解答解説

2007/01/18(担当:建岡)修正
もっと世界全体に枠を広げ,「人・モノ・金の動き」
世界史
のうち,あくまでも「人」の動きに焦点を絞っている。
諸君の頭をブラッシュ・アップするには良問であると
第1問
思う。出来た人も出来なかった人も,しっかりと復習
【配点】 23点
してほしい。
【解答例】
産業革命が進展するに伴い,西ヨーロッパ内部では,
近隣農村から近代工業地帯への労働力の移動が活発化
したが,この流れは,今度は,アメリカ合衆国の工業
化や西部開拓によって,大西洋を越える西ヨーロッパ
からの北米への大きな移民をもたらした。これに対し,
モノカルチャー経済に押しとどめられた中南米への移
民はかつての重要性を失い,奴隷貿易も19世紀前半に
は廃止されて,アフリカから中南米への移民も激減し
た。一方,奴隷労働の穴を埋めるものとして,欧米諸
国の各地の熱帯プランテーションや鉱山には,19世紀
半ばから年季契約移民としてインド人・中国人の移民
の流れが起こった。最初この流れは半ば強制的なもの
であったが,19世紀末以降の最盛期には,雇用を求め
て自主的に移動する自由移民として,東南・南アジア
に集中した。またインド国内でも,アッサムの茶のプ
ランテーションの労働力としての移動や,カルカッ
タ・ボンベイなどの大都市への移動が起こり,中国国
内でも,日本による満州開発とともに,華北から満州
への出稼ぎ移民の大きな流れが起こった。さらにロシ
アでも,シベリアや中央アジアに,最初は自発的に,
ソヴィエト誕生後は強制を伴いながら,白人の移動が
起こった。
(509字)
<設問解説>
まず,問題の上の図から,大西洋を渡った三つの移
動の規模と方向を確認しよう。16世紀のヨーロッパの
アメリカ大陸への進出では,スペイン,ポルトガルか
らの移民(矢印①)が,主として先住民を利用して貴金
属を採掘し,それを主としてヨーロッパへ持ち帰るの
が基本的な経済活動だった。ただし,アフリカから運
ばれた奴隷も一部で重要な役割を演じた。これが,
「第一の大西洋システム」と呼ばれるものである。し
かし,鉱山が盛りを過ぎた時,彼らはそれに代わる物
産を発見できなかった。開拓しうる土地は豊富にあっ
たが,奴隷化して利用できる労働力は限られていた。
これが奴隷貿易拡大の背景である。
オランダ,イギリス,フランスが主導した「第二の
大西洋システム」は,第一のそれよりも,はるかに広
範で,多様な市場と生産のシステムを作りだした。砂
糖プランテーションなどの経営者による,アフリカか
らの奴隷の輸入は,人間を人間としてではなく,徹底
的に商品として扱うという意味では,資本主義の一つ
の極限を見せつけた活動であった。奴隷貿易と奴隷制
の発達によって,砂糖のヨーロッパへの輸出は,18世
紀にはカリブ海諸島に,そしてやがてアメリカ合衆国
南部となった地域にも広がっていった(矢印②)。奴隷
制は,タバコ・綿花・コーヒーなどの栽培にも拡大し
【解説】
た。もちろんヨーロッパからの移民も増えたが,彼ら
<出題のねらい>
東大世界史の第1問は,昔から世界史を総体として
捉えるというモチーフのもとに出題されてはいたが,
明確に「グローバル・ヒストリー」ということを意識
し始めたのは,2002年度の「近代中国の移民急増の背
景と影響」以来であろう。そこで,第3回東大本番レ
ベル模試としては,近年の学界の動向から予測し,19
世紀前半から20世紀前半にかけての「移民の世紀」に,
国際労働力の移動としてどのような動きが生じたのか
を書かせる問題を用意した。2006年は8月後半に国際
経済史学会がフィンランドのヘルシンキで開催され,
東大の教員たちも多く参加していたが,そこにおいて
もホットな議論として取り上げられていたのが,「近
代における,流通をはじめとしたネットワークの展
開」であった。本問は,こうした学界の動向をふまえ
て作成されている。本問の内容は,2002年度と重なる
ところが多少あるが,グローバル・ヒストリーとして
は独立農民として,自分の土地で作った商品作物を
売って利益を上げようとしたので,資本をもった土地
所有者が,彼らをプランテーションで雇用することは
できなかった。こうして新大陸では,黒人奴隷制プラ
ンテーションと白人の自営農民による商品作物の生産
