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中巌円月の思想と文学 - 大手前大学・大手前短期大学図書館

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博
士
学 位
論 文
中巌円月の思想と文学
2012 年度
北京外国語大学 孫容成
指導教員
上垣外 憲一
目
序 章
第一章
第一節
一
二
三
第二節
一
二
三
第二章
第一節
一
二
第二節
一
二
三
四
第三節
一
二
三
第四節
一
二
第三章
第一節
一
二
第二節
一
二
三
終 章
付 録 1
2
3
4
参考文献
次
………………………………………………………………
大慧禅の展開 ……………………………………………
禅思想 ……………………………………………………
東陽の教え…………………………………………………
道俗への説法
……………………………………
大慧派としての自覚 ……………………………………
他派との関係-夢窓派との関係を中心に ……………
夢窓との関係 ……………………………………………
龍山徳見との関係―夢窓派と接近のきっかけ ………
春屋妙葩及び義堂周信との交渉 ………………………
文学活動の展開……………………………………………
中国留学―大慧派下における文学活動 ………………
百丈山大智寺における文学活動…………………………
金華智者寺における文学活動……………………………
帰国後の創作活動―夢窓派との交渉の実態
………
春屋に和した詩四首-詩風研究をかねて
…………
春屋住天龍江湖疏
……………………………………
空華集序
………………………………………
夢窓国師賛
……………………………………………
注釈書の執筆―挿注参釈広智禅師蒲室集
……
作製経緯及び現存写本の来歴 …………………………
引用漢籍 …………………………………………………
引用漢詩 …………………………………………………
中国文人観-韓愈と楊雄を中心に ……………………
楊雄観 ……………………………………………………
韓愈観 ……………………………………………………
儒学的政治思想の展開 …………………………………
後醍醐政権下における著述活動
-儒学的政治思想の初表明 …………
上建武天子と原民
………………………………
中正子
………………………………………………
足利政権下での著述活動
-儒学的政治思想の堅持と変容 …
代筆二篇
……………………………………………
日本書
……………………………………………
文明軒雑談
…………………………………………
………………………………………………………………
上建武天子表・原民・原僧現代語訳 …………………
経権篇現代語訳 …………………………………………
革解篇現代語訳 …………………………………………
年表
………………………………………………………
………………………………………………………………
1
8
8
8
13
22
30
31
34
36
40
40
40
45
53
53
61
64
66
67
68
69
75
80
80
84
91
93
93
98
104
105
107
110
123
128
129
130
132
161
序
章
中国では宋から明初にかけての時代、日本では鎌倉末期から室町前期に至るまでの約五
百年間 1、中日両国の間には正式な国交がなかった。そのかわり、両国の文化交流は、主
として民間レベルにおいて展開されていた。特に、多くの禅僧は両国の間を往来し、大陸
文化の日本への伝播、紹介に寄与したことは広く知られている。彼らは禅宗を日本に伝え
ただけではなく、儒学をはじめ、水墨画や書籍、陶磁器などの文物の移入につとめ、さら
に喫茶や葬儀などの生活習慣をも日本に伝えた。また、彼らによって創出された五山文学
と呼ばれる禅林文学は日本漢文学史上の輝かしい一ページとなった。これらの禅僧のうち、
日本に来た中国人僧は渡来僧、或いは来朝僧 2と呼ばれるのに対して、日本から中国へ留
学に行ってきた僧は留学僧(或いは、具体的に入宋僧、渡元僧など)と呼ばれている 3。
本論で取り上げる中巌円月(一三○○~一三七五)は代表的な留学僧の一人である。
まず、彼の生涯の概略を示そう。
彼は相模鎌倉の出身で、俗姓は桓武平氏、土屋氏である。父母が困窮し、面倒を見てく
れる人がいないため、八歳のとき、祖母は彼を鎌倉扇谷の寿福寺に入れて、僧童とした。
一三一四年冬十五歳のとき、円覚寺で曹洞宗宏智派の渡来僧である東明慧日を礼し、これ
に随侍して受業の師と仰ぐこととなった。一三二四年、元に渡るために、九州に下る。そ
こで後に後援者となる大友貞宗に出会う。大友氏は代々豊後守護・鎮西奉行を継承した家
柄であり、貞宗はその当主で、入元を志す禅僧と親しみ、援助していた。翌一三二五年九
月、中巌は親友の不聞契聞らとともに待望の入元を果たし、江南につく。その後一三三二
年夏まで元に留学している。その間に、主に浙江と江西省の間を往来し、古林清茂をはじ
めとする高僧を遍参し、また在元中の日本人僧龍山徳見や雪村友梅らとも交流した。つい
に、一三二九年の冬に百丈山に到着した。当時、百丈山を董したのは東陽徳煇であった。
東陽は大慧宗杲-拙庵徳光-敬叟居簡-物初大観-晦機元熙-東陽とつづく臨済宗大慧
派の人である。この後、中巌は東陽の会下で一年近くも参学し、翌年(一三三○年)夏に
書記に抜擢され、認可を得たのである。さらに、その後百丈山を離れ、東陽の故郷である
金華へ向かい、そこの智者寺で半年を過ごした後、留学の目的を達成したと判断し、帰国
を決める。
七年ぶりに帰った日本では戦乱の最中であったため、中巌は九州で一年間足止めされる
ことになる。一三三一年冬に貞宗と上京し、後醍醐天皇に上表するなど、中国での学業の
成果をもとに大いに活躍しようと自ら望み、期待もされていたが、貞宗が急死したため、
一三三四年に中巌は京都を離れ、受業師である東明のいる鎌倉に帰った。そこで有名な政
治議論文『中正子』を執筆した。一三三七年、大友氏泰(貞宗の息子)に請われて藤谷崇
福庵に住し、小庵であるが、初めて自分の居所を持つ。一三三九年春一時上京し、浄智寺
で養閑したいという東明の願いを叶わせるために、夢窓疎石を訪ねたり、足利直義に書簡
を送ったりと奔走するが、建長寺の住持予定者が急死したため、直義の裁量により、東明
慧日は建長寺に留任することになった。同年冬に氏泰は上野にある大友氏の領地利根に新
寺として吉祥寺を開き、中巌はその初代住持に請われた。開堂の儀式で、留学中師事した
臨済宗大慧派東陽徳煇の法を嗣ぐことを表明したため、鎌倉に帰った後、宏智派と不和に
陥る。このため、一三四○、四一年の二年間は鎌倉崇福庵に蟄居し、『藤陰瑣些細集』や
『日本書』の執筆に専念した。以降、崇福庵と吉祥寺を拠点にし、京都と鎌倉にしばしば
赴く生活パターンを十年以上続ける。出かける目的は他寺における役職の就任・檀越訪
問・講義などいろいろあった。
一三五二年、中巌の生活に転機が訪れる。その年末に、吉祥寺は御願寺となった。そし
1
てつづく翌年二月に、諸山に列せられている鎌倉の乾明山万寿寺の住持に就任、初めての
官寺出住を果たす。これをきっかけに、彼は一三五三年一二月に豊後万寿寺、一三五九年
に京都万寿寺、一三六二年に建仁寺、一三六三年に等持寺を経て、ついに一三六七年に五
山一位に列せられている建長寺への出住を果たした。この間の一三六○年に彼は京都万寿
寺に妙喜世界を建て、ついで一三六二年九月にそれを建仁寺に移して以降、官寺出住期間
以外は基本的に妙喜世界を拠点とした。そして、そこで晩年の随筆集『文明軒雑談』を執
筆した。これらの官寺出住は、中巌が禅林内部で高僧として認められたことを意味すると
同時に、彼が一般人(とくに支配階級)により多くの影響を与える機会をも提供した。た
とえば、一三五七年に彼は招かれて伏見殿において『大慧普説』を講じ、また光明法皇に
字説を奉った。一三六四年に禅律方頭人である佐々木道誉は中巌に帰依し滋賀県で龍興寺
を創建した。一三六七年建長寺住持中に関東の有力武士上杉家と交渉を続けた。一三六八
年、京都で前関白二条良基から庭の命名と文章の執筆を依頼されたことなどが挙げられる。
また、一三七五年二月、彼が示寂する一ヵ月後に早くも朝廷から「仏種恵済禅師」と諡を
賜ったことも、彼の当時において重要な位置づけにあったことを物語っている。
このように彼は生前から高い評価を得ただけではなく、後世においても、禅宗二十四流
のうちの一派である中巌派の派祖として、さらに個性豊かな漢詩とその博学さにより、五
山文学の先駆として高く評価されている。こうした彼についての研究は、
「学界の孤児」4
と言われている五山文学研究において、比較的豊富であり、すでに伝記、思想、文学の多
方面からなされている。
まず、伝記研究については、中巌には『自歴譜』が存在するため、その記述にもとづき
ながら、他の作品によって情報を補足し、その生涯を解明する試みがなされてきた。その
うち、玉村竹二の『五山禅僧伝記集成』5における中巌条はまず一読すべきものであろう。
同条は彼の生涯の行実を詳細に跡づけているだけでなく、その性格についての分析も試み
ている。あまりにも理想主義者である上に、狷介な性格が災いし、多くの困難を強いられ
たが、決してそれに負けることなく自分の正しいと信じる道を貫いていく(大慧禅の嗣法
がその代表的な例である)高潔な人であるというのが玉村の評価である。
この中巌像はその後の中巌研究でほぼ共通認識になっている。中川徳之助の「中巌円月
の翔心」 6や、蔭木英雄の中巌の伝記『中世禅者の軌跡』 7などがある。『五山禅僧伝記集
成』と比べると、蔭木の著書は基礎的な事実はほぼ共通し、さらに中巌の作品を具体的に
読みながら叙述しているため、よりリアルな中巌像が浮かびあがっている。しかし、いく
つかの点で依然として問題が存在する。たとえば、大慧派嗣法の理由についての分析が依
然として十分に行われていない。日本での受業師である東明慧日の法を継がずに、留学中
師事した東陽徳煇に嗣法したことは、中巌の生涯で重要な事件であった。その理由につい
ては、玉村は「中国滞留中に目の辺りに見た大慧派の新思潮が中巌の若い心を捉えたから」
としながらも、大慧派下での経験の考証を全く行っていない。これに対して、蔭木の研究
では、大慧派下での経験の考証がなされている点から見て、玉村の説を補足したと言える
が、しかし、まだ大慧派下での経験をほかの修行先とはさほど区別して扱っておらず、そ
の重要性が十分に認識されていないと思われる。大慧派で何を学び、それが後年の中巌に
どのような影響を与えたかについては更なる究明が必要であろう。また、この嗣法のため
に、中巌が東明派から迫害を受けたことは、諸研究者の共通して強調するところであるが、
果たして、そのようなマイナスの影響だけだろうか。長い蟄居の後、中巌になぜ官寺出住
の機会が巡ってきたのか、またその後の「とんとん拍子」 8の出世がなぜなのかについて
の考察はまだ十分ではない 9。これについては、中巌の後半生の人間関係を検証すること
によって、解明する必要があるだろう。
2
伝記研究と並行して、中巌の思想と文学についても様々な角度から研究が行われている。
まずその著作の現存状況については、二十世紀初期に上村観光によって、語録を除いた部
分が『五山文学全集』巻二に『東海一漚集』という題で収録された 10。更に、玉村竹二は
語録を含めた『中巌円月集』を『五山文学新集』巻四に収録し、また、伝存の経緯や諸本
(写本・刊本)についても詳細な解説を施している 11。現在、中巌の作品で唯一活字化さ
れていないのは足利学校所蔵の『挿注参釈広智禅師蒲室集』である。注釈としては、入矢
義高による『中正子』の校注 12と増田知子による詩の全訳が出ている 13。
『中正子』は中巌
の政治理念を述べる議論文で、その全作品の中でも尤も難解なものに属する。これに対す
る入矢の注釈はその本文を理解する上で大いに役立つものである。しかし、ところどころ
に読み落としや誤りが存在する。たとえば、
「革解篇」における「内」
「外」の意味の理解
を間違えたため、二段構成というはっきりした枠組みをも見落としてしまった。それらを
正す必要があるだろう。一方、増田の『東海一漚詩集』は、難解な用語の意味や出典を調
べただけではなく、現代語訳をもつけている労作であり、敬遠されがちの五山漢詩を一般
読者に広めるのに役立つものと思われる。しかし、中巌の詩風を分析し、あるいはその心
情を真に研究するにあたっては、より深い考察が必要であろう。たとえば、「和儀則堂韻
謝琳荊山諸兄見留」(儀則堂の韻に和し、琳荊山の諸兄の引き留めを謝して)に「無奈田
園蕪、胡為乎不帰」(故郷の蕪れるのを見捨ててはおけない、どうして帰らずにいられよ
うか)という一句があるが、これは陶潜(淵明)
「帰去来辞」
(帰去来の辞)の「田園将蕪
胡不帰」
(私の故郷は荒れ果てようとしている。どうして帰らないのか、帰ろう。
)を踏ま
14
えていることは増田も指摘している 。しかし、陶淵明がこの句(詩)で表明しているの
は田園(故里)に帰って遁世したいという気持ちである。それに対して、中巌が詠んでい
るのは、田園(故里の日本)に帰って人民の教化に励みたいという積極的な気持ちである。
このように、増田の注釈は言葉の出典を提示しているにとどまっており、実際の作品中に
おいてそれがどのような意味で使われているかについての考察が欠けている場合が少な
くない。
中巌の儒学思想にいち早く言及したのは井上哲次郎で、かれは「京師朱子学の起原」で
中巌を「已に宋学の何たるかを知り居りし」人として挙げている 15。中巌の儒学思想を主
に宋学との関係から論じているこの傾向は、西村天囚の『日本宋学史』16や、足利衍述の
『鎌倉時代之儒教』17でも継承している。ただ、これらの研究はいずれも概説的な内容に
とどまっており、中巌の思想をテーマに据えた詳細な検討は、一九七二年に出版された入
矢義高の「中巌と中正子の思想的性格」18まで待たなければならない。同論文は『中正子』
校注の解題として書かれているため、全体的には中巌の中国思想の手際よい取り込み方が
特徴的に見られると総括した上で、各篇ごとにその特徴的内容について分析している。
『中
正子』の各篇は中巌の政治的提言として読まれてよいとしている点や、明教大師契嵩から
の影響を重視する視点など、中巌の学問の性格を考える上で、興味深い指摘に富んだ論文
である。しかし、『中正子』のみを扱っており、そこに見える思想がその前後の中巌の作
品とどのようなつながりをもつのかについての考察に欠くため、『中正子』の文章の理解
が制限される場合がある。たとえば、「経権篇」における仮想の国「烏何国」はすなわち
当時の日本を指しており、当篇の内容はその前年に後醍醐に奉った「上建武天子表」の内
容を受けていることを見落としているなどが挙げられよう。
入矢の研究に一年遅れて、一九七三年に発表された久須本文雄の「中巌円月の儒学思
想」 19で、中巌の儒学思想について性情論・方円論・仁義論・易論・中正論・儒仏合一論
に分けて考察している。『中正子』のほかに字説などの作品も利用し分析しているが、議
3
論しているテーゼそのものが基本的には『中正子』で最も集中的に論じられているもので
あるため、それ以外の散見する資料を引用しても、結局は『中正子』の分析に基づいた入
矢の結論を越えるものがほとんど得られていない。
また、中巌の学を「専ら程朱学に拠って解明したもの」と断定したのもいささか性急に
思われる。中巌の学を程朱学にひきつけて説明したいのは、程朱学がその後儒学の主流と
なっているため、中巌の後人への影響を強調することによってそれを高く評価したいため
と思われる。中巌は元で程朱学に触れ、影響を受けたのは事実である。しかし、その学説
はもっぱら程朱に拠ったわけではない。実際、久須本が朱注によっている、あるいは朱注
と変わらないとする部分も、原典との間に違いがある。たとえば、久須本は「革解篇」で
中巌が初九について「初九鞏用黄牛之革。象曰 20、不可以有為也。中正子解之曰、黄牛之
皮、至固之物也。鞏者固、固九四也。下之一爻靜是也。」と述べているのを、革卦朱注の
「雖当革時、居初無応、未可有為、故為此象。鞏、固也。黄、中色。牛、順物。革、所以
固物、(中略)。其占為当堅確固守、而不可以有為。聖人之于変革、其謹如此。」に拠った
としている 21。しかし、同じ経文に対する注釈なので類似する内容があるのは当然だが、
上述の二文の間にはむしろ相違点のほうが目立っている。中巌の解釈の特徴は初九と九四
の関係を通じて「鞏」の意味を解釈している。つまり、内卦の初爻(初九)と外卦の初爻
(九四)はともに九(陽)で革わっていないということを強調しているが 22、朱注にはそ
のような初爻と四爻を結びつけて考える内容は見えない。何注に拠ったかを判断するには、
表現を忠実に援用しているか、内容的に他注にないものを含んでいるかを確認することが
必要である。「革解篇」の場合、そのいずれも確認できない。朱注は『易』の注釈中、最
も有名なものであるため、中巌もそれを習得していたことは事実であるが、「革解篇」の
内容はすなわち朱注に拠ったとは、久須本の挙げた例からは断定できない。中巌は一体ど
の注に依拠して易を勉学していたかについては「革解篇」の内容に限定せず、もっと広範
に再検討する必要がある。また、既に入矢によって指摘されていながら、久須本の論文で
言及していない、中巌の儒学研鑽における政治提言的傾向についても、研究を深めるべき
であろう。
一九八一年に出版された芳賀幸四郎の『中世禅林の学問及び文学に関する研究』では、
各章に散見している形ではあるが、中巌の朱子観、易学、中庸思想、儒仏融合の立場など
に触れ、興味深い指摘が多い 23。たとえば、中巌の朱子観については、その禅宗批判の立
場を批判したり、また性論などの認識においても朱子と違うことを例に、朱子に対して批
判的態度を取っていることを指摘している。これは、それまでに中巌の思想を朱子学に結
び付けて考える傾向と比べ、進歩と言えるだろう。
中巌の思想を考えるとき、儒学と同時に、
『荘子』を愛好し精通していたことも、芳賀、
中川、久須本ら各氏によって論じられている。確かに、詩作における『荘子』の出典の大
量利用をはじめ、
「道物論」
「鯤鵬論」などの存在から、中巌が『荘子』に精通していたこ
とは明白である。ただ、その精通は中国の儒者たちが老荘の一部に惹かれているのと同じ
程度のものであり、中巌の思想の主流ではないことも明らかである。
儒学思想についての研究が比較的多いのに比べれば、禅僧である中巌の禅思想について
論じるものは意外に少ない。禅そのものの難解さによるものであろうか。入矢が「中巌と
中正子の思想的性格」で、『中正子』内篇四篇についての解説にて、中巌の禅者としての
立場を指摘したのはその数少ない研究の一つである。一切の倫理概念を奪い取る中巌の性
論は、朱子と違い、禅的立場によるものであるとする点など、同文の儒学関係論述と同様、
示唆に富む指摘が少なくないが、入矢自身もことわっている通り、簡潔な内容に止まって
4
いるのである。ほかに、蔭木は『中世禅者の軌跡』で「大慧禅」という一章をもうけてい
るが、その半分以上の紙幅を中国の大慧禅の祖師たちの禅を紹介することに費やしており、
中巌本人の禅については、わずかに京都万寿寺で行った冬至小参の法語について触れただ
けである。中巌円月の禅思想についての本格的な究明は、今後の最も大きな課題の一つで
あると言えよう。
思想家としてだけでなく、中巌は文学者として、特に漢詩の作者としても名高く、「其
調の高に於いては自ら五山第一に居る」とまで評価されている 24。よってそれに対する研
究も比較的多い。まず、その文学的背景を扱うものとして、久須本の「中巌円月の中国文
学的背景」 25がある。同論文では、中巌の文章を詩、文、疏、説、論というように、ジャ
ンルごとに分析し、その詩は李白・杜甫の風を模して盛唐に則をとり、文は韓愈・柳(宗
元)に範を得、
『易』
・
『中庸』などの儒教的な面が存しているのみならず、
『荘子』及び李
白・蘇軾のごとき道家的な傾向も帯びているとする。中巌の文学的背景の全体像を知る上
で有益な論文であるが、非常に概説的なものでしかなく、具体的な作品の解説が欠落して
いるように思われる。次に、中巌の詩に窺える思想的特徴について分析したものとして、
千坂嵃峰の「五山文学の精華―中巌円月の『易』詩」 26と「五山文学の「理」-虎関師錬
と中巌円月を中心に」 27がある 。「現代文学において肯定的評価を受けやすいもの」より
も、安良岡の「中世的文芸の特質を求めて」という立場に同調した論文で、中巌の詩に見
える『易』の思想の影響究明など、有意義な発見に富んでいる。三つ目、最も多くの研究
者が関心を示している点でもあるが、中巌の詩風に対する分析である。唐詩的とする説、
宋詩的、加齢に従い変化したとする説などがある。盛唐詩、中でも杜甫に特に傾倒してい
たことを初めて指摘したのは北村沢吉である 28 のに対して、「宋人を学ぶ事が多い」と唱
えたのは山岸徳平である 29。ただ、両氏とも指摘にとどまっており、具体的な作品の解読、
分析が不足している。それに対して、蔭木は最近の研究で、第一、中巌の詩には散文的、
叙述的なものが多く、哲学を詩の中で論じること、第二に問答詩が多いこと、擬人法の多
いこと、第三に唐詩で取り上げられていない小動物を詠じている作品のあることなどから、
中巌の詩は宋詩的であることを、具体的な詩作(四首)を挙げて説明しているので、一定
の説得力があるものである 30。
近年の研究の傾向はまさに具体的な作品を通して、その詩風を考えていく傾向にある。
たとえば、中国の学者の高文漢は「五山文筆僧中巌円月の世界」31で、従来の研究をまと
めた上で、中巌の詩作を、社会詩、孤憤詩、自省詩、山林詩の四種類に分けて説明し、前
期は杜甫の詩を範とする社会詩、孤憤詩が多いのに対して、晩年の巧緻な風韻の詩作は日
本文学の伝統的な美の理想に近づいたと結論づけている。
中巌の詩風には年齢の増加に従い、変化が見られるという視点からの研究は、高の論文
のほかに、佐々木朋子の「中巌円月-行動・思想の変化と詩の展開、私詩から偈頌へ」32
がある。私的な感情表白詩から自己即普遍世界を詠う詩への変遷をたどっている。
このように、中巌の詩風についての研究はようやく多様化を示しつつあるが、依然とし
て未解決の問題がある。たとえば、中巌の詩に両方窺える盛唐の杜甫詩への傾倒と宋詩の
影響との関係をどう説明すべきかという問題がある。また、唐詩の中で杜甫詩の影響を最
も受けていることが明らかになったが、宋詩においては、具体的にどの詩人の影響を受け
ているかについてはまだ詳しい分析がない。蔭木は「小動物に目を注いでいるのは、黄山
谷の『演雅』が想起される」と、黄庭堅(山谷)の影響を想定しているが、すでに千坂氏
によって指摘されているように、黄庭堅は小動物を読んだ詩も書いているが、しかし、そ
れは決して黄詩の重要な特徴ではない 33。もし、中巌の詩と黄詩の影響を考えるのなら、
黄詩の最も重要な特徴である古典の活用という角度から検討する必要があるのだろう。
5
そして、もうひとつ、中巌の詩を読む時、前掲の千坂のように「中世的文芸の特質」を
求める立場からの研究が少ないことも改める必要性があるだろう。取り上げられる詩の選
択基準は、意味が取りやすく、とかく現代人の好悪で判断しがちで、今の人が共鳴しやす
いものが選ばれやすい。たとえば、玉村竹二の『五山詩僧』における中巌の詩についての
解説を見ると、現代人の心に迫る迫力のあるものを良い作品とするのに対して、難解な熟
語やことわざの使用にはマイナスの価値判断をしている 34。現代人からみて傑作と認めら
れる作品はもちろんのこと、現代のわれわれに難解で理解しがたいようなものでも、当時
の人々の判断基準ですばらしいとされたものがあるとすれば、それについても、究明する
必要があるのではないだろうか。また、詩に限らず、ほかのジャンル、たとえば解読が立
ち遅れている四六文の作品についての未開拓の部分の研究も期待される。
以上見て来たように中巌円月に関する研究は比較的豊富であるにも関わらず、未解決の
問題も依然と多い。そこで、本論文では、従来の研究で研究が不十分である部分、あるい
は全く欠落している部分を中心に、三章に分けて、中巌の思想と文学について考察したい。
具体的には、第一章では、彼の禅について、思想や、禅宗社会における人間関係の二つの
角度から考察する。第一節では特に、彼が東明派からの迫害を甘受してまでも嗣法を決め
た、留学中師事した東陽から習得した禅の特徴の解明、また、それがその後の彼の説法(禅
寺内での説法と一般人への説法を含む)でどのように用いられたかの解明を目指したい。
第二節では彼と夢窓派との交渉を復元することによって、「とんとん拍子」とされている
彼の後半生の出世の理由を明らかにしたい。
第二章では、四節にわけて、留学期及び帰国後の彼の文筆活動を考察することによって、
彼の文章力の高さを検証するとともに、詩文作成の日常性、実用性、社会性、多様性など
の特徴を明らかにしたい。具体的には第一節では、留学体験の中で、とくに中巌に大きな
影響を与えたと思われる大慧派下の経験にしぼって考察する。中国側の史料を探し、当時
の文学的雰囲気を再現しながら、中巌の書き残した作品を鑑賞していきたい。第二節では、
彼により夢窓派の人との交流で書かれたもの七点(漢詩四首、疏、序、賛各一篇)を分析
する。第三節では、夢窓派の春屋に頼まれて製作した『挿注参釈広智禅師蒲室集』を原本
調査し、それに引用されている漢籍や漢詩を整理することによって、その博学さを実証す
る。第四節では、彼の文人意識特に百丈山と金華で学んだと思われる揚雄と韓愈への認識
を考察することを通じて、彼の文章観をあきらかにする。
第三章は儒学的政治思想というテーマで、すでに先学によって指摘されている彼の学問
の実践的性格の具体相を明らかにしたい。比較的研究が進んでいる『中正子』を再読し、
さらに「上建武天子表」
・
「原民」
・
『文明軒雑談』など、その政治思想的な内容が含まれる
彼の著作を年代順に取り上げることによって、その政治思想の一貫性や変化などを明らか
にしたい。
このように、禅、文学、儒学の多方面から考察を加えるのは、中巌はそのいずれにおい
ても優れていたからであると同時に、この三者を併せ持つところに中国文化の伝播者と言
われた当時の禅僧の特徴があるが、これらすべての関係を明らかにしてはじめて、より真
実に近い中巌の全体像が再現できると思われるからである。
注記
①
漢字表記は紛らわしさを避けるため、新字体で統一した。ただ、論文名については、正確性を保つ
ため、別に参考文献リストを作成し、元の表記を挙げている。
②
漢文史料の引用に当たっては、基本的に原文と現代語訳を両方掲げることにした。ただし、複数回
6
引用される場合、二回目以降は漢文のみにした。なお、韻文(漢詩、賦、賛、疏を含む)の場合は、
読み下しをもつけた。中巌の文章の引用に当たって、活字のあるものは原則的には『五山文学新集』
巻四『中巌円月集』(以下『新集』と略す)によったが、俗字や変体字を適宜正字に直している。
句読点も筆者の解釈で付している。なお、写本からの引用の場合は、原文をそのままにした。欠字
についてはその字数が判明できる場合、字数にに合わせて□□□□□で表した。字数が分からない
場合は「後欠」とした。
③
数字は基本的に漢数字で表記したが、参考文献などで原文がアラビア数字の場合はそのままにした。
なお、年号は西暦を用いた。
④
参考文献については、注で頁数を記すようにしているが、論文(本)全体の主旨を参考にした場合
は、頁数を略している。
7
第一章
大慧禅の展開
禅宗は中国において成立した仏教の一宗派である。内観自省によっておのれの心性の本
源を見極めようとする、坐禅を修行の基本とする宗派である 35。一般的に菩提達磨をその
初祖とするが、実際に宗派として成立したのは六祖慧能の時代、つまり唐初ごろである。
慧能の門下に南岳懐譲、青原行思の二人が出て、さらに細分され、ついには臨済宗・曹洞
宗・潙仰宗・雲門宗・法眼宗・黄龍派・楊岐派の五家七宗が成立し、支配階級である士大
夫層の支持もあって、中国で各仏教宗派のうち、もっとも盛んな一派として栄えた 36。日
本への禅宗の本格的な伝来は中国の南宋に渡った栄西が日本に請来したことから始まる。
その後、室町初期にかけて、渡来僧や留学僧によって多くの流派が日本に伝わったが、そ
のうち、嗣法の弟子ができ、法孫を輩出して流派をなしたものが二十四流であったとされ
る 37。中巌もこの二十四流の一つである中巌派の派祖に数えられているほどの高僧である。
しかし、彼の禅思想についての論究はきわめて少ない。わずかに蔭木英雄が京城万寿禅寺
冬至小参を取り上げているのみである 38。また、多くの流派が共存する当時、中巌はどの
ような位置にあるのかについてのまとまった論及もまだ見られない。そこで本章では二節
に分けて、中巌の禅について究明したい。第一節ではその思想の特徴を、第二節では中巌
と他派の関係・交渉について、それぞれ検討したい。
第一節
大慧禅
中巌の伝える大慧派は、中国宋代の禅僧大慧宗杲 39を始祖と仰ぐ一派で、宋代以降の中
国禅林の主流派のひとつである。大慧本人の著書は早くから日本に伝えられ、禅者の間で
珍重された。道元も中国で大慧派の禅を中心に修行を続けたことはよく知られている。し
かし、中巌が東陽の法を継ぐまで、日本には大慧禅を正式に嗣法する人はいなかった。こ
れは、禅宗が中国から日本に伝わる時期、すなわち宋末元初ごろは中国で大慧派の活躍は
やや下火で、その法兄の虎丘紹隆下の虎丘派、松源派、破庵派などが活躍したことと関係
があると思われる。日本に伝わった禅宗二十四流の大半が松源派と破庵派の流れを汲んで
いるのに対して、中巌が大慧派を継承したのは、彼の留学期間が、中国でちょうど大慧派
の活動が再び活発になってくる時期で、中巌はその立役者の一人であった東陽徳煇と出会
う機会を得たためである。しかし、その嗣法は最初は周囲からなかなか認められず、中巌
が以前受業していた宏智派の人から、危害を加えられそうになったことさえあった。それ
でも、中巌は自らの信念を曲げずに、嗣法を貫いた。よって、中巌の禅思想を解明するた
めには、まず、彼が東陽のもとで習ったものを解明しなければならないと思う。しかし、
それについての研究はいままで皆無といってよい。これは、中巌の禅思想についてはまだ
本格的な研究がなされていないうえ、東陽にも語録が残っていないため、研究が一層困難
になっているためであろう。そこで、本論ではこういった資料不足を克服するため、中巌
の東陽に関する記述を掘り起こすことによって、中巌が東陽のもとで習った禅の解明につ
とめたい。
一
東陽の教え
中巌の東陽に関する記述を整理する前に、まず彼が東陽に出会ういきさつを簡単に見よ
う。一三二五年九月、二六歳の中巌は中国に渡った。このころはちょうど日本禅僧の渡元
ブームの最盛期にあたる時期で、中巌本人の述懐によると、この年だけでも日本僧が二十
8
数人も浙江に来ており、中国の高僧霊石如芝 40もその数の多さにびっくりしていたほどで
ある 41。中巌は商船に便乗し、明州、現在の寧波に上陸したが、親友の不聞契聞 42も同船
していた。この時から、一三三二年夏におよぶ約七年間、彼は江蘇、浙江、江西省を中心
に、遠くは福建まで、その行脚の足跡を残した。当時、中国の禅僧で、日本で最も名前が
よく知られていたのは古林清茂 43と中峰明本 44であった。中巌も留学当初はまず古林の下
を目指した。しかし、古林から大いに器許された月林道皎 45と比べると、中巌の古林のも
とでの経験は当時の詩作「泰定二年、寓保寧、会諸江湖名勝」(泰定二年、保寧に寓し、
多くの禅林の名僧に出会う)で「拙句解嘲慵下筆、痩顔拭唾耐煩襟」(下手な句で人の嘲
りを解こうとするが筆を下すのが面倒、痩せた顔に吐きかけられた唾を拭いて耐える)と
書いていることから窺えるように、不遇感に満ちたさびしいものであった 46。古林には保
寧寺で二回(一三二六・二七年)、東林寺で一回(一三二九年)合わせて三回参学したが、
最終的には、書記就任の要請を断り、古林清茂のもとを離れた。中峰のいる天目山をも訪
れたが、すでに中峰の寂した後だった。その間に、中巌は主に浙江と江西省の間を往来し、
中国人僧をはじめ、在元中の日本人僧龍山徳見 47・雪村友梅 48らとも交遊した。このよう
に、中国の禅林についての情報も豊富になったと思われる中巌は一三二九年の冬に百丈山
に到着した。当時、百丈山を董していたのは大慧派の東陽徳煇であった。この後、中巌は
東陽の会下で一年近くも参学し、翌年(一三三○年)夏に書記に抜擢され、認可を得たの
である。さらに、その後百丈山を離れ、東陽の故郷である金華へ向かい、そこの智者寺で
半年を過ごした後、留学の目的を達成したと判断し、帰国を決めたのである。
中巌の現存作品の中で、東陽に言及しているものは、年代順に整理すると、①一三四二
年頃に書いた「上東陽和尚」、②一三五三年二月相州乾明山万寿寺での拈香、③一三五三
年一二月豊州万寿寺での拈香、④一三五五年以降に書いたと思われる「為広慧禅師拈香挙
哀」、⑤一三五八年作成した『挿注参釈広智禅師蒲室集』での言及、⑥一三五九年京城万
寿寺での拈香、⑦一三五九年京城万寿寺での上堂、⑧一三六二年建仁寺での拈香、⑨建仁
寺で行った冬至小参、⑩一三六七年建長寺で行った拈香、⑪東陽忌に行った拈香がある。
①の「上東陽和尚」は、二回目の渡航が許されなかったため、渡航の三禅僧に託した書状
であり、恩師を慕う気持ち、近況報告、三禅僧への指導の依頼などの内容からなっている。
②、③、⑥、⑧、⑩は同じ性質のもので、嗣法拈香である。当時禅寺の住持の入寺は決ま
った段取りによって進行しており、嗣法拈香はそのうちの一つである。拈香とは文字通り
香をつまんでたくことであるが、と同時に、誰に嗣法するのか、なぜ嗣法するのか、短い
文を朗読する。師のために拈香し、敬意を表する儀式である。④は題名通り、師の訃報に
接した時に作成した哀悼文である。⑤は詩文の注釈をする際、語句に触発された東陽の思
い出。⑦と⑨は、上堂説法の中に師が登場している。⑪は東陽の忌日のために書いた偈頌
である。以下、中巌の大慧派嗣法が始めて公的に認められた際のもの②と、各記述の中で
最も長文である④を具体的に分析する。
(一)嗣法拈香
一三五三年二月、中巌は始めて官寺出住を果たした。鎌倉にある乾明山万寿寺で、十刹
格の寺だった。東陽への嗣法が公の場ではじめて承認されたことになる。中巌が東陽への
嗣法を始めて表明したのは一四年前の一三三九年であった。当時、大友氏泰は父貞宗の七
回忌を催すため、遠隔地所領の利根荘で吉祥寺を開いた 49。その上堂説法で中巌は東陽嗣
法の意のあることを示した。しかしその表明はすぐには禅宗界で受け入れられなかった。
かえってそのために、宏智派から反発を受け、長い間蟄居せざるをえなかったのである。
9
そのような苦難を乗り越え、乾明山万寿寺をもって、彼の大慧派嗣法はやっと公的に認め
られたことになるのである。この拈香に中巌の込めた思いの熱いことは想像に難くない。
その後の拈香と比べ、内容が一段と長いのはそれを物語っている。全文を以下に掲げる。
(原文)
又拈香云、此香、曾於大雄山下、没興撞著咬人底老大虫、白日青天、遭它一口、痛不可禁、屈不可
雪、懐之二十余年、痛已定矣、屈将欲雪、爇向炉中、供養前住洪州百丈、後住湖州道場、見在金華
北山、養高草堂、妙喜第五世、奉勅修清規、賜号広慧禅師、東陽大和尚
(現代語訳)
また、拈香して言ったには、この香はかつて大雄山下で、はしなくも人を咬む虎に出くわした。晴
天白日のもと、そいつに噛みつかれ、痛みと屈辱は晴らせないまま、二十数年懐に抱き続けた。本
日になってやっとその痛みが収まり、屈辱が晴らされようとしている。香を炉に焼き、洪州百丈、
湖州道場に住し、いま金華北山の草堂で養高している、妙喜第五世、勅を奉じ清規を修し、広慧禅
師と賜号された東陽大和尚を供養する。
大雄山は百丈山の別名で、よって、冒頭ではまず百丈山で東陽の下での修行の様子を述
懐していることが分かる。そして、東陽を虎に喩え、その出会いは非常に強烈で忘れがた
いものであったことを禅宗特有の逆説的な表現方法で表している。
まず、没興という表現に注意したい。これはその気もなくという意味である。東陽のも
とへの参学については、蔭木英雄は積極的に大慧禅を求めて、大陸に渡ったと推測してい
るが、この表現からみると、必ずしもそうではなかったことが分かる。大慧禅そのものは
中巌以前に既に日本で知られていたことは確かであるが、元の文宗の強力な保護によって
大慧派が勢力を急伸張するまで、中国で大慧派は長い間振るわなかったのである。中巌が
大陸へ渡る前に、東陽の名前がすでに日本に伝わった記録はない。中巌自身の参学歴から
みても、最初はやはり当時日本で知名度の高い古林清茂のもとを目指していたと思われる。
しかし、古林のもとで機縁が合わなかったので、各地を遍参しているうちに、東陽に出会
った。しかも、思いがけずも、そこで強烈な禅体験を経験することになったのである。禅
宗のロジックからいうと、真理は探しても見つからない。何かの機縁で思いがけずにふっ
と悟るのが正道である。「没興」というのは、実際の偶然性とこのような禅的な含みを両
方併せ持っているのだろう。
さらに、中巌はその経験の強烈の程を猛虎に噛みつかれたようだと喩えている。この譬
えは唐代の禅師百丈懐海とその弟子の黄檗希運との間で交わされたかの有名な公案を踏
まえているのは明かである。『五灯会元』巻四黄檗章によって、その内容を以下に掲げよ
う 50。
(原文)
丈一日問師、什麼処去来。曰、大雄山下、采菌子来。丈曰、還見大虫麼、師便作虎声。丈拾斧作斫
勢、師即打百丈一摑。丈吟吟而笑、便帰。上堂曰、大雄山下有一大虫、汝等諸人也須好看、百丈老
漢今日親遭一口。
(現代語訳)
百丈はある日師(黄檗)に聞いた。
「どこから来たか」と。黄檗は「大雄山の下、菌子を采りに来た」
と言った。百丈は「トラを見たか」と言った。黄檗はすなわち虎の声の真似をした。百丈は斧を拾
い切る真似をした。黄檗は即ち百丈を一掴み叩いた。百丈はにこにこして帰った。上堂して「大雄
山の下にトラが一匹いる。君たちはよく気をつけろ。わしは今日一か噛まれたのである」と言った。
10
ここで咬む方は弟子の黄檗で、師の百丈は咬まれるほうである。中巌の拈香で、弟子と
噛むのは師匠、噛まれるのは弟子と役割変換こそしたものの、同じ百丈山という場所で、
同じ虎の喩えを用いているのは、中巌は自分と東陽との関係を百丈と黄檗とのそれに喩え
ようとしていることは明かである。禅宗は「教外別伝、以心伝心」を標榜し、経典を重視
しないかわりに、師資相承を非常に重視する。まだ悟りを得ていない若者が真正の師を得
るために、各地を遍参し、苦労する話はいくらでもある。そして、ひとたび「相契」した
ら、別世界(悟の世界)が一瞬にして眼前に開けてくるのだ。見事に咬まれたということ
はまさに「相契」、則ち機が合ったという意味であろう。また東陽から噛んできていると
いう設定は、東陽が積極的に教えてくれたとの意味を含んでいるとも取れる。百丈懐海は
百丈山を禅宗の名山としたその人であり、百丈-黄檗一系こそ大慧派の直系の遠祖である。
東陽が百丈清規の編纂に尽力したことを考えると、東陽を百丈に喩えるのは東陽本人にと
っても嬉しいことであろう。また、自分を黄檗に喩えるのは、東陽の嫡系であることの宣
言であり、自らの禅に対する自負の表れでもああろう。
つづいて「痛不可禁、屈不可雪、懐之二十余年、痛已定矣、屈将雪矣」はやはり屈折し
た反語表現で、強烈な勉強をさせてもらっていながら、二十年以上経った今まで(東陽に
参学した一三三○年からこの時の一三五二年までの期間が二十二年であるので、実数とし
ても取れる)、ずっと恩返しする機会がない。今日やっと十刹格の万寿寺で住持を務める
ことができて、これで師の教えにも報いられるだろう。苦労したあげくやっと得た安堵感
が行間ににじみ出ている。
(二)追悼文
現存する中巌の東陽に関係する記述の中で、最も長いのは、東陽の示寂を聞き知った際
に作った追悼文「為広慧禅師拈香挙哀」である。東陽の没年は不明であるが、文中にある
「別来二紀」を実数として考えると、この追悼文が書かれたのは一三五一年ごろになる。
前述した拈香よりもやや前に書かれたことになる。
(原文)
咄這老師、最是可悪。大雄峰前、沒興遭遇、南北東西、廻避無路、冤憎同会、両年共住、欺我窮相、
翻褌作袴、点我胆粗、成破落戸。別来二紀、或時恋慕、宿世冤家、阿誰如汝。近聞已在婺州路智者
寺草堂裡遷化了也。且喜江南両浙間叢林、免得被他乱規矩。雖然、冤有頭債有主。提起香、顧示召
云、大衆、会麼、若也会得、老師未死、其或不会、蒼天蒼天、冤苦冤苦。遂焼香挙哀。
(現代語訳)
やあ、この老師、最もいやな人でござる。大雄峰の前で、思いがけなく遭遇してしまって、南北東
西、どこへも逃げようがなかった。怨みをもったまま、二年もの歳月をともに過ごした。わしの窮
屈なのをばかにして、褌を裏返してはかまとした。また、無骨である私をいっそうのこと落ちこぼ
れにしてしまった。別れてから二十年が経ちました。時々恋しく思う。私にとって誰も比べられな
い一番の宿世の冤家であったなあと。すでに婺州路智者寺草堂で示寂したことをつい最近聞き知り
ました。これで(中国)江南両浙間の叢林は彼に規矩を乱される心配もなくなることを嬉しく思う。
とは言っても、恨みには仇があり、債務には債権者がある(ように、私にも師承がある)
。香を拾い
上げて、振り返ってみんなに言う。大衆、会するか、もし会得すれば、老師は未だに死んでいない。
もし会得できなければ、天道様よ、苦しいことじゃ。そこで焼香して哀悼の礼をなした。
11
冒頭から「成破落戸」までの前半で、百丈山東陽下での生活を述懐している。後半は帰
国後の師への追慕の念、示寂を知ったこと、その示寂についての見解などから成っている。
前出の拈香と比べると、文体がきわめて似通っていることに気づく。「大雄峰前、没興遭
遇」という書き出しは、先の拈香でも述べていることであるが、「南北東西、廻避無路」
という表現により、その出会いがまたとない縁であることが一層強調される。また拈香と
同様、逆説的表現の使用が目立っている。これで禅林の規則を乱すものはいなくなったと
いうのは、実は東陽の最大の功績である禅林の規則を決める清規を編纂したことを褒め称
えているのはいうまでもない。それにしても、東陽の示寂をなんと「且喜」んでいると表
現するのは意表をつく。中国語には「楽極生悲」(楽の果てに悲哀が生ずる。喜びも悲し
みも紙一重なり。)という諺があるが、ここはむしろその逆で「悲極生楽」
(悲哀の果てに
楽が生ずる)なのだろうか。
先の拈香にない内容で、全文で最も注目に値するところは「欺我窮相、翻褌作袴、点我
胆粗、成破落戸」という部分である。現代語に訳してみよう。「東陽は貧相の私をばかに
して、褌(下着)を裏返して袴(ズボン)とした。また無骨であるわたしをいっそのこと
おちこぼれにしてしまった。」これによって、中巌の自己認識が分かるだけではなく、東
陽の禅指導の具体方法も窺えるのである。
まず、「欺我窮相、翻褌作袴」を見てみる。中巌の自己規定は窮相である。窮相は、見
た目貧しそうな自信なさそうな様子を意味することばである 51。東陽の指導法は欺である。
弱みに付け込むという意味の欺は、中巌の性分を十分に認識し、それと真正面からぶつか
ってきたという意味だろう。欺の結果は、翻褌作袴である。禅宗典籍の褌にまつわる公案
で「道吾著豹皮褌」 52や「皓老布褌」 53というものがあるが、翻褌作袴という内容はみら
れないので、東陽と中巌の間で実際交わされた内容をそのまま用いた可能性がある。意味
はそれほど難解ではない。褌はむろん下着であるが、普通は人に見せない、見られたくな
いはずのものである。貧相な私が唯一持っていた服かもしれない。それを裏返すだけで外
出用の袴に変身させたのである。比喩的な表現で、現代風にいうと、晴れ着など新調する
必要はない。今の持ち物で、今まで恥ずかしい思いをして隠そうとしていたものこそ、工
夫次第で立派な晴れ着になる。それによって、何をしても体裁の悪い私が堂々と行動でき
るようになる。つまり、悟りや法を外に求める必要はない。自分が本来持っているもの(そ
れも卑近なところに)の大切さに気づき、自身を持って振舞うことの大事さを教えてもら
ったのである。
次に「点我胆粗、成破落戸」を見てみる。中巌の二番目の自己規定は胆粗である。所見
の限り、ほかの語録に用例はないが、現代中国語で「肝っ玉が大きい」という意味で使う。
また、中巌の『自歴譜』に、
「心粗」
(心が粗である)という表現があることもその意味を
理解する上で参考になる。正和五年条の東明の指導についての記述に「象外援予於東明和
尚、扣以洞下之旨、然予心粗、不能達其密意」(象外禅鑑 54の援けを受け、東明和尚に曹
洞の禅旨を教えてもらったが、私の心が粗であるため、その密意を理解できなかった)と
あり、東明の綿密な宗旨に対して、「粗」である自分は理解できなかったと中巌は言う。
繊細なものより、粗放、豪快なものを好むと、中巌自身が認識していたのだろう 55。点は
禅宗でよく使う表現であるが、頓悟の性質を窺わせるものである。「点鉄成金」 56「点凡
成聖」というのが一般的であるが、中巌の場合、点の結果は、破落戸になったのである。
破落戸という表現は禅宗関係の典籍には使用が確認されていないが、言葉自体は宋代以降
俗語の常用語彙で、おちぶれた家の門弟を意味する。また、無頼者というニュアンスもあ
る。つまり、もともと肝っ玉が多きい私の性格をとことん徹底させ、何も持たないがゆえ
に何も怖くない、自由無碍な人にしたということである。自由無碍の境涯は、禅宗の求め
12
る最高境地の一つであることはいうまでもない。しかし、それは「破落戸」というような
一般的にはマイナスのイメージの言葉をもって説明しているところに、中巌及びその師で
ある東陽の個性が感じられる。悟りの境地をどう表現するかは、禅者によって、また同じ
祖師でも状況によっていろいろと相違を見せている 57。中巌の場合は、一般的にイメージ
されているもったいぶった厳かな宗教らしさの表現より、卑近で、時にはいささかひねく
れている荒っぽい表現に真理を託す方向をとったようである。
二
道俗への説法
このように、東陽の指導の下で、中巌が到達した境涯は、禅でよく用いる表現に言い換
えると、妄執を捨て、本来具足の仏性の発見に尽きると言えるだろう。歴代の禅僧が手を
変え品を変え繰り返し強調することであるが、それを体で覚えるのは難しい。東陽の手厚
い指導のおかげで、中巌はそれを身に付け、自己の個性に合った独自の表現であらわせた
だけではなく、帰国後、道俗への説法でもそれを繰り返して強調している。以下、禅寺内
での説法と、一般の信者への教えに分けて詳しく見てみよう。
(一) 乾明山万寿寺住院当晩小参
中巌の禅寺内での説法はその語録によって伝わるが、本節では、前述した相州乾明山万
寿寺で嗣法拈香し入寺した当日夜に行った小参に焦点をあててみよう。小参とは臨時に集
まって説法すること、法堂で行われる上堂(大参)と違い、方丈にあって学人が住持より
親しく法をうけるので、その内容は家訓とも言うべきで、委細になされることが多い。前
述したように、乾明山万寿寺への入寺は、中巌の大慧派東陽への嗣法が初めて認められた
象徴的な事件である。そこでの小参は、まさに彼の家風の始めての開陳となるので、重要
なものである。
(原文)
当晩小参。今辰入院、官員諸山、相送入山、人事雑遝、未有工夫得與諸公説著屋裏本分事。斎後侍
者来覆、今晩小参。山僧乃入思惟三昧、捏合得一箇提綱、自謂説得有些子道理処。及乎撃鼓陛座、
禅客出来、一問一答、一挨一拶、被他乱了所記持者。臨当提契綱要之時、尽底忘卻、無一句来口頭。
推而知之、大凡思量計較而得之者、皆不是本有底。所以道、従門入者、不是家珍、直須自己胸襟流
出、一一蓋天蓋地、方始可也。平生学得底、記持底、思量得来底、都是外物、非屋裏本分底物也。
儞説得天花落地、挙古論今、抑揚褒貶、代別拈頌、説玄説妙、中間也会文章、儷駢四六、抽対黄白、
花簇簇錦簇簇、錚錚訇訇、驚人耳目、総不消得。如今才方禅客問答挨拶之間、被它乱了、便不能作
得主宰。故適間捏合得底許多落落錯錯物事、不知到那裏去、而況於蝋月三十日到来時、平生記得学
得思量得底、還用得著麼。終是外人物事、自家屋裏当得甚麼邊事。兄弟家不論新交旧友、才一見面、
便是一家裏人。是故、山僧、今夜苦口丁寧、奉勧諸公千万撇了乎、昔学得底記持底思量底、浄浄潔
潔、作箇工夫、恰恰用心於本分事上、日久自然打発、可以敵得生死魔軍。其余不緊。
(現代語訳)
その夜小参加行った。今朝入院した時、官僚や諸山の禅師が送ってくれるなど、様々な用事があっ
て、屋裏本分事(自分の本分)についてみんなに話をする機会がなかった。食事の後、今晩小参す
ると侍者が教えてくれた。私は思惟三昧に入り、話のあらすじを練った。自分ではなかなかいいも
のを準備したつもりだったが、撃鼓陛座に及んで、禅客が前に出てきて問答したりしている間に、
覚えていたものを乱されてしまった。教えを披露する段取りになっては、すべて忘れてしまって思
13
い出せない。これと同じように、だいたい苦慮して得たものは、自分が本来具有しているものでは
ない。だから言う。門から入るものは家の宝ではない。自分の胸から自然に流れてきたものが天地
を覆うほどにならないといけない。普段習ったものや、覚えたもの、考えて得たものは、全部取る
に足りないもので、本当の本分のものではない。あなたは天上から花を降らせるほど弁舌をふるい、
古今を論じ、ほめたりけなしたり、問答において、人に代わって答えたり、他の人が既に答えてい
るのに別に自己の見解で答えたり、評唱したり、讃えたり、玄妙なことを説く。また、文章もでき、
四六駢儷文を書き、巧みに対を作り、さまざまな美辞麗句を並べ、勢いよく発声し、人の耳目を驚
かさずに気がすまない。しかし、ついさっき禅客と問答や挨拶をしている間、乱れてしまい、コン
トロールできなくなったため、前もって用意した様々なものが、いつのまにかどこかへいってしま
った。ましてや、年末になると、平生覚えたり、学んだり考えたりしていたものは、いったい役に
立つものか。なんと言っても他人のものなので、自家薬籠中のものにはならない。みんな、新しい
友か古い友かにかかわらず、一度会ったとたん、うちのもの同士。そこで、わしは口をすっぱくし
て皆さんに言いたい。ぜひぜひ昔学んだり覚えたり考えたりしていたものを全部捨てよう。本分の
事にのみ真剣に心を用いよう。時間が経てば自然に身につくようになる。生死にも打ち勝つことが
できる。ほかに急ぐことはない。
「当晩小参、今辰入院、官員諸山、相送入山、人事雑遝、未有工夫與諸公説著屋裏本分
事」と、その冒頭部分が示しているように、中巌自身もこの小参を自らの家風(
「屋裏本
分事」)を示すものとして考えていることが分かる。しかも、昼間の儀式で時間の制限で
十分に展開できなかった禅の教えをもう一度じっくりと開陳しようと意気込んでいる様
子も窺える。しかし、その後の展開は意外性に富んでいる。準備していた内容を陛座説法
の機に及んで、禅客と問答しているうちに忘れてしまったというのである。もちろん、本
当に忘れたわけではなく、議論を進めるために前もって考案した虚構であろう。自分の失
敗談から導入するのは聴講者との距離を縮め、リラックスさせたいという狙いもあるだろ
う。そして、それによって導かれるのは「従門入者、不是家珍」という禅の教えのもっと
も重要なテーゼのひとつである 58。このあと悟りは習ったり覚えたり考えたりして得るも
のではないことを繰り返し強調する。
「直須自己胸襟流出、一一蓋天蓋地、方始可也 59 」
や、「恰恰用心於本分事上、日久自然打発 60」などと中国の禅籍からそのまま借用した表
現が多いが、その懇懇とした調子は、同日昼に行った拈香とおのずから違う雰囲気のもの
になっている。昼間の晴れ行事でインパクトの強い嗣法表明の後、夜の講義で古参の禅者
として、リラックスした雰囲気で、昼間の拈香で十分触れ得なかったものを補足したので
ある。つまり、師との出会いは悟る契機になりうるが、あくまでも契機であり、悟るのは
自分が本来持っているものに気づくことだということである。オーソドックスな議論とも
いえるが、しかし、それを実際に体得することが非常に難しいことはいうまでもない。
中巌には嗣法の弟子ができ、その流派は二十四流の一つとして後世まで伝わっているが、
しかし、その数は決して多くなかった。その直弟子で現在名前が確認されているのはわず
か十五名である。これはなぜだろうか。ここで想起されるのは、中巌の晩年に近い一三六
四年の出来事である。「是歳、師触事大笑不休、左右皆謂、吾輩潜密行事、或不如法、故
見師笑、往々引而退者多矣」(この年、師は事にふれて大笑いばかりしておられた。左右
の弟子達は、私たちがひそかに修行しているのが、或いは法に叶わないのか、師が見て笑
いなさるのだろう。と言って、ともすれば師の前から引き下がるものが多かった。
)と『自
61
歴譜』に書いている 。自分の師との間にあったあの火花を放つような電光石火の機縁は
ついに弟子との間には現れなかったのである。中巌のこの笑いを蔭木は「不気味の嘲笑 62」
としているが、筆者にはむしろ、どうしようもない悲しい笑い声のように聞こえる。かつ
14
て、師の訃報に接して「喜ぶ」と逆説的に表現することによって、その悲しみの大きさを
表していた中巌が、今心を許す弟子のないことの悲しさを笑い声で表していると。一方、
弟子たちはどうだろうか。自分の行動が師の意に反したのではないかと推測し、去ってい
く。師がどう反応しようと、自分に自信を持ち、師に噛みつくという力量を彼らは持って
いない。法にかなうことを願うあまり、かえって自らを見失っているのを彼らはおそらく
意識していなかった。かれらが期待しているのは「それでいい、よくやった、それでいけ」
という太鼓判だろう。中巌があれだけ強調してやまなかった「従門入者、不是家珍」の意
味に、ついに多くの弟子たちは到達できなかったのである。
(二)上杉氏との交流
東陽の下で習得した禅を、中巌は禅寺内だけではなく、一般人への説法においても強調
し続けていた。五山の禅寺に歴住した高僧として、中巌には多くの帰依者、外護者があっ
たが 63、以下、南北朝時代の有力武士である上杉氏との交流で見られる中巌の禅の挙揚の
内容についてみよう。
上杉氏は元々、天皇家に仕える公家であったが、鎌倉時代後期、宗尊親王の将軍就任に
従って鎌倉へ下向して、のちに武士となったと伝えられる。のち足利氏の姻戚として勢力
を伸ばした。中巌と上杉氏の交渉は、主に次の四点の史料から窺える。「正統庵請為雪溪
上人上椙武庫拈香」、
「與戸部藤公」
、
「道元説」と「道行説」である。前二者は上杉憲顕(一
三○六~一三六八)と、後二者は上杉朝宗(一三三四~一四一四)とそれぞれ関係してい
る。憲顕は上杉氏の宗家である山内上杉氏の祖である。彼の父は憲房で、尊氏・直義の母
上杉清子は憲房の妹である。一方の朝宗は犬懸上杉氏で、憲房の子の憲藤を父とする。そ
の息子禅秀が後年反乱を起こしたため、同家は滅亡した。
まず、「正統庵請為雪溪上人上椙武庫拈香」の内容を見よう。同文によると、上杉憲房
の三十三年忌に際し、その息子の上杉憲顕が同月二七日に建長寺正統庵に「浄財を送り」
、
「仏事」を行った。よって、住持の中巌が拈香を頼まれたのである。憲房の没年は一三三
六年一月二十七日(旧暦)であり、中巌の建長寺住持は一三六七年十月から一三六八年春
までの間なので、この仏事は一三六八年の一月二七日に行われたことになる。当時、依頼
者の憲顕は関東管領識で、関東の支配者階級の中ではトップクラスにいる。一方、正統庵
は夢窓の師である高峰顕日の塔所である 64。当時の庵主は不明であるが、夢窓派の人間で
あることは間違いない 65。拈香を中巌に頼んでいるのは、中巌が正統庵の所属する建長寺
の住持であるからだが、中巌が夢窓派と協力関係にあることとも関係があるだろう。中巌
と夢窓派の関係については後述するが、ここでその拈香の内容についてみよう。
(原文)
所祈、彼上人、永断輪廻、直入仏地。次祈、戸部公、福寿倍崇、子孫繁茂。永永遠遠、加護宗門。
更有一転語、挙示諸人去也。良久点然視左右云、塞卻耳根、分明聴取。遂以香度與侍者
(現代語訳)
憲房が永久に輪廻を断ち、直に仏地に入るように祈る。次に、憲顕には倍の福寿が訪れ、子孫が繁
栄し、いつまでも宗門を加護するように祈る。更にみなに示す言葉が一つある。しばらくしてから、
(中巌は)香を焚き、周囲を見回して、
「耳を塞いで、よく聞いておけ」と言った。その後、香を侍
者に渡した。
憲房や憲顕のための祈りの部分は、特に禅の特色がみられない。
「永断輪廻、直入仏地」
15
は仏教の一般的な目標である。「福寿倍崇、子孫繁茂」は憲顕に世俗的な利益を願うもの
で、「永永遠遠加護宗門」は禅宗の憲顕への願いになる。同拈香で禅的な内容といえば、
「更に一転語有り」以降の内容である。一転語とは禅宗の語彙であり、その意味は心機を
一転させる語。迷いを転じて悟りを開かせる一語。今からあなたがたに悟りを開かせる語
を語るよ、と中巌が諸人を期待させ、待たせたあげく、言ったのは耳を塞いで、よく聞い
ておけということだけだった。耳をふさいだら、ききようがないではないか。そこが眼目
である。もともと、他人から教えてもらう悟りを開かせる語などないのだ。耳をふさいで、
集中力をすべて自分の本心に向けばこそ悟りが開けるのである。上述した東陽の下で中巌
が悟ったものとまさに同じ内容である。
もう一点の「與戸部藤公」も大体同じ頃に書かれたものであるが、憲顕への手紙である。
同文によると、何回か席を共にした機会があったので、中巌はこの手紙を差し出したので
ある。本文は長文であるため、引用を省略するが、挨拶などを除いて、その中心的な内容
は末尾に近い「更祈正路上行、猛著精彩 66、直下徹見自本心、則可以報仏祖莫大之恩、非
細事也。抑且可致君尭舜之上者、亦在此道也。」
(更に祈るは正しい路を歩み、猛烈に精進
して、直ちに本心を見極めることができれば、仏祖の莫大の恩に報いることができる。ま
ことに大事なことである。また、君を尭舜のよりも素晴らしい名君にすることができるの
も、またこの道に在る)という箇所に尽きる。「直下徹見自本心」というのは、前の拈香
で自分の本心に向けるようと薦めているのと共通するが、「抑且可致君尭舜之上者」とい
うのは、禅を習うことの現実の効用を述べている。儒学的な内容が含まれているのが注目
される。次に取り上げる朝宗に書き与えた道号説にも、実は儒学的な内容が含まれている。
当時、禅宗が上層武士たちに受け入れられたのは、禅僧がもたらす儒学などの最新の大陸
文化も大きな理由の一つであったことを如実に物語っている。と同時に、為政者に儒学的
な政治を行ってほしいという中巌の願いの端的な表れでもあろう。(中巌の儒学的政治思
想については第三章で詳述)
。
次に、上杉朝宗のために書いた二点の道号説「道元説」と「道行説」をみよう 67。道号
はもともと禅僧の名前であるが、当時、禅に帰依する人の間でも、禅僧に道号をつけても
らうことが流行っていた。朝宗は中務少輔であったため、禅僧の間では「上杉中書」と一
般的に称されていた 68。道元という道号は朝宗の道号として上杉氏の諸系図にも載せられ
ており、一般的に知られているものの、道行についてはこれと照合する資料がない。しか
し、文中に記されている依頼者の名前である禅助道人が朝宗の法名と同じであるので、
『新
集』の説にしたがって、おなじく朝宗のために書いた道号説として扱う。
まず、
「道元説」を見よう。
(原文)
天一與地二、参而三之、由是三才立焉。故道書言曰、一生二、二生三、々生万物。所言之一、亦由
道而生也。果然則道也者、天地之根源耳。前中書侍郎上椙公、帰依禅門、問法於長柄和尚、以禅助
為法名。又求別称於山野、乃敢以道元命焉。雜華不云乎、信是道元功徳母、長養一切諸善法、原夫
万善得培於造物之母、化之毓之、各令生長、弗亦艱哉。今号道元、意在化育万物、各遂其生而已矣。
万物之中、惟人最霊、養生之道、必在於元首耳、慎之哉。
(現代語訳)
天一と地二が一緒になって三となり、三才が成立する。だから『道徳経』に「一は二を生み、二は
三を生み、三は万物を生む。」と言う。ここで言う一もまた道より生まれたものである。だから道は、
天地の根源である。
前の中書侍郎上杉朝宗は、禅門に帰依し、法を長柄和尚に問い、禅助を法名とする。又た別称をわ
16
しに求めたが、あえて道元と名づけてあげた。
『華厳経』にあるではないか。信は道の元で功徳の母であり、一切の諸善法を養う。もともと万善
は造物の母に培われ、之を化毓し、それぞれ生長させているのも、また難しいではないか。今道元
と名づけたのは、万物を化育し、各れぞれ其の生を遂げさせるようにという意味を込めているのだ。
万物の中、人こそ最も霊なるもの、養生の道も元首(つまり人)にある。よく慎んでください。
この説は四つの部分に分けることができる。冒頭から「天地之根源耳。」までは老子の
『道徳経』を引いて、道とは何かについて説明している 69。つづいて「乃敢以道元命焉。」
までは、法名の命名の経緯を書いている。朝宗は先に大覚派の象外禅鑑 70から禅助という
法名をもらったが、ふたたび中巌に別称を求めたところ、中巌は道元という名前をつけた
のである。このあと「雜華不云乎云々」と、さらに『華厳経』をひいて、道元の意味を説
明する。「信是道元功徳母、長養一切諸善法」は『華厳経』にある有名な語句で、一般的
には「信」の重要性を説く句として知られているが、「今号道元、意在化育万物、各遂其
生而已矣。万物之中惟人最霊、養生之道必在於元首耳、慎之哉」というその後に続く内容
から見ると、中巌はここではむしろ「養」の意味を強調している。万物、なかでもその元
首(最霊)である人を「養」し、その生を遂げさせることを朝宗に勧めているのである。
現代風に解釈すれば、中巌は朝宗に「人間を大事にするように」ということを勧めている
のだろう。常に権力争いの渦中にある有力武家という朝宗の身分からみて、いささか異色
の説教にも聞こえるが、にもかかわらず朝宗はこの名前を実際自らの道号として使用した
ことからみて、この内容にある程度共感したものがあったのだろうか。
一方、この説でもう一つ注目されるのは、『道徳経』、『華厳経』、『尚書』 71と、儒仏道
の古典の知識を縦横に駆使しているにもかかわらず、「見性成仏」のようないわゆる純禅
的な内容が特にみられないことである。儒仏道すべてに詳しい中巌の博学さが窺えると同
時に、朝宗つまり受容者側が禅僧に何を求めていたかを示す例としても面白い 72。すでに、
先学によって指摘されていることであるが、禅僧は禅と同時に、儒学をはじめとした文化
全般の担い手として社会から期待されていたのである。
次に「道行説」を見よう。
(原文)
中庸曰、道之不行也、我知之矣。知者過之、愚者不及也。道之不明也、我知之矣。賢者過之、不肖
者不及也。人莫不飮食也、鮮能知味也。道其不行矣夫。又曰、君子之道、費而隠。夫婦之愚、可以
與知焉。夫婦之不肖、可以能行焉。及其至也、雖聖人亦有所不能焉。吾仏之道亦在行之耳。裴相国
曰、生霊之所以往来者、六道也。鬼神沈幽愁、鳥獸懷獝狘之悲。修羅方瞋、諸天正楽。可以整心慮
趣菩提、唯人道為能耳。人而不為、吾未如之何也已矣。寓京極街禅助道人、求道号、以道行命焉。
三十七助道品、至極者八正道行也。又嘱之云、祖師門下、別有一條大道、要行便行、誰敢做礙。汝
本在京師作住、輙莫於含元殿裏、別問長安。只這大道坦然、勤力行之。
(現代語訳)
『中庸』には「私は道理が通らないで世が乱れていることを知っている。知者は余計なことをし(出
すぎ)がちで、愚者はやるべきことに気づかない。道理が見えない理由を、私は知っている。賢者
は出すぎがちで、不肖者は及ばない。食事をしない人はいないが、ほんとうにその味を知っている
人は少ない。道が行われないのもそれと同じだ。」とある。また、「君子の道は、その働きは広大で
あるが、その本体は微妙で、人目につかない 73。愚なるものでも、君子の道を知ることができ、不
肖なるものでも、それを行うことができる。しかし、その究極のところとなると、聖人でもできな
17
いことがある。」ともある。吾が仏道もまた行うことを重視する。唐の宰相裴休が次のように言った。
「たましいは六道の間を往来する。鬼神は幽愁にひそみ、鳥獣は走ったり飛んだりする悲しみを持
っている。修羅は怒り、
(天上界の衆生である)諸天は楽しい。心を整え先々の趣きを考えて、菩提
できるのは、ただ人間のみ。人間であるのにそれをしないのは、私にはこれはどうしようもない」
。
京極街に住んでいる禅助道人は私に道号を求めた。道行と名づけてあげた。
(人の修行を助ける)三
十七の助道品のうち、その究極は八正道行だからである。また次のように教えた。祖師の門下には、
別に大道が一つある。行きたければ行けばいい。誰が邪魔できるものか。あなたはもとより都に住
んでいる。都の中心(含元殿)にいるのに、ほかに都はどこかと聞かないでください。この大道は
まっすぐで平坦であり、くれぐれもこれに勤めるように。
まず、その構成は先の「道元説」と共通する部分が認められる。つまり、冒頭では道と
行の意味について、中盤では命名依頼の経緯を、後半では依頼者への希望をそれぞれ述べ
る。最初の字義の解釈の部分では、『中庸』や、中唐の儒教官僚で、仏教に好意的だった
裴休が『円覚経』に書いた序文を長く引用し、儒教的内容、また仏教の経典にもとづき、
道の行われることの重要性を説く。いわゆる禅的以外の内容から書き起こすという点では、
さきの「道元説」の場合と共通する。違うのは、この「道行説」では、そのような内容の
ほかに、一見してこれは禅だと分かる内容が最後の部分、依頼者への希望という最も重要
な部分にしたためられている。
「又囑之云」の後の部分である。
74
「含元殿裏、別問長安」 と、「大道坦然」はそれぞれ、禅宗でよく用いられる言い方
である 75。前者「長安の代表的建築である含元殿にいるのに、長安を聞くのをやめなさい」
というのは、禅助が都に住んでいることに因んだ発想であると同時に、自分に具有する仏
性に気づかせるために用いられた表現である。「大道坦然」は、本来具有の仏性に気づけ
ば、
「要行便行、誰敢作礙」と中巌が書いているように、悟ったら、もう何も妨げがなく、
自分の思うとおりに行動すればいいという意味である 76。悟後の自由自在の境地である。
かつて、中巌が東陽の下で体験した「翻褌作袴」の境地とも共通する。このような個人の
営みの肯定という傾向は、馬祖以降の禅で最も顕著な一特色である。中巌としては「禅」
という「大道」を「勤めて行うように」という意味を述べたものと思われるが、その依頼
者の朝宗の置かれた状況を考えると、受容側がいったいどのように理解していたのか、興
味のある推測ができる。この道号説の作成時は不明であるが、建長寺在住期間の可能性は
最も大きい。南北朝の動乱は収束に近づいてきているが、さまざまな争いが依然として続
いている。現に山内上杉氏と犬懸上杉氏も争いの状態にある。上杉氏が補佐する鎌倉公方
は京都の将軍家とも争う関係にある。そうした状況にいる朝宗のような人が、
「要行便行」
という禅僧の言葉から汲んだのは、あるいは禅の精進への期待を超えて、世俗社会におけ
る自分の行動の正当化であるかもしれない 77。
(三)
「太上法皇尊号説」考-夢窓との比較をかねて
武士のみではなく、中巌は貴族たちとも交渉があった。以下、彼が一三五七年に光明上
皇のために書いた「太上法皇尊号説」を読むことによって、その説法の特徴をみてみよう。
(原文)
利根郡青龍山吉祥禅寺住持臣僧円月
恭惟
太上大聖君(光明法皇)
、乃為
今上天皇之
皇大叔父
太上法皇之
皇大弟也、天性英断、而多藝、子育庶黎、式副群心、而素不
18
喜居宝位、志慕釈門、昨召天龍国師(夢窓)入内、授衣盂、国師上尊号、曰肯翁、観応之末、禅位
皇大姪、及乎文和初、薙髪披僧服、以遂素志也、延文二年春、太上大法皇、車駕自南還、二月二十
七日、召臣僧円月、朝見、焚香祝
普覚禅師語録、
聖之事、以詔免也、特賜宝机席、坐対御案、読進臣六代祖大慧
太上聖君、亦見侍奉
太上大法皇御座之側、同垂聡聴、次日再披召、読進罷、下
殿、仍蒙内臣頒降外国箋紙、特命臣作肯翁聖号之説、臣謹案、吾宗門、本無肯路、然而国師為
太
上聖君尊号以肯、其有旨哉、延文二年三月二日、臣僧円月、誠惶誠恐上進、重説偈言、脱珎御服著
襤衫、位棄金輪心自甘、的々相承法王法、独容大力量人担。
(現代語訳)
利根郡青龍山吉祥禅寺住持臣僧円月
恭しく思うに
光明法皇は、今上天皇の大叔父で、太上法皇の弟である、天性英断にして多芸である。子供のよう
に国民を育み、みなの推挙で天皇になったが、ご本人は天皇でいることを喜ず、志は仏教にある。
かつて天龍寺の夢窓国師を入内させ、衣盂を授けられた。国師は天皇に肯翁という尊号を奉った。
観応の末ごろ、皇大姪(崇光天皇)に譲位した。文和の初めに、剃髪して僧となって素懐を遂げた。
延文二年(一三五七)春、光厳法皇は南(朝)より帰京なさった。二月二十七日、臣僧円月を召し
て、朝見した。勅許をもって焚香祝聖の儀を略した。特に机を賜わり、御案に対座し、私の六代祖
である大慧禅師の語録を読み申し上げた。光明法皇も、また光厳法皇の側におられ、ともに聞いて
くださった。次の日に再び召され、その続きを読み終えた。下がってから、内臣より外国の紙を賜
り、肯翁聖号の説を作ることを命じられた。私が謹んで思うには、吾が禅宗、もとより肯路がない、
しかし夢窓国師が光明法皇に「肯」を以て尊号としたのは、きっとお考えがあってのことでしょう。
延文二年三月二日、臣僧円月、誠惶誠恐して上進する。また次の偈を説く。
「天皇の玉衣を脱ぎ、僧
侶のみすぼらしい衣を身につけ、天皇の御位を棄てても心自ら満足していらっしゃる。代々じきじ
きに受け継いだ釈尊の教えを、力量のある人(光明法王)独りでそれを担っておられる。
冒頭から「特命臣作肯翁聖号之説」までは、なぜ光明天皇に字説を書くことになったの
か、そのいきさつについて述べている。中巌は一三五七年二月に河内から京都に帰還した
ばかりの光厳法皇に召され、『大慧普覚禅師語録』の講義をした。同席していた光明法皇
にかつて夢窓からもらった「肯翁」という号について説を書くように頼まれたのである。
この年、五八歳になった中巌はすでに五山格の禅寺二ヶ所に住持した経歴があるが、この
時は、五山の住持ではなく、利根吉祥寺住持の身分で謁見している。吉祥寺はすでに四年
前に御願所になったものの、地方の一禅寺の住持という身分で直接太上天皇に講義するに
は、なにか特別な理由があったのではないかと思われる。その一つは日本にいる大慧派の
後継者という身分であろう。さすれば、『大慧語録』の講師として中巌が適任だったのは
いうまでもない。また、中巌はこの時、天龍寺に仮住まいしていたことを考えると、法皇
たちが信仰している夢窓派からの推薦もあったかと思われる。
光厳・光明両上皇は、六年前の一三五一年に、南朝に連行され、賀名生・河内金剛寺に
幽閉されていた。六年ぶりにやっと帰京を実現した両上皇に、さっそく召され、対座して
講義をし、さらに光明上皇から道号説の作成を命じられたことを、中巌は当然光栄に思っ
ている。そのうれしさはことのいきさつを詳細に記していることや、
「天性英断」
「大力量
人」などと上皇への賛辞を辞さないことからも窺える。
しかし、文章全体がそのような賛辞で埋め尽くされているかというとそうではない。
「臣
謹案、吾宗門、本無肯路、然而国師為 太上聖君上尊号以肯、其有旨哉」という一句には、
きちんと中巌の禅の主張が現れている。夢窓の命名(肯翁)を正面から否定するわけには
いかないので、「其有旨哉」と曖昧な言い方をしているが、禅において「肯定」は存在し
ないということを中巌ははっきり主張している。
19
なぜ「無肯」なのか、中巌はここでは述べていないが、後年若い禅僧応侍者に書いた道
号説「無肯説」には詳しく述べられている。
(原文)
無肯説
肯応侍者求字、以無肯命之、意示吾宗全無肯路也。昔者南陽国師、三喚侍者、侍者三応。国師云、
將謂吾孤負汝、却是汝孤負吾。雲門云、作麼生是国師孤負侍者処、会得也無端。雪豆著語云、元来
不会、作麼生是侍者孤負国師処、粉骨碎身未報得。雪豆云、無端無端。老僧道、雪豆也是元来不会。
非但雪豆不会而已、南陽雲門総是不会。独許玄沙解道、侍者却会。以老僧言之、則黄連和根嚼也。
遂喚云、応侍者。応不応好。無肯之称得矣。貞治二年秋初、雨霽凉多、書而與之。妙喜世界腐衲、
中正老僧。
(現代語訳)
無肯説
肯応侍者は私に字を求めて、無肯と名づけてあげた。その意味はわが禅宗には全く肯定というやり
方がないことを示すものである。昔は南陽国師、三度侍者の名前を呼び、侍者は三度返事をした。
南陽国師は「わしがお前に背いたと思ったのに、なんだ。お前がわしに背いたではないか」と言っ
た。これについて、雲門は「南陽国師が侍者に背くところは何か、会得しても突拍子もない。」と言
い、雪竇は「そもそも会得していない。侍者の国師に背くところは何か、粉骨砕身しても恩返しは
できない。」とコメントした。
「突拍子もない。突拍子もない。
」と雪竇は言う。わし(円月)が言う
には、雪竇もまだ会得していない。雪竇だけではなく、南陽も雲門もだめだ。侍者のほうこそ会得
したとする玄沙だけは評価できる。わしに言わせれば、これは黄連を根ごと嚼んでいるようなもの
だ(その苦さのほどは噛んだ人にだけ分かる)。そこで(わたしは)応侍者と呼びかけた。応じたほ
うがいいか応じないほうがいいか。無肯の名が決まった。貞治二年秋初、雨が晴れ天気が凉しい、
応侍者に字説を書き与えた。妙喜世界腐衲、中正老僧。
応侍者という名前と関連して、中巌は国師三喚という有名な公案を用いて、無肯という
字を与えた所以を説明している。
公案のなかの侍者が、自分を喚んだ南陽国師に対して、三回返事したことの可否につい
て歴代の禅師はいろいろと見解を示している。この字説で中巌が取り上げている人だけで
も、雲門、雪竇、玄沙の三人がいる。中巌は玄沙の理解に賛成し、侍者が「会」(よい)
と見ている。玄沙の理解が求道者本人の主体性を重視する中巌の立場に一致しているから
であろう。
そして、公案の理解を述べた後、中巌は自ら南陽国師のように、目の前の応侍者に呼び
かけた。また、自分のこの呼びかけに応侍者が応じたほうがいいかどうか、
「無肯」
(つま
り、正解がない)と答えている。字面だけ見て答えになっていないように見えるが、実は
非常に親切な教えである。以下の二つの意味を含めていると思う。①一つの質問にいつで
も通用する答え、つまり絶対の正解は存在しない、時と場所によってそれが変わってくる。
②返事したほうがいいか、どうかを判断するのは、他人ではなく侍者本人でなければなら
ない。つまり、他の人が「肯」することではないのである。
これは、すでに述べてきた「自門入者、不是家珍」に代表される中巌の禅思想から考え
ると、当然の帰結である。さらに突き詰めて言うならば、この中巌の考え方は、本来具有
を自証自悟するという禅宗の基本的な考え方に一致するものである。
では、このようなことを、肯翁という字を光明上皇に与えた夢窓は体得していなかった
のだろうか。夢窓の著作を見ると、本来具有を夢窓も理解していたのは明らかである。た
20
とえば、『西山夜話』には自分が若いころに一山一寧の会下で「自門入者、不是家珍」を
悟ったという記述が見られる 78 。また、公案の解釈で例を挙げれば、『南禅寺語録』で夢
窓は芭蕉拄杖の公案を次のように取り上げている。
(原文)
復挙、芭蕉和尚示衆云、儞有拄杖子、與你拄杖子、儞無拄杖子、奪儞拄杖子。拈云、芭蕉誦出此一
行大神呪、古今未有人翻訳得。龍山今夜対衆、分明翻訳去。卓主丈一下云、唵蘇嚕蘇娑婆訶。
(現代語訳)
さらに、公案を引く。芭蕉和尚が人々に言われた。
「そなた、杖をもっているなら、杖をくれてやる
ぞ、杖が無ければ、杖をとりあげるぞ」
。
コメント:芭蕉がとなえてみせたありがたそうな一つづきの呪文を、未にだれも翻訳できるやつは
いない。龍山(おれ)が、今夜はっきり翻訳してきかせるぞ。杖を立てて一突きして「オンソロソ
ソソワカ」 79。
ここで拄杖子は仏性(本当の宝)を代表しているのだろう。持っている人に与えて、持
たない人から奪う、難解なようだが、与えるも奪うも、カモフラージュで、学人に自分自
身が持っている宝に気づかせるための方便である。結局は自分が仏性を持っていると気づ
いた人にしか仏性がないことになる。この公案について、その意味の分からない人には、
わしが翻訳してあげると言い、夢窓が翻訳したのは「唵蘇嚕蘇娑婆訶」というものであっ
た。柳田聖山によると、この呪文は「餓鬼の食を奪う」という意味である 80。餓鬼にとっ
て食は一番に求めるものであることは当然である。それを敢えて奪うのは、人間に執着を
捨てるよう教えていることの喩えであろう。
一方、自証自悟の重要性については、夢窓自身の開悟経験がまさにそのものだった。夢
窓の年譜には彼の開悟経験について詳しく記載している。難しい試験をクリアして一山一
寧のもとで入室参禅する機会を得たものの、ついに悟りを開くことはできなかった。後に
高峰顕日 81 の下で「言下有省」、つまり「あっと思った」までは行ったが、徹底したわけ
ではなかった。そこで、夢窓は高峰に告別し、陸奥国白鳥に去ったのである。白鳥で三年
も過ごし、炉の炎をみて胸の中がからりとなった経験を経て、日々の事もそのように滞り
なく行動できる自覚を憶えたが、坐禅中に眠ってしまった経験をまたする。最初は恥ずか
しいと思ったが、後に「悟寐恒一」
(悟るも迷うも常に同一なもの)を解しているのなら、
恥ずかしく思わなくてもよい。はずかしいと思うのはやはり悟りが足りないからだと思い
直す。そしてこの疑いを高峰に解いてもらおうと思い立って、鎌倉に向かったのだが、実
際に大悟したのは、鎌倉に行く途中、高峰に会う前だった。常陸国臼庭でしばらく逗留し
たが、それは五月の末だった。庭前の大樹の下に暑さをさけて坐禅し、夜更けになるのも
忘れて坐っていた。ふと眠気をもよおし、庵の中に入って寝床に入ろうとしたが、壁でも
ないところを壁だと思ってよりかかり、あっと思うまに地上に転げ落ちた。覚えず大笑し
「多年掘地覓青天、添得重々礙膺物」
(長年地を掘っ
た時、カラリと大悟したのである 82。
て青空を求めてきたが、却って悟りを邪魔しただけである)という当時の偈からみて、他
に求めてはいけないという悟った内容も、経緯もまさに自証自悟そのものである。
では、光明上皇になぜ夢窓は「肯翁」という名をつけたのだろうか。夢窓とその弟子と
の接し方に注目しよう。中巌と違い、夢窓には多数の弟子がいた。彼自筆の弟子の名簿に
は一万人以上の名前があるという。春屋妙葩や義堂周信のように次世代を担う優秀な弟子
も多かったが、一万人の弟子との間に、すべて中巌がかつて経験し、自らの弟子にも期待
していた「虎に噛まれる」ほどの痛烈な応酬、または夢窓自身が経験したような厳しい「自
21
証自悟」の過程があったとは考えられない。それでも、夢窓はこれほど多くの人を自分の
弟子として認めている。光明法皇に「肯」の字を与えたのは一例に過ぎない。夢窓は多く
の人になんらかの形で「肯」
(認可)をしていたのである。それは、なぜだろうか。
これを考えるのに、夢窓自身が自ら死を前にして発した次の言葉が解決の糸口になる。
『夢窓国師語録』所収の遺誡(T80.505b)によると、「老僧平生、信口道著、都無途轍。
並是翳睛之術、呼小玉之手段也。」
(自分がこれまで言ってきたことは、どれも相手の目を
しのび、用もないのに小玉を呼ぶ手段である)と彼は自分の一生を総括している。「肯」
こそ、夢窓が自ら言っている「手段」の代表的なものの一つではなかっただろうか。すで
に柳田が指摘しているように、「小玉を呼ぶ」というのは「頻呼小玉元无事、只要檀郎認
得声(しきりに侍女を呼ぶのは何も用事があるからではない、忍んできた愛しい人に私の
声を聞いて欲しいから)という「小艶詩」に基づいている。この詩は五祖法演が使ったこ
とで、禅宗では有名なものである。方便つまり二次的な手段だと知っていながら、夢窓は
叫び続けていた。「肯」こそその象徴的なものだったのではないだろうか。しかも、それ
は決して夢窓自身のためではなく、人のためであった。いまだに真理は自分の中にあるこ
と、悟りとは自分が納得するものだということに気づいていない人のために、夢窓はかわ
りにお墨付きを与え続けた。
厳しい開悟経験を持っていながら、弟子たちにそれを求めない、ここまで割り切るには
夢窓もやはり葛藤を感じ、時間を要しただろう。人生の最後ですべて方便だったと喝破し
たのは、それを物語っている。そして、その遺偈で「護法権威、更仰誰」(護法の権威、
自分がやらなければ、更に誰に頼もうか)と彼は言う。護法(仏法興隆)への強い責任感
と自負がすべての迷いを払拭したのである。
一方、中巌はどのような人を相手にしても、精神世界の悟りを各個人の目覚めに限ると
譲らなかった。その厳しさは人生の最後までつづく。入滅を前に弟子から最後の一句を求
められたとき、「吾平生口過不少、今尚何言、去去矣。」(わしの一生は間違ったことをい
っぱいしゃべってきた。いまさら、何もいうことがない。いけいけ。いくのみ。)と、自
分の言葉がかえって他人の悟りの妨げになることへの危惧を表した。中巌の禅と夢窓の禅
の優劣を考えるのは無意味であるが、争乱の絶えない乱世において、自分を見失う人が多
い中、夢窓の禅が社会の欲求により適合することになったのは、ごく自然な流れであった。
三
大慧派としての自覚
従来の研究では、中巌の大慧派への帰属意識については、主にその嗣法表明に関心が向
けられていた。禅宗においては、嗣法表明は象徴的な出来事であり、当然重要な事件であ
るが、そのほかに、大慧派への帰属意識が中巌の言動においてどのように具体的に表れて
いるかも、あわせて考える必要があるだろう。以下、とくにその語録に絞って考察するこ
とにする。
中巌が住持として、各禅寺で禅僧に語った語録は、現在のところは以下のものが存する。
『中巌和尚住藤谷山崇福禅庵語』、
『中巌和尚住相馬龍沢禅寺入院語』、
『中巌和尚住相州乾
明山万寿禅寺語録』、
『仏種慧済禅師住京城万寿禅寺語録』
、
『仏種慧済禅師住東山建仁禅寺
語録』、『仏種慧済禅師住相州巨福山建長禅寺語録』である。うち、相州乾明山万寿禅寺、
京城万寿禅寺、東山建仁禅寺、相州巨福山建長禅寺の各寺は五山格の官寺である。各語録
の形式は大体のところ共通しており、住院上堂から始まり、退院上堂をもって締めくくら
れている 83。中の部分もまた、通常の上堂からなっており、中には何か特別の目的のため
の上堂を含む。上堂の形式で、最も多いのは挙話である。つまり、まず中国の禅師にまつ
22
わる話を挙げ、それからそれについて見識を述べたり、僧と問答のやり取りをするやり方
である。この形式は中巌一人だけのものではなく、当時の語録に共通しているものである
が、以下、中巌の語録に見える公案を整理しよう。表一は彼の語録に登場した中国の祖師
およびその話を五十音順に挙げたものである。右半分は参考として、夢窓疎石の語録中に
登場する祖師を並記した。項目として、話、出典を設けた。基本的には、中巌または夢窓
が名前を明記している人なら、すべて網羅するようにした。また、直接名前が記されなく
ても、内容から推定できる人については、括弧付きで表示した。語録のほかに、字説など
の作品でも、たまに話頭を用いることがあるが、表の作成においては語録のみに限定した。
中巌の語録に登場する祖師の全体について調べたものはこれまで存在しないため、筆者が
試みたこの調査は、完全とはいえないものの、一つの試みにはなろう。そして、図一は表
一に見える禅僧の法系図である。
凡例:五灯=五灯会元
伝灯録=景德伝灯録 円悟語録=円悟仏果禅師語録
(東)=仏種慧済禅師住東山建仁禅寺語録
虚堂語録=虚堂和尚語録 (円覚)=円覚寺語録
雲門広録=雲門匡真禅師広録 (蔣)=住豊州蔣山万寿禅寺語録
(京)=仏種慧済禅師住京城万寿禅寺語録 (巨)=仏種慧済禅師住相州巨福山建長禅寺語録 (再南)=再住南禅寺語録
(南)=夢窓正覚心宗普済国師住山城州南禅禅寺語録
歴代通載=仏祖歴代通載
普説=大慧普覚禅師普説 (藤)=中巌和尚住藤谷山崇福禅庵語
(乾)=中巌和尚住相州乾明山万寿禅寺語録
(天龍)=山城州霊亀山天龍資聖禅寺語録
会要=聯灯会要
(再天)=再任天龍資聖禅寺語録
(浄智)=浄智寺語録
表一
禅僧
公案(中巌)
同話が見える中国の禅籍
溈山霊祐
水牯牛(藤)
伝灯録九、碧岩録
公案(夢窓)
五灯九、宏智禅師広録二、従容庵録六、五灯一三、五灯一七、五灯
有句無句(藤)
二○、大慧語録十、密菴和尚語録一、虚堂語録四、
撥灰(京)
五灯九、伝灯録九など
同(南)
牧牛(円覚)
烏臼和尚
玄・紹二上坐来参(藤)
伝灯録八、五灯三、円悟語録一六、虚堂語録二
雲門広録上、碧岩録第二七則、五灯一五、仏祖歴代通載一八、円悟
雲門文偃
体露金風(蔣)
語録三・八
雲門録上、法演禅師語録上、円悟語録二、大慧語録二五、五灯一五、
須弥山(京)
従容庵一九
雲門扇子(京)
雲門広録、指月録一、無門関、五灯二○、正法眼蔵など
諸仏出身処(東)
大慧語録一七、五灯一九、虚堂語録五
跛脚(京)
五灯一五、禅苑蒙求下
棒(東)
雲門録下、伝灯録二三、三百則下八○、無門関一五など
秘在形山(東)
雲門録中、碧岩録六二、従容録九二
同(円覚、天龍)
同(浄智)
徒張意気(南)
還飯銭来(浄智)
半提全提(円覚)
聴鐘声披七條(円覚)
不觸平常(円覚)
舌頭短(再南)
23
自有光明在(再南)
雲門一曲(再南)
雲門関(南)
岩頭全奯
仰山慧寂
巣臼(藤)
不明
路逢猛虎時如何(東)
密菴和尚語録、五灯七
句句有眼
人天眼目六
仰山一夏(蔣)
宏智禅師広録三、五灯九、袁州仰山慧寂禅師語録一
錯上率陀天(再南)
夾山善会
法身法眼(蔣)
伝灯録一五、虚堂語録五、虚堂語録八、五灯五、仏祖歴代通載一七
鏡清道怤
新年頭有仏法(南)
不展臥単(再南)
看看蝋月尽(再南)
香林澄遠
衲衣下事(南)
倶胝
只竪一指(京)
伝灯録一一、五灯四、碧岩録一九、従容録八四、汾陽録二四
敬叟居簡
遊戯文海(京)
東陽からか(續伝灯録三五北澗章)
病去病来(東)
?東陽からか
是是不是不是(再天
玄沙師備
龍)
大慧語録四・六、五灯一三・一八・二○、宏智禅師広録三、
乾峰
挙一不得挙二(乾)
雲門広録三、円悟語録一八など
興化打克賓(藤)
大慧語録一、五灯一一、古尊宿語録四八、
五灯一七・二○、円悟語録一八、如浄和尚語録上、宏智禅師広三、
興化存奨
逢人出不出(乾)
虚堂語録一など
克賓嗣興化
皓老
虚堂語録八
皓老布褌(南、再南)
張無尽請住山(円覚)
五祖法演
人之性命事(藤)
法演禅師語録中(舒州白雲山)、五灯一九
牛過窗櫺(乾)
無門関牛過窗櫺、密菴和尚語録
百錬黄金鋳鉄牛(蔣)
?
