文化マネジメントコース
本論では、和紙の包みの魅力とは何かを明らかにするため、和紙と包
あり、白い和紙には日本人の宗教観や畏怖の念が色濃く投影されてい
みの文化それぞれの観点から考察を行う。
第一章では、
和紙には、
色や作
る。それゆえ、使用されるのには、それなりの理由や意味があるのであ
り出される形によって得られる様式美があることを論じ、
第二章では、
日
る。
また、白い和紙ばかりだけでなく、色が載った和紙にも意味は込め
本人独特の、贈る心を包みに表わす文化があることを明らかとする。そ
られている。紫は高貴な色を表わし、黄色は仏門の色を表わす。青は海
のうえで、第三章では、双方が組み合わされた、和紙による包みには、贈
や空を連想させ、様々な色の組み合わせは日本の四季を現すなど、色を
る人の心そのものが包まれていることを明らかとする。
通じての和紙ならではの表現も、平安時代からみられるようになった。
また色だけではなく、金銀箔を用いた装飾を行ったり
(図2)、折りを施
序論
し形を作ることにより、さらに表現が豊かになった。
やがて、室町時代までには、折りを施し形を作る行為もはじまる。
これ
現在使われている紙の多くは洋紙であり、特に手漉き和紙は、手にす
は日本では折り紙から発展したもので、折形と呼ばれる礼法が生み出
る機会さえ減ってしまったのが現状である。それでも、改まった機会に相
されるに至った。
この折形は、現代では冠婚葬祭などの改まった機会に
手に渡す祝儀袋や不祝儀袋、御幣に使われる紙垂などの神事用の品、書
しか見ることが出来なくなった物だが、折りや色の持つ意味を通じて、
道の料紙など、
昔から変わらず和紙が使用されている物も少なくはない
贈答の心を包みの姿に表わしている。
この折形は、武家の間で古実家の
(図1)
。
今日でも使用されている和紙、
とりわけ、包みに使用されている和紙
には、同じように物を包み込んでいる洋紙の包装紙などにはない、何か
当主に代々受け継がれてきた礼法であったが、江戸時代に折形の雛形
(図3)や書物が出版されることで、庶民の間にも広まり、第二次世界大
戦前までは、女学校でも教わる日本の礼儀のひとつとなった。
特別な性格の趣が具わっているように感じられる。
それでは、何故、和紙の包みは特別なものであると、日本人には感じ
られるのか。そう感じられるのは、和紙の持つ独特の風合いや、色、質感
などから受ける印象ばかりではなく、和紙が包みに利用されることによ
って引き起こされる、特別な何かが要因となっているからではないだろ
うかと考えられる。
図2.金箔などをあしらった継ぎ紙 copyright『別冊太陽 和紙と暮らす』平凡
社、2004年
包みの文化
日本には贈答の際、たとえ改まった機会でなくとも、品物を何かに包
んで渡すことが、礼儀として定着している。物を包む目的は、物を保護し、
図1.祝儀袋 copyright『包む 日本の伝統パッケージ』 株式会社ビー・エヌ・エ
ヌ新社、2011年
運搬しやすくしたり保存するためだけではない。折形にも見られるよう
な、包みの形に贈る側の心を表わすことが出来るためである。その傾向
は現代日本のラッピングにも現れており、同じように贈答品を包む文化
和紙と美意識
のある欧米のラッピングと似てはいるものの、実質的には、包みに対す
る価値観の相違が反映されている。日本は包みも重要視するが、欧米で
和紙の白さは、清浄や穢れのないことを表わすことから、神事で用い
は包みより中身を重要視するのである。たとえ似通ってはいても、日本
られたり、捧げ物とされてきた。厳格な場で用いられる和紙は専ら白で
のラッピングは、日本の包みの歴史や文化を受け継いでおり、欧米のラ
134
卒業研究・作品
ッピングとは異質な性格のものなのである。
和紙の包み
包みに用いられる和紙は、機械漉きの製品が現れたことで、消費する
ことにためらいが少ない量産品となったが、和紙の良さを生かした包み
は、
洋紙が広まって以降も変わらずに存在する。
例えば富山の薬包紙は、物の運搬のみを目的とした梱包というわけ
ではなく、現代の商品パッケージの形に落ち着くまでに徐々に形を変え
つつ、時代の変転に応じて生き残り続けた典型的な事例である。
さらに、和紙による包みは、物を直接包み込むだけでなく、空間をも
包み込むことができる。空間を含んだ包みには、障子戸や襖などがある
が、さらに襖絵という芸術的な展開も見せた。襖絵に限らず、現代では
和紙の包みによる芸術表現が広く行われている。和紙を利用した照明
図3.折形の雛形 copyright 山根 一城『日本の折形―伝統を受け継ぐ型約七十点
を掲載した包み方の手引き』誠文堂新光社、2009年
器具は、和紙に、異なる素材を組み合わせることによって、新たな美を
生み出している(図4)。さらに、祭りで使われる巨大な行灯やモニュメ
ントなど、和紙の包みの表現は多様なのである。
結語
包みに和紙が使われることで、和紙と包みの双方はさらなる美の広
がりを見せた。美に興味を示さない人でも、それらの物が、贈る人間や、
作った人間の心を伝えていることは、感じられるに違いない。それこそ
が、和紙の包みの持つ魅力なのであり、
ここには、人の気持ちを思いや
り、重んじることのできる日本の心が投影されているといえる。だから
こそ、私たちは、昔ながらのものばかりではなく、現代の生活に馴染ん
だものであっても、和紙の包みは尊いものだと感じられるのである。
和紙の包みの今後の可能性として、
現代技術を和紙漉きの製法を生か
した新製品や、現代の製品にあわせた折形の提案が行われている。現代
のニーズに合わせ、様々なことに応用できるような和紙の包みの新しい
可能性も、
今後発見することができると考える。
[主要参考文献]
○ 久米康生
『和紙の文化史』木耳社、
1976年
○ 額田巌
『ものと日本の文化史
20・包み』財団法人法政大学出版局、
1977年
38・色 染と色彩』同上、
1980年
○ 町田誠之
『紙と日本文化』
日本放送出版協会、
1989年
○ 山根一城
『日本の折形』株式会社誠文堂新光社、
2009年
○ 前田雨城
『ものと日本の文化史
図4. 冬野朋子氏による、和紙と金属を組み合わせた照明器具。copyright『和紙で作
る あかりの空間』株式会社スタジオ タック クリエイティブ、2011年
135
卒業研究・作品
富山の薬のデザイン
- その諸相と特質 -
Design of medicine in Toyama
Their aspects and particularities
林 彩香
Hayashi Ayaka
文化マネジメントコース
はじめに
な形状は散剤だったのだ。また、子供が固形の薬を飲めるようにな
るのは 5 歳程度からといわれており、散剤は子供に適したかたちでも
富山は「薬のまち」と称されるほど、薬の製造が盛んなことで有名
あったといえる。二点目は、売薬さんにとって持ち運びやすい形状
である。その背景には、元禄時代から全国を歩いて薬を売った「売薬
であったことである。元禄時代の富山売薬の種類は、反魂丹のほか
さん」の存在がある。彼らは無料で物を置いていき、後から使った分
奇応丸など 2、3 種だったのが、その後は数が増えて、明治 10 年頃
だけの金額を徴収するという「先用後利」のシステムで行商を行って
までの記録によると、およそ 120 種類の薬があったという。それだ
いた。富山の地は古くから中国大陸と文化交流があり、漢方の薬学を
け多くの薬を柳行李に詰めるため、なるべくかさばらない形状が、売
学びやすい環境にあった。また、富山藩主が代々、売薬業を後押しす
薬さんにとっても都合が良かったのである。それが散剤だったわけで
る政策を行っていたことと、売薬さんの巧みな販売方法により、富山
ある。三点目は、富山の薬である漢方の元々の形状は煎じ薬か散剤で
売薬は成長していく。
あったためである。漢方では散剤のかたちは自然なことであった。ま
しかし、論者は、富山売薬が現代にいたるまで続く理由は、売薬さ
た、丸剤は漢方独特の「香り」を封じ込めてしまう。漢方の香りは、
「薬
んの販売方法をも含めた、富山の薬における総合的なデザイン戦略の
を飲んでいるんだ」と安心するという精神効果を生むという。散剤は、
特質にこそあると考え、本論文のテーマを設定した。すなわち、本論
そのような効果を減じないデザインとして選択された結果であった。
では、富山の薬の特徴について、
「薬のかたち」、
「薬のパッケージ」、
「富
散剤は、上で述べたように、効き目の早さなどの利点から富山の薬
山売薬のプロモーション・デザイン」に分けて、デザインの観点から
の形状に選ばれたわけだが、飛び散りやすいことや、丸剤の保存期間
論じることとしたわけである。富山売薬に関わる関係文献を検証した
が 1 ヵ月ほどなのに対して、散剤は 2 週間ほどであることなど、問題
限りでも、「薬のかたち」と「薬のパッケージ」については、ほとん
も多かった。このため、散剤がこぼれないように包む方法や、和紙を
ど記述が見当たらなかった。論者はこの 2 つを新しい観点として、論
使った保存対策などが必要となり、散剤という形状は、そのまま、富
をすすめていくこととした。
山の薬のパッケージ・デザインにも影響してくることとなる。次章で
なお、本論でいう「富山の薬」は、原則として「家庭配置薬の薬」
は、このような薬の形状を踏まえた上で富山のパッケージの特徴につ
を指し、取り扱う薬は、主に変化と特徴が現れる江戸~昭和までのも
いて論じた。
のとする。また「家庭薬配置薬業」のことを、親しみを込めて「売薬
さん」と呼ぶこととする。さらに「売薬」とは、一般の人が使いやす
容れるデザイン―包みのかたち
いよう加工した薬という意味であり、行商のみならず、店売りや道端
で売る薬も含めたものをも指す。
富山の薬のパッケージは、江戸期には、稀に印に朱色が用いられる
こともあるが、基本的には黒刷り一色で、薬の名前が中央に大きく表
薬のデザイン―飲むかたち
記されるのみというデザインであった。しかし、明治期に入ると、色
刷の絵が加わり、ひとめで何の薬かわかるデザインに変容していく。
売薬の薬は丸剤が多い。それは、用量が正確にわかることと、保存
「わかりやすい表示」の例を挙げると、頭痛薬には女性が頭をおさえ
が容易であること、さらには飲みやすいという特徴から、消費者に好
ている絵を描いたり、腹薬には、大きなお腹をだした布袋様の図をあ
まれたためと考える。売薬業者も消費者も丸剤を好む風潮の中で、富
しらったりするなど、それだけで薬の効能が伝わるようになってい
山の薬は散剤という形状を保ち続けた。散剤の特徴は、溶ける速度が
る。
早く、吸収も速いことから、飲んでからの効き目が比較的早く現われ
また、明治期に受容された洋薬が科学的イメージであったのに対
ることにある。「富山の薬はよく効いた」という回顧談通りの即効性
し、配置薬の漢方は呪術的なイメージを留めていたため、パッケージ
も、富山売薬が評判を呼んだひとつの要因であったことは確かであ
に神様や医者を描くことによって、顧客に「なんとなく効きそうな気
る。
がする」と思わせるデザインであったことが特徴として挙げられる。
富山売薬が散剤のかたちをとった理由は大きく分けて 3 つ考えられ
富山の売薬さんは、全国を自分の足で歩くことと、売薬さん同士の情
る。一点目は、家族全員で薬を分けられるようにするためである。薬
報交換により、「先用後利」というシステムを確立させた。そして、
は人によって「飲まなくてはいけない量」が異なる。基本的には、体
おそらく彼らは、そのような行商活動中に、家庭で薬を使うのは婦人
重が重ければ薬用量も増え、子供や老人は、成人より少なめに処方さ
や子供が多いことを知り、彼女たちや子供らが、薬箱から症状に合わ
れる。飲む量が各人で違うことに応じて、分けられ、使いきれる適切
せた薬を悩まずに気軽な気持ちで選べるように、パッケージのデザイ
136
卒業研究・作品
ンも工夫していったと考えられる。ただし、次第に意匠がパターン化
は、江戸後期から始まった多色刷り版画で、日本おまけ商法の元祖と
されて、各社デザインを大きく変えることはなくなってしまうことと
もいわれている。売薬版画は単なる浮世絵の亜流ではなく、実用性の
なる。
ある主題や富山で生産の全てが一貫して行われること、赤色、そして
一方、絵同様のわかりやすいネーミングとともに、子供薬ならポッ
安く大量に刷るという特徴を持ち、地方文化としての地位を確立し
プな書体、といったように、絵と文字を巧みに組み合わせることで、
た。販売戦略の側面を持つと同時に、文化のひとつの結晶でもあった。
より一層薬の効能を強調していることも大きな特徴といえる。絵に
合わせたフォントや大きさの文字とあいまって、「わかりやすいパッ
結論
ケージ」が生まれたのであった。
そして薬包紙には八尾の山田紙が使用され、富山の薬の保存に重要
富山の薬の特徴は、「家庭での使用を考えた粉薬の形状」、「薬効の
な役割を果たす。和紙の活用は明治 20 年代が全盛期であり、この時
高い薬」、「薬効が高いと思わせる包み」、「分かりやすいパッケージ・
代は種類も豊富であった。おのおのに工夫された紙があって初めて、
デザイン」、「売薬さんの携えてくる様々な情報」、「プロモーション・
越中富山の売薬業は成立し得たといえる。洋紙の登場で八尾和紙は売
デザインの一環であるおまけ」、「売薬さんの礼儀正しさ」、「売薬さん
薬から消えて行くが、今でも工芸品としてその名を残している。
の信仰の深さ」ということになる。これらが合わせて生む効果は、
「富
山の薬は貴重でよく効き、売薬人は礼儀正しい商人であると同時に、
売る行為のデザイン―売薬さんのかたち
とても身近な存在である」という印象を消費者に与えることであった
と考えられる。富山の売薬さんは、しばしば、「顧客と商売人を超え
消費者の心をつかむためには、「売り方」が重要となる。本章では、
た存在」であると言われていた。外から来てただ商品を売って帰るよ