という,全く性格の異なる二つの生産システムが,前
者の優位のうちに共存することになった。
この時期には,まだ19世紀のように,大量の移民が
ヨーロッパから出ていったわけではない。消極的な移
民政策もさることながら,大衆にとってはまだ交通費
が高かったこと,情報が欠如していたことが,より直
接的な理由だった。1650年にアメリカへ渡ろうとすれ
ば,イングランドの農業労働者の平均収入で約5ヵ月
分の費用がかかったと言われる。大衆にとっては,家
族を通じた個人的な情報のチェーンが確立されること
も必要だった。それゆえ,北西ヨーロッパからの移民
(矢印③)は,当時のヨーロッパで生じていた大衆の移
− 107 −
06-3 東大本番レベル模試
世界史
解答解説
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H
2007/01/18(担当:建岡)修正
動の根幹部分とつながっていたかどうかは疑問である。
への入植の運動や,奴隷解放後の黒人の北部への移動
植民地時代のアメリカへの移民の3分の2くらいは,
などの国内の動きと密接につながっていた。さらに時
年季契約の奉公人であったが,その主体は,どちらか
期を下るにしたがって,渡航日数が短縮され,出稼ぎ
と言えば,貧民であり,その中には囚人や社会の落ち
的要素が増えるとともに,帰国率も上昇し,大陸間移
こぼれも含まれていた。1654年から1776年までに,イ
動も,いわばヨーロッパ内部の移動と似た性格をもつ
ギリスから新世界の英領植民地に渡った者の数は,多
ようになった。こうして,もともと「第二の大西洋シ
くても40万人で,この他に流刑者が5万人いた。イギ
ステム」から派生して出てきたこの流れは,送り出す
リスから見れば,移民の排出は社会の安定のための装
側でも受け入れの側でも,工業化のひき起こす複雑な
置という側面をもっていたのである。
連鎖反応を内に含みながら,ネットワークの急速な拡
むしろ「第二の大西洋システム」の特徴は,新大陸
大を経験した。
が多角的貿易構造の発達を通じてアフリカと西ヨー
これに対し,中南米への移民(矢印②)はかつての重
ロッパにつながることによって,大きく発展したこと
要性を失い,奴隷貿易(矢印③)も根強く19世紀前半を
である。また,南北戦争以前の19世紀前半に,アメリ
生き延びたものの,1833年のイギリスの植民地も含め
カでは既に,南部の奴隷制が綿花を,西部の開拓地が
た奴隷制廃止以降,19世紀後半以降の「大量移民の時
食糧を,それぞれヨーロッパ北西部に供給し,ヨー
代」には重要でなくなった。また,イギリスからオー
ロッパ北西部が見返りに工業品を輸出するという関連
ストラリア,南アフリカへの移民を,ヨーロッパから
が確立しつつあった。もちろん貿易,投資,海運など
の別の流れとして挙げることもあるが,他の流れに比
の面でこのシステムの中核を形成していたのは,西
べると,その数は少ない。
ヨーロッパの重商主義諸国であった。18世紀後半の発
第二に,下の図では,上の図には存在しなかったイ
展期には,特にイギリスの役割が目立つようになる。
ンド人,中国人の移民が急増している。もちろん,華
カリブ海で得た富がイギリス産業革命のための本源的
僑,印僑の海外移住は極めて古い時代からあったが,
蓄積として重要であったことは,従来から言われてき
確認できる限り,その数は19世紀後半以降に比べれば
たことであるが,ともかくも,「大西洋システム」は,
少なかったものと考えられる。1830〜1940年の間のイ
西ヨーロッパ諸国間の絶え間のない戦争の最も重要な
ンド人移民の総数が3000万人を超えること,またイン
舞台の一つであり,したがってそうした戦争を公債の
ド人,中国人,日本人移民の総数が,ほぼ大西洋移民
発行でまかなうメカニズムを作り出したイギリスの支
に匹敵することが,近年の研究で明らかになっている。
配階層の成熟の前提条件でもあった。
さらに,インド人,中国人移民の二つの流れ
(矢印
こうして1820年頃までに,ヨーロッパ文明は,人口
⑤・⑥)は,初期には半ば強制的な年季契約移民とし
比ではともかく,領土的に見る限り,旧大陸の他の伝
て世界各地の欧米諸国のプランテーションや鉱山に,