如今禅和家(南)
古徳
京師出大黄(東)
同(円覚)
古徳
虚空墮地時(円覚)
古徳
定乾坤句(再南)
古徳
不墜蝋人機(再南)
古僧
坐経堂中(浄智)
双泉師寛
石頭希遷
新年頭無仏法(南)
参同契不爾依位住(藤)
参同契
竺土大仙心(浄智)
慈明楚円
道吾打鼓
五灯一二、續伝灯三
住山(円覚)
釈迦
正覚山前悟道(京)
大慧普覚禅師讚仏祖一二、敕修百丈清規二、普説一六、一八
文殊白槌(待)
法華会上
24
仏法付属(東)
同(南、天龍)
説法竟四(天龍)
首山省念
建長×
五灯一一
学人親切処(天龍)
障蔽魔王
覓起処不得
金陵清涼院文益禅師語録、伝灯二七、五灯二
同(再天龍)
浄慧戒弼
真浄克文
五灯一六
帰宗寺裏参退(藤)
古尊宿語録四三、五灯一七
文関西無頭脳(東)
黃龍四家語録、古尊宿語録四二
重陽上堂(東)
古尊宿語錄四二
毘盧印(天龍)
伝灯録一八、碧岩録八、円悟語録一六、従容録七一、五灯七、虚堂
翠岩可真
翠岩眉毛(東)
語録三
清涼泰欽
同(南)
法灯未了(南)
石門慧徹
東村王老夜焼錢
円悟語録一八、五灯一四
雪竇重顕
帰堂向火(東)
明覚禅師語録二
城東老婆不欲見仏(京)
明覚禅師語録二、指月録一
祖師洗脚(巨)
碧岩録一
拙庵德光
答孝宗問(京)
五灯六、虚堂語録一、續伝灯録三六
雪峰義存
尽大地如栗米(京)
法演禅師語録、碧岩録五、円悟語録七・八・十、雲門録下、
雪峰語録上
同(再南)
浮江寄僧(円覚)
東辺西辺(天龍)
善財
善財採薬
禅苑蒙求、五灯二、虚堂語録六など多数
曹山本寂
疎山匡仁
不如(再南)
如何是冬来事(京)
五灯一三、虚堂語録一 、三古徳として挙す
大覚懐璉
大愚
同(浄智)
如何是毘廬印(天龍)
大愚鋸解秤錘(京)
五灯一二、續伝灯三
歴代法宝記一、祖堂集、双峰山曹侯溪宝林伝、大慧普覚禅師法語二
並無功德(蔣)
○、天聖広灯録など
偈(天龍)
達磨
大慧宗杲
老胡欠歯(南)
一念信心(藤)
大慧語録二七・二九
正法眼蔵(京)
大慧の著作正法眼蔵を指していると思われる。
住徑山(南)
伝灯録十、五灯会元四・二○、大慧語録六、無門関七、密菴和尚語
趙州従諗
洗鉢
録、明覚禅師語録など多数
伝灯録十、五灯二十、大慧語録一四、円悟語録一七、碧岩録五第四
七斤布衫
五則、従容録三九、禅林宝訓二、禅宗決疑集など
饅頭(京)
不明
使得十二時
慧普覚禅師語録十頌古
同(浄智)
趙州古仏(藤)
小参要答話(浄智)
只転半蔵(南)
不遷義(再南、天龍)
天平従漪
西院勘両錯(蔣)
伝灯録一二、円悟語録一九、五灯一一
25
道吾
著豹皮褌(蔣)
大慧語録一○、五灯四、古尊宿語録四七
洞山悟本大師語録、大慧語録六、円悟語録一八、五灯一三、従容庵
洞山良價
無草(乾)
録八九、如浄和尚語録下、虚堂語録九
万里一條鉄(乾)
伝灯録二十、大慧普覚禅師住江西雲門菴語録七、五灯一三
無寒暑(京)
碧岩第五第四三則、円悟語録一九、
同(南)
瑞州洞山良價禅師語録一、五灯一三
好仏無光(京)
伝灯録九・一六、五灯七、虚堂語録六、筠州洞山悟本禅師語録一、
五位
撫州曹山本寂禅師語録など
同(南頁)
洞山果子(南)
退菓卓(円覚)
洞山守初
洞山四句(乾)
東陽
清規
碧岩録八、五灯一五、古尊宿語録三六投子和尚語録
金陵清涼院文益禅師語録、伝灯録一五、明覚禅師語録三、円悟語録
德山宣鑒
三十棒(乾、京)
南華徳輝
南泉普願
一七、普説一四、五灯七、虚堂語録三
同(南、浄智)
五灯一六
新冬示衆(再南)
平常心是道
翫月
伝灯録八、五灯三、古尊宿語録、禅苑蒙求上
貓児(巨)
碧岩録六三・六四、従容録九
太俗生(円覚)
一二三四五(天龍)
伝灯録五、無門関一七、黄龍慧南禅師語録、五灯一九・二十、正法
南陽慧忠
国師三喚侍者(京)
眼蔵など
粛宗問無諍(再南)
百丈懐海
黃檗大虫(乾)
五灯三、歴代通載一五
下堂句(南)
伝灯録二二、明覚禅師語録三、人天眼目二、法演禅師語録、五灯一
巴陵顥鑒
三転語(巨、拈香東陽)
五
芭蕉慧清
杖子
正法眼蔵、無門関四四、五灯九
馬祖道一
馬祖玩月
伝灯録六、江西馬祖道一禅師語録、大慧語録四、五灯三
同(南)
江西馬祖五灯禅師語録、大慧普覚禅師住江西雲門菴語録七、大慧普
風穴延沼
不少塩醬(京)
覚禅師雲居首座寮秉拂語録九・十、五灯三
九夏賞労(乾、京)
伝灯録一三、五灯一一、円悟語録一八
如何是仏(蔣)
景德伝灯録一三
浮山法遠
汾陽善昭
五灯一二
十智同真(蔣、京)
目前無異怪(円覚)
汾陽無德禅師語録上、人天眼目、釈氏稽古略四、續伝灯録一
識得主杖子(南)
汾陽一句(円覚)
仏法為主(浄智)
汾州無業
汾州付属(天龍)
三百則上四○、円悟語録一五・一七・一八、明覚禅師語録三、五灯
宝寿
宝寿打僧(蔣)
一一・一八・二十
法昌倚遇
與感首座喫果子(建長)
?
一飽能消万劫飢(藤)
法雲法秀
同 (円覚)
一路涅槃門①(藤)
26
睦州道明
睦州盞子(乾)
大慧語録八(住福州洋嶼菴語録)
古尊宿語録六睦州和尚語録、宏智禅師広録三
現成公案(再南)
杖 又生枝(南)
ぼう居士
心空及第帰(南)
物初大観
倔強(京)
東陽からか
北禅智賢
烹露地白牛(京)
五灯一五、續伝灯録二
晦機元熙
聴雨推枕軒中
東陽からか
麻穀宝徹
問僧甚処来(藤)
五灯三
筠州洞山悟本禅師語録、瑞州洞山良價禅師語録、伝灯録一四、五灯
薬山惟儼
小参不点灯(京)
五
將錯就錯(南)
永明延寿
日為百八事
永明道潜
伝箇冊子(京)
五灯一三
懶融
恰恰無心(東)
大慧普覚禅師語録二七・二九、五灯二
臨済義玄
開雲門門
独創的か
臨済録序、伝灯録一二、人天眼目一、五家宗旨纂要上、円悟語録、
三玄(蔣)
大慧普覚禅師語録一二など
無位真人
一口吸尽西江水
円悟語録一三、法演禅師語録六中
両堂同時下喝(巨)
鎮州臨済慧照禅師語録、人天眼目一、五灯一一など
霊雲志勤
両不対(乾)
円悟語録七、宏智禅師広録三、虚堂語録三
老宿
一夏不為師僧説話(東)
明覚禅師語録一、虚堂語録一、五灯六、
(図一
喝(南)
法系図)
釈迦
―
達磨
――――――――
曹渓慧能(達磨六世)
牛頭法融(達磨四世)
馬祖道一(慧能二世)
石頭希遷(慧能二世)
薬山惟儼
南陽慧忠
德山宣鑑(石頭三世)
投子大同(石頭三世)
洞山良价
夾山善会
雪峰義存
(薬山二世)
(薬山二世)
疎山匡仁乾峰
石門慧徹(洞山三世)
〈香林澄遠〉
巴陵顥鑒
双泉師寛
雲門文偃
玄沙師備
洞山守初
天平従漪
(玄沙三世)
雪竇重顕
(双泉三世)
(香林二世)
玉泉承皓
法雲法秀(雪竇二世)
清涼泰欽
(玄沙三世)
北禅智賢(洞山二世)
大覚懐謰(双泉三世)
法昌倚遇
永明延寿(清涼二世)
浄慧戒弼
27
馬祖
百丈懐海
塩官斉安
汾州無業
南泉普願
烏臼
龐居士
麻谷宝徹
俱胝)
関南道吾(塩官二世)
黄檗希運
溈山霊祐
臨済義玄
興化存奨
趙州従諗
霊雲志勤
三聖慧然
宝寿
(馬祖三世
睦州道明
仰山慧寂
芭蕉慧清(仰山二世)
風穴延沼(興化二世)
首山省念
汾陽善昭
浮山法遠(首山二世)
石霜楚円
楊岐方会
大愚守芝
翠岩可真
真浄克文(石霜二世)
白雲守端
-五祖法演‐円悟克勤-大慧宗杲-拙庵德光-敬叟居簡-物初大観-晦機元熙-東陽徳煇-中巌円月
中巌が説法で取り上げた中国禅僧についてみると、
溈山霊祐、烏臼、雲
奯、仰山慧寂、夾山善会、鏡清道怤、香林澄遠、倶胝、敬叟居簡、乾峰、興化存奨、五祖
法演、物初大観、睦州道明、法雲法秀、法昌遇、宝寿、汾陽善昭、風穴延沼、馬祖道一、
芭蕉慧清、巴陵顥鑒、百丈懐海、南陽慧忠、南泉普願、德山宣鑒、東陽徳煇、洞山守初、
洞山良价、道吾、天平従漪、趙州従諗、大慧宗杲、
(達磨)
、大愚、疎山匡仁、
(善財)
、雪
峰義存、拙庵德光、雪竇重顕、石門慧徹、石頭希遷、慈明楚円、首山省念、(障蔽魔王)、
真浄克文、翠岩可真、(老宿)、霊雲志勤、臨済義玄、懶融、永明延寿、延寿、薬山惟儼、
麻谷宝徹、晦機元熙、北禅智賢、白雲守端、楊岐方会(白雲と同じ話頭に登場)の六十人
が確認されているが、釈迦以下、宗派と関係なく、有名な祖師を多く網羅している。たと
えば、宋代以降成立した五宗の派祖をすべて取り上げている。この点は夢窓も共通してい
る。大灯の百則などとあわせ考えると、中世禅林の共通した傾向であったのであろう 84 。
このように、各宗派の祖師を取り上げてはいるが、最も多いのは彼が嗣法した大慧派関係
の人たちである。拙庵德光、敬叟居簡、物初大観、晦機元熙、東陽徳輝の五人は大慧派の
派祖大慧から中巌の師である東陽までの直系を成す禅師たちである。五祖法演、円悟克勤、
白雲守端、楊岐方会、慈明楚円、汾陽善昭、首山省念、風穴延沼、興化存奨、臨済義玄、
黄檗希運、百丈懐海、馬祖道一の十一人は五祖より更に遡った直系の禅師たちである。さ
らに、大慧派以外の禅僧について見ると、
溈山、徳山、雲門な
七宗の派祖については、中巌も夢窓もともに取り上げている。夢窓が取り上げていない禅
28
僧について見れば、真浄、乾峰、興化、道吾、懶融などがあるが、いずれも大慧も取り扱
ったことのある話頭を挙げている。このように、中巌の取り上げた公案からは彼の大慧派
への所属意志の強さが窺える。
この自覚はまた、これらの話の依拠典籍においても認められる。表に挙げている通り、
有名な話であればであるほど、それを扱う既存禅籍が多く、その依拠を特定するのは難し
いが、その多くは大慧本人の著述(特に『大慧普覚禅師普説』)
、また、大慧派が編纂に関
係した灯史『五灯会元』にみえる話であることが注目される。実際、中巌が『大慧普覚禅
師普説』及び『五灯会元』を学んだだけではなく、その流布にも尽力していたことは他の
資料によっても確認できる。以下、それについて少し述べよう。
日本に現存する宋元版及び五山版からみれば、中巌の時代には、大慧の著述で、①『大
(三○巻本) 87、④『大慧普覚禅
慧武庫』 85、②『正法眼蔵』 86、③『大慧普覚禅師語録』
師語録』(一二巻本) 88、⑤『大慧普覚禅師普説』
(以下『普説』と略す)
、⑥『大慧普覚
89
禅師書』 などが日本に伝わっていたと思われる。このうち、中巌と関係深いのは『普説』
である。京都大学人文科学研究所の松本文庫に五山版が一本所蔵されているが、それを閲
覧したところ、巻末に宋版の原刊記を附刻するが、その原刊語の次の黒色に摺り出された
余白に、朱筆で記された中巌自筆の識語が認められた。
(原文)
右拝観之次通句読訖卒爾之
誤仰後人是正暦応丁卯盛夏
中巌(花押)
(現代語訳)
右
拝読したときに、句読を打ち終わった。急いでいるため、生じた間違いなどは後人の是正を待
つ
一三三九年盛夏
一三三九年に中巌はこの五山版の『普説』を読み、しかも、後学のために、読点を施し
たのである。全巻に施されている朱点がそれであろう。
このように、中巌が自ら手にとったその一本まで特定できるだけではなく、『普説』の
流布にも尽力した事跡も、ほかにいくつか知られている。たとえば、その開版のために布
施を促したことが「化開大恵語疏」(
「大恵語録の開版のために化縁する疏」)によって確
認される。また、実際に『普説』の講義をしたことが次の二点の記事から窺える。ひとつ
は、中巌の『自歴譜』には、一三五七年春、伏見殿に朝見し、『普説』を講じたことが記
されている。前記した識語の作成から約二十年後になるが、この時点では『普説』の講義
に関しては、中巌はすでに第一人者だったことを物語っている。その後もおそらく定期的
に自分の居所で講義をしていたことが、夢窓派禅僧である春屋妙葩の語録『智覚普明国師
語録』の末尾に付録としてついている昌樹書記作の「夢中像記」に記されている内容から
窺える。それによると、昌樹書記は夢のなかで妙喜世界(中巌の居所の名前)に入った。
中巌和尚は、そこで『普説』の講義をする前だった 90。彼の『普説』講義は、宗派を超え
て、好学の禅僧の中では大きな影響を与えていたものと思われる。
次に『五灯会元』についてみよう。
『五灯会元』とは一三世紀ごろに成立した中国の代表的禅宗灯史の一つである。書名は
『景徳伝灯録』、
『天聖広灯録』
、
『建中靖国続灯録』、
『宗門聯灯会要』
、
『嘉泰普灯録』の五
29
つの禅宗灯史(五灯)の宜しきを集めた最良の書という意味である。禅宗の灯史は禅僧の
狭義の伝記だけを収録したものでなく、その伝記中には開悟の因縁や法語、警策また末後
の偈などを含んでいる。そのため、灯史を学ぶことは禅宗史の会得を意味すると同時に、
修行と開悟に裨益するところも大きいのである。『景徳伝灯録』を皮切りに、宋代にはす
でに多くの灯史が時代とともに編纂されていき、その量は膨大なものに上っていた。その
ため一般人にとってすべて閲覧することは困難であった。そこで、『五灯会元』の編者た
ちは、一般の観覧の便利を図るため、浩博な五灯の重複や冗漫すぎる記述を整理し、その
肝要な部分を要約して一書にした。実際、同書は編纂以降、中国で禅僧をはじめ、禅に関
心のある人に広く受容されていったのである 91。日本にもほかの灯史とともに早くから伝
わり 92、注釈も作られた。中でも『一山抄』などが有名である 93。中巌が『五灯会元』を
常に談じていたことは、彼の晩年の随筆集『文明軒雑談』四二五条にある「或人又来詰予
云、吾師向日、於稠人広衆之間、談五灯会元之義、仏祖機語、不顧妄談之譏、大張口唇、
東説西話、如簧鼓蒙昧者相似、而今於讖文、独可吝注解乎(後略)。
」(ある人また私を尋
ねてきて、問い詰めて言った。あなたは、以前人の集まりの中で、『五灯会元』の意味を
論じたことがある。仏祖の機語について、妄談と譏らしることも顧えりみず、口を大きく
開き、あれこれと説明し、簧や鼓を打つ盲人のように口達者だった。どうして今、讖文に
『五灯会元』の出版
ついて注釈をしないのか。
)という記述によって確認できる 94。また、
95
に当たって、刊記を作成したことも知られている 。このように、中巌が『五灯会元』を
重視したのは、同書は中国日本でともにポピュラーなものであると同時に、『五灯会元』
の編纂の最高責任者に大慧派の人が立ったことから、同書は大慧派の中で常に重視され、
大慧派の灯史として位置づけられていることとも関係があるだろう 96。すでに日本におい
てかなりの程度知られていた書物であるが、その受容史の上で、中巌も一定の役割を果た
していたのである。
第二節
他派との関係(夢窓派との関係を中心に)
以上、第一節では中巌が大慧派への強い帰属意識をもっていることをはじめ、その禅思
想の特徴について考察した。では、日本に一人しかいない大慧派の人間として、彼は他派
の禅僧とは、どのように交渉していたのだろうか。大慧派嗣法については、そのために宏
智派から迫害されたことが従来は注目されてきたが、はたして、大慧派という身分は彼に
そのようなマイナスの影響しかもたらさなかったのかどうか、あわせて考察したい。
中巌の生涯を通じて何らかの形で交渉をもった禅僧は数多くいたが、このうち、特に中
巌にとって重要な意味を持つのは、宗派的にいうと、東明派と夢窓派の人たちだったと思
われる 97。
東明派の派祖は、中国僧の東明慧日である。彼は、一三四○年臨済宗で占められていた
当時の鎌倉に曹洞宗をむかえて共存させようと試みた北条貞時の招きで来日した。円覚寺
や建長寺に歴住し、曹洞宗でありながら、臨済宗が占める五山の中で活躍した。正和年間
(一三一二~一六)に円覚寺山内に開創した白雲庵は、東明派の中心拠点である。中巌も渡
元前は、この白雲庵で東明の下で修行していた。また留学から帰ってきた後も、しばしば
白雲庵に仮寓していた。一三三九年、上京中の中巌は、浄智寺で養閑したいという東明の
願いを実現するために、奔走していたことからも分かるように、東明は中巌を信頼し、中
巌もその恩に酬いるように努力していたのである。しかし、嗣法となると、中巌はついに、
東明派ではなく大慧派の人になることを決意した。
この嗣法に起因する東明派から迫害を受けたことの経緯については、すでに玉村や蔭木
30
の諸先学によって指摘されているとおり、筆者も特に新しく加えることはないが、この事
件の中巌への影響を両氏ともいささか過大評価しているように思われる。まず、その対立
期間については、実質的にはそれほど長くなかったのではなかろうか。たしかに、一三五
二年に中巌が白雲庵で諷経したことをもって正式的な和解成立とする蔭木の意見は間違
っていない。しかし、実質的には一三三九年より二年後の一三四一年の段階で、すでに嗣
法表明に起因する不和がほぼ収まってきたことを見逃してはいけない。これは、この年に
中巌が来日僧の竺仙梵僊 98に送った手紙「與竺仙和尚」で、「且両年間世上氛塵稍豁(こ
の二年ほど周囲の状況がゆったりしてきた)
」と中巌が自ら書いているところから窺える。
実際、これ以降東明派の人から迫害を受けたという記述はみられない。
次に、この事件が中巌に与えた影響の深刻さについても再検討する必要があると思う。
たしかに、嗣法表明直後に宏智派の人たちから強く反発され、
「欲害吾」
(私に危害を加え
ようとした)という中巌の『自歴譜』の表現から窺えるように、彼に与えたショックは大
きかった。しかし、ついには別源円旨 99、東白円曙 100の斡旋で無事を得たことからわかる
ように、関係が最も緊張した時でも、宏智派内部には常に中巌の同情者または理解者がい
た。しかも、東明の亡き後、東明派として活躍した人のうちで、現在名前が知られている
人、たとえば不聞契聞や、別源円旨、東白円曙らはみな、中巌に同情した人たちであった。
一三四一以降、再度宏智派から迫害を受ける記事が見えないのは、正式な和解はしていな
いものの、実質的な迫害はすでに止まったと考えていいはずだ。
しかし、蔭木は嗣法表明した一三三九年から一三五二年の官寺出住までの期間を「受難
時代」と総称している。とくに具体的な迫害にあったという記述がないにもかかわらず、
受難時代として考えているのは、帰国早早に頭角を現し有能さが周囲から嘱望されていた
中巌が思ったほど早く官寺出住を果たせなかったことを指しているのだろうか。
たしかに、中巌の初出住は一三五三年の五四歳の時で、やや遅めである。たとえば、そ
の一歳年下の不聞の十刹格駿河清見寺初出住は一三四九年であり、中巌より四年も早い。
しかし、これは東明派とは無関係なことであると思う。かつて、東明自身の進退も自分で
は決められず、中巌を介して、夢窓に働きかけてもらったということが端的に示している
ように、東明は、官寺住持の人事に口出しできる地位にはいなかった。まして、東明の亡
きあとには、そのような住持任命に発言力を持つ人は存在しない。この時期、住持の人事
権に最も影響力があったのは夢窓をおいてほかにいない。中巌の官寺出住が遅くなったの
は、東明派との葛藤よりも、夢窓の中巌評価に原因があると考えたほうがより自然だと思
われる。
以下、夢窓と中巌の交渉、及び思想の異同について考察しよう。それによって、中巌の
官寺出住が遅れた理由の解明につなげたい。
一
夢窓との関係
中巌と夢窓の間の交渉については、現在中巌側の史料三点、
「寄夢窓国師」
(夢窓国師に
寄せる)
、
『自歴譜』暦応二年(一三三九)条、
「東明和尚累住建長上表代」
(東明和尚が建
長寺に再住するにあたっての上表 代筆)
、と夢窓側一点(偈頌「中巌」
)が確認される。
まず、中巌側の「寄夢窓国師」をみよう。
(原文)
(書き下し)
寄夢窓国師
夢窓国師に寄す
道不虚行々有時、旁流大化塞乾坤
道は虚しく行われず
行わるるに時有り、
旁く流るる大化は乾坤に塞ぐ
31
龍淵余滴九淵水、仏国真宗一国師
龍淵の余滴は九淵の水、仏国の真宗は一国師
脚下変化獅子窟、棒頭敲出鳳凰児
脚下に変化す獅子窟、棒頭に敲き出だす鳳凰児
檀林旧業臨川寺、五百年来再築基
檀林の旧業臨川寺、五百年来
再び基を築く 101
(現代語訳)夢窓国師に寄せる
道というものはそれだけが行われることはなく、有徳の人物が現れた時に行われるもの。その時に
は、旁く行き渡る広大な徳化は大地を覆いつくす。龍淵からの余滴は深い淵の水となり、仏国禅師
の真の教えは国師たるあなたに伝わっている。脚下を獅子窟に変化させ、棒頭から鳳凰児を敲き出
される。由緒ある寺院である臨川寺を、五百年ぶりに再び基礎を築いた。
この詩は、一三三三年、中巌が中国留学から帰国二年目で、大友貞宗に伴って、九州よ
り初めて上京し、南禅寺明極楚俊 102の会下に寓したときに夢窓に寄せたものである。この
時期、夢窓は建武新政を開始した後醍醐天皇に招かれ、南禅寺に再住し、また臨川寺・西
芳寺の開山にも迎えられ、さらに国師号を授けられた。よって当然夢窓を褒め称える内容
が中心になっている 103。
八句の七言律詩であるが、内容はさほど難しくない。首聯では夢窓の道が大いに行われ
ることを讃え、対句からなっている頷聯と頸聯では夢窓は高峰顕日の愛弟子であること
(つまりその法系)を述べる。尾聯では夢窓が臨川寺の開山になったことを述べ、全詩を
締めくくっている。
この詩については、増田知子は中巌の詩集の全訳で扱っているが、筆者は増田といくつ
かの点で解釈を異にしている。増田は仏国を清浄仏土と理解しているが、筆者はそれを仏
国禅師、すなわち夢窓の師である高峰顕日と認識した。高峰は一三一六年に示寂した後
二・三年のうちに仏国禅師と勅されたので、中巌は当然その禅師号を知っていたと思われ
る。高峰は後嵯峨天皇の皇子であるため、「龍淵」という表現もただの賛美ではなく、客
観的事実とぴったりの表現となってくる。また、
「脚下変化獅子窟、棒頭敲出鳳凰児、
」に
ついては増田は夢窓が主語と考えているが、しかし、この時点では夢窓はまだ出世して間
もないころで、その弟子のなかに活躍する人がまだ出ていない。むしろ、前の二句と一続
きで、仏国国師の門下から夢窓という鳳凰児を出したと理解したい。それによって夢窓の
師承を述べているのである。夢窓に与える詩でその師承を強調するのは、一つは禅宗では
師承は非常に重要なことであるためである。もう一つは高峰顕日は皇族出身、しかも持明
院派と大覚寺派が分かれる前の後嵯峨天皇の皇子であることとも関係があるだろう。それ
は後醍醐天皇が夢窓を重用した理由の一つでもあったが、中巌もそれを知っていて、師承
関係を重点にこの一首を構成したのではないだろうか。
この詩に先立ち、中巌は明極にも詩を寄せている。明極への詩は、和尚によって禅林社
会に登用されたいという自薦の内容であることについては、すでに蔭木によって指摘され
ている 104。夢窓、明極二人とも建武政権において後醍醐天皇が最も尊崇している禅僧であ
ること、この時期の中巌は留学経験を活かして大いに活躍したいという意欲に燃えていた
こと(後に後醍醐に直接上表していることがその願望の端的なあらわれるであろう)とあ
わせ考えると、夢窓への詩の真意もやはりそれによって夢窓への接近を図り、ひいては後
醍醐政権の体制内に入ろうとするところにあるのではないかと推測される 105。その場合、
詩作の内容は夢窓を讃えるのが中心なのはいうまでもないが、短い詩でいかに自らの最も
得意とする才能を示すかの工夫も当然なされているはずである。
このような視点でこの詩を読み直すと、贈答詩の場合、当然含まれるべき法系や実績な
どの客観的事実を描く部分よりも、また獅子窟、鳳凰児、脚下、棒打などといった典型的
な禅宗の言葉よりも、その中にちりばめられている儒教的な表現にこそ、中巌ならではの
32
個性的な内容が見受けられ、注目に値する。
まず、冒頭の「道不虚行」という書き出しは『易経』繋辞伝下第八章の「苟非其人、道
不虚行」(しかるべき徳のある人でなければ、易の道は行われない)によると思われる。
徳ある人があってこそ道は行われるということによって夢窓の徳をほめているのである
が、儒学関係の言葉しかも中巌が最も得意とする分野である易学の表現を冒頭に持ち出す
のは偶然とは思えない。また、それにつづく「行有時」というのも注意すべきである。
「時」
とは儒学でよく用いる概念の一つで、中巌が易や孔子の影響からそれを強く意識していた
ことは既に先学によって指摘されている。千坂の考察によれば、中巌の「時」意識は易と
孔子に影響を受けているもので、それには時流という公的な面と同時に「年齢」という私
的側面も併せ持っている。しかも私的な時、即ちその生き様のなかに、公的な「時」意識
を育むものがあったとしている 106。この詩はまさにその良い一例である。つまり、「時」
を詠んだのは夢窓を褒め、時勢を評価すると同時に、自分にもいよいよ、世に用いられる
時がきたという願望を込めているのである。しかし、その熱い期待と告白にもかかわらず、
夢窓からは返事がなかったようである。
つぎに『自歴譜』暦応二年の条の内容と「東明和尚累住建長上表代」をみよう。
この二つの文章で記録している夢窓との交渉は共通した内容である 107。建長寺を退き、
浄智寺で養閑したいという東明の願いを適えさせるために、中巌が臨川寺に赴き夢窓に斡
旋を願い出たのである。このことは、当時幕府の五山住持任命に夢窓が影響力を持ってい
たことを物語っている。この時、東明が望んでいる浄智寺の人事は既に決まっていたので、
夢窓は代わりに東明を浄妙寺に住持させようとしたが、建長寺の予定後任住持が亡くなっ
たため、結局直義の命により、東明は建長寺の再住をせざるを得なかったのである。結果
的には中巌は東明から与えられた任務を果たせなかったものの、これによって、夢窓と直
接交渉を持つことができただけでなく、中巌が東明に復命できるように夢窓が配慮してい
た様子も窺える。この件について、中巌の記述からみると、この時の夢窓の努力に対して、
中巌自身は感謝していることが分かる。しかし、この件で直に付き合う機会を得た中巌に
対して、夢窓側は何も史料がない。しかも、やりとりはこれのみで、夢窓が示寂するまで、
中巌との間に再度直接交渉を持った形跡がみられない。
たしかに、この直後に起こった嗣法問題による東明派とのトラブルのため、中巌はしば
らく蟄居をせざるを得なかった。しかし、前述したように、二年後には、その不和に起因
する東明派からの迫害は大体収まった。一三四一年から、中巌は竺仙梵僊や虎関師錬 108な
どの高僧との交流を再開し、一三四五に嵩山居中 109に請われ、建長寺前堂首座をつとめ、
一三四九年に全提志令 110に頼まれ寿福寺で秉払し、一三五○年には明岩正因 111の請で寿福
寺で座元をつとめるなど、五山派内の一人でありつづけた。にもかかわらず、夢窓とは何
も交渉がない。夢窓の性格としてよく指摘されているのは有能な人材を見かけると、自派
に取り入れようと時には強引ささえあることである 112。しかし、中巌に対してはそのよう
な働きかけはしなかった。それはなぜであろうか。
まず、考えられるのは、前述したように、両者の禅思想に相違が見られることである。
しかし、相違点はあるものの、自証自悟を強調する中巌の禅は、禅の本来の姿を伝えるも
のであり、夢窓は方便を多用する一方で、中巌の禅理解と共通するところを持っているこ
とは前述したとおりである。夢窓も中巌の禅を高く評価したことは、彼が中巌に与えた偈
頌「中巌」によって分かる。『夢窓国師語録』下に「不堕両辺呈険峻、更無差路與人行、
空生未解談般若、幸有孤猿対月明。」
(真ん中の岩は険しく、しかも一本道でわき道などは
人に与えない。仏の弟子である空生でさえ般若の意味を理解していないが、幸に一匹の猿
33
が明るい月に向かって叫んでいる。)という偈が収録されている。「不堕両辺」とは中を、
「呈険峻」は「岩」を詠んでおり、一句目は中巌という名前の解釈となる。二句目「更無
差路與人」というのは、中巌の禅の妥協しない、方便を許さない厳しさを言っているのだ
ろう。三四句目は、「円月」という表象を詠んでいると同時に、仏教の最も重要な教えの
一つである「空」についての理解は、
「解空第一」といわれる仏の弟子である空生 113より
も優れていると、中巌の禅に最大の賛辞を送る。なかでも、孤独さの強調は興味深い。夢
窓の目は鋭い。中巌の禅の特徴の一つは厳しさにあることは既述したが、孤独さこそ厳し
さに由来するものではなかろうか。夢窓はそれをずばりと言い当てている。本人のために
書いた偈頌のため、サービスの要素もあるだろうが、中巌の禅のあり方を夢窓も評価して
いたことは間違いない。では、夢窓と中巌の間に見解の違い、言い換えると、夢窓が必ず
しも中巌を評価していないところはないだろうか。一つは中巌が夢窓に贈った詩でアピー
ルしたその儒学的素養である。夢窓も儒学についてある程度の知識を持っていたことは指
摘されているが、しかし、特に深い興味はなかったようである。また、儒学のほかに、中
巌がもうひとつ自負していたものは文章力である(詳しくは第二章で論じる)。では、夢
窓の文章観はいかなるものだっただろうか。若いころに第一位で一山一寧の詩作試験をパ
スしたことからわかるように、夢窓自身は高い文章力を身につけていた。しかし、一方で
彼は禅僧の儒学や文章への没頭を非常に危惧していたことは、
「三会院遺誡」114にある「如
其酔心於外書、立業於文章者、此是剃頭俗人也。不足以作下等」(もし、仏教以外の書物
に没頭し、文章をもって立身しようとする者がいれば、これは頭を丸めた俗人にすぎず、
下等の弟子とさえ言えない)という有名な内容でよく知られている。中巌のもっとも自負
していたことが、いずれも夢窓の戒めていたこととすれば、夢窓に重用されなかったのは
当然であろう。夢窓が亡くなる翌年から中巌に転機が訪れ、「とんとん拍子」で出世して
いき、しかも夢窓派とも緊密な関係を築いていったのは、おそらく偶然ではないだろう。
以下、夢窓なき後の夢窓派と中巌の交渉をみてみよう。
二
龍山徳見との関係(夢窓派と接近のきっかけ)
中巌が始めて五山派の官寺に入住したのは夢窓が示寂した二年後(一三五三年)で、乾
明山万寿寺 115 である。五山住持の人事の正式な手順は禅律方が決めることになっている
が 116、有力禅僧の推薦なども大きな役割をはたしていたことは、前述した夢窓による建長
寺住持斡旋の件によって分かる。中巌の五山住持起用が具体的にどのようないきさつで決
定したか、詳しいことは分からないが、五山派中枢部の人による推薦があったろうことは
予想される。従来の研究では主として大喜法忻 117の役割が注目されてきたが、大喜のほか
に、もう一人の高僧龍山徳見(一二八四~一三五八)の役割も見逃してはいけない。
龍山は千葉氏であり、下総国の出身。一三歳で鎌倉寿福寺の寂庵上昭に師事して出家し、
その後円覚寺の一山一寧に参禅した。二二歳の時中国(元)に渡って天童山の東岩浄日・
古林清茂などに参禅している。また黄龍慧南から栄西にいたる臨済宗黄龍派の法流を受け
て兜率寺に住するなど、長期間元に滞在した、一三四九年に十七人の留学僧を伴って帰国
している。それは夢窓が示寂する前年のことであった。その年のうちに足利直義の招きを
受けて建仁寺に請住されたことが端的に示すように、さっそく幕府から信頼をうけたので
ある。翌一三五○年に夢窓が示寂すると、義堂周信、先覚周怙、絶海中津など、夢窓の遺
弟子が先を争ってその会下に連なったことが物語るように 118、龍山は夢窓派に属さないも
のの、夢窓派からも頼りにされていたのである。
中巌と龍山の交渉は留学時代にさかのぼる。中巌は在元中、中国江西省雲岩寺に龍山に
34
参学の経験をもっているだけでなく 119、帰国に際し龍山から送別詩をもらっている。「送
月侍者」で次のように龍山は記す。
「璧玉盤中珠宛転、珊瑚枝上月盈規、看来無一点孤負、
不用逢人罵国師」(緑の玉盤の中を珠が転がり、珊瑚枝の上に月が満ち欠けする。少しも
師の恩に背くことがないように見え、人に逢うたびに師の悪口を言う必要がない)。前二
句には中巌の名前の二文字「中」と「月」を盛り込んでいる。玉盤で転がる玉と珊瑚枝の
上にかかっている月はいずれもきれいな風物として漢詩でよく取り上げられる題材であ
る。それによって、中巌をほめているのは言うまでもない 120。それよりも、三・四句の内
容は第一章「無肯説」ですでに触れた「国師三喚」の公案を踏まえているのは興味深い。
これによって中巌がすでに師の教えの真髄と印可をともに得ていることを、龍山が詠んだ
のである。師がだれかについては明記していないが、送別詩でこの内容を読んでいること
から、留学中に師事していた禅師、つまり東陽を指す可能性が最も大きいであろう。この
ように在元中から、すでに東陽と中巌の関係を師弟関係と考えていた龍山は、帰国して、
先に帰国した中巌が大慧派の法を嗣いだことを知り、納得したのは当然であろう。また、
中巌の帰国後になるが、龍山は中巌の師叔笑隠に厚く遇されたことも知られる。そのよう
な経験も加わって後輩の中巌に親近感を感じた可能性も大きい。かつて自分がその能力を
評価し面倒を見た後輩が未だに出世できないのをみて、自らの影響力をもって、幕府の禅
宗人事において中巌を推挙した可能性は十分あると考えられる。
中巌のこの昇住は渡元僧を中心に歓迎されたことはその出住にあたって、無涯仁浩 121が
作成した江湖疏、諸山疏などから窺えるが、無涯も二十四年もの在渡経験をもつ人で、ほ
ぼ時期を同じくして(一三五三年二月に)十刹格の寺(東勝寺)に昇住している。この前
後に広範囲な人事異動があり、留学経験者がかなり抜擢されていたと推測される。
龍山は中巌の五山出住に際して推薦の役割を果たしたと思われるだけでなく、その後も
中巌とひきつづき緊密な関係を保っていただろう。それがまた中巌を夢窓派と結び付ける
きっかけにもなったと思われる。夢窓亡き後、中巌が夢窓派との交渉が確認される最初の
出来事は、一三五六年上京した際、天龍寺に仮住まいしたことである。この時の天龍寺の
住持は龍山徳見であったので、龍山徳見を頼っての寓居であったと思われる。本章第一節
で述べた中巌の光明天皇謁見も天龍寺寓居中のことであった。謁見が可能になったのは、
日本に一人しかいない大慧派の後継者として大慧の語録の講進に中巌が適任であったか
らであるが、それを上皇の耳にいれたのは、両上皇がかねてから帰依した夢窓の門下であ
る天龍寺の人たちであった可能性が大であろう。
翌一三五七年、中巌は一旦天龍寺を離れ利根に帰っているが、一三五八年に天龍寺で火
災が起きた後、また上京してきている。『自歴譜』の記述では、この火災が上京の動機に
なっているように読み取れると蔭木は指摘しているが、なぜ、この火災が中巌を上京する
気にさせたのか、その理由については氏は述べていない。中巌と龍山との関係、火災後龍
山は責任を負って一旦は隠棲したことなどを考えると、中巌は龍山の進退を心配し上京し
たと断定できるだろう。惜しくも龍山はその年のうちに示寂したが、その際、中巌が製作
した「祭龍山和尚文」
(龍山和尚を祭る文)のなかに「師既駕旋、再獲憑仗」
(師の帰国後、
また頼りを得た)と自分が帰国後の龍山徳見に大変お世話になったことが述べられている。
このように、龍山を通じて天龍寺と縁を結んだ中巌であるが、天龍寺を拠点とする夢窓
派の人たちとも次第に親交を結んでいったのである。次に夢窓派の中心的存在である春屋
妙葩や義堂周信との交渉の様子を考察しよう。
35
三
春屋妙葩および義堂周信との交渉
夢窓の弟子の中で、中巌と交渉がとくに多かったのは春屋妙葩と義堂周信であった。ま
ず、春屋との交渉についてみよう。
春屋(一三一一~一三八八)は夢窓の甥で、幼年より夢窓に近侍し、十五歳で夢窓によ
って得度した。夢窓亡きあと、龍湫周沢 122とともに夢窓派を率いた人物として知られる。
義堂と中巌の交渉が一般的によく知られているのに対して、春屋と中巌の交渉については
従来の研究ではあまり注目されなかった。筆者が調べたところ、両者の交渉が確認できる
事件は三つしかなかったが、いずれも文筆活動と関係しているのである。文章の具体的な
考察は次章に譲るが、ここで事件のあらましだけを紹介しよう。
両者の交渉は、一三五八年中巌が天龍寺亀頂塔下房にいた時、春屋から『蒲室集』の注
釈を頼まれたことにおいて、初めて確認できるが、このことから大慧派の嫡流として春屋
から尊敬されていたことが分かる。その次は翌一三五九年春に中巌が開いた利根吉祥寺が
諸山に列せられた時、天龍寺にいた中巌のもとに春屋から祝賀の偈が送られたことである。
しかも、その偈に中巌が一首を酬いると、折り返し春屋や諸老の和韻が来て、たちまち六
二首となったので、義堂がそれを一幅の頌軸とした。このように、両者の交友関係は禅宗
社会で広く認められ、しかも、その詩の応酬が禅僧の間で美談として語られていたことと
思われる。また、この吉祥寺の諸山昇格に春屋が尽力しただろうと蔭木が推測している
が 123、筆者も賛成する。関東での夢窓派(嵯峨派)勢力伸張をはかるため、同年八月に、
春屋は義堂らを鎌倉に送っている。法系上夢窓派ではないものの、鎌倉をはじめ関東で長
く活動し、今夢窓派と近い関係にある中巌の力量を借りる狙いがこの時春屋妙葩にあった
のではないかと思われる。さらに一三六三に春屋が天龍寺に出住した際、中巌が江湖疏を
製作したことが、第三のものとして確認される。このように、かつて、夢窓が中巌を評価
しなかったと思われる理由、その文章力の高さが、春屋においては逆に中巌を尊敬する理
由に変わったことが注目される。
次に、義堂周信 124と中巌の交渉を見てみよう。夢窓派の人間のなかで、中巌と最も親交
のあったのは義堂であろう。義堂は崇光上皇はじめ将軍足利義満、関東管領足利基氏・氏
満また二条良基、斯波義将など、広く公武の要人と交わりがあり、その該博な学識は、当
時の五山禅僧の教養の最高水準を示しているとされている人物である。その義堂が儒学、
文学の諸方面にわたって中巌を師と仰いだことは、すでに多くの先学によって指摘されて
いるが、両者の交渉を物語る史料を整理すると以下になる。
義堂の日記『空華日用工夫略集』125における中巌への言及は十ヶ所ある 126。しかもその
ほとんどが、詩文など文章作成と関係するものである。なかでも至徳二年二月二十日条と
永徳元年九月二五日条の内容は特に興味深いものがある。前者によれば、管領細川頼之は
自分の号「雪渓」の説を中巌に頼んだのである。説のほかに、記を明の高僧に、序を義堂
にそれぞれ頼んでいることからみて、頼之が中巌を最高の文章家の一人であると認めてい
ることが分かる。後者によれば、二条良基は自邸の景色の命名を中巌に頼んだのである。
ほかの景色の命名者のなかに天皇が入っていることからみれば、良基も中巌に対して尊敬
の念を持っていることは疑いない。このように、禅宗内部だけではなく、武家や公家など
の信者の間でも中巌はその文章力と学識が特に認められていたのである。
義堂の日記の記述のほかに、中巌と義堂がお互いのために書き与えた文章も残っている。
義堂には「住建長寺疏」と「袁氏羸吟序」
、
「上中巌和尚書」127などがあり、中巌には義堂
の詩文集『空華外集』のために作った跋「空華集序」が現存する。中巌の文章については
36
次章で述べるが、ここで義堂の書いた「袁氏羸吟序」128の内容を具体的にみてみよう。そ
れによって両者の交渉がどのような場で展開され、および義堂はどのように中巌を評価し
ていたかを具体的に見てみたい。
(原文)
袁氏羸吟序
袁氏羸吟、中巌師所以命雪曲也。初歳次丁未冬、師承旨、自東山遷巨福。滌篆未幾、一夕天乍陰、
大雪雰雰而下、如風之狂、似衣之舞、使観者気魄蜚動。時也、福山之徒一万五千指、壁観如少室者
多、師視而喜、遂拍膝而吟曰、雪落虚空粉砕来、逐風旋去又還回、巨福禅徒千五百、不分三等坐堆
々。属而和者累百、師選其調同者四十三章、授諸侍史曰弘者、而編次之。編成、師自表題、且跋之、
遂命余賡歌曰、仏日老人今再来、叢林元気挽教回、誰云白雪無人和、疉璧聯珠万万堆。及明年春、
師勇退帰于東山莵裘、以茲編付上人、且俾余為叙。余方尸錦屏、役于土木、荒于翰墨。自春渉夏、
夏而秋冬、上人之徴余数矣。歳既晏矣、雪復下矣、上人之徴益急、余窘不奈、於是毛穎代余曰、吾
聞雪下有三等僧也尚矣。曰上等也擁帔坐禅、曰中等也詠雪題詩、曰下等也圍爐説食。昔者天水趙南
渡建炎丁未冬、中巌而上七代祖大慧氏、嘗在呉之海涌峰値雪、目験所謂三等者矣。然今中巌、既承
大慧、且歳在丁未而冬也、吟雪曲而用三等故事、不亦宜乎。或者曰、大慧去古尚迩、而猶見有下焉
者、今中巌、去大慧益遠、而巨嶠千五百、豈無一人下等者、而中巌合而上等之何也。夫才大而容小、
身尊而思卑、是乃聖愚斉者、而後克之、既大既尊、而容而思而克者、其惟中巌歟。学窮理性、文法
春秋、奴僕乎輔教之仲霊、輿台乎僧史之通慧、可謂才大者矣。而今之雪曲也、懼和者寡、故不高歌
而低唱之、慮聴者惑、故不古調而今腔之、可謂容小者矣。王候爭聘而崇位之、衲子服膺而尊尚之、
可謂身尊者矣。而今之雪曲也、首之以袁安而自居、終之以寒士而撝謙、可謂思卑者矣。由是観之、
盖中巌慊於先祖之喜訐不容、所以不分三者而一目之、可謂斉観者矣。若夫世之挟小智而陵人、安尊
爵而忘庳、捨霊亀而朶頤者、聞斯羸吟、可不掩耳也哉。上人性敏而好学、可以大吾道、故今之福山
主石室老人、以大道称、南禅無惑大士、寔提耳師也。
(現代語訳)
袁氏の微かに読み上げた詩及びに序
袁氏羸吟とは、中巌老師が作った雪を歌う詩に名づけた名前である。貞治六年冬、師は朝廷の命を
受け、建仁寺より建長寺に遷った。住持になって間もない頃、ある晩、天気は急に暗くなり、大雪
が盛んに降った。風のように激しく、衣が舞っているようにひらひらと降った。人々の心はわけも
なく大きく動かされた。その時、建長寺には千五百人の禅僧がいたが、達磨初祖のように面壁をす
る者が多かった。師はこれを見て喜び、膝を打って詩を吟じた。
「雪は虚空に落ちて粉々になり、風
を逐い旋回して行ったかとおもうとまた戻ってくる。建長寺の禅徒千五百人、三等に分けずに群れ
をなして座っている。
」と。これに和したものは百にも及んだが、師は其の調べの同じであるものを
四十三選んだ。侍史の弘という者に与えて、編纂させた。できてから、自ら表題を書し、跋を作っ
た。そして私に同じ韻を使って詩を書くように命じた。
「仏日老人がいま再来し、叢林の元気がもど
ってきた、
(格調高いということで)白雪を知る人がないと誰が言ったのか、和韻の珠玉の作品がお
びただしい」と。
翌年の春になって、師は建長寺を退き建仁寺に隠居することにした。この編を弘上人に残していっ
た。また私に叙を作らせた。私は 瑞泉寺の住持になり、土木工事に没頭し、文章から縁遠くなって
いた。春から夏、秋を経て冬になった今、弘上人に再三催促された。歳は既に暮れ、雪がまた降る。
上人に再三催促され、私は困ってしまった。仕方がない。こうなっては、筆が私に代わって次のよ
うに書いてくれた。私は雪の降る時、三等の僧がいると聞いた。尊ぶべきである。上等の僧は袈裟
をかけて坐禅する。中等の僧は雪を詠じ詩を作る。下等の僧は囲炉裏を囲んで食べものの話をする。
昔は、趙宋が(長江の)南へ渡った一一二七年の冬、中巌の七代祖である大慧は、かつて呉の海涌
37
峰で雪に遭い、いわゆる三等の僧を目で試した。今、中巌は、大慧の法系を承け、しかも1127年と
同じ干支の年の冬である。雪を吟ずるに三等の故事を用いるのは、まことに宜しい。
或るものは言った。大慧が(良き)古からさほど経っていないのに、なお下等の僧を見た。今の中
巌は、時代が更に下り、而も建長寺には千五百もの禅僧がいる。どうして、一人も下等の者がない
はずがない。なのに、中巌は彼らをみんあな上等としたのはなぜか。
大きな才能を持ったものは才能の少ない人を受け容れ、尊い身分のひとは卑しい身分の人を思うの
は、すなわち聖愚をひとしくみた上で、それを克服することである。才能が大きく、身分が尊くて、
才能の少ない人を受け容れ、卑しい身分の人を思い、そしてそれを克服できるのは中巌のみか。中
巌の学問は理性を窮め、文章は春秋に法り、
『輔教篇』を書いた契嵩やを僧史を編纂した賛寧を身分
の低い下人とするほど、中巌の才能は大きい。しかし、その雪を歌う詩に和する者の少ないことを
心配して、高らかに歌わずに低唱するのである。聴く人が戸惑わないように、古の調べのかわりに
今の調子にした。小を容れる者というべきである。王候が争ってそれを高い位置に招き、僧侶は敬
服し尊敬することは、身分の尊い者というべし。しかし今の雪の詩では、冒頭では袁安 129を以って
自任し、終りでは寒士を以って謙遜している。卑い身分の者への配慮というべきである。こうした
ことからみれば、おそらく中巌は大慧が(人の短所)を好んで暴き、寛容でないことを嫌うため、
三等と分けずに同一視したのであろう。斉観者というべきである。世にこざとい知恵を頼んで威張
り、尊い官職に安じて卑しい人を忘れ、ただ飽食する者が、若しこの詩文を聞けば、耳をおおわず
にはいられないだろう。
上人は聡明で勤勉である。我が禅の教えを広めることができるだろう。そのため、現在の建長寺の
住持である石室善玖禅師は、大道と称している。南禅寺の無惑良欽禅師が、その嗣法の師である。
長文であるが、大きくわけて四つの部分に分けることができる。第一段落では、「袁氏
羸吟」とは何かを説明している。それによると、一三六七年、中巌が建長寺に住している
時、ある雪の日に、建長寺で坐禅する人が多いのを喜んで詩を吟じた。それに百近くも多
くの人が和韻したので、中巌は優秀なものを選んで一冊とし、「袁氏羸吟」と題した。第
二段落では、義堂が序を頼まれたいきさつを述べる。中巌が建長寺を離れたとき、「袁氏
羸吟」を大道上人に与えた。義堂は大道から序の執筆を頼まれたのである。第三段落では、
中巌の詩中における大慧の「三等僧」の故事の使用の可否を中心に議論を展開している。
「三等僧」の話は『大慧普覚禅師宗門武庫』巻一に見られる話で、後に弟子によって『大
慧普覚禅師年譜』にも収録され、有名な話である。その内容については義堂が「袁氏羸吟
序」で述べているとおりである。つまり、雪が降るときの僧の行動は三等に分けられる。
上等は坐禅、中等は詩を作る、下等は圍爐説食というものである 130。しかし、中巌の詩で
は、「不分三等坐堆々」と書いている。千五百人もいる建長寺僧のなかに、一人や二人の
下等の人もいるだろう。中巌の詩はおかしいではないかと疑問に思い、義堂のところにた
ずねて来た人がいた。それに対する義堂の答えは、当然中巌の使い方をよしとしている。
その解釈は、中巌は自ら「才大」だけではなく、「小」を「容」れることができるすばら
しい人である。だから、大慧が人の不足を容れない(「喜訐不容」
)のを嫌い、あえて「不
分三者而一目之」と詠んだのである。中巌こそ「斉観者」であって、世の中の「挟小智而
陵人」のような人にはその真意はわからない。
この義堂の解釈では、雪が降る時、建長寺に坐禅しない人がいたことを認めている。ま
た、坐禅を上とし、それ以外を下とする考え方も認めている。しかし、それを知っていて
もあえて差別視しないことこそ「大才」(最高の状態)というロジックである。義堂のこ
の解釈は、「行住坐臥」みな修行であるとする禅の伝統からみて間違っていないのはいう
までもない。しかし、かつて夢窓が「三会院遺誡」で「如其酔心於外書、立業於文章者、
38
此是剃頭俗人也。不足以作下等」と述べているのと比べれば、正反対になっているのは明
らかである。もちろん、禅では一定不変の道理がなく、状況に応じて説法が違ってくるの
は許容されることである。たとえば、「即心即仏」を説いていた馬祖大師が弟子たちがそ
の教えに執着しすぎるのをみて、晩年にその立場を異にして「非心非仏」を説くようにな
ったのは有名な話である。しかし、義堂の場合は馬祖のそれと違う。夢窓の戒めにより、
禅林で「外書」や「文章」がまったく振り返られなくなったので軌道修正する必要が出て
きたというわけではない。中巌の詩にたちまち百人以上の人が和韻したことからみて、
「文
章」に熱中する人がむしろ増加している。義堂自身もその一人であった。そして、さらに
序文までしたため、それを永久保存できるような形(軸物)にすることを手伝っている。
中巌が僧を「三等」に分けないことのすばらしさを義堂が延々と述べているのは、質問す
る僧の疑問を解くと同時に、自分たちの行為の弁護・正当化も兼ねているのではないだろ
うか。
儒学と文章、いずれも夢窓が評価しなかったものであるが、その弟子の代となると、完
全に評価される対象になったのである。その変化には複雑な理由が考えられる。たとえば、
社会からの期待と要請(前記した頼政や良基との交渉がその例である)はその重要な原動
力の一つであっただろう。また中巌のような人物と交渉したことも、春屋や義堂にとって、
文章への関心を高める契機のひとつになったことは間違いない。では、中巌の儒学と文章
への傾倒ぶりはどこから来ているのだろうか。また、その具体的な内容はいかなるもので
あったのか。以下、第二章と第三章で考察する。
39
第二章
文学活動の展開
中巌は日本大慧派の派祖として知られているだけではなく、五山文学の先駆者としても
高く評価されている。五山文学とは鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で行われ
た漢文学のことをさす。その内容は、禅の法語をはじめ、詩文、日記、論説、さらに外交
文書など、実に広範な分野に及ぶ。禅宗は一方で文学を外学とし、第二義のものとしなが
らも、士大夫の支持を得て発展したため、中国ではすでに文学と深い関係にあった。不立
文字という宗是がある一方、不離文字の現実があったのだ 131。特に、宋代以降、禅僧の語
録そのものに文学性が認められるだけではなく、漢詩、漢文など伝統的な漢文学の享受と
創作も禅僧の間で一般的になった。よって、鎌倉時代に日本に伝わった禅はその伝来期か
ら漢文学の鑑賞・研究ひいては創作の伝統をも持ち帰った。中巌はまさにこの初期の五山
文学を代表する一人であった。その文学についてはすでに先学によってさまざまな角度か
ら研究されているが、まだ解明の不十分なところも多く残っている。たとえば、彼は百丈
山で書記を務めたことから、留学を通して、彼は高い文章力を身につけたことは推測でき
る。しかし、留学期間中に書いた文章は具体的にどれほどのもので、またそれが帰国後の
彼の創作活動とどのような影響関係を持つのかについての研究は、まだ見ることができな
いでいる。また、第一章で明らかにしたように、文章力は中巌が夢窓本人に疎遠される一
因となったが、後半生では、逆にそれが彼が夢窓派の人間たちに尊敬されるもととなった。
では、彼の夢窓派の人間たちとの文学的交流はどのようなものであったのか、それについ
ての研究もまだ見られない。以下、四節に分けて、中巌の留学期及び帰国後の文学活動に
ついて考察したい。「五山文学」の範疇については、様々な議論があるが、本論では語録
以外の文字化したものをひっくるめて文学といい、その創作をはじめ、注釈・講義・交流
をまとめて文学活動と考える。
第一節
中国留学 — 大慧派下における文学活動を中心に
約七年間にわたる中国留学期間のうち、中巌が最も大きな影響を受けたのは大慧派下に
いた時期であった。東陽派下で受けた禅の鉗鎚については第一章で述べたが、本節では百
丈山大智寺時代と金華智者寺時代の二節に分けて主にその文学的影響について考察する
ことにする。
一
百丈山大智寺における文学活動
百丈山は現在の江西省南昌市奉新県の管轄下にあり、古くから景勝地として知られてい
る。唐代に大慧派の遠祖にあたる百丈懐海禅師がここに大智寺という禅寺を開いていた。
中巌の留学当時、住持を務めていたのは東陽徳煇であった。東陽の師系は大慧-拙庵徳光
-敬叟居簡-物初大観-晦機元熙-東陽となり、大慧派の人である。大慧派はその派祖大
慧の時代から士大夫との交流や詩文の教養を重視する伝統があった 132が、東陽には、語録
や外集が現存していないため、その事跡についてはわずか『勅修百丈清規』の編纂や天下
師表閣の建立といった実績が知られているのみで、その文学的素養を物語る資料はこれま
で発見されていなかった。筆者は彼が金華の出身であるというてがかりから、金華文人の
詩集を調べてみた。その結果、東陽の名前は地元文人の詩中にたびたび登場していること
が確認できた。たとえば、呉景奎の文集『薬房樵唱』には「奉謝東陽見貺白葛水源茶百丈
諸石刻墨本二首」(東陽が白葛水源茶と百丈諸石刻墨本を贈ってくださったことに感謝す
40
る二首)
、
「草堂訪煇東陽不値、是夕同胡太常宿大桐江方丈、用太常韻、奉呈並簡東陽」
(草
堂に煇東陽を訪ねたが留守だった。夜、胡太常と大桐江方丈に泊まる。太常の韻に和して
東陽に送る、「挽煇東陽」(煇東陽を悼む)、「夢煇東陽」(煇東陽を夢みる)の四首が見え
る。また、景南葉顒『樵雲独唱』に所収の哀悼詩「草堂寺、有懐東陽輝老」(草堂寺で、
東陽輝長老のことを懐かしむ)には、
「高僧無復定詩盟」
(これからは高僧が詩盟を定める
こともなくなる)とあり、東陽を中心に地元文人たちが参加する詩盟、つまり詩を詠む文
学サロンが開かれていたことも分った。このように、士大夫との交流をはじめ、文学に対
する濃厚な関心を持つ東陽の門下に連なった中巌も当然、その点でも影響を受けたと思わ
れる。以下、中巌が東陽の下で書いた作品を具体的に読むことによって、その点を明らか
にしていきたい。
中巌が百丈山で書いたと思われるもので現存するのは、
「百丈法堂上梁文」
(百丈山法堂
の棟上を祝う文)、「贈涂都料並序」(涂都料に贈る詩並びに序)、「庚午三月東陽和尚書所
見詩韻」
(庚午三月、東陽和尚の書に見える詩の韻を用いて)
、
「百丈請玉田住西隠疏」
(百
丈が玉田に西隠に住するように願う疏)、「秉拂」(住持に代わって説法する)がある。こ
のうち、中巌にとって最も重要だったのは「百丈法堂上梁文」であったと思われる。書記
として成し遂げた大仕事として、『自歴譜』で明記しているほどである 133。上梁文とは文
字通り建築物の上梁が行われるのを祝う実用文である。文体は駢文で、構成もほぼ決まっ
ている 134。宋代以前、文学作品として評価される対象ではなかったようであるが、『宋文
鑑』で新たに一つの文体として収録されてから、『元文類』や『明文衡』でも収録されて
いることから見ると、この時代には脚光を浴び始めている文体の一つであったことが分か
る。また、その作成者には当然、関係者のうち、筆の立つ人が当てられる。たとえば、
「行
中書省上梁文」(行中書省の上棟を祝う文)の作成は当代随一の文化人である黄溍が筆を
取っている 135。また、この黄溍こそ後年東陽の依頼により「師表閣記」を書いた人である 136。
大智寺の法堂および師表閣の建立は、この寺にとって大事業であっとことは、ここからも
窺える。このように、寺の大事業の上梁文の作成を任せられ、それを見事に果たした中巌
自身は自分の文章に大きな自信を持つようになったのだろう。以下、その作品を具体的に
みていこう。やや長文になるが、原文、書き下し文及び現代語訳を以下に引用する。
(原文)
(書き下し)
百丈法堂上梁文
上有師表閣
百丈法堂上梁文 上に師表閣有り
異則貉無則禽
一部清規三代礼楽
異なれば則ち貉 無なれば則ち禽 一部の清規は三代の礼楽
往者興来者継
百丈法席四海象龍
往者は興し
来者は継ぐ 百丈の法席は四海の象龍
要看真正挙揚
真正の挙揚を看んと要せば
更須斬新作略
更に斬新の作略を須む
上方主人
上方主人
炳若之徳
丹青猶嫌久而有渝
温然之姿
玉璧全類廉而不劌
炳若の徳 丹青猶お嫌う
温然の姿 玉璧に全く類す
躬工人績 137
工人の績を躬ずからし
内謀外成
内に謀り外に成る
来董精藍之明年
来たり精藍に董すの明年
屡営幹楨以愛日
屡しば幹楨を営み
撤去此堂弊
撤去す此の堂弊を
馴致其棟隆
馴致す其の棟隆を
久しくして渝わること有るを
廉にして劌なわざるに
以て日を愛づ
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層以飛閣流丹
飛閣流丹を層し
冠于雄峰絶勝
雄峰絶勝に冠す
結綺臨春遜壮麗
結綺臨春は壮麗を遜り、
太形王屋輸巍峨
太形王屋は巍峨に輸る
地属洪都
訪風景恰同滕王之作
地は洪都に属し 風景を訪ねれば恰かも滕王の作に同じ
梯升雲漢
望左界豈待張騫之槎
梯は雲漢に升り 左界を望めば豈に張騫の槎を待たん
手摘星辰
手は星辰を摘み
肩過日月
肩は日月を過ぐ
天下師表
十八世而中興
天下の師表
十八世にして中興し
上方霊蹤
五百載之余烈
上方の霊蹤
五百載の余烈
当作獅子吼於獅子座上
当に獅子吼を獅子座上に作すべく
宜脱野狐身於野狐窟中
宜しく野狐身を野狐窟中に脱すべし
爰挙修業
爰に修業を挙げ
輙唱短頌
輙ち短頌を唱う
児郎偉抛梁東
児郎偉
迦葉峯高挿太空
迦葉峯高く太空を挿す
雨霽煙消風景好
雨霽れ煙消え風景好し
烏輪発彩著円穹
烏輪発彩 円穹を著す
児郎偉抛梁南
児郎偉
仙花簇錦水挼藍
仙花は錦を簇し水は藍を挼む
渾無俗駕到霊境
渾べて俗駕の霊境に到ること無く
八面車輪鏁翠嵐
八面の車輪
児郎偉抛梁西
児郎偉
雄嶺衝雲天宇低
雄嶺は雲を衝き天宇低し
暁起那伽乗月立
暁起き那伽月に乗りて立つ
梁東に抛ぐれば
梁南に抛ぐれば
翠嵐を鏁す
梁西に抛ぐれば
断腸霜狖一声啼
断腸す霜狖一声の啼きに
児郎偉抛梁北
児郎偉
天桂高兮地勢極
天桂高く 地勢極まる
倬彼昭回如可承
倬き彼の昭回
山河在掌生顔色
山河は掌に在りて顔色を生む
児郎偉抛梁上
児郎偉
唐朝古刹人咸仰
唐朝の古刹
梵音依約白雲中
梵音は依約たり白雲中に
鬼護神呵来肹蠁
鬼護神呵 肹蠁に来る
児郎偉抛梁下
児郎偉
梁北に抛ぐれば
承く可きが如く
梁上に抛ぐれば
人咸な仰ぐ
梁下に抛ぐれば
風俗由来自爾雅
風俗の由来
山冷桑麻長稍遅
山冷
桑麻は長ること稍や遅く
水清花竹秀而野
水清
花竹は秀にして野なり
上梁之後
上梁の後 伏して願わくは
伏願
自から爾雅
宗猷與時偕行
綱要不墜
宗猷
時と偕に行い
綱要墜ちず
帝徳致遠能化
基業長存
帝徳
遠に致し能く化し
基業長存す
42
五気相和
五気相い和し
六民同利
六民利を同くする
(現代語訳)
百丈山大智寺法堂の棟上を祝う
ことを
上に師表閣がある
禅の修行は清規と異なれば則ち貉のような存在であり、無ければ則ち禽と同じような存在である。
清規一部は三代の礼楽に同じく重要である。過去の人々が興した教義を、後の人々が伝えていくよう
に、百丈の法席は四海の龍象に受け継がれる。真にこの仏法を挙揚しようとするならば、更に新たな
作略が必要となる。大智寺の住持は、その徳は丹青のように輝いている、いや丹青でも十分にたとえ
ることはできない。丹青は時がたつにつれて変わることがあるが、その徳は変わることがないから、
その姿は玉璧のように温厚であり、才気があふれているが人を傷つけることはない。住持は自ら工事
に参加し、法堂についていろいろ思いを巡らし、それを成した。大智寺の住持になったあくる年、造
営に没頭した。老朽化した堂を撤去し、高い楼閣を建てた。各層は楼閣を重ね麗しい色彩を施し、雄
峰絶勝の地に冠す。壮麗さにおいては結綺、臨春両閣も遜色あり 138、巍峨たる様は太形山、王屋山を
しのぐほど 139。地は洪都に属し、その風景を訪ねれば恰も滕王閣序で描かれているとおり 140。山道は
天の川にまで続くほどで、
(遙か遠くを見渡せるので)左界 141を望むには張騫の船を待つ必要もない 142。
手で星を掴め 143、肩を太陽や月が通過するくらい高い。天下の師表
十八世にして中興し 144、上方の
霊蹤は五百年後の今なおきちんと残っている。当に獅子座に於いて獅子吼のような威厳のある説法を
すべく 145、野狐をその窟から助け出すべし 146。ここに住持の業績を述べた後、法堂の周囲の眺望を歌
おう。ああ、目を東に向ければ、迦葉峯は高く大空をさしている。雨が晴れ煙が消えた景色は本当に
すばらしく、太陽は赤く光りながら円穹を上った。ああ、目を南に向ければ、仙花は咲き乱れ水は青
く襞を寄せている。俗駕が霊境にくることは無く、八面は車輪のように翠嵐を閉ざしている。ああ、
目を西に向ければ、雄嶺は雲を衝き空も低く感じられる。暁に起きると仏陀はかすかな月光の中に立
っており 147、霜狖の啼き声に断腸の思いをする。ああ、目を北に向ければ、天桂山は高くて、地勢を
極めている。銀河からの照り返しを受け、手中の山河が顔色を生む。ああ、目を上に向ければ、唐朝
の古刹を人々はみな仰ぐ。梵音は白雲中にかすかに聞こえ、鬼神も寺を守って次々と来る。ああ、目
を下のほうに向ければ、風俗はもとより正しくて雅やかである。山は冷え桑麻のたけること稍や遅く、
水は清く花竹は秀にして飾り気がない。上梁の後、伏して願うは、宗猷は時と偕に行い、綱要墜ちな
く、帝の徳は遠くまで致り能く教化し、長期にわたり繁栄し、五気が相い和し、六民が利を同くする
ことを。
中巌のこの上梁文は、全体の印象を一言でいうと、きわめて難解なものである。ただ、
じっくり読むと、大きく分けて三つの部分からなっていることが分かる。まず四六文で法
堂建立のいきさつを述べ、中盤では「児梁偉抛梁東(西南北上下)」という決まり文句で
始まる詩を六首挿入することによって、建造物の周囲の景色を謳っている。そして、最後
には「上梁之後、伏願~」という形で今後への祝福を述べている。
まず、四六文の部分について見よう。隔対四と単対九のあわせて十三対からなっている。
内容的には、(百丈)清規で知られる百丈禅師を賞揚するため、住持(東陽)が入院二年
目に法堂を新築し、飛閣を作り新しい禅師像を安置した、というもので、黄溍の「百丈山
大智寿聖寺天下師表閣記」148で書かれている内容と大体一致する。ただ、黄溍の記にある
百丈禅師の禅寺建立のいきさつ、文宗皇帝と東陽の関係などは、この上梁文では触れられ
ていない。これは製作年次の違いから来るところもあるが、(黄の記が六年後の一三三六
年の撰述で、師表閣完成以降のことも触れている)、文体の違いによるものも大きいだろ
う。つまり、黄の記はその建立のいきさつをはじめ、より詳細な情報を記録するのが目的
であるため、文章は淡々と叙事的な調子で綴られている。それに対して、中巌の上梁文は
43
儀式の雰囲気を盛り上げるのが狙いであるため、情報の量よりも、美文であることが要求
される。上梁の儀式で上梁文が朗読されるのであるが、その際聞き手たちは、建立のいき
さつをある程度知っている人がほとんどだったと思われる。よって、すでにみんなの知っ
ていることを如何に美文をもって述べるかに上梁文執筆の難しさがある。では、この要求
を達成するために、中巌はどのような工夫を凝らしたのか、見てみよう。
まず、文中に、多くの古典が巧みにちりばめられ、表現の効果が高められている。たと
えば、その書き出しの隔対をみよう。大智寺の創建者百丈禅師を讃える内容であるが、
「異
149
則貉無則禽」と揚雄『法言』の言句の借用をもって始めている 。禅宗史上百丈禅師が最
初に制定した清規を揚雄のいう礼楽に比定し、それがなければ、あるいは間違っていれば、
貉や禽になってしまう、つまり本物の禅院でなくなると述べて、いうことによって清規の
重要性を強調している。揚雄は中巌が自らの理想像とする人物である(本章第四節で詳述)
が、この書き出しで揚雄の語句を借りているのは中巌の揚雄尊崇の念から来ていると考え
られるが、内容的にもその場面にぴったりしている。清規の制定は百丈禅師の最大の功績
で、それを賞賛するのはつまり禅師に対する賞賛である。続いて、下半対では百丈の禅が
人的にも連綿と続いていることを述べている。このように冒頭の一対で、法堂(師表閣)
再建の目的、重要性また可能性を事、人の両面から説明しているのである。
隔対の書き出しの後、「要看真正挙揚、更須斬新作略」と単対がきている。賞賛の対象
が法堂再建の推進者である東陽の人となりへと推移する。「上方主人」以降がそれに当た
る。ここでも、また揚雄の表現を用いて書き出している。
「炳若之徳、丹青猶嫌久而有渝」
は『法言』君子篇の「或問、聖人之言、炳若丹青、有諸。曰、吁、是何言与、丹青初則炳、
久則渝、渝乎哉。
」
(或る者は聞いた。聖人の言葉は、丹青のように鮮やかだという言い方
ありますか。答えるには、いや、なんと言うことを言う。丹青は初めは鮮やかだが、時間
が経つにつれ色あせてしまう。褪せてしまうのじゃ。
)によっていることは明らかである。
東陽の言を聖人の言にたとえているのだ。次の「温然之姿、玉璧全類廉而不劌」は『礼記』
や『老子』などに用法があり、行いが温厚であることを述べている 150。このように、東陽
の人柄に最上級の賛辞を送っている。この表現も、東陽への個人的敬服から来ているので
あるが、場を盛り上げるのが役割である上梁文の必要性からいっても適切な表現でもある
のだ。
このように故実を使用する部分もある一方、、比較的平易な言葉を用いている部分もあ
る。たとえば、「来董精藍之明年、屡営幹楨以愛日、撤去此堂弊、馴致其棟隆、層以飛閣
流丹、冠于雄峰絶勝」、この三対は形の上で、きれいな対になっているだけではなく、実
際に朗読すれば散文的な自然なリズム感を備えている。このような点にも中巌の、中国語
を自由自在に駆使する語学力の高さと文章のうまさが感じられる。
次に、中盤の部分を見よう。
黄溍の「百丈山大智寿聖寺天下師表閣記」でわずか「山勢斗抜」(山は険しく聳えてい
る)
「岡巒首尾起伏」
(山並み続く)と描かれている地形を、中巌は師表閣を中心に東南西
北の四方向を見渡した風景として、それぞれに異なる雰囲気をかもし出している。まず、
東の点景として、雨後の霧が晴れ、朝日が光を放ちながら大空に昇ってくる景色を描いて
いる。希望に満ちた、すがすがしい感触である。南の景色の特徴は豊かな色彩にある。山
は翠嵐、水は藍色、更に水辺に咲き誇るさまざまな野花、まさに霊境そのものである。第
三首(西)で雄嶺というのは雄大な山という意味を持つと同時に、百丈山の主峰が大雄山
であるため、具体的な地名を盛り込んでいると思われる。同じ山の高いことを書いている
が、一首目では山が空を衝くと細長さを強調しているのと違い、この三首目では、空が低
44
く感じると書くことによって、先の二首の明るいトーンから一変して圧迫感が付加されて
いる。その圧迫感が文末には更に進化し、猿鳴(狖は猿の一種)という漢詩では「断腸」
の思いを描く代表的なイメージでもって締めくくられ、わびしい風景が展開される。四首