この「売り方」もデザインの一要素と捉え、論じていく。すなわち、
うな商人とは違い、定期的に訪れ、地域によっては医者のような存在
売薬さんのあり方をプロモーション・デザインとして評価づける試み
でもあり、珍しい話をしてくれる物知りであり、世間話をする身内の
である。売薬が全国で盛んになった江戸から現代まで、様々なプロ
ような近しい存在でもあった。一言で表すと、顧客と商人の間に確固
モーション活動が行われ、人々の関心と興味を引いた。店売りでは、
たる「信頼関係」ができていた。それが、売上にも繋がったし、販路
きらびやかな看板を店先に出したり、キャラクターを用いたポスター
拡大の際にも良い評判が味方になってくれた。富山の薬の総合的なデ
やアメニティグッズを作成したりということは、どの店舗も行ってい
ザイン戦略の特徴は、この信頼を生むためのものであったのである。
ることであり、他とは違う、新しい宣伝を行ったものだけが、大きく
売り上げを伸ばしている。
富山の売薬さんが重視したのは、徹底した「礼儀正しさ」である。
売薬が急成長した藩政時代はもちろん、戦前は礼儀が厳しく教え込ま
れた。若い衆は毎晩仕事が終わると、親方から挨拶の仕方や物の言い
方、風呂敷の広げ方まで細かく教育を受けた。ひとつひとつの動作に
は、厳格な決まりごとがある、この礼儀正しさがあったからこそ、購
入者側は、売薬さんはもちろんのこと、薬そのものも丁寧に扱った。
売薬さんには奇抜な服装も面白い口上もないが、この礼儀正しさの
「形」こそが、売薬さんのプロモーション活動の本質であり、その意
味では、売薬さんは生きた広告デザインであったと考える。
また、見逃せないのが、「おまけ」の存在である。売薬さんは家庭
を訪問した際、多くの種類の中から、大人向け、子供向け、上得意先
向けと対象によって、おまけをひとつ置いていった。例えば、婦人向
けには氷見の縫い針、子供向けには折り紙やトンガリ帽子、上得意先
には九谷焼の湯飲みや若狭塗の箸などを贈ったという記録が残されて
いる。これは売るうえでの重要な行為である。富山の薬のおまけの中
でも人気であったのが、売薬版画と呼ばれる絵紙であった。売薬版画
[主要参考文献]
○富山市教育委員会編『特別展 富山の売薬』
、平成 8 年
○富山市教育委員会編『明治の売薬版画』
、平成 9 年
○町田忍『懐かしの家庭全薬大全』角川書店、平成 15 年
○服部昭『印籠と薬』風詠社、平成 22 年
137
卒業研究・作品
近代日本語の文章の美とは何か
‐その型と表現
What is the beauty of Japanese modern writing
- its style and expression
角 泰毅
Tujikado Taiki
文化マネジメントコース
書店に置かれる数多くの文章指南書は、
主に分かり易い文章の書き方
文章表現性による美と効果的表現
を教えるもので占められている。
だが、
これらは、
文章に具わる美しさや、
それをいかに表現すべきかといったことには、あまり触れていない。
ここ
次に本論では、
近代日本の作家の考える文章の美というものについて
に、
論者は大きな疑問を抱いた。
なぜならば、
読み手に感動や快感を与え
分析を試みた。
ここでは、
「文章読本」
をもとに、
谷崎潤一郎と川端康成が
るためには、
文章は分かり易さだけではなく、
美も不可欠であると考えて
述べているような、文章の美しさとは何かということを明らかにするこ
いるからである。そこで、本論では、日本語の文章の美とは何か、本当に
ととした。
文章に美はあるのかということを研究テーマに掲げて、
今日の現代日本
その結果、川端は、古典の漢文的性格の文章の音律に対する美しさを
人にとって普遍的に美しいと感じられる文章のありようについて考察し
感じ、他方、谷崎は、古典の漢文的性格の文章に加え、古典の和文的性格
ていくこととした。
の文章の音律や文字形象に対しても同様に美を感じているということ
が判明した。
これらの諸点から、作家は日本の古典の文章の音律と文字
文体論研究の分析
形象に対して、美しい印象をもつといえる可能性がきわめて高いことが
理解できた。本論では、音律を
「音楽的要素」
とし、文字形象を
「視覚的要
文章の美の考察に際して、
ひとつの手掛かりとなる学問分野が、
文体論
素」
と定義づけた。
これにより、文章を美しいと感じる印象は、古典の文
である。
文体論は、
文章から受けとる印象を分析している。
章における音楽的要素と視覚的要素とに由来するものであると了解さ
本論ではまず、
主要な文体論研究として、
美学的文体論の立場をとる小
れることとなる。
さらに、
この音楽的要素と視覚的要素を、
「文章表現性」
林英夫と、文章心理学の立場の、波多野完治、安本美典という、三者の研
として本論では纏め、谷崎や川端が「文章読本」
で説く文章の美とは、古
究に着目し、
各々の研究成果について検討した。
典の文章の文章表現性に基づくものであることが明らかとなったので
小林の研究では、文章が読者に与える印象の要因を文体素にあると
ある。
して、文章の文体素と印象との結びつきを捉えている。
また、波多野の研
ところで、谷崎と川端は共通して、古典の漢文的性格の文章に対して
究では、文章の与える印象は、文章の形態に基づくものであるとし、印
美を感じている。
この古典の漢文的性格の文章の例が、
『太平記』や『平
象を文章の形態といった構造と結びつけて説明する。そして、安本の研
家物語』
である。そして、
これら『太平記』や『平家物語』に共通するのが、
究では、因子分析によって検出された文章の形態上の特徴と、印象との
美文体という文章形式である。
しかし、美文体は、表現上は美しく綴ら
結びつきを分析する。
しかし、
いずれの研究によっても、普遍的な文章の
れてはいるが、内容の伝達には乏しい文章であった。
しかも、谷崎によ
美的印象というものを捉えきれてはいないことが理解された。その根拠
れば、現代人が文章の表現の美を感じるには、内容の理解が伴わなけ
は、以下の通りである。
ればならないという。だが、論者は、内容理解に加えて、文章の主題に対
小林の研究は、印象に対して、主題や題材といった内容面の影響を勘
する読者の好みといった、内容性に対する共感も必要であると考える。
定にいれていないことから、観察は表現面のみに留まっている。従って、
しかしながら、そこには個人差が生じる。読解力や内容性に対する共感
文章の与える印象を捉えるに際して、
こうした内容不在の表現面の観
は、普遍的ではないのである。
このことから、
『太平記』や『平家物語』の
察は、文章の与える普遍的な印象の場合については不足であると考え
美文体の文章は、今日の現代人にとって内容理解の面からも普遍的に
ざるを得ない。
また、波多野は、結局、印象というものは主観的に捉える
美しいと感じられるとは、考えにくいものであると分かる。
べきものとする。
しかし、普遍的な印象というのは、誰しもが共通して抱
他方、文章表現性は、現代文において、
「周辺情報」の表出や「文学的風
くものである可能性がある。
これでは、ある観察者一人の印象を客観的
情」
の表出といった効果を果たしている。
周辺情報の表出とは、
作者の伝
な文章構造に、結びつけたところで、普遍的な印象を与える文章の実像
達しようと想定している背景や場面の状況、様子の情報を文章で書かず
を把握できるとはいえない。一方、安本の研究は、客観的な社会的文章
とも伝えられることを指す。一方、文学的風情の表出とは、文字形象のも
の印象と文章の全体的な構造を捉える方法を呈した上で、そこで得ら
つ印象をいう(注1)。本論では、
これらを
「効果的表現」
として定義づけ
れた印象と文章構造の結びつけによって、文章の与える普遍的な印象
た。
効果的表現は、
文章表現性に基づく。
そして、
効果的表現は、
文章上の
を捉えられることを示唆する。
しかし、結局は、方法論として留まってし
表現を補足し、読者の理解に貢献するものとして考えられる。
さらに、現
まっているだけで、実際には、普遍的な文章の美的印象を捉えることが
代文では、音楽的要素である音律も、文字形象によって作り出せるとい
できていない。
う側面を持つという知見を得られたことから、
このような効果的表現の
従って、
普遍的に美しいと感じる文章の実態を、
現行の文体論研究によ
発揮は、
日本語の特質と呼べるものとすることができる。
っては、
把握することはできなかったわけである。
以上の分析から、古典の文章の美と現代文の効果的表現は、文章表現
138
卒業研究・作品
性に基づくこととが理解される。
それは、
「文学的感興」
というべきものな
受する印象とは、人によって相違しなくてはならないものとなるのであ
のである。
しかし、
そこに普遍性は認められない。
る。
注:1.例えば、smileという単語の日本語に於ける、えがお、エガオ、笑顔、え顔、笑がお、
というそれぞれの表記は、
各々に固有の文学的風情を表出しているといえる。
だが、先述の翻訳文の分析にみられるように、文章の伝える内容自体
は、使用言語や文体の違いを超えて、人々に共通して感動や美しさを抱
かせる。
ここから、内容面における文章の美しさは、受容像以外の何ら
内容の美
かの要因に基づくことが分かる。その何かとは、やはり内容の型にある
のではないかと考えた。
ここまでの分析で、文章の美の内容面における
次に、本論では、文章表現性といった表現面に加え、内容面における
美しさの分析も試みた。
ここでは、文章表現の時代の変化に着目しなが
ら、翻訳文章の表現の相違に焦点を当てた。
要因は、内容の型に求められることが理解できたのである。
注:2.送り手が伝えたい対象を
「伝達対象」
とする。
また、送り手が伝えたい対象を変換
した言葉によって、受け手が想像してつくるものを
「受容像」
とする。
文章には、文語文と口語文とがある。文語文とは、文語と口語の差が
大きく開いていた明治初期の頃の文語を用いた文章のことを指し、口語
美文調と美意識
文とは、明治初期からそうした差を埋めようという試みの中で発展し
今日の現代人にも使用される、口語を用いた文章を指す。
この文語文か
しかし、
ここまで分析では、今日の現代人にとって普遍的に美しいと
ら口語文への変遷は、日本における外国小説の翻訳にも如実に反映さ
感じられる文章の実体を捉えることができていない。そこで、作家では
れている。
このことを受け、有名なダニエル・デフォー作『ロビンソン・ク
なく、一般的な読者や書き手という観点をもった分析を加えた。
ルーソー』の小説にも、明治期と現代とでは、表現が大きく異なっている
明治期の全般を覆った江戸以来の文範指導は、美辞の使用を特色と
ことをみることができる。
すなわち、明治期では文語文漢文調で書かれ、
する文語文漢文調の文章を規範として行われていた。
これは、谷崎や川
現代では口語文で書かれているのである。
端ら作家の発言からも推定されることである。それが、一般の人々の文
また、表現の相違という点では、今日でも、翻訳文学の文章自体が、各
章観を形成しつつ、美意識を生じさせたと考えられる。すなわち、明治
国において、
他国語と自国語ということからしても、
表現の相違を有する
期の人々は、内容不在の美文調の文章に対して、美意識を感じていたの
ことは確かである。だが、翻訳の文章は、
こうした時代の流れに伴って表
である。
しかも、内容を重視する現代でも古典調の漢文的性格の文章、
現が変化したり、翻訳自体に伴う表現の相違がありながらも、
『ロビンソ
あるいは文語文漢文調といった美文調の文章の特質である美辞麗句
ン・クルーソー』や『ハリーポッター』、
『ナルニア国物語』が児童文学とし
や、身振りの大きさは、日本国憲法や挨拶状の文中にもみることができ
て、
世界中の人々に感銘を与えている。
る。
論者は、
ここに着目して、原文由来の文章内容そのものが、感銘を与
このことから論者は、今日の日本人にとっては、美文調の文章が元来
えてくれるためではないかと考えた。
より具体的にいえば、原書の原文
持っていた音律や文字形象に対しても、美しさを抱くような美意識を潜
が持つ物語の構成が、人々の心に響くものだからとみたのである。それ
在的に持ち続けているのではないかと考えた。
は、内容の型の美というものであり、
この型が感動なり美しさを引き起
こす要因として捉えたのである。
結論
一方、吉本隆明の見解から見出した、言語の特質に従えば、言語とは
それと付き合う人間の自己の知覚による経験によって形成された概念
そうだとすれば、
日本人にとって、
文語調の美意識は普遍性をもつ可能
が集合した、類概念の総体という側面を持つと、論者は考えた。
ここで
性はある。
しかしながら、
今日の現代人の価値観からすれば、
ある文章を
は、
「人間の自己の知覚による経験によって形成された概念の集合した
美しいと思えるには、
それだけでは不足であり、
内容理解と個人との共鳴
類概念の総体」を
「内容部」
と定義し、言語や言葉を指すものとした。そ
を伴うものでなくてはならないのである。
の上で論者は、言語による意思疎通を、送り手が「伝達対象」を言葉に変
換し、受け手が受容像をつくることの過程とした。
また、
この受容像によ
って人々の印象が引き起こされるものとした(注2)。
この考え方に従えば、言語による意思疎通では、人々の受容像は完全
な一致をみないといえる。
さらに、
言語による印象は、
個人個人が違う受
容像によって受けとるものであることが想定できる。
そうだとすれば、
感
139
卒業研究・作品
(主論文)
グラフィティ・アートとは何か /(副制作)グラフィティの構成要素の研究と音楽的再構築
What is Graffiti Art?
/The study of elements of Graffiti Art and musical recomposition.