統文明に対して圧倒的な優位に立っていた。西ヨー
その労働力として向かったものの,19世紀末以降の最
ロッパにおける人口の増加傾向から見ても,新大陸に
盛期には東南・南アジアに集中し,しかもその大多数
おける生態系が「新ヨーロッパ」化しつつあったこと
は,十分な情報の下に,雇用を求めて自主的に動くと
から言っても,大量の人間がヨーロッパから新大陸に
いう意味での自由移民であった。その結果,熱帯にお
動きやすい条件が生まれつつあったと言えよう。
いても,急速な人口成長を可能にする本格的な経済開
次に下の図についても解説を加えよう。これが設問
として問われている「移民の世紀」の人間の移動であ
発が進み,ここに南インドと華南を主たる給源とする,
もう一つの国際労働市場が成立した。
る。この時期には,上の図の時期に比べて,大幅な量
そればかりではない。インド国内にも,たとえば
的増加が見られるとともに,この時期に二つの大きな
アッサムの茶のプランテーションや,カルカッタ,ボ
国際労働市場が成立していたことがうかがえよう。そ
ンベイなどの大都市への移動のような大きな流れ
(矢
の第一は,言うまでもなくヨーロッパからアメリカへ
印⑦)が存在した。また,日本による満州開発の結果,
の移民の流れである。送り出し地域は,イギリスに始
華北から満州への出稼ぎ移民(矢印⑧)は,1923〜39年
まって,しだいにほぼヨーロッパ全域に拡大した。
だけで1000万人を超えたと言われている。しかも,こ
ヨーロッパ内部の域内移動は,19世紀初頭にはまだ大
れらの移動は,ある程度まで相互に関連していた。例
陸間移動とあまり直接につながってはいなかったが,
えば20世紀初頭には,日露戦争の影響で,満州方面の
20世紀初頭までに,ヨーロッパの多くの移民送り出し
出稼ぎ先を失った中国人が,一時南アフリカの金鉱に
地域では,域内の移動の延長として,アメリカへの移
送られるというように,この国際労働市場も世界化し
動を考えるようになった。またアメリカへの移民の多
ていた。
くは,まず都市に向かったが,それでもしばしば西部
とはいえ,アジア人の行き先は基本的には熱帯のサ
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06-3 東大本番レベル模試
世界史
解答解説
InDesign 組版
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2007/01/18(担当:建岡)修正
トウキビやコーヒーや茶などのプランテーションや鉱
山であり,アメリカや「新開拓地域」への移民は,量
的にはきわめて限られていた。こうして「移民の世
紀」は,一方で新大陸の豊かな土地へのヨーロッパ人
第2問
【配点】 各8点×3,合計24点
【解答例】
の移民の流れを生み出すとともに,他方でそれに匹敵
⑴米英戦争でイギリスから経済的にも独立すると,ナ
する規模の,熱帯のプランテーションや鉱山へのアジ
ショナリズムの高揚もありアメリカ独自の立場を強調
ア人移民の流れを作り出した。いずれも雇用や賃金格
する傾向が強まった。一方国内産業の発達は国内の階
差を主たる動機とする移民であったが,両者の賃金水
級的・地域的対立を生じさせ,これを外からの脅威を
準は平準化の方向には向かわず,長期にわたって大き
説くことでそらすため,モンロー宣言が発せられた。
な格差が存在し続けたのである。
(119字,番号入れて120字)
最後に,ロシアにおける白人の東方への移動(矢印
⑵フロンティアは,東部産業資本に広大な市場を提供
⑨)に触れておこう。第一次世界大戦までに,シベリ
し,その豊かな天然資源と広大な土地はよりよい生活
アと中央アジア(コーカサスを除く)に500万人弱が自
や経済的向上を期待する人々を引きつけ,社会の固定
発的に,その後,第二次世界大戦までに,600万人を
化や階級対立を未然に防ぐ安全弁としての役割を果た
超える人々が,多くは強制をともなって移動した。こ
す一方,アメリカ民主主義を育てる土壌ともなった。
の動きは,前述の二つの国際労働市場との密接な結び
(119字,番号入れて120字)
つきはなかったが,従来はアジア系の民族が住んでい
⑶大戦直後は民主党政権下に婦人参政権付与など民主