目(北側の景色)では三首目の沈んだ雰囲気からぬけて、天の川から反射された天の光を
受けて山河大地が光彩を放つと謳うことによって、明るいトーンに戻っている。
このように変化に富んだ自然風景の描写と比べると、禅寺の存在、人々の平和な暮らし
ぶりを描いている五、六首(梁上、梁下)の描写は平坦であるが、禅寺の悠久な歴史や周
辺の庶民の長閑な生活ぶりを余裕をもって描き出し、高揚した描写のあとに、リラックス
感を与えているといえる。
前半の四六文と比べると、六首の写景詩ではさほど故実を援用していないように見える。
四首目の北方の景色を歌う中に、
『詩経』大雅「雲漢」の「倬彼雲漢、昭回于天」
(銀河よ
高くて遠い、光が天から照りかえってきている)を踏まえている語句があるのみである。
しかし、本当に依拠するものがないかというと、そうではない。たとえば、二首目の南方
の景色を描く「仙花簇錦水挼藍、渾無俗駕到霊境、八面車輪鏁翠嵐」という三句は、典故
など調べなくても、ただ字面どおりに読むだけでも意味は取れるが、よく調べると、これ
は黄庭堅の「訴衷情」
(心中を告白する)にある「山溌黛、水挼藍、翠相攙」
(山は青黒い
眉墨でかけられ、水は藍草で染められ、ヒスイのような緑色でかき混ぜられている)を踏
まえていることが分かる。水挼藍という表現の一致があるのみではなく、水も山も緑で渾
然としているイメージも一致する。しかし、そのままの踏襲ではない。黄の詩では「歌楼
酒旆、故故招人、権典青衫」(花町と酒屋の旗はひらひらと人を招いている。とりあえず
衣を質に出そう。)と続くことから分かるように、街中の人の心を迷わせる世俗的な風景
を詠んでいる。それに対して、中巌の詩に描かれているのは、俗人の来ない霊境(禅寺)
の美しい風景である。典拠を元の意味と違うイメージで用いるのは、この後の作品にも見
られるもので、中巌の詩風を考える上で重要な意味を持つ。詳しくは次節で再度触れる。
風景描写の後、最後に寺が長期にわたり繁栄することと同時に、帝徳の治世の長期にわ
たる興隆を願って、文章をしめくくっている。おそらく盛大な拍手を博したのではないか
と思われる。
文章力の習得、そしてその結果としての書記への抜擢が、中巌にとって中国留学の最大
の収穫の一つであったことは、帰国後自他ともに認めるところであったようだ。たとえば、
帰国二年目に清拙正澄(一二七四~一三三九)から贈られた「中巌月書記、自百丈東陽和
尚会中掌翰墨還郷、過余、文気逼人、可敬、茲欲省覲円覚東明老師、書此以贈」(中巌月
書記は、百丈山東陽和尚の会下で文章係の書記を務めてから日本に帰ってきて、私を訪ね
てきた。その文章は威勢がよく、尊敬すべきである。円覚寺の東明老師の所へ報告に帰っ
ていくので、この詩を書いて餞別とする)という詩がその証拠になろう 151。清拙は中国で
も当時屈指とされた禅僧で、一三二六年五十三歳のとき、日本に招かれ、のち永源寺開山
の寂室元光らとともに来朝し、建長寺をはじめ、京都、鎌倉の諸禅寺に歴住し、日本の禅
林に多大な影響を与えた人物として知られる。この詩題からも窺えるように、中巌の七年
近くの留学経験の中で、清拙が特筆したのは百丈東陽和尚会中で翰墨を掌った(書記にな
る)ことであり、またその文才のすばらしいことである。上述した上梁文から見て、中巌
は清拙のこの評価に十分値するのである 152。
二
金華智者寺における文学活動
至順元年(一三三○)冬至、中巌は書記として秉拂を勤めた大智寺を離れた。その翌年
45
の春に金華に到着し、双林寺と智者寺の二ヶ所で一年間を過ごした。この金華訪問のきっ
かけは『文明軒雑談』三八七条の記述によれば、東陽の指示によるものであることが分か
る。
(原文)
先師東陽(徳煇)在婺、修葺九龍寺。住百丈明年、以予愛竹、故意欲使卜居於彼、作詩為寄看院者
云、去歳畬田想有秋、山中数口可無憂、更須繞屋多栽竹、待我帰来翠満楼。
(現代語訳)
先師の東陽徳煇が金華にいた時、九龍寺を修復した。師が百丈に住した翌年のことである。私が竹
を愛していたので、私を九龍寺に卜居させようとして、留守僧に寄せるという詩を作って、
「去歳の
田畑はもう実り、山の者たちの食料は、心配する必要がないだろう、建物の周りに竹をたくさん植
えて、我(東陽)が帰るころに翠があふれるように」と言った。
当時、日本の留学僧は名の知られた高僧を目当てに各寺を訪問するのが一般的であった。
当時、金華にはいわゆる有名な禅僧はなく、中巌のほかに日本人僧の足跡は確認されてい
ない。では、外国人である中巌を書記に任命したほど、その才能を高く評価した東陽はな
ぜ中巌の次の修行先に金華を選んだのだろうか。
杭州と西北を隣接し、浙江省の中央に位置する金華は、今日では江南の一小都市に過ぎ
ないが、元代では婺州路の官庁所在地であった。それと同時に元代の理学の最も重要な一
流派は金華学派であり、江南文化の中心地の一つでもあった。禅宗においては、中巌が一
三三一年秋から半年にわたって掛搭した智者寺は、梁の武帝の時代に建立された名刹で、
金華城の西門から一五里ほど離れた名勝地、北山の麓に位置している。元代の同寺の状況
についてみると、大慧派の雲屋自閑 153が、元初に同寺に住して以来、地元文人と盛んに交
流を行う伝統が保たれていた。雲屋時代に建てられた建物の二老亭と草堂は中巌が滞在し
た時も、依然として文人との交流の場として利用されていた 154。また東陽本人も、智者寺
で盛んに文人たちと文学交流を行った様子が、地元文人の詩作によって窺えることは前に
触れたとおりである。
三八七条にある九龍寺の位置については確認できなかったが、百丈山で書記就任・秉払
執行によって、禅僧としての中巌の悟入を認めた後、金華において文人との交流を含めた
大慧派の伝統ある文学的雰囲気を中巌に経験させようというのが、東陽の中巌に金華行き
をすすめた重要な意図の一つではなかろうか。はたして、中巌は同地の名刹である智者寺
で、東陽の弟子たちと対等に文学交流をしただけでなく、当時一流の文人薩天錫に出会い、
詩作に磨きをかける機会を得たのである 155。
智者寺に関する回想は『自歴譜』をはじめ、
『藤陰瑣細集』
(三六二・三六三条)
、
『文明
軒雑談』(三七二・三七三・三七五・三七六・三八七・四四九条)の併せて九ヶ所がみら
れる。なかでも、晩年建仁寺の塔頭妙喜世界で執筆した『文明軒雑談』の三七三条と三七
五条は、彼の当時の生活風景を如実に伝えているだけでなく、中巌の懐旧の念がしみじみ
と読み取れる二条である。
まず、三七五条をとりあげる。
(原文)
智者寺、入草堂、山半、有二老亭、雲屋翁所構、名公巨儒、風流人才、来遊於此、無虚日。賀照磨
九成・薩文林天錫、以暇日為宴、賀公賦五言八句、天錫和其韻。酒罷呼荼、寺之宿衲江湖、召而集
之、皆令和韻。賢一初為首座、推出予云、斯僧乃外国人也、請渠和一首。諸外郎令史、持紙逼吾。
46
不獲已作一篇、当時只図卓成、不労経営、故今尽忘、其中一聯云、二老亭前会、三生石上心、薩天
錫甚喜、且嘆遠来訪道之志、由是久記此両句也。
(現代語訳)
智者寺の草堂を過ぎると、山腹に雲屋翁が建てた二老亭という建物があり、名公巨儒や風流才人が
毎日のように遊びに来ていた。ある時、賀九成と薩天錫とがこの亭で宴を開き、賀公が五言律詩を
作り、天錫がその韻に和した。酒宴が終って茶席となると、寺内の禅僧を呼び集めて和韻させた。
その時、首座の賢一初が私を推して、
「この僧は外国人です。一首作らせてはどうでしょう」と言っ
たので、外郎令史が紙を出して私に迫った。私はやむを得ず一篇を作ったのだが、その時はよい作
品を作ることだけを心がけ、書きとどめようとまで思いが至らなかったので、今はもうどんな作品
だったか忘れてしまった。ただその中の、
「二老亭前会
三生石上心」という一聯には、薩天錫が大
いに気に入り、さらに遠く求道の為に渡航している私の大志に感嘆したため、この二句だけは憶え
ている。
この回想では、中巌はまず冒頭で風流人士が智者寺に訪れてくる盛況を簡潔に記した後、
自らも列席し、和韻した詩が薩天錫に賞賛された時の様子を回想している。薩天錫は薩都
刺の字であり、元代随一の詩人といわれているにもかかわらず、生没年については諸説が
あり、生涯も不明なところが多い 156。その詩文集『雁門集』は日本でも愛好され、室町時
代初期に早くも翻刻されている。この時の智者寺訪問についてが他に資料が残っていない
が、薩都刺と笑隠大訢(中巌の法叔、東陽の法弟)の間で詩の唱和を行ったことから考え
る 157と、大慧派と交渉があったことは確実である。おそらく何かの機会で金華に来た際に
智者寺を訪れたのだろう。彼も若い時には行商人などをして、苦労した経験があるので、
異国人である中巌の敬虔な求道の姿を見て、あるいは自分の若い時期を思い起こしたのか
もしれない。そこでその詩作とともに、はるばる海を渡り求道せんとする姿勢にも感心し
たのであろう。
称賛された二句についてみれば、眼前の地名の二老亭に同じく数字の入っている仏教故
「会」に「心」というように、き
事の地名「三生石」158を対応させ、更に「前」に「上」、
れいな対句を為している。意味は、「今このように二老亭の前でお会いするのも、三生石
のような因縁があってのこと」ということであろう。即興で作った相手に対する懇意を表
し、場を盛り上げる詩としては上出来といえよう。
このように、中国一流の文人から賞賛を得ることができるような完成度の高い詩を作れ
たのは、中巌に普段からの文学に対する研鑽があったことは想像に難くない。これを裏付
ける資料は、『文明軒雑談』三七三条である。韓愈の文章について弟子に質問されたこと
に触発されて思い出した話である。
(原文)
中正子、(中略)又養蒙北山。一日、枢要堂・琳荊山・儀則堂・照用堂、皆婺人也、同会荼於草堂。
儀云、凡文章詞語、有古今之異。然人在今而欲泝古典、苟無先儒音訓、則焉能読得之。如書殷盤・
周誥、詩之二雅、甚聱牙。漢唐以来、文稍可読也。予肯之。荊山、若言漢唐稍可読、按上偶有韓文
集無註者、信手揣出曹成王碑、使則堂読之。曹誅五畀、
(中略)十抽一推。儀読至此、口囁嚅而已。
琳乃強予。予辞以外国人、語音殊差。琳云、但分句逗、四声音分便了、若其字母微細之差、想非無
異矣。予把而読之。一座側聴、戸外亦有一了初、観此堂等諸老宿、立地切聞、掉舌而去、予今帰郷、
廃文字、嗜瞌睡、虚度時光、三十余年矣。比偶徒弟携其文有注者、為問。披閲則句逗亦不分、音訓
亦不識。廃学寒竽不鳴、可知。不亦可愍哉。
47
(現代語訳)
私は北山の智者寺に寓居していた。ある日、金華出身の枢要堂・琳荊山・儀則堂・照用堂らと草堂
でお茶を飲んでいた。儀則堂は「文章や語彙は古今では異なる。今の人は古典を読みたいものの、
先儒の音注なしでは、どうして読むことができようか。たとえば、
『書経』殷盤・周誥や『詩経』の
大雅・小雅は非常に読みにくい。漢唐以降のものなら少しは読める」と言った。私はこれに賛成し
た。これを聞いた琳荊山は「もし、漢唐の文章が少し読めるというのだったら、」と言い、たまたま
机上に註のない韓愈の文集がおいてあったので、
「曹成王碑」という文章を無造作に選び則堂に読ま
せた。
「(負ければ)その曹まで誅殺し、戦勝品があればその伍にまで褒美をやる。
(中略)未成年は
十人から一人を兵士に徴兵する」と、儀はここまでしか読めず、あと口をもぐもぐさせるだけだっ
た。琳はむりやり私に読ませた。私は外国人であるので発音が悪いからと断ったが、琳は「ただ句
読を切り、四声が分かればいい。細かい音韻の違いはあるに違いないが、(気にしない)と言った。
私は本を持って読み上げた。一座の人たちは耳をそば立てて聞いた。門外には、一了初、観此堂な
どの老宿がいて、立ったままよく聞いた後、賛嘆して去っていった。帰国してから、勉学を怠り、
寝てばかりいて、時間を無駄に過ごしたこと三十余年。このごろ、たまたま弟子が注のある韓文を
持ってきて質問したが、開いて見ると、句読も分けられなく、読みも分からなかった。長い間吹か
ないと竽の音がでなくなるのと同じように、学問も怠ると忘れてしまうものだ。そのとおりである。
また哀れなことではあるまいか。
(廃学寒竽不鳴:蘇軾「将往終南和子由見寄」に「我今廃学如寒竽、久不吹之渋欲无。」とある。
)
茶を楽しみながら、文学や詩について語りあう風景は禅宗寺院であることを忘れさせる
ほどであり、文人サロンといった感さえうかがわれる。回想とは言え、智者寺にいた中巌
の生活とかれを取り巻く友好的で愉快な雰囲気を、臨場感をもって伝えてくれる。そして、
最後のところで、今の自分との対比によって、智者寺での生活に対する懐かしさを一層明
らかにしている。
儀則堂と琳荊山は、二人とも東陽の弟子で、かつ中巌と同じ年である 159。琳荊山との付
き合いについては、中巌は『藤陰瑣細集』三六三条でも回想している。琳は金華出身の書
道家の書いた韓愈詩の墨跡を所有していた。そして、その墨蹟について、中巌といろいろ
と話あったのである 160。なお、琳荊山に書き与えた金華文人の詩が二首見つかり、彼は地
元で名の知られた詩人と書道家であったことがわかる 161。これは、中巌の記述(東陽の弟
子、書道の名手)が事実であることを裏付けるとともに、彼を取り巻く智者寺の文化水準
がかなり高いものであったことを窺わせる。
そして、この回想で最も興味深いことは韓愈の文集が智者寺の僧侶達に読まれ、しかも
中巌も読破して、それに通じていたことである。『藤陰瑣細集』の三六三条にも、韓愈が
登場してくることと合わせて考えれば、中巌は智者寺において韓愈に親しんでいたことは
明らかである。韓愈こそ、中巌が帰国後初期に書いた一連の文章でよく引用される人物で
ある。詳しくは本章第四節で述べる。
以上、回想を中心に中巌の智者寺での生活を復元してみたが、以下中巌が智者寺で作成
した作品を取り扱い、そこに含まれている情報が後年の回想と一致するかどうか、そして
当時の中巌がどの程度の文章力を持ち合わせていたのかについて検討する。
現存作品のうち、智者寺で作成されたと確定されるものは、詩一首、疏一篇(
「江湖請
傑独峰住智者」)、祭文四篇(
「祭智者大道和尚」代両序、代耆旧、代辨事人、代僧堂)の
併せて六篇である。中国留学期間中のものでは最も多い 162。しかも、江湖疏と祭文という
公的な文章が五篇も残っていることから、百丈山時代に続いて、中巌の文章力が公的に評
48
価され、寺院の事務にも積極的にかかわっていたと推測される。このように、中巌は智者
寺において、正式な職についた記述はみられないものの、大智寺時代に続いてその文章能
力が高く評価され、またそれを発揮して、寺院運営にも参加していたものと思われる。
ここで、まず、
「江湖請傑独峰住智者」を紹介しよう。
(原文)
(書き下し)
江湖請傑独峯住智者疏
江湖
祇樹四圍而涵毓、芙蓉之秀泉甘草香
祇樹 四圍して涵毓し、芙蓉の秀たること、泉甘く草香る
介石二世而生成
木瓜之苗花開果結① 介石の二世にして生成し
境因人勝
道與時行
某人
傑独峯の智者に住するを請うの疏
木瓜の苗
花開き果結ぶ
境は人に因りて勝り
②
道は時とともに行わる
縉雲流英
某人
桂海珍貨③
縉雲の流英にして
桂海の珍貨なり
大観物無不可
大観にして 物
可ならざる 無く
小心事必能成④
小心にして 事
必ず能く成す
月印江心千波分光
誰擯三処度夏
月
江心に印し、千波
光を分ち、
誰か擯たん三処夏を度ぐを
雷轟壑上双澗傳響
不消一默酬僧⑤
雷
壑上に轟き、双澗
響を傳え
一默して僧に酬うを消いず
霧捲南山、豹変宜呈牙爪
霧
南山に捲くも、豹変して牙爪を呈す宜く
天高北阜、鴻漸毋惜羽毛⑥
天
北阜高くなるも、鴻漸して羽毛を惜むこと毋かれ
吾守鴎盟
吾は鴎盟を守り
公執牛耳⑦
公は牛耳を執らん
(現代語訳)天下の僧が傑独峯に智者寺に住することを願う疏
祇樹が周囲を囲い青々と茂っており、芙蓉峰の景色は秀麗で、泉水は甘く、草木は香る。介石智朋
の弟子がここに育ち、大慧宗杲の児孫たちが立派な禅僧に成長している。優れた人物によって、景
色は美しくなり、世の推移とともに道は行われる。あなたは雲氏出自の素晴らしい名を伝え、南海
の珍宝のような貴き人。見識が広大で、できない事はなく、細やかな心を持ち、事は必ず成し遂げ
られる。月光、ちょうど河の中央にかかり、さざ波は光を映すが、神通無尽な文殊のようなあなた
を誰が超えることができようか。谷の上でとどろき、谷間に雷鳴を伝える雷は、黙って僧に応対す
る維摩に及ばない。身の潔白を守り、南山に隠れていた豹も、才能を現すだろう。大空は高く北の
丘はそそりたっていても、大雁なる君、雄飛して、羽毛を惜しむことなかれ。我、鴎盟を守り、君
と行いを共にす。君、盟主となりて、この寺を保ちたまえ。
江湖疏とは新しい住持が入寺する際に読まれる入寺疏の一つであり、実際の儀式に当た
っては上の蔵主に読ませた。金華で中巌は正式な役職にはついていなかったが、このよう
な公的な文章を担当したことからみて、百丈山東陽のもとで認められていた中巌の文章力
が、金華でも高く評価され続けていたことが分かる。
その具体的な内容をみると、隔対三対と単対四対からなるそれほど長くない四六文であ
るが、智者寺の紹介(対①) 163、新住持の出自(対①)、新住持の人柄と禅風の宣揚(対
③④⑤⑥)
、新住持への協力の表明(対⑦)といった疏の必要条件をきちんと備えており、
しかも禅関係の故事や古典文学の知識をふんだんに盛り込んだ美文となっている。
禅関係の故事という点で言えば、たとえば、「誰擯三処度夏」で踏まえているのは文殊の
49
公案である。禁足すべき三ヶ月の安居中に、文殊は魔宮・長者の居宅・媱房と一ヶ月ずつ
わたり歩いて、解制の日に仏のもとに帰ってきた。迦葉は文殊の行いを非としたが、仏は
文殊を高く評価したという話である。『大方広宝篋経』という経典が元になっているが、
禅宗では多くの禅師によって取り上げられている有名な公案である。文殊の自由無碍、闊
達自在を示す公案として読む人と、仏の弟子のなかでも、文殊は迦葉などをしのぎ最も優
れていると読む人と、理解が二つに分かれる箇所である。「月印江心千波分光」という前
半の句とあわせて考えると、中巌はここで傑独峯を師の弟子のうちもっともすばらしい弟
子だとたたえていることが分かる。つまり、弟子たち(千波)はそれぞれ師の教え(光)
を受けているが、傑独峯はそのなかでも、文殊が迦葉をしのぐようにほかの弟子たちの追
随を許さないものであると評価している。傑独峯については、ほかに史料が残っていない
ため、詳しいことはわからないが、「介石二世而生成、木瓜之苗花開果結」とあるこの疏
の内容によれば、大慧派の僧で、介石の二世下にあたる人であることが分かる。中巌の師
である東陽とおなじ世代になる。つまり、中巌にとって師叔か師伯にあたる人物である。
その出住にあたって、中巌は最大級の賛辞を送っているのである。
また、「誰擯三処度夏」と対になっている「不消一默酬僧」は維摩の故事を踏まえてい
る。維摩一默はもともと『維摩経』巻九「入不二法門品」にある話で、維摩が真実の法は
言説をもっては表現できないことを、一默をもって示したとする。これも古来禅門の公案
として用いられ、なかでも円悟克勤の『碧岩録』八四則で取り上げられ、
「維摩一默如雷」
(維摩の沈黙は雷のようである)と喧伝された。中巌も『碧岩録』の語を踏まえていると
思われるが、
「如雷」ではなく、いかなる雷も「一默」に及ばないと、
「一默」であること
の意味をさらに強調している。維摩をもってきたのは、当然傑独峰を褒め称えるためであ
るが、やはりその宗風には「一默」に通じるところがあるからであろう。傑独峰について
ほかに資料が残っていない理由のひとつもそこにあるのかもしれない。つまり、傑独峰は
言説の無力さを体得している傑独峰は、文字を残すことに意を持たなかった人だったのだ
ろう。
禅関係の話だけではなく、同疏には中国の古典文学の知識もみごとに織り込まれている。
たとえば、傑独峰に出住するように勧める部分で、「霧捲南山、豹変宜呈牙爪」と詠む。
「豹変」という言葉はもともと『易』革卦上六象伝の「君子豹変、其文蔚也」(君子が自
己を変革するのは、あたかも豹の毛が季節につれて抜け変わり、文様が美しくなるように、
鮮やかである)に由来する。君子は時勢に適応して自分を変えるべきという意味であるが、
「南山」と「豹」があわせて使われる場合は隠者のイメージとして読まれることが多い。
たとえば、南朝斉謝眺の「之宣城郡出新林浦向板橋」(宣城郡に行き新林浦に出て板橋に
向かう)にある「雖无玄豹姿、終隠南山霧」(赤みがかった黒豹のような美しい文様はも
っていないが、其れに真似て、霧の立ち込めた南山に隠れ、害から身を守る)や、宋黄庭
堅「次韵郭右曹」
(郭右曹に次韵する)にある「秋水寒沙魚得計、南山濃霧豹成文」
(秋の
水沙が寒いと魚は取られずに肥える。南山の霧が濃いと豹は見つからずに綺麗な文様をな
す)の詩句には、豹と南山と霧の組み合わせが見られるが、いずれも世から隠れるものと
いう使いかたである。しかしこのような従来の使い方と違い、中巌は「爪牙」を示すべき
だといって、「豹と南山と霧」の組み合わせを、「出世すべき」という方向にもっていく。
典拠のある語彙を使っていても、それに元の意味と違う新しいイメージを賦与する書き方
は、前述した百丈山で書いた「上梁文」でも見られ、次に取り上げる「和儀則堂韻謝琳荊
山諸兄見留」にも見られるものである。
「和儀則堂韻謝琳荊山諸兄見留」は帰国を決めた中巌が智者寺の友人たちに書き与えた
惜別詩である。上記の疏と違い、私的な詩作であるが、百句からなる長詩で、渾身の力を
50
こめて書かれたものと思われる。智者寺における中巌の生活と心情を吐露しているだけで
なく、留学経験全体についての総括でもある。不羈の性格のため、世間から入れられない
という自画像から書き起こし、渡元の決心、道中のこと、中国での修行の様子を克明に描
き、最後に帰国の決心で締めくくっている。実体験に基づいたリアルな描写によって、写
実的な創作態度を窺わせると同時に、
『史記』や『荘子』
『列子』の古典や江淹、陶潜、蘇
164
軾などの詩 に由来する故事をふまえながら、それを適切に自らの詩中にとけ馴染ませて
おり、一部の五山僧の漢詩に見られるような古典引用の際のぎこちなさは全く見られない。
以下金華生活を直接描く最後の二四句に基づいて、具体的に分析してみる。
(原文)
(書き下し)
久聞金華地、風俗淳応嬉
久しく聞く
振策来霊源、一見如故知
策を振りて霊源に来れば、一見して故知の如し
淙々玉澗流、青青祇樹囲
淙々たり
修竹琅玕色、寒梅氷雪肌
修竹は琅玕の色、寒梅は氷雪の肌
良朋寧易得、庶乎従爾思
良朋は寧ぞ得易からん、爾の思ひに従はんことを庶ふ
物我倶相忘、引得幽禽儀
物と我と倶に相忘れ、幽禽の儀を引得たり
勝境不忍去、人情難別離
勝境は去るに忍ばず、人情は別離し難し
無奈田園蕪、胡為乎不帰
田園の蕪れたるを奈んともする無し、胡為れぞ帰らざる
況復枌陰人、勧我多云為
況復んや枌陰の人、我に勧めて多く云為するをや
独因諸君厚、且緩吾行期
独り諸君の厚きに因りて、且つは吾が行期を緩くす
吾行時不拘、所欲是便宜
吾の行は時に拘らず、欲する所は是れ便宜
雨余穀江満、一舸軽如飛
雨余
金華の地、風俗淳くして応に嬉ぶべきことを
玉澗の流れ、青青たり祇樹の囲む
穀江は満ちて、一舸
軽きこと飛ぶが如し
(現代語訳)
この金華の地は風俗は淳く、気持ちのよいところと前から聞いていた。杖をふるっては、霊源(寺
院境内の風光明媚の地に雅名をつけたところを境致というが、霊源とは智者寺の境致の一つである)
にやって来た。一目見て、昔なじみの土地だった。さらさらと美しい渓流が流れ、青々と樹木に囲
まれている。長い竹は玉のような色をしており、寒中に咲く梅は氷雪のように潔白である。良き友
はどうして得やすかろうか。あなた方の思いに従おうと願った。物も私も全て忘れて、奥深く棲む
鳥と戯れる。この勝景は去るに忍びないし、暖かい人情はわかれがたいものがある。しかし、田園
が荒廃しているので、帰らないわけにはいかない。まして、同郷の人は私にいろいろ勧める。諸兄
の厚情によって、暫く出発を遅らせる私は出発の時期にはこだわらないが、順調な航海を望むのみ。
雨上がりに、穀江が増水した時、船足は飛ぶように速いであろう。
智者寺の生活を去りがたい気持と共に、早く帰国して抱負を実現したいという気持が強
く読みとれる二四句である。百丈山の上梁文に含まれている写景詩四首と比べると、言葉
遣いは平易で分かりやすいことは明らかである。
一~四句では、智者寺を訪れ、しかも寺の景色になにか旧知のように心ひかれると述べ
ることによって、ここで多くの知己に恵まれたということも、同時に暗示している。とく
に注目されるのは、金華を訪れる理由として、その風俗のすばらしいことを聞いていたか
らとしていることで、後年の東陽推薦の回想を連想させる。
第五~八句は智者寺の景色を具体的に描く。まず、水あり木々ありという心和む自然に
恵まれた景色の全体像を描く。「玉澗」(玉色の渓流)や「祇樹」(祇園精舎の樹木、寺院
を表す言葉として使用されることが多い)と表現することによって、俗世間とは違う別世
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界の雰囲気を創出している。また、淙々という擬声語の使用も効いている。音を描写する
ことによって、一層回りの静かさを際立たせると同時に、静謐の中に生気を感じさせてい
る。続いて「竹」と「梅」という二種類の木を点景として描写することによって、前の二
句で呈示した俗世間から離れた清浄な別世界という、この寺の雰囲気が更に強められてい
る。竹と梅に共通して流れる美意識は艶冶にふれることのない高潔な風趣であり、この持
ち味が酷寒を堪え忍ぶ清雅な営みと相俟って、文人が庶幾する理想の実践生活態度と一致
することになった。そのため、古くから文人の愛好する所となり、それに自らの姿を託す
ことがしばしばなされた。竹梅は唐代から菊蘭と共に花の四君子と称されるようになった
ことがそれを物語っている。ここでは中巌が竹を自分に見立て、梅に友人たちを擬して詠
んでいるのであろう。
この写景部分でもう一つ注目されるところは、四句ともに色彩語が鏤められていること
である。この特徴は前掲上梁文で景色を歌う詩にも見られたが、ただ、上梁文では多くの
色彩を読み込み、絢爛さを詠っているのに対し、ここでは緑と白という組み合わせて、優
雅なさわやかさを強調している。玉、青々、琅玕は三者ともグリーン系の色であるが、玉
澗という時は、むしろ清澄で時たま日差しを反射してきらきら光っている様子を表してい
ると思われる。青々とは繁っている様子を表し、琅玕とは竹の色を修飾するときにのみ用
いる色彩語である。そして四句目で寒梅を「氷雪肌」と言うことによって、白梅を意味し
ていると同時に、同語が『荘子』内篇第一「逍遥遊篇」で藐姑山の仙人を修飾する用例があ
るように 165、世塵に汚されない潔白さをも暗示している。
第九句から、詩は写景から智者寺での生活の描写へと替わっていく。写景部分では、淡々
とした筆調の中に、詩人の景色に対する愛翫の気持ちを漂わせているのに対して、良き友
(言うまでもなく琳荊山らのことを指していると思われる)は得難いと、直接感情を述べ
る表現手法を使っているが、良き友達が中巌を引き留めてともに営もうとしている(営ん
でいたためでもある)生活はまさに写景部分で描き出されている超俗の別世界に見合った
ものであった。それを後年の回想文とは違って、ここで具体的な出来事ではなく、抽象的
にその境涯を第十一・十二句で述べている。この二句は『文選』梁詩卷四に収録されてい
る江淹「雑体詩」一八「張廷尉綽雑述」にある「物我倶懐忘、可以狎鴎鳥」(物我ともに
忘れて、鴎鳥と戯れることができた)との二句を踏まえていると思われる。鴎鳥について
は、道教的色彩を有する語で、『列子』黄帝篇に典故があり、人間が欲望を持っていない
時にだけ、近寄ってくる鳥とされている 166。中巌は鴎鳥の代わりに「幽禽」という表現を
使用している。幽禽という語は、早くも唐詩において禅院の風景として詠まれる例が見ら
れるだけでなく 167、同じく渡元僧で、中巌の先輩に当たる雪村友梅の詩中にも用例が見ら
れ、禅とかかわりがある 168。このように、「幽禽」という語の使用により、江淹詩におけ
る道教的色彩を払拭し、良き友とともに、煩悩を忘れ無心になって、修行し幽居の楽しみ
を味わった自らの心情を吐露した。
以上の八句を受けて、続く二句では、中巌は智者寺を去りがたい理由を美しい景色と暖
かい人情にあると自ら総括している。なかでも、「情」の方が中巌にとって、一生忘れる
ことのないほど大切な思い出になったことは、晩年になって懐かしく回想されることから
窺える。孤児として育てられ、日本における受業師東明慧日との機縁がかなわず、中国に
渡ってからも多くの艱難辛苦を嘗めた後に出会えた対等の友情は、百丈山で東陽に印可さ
れた喜びと同様に中巌の心を暖めただけでなく、彼に自信を与えることにもなったと思わ
れる。その現れが詩の最後の十句で金華(ひいては中国)を離れる理由を述べたところに
見える。
留学初期には言葉の不自由のため、帰国の念を起こしたことのある中巌だったが、今は
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帰国の理由はもはやそのような消極的なことではなく、「故郷の田園が荒れている」こと
にあるとする。これは陶潜(陶淵明)「帰去来辞」の「田園将蕪胡不帰」を踏まえている
と思われる 169。しかし、陶淵明は田園に帰ることによって、遁世の決意を示すのに対して、
中巌はむしろこれによって逆の「出世」の決心を示している。これを同詩の前半で、中国
に上陸したときに、同船した貿易商人と別れたときに述べた「誓言得道後 帰国化庶黎」
(誓っていうには、道を得たら、国に帰って多くの民衆を教化しましょう)とあわせ考え
ると、この時点で中巌は留学の目的が達成できたと判断したことが分かる。中国で学んだ
ものを日本に持ち帰り、日本社会に貢献しようという決心をこの時中巌は強く持っていた
のである。
では、中国で何を学んだかというと、第一章で述べた禅のほかに、本節で見てきた四六
文や漢詩の作成能力の習得、揚雄や韓愈などの儒者への関心の高さなども含まれることに
なるだろう。以下、第二節以降で、帰国後の中巌の文学活動について考察しよう。
また、中国で書いた作品三篇を読んできたが、いずれの場合も、古い典故に違う意味を
付与する使い方が見られたが、この傾向は帰国後の作品にも見られること、またそれは実
は黄庭堅を派祖とする江西詩派の特徴と一致するものであることについては、次節で再度
触れることにしよう。
第二節
帰国後の創作活動-夢窓派との交渉の実態
三十一歳で帰国してから、七十五歳で示寂するまでの間、中巌は実に多くの物を書き残
した。これらの作品を創作動機という点から分類する場合、ジャンルに関係なく、いわゆ
る応酬作と言えるものが多数存在している。ここでは私的な交流か、公的な必要からかを
問わず、誰か特定の個人のために書いたものをここで応酬作として考える。応酬作という
と、一般的には文学作品としての価値が劣るのではないかと思われがちであるが、中巌の
場合は必ずしもそうではない。量的に多いのみではなく、質的にも高いものが多い。中巌
は生涯にわたって、大勢の道俗と交渉し、応酬作の数は多く存在するが、ここでは、帰国
後の彼の人間関係で特に重要だった夢窓派の人のために書いた作品を具体的に分析して
いきたい。それによって、中巌の文章の力の検証と同時に、中世禅林において公私ともに
漢文学がいかに重要であったかを明らかにしていきたい。
一 春屋に和した詩四首-詩風研究をかねて
第一章で触れたように、中巌が春屋のために書いた作品は、詩四首と疏一篇が現存する
が、まず、中巌が春屋に和した同韻の詩四首を取り上げよう。この四首は現存する中巌の
詩集『東海一漚集』には収録されておらず、『関東諸老遺藁』という書物に収録されてい
るため、今までほとんど注目されることはなかった。同書にある中巌の頌軸序によると、
一三五九年春に中巌が開山となった利根吉祥寺が諸山に列せられ、この時、春屋から祝賀
の偈が三首送られてきた。中巌が一首を酬いると、折り返し春屋妙葩や諸老の和韻が来て、
たちまち六二首となったので、義堂がそれを一幅の頌軸としたとある。中巌がまた自ら序
をしたためた。作品の数から、またメンバーから見ても、それは当時の禅林文壇における
一大盛事だったと思われる。頌軸そのものが現存していないため、これまで『関東諸老遺
藁』に収録されている中巌の序と四首しか知られていなかったが、当時の禅僧の現存文集
を通覧したところ、鉄舟徳済の文集には「春屋首座寄中巌西堂」という詩があり、押韻や
内容からみてこの時和韻した一首であることを確認できた。二人の交渉が同じく夢窓派の
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ほかの人々の目にどう映っているのかを知ることができるので、この詩の内容をまずみて
みよう。
(原文)
(書き下し)
春屋首座寄中巌西堂
春屋首座の中巌西堂に寄せる(に和す)
突兀青龍大吉祥
突兀たる青龍大吉祥
亀峯自是暎春光
亀峯是より春光を暎す
弾観塵土眼猶白
塵土を弾観するに、眼猶お白く
開発人天鬂已黄
人天を開発し、鬂已に黄し
法席十年居帝域
法席は十年
帝域に居し
詞源万丈激相陽
詞源は万丈
相陽に激す
更知妙喜児孫在
更に知る妙喜児孫在ることを
且得水雲過上方
且つ水雲を得て上方を過ぐるを
(現代語訳)
春屋首座の中巌西堂に寄せる詩に和韻する
高く切り立った青龍山にある吉祥寺の開山である中巌は、その人物はまさにその山のように高い。
天龍寺もそのおかげで春の光を映している。吉祥寺の昇格を聞いて喜びを申し上げ、かつその推挙
を願いたい人がたくさんいるが、それには中巌はただ白い目で睨む。中巌は一般人から法皇までを
相手に啓蒙をし、髪の毛は既に白くなっている。都で禅を教えて十年、鎌倉では文章を製し世を驚
かせている。大慧の法孫は今でも活躍し、当寺を訪れてくれていることを知る。
西堂とは他山の前住を尊敬した言い方である。中巌はこの時すでに十刹格の万寿寺住持
経験を持っているため、このように呼んだのだろう。春屋妙葩の肩書きは首座としている
が、中巌のいう雲居庵庵主と兼任しているのだろう。
青龍山吉祥寺は大友氏の寄進で中巌が開山で創建した上州利根にある寺である。第一句
は寺の雄大さを詠うと同時に中巌のことをも褒め称えているのだろう。また、諸山に列し
たのはまことにめでたいことであるという掛詞的な意味も込められているだろう。
第二句の亀峯は天龍寺を指しているが、中巌はその前年よりずっと天龍寺で客居してい
たので、中巌のこの吉祥(めでたいニュース)によって天龍寺も光彩をましたという意味
であろう。
続いての四句は主に中巌のことを褒め讃えていると思われる。まず、第三句では中国の
有名な故事を二つ組み合わせている。弾観塵土は『漢書』「王吉伝」にみえる話で、王吉
が高官についたのを聞くと、その友人の貢禹が冠の塵を払って、王の推挙を待ったという
内容である 170。眼猶白という故事は竹林七賢の一人である阮籍に由来する有名な故事で、
俗人を軽蔑するという意味であり、白が韻字であるから、それの入る故事を持ってきたの
だろう。この二つの故事をあわせると、めでたく出世の途上にある中巌の推挙を待ってい
る人が多いが、そのような人たちを中巌は白い目でみているだけであるという意味だろう
か。孤高の性格の持ち主として知られ、
「党理不党宗」
(理に従い宗派には従うわない)と
自ら宣言している中巌の人物像としてはふさわしいと思われる。
第四句の鬂已黄は第三句の眼猶白と対になっており、伝法のために苦労を重ねた中巌の
姿を謳っていると思われる。この時六十歳を迎えた中巌の髪の毛は実際にはもう白かった
かもしれないが、押韻の関係上、黄としたのだろう。なお、「開発人天」の「天」という
のは二年前に伏見殿で上皇を相手に講義をしたことを指しているのだろう。
第五句と第六句も対句である。帝域は相陽と対応し、京都と鎌倉をそれぞれ指している
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が、この二箇所は中巌のこれまでの主な活動拠点である。また、法席と詞源は、中巌の禅
僧としての行いと同時にその文学的才能をも褒め称えている。十年や万丈は概数で、とに
かく中巌の立派さを強調しているのだろう。
最後の二句には中巌の師承、さらに天龍寺の住持を尋ねにきたという中巌の来訪の目的
を盛り込みながら、「知」ということによって筆者自身がもう一度登場し、書き出しの内
容と呼応している。
この種の祝賀の際の押韻詩としては言いたいことをうまくまとめていると言えるが、全
体的にはさほど複雑な内容も修辞もなく、傑作というわけでもない。ただ第六句の内容は
注目に値する。文筆のうまい中巌像は夢窓なき後の夢窓派では、容認され、褒め称えられ
る対象になっていることが分かる。
では、この時点の中巌の文章力はいかほどのものであったか、『関東諸老遺藁』に収録
されている四首を具体的に読もう。
(原文)
(書き下し)
歳旦和雲居春屋
歳旦
雲居春屋に和す
亀龍麟鳳競呈祥
亀龍麟鳳
助発雲中仏頂光
雲中の仏頂光を発するを助く。
競いて祥を呈し、
白玉無瑕修愈白
白玉は瑕無く
黄金絶鉱煉増黄
黄金絶鉱は煉れば増ます黄。
色糸新織一機錦
色糸は新たに織る一機錦を、
交泰為迎三畫陽
交泰は為に迎う
芥室也知従齏室
芥室は也た齏室に従ふを知り、
枇杷奕葉化随方
枇杷奕葉は随方に化す。
修めば愈いよ白く、
三畫陽を。
(現代語訳)
天龍寺の俊秀が競って(吉祥寺)を祝ってくださり、雲に隠れていた仏頂光の輝きを引き立てる。
白玉のごとき瑕のない佳品は切磋をへてますますすばらしく、黄金の作品は琢磨を経てますます輝
く。色糸は新しい錦を織り、天地は三つの陽爻を迎える(めでたい正月になる)。芥室(春屋の室名)
は齏室によって命名されたことを知り、枇杷(春屋をさす)は代々相承し、諸方を教化するだろう。
この一首目の詩が表現の上で、最も目立つ工夫は三・四句である。一句の頭と末字に同
じ字を当てている。このような書き方は中国の漢詩でもあまり見られない形で(前の句の
末字を次の句の頭で使うという書き方はあるが)
、大胆かつ新奇な試みであるといえよう。
と同時に、文字の運用に関する自負をうかがわせている。文字を自由自在に駆使すること
への関心の高さを示すものに、最後の一句も挙げられる。妙葩と共通する音のあることか
ら枇杷をもって春屋を指しているという工夫であるが、おそらく先に枇杷というのを決め
ていて、後から句を考えたのではないかと思われる。
盛り込まれている故事をみよう。第六句と第七句の理解にそれぞれ儒学と禅関係の知識
が求められる。第六句の「交泰」は易経泰卦象伝に由来する言葉で、また三畫陽は泰卦の
形そのものを言っている。泰卦は一二月卦中、正月の卦であるので、ここで泰卦を歌うこ
とによって正月を迎えたことを言っているのである。
第七句では禅宗関係の故事を盛り込んでいる。芥室は春屋の室名で、その命名は百年前
の宋代の大慧派禅僧敬叟居簡の室名を真似たものである。敬叟居簡は無学祖元がその下で
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出家したこともあって、今の読者にとっては、故実の知識が必要となるが、当時において
は、一般的に知られている内容だったのかもしれない。
次に内容をみよう。詩全体は春屋及びその率いる夢窓派への賛辞となっている。一句目
の亀龍は天龍寺をさしている。天龍寺は夢窓派の拠点のひとつで、当時春屋は同寺内で夢
窓の塔頭を守っていたが、中巌もそこに仮住まいしていた。吉祥はかけ言葉的な使い方で、
中巌の吉祥寺出住を祝う皆の和韻詩のことをさしているのであろう。二句目の仏頂光は春
屋の詩をさしていると考えられる。この二句の意味はつまり、春屋の詩に和韻して天龍寺
の諸僧から祝賀の詩がたくさん来ていることを述べている。三四句では、それらの詩を金
銀にたとえてほめている。五句の錦もこれらの詩のすばらしいことを引き続き述べている
が、第六句では正月という時期を読み込んでいる。そして、第七句では春屋の室名の由来
を述べ、最後の第八句ではその一派の繁栄を願う内容となっている。第七句でわざわざ、
春屋の室名の由来を述べるのは、春屋の大慧派への傾倒を述べることによって、春屋と自
分との、共通点を強調したいためであろう。中巌は日本で大慧派の法系を伝える人である。
そのため、若いころ、迫害を受けたこともあったが、この時には大慧派の後継者という身
分は、彼を夢窓派という主流派の人たちと結びつける有力な橋となっていたのである。
春屋が室名を大慧派の人の室名をまねるほど、大慧派に対して強い関心を持ったのは、
おそらく、この時中国では大慧派が主流派となっていたからであろう。当時、夢窓派内部
で春屋を大慧に擬しようとする動きさえあった。春屋の語録の末尾に付録として収められ
ている昌樹書記作の「夢中像記」に次の話が記載されている 171。昌樹書記は夢のなかで妙
喜世界に入った。そこで、中巌和尚は『普説』の講義をする前だった。そこにある絵に描
かれている人を大慧だと中巌は言ったが、昌樹は違う、それは春屋国師であると言った。
そこで、中巌がもう一度それをみたら、ほんとに春屋国師であった。そこで目がさめたと
いう話である。
中巌が『大慧普説』を講じていたことについて前章ですでに触れたが、ここで春屋は即
ち大慧(の生まれ変わり)であることの確認者として中巌が登場していることに特に注目
したい。中巌はかつて大慧派転派により東明派から迫害を受けていた中巌であるが、大慧
派の後継者であるために、夢窓派という五山主流派の人たちから尊敬されるようになった
のである。
次に二首目と三首目をみよう。この二首は一続きのものである。
(原文)
(書き下し)
次韻春屋二首
春屋に次韻する二首
家国欲興天示祥
家国興らんと欲し天は祥を示し、
春来物々占風光
春来たりて物々風光を占す。
拙翎乳子巣依鵲
拙翎の乳子は巣を鵲に依り、
巧哢整儀衣着黄
巧みに哢り儀を整え衣は黄を着く。
無力挟山超北海
山を挟み北海を超ゆる力無きも、
有懐掃地慕南陽
掃地南陽に慕う懐有り。
京華信美非吾土
京華は信に美なるも吾土にあらず、
閑日何妨入鬼方
閑日に何の妨げあらん鬼方に入るに。
(現代語訳)
家国が興ろうとすれば天が勝瑞を示し、春が来てすべてがおかげで風光を増している。翎が拙ない
乳子はその巣を鵲に依っており、巧みに哢り儀を整え衣は黄を着ける。山を挟み北海を超える力は
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無いが、南陽で庭の掃除をしている時に開悟した香厳智閑を慕う気持ちを持っている。京華の地は
まことに美しいが私の故郷ではない、暇ができたときに、鬼方(故郷)に帰ってもよい。
(原文)
(書き下し)
豈可明時必有祥
豈に明時に必ず祥有る可けんや、
却疑好仏怎無光
却って疑う好仏怎か光無しと。
多嫌言語先翁拙
多いに嫌う言語は先翁が拙く、
一笑面皮師叔黄
一笑す面皮は師叔が黄を。
幕府頒符亀嶠上
幕府頒符す亀嶠上に、
梵宮祝誦浰川陽
梵宮祝誦す浰川陽に。
病夫百計扶骸骨
病夫は百計し骸骨を扶し、
帰去当理幽墨方
帰り去りて当に幽墨方を理めん。
(現代語訳)
治世でも必ずめでたいことがあるとは限らない。かえって傑僧をなぜ輝かないのかと疑うこともあ
る。先師(東陽)のように言葉がつたないことをよく笑われるのだが、それを一笑に付す自分の顔
色は師叔(笑隠)のように黄色い。幕府は天龍寺に公帖を出し、利根川の川辺にある寺(吉祥寺)
で祝誦をする。(わしは)病弱な体を起こし、辺鄙な寺に帰り寺務を執り行おうではないか。
まず、二首目を見よう。表現的には、一首目より難解な箇所が多い。典故を多用してい
るのみならず、その援用において、様々な工夫をしている。たとえば、三句目「拙翎乳子
巣依鵲」にある「鵲」「巣」の組み合わせといえば、『詩経』(召南・鵲巣)にある「維鵲
有巣、維鳩居之」(カササギが巣をもてば、ハトがそこに同居する)が思い出される。こ
れから派生した諺に「鵲巣鳩占」
(カササギの巣に、ハトがとまる。
」があり、横取りする
という意味で現代でも使う。しかし、その援用において、中巌は、
「居」を「依」に変え、
鳩を「拙翎乳子」に変えている。これによって、もとの故事にある横取りするというイメ
ージを無くし、むしろ鵲巣の近くにいることに甘んじ、それを恩に感じるニュアンスをか
もし出している。
四句目の主語は三句目と同じで「拙翎乳子」と取ることができる。鵲の巣に寄った「拙
翎乳子」は鵲のまねをして囀り、同じ黄色い服まで着たと詠んでいるのは、黄鵲というこ
とばがあるように、鵲の色が韻字の黄であるため、都合がよかったということだけが理由
ではない。禅僧は普段黒衣をつけるが、特にめでたい場合、朝廷などから「勅黄衣」され
る場合がある。吉祥寺の勅願寺昇進において実際に「勅黄衣」されたかどうか分からない
が、「衣着黄」ということによって、めでたく出世したことを表現しているのであろう。
つまり、「拙翎乳子」というのは中巌自身を指し、鵲は春屋に代表される夢窓派のことで
ある。謙遜の要素もあるだろうが、此度の吉祥寺の勅願寺昇格において春屋の尽力があっ
たことをうかがわせる内容である。
続いて第五句の「無力挟山超北海」は『孟子』に依拠しているが 172、典故が分からなく
ても、字面から意味が推測できる。それに対して、「有懐掃地慕南陽」は句の背景となる
知識がなければ、意味が取れない。唐代の禅師香厳智閑(~八九八)の大悟の因縁を踏ま
えているものである。香厳は非常に聡明な人物であったが、百丈懐海や
霊祐などの禅
溈山
師の元で長年修行したにもかかわらず、ついに悟ることができなかった。そこで、自分の
所有していた書籍をすべて焼き捨てて、南陽国忠国師の墓所の近くに庵を結んだ。ある日、
道を掃除していたとき、たまたま小石の一つが竹に当たった。この小石が竹に当たる音を
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聞いて、香厳は忽然と大悟し、笑ったという 173。「香厳撃竹」として知られている話であ
るが、中巌はここで「撃竹」ではなく、「掃地」のイメージを詠み込んでいるのは、大悟
の因縁としてではなく、淡々とした簡素な生活の代表として詠んでいるためであろう。そ
して、これを受けて第七、八句では田舎つまり利根の吉祥寺に帰りたいことを具体的に表
明する。
一首目で夢窓派の人たちに賞賛の言葉を惜しまないのに比べて、二首目では中巌自身を
中心に読んでいるので、明らかに意識して卑下した言い方をしている。先に触れた三句と
四句がそうであるが、末尾で吉祥寺に帰るのを「入鬼方」としたのも、当然自分の帰る「利
根」を夢窓派の人々がいる京より下位に位置づける表現である。
三首目の中心的な内容は「これから利根に帰る」という点では二首目と共通するが、違
いといえば、まず、帰郷の動機が違う。二首目で個人の理想的生活のためとするのと違い、
三首目では寺の管理のためにということが理由となっている。また、決意のほども違う。
二首目では暇な時に帰ってもいいという軽い気持ちを表現しているのに対して、三首目で
は「帰る」とはっきりした決意を読んでいる。一つづりの二首で、決意の気持ちを段階を
分けて読んでいるのは構成的によく工夫したものと思う。表現についてみれば、後半の四
句は幕府から符牒を得たことなど、事実関係を読んでいる部分では、比較的オーソドック
スな表現をしている。それに対して前半部分はいろいろな工夫が凝らされている。
冒頭の二句はそれぞれ「豈可」、
「却疑」という「虚詞」で始まっている。漢詩ではあま
り用いられない形であるが、新奇さをねらったのだろう。
「豈可」が「却疑」と、
「明時」
が「好仏」と、「必有祥」が「怎無光」ときれいに対応していることからみて、適当に書
いたのではなく、文字の使い方に細心の注意を払って、たどり着いた構成であることが分
かる。その意味は字面どおりに読めば、治世でも必ずめでたいことがあるとは限らない。
傑僧はなぜ輝かないのかと疑う。ということであるが、相手からの祝賀に対する返事の冒
頭にしてはいささか強い感じである。ただ、次の三四句とあわせて読めば、その謎が解け
る。
まず、第三・四句の意味をその句だけでみてみよう。顎聯にあたるので、当然文字の並
べ方は推敲を重ね、対になっている。三句目は先師(即ち東陽)のことを読み、先師のイ
メージを「拙」と規定している。前掲二首目で、中巌が自らを規定するのにも「拙」を使
っていたが、禅では「拙」というのは決してマイナスの価値ではなく、むしろ好ましい境
涯である。中巌は詩作の中で特に友人などへ与えたもののなかで、みずからを「拙」と表
現する例はいくつもある 174。卑下しているようで、実は自信を見せているのである。
四句で詠む師叔は笑隠のことで、「面皮黄」というのは、一般では栄養失調の顔色を言う
ときに使うことばであるが、「拙」と同じで禅では必ずしもマイナスの価値しかないわけ
ではない。これは次の詩から窺える。中巌より二十歳ほど年長で、二年ほど前に示寂した
元の名僧である千岩元長 175に釈迦出山を歌う一首がある。「飢寒難忍道難求、又去人間売
口頭。不得面皮黄似蝋、如何遮得這場羞。
」
(飢えと寒さは忍び難く道は求め難いので、ま
た世間にでて説法を売り物にする。顔が蝋燭のように黄くなければ、どうしてこの恥ずか
しさを隠すことができよう)。山をでて、世間への説法を決意した時の釈迦は、栄養失調
で「面皮黄」だったことは禅宗で広く認められる話である。このように笑隠に対して釈迦
出山の連想される「面皮黄」でもって表すのは元の皇帝から尊崇の篤く、説法のうまい笑
隠のイメージにふさわしい表現いえよう。
そして、この三四句はまたそれぞれ一、二句に対応している。治世でも必ずめでたいこ
とを言わなくてもいいのは、東陽がそうであったように、「拙い」ことに価値を認めるか
らで、仏が光らないのは、顔色が黄色い釈迦があるからだと言いたいのではないだろうか。
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四首のうち、最も多くの故事を盛り込み、読む人に高い漢文学的知識を要するのは四首
目である。
(原文)
(書き下し)
次韻以馬為贈
馬を以って贈と為すに次韻す
日月五星斉聚祥
日月五星斉しく聚祥し、
覆盆自昧不容光
覆盆自昧し光を容れず。
菱匲照老憐張素
菱匲は老を照(うつ)し張素を憐み、
虀瓮分甘咬淡黄
虀瓮は甘を分ち淡黄を咬む。
何復非熊驅呂望
何ぞ復た熊に非らず呂望を驅る、
只応識馬在孫陽
只だ馬を識る応きは孫陽に在り。
瞎驢難共象龍蹴
瞎驢は象龍と共に蹴り難く、
披耳垂頭養有方
披耳垂頭養うに方有り。
(現代語訳)
日月五星が一斉にあつまって勝瑞を示しているが、自分はひっくり返った盆のように自らを昧し光
を入れない。菱型の鏡に老いた狂態を照らし憐れみ、甕の塩漬けを甘みとして噛む。熊ではない呂
望を駆り立てようとしないで、ただ伯楽のように良い馬を識ればいい。瞎驢は龍象と共にすること
ができない。頭をさげ耳がたれている姿ではあるが、潜在力をもつよく育った馬である。
冒頭の一句以外、すべての句に出典や故事あるいは禅的教えが含まれている。二句目の
覆盆については「覆盆不照」という諺があるように、中国語では一般的に良く知られてい
る言葉である。ただ、冤罪があるという意味で使われていることが多いことから分かるよ
うに、一般的には光が入ってくれないと理解しているのに対して、中巌は自ら光を拒否す
るという方向で詠み、従来の意味と違った用法で用いている 176。三句目の張素とは唐代書
道家張旭と懐素のことで、「張素狂」という言葉があるように「狂」というイメージを出
している。四句目の虀とは塩漬けの意味で、漢詩ではあまり用いられない文字であるが、
ここでは苦をもって楽とする精神を述べているのだろう。五句目は周文王とその重臣呂望
との出会いにまつわる有名な逸話を踏まえている。文王が狩に出る前に占ったところ、
「非
龍非熊」という内容が出、その翌日渭水の水辺で姜太公(呂望)に出会った、という内容
である。六句目は有名な伯楽の故事 177を踏まえている。伯楽の馬判断でもっとも重要なポ
イントは「得其精而忘其粗」(大局を見極め、細かい欠点に拘らない)であるとされてい
るが、中巌が常に自分を「粗」と自己規定していること(第一章第一節既述)とあわせて
考えると、自分の欠点を見逃し、いいところをみてくださいと春屋をはじめとした諸友に
呼びかけていることになる。七句目の瞎驢と象龍はともに禅宗でよく使う用語。瞎驢は愚
なるもの、象龍は賢なる者をそれぞれ象徴する。ここでは、瞎驢とは自分、象龍は春屋を
指しているのだろう。八句目は柳宗元「起廃答」
(『柳宗元集』卷一所収)にある「垂首披
耳、懸涎属地、凡厩之馬、无肯為伍」(首をうなだれて耳をたらして、よだれが地まで流
れている。馬屋の馬は、みな仲間としたくなかった)という表現を踏まえていると思われ
る。
「起廃答」にあるこの馬は後にある機会を得て実は駿馬であることが分かる。
餞別に春屋から馬が送られたのである。この一首はその馬を詠んでいるのであるが、そ
れと同時に、その馬は中巌の自画像でもあると考えられる。卑下と自負を同時に持ち合わ
せているという中巌の自我認識については、前掲三首にすでにある程度見えていたが、そ
の屈折した姿が最もよく表れているのはこの四首目であろう。冒頭の二句ではいきなり、
59
周囲から寄せられた祝賀を拒否する姿から書き起こす。ひねくれ者と思われそうであるが、
苦をもって楽とする姿を読む第四句とあわせて考えれば、中巌はこのような自分をむしろ
自負していたことが分かる。そして後半四句ではそのような自分を認めてくれるようにと
呼びかける。第五六句では、駆り立てるようなことをしないで、むしろ孫陽がやったよう
に、大局を見て、細かいところは無視するようにという。第七句で自分を瞎驢といい、一
度謙遜したかのように見えるが、第八句では実は素晴らしい馬だということを重ねていう。
これは自分のことをいうと同時に、春屋から送られた馬をもほめているのだろう。
典故などの引用が多く、いかにも難解そうな詩であるが、意外と親しい友人に向けて半分
言葉遊びしながら、半分甘えて書いたものなのかもしれない。
以上の四首の特徴をまとめていうと、文字の巧みな使い方、運用の奇抜さの追求、典故
の多用と変容、一見ちぐはぐにさえ見える練りに練った構成などにあるのではないかと思
う。
序章でも触れたように、中巌の詩風が唐詩的か、宋詩的であるかについては意見が分か
れている。唐詩的と宋詩的との違いについて概括的にいうと、唐詩は叙情性が豊かである
のに対して、宋詩の特徴は「以文字為詩、以才学為詩、以議論為詩」(文字を以って詩と
為す、才学を以って詩と為す、議論を以って詩と為す。宋厳羽『滄浪詩話』
「詩辯)所収)
、
178
つまり、文字の推敲・学識の披露・議論の展開を重視するところにある 。この四首につ
いていえば、宋詩的であることは明からである。しかも、数多くある宋詩の流派のうち、
とくに江西宗派の特徴を持っているものと思われる。江西詩派は黄庭堅を祖とし、南宋初
期に盛んになり、南宋を通じて詩壇の主流となった。その特徴について中巌は、上記四首
とともに『関東諸老遺藁』に収められている序において、以下のように記す。「惟黄氏謹
愨、而所用之事、皆有所来、傍捜冥駈、而称江西宗派之祖。」
(ただ、黄庭堅は謹厳な性格
で、その用いる事には皆典故があり、博引傍証している。江西宗派の祖と称された)。上
記四首の中巌の詩は典故の多用という江西詩派の特徴と一致する。また、江西詩派の典故
の使用において、よく知られているのは「奪胎換骨」
「点鉄成金」
「無一字無来処」に代表
されるように、それを改変することによって新味を付加するやり方、つまり「以故為新」
である 179。前述した二首目の「拙翎乳子巣依鵲、巧哢整儀衣着黄」というところが代表的
な例であるように、中巌の詩にもそれが認められる。つまり典故に基づきながら、キーワ
ードを変えることによって全く違うイメージの句を詠み上げているのである。ここで想起
されるのは、留学時代に書いた詩「和儀則堂韻謝琳荊山諸兄見留」において、陶淵明の詩
句の援用にも同じ傾向が見られることである。
では、中巌はなぜ江西詩派の影響を受けたのだろうか。一つは黄庭堅は禅宗に帰依し、
その詩は禅的傾向を帯びているため、中国の禅林でその詩が広く読まれたことが挙げらよ
う。中巌が留学時代に書いた詩の中に、黄詩の表現を踏まえたものがあることはすでに前
節で述べたが、帰国後もひきつづき江西詩派に興味を持ち続けたのだろう。
もう一つは、江西詩派は杜詩尊崇の急先鋒であったが、杜甫こそ中巌のもっとも尊崇し
ていた詩人であったこととも関係があると思われる。『藤陰瑣細集』は、中巌が中国の書
物を抜粋したものであるが、その中に杜甫関係の詩を五条ほど引用している。そして、そ
のうちの一条は黄庭堅の詩である。「山谷浣花溪図引云、拾遺流落錦官城、故人作尹眼為
青。碧鶏坊西結茅屋、百花潭水濯冠纓。故衣未補新衣綻、空蟠胸中書万卷。探道欲度羲皇
前、論詩未覚国風遠。」
(黄山谷の「浣花溪図引」には、杜甫が成都に落魄し、知人がそこ
で地方の長官を勤め面倒を見てくれた。碧鶏坊の西に草葺の屋根の家を建て、百花潭の水
で服を洗濯した。古着をまだ繕っていないのに新しい服がまた破れてしまい、万卷の書を
60
読破しているが役に立たない。その道の素晴らしいことは伏羲という昔の帝王をさえ超え
ようとし、その詩と言えば『詩経』の「国風」に近いとある。)
。これは黄庭堅の「浣花溪
図引」の冒頭の八句であり、絵に描かれている杜甫の姿を読んでいるものと思われる 180が、
同詩は黄庭堅の杜甫への尊崇を著したものとして有名なものである 181。この詩を抜粋して
いるということは、中巌が黄の杜甫観を知っていたし、それに同調していた、あるいは逆
に中巌の杜甫尊崇は、江西詩派の影響を受けた可能性もあると考えられる。
第三に、江西詩派の詩作の特徴が挙げられる。江西詩派の詩作の特徴は、典故の応用と
変容にあるため、豊富な古典の知識を必要とするのが難点だが、逆に知識を持っていれば、
ある程度の詩が作れるということにもなる。中巌のような学問をもって聞こえる学僧にと
っては、作りやすいものだったのではないかと思われる。また江西詩派が中国で流行した
理由、さらに室町後期日本禅林で流行した理由の一つもここにある。唐代という詩の最盛
期、さらに北宋時代の蘇軾などのような天才詩人の出現の後に位置する南宋の人たちに、
江西詩派は一つの便宜的な詩作の方法を提示したとも言える。室町後期の日本の禅僧にと
っても同様であっただろうことは想像に難くない。
室町時代の禅林に流行した言葉に「東坡、山谷、味噌、醤油」というのがあるほど、黄
庭堅(山谷はその字)の詩は、五山文化に大きな影響を与えた。しかし、従来の研究では、
主に五山文学後期の作者たちに与えた影響が論じられ、初期の五山作家の作品にそれほど
影響を与えていないとされてきた。さらに、中巌については、黄庭堅を言及していないと
さえ言われてきた 182。しかし、これまで分析してきたように、『関東諸老遺藁』に収めら
れている序において、中巌は江西詩派の特徴を紹介しているだけではなく、その実際の作
品にも影響が認められることは明らかである。江西詩派が中巌の詩作全体に与えた影響に
ついては、より多くの詩の分析が待たれるが、和韻詩というグループ創作活動において、
江西詩派の特徴を紹介したり、実際に用いたりしたことは、やはり、重要視してよいと思
う。つまり、このような前期における受容は、室町後期における黄詩流行の基盤の一つに
なったのではないかと推測されるからである。
二
「春屋住天龍江湖疏」
つぎに、一三六三年春屋妙葩が天龍寺に入住するにあたって、中巌が書いた江湖疏「春
屋住天龍江湖疏」を取り上げよう。疏とは中世禅林の公式文書の一形式で、四六文で書か
れた下から上へ出された文書である。入寺疏、淋汗疏、幹縁疏の三種があるが、入寺疏が
もっとも重要である。従来の研究では疏は文学研究の対象とされていなかったが、近年西
尾賢隆らの学者の提唱によってその文学的価値、資料的価値が重視されるようになった。
中国で笑隠によってその書き方が大成され、蒲室疏法と呼ばれるものであるが、日本にも
盛んに取り入れられた。一般的には蒲室疏法が日本で普及したのは、絶海中津の努力によ
るところが大きいとされている。もちろん、それ以前にも五山寺院ですでに疏は書かれて
いた 183。中巌も多くの疏を書いているが、そのなかでも「春屋住天龍江湖疏」は、特に注
目に値するものの一つである。相手の春屋は当時の主流派夢窓派の中心的人物として、同
派の拠点である天龍寺への出住を果たしたときの祝辞であるため、文章力に自信のある中
巌は全力を注いで書いたものと思われる。
(原文)
(書き下し)
春屋住天龍江湖疏
春屋天龍に住する江湖疏
61
材美者誉随之
材の美しき者は誉之に随い、
道腴者徳附之
道腴ゆる者は徳之に附く。
譬如影之於形也
譬えば影の形に於ける、
響之於音也
夫形之立也有頫昂、而影亦頫昂
響の音に於けるが如し。
夫れ
形の立つや頫昂有りて影亦た頫昂、
音之作也有小大、而響亦小大
音の作るや小大ありて響亦た小大あり。
某人
某人
名馳四遠、
名は四遠に馳せ、
徳重諸方、
徳は諸方に重し。
言行兼全
言行は兼全、
福智両足
福智は両足。
蒞事也咄嗟而辨
事に蒞んでや咄嗟にして辨じ、
談禅也照用同時
禅を談じてや照用時を同じくす。
明監来機、入門便知好悪
明
来機を監し、入門すれば便ち好悪を知り、
沢施群品、随機乃分多寡
沢
群品に施し、機に随い乃ち多寡を分つ。
不忝国師之嗣
国師の嗣に忝えず、
冝為
冝しく
王者之師
王者の師と為るべし。
(現代語訳)
春屋が天龍寺に住する江湖の疏
材が美しければ、誉まれは自然に高くなる、
道を備えていれば、自然に徳がついてくる。
影が形につき、響が音につくのと同じように。
形には伏しているものと仰いでいるものがあるので、
影もまた伏しているものと仰いでいるものに分かれる、
音には大きいものと小さいものがあるので、響きも亦た大と小がある。
春屋和尚は
遥か遠くまで名は聞こえ、あちらこちらに素晴らしい徳を残している。
言も行いもすばらしく、福と知恵を併せ備えている。
事をすばやく処理し、禅を教えるときは、臨済のように間髪を入れない機敏な策略を用いた。
弟子の素質を見定め、その好悪をすぐに判断し、
その素質と能力に応じてみんなに恩恵を分け与えた。
夢窓国師の弟子としてはまさにふさわしく、
王の師匠となるべきである。
当時の禅林では、入寺儀式の一環として、入寺疏が読まれていた。江湖疏はそのうちの
一つで、上の蔵主が読むもので、親疎を問わず全国から寄せられるものとなっているが、
実際にはやはり親しいものがしたためる場合が多い。疏とはもともと四六文で書かれた下
から上へ出された文書であるが、元で笑隠によって蒲室疏法が大成され、それが日本に伝
えられて以降、禅林ではほとんどその体裁で疏が書かれるようになった。一般的に蒲室疏
法を日本に普及させた人として絶海中津 184が広く知られており、また絶海に先立ち中巌も
蒲室疏法を日本に伝えたことも指摘されている。中巌は笑隠の法姪であり(中巌の師東陽
は笑隠と同門である)、また『蒲室集』の注釈を施しているので、蒲室疏法をよく知って
いたことは当然である。ただ、この江湖疏を見ると、単対を三対連用しているという点で、
62
中巌は蒲室疏法を必ずしも厳格には守っていないようである。中巌のほかの疏をみても、
やはり同じように比較的自由な形を取っているものが多い。このように蒲室疏法に必ずし
も拘らないのは、やはり四六文に対する自信から来ているのではないかと思われる。およ
そ文章の作法というのは、しきたりがあって難しいようであるが、逆にそのしきたりを守
っていれば、なんとか形はなるという書きやすい面もある。中国本土で四六文の手腕を磨
いてきた中巌にとっては、さほど形式に頼る必要はなかったのだろうか。
疏のような四六文を作成するとき、故事を多用することによって、限られた字数でより
豊富な情報を盛り込み、作品を重層的に見せるのが常であるが 185、この疏では意外に故事
というようなものをほとんど盛り込んでいない。たとえば、冒頭で材と誉、道と徳の不離
の関係を言うのに、形影、音響の関係をもって喩えているが、形影、音響の関係をもって
不離の関係を言うのは漢文学でよく使う比喩であり、出典など調べなくても、その字面か
ら言おうとする意味が分かる。また、過句の照用同時の出典は『臨済録』であるが、禅宗
ではあまりにも有名な内容で、すでに一般名詞化している。修辞や語彙から見て、博学を
もって知られる中巌にしては全体的に地味な内容である。前述した春屋との応酬の詩と比
べると、全くの両極端といえよう。公で読むこの疏は聴衆のなかに、漢文学的素養の必ず
しも高くない禅僧も多いことを配慮して、分かりやすくしようと工夫したのだろう。当然
それが可能なのは中国語を自由に操る能力であり、故事などを借りなくても、四六文の形
を整え得る力である。ここで想起されるのは、そのような能力を既に百丈山の上梁文で見
せていたことである。
表現は平易なものを使っているのに対して、構成的には実によく工夫されていることは、
よく吟味すると、分かってくる。たとえば、常套句からなっている八字称であるが、その
最初の対で冒頭の対句と呼応しているのである。つまり、「名馳四遠」によって材の美し
いこと、「徳重諸方」によって道の腴ることを暗示している。かわって、次の対は後半の
内容を総括する役割を果たしている。つまり、
「蒞事也咄嗟而辨」は行で、
「談禅也照用同
時」は言のことを言っている。