川井田 好應
Kawaida Yoshitaka
デザイン工芸コース
(主論文)
要旨
ィティにおける「スタイル」は、
コミュニティと外界との接続の際に現れ
る、連結的な価値観である。グラフィティにおける「スタイル」は、他の「ス
グラフィティ・アートとは70年代末のニューヨークで多く見られた、
ス
タイル」に対して接続に接続を次いで形成される。
このように、同じ大衆
プレーやマーカーなどで描かれる落書きの事である。グラフィティ・アー
芸術であっても、ポップアートとは美意識や目的が全く違うグラフィテ
トは、その後ヒップホップカルチャーの隆盛と共に世界中に広がり、
ィ・アートは、”マス・カルチャーそのもの”
という意味での大衆芸術、マ
様々な分野に影響を与えている。
しかしその影響の大きさから、グラフ
ス・アートと呼ばれるべきものではないだろうか。
ィティ本来の意味が拡散してしまう事にも繋がってしまうのだ。そこで
本論文では、グラフィティという言葉の意味を今一度考え、グラフィティ
町中の現代グラフィティ
の重要性や美術史に置ける位置づけ、
さらにグラフィティは芸術行為な
のかを確認する事を目的とする。
また、現代の町中ではグラフィティは上記のグラフィティ以外にも
様々なものが存在する。
まず、
ステッカーのような「貼る」グラフィティが
記録されたグラフィティ
多く目撃されている。
この手法はグラフィティの規制の強さ故の仕方の
基本的にグラフィティには文字の複雑さや規模等から数種類にわけ
コラージュ的な要素を元来持ち合わせているのだ。ただし、グラフィティ
られ、大きな規模のものに簡単な落書きはしてはいけないなどの暗黙
にとって重要なのは貼付ける素材ではなく、
カンヴァスの自由さにあ
のルールがある。
このように、グラフィティ・ライターには独自のコミュ
る。都市の表面に貼付けられたグラフィティは、
さらにグラフィティのカ
ニティがあり、共通の用語や独特の美意識が存在する。
ンヴァスとなり、壁自体は作品として完結せず、生き物のように変化を続
無い適用の形に見えるが、グラフィティは「貼る」事によって拡張出来る
けることで、暴力的に生活の中に侵入して来るのである。
現在のグラフィティ
ライブ・ペインティングについては、発表される場がイベントやクラブ
等である点から、表現行為というよりもショーとして行なわれていると
その後ギャラリー等に接近し、現代美術の世界で積極的に評価され
考えられる。その他、
リーガル・ウォールのように合法なグラフィティが
たグラフィティが存在する。1983年にシドニー・ジャニス・ギャラリーが
町中に出現する事によって、合法なグラフィティがより伝統的なグラフィ
「額をつけてギャラリーで展示した」グラフィティの事を
「ポスト・グラフ
ティの価値観に接近する事が出来ている。
ィティ」
と呼ぶことにより、ギャラリーでのグラフィティと町中のグラフィ
さらに、現在は壁の汚れを落として絵を描く
「リバース・グラフィティ」
ティとが明確に区別されることになる。その後もポスト・グラフィティと
や、
レーザーを利用して壁に投射する「レーザー・タグ」など、合法性によ
いう言葉は様々な解釈を受けるが、合法性によってグラフィティとポス
る従来の価値観では分類出来ない様々な手法が展開されている。
レー
ト・グラフィティを区別される点はその後も共通している。
ザータグを行なう一人であるエヴァン・ロスは、
インタビューで
「グラフ
ィティは平面に描かれたものだけではなくて、街にオブジェを出没させ
大衆芸術の作家性
ることをも含む」
と答えているが、現在ではグラフィティの意味が変化
し、純粋に行為としての「落書き」を、絵画や彫刻のような広がりのある
ポップ・アートとグラフィティは大衆文化に大きな影響を受けている
言葉として捉え始めている。
これらの新しいグラフィティは、今までのグ
点が共通してはいるが、相違点も多い。例えば、両者ともに多く見られる
ラフィティとは違うコミュニティに向けて作られていることが多い。
表現手法である「引用」について、解釈は大きく異なる。ポップアートにお
ける引用は、作家性の否定のための没個性的な振る舞いとして行なわ
結語 れるが、グラフィティでの引用はパロディにも似た作家性の提示として
行なわれる。グラフィティでキャラクターが描かれる時、それはグラフィ
アマチュアの芸術であるグラフィティは、資本に支えられた芸術とは
ティ・ライターとキャラクターの擬似的なコラボレーションであり、作家
違う方法で、世界中にコミュニティを広げ続けており、同時に解釈も広げ
性を無くすための行為ではない。グラフィティにおいて作家性は「スタイ
続けているのである。
ル」
と呼ばれ、最も重視される価値観の一つなのである。
引用や模倣が頻繁に行われる点に明らかなように、グラフィティの
「スタイル」は、美術史的な意味での作家性とは意味合いが違う。グラフ
102
[主要参考文献]
「現代思想2003年10月号 特集=グラフィティ マルチチュードの表現」青土社
卒業研究・作品
(副制作)
グラフィティの構成要素の研究と音楽的再構築
に点や曲線の属性によるリズムが重要であることがわかる。
「点」に関し
ては、線の方向性が急激に変わる
「折れ点」や、線の
「交点」
は数少ない点
本研究では、グラフィティの中かでも最も基本的で且つ多く見かける
の要素である。特にグラフィティの「折れ点」は特徴的で、ほとんどが鋭
「タグ」
と呼ばれるグラフィティに的を絞り、構成要素を研究し、発見した
角に折れ、ゆるやかに曲がる曲線とハッキリと区別される要素になる。
様々な要素を既存の音楽を元に再構築することを目的としている。
ほぼ全てが人間の手で描かれるグラフィティは、曲線は非常に多い
が、
「直線」
として明確に定義できる線は少ない。
しかし、そのカーブの半
タグの構成要素
径や他の線との関係性から、
「直線」
としての役割を担っているであろう
線は数多く見つける事ができる。それらの線の多くは文字の要素として
グラフィティ・アートの構成要素として真っ先に思いつくものは「文
「縦に伸びる線」であり、グラフィティは直線や曲線という属性と共に、
字」である。基本的にライターの名前を書くグラフィティは、崩した文字
「縦に横断する」
という線の性質にも、
リズムを作る特徴を見いだしてい
で形作られ、文字を構成する「点」
「線」
「線に囲まれた空白」でリズムを
る事がわかる。
作り出し、
またそれらを強調して成り立つ躍動感溢れる図形である。
音楽的構成について
文字の構成要素
・折れ点
・交点
・カウンター ( 空白 )
・曲線
話が前後するが、今回の研究のテーマの設定は、グラフィティをアクシ
ョン・ペインティングと比較し、
「音楽的」
と評する記述を目にした事に端
を発する。
確かに躍動感に溢れるグラフィティではあるが、
筆跡のみなら
ず、その構成に対して真正面から「音楽的」
であることを目指したらどう
また、グラフィティはそ
いう物が出来上がるのか興味を持ったからだ。
の黎明期においてブレイクダンスに影響を受けながら発展した背景が
文字以外の要素
あるが、
ブレイクビーツ等の音楽からの影響が少ない点に疑問を感じた
事も、今回のテーマ設定の大きな理由でもある。
よって今回再構築の元
にする曲は、
ブレイクビーツの名曲とされるJディラの
「Bye.」を選んだ。
さらに、特徴的なのは「文字以外の要素」
として、
「矢印」や「点」や「下
「音楽的」
とは曖昧な表現ではあるが、今回は「音」の関係性を抜き出
線」など、文字を強調する図形が多く登場することである。今回20個の
し、平面に記す「楽譜化」によって音楽に置き換える事を目指した。
タグを収集したが、そのうち実に16個ものタグにこれらの強調図形が
音を図形に置き換えるに際して、12人に音と図形の印象を尋ねるア
見られた。
また、上記のタグの「y」の文字のように、本来の文字が大きく
ンケートをとり、曲中で使われる5つの音色の印象を、前述した「折れ
変形し、通常とは違うカウンターなどの要素を作る、
「 文字」
と
「強調図
点」や「線」、
「交点」や「線で囲まれた空白」など、様々な要素との印象や、
形」の要素を併せ持つ中間的な図形も多く出現する。
音色と色の印象、
また、音の階層に関する印象を尋ねることで、
できるだ
文字の要素の中でも、線に囲まれた空白は、必ず1つの「交点」を持っ
け客観的に音楽をグラフィティの要素に置き換えた楽譜制作を行った。
て生まれる図形である。
この図形は属する点(折れ線、交点)によって性
今後より研究を進めることで、さらにグラフィティの要素や音楽的構
質が決定されるが、それらの点による属性の影響力が大きい事から、主
成に対する理解を深めることとしたい。
■五線譜に近い方法で構成した平面(2011年1月21日現在)
103
卒業研究・作品
漫画原作ドラマの問題
ドラマで表現すべきこととは何か
The Problem of Video Drama Which is an Adaptation of Comics
品川 美鈴
Shinagawa Misuzu
デザイン情報コース
はじめに
が高い 。
近年、極めて数多く制作されている漫画原作ドラマだが、
ストーリー
ビジネス媒体としてのドラマにおける内容軽視傾向
や登場人物の大幅な脚色とそれに伴う質的低下が見られ、
ドラマの内
容面において問題があると考えられる。本論は、漫画原作ドラマの問題
そもそも、漫画原作ドラマに限らず、テレビ番組は、
スポンサーである
点を検証し、漫画原作ドラマとは、何を表現していくべきものなのかを
企業の利益につながる、視聴率を重要視している。幅広い視聴者を取り
論じようとするものである。そのため、漫画原作ドラマをジャンル分け
入れるために、原作漫画の内容をライト化=簡易化し、脚色する傾向が
し、数点の作品を取り上げることとした。漫画原作ドラマが増加し始め
ある。
また、芸能界ビジネス面での思惑から、キャスティングを整え、原
た近年、2005年以降の作品で、視聴率が高いと見られる夜7時∼11時
作の内容や登場人物の個性を軽視して、原作の軸をはずす、つまりその
の間に放送され、原作が、優れているという基準を設けて選出した。本
原作である必要性をなくしている傾向が見られ、
ドラマ
『怪物くん』が顕
論第Ⅰ部では、漫画とドラマの相性の悪さについて、第Ⅱ部では、漫画原
著な例である。
作ドラマの成功例について検証してゆくこととした。
他方、
ドラマ版『シバトラ』でのエピソードは、少なくとも、性的なテー
マを排除したため映像化しやすく、視聴者を選ばないことは明らかであ
「視覚的現実」
による表現の違い
ろう。
これらのことから、漫画原作ドラマでは、幅広い視聴者層を取り入れ
漫画は「絵」
と
「文字」、
ドラマは「音声」
と
「動き」が特徴的な表現方法
るために、登場人物やストーリーを故意に簡易化していることがわか
である。
この性格の異なる媒体が組み合わさって漫画原作ドラマとなる
る。読者層を予想して連載する漫画と、最大公約数を狙うドラマは、相性
とき、役者の身体性による問題が浮上してくる。本論では、映像の中の実
の悪い媒体といえるのである。
在の役者及び場所を見ることによって得られる現実感を
「視覚的現実」
と定義することとする。
アニメ調の登場人物の容姿を忠実に再現したり、
漫画原作ドラマの成功例に見られる問題点
外国人役を日本人が演じたりすると、視覚的現実の問題から、現実との
乖離が生じるのである。
また、人気俳優を多用すると、視聴者が、印象の
ここで、
ドラマ
『のだめカンタービレ』
と
『JIN‐仁‐』を、客観的に評価
強かったキャスティングを他の作品に重ねてしまう現象が生じることも
されている漫画原作ドラマの成功例として挙げてみる。ただし、
この2作
問題である。
品にも、前述の漫画とドラマの相性の悪さから来る問題は見られる。
ド
そのほかにも、ファンタジー要素が強く、現実味のない漫画作品をド
ラマ
『のだめカンタービレ』
では、原作の「Sオケ、Aオケ、
コンマス」
といっ
ラマ化する場合、CGや、必要以上に装飾されたテロップの使用がよく見
た用語や楽曲は、台詞である音声でしか判断できない。
また、前述の視
られる。制作者側がそのドラマ作品について、最初からフィクションであ
覚的現実の問題点から、外国人役を日本人俳優が演じている点も見逃
るということを視覚的に前面に押し出し、
ドラマの非現実な内容につい
せない。
ドラマ
『JIN‐仁‐』は、
『のだめカンタービレ』
と同様に、専門用
ての批判を避けているのだと考えられる。
語が聞き取りにくいという問題点がある。
また、
ドラマ出演当時33歳の
女優が、20歳前後の役を演じるなど、必ずしもふさわしいキャスティン
連載形態の差による情報量の違い
グとはいえない面も存在する。
しかし、
ドラマ
『のだめカンタービレ』にはCGの多用や人形の使用、原
連載や放送形態のあり方には、大きく分けて、漫画、
ドラマ共に「1話完
作にも見られる、漫画らしい、大袈裟な演技がよく見られる。そのため、
結形式」
と
「続きもの形式」の2通りが存在する。
「1話完結形式」の漫画
視覚的現実から来る問題点も、
この演出の一環として、視聴者に受け入
原作ドラマは、放送約12回分に散りばめるエピソードには事欠かない
れられるよう想定しているのである。
ドラマ
『JIN‐仁‐』
では、専門用語
ものの、予定調和のなかでいかに視聴者の興味を保ち続けるかは、困難
の聞き取りにくさは問題ではあった。
しかし、
ドラマは普遍性とわかりや
な課題となるドラマ形式といえる。一方、
「連続もの」の漫画原作ドラマ
すさが重視される媒体であり、台詞より雰囲気が視聴者に伝わることが
制作にあたって重要になるのは、漫画のストーリーをドラマに合わせ、
重要である。原作の冗長な説明的台詞を省き、役者の表情や動きによっ
エピソードを削除していく場合、原作の軸を理解し、削除する部分を精
て、雰囲気や感情を表現できていることから、
ドラマ
『JIN‐仁‐』内での
査し、その分の情報をどこかで補わなければならないということであ
用語の聞き取りにくさが、必ずしも内容の低下を招いているとはいえな