た広大な土地が白人のものになったという意味では,
的改革が行われたが,共和党政権になり保守化し,国
これまた人種別の領土配分における大きな変化であっ
内的には実業界の利益のために減税と保護関税策を
た。
とった。対外的には海外への経済進出を促進すべく,
こうして20世紀初頭の世界には,わずかな地域的需
安定した国際秩序確保のため積極的外交を展開した。
給の変動に敏感に反応する,統合された二つの国際労
(118字,番号入れて119字)
働市場が成立していた。個々の労働市場の統合も進ん
だが,より重要なことは,地域間移動と大陸間移動と
の壁が劇的に低くなったことであろう。言うまでもな
く,人間の移動の決定にかかわる要因は複雑であって,
【解説】
<出題のねらい>
東大世界史の第2問に3〜4行の短論述が復活した
動機がどの程度まで経済合理的なものか,経済合理的
のは,2004年度以降であるが,この3つの短論述には,
とはいっても,個人を基準にしたものか,家族を考慮
一貫したテーマが存在する。2004,2005年度は,宗教,
したものかを容易に判断することはできない。にもか
文化・文明といったテーマであったが,2006年度は,
かわらず,交通革命の結果,多くの人間は,行こうと
「インド洋世界」と地域がテーマになった。そこで本
思えばかなりの現実性をもって,「地の果てまで」行
問では,
「アメリカ合衆国」という地域をテーマとし
けるようになった。そして,雇用を求めての移民が日
て出題した。アメリカ史は,東大では頻出のテーマで
常化し,具体的な選択肢の一つとして,多くの人々の
ある。出来の悪かった人は,早急に復習しておこう。
頭の中に定着したのである。こうした大きな変化の背
後にあって,移動の安全と経済効果を格段に引き上げ
<設問解説>
たのは,やはり工業化であった。農業技術の発達も,
問⑴
生態系の変化も,それに大きく規定されるようになっ
モンロー宣言の骨子は,①アメリカ大陸はヨーロッ
たからである。もっとも,工業化そのものは,第二次
パ諸国の植民地の対象とされるべきではない,②西半
世界大戦以前には,欧米の一部の先進国と東アジアに
球の独立国に対するヨーロッパ諸国の干渉に反対する,
波及したにとどまり,その他の国は,それを支える第
③対ヨーロッパ不干渉,の三原則である。そして,こ
一次産品の供給基地として発展した。また,白人は
の宣言は,アラスカから北西太平洋地方への進出を目
「新ヨーロッパ化」した温帯へ,非白人は熱帯へとい
指すロシアからの脅威と,独立を達成しつつあったラ
う,1820年までに定着した「棲み分け」の傾向も大き
テン・アメリカ諸国に対する,神聖同盟加盟諸国の干
く崩れることはなかった。
渉に応えて立案されたものであるが,この宣言が出さ
れた背景は,北部における産業革命の進展と,南部に
おける綿花プランテーションの発展によって深まった,
国内の地域的利害の対立を,外からの脅威を説くこと
によって緩和し,国論の統一をはかることにあった。
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06-3 東大本番レベル模試
世界史
解答解説
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2007/01/18(担当:建岡)修正
国内の矛盾・対立を,外からの脅威を説くことで覆い
たのが,常に西に移動し続けるフロンティアであった
隠そうとするのは,為政者の常である。この点,アメ
のである。
リカも例外ではない。そもそもこの宣言は,イギリス
問⑶
外相カニングが,神聖同盟,なかんずくフランスの干
第一次世界大戦の直後は,民主党大統領のウィルソ
渉を阻止するために共同宣言を出すことを提案したこ
ンの革新主義の下で,ニューフリーダムと呼ばれるい
とに端を発する。西半球のリーダーたることを自任し,
くつかの民主的改革(関税引き下げ,銀行制度の改革,
中南米諸国の独立を歓迎・承認してきたアメリカは,
反トラスト政策や婦人参政権付与など)が行われたが,
共同宣言の趣旨には賛成であったものの,共同の形を
1920年の大統領選挙で共和党のハーディングが「常態
とることによってイギリスが進出することをおそれ,