「明監来機、入門便知好悪、沢施群品、随機乃分多寡、」は
智、
「不忝国師之嗣、冝為 王者之師」は福を具体的に提示しているのである。
また、前半が一般論の賛辞であるのに対し、後半では春屋妙葩の個性的な特質がよく描
かれている。まず、一番最初に褒め称えたのはその事務能力にたけていることである。こ
れを聞いた人たちは、夢窓十三年忌の仏事の主催など、枚挙に暇がないほどの春屋の手腕
を思い出しただろう 186。
続いて、その禅については、春屋の悟りの境涯を描写するかわりに、求法者に対する(引
導)教育が如何にすばらしかったかを中心に書いている。「照用同時」というのを受けて
さらに、
「明監来機、入門便知好悪、沢施群品、随機乃分多寡」と隔対でもって詳説する。
尋ねてくる人の機を弁え、其れに応じて沢を施す、内容的には宋代禅で重視される「随機
而設教」から出るものではないが 187、教育手法を重視し、勢力の伸張を最重要課題として
いる夢窓派の禅の特徴を的確に捕らえているといえよう 188。
最後の締めくくりは、修飾詞は一切用いず、春屋妙葩の師承と俗社会でのステータスを
詠嘆句で結んでいる。師承については、疏で必ず触れることであるが、中巌は単にそれを
述べるだけでなく、その師の夢窓国師をも持ち上げている意味が読み取れる。その二ヶ月
前の九月にはちょうど夢窓の十三年忌にあたり、春屋妙葩はその墓所の雲居庵の塔主とし
て、仏事を主宰したのはもちろん、中巌も夢窓派の放牛光林に頼まれ、拈香をしていたの
である。思想的に相違はあるものの、中巌は夢窓を尊敬していたのである。また、春屋妙
葩の天龍寺入院は一三六三年十一月八日であるが、その前年の一三六二年には春屋は後光
厳天皇に宮中に召された。また、同年七月には光厳、光明両法皇がその法廷に臨席したこ
63
とも知られている。最後の「冝為王者の師」というのは、上記の事実を物語っているのだ
ろう。
このように、必ずしも長くない八対の文章で、中巌は春屋妙葩の禅の特徴、社会的影響
力など具体的な事実を盛り込みながら、その天龍寺入院を祝ったのである。
三
『空華集』序
以上、中巌が春屋のために書いた作品を読んで来たが、続いて義堂のために書いた『空
華集』の序をみてみよう。『空華集』は一九○○首余りからなる義堂の詩集である。一三
五九年にその編集が完成し、序文を中巌に依頼していた。その序の内容は以下の通りであ
る。
(原文)
空華集序
友人信義堂、禅文偕熟、余力学詩、風騒以後作者、商参而究之、最於老杜老坡二集、読之稔焉、而
醞醸胸中既久矣、時或感物興発而作、則雄壮健峻、幽遠古淡、衆体具矣、若夫高之如山嶽、深之如
河海、明之如日月、冥之如鬼神、其変化如風雲雷電、其珎奇如珠貝金璧、以至其縦逸横放、則如猟
虎豹熊貅之猛烈、角之掎之、其力不得蹔假焉、紫燕之喧、黄鸝之嫩、其声於是無恥乎、既然不以己
所能之功為自伐也、非惟不自伐爾、視之如空華翳於病目、故目乃集曰空華、吾先覚為淵才雅思文中
王、祇夜伽陀、梵音妙唱、令人楽聞、然亦謂諸仏世界、猶如空華乱起乱滅、不即不離、義堂設心在
焉、自非禅文偕熟者、安能如斯之為耶、延文己亥春、中正叟中巌、走筆以為空華集之序云。
(現代語訳)
空華集の序
友人の義堂周信は、禅と文はともに円熟の境界に達しているので、余裕をもって詩を学んだ。
『詩経』
と『楚辞』以後の作者を悉く研究したが、最も杜甫と蘇軾の詩に詳しい。長い間胸中において醸し
ていたものを、時々、物を感じ興を起こして詩を作ると、雄壮健峻、幽遠古淡の様々な詩風をもの
した。高いこと山のごとく、深いこと海のごと、明るいこと日月の如く、冥すること鬼神の如く、
その変化は風雲雷電のごとく激しく多く、その珍しいことは珠貝金璧のごとである。その奔放なる
ことは虎豹熊貅の狩をするように猛烈で、前から角を取り後ろから足を取るようにして挑む。その
力は(われわれは)すこしでも借りることはできない。ツバメや鶯の声は一般的にはにぎやかで美
しい音色とされているが、義堂の詩の調べはそれに比べても劣らない。こんなに素晴らしい詩を書
いているにもかかわらず、少しも奢らないでいる。奢らないだけではなく、自分の詩を目を患った
ものが空中に見る実在しない花であると見て、詩集に空華という名をつけた。釈迦も祇夜・伽陀な
どの韻文や、仏教音楽を用い、人々を楽しませていたが、それでも諸仏の世界は空華のように、目
の病のために起こったり滅んだりするもので、
(現実社会と)不即不離の関係にある。義堂の考えも
ここにあるのだろうか(空華である詩文も諸仏の世界つまり禅の悟りの世界と不即不離のものであ
る)。禅と文学がともに円熟した人でないと、とてもこのようにはできない。一三六七年春、中正叟
中巌、筆に任せて『空華集』の序を認めたのである。
『空華日用工夫略集』によれば、一三六七年十二月十三日に、義堂は建長寺で中巌の『勅
修清規』の講義を聴き、ついで『空華集』を呈して跋文を求めていたが、中巌のこの序に
よれば、既に延文四年にその編集が完成し、序文を中巌に依頼していたのである 189。二十
五年歳下の義堂を中巌は序の冒頭で友人と表現している。文末の自称「中正叟中巌」とあ
わせて読めば、忘年交の微笑ましい様子が想像される。文章全体は二つの部分からなって
いる。
64
前半では義堂の詩がいかにすばらしいかを褒め称える。まず、その詩の系譜を杜甫・蘇
東坡両氏に求めている。実際、義堂の作品を読むと、この両人を言及しているものが多く 190、
中巌の説は的中しているのである。また杜蘇は五山文学全体に大きな影響を与えた二人で、
中巌本人が最も傾倒している詩人でもあることを考える 191と、義堂が中巌の影響をも受け
ていることも推測される。さらに、この後、具体的に義堂の詩の内容の批評をするのであ
るが、
「衆体具矣」がその特徴であるとしている。しかも、いかなる「体」
(内容)を書い
ても、自由自在にこなしていることを、高、深、明、冥、変化、珎奇、縦逸横放など七つ
の角度からすべて比喩を用いて絶賛している。これは義堂の詩の賛歌であると同時に、中
巌の力量の発露でもあるのである。そこに読み取れる勢いは文末で「走筆」と中巌が自ら
いうのと、ぴったりしている。
後半では『空華集』という詩集名をつけた理由について述べる。義堂自身の説明では「視
之如空華翳於病目」からである。これは『大方広円覚修多羅了義経』(T17.0913)文殊師
利菩薩章にある「云何無明。善男子、一切衆生、從無始来。種種顛倒、猶如迷人、四方易
処、妄認四大為自身相、六塵縁影為自心相、譬彼病目見空中花及第二月。善男子、空実無
花、病者妄執。由妄執故、非唯惑此虚空自性、亦復迷彼実花生処。由此妄有輪転生死、故
名無明。
」
(無明とは何か。善良なる者よ。一切衆生は無始より始まっている。種種顛倒す
ることは道に迷った人が、どこがどこだか分からなくなったのと同じである。四大(つま
り肉体)を自身の姿と見、六塵(色・声・香・味・触・法)に由来する影を自心の姿と見
るのは、病みかすんだ目に虚空の花や二つの月が見えるようなものだ。善良なる者よ。空
にはもともと花はない、病んでいる人の誤解であり、妄執である。妄執ゆえ、虚空そのも
のの自性に惑わされるだけではなく、亦た本当の生きている花の存在も分からなくなる。
妄がゆえに、輪転生死があるので、無明という。
)によっていると思われる。
『円覚経』は
192
大乗仏典のなかで、禅僧にもっともよく知られる教典の一つである 。病目空華もまた有
名な箇所の一つで、空華は即ち「妄見」のたとえである 193。よって、義堂自身は自分の詩
集は妄見であるにすぎないということになる。謙遜の意を込めていると同時に、詩ひいて
は文学全般に対する認識の一端が示されている。絶海中津とならんで、五山文学の双璧と
評されるように、義堂は多くの詩文を残し、内容的にも水準の高いものであったが、その
位置づけとなると、あくまでも第二義的なものであった。もっとも、その師である夢窓の
文学否定論よりはかなり緩和している 194。一方、中巌はどうだろうか。義堂本人の解釈に
続いて、中巌はおなじく『円覚経』を引きながら、義堂の空華の意味についての解釈を付
け加えている。「諸仏世界、猶如空華、乱起乱滅 、不即不離」(諸仏の世界は、空華のよ
うで、乱起乱滅し、不即不離である)というのは、普眼章からの引用であるが 195、空華が
「諸仏世界」と不即不離の関係になるように、詩も禅と不即不離の関係にあることを中巌
が言おうとしているのだろう。一種の詩禅一致論と言える。中巌このような文学肯定論・
詩禅一致論は、くだって東山時代以降、主流となっていくが、中巌のこの時代では先駆的
というか、異色のものであったといえよう。しかし、これは中巌が独自にたどり着いた結
論というより、やはり当時中国の禅林の趨勢の影響によるものであると考える。元代の禅
林において詩文を製作することが大いに流行っており、有名な文人たちは禅僧をはじめ僧
侶たちと親しく交流していた 196。中巌がそのような風潮に親しんでいたことについては第
一章で述べたとおりであるが、具体的な表現についてみると、この序文で二回用いられた
「禅文皆熟」というのはおそらく『箋注唐賢絶句三体詩法』方回序にある注釈者円至を讃
える「聡達博贍、禅熟、文熟、詩熟」
(聡明博学で、禅も文も詩も円熟している」
)から影
響を受けていたのだろう。中巌は、『三体詩』を初めて日本に伝え、講釈をした人として
知られている。元代流行の三体詩注といえば、『箋注唐賢絶句三体詩法』であるので、こ
65
の書物を中巌が日本に持ち帰った可能性はかなり大きいと思われる 197。しかも、それに見
られる文学観を自分のものとし、中世禅林における詩文の流行に預かったと考えてよいだ
ろう。
この序文から窺える中巌の文学観のもう一つの特徴は、「詩」よりも「文」を優先すべ
きと位置づけていることである。一番冒頭で「禅文偕熟、余力学詩」と書かれているのは、
義堂の学習の順番であるが、そのまま中巌の文学観でもあろう。なぜ、文が上なのかにつ
いて、直接説明がないが、詩は「感物興発而作」ということからみると、個人の心情・感
情を詠うものとして理解していることはあきらかである。それに対して、文(文章)は、
「事業」と併称され、名を一代に轟かせうるものであり(本章第四節で後述)、また、自
らの考えを君主に示し、社会構築に寄与しうるものであった(第三章で後述)。詩より文
を上とする考えは、このような詩と文の役割認定から来ているのではないだろうか。
四
夢窓国師賛
中巌は、春屋や義堂のような夢窓派の重要な人物とだけではなく、同派の若い僧に頼ま
れて文章を書くこともあった。以下、正庵周雅 198から求められ夢窓国師の頂相に書いた賛
を二首読んでみよう。
(原文)
夢窓国師
小師清寥庵主周雅求賛
清寥々地屋三間、応是平生慕隠山、面目嚴寒心似鉄、威加海内喜天顔、
道徳兼円、福慧両足、吾欲贊揚国師、只恐国師謂吾毀辱、業識熾盛、弄悪肚腸、吾欲毀辱国師、只
恐国師謂吾贊揚、贊揚毀辱、都無私曲、或言我師、也不受汝毀辱、也不消汝贊揚、毀辱贊揚、総不
相当、汝若毀辱、謗沈無香、汝若贊揚、増金以黄、毀辱贊楊於師何傷、
(書き下し)
夢窓国師
小師清寥庵主周雅
清寥々地
屋
加へ
三間
賛を求む
応に是れ平生隠山を慕ふるべし。面目
嚴寒と
心
鉄に似る。威は海内に
天顔を喜ばす。
道徳は兼円し、福慧は両足す。吾国師を贊揚せんと欲すれば、只だ国師吾毀辱すると謂ふを恐る。
業識
熾盛し
贊揚
毀辱
肚腸を弄悪す。吾国師を毀辱せんと欲すれば、只だ吾国師贊揚すると謂ふを恐る。
都な私曲無し。或るひと言う我が師は也た汝が毀辱を受けず、也た汝が贊揚を消いず。
毀辱贊揚、総じて相当せず。汝
すに黄を以ってす。毀辱贊揚
若し毀辱すれば、沈香無きを謗る。汝
若し贊揚すれば、金を増
師に何の傷ならんや。
(現代語訳)
夢窓国師
小師清寥庵主周雅が賛を求める
ひっそりと部屋三間
名を馳せ
平生隠山を慕うためであろう。顔つきは厳しく心は鉄のように堅い。海内に
天皇から尊敬を受ける。
道と徳を兼ね備え、福と慧は共に持つと国師を褒めようとしても、国師にそれは辱めだと言われる
恐れがある。業識が深く、腹黒いと国師の悪口を言おうしても、国師に褒め言葉に聞こえるかもし
れない。褒めるも貶めるも不正はない。あるものは言った。我が国師はあなたに貶められも褒めら
れもしない。褒め言葉も悪口も国師にはあわない。もし、国師の悪口を言うのなら、沈香が香らな
いというのと同じる。若し褒めるとしても、金に黄色を足すようで無意味だ。褒めても陥れても国
師には何の関係があろうか。
当時、頂相は印可の記しとして師から弟子に渡すもので、周雅が持ってきたのもそのよ
66
うないきさつで夢窓から与えられたものであろう。僧俗一万数千人を得度させた夢窓の頂
相は数多く製作されたと思われ、現在まで残っているものも多い 199。周雅が持っている頂
相は現存しないが、中巌の賛の一首目によって、その構図がある程度想像される。「清寥
寥地屋三間、応是平生慕隠山」という前半の二句によれば、肖像とともに画面には山や庵
が配されているようである。夢窓の頂相として名高い天龍寺寺宝の絹本著色像と異なり、
水墨画的なものであったようである。清寥寥というのは、依頼主の菴名を盛り込み、夢窓
との師弟関係を明らかにしていると同時に、隠遁生活を好む雰囲気をかもし出している。
夢窓は一大教団を築きあげながら、一方では山中人里離れた場所で隠遁生活を好む一面を
持っていたことは、国師自身がしばしば流露したことであり、現在の研究でも認められて
いる 200。この前半の二句はおそらく実際の画の内容を書いていると同時に、国師にはその
ような隠遁を好む一面を持っていることを中巌も理解していたと思われる。代わって、後
半では朝廷から厚く帰依された国師像を書いているが、国師の容貌についての描写は現在
一般的に知られている夢窓像とかなり違う。現存する国師像に共通してみられる特徴は柔
和な風貌をしていることであり、「すこぶる女性的である」とまで言われている 201。しか
し、中巌によっては、「面目厳寒」と厳しい姿が強調されている。この違いはどこから来
ているのだろうか。周雅の持っていた頂相が、現存するものとは雰囲気の異なるものであ
ったと考えるよりも、中巌が頂相を見る目が、現在のわれわれと違うと考えたほうが妥当
ではなかろうか。つまり、柔和に見えている国師像に中巌は鐡のように硬い道心、堂々と
権力者に伝法する姿を認めたのである 202。
二首目の賛は一首目と異なり駢賦で書かれているが、その内容を一言でまとめると、最
後の「毀辱賛揚、於師何傷」につきる。国師の禅の到達した境地は世間の非難や賞賛に関
係なく、そのままで(円満具足)完結したすばらしいものであるとして、夢窓に最大の賛
辞を送っていると言えよう。ただ、かつて恩師の東陽の禅を言うときの、激烈さと比べる
と、距離をおいていることは明らかである。
第三節
注釈書の執筆―『挿注参釈広智禅師蒲室集』
中巌は自ら詩文を作成すると同時に、講義や注釈などを通じて、詩文の普及や教育にも
尽力した。そのうち、かれが『蒲室集』のために作った注釈書『挿注参釈広智禅師蒲室集』
(以下『参釈』と略す)の写本が現存し、足利学校史跡図書館に所蔵されている。近年禅僧
による講義や蔵書などの文化的行動が室町文化の形成に大きな役割を果たしたことが注
目されてきているが 203、『参釈』は五山初期の禅僧の注釈活動の具体的な様子がわかる貴
重な史料といえよう。
『蒲室集』は元僧笑隠大訢の詩文集で、日本に伝わってから広く受容
され、中世近世を通じて禅林文学に多大な影響を及ぼした。各種の抄物や注釈書は現存す
るだけでも二十種類以上ある 204。そのうち、中巌は日本で初めて『蒲室集』を講釈した人
物で、彼の作ったこの『参釈』は『蒲室集』の最初の抄物として知られ、またその写本の
存在についても、『国書総目録』によって知られていた。しかし、その量が膨大で、読み
にくいことによってか、本格的な調査研究はなされていないままであったため、その具体
的な内容については知られていなかった。この空白を埋めるため、筆者は足利図書館を訪
れ、原本調査を行った。
挿注という題名通り、それは五山版『蒲室集』(六冊)詩文部分(第一冊巻一から巻四二頁
目までと第二冊と三冊の一部分)の余白部分に、漢文で注を書き込んだものである。参は言
葉の出典の提示で、その前に●をつけている。釈は中巌の解説で、その前に▲と朱筆で記
号をつけ分けている。本節では同書にみえる引用漢籍と詩人について整理し分析したい。
67
いかなる書物や漢詩から用例を引用したか、その所拠テキストは何か、また、その書物なり
漢詩なりについての中巌の理解がいかほどのものであったかを分析することは、その注釈
者中巌のみならず、十四世紀における日本知識層の漢籍受容の実状を明らかにするのに有
益、かつ重要なことであろう。
一
作製経緯及び現存写本の来歴
引用漢籍について書く前に、『参釈』の制作経緯及び現存本の来歴について説明したい。
『参釈』の冒頭(『蒲室集』目録一頁右側)に序が書かれている。この序によって、『参釈』
の制作経緯などが分かるので、長文であるが、以下に引用する。
(原文)
挿注参釈広智禅師蒲室集序
等持春屋禅師刻蒲室集版、既成、俾予解之、盖以欲啓彼童蒙者歟、抑又以予忝為法門之姪、故見命也、寧
可以不才為解乎、凡古書故事巷談俗諺如有可与本文相類者、輒引而證之、用細字挿之乃篇言辞之間為
注、又別出管見、以推考故事与本文之同異、取舎、或反而違之、或順而従之者、参而釈之、低書於章句之
後称釈曰、総而目之、曰挿注参釈広智禅師蒲室集、不敢出観之大方、只可与初学児輩、未解句逗者、略得
進業之助尓、不覚紛擾如衣壊絮入荊棘中、適自纏絆矣、旦夫蒲室師伯者、吾先師之所畏也、乃以其文広
流布於吾海東之国、責当在吾也、然而春屋刊行、其能可已、深感於斯、戊戌秋、日本国利根郡吉祥禅寺、
姪中巌拜書
(現代語訳)
等持寺の春屋禅師は『蒲室集』を刊行し、それが完成すると、私に解釈させた。童蒙を啓発させよう
としていたのだろう。そもそも、私が(著者の)笑隠の法姪に当たるために命じられたのである。無
学であるが敢て解釈を試みよう。およそ古書の故事や巷談俗諺で、本文と類似するものがあれば、引
証し、小さい字でその篇の言葉の間に挿入して注とした。又、別に私見を出して、故事と本文の異同を
推考し、取捨した。違う意味で使う場合もあるし、それに従う場合もある。調べて解釈を試み、章句の
後に字を下げて記して釈とした。それらをまとめて『挿注参釈広智禅師蒲室集』と名づけた。識者に
お見せするほどのものではなく、只だ初学者や句読も分からないような者に少し学業の助けとなる
だけである。知らず知らずのうちに煩雑になって、ぼろぼろの衣服を纏って荊棘の中に分け入ったよ
うで、自ずから乱れてしまうのである。ただし、蒲室師伯は、先師東陽徳煇の畏敬する禅師で、その文
章を我が日本に流布させるのは私の責任である。春屋が刊行に尽力してくれて、まことに宜しい。こ
こに深く感謝する次第である。
戊戌(1358年)秋、日本国利根郡吉祥禅寺、法姪中巌 拝書
これによって、『参釈』は『蒲室集』の五山版を刊行した春屋妙葩の要請によって製作
したことが分かる。法姪という表現は中巌の師である東陽と『蒲室集』の著者である笑隠
と同門であるからである。蔭木英雄が指摘したように 205、春屋の依頼という外的動機によ
って執筆したのであるにせよ、大慧派としての使命感から、注釈に精進したのであろう。
一方、春屋妙葩が中巌に注釈を頼んだのは、中巌が適任者であることはいうまでもないが、
この時中巌は春屋のいる天龍寺に寓居中であり、両者の関係が親しかったのも理由の一つ
であろう 206。
ところで、足利蔵の『参釈』の筆跡については、蔭木は中巌自筆としている 207。ところが、
その筆跡と中巌の現存筆跡とを比較すると、書き癖がかなり違っていることが明らかであ
る。また、自筆本だとすれば、それが途中で終わっているのも理解しがたい 208。筆者が見
68
るところ、その筆跡は六冊目の末尾に記されている「蒲室集六冊 円光寺 元佶花押」の
筆跡と相似しているように思える 209。
元佶とは閑室元佶(別号三要、1548~1612)のことで、足利学校の第九世庠主を務めた江
戸時代一流の知識人。家康の寵愛をうけ、木活字十万個を受けて、伏見版を刊行したこと
は夙に有名である。その手沢本の漢籍六十点余りが国会図書館に、更に三十点が足利学校
に所蔵されている 210。中でも、足利学校には元佶自筆書き入れのみえる本も多数あり、そ
れらの筆跡と比較すると、『参釈』の筆跡が元佶のものだとほぼ確定できる。よって、現存
の『参釈』は、元佶が当時まで伝存していた中巌自筆の『参釈』をもとに、自ら所持した五
山版に途中まで抄写したものである可能性が大と推測される。中巌の自筆ではないが、元
佶のような学者がその写本を作っていることは、『参釈』の後世の学者への影響の大きい
ことを物語っており、それを研究する意味も自ずと増してくるであろう。
二
引用漢籍
以下、表二は、『参釈』で言及している漢籍を、中国の古くからある経史子集の四庫分
類に、リストアップしたものである。 表中の○は、中巌のほかの作品にも書名、同書か
らの引用、及びその影響が確認されるもので、▲は、現在日本に宋元版が現存しているも
のである。また、各ジャンル内で引用数の最も多い書物についてのみ、その数を併記した。
(表二)
経
史
五経
詩経○▲、左伝○▲、尚書○▲、礼記○▲、易経○、周礼▲、孝経▲
四書
大学○、▲
小学
説文解字○▲七、爾雅▲、韻会▲、広雅、方言▲、集韻▲、釈名
正史
漢書○▲七三、後漢書○▲二二 、史記○▲二七、晉書○▲、唐書○▲一四
(新旧両方)、南史○▲、北史、蜀志、斉書
編年
通鑑▲
別史
東観記、東都事略▲、敬宗実録
伝記
高士伝、襄陽耆旧伝、汝南先賢伝
地理
潤州図経、廬山記▲、三輔黄図、方輿勝覧▲、廬阜雑記
政書
通典▲、文献通考▲、太元政典、大元通制、至元格
儒家
荀子○、孔子家語○、塩鉄論、太玄経○、文中子○、新序、説苑○、別録
法家
韓非子
医家
本草(本草衍義)▲
類書
太平御覧○▲、韻府群玉○▲
小説家
世説新語○▲、酉陽雑爼、西京雑記○(二条のうち、一条は杜詩注)、述異記、
神異経、唐逸史、後斉漫録、斉諧記、搜神記○、
道家
荘子○三○、老子○、淮南子○、神仙伝、抱朴子、
釈家
高僧伝、円覚経○、師聖語録、僧宝伝、原教論○、伝灯録、法華経、維摩経○、
僧伝、翻訳名義、楞厳経、
集
文選○▲五一、楚辞○▲
間接引用
太平御覧から法顕記、後漢書注、列女伝、詩経注、孫氏瑞応図を引用。
『参釈』、則ち『蒲室集』に書き込まれている注釈は全巻に及んだものではなく、第一冊
69
巻一から巻四「趙大年小景」詩までの全部の注釈(巻一p1から巻四p2まで)、第二冊と三冊
の一部分からなっている。第一冊目の注釈は、中巌自らが序の中でも述べているように、笑
隠詩中の用語の使用例の列挙(注)の後に、自らの理解(釈)を書き加えるといった体裁をと
っている 211 。しかし、これに対して、第二、三冊目の注釈は詩の理解に関する釈にあたる部
分は無く、いくつかの詩作の若干の詩語について、少量の用例を挙げるにとどまっている。
第一巻の途中で注が中断していること、また第二・三冊目に散見する用例のみ列挙してあ
ることについて、何らかの事情で『参釈』の忠実な抄写は第一冊の途中で終わっており、
第二・三冊に見える一部の注釈は抄写者が抜き書きしたものと理解される 212。従って、この
論文では忠実な抄写(脱字などは存するが)と思われる第一巻部分のみを研究対象とする。
中世禅僧の学問の特徴の一つとして、百科全書的傾向が指摘されている。それにしても八
十種以上に及ぶ漢籍から豊富な用例を引用している中巌の博学ぶりは、やはり突出したも
のがあるといわなければならない。先輩の来日僧竺仙梵僊が中巌を評して「学通内外乃至
諸子百家・天文地理・陰陽之説」(学問は内典・外典並びに諸子百家・天文地理・陰陽の
説まで通暁している 213)と称したのも決して溢美の辞でないことが分かる。また『参釈』
以外では確認されていない○印以外の書名が多いことは、中巌の読書範囲を知る上で、『参
釈』が重要な役割を果たしていたことを物語っている。
次に経・史・子の中で重要と思われる書物を一つずつ選んで(『詩経』、『漢書』、『荘
子』)、それを中心に分析してみることにする。
(一) 経部-『詩経』を中心に
『参釈』には、経部に分類されうる漢籍で、五経関係のものが七種類、四書一部と小学類
(韻書など)七部のあわせて十五種類が見える。その中で、引用回数が最も多いのは『詩経』
である。詩語の注釈であるから、当然と言えるだろう。
日本の禅僧社会で『詩経』に関心を寄せた痕跡としては、早いもので『普門院蔵書目録』
に、「毛詩二冊・呂氏詩記五冊・毛詩句解三冊・毛詩三冊」とあるのが注目される。そして、
やや内容のある議論を展開しているのは虎関師錬で、その次に興味ある見解を抱いている
のは義堂周信であると芳賀幸四郎は指摘している 214。中巌は時期的にはちょうど虎関と義
堂の間に位置しており、彼の『詩経』に対する認識を分析することは、材料の少ない初期五
山僧の『詩経』の受容を考える上で、有意義なことであろう。
まず、『詩経』のどのような詩篇から用例を出しているかをみてみよう。
(表三)
風
雅
周南
関雎、葛覃、汝墳、
召南
甘棠、羔羊、野有死麇
邶風
柏舟、谷風
鄘風
蝃蝀
衛風
淇奧、考槃、氓
王風
君子陽陽、揚之水、大車
斉風
甫田、猗嗟
唐風
椒聊、杕杜
陳風
衡門、東門之池
曹風
候人
豳風
七月、 鴟鴞、東山
小雅
常棣、伐木、天保、湛露、沔水、小旻、小宛、何人斯、蓼莪、四月、北山、大田、
瞻彼洛矣、都人士
頌
大雅
棫樸、生民、鳧鷖、公劉、抑、烝民、瞻卬
周頌
清廟、思文、潜
70
魯頌
泮水、悶宮
商頌
那、長発
次に、これだけ多くの引用がいかなるテキストによって行われたのかについてみてみる。
文中に見えるテキストに関わる表記を見ると、「毛詩」、「毛伝」、「箋」、「疏」、「正義」、
「嚴粲詩緝」などがある。
「毛詩」とは『詩経』をさす。元来、漢代の詩学には毛詩・斉詩・魯詩・韓詩の四派が
あったが、毛詩を除いて他の三派の諸説ははやく亡佚してしまったため、『詩経』即毛詩
と見なされるようになった。「箋」は鄭玄著『毛詩鄭箋』のことで、「疏」と「正義」は、
唐孔穎達著『毛詩正義』を指している。「箋」も「疏」もいわゆる古注である。日本に古く
からある博士家の毛詩学は主としてこの古注に拠っている。これに対して、『参釈』で引用
の最も多い嚴粲『詩緝』というのは新注に属するものである 215。『詩緝』三十六卷は、宋
嚴粲が『普門院蔵書目録』にも名の見える呂祖謙『読詩記』を主として、諸説を取り入れ
ながら自説を立てたものである。この『詩緝』については、実は中巌はほかの作品でも言及
している。「華山説」は、嚴上人の字である華山のいわれについて述べる文章であるが、次
のような内容が含まれている。「曰、宋末有儒人、姓嚴、名粲、字華谷、作詩緝、詩家者之流賢
尚焉、或取諸此歟(宋末に、姓は嚴、名は粲、字は華谷という儒者がいたといわれている。詩
緝を作り、詩を勉強するものは皆これを尊んでいる。或いはこれから字を取ったのだろう
か)と。つまり、嚴粲の字の一字を取って、嚴上人の字にしたことを説明している。
このように、中巌の他作品で僅かに言及しているだけの書籍について、その具体的な受
容の様子を示すのが『参釈』である。ここに『参釈』研究の意義の一つがあるであろう。
では、中巌の詩経認識はいかほどのものであっただろうか。「山雲辞」の「南山兮朝隮」
一句について次のように注釈している。
(原文)
曹風詩南山朝隮。毛傳隮升雲也。衛風蝃蝀朝隮于西。毛傳隮升也、嚴粲詩緝曰、曹風傳言隮升雲、彼詩但
当為升、此当為升雲。彼詩指曹風也、此指衛蝃蝀詩。今按粲意以蝃蝀朝隮于西之次句云崇朝其雨、故此
当為升雲耳。然如毛氏意、則章云、蝃蝀在東、次章朝 隮于西、乃知称隮者、真為蝃蝀耳。故傳言隮升也、
而不言雲也。亦宜矣。惟彼曹風南山朝、上句既云蕙兮蔚兮、草木翳◎之秋、則知朝隮者、樵子非雲也。是
嚴氏駁毛傳亦当矣。若然、則師伯用南山朝隮之句為雲者非歟。曰不也。雖借用南山朝隮語、然其意非曹
風樵子之升也。能解詩者、不可膠乎言語也。(後略)
(現代語訳)
曹風詩にある「南山朝隮」の語句について、毛伝では「隮」は「昇る雲」とし、衛風「蝃蝀」にある
の「朝隮于西」の語句について、毛伝では「隮」は「升る」とする。嚴粲『詩緝』では、曹風の毛伝で
は「隮」を「昇る雲」の意味とするが、彼の詩では「昇」とすべきで、この詩でこそ「昇る雲」と解
すべきだとしている「彼の詩」とは曹風の詩を指し、「此」は衛風の蝃蝀という詩を指す。今、思うに、
嚴粲は、蝃蝀の「朝隮于西」(朝隮は西に)の次の一句が「崇朝其雨」となっているため、「昇る雲」
の意味とすべきであると考えた。ただ、毛伝の理解だと、この段落では、「蝃蝀在東」(蝃蝀東に在り)
といい、次の段落で「朝隮在西」(朝
西に隮る)と言っているから、「隮る」といっているのは、実は
蝃蝀だということになる。毛伝で「隮」を昇るとして、雲に触れないのはこのためである。(この理解
も)また宜しい。惟、曹風「南山朝(隮)」の上の句は「蕙兮蔚兮、草木翳
之秋」と言っている以上、
朝隮というのは、樵子であり、雲でないことが分かる。ここで嚴氏が毛伝を批判するのも妥当である。
それならば、笑隠が「南山朝隮」の句を用い、雲を表現するのは間違いか。いや、間違いではない。「南
71
山朝隮」という語を借用しているが、其の意味は曹風の「樵子が升る」という意味ではない。本当に
詩の分かる者は、字句にこだわってはいけない。
要約すると、『詩経』では、曹風(「候人」)と衛風(「蝃蝀」)に「朝隮」という言い方が
二ヶ所見える。その意味については、『毛伝』と『詩緝』では正反対に解釈している。これ
に対して、中巌は衛風の隮に対する解釈はぞれぞれ一理あるとするが、曹風の隮について
の解釈は厳氏のほうが妥当としている。このように、中巌の詩経理解は中国の注釈書を読
み合わせ、それぞれの解釈の当否を論じる力があるほど、高度なものであった 216 。しかも、
新注のほうをより重要視すると同時に、古注をも廃さない新旧折衷的なものであったよう
である。
中世特に初期の禅僧の学問の歴史的役割の一つに、新注採用の契機を作ったことがある。
嚴粲の『詩緝』について言うと、室町後期の儒学者清原宣賢 217の『毛詩抄』でも、新注書の
一つとして参照している。その先蹤として、中巌の『詩緝』受容を評価する必要があるだろ
う。
(二) 史部-『漢書』を中心に
中世禅僧は中国の歴史に対する関心が非常に高かった。その理由には、師資相伝を重視
する禅宗の性格上、歴史に対する関心がもともと高いこと、宋元は歴史精神の昂揚横溢し
た時代であり、渡来僧や留学僧によって、この傾向が導入されたと思われること、そして、
何よりも知識充足の要求からも、史書の学習が不可欠だったことが挙げられる。『参釈』に
見える史部漢籍名は中世の禅僧がどのような書籍に基づいて、中国の歴史に関する知識を
得ていたかを見るのに重要であろう。
各類のうち、引用回数も種類も共に正史類が最も多い。正史類に続いて多いのは地理類
と政書類である。外国の文化を理解する上で、地理的知識は興味深く、難しいことの一つで
ある。禅僧亀泉集証の選択で『方輿勝覧』が東山山荘東求堂の書院に飾られた話は余りに
も有名である。また、こうした専門的な地理書と同時に、『史記』や『漢書』などの正史類
も地理的知識の土台となっている。後で列挙する『漢書』の引用箇所に地理志からの引用
が見えるのもその裏付けとなろう。
政書類からの引用が、特に、『至元格』や『大元通制』などの当時現行の政書から見られ
るのは注目すべきことであろう。現在のところ、ほかの禅僧の記録でも、中巌の他作品でも、
上記三書についての記述はみられない。しかし、長期間に渡って中国で生活し、江南の機織
り娘に同情を寄せるような社会詩を書くような人物である中巌が、現行の法典・法律書に
接触し、興味を持つ機会があっても不思議ではない。『参釈』におけるこの記述は中巌の現
実社会に対する関心を示す一例ともなろう。
そうした正史類の中で、引用回数の最も多い『漢書』についてみてみよう。中巌と『漢
書』については、「中巌その他の博学広才も漢書までは手が届かなかったのであろうか」
とするのが芳賀の意見である 218。確かに、中巌の他の作品を見る限りでは、『漢書』に興味
を示した痕跡は少ない。とはいえ、「茂林説」で「西漢志云、豊茂於戊」
(
『漢書』志に、豊か
で茂るのは干支の戊の時であるとある)とはっきり言及している 219。さらに、『参釈』に見
える『漢書』からの大量引用は、中巌が『漢書』に相当関心を持っていたことを物語る。
では、七三ヶ所に及ぶ漢書引用は主としてどんな巻からなされたのであろうか。
(表四)
72
紀
高帝紀、宣帝紀
表
百官表(鴻臚典客)、功臣表(封爵之誓)
志
五行志、郊祀志、礼楽志、食貨志、地理志
列
項籍伝(卷三一)、張耳伝(卷三二)、
章伝(卷三八
伝第八)、曹参伝(卷三九)、叔孫通伝(卷
四三)、賈誼伝(卷四八)、司馬相如伝(卷五七下)、蘇建、子武伝(卷五四)、嚴助伝(卷六四上)、
伝
王褒伝(卷六四下)、東方朔伝(卷六五)、于定国伝(巻七一)、疏広 兄子受伝(卷七一)、張壹伝
(卷八○下)、揚雄伝(卷八七上)、王式伝(卷八八)、申公伝(卷八八)、淮陰侯列伝(卷九二)、原
渉本伝(卷九二游侠伝)、石顯(卷九三)、匈奴伝(卷九四上)、西域伝(卷九六下)、烏孫国伝(卷
九六下)、王莽伝(九九上)
間接
文選:西都賦注、函谷、劉孝標辯命論注、主父偃、江文通詣建平王上書注、鄭子真、魏都賦
引用
注、楊惲;藝文類聚:卷三三報恩、張蒼、巻三五
朱買臣魏渤 、卷九八芝房之歌
このように、『漢書』からの引用は主として伝記部分に集中していることが分かる(間接
引用部分の多くもそうである)。また、この傾向は『後漢書』や『史記』など他の正史引用
にも共通してみえる。故事に通ずることがやはり歴史書学習の主な関心の所在のひとつで
あったことを窺わせる。この傾向は後代の禅僧の間でも引き継がれており、列伝部分の抄
物が単独で行われるに至るのである。
なお、『漢書』所拠のテキストをみると、『詩経』や『荘子』(後述)のように、いくつも
の注釈本を参照する形跡はなく、もっぱら顔師古注によったようである 220。
(三) 子部-『荘子』を中心に
諸子百家のものを入れる子部類書籍は、中巌の教養の広さを最も如実に物語っている。
『太平御覧』のような類書から間接引用する例も認められるが、基本的には原典からの引
用が主と思われる。『青箱雜記』、『歩里客談』など、中巌の他の作品だけではなく、一般的
に知られている五山禅僧の読書圏、また日本現存宋・元版に見出されない書物が少なくな
い。当時の日本に伝わっており、禅僧が読んだ漢籍は現在知られるものよりも、もっと広
汎なものであったことを窺わせている。
子部の中で引用回数が最も多いのは『荘子』である。老荘思想と禅思想は、中国大陸で
既に古くから互いに影響しあい、融合していただけに、日本でも禅僧の間で老荘思想への
関心が昂揚していた。とりわけ、『荘子』に対する関心は絶大なものがあったらしく、虎関
師錬、雪村友梅、夢窓疎石、義堂周信、横川景三、桃源瑞仙など、多くの高僧が『荘子』に関心
を示した痕跡が確認される 221。中巌自身も「道物論」と「鯤鵬論」を作ったり、その文章に
讃美の辞を捧げたりしており、最も『荘子』をよく理解し、それに共鳴したものの一人とさ
れている。『参釈』における三十ヶ所に及ぶ『荘子』からの引用はまさに荘子理解者とし
ての中巌像を裏付けるものであろう。そして、更に重要なのは、『参釈』によって、中巌が何
人の注で『荘子』を読んだかが分かることである。本文とともに、注疏をも引用しているか
らである。
その内容を検討すると、中巌は『荘子』の引用に当たって郭象注、玄英成疏、陸徳明音義、
林希逸注の四種のテキストを参照していたことが分かる。一例ずつ以下に示す。
①「次韻張夢臣侍御遊蒋山五十韻」詩中「馭風」一句についての注(巻三、第二葉裏余白部)
『莊』逍遙遊夫列子御風而行、泠然善也。旬有五日而後反、彼於致福者、未数々然也。此雖免乎行、猶有
73
所待者也。注、郭曰、非風則不得行、斯必有待也。
(
『莊子』逍遙遊篇「それ、列子が風にのって行くのは、軽やかに巧みである。十五日して帰ってく
る。彼は福を求めることにおいては、あくせくとしない。これは行くことを免れてはいるが、なお、
何かに依存する必要がある。」。注で、『郭』に「風がなければ行けないのは、なお何かに依存しなけ
ればならないということである」とある。
②「次韻張夢臣侍御遊蒋山五十韻」詩中「斲堊」についての注釈
(巻三第二葉裏余白部)
『荘』徐無鬼「莊子送葬、過惠子之墓、顧謂從者曰、郢人堊慢其鼻端若蝿翼、使匠石斲之。匠石運斤、
風聴而斲之、尽堊而鼻不傷、郢人立不失容。宋元君聞之、召匠石曰:嘗試為寡人為之。匠石曰:臣則嘗能
斲之。雖然、臣之質死久矣。自夫子之死也、吾無以為質矣、吾無與言之矣。」疏、堊者、白善土也。
(『荘子』徐無鬼篇「莊子がある人の野辺の送りをして、また惠子の墓の前に足をとめた。従者を振
り返って言った。楚の国の都郢の町に生まれた左官の名人が、壁土を蝿の羽ほどの薄さでちょっぴ
り鼻の先に塗り、大工の名人匠石にそれを斤で削り落とさせた。匠石は斤をふるってびゅーという音
もすさまじく切って落としたが、左官は切るにまかせて身動きもしない。壁土はすっかり削り落と
されたが鼻にはかすり傷一つない名人芸。左官の方もじっと立ち尽くしたまま、顔色一つ変えなか
った。この話を聞いた宋の元君が、匠石をよんで、「ひとつ私のためにもう一度その芸をやってみせ
てくれ」と頼むと、匠石答えたものである。
「わたくしはなるほど以前にはうまくやれました。けれ
どもこのわたくしがその芸当をやることのできた相棒はとっくに死んでしまったのです。今では腕
のふるいようもありません。」疏、「堊は、白い土である。」
③「駿馬図」詩中「世無伯楽久矣」についての注釈(巻二、第二葉表余白)
『荘』馬蹄釈文、伯楽、音洛、姓孫、名陽、善馭馬。石氏星経云、伯楽、星名、主典天馬、孫陽善馭、故以為名。
(『荘子』馬蹄篇の『釈文』は:伯楽、音は洛。姓は孫、名は陽、馬を御すことを得意とする。『石氏星
経』には、伯楽は星の名前で、天馬の守護星である。孫陽は馬を扱うのが上手なため、伯楽と呼ばれ
ているとある。)
④「述懐送観空海帰臨川七十韻」詩中の「孤注」という一語の注釈(巻三、第五葉裏余白部)
『荘』達生以瓦注者巧。林希逸口義曰:注、射也、射而賭物曰注。寇莱公勧真宗澶淵之役、王欽若敬(嫉)
之、曰:寇準以陛下為孤注也。
(『荘子』達生篇「瓦を賭けとするものは巧にできる」。『林希逸口義』には「注は射ること、射て金
品を賭けるのを注という。寇準が宋真宗を勧めて(勝利を得た)澶淵の役を、王欽若が嫉妬し、寇準
は陛下を賭けに用いたと言った。」とある。
①に「郭曰」とあるのは、郭象の注を指し、その内容も郭象注の該当部分と完全に一致す
る。郭注は平安時代から鎌倉に至るまで広く読まれたものである 222。②の下線部分は『成玄
英疏注』の該当部分とほぼ一致する。『成玄英疏』は『郭注』とともに、『日本国見在書目
録』に著録されているだけでなく、宋末刊本の郭注と合冊の『南華真経注疏』残本五巻が
現存することから、郭注と同じく、時おり郭注と対になって、比較的早い時期から行われて
いたと推測される。③の「釈文」とは陸徳明の『経典釈文』のことで、下線部分は『経典釈
文』巻二六~二八に当たる『莊子音義』の相当部分とほぼ一致する。『莊子音義』では、
「音洛」と「姓孫」の間に「下同」という二文字が入るが、『参釈』では省略されている。
『経典釈文』については、かの有名な藤原頼長の読破した書目に入っているから 223、これも
前代から行われていたことが分かる。
④にある「林希逸口義」は林希逸著『莊子鬳斎口義』のことであり、下線部分は同書の
該当部分と完全に一致する。程頤の学問の系譜を引く林希逸の撰した『莊子口義』は道儒
74
仏三教一致の立場に立っており、その伝来と受容は日本荘子学上非常に重要な出来事であ
る。先学の研究によると、惟肖得岩(一三六○~一四三七)は日本で初めて『莊子口義』を読
んだ人で、その後、林注は次第に普及し江戸時代中期、荻生徂徠が郭象注を再び重視するま
で、他注を圧倒して荘子理解の最も重要な拠り所となったことが指摘されている 224 。惟肖
得岩と比べて、中巌の一三五八年著の『参釈』の方が時期的に早いことはいうまでもない。
惟肖得岩の講釈は『莊子口義』の普及に大きな役割を果たしたことは間違いないが、日本
で初めて『莊子口義』を読んだ人という名誉はやはり先輩の中巌に与えるべきであろう。
引用漢籍の中で、集部に入る書物は僅か『文選』と『楚辞』の二種というのは誠に奇妙
なことである。実は、これは集に入るべき文章や漢詩を引用する際、書名の代わりに、作者
名で挙げているからである。次に、引用漢詩(文章を含めて)について、整理する。
三
引用漢詩
様々な漢籍と並んで、『参釈』では、数多くの漢詩を用語例として引いてある。やや煩雑
すぎる嫌いはあるが、いかなる詩人のどのような詩文を引用しているか、時代別に整理し
てみよう。実際の引用は詩人名と詩句の形で成されているものが多いが、ここでは詩人名
と詩題の形で整理する。詩(文)題の判明しないものについてのみ、引用箇所を記す。なお、
詩題の前に◎のついているものは、『参釈』においても、題名が明記されているもの、(選)
は『文選』に収録されているもの。●とあるのは判読不可能の箇所である。
(一)引用漢詩
(表五)
詩人(回数
詩
題
順)
唐以前
張平子(5)
思玄賦(選)、東都賦(選)、南都賦(選)、西京賦(選)、四愁詩(選)
左思(4)
別兄詩(選) 、呉都賦(選)、魏都賦(選)、蜀都賦(選)
江淹(3)
擬淵明詩(選)、古離別(選)、擬休上人詩(選)
謝玄暉(3)
始出尚書省(選)、贈西府同僚(選)、謝玄暉暫使下都夜発新林至京邑
陶淵明(3)
◎皈去来辞序(選)、帰田園居五首(其四)
、雜詩(選)
顔延年(2)
五君詠五首(選) 、◎赭白馬賦(選)
司馬相如(2)
子虚賦(選)、上林賦(選)
謝宣遠(2)
於安城答霊運、(選) 王撫軍庾西陽集別作詩(選)
班故(2)
東都賦(選)、西都賦(選)
鮑明遠(2)
擬古三首(選)、苦熱行○
劉休玄(2)
○擬古二首:擬行行重行行(選)、擬明月何皎皎(選)
殷仲文(1)
南州桓公九井作(選)
顔延年(1)
五君詠五首(選)
郭璞
遊仙詩(選)
魏武帝
短歌行(選)
向秀
思旧賦(選)
呉均
別王謙詩
75
孔德璋
北山移文(選)
昭明太子
◎招隠詩
沈約
三月三日率爾成篇 (選)
宋玉
神女賦(選)
孫子荊
征西官属送於陟陽候作詩(選)
孫綽
天台賦
張景陽
雜詩十首(選)
潘安
金谷集作詩(選)
文任彦昇
奏弾劉整(選)
陸機
赴洛道中作二首(選)
陸士衡
招隠詩(選)
劉安
招隠士(選)
不明
「南箕不可欺」(選)
唐
杜甫(87)
◎佳人、◎法鏡寺、◎鳳凰、◎別贊上人、◎寄贊上人、◎丈人山詩、◎招魂彭衙行、
◎天育驃騎歌 、◎丹青引、◎戯為
双松図歌、◎大雲寺賛公房四首、帰来南鄰、
韦偃
◎戯作俳諧体遣悶二首、江漢、琴台、北征、壯遊、歳暮、遣懷、天河、草閣、空嚢、
劍門、麗人行、青陽峽、鉄堂峽兵車行、無家別、玉腕騮、鹿頭山、驄馬行、別蘇徯、
月三首、洗兵馬、観打魚歌、東屯月夜、楽遊園歌、徒歩帰行、絶句四首、魏將軍歌、
遣興三首(其の一)、曲江二首、春日憶李白、上水遣懷、贈韋左丞丈春日江村五首、大
覚高僧蘭若、偪仄行贈畢曜、登舟將適漢陽、懷錦水居止二首、千秋節有感二首、題玄
武禅師屋壁、送王信州崟北帰、飲中八仙歌奉贈蕭二十使君、贈曹將軍霸、贈李八秘書
別三十韻、奉贈太常張卿二十韻、病後遇王倚飲贈歌、寄岳州賈司馬六丈、巴州厳八使
君両化閣老五十韵、蘇端、薛復筵簡薛華醉歌、戯為六絶句、十七夜対月、不見、送長
孫九侍御武威判官、劉九法曹鄭瑕邱石門宴集、冬日洛城北謁玄元皇帝廟、八哀詩、題
衡山県文宣王廟新学堂呈陸宰、送孔巣父謝病帰遊江東兼呈李白、秋日夔府詠懐奉寄鄭
監李賓客一百韻、上韋丞相二十韻、奉和岩中丞西城晩眺十韵、秦州雑詩二十首、自京
赴奉先県詠懐五百字、奉和賈至舎人早朝大明宮、寄李十二白二十韻、茅屋為秋風所破
歌、暮春江陵送馬大卿公恩命追赴闕下、奉先劉少府新畫山水障歌、贈特進汝陽王二十
韵、送韋十六評事充同谷郡防御判官、奉酬薛十二丈判官見贈、秋日荊南述懐三十韻、
、
渝州候嚴六侍御不到先下峽、承聞河北諸道節度使入朝歓喜口号絶句十二首(その十)
大暦三年春白帝城放船出瞿塘峽久居峽谷夔府将適江陵漂泊有詩凡四十韻、嚴八使君両
閣老五十韻奉贈韋左丞丈二十二韻、夜聴許十一誦詩愛而有作、贈聶耒陽
韓愈(25)
◎南山詩、◎剥啄行◎聖德詩、◎会合聯句、◎納涼聯句 ◎陸渾山火和皇甫湜用其韻
送僧澄観、薦士、調張籍、符読書城南、芍薬歌、答張徹、醉留東野、寄盧仝、北極贈
李観寄崔二十六立之、遊青龍寺贈崔大(一作群)補闕、聴穎師弾琴赴江陵途中寄贈王二
十補闕李十一拾遺李二十六員外翰林三学士、
文:鰐魚文、与孟簡書、送李愿皈盤谷序、祭柳文、送廖道士序、黄陵廟碑、進学解、琴操、
代張籍与李浙東書
李白(17)
◎蜀道難、◎長干行、◎詠桂詩、◎鳳凰台詩、◎対酒憶賀監、◎與韓荊州書、望廬山
瀑布、春怨、古風、行路難、戦城南、前橘州詩、望月有懐、贈崔諮議、憶東山二首、
廬山謡寄廬侍御虚舟、不明:
「飛花舞風入簷前」
白楽天(3)
夢微之(十二年八月二十日夜)、琵琶行(文)、五亭記(文)
76
柳宗元(3)
遊石角過小嶺至長烏村、捕蛇者説(文)、雷塘祷雨文
王維(2)
奉和聖製暮春送朝集使帰郡応制、渭城曲
杜牧(2)
◎題魏文正詩、郡斎独酌
陸亀蒙(2)
開元雜題七首、舞馬
劉禹錫(2)
石頭城、元和十一年自朗州召至京戲贈看花諸君子
賈嶋(1)
下第
韓湘(1)
言志
皇甫湜(1)
祭柳子文(文)
岑参(1)
奉和中書舍人賈至早朝大明宮
薛能(1)
杏花
孟遲(1)
懷鄭洎
李賀(1)
馬詩二十三首其の十八
李群玉(1)
◎黄陵廟詩
李商隠(1)
籌筆驛(唐人詩とあるのみ)
李洞(1)
送雲卿上人遊安南
劉言史(1)
贈成錬師四首
劉斌(1)
和許給事傷牛尚書
盧仝(1)
◎月蝕詩
宋
蘇軾(26)
◎章質夫送酒六壺書至而酒不達戯作小詩問之、和陶擬古八首其一、其四、
贈李道士、
菩提寺南漪堂杜鵑花再用前韻 、次韻王鞏独眠、次韻王忠玉游虎丘絶句三首其一、狄
詠石屏、次韻定慧欽長老見寄八首其二、書破琴詩後、雨后行菜圃、答范淳甫次韻答
王定国、孔長源挽詞二首其一、過子忽出新意以山芋作玉糝羹色香味皆奇絶、王鞏清虚
堂、予以事繋御史臺獄二首其二、留題延生観後山上小堂、題孫思邈真、閻立本職貢図、
慶源宣義王丈以累舉得官為洪雅主簿雅州戸掾遇吏民如家人人安楽之既謝事居眉之青
神瑞草橋放懐自得有書來求紅帶既以遺之且作詩為戯請黄魯直秦少游各為賦一首、寄蘄
簟與蒲伝正、次韻致政張朝奉仍招晩飲、記所見開元寺呉道子畫仏滅度以答子由題畫文
殊普賢、回先生過湖州東林沈氏飲醉以石榴皮書其家東老菴之壁云西鄰已富憂不足東老
雖貧楽有余白酒釀來因好客黄金散尽為收書西蜀和仲聞而次其韻三首東老沈氏之老自
謂也湖人因以名之其子偕作詩有可観者其二、王晋卿作『煙江疊嶂図』僕賦詩十四韻晋
卿和之語特奇麗因復次韻不独紀其詩畫之美亦為道其出處契闊之故而終之以不忘在莒
之戒亦朋友忠愛之義也
黄山谷(12)
次韻張仲謀過酺池寺斎、王文恭公挽詞二首(之二)、寄裴仲謨、奕棋二首呈任公漸之二、
戲和于寺丞乞王醇老米、贛上食蓮有感、有懷半山老人再次韻二首(之一)、欸乃歌二章
戲王稚川(之二)、次韻楊君全送春花 、◎(謝黄従善司業寄)惠山泉詩、送顧子敦赴河
東三首(之二)、次韻楊明叔見餞十首之十并序
王安石(2)
純甫出釈惠崇画要予作詩、「霜筠雪竹鍾山寺」(冷斎夜話巻四収録)
朱熹(2)
与諸人用東坡韵共賦梅花、與臺端書
楊誠斎(2)
◎過霅川大溪詩、◎奔牛閘
蘇子由(1)
◎巫山広詩
陳簡斎(1)
墨梅詩
陳后山
◎贈二蘇公
元
77
虞伯生(3)
行道記(文)、龍翔寺碑(文)、御史台記(文)
郭秦穢(1)
良工康刀☆文。
張子湖(1)
『徐韓彦直淮東提挙制』
物初大観(1)
不明「塤篪播清響」
上表から分かるように、あわせて六十四人の詩人の二百以上の詩(文)が引用されており、
漢詩に対する中巌の造詣の深さを物語っている。唐以前の詩人はすべて『文選』に収めら
れているもので、中世になっても、『文選』は引き続き重要視されていることがここからも
確認できる。唐詩では杜甫、李白、韓愈の三者、宋詩では蘇軾と黄庭堅が多いのは、当時の漢
詩受容の基本的風潮と一致している。また、当代(元)詩人として、中巌の派祖にあたる物初
和尚と並んで、虞集(伯生)の名前が見えている。もちろん笑隠が虞集の表現を踏まえてい
るからではなく、虞集が笑隠の行道記を撰したため、笑隠の行跡を説明する際に引用した
り、当代関係の事物の説明に引いたりしている。虞集の名及びその文集が日本に知られる
ようになったのは、不聞契聞や別源円旨ら古林の会下に列した禅僧によってであると芳賀
は推測している 225が、大慧派の立場から、中巌もまた虞集紹介者の一人として数えられる
のではなかろうか。
(二)最も多く引用されている杜詩
次に、引用が圧倒的に多い杜詩について、少し詳しく分析してみよう。中国文壇における
尊杜風潮の影響を受け、中世禅林では、平安時代に貴族社会で人気の高かった白居易に替
わって、杜甫詩は高い評価を受け、大いに行われた。その様子については、芳賀幸四郎や朝
倉尚の研究があるが、中巌については、朝倉は考察の対象として扱っていない 226。一方、
芳賀は杜甫に関心のある初期禅僧の一人として中巌を紹介しているが、彼にもまして「杜
甫を高く評価したのは義堂周信である」としている。しかし、この評価については少し考
え直す必要があるように思われる。中巌の杜甫への関心の高さについては、芳賀が指摘し
た四つの文章からでは正確に評価できないと思われる。『参釈』において、六十人以上の
詩人の作品の中で、杜詩だけでその半分近くを占めているのは、笑隠の詩に杜甫の詩を踏
まえている部分が多いこと、手元に杜詩集を持っていたなど 227の物的要因を考慮しても、
やはり注釈者中巌の杜詩に対する傾倒ぶりを窺わせるものであろう。実際、そのおびただ
しい杜詩の引用の間に、杜甫に対する中巌の評価も散在している。代表的なものを二ヶ所、
以下に引用する。
まずは、一首目「猗蘭辞」で、なぜ孔子の作である琴操を引用せずに、杜甫の詩を例に出
しているのかという人の詰問に対して、中巌は次のように答えている。
(原文)
対言:吾未之信、夫琴操作者果為誰耶、惟韓文有之、今以老杜視退之猶子孫耳、(中略)老杜下筆如有神、
可謂集而大盛者也、退之不可及也。
(現代語訳)
(私は)次のように答えた。「私はそれを信じていない。『琴操』の作者は果たしてだれであろうか。(孔
子だというのは)韓愈の文章にあるだけだ。杜甫と韓愈を比べたら、韓愈は杜甫の子孫のようなもの
である。(中略)杜甫は筆を下ろすと、神業のような文章を書く、正に集大成者であり、韓愈は彼に及ば
ない」。
78
このように、杜甫重視の理由の一つは、杜甫自身の言葉を引いて、その文章(詩)をすばら
しいと考えていたことにあることが分かる。ちなみに、韓愈に対する中巌の評価は、多くの
用例を引いていることからも分かるように、決して低いものではない。しかし、杜甫の偉大
さを強調するために、韓愈を引き合いに出すことになんら躊躇しない。これは留学の章第
三節で述べた韓愈認識と共通する。大いに影響を受けていながらも、決して全面的に心服
しているわけではないのだ。
もう一つ挙げよう。「初発金陵夜泊龍湾寄茅山道士李方外」詩の「人生不必行万里」句に
ついての注釈で(巻二、第四葉表余白部分)、 次のようなことを引いている。「古人云、不行
一万里、不読万巻書、不可以観杜詩」(昔の人は言った。一万里を歩いて、一万巻の本を読ん
でからでないと、杜詩を読んではいけない)。
このように、中巌の杜甫評価を見ると、中巌こそ中世禅林で杜甫を絶賛し・崇拝した最初
の人物と言えよう 228。
次に、杜詩の引用はどのようなテキストに基づいているかを見てみよう。
杜詩には、非常に多くの刊本や注釈本がある。日本に現存する宋元版だけでも、『新刊校
定集注杜詩』(残本)等、『集千家注分類杜工部詩二十五巻』、『杜工部草堂詩箋四十巻・杜
工部草堂詩年譜二巻』、『集千家注批点杜工部詩』の四種類がある 229。では、中巌が参考に
していたものはこの中にあるだろうか。『参釈』における杜詩の引用で、詩句とともに注を
引用している箇所が十五ほどある。それを上記諸本と照合してみると、現存点数の最も多
い『集千家注分類杜工部詩二十五巻』(徐居仁編、黄鶴補注、五点、以下『集千家注』と略す
る)の該当個所とほぼ完全に一致していることが分かる。二例ほどを以下に挙げてみよう。
『集千家注』からの引用は注の部分のみとし、()内文字は『参釈』にない文字である。
(表六)
『参釈』
『集千家注』
①「送許典史」冒頭二句の注(巻二、第九葉裏、詩題のす
「丈人山詩」:
ぐ下の余白部分)、杜丈人山詩、自為青城客、不唾青城
自為青城客、不唾青城地
地。
青城山在漢中郡。(趙曰)、唾地者、有所悪
注、青城山在漢中郡。唾地者、有所悪而唾也。所不唾其地、
而唾也。不唾其地、所以敬之也。
所以敬之也。
(現代語訳)
「丈人山詩」
:自分は道教徒
(現代語訳)
であるため、青城山で唾を吐かない。
杜甫の「丈人山詩」
:自分は道教徒であるため、青城山で
青城山は漢中郡にある。(趙の解釈は:
唾を吐かない。
地に唾くのは、嫌がるところがあるから
注:青城山は漢中郡にある。地に唾を吐くのは、嫌がると
吐くのである。その地で唾をはかないの
(青城山
ころがあるからである。その地で吐かないのは、
は、
(青城山に)敬意を表すからである。
に)敬意を表すからである。
②「送鎦文美知事赴燕南」
「初扈蹕」句注(巻四第一葉裏)
杜詩「扈蹕上元初」。扈、従也。蹕、鳴蹕也。天子之出、鳴
「贈李八秘書別三十韻」:
(洙曰)、扈、従也。蹕、鳴蹕也。天子之出、
蹕以清道。
鳴蹕以清道。
(現代語訳)
(現代語訳)
杜甫の詩「扈蹕上元初」。扈は従う。蹕は、先払いの意味。
洙の解釈は、扈は従う。蹕は、先払いの
天子のお出ましには、先払いをして道を空けさせる。
意味。天子のお出ましには、先払いをし
て道を空けさせる。
以上の例から分かるように、注者の名前を省略したりするような細部の違いはあるが、
杜甫の詩の引用にあたって、中巌は『集千家注分類杜工部詩二十五巻』を利用したと断定
79
してよいであろう。この注釈本は宋代分類本系統のなかで、最高峰とされるものである 230。
それを利用していたということは、当時の中国文化の最新成果の輸入と受容の最先端を走
っているのは禅僧であったことの一好例といえよう。
史跡足利学校所蔵の『挿注参釈広智禅師蒲室集』は中巌が春屋和尚の要請に応えて、五
山版の『蒲室集』の余白部分に詳細な注釈を書き込んだもので、現存のものは足利学校九
代庠主三要元佶の写本と思われる。『参釈』制作に当たって、中巌は八十種を超えた漢籍と
二百以上の漢詩(文)から引用をしており、その博学ぶりを窺わせている。その一部分の漢
籍は、『参釈』でのみ確認されるものであり、中巌の読書範囲だけではなく、一四世紀当時
の漢籍輸入問題を考えるうでも、重要な記述となる。また、漢籍を経・史・子・集別に整理
し、各分野の代表的な漢籍『詩経』『漢書』『莊子』及び漢詩で最も多く引用されている杜
詩について分析すると、中巌は従来言われている以上に、時代を先取りする先駆者である
ことが分かる。惟肖得岩が始めて読んだとされていた新注系の『莊子鬳斎口義』は、実は
中巌が既に読破していたことが、その象徴的な一例であろう。引用文献名が確定できない
ものを含め、他の注釈書 231との比較など、未解決の問題が多く残っているため、『参釈』の
内容について、今後も様々な角度から研究を続けたいと思う。
第四節
中国文人観-韓愈と楊雄を中心に
中巌の著作の中では実に多くの中国文人が言及されている 232。そのなかには、自らの作
品にその語句を引用するだけではなく、その生き方に共鳴を覚え、影響を受けた人も少な
くない。本節では帰国初期の著作にとくに強い影響が確認される揚雄と韓愈にしぼって考
察したい。また、それと同時に、中巌の文章観を確認したい。
一
揚雄観
揚雄(五八BC~一八)は前漢末から王莽の新にかけての文学者・思想家として中国で名
高い。日本には、揚雄伝のある『漢書』、その詩賦を所収する『文選』が比較的早い時期
に伝わり、広く読まれただけでなく、『法言』などの揚雄の著書も日本に伝わったことか
ら考えて 233、古代にはすでに知識人の間で揚雄はある程度受容されていたと思われる。中
世に入ってから、禅僧の詩文集の中で、揚雄の表現を踏まえるものが増えてきている。た
とえば、龍湫周沢は詩文集『随得集』の中で、『法言』を多く引用している 234。またこの
時代随一の学者で、中巌も非常に尊敬している虎関師錬が元僧一山一寧に揚雄の学問につ
いて質問し、『太玄経』を貸与してもらったことや 235、後に足利義満の相談役として活躍
し、学問上中巌を尊敬している義堂周信が後学(祖井蔵主)に詩学への沒頭を戒める際に、
揚雄の「壯夫も為さざるなり」を引き合いに出していることなどが確認される 236。しかし、
彼らの関心は揚雄の表現の借用が中心であり、その人物像、生き方にまでは言及していな
い。それと比べて、中巌の揚雄への関心は、故事や表現の借用のみでなく、その儒学思想
に触れ、さらにその生き方にまで共鳴を覚えていたと思われ、独特なものである 237。以下、
具体的にみてみよう。
留学時代にしたためた文章の中で、揚雄の引用があったことは前節で触れたとおりであ
るが、帰国後、特に帰国直後に書いた一連の文章の中でも、揚雄はしばし引用されている。
とくに、一三三三年に書いた「與虎関和尚」と一三三四年にしたためた『中正子』の「序
篇」における揚雄に関する叙述は、文章の構成上重要な役割を果たしているので、詳しく
80
みてみよう。
(一)
「與虎関和尚」における揚雄描写
まず、
「與虎関和尚」を見よう。
一三三二年に中巌は商船に便乗して帰国を果たしたが、戦乱や自らの病気のため、しば
らく九州に滞在していた。やがて、戦乱も収束し、上京する目処がたって、一三三三年七
月に中巌は虎関に手紙を出している。虎関は中巌より十三歳年上で、臨済宗聖一派の僧で
ある。彼の事跡として渡来僧一山一寧を訪ねた時、本朝の名僧の事績について尋ねられ、
満足に応えられなかったことをきっかけとして、一三二二年『元亨釈書』を著したことは
最もよく知られている。中巌と虎関との交渉は一三二一年までさかのぼれる。『自歴譜』
によると、鎌倉から上京した中巌は南禅寺に仮住まいし、虎関を訪れ、本朝の高僧の伝を
聞いた。そして、翌一三二二年夏に中巌が自分の書いた文章を虎関に見せたところ、ほめ
られたこともあった。十一年ぶりの再会を前にして、中巌が虎関に出した手紙は情熱にあ
ふれたものであった。その主な内容は、虎関のような先輩の引き立てによって自分の「文
章事業」を世に送りたいという気持ちを綴っているが、以下、その中における揚雄認識を
中心に考えることにする。
この手紙の内容は大きく三つの部分に分けることができる。まず、冒頭の部分で、「某
上書三聖虎関和尚座下。前達之有鴻烈緝熙、而不為後進所傳称。則庸詎雷霆其声於万世耶。
後進之有文章事業。而不為前達所挙用。則亦庸詎龍鳳其質於一代耶。二者相遇、必有時焉。」
(私中巌は三聖寺虎関和尚にお手紙を差し上げる。先輩が広大で輝くような業績を持って
いるのに、後輩によって喧伝されなければ、どうしてその声を万世までとどろかせること
ができようか。後輩がうまい文章を書けても、先輩によって推挙してもらえなければ、ど
うして、当代において頭角を現すことができようか。両者が出会う時は必ずやあるだろ
う。)と、先達と後進のあるべき付き合い方を呈示している。つまり、後進の伝称がなけ
れば、前達は自分の「声」(主張)を後世に伝えることができない。前達の挙用がなけれ
ば、後進は文章事業があっても世に用いられることはない。論旨は非常に明快である。
「前
達」は即ち虎関、
「後進」は即ち自分を意味していることが容易に推測される。
第二の部分は「座下~亦宜矣」まで、約四百字の長さにわたって、前達である虎関の学
問の素晴らしさを賛美している。「応答接問之論、以至子思孟軻荀卿揚雄王通之編。旁入
老列莊騒班固范曄太史紀傳。三国及南北八代之史。隋唐以降五代趙宋之紀傳。乃曹謝李杜
韓柳歐陽三蘇司馬光黄陳晁張江西之宗伊洛之学。」
(人の質問に答えるにあたって、その議
論は子思、孟子、荀子、楊雄、王通の文章を取り上げ、また老子・列子・莊子・離騒、班
固・范曄・司馬遷の史書の紀伝、三国や南北朝八代の史書、隋唐以降五代趙宋の紀伝、さ
らに曹植、謝霊運、李白、杜甫、韓愈、柳宗元、欧陽修、蘇洵、蘇軾、蘇轍、司馬光、黄
庭堅、陳師道、晁補之、張耒、江西詩派、程朱学まで及ぶ。)と、虎関は儒学、史学、文
学と中国文化のほぼあらゆる面に深い造詣を持っていることを述べ、絶賛している。その
中で、一連の儒学者の一人として揚雄の名前も出ている。子思や孟子と並べられていると
ころからみると、中巌が揚雄を尊敬していたことは容易に想像できる。
虎関の賛美後、第三部分では話をもう一度「先達」と「後進」の関係に戻し、はっきり
と虎関は「先達」として「後進」を挙用すべきで、自分はそのような「後進」の一人にな
りたいと明言する 238。そして、「座下姑求後進者、而能挙用之、則必有如范逡劉歆劉子桓
譚者、敬奉鴻烈、且称所著書以傳之万世、則楊子雲豈惟寂寞而已哉。
」
(あなた様、もし後
輩を推薦すれば、必ずや范逡劉歆劉刘棻桓譚のように、先輩の素晴らしい業績を尊敬し、
81
その著書を後世まで伝える者が出てくる。そうすれば、楊雄もまたさびしい思いはしない
だろう。)と、「先達」が「後進」を挙用する必要性を再度強調する。「先達」が「後進」
を挙用すれば、後進によってその著書が後世まで伝わると、冒頭で述べている内容と同じ
ロジックであるが、具体的な例をあげて説明することによって、説得力の増加をねらって
いるのだろう。そして、その例として挙げられているのが揚雄である。虎関が後進を「挙
用」すれば、必ず(揚雄を讃えた)「范逡・劉歆・劉歆の子供・桓譚」のように、虎関を
尊敬する人がいる。それによって、著書が後世に伝わるだろう。そうすれば、揚雄もさび
しい思いをしないで済む。これによって中巌は虎関を揚雄に擬していることがわかる。で
は、なぜそのような擬し方をしたのか、その必然性あるいは両者の共通点はどこにあるの
だろうか。中国では、揚雄に対する評価(特にその政治的立場に対する評価)は必ずしも
定まっているわけではないが、すばらしい著書を書いているにもかかわらず、生前は理解
者が少なかったという点はほぼ共通認識になっている(詳しくは次項を参照)。中巌も基
本的にこの認識に立っている。この揚雄像から推測すれば、中巌は虎関もすばらしい著書
を持ってはいるが、いまだに理解者が少ないと思っていることが想像される。では、事実
はどうであろうか。虎関の著書というと、当然『元亨釈書』が想起される。その序によれ
ば、虎関は一三二二年に後醍醐天皇に、一三三二年に光厳天皇にそれぞれ上表して、同書
を大蔵経に入れて、天下に施行せん事を奏請したが、いずれも取り上げられなかったとい
う記述がある。よって、同手紙による揚雄への言及は知識の見せびらかしではなく、状況
にあった援用であることがわかる。
(二)
『中正子』
「序篇」における揚雄描写
虎関に手紙を出した四ケ月後に、中巌は大友貞宗を伴って上京した。「上建武天子表」
をはじめ、文章力を披露したが、貞宗が急死したために後援者を失い、京都を離れること
を決意し、鎌倉に戻った。鎌倉で有名な政治議論文『中正子』を執筆した。
同書外篇一の「序篇」では、揚雄に再び言及している。
「序篇」の内容は主に『中正子』
著述のきっかけを述べているものであるが、大筋をまとめると、以下のようになる。中巌
が仁義・性命・死生の理について語るのを、何人かの仲間は、是非、書に表して、世に流
布させようと勧める。しかし、中巌は一旦断っている。断る理由として揚雄の例を出して
いる。すなわち、揚雄のような人物でさえ、同時代には言が信ぜられなかったのに、まし
て、自分のようなものはというのが断る理由である。しかし、みんなは一旦退いたものの、
再び中巌を説得しに来る。中巌はついにその説得に折れて執筆を承諾する。その理由は、
「在則人、亡則書」という意見に同感したためであるが、これも揚雄の『法言』
「吾子篇」
に見える言葉である。照れ隠しのためか、中巌は再び、「承諾したのは、みんなの要請を
断り切れなかったからで、揚雄にならおう(つまり、後代で盛名を獲得する)というよう
な大それたことは考えていない」と念を押す。このように、表向きは卑下した言い方をし
ているが、実際は揚雄に自分の理想像を重ね、その言動をモデルに、自らの行動を決しよ
うという姿勢がはっきりと窺える。では、中巌の揚雄像は具体的にどんなものだったのだ
ろうか。文中三回揚雄を引き出しているが、基本的内容は、最初に依頼を断った時に掲げ
た次の内容に含まれている。
(原文)
在昔楊雄丁漢代用文之時、生蜀郡毓秀之地、博究群書、文冠天下。議論至理、出乎天入乎淵。不詭
聖人、度越諸子。而作大玄五千文、苞羅元気、通達無倫。又以為諸子其知舛馳、詆訾聖人、輒為怪
82
詭之辞、以撓世事。雖云小辯、終破大道。故作法言、洞徹古今、有補於世也。以予望之、由泰山北
斗不可及也。且夫西漢之為代、文物全盛之時也。成都之為土、人才炳霊之処也。雄生于茲、得時而
不失処者也。然亦官為郎、給侍黄門、校書天祿閣、劉棻從而学奇字。新室召而為太夫。寔非微而不
顯者也。然当初之人。以為子雲祿位容貌。不能動人。故輕其書。嗚呼。甚矣、人之賎近貴遠也如此。
言之難見信也。久矣。
(現代語訳)