る。そして、削除する情報を誤ると、原作とは乖離した内容になる可能性
い。
106
卒業研究・作品
以上のように、視覚的現実の面で、問題点はあり、役柄の年齢などの
る。
ドラマ『のだめカンタービレ』がオリジナル企画だったならば、金銭
問題は解決が困難であるものの、漫画とドラマの相性の悪さの問題点
面の問題から、パリ編のストーリーは生み出されなかった可能性が高
が、
『のだめカンタービレ』
と
『JIN‐仁‐』においては、必ずしも内容の低
い。
下に直結しないことが理解される。
ドラマ
『のだめカンタービレ』や『JIN‐仁‐』の例を見てみると、原作
に忠実であると感じられる一方で、
ストーリーラインを整理した脚色が
原作重視の制作
見られる。個々の作品は、原作の作品性を損なわず、前述のように評価
されている。
このことから、必ずしもドラマのオリジナルストーリーを前
原作を重視するかしないかは別として、最低限「原作の構造やストー
面に押し出す必要はないと考えられる。
リーの骨格の部分を使わせていただく」
という意識は、
どの作品にも共
漫画原作ドラマを、単なる娯楽作品にしてしまってはいけない。娯楽と
通しているといえる。漫画『のだめカンタービレ』や『JIN‐仁‐』では、
は、俳優を見て楽しみ、登場人物たちを笑うだけの作品、番組のことで
「指揮者を目指す」、
「江戸時代にタイムスリップして、医療を行う」
といっ
ある。漫画は、
ドラマという媒体や、人気の俳優のために描かれたもの
たストーリーの中に、
「演奏が成功した」、
「患者を救うことができた」
と
ではない。
ドラマとは、単なる娯楽ではなく、人間像を描くものである。
いったカタルシスが存在する。つまり、
ストーリーの中で、
どのような点
脚本家の塩田千種は、
「テレビドラマがたくさんの『見えない』制約の中
で困難を乗り越え、
カタルシスを感じさせるかということが、
「原作の構
で作られているのを感じました。不調が囁かれているドラマですが、知
造やストーリーの骨格」
といえる。
ドラマ
『シバトラ』や『花ざかりの君た
らぬ間に(あるいは意図して)制約を破って書かれた(作られた)作品は
ちへ』では、原作の主軸とずれた脚色が行われていることが、分析の結
新鮮な切り口があって面白いし、
アニメ原作に材を取ったヒット作が多
果、明らかとなった。
いのも、テレビの枠を超えた着想がそこにあるからかもしれません」
(注
一方、
ドラマ
『のだめカンタービレ』
と
『JIN‐仁‐』であるが、
『のだめ
1)
と述べている。
カンタービレ』において特徴的なのは、原作ではつながりのない話を組
スポンサーや俳優など、
「見えない」制約が多い「ドラマ」だが、漫画原
み合わせていても、その終わり方が、
ドラマでも原作とほぼ同じように
作ドラマは、漫画の自由なストーリーを、表現する努力をしなくてはなら
まとめられている点である。
ドラマの重要要素である登場人物の成長と
ない。漫画を、作品ではなく、単なる素材でしかないと、安易に捉えてド
変化については、
ドラマ最終回で付け加えられた台詞により、主人公の
ラマ化すれば、それは、従来のテレビの枠にはまった漫画にしかならな
音楽に対する態度の明確な変化が見られる。
またドラマ版『JIN‐仁‐』
いのであろう。
では、主役である仁の成長と変化を描けているほか、仁以外の登場人物
の役割が大きくなったことで、それらの人物たちの葛藤や変化も描かれ
まとめ
ているのである。
以上のように、脚色面、映像面で、
リアリティを求めるか求めないかの
漫画原作ドラマの成功例には、
「漫画とドラマは別物」
として、ぞんざい
違いが見られるドラマ版の『のだめカンタービレ』
と
『JIN‐仁‐』
である
に扱うような意識は見られない。
ドラマの脚本力不足が叫ばれ、番組自
が、原作のストーリー、
カタルシスを表現する点においては両者とも忠
体が単なる娯楽でしかない状況の中、
ドラマ制作者側は、漫画という作
実であり、登場人物の成長と変化が描けている、性格がよく似た漫画原
品を借りている以上、その本質を理解し、それをドラマとしてどう表現
作ドラマであるといえる。それゆえに、漫画原作ドラマにおける、漫画と
できるのか考えていかなければならない。漫画の中で生み出された自
ドラマの相性の悪さから来る問題点を内抱はしているものの、全体の
由なストーリーを、さらに完成させた形で表現するのが、
ドラマの魅力
内容面において評価されたのだといえる。
であり、役割なのである。
このことから、原作のストーリー、
カタルシスを重視することが、
ドラ
マで表現しなければいけない、漫画原作ドラマの特徴に成り得ると考え
られる。
[主要参考文献、注]
原作の価値とは何か
ドラマは金銭的、時間的な制約を多く抱えた制作形態である。金銭面
や時間面での問題が、自由な脚本と物語制作を制限しているともいえ
○米沢嘉博
『藤子不二雄論』河出書房新社、
2002
○ルイス
・ジアネッティ
『映画技法のリテラシーⅡ』
フィルムアート社、
2004
○四方田犬彦
『漫画原論』筑摩書房、
2009
○
『シナリオ』
シナリオ作家協会、
2010年5月号
○
(注1)
『ドラマ』映人社、
2009年12月号、
P14
107
卒業研究・作品
日本製RPGの日本的特質
ー日本製 RPGにみる「型」の美 ー
Kata Stereotypes of Japanese RPG
加藤 浩貴
Kato Hirotaka
文化マネジメントコース
要旨
を冒険するスタイルとコマンド入力式ターン制戦闘という二つの要素
本論では、発生から20年余りが経過した日本製ロールプレイング
で評価を得ることとなり、日本製RPGの雛型となったのは言うまでも
を取り込み制作された。この『ドラゴンクエスト』が日本のゲーム市場
ゲーム(RPG以下、同一表記)における、
「型」の形成を論証し、その功罪
ない。そしてこれを契機として、以降、それぞれ独自の要素を加えた
を明らかにすることを目的とする。
「 型」
とは「舞楽、能、狂言、人形浄瑠
『ファイナルファンタジー』や『女神転生』、
『ポケットモンスター』、
『テイ
璃、歌舞伎、舞踊など、伝統芸能の演技、演出において、代々継承され洗
ルズオブ』などの人気シリーズが生れた。
これらシリーズものを中心と
練されて固定化した表現様式」(註1)であり、めまぐるしい変化を辿っ
して、RPGはハードの進化に伴い、その表現力に磨きをかけていった
てきた日本ゲーム史において、変わることなく幾つかの特質を醸成さ
のである。例えば、プレイステーションが発売されてからは『ファイナル
せてきた日本製RPGには、
この「型」が形成されていると考えられる。
ファンタジーⅦ』のように、RPGにおいても3Dグラフィックが使用さ
れ始め、以降の主流となっていった。
日本ゲーム市場の「ガラパゴス化」
こうして日本においてRPGが一表現ジャンルとして確立された現在、
日本製RPGは、多様な形で我々の前に現れるようになった。据え置き
ファミリーコンピュータの発売から20年以上もの時が経ち、隆盛を
機から携帯機まで、様々なハードが乱立する今となっては、ソフトもそ
極めた日本のゲーム市場は現在、大きな転換点を迎えている。ニンテン
れぞれのハードの性能、特徴を活かしたものが制作されている。
しか
ドーDSやWiiの爆発的ヒットにより新たなユーザー層が流入したこと
し、日本において多様化を極めたこれらRPGを海外、特にプラット
や、ゲーム機の主流が据置機から携帯ゲーム機へと移行したことなどは
フォームからビジネス形態まで、日本と類似した市場を形成し、日本市
その最たる例であり、各企業から販売されるソフトの傾向からも、その
場の比較対象とされることの多い北米市場においてスタンダードと
変化が窺える。だが、
これらよりさらに憂慮すべきであると考えられる
なった『Fallout3』のような北米製RPGと比較、検証してみると、日本
のは、日本市場の「ガラパゴス化」である。海外、日本市場において影響
製RPGは共通して、いくつかの特質を軸にして制作されているという
力を持つハードやソフトには大きな差異が見られ、今や日本は世界の
ことが明らかとなった。
ゲーム市場から孤立し、独自の市場を形成してしまっている。
この「ガラ
パゴス化」が特に顕著なのがRPGというジャンルである。
日本製RPGの特質
RPGとは、
「プレイヤーがゲームの世界の中で、ある人物の役割を演
じ、さまざまな経験を通して成長していく過程を楽しみながら、目的を
現在の日本製RPGは、
どれも「ストーリー主導型」、
「コマンド入力式
達成していくもの」(註2)であり、長年日本のゲーム市場における「王
ターン性戦闘」、
「アニメ調のキャラクターデザイン」、
「カットシーンの
道」として愛され続けてきた、人気ジャンルの一つである。
しかし近年
多用」
という、
4点の特質を軸としている。
では、日本、海外のユーザーから日本製RPGに対し「今のRPGはつま
ゲーム世界を仮想現実のように作り込み、自由度の高いその世界に
らない」、
「 ムービーだけで肝心のゲーム内容は空っぽ」といった批判
プレイヤーを住まわせるという「システム主導型」の北米製RPGに対
的 な 意 見 が 挙 がりはじめ るよう に なった。また 、日 本 製 の R P G は
し、
「ストーリー主導型]の日本製RPGは、プレイヤーがゲーム世界に
JRPGとして揶揄を込めて呼称され、海外製、特に北米製RPGとはまっ
登場するキャラクターたちの物語を追体験するべく作られている。そ
たく別のものとなってしまった。
のため、プレイヤーは制作サイドが用意した一本道を辿るだけか、マル
チエンディングの場合は道のりの定められた数本のルートを進んでゆ
日本におけるRPGの発生と発展
く他なく、ゲーム内に用意された町や人、そして強大な敵の存在は、そ
の進行を助けるためにある。
そもそも、
コンピュータゲームにおけるRPGの祖とされているのは、
また、北米製RPGがファーストパーソンシューティングの要素を内
日本、北米ともに『Ultima(Akarabeth)』(1979)、
『Wizardry』(1981)
包した「リアルタイム戦闘」を採用しているのに対し、日 本 製 R P G は
である。
しかし、日本でこれらをお手本にRPGが制作され、人気を得る
『ドラゴンクエスト』から変わらず「コマンド入力式ターン制戦闘」を採
ようになると、その様相は徐々に独特の変化を見せ始めるようになっ
用している。ここでは即興性のないコマンド入力という単純作業に面
た。
白みを付随するため、結果としての個々の演出に工夫がなされている
日 本 の R P G 史 の 原 初 に 登 場 し た『ドラゴンクエスト』(1986)
と考えられる。
は、
『 Ultima(Akarabeth)』と『Wizardry』の両作品から、2Dフィールド
その他にもアニメ調のキャラクターデザインの採用、映画的演出を
116
卒業研究・作品
施したカットシーンの多用といった特質が存在するが、北米製RPGに
しかし、特異ではありつつも「型」が形成された日本製RPGには、様式
見られないこれらの特質は、きわめて日本的な特質ということができ
美、そして戦略性の高い戦闘システムといった、海外製RPGには成し
よう。祖を同じくした日本、北米のRPGは、現在となってはそのありよ
得ない、誇るべき特質が存在する。そのため、日本製RPGが変化を求
うを異にし、
まったく別のものとなってしまった。北米製RPGがハード
められている現在にあっても、その古くからの「型」を全て否定するこ
の進化により、現実性や自由なロールプレイを追い求めた一方で、日
とは誤りであろう。事実、
「型」通りに制作されたにも関わらず日本と海
本製RPGは常に非現実的な架空の世界での、キャラクター達の物語を
外の両ユーザーから高い評価を得ている『ペルソナ4』のような作品
プレイヤーに提供することを主としているのである。
も存在する。
日本製RPGは、
「型」の形成による功罪をしっかり把握し、今後も時代
日本製RPGにみる「型」の美
に応じた工夫を凝らして、進化を続けていくべきものなのであろう。
ここで、さらに日本製RPGを多角的に検証するため、上記した諸特
質を伝統芸能などの「型」の視点から捉え直してみると、それらと日本
の「型」の文化である「タテ」や「見得」、日本の伝統演劇全般における
「創造的示現」
との色濃い類似性が確認できる。
例えば歌舞伎の闘争形式である「タテ」と、日本製RPGにおける
「コマンド入力式ターン性戦闘」はどちらも、写実性が求められる時代劇
の「殺陣」
とは違い、様式美を重んじているという点で共通している。両
者の闘争の描写は、人物の所作一つ一つを強調したものであり、随所で
「見得」などによる見せ場が用意されているため、テンポはあまりよくな
い。
しかしその反面、音楽や効果音、個々の動作といった多様な視聴
覚要素によって、本来否定されるべき醜悪酸鼻な殺傷の場面を「美」
に転じているのである(註3)。
また、河竹登志夫は『演劇概論』
で、日本の伝統演劇を
「創造的示現」
と
し、その特徴を説明しているが、
これは日本製RPGにもそのまま適合さ
せることが可能であると考えられる。ここでの「 創 造 的 示 現 」とは、
「日常的写実とは一段次元のちがった美的世界の創造」(註4)である
が、
『ファイナルファンタジーⅩⅢ』などの日本製RPGを紐解いてみる
と、確かに真よりも美を追求する「創造的示現」という特質を見出す
ことができた。
さらには、ハードの進化や記憶容量の拡大など、ソフトを取り巻く環
境が激しく変化してきたにも関わらず、日本製RPGが20年もの間、変
わらず上記した諸特質を守り続けてきたということを考慮すれば、日
本製RPGにおいても、伝統芸能と同様に「演出において、代々継承され
洗練されて固定化した表現様式」、すなわち「型」の成立が確認できる
のである。
[脚注]
○註1.
相賀徹夫『日本大百科全書』
(小学館、
1985)
、
p329
○註2.
松村明『スーパー大辞林』
(三省堂、
2005)
○註3.
河竹登志夫『歌舞伎美論』
(東京大学出版会、
1989)
、
p51
○註4.