への復帰」を訴えて当選すると,政策は保守化した。
単独宣言の形をとることにしたのである。これは,そ
これは,アメリカ社会全体が,空前の繁栄の中で,保
の後1世紀以上にわたって,アメリカ外交の基本原理
守的なムードに包まれていたことを示すものであった。
(モンロー主義)となるが,それは,アメリカ合衆国一
ハーディング,クーリッジ,フーヴァーと続く1920年
国だけの孤立主義,非干渉主義の主張ではない。すな
代の共和党政権の政治は,まさに実業界のための政治
わち,南北両アメリカ大陸全体のヨーロッパからの分
であった。内政面では,所得税の累進性を弱める税制
離を主張している点が重要なのである。それは,アメ
の手直し,高率保護関税の制定,同業者団体の育成,
リカの西半球での行動の自由の主張でもあり,19世紀
企業活動の合理化を推進する一方,独占化の動きや労
末になると,モンロー主義は拡大解釈され,カリブ海
資関係に対しては,介入を避ける態度をとった。外交
政策に見られるように,南米大陸に対するアメリカの
面では,列強との協調による安定した国際秩序の維持
干渉を正当化するために利用されるようになるのであ
と,社会主義勢力の拡大阻止を目指し,ドイツ賠償金
る。
問題に関与するなど,積極的な外交政策を展開した。
問⑵
また,健全財政と減税を求める実業界の意向もあって,
フロンティアとは,元来国境線を意味する言葉だが, 建艦競争に歯止めをかけるために,ワシントン海軍軍
アメリカ史においては,ヨーロッパ系白人定着地の外
縮会議を召集し(1921年),パリ不戦条約(1928年)の成
縁地域を指し,開拓の進みつつある人口密度の低い地
立にも積極的な役割を演じたのである。経済の繁栄と
域といった概念であり,多くの場合,国境の内側に
国際協調,これが1920年代のアメリカであった。しか
あって,人口移動につれて移動するものである。アメ
し,これが極めて脆い砂上の楼閣にすぎなかったこと
リカのセンサスでは,1平方マイル(約 2.6 km2)に2
を明らかにしたのが,1929年の世界大恐慌の勃発なの
〜6人の人口密度の地域をフロンティアと定義し,そ
であった。
れを結んで南北に引かれる線をフロンティア・ライン
と規定した。1890年のセンサスで,このフロンティ
ア・ラインの消滅が告げられたのである。アメリカ史
を理解するうえで,フロンティアはきわめて重要な意
味をもっている。そもそも,北アメリカの大西洋岸に
第3問
【配点】 ⑶は4点,⑸は各1点で,合計2点,
⑴⑵⑷⑹⑺⑻⑼は各1点,
形成されたイギリス植民地が独立してアメリカ合衆国
合計13点
となり,近代国家として発達していく過程が,西方へ
の領土の拡大と人口の移動という現象と並行していた
【解答例】
というのが,アメリカの特殊な経験であった。その際,
⑴ペリクレス
植民地主義の否定を旗印として独立したという事情ゆ
⑵イブン = シーナー
えに,アメリカの膨張は,旧植民地国家とは異なった
⑶貨幣地代の普及が促進されて農民は自立化を進展さ
形態をとった。すなわち,北米大陸に領土を持つ諸国
せる一方,賦役復活等反動政策を取ろうとする領主に
や先住民インディアン諸部族から,購入・併合・征服
対しては一揆を起こした。(59字)
など,様々な方法で土地を獲得し,これを領土に加え
⑷サレルノ大学
て公有地とし,これを個人・法人に払い下げて入植さ
⑸李時珍,『本草綱目』
せ,人口増加に応じて準州,州へと昇格させ,連邦に
⑹『ターヘル = アナトミア』
加入させるという方法である。このような,原理上恒
⑺ジェンナー
久的な植民地を形成することなく,人口の増加に応じ
⑻パストゥール
て,その地域を連邦=本国的部分に組み込み,共和制
⑼抗生物質
の大陸の拡大を図る,という膨張方式のゆえに生まれ
− 110 −
06-3 東大本番レベル模試
世界史
解答解説
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2007/01/18(担当:建岡)修正
【解説】
法的に認可された。ヨーロッパ各地の大学としては,
<出題のねらい>
11世紀後半に成立したボローニャ大学は法学で,12〜
東大世界史の第3問は,例年,あるテーマに沿った,
13世紀に成立したパリ大学とオクスフォード大学は,