むかし、楊雄は漢代という文が重視される時代に、蜀というすばらしい土地に生まれ、群書を博覧
し、天下一の文章を書いていた。その議論は天上より出て地下に入るほど広大で、深遠なものであ
る。孔子の理に適い、諸子を越えている。
『大玄経』を作り、宇宙形成の原理を包みこみ、比類のな
い達観を示す。またかれは、
「諸子はその知は正道をはずし、聖人を攻撃し、よく詭弁を弄して、世
の事を乱した。小辯とは言っても、聖人のに大道を破る」と考えたため、
『法言』を作った。古今を
洞察し、世のためになった。私からみれば、泰山や北斗のように高くて及ばない存在である。しか
も西漢という文物全盛の時に、成都という優秀な人才が輩出する場所に生まれ合わせた。時と場所
をともに得たとも言える。しかも官は郎となり、黄門に給侍し、
(宮殿内にある蔵書閣である)天祿
閣で書物の校正をした。
(侍中である)劉棻は雄について奇字を学び、王莽の新によって太夫として
任命された。身分の低い卑しい身分ではない。にもかかわらず、当時の人々は彼の官職や容貌は人
を動かすことができないという理由で、その文章をも軽んじた。ああ、まことにひどい話である。
このように、人々は近きを賎しめ遠きを貴ぶものである。真理が信用されないこともまた昔からの
ことである。
表現に若干の異同はあるが、揚雄の行実の基本的事実は『漢書』巻八七所収「揚雄伝」
に拠っている 239と思われる。ただ、その評価には、中国での一般的な揚雄論と共通するも
のもあるし、中巌の独創的なものもある。
ここで中国における揚雄観の変遷を簡単にまとめる。まず、『漢書』では、大儒として
尊敬しながらも、生前の官位が決して高くなかったことを意識し、「実好古而楽道、其意
欲求文章成名於後世」と評価している。
偉大な儒者であると同時に不世出の文章家であるという揚雄像は、唐代、さらには北宋
時代まで知識人の間で主流であった。たとえば、韓愈が揚雄を「聖人之徒」と評したこと
はよく知られている 240。しかし、南宋になって、朱熹は揚雄が王莽政権に仕えたことを潔
くないとし、揚雄批判論が展開されるようになった。朱子は『資治通鑑綱目』巻八「莽大
夫揚雄死」の条で、揚雄の死を当時の言葉として犯罪者扱いの「死」という語を使って、
筆誅を加えている。さらにその儒者の立場についても「揚雄則全是黄老」
(『朱子語類』巻
一三七)と否定するようになった。朱子のこの揚雄論は、それ以降の中国の知識人に大き
な影響を及ぼしていく。とくに、朱子学が官学として尊崇された明代に入ると、揚雄の彫
像を孔子廟から引き上げようという動きも出たほどである。
以上のような中国での評価と比べると、中巌は揚雄を儒者として高く評価していること
は、『漢書』から韓愈に至る系譜の説を受けたものであることが分かる。特に、新に仕え
たことについての評価は、朱子の説と相反するものであり、『漢書』や韓愈など、いわゆ
る揚雄支持派にも見られないものである。王莽政権は短命に終わり、早くから簒奪政権と
されたことから、揚雄仕新については、朱子によって筆誅を加えられる以前、揚雄を尊崇
する説が主流だったころでも、その評価は避けられていた。それに対して、中巌は『中正
子』「叙篇」で「新室召為大夫、寔非微而不顯者也」と、新の大夫になったことを官位上
の出世として褒め称えている。これは無位無官の自分と対照をなすという文章構成上の必
要からきているものであると同時に、仕新という行動自体を中巌も認めていることの現れ
83
であることはいうまでもない。政権交代の際、新政権(たとえ、その政権が後世から見て
短命に終わるものであっても)への転身を是とする考えが思想の底にあることは明らかで
ある。しかし、たとえ短命に終わるかもしれないと分かっている政権でも、中巌には用い
てもらう可能性がなかったのである。(この時点で、中巌は後醍醐政権に深く危機感を感
じていたことについては、次章を参照。
)
『中正子』執筆時の中巌自身のおかれた立場とあ
わせて考えると、揚雄のようになろうとは到底思っていないという中巌の心中の苦さは察
してあまるものがある。
このようにみると、中巌にとって、揚雄は文章家と儒者という身分だけではなく、その
生き方全般に共鳴を覚えた存在であったことは明らかである 241。
二
韓愈観
帰国初期の文章でたびたび言及し、自らの行動の参考にしたもう一人の中国の文人は韓
愈である。韓愈(七六七~八二四)は中国・中唐を代表する文人士大夫である。彼は名高い
文章家としてのみならず、儒学の復興を唱えた人間としても知られる。また、儒学重視の
立場から排仏論を主張したことも有名である。宋代に入ってから彼の推し進めた古文運動
が文壇で主流の位置を占めるようになったため、儒禅一致が行われ、文章作成への関心が
高まる中国の禅林社会で、排仏論者として仏教側から糾弾されるはずの韓愈の文章もその
宗教立場とは別個に広く読まれるようになった。中巌が留学中に韓愈の学習に励んでいた
ことは前述のとおりである。帰国後の中巌の著述のなかでも、韓愈に関する内容は少なく
ない。中巌は虎関師練に次いで、日本における韓愈受容の初期の代表的人物であり、彼の
韓愈に対する評価は、その排仏思想を批判するが、文章をは推奨したことは従来から指摘
されているが 242、具体的に彼の文章や行動様式にどのような影響を与えたかについての考
察はない。そこで、本稿では、帰国直後に書いた「胡為乎賦并序」にしぼって中巌の韓愈
認識を考察したい。
「胡為乎賦并序」の序によると、一三三二年四月、留学の成果を故国で大いに生かそう
と意気軒昂して帰国した中巌は博多についた。しかし、航海の疲れからか、彼は病に倒れ
た。そしてやっと病気が治癒しても、後援者もいないので鎌倉には帰ることができず、博
多多々良の顕孝寺に寓居していた。その時、町で中国の江南から来た犬がかごに乗せられ
関東の某大官に献上されようと行進していく行列があった 243。これに比べて同じく江南か
ら帰ってきた君は国にとって、その役割は犬にも及ばないと中巌は来客に言われた。そこ
で中巌は韓愈の「二鳥賦ならびに序」を想起し、「胡為乎賦并序」を書いたのである。韓
愈の「二鳥賦并序」は、韓愈が二九才で博学宏詞科の試験に落第した後、西安郊外で、二
羽の鳥が皇帝に献上されようとしているのを見て、自分の身の不遇を嘆いて作った作品で
ある。境遇の相似性から、中巌はそれを想起したのであろう。
以下、両篇の異同を詳しく見よう。わかりやすいように、表にした。
84
(表七)
(原文)
(読み下し)
(韓愈原文)
胡為乎賦并序
胡為乎の賦并びに序
感二鳥賦并序
歳在壬申、夏四月、予、帰
歳は壬申に在り、夏四月、予、江南より帰
貞元十一年、五月戊辰、愈
自江南。時罹病、息于博多。 す。時に病に罹り、博多に息めり。秋の八
東帰。癸酉、自潼関、出息
秋八月、病癒。遙跋故里、
月、病癒ゆ。遙跋たる故里、東に海渺漫と
於河之陰。時始去京師、有
東海渺漫渺漫途修、無有為
して途修く、援を為す者有る無くして止
不遇時之歎。見行有籠白
援者而止。借榻神山閑房而
む。榻を神山閑房に借りて臥す。有る客来
烏、白鸜鵒而西者、号於道
臥。有客来問曰、卿見行有
たり、問いて曰く、卿見るか、行に犬を輿
曰、「某土之守某官、使使者
輿犬喝道而東者。曰、某人
ぎ喝道して東する者有るを。曰く、某人江
進於天子。」東西行者皆避
使江南所獲旅犬、献於関東
南に獲る所の旅犬をして、関東某州某官に
路、莫敢正目焉。因竊自悲
某州某官、舁之而進。道傍
献ぜしむ。之を舁きて進む。道傍過ぐる者、 、幸生天下無事時、承先人
過者、辟而遠望、不敢近視。 辟けて遠望す、敢えて近視せず。子も亦た
之遺業、不識干戈、耒耜、
子亦江南而来、其為利于
江南より来たるも、其の利を国に為すは、
攻守、耕穫之勤、読書著文、
国、不若之犬也哉。呂東莱、 之が犬に若かざるか。呂東莱、蕭氏の台城
自七歳至今、凡二十二年。
以蕭氏餒死台城、故斥仏者
に餒死するを以て、故に仏者を斥けて衛君
其行己不敢有愧於道、其閑
為衛君之鶴。今、子之不遇
の鶴と為す。今、子の不遇や、或いは之に
居思念前古当今之今之故,
矣、或由之乎。且夫之犬所
由るか。且つ夫れ之が犬の幸す所は、独だ
亦僅志其一二大者焉。選挙
幸者、独以其非土性耳。子
其の土性に非ざるを以てのみ。子も疇に他
于有司、与百十人偕進退,
也疇適他、今従他来、実非
に適く。今他より来たるも、実に異土の産
曾不得名荐 書、歯下士于
異土所産、故不見貴乎。予、 する所に非ず、故に貴ばれざるか、と。予、 朝、以仰望天子之光明。今
聞之、愀然不答。客、退。
之を聞き、愀然として答えず。客、退き、
是鳥也,唯以羽毛非有道德
予窃惟、韓愈感二鳥賦固
予窃かに惟えらく、韓愈の『二鳥に感ずる
智謀、承顧問、賛教化者,
然、然不訓致命遂志之理、
の賦』は固より然り。然れども、「致命遂
乃反得蒙采擢荐進、光耀如
故有感激怨讟之詞。知道之
志」の理にを訓はず、故に感激怨讟の詞有
此。故為賦以自悼、且明夫
士、必不取爾。予、作胡為
り。道を知るの士、必ず取らざるのみ。予、 遭時者、雖小善必達;不遭
乎賦、其詞曰
『胡為乎賦』を作り、其の詞に曰わく、
時者、累善无所容焉。其辞
曰:
嘻噫、胡為乎
嘻噫、胡為ぞ。
何帰乎
既涅其衣鬜其顱
既に其の衣を涅くし、其の顱を鬜すれば、
吾将既行而後思
胡不安分而暇居
胡(なん)ぞ分に安んじて暇居せざるか。
誠不足以自存
曩予詢道離郷閭
曩に予は道を詢(と)い郷閭を離れ、
苟有食其從之
泛柏舟兮出海隅
柏舟を泛かべ、海隅に出づ。
出国門而東騖
濤澎湃兮将糜舳艫
濤、澎湃として将に舳艫を糜ぼさんとし、
觸白日之隆景
霧滃渤兮莫知逌于
霧、滃渤として于く逌を知る莫し。
時返顧以流涕
修螭巨鼇閃舌懽娯
修螭、巨鼇、閃舌して懽娯す、
念西路之羌永
輿曵此生亡散形軀
此の生くるを輿曵し、形軀を亡散す。
過潼関而坐息
餬口他国
他国に餬口し、
窺黄流之奔猛
于楚于呉
楚に于き呉に于く。
感二鳥之無知
何地不寧
何れの地か寧からざらん、
方蒙恩而入幸
未嘗空盂
未だ嘗て盂(う、さら)を空しくせず。
惟進退之殊異
夙愆罔懲
夙愆、懲る罔く、
增余懷之耿耿
弾鋏帰歟
弾鋏して帰するか。
彼中心之何嘉
嚥酸茹苦
酸を嚥み苦を茹して、
徒外飾焉是逞
85
寔無図所
寔に図る所無し。
余生命之湮阨
仍遭疾兮、止中塗
仍りて疾に遭い、中塗に止む。
曾二鳥之不如
噫嘻、胡為乎
噫嘻(ああ)
、胡為れぞや
汨東西與南北
已往者不可諫
已に往きし者は諫むべからず
恒十年而不居
庶来今、奛諸
庶わくは来今、諸を奛まん
辱飽食其有数
敢忘桑梓之陰乎
敢えて桑梓の陰を忘れ(ん)
況策名於薦書
亶勿務速而疾駆
亶し、速きに務めて疾駆すること勿かれ、
時所好之為賢
況予嚢兮乏蓄
況や予の嚢、蓄えに乏しきをや。
庸有謂余之非愚
固欲進兮
固より進まんと欲すれども、次且す
昔殷之高宗
次且异哉、復何須
异んぬるかな、復た何ぞ須いん
得良弼於宵寐
筑之山高可廬
筑の山の高くして廬とす可く、
孰左右者為之先
築之水清可汲
築の水は清くして汲む可く、
信天同而神比
築之土腴可鋤
築の土は腴にして鋤く可し。
及時運之未来
築之人仁可倶
築の人は仁にして倶にす可き。
或両求而莫致
無復営求
復た営求すること無し。
雖家到而戸説
体胖心舒
体胖かにして心舒びやか、
只以招尤而速累
時多閑暇
時に閑暇多く、
蓋上天之生余
粲理古書
粲らかに古書を理む。
亦有期於下地
追懐蒙荘腐鼠之莫顧
蒙荘を追懐し、腐鼠の顧みざるを、
盍求配於古人
244
寧歎退之二鳥之不如
寧んぞ歎かん退之、二鳥の如かざるを 。
独怊悵於無位
縦旅獒之承寵兮
縦い旅獒の寵を受くるも、
惟得之而不能
奚為亦有感於予
なんすれぞ亦た予に感有らん。
乃鬼神之所戲
禽獣無知入幸兮(隔対①)
禽獣無知にして入幸は
幸年歳之未暮
固出不需
固(もと)より需めざるに出づ。
庶無羨於斯類
人恃能而不遇兮
人、能を恃むも遇せざるは、
知不及愚
知、愚に及ばず。
覆其羹触其諱兮(隔対②)
其の羹を覆し其の諱(き)に触るるは、
猷速自吾
こいぬ、吾より速し
雖言無羨斯類兮
斯の類を羨むこと無しと言うと雖も、
其意区々
其の意は区々たり。
噫嘻、胡為
噫嘻、胡為れぞ、
與其鶏鶩争食乎(隔対③)
其の、鶏鶩(けいぼく)の食を争うよりは、
寧為鵷雛之択梧
寧ろ鵷雛(えんすう)の梧を択ぶを為さん。
與其蜣蜋穢沃乎
其の蜣蜋の穢沃よりは、
寧為孤鶴之清臞
寧ろ孤鶴の清臞たらん。 245
鴻飛冥冥兮
鴻は冥冥を飛び、
矰繳何拘
矰繳、何をか拘えん。
河水洋洋
河水は洋洋として、
孔子曰命也夫
孔子、命なるかな、と曰う。
86
(現代語訳)
胡為乎賦并序
感二鳥譜並びに序
一三三二年夏四月、私は中国江南より帰国した。その
貞元十一年(七九五)五月、私韓愈は東の方、
時病気に罹り、博多で休んでいた。秋の八月には、病
故郷に帰ろうとした。五月七日、
気が治癒した。故郷に帰りたいが、海が東のほうに茫
潼関を出発し、黄河の南岸で休んでいた。
洋と広がり、援助してくれる人もいないために、あき
この時、私は都を離れたばかりで、自分の不
らめて、顕孝寺の閑房に仮住まいしていた。客が尋ね
遇を嘆いていた。途次、籠に白烏と白鸜鵒を
てきて、「あなた、犬を輿に乗せ、道払いをしながら
入れて西の長安に向かっていく者を見た。先
鎌倉へ行く人を見ましたか。
」と言って、また、
「ある
払いが「「某地の某官が、使者を遣わして皇
人が中国江南から輸入してきた犬を、関東の某大官に
帝に献上する。」と大声で叫んでいる。東に
献上するために、之を舁に乗せていた。道を行く者は
西に行く人たちはみな道を避けて、正視しよ
みな避けて遠くから見ていて、近づいて見ない。あな
うとする者はいない。これを見て、私はひそ
たも中国から帰ってきているのに、国への利益は、そ
かに自分を哀しんだ。幸いにも天下太平の時
の犬にも及ばないのか。宋儒呂祖謙は梁武帝が台城で
世に生まれ合わせて、先人の遺業を継ぎ、兵
飢え死にしたことを理由に、仏教徒を亡国の鶴と同じ
器や農具を手に、戦争や農業の苦労をしたこ
だと退けた。(春秋時代の暗君衛の国主は鶴を寵愛し
とはない。ただ、書物を読み文を作り、七歳
たため、国の滅亡を招いたとるされている)
。今、あ
から今に至るまで二十二年になる。この間の
なたが不遇に陥っているのは、あるいはそのためか?
私の行いは、道に恥じるようなことはなく、
また、その犬が寵愛される理由は、舶来品だからだけ
閑居して読書するにあたっては、古今の事を
であるが。あなたはかつて留学し、現在帰国している
考え、その重要なことを文章にした。関係役
が、やはり本物の外国人ではない。そのために人から
所に推挙されて、百十人といっしょに審査さ
大事にされないのか。」と言った。これを聞いた私は
れたが、推薦名簿に名を載せ、下級の官位に
不愉快になり、黙って答えなかった。客が帰った後、
列せられて、天子様の聖徳を仰ぎみることは
私はひそかに思ったのは、韓愈の『二鳥に感ずるの賦』 できなかった。これに対して、今この二羽の
はもっともであるが、命を投げ出して本心を貫く「致
鳥は羽毛が美しいためだけで、道徳と知略等
命遂志」の道理に従っていないため、旧い立ったり怨
を備え、皇帝の顧問となって天子の教化を助
み憎んだりすることを書いた。道を知っている人な
けるわけでないのに、推薦抜擢されて、その
ら、そのようにしない。私は以下のように『胡為乎賦』 光輝くことこの通りである。そこで、賦を作
を作った。その辞にいう。
り、自らを悼み、時世に遭うものは、僅かな
ああ、どうしてか。出家して、頭を丸めたのに、どう
徳を持っているだけでも必ず出世できるの
して分に安んじてのんびりと過ごさないのか。むか
に、時世に遭わないものは、多くの素晴らし
し、私は道を問うために故郷を離れ、船に乗って海に
い美徳を持っていても、認められないことを
出た。波が澎湃として、船団を木っ端微塵に破りそう
明らかにする。その辞に言う。
になり、霧はどこまでも濃く続いて、行き先が分から
私はどこに帰れば良いのだろうか。私は都を
ない。長い螭、巨大な亀、大型の怖い動物は獲物ほし
後にして考えた。自らを養うことさえできな
さに舌を仄めかせながら喜んでいる。船が揺れて、命
いので、取りあえず、食があればそこへ行こ
を落としそうになった。異国でなんとか食いつなぎ、
う。都の大門を出て東へと馬を走らせ、太陽
楚や呉に行き、どんなところでも落ち着くことがで
の強い日影に触れて、たびたび振り返っては
き、皿がからっぽのようなことはなかった(いっぱい
涙を流し、都への道のりはすでに遠いことを
勉強してきたという意味)。かつての失敗に懲りるこ
思う。潼関を通過して一息つき、黄河が滔々
となく、(春秋時代の馮湲がやったように)人に認め
と流れていくのを眺める。二羽の鳥は知識も
てもらおうと刀のツカを叩いて帰ってきた。辛酸を嘗
ないのに、天子の恩を受け、お目通りがかな
め尽くしても、図る所はなかったので、病気になり、
ったことに思いがいたる。進退のことさらの
途中で倒れてしまった。ああ、どうしてか。過ぎ去っ
違いが、一層私の焦燥を増す。あの鳥の心の
87
たものは止めることはできない。願うのは明るい将来
中には何がよいものがあるだろうか。外見の
だ。故郷の恩を忘れはしない。ただ、急いで帰ること
美しさで羽振りがよいだけだ。私の人生は不
はない。まして
今懐がさびしい。もとより帰りたい
幸であり、この二羽の鳥の境遇にも及ばな
と思うが、また迷ってしまう。やめたよ、ほかにまた
い。四方に奔走し、この十年の間、一所に落
何が要る?博多の山は高く、家を建てることができ、
ち着けずにいる。腹一杯食べることも少な
博多の水は清く、飲むことができ、博多の土は肥沃で
く、官吏として抜擢されることなどもっての
耕すことができ、博多の人は仁にして友達にできる。
ほか。時世が好むものが賢人であるのだか
これ以上求めることはない。体が太り心がのんびりし
ら、私のことを愚者ではないと言う人がおろ
て、時間があり、古書の勉学に励む。一国の宰相の地
うか。昔殷の高宗は夢に立派な臣下の傅説を
位をも腐鼠として顧みない荘子を思えば、二鳥に劣る
得た。周囲の廷臣の誰かが彼を推薦したのだ
ことを悲しむ韓愈は嘆かわしい。たとえ犬が寵愛を受
ろうか。まさに天と神様のお告げと言えよ
けても、自分の身の上を嘆く必要はない。無知な禽獣
う。時運が回ってこない時には、推薦を求め
がえらい人に寵愛されるのは、もとより望むところで
ようと、試験を受けようと成功しない。咎め
はない。有能な人が知遇を得ないのは、賢者が愚かな
や恨みを招くだけである。思うに、私が天か
者に及ばない。料理をひっくり返したり人の諱みに触
ら生を受けた以上、地上での活躍を期待され
れたりばかりして、子犬の方が自分より早く出世する
ているはずである。どうして傅説に並ぶこと
ありさま。犬などうらやましいことはないと言って
を求めずに、官位につけないことばかりを哀
も、気は塞がる。ああ、どうしてだ。鶏や家鴨とえさ
しむのだろうか。地位を得ても傅説に並びえ
を争うよりは、寧ろ『荘子』にある気高い鳥鳳凰のよ
ないのは、きっと鬼神のたわむれの仕業だろ
うにそれにふさわしい高い枝しか選ばない。まろ虫の
う。幸いなことに、私はまだ若いので、彼ら
ように汚く肥えるよりは、寧ろ孤鶴のように清く痩せ
を羨まないでいたい。
たい。鴻(おおがり)は遥かな空を飛び、いぐるみに
からめ取られることはない。河の水が広々と伸びやか
に流れているが、孔子の言ったように、
(私が不遇な
のは)運命だろうか。
)
中巌自らが韓愈の「二鳥賦并序」を想起して書いたと言っているように、両文には相似
している部分が多い。たとえば、序文の書き出しなどは、一見して似通っていることがわ
かる。しかし、一方で違いもある。まず、文体は序と賦からなる構成は共通するが、賦の
書き方には違いがある。韓愈の賦は四句ほど七字の字余りの句があるが、基本的には六字
からなっているが、中巌の賦は、字数がより自由で、四字句、六字句、七字句、八字句、
九字句が共存しているだけでなく、対も単句対と同時に隔句対が併用されている。賦の分
類に従っていえば、文賦である。文賦とは、中唐以後、古文復興運動の影響を受けて成立
した散文風の賦のことで、押韻は比較的自由であり、句の字数も不揃いであることが多い。
事物の羅列に終始し、飾り立てるような字句を好んで使った初期の漢賦と比べ、中身のあ
る質実剛健な文章が好まれる。特に、隔句対は宋代以降よく見られるようになった対句形
式で、禅宗の疏で使用が義務づけられている。作成のきっかけは韓愈の文章を想起したた
めであるが、実際の作成においては、かつて百丈山や智者寺など禅寺で習得した作疏力を
駆使したことは明らかである。一方、韓愈の賦は、彼が古文復興運動の旗手になる前の青
年期の作品で、中身のある内容などの点で、文賦の特徴の兆しが見えているが、六字の句
の遵守などからみると、完全な文賦にはなっていない。
文章スタイルの違いだけではなく、内容的にも、韓愈に触発されたことを認める一方で、
似たような境遇にはいるが、自分は韓愈と違う人生観を持っていることをアピールしよう
88
としている姿勢も読み取れる。たとえば、「韓愈の二鳥賦は恨み言が見えるが、道を体得
したものはこのような書き方はしない」と、韓愈の詩作態度を批判した語句もある。そし
て韓愈と違い、窮境にいながら、自分はむしろ、今の生活を楽しんでいることを極力見せ
ようとしている。「筑之山高可廬、築之水清可汲、築之土腴可鋤、築之人仁可倶。無復営
求。体胖心舒」というように博多での生活に満足している様子を歌う。
しかし、中巌の心中は、本当にこのように何も求めない境地になっていたのかというと、
そうではない。暇つぶしに本を読んでいると、『荘子』の腐鼠の話しに出会った。一国の
宰相という地位をさえ腐鼠として省みない荘子の境地に感心し、自分も荘子のように、鶏
鶩の食(すなわち腐鼠)を争うなどしない鵷雛のようになりたい。と一応結論を出してい
るものの、その精神状態はおよそ荘子から縁遠いものである。たとえば、荘子の話をする
一方で、依然として「人恃能而不遇、知不及愚」と繰り返す。中巌の本心はやはり遇され
る(権力者に重用される)ことを願っているのである。もし、本当に荘子の境涯であれば、
「遇」そのものを「腐鼠」のような価値のないものとして見るはずである。
このように、彼が韓愈を批判し、一線を画そうと勤めているにもかかわらず、入世的な
人生観をもっているという点では、中巌は結局韓愈と同じである。韓愈と違うところと言
えば、むしろ、韓愈の賦は、用いられたい、必ず用いられる時が来ると声を高くして明言
している 246のに対して、中巌はもっと屈折した表現をしているところである。やはり、禅
僧という身分上、早く用いられたいと明言するのがはばかれたのだろうか。
しかし、実際に知遇の機会が訪れたとき、中巌は決して迷わなかったし、照れも隠しも
しなかった。同賦の作成から約一年後の一三三三年七月に、戦乱が収束し、中巌に上京の
めどがたった。それに先立って、中巌は虎関に自薦の手紙を出したことは前記したとおり
である。
中巌は自ら告白していないが、「與虎関和尚」も「胡為乎賦」同様韓愈の文章の影響を
受けたものである。「七月二十三日、某上書三聖虎関和尚座下。前達之有鴻烈緝熙、而不
為後進所傳称、則庸詎雷霆其声於万世耶。後進之有文章事業而不為前達所挙用、則亦庸詎
龍鳳其質於一代耶」という冒頭部分は韓愈の「輿鳳翔邢尚書」(鳳翔邢尚書に与える書)
の書き出し「愈再拝。布衣之士、身居窮約、不借勢於王公大人、則無以成其志。王公大人、
功業顯著、不借誉於布衣之士、則無以広其名。(後略)」(韓愈は(邢尚書に)再拝しる。
貧窮な生活をしている無官の平民は、貴人高官の力を借りないと、その志を遂げることは
できない。素晴らしい功績を持っている貴人高官は、平民の喧伝を借りなければ、その名
声を広めることができない。
」
)の模倣であることは明らかである。揚雄とならんで、文章
によって立身した理想的モデルの一人として韓愈を目指していることが窺える。
では、「與虎関和尚」で中巌が極力アピールしようとしている自分の「文章事業」はどの
ようなものなのだろうか。個人の心情を歌う「胡為乎賦」のような作品は中巌の文学の重
要な一部分であるのは間違いないが、立身出世の手段として用いたいのは、むしろ「上建
武天子表」に代表されるように、政治的テーマのものであろう。それについては詳しくは
次章で考察することにする。
以上、四節に分けて、今まであまり詠まれていなかった作品を中心に中巌の文筆活動に
ついて考察してみたところ、次のようなことが分かった。文章力の習得、文章に対する自
信、さらに文章のみならず文章を書いた人の生き方への関心などという点では中国留学中
に大慧派下での経験が大きな役割を果たしたこと。また、大慧派下で書いた作品に見られ
る特徴は、帰国後の文学活動にも深く影響したこと。たとえば、漢詩の創作において、典
拠のある言葉を多用するだけではなく、その援用において常に変化を求めたり、新味の付
89
加を試みたりしていること。これによって、中巌の詩風は宋詩的な要素、特に黄庭堅の影
響を受けていると思われることが明らかになった。五山僧における黄詩の受容については、
一般的には応仁の乱前後から流行しだしたことが知られている。それに対して、初期五山
僧の黄詩受容の研究はほとんどない。なかでも、中巌と黄庭堅については、今まで全く注
目されていなかった。たとえば芳賀は、中巌は黄庭堅については一言も触れていないと考
えている 247。本章で、中巌の詩作における黄詩の影響を確認し、またその立場から中巌の
詩の解読をも試みたが、まだ分析した作品の数は少なく、視点も主に「点鉄成金」「奪胎
換骨」という黄詩の特徴の一部にすえているだけである。今後より多くの作品を、より多
様な視点から解読することを試みる必要がある。
90
第三章
儒学的政治思想の展開
中巌は日本大慧派の派祖、また五山文学の先駆者として活躍しただけではなく、儒学思
想を開陳し、しかもそれを実際の政治に生かそうともしていた。不立文字をスローガンと
し、
「三乗十二分教、皆是拭不浄紙」
(一切の経典・教学はみな厠の紙である)248とまで徹
底した行を重視する禅宗において、外学である儒学は、本来排除されて当然のものであっ
た。しかし、実際には宋代以降、士大夫の参禅を得て発展した禅宗の間では、儒仏一致思
想が見られるようになり 249、儒学教典の研鑽や習得が禅林の風潮となっていた。よって、
日本に伝えられた禅宗は最初から儒学(しかも、古注のかわりに当時中国で流行している
宋学)に対する関心を持っていた。たとえば、聖一派派祖東福寺開山で、最も早い時期に
禅宗を日本に持ち帰った一人である円爾の蔵書目録であるかの有名な「普門院蔵書目録」
に、『晦庵大学』・
『晦庵中庸或問』・『論語精義』・
『孟子精義』など朱子の述作の多いこと
250
はよく知られている 。また、中巌の学問上の師の一人であるとされる虎関師錬も宋学に
造詣が深かったとされている 251。しかし、初期の禅僧たちには、儒学に対する知識はあっ
たが、学問的関心によるものか、あるいは禅を批判する宋学を論破するためのものであり、
それを政治思想として実際の政治に役立てようという考えはなかった。それに対して、中
巌の儒学観は虎関師錬などと比べ、はるかに寛容だっただけでなく 252、儒学を禅学と同様
に、彼の思想の重要な一部分としており、とくに政治権力などと関わるときには、時には
禅学よりも儒学の思想を政治思想として前面に出すことも少なくなかった。儒学を単なる
学問としてではなく、それを実際の政治活動・社会生活において指針として用いることこ
そ、中国における儒学の重要な特徴の一つであった。また、日本中世社会で儒学(とくに
宋学)が新たに脚光を浴び、重視される理由の一つもそこにあった。後醍醐天皇が玄慧よ
り宋学を学び、それを自らの政治思想の一部としたことや、義堂が義満に『中庸』の学習
を薦めたことはよく知られている。中巌は、後醍醐天皇とも義堂ともかかわりがあり、ま
た年齢的にも二人の間に位置する人物である。彼がどのように儒学を理解し、またそれを
実際に政治にどのような形で反映させようとしたのかを明らかにすることは、彼自身の思
想の解明だけではなく、中世における儒学の受容の過程を理解する上でも有益であろう。
一方、禅僧、特に臨済宗の禅僧と政治権力との関係についてみると、臨済宗が日本に伝
えられた当初から密接な関係にあった。これは、禅僧側としては新しく伝えられた宗派と
して政治権力のバックアップを必要としていると同時に 253、権力側も禅宗を保護し、また
それを統制する必要性があったからである 254。むろん、個々の禅僧によって権力との関わ
り方、政治参与への姿勢には違いがある。中巌の活躍していた鎌倉末から南北朝時代まで
の時期についてみれば、政治権力と密接な関係を持ち、自派の発展を築いただけでなく、
中央政権の禅宗政策にも大きな影響を与えた人物は夢窓とその派下の人たちである。夢窓
は隠遁指向の強い前半生を送っていたが、しかし、一旦出世を決めたあと、鎌倉幕府、後
醍醐政権、足利幕府(北朝朝廷)にともども帰依を受け、没後の追贈を含むと、夢窓自身
は七朝の国師と言われるまでになった。彼が主導して進めた天龍寺造営と五山昇格、安国
寺利生塔の建立などによって、夢窓派はゆるぎない中世禅林の主流派となった。また、足
利幕府もそれによって禅宗統制(五山制度)を一層整えたのである 255。政治権力と関わる
中で、直義と尊氏が反目した際、調停役を務めたことがその象徴的ケースであるように、
夢窓は時には宗教者としての立場を超え(あるいは両方から帰依を受けているその立場を
生かして)、政治に参与する場合もあったが、その政治思想の特徴はやはり仏教的な活動
によって、政治権力の政治的要求に答え、国づくりを進めることにあるとされている 256。
一方、中巌は政治権力とどのようなかかわり方をしたのだろうか。一三三三年、彼は大友
91
貞宗の仲介で後醍醐に自ら上表したことがその代表的な例であるように、若い時から一貫
して積極的に政治権力と関わろうとした。また、上表と同時に奉った「原民」
、
「原僧」と
いう二篇の上表から見てわかるように、彼の関心は宗教政策にとどまらずに、為政全般に
向けている。しかも、彼の政治参与の具体的な手段は、儒学思想に基づいた自分の考えを
文章にし、それによって為政者に影響を与えることであった。これが政治権力と関わる際、
夢窓を含むほかの禅僧との相違点ともなっている。
中巌自身、自分が宗教者のひとりとして少しもはばからずに積極的に政権側に働きかけ
ていることについて、他人がおかしいと思うだろうと意識し、その疑問にはっきりとした
答えを出している。即ち、「上建武天子」のなかで、「臣是山林一芥、宜当與草木共朽也、
世之利害、非所交関、然以区区是言、不避煩黷之誅者、何也、実為天下、不為身也、実為
万世、不為于一時名望之榮也」と明言している 257。実に天下のためであり、万世のためで
あるというこの発言は「以天下為己任」258(天下を我が責任とする)という儒学思想の担
い手である中国の士大夫の伝統的な発想に共通していることは明らかである 259。当然、こ
のように天下という理念を上表で明示しているのは、中巌自身の士大夫的傾向を示してい
ると同時に、天皇側にそれを認める可能性があることが前提であった。この時代、儒教的
政治思想の一環である天下思想は既に日本で受容され、ある程度定着していたのである。
たとえば、上表より三年前の一三三○年に、吉田定房が後醍醐天皇に奉ったとみられる諫
奏文(『浄修坊雑日記』所収)には「王者万民之父母也、以天下為家、以民庶為子」
(王た
る者は万民の父母であり、天下を家とし、民を子供とする)という内容があることが知ら
れる 260。
では、彼のこのような政権に対して積極的に働きかける姿勢、また儒学の思想は具体的
にはどこに由来しているのだろうか。まず、儒学については、すでに幼少時から論語など
の儒典に触れてはいたが、本格的な習得はやはり留学中であり、中国で儒者と交流したり、
大慧派の派下にいる間に習得したものであろうと先学によって推測されている 261。ここで
それを裏付ける資料を一点加えよう。中巌晩年の随筆集『文明軒雑談』四四九条には、金
華智者寺で「偶閲程朱易伝」(たまたま朱子と程子の『易』書を読んでいた)という記述
がある 262。『易』は儒学の五経の一つで、中巌は智者寺で程朱の注を勉強していたことが
注目される。
また、政権に対して積極的に働きかける姿勢も大慧派つまり東陽の影響によるところが
大きいと思われる。政治に強い関心を持ち、またその担い手である士大夫たちと深い交流
をもつのは、大慧派派祖大慧宗杲の時代から続いてきた伝統である。中巌の師である東陽
もこの伝統の系譜上にいた人物である。彼は詩文などを通じて、文人たち(士大夫)と交
流していたことはすでに述べたが、彼の当時の政権(元の朝廷)とのかかわりで最も特筆
すべきことは『勅修百丈清規』の編纂に携わったことである。
この清規の編纂はその師の晦機元熙の遺志を継いだものである。百丈清規は唐代の百丈
懐海禅師が制定した初めての禅寺での生活規範であるが、時代が下るにつれ、散逸してし
まった。そのため晦機はその決定版を作り、政権に働きかけて刊行しようと構想していた
のだが、その志を果たせずに世を去ってしまった。その遺志を継いだのが東陽であった。
一般的な解説では『勅修百丈清規』は元の順帝の勅によって東陽徳煇が編集したとされて
いるが(たとえば、花園大学禅籍データベース『勅修百丈清規』の解説文)
、
『勅修百丈清
規』巻頭文書によれば、実際には、師の意志を継いで東陽が編纂したものを朝廷に依頼し
て「勅修」にしてもらったようである。朝廷から「勅」をもらうことによって、みずから
の編纂した清規に正統性を付与しようとした考えが窺える。もっとも、百丈懐海は東陽の
直系の遠祖にあたる上、東陽自身は当時百丈山に住していたため、彼の編んだ清規は「勅」
92
という冠がなくても、自ずから正統性を持っているはずである。それでも、「勅修」とし
てもらったのは、彼が政治権力の保護の役割の大きさをよく分かっていたからであろう。
実際、大慧派は宋末から元初にかけては、勢力は下火にあった。それがまた再興の機会を
得たのは、元の文宗トク・テムルの保護によるところが大きい。トク・テムルは武宗カイ
シャンの王子であるが、父の死後、続く三代の大カアンの治世下で冷遇され、江南の各地
を転々と流移していた。その間に金陵で大慧派の禅僧東陽の法兄である笑隠大訢と親しく
交わったようである。中巌の『挿註参釈広智禅師蒲室集』にも、笑隠が即位前の文宗のた
めに詩を書いていることを記述している 263。このトク・テムルが都大都でクーデターによ
って大カアンに担ぎ出されたのは一三二八年であった。その即位後の一三二九年、即位記
念事業の一環として、政権の全面援助のもと、金陵で滞在していた屋敷跡に大龍翔集慶寺
の建立を決めた 264。その住持に東陽の法兄である笑隠大訢が任命された。この大龍翔集慶
寺は「五山之上」という称号を得ただけではなく、行宣政院(仏教統轄機関宣政院の江南
の出先機関)の官とともに、江南五山派禅宗寺院の住持を選任するという、人事権をも認
められていた。やがて明初にかけて、隆盛を極めていったのである。東陽が朝廷に「勅修」
にしてもらうよう願い出てしかも認められたのは、このような背景下であった。
中巌は、あたかもこの清規の編纂事業の最中に東陽の下で修行していたのである。しか
も「勅修」にしてもらうよう朝廷に働きかけるため、東陽が上京しようとしたのに同伴し
ていたことがある。一三七五年、東陽の弟子で中巌の法弟の契中玄理が、帰国する日本僧
渓上人に中巌の詩(通州蚤行)に和韻した作を託した。その中で、かつて東陽が清規が勅
修になった後、謝意を述べるため、再度上京した際、前回の上京の際には、中巌が途中の
通州まで同伴していたことを回想したという内容を述べている 265。
中巌が帰国後示した政権への強い接近志向、たとえば、後述する後醍醐天皇への上表な
どという行為は東陽の下でのこのような経験と無関係ではありえないだろう。もちろん、
その具体的な内容は、日本の現実に合わせて変化が見られるだろう。以下、帰国後の中巌
はいかに文章という媒介を通して、政治担当者とかかわり、自分の政治思想を表明したか
について具体的に考察したい。
第一節
後醍醐政権下における著作活動-儒学的政治思想の初表明
後醍醐政権下に書いた著作で、その儒学的政治思想が強く窺えるのは「上建武天子」
(
「原
民」「原僧」を含む)と中正子である。以下、この二篇に見られる中巌の政治思想につい
て考察しよう。
(参考として同三篇の訓読及び現代語訳を付録としてつける)
一
「上建武天子」と「原民」
帰国して一年たった一三三三年に後醍醐天皇に奉った「上建武天子」(以下「上表」と
略す)は、中巌の儒学思想に基づいた最初の政治議論文と言ってもよい。まず、この上表
が実現された時代背景について簡単にみてみよう。
留学の目的を達成したと判断した中巌は一三三二年春、六年にわたる留学生活を終え、
無事日本に帰還した。しかし、「黎庶を化」しようと、意気込んで帰国した彼を待ってい
たのは間近に迫った戦乱の兆しであった。中巌が日本を離れた一三二五年は、後醍醐天皇
が計画した一回目の政変、正中の変が事前に発覚し、側近の資朝は鎌倉へ連行されたのち
流刑となり、天皇自身は幕府に釈明して赦された年であった。中巌が帰国した一三三二年
は、天皇が二回目の討幕計画元弘の乱を起こし、失敗した次の年である。この時天皇自身
93
も隠岐に流された。中巌が日本に到着する一月前のことであった。一旦失敗したかに見え
た二回目の討幕の試みは、その後、護良親王のゲリラ的な抵抗戦や、楠正成のわずかな手
勢をもってさまざまな奇計を駆使する小規模の抵抗が容易に挫かれなかったことから、さ
らなる抵抗の成功への期待が生まれ、増幅されていく。
一三三三年に入ると、播磨の赤松則村が護良親王の檄に応じる形で兵をあげ、また九州
では菊池、阿蘇が、伊予でも土居、得能ら諸氏が護良親王の令旨を奉じて兵を起こすなど、
反幕府の動きは次第に広がりを見せ始める。こうした情勢を見て、後醍醐も配流先の隠岐
を脱出して出雲から伯耆に入り、名和長年に迎えられた。そして、決定的な臨界点を画し
たのは、赤松の蜂起を鎮圧すべく征討の軍を率い西上した足利高氏の転身であった。源氏
の正統に最も近い血統をひき、鎌倉幕府では北条氏につぐ格式を認められていた武家の名
族の離反は、幕府に大きな打撃を与え、足利方に転ずるものが続出した。さらに、これに
呼応するように東国では新田義貞が挙兵し、また九州でも反幕府勢に多くの武士が加わり、
幕府・反幕府の力関係は大きく後者へ傾いた。ついに、五月には六波羅が、ついで鎌倉、
さらに九州の鎮西探題も攻略され、鎌倉幕府は滅亡した。後醍醐は六月四日、足利高氏の
軍事的制圧下にある京都へと帰還した。翌五日に二条富小路の皇居に入り、あらためて復
位を宣言するとともに光厳天皇の立てた皇太子を廃した。また、解任した鷹司冬教に代わ
る関白を置くことをせず、それまで院や摂関にも分有されていた官の機構を作動させる権
能を、天皇に一元化した。禅宗政策については、七月二十三日には夢窓が勅をうけて京に
のぼり、臨川寺に住した。八月には虎関師錬に謁を賜り、十月一日には大徳寺を五山の一
となした。十月二十日には前円覚寺住持清拙正澄が建仁寺に入院した。同月には建長寺の
住持明極楚俊を南禅寺住持と為した。五山の新しい順位配列の正式な制定は建武年間(一
三三四~一三三八)まで待たれるが、以上の人事から、禅宗の中心をそれまでの鎌倉から
京都に遷そうという意図が窺える。権力を天皇の手に回収しようという後醍醐の施政理念
と一致する方策である。
中巌は、朝政のこのめまぐるしい変化の様子を、九州にいながら、一通り知っていたと
思われる。それは、留学に行く前からすでに彼の外護者となっていた大友貞宗がこの過程
において一立役者として活躍したためである 266。貞宗は五月二十五日に少弐貞経や南九州
の島津貞久らと兵を合わせて九州探題北条英時を博多に攻め、自害させたのである。翌六
月十日に鎮西平定の状を奏し、高氏よりこれを労する書を得ている。一三日に高氏に鎮西
の降人捕虜等の処分を任せられ、八月二十八日には勲功の賞として、博多息浜を賜った。
中巌の『自歴譜』によると、五月に「関東亡」びた時、彼は豊後の万寿寺にいたが、秋
には博多に帰っている。おそらく大友貞宗の戦勝を祝うためであろう。冬には大友貞宗に
従い上京し、南禅寺の蒙堂にいた 267。南禅寺には留学前の元亨元年冬から元亨二年夏まで
仮住まいしていたことがある。この時新たに住持になった明極が洞院実世に後醍醐天皇の
再度の践祚を予言したことは『太平記』で有名な史実であるが、明極の入院で南禅寺は新
政権と密接な関係にある場所になったと思われる。このような政治に敏感な場所にいた中
巌は、さらに外護者大友貞宗の薦めもあって、「上建武天子」「原民」「原僧」を後醍醐天
皇に奉った。この上表という行動が一般的によく知られているにもかかわらず、その具体
的な内容(「原民」、「原僧」を含む)についてはほとんど検討されていないのが現状であ
る。
(一)
「上建武天子表」
この上表の内容の大筋は三つの部分に分けることができる。(原文及び現代語訳は付録
94
を参照されたい)
。
最初の部分ではまず、中国では「王」には「受禅於人者」(人より禅譲を受けた者)と
「得命於天者」(命を天より得た者)の二様式があることを指摘し、商・周・漢・唐・趙
宋の歴代王朝の初代皇帝を後者であるとする。続いて、隋の儒者王通の言葉を引いて、法
の変革の必要性を説く。このあと、中国の歴代王朝における法の変革の具体的な例を挙げ
て、説明する。なかでも、秦の商鞅による変法や、漢の董仲舒による変革の議論を詳説し
ている。第二の部分では後醍醐を「得命於天者」と規定し、よって、命を天より得た中国
のそれらの政権と同じように、旧法を変革する必要があることを説く。第三の部分では、
自分の上表の目的を明らかにした上で、その具体的提言である「原民」「原僧」の実施を
懇願している。
正しいあり方(理論的根拠)、現状、解決策という三段構成は、提言書としては非常にわ
かりやすい体裁をとっていると言えよう。帰国後、初めて自分の政治思想について述べる
機会を得た中巌の文章の行間には若き熱気に溢れている。現状の難局であることを意識し
ていながら、中国で学んできたことをふんだんに披露し、為政者がそれを手本に為政を行
えば、かならず現状打開はできるという意気込みと明るい姿勢が読み取れる。
この上表の内容の特徴と言えば、まず、挙げられるのは中国の歴史に関する豊富な知識で
あろう。しかも、それは決して単なる知識の顕示ではなく、中国(なかでも儒家の思想)
を手本とすべき意図がはっきりと読み取れる。よって、その内容は現状にあった説得力の
あると思うものを選んでいる。たとえば、商鞅による変法が詳しく取り上げてられている
のは、変法の初期、新法を不満に思う人が大勢いたということが、当時の日本の様子と同
じであるからである。一三三三年五月の幕府滅亡をうけて、後醍醐は京都に新政権を樹立
するのであるが、彼は強力な専制政治を志向した。しかし、審理を尽くさず即決に走った
ので、同一の所領を恩賞として複数の人に与えるなどといった不手際が続出したり、自分
の側近や公家の利益を保証したいがために、競争関係にある人たちの不満を呼ぶことも少
なくなかった。ために在地は大いに混乱し、京に上って直訴するものが後を絶たない。そ
のような光景をおそらく中巌も目撃していたのだろう。
商鞅変法のほかに、中巌がとくに紙幅を多く割いたのは王通と董仲舒の言葉の引用であ
るが、両者にはともに変革を強調するという中巌の主張にあう言説があることは、当然最
大の理由である。
「陛下、感董生(董仲舒)王通之至言、而収臣懇誠、則天下万民之幸矣」
(陛下、董仲舒と王通の至言に感心し、私の誠意を受け止めてくだされば、それは天下万
世の幸いである)と、中巌が自ら明言しているように、この二人の名前は後醍醐にとって
説得力があるものと中巌が考えていたことも分かる。董仲舒の言説の引用は『漢書』であ
る 268。『漢書』は中国だけではなく古くから日本でも三書の一つとして崇められ、貴族階
級の教養の一つであった。董仲舒という名前は当然後醍醐天皇も知っていたと思われる。
中巌と『漢書』については、従来影響関係が見つからないとされていたが、実は熟読して
いたことについては第二章で述べたとおりである。このように、自らよく知り、しかも相
手も詳しいだろうということから董仲舒の名前を出したと考えられる。一方、王通は、隋
代の人であるが、その著作『文中子』が中国で注目されるようになったのは、宋の阮逸に
よって注が施されて以降である。日本への輸入も当然比較的新しい 269。後醍醐天皇の新し
さ好きについては、『梅松論』の「いにしへの興廃を改めるともに、いまの例は、古の新
義なり、朕の新義は未来の先例たるべし。
」という記述によって現在も広く知られている。
同時代の中巌もおそらく知っていたことを物語る資料として、彼が上表とほぼ同じ時期に
書いた「寄前大理藤納言 実世」(前の大理納言洞院実世に寄す)という詩がある。八句
からなる七言律詩であるこの詩の趣旨は上表と共通する部分が多い。首聯では、聖徳の天
子(後醍醐)と賢臣(実世)のいる世を喜ぶことから始めているが、引き続き実世のいる
95
建武の新政後の雑訴決断所の様子を褒め称える頷聯では「儀転新」という一句がある 270。
後醍醐政権のもとで天皇をはじめとしてその廷臣たちは「新義」を好み、それを目指して
いることを中巌も知っていたことを物語っている。王通の名前を出したのは、この新しい
ということと、宋学に関心のあった後醍醐にとっては、説得力のある名前であると中巌が
判断して引用したのではないかと思われる。
次に、中巌の情勢判断が当を得ているかどうか見よう。この上表で中巌が力説している
ことは主に二点であった。一つは後醍醐天皇を「得命於天者」と規定していること、つま
り後醍醐政権の正当性を儒教的政治論によって説明していることである。正統性のことは
後醍醐天皇にとって一三一八年即位当時から重大な問題であった。その理由は、一つは「一
代の主」という後醍醐自身の特異な立場の克服のためであった。両統迭立のなか、大覚寺
統のなかでも、後醍醐は、兄後二条の皇子邦良に皇位を無事に伝えるまでの中継ぎの天皇
に過ぎなかった。討幕はまさにこの立場を克服するために行われたものである。また、天
皇家内部の対立を超えて、天皇の地位そのもの、即ち王権そのものにかかわる深刻な危機
意識があったことはいうまでもない。中世初頭、承久の乱で伝統的公家勢力と新興の武士
勢力との間で武力による対決がなされ、武士側の勝利という結果が生まれた。これによっ
て、天皇を中心にした公家政権の神聖不可侵性という神話が崩壊し、天皇の正当性を他の
思想によって説明する試みが見られるようになった。
「有徳者為君」
(徳のある者が君主と
なる)に代表される中国の儒教的徳治主義はその一つである。たとえば、後醍醐天皇と反
対陣営にいる持明院統の花園天皇が『誡太子書』で、
「以薄徳欲保神器、豈其理之所当也」
(薄い徳で神器を保とうとするのは、どうして当たり前なのだろうか。いや当たり前なは
ずがない。)と説いていることはよく知られている 271。もちろん、花園天皇の真意は太子
が徳を磨かなければ、皇位は大覚寺派の手中に入るという意味で、天皇家以外の手中に入
る可能性までは認識していないと思われる。しかし、公家社会以外の人間にとって、「有
徳者為君」を論じる場合、現在の天皇家の排除は可能性としてはありうるのである。よっ
て、討幕に成功した後醍醐の新政権にとって、正当性の賦与は望まれることであるが、
「得
命者於天」という中巌の定義は無条件に喜べるものではなかったと思われる。実際、後醍
醐天皇は宋学に強い関心を持つ一時期はあったものの、その関心は討幕の思想的支えとな
りうる君臣関係を説く名分論の部分にあり 272、自らの地位の妥当性を易姓革命思想に求め
るということをついにしなかった。この思想は諸刃の剣であることを認識していたからで
あろうか。よって、「得命於天者」という中巌の言い方は、正統性の証明がほしい後醍醐
の意図には合っているが、そのまま採用されうるものではなかったことと思われる。
二つめに説いていることは、変革の必要性である。この点では「新儀」を好んだ後醍醐
政権の姿勢と共通するものである。また、商鞅による変法が決行によって成功を収めたよ
うに、新政権の新しい政令もきっとうまくいくだろうという議論も、天皇を喜ばせる内容
であるが、何を変革すればいいかについては、上表では述べていないので、以下「原民」
と「原僧」によってそれをみよう。
(二)
「原民」
「原民」という文章名から当然連想されるのは、韓愈に三原で知られる「原道」
、
「原性」、
「原毀」という一連の名文があることである。韓愈に対する中巌の造詣の深さについては
すでに述べたとおりである。また、後醍醐が韓愈を無礼講で読んでいたという『太平記』
巻一で取り上げられた有名な史実とあわせて考えると、天皇の韓愈への関心を意識しての
命名である可能性は高い。施政に際し民を重視する考え方は儒学的政治思想の根本的な考
96
え方の一つである。この時代には既に日本にも伝わっていたことは、たとえば、その三年
前の一三三〇年に吉田定房が後醍醐天皇に奉ったとみられる諫奏文(『浄修坊雑日記』所
収)にある「王者万民之父母也、以天下為家、以民庶為子」(王は万民の父母である。天
下を我が家とし、民を子供とする)という内容があることなどから窺える。では、中巌の
「原民」はどのような内容からなっているのだろうか。その構成は「上建武天子表」と相
似しており、大きく三つの部分に分けられる。第一部分は冒頭から「国益富且強矣」まで
で、理想的な民のあり方を述べている。つまり農工賈士、「各修其業」すれば、国は富強
する。仏法の存在が国の富強に寄与することを述べる。第二の部分は出家者さえ武器を手
にし、争っている日本の現状とそれへの批判を述べる。第三の部分でその解決策を提示す
る。
ここで提起されている、各階層の民がそれぞれ本業に専念すれば富強の国が実現される
という論理は、儒学的観点からすれば至極当然なことである 273。しかし、当時の混乱した
情勢を沈静化しないかぎり、その実現、つまり民をそれぞれ本業に専念させるのが難しい
ことは中巌自身も意識している。そこで、便宜策として武の使用を提言している。なかで
も、武の解釈として「戡定禍乱」としているのが興味深い。武の意味については、中国の
古典では幾通りもの解釈がある。「戡定禍乱」というと、光武帝の「武」の解釈として一
般的に広く知られている。光武は後漢初代皇帝劉秀の謚号であるが、その武の字の解釈と
して用いたのは「戡定禍乱」であった 274。もし、読む人にそれなりの中国古典の知識が備
わっていれば、「原民」を読んで、その行間から光武帝を連想するのは難くない。上表で
当時の現状を漢が秦を継ぐときに似ているとしているのに対して、「原民」では前漢の高
祖ではなく、後漢光武帝を連想させる内容を書いている。やや統一性に欠けるともいえる
が、前漢、後漢、いずれも日本の公家社会でよく知られている時代である。いったん失っ
た政権を奪回するという点では高祖より光武帝のほうが後醍醐天皇の置かれた現状によ
り相似している。光武帝を連想させる内容を盛り込んだのは、後醍醐の心情により強く訴
えられると中巌は考えたのだろう。はたして、「原民」が奉られた翌年に、後醍醐天皇は
年号を光武帝が使用した建武に改元したのである。この改元については、
『改元部類』
・
『元
秘別録』によると、後醍醐は「儒卿」数名に勘申を命じ、「儒卿」達が出した十数種の候
補から、後醍醐が「建武」
「大武」
「武功」を選んで、文章博士の菅原在淳・菅原在成に再
提出させて、公卿会議で「建武」に決まったのである。また、『中院一品記』の翌年二月
の条によれば、年号に「武」が入るのは不吉だと反対があったのを、後醍醐が押し切った
とのことである 275。さらに、「建武」を選んだのは中国後漢初代皇帝の年号建武を意識し
たためということは、早くも『太平記』において見られ 276、現在の歴史研究者の認めると
ころでもある 277。このように、武の樹立を認めるという点では中巌の主張は後醍醐の切望
しているところと一致しているのであるが 278、その内実については、中巌の考えと天皇の
間には大きな相違があったのである。
「原民」で示されている中巌の解決策は官軍でもないのに兵器を手にする人をすべて罰
しようというものである。そして、同時に奉った「原僧」では、特に僧侶の武器所有を罰
するべきことを力説する。しかし、官軍でない兵力を罰するには、官軍が十分強大でなけ
ればならない。中巌は後醍醐政権に強い軍事力を持つ中央政権になるようにと提言してい
ることが分かる。それは当然後醍醐自身の望んでいることでもあるが、しかし、何をもっ
て官軍とするかについては、中巌の考えは後醍醐の実情と大きくかけ離れている。中巌が
極力反対している武器を手に取る「釈氏」こそ、後醍醐天皇が大いに頼った軍勢の重要な
部分であった。すでに勝利を収めた北条氏打倒においてのみならず、山門をはじめとした
僧兵の力は、現に足利氏に代表される武家勢力を抑えうる手段の一つであった。たとえば、
97
二年後になるが、一三三六年に後醍醐と尊氏が決裂し、足利尊氏が九州から東上し京都に
入った際、後醍醐天皇は山門に拠ってそれと対抗しようとしたのである。
仏教徒として、中巌が武器を手にとる釈氏に憤激しているのは当然であるが、僧兵を重
用している後醍醐天皇のそのような態度と立場を知った上で、あえて提言したものかどう
かは、にわかに判断しがたい。ただ、実質的に新政権のあり方の批判とも受け取れるその
内容は、禅寺内部でも特異なものだったことは事実である。この時期に後醍醐に篤く帰依
され、中巌も自らの推薦を期待していた夢窓と明極の新政権とのかかわり方を少し見てみ
よう。
まず、夢窓については、中巌の上表より一年後の一三三四年になるが、その年譜『天龍
開山夢窓正覚心宗普済国師年譜』に次の話が見える。近臣に禅宗を讒言され、諮問に来た
後醍醐に対して、夢窓は修禅持戒する禅僧は、後醍醐が福田を得る助けになると、禅の重
要性を強調したとある。禅僧が本当に夢窓の言うように、修禅持戒しているかどうかを見
るため、後醍醐は十一月二八日に南禅寺を訪れるが、果たして、すべて規律ただしく天皇
の御意にかなったので、禅宗に対する後醍醐の信心は益々深くなったのであると年譜が伝
える 279。禅宗に対する保護を正当化するために仕組んだ一幕の疑いがあるが、夢窓は後醍
醐と接するに当たって、現実批判どころか、質問者の本心の望みを読み、それに符合した
答えをしている。
次に、明極についてみよう。後醍醐の再祚を予言したことはあまりにも有名であるが、
中巌の上表に先立ち、「賀後醍醐院天下一統表」を上表している。文字どおり、祝賀の文
章であり、中巌のように賞賛の裏に実質的な批判が含まれているのと全く違う。また、中
巌の上表とほぼ同じ頃に、明極は南禅寺で訪れてきた護良親王に兵仏一致を説いている。
「十二月十一日皇太子入山、特為上堂、禅師明心教與達法、與武事相当」
。
「十二月十一日
に皇太子が寺を訪れた。そのため上堂説法が行われた。明極は心教と達法とは、武事と共
通することを明らかにした。
」
(『住南禅寺語録』
)という明極の議論は、僧兵の組織者とも
言える護良またその後ろにいる後醍醐にとって、望ましい内容だったのは言うまでもない。
当時南禅寺に寓居していた中巌もおそらく明極と親王のこの対談を知っていたと思われ
る。しかし、彼はあえてそれと正反対の議論を上表で展開した。
仏教徒の立場からみて、武力解除を唱える中巌の議論は正論に違いない。しかし、当時
の状況からみて、中巌の論を進めていけば、官軍となりうるのは、武士のみになるのであ
る。「原民」と「原僧」を書いたものの、一度反故にしようとしたのを大友貞宗の薦めに
よって改めて上表したと中巌が自ら述べているが、中巌の論が武士に有利であることを大
友が意識したからではないだろうか。僧侶の武器解除はもちろん、四民にそれぞれ本業を
守らせるという考え方も後の江戸幕府が実施したように、社会の安定に役立つ理論ではあ
る。しかし、当時の複雑な政治情勢下では、一部の人の利益にのみ叶うことになってしま
い、ついに後醍醐によって実施されることはなかった。
二
『中正子』
上表からわずかしか経たない十二月三日に、パトロンの貞宗が急死する。中巌はやがて
京都を離れ、鎌倉へ帰ることになる。鎌倉の円覚寺には、中国へ行く前師事した受業師東
明慧日とその派下の人たちがいた 280。後年、中巌は宏智派と嗣法問題でトラブルを起こし
たことについては、第一章で述べたとおりであるが、この時点ではその対立はまだ表面化
していなかった。彼は一三三四年の一年間は円覚寺にいて、その年の春に『中正子』を執
筆した。外篇六篇と内篇四篇あわせて十篇からなる『中正子』は中巌の著作の中で、もっ
98
ともよく知られているものの一つである。その撰述の翌年、即ち建武二年に書かれた竺仙
梵僊の「読中正子」という詩が残っており、当時においてすでに知識人の間で反響を呼ん
でいたことが分かる 281。また写本も何種類も存在し、江戸時代には「昌平坂学問所」に所
蔵されるや、無著道忠をはじめ、那波道園、伊藤宗恕などの大家に読まれ、さらに塙保己
一も『群書類従』に収めている 282。現代では入矢義高によって訓注と解説がなされている 283。
しかし、その内容の全てが明らかになっているわけではない。政治議論文の色彩が強いと
いう入矢の指摘は卓見というべきであるが、氏の検討は『中正子』にだけ限っており、そ
れ以前のあるいはその後の政治的発言と結び付けて考えていないため、解明が不十分なと
ころもある。その後、『中正子』の内容は「上建武天子表」と相通ずるものを持っている
ことは芳賀によって指摘されている 284が、詳しい検討はなされていない。そこで、本稿で
は、読み落とされているところがあると思われる「経権篇」と「革解篇」に焦点を絞って、
とくに「上建武天子表」との異同を中心に、中巌の儒学的政治思想の更なる解明を試みた
い。(同二篇の訓読は入矢によって施されているが、参考として現代語訳を付録としてつ
ける)
。
(一) 「経権篇」-「原民」との異同を中心に
「経権篇」は入矢が指摘しているように、『中正子』十篇のなかでもっとも論旨明快な
一編である。概略は以下のようである。中正子つまり中巌が烏何の国に行き、その君包桑
氏に迎えられる。武においては心を尽くしているのに、国内が平定しないのは何故か、と
いう包桑氏の問いに対して、中巌は経権論をもって、文徳と武略の関係を説明する。文徳
は経で、武略は権で、国内が乱れているとき、乱を治める手段として武略を用いるのはや
むをえないが、それを天下に示してはいけない。秘すべきであると「治家」の例にたとえ
ながら説明する。
この烏何の国については、入矢は「存在しない国」と注をつけている 285。字面上、その
注釈の通りであるが、しかし、その烏何の国の現状の描写にせよ、中巌の提示する解決策
にせよ、彼がその前年に後醍醐天皇に奉った「原民」という文章(同時に奉った、上表、
原僧を含む)で述べられている内容と共通する部分が多いことから、烏何はつまり当時の
日本を指しており、「包桑」はすなわち後醍醐であると考えられる。現実の政治に対する
議論であるのに、国や君の名前を変え、あえて寓話の体裁を取っているのは、中正子の意
見が君に聞き入れられたという文章構成上の設定からきた必要であると思われる 286。ただ、
提言者の名前は架空の名前を使わずに中巌自身の名前である中正子をそのまま残してい
ることからみれば、烏何の国はつまり日本を指していることを特に隠してはおらず、当時
の読者にもそれが分かっていたと思われる。円覚寺に帰ってきてから早速執筆を始めたと
いうので、その前年の上表と時間的にはさほど間隔を経ていないにもかかわらず、その内
容には幾つかの変化が見える。以下、その異同について詳しくみよう。
まず、共通点から見てみよう。「卿大夫士庶人、農工賈みな武をなす」という烏何の国
の混乱状態は「原民」において「民無不衣甲手兵者」と述べられている国朝(日本)の現
状と基本的に共通する。「原民」で提示された士農工賈(釈)から民が構成されていると
いう考え方も「経権篇」では引き続き援用されている。また、混乱した情勢を沈静化させ
るために武の必要性を認めながら、それをあくまでも便宜策として位置づけるのも「原民」
と共通する。
ただ、
「原民」と比べて、
「経権篇」では「武略」と「文徳」の関係をより論理だった体
系で説明している。
「原民」には既に「耀徳不観兵」という『国語』周語の内容を引用し、
99
武に対して「徳」を位置づけているが 287、「経権篇」では、一歩進んで「武略」に対応す
るものとして「文徳」を設定し、しかも、両者の関係を経権論によって整理している。経
権論は文字道り、変わらないもの(経)と、便宜的なもの(権)の関係を示す論理である。
これは中国の儒者が理想(経)と現実の行動(権)の違いを合理化するのによく用いる論
理である。古くは『孟子』にすでにその用法がみられ、漢代に入って、董仲舒によって理
論化され、また、隋の王通(文中子)もこの理論を援用していたことが知られている。董
仲舒も王通も中巌がかつて上表でその言説を直接引用した思想家であることから考えて、
おそらく上表以降、
「原民」で提示した徳と武の関係をさらに論理的に整理しようと思い、
この経権論の適用を考え付いたのだろう。文徳と武略をそれぞれ経と権にはっきりと対応
させる説は、私の知る限り、中国の儒者には見当たらない。しかし、表記こそ違うものの、
為政者自身が文徳を行うことと、文人を官僚に起用することの二つの側面を持っている中
巌の文徳の具体的な内容は、儒教の基本とする政治論である文治論と一致するものであり、
それを経とするのは儒学思想ではきわめてオーソドックスな考えであるとも言えよう。
しかし、仮に後醍醐が中巌の提言どおり「修文者」を重用したとしても、当時の混乱状態
にまったく対応しきれないのはいうまでもない。既に乱が起きているときに、「修文」だ
けでは収拾できないことを中巌も認識していた。「武略」を権としながらも、依然完全否
定できないのはそのためであろう。しかし、反乱者がいたら官軍にそれを殺させればよい
という上表時の強い姿勢と違い、「経権篇」ではむしろ武の行使を天下に示してはいけな
い、秘すべきであることを力説するようになった 288。それは何故だろうか。
上表から『中正子』執筆まで短い間ではあったが、新政権は次から次へと施政を行って
いた。そのうちの一つは、建武という年号の改元である。この改元が端的に示しているよ
うに、強い武力の樹立は、秘すどころか、後醍醐天皇が天下に明言している政治理念であ
る。しかし、後醍醐の思惑に反して、実際には乱がおさまるどころか、ますます激化する
一方で、さらに分裂の兆しも見え始めたのであった 289。後醍醐の軍事力の限界を察知し、
情勢のさらなる悪化を懸念して、中巌は武の宣揚を戒めたのではないだろうか。
後醍醐政権の不安定性を中巌が強く懸念するようになったことは、国名と君主名の設定
からも窺がえる。烏何という国名の意味するところについては、入矢によってすでに指摘
されている実存しないということと同時に、その中国語の発音が「烏合」と同じことにも
注意すべきであろう。つまり、日本の実情は烏合の衆の集まりで、それを強いリーダシッ
プをもって一つにまとめる存在を持たないという意味も含ませているのではなかろうか。
また包桑という君の名前の付け方からも同じニュアンスが読み取れる。包桑については入
矢は『易』の否の卦に出典を求めながらも、その意味はなくただ人名として用いただけだ
とする。しかし、任意につけたとは考えにくい。否卦九五「休否、大人吉、其亡其亡、系
于苞桑」(九五。否を休む。大人は吉なり。其れ亡びなん其れ亡びなんとして、苞桑に繋
る)で述べているのは、一卦の主にいる人が常に憂患意識をもって事に望まないと、国は
そのうちに滅びると、至尊の位にいる人の心構えを戒める内容である。このように、この
名前の命名からも、中巌の後醍醐政権に対する危機意識が窺がえるのだ 290。後醍醐天皇の
統率力に大きく期待していた「原民」の内容ともっとも大きな違いの一つであると言えよ
う。
以上述べた違いのほかに、
「経験篇」と上表のもうひとつの違いは、
『孟子』の影響がよ
り表面化していることである。「上表」において「興王除覇」と「覇」より「王」を上と
する考えにはすでに『孟子』の影響が認められていた。しかし、詳しい論述はなく、それ
を当然の至上原理として掲げただけであった。それに対して、「経権篇」は、上表で一言
100
触れたにとどまった「興王除覇」の必要性について、あらためて寓話の形で詳論したとも
言える。しかも、その体裁は『孟子』「梁恵王篇」の影響が色濃く感じられる。まず、既
に心を尽くして政治に取り組んでいるのに、所期の効果を挙げていないと悩む国王に提言
するという体裁が共通している。しかも、その冒頭部分は、完全に『孟子』
「梁恵王篇上」
第三章の冒頭部分に倣って作られたと思われる。たとえば、包桑氏が「寡人之於武、可言
尽心焉耳矣、」
(寡人の武に於ける、心を尽すと言う可きのみ)というところは、表現まで
梁惠王篇の「寡人之於国也、尽心焉耳矣、
」
(寡人の国に於けるや、心を尽くすのみ)と酷
似している。そのほかに悩む国王へのアドバイスで「武」を諌めるという点でも両篇は共
「梁恵王篇上」第三章の内容は中国でことわざができるぐらい、
通している 291。もっとも、
よく知られているものである。しかも、そこに窺がえる武を戒める思想は文治重視の思想
の源の一つとして、後世の儒学、特に宋学ではもっとも根本とする思想であるため、中巌
がそこから影響を受けているのは、本来意外なものではないはずである。しかし、いまま