河竹登志夫『演劇概論』
(東京大学出版会、
2004)
、
p107
[ 主要参考文献 ]
○上床光信
『ファミ通ゲーム白書2010』
(エンターブレイン、
2010)
○河竹登志夫
『演劇概論』
(東京大学出版会、
2004)
おわりに
○デジタルゲームの教科書制作委員会
『デジタルゲームの教科書』
(ソフトバンククリ
エイティブ株式会社、
2010)
○永田哲朗
『殺陣 チャンバラ映画史』
(社会思想社、
1993)
ここまで述べてきたように、日本製RPGは20年余りの間に「進化」
を続けてきた結果、歌舞伎や能のごとく
「型」を醸成させることとな
り、世界的に見れば伝統芸能のように特異なものとなってしまった。
○浜村弘一
『週刊ファミ通 第24巻第38号』
(エンターブレイン、
2009)
○山本充
『ユリイカ4月号 第41巻第4号』
(青土社、
2009)
○池谷勇人
「正念場を迎えるRPG」
『 2009
テレビゲーム産業白書』
(株式会社メ ディアクリエイト、
2009)
117
卒業研究・作品
ドラクロワの絵画にみるロマン主義と古典主義の総合
−人体表現からのアプローチ−
The Study of The Synthesis of Romanticism and Classicism in Delacroix’s Tableaus
-The Approach by Analyzing The Representation of Human鎌田 将太
Kamada Shota
文化マネジメントコース
はじめに
にあっては、批判の対象となり得たが、彼は自ら美術界の常識を破り、新
たなる表現を打ち立て、
これにより美術界におけるロマン主義の革命を
本論は、19世紀フランスを代表する画家、
ウージェーヌ・ドラクロワの
起こしたと言える。
こうしたドラクロワ=ロマン主義者という認識は、ボ
絵画にみる独自の人体表現の特質を検証する。美術史をひも解くと、
ド
ードレール、
スタンダール、
ドレクリューズなど同時代の美術批評家たち
ラクロワはロマン主義の芸術家として広く認識されている。
しかし、
こ
や、
新聞などのメディアによってさらに加速する結果となった。
の画家は「私は純粋な古典主義者だ」
という、今日の認識とは相反する
しかし1832年のモロッコ旅行を機に、
ドラクロワは次第に古典主義的
かのような、自身の芸術家としての立場を表明する発言を残している。
沈静化へ向かうことになる。
この旅はドラクロワの色彩を劇的に変化さ
この発言通り、確かにドラクロワは純粋にロマン主義的な作品の他に
せ、以後急激に色彩を明るく、
より多彩にさせたが、同時に自身の古典主
も、古典主義的素養を根底に置いた作品をいくつか遺している。
義の基盤も見出していた。
そこで以下では、
ドラクロワはロマン主義者と古典主義者という二つ
の側面を併せ持っていたという観点に立ち、
ドラクロワの人体表現の特
ドラクロワのロマン主義的表現
質を検証していくこととする。
いくつかのドラクロワの作品を具体例とし
て取り上げ、ロマン主義的表現と古典主義的表現、そしてこれらの総合
ドラクロワがロマン主義芸術の旗手として位置付けられるようにな
について、完成作だけでなく習作素描などの資料も交えて分析し、特に
った理由としては、人体の激しい動勢表現に負うところもまた大きかっ
人体表現に焦点をあてて研究を進めていく。
たと考えられる。新古典主義の人体表現は、古典古代の理想的な人体表
現に基づいているが、
ドラクロワはこの現実とはかけ離れた人体表現か
ロマン主義と古典主義の定義
ら脱するために、意図的に不安定さを人体のなかに織り込むことを試
みている。
数あるロマン主義の定義の試みの中で、
フィリップ・ヴァン・チーゲム
ドラクロワの代表作《民衆を導く自由の女神》(図1)では、習作(図2)で
は、
「ロマン主義は、芸術上の一傾向というよりは、芸術を在来の伝統や
試みた大胆なデフォルマシオンは多少抑制されながらも、そこから生
趣味の拘束から解放すること、芸術にいっそうの色彩と運動を導き入
じる不安定さはそのまま完成作に受け継がれて、ロマン主義芸術の本
れること、
また熱情によって芸術に生気を与えることを企画した新しい
質を象徴するかのような激越な動勢を発散している。
傾向の総称である」
と述べている。確かに、そもそもロマン主義芸術は、
ドラクロワはこうした不安定な人体表現を用いて、鑑賞者の視覚に強く
「解放」
という言葉に象徴されるように、本質的に、在来の形式からの
訴えかける。
この人体表現による視覚効果こそが、多くの論著において
“絶え間ない反発”
という性格を抱えている。あらゆるものが理性に基
ドラクロワの「激しさ」
とか「動勢」
といった言葉で形容される性質の正
づく、計算された新古典主義の理想的芸術に対して反発することで、ロ
体なのである。
マン主義の芸術家は表現傾向を確立していった。
他方、古典主義と新古典主義の区別もここで明確に定義しておく必要
ドラクロワの古典主義的表現
があるだろう。両者は共に古代ギリシャ・ローマ美術を源泉とするのだ
が、古典主義の表現が正確な自然観察に基づいた緻密で誠実な性格を
《シュビレと黄金の小枝》には、静的な構図や、鑑賞者側をまっすぐに
持つのに対して、新古典主義はいかにして古典古代の理想美に近づくか
見つめる人物の視線といった点で、古典主義の伝統が受け継がれてい
を至上の命題と定めている。そのためしばしば必要以上の加飾や造作
るといえる。
ここでは、本作の人体表現について、ラファエロからの影響
を与えることによって、現実にはありえない、理想主義的表現にたどり
を考察していく。
ドラクロワは、ルーベンスやミケランジェロらと同様
つくことがある。共に同じ源泉を持つ古典主義と新古典主義であるが、
に、ラファエロも人体表現の手本としていた。かつてイタリア・ルネサン
その概念は本質的には異なる。
スの多くの名品はナポレオンの戦利品としてフランス国内にもたらさ
れたため、
ドラクロワはこれらラファエロの芸術を研究する機会に十分
ロマン主義芸術家としてのドラクロワの認識
恵まれていた。角のとれたラファエロ特有の聖母の優しさが、
ドラクロ
ワに内面化され、それがシュビレを通して発現している。
ドラクロワは、1822年のサロンへの代表作《ダンテの小舟》に表され
ドラクロワはロマン主義的気質を多分に持ち合わせた画家である、
と
ている革新的な筆触表現によって、ロマン主義者としての認識を確立し
いうのは、歴史的観点から考えても、画家の作品を分析して考察してみ
た。
ドラクロワの筆触は、
いまだ新古典主義の美意識が残る19世紀前期
ても、間違いのない事実である。だが我々は、そのロマン主義が古典主
120
卒業研究・作品
義の素養の基に成り立っていることを忘れてはならない。
ドラクロワの芸術の独自性
ドラクロワの人体表現の総合は、画家特有の激しい色彩表現と共に、
ドラクロワの芸術の独自性を立証する一つの要素になりえる。最終章と
なる本章では、再び作品分析を通して、
ドラクロワの芸術のロマン主義
的表現と古典主義的表現の総合という点を、改めて考えていきたい。
《ゴルゴタの丘》は、主題や形式の上では、作品を古典主義な伝統に結
び付けようとする画家の意図が明らかであるが、M字型の構図や画面
上方へと旋回していくような色彩の流れは、いかにもドラクロワらしい
ロマン主義的な表現である。本作は、
イエスの悲劇的な死という静的な
宗教主題を損なうことなく、その中に巧みに流れる構図を取り込むこと
によって、動感溢れる画面に仕上がっていると言うことができる。それ
は、
ドラクロワが手本としたルーベンスの激しさとは異なる、静中動と
図1.
《民衆を導く自由の女神》 1827年、ルーヴル美術館蔵
も言うべき表現である。
ここに我々は、
ドラクロワのロマン主義と古典
主義の総合を見出すことができるのである。
おわりに
ドラクロワの死後、急速に歴史画のジャンルが衰退していったことを
考えれば、
ドラクロワは唯一無二の大芸術家であった。
しかし、彼以外に
も、ロマン主義的表現と同時に古典主義的な素養も兼ね備えていた芸
術家は、19世紀のフランスにおいては少なくはなかった。事実、
ドラク
ロワは勿論、他の同世代の若い芸術家たちはみな古典主義の洗礼を受
けた経歴を持っている。
19世紀前半の西洋美術を二分したロマン主義と新古典主義の時代
に、どれほどの芸術家が2つの表現様式の間に存在していたのだろう
か。今後の研究を通して、そういった他の芸術家とドラクロワを比較して
みることは非常に興味深い。
本論文は、
ドラクロワの芸術の独自性を人体表現の点から考察しよ
うとする、ささやかな試みである。美術史におけるドラクロワの位置付
けを少しでも明確にするべく、
この卒業研究に取り組んできた。今後も、
ドラクロワを中心として広く19世紀フランスの美術を研究の対象とし
ていきたいと考えている。
図2.
《「民衆を導く自由の女神」
の習作》 1827年、
ルーヴル美術館蔵
[主要参考文献]
○Lee
Johnson『 The paintings of Eugene Delacroix : a critical catalogue vol
2』、
Clarendon Press、
1981-1989
○ケネス
・クラーク
(訳:高階秀爾)
『ロマン主義の反逆』、
小学館、
1988
121
卒業研究・作品
富山の和菓子の意匠
―その特質と背景―
The Design of Wagashi
(Japanese Traditional Confectionery) in Toyama
中川 真由子
Nakagawa Mayuko
文化マネジメントコース
はじめに
においては白い菊のモチーフの上生菓子が目立つ結果となった。名古
屋の菓子に素朴なものが多い理由は、見た目よりも、内容を重視する
和菓子の中でも上生菓子は色合い、形、雰囲気が上品で美しい。そ
地域の特質が背景にあるということが考えられる。そのため、上生菓
の意匠には、日本の伝統的な美意識が息づいており、観るだけでも楽
子にしても、華美なものを作る必要性が生まれなかったのであろう。
しめるものが少なくない。
富山県の北側に位置する新潟県の和菓子の特徴は、色をわずかしか
そのような日本の上生菓子のなかで、富山のものは、何らかの独特
用いないことにある。「越乃雪本舗大和屋」(新潟県長岡市)の銘菓で
な特色をそなえているのだろうか。そして、その意匠の成立にあたっ
ある〈越乃雪〉は、1 センチ半角の白い菓子で、和三盆と糯米で作ら
ては、別地域の文化圏からの影響がみられるものなのだろうか。それ
れている。ふわっとした口溶けが特徴となっている。上生菓子を観察
とも、まったく別箇に独自の発生、展開を見せてきたのだろうか。こ
した際も、いずれも、色彩が淡く、形状が抽象的であるという印象が
のような疑問から出発して、本編のテーマが設定された。これに加え
得られた。
て、呉東と呉西における差異はあるのかということも、本論の考察課
題となる。
富山県内の和菓子の特徴
その準備作業として、2010 年の夏季休暇中に、富山県内の和菓子
屋約 25 件と県外 10 件を周り、様々な和菓子の見た目、素材、風味
富山県内の和菓子の特徴は、比較的素朴である。富山県内の桔梗を
を比較するという調査を行った。その結果として、当初は富山県内で
モチーフとした上生菓子に注目して観察した際に、特徴として、全体
の地域による明らかな差異がみられると考えていたものが、県内の和
的に他所のものと比較すると、色彩が淡いということが挙げられる。
菓子を比較すると、呉東と呉西の地域差がさほど顕著に認められるわ
調査を行った 8 月には、富山県内各地の和菓子屋では、朝顔をモチー
けではないことが判明した。しかも、富山県外の各地域の和菓子と、
フとした和菓子も多く見ることが出来た。そこで本節では、朝顔のモ
色合いや形が類似したものがあるということも判明した。
チーフに注目しつつ、県内の上生菓子の特徴を探ることを試みる。
そこで、富山県内の各地域の和菓子と日本各地の和菓子を比較し、
富山県内の和菓子の特質を見出すこととした。
朝顔のモチーフの上生菓子に注目すると、全国的に淡い紅色のもの
が多く見られる。
『和菓子づくし【風炉編】
』には、干菓子を含めた
21 種中 20 種が淡い紅色の和菓子の掲載項目となっている。富山県
全国各地の和菓子の特徴
内でも、淡い紅色の朝顔をモチーフとした上生菓子は珍しくなく、7
品中 5 品が淡い紅色の上生菓子で占められていた。
写生的であり、型から抜くことで、現実の姿かたちになるべく忠実
淡い紅色の練り切り製の上生菓子が多い中、「大崎丸善」(魚津市)
な形状で、かつ同じ製品にムラが出ないものが、東京の菓子の特徴と
の〈朝顔〉や、「石黒松月堂」(新湊)の〈朝顔〉は、水色の朝顔をモ
考えられる。その背景には、江戸時代に好まれた浮世絵の影響がある
チーフとしていた。「大崎丸善」と、
「石黒松月堂」の共通点としては、
と推察する。それは、余計なものは描かない抽象的な京都の和菓子と
いずれも店舗を構える位置が海に面している町であるという点が挙げ
は、対照的なものと捉えられる。
られる。海に近い町であるために、水色に親しみを感じるという可能
一方、和菓子の意匠は、華やかである。その要素のひとつとして挙
性を考えることも出来るかもしれない。
げられるものに、金箔の使用がある。金沢の和菓子を観察した際に、
先に、富山県内の上生菓子は比較的素朴であると述べた。しかしな
金箔を使用するものが見受けられた。金沢は金箔生産でも有名な地で、
がら、前節でも挙げたように華やかな上生菓子を見ることも出来ない
その業は、16 世紀後半に京都から伝わってから現在まで受け継がれ
わけではない。高岡市の「不破福寿堂」では、金沢の上生菓子によく
ていて、現在は、全国の生産量の 100%近くを占める産業になって
見られた金箔を使用した上生菓子が、いくらか見出されるのである。
いるという。そのことが、「森八」の〈夕涼み〉や、「水本」の〈天の
川〉というに菓子に金粉を使用することに反映されている。
また、菓銘と意匠の関係に注目すると、〈涼風〉という菓銘の品は、
淡い桃色の練り切りに中央を凹ませ、蕊と錦玉でその近くに、朝顔の
名古屋の菓子は、意外なことに、素朴な銘菓が非常に多い。「両口
葉のような緑色の羊羹が添えてある。見た目は他所で見ることの出来
屋是清」で作られる〈二人静〉や、