単答式記述問題であるが,昨年度よりその中に1〜3
神学で名高い。
行論述が含まれる2000年度以前の形式に戻った(もっ
問⑸
とも,昨年度は1行論述1問であったが)
。そこで,
明末に湖北省で生まれた李時珍(1523年頃〜1596年
本問では,2行論述を1問復活させ,昨年度の傾向が
頃)は,薬草に関する書物や薬種の研究・実験に励ん
本年度も続くと予想して出題した。テーマは,「疾病
だ。彼は,旧来の書物に多くの誤りを見つけ,約30年
の歴史」である。
かけてそれらを訂正し,新しい薬草を加えて『本草綱
目』全52巻を完成させた。
<設問解説>
問⑹
問⑴
杉田玄白,前野良沢,中川淳庵は,ドイツ人クルム
アテネ中心のデロス同盟と,スパルタ中心のペロポ
スの著書である『解剖図譜』のオランダ語訳である
ネソス同盟によって戦われたペロポネソス戦争(前431
『ターヘル = アナトミア』を翻訳し,1774年に『解体
〜前404年)では,戦争の初期に,アテネ市内で疫病が
新書』として刊行した。日本史選択者には常識的な問
流行し,指導者ペリクレスもこれによって,前429年
題である。
に死去した。以後,市政では内紛が続いて民主政治は
問⑺
腐敗・堕落し,デマゴーゴスと呼ばれる煽動政治家が
天然痘は,伝染病の一種で,発病すると死亡率が高
次々と現れて,アテネは衆愚政治に陥った。
い。イギリスの外科医ジェンナー
(1749〜1823年)は,
問⑵
牛の天然痘である牛痘にかかったことのある,乳搾り
イブン = シーナー
(980〜1037年)は,ラテン名をア
の女性は,人間の天然痘にかからないことに着目し,
ヴィケンナという。中央アジアのブハラで生まれ,17
1796年,少年の腕に牛痘を接種し,次いで人痘を接種
歳の時にサーマーン朝君主の難病を治療したことが縁
する実験に成功した。こうして開発された種痘法に
で,その宮廷内の豊富な文庫の自由な利用を許され,
よって,人工免疫による疾病予防の研究が進展するこ
それが諸学に通ずるきっかけとなった。彼は,ギリシ
ととなった。また,1980年には,世界保健機関
(WHO)
ア・イスラーム医学を集大成し,『医学典範』を完成
によって,天然痘の根絶宣言が行われた。
させた。この書物は,12世紀にラテン語に翻訳されて
問⑻
以来,ヨーロッパの大学でも医学の教科書とされた。
パストゥール(1822〜1895年)は,1861年の著作『自
然発生説の検討』の中で,発酵が微生物の増殖による
問⑶
1346〜50年に大流行し,その後も断続的に人々をお
ことを示すとともに,栄養を含んだ肉汁中での微生物
そったペスト(黒死病)によって,イギリス・フランス
の増殖は,自然発生によるものではなく,外部からの
では人口の半分近くが死亡し,西ヨーロッパの人口は
細菌によることを証明した。また,彼の研究は,発酵
ほぼ3分の2に減少した。この急激な人口減少は,都
飲料を汚染する微生物がいることを示していた。この
市の労働者の賃金を高騰させ,農村では領主の直営地
ことから,彼は牛乳などの液体を熱し,その中に含ま
経営を困難にして,農民の自立化と貨幣による地代支
れているバクテリアやカビをすべて殺す方法を発明し
払いを促した。一方で,領主の中には地代を重くした
た。彼は,この方法をさらに改良し,ワインの腐敗・
り,賦役を復活させるなど,農民への抑圧を強める反
変質を防ぐ,低温殺菌法を考案したのである。余談で
動政策を取ろうとする者もいたが,一度地位を向上さ
あるが,普仏戦争に敗北したフランスは,50億フラン
せた農民の抵抗は激しく,フランスのジャックリーの
という多額の賠償金をプロイセンに要求されたが,フ
乱(1358年)やイギリスのワット = タイラーの乱(1381
ランスワインの品質向上で,ワインの生産・販売が急
年)のような農民一揆を引き起こすこととなった。
増し,この賠償金をわずか1年で返済することができ
問⑷
たのである。
イタリアのナポリ東南にあるサレルノには,古くか
ら医学校が存在し,北アフリカに近いことから,イス
問⑼
抗生物質とは,微生物の発育・機能を阻止する物質
ラム医学の影響を強く受けて発展し,十字軍の時には,
で,ペニシリンをはじめとして,現在までに約1000種
傷病兵治療の要地ともなった。こうした中で11世紀に