での研究では「経権篇」における『孟子』の影響はこれまで殆ど注目されてこなかった。
たとえば、中世における『孟子』受容の全体像を検討した研究に、井上順理の『本邦中世
までにおける孟子受容史の研究』と芳賀幸四郎の『中世禅林の学問および文学に関する研
究』がある。ところが井上は『中正子』の「仁義篇」などの各篇における『孟子』の影響
を指摘しているが、「経権篇」については特別に述べるほどのことはないと切り捨て 292、
芳賀の研究にいたっては、中巌について全く言及していない 293。
また、入矢は『中正子』の注釈の補注のなかで「経権篇」における「権なる者は」とい
う論理は『孟子』
「梁恵王篇上」の「権然後」と通ずることに留意している 294が、文中子、
また契嵩らの説とともに並べていることからも分かるように、それは中国の学問における
経権論の伝統の一環として挙げているだけで、「経権篇」における『孟子』の影響を特定
しているわけではない。
このように、「経権篇」における『孟子』の影響が今まで注目されてこなかったのは、
二つの理由があると思われる。一つは文中において『孟子』を明言していないこと。もう
一つは「この時期の(中世)孟子への注目といえば、しばしば王権の危機に絡んでの放伐
思想や易姓革命ばかりに関心が集まっていたかのように受け取られる」295という今までの
『孟子』受容に対する研究の姿勢と無関係ではなかろう。つまり、中巌は革命という側面
から『孟子』を利用していないため、影響そのものも看過されてきたのではないかと思わ
れる。しかし、革命論を正面から認める一人であるにもかかわらず、中巌は『孟子』にそ
の理論的根拠を求めていないということは、逆に当時において『孟子』は必ずしも革命の
書として読まれていなかった可能性が大きいことを示しているのではないだろうか。革命
思想以外で『孟子』を受容していた例として、近年の研究で、二条良基が注目されている。
このように中巌を含めてまだ二例しか確認されていないが、中世における『孟子』受容の
研究の視点を変化させる必要性を示唆する例としてもっと重視してよいのではなかろう
か。また、小川剛生は「二条良基を放伐や易姓革命思想以外の孟子受容史の空白を埋める
人」として高く評価しているが、良基が『孟子』に強い関心を示しだすころ(貞治年間)
、
中巌も良基の儒学的ネットワークの一人であったことを付記しておこう(詳しくは次節で
述べる)
。
(二) 「革解篇」
当篇の内容は、題名どおり『易経』革卦の解説をもとにした革命の論理の展開である。
ただその作成の動機は単なる学問的追求ではなく、むしろ現在の政治に資するための政治
議論文であり、特に(君主の)改革のための心構えと方法論を説いたものである。ところ
101
でその内容は、中巌が一三三三年に後醍醐天皇に奉った「上表」をふまえていることを入
矢は指摘している 296が、この両者の内容の異同についての詳しい分析はなされていない。
そこで以下、当篇で展開される革の論理と、「上表」のそれとの異同を指摘し、あわせて
その変化の理由を考察する。
(参考として「革解篇」の現代語を付録につけた。
)
革には政権交代を意味する革命と交代後の改革を併せ持っているという大前提では、両者
は共通している。また、中国の典籍を論点の根拠にしている点でも通じる。しかし、具体
的な叙述においては大きな変化が見られる。
まず、改革については、「上表」ではひたすらその必要性を力説しているのに対して、
「革解篇」では「改革之道、不可疾行也」と立場の変化が見られる。
「(是を以って)天下
国家、制令の新しき者を行えば、則ち蚩々庸々の無知の民は、習熟せざるが故に、難辛不
便の患を以って、以って朝廷に偶語し、天下に流言するに至る。故に兌を口舌と為すなり。」
新しい政令への不満が多いという現状認識は「上表」と変わっていないが、「上表」では
秦の商鞅変法の時の様子をモデルとして掲げ、その不満を押し切って改革を、断行すれば、
そのうちに不満もなくなると言ったのにして、
「革解篇」では急いではいけないと「上表」
とは異なる結論を出している。これは「革解篇」の前におかれる「経権篇」ですでに施政
者への危機感をあらわにしていることと共通するものをもっている。
つぎに、革命の論理を、
「上表」のそれと比べよう。
「上表」では主に後醍醐天皇の政権
獲得を「得命於天者」と表現し、さらに新政権の施政を「革」と表現していたのに対して、
「革解」ではさらに一歩進んで、君主あるいは政権の革に対する心構えを述べているだけ
ではなく、臣下(個人)の出処進退についても論じている。九四爻辞についての解釈から
それを読み取ることができる。
(原文)
公曰、九四、悔亡、有孚、改命、吉、孔子翼之曰、信志也、
中正子解之曰、穢濁之時、以剛才在下、而待文明来蒞、其志信之、其才不変、而其命変、命者召也、
所以稟而為令也、九四旧奉穢濁之召命者也、今当「革言三就」之時、又稟文明之召命、故曰発命、
辟如伊摯旧旧奉夏之命、後稟湯命、又箕子旧殷人也、然稟武王之召、是類也、
(現代語訳):
周公は「九四、悔亡ぶ。孚ありて命を改むれば、吉。」という。孔子は「志を信ずればなり」と解釈
する。中正子はつぎのように解釈する。穢濁の時、牛革のような堅い材料(才能、かわ)を下に持
ち、文明が来るのを待つ。それを信じ、其の才能は変わらないが、其の命は変わる。命とは「召す」
である。それを受けて命令となすものである。九四はもともと穢濁の命を受けていたが、三爻の革
が成就する今となって、また「文明」に召される。ゆえに「改命」という。たとえば、伊摯はもと
もと夏王朝の臣下であった、のちに、湯王に従った。又た、箕子ももともと夏王朝の人だったが、
武王の命令に従ったのは、この種類である。
このように九四の解釈では、伊摯や箕子の行動を当てはめている 297。先に夏の命を奉じ、
後に湯の命を稟けた伊摯(伊尹)は、中国史上著名な人物である。湯に仕えたきっかけに
ついては、自ら出向いたとする説と、湯の再三の招きに応じたものとする説など、諸説が
あるが、庶民が道徳の立派さをもって出世し、君主を助け王道を樹立した典型として、後
世の士大夫たちに模範の人物とされた 298。中巌が革の理を実施した人物、旧王朝出身の人
が新王朝に仕えた例として伊摯を取り上げていることから見て、新旧政権の交代に際して、
旧政権と関係した人々の身の処し方に対する彼の考えがおのずと分かるだろう。この思考
様式は同『中正子』序篇で示した揚雄仕新に対する評価とまさに一致するものである 299。
102
そして、足利政権成立後の中巌自身の行動とも、軌を一にするのである。
「革解篇」と「上表」のもう一つの違いは、根拠とする中国の典籍を変えていることで
ある。
「上表」では実際の王朝の交替の様子や、
『漢書』に見られる董仲舒の言論など儒者
の言葉を広く引用していたのに比べ、
「革解篇」でその題名が示している通り、
「革命」説
の根拠をもっぱら『易』の革卦の解釈に求めている。具体的な内容にいたっては、当時脚
光を浴びつつある程学や朱子学の易説を用いていないで、むしろ古注を適宜に取捨折衷し
ての演繹であると入矢が指摘している 300が、筆者は必ずしもそう思わない。たしかに、中
巌は程学や朱子学を用いていない。「周公経」、「孔子伝」に継いだものとして直接「中正
子伝」と書き、自らを孔子に継ぐ者として位置づけている。その大胆さは『易』に対する
自信、または仏を儒より上とする持論などから来るものと思われるが、「中正子伝」或い
は「曰」の形で始まる彼の『易』の解釈は、革卦からの律儀で忠実な演繹などではない。
「易曰、已日乃孚、仲尼曰、革而信之、中正子曰、改革之道、不可疾行也、」という段落
がその象徴的な例であるように、時には、関連づけや理由付けもせず、ただ経典を、現実
問題に対する自分の意見を開陳し、正当化するために利用している感さえある。この姿勢
はやはり宋学の精神に近いだろう。一方で程学や朱子学の易説を直接継承していないのも
事実である。だとすると、彼が影響を受けたものは他に何があるのか、推定できないのだ
ろうか。
そこで、中巌の作品を再読し、彼は項安世『周易翫詞』を読んでいたことが分かった 301。
その書名が中巌の「意承室記」という文章において明言されているにも関わらず、従来の
研究では全く指摘されていなかった。『周易翫詞』の革卦の部分と比較したところ、相似
する内容が確認された。つまり、両文にはいずれも伊摯が挙げられていること(程子や朱
子の注釈書にはもちろん、所見のかぎり、『周易翫詞』以外に伊摯の行動を革卦で解釈し
た記述はない)。ただ、四爻に当てはめる中巌とは違い、
『周易翫詞』では伊摯の行動は初
302
爻に当てはめられている 。もちろん、これだけで、中巌は「革解篇」の作成において『周
易翫詞』を参考にしたとは結論できないが、『周易翫詞』との比較は彼の易学を理解する
一つの手がかりにはなりうるだろう。
入矢の解説に対して、もう一つ付け加えたいのは文章の構成である。氏は原文を読み下
し文で一九段落に分け、読みやすくしているが、各段落間の関係については触れていない。
筆者は「革解」を、冒頭から「中正子曰く、人の生れて周公・孔子に遇はざる者は、天な
るかな。」までを前半、その後を後半部分と考える。前半では主として革卦の内卦離と外
卦兌の卦徳、卦象の説明をし、時にはその相互関係を分析しながら、革論を展開している。
整理すると、以下のようになる。
下卦(内卦)離=火=夏=丙=
明=文明=火(文明)
上卦(外卦)兌=金=秋=庚→辛=新=辛難=口舌 =説=説言=沢(濁悪)
後半では議論の視点を、各爻の爻辞を一爻ずつ解説していくように、爻に変えている。
また、入矢は「なかには、一種の論理の飛躍かと思われる部分もあって、理解に困難を覚
えるところがある。たとえば、「濁悪をもつての故に革むべし。文才をもつてすれば、改
むべからず。」という発言と、その上文の「文明の才をもって、穢濁の悪を除く。亦た革
ならずや。」という発言と、どのような論理関係で照応するのか、残念ながら、このまま
では明確にならない。 303」という。これは入矢が「内」は改革者本人、「外」はそれ以外
の人という意味で理解しているため、こういう疑問が起るのである。中巌の言う「内」と
「外」はそれぞれ内卦と外卦を意味している。内卦と外卦で考えれば、「濁悪をもつての
故に革むべし。文才をもつてすれば、改むべからず。」という発言と、その上文の「文明
103
の才をもって、穢濁の悪を除く。亦た革ならずや。」という発言が照応していることが分
かる。それぞれ「革解篇」の前半と後半に属しているこの二句は前半と後半のつながりを
示すキーセンテンスとも言える。
「文明の才をもって、穢濁の悪を除く。亦た革ならずや。」は前半にある内容で、内卦
(文明の才に対応)と外卦(穢濁の悪に対応)の相互関係を述べている。これに続く議論
では、中巌は「桀紂之悪。穢濁之沢與。湯武之才文明之火與。」と、具体的に桀紂を穢濁
之沢、湯武を文明之火に対応させて、内をもって外を革むる例を示している。それに対し
て、
「濁悪をもつての故に革むべし。文才をもつてすれば、改むべからず。
」は後半の内容
であるが、
「革の体たる、内革めずして外革むべし。
」という直前の一句とあわせ考えると、
内卦は濁悪のため革むべし、外卦は文才のため、改むべからずという意味であり、「文明
の才をもって、穢濁の悪を除く。亦た革ならずや。
」という発言と共通することがわかる。
そして、この後の文章では、外卦(兌)の三爻は内卦の三爻より革まってきたものとして
扱う。具体的には、初九(内卦一爻)は九四(外卦一爻)と同じで、陽爻のままで変わら
ない。内卦の第二爻(六二)と第三爻(九三)が外卦の第二爻と第三爻になるときには、
それぞれ九五、上六と変化している。そして、何故第一爻は変わらない(つまり、静であ
る)か、また何故第二、三爻には変化(動)があるか、その理由について説明する。しか
も、この理由の説明のなかにこそ、かれが正しいと思う革のやり方をちりばめているので
ある。たとえば、初九が変わらないのは、「革之道、不宜疾速」からであると説明してい
る。これは、前半で兌の卦象(庚辛)の説明から得た結論と同じであるものでもある。
このように見ると、従来の研究で煩雑とされる「革解篇」であるが、それ自体の議論は
整合性を持っており、「経権篇」と同じように、はっきりした構成をもっていることが分
かる。
「革解篇」の作成の背景として、
「上表」で述べた改革論に対する修正を、自らの長
じるところすなわち易学の知識に基づいて行いたかったことであると思われるが、当時知
識人の間で『易』は儒学の重要な教材として普及していたこととも関係があるだろう。た
とえば、後醍醐の重臣である北畠親房が『易』に造詣が深かったことはよく知られている 304。
その内容が易学の専門用語が多いため、現在の人には分かりにくいが、当時の人にとって
今日ほど難解なものではなかったかもしれない。
以上、
「経権篇」と「革解篇」は、いずれも「上表」ですでに触れられていた問題(「武」
と「革」)をさらに論理的に説明するために書かれたものと考えてよい。その共通した特
徴の一つは論理性を増すために、より豊富な儒学思想を盛り込んでいること。もう一つは、
後醍醐政権に対する認識の変化である。かつての期待が不信と批判にとって変わられた様
子が窺える。そして、この『中正子』の執筆後一年たらずの間に、建武政権は崩壊し、変
わって足利政権が成立した。中巌はなんの躊躇もなくそれを受け入れたのである。
第二節
足利政権下での著述活動-儒学的政治思想の堅持と変容
足利政権が成立した際の禅僧たちの出処進退についてみると、建武政権で重用された人
たちも、ほとんど例外なく足利政権の招聘を引き受けている。それぞれがどのような心情
で判断を下したかについては、ほとんど研究されていない。その理由として、直接それを
書き記した史料が残っていないためと、禅僧というと、とかく高徳のイメージが強調され、
そのような人たちの鞍替えということについてどのように解釈すべきかが難しいという
ことの両方があるだろう。しかし、当事者たちは実際なにも考えずにそれを行ったとは考
えられない。たとえば、夢窓の場合、後年後醍醐を弔うため、天龍寺を創建したことから
104
みると、後醍醐天皇の失脚に対して、夢窓は中巌のように革命理論で割り切ることができ
なかったのではないかと思われる 305。鎮魂という役割を禅宗に取り入れたことによって禅
宗の発展を促そうという狙いももちろんあるが、個人的にも後醍醐天皇を弔う必要性があ
ったことも想像される。それと比べれば、中巌には後醍醐政権に対する遠慮や未練は見当
たらない。足利政権を革命政権と考え、積極的に評価し、またかつて後醍醐政権で受け入
れられなかった儒学的政治思想を引き続き文章を通して主張していったのである。以下、
詳しく分析しよう。
一
代筆二篇
中巌が足利政権をはっきりと革命政権として認識しているのは、次に挙げる「奉左武衛
大将軍 代実翁」
(『新集』p382)によってあきらかである。実翁聡秀 306に代筆して左武衛
大将軍足利直義に奉った書である。その内容は浄妙寺住持実翁がその師葦航道然 307の創基
した明因寺の再興を願うというものである。製作年次ははっきりしないが、「又遷浄妙」
(又た浄妙寺に遷った)とあるから、実翁が浄妙寺の住持中であることが分かる。実翁が
浄妙寺住持になったのは『五山禅僧伝記集成』で一三六三年以降としているが、それだと
直義の没年(一三五二年)と齟齬する。同代筆末で「寺之所歴事、合申聞者、已在暦応二
年八月住持了蒙等、告于襌律官某、今再具別楮、伏願台覽」(寺の今までの経緯の陳情す
べきことについて、既に暦応二年八月に住持の了蒙らによって、襌律方の官吏に報告した
が、今、また別に文書をしたためている、御覽いただきたい。)とあることからみれば、
一三三九年八月には明因寺住持了蒙がすでに禅律官に復興を願う文章を提出していたの
だが、それとは別に、今度実翁はまた開山葦航道然の弟子として直接直義に書を奉ること
にしたのである。おそらく住持了蒙が禅律官に上書するのは、手続きを踏んでいるもので、
それと平行して、明因寺と因縁をもち、しかるべき地位にいる人(つまり明因寺より格が
上の浄妙寺の住持である実翁)が禅律官の上司にあたる直義にじかに願う文章を出したの
がこの手紙であろう。やはり一三三九年八月からそう遠く隔たっていないころのものと考
えたほうが妥当と思われる。実翁は生年未詳であるが、文筆に長じ、中巌と交友親昵の関
係であった 308。彼が浄妙寺に入院するときの江湖疏「江湖勧請実翁住浄妙疏」を中巌が書
いているのである 309。それによると「示我数篇文、過賜一双璧」(数篇の文章を示してく
れたのは、璧を一双もらったよりも嬉しい)とあるから、実翁本人も文筆に優れていたの
である。にもかかわらず、直義への上書を中巌が代筆したのはなぜだろうか。やはり、中
巌のほうが自分よりも文章がうまいと認識したのだろうか。そういえば、中巌には人の代
筆をした文章が何篇も残っている。その相手は中国の禅僧だったり、授業師東明だったり、
小師だったりして、身分には関係ないようだ 310。文筆に自負を持っており、頼まれたら快
く応じた人だったようである。また、このころの中巌の行動をみると、『自歴譜』によれ
ば、同年の春に、中巌は東明の建長寺を退きたいという念願を適えるために、上京し、直
義に上書したことがある。直義と直接接触の経験をもっているので、よりそれを訴える内
容が書けるという判断だったのかもしれない。このようないきさつで書かれた文章である
が、その中で、次の一句が特に注目するに値する。
(原文)
元弘建武之間、凡在鎌倉寺社、或圯于冦戎、或亡于燹燎、然大将軍革命以降、斧斤之声、相聞于四
隣、各復旧観、独有明因寺、為奥州凶賊所焼、但余基址 311
(現代語訳)
105
元弘・建武年間、鎌倉にある寺社は戦争や火事で荒廃するものが多かったが、尊氏が革命して以降、
復興の工事の音があちらこちらで聞こえたのに、明因寺だけが、奥州北畠勢に焼かれたままである。
尊氏の政権奪回をはっきりと革命と表記しているのである。かつて、後醍醐への「上表」
のなかで、また「革解篇」で後醍醐政権を事実上革命政権として認めているものの、革命
という表記を避けていた。天皇家出身の後醍醐には文治思想を受容しえても、徳を失えば
権力が他家に落ちる可能性のある革命の論理を認める可能性の低いことは中巌にも認識
されていたのであろう。それに比べれば、この代筆文では尊氏の後醍醐排除を「革命」と
言い、それによってその正当性を主張するのは、宛人である直義から嫌われる危険性はな
いと中巌が判断したためであろう。また、この表記により、中巌は尊氏の率いる足利幕府
を実質的な新政権と見、尊氏を王のような存在として考えていることも分かる。足利幕府
がその施政方針に儒学の徳治思想を取り入れていることは、その関係者があらわしたとさ
れる『梅松論』の内容から窺える 312。また、尊氏ひいては直義を王のように讃えるものは
中巌のほかにも確認される。たとえば、夢窓は『夢中問答集』第三問で在家の理想的な王
である転輪聖王のたとえ話を扱っているのは、当時の為政者直義を「末世の王」に擬する
ものであるとされている 313。実質的には王として認めていても、それを公言しないのが大
きな流れのなかで、中巌一人それを「革命」とよんではばからないのは、彼の儒学思想に
対する心底からの信奉に起因するものであろう 314。
では、尊氏の幕府樹立を革命と認めるとき、北朝の天皇を中巌はどのように位置づけて
いるのだろうか。之に先立ち東明に代わって光厳天皇へ上表した「東明和尚累住建長上表
代」によって、それを窺おう。『自歴譜』によれば、この建長寺再住は実際は東明の望む
ところではなく、上京中の中巌もその辞退の陳情のために奔走していた。一時夢窓の働き
かけで、辞退が受け入れられそうになったのに、予定後任者が急死したため、とうとう留
任せざるを得なかったのである。不本意の留任であるにもかかわらず、やはり天皇に感謝
の表をしたためなければならない。中巌が代筆したのはそれと関連があるかもしれない。
ここでは皇帝陛下への賛歌を歌っている後半部分に注目しよう。
(原文)
(書き下し)
伏惟
伏して惟みるに
皇帝陛下
皇帝陛下
徳被区中
徳は区中に被むり
威加海内
威は海内に加う
蟊賊尽殄
蟊賊尽く殄し
肹蠁来臻
肹蠁来ること臻し
起三代之墜風
三代の墜風を起し
延百王之景祚
百王の景祚を延ぶ
夷夏同志
夷夏志を同くし
遐邇斉願
遐邇願を斉くす
恭惟
恭しく惟みるに
河水清於千年
315
河水千年に清み
嵩山呼於万歳
316
嵩山万歳を呼ぶ
106
下情無任
祝頌屏営之至
下情は任(た)えず
317
祝頌すること屏営の至り
(現代語訳)
伏して思うには、皇帝陛下、人徳と威厳は国中に満ち、反逆者はみな平定され、次々と帰順してく
る。かつての聖代の荒廃した風俗を建て直し、帝位は引き継がれた。遠近を問わず、一同は志と願
いを同じくする。恭しく思う。黄河が千年に一度清くなり、嵩山が万歳を叫ぶような瑞兆が起こっ
ている。恐縮ではござますが、お祝いを申し上げる次第です。
五つの対句からなる四六文で、決まり文句のお世辞が多いが、「起三代之墜風、延百王
之景祚」という表現は特に注目すべきである。中国で「三代」というときに、一般的に尭
舜禹の時代を指すことが多く、儒学では理想的な治世を意味している。中世日本でも天皇
を堯舜にたとえるのは一般的な賛辞としてよく用いられていた。堯舜のような聖王だとい
う一般的な修辞を使わずに、一旦墜ちた風を起こしたと書いたのは、混乱に終止符を打っ
たということを強調したためであろう。一方、下句の百王は上句の三代に対応する言い方
であるが、中国での使い方と日本とでは違いがある。中国では無限定多数の王という意味
で、古典の随所に散見するありふれた文字である。一方日本ではそれが伝わった当初は中
国と同じように、多いという意味で理解されていたが、やがて、時代思潮の厭世的神秘的
傾向、ことには末世観と結んで、百を限定の意味とする理解や、あるいは百王を百代と限
定しなくても、とにかく尽きることある有限でとる、「百王思想」と呼ばれる特殊な観念
が生まれてきたのである 318。中巌がどちらの意味で使っているかはこれだけでは判断しに
くい。中巌の語学力から見て、中国語の意味を当然知っていただろう。また、三代、河水、
嵩山などいずれも中国の故事を引用していることから見て、中国での使い方、歴代という
意味で使った可能性は大と思われる。しかも、百王の景祚を延ぶという表現からみると尽
きることではなく、やはり続くことのほうを強調していると取ったほうが自然であろう。
かつて後醍醐政権を革命政権として考え、後醍醐に徳の具備などの儒学的な内容を望んで
いたのと違い、中巌はここで光厳天皇を継続する(これからも継続していくであろう)天
皇の系譜に位置づけることによってその正当性を説明している。
このように、代筆二通の内容を読み比べると、足利政権を革命政権として是認すると同
時に、北朝の天皇の存在をも認めているのである。しかも、両者の呼び方のみならず、権
力のよりどころをも区別しているのである。儒学思想を唱える一方で、日本社会の実情に
あわせた調整と言えよう。日本にある天皇という存在を一体どう解釈すればいいか、この
後も中巌は大胆な試みを続ける。次項で取り上げる『日本書』の撰述である。
二
『日本書』
第一章でも述べたように、一三三九年冬、大友氏が開いてくれた吉祥寺の住持就任式で、
中巌は東明に嗣法せず、留学時代師事した東陽の法を継ぐことを表明した。それをきっか
けに、宏智派から強く反発され、迫害さえ受けるようになった。そのため、一三四○年か
ら一三四一年までの二年間、彼は鎌倉藤谷山崇福庵で蟄居をさせられた。この蟄居の間の
詩作の多くはその孤独な心情を歌うもので、随筆集『藤陰瑣細集』もその心を紛らすため
に読んだ中国詩文の抜粋を中心に構成されている。一見政治から縁遠い生活をしているよ
うだが、実はつねに時勢を敏感に観察していること、政治への関心を依然として持ち続け
いていることは『日本書』の撰述から窺える。
107
大陸文化の総輸入元ともいえる禅宗社会では、総じて日本の文化に関心が薄いとされて
いる。歴史について見ても、
『漢書』
『史記』などの中国の史書と比較すると、日本史につ
いての関心は総じて低い。そうした中で、一山一寧の質問がきっかけで、最初の日本僧伝
である『元亨釈書』を表したのは虎関師錬である。それに対して、禅僧で始めて日本の歴
史書を著したのは中巌で、唯一でもあった。しかし、中国よりも日本の方が「醇」である
とする一種の国粋思想に貫かれている虎関師錬の『元亨釈書』が後に朝廷の勅によって集
められた欽定の大蔵経に入蔵したのに比べて、中巌の歴史著述である『日本書』は全く違
う運命を辿っている。同書にある天皇起源説関係の記事のため、破られて、世に行われな
くなったのである 319。そのため、その本文は今日伝わっていない。しかし、天皇起源説の
内容は言い伝えられている。桃源瑞仙(一四三○~一四八九)の書いた『史記抄』の周本
紀には次のような一文がある。「中巌の日本紀を撰セラレタルニ、国常立尊ト云ハ、呉太
伯ノ后裔ヂャナンドト云ハ合ワザル事ゾ。中巌ホドノ人ヂャガウツクシウクシウモ合ワザ
ル事ヲヲセラレタゾ」320と。桃源には批判されているが、中巌が『日本書』で日本の天皇
の祖先(国常立尊)を中国の呉太伯の後裔であると説いたることが分かる。
倭人を呉太伯の後裔とする説そのものは、既に先学によって指摘されているように、中
巌の独創ではなく、日本人がそのように自称した多くの中国の史書に見られ、中国では広
く知られていた話である 321。
呉太伯は孔子が「泰伯は其れ至徳と謂うべきのみ」と激賞した賢人として、『史記』や
『漢書』にその伝があり、中国では有名な歴史人物である。彼は周の太王の長子であった
が、弟季歴に継がせんとする父古公亶父の意を汲んで荊蛮の呉に逃げ、現地の風俗に従い、
文身鯨面し、呉の始祖となったとされている 322。中国にいる日本人(倭人)が自らを呉太
伯の後裔とした理由は、一つはおそらく諸書で共通して指摘している文身という共通した
風俗から連想したものであろう。また、呉太伯は中国で評価が高い人物であることから、
自らをその後裔と称することによって、自らを中国と同格に位置づけようとする目的もあ
ったのだろう。
この太伯の後裔説は中国だけではなく、日本でも知られていたのである。しかも、天皇
家の祖神と結びつけて説かれていたこともあった。かつて、平安時代の『日本書紀』の講
義の記録である『日本書紀私記』に、天皇家の姓を「姫」氏とし、紀氏とともに呉太伯の
後裔であり、祖神が天照大神であるという記述があるのがその一例である 323。その目的は
おそらく、講義担当者の紀氏が、自らと天皇との共通性を強調することで、地位の確保に
有益であると考えたためであろう。 324。また、『日本書』より三年前に北畠親房によって
記された『神皇正統記』には「胃朝の一書の中に、日本は呉の太伯が後也と云う」といえ
り、返々あたらぬことなり。
(後略)
」とあるのが注目に値する。神国思想の持ち主である
親房の立場から見て呉太伯後裔説が当然許容できないことである。
では、中巌はなぜ、呉太伯後裔説を唱えたのだろうか。しかも中国の史書で日本人は太
伯の後裔であると漠然とした内容を 325、国常立尊は呉太伯の後裔であると明確にさせたの
だろうか。中巌が呉太伯後裔説を唱えた理由については、上野武氏は以下の三点から説明
している。①古代以来の天皇の権威が動揺していた時代的背景のなかで、怪力乱神を語ら
ないことをモットーとする儒教的合理主義の信奉者だった中巌は、『日本書紀』の神代の
荒唐無稽さを肯定できなかった。②コスモポリタンだった中巌は日本を神国とする日本優
越思想を批判するため、皇祖太伯説を導入した。③日本と呉の近さ、交通の多さを身をも
って知っていた中巌には、文化人類学的発想があったと思われる。以上の三つである 326。
日本の歴史の始まりを神に求めるのではなく、太伯という人間に求めたことを高く評価す
る立場からの発言と思われる。しかし、中巌の思想を近代主義的に解釈しすぎている嫌い
108
がある。三つ目の中日交流の歴史に興味があったことは確かである。それは同時期執筆の
『藤陰瑣細集』に関連記事の抜粋が多く残っていることからも裏付けられる。しかし、一
つ目の『日本書紀』の神代の荒唐無稽さを肯定できなかったというのは、現存する内容だ
けでは断定できない。国常立尊の祖を太伯に求めているのは、むしろ国常立尊の存在、ひ
いては『日本書紀』の神代の話しを認めているとも取れる。ここで、中巌が目指したのは
「怪力乱神を語らない」純儒教的なものではなく、むしろ「神」と「儒」を融合する「神
儒」融合的なものだったのではないだろうか。
国常立尊は『日本書紀』において天地生成とともに出現した神である。宇宙の中心の神
となっているが、これといった神話等は見られない。それが重要視されはじめたのは、鎌
倉末期のことである。伊勢外宮豊受大神とはじつは国常立尊の別名であり、天之御中主神
である、という主張が、外宮神官を代々務めていた度会家により打ち出され、教義の整備
がなされていった。この神道思想は、いわゆる神道五部書の成立とともに、
「外宮神道(も
しくは伊勢神道、度会神道)」として確立する。そして、この外宮神道の思想は公卿層に
対して甚大な影響を与えた。中でも、先に触れた『日本書』より二年前に成立した北畠親
房の『神皇正統記』で、国常立尊が最高神として奉じられていることは著名な事実である。
このように、中巌は自分の著書の中で、国常立尊を取り上げているのは、決して偶然で
はなく、当時の思想界の動向に敏感に反応したものと思われる。太伯後裔説に反対する親
房の唱える最高神を太伯の後裔とするところを見ると、『神皇正統記』への対抗を意図し
ていた可能性さえ推測される。要するに、天皇をどのように位置づけるべきかということ
は、南朝の親房だけではなく、北朝の人間たちにとっても考えなければならないことであ
った。後醍醐と戦うために、尊氏はやはり持明院統の天皇を立てることによって、自らの
立場を官軍にする必要があった 327。たしかに、天皇の存在については、それを完全に否定
してしまおうという態度は武士の間にはあった。たとえば、
『太平記』には高師直が、
「王
がどうしても必要なら木でも金でも作って飾っておけ、本物は追放してしまえ」と放言し
たという有名が話がある。また、一三四○年十月に、佐々木道誉父子が妙法院宮亮性法親
王の御所を焼き討ちしたり、さらに一三四二年九月に、土岐頼遠が光厳上皇の乗輿に矢を
射掛けるような事件もあった。しかし、道誉父子は流罪、頼遠が斬首されたことが端的に
示しているように、天皇家の権威はまだ多くの人々が認めるものだった。前項で述べたよ
うに、中巌もすでに天皇と将軍の権力の源泉を分けて考えるように方向調整した。この『日
本書』の記述もそのような考え方の理論的整理であったのではないかと思われる。つまり、
天皇家の祖神を徳のある呉太伯に求めることによって、天皇家の存在理由を「徳」に求め
ると同時に、その継承性・存続性をも認めているのである。
この『日本書』の成立後の評価については、従来の研究では、マイナス的な評価が指摘
されている。前記桃源瑞仙の「不合事ヲオセラレタソ」という意見は、その代表的なもの
である。しかし、桃源の生きていた時代は中巌の時代からかなり隔たっており、同時代の
証言ではない。
それに対して、中巌の学芸上の弟子にあたる義堂周信(一三二五~一三八八)の次の記
述が当時の評価を知る上で貴重であると思う。一三六七年冬中巌が五山第一の建長寺に出
住する時に、鎌倉瑞泉院主兼円覚寺黄梅院主の夢窓派の重要人物である義堂は公の文書で
ある諸山疏を撰した。そのなかで、中巌の業績の一つとして、清規を行うことと共に、
『日
本書』撰述を挙げ、
「修国史兮、知我春秋、罪我春秋」
(国史を書いた。我を評価するのも、
非難するのも、みなそのためだ。)と評価している。ここで言う国史は『日本書』を指し
ている。「知我春秋、罪我春秋」とは、『孟子』「滕文公」下で、孔子の言葉として引用さ
れている「知我者、其惟春秋乎、罪我者、其惟春秋乎」(我を知る者は、ただ『春秋』の
109
ためであろうか、我を罪する者も、『春秋』のためであろうか)に基づく表現だと思われ
る。孔子の言葉は、私を理解してくれる人は、きっと『春秋』を作ったのは「邪説暴行」
をなくすためであることを知るだろう。また、理解してくれない人は、一庶民が本来天子
の行うべき賞罰を文字をもって下すことを、僭越な行為として非難するだろうという意味
『春秋』が後に儒家の聖典とされることから考えれば、義堂が『日本書』を『春
である 328。
秋』に譬えること自体、それを高く評価していることの表れである。つまり、義堂は「知
『日本書』の最大の特徴が「太伯後裔説」という天皇起源説であるとす
我者」になる 329。
れば、義堂もその説に賛同したと考えてよい。前述のように、この後裔説には中国を日本
よりも上位とする考え方、と同時に天皇家の地位を否定せずに、むしろ「有徳者の後代」
という立場から肯定している考え方が含まれているとすれば、義堂がそれに賛同している
のは、当時、またその後の思想界の動向を理解する上で重要な参考になる。
義堂は義満のブレーンであり、精神的指導者であったことはよく知られている。だとす
れば、義堂の思想傾向は義満の行動を理解する上で参考にもなると思う。義満に皇位簒奪
計画があったとするいわゆる義満皇位簒奪説が最近多くの研究者の支持を得ている 330。一
方でそれを慎重に見るべきだという研究もある 331。筆者は後者の説に同感を覚える。その
根拠の一つは、中巌の思想を分析することによって明らかになった義堂の思想の傾向であ
る。天皇と将軍の両立を認める思想に義堂も同調していたとすれば、それを義満に教えた
可能性は想像できる。また、義満と中国の関係は、明に臣下の礼をとり、さらに国王と自
称したことが有名である。なぜ、そのような行動をとったのだろうか。政治的経済的打算
があったのは無論であるが、その周囲では、義堂のように、中国を上に仰ぐ価値観(天皇
の祖先を中国に求めることから容易に推測される)を持つ人が多くいたことも関係してい
る。
しかし、時代がたつにつれ、明への臣服を潔いとしない思想が政治の社会で主流となっ
てくると、『日本書』にある「太伯後裔説」の重層的構造が顧みられなくなり、桃源の時
代にはついに批判される対象になり、そのため書物まで破られて行われなくなったのでは
ないだろうか。
三
『文明軒雑談』
戦乱や蟄居の時代をへて、文和元年(一三五二年)ごろから五十歳を超えた中巌に転機
が来た。この年、利根吉祥寺が御願寺になり、翌文和二年の一年間に乾明万寿寺、相模万
寿寺、豊後万寿寺、と五山派の寺三ヶ所でつづけて住持をつとめた 332。以降、五山官寺制
度の下で活躍していくのである。従来、中巌はこの時期から、宗教界での出世に反し、そ
の政治参与姿勢については、むしろ消極的になったと言われてきた。しかし、五山出住後
長年にわたって書き継がれた『文明軒雑談』
(以下『雑談』と略す)の内容を検討すると、
中巌は晩年まで儒学的政治思想を抱き続けていたことが分かる。
現存の『雑談』は東大史料編纂所本も法常寺本も首尾ともに欠けていて、七七段しか残
っていない。その体裁は雑談という題名からも分かるように、随筆集であり、中国の史書
をはじめ、詩文集など多くの書物からの抜書きからなっている。幾つかの抜書きで一まと
まりをなしているが、全体的に一つのテーマに沿って書いているものではない。抜書きの
間には年次順に身辺の事を記している記事もある。文明軒とは中巌の居所妙喜世界の中の
寮舎である 333。妙喜世界は一度万寿寺から建仁寺へと移転されているが、文明軒は万寿寺
時代からあったかどうかは明らかではない。現存部分は建仁寺移転以降の記事のみからな
っている。妙喜世界の命名については蔭木氏も指摘しているように、大慧宗杲の法号で、
110
もともと『維摩経』第十一章菩薩行品に出てくる仏国土の名前である 334。この命名にはこ
の妙喜世界を中巌自らが嗣法した大慧派の宗旨を発揚する根拠地にしようという考えが
含まれていると見てよいだろう。では、文明軒は何を意味しているのだろうか。ここで想
起されるのは、かつて『中正子』「革解篇」で繰り返し強調していた「以文明之才、除穢
濁之悪。不亦革乎。
」
(文明の才をもって穢濁の悪を除くのは、また革である)という革卦
内卦の卦徳である文明の意味である。文明の才をもって穢濁の悪を批判することこそ、こ
の『雑談』の執筆の動機と目的ではないかと推測される。なお、儒教的政治論は大慧禅に
含まれるという認識はその住居の命名から窺える。
実際『雑談』の内容を読んでいくと、政治家乃至官僚の話が多く含まれている。
『新集』
の番号に従うと、三七七(趙普、賄賂関連)
、三七八(賦入)
、三八○・三八一(元の丞相
伯顔、徳のある宰相)、三八二(劉沆と趙御史)、三八五(六角氏)、三八八・三八九(元
文宗)
、四○二・四○三・四○四・四○五・四一○・四一一(財政関係)
(貨幣政策関係)
四○九(客と時事を論じる)
、四一三・四一四・四一五(文章と政治の関係)
、四一七(経
済関係、交子の話)
、四一九・四二○・四二一・四二二(転運史)
、四三○・四三一(中国
の北朝の皇帝)、四三三・四三四(天龍寺の火事)、四三五・四三六(宋太祖)、四三七・
四三八(宋太宗)、四三九(二条良基)の各条がそれになる。中国関連の話がほとんどで
あることからみて、中巌は若い時と同じように依然として中国のことを模範あるいは鑑と
して考えている。ただ、随筆集であるため、かつての『中正子』などと違い、理念的な議
論は少なくなっている。これは、建武政権下や足利政権初期の時期と比べ、十四世紀六○
年代以降の日本は、まだ地方で戦は続いているところもあるが、王権については北朝、幕
府内部では足利義詮の優勢が確立してきている。政権の正当化というような議論を必要と
する時代ではなくなった。かわりに『中正子』執筆時に詳しく取り上げることのなかった
「徳治」の具体的な内容が関心事になったからではないかと思われる。
具体的にみると、
『雑談』の記事で最も多いのは財政関係(貨幣関連、清廉政治を含む)
の記事である。このような記事が目立つことには、蔭木英雄も注目し、政治的関心が続い
ていることの現れだと見ている 335。ただ、その理由については、蔭木はいささか古い資料
で残念だがという断り書きの上、『建武記』と『建武式目』の通貨改革や倹約奨励の規定
を出し、現実政治ではそれが守られていないから、中巌がそれに対する自己の見解を述べ
たのだろうとしている。たしかに、贅沢な風潮が流行っている現実に不満を感じ、それを
戒めたいという気持ちから、中巌はかかる抜書きを多く残したという点では、筆者も蔭木
と同じ見解である。と同時に、一般的風潮への戒めというより、中巌の身近にそのような
人がいるから、かなり切実さを持って書かれた可能性の高いことを指摘したい。元来、中
巌と政治権力の付き合いで、特に大友氏が注目されてきたが、官寺出住以降、その交渉の
範囲はより広くなっていたこともこれからもっと注目する必要があると思う。鎌倉五山在
住時上杉氏と交流があったことについては第一章で述べたが、『雑談』の執筆期に、中巌
と特に交渉が深かった武士というと、ばさら大名として名高い佐々木道誉一族だった。
佐々木氏との交渉は一三六二年建仁寺住持中から始まる。同年九月二十八日に中巌は蘭
洲良芳主催の京極秀詮・氏詮(二人とも導誉の孫)の供養に招かれて拈香を行ったのであ
る 336。蘭洲は、その前年一三六一年に南朝軍が京都に乱入し、足利義詮が近江に逃れた際、
蘭洲は四歳の義満を建仁寺に匿い、捜索を逃れたことで有名である。中巌より五歳下で、
まだ官寺出住の経験がないので、中巌のほうが先輩になるわけだが、龍山のもとで後堂首
座を務めたことがあり、夢窓派とも近い関係にあることから、中巌とも親しい関係にあっ
たと思われる。かれに頼まれた拈香が中巌と京極氏との交渉のきっかけとなったようであ
る。そして、一二月に中巌が建仁寺を退いた後、近江に下り、金剛寺で年を越した。同寺
111
は佐々木氏頼が夢窓を開山として建立した寺である。中巌の訪問は夢窓派の人たちと近い
関係にあるから実現できたのだろう。さらに、翌一三六四年に甲良候こと当時禅律方頭人
である佐々木道誉の外護を得て、杣荘(滋賀県甲賀郡甲南町)で龍興寺を創建した 337。以
降、示寂まで龍興寺は建仁寺の妙喜世界と並んで中巌の居所となっていた。しかも、主に
ここを中心に佐々木一族と交渉を展開していた。現在、その具体的な交渉は主に以下のこ
とが確認される。一三六五年二月に甲良まで赴き、道誉に面会している(『自歴譜』同年
条)。一三六六年道誉と氏頼(六角)の北征のために祈祷を行った(
『自歴譜』同年条)。
そして、貞治六年甲良勝楽寺で行われた道誉の葬式に出席し、秉炬をおこなった 338。その
内容を読むと、「修身肅忠、立志猛烈、奉君無貳、聴訟直決、於軍太勇健、挙世称豪傑、
屡策第一勳」(身を修め忠誠を尽くし決断力に優れ、猛烈な立志を立て、君に奉仕するこ
と一途である。裁判では迅速な判決を下し、戦では勇猛無敵で、世に豪傑と讃えられ、第
一等の勲章を何度も得た。)などと道誉を讃える賛辞が並んでいるが、内心では、そのば
さら風情に必ずしも同調できない部分も持っていたのではないかと思われる。
もっとも、賄賂政治への反感、倹約すべきだなどという中巌の主張は正論であるに違い
ない。実際管領細川頼之も(彼が管領に就任しているのは一三六八年からで、中巌の『雑
談』執筆時期と重なる)ばさらと呼ばれる華美な社会風潮を規制する方針を出している。
しかし、社会風潮はそう簡単には変わらない。頼之の支持者である導誉がまさにばさらの
代表格であることから考えても、そう簡単にいかないことは想像される。中巌もおそらく
それを認識していたのだろう。若い時、僧侶などが兵器を手にしているのを憤激し、天皇
にそれらを「誅するように」と上表していたときのように激しい言動を避けるようになっ
た。ただ、中国の史実を引くことによって、自らの主張を温和に表現するように変わった
のである。そのためか、『雑談』で日本国内の事件にはっきりと言及している箇所は非常
に少ない。わずか四三三、四三四、四三九(新集の番号)の三条だけである。以下、この
三条を具体的に読むことによって、晩年の中巌の政治思想の一端を再現したい。
(一)
天龍寺火事と再建について
『雑談』四三三と四三四条は一まとまりで貞治六年の天龍寺 339の火事とその再建に関連
する記事である。
四三三条
(原文)
貞治六丁未三月二十九日乙巳、雲龍兄請数客、予亦陪席、食品七套後、茶果礼畢、撤案而帰、至洞
春前、一行人皆駭躍而指西山、遥望、則密布黒色雲煙無辨、須臾人僕奔走、以西郊失火、相告者如
織、諸耆老皆帰、予独遥望嗟惜、至三更而寐、明日午後、審知天龍灾。予以火灾之荐。炎宋以火徳
王於天下、然其失性則徳溢而灾、天聖年間、寿寧観灾、張知白言、五行志、宮室盛則有火灾、請自
今罷不急営造以答天戒、上納其言、加之知制誥程琳上疏、請罷
(現代語訳)
一三六七年三月二十九日、月篷円見が客を招待し、私も陪席した。料理七品の後、喫茶の儀式を行
った。そこで宴会が終わり、洞春庵の前まで来た時に、一行はみんな驚いて西山のほうを指さした。
遥か遠くを見れば、黒いものが空に立ち込め、雲か煙か区別がつかない。しばらくすると、人が多
く行き来し、西のほうの郊外で火事が起きたと教えあう。諸老師は皆帰ったが、私だけが遠くを眺
め惜しみ嘆いていた。夜中になって初めて眠りについた。翌三十日午後、天龍寺の火事のことを詳
しく知った。私はかつての火事の鑑みを知っている。趙宋は火徳という徳運で天下を取った。だか
112
ら、間違いを犯した時には徳があふれて火事になる。天聖年間、寿寧観が火事になった時、
(宰相)
張知白は、
「『五行志』によると、土木工事が盛んだと火事が起る。再建を急がずに、天の戒めに応
えるように」と言った。仁宗皇帝は其の諫言を入れた。また、知制誥程琳も上疏し、
(再建)を止め
るよう願った(ことがある)
。
『自歴譜』の記述は一三六八年二月までが中巌自身が編んだもので、それ以降は弟子が
補ったものである。弟子の補足は同秋の建長寺出住からはじまっており、火事のあった三
月については、記述がない。ただ、妙喜世界を建仁寺に移転して以降、そこが中巌の居所
として定着したようで、特別記述がない場合は妙喜世界にいると考えてよい。この時も妙
喜世界にいた中巌が同じ建仁寺内にある雲龍菴で催された宴会に招かれたのである。宴会
の主催者雲龍兄は月篷円見 340のことで、同月五日に建仁寺の住持を退いたばかりである。
後年月篷は後事を中巌に託したことから分かるように中巌と親交がある人物である。その
主催した宴会に出席したあと、中巌は雲龍菴を出で、同寺内の洞春菴前に来たとき、西山
の火事に気づいたのだ。それが天龍寺の火災だったと知ったのは翌日であると中巌が書い
ている。
この天龍寺の火事は当時において大きな事件であった。『愚管記』や『後愚昧記』に記
録されているだけではなく、『太平記』巻四○にも取り上げられている 341。また、立場に
よって異なる見解を示している。南朝に同情的な『太平記』の作者は火事の原因を「毎度
天下の凶事にて、先規皆不快の由」と廷臣たちが反対しているのにもかかわらず、御光厳
院が中殿御会を強引に復興したことに求めている。近衛道嗣の『愚管記』では「申斜天龍
寺炎上云々」とあるだけで、批評はしていない。三条公忠(一三二四~一三八三)の『後
愚昧記』では、前回の火事の後の再建に五、六年もかけたのに、また焼失してしまったの
で、「言語道断」と非難している。前回の火事とは一三五八年正月に起きた火事のことを
指しているのだろう。公忠は後光厳天皇の外戚であり、一三六二年一二月三九歳で内大臣
を辞し従一位に昇り、以後散位のまま一三八三年六○歳で歿したという経歴からみれば、
この時期政治の中枢部から疎外されていた立場にある。足利政権の保護の下にあった天龍
寺の火事についても、公家の立場から冷ややかな眼差しを向けていたようである。
これらの記事と比べ、中巌の記述は、火事の様子を遠望ではあるが、よりリアルかつ詳
細に描いているだけではなく、善後策などについても意見を述べている。夢窓派と緊密な
関係にあり、天龍寺に長期間住んだことがあるだけに、「遥望嗟惜、至三更而寐」とある
記述からわかるように、火事を目撃した中巌が夜中まで眠れずに残念がっていたのである。
善後策については、中巌は宋の天聖年間(一○二三~一○三二)寿寧観の火事があった時
の方法を、今回の火事の対処のモデルにしようとして、挙げている。再建(営造)は急が
ないほうがいい。度重なる火事は政権の失徳の表れとして受け止める必要があるという立
場である。具体的に後光厳の中殿御会とを結び付けていないが、失徳の表れとして火事を
捕らえているのは『太平記』の作者の意見と意外にも共通する部分を有している。もちろ
ん、両者の根拠は違う。『太平記』の作者は日本の先例を引き合いに出しているのに対し
て、中巌は中国の史書に立論の根拠を置いている。しかも、『太平記』の作者の意見が後
からの評価であるのに対して、中巌の意見は夢窓派中枢部に届き、その善後策に影響を及
ぼしうる立場にあった点も異なる。
天龍寺は、一三三九年、後嵯峨天皇の亀山離宮のあった場所に、足利尊氏が、夢窓の提
言に従い、後醍醐天皇の菩提を弔うため建立された禅寺である。開山夢窓亡き後も夢窓の
塔所雲居庵があることなどから、夢窓派の拠点でありつづけた。火事後、前任の住持はす
ぐに退院し、春屋妙葩が後任に任命された。春屋は龍湫周沢とともに夢窓なき後の夢窓派
113
の統率に当たっていたが、この火事の後始末の責任を引き受けたのである。春屋と中巌は
近い関係にあったことは第一章第二節で考察したとおりである。また、龍湫(一三〇八~
一三八八)はこの時中巌のいる建仁寺の住持である 342。よって、再建に関する中巌の意見
は単なる傍観者の感想にとどまらず、夢窓派中枢部に伝わる可能性の大きいものだったと
思われる。実際、中巌の意見は公の場で表明され、しかも、ある程度注目されていたこと
は、続く四三四条で人の質問に答える形で、議論をさらに進めていることから窺える。
(原文)
或問、程琳上疏事、有拠乎、曰、仁宗時、大内火、延燔入殿、詔羣臣直言闕失、先是、百官晨朝而
宮門不開。輔臣請対、帝御拱宸門、追班百官拜樓下、宰相呂夷簡独不拜、帝使問其故、曰、宮庭有
変、羣臣願一望清光。帝挙簾見之、夷簡乃拜。時宦者置獄治火事、得縫人火斗、已誣服、下開封府、
使具獄。權知府事程琳、辨其不然、乃命工図其火所経処、且言、後宮人多、此殆天災、不可以罪人。
(現代語訳)
或る人から質問された。程琳が上疏したことについて、典拠はあるかと。次のように応えた。仁宗
の時、内裏で火事があり、殿上まで延焼した。皇帝は群臣に自らの過ちを遠慮なく指摘するように
詔書を下した。このことに先立ち、百官が皇帝に朝見しに来たのに、宮門は開かなかった。輔弼の
臣は皇帝への上奏を願ったので、仁宗は都の北門である拱宸門にお越しになりなった。百官は順次
樓下で礼拝したが、宰相の呂夷簡だけは礼拝しなかった。仁宗はそのわけを尋ねたが、呂夷簡は「宮
廷で異変が起きたので、われわれ臣下たちは、お顔を直に拝見したいと言った。仁宗は簾を挙げ、
お顔を見せたので、夷簡は直ちに礼拝した。おりしも、宦官がこの火事の取調べを行っている。裁
縫のアイロンを見つけたので、訊問して罪を認めさせた。司法機関である開封府の牢屋に入れさせ
た。權知府事である程琳はそれが間違いであることを知り、技師に火事の延焼の経路を書かせ、次
のように進言した。後宮には人が多く、今度の火事は天災であり、人を罰してはいけないと。
前条で触れた程琳上疏の話しの根拠について、人に聞かれたようである。これは同時に挙
げられている張知白の諫言については『宋史』に載っており 343、比較的有名なことである
のに対して、程琳上疏については、『宋史』にはその記述が見えないからであろう。もち
ろん、それは中巌の作り話ではない。中巌の記述と文字の異同はあるが、『続資治通鑑長
編』には関係記述が見られる 344。南宋・李燾の『続資治通鑑長編』は現在北宋史を学習す
る上で、基本的な史料の一つとされているが、室町時代の日本ではそれほど流布していな
かったようである 345。よって、程琳上疏の話も一般の禅僧の知識外にあったのだろう。し
かし、四三四条の内容は表現まで『続資治通鑑長編』の記述と共通するところが多いこと
や、中巌はそれを読んだであろうことは少し後の四三七条などによっても推測される 346の
で、程琳上疏の話の典拠をひとまず『続資治通鑑長編』と考えよう 347。当時において、中
国に関する知識の該博さでは、中巌が突出していることのもう一つの例といえよう。
ただ、ここで、中巌がこの出典を挙げているのは自分の博学を顕示するがためではなく、
文末の一句「此は殆ど天災,以って人を罪す可からず。」にこそその真意があると思われ
る。つまり、中巌は復興には賛成しないものの、『太平記』の作者や三条公忠と違い、天
龍寺関係者を弁護する立場を改めて表しているのである。しかし、その後の天龍寺の復興
は、中巌の意見とは違った展開を辿っていく。四月二日にはさっそく将軍義詮が焼け跡を
検分し(
『師守記』同日条)
、四月二一日に北朝は義詮をして天龍寺を造営せしめ、春屋妙
葩を大勧進職に任じ、八月十八日にはさっそく造営事始めが行われた。幕府と春屋の主導
のもとで再建が急ピッチで行われていったのである。当時五山のなかで、足利幕府自身が
開いた寺は天龍寺のみで、その創建当時から山門などから強い反発を受けたことが端的に
114
示しているように、その存在は幕府の禅宗保護政策のシンボル的存在であった 348。一方夢
窓派としては夢窓国師の塔所があり、臨川寺とならんで、自派のもっとも重要な拠点の一
つであった。幕府としても、夢窓派としても再建しないはずがなかった。しかも、この時、
高麗使が倭寇禁圧を求め、たまたま来朝していた。春屋は幕府の命を受けて、彼らを天龍
寺雲居庵に館せしめ、厚く待遇したのである。後に朝廷がこの要求に返事を出さないと決
めたのに対して、幕府は春屋をして返書をしたためさせている 349。春屋がはじめて国家外
交にかかわった事件であると同時に、外交権が朝廷から幕府へと代わっていくきっかけと
なった事件でもあった。その最中に火事があったわけで、(使者たちの泊まっていた雲居
庵は火事から免れている)、体裁上も必要上も放置しておくわけにはいかなかっただろ
う 350。このように見ると、中国の史書に根拠をもとめ再建を急がなくてもよいという中巌
の意見は、一理あるとしても、受け入れられる可能性はなかったのである。
もちろん、その提言は好意のものであったため、夢窓派の意見と違うからといって、中
巌がそれにより五山派の中枢部から外れることはなかった。同年十月には五山第一の建長
寺の住持職に任命されるなど、大僧の地位は揺るぐことはなかった。
(二)
二条良基との関係
『雑談』四三九条には中巌が北朝の重臣二条良基(一三二○-一三八八)のために書き
与えた一文が収録されている。『自歴譜』によるとこれは一三六八年に書いたものである
ことが分かる。長文ではあるが、いままでほとんど研究されたことがないので、全文を以
下に引用する。
(原文)
二條関白藤丞相殿下、池中有龍見焉、賜書俾作記、其命惟重、弗敢固辞、輙製文云、
龍之為神也、固不可測矣。昔者董父、甚好龍、能求其嗜欲以飮食之、龍多帰之、乃以蓄龍之能服事
帝舜。舜賜之姓曰董、而氏曰豢龍。封諸鬷川、及有夏少康九世之後曰孔甲、其徳能順於天、天帝賜
之乗龍、于河于漢、各二、各有雌雄、孔甲不能食、而未獲豢龍氏也。帝尭之后有劉累、学擾龍于豢
龍氏、於是以事孔甲。能飲食之、孔甲嘉之、賜氏曰御龍、龍一雌死、潜醢之以食夏后。甚美、既而
又求之、御龍氏懼而遷于魯縣。晋范氏其后也、凡龍非久屈為人用、一得雲雨、終非池中物也。
二條殿下園池、與神泉通、其所繇来也久矣。繄門池(地)家世、自有記焉、不復煩言。惟応安元年
秋、寄書於予、被求扁名也。且言、是歳有龍見于此池、予為
殿下所識、以聞天子、承詔朝見、山
林榮幸也、故不敢辞、輙以龍躍名其池焉。周易有之、乾之九四、或躍在淵、象曰、進無咎也。
或者過予云、今
殿下、左右
天子、而執万機之柄、吾子以在淵以隠然者敢比之
相公、可乎。予
笑而不答。数日而復来、詰而難之至甚矣。予不獲已、乃責而解之曰、女不識字也與、然則焉能得識
易経深奥之旨。昔有彭城劉牧者、謂在淵為藏、後儒駁之曰、非経意也。夫龍得水、猶如人得時也、
何謂藏乎、初九之潜、乃在地下、故藏矣、非在淵也。劉氏盖為詩小雅魚潜在淵、所誤爾、如今易象
云、進無咎也、非以進為藏之謂耳、進則彰矣、非藏也、藏則退矣、非遂也。文言曰、乾道乃革、是
卦之体、至四則下革為上也。自復至臨、至泰至大壮、卦也。自子至丑、至寅至卯、辰也。四時之変、
至卯則寒革為暄矣。体也時也、皆進而得時者也。故云、君子欲及時也。特云欲者、所謂自試也。上
下之交、為危疑之地、故三厲而四或之耳。以九四為自試、何耶。是亦文言備焉。孔子曰、上下無常、
非為邪也。進退無桓、非離羣也。君子進德修業、欲及時也。又云、或躍在淵、自試也。所謂自試也、
進修德業、以自試省其身可及時否、是則慎之至也。
又云、九四之小畜、以風畜陽気升也、不似以山為大畜也。然亦雖未遽亨通、終及其成、乃亦有亨理。
一陰以柔得位而五陽以剛応之、皆係其情、未克全制之、故為小畜。以二体観之、乾健巽伏、不敢激
115
抗、其勢必通。二五君臣剛中、同心同徳而必行也。凡陰気閉塞而極、則陽蒸而成雨。密雲不雨者、
上行未至於極耳。自我西郊者、方起於此、未徹於彼而止、所畜小故爾。然亦曰、尚往則知非不往也。
謂之未行、非終不行也、但未耳、以云未也、意在終行也。此封於天理、如此可見、在人事、以臣畜
君、亀鑑在焉。
(現代語訳)
関白二条良基殿下、池中に龍が現れたので、文章を作るようにという手紙をよこしてくださった。
其の厳命をお断りできず、次のように文章を作成した。
龍は神であるため、もともと図り知ることはできない。昔董父という人がいて、龍を大変好きであ
り、龍の好みが分かり飼育できるので、龍は多く彼のところへ行った。龍を飼育できるという能力
が評価され、帝舜に仕えた。舜は彼に董という姓とまた豢龍という氏を賜り、鬷川という地方(今
の山西省聞喜県)を封国として授けた。夏王朝六代の君主少康の九世後に、皇位についたのは孔甲
であった。その徳がよく天に従っているため、天帝は彼に龍に乗ることを許した。龍は黄河と漢水
に、雌雄一対ずつある。孔甲はその龍を飼育できず、また飼育できる豢龍氏も得られなかった。帝
尭の後裔に劉累という人がいて、豢龍氏から龍を操る方法を学んだため、この技術をもって孔甲に
仕えた。龍をよく飼育できたので、孔甲は褒美として御龍という氏を賜わった。雌の龍が一匹死ん
だので、御龍氏はそれを塩漬けにして、皇后に差し出した。とてもおいしかったので、皇后はまた
食べたいと申し出た。御龍氏は怖くなって魯縣に移った。晋の范氏は其の末裔である。凡そ龍は長
い間人に使われるものではない。一たび雲と雨を得れば、池にとじこめられなくなる。
二條殿の池は、神泉と繋がっており、その由来は古い。池や家柄の由緒については、別に文章があ
るので、ここでは詳しく触れない。応安元年(一三六八)秋、二條良基殿が私に手紙を寄こし、扁
名を求められた。又、今年龍がこの池に現れたことを知らせた。私は殿に認められ、名前を天子の
耳に入れてもらい、詔を承け朝見したことは、
(私個人だけではなく)禅林の名誉であった。よって、
殿の(扁額の名をつけるようにという)命令をお断りできない。そこで「龍躍」という名をつけた。
『周易』にその出典がある。乾の九四の爻辞に、
「或いは躍りて淵にあり。」とある。
『象伝』には「進
んでよい」と説明されている。
或る者は、今二条殿は、天子の側近で、政務の中枢を担っている。あなたはあえて淵にいて隠れて
いるものを殿に譬えているのは、いいのですか、と私を責めた。私は笑うだけで応答しなかった。
数日してから、その人がまた来てひどく私を非難したので、私はやむをえず、叱って説明した。君
は字を知らないのか。だったら、どうして『易経』の奥深い意味を理解できようか。昔は彭城劉牧
という人が、淵に在ることを藏れると理解した。後の儒者は劉牧の説は『易経』の意味ではない(間
違っている)とその意見を批判した。龍が水を得るのは、人の時を得るのと同じで、藏れるのでは
ない。初九の爻辞にある潜むは、地下にいるのだから藏れる意味であるが、淵に在るのではない。
劉牧は多分『詩経・小雅』にある「魚は潜みて淵に在り」という句があるので、
(龍と)間違えたの
だろう。また『易・象伝』に「進んでよい」とあるが、これも進むを藏れるという意味では使って
ない。進めば目立つのであり、藏れるのではない。藏れれば退くになるので、なし遂げることには
ならない。
『文言』には、「乾の道は革である」とある。これは卦体(卦の形)を言っているのであ
る。六爻からなる卦では、四爻から下卦から上卦になるのである。六爻のうち、一爻だけが陽爻で
ある卦は復卦である。復卦の二爻が陰爻から陽爻に変わって、臨卦になる。臨卦の三爻が陽爻に変
わって泰卦になる。さらに泰卦の四爻が陽爻に変わって大壮卦になる。この変化の過程が、卦(の
革)である。子より丑になり、寅になり卯・辰になるのは、四時の変化である。
(一日のうち)卯に
なれば、寒さがおわって暖かくなる。卦体も四時も、皆な進めば時を得るのである。よって、君子
は時に及ぶを欲す、という。特に欲すと云うのは、自から試す意味である。上卦と下卦の交わると
ころは危ない立場にある。だから、爻辞では三爻はあやうく、四爻はどっちにもつかずと言うので
ある。九四を自ら試すとするのはなぜだろう。これも『文言』に詳しい説明がある。
『文言』には「上
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へ行くか下へ行くか決まっていないが、邪ではない。進むか退くか一定しないのは、仲間と離れ逼
塞するわけではない。君子が德を進め修業するのは、時に及びたいためである。と、孔子が言った。
」
とある。また、「或いは淵に躍るは、自から試すのである。」ともある。自から試すというのは、道
徳や技術を修め、自から試すことで自分が時に及ぶことができるかどうか判断するもので、よって、
これは究極の慎みである。
又た言う。乾卦の九四が陰爻に変化すれば小畜卦になる。
(上卦の)風で(下卦)の陽気気が升るの
を畜(とど)めている。
(上卦の)山で留める大畜と違う。それでも、まだ亨通するまで行かないが、
最終的には成就するという点では、亨るといえるのである。陰爻(六四)が正位を得て、上下の陽爻
五爻がこれに応じる。みなその情であり、まだ完全に制したわけではないので、小畜というわけで
ある。上卦と下卦の形を見れば、下卦の乾は健で、下卦の巽は伏で、激しく衝突しないため、その
勢いは必ず通る。二爻と五爻はともに剛爻で「中」を得て、同心同徳すれば必ず行われる。凡そ陰
気が上の通路を完全に塞ぐと、その下の陽が凝結して雨と成る。
「濃い雲が沸き起こりつつ、まだ雨
が降らない」というのは、陽に未だ昇り進む空間が残っているからである。
「我が西郊よりする」と
いうのは、まだ陰が起こったばかりで、極限まで達していないため、留める力が不十分であること
を言う。ただ、
「なお往く」というのだから、行かないわけではないことが分かる。未だ行われない
というのは、終に行われないというわけではない。未だというだけである。未だというのは、その
真意は最終的には行われることにある。天理におけるこの道理は、人事にも当てはまる。臣下が君
主(の過失)を留めれば、(直ぐには無理であるが、
)きっと(最終的には)用いてくれる時が来る
だろう。
内容に応じて、四つの段落に分けてみた。第一段落ではまず、良基邸で龍が見えたので、
中巌に記をつくるように書をよこしてきた、と文章執筆のいきさつについて簡単に述べて
いる。第二段落では、中国における龍の伝説を挙げている。上代における龍を蓄う人豢龍
氏と御龍氏についての話は、『左伝』や『史記』に述べられており 351、中国では一般的に
知られるものであるが、日本では中巌のほかにまだ記述が見当たらない。中巌の記述を『左
伝』と『史記』の関係箇所と比較すれば、多少異同があるが、『左伝』の記述に近い。そ
の理由はおそらく、『史記』の記述よりも、龍の出現のめでたさが記される『左伝』の記
述のほうが、中巌の意図に叶っているからであろう。つまり、龍がその徳が天に従ってい
る孔甲のところに現れたということが、すなわち、良基の庭に龍が出現したことのは、良
基の徳の表れだということの根拠になるのである。そして、この故事の提示のもう一つの
目的は、「凡龍非久屈為人用、一得雲雨、終非池中物也」という議論を導き出すためであ
る。龍はいつまでも池には閉じ込められることはない。条件が備えば、きっとそこから飛
び出せるという内容は、その以降の内容とあわせて考えると、今池にいる龍を良基に喩え
ていることが分かる。
第三段落では、あらためて、二条邸の池に龍が現れたこと、さらに良基の要請に応じ、
その池を中巌が躍龍と名づけたことを述べる。
この部分については、蔭木英雄は中巌の伝記で触れている 352。ただ、「良基の要請によ
って文章を製したという事が天聴に達し、中巌は参内拝謁の栄に浴した」という理解は、
間違っている。「所識」を「文章を製したということ」と理解しているようだが、この所
識は知遇を得ると取るべきである。『自歴譜』によれば、実際中巌が参内したのは、これ
より六年前の一三六二年であり、この歳ではない。この部分を現代語でまとめると、かつ
て良基の推挙を得て、参内拝謁の栄に浴したことがあるので、扁名の求めにどうして断れ
ようかという意味になる。蔭木は「この事は『空華日用工夫略集』康暦二、八、八」 に
も記されているとしているが、実際同日の記事には扁名をつけたことのみがあり、拝謁の
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記事はない。
このように読み直すことによって、「好む好まざるに拘わらず、貴族社会、権力社会と
交わらざるを得なくなる」という蔭木の理解も訂正する余地があると思われる。中巌は明
らかにこのような交わりを好んでいたのである。孤高の性格という蔭木の人物評価からは、
このような結論は得がたいが、中巌は権力社会と交わることによって、自分の主張(儒教
の文治論、晩年では文明と定義)を教え、それを通じて社会づくりに役立てようという強
い意志の持ち主であるという立場からみる場合、むしろ当然の帰結である。
また、一三六二年(あるいはそれより以前)ごろから既に良基と交渉のあったことも注
目に値する。一三六二年の参内については、ほかに史料が残っていないため、詳しいこと
は分からないが、中巌の参内に先立ち、後光厳は春屋妙葩を召して、受衣していることと
あわせて考えると、あるいは春屋の推薦があったのかもしれない。とにかく、禅に関心を
持つ天皇がトップレベルの禅僧として建仁寺現住を招見したのはさほど不思議なことで
はない。また、この記で中巌が言うように、後光厳天皇の頼りにしている良基の推挙もあ
ったのだろう。
ただ、後光厳と違い、良基も禅僧とのかかわりを持っているが、その関心は仏教ではな
く、むしろ漢文(儒学)の交流に主眼があったのである 353。中巌の書いた記からもそのよ
うな傾向が窺える。記全体が儒学の内容に徹しており、禅の話は一ヶ所もない。そもそも、
池に龍が現れたということ自体、多分に中国的な発想である。龍は、中国やインドの神話
に登場する伝説上の動物であるが、特に中国では、三皇五帝の神話から四霊(麒麟、鳳凰、