「亀末廣」で作られる〈御千代宝〉は、
る朝顔の意匠とよく似たものなのだが、菓銘と意匠の間になぜこの和
まことにシンプルな和菓子で、口の中でほろりと溶ける食感を楽しむ
菓子が涼風という銘なのだろうかと想像させる余地を残し、遊び心が
ものである。上生菓子を観察した際、他地域では菊のモチーフの上生
うかがわれる。このあたりに、同じ富山県内でも、他所とは異なる高
菓子ならば紅色や黄色など着色を施されたものが見られたが、名古屋
岡ならではの、菓匠の腕の見せ所と特色があるといえる。
130
卒業研究・作品
に対して、富山県内の和菓子は全体に色彩が薄いということが、調査
を通じて指摘されることとなった。とりわけ、上生菓子の色彩とし
て、全体的に色が淡いという特徴が浮かび上がったのである。新潟県
の上生菓子の色彩の淡さと富山県全体における上生菓子の色彩の淡さ
には、共通性が色濃く認められる。それは、単に雪国同士であるとい
うだけの理由ではなく、新潟の文化の影響を強く受けているというこ
とが考えられる。
色彩にのみ着目した場合に、和菓子の色彩が淡いという特徴を持つ
文化圏として、名古屋も忘れるわけにはいかない。名古屋では、素朴
で食べ応えのある和菓子が好まれるが、富山県内でもその特徴は共通
写真 1.〈星の海〉不破福寿堂(高岡市)
、2010 年 8 月 12 日撮影
しており、「鈴木亭」の〈杢目羊羹〉や「竹林堂」の〈酒饅頭〉など、
江戸時代から現在まで富山城近辺で続いている和菓子屋の和菓子は、
上生菓子以外の和菓子に注目した際に、富山県の和菓子とよく似た
意匠が素朴だが食べ応えのあるものが多い。そのため、素朴な意匠で
特徴を持つのが、新潟の和菓子である。特に、〈越乃雪〉と〈月世界〉
食べ応えのあるものが好まれるという点において、富山は名古屋の影
はよく似ており、これらの菓子に共通して見られる特質は、意匠がシ
響を受けている可能性を考えることが出来るのかもしれない。
ンプルで白が基調であるということと、口に含むとさらっと口の中で
一方、桔梗、朝顔のモチーフに注目した際に、全体に色彩は淡いと
溶けるという点である。富山県は雪国であるということから、色彩が
いうが、形状に関しては、非常に様々な意匠のものが見られた。ただ
白く素朴なもの、雪のようにさらっと溶ける菓子を創出し、人々もそ
し、全体に丸みのあるものが多く、型にはめられている様なものはあ
れを好むという傾向があるのかもしれない。
まり見ることが出来なかったことから、江戸の菓子文化の影響は少な
そう考えると、上生菓子でも色彩が淡く素朴なものや、口の中で滑
らかに溶けるものが好まれる理由も、理解出来るように思われるので
ある。
いのではないかと考えられる。
また、〈おわら踊り〉や〈すいか〉のような、地元の季節の風物詩
や名産品を銘にした和菓子が新たに生みだされていたことが、改めて
確認することが出来、富山ならではの意匠を和菓子屋が工夫して、創
結論
作している事実も見逃すことは出来ない。
富山の和菓子を語るうえで、金沢からの影響が大きいと考えられる
ということは、これまでにもしばしば、しかしながら、漠然としたか
たちで指摘されてきた。その理由としては、富山県西部は元々藩政期
には加賀藩の一部であったことが挙げられる。また、越中富山藩も加
賀藩の分家であり、謡曲や茶道が盛んであったことに伴い、様々な和
菓子が富山でも誕生したことは頷ける。しかしながら、県内各所の上
生菓子の特徴を詳細に見ていくと、必ずしも金沢の影響を受けている
とは言い切れないことが理解される。
確かに、高岡市の旧城下町下の和菓子屋では、金箔を用いた華美な
意匠の上生菓子が見られ、それらは高岡が元々加賀藩であったという
関係から、一見すると、金沢の影響を受けていると考えることが言え
写真 2.〈おわら踊り〉大崎丸善(魚津市)
、2010 年 8 月 20 日撮影
そうに思われる。しかし、実際のところは、高岡で上生菓子が作られ
るようになったのは藩政期よりも後のことなので、影響を受けたとす
れば、それはごく近年のことに過ぎないのである。
さらに重要なのは、色彩の問題である。2 章で述べたように、金沢
の和菓子は比較的色彩がはっきりと濃く表されている。しかし、これ
[主要参考文献]
○グラフィック社編集部『
〈美・職・技〉和菓子』グラフィック社、2010
年
年
○細田安兵衛・西山松之助 監修『和菓子づくし 炉編』講談社、2006 年
○細田安兵衛・西山松之助 監修『和菓子づくし 風炉編』講談社、2006
131
卒業研究・作品
ルネ・マグリットのカーテン
The Painted Curtain by Rene Magritte
三浦 いぶき
Miura Ibuki
文化マネジメントコース
はじめに
シュルレアリスムの発端
20世紀最大の芸術運動であるシュルレアリスムは、パリに始まった
マグリットが画家を目指し始めた20世紀初頭にフランスで起こった、
後、世界中に飛び火していったが、ベルギーのシュルレアリスム絵画に
シュルレアリスムの参加者たちは、
「自己、共同体、社会関係の社会的、
おいては、フランス・シュルレアリスムでは重要視されていた自動記述
精神的制約」
(注1)、それらから成る現実といった、私たちの精神を縛
(オートマティスム)を作品の構想、制作に際して用いることはしないと
りつける様々なものからの解放を唱えた。今までの人間が作り出した制
いう点で、独特の展開を見せた。
ベルギー出身のシュルレアリストとして
約がない世界を目指すことを目標とし、客観的な超現実に至ろうとする
大きく名 を馳 せ た ルネ・マグリット( R e n é F r a n ç o i s G h i s l a i n
芸術上の実践を進めようとしたのである。
Magritte,1898-1967)
もまた、例外ではなかった。そればかりか、作品
そ の た め に 、運 動 を 始 め た ア ン ド レ・ブ ル ト ン( A n d r é
の中に偶然性や無意識を取り入れることさえ、
しなかった。彼は、モチー
Breton,1896-1966)や、理論を美術の分野に応用したマックス・エル
フを厳選したうえで、写実的に描き、画面内に意識的に計算して配置す
ンスト
(M ax Ernst,1891-1976)らは、夢、無意識、想像力、狂気、偶然
ることで、
より超現実の世界に到達できる可能性を思案し続けたのであ
性を拠り所として、自動記述(オートマティスム)やフロッタージュ、デカ
る。
ルコマニーという手法を作品の制作に利用した。
そして描いた絵画作品を通じて、我々が常識や社会通念を基に捉えて
彼らは意識を徐々に締め出すことで、現実から超現実へと移行するこ
いる「現実」や「真実」に対して深く切り込むことにより、約50年を経た今
とを求めた。
つまり、現実と超現実の間には差はほとんど無く、超現実世
でも普遍的な問題提起をし続けている。
界はこの現実世界に内在している。だからこそ、超現実はふとした瞬間
そのマグリットが、独自のシュルレアリスム表現を行う上で用いた典
に露呈し、私たちを驚かせるわけである。
型的な道具立ての中でも、本論では「カーテン」に特に着目することとす
る。なぜならば、
シュルレアリストの中でも一番カーテンを重要視してい
マグリットというシュルレアリスト
たといえるのはマグリットであり、
カーテンほど目に見える形で超現実
の世界を示唆する、それでありながら、決して、超現実世界そのものを見
しかしながら、
ヨーロッパ各地にシュルレアリスムが飛び火すると、
せるわけではなく、その存在を予感させるだけの目的に適しているもの
自動記述(オートマティスム)
という技法を用いず、非現実的に見える情
はないからなのである。
景やそこに含まれる道具立て、人物などを写実的に描くシュルレアリス
本論は、その意義と特質を明らかにしようとする試みである。
ムの画家が現れる。そして、それらを計算して画面配置することによっ
て、超現実の世界を表現する手法を見出したのである。それに、ベルギ
ベルギー絵画の地域的特質
ーではルネ・マグリットが代表的な画家として挙げられる。
彼がレアリスムを避けなかったのは、現実と超現実は連続しているの
マグリットがこのように独自の道を歩むことになった背景には、15、
だから「現実そのものが『超現実』に変容することが重要」
であり、そのた
6世紀のフランドル絵画時代から続くベルギーの地域的特質が関係し
めに「現実と常にかかわっていなければならない」
(注2)
と認識してい
ていると思われる。ベルギー絵画の特質は、大きく分けて3点あり、緻密
たからである。
な写実性、日常の中に神秘を見出すこと、絵画の中に寓意や教訓を織り
さらに、
「外的世界から視覚的に把握したものについて鑑賞者に伝え
込むことである。
ヨーロッパ美術史上でどこよりも早く写実的、かつ緻密
るような絵画を案出し、実現すること」
(注3)を目指した。
マグリットは、
に絵画を描いており、
また、画中にフランドル地域固有のことわざや寓
自分たちのすぐそばに神秘が隠されていることをフランドルの先人た
意や教訓を織り込むことも行っていた。
さらに、神秘というものは、私た
ちの絵画から学びとっていたに違いない。だからこそ、日常的に目にす
ちのすぐ身近なところにも存在することに、美術史を概観してみると、
ベ
る身近なものをモチーフとすることを通じて、それを明らかにしようと
ルギーの画家たちは気付いていたとみなすことが出来る。それゆえに、
したと考えられる。
結果として、
シュルレアリスムの表現手段がフランスと異なることにな
そのため、マグリットは普段の生活から様々な対象を選び、特定のモ
った。
チーフを繰り返し取り上げた。
とりわけ「カーテン」は、日常に隠れてい
しかし、マグリットの独自性というものは、それだけによるものでは
る超現実の世界を示唆するのに最も効果的な道具立てであったのであ
ない。彼が画家として活動していた時期と重なっているシュルレアリス
る。
ム運動の概念が、大きく関わってくるのである。
138
卒業研究・作品
描かれたカーテン
カーテンは超現実を示唆する
カーテンを絵画の中に描く理由としては、大きく分けて、そこに本物の
「空は、我々から何かを隠しているが故に、
カーテンの形をしている。
カーテンがあるからという写実主義的な場合と、
カーテンの特性を生
我々は、
カーテンに取り巻かれているのだ」
(注4)。
ここには、
カーテン
かして主題を描く、もしくはより効果的に見せるために付属品として描
というものが担っている役割のイメージが、マグリットの内で大きな役
く場合の2点がある。
割を持って意識されている様子が示されている。
現実世界におけるカーテン、幕、帳というものは、第一に対象を保護
超現実の世界は現実と繋がってはいるが、普段はそれに気づかない。
する、第二に対象を隠す、第三に境界を作り空間を分けることが目的で
しかしふとした時にその存在が予感されることがある。決して閉じられ
ある。同じ役割を担っているにしても隙間のない堅牢な扉とは違い、拒
た世界ではなく、そして現実と超現実の間には、明確な境界線がない。
絶感や威圧感は感じられない。柔らかく、風に吹かれればはためき、隙
そういったものを示唆するには、隠すとともに見せる存在であるカーテ
間もあれば、光に透けて向こう側がかすかに窺えることもあるカーテン
ンが非常に有効なモチーフとなってくる。
は、その薄くてもろい素材からもやさしく包み込むようなイメージを持
カーテンはゆらゆらと動き、つかみどころがないが、視覚的には確か
つ。
このようなカーテンの特性を付加価値として作品に取り入れたので
に存在する。そして、その先の空間が現実とは異なることを控えめに、
し
ある。
かし確実に主張する。閉じられていても隙間がそこかしこにあること
対象を隠すことでいえば、引き上げられたカーテンを描くことで、い
で、
こちら側と断絶せずに、
どこかでつながっていられる。
また隠すこと
つでも対象を見ることができるわけではない、つまり見ることができた
や透ける様子は、向こうの世界を私たちに想像させ誘惑する。
カーテン
幸運を感じさせ、それが対象の権威につながったり、覗いている感覚に
は、日常と密接に関わっているものだけに、
より身近なものが変容する
させたりする。
また閉じられたカーテンは、隠されることで見たいと思
予感が迫ってくるわけである。
う心理を利用し、その先に物語の中の世界が広がっているかのように
このように考えるならば、
カーテンこそが、超現実を示唆するには、
我々の想像をかきたて、向こう側の世界へ行くことを誘う。空間を仕切る
最も適したモチーフであり、そのことは、長いヨーロッパ絵画史上でも、
ことからいえば、
カーテンは額縁と同様に鑑賞者と絵画世界との境であ
マグリットだけが「発見」
し得たことだったのが、理解されるのである。
り繋ぎでもあり、時空間を超える境界線なのである。
結論
マグリットのカーテン
何故、超現実世界を見せるのではなく、その存在を仄めかすだけに留
マグリットの作品に最初にカーテンが現れる1920年代当初には、
カ
めることが重要なのか。それは、見せることならば、誰にでも出来るか
ーテンは劇場の幕として作品を演出し、
また画面を彩るものとしてのみ
らである。現実と超現実の世界は連続しているのだから、オートマティ
機能している。
しかし以後は、
カーテンは超現実世界へと続く道を開く
スムを利用すれば、自身で超現実世界に到達することが可能と言える。
役目を負うようになった。そのような作品に向き合うと、現実から超現
しかし、あくまでもその姿は見せずに、感じさせるだけというのはマグリ
実に至るには、たまたまその瞬間、自分の近くでカーテンが開かれるか
ットにしか出来ないことであった。
どうかの差ほどでしかないと気付かされる。
明らかとなっている世界を描いた絵画よりも、既存の世界に疑問を抱
マグリットは、
とりわけ1960年以降に、
カーテンをモチーフとする作
きつつ、その先の光景が無限に想像される「カーテン」の作品を見るこ
品 を集 中して 描き残してい る。そ れ は 、
《 美しき 世 界 》
(1962年、
とによって、私たちはそれぞれの超現実の世界へと解放されるのであ
100×81cm、油彩・カンヴァス、ブリュッセル、個人)や《聖者の記憶》
る。
(1960年、80×100cm、油彩・カンヴァス、
ヒューストン、
メニル・コレク
ション)などである。
これらは、50年代以前の諸作とは異なり、いずれも