が発見され,化学療法や農薬に利用されている。ちな
成立したサレルノ大学は,その後,13世紀に神聖ロー
みに,ペニシリンとは,1929年に,アレクサンダー・
マ皇帝・フリードリヒ2世(位1212〜1250年)によって,
フレミングによって,青カビの一種から分離された,
− 111 −
06-3 東大本番レベル模試
世界史
解答解説
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2007/01/18(担当:建岡)修正
世界初の抗生物質である。発見後,医療用として実用
化されるまでには10年以上の歳月を要したが,1942年
にベンジルペニシリン
(ペニシリン G,PCG)が単離
されて実用化され,第二次世界大戦中に多くの負傷兵
や戦傷者を感染症から救った。以降,種々の誘導体
(ペニシリン系抗生物質)が開発され,医療現場に提供
されてきた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
資料・東大入試の裏側(知らないと大損する!)
現在,東京大学では,2003年度入試以降の成績情報
について,合格者・不合格者を問わず,入試成績の開
示が行われている。入学試験後,東大の指定する所定
の手続きをふめば,自分の入試成績がわかるのである。
東京大学の学生によって運営されている,週刊「東京
大学新聞」2006年9月12日号によれば,サンプル数と
しては少ないものの,70人ほどの合格者の科目別得点
分布と科類別平均点を調査している。この結果によれ
科目別得点分布(文系)
英語 国語 数学 地歴 世界史 日本史 地理
100〜
1
1
95〜
90〜
5
6
85〜
7
12
80〜
6
2
18
75〜
6
4
18
70〜
8
2
3
13
65〜
18
10
7
1
60〜
9
15
6
1
55〜
5
12
8
50〜
4
13
12
3
1
45〜
1
10
5
14
9
40〜
4
9
28
15
10
35〜
1
3
8
13
9
16
30〜
5
4
6
8
〜29
4
4
1
集計人数 71
71
71
70
62
43
36
最高点 100
82
79
100
50
49
50
平均点 71.2 56.7 50.7 80.5 42.3 39.2 37.8
最低点 38
37
14
61
33
26
26
標準偏差 12.0 9.5 14.0 6.9 4.4 5.5 4.5
ば,合格者の地歴の点数は,大体2科目併せて80点は
超えており,地歴については,合格にはかなりの高得
点が要求されていることがわかる。また反面,短期間
で採点を行うため,かなり採点は大まかで,採点教員
に「こいつはよく書けている」と思わせることができ
科類別平均点
文系
文Ⅰ
文Ⅱ
文Ⅲ
英語
77.1
70.2
68.8
国語
61.8
56.6
54.4
数学
55.3
50.4
48.7
世界史
43.5
41.0
42.2
日本史
41.0
41.7
38.5
地理 総合
39.5 277.3
39.8 253.8
35.9 251.3
れば,採点はかなり甘くなっていることも確かである。
ただし,そこはさすがに東大の教員で,基本的なミス
やこじつけ答案に対しては厳しく,点数は両極分解し
ていると言っても過言ではない。したがって,この直
前期に言えることは,歴史事項の説明,因果関係につ
いての基本的なミス,また誤字・脱字には特に注意せ
よ,ということである。また,設問の要求には正しく
答え,とにかく採点教員に「なかなかよく書けている
ではないか」と思わせるような答案を書くことである。
そうすれば,しめたもので,上で述べたように,高得
点が期待できる。この時期,地歴がまだ追いついてい
ないなどと言う人は致命傷である。この表からわかる
ように,国語(特に現代文)で高得点は期待できないの
であるから,この直前期には,特に地歴に力を入れて
欲しい。
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06-3 東大本番レベル模試
世界史
解答解説
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