亀、龍)として、あるいは皇帝始祖として存在した。完成された「龍」は漢の高祖以来、
歴代皇帝の象徴として宮殿、玉座、衣服、その他美術品など「皇帝コレクション」に描か
れることが多い。すぐれた人物のたとえでも使うが、天子の龍と一般人の使う龍とは厳格
に区別がされたのである。日本には、四~五世紀頃、神の使いとして中国から伝来したと
言われている。蛇信仰の地盤があったため、当初から比較的抵抗なく受け入れられ、雲雨
を自在に操る水神として崇められ、やがて四神(白虎、朱雀、玄武、青龍)となり、都の
守護神として定着した。龍の出現の吉兆であることは、天龍寺の改名からも窺える。もち
ろん、想像上の動物が実際に現れるはずがない、むしろ人間が各自の目的のために、作っ
た吉兆話である。良基邸の龍も同じように、何か訳があって、考えた作り話だと思われる。
龍は日本で早くから受容されたにもかかわらず、和歌や連歌では一般に用いられることが
なく、俳諧か和漢連句でのみ使用が許されることからみて分かるように、中国的なもので
あるというイメージは依然強い。それにちなむ扁名をつけるとなると、公家社会で随一の
教養人である良基が、当代漢学の最先端を歩んでいる禅林の随一の漢学教養人中巌に依頼
したのはすこぶる自然なことである。中巌もそれを快諾したのだろう。儒典のなかでも中
巌が特に『易』に出典をもとめ、乾卦九四爻にもとづき「龍躍」という名をつけたのであ
る。
第四段落では、その命名を疑う者に対する反論という形で、命名の正しさを詳しく述べ
る。「昔有から是則慎之至也」までは、主に乾卦の内容を、それ以降は小畜卦を中心に論
じている。乾卦九四を中心にした部分では、
「龍躍」を名づけた理由は、それに「進無咎」
という意味があるからと説明する。しかし、そのためには、「進修徳業、以自試省其身可
及時否、是則慎之至也」と、修行に身を励み、慎重に行動を取るべきということが必要で
ある。この後、小畜卦の解釈へと内容が変わる。乾卦から小畜へと話題転換したのは、乾
卦の九四が陰爻に変化すれば、小畜卦になるからであるが、内容的には両卦の間に共通点
は認められる。つまり、時を要するが、最終的には実現するという点で「意在終行也」を
表す小畜は乾卦九四の解釈とあい通じるのである。第一段落の末尾で「一得雲雨、終非池
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中物也」と述べているのを理論的に証明し、補足した内容と言える。しかも、このように
難しい易学の開陳は、決して爻辞の学問的考察ではなく、現実問題の理論的根拠として資
したいという考えから行われたことは、「如此可見、在人事、以臣畜君、亀鑑在焉」と締
めくくっていることから分かる。天理を極めるのはあくまでも「人事(人間社会の営為)」
で役立つためであるというのは、宋学の基本姿勢である。具体的にどんな「人事」なのか、
ここでは明記していないが、締めくくりの「以臣畜君、亀鑑在焉」という一句の意味に注
目したい。畜君ということば『孟子』梁惠王下の章に「畜君何尤。畜君者、好君也。」と
見える。その意味は、君の徳(広めて考えれば施政)に不備があれば、それを正すことで
ある 354。この文全体の意味は、君主にアドバイスする際も、この心構えでということであ
るが、つまり、君主にアドバイスする時も、すぐには受け入れられないが、きっと最終的
には受け入れられるというつもりでしてくださいと、中巌が良基に進言しているのである。
龍が出現したので、記を書くように頼まれた中巌は前半でまことに珍しいことだと、こ
のような祝文にふさわしい内容になっているが、中盤から「進修德業、以自試省其身可及
時否、是則慎之至也」と、依頼者に徳を身に着けることの必要性を力説するようになって
いく。最後には自ら徳を納めるだけではなく、君主にもそれを諫めるようにすべきである
と勧めている。かつて、『中正子』で徳治の必要性を強調していた思想の延長線上にある
ことは明らかである。文明軒から社会にむけて発信するメッセージとしてはまさにぴった
りのものであろう。ただ、一般論として発しているのか、それとも具体的に何か指すこと
があって発している提言なのかこの記だけでは分からない。かつて、
『上表』や『中正子』
を執筆した時は、当時の情勢を踏まえて提言していることから考えると、この時も中巌の
中ではやはり何か具体的な事件を想定していたと思われる。また、良基宅で龍が出現した
としたのもやはり偶然ではなく、何か望みがあってのことだろう。
以下、当時の良基の状況や、政治情勢などを見ることによって検討したい。
まず、何故良基宅で龍の出現という吉兆がおきたのかを考えよう。良基は五摂家の一つ
二条家の家主として、後醍醐・光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に仕え、関白・
摂政にまで登り詰めただけでなく、足利幕府とも良好な関係を築いていた。天下独歩の権
勢を誇っていたとされる人物であるが、この記の記された一三六八年の前年には、一三六
三年から四年間勤めていた関白を辞任した。一方、その息子の師良が関白・氏長者に就任
するのはこれより一年後の一三六九年まで待たれる。この時の関白は鷹司冬通が就任して
いたのである。朝政に関与すること従前であったとされているが 355、良基にとって、やは
り精神的にやや焦燥を感じた時期ではないかと思われる。淵に隠然として隠れている龍で
あるという中巌のたとえのとおりの状況と言えよう。あるいは、龍の出現によって自らの
復職か、息子の関白就任の早期実現を願っていたのかもしれない。その後の展開をみれば、
その年に実現できなかったものの、翌年には師良が果たして関白就任を果たしている。今
は時期尚早だが、必ずそれが行われるという中巌の予言どおりになったとも言えよう。こ
の記を読んだ良基は、あるいは精神的に少しはリラックスできただろう。
このように、良基の状況を察知し、その心情に答えるべき記を製作したと思われるが、
ただ、それだけなら、
「以臣畜君」という結びが説明つかない。この結びの書き方を見て、
何かの事件についての天皇(朝廷)の態度に不備があり、良基にそれを諫めるように、し
かも最初は聞き入れられないかもしれないが、きっと聞き入れられる時が来ると信じて、
諫言するように、中巌がこの池の命名文を借りて、良基に訴えたかったと考えるのが自然
である。
この時期に禅宗と深い関係のあった事件というと、その前年から続いていた南禅寺と叡
山の確執 356である。天台宗徒の誹謗に反発し、定山祖禅 357が著作『続正法論』において天
119
台を非難すると、叡山側がこれに猛抗議して朝廷に定山祖禅の流罪と春屋の発議で幕府の
助成のもとに進められていた南禅寺の楼門の破却を求めた。まず、七月二六日に、延暦寺
の衆徒が北朝に訴えた。朝廷は天台座主をして慰諭させたが、功がなかったと見え、八月
二九日に衆徒たちが強訴を強行した。幕府から赤松則祐・山名時氏・六角氏頼をして備え
させたが、衆徒は入京し神輿を捨てて行った。ここで、想起されるのは、かつて中巌が僧
侶の武器所持を憤り「原僧」を後醍醐に奉ったことである。この時も延暦寺の衆徒の行動
を内心非常に嫌っていたはずである。また、定山祖禅と中巌の関係については、散逸して
文章そのものは現存しないが、『自歴譜』によれば、一三七四年に定山が示寂した時、中
巌は追悼文「祭定山和尚」を書いているので、その理解者であったことは間違いない。ま
た、何よりも、この事件は定山個人に対する叡山側の攻撃というより、新興勢力である禅
宗僧徒全体に対する旧仏教側の反撃ともいえるべき事件である。中巌も禅宗の中枢部にい
る一人として当然それに無関心なはずはなかった。また、この時の対応をみると、幕府は
禅宗に同情的であったが、結局朝廷の要請もあり、定山を流罪にしたのである。このよう
な朝廷の措置への不満を中巌は「躍龍記」を通じて、良基に訴えたのではないかと思われ
る 358。
しかし、その後のこの事件の展開をみると、山門側の度重なる強訴に、朝廷や諸将も遂
に屈し、翌一三六九年七月には楼門撤去が決定される。五山側では幕府の裁定に抗議し五
山住職が相次いで退院している。そして、この確執はさらに長引き、ついには一三七一年
には、春屋と頼之との不和が表面化し、春屋は丹後雲門寺に隠れ、頼之はその門徒二百三
○余人の名籍を削るという事態にまで発展する。その間の中巌の行動をみると、一三七○
年と一三七三年には南禅寺と天龍寺出住の要請をそれぞれ断っている。すでに述べてきて
いるように、中巌は政治権力に積極的に交渉する態度の持ち主で、自ら接近して行くこと
がしばしばであった。しかし、そのような中巌の生涯において、官寺出住の要請をこの二
回のみ断っているのである。一三七○年の要請は南禅寺山門を破却し、細川頼之と夢窓派
との不和になった翌年である。一方、一三七三年は頼之と春屋の不和が激化し、春屋が丹
後雲門寺に引退した翌年である。しかも、『自歴譜』には「源公細川武州太守之請」を断
ったと明記している。このほかの官寺出住にあたって誰の請だったか一回も記していない
のに、断った頼之の名前をわざわざ出しているのは、やはり偶然ではないだろう。春屋の
夢窓派と対立関係にある頼之だから、断ったのではないだろうか。夢窓派の人間ではない
が、文学の交流などを通して親密になった中巌はこの事件に際し、終始春屋と同じ立場に
立っていたことが分かる。
次に、この文章で中巌が利用したと思われる『易』の注釈書『周易玩辞』について触
れよう。かつて「革解篇」の作成にあたって『周易玩辞』を利用した可能性は認められる
ものの、断定はできないことは前述したが、この記には、『周易玩辞』にしかみえない内
容がある。つまり、劉牧の「在淵為蔵」という説を後代の儒者が論破したという部分であ
る。中巌は「後儒」といって、名前を明記していないが、その内容は『周易玩辞』巻一乾
卦「進無咎也 乾道乃革」の項に「彭城劉牧、謂在淵為藏、非経意也。龍之得水、猶人之
得時也、何謂藏乎、初九之蔵、乃在地下、非在淵也。牧殆為小雅魚潜在淵、所誤爾、小象
曰、進無咎也、」(彭城の劉牧は淵に在ることを藏という。『易経』の意味ではない。龍が
水を得るのは、人の時を得るのと同じで、どうして藏れるというのだろうか。初九の「蔵」
は、地下にかくれるのであって、淵ではない。劉牧は多分『詩経・小雅』にある「魚は潜
みて淵に在り」という句に影響されて、間違えたのだろう。『易経・象伝』に「進んでよ
い」とあるのだ。)359とあるのと共通し、筆者の所見の限り、他書に見えない内容である。
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『易』の注釈書中、『周易玩辞』は現在では『易』の注釈書中、マイナーな存在である
が、程朱注が明において科挙の正統と決められる以前の当時の中国においては、比較的評
価の高いものだったのである。なかでも、中巌の留学中に元でそれが再刊されていること
が注目される。この再刊に当たって、当代屈指の文人虞集が序を表し、それを絶賛してい
る。ある意味で、流行の書であったのである。中巌がそれを愛読したのは、そのような元
の知識界の動きに影響を受けたのかもしれない 360。と同時に、項安世は朱熹と違い、排仏
論者ではなかったこと 361や、各家の長を広く取っている同書の特徴 362に同感を憶えた 363こ
とも理由として想定される。そして、最大の理由はもちろんその内容と中巌の述べたいこ
とが一致していたからであろう。つまり「躍龍」の出典である「或躍在淵」の意味を、
「潜
む」と解釈するのが間違っているという『周易玩辞』の見識に中巌が賛成しているからで
ある。
最後に、良基と中巌の関係についてまとめよう 364。一三六二年ごろから知り合っていた
ことは記の内容から窺えるが、その後この記が撰述される一三六八年までの間に、ほかに
交渉があったという記録は現在見当たらない。これは良基にも中巌にも日記が残っていな
いため、史料の上で補いようのない問題であるが、両者の間にこの二回のほかにまったく
交渉がなかったとは考えられない。たとえば、年次は不確かであるが、第二章で述べたよ
うに、義堂の日記によると、中巌は良基のために「政平水」という景色を命名したことが
ある。また、当時、貴族が自邸か禅寺において禅僧に漢文の講義を所望するのは、当時の
知的伝授の重要な一形式であった。たとえば、一三七二年には中巌が近衛道嗣の所望によ
り禅居庵で契嵩の『鐔津文集』を講じていたことが『愚管記』に(九月二日条)よって伝
わる。あるいは良基との間にもそのような交流があった可能性は十分考えられる。
良基の漢学の師範については、現在明らかではないことが多い。義堂に詩の添削を頼んだ
り、学問上の質問をしたりしたことは知られているが、それは義堂が関東より帰京した一
三八○年以降に集中している。それ以前に良基は既に漢学の素養があった。延文年間には
すでに唐宋詩に接していたことは、『後深心院関白記』の延文四年(一三五九年)七月一
五日条の著名な記事によってつとに知られており、和漢連句を作る知識を身につけるため、
一三六八年(中巌の躍龍記の撰述時期とほぼ一致する)ごろから漢学に一層熱心になって
いることも指摘されている。義堂のほかにも影響を受けた人物がいたはずだ。
現在その師範には阿一という学僧が擬せられている 365が、阿一の出自については、不明
であり、南方より京にでた人で、一三六一年前後に活動がみられるのみである。それより
は、長期間在京し、良基と交渉を持っていたと思われる中巌からも、漢学上なんらかの影
響を受けたと考えたほうがむしろ自然である。
実際、良基の漢学への関心は多く中巌のそれと一致するのである。既に触れた『孟子』
の受容(必ずしも革命理論を中心としていなかった)のほかに重要なものを一つ挙げる。
良基の『筑波問答』六「初心の時の稽古」条に、
「性」についての次のような議論がある。
孟子と云ふ文には、
「生まれつきの性は善き物なれども、悪き事になれぬれば悪くなる」ともいひ、荀
子と云ふ文には、
「生得の性は悪き物なれども、学問などして善くなる」ともいひ、楊子と云ふ文には、
「人の性はもとより善悪まじるものなれば、善き方にひかるれば善くなり、悪しき方にひかるれば悪
しくなる」
。
これについては、中国思想史の概説のない当時において、このような性善説・性悪説と
その折衷説を要約すること自体、なみなみでない知識を見て取ることができると、岩下紀
之が評価している。また、これは、おそらく三説が並称されている『楊子法言』修身篇の
121
柳宗元注を読んでいるだろうと岩下が推測している 366。その可能性がないとは言えないが、
良基と交渉があった中巌の文章に三者を並称するものがあることについても、注目する必
要があるだろう。『中正子』性情篇には、禅宗の性情論を宣揚するために批判対象として
ではあるが、儒学の性論について総括がなされている 367。良基の「性」論は中国の古典か
ら直接抽出したと考えるよりも中巌のように周囲に儒学的教養の深い人から教示された
可能性が大きいと思われる 368。
また、良基の政治思想には儒教的徳治論の色彩が強く、とくに尊氏幕府開設の事業を「天
下草創」と表現したことは、すでに先学によって注目されている 369。徳の重視にせよ、
「天
下草創」という表現は中巌が「革命」と表現はいずれも中巌の考え方と共通している。摂
関家の良基がこのような思想を形成する上では、中巌のような思想の持ち主と交際があっ
たことの果たす役割について今後さらに重要視する必要性があると思われる。
以上三節に分けて中巌の主な著作を年代順に逐次分析することによって、彼の政治思想
について考察した。実際の政治情勢や中巌自身のおかれた立場に応じ、変化は見せている
ものの、その生涯を通じて中国の儒学的政治思想を日本に適用しようという姿勢は一貫し
ていた。この時代、中国に範を求める思考様式、は広く存在していた。『太平記』の言葉
を借りると、
「異国ノ例ヲ以吾朝ノ今ヲ計」ることである(巻二一先帝崩御事)
。そのよう
な時代の風潮の中でも中巌の中国文化の素養はぬきんでていた。具体的な史実や故事だけ
ではなく、儒学の経典に対する造詣も深かった。中でも、易学に関する造詣は当代一と言
っても過言ではない。『程朱易伝』、『項氏玩辞』など、中国でも最高水準の易関係の書物
を渉猟し、それを現実政治の解釈に適用した。
年代順にみると、
『上表』という帰国初期に書かれたものには、
『漢書』をはじめ伝統的
に日本で受容されてきたものから引くことが多かった。その次に著された『中正子』の特
徴は思弁性の高さと論理性の重視である。『日本書』に至っては、日本の思想動向に配慮
する傾向がみられ、晩年の『文明軒雑談』の最大の特徴は宋代以降の記事が増えたことで
ある。この時代においては禅僧こそ宋元文化と称され、当時においては最新情報と思われ
ていたものの伝播者であったとされている。中巌としては、帰国直後より、しばらく経っ
てから意識したのかもしれない。
最後に、中巌の儒学は古注か宋学かという、研究者の間で関心の高い問題について私見
を述べよう。まず、序章でも述べたように、中巌の儒学を朱程学にひきつけて説明した久
須本の解釈は当を得ていない。かといって、
「程子や朱子の易説によっているのではなく、
全体としては古注を適宜に取捨折衷しての演繹である。」という入矢の見解は「革解篇」
については当を得ているが、中巌の儒学の全体的な性格を物語っていない。確かに、中巌
には古注の伝統の影響が見受けられる。しかし、宋学というのは表向きに尊孔、尊孟を唱
えているが、実際には現実の社会情勢の変化に適応するため、儒学の再解釈、再構築を行
ったものである。「革解篇」において古注の伝統の影響が見受けられながら、その執筆の
動機は現実問題に理論的根拠を与えるためであることからみると、中巌の学はやはり宋学
であるといえよう。ただ、この場合、朱程に限定した狭義的な意味の宋学ではなく、宋代
の学問の全体をさすのである。たとえば『周易玩辞』はその一例である。
122
終
章
以上、中巌円月の思想、文学について、三章に分けて考察したが、その概要を以下にま
とめる。
第一章第一節では、本格的な先行研究がない中、彼の作品や語録を読むことによって、
彼の禅思想の解明を試みた。まず、東明派からの迫害を甘受しながらも、留学中師事した
東陽徳煇への嗣法を貫いたことに注目し、彼が東陽のもとで習得した禅は一体いかなるも
のであったか、その復元を試みた。中巌が東陽について言及した記述のなかから、最も重
要と思われるもの二点、一三五三年二月相州乾明山万寿寺で行った嗣法拈香、および東陽
の訃報に接した時に作った追悼文「為広慧禅師拈香挙哀」を分析したが、その結果として、
東陽との出会いは猛虎に噛まれるほど強烈な体験であったこと、そして「点鉄成金」とい
われるような学人の素質を生かした東陽の指導を受けた結果、中巌は思考様式を変えて
「本来具有」の真意を会得し、何の束縛をも受けない境涯に達したことが明らかになった。
このように、東陽の下で開いた悟りの内容は、後年中巌が日本で高僧として認められた
のちに、道俗に向けて行った説法のなかでも守られていた。たとえば、応安元年(一三六
八)一月二七日に、上杉憲顕の依頼により、建長寺正統庵で上杉憲房の三十三年忌が行な
われた。中巌は建長寺住持としてその拈香で、迷いを悟りに転じさせることのできる一語
として「視左右雲塞却耳根。分明聴取」と述べている。悟りを外に向けて求めてはいけな
い。むしろ、耳をふさいで、集中力をすべて自分の本心に向ければこそ、そこに悟りが開
けるのであると説いたのである。
また、上杉朝宗に与えた道号説「道行説」で「祖師門下、別に一條の大道有り、要行便
行、誰が敢えて礙を作すか、汝は本より京師に在り住を作す、輙ち含元殿裏に於いて、別
に長安を問う、只だ這の大道坦然とし、勤力て之を行え。」と書いている。本来具有の仏
性に気づけば、もう何も妨げがなく、自分の行動するなりにすれば良いということの強調
は、かつて、中巌が東陽の下で体験した境地に共通するものである。また、その依頼者が
上杉氏という新興有力武家という点から見ると、その行動の正当化につながる、精神的欲
求に符合する内容でもあるのだろう。
実際、このような個人の営みの肯定は馬祖以降、中国の禅宗で顕著な特色のひとつであ
ると同時に、禅宗が日本に導入されて以降、多くの禅僧が力説しているところでもある。
たとえば、中世後期を通じて主流派となった夢窓派の派祖夢窓疎石もしかりである。後醍
醐天皇の怨霊を鎮めるために創立された天龍寺の開堂説法で、足利尊氏や直義らが席に連
なっている中、
「所謂法者何也、在聖不増、在凡不減」
「釈迦如来今日…普告大衆言…人人
箇箇、都是独尊」(法とは何だろうか、聖人でも増さずに、凡人でも減らない(皆が平等
に持っているもの)」「釈迦如来今日…普告大衆言…人人箇箇、都是独尊」(釈迦如来は今
日…皆に教える…人はみなそれぞれ、唯我独尊の釈迦である)と述べているのはまさにそ
の内容である。誰でも平等に禅法をもっており、自分自身がすなわち釈迦と同じだという
教えこそ、まさに武士階層が魅力を感じる思想的な光のひとつだったのであろう。
ところで、中巌の禅と夢窓の禅とは、全く同じかというと、もちろんそうではない。
夢窓は自悟を強調する一方、伝授(肯)の可能性を認めている。それに対して、中巌は伝
授という形式を厳しく拒み、あくまでも自悟自証を堅持した。この違いは、中巌が光明法
皇に書き与えた「太上法皇尊号説」において端的に現れている。夢窓が法皇に与えた「肯
翁」という尊号につて、中巌は敢えて禅宗では「肯も無肯もない」という意見を表明して
いる。夢窓よりも中巌のほうが厳しかったとも言えようが、このことは彼の東陽会下での
強烈な個人体験と関係があるだろう。
123
このようにみると、中巌の大慧派嗣法は決して、従来言われているように東明派か古林
派かと迷う中、逃げ道として選んだわけではなく、その思想に共鳴するゆえ、積極的に成
された決断として理解すべきだろう。
大慧派に嗣法した中巌のその後の行動をみると、あらゆる面から自派への帰属意識が強
く窺える。たとえば、彼の語録にみえる挙話の多くは大慧派と関係のある禅師に集中して
いる。また、自ら大慧派関係の書物を利用しただけではなく、その普及にも尽力した。
『大
慧普説』をはじめ、『五灯会元』、『勅修百丈清規』などの開版・講釈・訓点など積極的に
携わったのである。なかでも、大慧『普説』の講釈者としては当時、第一人者にまで崇め
られ、光厳・光明上皇までもが彼の講義を聞いているのである。
第二節では他派の人々との交渉を考察することによって、当時の禅林における中巌の位
置づけを明らかにした。中巌は若いときからその才能を回りから嘱目されていたにもかか
わらず、その官寺出住は必ずしも早くなかった。その理由については、従来の研究は主に
嗣法問題に起因する東明派との不和に求めていた。本論では、東明派との葛藤よりも、五
山住持の人事権に影響力の強い夢窓の中巌評価にこそその出世を遅らせた原因があるこ
とを明らかにした。中巌は夢窓に詩を送ったり、直接会うなど自己アピールする機会は何
回かあった。夢窓から偈を一首送られ、その禅の素晴らしさを讃えられているが、人事で
抜擢されることはなかった。これは、中巌が最も自負していた文章力は、夢窓にとって必
ずしも評価すべきものではなく、むしろ戒めるべきものと考えていたことと関係があると
推測される。しかし、夢窓なきあと、龍山徳見などの留学僧の支援もあり、中巌は五山官
寺を歴住し、禅林における影響力を強めていく。なかでも、春屋妙葩や義堂周信など次代
の夢窓派の重要人物と緊密な関係を持ち、彼らから尊敬されていたことは注目に値するこ
とである。元末明初にかけて大慧派が中国で再び盛んになってきたことを受けて、日本の
禅宗社会でもそれへの関心・傾倒が高まった。たとえば、春屋妙葩は大慧派から多大な影
響を受けたが、彼の弟子の間では、春屋を大慧の化身として神格化する動きがあるほどま
でになった。日本で大慧派の法を継ぐ中巌に対する周囲の評価も高まったことは想像に難
くない。大慧派という立場は初期こそ、東明派から反発を受けたものの、やがて回りから
認められ、尊敬されるようになっていったのである。
大慧派の特徴は、禅の提唱と同時に、本来外学として排斥される文学や儒学への外学に
も造詣の深い人が多く、また士大夫との交流を重視し、政権とも積極的に関わり、政治へ
の関心も高い点にある。これらの特徴は中巌においても認められた。それについては第二
章と第三章で考察した。
「五山文学」の範疇については、様々な議論があるが、本論では語録以外の文字化した
ものをひっくるめて文学といい、その作品創作をはじめ、注釈・講義・交流をまとめて文
筆活動と考えた。
まず、第二章第一節では、留学前から、中巌はすでに文学に関心を持っていたが、作文・
作詩能力の本格的な習得はやはり留学時代、特に大慧派下においてであったことを明らか
にした。具体的には百丈山大智寺で作成した「上梁文」と金華智者寺で書いた「江湖請傑
独峰住智者」、
「和儀則堂韻謝琳荊山諸兄見留」の解説を試みた。四六文や漢詩の作成能力
の高さの検証とともに、文章力が高く評価されたことによって得た中巌の自信をも明らか
にした。
これまでの中巌の文学作品に関する研究は、主にその漢詩に関心が向けられてきたが、
第二節ではジャンル別にではなく、詩文創作の実用性に注目し、彼が夢窓派の人との関係
で書いたもの七点(漢詩四首、疏、序、賛各一篇)を取り上げた。春屋に和した詩四首は
124
中巌の詩集に収録されていないため、これまでほとんど注目されていなかったが、それを
読むと、次のような背景で書かれたことが分かる。一三五九年春、中巌が開山となった利
根吉祥寺が諸山に列せられた。この時、春屋妙葩から祝賀の偈が三首送られてきて、中巌
は一首を酬いると、折り返し春屋妙葩や諸老の和韻が来て、たちまち六十二首となり、義
堂がそれを一幅の頌軸とした。この和韻は当時五山禅林における一大盛事であったことが
分かる。その六十二首のうち、現存しているのは中巌のこの四首と鉄舟徳済の一首のみで
あるが、中巌の詩と鉄舟の詩を比べると、前者は後者より、難渋であることがわかる。中
巌の詩の性格が唐詩的か、宋詩的かということについては、現在研究者の間で議論の分か
れるところであるが、典故の応用と変容などの点からみれば、この四首の場合はあきらか
に、宋詩とくに江西詩派の詩風の影響をうけているものだと結論付けられた。また、その
特徴はさかのぼってみると留学時代の作品にすでに見えることも確認できた。
この四首の詩と比べると、同じく春屋のために書いた「春屋天龍に住する江湖疏」の表
現は比較的平易である。この違いは、送る相手の理解力に対応したであろうと思われる。
中巌は文学的素養の非常に高い春屋一人に限った場合か、公の場で朗読されて多数の人に
分からせる必要がある場合かによって、自在に詩文の表現を操れたことが分かる。
夢窓派のなかでも、中巌を特に尊敬し、師と仰いでいるのは義堂周信であった。両者の
応酬作は多く存しているが、本論では中巌が延文四年に義堂の詩文集『空華集』のために
書いた序を取り上げた。同序は大きく分けて二つの部分からなっている。前半では義堂の
詩の特徴を「衆体具矣」と評し、高、深、明、冥、変化、珎奇、縦逸横放など七つの角度
から、すべて比喩を用いて絶賛しているが、これは同時に中巌の力量の発露でもあった。
後半では『空華集』の命名の由来を説明している。空華が「諸仏世界」と不即不离の関係
になるように、詩も禅と不即不離の関係にあると明言してはばからない中巌の文学観は注
目に値する。中世の日本禅林では、ほとんどの禅僧は漢詩文の作成に力を入れ、後に五山
文学と称される膨大な作品群を残している。しかし、一方では、理論的にそれを否定する
立場を取っている人も少なくなかった。その中で、中巌は正面から文学を肯定しているの
だ。そのまっすぐな性格の現れともいうべきだろうか。また、中巌には個人の感情の流露
である詩よりも文章のほうを一段上とする考え方をもっていることも確認できた。
中巌は自ら詩文を作成すると同時に、講義や注釈などを通じて、詩文の普及や教育にも
尽力した。第三節では『挿注参釈広智禅師蒲室集』という注釈書の原本調査を通じて、そ
の執筆の動機や引用漢籍及び漢詩について考察した。同文は、一三五八年に、春屋の依頼
により執筆した『蒲室集』の注釈書である。『蒲室集』は元代の大慧派禅僧笑隠の詩文集
であり、日本禅林に多大な影響を与え、多くの注疏類が作製されたが、中巌のこの挿注参
釈はもっとも早い時期のものであった。しかしこの『挿注参釈広智禅師蒲室集』は、現在
わずか足利学校史跡図書館に写本が一本伝わるのみである。本論では現存写本は江戸時代
の閑室元佶の手によるものと判断したうえで、そこに引用されている漢籍と漢詩(文)つい
て詳しく考察した。それにより、これまで抽象的に論じられていた中巌の博学ぶりについ
て具体的に示すことができた。たとえば、経部に分類されうる漢籍で、引用が最も多いの
は『詩経』であるが、なかでも嚴粲『詩緝』によるものが多かったことが分かった。『詩
緝』三六卷は、宋嚴粲が呂祖謙『読詩記』を主として、諸説を取り入れながら自説を立て
たものである。このように、新注のうちでも、特に諸説統合的な性格の書物をよく利用し
たことは、杜甫詩の典故『集千家注分類杜工部詩二十五巻』や、さらに第三章で明らかに
した『易』の注釈書『項氏玩辞』などの受容においても見られる。これは中巌の自身の学
問の特徴ともなっているといえよう。また、正史類のなかで最も引用が多かったのは『漢
125
書』であったことも注目される。中巌は『漢書』にあまり興味がなかったとされてきた従
来の説は、訂正する必要がある。このほか、中巌に関してのみならず、中世の漢籍受容史
に新しい基礎的事実も見つかった。たとえば、十五世紀の禅僧惟肖得岩が始めて読んだと
されていた『莊子鬳斎口義』は、実は中巌が既に読み終えていたことの証左は、その代表
的な一例であろう。
第四節では帰国初期において特に関心を持っていた韓愈と揚雄に対する中巌の評価を
考察した。これにより、中巌はかれらの生き方を自分の処世のモデルとして考えていたこ
と、具体的にいうと、文章によって立身しようと考えていたことを明らかにした。その文
章とは何かについて、中巌は自ら定義はしていないが、その後の行動からみると、
「原民」
や『中正子』のような政治議論文であることは間違いない。
第三章では中巌の儒学的政治思想について考察した。文学と同様、儒学は本来ならば外
学として排除されるべきものであったが、中国では宋代以降、士大夫の参禅を得て発展し
た禅宗の間では、儒仏一致思想が見られ、儒学教典の習得やその研鑽が禅林の風潮となっ
ていた。よって、日本に伝えられた禅宗は当然当初から儒学(しかも、古注のかわりに当
時中国で流行していた宋学)に対して強い関心を持っていた。しかし、かれらのほとんど
は儒学に対する知識学問的関心はあったが、それは、禅を批判する宋学を論破する手立て
としてであり、それを政治思想として実際の政治に役立てようという考えは持っていなか
った。それに対して、中巌は儒学を単なる学問としてではなく、それを政治思想として前
面に積極的に出していく。儒学を単なる学問としてではなく、それを実際の政治活動・社
会生活において指針として用いることこそ、中国での儒学の重要な特徴の一つであった。
本章では、中巌の書いた政治思想的内容の含まれた文章を時代順に点検した。第一節で
は後醍醐政権の下で書いた『上建武天子表』や『中正子』を分析した。一三三三年に書い
た『上建武天子表』と同時に奉った「原民」は彼の政治思想の初披露とでもいえる作品で
ある。長文ではないが、儒学思想をもって政治の指針とすべきだという彼の考えは、はっ
きりと表れている。彼は後醍醐天皇の政権の正当性を「得命於天」にもとめた。また、理
想的な政治を文治に求めながらも、一時的な武力行使をも容認し、後醍醐の強い政権樹立
を期待していた。しかし、具体策として提示している僧兵の禁止という内容は実質的には
後醍醐の政治姿勢と相反するものであった。
翌一三三四年に書いた『中正子』では文治の必要性や旧弊を改める必要性を再び『易』
や『孟子』の経典を引き、論理的に説明しているが、前のものに比べると。後醍醐政権の
安定性に対する不安が顕著に現れている。大友貞宗という保護者を失っただけではなく、
現実には後醍醐にはかつて自分が期待していたほどの強い軍事力を後ろ盾にしていない
ことにも気付いたためだろうか。
やがて、建武中興が失敗に終わり、足利幕府のもとで、北朝の朝廷が生まれた。「奉左
武衛大将軍 代実翁」の内容からみて、中巌は今度は足利政権を革命政権と見て、期待し
たことが分かる。前政権を武力で追い出したという点からみて、中国の政権交代の様式で
ある「革命」と規定したのだろう。しかし、「東明和尚累住建長上表」や「與竺仙和尚」
の内容から見ると、彼は一方で、北朝の天皇の存在と地位をも認め、将軍が天皇を補佐す
るという考えをも持っていた。尊氏は後醍醐の追放に成功して最高権力者にのぼりつめた
ものの、みずから光厳上皇に院宣の下付を申請し、朝敵であることを避けなければならな
かったように、天皇の権威は当時の人々にとってやはり影響力を保持していたことを中巌
も理解していたのだろうか。一四四一年、中巌は『日本書』のなかで、天皇の祖先(国常
126
立尊)は中国の呉太伯の後裔であると説いた。彼は何故この特異な天皇起源説を説いたの
だろうか。王権が危機にある状況において、徳のある中国の聖人の後裔にすることで、彼
は天皇家の権威の源泉を求めたのではないだろうか。中国文化に精通し儒学の政治思想を
信奉した中巌でも天皇の必要性を唱えていた。中国と全く同じ政権交代の様式である「易
姓革命」が起こる素地が日本には存在しないことに気づいたのだろう。また、中巌の『日
本書』を義堂が高く評価していたことも注目される。義堂こそ後年義満の漢学の師匠とし
て名高い人物であり、また義満の明への国書の起草はすべて義堂の属する夢窓派の禅僧の
手によった。中国文化を尊崇する禅僧の間で明に臣下の礼を取る文面に抵抗がなかったの
は不思議ではない。しかし、義満を「国王」と称したとはいえ、天皇に取ってかわるとい
う意識まではなかったのではないか。「天皇」はまた別格の存在である。つまり、中巌と
同じように、天皇を補佐する存在であるという認識の前提で、幕府を全権を握った政権と
認めた考え方が一般的だったのではないかと思われる。今後更なる考察を続けたい。
このように建武新興期や幕府成立初期のころの中巌の政治的関心は、政権の合理性など
の比較的観念的な問題にあったのに対して、一四世紀六十年代以降、晩年の中巌の政治的
関心は財政政策などより具体的な問題に向けられるようになる。
第三節では『文明軒雑談』で記述している天龍寺火事に関する記述と二条良基に書いた
「龍躍池記」を考察することによって、かれは政治事件の処理にあたって、依然として、
中国をモデルにする立場に立っていたこと、なかでも施政にあたる心得として「徳」の重
要性を特に強調していたを明らかにした。また、彼が基づく経書や史書の経典や故事は、
帰国当初よりも、宋元のものがより多くなった。それこそ、中国文化に一番近いところに
いる禅僧に対する世間の期待であることに気づいたためと思われる。
この時代、中国に範を求める思考様式は広く存在していた。『太平記』の言葉を借りる
と、「異国ノ例ヲ以吾朝ノ今ヲ計」ることである(巻二一「先帝崩御事」)
。以上見てきた
ように、そのような時代背景の中でも、中巌の中国文化の素養は特にぬきんでていた。禅、
文学、儒学のいずれの面においてもその深い造詣を示し、新しいもの、価値が認められる
ものの日本への導入、適用に力を入れていた。そして、先駆的な役割を果たし、当時また
後の世に大きな影響を与えたものは少なくなかった。特に禅や文学の場合はその例が多い。
たとえば、大慧『普説』の講義や、『挿注参釈広智禅師蒲室集』の注釈活動などはそれに
あたる。また、後世では一見特異としか認識されないような考え方でも、当時においては
思想界に一定の影響をあたえたものもあった。たとえば、『日本書』にある極端ともいえ
る中国を上位とする思想(天皇の祖神まで中国人の後裔とする思想)は、意外にも義堂に
代表される当時の文化人の間で認められていたことである。しかも、次代の義満の行動を
理解するヒントにもなりうる。個人の思想が社会の一般的思想に影響する一例として興味
深い。一方で、時代の関心事にすばやく反応していながら、その意見が用いられなかった
例もある。たとえば、天龍寺の再建に関する意見はそうである。
以上、本論では中巌自身の作品の解読や思想の分析を中心に考察してきたが、今後、そ
の思想や文学作品が社会の一般風潮の形成に預かった役割などについて、考察を深めてい
きたい。
127
付録
1「上建武天子表」(現代語訳)
建武天皇への上表文
十一月日、仏法を伝える臣僧円月は、謹んで死を覚悟して上書する。
皇帝陛下、ひそかに思うに、王には二種類がある。人から受禅した王は、その位を受け継ぎ、
(先王の政
治に)従うが、天より命を得た王は、変革をする。受禅した王は、たとえば、夏・商・周の皇位継承者
たちである。天より命を得た王は、桀を倒した商湯や紂を討伐した武王などがそうである。故に『易』
では、「湯武の革命は(上は)天の命に従い、
(下は)民の心に応じるものである」という。湯王と武王
だけではない。漢高祖、漢世祖、唐太宗、宋太祖はみなそれである。文中子は言った。変化をよくすれ
ば、天下には悪い法がない。固執すれば、よい教えがない、教化と法度の制定は、
(夏・商・周の)三代
を超えることはできない。しかし、長い時間が経つと、その法には弊害が起こる。弊害が起これば、そ
れを革める。それによって通じるようになる。よって、夏の法に弊害が起これば、殷湯はそれを革(あ
らた)める。殷法に弊害が起これば、周武王はそれを革める。周が衰ぶ時には、法の弊害がひどくなっ
た。時に衞の商鞅という人が秦に入って変法をした。新法が行われて一年になったとき、都で新法に不
満を持つ人が数千人を超えた。太子さえ法を犯した。鞅は法が行われないのは、お上さえ法を犯してい
るからだと言った。太子は国王の嗣子であるため、直接罰する事は出来ないので、太子の傅(後見役)
の公子虔を鼻削ぎの刑にし、また教育係の公孫賈を額に入れ墨を入れる刑に処し、さらにもう一人の太
子侍従の祝懽を処刑した。この後は全ての人が法を守った。新法が行われて十年、秦の国では道では人
の落した物を拾うものがなく、山には盜賊がいなくなった。民は国のための戦争に旧戦し、私闘をしな
くなった。最初不満を言った人たちも、新法を褒め称えるようになった。しかし、秦が天下を統一して
から、
(時間の経過につれて)法の修正をする必要のあることを忘れて、その弊害がどんどん肥大し、暴
政にまで発展した。そのため、秦はわずか二代で滅びた。漢が秦を継いでから七十年以上経って、それ
を整頓しようにも方法がない。法を出せば偽りがおこり、命令を下せば欺きが生じる。ほかでもない、
秦の遺民の習俗が悪く、法令に抵抗するためである。よって、董仲舒は次のように建策をした。もし湯
で湯を止めようとしたら、ますます沸くばかりである。琴の調子がひどく外れているのを直すには、そ
の弦を張り替えて音調を整えなければならない。そうして初めて引けるのである。為政に当たって政令
が行われない場合、それを思い切って変えて初めて管理できる。まさに董仲舒の言うとおりである。私
が思うには、陛下は、明を周文王に継ぎ、徳を神武(天皇)に承ける。王道を興し霸道を除く。遠方の
民をも安んじなつけて服従させ、人の意見を聞き入れる度量が大きい。天下の民はそれに服従しないも
のがいない。聡明で睿知にして天より命を得たものでなければ、どうしてこのようにできようか。しか
し、今天下は、鎌倉幕府に支配された百数十年間の多くの弊害が溜った。民も悪俗に染まり、貪欲で偏
屈である。故に朝から夕まで訴訟が廷中に満ち、謀反を企てるものさえあった。漢が秦を引き継いだ時
の状況と同じであり、改革して整理整頓すべき時である。天地の始まりについては私はよく知らないが、
陛下が霸道を除き王道を興す今こそ、万世偉業のはじまりではないか。これにあたり、旧法の弊害を改
めなければならない。わたしは一介の出家者であり、草木とともに朽ちるべきであり、世の利害に関わ
るところではないのに、こうして自分のつまらない意見を、無礼を承知の上で上書したのはなぜだろう
か。実に天下のためであり、自分のためではない。万世に役立つためであり、一時の名声のためではな
い。伏して願うは、陛下、董仲舒と王通の至言に感心し、私の誠意を受け止めてくだされば、それは天
下万世の幸いである。自分の無能を省みず「原民」
「原僧」を著したので、御覧いただきたい。もし採用
可能なところがあれば、有司に敕して施行していただきたい。謹しんで書を奉りもうしあげる。誠惶誠
恐。
128
原民篇
純朴な世の民は、みなそれぞれ本業に専念しているので、国が富強になる、農民は米や野菜などの農作
物を栽培し、職人は建造物を建てたり器物を作ったりし、商人は商品の流通をし、支配者層である土大
夫は政令を発し、はんこや秤の信用を守り、欺きを防ぐ。詩書礼楽を教え、狠戻(心がねじけているの)
を正す。武士兵隊を統率し、侵奪を禁じる。このように各層の民がそれぞれ本業に勤め、お上を仰いで
いるため、国には徒食の民がおらず、富強になるのである。まことによろしい。漢王朝以降、仏法が伝
わり、民に性命死生の理に精通させ、また禍福因果の道を教えた。民はみな善を好み、善くないことや
災いを忌避するので、(仏の教えは)国に利があって、民に害が無い。よって国はますます富強になる。
今わが国をみると、民はみな鎧をつけ武器を手にしている。人々は本業を怠り、お互いに奪い合いをし
て利益を求める。出家したものでさえ、鎧や強い武器を持っていることを誇りにしている有様で、本業
がすっかり荒廃している。これ以上ひどい禍乱はない。武とは「禍乱を戡定する」
(乱を鎮める)もので、
その書き方は「止」と「戈」とからなっている。しかし今こんなにも乱が起きているのに、それを鎮め
ることができないのは、国に武があると言えるだろうか。そこも堅甲利兵、ここも堅甲利兵、堅いもの
で堅いものと戦い、鋭い武器で鋭い武器と戦い、その勢力は均衡し、どちらも相手を止めることはでき
ない。宜なるかな。『周語』の言葉、「先王は徳を披露しても兵を見せびらかさない、兵を見せびらかす
と威力がなくなる。」今すでにこうなった以上、どうすればいいだろうか。有司に命令して、官軍ではな
いのに、武器を手にするものがいれば、これを誅するように。士農工賈及び仏教徒など、それぞれ本業
に専念させれば、富強の国の実現もそう遠くではないことだろう。
原僧篇
出家とは、断髮だけという意味ではない。俗塵の家を離れ、世情に疎く、道情に親しむことを言うもの
である。儒者も言うではないか。身体髮膚(体や髪の毛皮膚にいたるまですべて)、敢(あえ)て毀傷して
はいけないのに、仏教では、髮や鬚を剃るのは、理由がないだろうか。私が思うには、もし体や形が在
俗の人と同じものであれば、俗人は誰が僧であるか分からず敬うことができない。僧もまた俗人と同じ
格好であるため、俗にまみれて、非法の事を行っても、恥ずかしくない。よって、わが仏教徒は鬚髮を
剃って周りとの違いを示す。そうすれば俗人が頭を丸めた出家者を見て尊敬の念を起こす。僧も普通の
人と姿が違うので、隠れることができないため、非法のことを行わなくなる。僧が非法の事を行わなけ
れば、仏道はいよいよ隆盛する。俗人が尊敬の念を抱くようになれば、その福はますます多くなる。仏
の教えはもとより理由のあるものである。今出家と称する者は、その根本を省みず、ただ断髮するだけ
である。土農工賈の民、皆な各自の本業を捨て、僧とはほんとはなにかも知らずに、出家という名を盗
み、勝手に断髮するものが多い。儒者に罪人とされているのみならず、仏法を疲弊させる魔者たちでも
ある。僧も俗も断髮すると、区別がなくなるではないか。また、
(これにより)士農工賈の民が次第に減
少し、徒食の人がますます増えるのは国家の害でもある。
付録2
「経権篇」現代語訳
経権篇
中正子は鳥何の国へ行った。その君の包桑氏は迎えてくださって、質問された。
「天下の動きは武がない
と止まらない。そこで、わしは幼いころ武を好んだ。国中の民もまた武を好む。みな七歳で剣術ができ、
十歳で出征できる。わしの武においては、心を尽していると言える。しかし、いまだに盜賊はなくなら
ず、戦争は終結しない。どうしてだろうか。私は答えた:大王は経権の道をご存知か?王は知らないの
で、その内容を教えてくれと答えた。私は答えた。経権の道は国を治める最も重要なものである。経は
常であり、変えてはいけないもの。権は常ならざるものであり、長く行ってはいけない。経の道は秘密
にしてはいけない。天下の民に示すべきである。権は経に反しているが道理に合っているものである。
経に反んしているもので道理にも合わないものは権ではない。経は「文徳」で、権は「武略」である。
129
武略を用いるのは聖人の本願ではないが、やむを得ず作ったものである。用いっぱなしで、止めないの
は権の道ではない。用いるけれども止め時を知っていれば「文徳」に帰することができる。これが権の
効用となる。文徳は経常の道であり、天下に広まっていれば、武略権謀を行わなくても、尭舜のような
素晴らしい治世はいながらにして実現できる。私はかつて論じたことがある。大王さま、よく聞きなさ
れ。王はわしの望みである。(私は次のように述べた)。およそ人が生まれてきて、禽獣とは違う。好み
の食べ物をとる爪や牙をもたず、暑さや寒さをしのぐ羽毛もない。ほかのものに頼って生きるために必
要なものを確保せざるをえない。そこでみんなで集まって必要なものを求める。それが十分でなければ、
争う心が生じる。古の聖人はみなより抜きんでており、仁愛礼譲をもって文徳を行うので、大衆はそれ
に感化され、従い、群を成すようになる。これは「君」である。君は文徳をあまねく天下に施し、人々
は皆帰順する。これが「王」である。王はもっぱら文徳を修め、盛んに人々を教化する立場の人である。
これは常として変えてはいけない経の道である。王者の心が怠って常を失えば、民の心もまた怠り常を
守らなくなる。よって、
(民の怠り)が小さければ、これを鞭打ち、刑罰を加える。大きければ、兵を送
り討伐する。これは権謀の道である。よって経の道は挙げたいもので、権の道は措きたいものである。
治世は挙げられる道を、乱世には措くべき道をなす。尭舜のような治世はいつもあるわけではない。よ
って権の道は捨てられず、刑罰が行われ、兵隊が興る。それで動乱を鎮圧し、経常の道に合うようにす
る。ゆえに武器や兵力を調えるのは威嚇する効用がある。しかし、それを天下に示してはいけない。
『左
伝』には、示せば翫ぶようになる。もてあそばれたら威力がなくなる。故に盜賊は納まらず、国が安定
できない。とあるのは、まことに正しい。そうすれば経の道がないだけではなく、権の道も失われるの
である。権の道を失っているのに、武に心を尽していると言っておられる。私はまことに王のために惜
しいと思う。だいたい経常の道は天下にあまねく実施しようと思うもので、秘密にしてはいけない。権
謀の事はあまねく天下にしめすものではない。秘密にしなければならない。今は文を修めるものが少な
く、武をいうものが多い。武をいうものの方が出世し、文を修める者が困窮している。卿大夫士庶人農
工賈客と社会各層の人々はみな武をなしている。
(国)を奪わないと満足しない。そうすれば国は全く危
くなる。たとえば、次のような家があるとする。経である仁義をもって、子供や下人を教える。もし、
その子供や下人のなかに、仁義に反する人がいれば、長男の使える人に任せて叱ったり打ったりして、
威力で懲りさせるのは権謀の道である。もし、その諸子や下人がみな武器を手にもっていれば、叱られ
れば叱り返したり、鞭打たれれば打ち返すようになると、何の威嚇の効果もなくなる。それなのに、我
が家の人がみな武ができると(嬉しく)思うのは、大乱を導くにちがいない。王であるあなたさまはこ
の例から推して、国と天下を修める道を考えればいい。王は大いに喜んで、手厚い謝礼をくれたが、中
正子はそれを受け取らずに行った。
付録3「革解篇」現代語訳
革解篇
革卦は下卦離と上卦兌からなっている。
『序卦伝』は井卦に革卦が次ぐ理由を、井戸は(いつも濁るか
ら)革めなければならないという。
『雜卦伝』は、革は古いものを除くという。私は次のようにいう。離
は火で、兌は金である。火は金に克つことができる。金は従革という。これを変えたり、溶かしたり鋳
造すれば、器とすることができる。離は季節では夏にあたり、日では丙である。丙は炳と通ずる。兌は
季節では秋であり、日では庚である。庚は更に通ずる。四季はそれぞれ働きを持っており、春には生ま
れ、夏には養い、秋には殺し、冬は静にすることである。静にしてはじめて生まれることができる。生
れてから之を養うのは、沿の道である。生れて養った後に之を殺すのは革の道である。故に、離から兌
へと行くのは、革の象(かたち)である。(
『易』の最初の卦である)乾卦から革卦までは、四十九番目
である。だから『象伝』は「暦を制定し、季節の推移をあきらかにする」ことを言う。
(詳しくは「治暦
篇」で述べたとおりである)
。
経にある「已日にして乃ち孚あり」については、孔子は(『彖伝』で)
「変革して人が自分を信じてく
130
れる」と解釈した。私中正子は次のように思う。改革の道、急いではいけない。だから周公は初爻の爻
辞で「鞏むるに黄牛の革を用ってす」といい、二爻の爻辞で「已日にして乃ち之を革む」と言った。人
がいまだに信じてくれない時は、改めてはいけない。人がそれを信じてくれた時に初めて革めても良い。
秋は味においては辛である。干支では(辛は)庚の後に来る日である。辛は新であり、辛艱である。だ
から、国が新しい制令を実施するに当たって、凡庸で無知の民は習熟していないので、困難で不便を感
じる。朝廷に愚痴をいい、悪いうわさが国中に広まることになる。だから、(『説卦』でいうように)兌
は口舌である。故に、庚革の道は、急いではよくない。時間をかけてゆっくり進めなければならない。
そうすれば、無知の民が次第にそれに慣れ、信じるようになれば、便利に思うようになり、自ら実行す
るようになる。だから、(卦辞で)「已日にして乃ち孚あり。元いに亨る貞しきに利あり。悔亡ぶ」とい
うのである。改革の道は、天下にとって非常にいいことであり、君主や統率者は、それを知らなければ
ならない。
『説卦伝』は、
「離は南方の卦、明である。聖人南に面して聴けば、天下は明に向い治まる。
」という。
また「兌は説であり、説言は兌である」という。中正子は言う。革卦は、内卦は文明の徳で、外卦は説
言をもって応じている。よろしいかな。革めて、人は信じてくれる。故に『彖伝』は「文明にして以っ
て説び、大いに亨りて以て正し。革めて当れば、その悔乃ち亡ぶ」
(改革者に文明の徳があるので、人が
悦服する。かくてこそ改革の願いは大いに通り、しかも正道を踏み外さない。改革の仕方が当を得てい
るから、改革に付き物の悔いも意外と消滅する)。中正子はいう。嗚條での誓い、牧野での戦いは、湯武
が革命する時のできごとである。(嗚條で)「君たちは私の命令に従わなければ、殺すか奴隷にするか、
容赦はない」と誓わせた。牧野で敵の夏王朝の軍隊が寝返りをうち、後続する味方を攻め、流れる血に
臼が浮かぶほど、多くの死傷者が出た。それから殷を滅ぼし天下が安定した。
『書経』に「一たび戎衣す
れば、天下定まる」とあるが、これがすなわち最初は苦難に満ちたが、最終的には成功した例ではない
か。また、次のような事例はどうだろうか。天地の革(春に生まれ、夏に養ったものを秋に殺す過程)
においては、気候が厳しく草木が殺される。天気は寒く、風が激しく、強い霜が降り、草木が黄くなる。
この時、凡庸で無知な人々はみな愚痴をこぼし、怨んだり訴えたりするものである。造物主が慈愛の心
がないからそうさせたのだろうか。(いや、それは違う。
)これは(むしろ造物主の)義である。そうし
ないと、果実や穀物がどうやって熟れるのだろうか。果実や穀物が熟れないと、民は何をもって育てる
ことができるのか。民が育てることができないのは、不仁の最たるものである。だから、私は秋に殺す
のは「義」であると言うのである。
孔子が(『彖伝』で)
「天地革まって四時成る。湯武命を革めて、天に順って、人に応ず」
(天地陰陽の
気が常に変革してこそ、四季が成立し万物が生成する。殷の湯王、周の武王の革命も、上は天の命に従
い、下は民の心に応じてやむをえず起った現象である)と言ったのは、このことである。
ある人は「『象伝』で沢に火があると革めるというのはどういうことか。
」と聞いた。応えて言う。沢
は穢濁の意味である。火は文明を指す。文明の才をもって、穢濁の悪を除くのも、また革ではないか。
夏の桀王、殷の紂の悪は、汚い沢であり。殷の湯王、周の武の才は文明の火である。中正子は言う。人
生、周公・孔子の世に生まれ合わせていないのは、天の定めか。
中正子、ある晩、初更から後更まで瞑想しながら、じっと坐っていた。長いため息をつき、しばらく
してから言う。革卦の体(かたち)は、内卦は革まらず、外卦は革めるべきである。
(外卦は)濁悪であ
るため革めるべきで、
(内卦は)文才であるため、改めるべきではない。周公が作った爻辞にそのわけが
説明してある。火は革める力を持つ。金は革める対象である。
(上卦)兌が(下卦)離により変わってき
ているが、下の一爻は静で変わらない。中央と一番上の二爻は動で、変わる。
(つまり、四爻は一爻と同
じ陽爻で、五爻は二爻の陰爻から陽爻に変わり、六爻は三爻の陽爻から陰爻に変わる)。周公は、初九の
爻辞で「鞏むるに黄牛の革(つくりかわ)を用ってす(黄色い牛の革で身を固める)
」と述べている。孔
子は翼伝で「以て為すあるべからざるなり(積極的に何かをなそうとしてはならない)」と付け加えて解
釈している。私中正子は次のように解釈する。黄牛の皮は、最も固い物である。鞏とは固めるという意
131
味であるが、固めるのは九四である。つまり、下の一爻が静であるというのはこの意味である。周公は
「六二、已日にして乃ちこれを革む。征いて吉、咎なし」という。孔子は「行きて嘉びあるなり」と解
釈した。中正子は次のように解釈する。革の道、急いではいけない。だから、初爻を固め、二番目の爻
を革める。下卦の真ん中の爻が行って上卦の真ん中の爻に変わる。湯王が夏桀を、武王が紂王を征服し
た過程はこのようなものだった。周公は「九三、征けば凶。貞しければ厲し。革の言三たび就りて、孚
あり。孔子は「革の言三たび就る。又た何くにか之かん」と解釈した。中正子は次のように解釈する。
三爻は下卦の形を総括する位置にあり、文明の才を持ち、変えてはいけない。だから、いけば凶である
という。征とは動くことである。ただ、上六に変わる勤めを持っているので、その躬を正しく内にもち、
危ない志は外に向けて発する。自ら行わずに、言葉の教えを持って変えるので、
「革を言うこと、三たび
就る」というのである。三とは、上卦の三爻目、つまり上爻のことである。周公は「九四、悔亡ぶ。孚
ありて命を改むれば、吉」という。孔子は「志を信ずればなり」と解釈する。中正子はつぎのように解
釈する。穢濁の時、牛革のような堅い材料(才能、かわ)を下に持ち、文明が来るのを待つ。それを信
じ、其の才能は変わらないが、其の命は変わる。命とは召すである。それを受けて命令となすものであ
る。九四はもともと穢濁の命を受けていたが、三爻の革が成就する今となって、また文明(の王)に召
される。ゆえに改命という。たとえば、伊摯はもともと夏王朝の臣下であったが、のちに、湯王に従っ
た。又た、箕子ももともと夏王朝の人だったが、武王の命令に従ったのは、この類いである。周公は「九
五、大人虎のごとく変ず。未だ占わずして孚あり。」という。孔子は「その文炳らかなり」と解釈した。
周公は「上六、君子は豹のごとく変ず。小人は面を革む。征けば凶、居れば貞しくして吉」とし、孔子
は「君子は豹のごとく変ず、その文蔚なり、小人は面を革む、順にして以って君に従うなり」と解釈し
た。中正子は次のように解釈した。九五・上六の二爻は、いわゆる「中・上の二爻は動く」というもの
である。兌卦の三爻のうち、この中・上の二爻が変わって離卦になったので、周公はこの二爻について、
変ということのみを強調し、ほかのことは特に触れない。虎と豹の違いは、陽と陰の違いから来るもの
である。又た九五の爻で「大人」を述べるのに対して、上六では大人のかわりに「君子」
「小人」をとり
あげるのも、理由があるからであろう。
付録4 年表
西暦
年号
年齢
月
事項
1300
正安元
1
1月6
鎌倉の土屋氏に生まれる。幼名吉祥丸。
2
父は罪に坐し西国に流され、乳母と武州鳥山に帰る。
○
夢窓疎石二十六歳。
1305
嘉元 3
6
外祖父が吉祥丸を名越に迎えるが、病気で鳥山に帰る。
1306
徳治元
7
老人より干支を教えてもらう。
1307
二
8
1308
延慶元
9
1311
応長元
12
1312
1313
正和元
2
春
背に瘡を生ずる。立翁基に従い大慈寺に移る。
春
池房で道恵和尚より孝経・論語・算法を習う。
秋
大慈寺に帰る。
10・26
北条貞時卒す。朝日が赤く血に似ているという恠を吉祥丸は見る。
○
春屋妙葩生まれる。
13
14
祖母、吉祥丸を亀谷に迎える、寿福寺に入れる、名を至道という。
立翁の命で梓山律師により剃髪す。三法院で密教を学ぶ。
春
密教を学び、諸尊法を修行するが、途中で捨てて学ばず。
夏
寿福寺に掛搭できなかったが、首座寮に通って、禅僧諸家の語録を読んでいた。
嶮崖巧安の頌に和韻し賞賛を得た。
1314
3
15
万寿寺雲屋慧輪の会下で頌を多作。
132
1315
4
1316
1317
5
文保元
16
冬
円覚寺東明慧日に礼し、受業師とする。
春
円覚寺に掛搭する。
夏
病気になる。
17
禅鑑象外の援で曹洞禅に参じるが密意に達しえず。
18
東明慧日は寿福寺に移り、南山士雲が円覚寺に入院。中巌は円覚寺に留まったまま。
○
1318
1319
2
元応元
19
20
一山一寧南禅寺に入寂する。
円覚寺を出て博多まで行く。中国に渡航しようとしたが、綱司が許さなかった。
夏
京都万寿寺絶崖宗卓の会下で修行。
冬
越前永平寺の義雲に参じ、曹洞禅の言語に少し通じた。
春
鎌倉に帰る。浄妙寺妙玉徳璇に参じたが、契わず、建長寺東明慧日に参じ、
建長寺に掛搭する。
1320
1321
2
元亨元
21
22
10
東明慧日が建長寺を退き、霊山道隠が建長寺に入院、その下で修行を続ける。
冬
姉や甥の難を救うために出羽に下向。
この年
南山士雲、建長寺に遷る。頌を多作、よく褒められた。
冬
不聞契聞と共に上京、闡提正具に参見しようとしたが、会えず。南禅寺帰雲庵に仮住ま
い。虎関師錬を訪れ、本朝の高僧の伝を聞く。
1322
2
1323
1324
3
正中元
1325
2
23
夏
南禅寺双峰宗源の会下で修行。「五宗符命」を書き、虎関師錬に褒められる。
○
虎関師錬『元亨釈書』を上進。
24
25
26
建長寺に帰り、書記となる。
春
建長寺より九州に下り、中国行きの舟を待つ。
夏
大友貞宗に会う。豊後万寿寺で闡提正具に参じた。
秋
博多に帰る、京の乱のため、商船は出航できなかった。
冬
豊後に帰る。
冬至
異人より蓍草を示され、得蓍賦を作る。
9
不聞と共に中国江南に到着。
冬
雪竇山で冬を過ごす。知人珠侍者とともに浙江嘉興の霊石如芝に参ず。
天寧寺で新年を迎える。
1326
1327
1328
1329
○
義堂周信生まれる。夢窓(51 歳)後醍醐の請で南禅寺に入る。正中の変起こる。
春
呉(蘇州)雲岩寺に掛搭する。建康保寧寺で古林清茂に参ず。
(泰定
夏
江西洪州に行く、西山雲蓋で夏をすごす。瘧を発病。
3)
冬
雲岩に掛搭、済川若擑に参ず、単寮の日本人僧龍山徳見に参ず。
この年
責 詞を書く。
「與虎関和尚」を書く。
夏
雲岩にいる。
秋
保寧寺で古林に再参。
冬
呉門の幻住庵で絶際会中に参ず。
春
呉門を離れる。
夏
道場。
秋
浄慈寺で済川に再参す。
春
福建に行くが、すぐに江西省に帰る。龍山を再度訪ねる。不聞を救うために武昌へ行く。
嘉暦元
泰定 4
5
天暦元
27
28
29
30
また江西東林寺に戻る。古林に再参。書記の就任要請を断る。
1330
至順元
31
冬
百丈山に到着。
5
書記となる。師表閣のために上梁文を作成。
秉払を遂げた後、大智寺を離れる。廬山の龍岩徳真を訪ねる。鄱陽湖で竺田悟心に参じ
133
る。
「題雪寄懐」
、「贈張学士」。
1331
1332
1333
1334
至順 2
元弘 2
元弘 3
建武元
32
33
34
35
春
金華につく。
夏
双林寺。
秋
智者寺。
○
元亨の変が起こる。
春
浄慈寺、大辨正訥と径山へ行く。幻住庵を訪ねる。
「祭絶際文*」
。
夏
一峰通玄と浙東へいく、帰国。
冬
顕孝寺。
5
豊後万寿寺、 ○鎌倉幕府が滅びる。
秋
博多。
冬
大友貞宗と上京、南禅寺蒙堂、後醍醐天皇に上表、
「上建武天子」
「原民」
「原僧」。
春
円覚寺、中正子を執筆。
建武中興成る。夢窓南禅寺に再住する。
1335
1336
1337
1338
1339
建武 2
建武 3
建武 4
暦応元
暦応 2
36
37
38
39
40
正
東明慧日の後堂首座の就任要請を断る
夏
大川通道の後堂首座の就任要請をも断る。
8
東明慧日が建長寺に入住、中巌はその下で後堂首座を務める。
10
建武中興やぶれる。
夏
円覚寺。
秋
宇都宮。
冬
常陸鹿島安坊寺、相馬立沢庵。
○
明極楚俊寂す。
春
建長寺、大友氏泰に請われて藤谷崇福庵に住す。
冬
竺仙梵僊に請われて浄智寺の前堂首座を務める。
秋
前堂首座の職を解く。利根へ行く。
冬
建長寺蘸碧庵。
○
北朝、尊氏を征夷大将軍とする。
春
建長寺東明慧日の前堂首座就任要請から逃れるため、上京。
京で浄智寺で養閑したいという東明慧日のために、夢窓を訪ねたり、直義に書簡を送っ
た
りして、奔走するが、建長寺の住持予定者が急死したため、直義の裁量で、東明慧日は
建
長寺に留任することになった。
夏
崇福庵。
冬
利根で吉祥寺を開き、東陽への嗣法を表明。鎌倉へ帰るが、宏智派より迫害を受ける。
○
後醍醐天皇、吉野に崩ずる。天龍寺が創建される。
1340
暦応 3
41
崇福庵、夏に病にかかる。『藤陰瑣細集』を執筆。
1341
暦応 4
42
崇福庵。
『日本書*』を執筆。
1342
康永元
43
夏
九州へ行き、中国へ行こうとしたが、乗船を禁じられた。崇福庵に帰る。
○
足利幕府、五山十刹の制を定める。
1343
康永 2
44
4
利根。
1344
康永 3
45
正.2
吉祥寺仏殿を建てる。
正.3
永橘のかわりに九州へ行く。
134
1345
貞和元
46
夏
崇福庵に帰る。
秋
利根。
冬
嵩山居中に請われて建長寺用則寮に行く。
正
建長寺前堂首座。
2
崇福庵。
夏
吉祥寺仏が盗まれたことを知る。
秋
利根。
10
上京、氏泰を待つが、氏泰は船が破れたため、九州に帰る。
今熊宗猷庵で新年を迎える。海蔵院で虎関師錬から『元亨釈書』を借覧。
1346
1347
1348
1349
貞和 2
貞和 3
貞和 4
貞和 5
47
48
春
正帰庵。
3
崇福庵。
秋
利根。
○
虎関師錬寂す(六二歳)。
春
僧堂が出来上がり、四十人あまり僧がいた。
夏秋
寺内規制を整える。
12
方丈が火事、止止庵を立て、居住。
49
50
大友氏兄弟内紛で一旦止止庵に移ったが、後また吉祥寺に再び住した。
○
竺仙梵僊寂す(五七歳)。
3
吉祥寺を退き、鎌倉へ。
夏
全提志令に請われて寿福寺前堂首座を務める、結夏の後、松鵠で仮住まい。
吉祥寺に住す。
1350
1351
1352
1353
1354
観応元
観応 2
文和元
文和 2
文和 3
51
52
53
54
55
秋
乱を避け、寿福寺にいる。
正
兜率寺。
3
利根止止庵。
夏
藤谷崇福庵、素一・素璞中庸を問う。
秋
利根。
○
観応の変起こる。
正
明岩正因に請われて寿福寺首座を務める。
夏
崇福庵。利根に帰ったが、風で崇福庵が壊れたため、修理に帰る。
冬
無文元選・古先印元と共に鎌倉で足利直義に会う。
○
夢窓寂す。
(七七歳)
春
浄妙寺大喜法忻に命じられ疏*を作成。
3
永橘軍とともに利根に帰る。
夏
吉祥寺。
秋
豊後へ行くため、鎌倉を通る。大喜にとどめられ、利根に帰る。
10.4
白雲庵で諷経(東明派と和解)。
冬
吉祥寺御願寺となる。
正
河田観音殿落成式典に出席、帰途雷にあい、重傷。
2
乾明万寿寺に出住。
12
豊後万寿寺。
春
豊後万寿寺、山門外門牌を修める。
冬
退院。
12 末
利根吉祥寺に着く。
135
1355
文和 4
56
正.2
吉祥寺方丈火災。
夏
止止庵で過ごす。
東陽の訃報に接し、拈香する。
1356
1357
1358
1359
1360
1361
延文元
延文 2
延文 3
延文 4
延文 5
延文 6
57
58
59
60
61
62
春
止止庵の西に竹所坊を建て、住む。
冬
京都天龍寺先照軒に仮住まい。
春
伏見殿に『大慧普説』を講じる。
秋
利根。
冬
吉祥寺廊下庫司火事。
12
本尊を迎える。
1 ○
天龍寺全焼する。
2
上京。
3
善護庵。
4
岩生庵。
6
天龍寺先照軒。
冬
『蒲室集』を注釈、「龍山和尚行状」を書く。
○
尊氏没する。
春
利根に帰ろうとしたが、官によって引止められる。
夏
等持寺で尊氏小祥忌を追修する。
7.8
京都万寿寺に入住。
秋
勅修百丈清規を講じる。
夏
『楞厳経』
、
『嘉泰普灯録』を講じる。
秋
万寿寺に妙喜世界を建てる。
冬
妙喜世界。
春
万寿寺退院。
3
近江経由で利根に帰る。
冬
立沢寺を得る。
相馬で年を迎える。
1362
1363