カーテンという存在を主体として扱っている。
ここでは、
カーテンの特
性が、そのまま超現実の世界を我々に知らせる主役となっている。
[引用文献]
○
(注1)濱田明、
田淵晋也、
川上勉『ダダ・シュルレアリスムを学ぶ人のために』世界
思想社、
1998年、
64−65頁。
○
(注2)巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』筑摩書房、
2007年、
97頁。
○
(注3)
ジャック・ムーリ
『マグリット』
タッシェン社、
2009年、
150頁。
○
(注4)
『マグリット展』朝日新聞社、
1994年、
219頁。
139
卒業研究・作品
高松塚古墳の現状と今後
The present conditions and the future of the Takamatsuduka burial mound
新屋 早織
Araya Saori
文化マネジメントコース
高松塚古墳の概観
壁画の状態が急激に悪化していることが新聞紙上で伝えられ始めた。
平成 17 年 6 月 27 日、現地での保存は困難だと判断した文化庁は、
高松塚古墳は奈良県高市郡明日香村に所在する。大きさは直径約
高松塚古墳壁画を解体して保存することを決定した。それまで最良
18 メートル、高さ約 5 メートルで、形態は円墳である。7 世紀末か
の方法だと考えられていた発掘前の環境を変えずに自然に近い状態
ら 8 世紀初めに築造されたもので、終末期古墳に分類される。大化
を保存施設で作り出し、現地で保存するという方針には、いったい
元(645)年の大化の改新以降、8 世紀のはじめに藤原京から平城
どのような問題があったのだろうか。モノを永久に良好な状態で保
京に遷都された和銅 3(710)年前後までの、およそ 60 年ほどの間
存することは絶対に不可能ではある。しかし、1300 年以上も保た
に築造された古墳と考えられている。石室内部の広さは、奥行 2.6
れてきた状態が、昭和 47 年から 30 年程度の間に著しく悪化したの
メートル、幅 1.0 メートル、高さは 1.1 メートルであり、天井に星
には何らかの原因があったことは確かである(写真 1)
(写真 2)。そ
辰図、東壁に日像、西壁に月像、東、西、北壁に青龍、玄武、白虎
して後にその原因のひとつと考えられるような事件が発覚した。
の四神図、東西両壁に男女各 4 人ずつの人物群像が描かれた壁画古
平成 18 年 4 月、文化庁のずさんな管理体制が新聞で報道された。
墳である。
第一に、平成 14 年の石槨内のカビの除去作業中に壁画を傷つけてい
て、それを 4 年間も公表しなかったこと。第二に、平成 13 年 2 月
高松塚古墳の価値
に墳丘土の崩落防止工事をした際、同庁のマニュアルに反して工事
関係者が防護服を着ないで作業をしており、そのことが同年 3 月に
高松塚古墳の壁画は、星辰(星宿とも呼ぶ)
、日像と月像、四神図
石槨外に大量のカビが確認され、12 月には石槨内でカビの大量発生
(青龍、白虎、玄武の図。朱雀図は確認できない。
)
、人物群像の4つ
が確認された原因とされていたことなどである。さらに、平成 14 年
に分類することができる。星宿、日月、四神と人物群像という題材は、
の 1 月に修復作業中に壁画に電気スタンドを接触させて 5 か所も傷
おのおの意味の異なるものが描かれている。星宿、日月、四神は被葬
をつけていたことや、カビ落としの薬品を試しに使用して壁画を変
者の地位、身分を象徴するものである。それに対して人物群像は、被
色させたこと、平成 13 年の時点で東壁の青龍部分に除去が困難な
葬者の従者として人間の精神的なものを表現しているとされている。
黒カビの発生が確認されていたにもかかわらず、公表しなかったこ
従来装飾古墳と称されてきた古墳には、円形や三角形などを配した
となどが報じられた。これらのどの情報もこの時点まで公表されず、
幾学的文様や、なにかよくわからない物語的な表現がみられる。この
さらに同庁は劣化を認識していたにもかかわらず明日香村にすら事
ように、古墳の中に壁画を描くことは決して珍しいことではない。
実を伝えていなかった。
しかし、高松塚古墳の壁画は性格が異なる。高松塚の場合、壁面
防護服の無着用や損傷事故、防カビ剤を試みに使って壁画を変色
に直に描かれるのではなく、凝灰岩の切石に薄く塗られた良質の漆
させる、情報の非公開、報告をしないなどあらゆる面から考えても
喰の上に壁画が描かれている。さらに壁画の内容は、星辰図、日月像、
国宝を扱っているとは思えない行動ばかりである。地球環境の変化
四神図、人物群像といった、中国の思想の影響を受けた象徴性の深
も原因のひとつかもしれないが、担当者がしっかりと責任を持って
いモチーフや、幾学的な文様ではなく人物が描かれており、題材や
保存修復していたらこんなに悪化することはなかったに違いない。
筆づかい、色づかいなどの観点から見て極めて芸術性が高く、明ら
平成 18 年 10 月 2 日、これ以上の壁画劣化をくい止めるために、
かに従来知られてきた装飾古墳とは異なる。
石室解体のための発掘作業が始まった。翌年の 4 月 5 日から石室解
体は着手され、16 枚の石材で構築されていた石室が無事に解体され
発見されてから今日まで
た。16 枚の石材は明日香村にある保存修理施設に搬入され、修理の
様子は一般公開された。解体された壁画は現在もなお明日香村の修
村史編纂事業の一環として昭和 47(1972)年 3 月 1 日から高松
理施設で保管されている。
塚古墳の発掘調査が行われ、発掘作業中の同月 21 日に我が国初の極
彩色の古墳壁画が発見された。その後、昭和 48 年 4 月 23 日に古
今後の展望
墳全体が特別史跡に指定され、翌年 4 月 17 日に壁画が国宝に指定
された。壁画の貴重性と脆弱さを配慮し、高松塚古墳は昭和 47 年 4
まず、文化財の保護の基本的な理念であるが、世界遺産条約では
月 6 日から今日に至るまで、文化庁によって管理されてきた。
文化財を守るにあたり、保護、保全、保存という 3 つの方針が使い
平成 15 年 3 月頃から、カビによる壁画汚染が予想以上に広がり、
分けられている。保護(保護地域)は、人為、自然現象にかかわら
102
卒業研究・作品
ず保護対象へのマイナス要因を除去して管理すること。保全は、賢
室が取り除かれもぬけの殻状態になり、古墳としての意義は希薄に
明で合理的な利用を目指した積極的で統括的な管理のことである。
なってしまうかもしれないが、もともと高松塚古墳が有する歴史的
保存は、保護対象物に対していっさい手を加えずに管理することと
意味を把握、理解できるように整備するのが最良の策であろう。
されている。
そのような保存方法が実現した時にこそ、壁画も古墳も各々の持
このように、各々の文化財に適した方針がいくつか並立すること
つ歴史的価値を伝えながら保存され、活用されていくのではないか
で、文化財はより長く保存することができたり、良好な状態で保存
と考える。
できる期間は短くなるかもしれないが、公開されることによって社
会に貢献することもできる。現状保存が文化財にとって最良である
のか、そうではないのかを見極め、さらに個々の文化財に適した保
存の仕方や活用ができるような柔軟性のある政策が文化財保護にお
いて重要になると考える。したがって、高松塚古墳も、古墳にとっ
て最良の保存と活用がされなければいけなかったし、現状のあり方
では許されないのである。
次に、文化財の管理体制についてだが、近年では、地域に根差し
た文化遺産は、地域ごとに地方公共団体が中心となって価値を見出
していくとともに、地域の財産として継承する取り組みの一層の充
実を図る必要があると考えられている。文化財保護の主体は国から
地域公共団体へ、さらには民間へ次第に拡大しようとしているので
昭和 47 年の高松塚古墳壁画「西壁女子群像」
ある。
高松塚古墳壁画は文化庁によって管理され、自然的原因だけでな
く人為的原因からも劣化した。今後文化財保護は国や地域公共団体
だけでなく、民間までもが加わって行われていく傾向にあるが、高
松塚はそのような動きの中で、以前のように閉鎖的な管理下ではな
く、高松塚を守ろうとする多くの人たちの連携の取れた組織の中で
保護される必要があると考える。なぜならば、再び以前のような閉
鎖的な管理下に置かれ、一部の担当者のみが文化財の状態を把握し
ているような状況の中で、私たちが知らない間に文化財が劣化して
いくことは、もう許されないからである。私たち国民のものでもあ
る文化財が現在どのような状態で、どのように保存されているのか
を私たちは知る権利がある。たくさんの人が文化財の状態や保存の
状況を把握できるような開かれた管理下の方が、文化財を保護する
平成 18 年の高松塚古墳壁画「西壁女子群像」
側も以前よりは緊張感を持って保存できるに違いない。
文化財保護は、価値あるものを凍結保存することから、公開する
だけでなく、価値を維持したまま、いかに地域と将来世代に貢献で
きるように活用するかに重点が移ってきている。それは決して簡単
なことではないが、公開、活用されることで文化財自身も活かされ、
ただ保存されるよりもはるかに社会に貢献するのである。高松塚古
墳の場合、壁画においては修復が終わっても元あった墳丘内には戻
さず、これ以上の劣化が進まないような環境で管理し、その施設を
一般公開して本物の壁画の迫力をたくさんの人々に見てもらえるよ
うにするのが望ましい。墳丘に関しては、壁画を保護するために石
[主要参考文献]
○網干善教『高松塚古墳の研究』角川書店、1999
○朝日新聞縮刷版
1972 年 3 月号∼ 2009 年 11 月号
○根木昭『文化政策の展開―芸術文化の振興と文化財の保護―』放送大学教
育振興会、2007
○ 川村恒明監修『文化財政策概論―文化遺産保護の新たな展開に向けて―』
東海大学出版会、2002
103
卒業研究・作品
髑髏と骸骨が持つ意味の変遷
―古代の美術、工芸から現代日本のアクセサリー・デザインまで―
Short History of the Skull and Skelton Motif:
From Old Arts and Crafts To Jewelry Design in Contemporary Japan
小林 愛
Kobayashi Megumi
文化マネジメントコース
これと同じような教訓を表したものが南宋時代(1127 ∼ 1279)
はじめに
の中国にもある。李嵩が描いた≪䨶髏幻戯図≫という扇画である。
髑髏や骸骨をモチーフとした美術品や工芸品は、紀元前から世界
これは、中国版「死の舞踏」とも言われている。乳呑み児を連れた
の各地で作られてきた。また、現代の日本では老若男女問わず、多
旅芸人の夫婦が五里塚の下で休んでいる。夫婦のうち、男のほうは
くの人が髑髏モチーフの品を身につけている。髑髏というと、
「死」
骸骨の姿で描かれており、骸骨の傀儡を操っている。そして、傀儡
が連想されるため嫌う人も多いが、若者の中には身につけることに
に近づこうとする赤ん坊とそれを制するもう一人の女がいる。ヨー
違和感を持っていない者もいる。このような人は年々増え、既に若
ロッパの「死の舞踏」と異なる点は、骸骨姿の男は死者ではなく、
者に限定されなくなってきている。それは、何故なのだろうか。こ
生きた者として描かれていることである。死に襲われるのではなく、
の問を解き明かすため、先ず本論文では、美術品や工芸品のなかの
死とは常にそこにあるものだという考えがうかがえる。
髑髏や骸骨がどのような意味を持ち、歴史的にどう変遷したのかを
同様の教訓は日本で鎌倉時代中期につくられた「九相詩絵巻」に
検討し、併せて、死生観の変化や社会の出来事についても考察して
も表れている。「九相詩絵巻」とは「人の屍が土灰に帰するまでに変
いく。そのうえで、現代日本でのこのモチーフの流行とどうつなが
わっていく九つの姿」を描いたものである。その中の「第七 骨連相」
るのかを論じていくこととする。
には「かは(皮)にこそ男をんなの色もあれ 骨にはかはる人形も
なし」という和歌が添えられている。やはり、どんな者にも死が訪
美術品、工芸品の中の髑髏が持つ意味
れることを説いており、また、肉体の不浄さと生のはかなさを訴え
ていることが理解される。
髑髏や骸骨をモチーフとした最も古い美術品は、古代ローマ時代
ヨーロッパでは 17 世紀になると「虚栄」(ヴァニタス、vanitas)
に見られる。例えば、彫玉や銀製のコップ、模型などが残されている。
という図像が盛んに描かれるようになった。多くの場合、
「虚栄」を
これらは全て、「死んだ後にはなんの楽しみもないのだから、生きて
意味する砂時計や蝋燭などと共に、一つの髑髏が描かれている。こ
いるうちは飲み食い、楽しもう」という「現世快楽主義」の考え方
の図像でもまた、
「生のはかなさ」を訴えているが、その対象は社会
に基づいて生み出されている。宴を、つまり生をより楽しむためには、
全体ではなく、あくまでも個人であった。この図像は2世紀近くに
死がより虚しいものでなければならない。死を深く見つめるために
渡って描き続けられたが、次第にその意味は失われ、単に様式と化
骸骨が用いられたのだと考えられる。死の虚しさを再確認するため
してしまった。
には髑髏や骸骨が必要だったのである。
日本では古い時代には、密教図や千手観音像に髑髏が見られる。そ
それから十数世紀後、中世ヨーロッパでは 1347 年のペストの流
の意味は宗教的な性格が色濃い。工芸品や副装品の中には髑髏や骸
行をきっかけに、多くの「死の美術」が生みだされた。例えば、15
骨の形はほとんど見られないことから、古代の日本ではやはり髑髏、
世紀に盛んに描かれた「死の舞踏」
(ダンス・マカーブル、Dance
骸骨は嫌悪されていたのだと考えられる。しかし、江戸時代に入ると、
浮世絵や日本絵画、根付などにそれらの形象が見られるようになる。
それは、蘭学を研究することで、医学や、身体の構造などの自然科
学に対する研究が進み、髑髏や骸骨に関する嫌悪感が小さくなった
からだと考えられる。
図 1: ≪ 死 の 舞 踏 ≫( 部
分 )、1485 ∼ 90 頃、 北
イタリア、クリュゾーネ、
サ ン タ・ マ リ ア・ ア ス ン
タ 聖 堂、 デ ィ シ プ リ ー ニ
礼拝堂、東側外壁
近代に入ると、ジャンルを問わず様々な絵画の中に髑髏、骸骨が
描かれ、その意味も変わってくる。世界規模で戦争が起きると髑髏、
骸骨には反戦の意味が込められ、ペストに変わりエイズなどの流行
病が起きると、その悲しみや防止を政府や人々に訴える作品にもこ
れらのモチーフが用いられる。しかし、髑髏、骸骨が「死」を意味
Macabre)と呼ばれるものである(図1)
。これらの画面には、様々
するときの多くの場合は作家自身、もしくはその近しい人の「死」
な階級の者が死者と二人一組になって踊り歩く様子が描かれており、
についてである。
「死の舞踏」や「虚栄」のように社会に広く訴えか
年齢、性別、階級に関係なく全ての人が死に襲われる運命にあるの
ける力は持っていないのである。
だから、
「メメント・モリ」つまり、
「死を想え」、「死を忘れるな」
という教訓を表している。
136
卒業研究・作品
死生観の変遷
に限らず、様々な副装品の中に髑髏、骸骨が見られるようになった。
それらを身につける者は髑髏や骸骨にどういう印象を持っている
以上に見てきたように、近世に入る前の髑髏や骸骨は「死」とい
のだろうか。いくつかの雑誌を概観してみると、若い男女にとっては、
う意味を色濃く表していた。なぜなら、
「死」は常に自分の身近なと
「インパクト大」であり「ハード」で「ロック」なイメージを纏いた
ころに存在したからである。戦争が起き、疫病が流行る度に死は猛
いときに用いられていることがわかる。また女子に向けたものの中
威を奮い、人々はそれに抗う術を持たなかった。特にヨーロッパの
にはその形状によって「かわいい」と捉えられるものもあるようだ。
人々にとって、死は恐ろしいものであり、忌み嫌われていた。しかし、
そして、紳士と言われる年代の男性にとって髑髏、骸骨は「遊び心」
近世に入り、医学や科学が進歩してくると、死の正体が明らかにな
であり、「内に秘めたおしゃれ」であると考えられている。
り、対抗する術も生まれた。また、大規模な戦争が起きる機会は減
それでは、これらのブランドが生みだす髑髏や骸骨にはどういう
り、さらに死の存在は希薄になった。それでは、現代の日本ではど
意味が込められているのだろうか。実は一概には言えず、ブランド
うだろうか。死の存在が遠のいたとは言えいつでも死が身近に訪れ
の数だけ、そして、デザイナーの数だけその意味も多様なのである。
ていることに変わりはない。しかし、そのほとんどが当事者以外に
例えば、
「ラットレース」はロックやバイクといった不良的カルチャー
は見過ごされてしまっている。なぜなら、訪れた死は手早く、簡単に、
をバックボーンに持ちながら、アールヌーヴォーなどの芸術様式を取
機械的に処理されてしまうからである。最近では、死生観について
り入れている(図2、右)
。しかし、若手のデザイナーやブランドの
大学や専門学校で教えるべきだという声があがっている。このこと
中には、髑髏モチーフを扱えば売れるから、などの理由だけで、無自
からも、現代の若者が確立した死生観を持っていないことがわかる。
覚に扱っていることもあるだろう。また、大手のメーカー、ブランド
で新しく髑髏を扱うことにした場合も、そうである可能性が高い。こ
現代日本の髑髏、骸骨
の場合、髑髏や骸骨は何の意味も持たないか、もしくは後付けされた、
空虚な見せかけの意味を付与されているだけなのである。
先述したように、江戸時代には浮世絵を代表とする様々な美術工
芸作品のなかに髑髏や骸骨が登場していた。明治時代に入っても着
物や根付に髑髏、骸骨のモチーフが用いられていたことが知られて
いる。しかし、文明開化が進み他国との戦争が始まると、そうした
近世的な怪奇趣味も見られなくなってきたと、一般には考えられて
いる。だが、完全になくなったわけではなく、黒岩涙香の小説など
図 2:右、「ラットレース」
左、ロックンロールを背
景としている「クレイジー
ピッグ」
に受け継がれていった。そして、1931(昭和 6)年、『黄金バット』
という紙芝居が一世を風靡する。1960 年代に入ると、手塚治虫や
水木しげるが活躍し始め、また、テレビアニメの放送が一つの契機
となって、様々な漫画やアニメの中に髑髏や骸骨が登場することに
むすび
なる。
では、装飾品のなかにそれらが多く現れるようになったのはいつ
髑髏や骸骨が以前色濃く持っていた「死」という意味は、現代で
頃なのだろうか。きっかけは、1990 年代初めにアメリカのマリブ
は「カッコイイ」といった別種の概念に取って代わられている。ま
を中心にジュエリー・ブームが起こったことだと考えられる。1970
たは何も意味を持っていない場合もある。しかし、髑髏が死後の姿
年頃から現在、老舗と言われているシルバーアクセサリーのブラン
である以上、そこに「死」を重ねるものが全くいなくなることは無
ドが立ち上がり始めた。例えば、
「レザーズ&トレジャーズ」などが
いことも確かであろう。
そうである。これらのブランドが生みだす品を概観してみると、髑
髏や骸骨を主のモチーフに入れているブランドが少なくないのであ
る。何れのブランドも最初はミュージシャンやバイカーなど、前衛
的な人に注目されるのみだった。しかし、次第にその幅を広げ、多
くの人に支持されるようになったことで、特筆すべきジュエリー・
ブームが起きたといえる。そして、現代ではシルバーアクセサリー
[主要参考文献]
○小池寿子『死者たちの回廊 よみがえる「死の舞踏」
』福武書店、1990
○『美術フォーラム
21 第 8 号』醍醐書房、2003
○ 飯塚智子編『インデックス
MOOK BiDaN 特別編集 ストリートアクセ
NEXT FILE 18』インデックス・コミュニケーションズ、2009
137
卒業研究・作品
影絵作家・藤城清治の果たした役割
―雑誌『暮しの手帖』の変遷と共に―
Seiji Fujishiro, shadow picture artist,
∼ his works and the magazine“kurashi no techo”
野路 小槙
Noji Komaki
文化マネジメントコース
はじめに
紙から発展したもので、人形の顔なども輪郭線を残して白く切り抜
いてあるなど、事物の形象を線で表している。
藤城清治(1924 ∼ )は、みずから主催した「木馬座」で、古
これら切り絵の特徴は現代の日本の影絵作家にも受け継がれてい
来からの影絵劇を継承した新作を創作し、上演し続ける一方で、静
る。しかし、線で物体を捉えている他の日本の作家たちに対して、
止画、つまりタブローとしての影絵を同時に探求した近現代日本の
藤城は、物体をかたまりで捉えており、ここに彼の作品の最大の特
代表的影絵作家である。
色がみられるのである。
この自立した一枚の絵画作品としての影絵を創り出すきっかけと
線によって構成された輪郭線ではなく、その物体のシルエットに
なったのが、雑誌『暮しの手帖』での連載であった。雑誌創刊の昭
よる表現によって生み出された藤城の作品は、中国の皮影戯や、切
和 23(1948)年から平成 7(1995)年にいたるまで、途中十年
り絵に見られるような線の構築の手法はみられず、18 世紀中ごろか
ほどの休止期間はあるが、連載は続いた。また一時期影絵ではなく、
らヨーロッパにおいて流行していたシルエットの影響が感じられる
藤城がアクリル絵の具でもって描いた女性像が表紙を飾ったり、挿
ものとなっている。
画の一部を担当したりと、
『暮しの手帖』のイメージの一部分を藤城
が担ったことは間違いない。
雑誌『暮しの手帖』
本論では、このような藤城清治の創作活動の二面性に注目し、従
来の単なる影絵作家としての評価とは別個の視点から、藤城の画家
雑誌『暮しの手帖』は昭和 23 年に創刊された生活雑誌であり、創
としての歩みを評価づけるとともに、
『暮しの手帖』との長年にわた
刊 60 周年を超えて、今なお多くの読者から多くの支持を得ており、
る関わりが藤城にどのような影響を与えたのかを考察しようとする
反商業主義、反戦、徹底した消費者目線を掲げる、「自律的なジャー
ものである。
ナリズム活動を展開してきた雑誌」である。
この『暮しの手帖』での藤城の仕事は、大きく表紙画、影絵連載、
藤城影絵の特色
挿画の三分野に分かれる。この三分野の仕事を追っていくうえで、
藤城が『暮しの手帖』に関わっていた時期を、
(1)初期∼モノトー
影絵の起源については様々な説があり、紀元 9 世紀とも 7 世紀と
ン時代、(2)円熟期∼カラー時代と表紙担当期、(3)安定期∼影絵
も言われているが、その発生地がアジアであることは間違いないと
連載終了までの三期に分け、検証していくこととする。
されている。インドネシアのジャワ島やバリ島、マレーシア、中国、
まず、
(1)初期∼モノトーン時代だが、これは雑誌創刊の昭和 23
トルコ、インド、タイ、台湾などの各地で影絵劇が発生、展開して
年から昭和 40 年までにあたる。そして、三分野のうち、藤城が最も
いった。それらが 17 世紀前後にヨーロッパに伝わり、同地域でも独
長く連載を続けた影絵連載は、この創刊当初から始まっている。こ
自の発展を遂げていったと考えられている。いずれにしても観客の
の雑誌自体の黎明期は、藤城にとっても自らの影絵の手法を確立す
前にスクリーンを引き、人形を操作して、その影を映すという手法は、
るうえで、暗中模索な時期であったことが推測されるが、同時に、
どの国においても古典的なスタイルとして定まっている。つまりは、
自己の個性の確立という意味で、藤城の影絵の作家性が最も色濃く
影絵とは芝居であり、そこでもっとも重要視されているのは、登場
出たものとなっている。モノトーンの時代の藤城の影絵は「線の強
人物である人形たちということになる。
さや黒の表現力」に集約されており、描かれている人物たちは、例
藤城も慶應大学在学中には人形劇や影絵劇など、アジアで生まれ
えるなら歌舞伎でいう、見得をきったような大仰なポーズが目に付
た伝統的な影絵芝居に影響を受けたものを仲間とともに創作し、活
く。画面としても人物が前面に出ており、
“背景+人物”というシン
動していたが、『暮しの手帖』初代編集長の花森安治に、制作した影
プルな構成で、これは自ら主催していた影絵、人形劇団「ジュヌ・
絵を写真に撮り、雑誌に掲載してみないかという提案によって、一
パントル(後の「木馬座」)」での活動が反映された結果と考えられる。
枚のタブローとしての影絵制作に乗り出していくこととなる。
次に、
(2)円熟期∼カラー時代と表紙担当期だが、これは昭和 49
この、一枚のタブローとしての影絵に、制作上の技巧的、また外
年から昭和 61 年までをさす。また、前期から 9 年間の空白がある
観としても類似して挙げられるのが切り絵である。そもそも切り絵
のは、藤城が「木馬座」での影絵、ぬいぐるみ劇に専念するため、
『暮
とは友禅染や小紋の型紙に由来するもので、絵柄が全て縁取りで繋
しの手帖』での影絵連載を休止していた経緯がある。従って、円熟
がっているのが特色である。これはもともと中国から伝わった技法
期は藤城が『暮しの手帖』に復帰した時期から、ということになる。
で、中国では剪紙と呼ばれている。中国での影絵、皮影戯もこの剪
この円熟期がもっとも『暮しの手帖』において、藤城色が出たも
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卒業研究・作品
のとなる。復活した影絵連載は、カラーとなり、復帰した 4 年後に
ひとつの雑誌に連載を続け、その雑誌のイメージを担ったという
は『暮しの手帖』初代編集長であった花森の急逝を受けて、跡を引
経験が、藤城独自の新たな作風を創りだし、多くの人々から支持さ
き継ぐ形で雑誌の表紙を手掛けた。さらに「すばらしき日曜日」と
れる「影絵作家」としての地位を築いたのである。
いう読者の投稿欄において、挿画をも担当することとなった。
カラーになってからの藤城の影絵は、モノトーンの時代とは作風
が大きく異なる。モノトーン時代にこだわっていた線の勢いと人物
へのこだわりが薄れ、一方で背景への描きこみ(切りこみ)の細か
さは増していき、木の葉一枚一枚まで描くことによる繊細さが目立
つようになる。また、背景の繊細な描きこみによって、人物を画面
のなかの一構成物として捉えるようになり、これまで「背景+人物」
という構成だったのが、
「物語の一場面としての画」という性格に落
ちついていく。すなわち、それまでは人物が主役であり、彼らがど
のような動きをしているかが、藤城の影絵の魅力であったのに対し
て、カラーとなってからは、画全体の構成での完成度が高いものを
求めていると考えられるのである。
モノトーン時代にあった作家性を主張するような画風が消え、誰
もが快いと思うような安心感のある構図と、繊細な描きこみが顕著
となるのはこの頃からである。この画風の転換は、藤城が『暮しの
手帖』での連載という枠で活動してきた結果とも言える。あくまで
も、雑誌の表紙、挿画という立場において作品を制作してきた藤城は、
芸術家というより、職人的な気質を育てあげたのであろう。
そして最後が(3)安定期∼影絵連載終了までで、昭和 61 年から
平成 8 年までとなる。表紙はクレール・アステックスというパリ出
身の女流画家に引き継がれ、藤城は影絵連載と、
「すばらしき日曜日」
の挿画のみを手掛けている。この時期の藤城の影絵は、より緻密さ
と華麗さを増しており、何枚ものフィルタを重ねることで生まれる
透過光の美しさの追求にも拍車がかかっている。病院や駅といった
公的スペースでの大壁画の制作も多い。
藤城にとっての影絵
藤城は自身の画業を振り返り、
「ポピュラーソングのような」
、「み
んなが楽しいと思えるような絵」を描いてきたし、これからも描い
ていきたいと語っている。この、大衆から快いと思われる絵を描き
たいという立脚点は『暮しの手帖』に自作を連載しているうちに、
培われたものと考えられる。初期のモノトーン時代を特徴づける、
勢いに任せて切った線の独特のキャラクターは、今の藤城の影絵に
は見当たらない。それはモノトーンとカラーの違いからくる、表現
方法の相違ということもあるかもしれないが、それだけが要因とは
考えにくい。円熟期において、雑誌の表紙、挿画を担当し、ひとつ
の雑誌のイメージを担当した経験は、藤城に多大な影響を与えた。
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