康安 2
貞治 2
63
64
春
吉祥寺。
3
純書記は建仁寺御教書を持ってくる。上京。
4.19
建仁寺に入寺。
8
後光厳天皇に会う。
9
妙喜世界を建仁寺に移す。
12.8
義天無雲の指図で義俊によって矢を射られる。
12.15
退院。近江金剛寺。
正
金剛寺。
潤
帰京。
正.26
等持寺に入住。
1364
貞治 3
65
2.1
上杉清子の追薦を行う。
4.30
妙喜に隠居、官使を断る。
この歳
足利義詮の建長寺入住要請を断った寂室元光を再度進めるが、謝絶される。
11
近江杣荘で龍興寺を創める。
是歳
事に触れては大笑する。弟子が多く去って行く。
136
1365
1366
貞治 4
貞治 5
66
67
2
甲良で澄禅庵にいる。
3
帰京。
4
龍興寺。
5
将軍母渋川幸子がなくなる。京で法事に参加する。
夏
龍興寺。
秋、冬
妙喜。
12
龍興寺で新年を迎える。
春
龍興寺。
4
帰京。
夏が終わってから、杣荘で、佐々木道誉・六角氏頼の北征祈願。
1367
貞治 6
68
冬
仏堂を移転。
12。13
勅集百丈清規を講ずる。
春
風を引く。
2.24
宗蔵帰京。
『自歴譜』の記事はここまで。これ以降は弟子の補筆。
天龍寺が火事にあう。
1368
1369
応安元
応安 2
69
70
10.3
建長寺に入寺。
○
義詮没す。
春
建長寺を退き、寺内に梅州庵を創めるが、帰京。
5
「祭無夢文」*を書く。
秋
二条良基のために龍躍池記を書く。
○
義満征夷大将軍になる。禅宗と比叡山が対立する。
春
龍興寺、妙喜世界にいる子建浄業と詩の応酬をする。
是歳
霊洞院文殊点眼の仏事を行う。
1370
応安 3
71
是歳
龍興寺にいる。南禅寺の請を受けるが、辞す。
1371
応安 4
72
1.17
禅居庵観音安座の仏事を行う。
夏
別源塔銘を書く。
秋
讃岐禅修寺へいく。一切経を供養。帰京。
○
細川頼之と春屋が対立する。
夏
龍興寺。
8
甲良勝楽寺で京極高氏の葬式に参加する。後、龍興寺に帰る。
1373
応安 6
74
天龍寺が火事に会い、細川頼之よりその復興の請を受けるが、固辞する。
1374
応安 7
75
11
祭夢岩和尚(*)
1375
応安 8
76
1.8
示寂。
2.14
「仏種恵済禅師」と朝廷より諡をもらう。
*
1
2
現存しない作品
祭定山和尚(*)
を作成。
○ 関連事項
室町時代、正式な国交が結ばれてからも、禅僧は引き続き外交の分野で活躍していく。それについ
ては、西尾賢隆の「京都五山の外交的機能-外交官としての禅僧-」で詳しく論じている。
『アジアの
なかの日本史 Ⅱ』p339~357(荒野泰典 石井正敏 村井章介編 東京大学出版会、一九九二年)
所収。
渡来僧の研究については、村井章介「渡来僧の世紀」
(石井進編『都と鄙の中世史』p170~197、吉
川弘文館、一九九三年)を参照。同論文では、十三・十四世紀において、日本に来た渡来僧は全部
で二十九人であったとし、出身地、渡来動機とルート、日本での活動などについて分析した。
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3
24
25
留学僧の数は渡来僧の数よりはるかに多かった。木宮泰彦の研究によれば、
「その名を史料にとどめ
ているものばかりでも百数名に上っており、このほか史上に名を残さなかったものが相当多数に上
ぼったであろう」という。木宮泰彦『日華文化交流史』p89(東京富山房、一九七七年)を参照。
蔭木英雄『義堂周信』(日本漢詩人選集三、研文出版、一九九九年)p262。
玉村竹二『五山禅僧伝記集成』(講談社、一九八三年)p441~458 を参照。
中川徳之助「中巌円月の翔心」
、
『広島大学教養部紀要』一p1~52、一九六四年。後、中川徳之助『日
本中世禅林文学論考』
(一九九九年、清文堂出版)に「中巌円月の飛翔心」というタイトルで収録。
同論文では、中巌の渡元、帰国、帰国後の活動をたどることによって、彼の理想に惹かれる心(翔
心)の激しさを明らかにした。
蔭木英雄①『中世禅者の軌跡 中巌円月』
、法藏館、一九八七年。
注 5 前掲『五山禅僧伝記集成』p452 を参照。
一三五二年の官寺出住に先立ち、その前年に吉祥寺は御願寺になっている。また、官寺出住が果た
せた理由については、
『自歴譜』の同年条に大喜は中巌が九州に行こうとしているのを止めていたと
いう記述に注目し、玉村・蔭木はともに大喜法忻の配慮を挙げている。これには筆者も賛成するが、
やはり大喜一人だけの力ではないだろう。中巌の後半生の人間関係をさらに詳しく検証する必要が
ある。
『五山文学全集』第二巻、裳華房、一九○五~一九一五年。
『五山文学新集』第四巻、東京大学出版社、一九七○年。
市川白弦・入矢義高・柳田聖山『中世禅家の思想』p124~170(日本思想大系一六、岩波書店、一
九七二年)所収。
増田知子『中巌円月東海一漚詩集』、白帝社、二○○二年。
注 13 前掲書 p31 を参照。
井上哲次郎『日本朱子学派之哲学』p623 以下(富山房、一九○五年)を参照。
西村天囚『日本宋学史』p85、梁江堂書店、一九一四年。
足利衍述、
『鎌倉時代之儒教』p256、日本古典全集刊行会、一九三二年。
注 12 前掲書所収。
久須本文雄①「中巌円月の儒学思想」、
『禅文化研究所紀要』五 p103~143、一九七三年。
『五山文学新集』及び『五山文学全集』ではともに「孔子翼之曰」となっているが、久須本の引用
(注 19 前掲論文 p130)では「象曰」となっている。異なる底本に拠るのだろうか。もっとも象伝
は孔子が作ったとされていたため、意味はたいした相違はない。
注 19 前掲論文 p130~131 を参照。久須本が引用を省略したのは「亦取卦名而義不同也」という部分
である。なお、氏の引用は原文のみであるが、参考として現代語訳を以下に付す。
①『中正子』
初九の爻辞は「身を固めるのに黄色い牛の革を用いる」である。象伝には「積極的に何かをなそう
としてはならない」と解釈している。私は次のように解釈する。黄牛の皮は、最も固い物である。
鞏とは固めるという意味であるが、固まるのは九四である。つまり、下の一爻が変わらないという
のはこの意味である。
②朱注
変革の時に当るといっても、初爻のために応じるものがないので、積極的に動いてはいけない。よ
って、この形になる。鞏とは、固いことである。黄は陰陽の中間にある最も美しい色。牛は従順な
もの。革は物を固めるのに用いるもので、
(中略)。その占いの意味は、堅く守るべきで、積極的に
動いてはいけないという意味である。聖人が変革において、慎重であることはこのようである。
こうした方法、つまり内卦と外卦の対応する爻(内卦一の初九を外卦一の九四に、内卦二の六二を
外卦二の九五に、内卦三の九三を外卦三の上六にそれぞれ対応させる)の説明は、
「革解篇」後半六
爻の説明部分で共通している。
芳賀幸四郎『中世禅林の学問及び文学に関する研究』
、思文閣出版、一九八一年。
(朱子観について
は p62 以下を参照)。
北村沢吉『五山文学史稿』p239(冨山房、一九四一年)を参照。
久須本文雄②「中巌円月の中国文学的背景」
、
『禅学研究』五七号 p145~164、一九六八年。
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千坂嵃峰「五山文学の精華―中巌円月の『易』詩」、
『聖和』二八号p17~38、聖和学園短期大学、一
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九九一年三月。
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千坂嵃峰「五山文学の「理」-虎関師錬と中巌円月を中心に」
、
『禅学研究』六十五 p97~116、一九
八六年十一月。
28 注 24 前掲書p239 以下を参照。
29 山岸徳平『五山文学集 江戸漢詩集』
(日本古典文学大系)p22、岩波書店、一九六六年。
30 蔭木英雄②『中世禅林詩史』(笠間書院、一九九四年)p213~234 を参照。
31 高文漢「五山文筆僧中巌円月の世界」(
『日本研究』
、一九九八年九月号 p59~82)を参照。
32 佐々木朋子「中岩円月-行動・思想の変化と詩の展開、私詩から偈頌へ、
『日本文学』三三九、一九
138
八一年(同論文の著者名は「ささきともこ」とひらがなで表記している)。
33 注 27 前掲論文 p105 を参照。
34 玉村竹二『五山詩僧』
(『日本の禅語録』八)p333 以下(講談社、一九七八年)を参照。
35 今枝愛真『禅宗の歴史』p1(日本歴史新書、至文堂、一九八六年)を参照。
36 敦煌文献など新しい史料の発見にともなって、研究が進展している中、従来のこの中国禅宗史の通
説に対して、修正する意見が多く出されている。たとえば、達磨や青原行思の実在性なども疑われ
るようになった。ただ、中巌の時代ではが生きていた当時においては、達磨初祖説や、五家七宗の
法系を事実として信じていたはずである。
37 二十四流とは江戸前期に成立した名称で、今日の禅門で常識となっている言葉である。詳しくは以
下のとおりである。
┌ 曹洞宗─┬道元派 入宋僧 永平道元 一二二三年入宋し天童如浄の禅を伝灯
│
├東明派 来日僧 東明慧日 一三○九年来日し直翁徳挙の禅を伝灯
│
└東陵派 来日僧 東陵永璵 一三五一年来日
└ 臨済宗─┬黄龍派─千光派 入宋僧 明庵栄西一一八七年入宋し虚庵懐敞の禅を伝灯
└楊岐派┬聖一派 入宋僧 円爾
一二三五年入宋し無準師範の禅を伝灯
├大覚派 来日僧 蘭溪道隆 一二四六年来日し無明慧性の禅を伝灯
├法澄派 入宋僧 無本覚心 一二四九年入宋し無明慧開の禅を伝灯
├法海派 入宋僧 無象静照 一二五二年入宋し石溪心月の禅を伝灯
├大応派 入宋僧 南浦紹明 一二五九年入宋し虚堂智愚の禅を伝灯
├兀庵派 来日僧 兀庵普寧 一二六○年来日し無準師範の禅を伝灯
├大休派 来日僧 大休正念 一二六九年来日し石溪心月の禅を伝灯
├西礀派 来日僧 西礀子曇 一二七一年来日し石帆唯衍の禅を伝灯
├無学派 来日僧 無学祖元 一二七九年来日し無準師範の禅を伝灯
├鏡堂派 来日僧 鏡堂覚円 一二七九年来日し環溪唯一の禅を伝灯
├一山派 来日僧 一山一寧 一二九九年来日し頑極行弥の禅を伝灯
├古先派 入元僧 古先印元 一三一八年入元し中峰明本の禅を伝灯
├仏慧派 来日僧 霊山道隠 一三一九年来日し雪厳祖欽の禅を伝灯
├中厳派 入元僧 中巌円月 一三二五年入元し東陽徳輝の禅を伝灯
├清拙派 来日僧 清拙正澄 一三二六年来日し愚極智慧の禅を伝灯
├明極派 来日僧 明極楚俊 一三二九年来日し虎岩浄伏の禅を伝灯
├竺仙派 来日僧 竺仙梵僊 一三二九年来日し古林清茂の禅を伝灯
├愚中派 入元僧 愚中周及 一三四一年入元し即休契了の禅を伝灯
├大拙派 入元僧 大拙祖能 一三四四年入元し千厳元長の禅を伝灯
└別伝派 来日僧 別伝明胤 来日し虚谷希陵の禅を伝灯
38 注 7 前掲書 p92~106。
39 大慧宗杲(一〇八九~一一六三)、
中国、宋代の臨済宗の禅僧。看話禅の大成者。賜号は仏日大師、大慧禅師、諡号は普覚禅師。妙喜
と号する。俗姓は奚氏。宣州の人。十六歳で出家し、洞山道微などに参じた後、天寧寺の円悟克勤
の下で悟りを開き嗣法した。四十九歳で径山に住し、のち政争に巻き込まれて、衡陽、ついで梅州
に流罪となる。六十九歳で復僧し、阿育王山に住したのち、径山に再住した。公案による悟を強調
し、禅思想に期を画した。『語録』三十巻は大蔵経に編入される。
40 霊石は虚堂智愚の法嗣、大応国師南浦紹明の法兄弟にあたる。
41 『藤陰瑣細集』三六九条「泰定二年、予初参霊石和尚於秀(之本覚、石云、今年)郷里、有幾人出浙、
対曰、二十余人、
(石曰、非細事也)(後略)」
。
(
『新集』p461)
一三二五年前後の両国間の禅僧の有名な往来事件として、一三二六年の元僧清拙正澄の日本渡来、
一三二九年に明極楚俊が日本からの招請を受け、日本渡来が有名である。特に一三二九年の舟には
金剛幢下の竺仙梵僊や帰朝の日本人僧雪村友梅・天岸慧広・物外可什等が同船し、唱和した詩集『舟
中唱和詩集』が残り、有名である。
42 不聞契聞(一三○一~一三六八)、曹洞宗宏智派。東明慧日に嗣法。浄智寺や円覚寺を歴住した。
43 古林清茂(一二六二~一三二九)、当時元代禅林の第一人者とされる人で、日本からの多くの禅僧が
彼の下で修行した。その会下の僧侶は、古林の号にちなんで金剛幢下と呼ばれる。中巌が参じた一
三二七年にも、月林道皎(一二九二~一三五一)がその会下にいた。
44 中峰明本(一二三六~一三二三)、宋末から元にかけて活躍し、日本からの留学僧がその教えを受け、
帰国後も中峰の教えを広めた。その語録『中峰広録』は、鎌倉時代から江戸初期頃まで、日本の仏
教に大きな影響を与えた。中世で代表的な人は寂室元光である。中峰和尚の住した庵を「幻住庵」
と呼ぶのにちなんで、その教えを受け継ぐ児孫たちを「幻住派」と呼ぶ。なお、中峰についての研
究は野口善敬「天目中峰研究序説」
(
『中国哲学論集』四)
、西尾賢隆「元朝における中峰明本とその
道俗」
(『禅学研究』六四号)などの好論がある。
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月林道皎(一二九二~一三五一)、中国に留学し、古林に八年間参学し、元の文宗より仏恵智鑑大師
の号を贈られた。一三三○年に帰国して京都に長福寺を開き、花園上皇の帰依を受けた。帰国に際
して古林から書き与えてもらった「与月林道皎偈」は徳川家康(駿府御分物)-初代義直と伝来し、
現存する。
保寧寺は古林清茂のいたところで、南京にある。解嘲という表現は揚雄の「解嘲賦」を援用してい
ると思われる。月林のように既に何年も中国にいた留学僧と比べ、中巌の中国語、また禅の理解は
まだ「拙い」ものであったことも事実だったと思われる。
龍山徳見(一二八四~一三五八)、下総国千葉氏の出身。諱は初め利見と称したが、のちに徳見と称
した。道号は龍山。諡号は真源大照禅師。十三歳で鎌倉寿福寺の寂庵上昭に師事して出家し、その
後円覚寺の一山一寧に参禅した。二十二歳の時中国(元)に渡って天童山の東岩浄日・古林清茂な
どに参禅している。また黄龍から栄西にいたる臨済宗の法流を受けて兜率寺に住するなど、長期間
元に滞在して一三四九年に帰国した。足利直義の招きを受けて京都建仁寺の住持となり、その後は
天龍寺・南禅寺にも住した。
雪村友梅(一二九○~一三四七)、越後白鳥の人。鎌倉の一山一寧に参じ、十八歳で入元して諸山を
歴訪した。しかし、日元関係の悪化に伴い、日本留学僧は間諜(スパイ)と見なされたため、霅州
の獄に繋がれる。危うく処刑されかけたが、とっさに無学祖元の臨剣頌を唱えたため、気圧された
処刑官が、死罪を延期し、処刑を免れた。以後、江南地域ではこの臨剣頌が、祖元ではなく雪村の
作であると伝わったということが、数年後同地を訪れた中巌円月によって記録されている(
『新集』
p461、
『藤陰瑣細集』三六九条)。長安や四川にあること二十年に及ぶ。一三二八年に文宗の勅によ
り翠微寺に住し、宝覚真空禅師の号を賜る。翌年に帰国、信濃慈雲寺、徳雲寺、山城西禅寺、播磨
法雲寺などを開創、京都・万寿寺、建仁寺に歴住した。五山文学の最盛期にあって中枢となった僧
であり、詩文集としては、在元時代の詩偈を編んだ『岷峨集』や帰朝後の詩文・語録集として『宝
覚真空禅師語録』がある。
吉祥寺は豊後守護である大友氏泰が中巌を開山に招き、開基した寺院である。後に諸山に昇格。現
在群馬県利根郡川場村門前にある。なお、中巌と吉祥寺についての研究は、山本世紀の『上野国に
おける禅仏教の流入と展開』p81~110(刀水書房、二○○三年)を参照。
『五灯会元』
(上 p188、中華書局、一九八四年)によって引用したのは、次項で述べるように中巌が
『五灯会元』をよく利用していたと思われるからである。この話は文字の異同はあるが、多くの禅
籍に見える。たとえば、
『景德伝灯録』卷九黄檗希運章(T51.266)では次のようになっている。
「幼
於本州黄檗山出家…乃往参百丈…百丈一日問師、什麼処来。曰、大雄山下、採菌子来。百丈問、還
見大虫嘛。黄師便作虎声。百丈拾斧作砍勢 、師即打百丈一掴。百丈哈哈大笑便帰。上堂謂衆曰、
大雄山下有一大虫、汝等諸人也須好看、百丈老漢今日親遭一口…」
禅籍にそれほど用例は多くないが、たとえば、
『大慧普覚禅師語録』巻七(T47.837c)に次の用例が
ある。
「且道衲僧有甚麼長処。良久云。雖有一双窮相手。未会低揖等閑人」。
この話は、たとえば、
『大慧普覚禅師語録』や『古尊宿語録』
、
『五灯会元』などに広く見られ、中巌
も蒋山万寿寺で以下のように取り上げている。
復挙、道吾因趙州至、著豹皮褌、把吉撩棒、在門首唱諾。州云、小心祇候著。妙喜頌云、有礼有楽、
有唱有酬。人平不語、水平不流。師拈云、妙喜師翁、也只是徐六擔板。何也、道吾、趙州賓主相見、
特地作箇心行作麼、撿点将来、直是出自不平。」
(
『新集』p511)
妙喜すなわち大慧の頌を引用していることから、『大慧普覚禅師語録』を見たと思われるが、公案の
記述には若干異同がある。
『大慧普覚禅師語録』巻十(T47.854a)
趙州訪道吾。吾見来著豹皮裩。把吉撩棒。在三門前等候。纔見州来。便高声唱喏而立。州云。小心
祇候著。吾又唱喏一声而去。頌云有礼有楽。有唱有酬。人平不語。水平不流。
この公案は大応国師南浦紹明の師である虚堂和尚の語録などに見られ、また、夢窓の語録(『夢窓正
覚心宗普済国師住山城州南禅禅寺語録』と『再住南禅寺語録』
)でも取り上げられているが、中巌の
語録には見えない。
象外禅鑑(~1335 年)、臨済宗大覚派の桃渓徳悟の法を嗣いだが、東明慧日にも相当の期間随侍し
た。のち、円覚寺、建長寺を歴住した。塔所は建長寺同契院。
これは彼の武士の出自と関係があるのだろうか。室町時代の中巌の木造坐像が京都市霊源院に現存
し、四角い顔と遠方を見つめる目からその剛毅さが感じられる。
「上東陽和尚」
(
『新集』p388)では「点鉄成金」と使っている。
禅宗は「不立文字」を唱えている一方、実際は「不離文字」であった。その表現の多様さについて
は、多くの研究がある。たとえば、陳原『社会語言学』
(上海学林出版社、一九九四年)
、南懐瑾『禅
家与道家』
(復旦大学出版社、一九九一年)
、兪建章・叶舒憲『符号、語言与芸術』
(上海人民出版社、
一九八八年)
、張美蘭「禅宗語言的非言語表達手法」(
『中国典籍与文化』第四期、一九九七年)、張
美蘭『禅宗語言概論』
(台湾五南図書発行公司、一九九八年)、周裕鍇『禅宗語言』
(浙江人民出版社、
一九九九年)などが代表的である。このうち、周裕鍇『禅宗語言』は上下二編十三章四十一条に分
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けて、禅宗言葉の特徴を分類している。詳細かつ説得力がある。これに照合すると、中巌が拈香で
見せた反語的表現の使用、また追悼文にみえる俗語の使用などは、いずれも禅宗表現としては伝統
のあるものである。
たとえば
①『無門関』の冒頭部分(T48.292b)
佛語心為宗、無門為法門。既是無門、且作麼生透。豈不見道、從門入者不是家珍。從縁得者始終
成壊。
②『大慧普覚禅師普説』卷十六(T47.882a)
所謂從門入者不是家珍。信知宗師家無実法与人。且如世間工巧技芸有樣子便做得。若是這一解。
須是自悟始得。得之於心応之於手。若未得箇安楽処。
ほかにも『法演禅師語録』 (T47.656b、
『佛果円悟禅師碧岩録』
(T48.145b)など多くの語録に見える。
たとえば、
『円悟佛果禅師語録 』卷九( T47・753 c)に「示衆云、撞著道伴交肩過一生参学事畢、
似此称提。若不知有、争解恁麼道。可謂從自己胸襟流出、蓋天蓋地(後略)
。
」とある。
「恰恰用心」は一般的に永嘉玄覚(六七五~七一三)の『証道歌』によって知られているが、大慧
は『大慧普覚禅師書』卷二十七「答夏運使」
(T47.930a)で、唐代の禅僧牛頭法融に纏わる話を次の
ように挙げている。「又懶融云、恰恰用心時、恰恰無心用。曲談名相労、直説無繁重。無心恰恰用、
常用恰恰無。今説無心処、不与有心殊。非特懶融如是、妙喜与左右亦在其中。其中事難拈出似人前、
所謂默默相契是也」
。一生懸命の心構えは無の心構えと同じであることを確認すると同時に、その境
地は人に説明するのは難しく、黙契の必要性を強調している。
貞治六年条に「以下無自歴譜、後来補之」とあるが、
「予」ではなく、
「師」という表現からみて、
貞治三年の記述も弟子の手になるものと思われる。
注 7 前掲書 p243。
中巌は渡元前から大友氏から経済的援助を得ていた。また、官寺に出住する前に、大友氏の開基で、
吉祥寺を開山している。大友氏は中巌の最大の外護ともいえるが、大友氏の内紛に巻き込まれたの
か、中巌が五山官寺出住以降、両者の交渉は途絶えたようである。両者の交流についてはすでに先
学によって考察されている上、思想的な交流を窺わせる史料が見つからないため、この章では考察
しないことにする。
正統庵はもともと浄智寺にあり、夢窓疎石が円覚寺舎利殿背後に正続院(円覚寺開山・無学の塔所)
をうつした際、その跡地に骨壷ごと移植したものである。
夢窓の亡き後、一三五九年八月、春屋妙葩は関東に夢窓派を盛んにするために、その直弟十人を鎌
倉に送り、籤によって、そのうち五人は建長寺に、五人は円覚寺に掛籍せしめられた。おそらくそ
のうちの一人がその庵主となったのだろう。
なお、憲顕の禅宗信仰は、ほかに次の二点が知られている。
① かつて伊豆奈古谷に天長山国清寺を開いて、仏光派の天岸恵広を開山に請じたが、天岸が固辞
したので、代わってその同門の無礙妙謙を招いた。(
『上杉系図大観』、
『大日本史料第六編之三
十一応安元年九月十九日条所収』)
② 一三六四年一月二十三日、上野八幡庄皷岡村内の池鰭禅尼給分の半分を無学祖元の塔所である
円覚寺正続院に、長灯料所として寄進している(
『円覚寺文書』一七二、一七三、一七四号文書、
『鎌倉市史』史料編第二)。
猛著精彩の意味については、
『大慧普覚禅師法説』卷第二十一所収「示鄂守熊祠部」
(T47・899a)に
ある「不疑佛、不疑孔子、不疑老君。然後借老君孔子佛鼻孔、要自出気。真勇猛精進勝夫所為。願
猛著精彩、努力向前。」という箇所を参考にした。
「道元説」にある「中書侍郎上杉公」という表現からみて、同説は朝宗の道号説であることが分か
る。
義堂周信の日記『空華日用工夫略集』にたびたび登場しているが、いずれも中書と呼ばれている。
『老子』第四十二章に「道生一、一生二、二生三、三生万物。
」とある。
象外禅鑑 (一二七九~一三五五)、肥前の人。鎌倉円覚寺第四世の桃渓徳悟に師事しその法をつぐ。
上総胎蔵寺をひらき、のち鎌倉円覚寺・建長寺の住持となる。諡号は妙覚禅師。
「万物之中惟人最霊」は『尚書』泰誓篇の「惟天地万物父母、惟人万物之霊」を踏まえていると思わ
れる。
石室善玖(一二九四~一三八九)が朝宗のために書いたと思われる「道元」という頌が残っている。
そのなかでは、「須知流出胸襟底、鉄樹枝頭覚果成」と、より禅的な内容が含まれている。
費隠の解釈については古注と新注とで異なる。鄭玄の注では、費はもとる意。世の道義が間違って
いるときは、かくれて仕えない。朱子の注では、費は広いこと。君子の道は、その働きは広大であ
るが、その本体は微妙で人目につかない。中巌は新注によって理解したと思われる。
「含元殿裏、別問長安」については、
『大慧普覚禅師語録』 (T47・819c、841c、929a –b)『佛果円悟
禅師碧岩録』 (T48・185b)、
『人天眼目』
(T48・305c、306a)
、
『佛祖歴代通載』
(T49・644a)
、
『景徳
伝灯録』
(T51・275c)
、
『佛光国師語録』 (T80・188c)、
『竺僊和尚語録』
(T80 ・385b、 428c)など
141
75
76
77
78
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85
にみられるが、中巌の派祖大慧の語録から、また中巌の同時代人で彼を高く評価した竺僊の語録か
ら一例ずつ挙げよう。
『大慧普覚禅師住福州洋嶼菴語』(T47・841c ~842a)
、
示衆、一句中具三玄門、一玄門有三要路。臨済小廝児、只具一隻眼、四方八面来、只打中間底、
卒風暴雨時、向古廓裏嚲得過。興化老凍膿、全未夢見在。至道無難、唯嫌揀択、是時人窠窟。趙
州古佛、直得五年分疎不下、灼然鵝王択乳、素非鴨類。有佛処不得住、無佛処急走過。三千里外
逢人不得錯挙、掲却脳蓋換却眼睛。汝等諸人、不用鑚亀打瓦。百丈被馬祖一喝、直得三日耳聾、
作麼生圖度。切忌停囚長智、恁麼也不得、不恁麼也不得、恁麼不恁麼總不得。含元殿裏休問長安、
莫認驢鞍橋、作阿爺下頷。既然如是、向這裏説、高高峯頂立、深深海底行得麼。香象渡河、截流
而過得麼。如金翅擘海直取龍呑得麼。既不許恁麼、如今不免且作死馬医。驀拈拄杖卓一下云、太
陽溢目、万里不掛片雲。超佛越祖之談、已為掃来填溝塞壑了也。且道、清平木杓笊籬井索銭貫、
雪峯輥毬禾山打鼓。畢竟向衲僧分上、成得箇甚麼辺事、還委悉麼。莫待是非来入耳、從前知己反
為仇。復卓一下、喝一喝。
『竺仙和上天柱集』法語示禅賢居士竹菴(T80・428c)
、
拠如所謂信向此道、孜孜不倦、而朝夕披尋経教并古人語録、匪遑寧居。即此是無量劫来、八識田
中、菩提種子発生如是也、更非他物。又云、未蒙激発蒙滯、願以不渉他塗、径直開示本分一路。
此即含元殿裏更覓長安。作如是説可謂直否、然世間人多是錯会。便曰、一切動静施為是皆自己如
来藏海一切山河大地、無非自己妙明真心。若如是会則是無量劫来、八識田中、無明荒草、参天荊
棘、根深而蔕固、未能剗除、説甚菩薩種子而発生耶。然直菩提種子亦須剗却、其庶幾也。其況他
乎。然居士已自実会、豈須怛。有此忉怛、悉是無故横入他途、皆非直也、又奚能開示本分一路。
然則直中曲、曲中直。剗却菩提種荊棘、看他結箇大葫蘆、掛向趙州東院壁。
「大道坦然」については、
『円悟佛果禅師語録』
(T47・754c、783c)
、
『大覚禅師語録』 (T 80・72c)、
『義堂和尚語録』(T80・515a)などに用例が見えるが、大慧の師である円悟と、中巌を師と仰いだ
義堂の語録から一例ずつ挙げよう。
①『円悟佛果禅師語録』卷九 小参(T47・754c)
僧問、玄沙不過嶺、保寿不渡河、未審意旨如何。師云、直超物外。進云、雪峰三度到投子、九度
上洞山、是同是別。師云、別是一家春。進云、恁麼則春色無高下、華枝自短長。師云、一任卜度。
師乃云、大道坦然更無回互。同証明者識、同道者知。若有実法繫綴羅籠人、入地獄如箭射。所以
諸佛出世祖師西来、実無一法与人、只要諸人休歇。若実到休歇田地、二六時中如天普蓋似地普擎、
更不剩一絲毫、亦不欠一絲毫。浄裸裸赤灑灑、見成公案。
②『義堂和尚語録』(T80・515a)
開罏上堂垂語、南禅一路平地上、嶮崕万仭孤峻処、大道坦然若是通方、作者試進一歩来。
(問答
不録)。挙、佛光師祖開罏有偈。示衆曰、簇出玲瓏面面紅、滿堂納子坐春風。東山山下無人到、火
冷雲深憶祖翁。後百年南禅不肖会孫開罏亦有一偈曰、淅淅霜風拂曉来、地罏重撥旧冬灰。莫嫌火
種無柴続、且坐蒲団待暖回。
この大道は同時に、教外別伝の禅宗をかけことば的に表現していると思われる。
『義堂和尚語録』巻三所収の拈香(T80.525b)によれば、一三七○年、義堂が信州陣中にいる朝宗
からの依頼を受け、鎌倉でその父憲藤(古岩淳)の三十三忌を行った。その拈香のなかに「所謂妙
法者、
(中略)十二時中、行住坐臥処、治生産業処、或公堂政事処、或軍陣戦闘処、乃至閨閣燕集歌
舞戯笑処、全体受用底道理、
(中略)是名真実報佛恩者」
)という内容がある。中巌の「要行便行」
と一脈通じるものである。
『夢窓国師語録』『西山夜話』(T2555.493c)に「于玆一山国師兼住建長円覚、在其会下数年、晨昏
親炙参決吾家宗脈、自謂禅門宗旨無所不明也。時復自顧胸中依前未穏、乃知從門入者不是家珍。」と
ある。
原文は五山版『南禅寺語録』
(五葉裏)によった。また、現代語訳は柳田の訳である。
(柳田聖山『日
本禅語録七 夢窓』p148、講談社、一九八一年第二刷)
。
柳田聖山『日本禅語録七 夢窓』p148(講談社、一九八一年第二刷)。
高峰顕日(一二四一~一三一六)は、後嵯峨天皇の第二皇子。諡号は仏国禅師・仏国応供広済国師。
一二五六年円爾に従って出家し、その後、兀庵普寧・無学祖元に師事した。下野国那須の雲岩寺の
開山にもなっている。南浦紹明とともに天下の二甘露門と称された。幕府執権北条貞時・高時父子
の帰依を受け、鎌倉万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺の住持を歴任している。門下には夢窓疎石な
どの俊才を輩出し、関東における禅林の主流を形成した。
『天龍開山夢窓正覚心宗普済国師年譜』二十七歳~三十一歳条(T80.484b~485b)を参照。
退院上堂が普通の上堂よりも内容が短めであるのに対して、入院上堂の内容は総じて豊富である。
当時住院は決まった儀式があり、山門、仏殿、土地堂、祖師堂、拈帖、拈香などと一連の手続きを
踏んでいる、各語録はで毎回詳細にそれの記録をしている。
最も、これも日本禅林独自の傾向ではなく、中国禅林の傾向を継承したものと思われる。
『大慧武庫』は大慧が弟子たちに語った宋朝禅林の逸話を集めた書物である。宋版を覆した五山版
142
が現存する。
86 『正法眼蔵』は大慧が湖南衡陽に配流されている間に先徳の機語を集め拈唱を加えたものである。彼
の思想の背景や思想形成過程を考えるのに重要な書物であるが、入蔵はされていない。現在宮内庁
書陵部には宋板本が蔵されている。また、南北朝初期に五山版が刊行されているが、現在唯一の伝
本は建仁寺両足院にある。建仁寺は中巌がかつて住持を勤め、妙喜庵を結び晩年を過ごしたところ
である。
87 『大慧普覚禅師語録』
(三○巻本)は径山、育王、江西雲門菴、福州洋嶼菴、泉州小谿等の上堂語と、
雲居首座寮秉払語録、室中機縁、頌古、偈頌、讚仏祖、普説、法語、書等、一代の語を集めたもの
である。宋版大蔵経に最初に入蔵した禅の個人の語録である。大蔵経の日本への将来は古くより行
われているため、
『大慧普覚禅師語録』も早くから日本に伝わったようである。一○八○年頃から刊
行し始めた民間最初の大蔵経である福州東禅寺版に入蔵している『大慧普覚禅師語録』
(と『大慧普
覚禅師普説』)の原刻本の所蔵は東寺・上醍醐寺に完本、天理図書館に端本が知られる。また福州開
元寺版の大蔵経にも(東禅寺版大蔵が完成をみた一一一二年頃から元の大徳年間まで印行されてい
たもの)
『大慧普覚禅師語録』
(三○巻)と『大慧普覚禅師普説』
(一巻)が入蔵し、日本でその遺存
が確実なのは書陵部本である。
88 十二巻本は三○巻本のうち、一~六を上巻、七~一二を下巻とする二冊本に名づけられたものであ
る。宋版、元版、五山版がそれぞれ開版されている。現在日本では宋版は見ることができないが、
元版(西尾市立図書館岩瀬文庫)と五山版(成簣堂文庫)は現存している。
89 同書は大慧の著述の中で、もっとも多く開版されている。宋版、朝鮮版、五山版が知られている。
五山版だけでも、五種が現存している。天理図書館蔵は複宋版で、鎌倉末期に初刻されてから、南
北朝初期に補刻がなされている。
90 『智覚普明国師語録』付録(T80.0726c)、
「又至一所、楼閣崢崢嶸殿宇粛厳、而不見人。自念言、是妙喜世界。予凝遠熟視、中巌和尚堆堊榻、
而為衆談大慧普説。」
91 『五灯会元』については、
「五灯会元が編纂されてから、大いに流行し、それまでの五つの灯史が読
まれなくなったほどである」と従来信じられてきたが(蘇潤雷「灯録与五灯会元」
、
『五灯会元』p1412、
中華書局、一九九二年)、馮国棟の最近の研究によると、現在九種類の『五灯会元』の刊本が残って
いるが、それが最も流行したのは清代であり、元や明において従来言われているほど流布しておら
ず、とくに元代においては、まだ『景徳伝灯録』のほうが断然影響力が強かったことが指摘されて
いる。(「『五灯会元』版本与流伝」
、
『宗教学研究』二○○四年四期 p91)
。このようにみると、中巌
が『五灯会元』を重視したのは、当時の一般的風潮というよりも、やはり大慧派関係の書物という
理由のほうが大きいと思われる。
92 円爾が一二四○年に宋から帰朝の際に将来した書籍を整理したとされる「普門院経論章疏語録儒書
等目録」(『大日本史料』第六編三一収録)にも『五灯会元』の書名が見える。
93 一山一寧((一二四七~一三一七)は元の人、一二九八年元の招諭使として、日本に派遣され、一旦
幽閉されたが、許され、円覚寺建長寺南禅寺を歴住した。公武両方から帰依され、寂後「本朝一国
師」と後宇多上皇から讃えられた。多くの法嗣を出し、学芸上の門生が多く、夢窓も若いころには
参学したことがある。緒方香州の「禅宗史籍の註釈について 五灯会元抄を中心として」(
『禅学研
究』五九、一九七八年)によれば、現存する「一山抄」は一山自身の撰述ではなく、一山の講釈を
もとにして、後世の人がまとめたものである。
94 この条の内容は達磨の渡唐年次についての考証である。
95 『大日本史料』第六編之三十応安元年雑載学芸の項を参照。
96 『五灯会元』の編者は一般的に大慧派拙庵下の浙翁如琰(一一五一~一二二六)の嗣で杭州の霊隠寺
に住した大川普済とされているが、最近では、大川は住持として賛助は怠らなかったであろうが、
実際にその編纂に尽力したのは慧明という首座を中心とした霊隠寺の諸禅人であったという説が提
起されている。佐藤秀孝「『五灯会元』編集の一疑点」
、
(
『印度学仏教学研究』五八、p114~115、日
本印度学仏教学会、一九八一年三月);石井修道「大慧宗杲とその弟子たち(一)、『五灯会元』の成
立過程と関連して」(『印度学仏教学研究』三六、一九七○年三月)を参照。
97 宗派に関係なく交際した人の中で、来朝僧や留学僧が多いことが目立つ。たとえば、前者では清拙
正澄(「中巌月書記、自百丈東陽和尚会中掌翰墨還郷、過予、文気逼人、可敬、茲欲省覲円覚東明老
師、書此以贈」
『新集』p568)、竺仙梵僊(
「謝竺仙和尚訪」同 p334、
「擬古三首、次中巌首座韻」同
p571、「示中巌首座」同 p571)が有名で、後者では物外可什(「万寿請物外疏」同 p642)
、別伝妙胤
(「和答泊船和尚」同 p344、真賛「別伝和尚」同 p527、「祭別伝和尚」同p691)、無隠元晦(「会無
隠」同 p339、
「蒋山万寿請無隠和尚住海蔵寺疏」同 p646、
「祭大友江州直庵 又 代晦無隠)同 p695、
古先印元(『自歴譜』観応二年条同 p624、
)、放牛光林(
「放牛和尚寿牌入祖堂」同 p545、
「放牛和尚
住南禅山門・江湖二疏」同 p648)、此山妙在(「此山住天龍江湖疏」同 p647)
、無夢一清(「無夢住東
湖江湖疏」同 p648)
、無涯浩外(真賛「無涯和尚」同 p531、
「中巌和尚住相州万寿江湖疏」同 p573、
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「同諸山疏」同 p573)
、天境霊致(
「祭中巌和尚」同 p577)、寂室元光(
「江州永源寺開山円応禅師行
状」、『寂室録』下之二)などがいる。
竺仙梵僊(一二九二~一三四八)、元から来日した臨済宗楊枝派の僧。号は来来禅子。俗姓は徐氏。
出身は明州。古林清茂の法を継いだ。一三二九年六月大友貞宗の要請を受け、明極楚俊に従って日
本へ渡来した。翌一三三○年鎌倉に下り足利尊氏・直義の帰依を受けた。その後浄妙寺・浄智寺を
経て、京都南禅寺・鎌倉建長寺の住持となった。学識は一山一寧の次位とされ、各寺において多く
の弟子を養成した。公武の帰依を受け、五山文学発展の基礎を築いた。
別源円旨(一二九四~一三六四)、越前の人。円覚寺の宋僧東明慧日に参ず。一三二○年入元。古林
清茂・雲外雲岫・中峰明本・霊石如芝、無見先覩・古智慶哲・竺田悟心・南楚師説に参ず。また隠
逸の人龍岩徳真・絶学世誠に歴参。一三三○年帰国。足羽の弘祥寺・肥後寿勝寺・山城真如寺・建
仁寺等に住す。在元中のものを集めて『南游集』といい、帰朝後のものを集めて『東帰集』という。
『南游集』は、写本が国立国会図書館(
『南游東帰集』内)
、東京大学史料編纂所(
『南游東帰集』内)
に蔵される。一六六四年刊本(京都林伝左衛門)が、駒沢大学・旧積翠文庫・大中院に蔵される。
他に刊年不明の刊本がある。一六六四年刊本(京都銭屋惣四郎)が、国立国会図書館・内閣文庫・
慶応義塾大学・旧積翠文庫・大中院に蔵される。他に刊年不明の刊本がある。
東白円曙、鎌倉の人。東明慧日に参じ、中巌や別源と特に親交があった。入元して古林清茂・了庵
清欲・了堂唯一に参じた。帰国後、再び東明に随侍すること、その示寂にまで及ぶ。東明の寂後は、
再び竺仙梵僊などの古林門下の人と交わり、詩文の世界に遊び、生涯を終わった。法階は蔵主にと
どまった。
注 13 前掲書 p64 に、同詩の読み下しと現代語訳があるが、その製作背景をはじめ、内容についての
考察は極めて簡単である。
明極楚俊(一二六二~一三三六)、南宋明州慶元府で生まれる。一二七三年、霊岩寺の竹牕喜を拝し
て剃髪受具。育王山の横川如珙に参じて悟りを得る。その後、霊隠寺の虎岩浄伏の門に移って侍香
として仕え、虎岩の法を嗣ぐ。奉聖寺・瑞岩寺・普慈寺の諸寺に歴住した後、婺州双林寺主となる
など、すでに元の禅宗界において高名な存在であった。一三二九年、径山で前堂首座を務めたころ、
大友貞宗からの使節に招請され渡日を受諾。同五月に博多へ入港した。翌一三三○年、鎌倉幕府に
招かれて関東へ下向する途中、京都で後醍醐天皇に拝謁して法問を受け、仏日燄(焔)慧禅師の号
を賜る。同年二月、得宗北条高時の要請で建長寺住持となり、竺仙が前堂首座としてこれを支えた。
この頃、元弘の変で流謫した後醍醐天皇の復位を予言したという。変後、復位した後醍醐天皇に招
かれて一三三三年上京、南禅寺第一三世として迎えられる。翌一三三四年には南禅寺は京都五山の
第一とされた。同年、建仁寺に移り、第二十四世となる。また摂津に広岩寺を開山。一三三六年、
建仁寺の方丈にて入寂。享年七五。遺偈に「七十五年、一条生鉄、大地粉碎、虚空迸裂」。著書に『明
極和尚語録』があり、法嗣に懶牛希融、草堂得芳らがおり、明極派もしくは燄慧派と称される。
中巌が夢窓の存在を知ったのはおそらく上京中のことであろう。かつて中巌は帰国の船中で高峰の
嗣で夢窓と同門になる天岸慧広に和韻して詩を作っているが、夢窓の出世は天岸慧広が留学期間中
にあたるので、天岸慧広から夢窓の話を聞いた可能性は少ない。
注 7 前掲書 p116 を参照。なお、詩の原文は以下のとおりである。
和答融書記兼柬明極和尚
荊州願識久心期、偶得相逢白水湄。世路艱虞何可説、宗門淡薄実堪悲。人窮智短今猶古、法弱魔強
我怨誰。蹭蹬不唯眼前事。文王箕子亦明夷。
定乱之後、朝廷請明極和尚住瑞龍召見次、藤丞相問道、師偈以答。江湖依韻相賀予亦随衆擢登龍阜
堂。
後醍醐政権への接近は後に大友貞宗を通して上表したことに端的に現れている。
千坂嵃峰「中巌円月における「時」の意識-易と孔子の影響について」(
『聖和』二九号 p17~38、
聖和学園短期大学、一九九二年三月)を参照。
①『自歴譜』(暦応)二年已卯条(『新集』p620):
「春、東明和尚又請以前版、固辞、及乎被逼、棄而上京、東明和尚、亦退建長、復欲因予奏聞、得
浄智養閑、予到臨川、礼夢窓国師、又上三条殿、皆為東明和尚、求浄智也、天龍既得浄智命、国師
欲以浄妙為東明和尚養閑所、時聞円覚大川訃、大川素得建長命、然俄亡矣、建長更無可主人、故以
三条殿鈞命、固請東明帰鎮、予既得国師及三条殿手帖、帰関東、請白雲師帰建長、
(後略)
」
②東明和尚累住建長上表代(
『新集』p381)、
「相州巨福山建長興国禅寺住持釈沙門慧日、頓首上表 皇帝陛下。慧日一衲、遠来竛(立+屏)無
頼、窃食上国、二十余年。顧慚、内無補於宗門、外無援於国家。幸遇 仁聖、累忝寵栄。前歳備員
瑞鹿、汔乎両周、偶以衰病、当帰休。反蒙 聖旨、屡遷此山、捧対綸言、感戴無已、但以老憊日甚、
上表敢辞。尋奉南禅長老、依敕勧奬、 恩私尤重、固辞不可。旧治之所、山川如故、雖則殊方、還
同衣錦、誠感誠荷。伏惟 皇帝陛下、徳被區中、威加海内。蟊賊盡殄、肹蠁来臻。起三代之墜風、
延百王之景祚。夷夏同志、遐迩斉懽。恭惟河水清於千年、嵩山呼於万歳。下情無任、祝頌屏営之至。
」
虎関師錬(一二七八~一三四六))、京都の出身で、八歳で臨済宗聖一派東山湛照に師事して参禅し、
144
東山の没後は規庵祖円・桃渓徳悟らについて修行した。一三○七年建長寺の渡来僧一山一寧を訪ね
た時、本朝の名僧の事績について尋ねられ、満足に応えられなかったことをきっかけとして一三二
二年「元亨釈書」を著した。また鎌倉の無為昭元・約翁徳倹の会下に入る一方、仁和寺・醍醐寺で
密教を学んでいる。一三三九年南禅寺の住持となり、一三四一年東福寺海蔵院に退き、翌一三四二
年後村上天皇から国師号を賜った。諡号は本覚国師。菅原在輔から『文選』を、六条有房から易学
を学ぶなど自らの研鑚につとめ、該博な知識を得た。
109 嵩山居中(一二七七‐一三四五)、遠江出身。俗姓は源。西澗子曇の法をつぐ。二度元(中国)に渡り、
古林清茂らに師事。一三二三年帰国後、京都の南禅寺、建仁寺、鎌倉の円覚寺、建長寺の住持とな
る。一三四五年二月六日死去。諡号は大本禅師。著作に『少林一曲』がある。
110 全提志令、南洲宏海の法嗣。中巌には「和禅興全提韻」
(『新集』p345)という詩がある。
111 明岩正因(?~一三六九)、来日僧西澗子曇の法を継ぐ。円覚寺・建長寺住持、墓所は円覚寺正伝庵。
鈴木大拙が住んだことで有名。木造の坐像(一三六五年)が現存。中巌には「和答明岩」
(
『新集』
p356)という詩がある。
112 たとえば、在元三十年にして帰国した清渓通徹に対して、執拗に同派下への加入を勧誘したのであ
る。注 5 前掲書 p352 清渓通徹の条を参照。
113『維摩義記』卷一(T38.450c)に「其須浮帝、此名善吉、亦曰空生。初生之日、家物悉空、故名空生。
其人於佛弟子之中解空第一。」とある。
114 三会院は、夢窓が臨川寺に門徒の精神的拠点となる施設として建てた寿塔である。さらに、一三三
九年五月に、
「三会院遺誡」を制定した。
「三会院遺誡」は、
「我に三等の弟子あり」という有名な内
容のほかに、塔主を含めて塔内の僧数は二十人と定め、塔頭は住持及び門徒中の老宿による協議に
より選任し、また仏事・忌日の勤行を規定する。特に、本寺・末寺の文書を三会院に保管するとい
う一項を規定し、塔主の主要な任務の一つとしている。(竹貫元勝 「南北朝・室町期の禅宗」p55
以下、『日本禅宗史』、大蔵出版、一九八九年)
115 北条貞時が無学祖元を開山として建立した。
116 松尾剛次「室町幕府の禅律対策―禅律方の考察を中心にして」p1~36(
『鎌倉』三七、一九八一、の
ち『日本古文書学論集』 第七巻、吉川弘文館、一九八六年に採録)を参照。
117 大喜法忻(不明~一三六八)、今川基氏の子で、仏国派太平妙準(夢窓の法兄)の法を嗣ぐ。浄明寺、
建長寺、円覚寺を歴住した。中巌には「和謝忻大喜相訪」
(『新集』p344)がある。
118 注 5 前掲書 p714~718 龍山徳見の条を参照。
119 中巌がしたためた龍山の行状で「掛錫雲岩二年、朝夕参請」
(
『新集』p563)とある。
120 とくに珊瑚枝と月という組み合わせは『佛果円悟禅師碧岩録』
(円悟は大慧の師である)第百則で取
り上げられている「挙、僧問巴陵、如何是吹毛劍。陵云、珊瑚枝枝撐著月。 (挙す、僧、巴陵に問
う、如何なるか是れ吹毛の剣。陵云く、珊瑚は枝枝に月を撐著す)
」(T48.223b)という公案によっ
て知られている。ちなみに中国では珊瑚は月を感じて生じ、枝頭に月暈あるという考えがある。
121 無涯仁浩(一二九四-一三五九)、一三二一年入元し、了庵清欲をはじめとした諸老に参じた。一三四
五年石室善玖とともに帰国。肥後能仁浄土寺・鎌倉東勝寺・建仁寺を歴住した。著作に『無涯和尚
語録』がある。彼の中巌のために作成した江湖疏、諸山疏は『新集』(p573)にも収録している。な
お、中巌賛の無涯仁浩像が正伝永源院に現存する。
122 龍湫周沢(一三○八~一三八八)、夢窓疎石の法嗣。妙沢と自称し、別に咄哉と号す。甲斐武田氏の
出身。夢窓疎石に参じ、甲斐の慧林寺・建仁寺・美濃の大興寺・南禅寺・天龍寺・東山の常在光寺・
臨川寺に住す。ついで寿寧院を開創。語録『龍湫和尚語録』は弟子玉溪中瑣が入明して育王山広利
山住持願庵宗体に序を請いて作製してもらった。また龍湫自身も夢窓疎石の『再住天龍寺語録』を
編纂した。ほかに詩文集『随得集』がある。
123 注 7 前掲書 p224 を参照。
124 義堂周信(一三二五~一三八八)、土佐国高岡の生まれ。十四歳で剃髪、比叡山で夢窓疎石の門弟と
なる。一三五九年に幕府が関東地方の統治のために設置した鎌倉公方の足利基氏に招かれて鎌倉へ
赴き、基氏や関東管領の上杉氏などに禅を教える。一三七九年に上京し、三代将軍足利義満の家庭
教師的存在となる。相国寺建立を進言し、建仁寺住職、一三八六年には南禅寺の住職となり、等持
寺住職も務めた。春屋妙葩や絶海中津と並ぶ、中国文化に通じた五山文学を代表する学問僧とされ
る。著作に『義堂和尚語録』
、
『空華集』
、
『空華日用工夫略集』がある。
125 義堂周信の日記『空華日工集』は四十八冊あったが、早く散逸し、現在は抄出本『空華日用工夫略
集』四冊として伝えられる。記事は義堂誕生の一三二五年から死去の一三八八年に及ぶが、日記ら
しい体裁を備えているのは六七年(正平二二・貞治六)三月からであり、それ以前と死去直前の部
分は、年譜作成のためになされた追記であろう。崇光上皇はじめ将軍足利義満、関東管領足利基氏・
氏満また二条良基、斯波義将など、広く公武の要人と交わりがあり、禅宗史のみならず、政治・社
会・文化に関する貴重な史料で、ことに鎌倉の模様を伝える史料として重要である。また彼の該博
な学識を表す内外典の記事は、当時の五山禅僧の教養の最高水準を示している。刊本として辻善之
助編『空華日用工夫略集』(太洋社、一九三九年)や蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集』(
145
版、一九八二年)などがある。
126 ①貞治元年三月条、中巌、実田及諸老、商搉古今琅々弗已。高麗人呼銀為南音。故謂銀音南。実田
説、京府中掛咸陽宮圖。諸老或謂之忉利天圖。可咲也。
②貞治六年十一月十日条、命工、繪絵前府君玉岩肖像、充瑞泉常住供養、締香火之勝縁。請建長中
巌讃。曰「
(後略)
」。
③応安元年追抄十六日条、陽谷和松字答業子建。出示求改。
(中略)乃指中巌也。
④応安三年十二月十八日条、良弘・至勲二侍者来。並無惑之徒也。出石室送偈・此山和什、中巌長
篇。(中略)因索余偈。
(後略)
⑤応安四年三月六日条、夢岩・黙庵与中巌・此山会於等持之頃、夢岩以『日用規』中浴室之儀上下
知事、探問中巌す。中巌即座一々分暁指陳。蓋江南叢林常儀、不必疑也。時管領細川武州在座、以
為一快云。
⑥応安七年二月十八日条、九峰出示故梅洲老人旧題及自和者。余乃次其韻題(後略)
。
⑦永和元年正月廿八日条、中謙首座至、乃聞中巌和尚今月八日示寂、余曰、
「嗚呼、天下宗門棟梁摧
也。奈何々々。」
⑧永徳元年九月二五日条、准后又求余名新楼、且云、
「旧名十境、其政平水則中巌所名也。水月楼則
先皇賜名、親御宸翰云。
⑨至徳二年二月廿日条、為管領玉堂殿請、雪渓号序。大明瓦官無逸作記、梅洲老人中巌作説。
(後略。
)
⑩嘉慶二年四月四日条、(義堂)偈頌詩文若干巻号空華外集、梅洲老人中巌公嘗作叙並跋。
(注 125
前掲辻善之助編『空華日用工夫略集』に拠った。
)
127 『五山文学全集』巻二『空華集』P1750(思文閣、一九九二年)所収。
128 同文については蔭木は一部について触れている。注 7 前掲書 p253 を参照。
129 袁安(? ~ 92)は、後漢初期の中国の官僚。袁安自身を含め四世代で五人の三公を出した後漢時代
の名門汝南袁氏の始祖となった。若い頃は家学の『孟子』や『易』を学び、儒者として学問に励ん
だが、特に目立った家ではなかったらしい。のちに孝廉にあげられて官界に入った。孝廉にあげら
れたときの逸話として、以下のような話が伝わっている。袁安が官途につかず勉学していたときに
大雪があって飢饉になったことがあったが、彼はひとり家に篭って寝ていた。たまたま市中を巡回
していた県令が大雪を除雪していない家があったので餓死者がいるかもしれないと思って中に入る
と、そこは袁安の家であった。なぜ外に出て食料を求めないのかと県令が問うと、袁安は大雪で人
はみな困っているのに、自分が外に出て行ったらますます迷惑をかけてしまうと答えた。県令はそ
の悠然とした賢人の態度に感心して孝廉に推薦した。
130 ①『大慧普覚禅師年譜』(『嘉興大藏経』J01p797c)
高宗皇帝建炎元年丁未、師三十九歳、居楊州天寧。十月、同琳普明渡江省侍円悟于金山、信宿
而別。偕隆藏主之呉門、少憩宝華、次虎丘、遂館于前。資按武庫曰、円通秀禅師云、雪下有三
種僧、余丁未冬在虎丘親見之、不覚失笑、乃知前輩語不虚耳。」
②『大慧普覚禅師宗門武庫』巻一(T47・956b)
師云、円通秀禅師因雪下云、雪下有三種僧、上等底僧堂中坐禅、中等磨墨点筆作雪詩、下等圍
爐説食。予丁未年冬在虎丘、親見此三等僧、不覚失笑。乃知前輩語不虚耳。
131 中国における禅と文学の関係について、すでに多くの研究成果が蓄積されている。代表的なもので
孫昌武『禅思与詩情』
(中華書局、一九九七年)がある。同書の序で、禅と文学が密接な関係にあっ
たのは、その内容、思考様式が文学の創作活動と共通する部分があるからということを論じた上で、
禅の発生期(達磨時代)から隆盛期(宋代の江西詩派)までの中国における禅と文学の交渉の実態
を明らかにしている。
132 仏照禅師徳光(一一二一~一二○三)は大慧宗杲の法嗣である。大慧の後を嗣ぎ、径山に勅住した。
また、孝宗の勅を受け、一一七六年より一一九三年にわたって数次入内説法した。その内容は『仏
照禅師奏対録』に記録されている。
敬叟居簡(一一六四~一二四六)は徳光の法嗣である。その詩集『北礀詩集』や、墨蹟「醻梅坡吟友宿
山見貽偈」などが日本に伝わっている。中巌が『北礀詩集』に識語をしたためている。また、ほかに
「物初翁瓶梅、礀陰翁拆而為二。其一奇而不怪、其一怪而不奇。止止菴前有梅、奇而且怪。凡物暌
而後合、理之使然也。有感於予、故効顰而作。
」
(
『新集』p357)
、
「追和礀陰翁雲錦亭」
(同 p365)の
詩がある。
物初大観(一二○一~一二六八)は敬叟の法嗣である。その語録『物初和尚語録』や詩文集『物初
賸語』は日本に伝わり、五山版が開版されている。語録の刊行に中巌も尽力していたことは、
「法孫
比丘円月、施財命工鏤板、以垂後学功徳、報答四恩三有」という刊記によって窺える(
『物初和尚語
録』)
。また、中巌には「物初師翁感事韻」
(同 p345)という詩がある。なお、その墨蹟も日本に多
数伝わり、現存するものもある。藤田美術館所蔵の「物初大観墨跡山隠語」やサンリツ服部美術館
所蔵の「黄山谷草書杜詩跋」などは重文に指定されている。
晦機元熙(一二三八~一三一九)は物初の法嗣である。百丈山の所在地である南昌の人。百丈山、
浄慈寺、径山寺などに住した。笑隠の師であるため、その塔銘は、文宗の命で、元代随一の文人虞
146
集が撰文している。
133 原文、
「夏五月掌書記、建天下師表閣、作上梁文」。また、
『自歴譜』に中巌が自身の著作活動に触れ
ているのはこのほかに、
『中正子』
、
『藤陰瑣細集』
、
『日本書』があるが、いずれも大部のもので、一
篇の文章の名前を挙げているのはこの上梁文だけである。
134 宋の王応麟の『困学紀聞』巻二十雑識によれば、北魏の温子升の「閶闔門上梁祝文」が上梁文の最
初であるとされている。
135 黄溍(一二七七~一三五七)は、元代の著名な詩人、古文の大家。また、「儒林四傑」として柳貫、
偈渓斯と虞集と併称された。彼の「行中書省上梁文」は『金華黄先生文集』巻二○に収録されてい
る。
136 黄溍が東陽と親密な交友関係にあったことは、
『金華黄先生文集』巻四所収の一三三六年に作成した
詩「丙子七月十七日、同煇公登紫微岩、汪生元明許生存仁来会、遂宿鹿田、明日乃由山橋回芙蓉峰
而別、追念数十年間同遊之士、往者已不可作、在者又莫之与同、両生顧能不憚其動相従躡履行風雨
中、誠一時清事也、第未知後遊為何日、同遊為何人、撫事述情、成二十韻、邀両生同賦、奉呈審言
子長」などから分かる。なお、芳賀の指摘によると、中巌より一世紀も後になる十五世紀の瑞渓周
鳳の著書『臥雲日件録』康正三年九月十五日の条に黄溍撰『黄溍卿文集』が言及されている(注 23
前掲書 p305 を参照)。
137 『五山文学全集』によって二を工の誤りと考えた。
138 結綺、臨春ともに陳后主が建てた楼閣で、贅沢さで知られる。
『陳書』卷七皇后伝、后主張貴妃の章
に「南朝陳后主、至德二年、起臨春、結綺、望仙三閣、閣高数丈、并数十間、窗牖、壁帯之類皆以
沉檀香木為之、飾以金玉、間以珠翠、其服玩之属、瑰奇珍麗、窮极奢華、近古所未有。后主自居臨
春閣、張貴妃居結綺閣、龚孔二貴嬪居望仙閣、并復道交相往来。」とある。後代多くの詩に詠まれて
いる。たとえば劉禹錫「金陵五題臺城」
(
『全唐詩』卷三六五)に、
「臺城六代競豪華、結綺臨春事最
奢。」とあり、宋王安石「金陵即事三首」二(
『王安石詩全集』巻三)に、
「結綺臨春歌舞池、荒蹊狭
巷两三家。」とある。
139 太形と王屋はともに雄大さで知られている冀州にある山。
『列子』巻五「湯問篇」に「太形、王屋二
山、方七百里、同万仞。」とある。愚公移山という故事で広く知られている。
140 「滕王閣序」は唐王勃の作、洪都の景色のすばらしさを詠んだ作品として有名である。
141 左界、東方にある星座の名前。謝庄の名作「月賦」
(
『文選』巻一三)に「于時斜漢左界、北陸南躔」
とある。
142 張騫之槎、張騫が漢の武帝の命によって、槎に乗って天の川の源を尋ねて帰ったという有名な故事
を踏まえている。
143 李白の名作「夜宿山寺」(『全唐詩』卷一七四)の「危楼高百尺、手可摘星辰」を踏まえていると思
われる。
144 東陽は百丈懐海下の十八代目に当たる。
145 獅子座は仏教では長老大徳の座を指す(
『禅学大辞典』p430)。獅子吼も禅宗でよく用いる用語で、
素晴らしい説法の喩えである。たとえば、
『維摩詰所説経』
「佛国品」
(T14.537a)に「演法無畏猶師
子吼、其所講説乃如雷震。」とある。
146 百丈野狐の公案に基づく。にせものの禅者を呼び覚ますべきであるという意味。『無門関』二、『従
容録』八、
『宏智禅師広録』巻二など多くの語録に取り上げられている。以下、
『円悟佛果禅師語録』
巻一九(T47.804a)によってその内容を示そう。
「挙、百丈毎至陞座、常有一老人聽法。一日衆去老
人独留。丈云、汝是何人。老人云、某非人、然某縁五百生前迦葉佛時会住此山、錯答学人一転語、
所以五百世墮野狐身。今欲挙此話、請和尚為答。丈云、汝試挙看。老人云、大修行底人還落因果也
無。某対云、不落因果。丈云、汝問我与汝道。老人遂問、大修行底人還落因果也無。丈云、不昧因
果。老人遂悟、得脱野狐身化去。」
147 那伽は梵語の音訳で、龍、象、仏陀の三つの意味があるが、ここでは仏陀の意で取った。那伽定は
佛の禅定を意味する。那伽が立つという表現は那伽定から来た連想かと思われる。それによって暁
の百丈山の静謐で神秘的なイメージをかもし出していると思われる。
148 『金華黄先生文集』巻十一(商務印書館、一九三二年四部叢刊本)p115 所収。
149 『法言』巻四問道篇に「或問、八荒之礼、礼也、楽也、孰是。曰、殷之以中国。或曰、孰為中国。
曰、五政之所加、七賦之所養、中於天地者、為中国。過此而往、人也哉。聖人之治天下也、礙諸以
礼楽。無則禽、異則貉。吾見諸子之小礼楽也、不見聖人之小礼楽也。」とある。
つまり、礼楽があるかどうかをもって人間かどうか、礼楽が聖人の制定したものと同じかどうかを
もって中華人かどうかを判断する基準にしている。
150 ①廉而不劌は現代中国語で熟語となっているが、『礼記』四八聘義篇にある「廉而不劌、義也」が
出典である。孔頴達の疏には「廉、稜也、劌、傷也。言玉体雖有廉稜而不傷割於物、人有義者亦能
断割而不傷物、故云義也。」と解釈している。
②『老子』五十八章には「是以聖人方而不割、廉而不劌、直而不肆、光而不燿。
」とある。
151 帰国後鎌倉円覚寺に帰る前に送別として書いたとあるから、元弘三年末か建武元年始め頃のものと
147
思われる。この時、清拙正澄は後醍醐の命により建仁寺に住持している。またこれより五年後関東
にいた中巌は京都の清拙に「与清拙和尚」
(『新集』p386)という書簡を書いており、京都を発った
とき、挨拶に行ったことなどを記している。
152 竺仙梵僊、義堂周信など中巌の文章力を褒め称える同時代の言説は多くあるが、年代的には清拙の
この詩が一番最初のもので、百丈山での経験を特に記しているところが特徴的である。
153 雲屋自閑(一二三一~一三一二)
、その法系は大慧-徳光-妙峰之善―東叟仲穎―雲屋である。
154 二老亭と草堂の建立について、中巌は『藤陰瑣細集』三六二条(
『新集』p460)で次のように触れて
いる。
「雲屋和尚住智者時、周斐斉、数入山中、□□□□□二老亭、李雪菴、鮮于伯幾、作圖賦詩、落□
□□□又構草堂、雲屋謝事居焉、宣政院復以□□□□□老不仕、譲其友万一山。」
またほぼ同じ内容の記述が笑隠大訢の「金華智者寺雲屋間禅師塔銘」
(
『蒲室集』巻一二)に見える。
155 中巌の『自歴譜』によると、一三三一年春に金華に着いてから、夏には隣接の義烏県にある双林寺
に掛搭したとあるが、そこでの生活については、智者寺を回想する『文明軒雑談』三七三条に、
「縣
錫檮陰」とそれを裏付ける一句があるだけで、他に詳しい記述が残っていない。
156 薩都刺の生没年については(一二七二~一三五五)説(周双利『薩都刺』p5~7、中華書局、一九九三
年)、
(一三〇〇年~?)説(章培恒『中国文学史』第六編第四章第三節)、
(約一二八〇-约一三四六)
説(『中国古代文学史』第六編第八章第三説、北師大)がある。
157 その詩集『薩天錫詩集』(台湾学生書局、一九七九)に「贈訢笑隠長老」(p145)
、
「寄賀天竺長老訢
笑隠召住大龍翔集慶寺」(p178)の二首が見える。
158 三生石の故事、唐の僧円観は親友の李源と再会の約束をして示寂する。十二年後、李源は約束通り
杭州天竺寺へ行って、円観の生まれ変わりである牧童と再会する。その場所が三生石である。
159『文明軒雑談』四四九条(
『新集』p486)に「儀則堂与、予同庚、亦法嗣先師広慧(東陽徳煇)とあ
る。なお、琳荊山については、呉景奎の「寄琳上人」
(
『薬房樵唱』巻一一)に「我識東陽老仙伯、
為煩問訊近如何」とあることから、東陽の弟子であることが分かる。また景南葉顒の「挽琳荊山上
人」(
『樵雲独唱詩集』巻一)に「大徳庚子春、生我及此公」によると、琳荊山も一三○○年の生ま
れであることが分かる。
160 『文明軒雑談』三六三条(『新集 p460』に「金華王善甫善書。会用日本繭紙、書□□□□□。琳荊
山収之、与予観之、且曰、此紙仙里出也、退之之文、善甫之書、紙亦遠来、可珍、是三絶也、予曰、
物以遠見貴、人以遠見卑、荊山然之、繭紙、日本謂之引合、予帰国時、荊山以為餞、荊山亦能書。」
とある。
161 「挽琳荊山上人」
(註 159 前掲)に「賦詩雑風騒、屈宋或可宗、字畫尤俊健」
、「寄琳上人」
(註 159
前掲)に「踏穿門限客求書」とある。
162 中巌の現存作品の内、中国で作ったと思われる作品は詩十四首(遊武夷山、瘧疾、贈張学士並序、
贈塗都料、庚午三月東陽和尚書所見韻、和儀則堂韻謝珠荊山諸兄見留、古意、九宮観酬車提点、寄
天如則首座、泰定二年寓保寧会諸江湖名勝、金陵懐古、遊赤松宮、思郷)
、上梁文一篇(百丈法堂上
梁文)
、疏二篇(百丈請玉田住西隠疏、江湖請傑独峰住智者)
、祭文五篇(祭智者大道和尚代両序、
又代耆奮、又代辨事人、又代選僧堂、祭幻住中絶際)秉払一条である。
158 智者寺の環境については、当地で書いた詩「和儀則堂韻謝琳荊山諸兄見留」に「淙々玉澗流、青々
青祇樹囲」とあることから、実際川や林に囲まれていた景勝の地であったと思われる。
164『荘子』や『列子』および江淹、陶潜については後述する。
『史記』については増田が指摘ずみであ
る(注 13 前掲書 p31)
。蘇軾の影響については、次の箇所「夜色混天水、身若居瑠璃。舟子款乃歇、
客有洞簫吹。始作嗚嗚声、滿座皆無怡。漸有容与態、聽者同舒眉。
」が蘇軾「前赤壁賦」の「客有吹
洞簫者、倚歌而和之。其声嗚嗚然、如怨如慕、如泣如訴、余音袅袅、不絶如縷。(後略)
」を踏まえ
ていると思われる。なお、中巌が蘇軾の「前赤壁賦」を宋代の文章のなかで最もすばらしいもので
あると思っていることについてには、『藤陰瑣細集』三七一b(『新集』p462)にある「欧陽公云、
晋無文章、惟陶淵明帰□□□□□□ □東坡云、唐無文章、惟(韓)愈送李愿□已、予曰、宋無文
章、惟東坡前赤壁□(後欠)
」から分かる。
165 『荘子』内篇一「逍遥遊篇」に「連叔曰、其言謂何哉。曰、藐姑射之山、有神人居焉。肌膚若冰雪、
綽約若処子。不食五穀、吸風飲露。乘雲気、御飛龍、而游乎四海之外。其神凝、使物不疵癘而年穀熟。
吾以是狂而不信也。」とある。
166 『列子』巻二「黄帝篇」に「海上之人有好鴎鳥者、毎旦之海上、從鴎鳥游。鴎鳥之至者、百住而不
止。其父曰、吾聞鴎鳥皆從汝游、汝取来、吾玩之。明日之海上、鴎鳥舞而不下也。」とある。
167 たとえば、張喬「贈初上人」(『全唐詩』卷六三八)に「竹色覆禅栖、幽禽繞院啼。空門无去住、行
客自東西。井气春来歇、庭枝雪后低。相看念山水、尽日話曹溪。
」とある。
168 雪村友梅「失題」に「幽禽呼念佛、薄俗疑生姦」とある。(
『岷峨集』一首目)ここでは、雪村は自
らを幽禽に喩え、仏教を勉強するために元に留学してきているのに、スパイの容疑をかけられたと
いう経歴を詠んでいる。
169 中巌が陶淵明の「帰去来辞」を晋代の文章のなかで最もすばらしいものであると思うことについて
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には、
『藤陰瑣細集』三七一b(『新集』p462)にある「欧陽公云、晋無文章、惟陶淵明帰□□□□
□□ □東坡云、唐無文章、惟(韓)愈送李愿□已、予曰、宋無文章、惟東坡前赤壁□(後欠)
」か
ら分かる。
観は中国語では冠と発音が同じであることから来た誤用かと思われる。
『智覚普明国師語録』付録(T80・726c)に「又至一所、楼閣崢嶸殿宇肅厳、而不見人。自念言、是
妙喜世界。予凝遠熟視、中巌和尚堆堊榻、而為衆談大慧普説。時衆未集、某近前。岩以手指中央一
幅畫像、予就其指看却曰、阿誰。岩且頷、引声哢云、彼者言大慧之人也。予云、不然。岩矍然曰誰。
予曰、是吾国師。岩詰其故。予見大智普明四箇字在其上方、而指以為證之。頃忽開静板鳴、驚覚撫
枕正堊追繹焉。」とある。
『孟子』巻一に、「挟太山以超北海、語人曰、我不能、是誠不能也。」とある。
この話は『潭州潙山霊祐禅師語録』『景徳伝灯録』『五灯会元』、
『大慧普覚禅師普説』
、『大慧普覚禅
師法語』など多くの禅籍に見られるが、以下中巌と縁の深い『大慧普覚禅師普説』にある内容を参
考に掲げよう。
『大慧普覚禅師普説』卷一三(T47・865a)、
(香厳和尚)便辞潙山、直過南陽覩忠国師遺跡。遂憩止卓菴。一日芟除草木、因颺瓦礫、驀然撃
著一竿竹作声、不覚打著父母未生時鼻孔。当時如病得医、如暗得灯、如貧得宝、如子得母、歓喜
無量。遂沐浴焚香、遙礼潙山歎曰、和尚大悲、恩逾父母。当時若為我説破、豈有今日事。乃有頌
曰、一撃亡所知。爾看他得底人、発言自是不同。初聞撃竹作声、忽然大悟、所悟底心便絶消息。
如彌勒彈指楼閣門開、命善財入、善財心喜、入已還閉、便是這箇道理。香厳悟処既絶消息、父母
未生時事頓爾現前。纔作箇頌子、便有為人底方便。下面註曰、更不假修治。動容揚古路、不墮悄
然機。処処無蹤跡、声色外威儀。諸方達道者、咸言上上機。多見禅和子、愛去到処問長老。長老
家無著口処、便為他解説。爾怕他香厳説得未分曉在、更要註解。又有一般人也道、因撃物作声、
有箇悟処。或問他爾試説看、便撃物作声曰、多少分明、有甚麼交渉。大似隔鞾使拳頭爬痒、如何
得快活去又不見。
①答不聞:顧我為人也、(中略)養蒙類眠蠶、懶拙不征利(後略)
。
②和韻贈大虚并序:今冬無雪、春来太暖。天為窮者厚其賜也、豈可謂之不仁乎。二月桃李已盛矣、既
而將清明節、俄爾大雪。予甚異之而懶拙相成、未有得詩若文為記。
(後略)
③和答明岩:(前略)学書北海拙成死、避世東方狂入場。欲伴鸞鳳待時出、慵随燕雀逐風翔。紛然衆
目更難理、凭仗宗師力整綱。
④祭竺僊和尚:(前略)尋師鳳台、再之不遇、帰哉帰哉。藏拙稠衆、南屏之隅。惠然過吾、鳳林同来
緬懷嘉会、嗟乎難再。(後略)
⑤祭義師立翁:(前略)既受僧業、恨不依師。飛蓬無根、漂梗無迹。偶於福山、藏拙自適。不料忽聞、
師己告寂。(後略)
千岩元長(一二八四-一三五七年)、中峰明本の法嗣。隠遁的な性格という師の家風をよく守った人と
されている。
「不照覆盆」については、葛洪『抱朴子』巻十二「辨問篇」にある「是責三光不照覆盆之内也」が
最初と思われる。元の頃には元曲にも登場するほど広く普及した言い方になっている。たとえば元
代第一の劇作家として知られる関漢卿の『山神廟裴度還帯』第一折に「日月雖明、不照覆盆之下、
看説此一事韓公実是冤枉」という内容がある。中巌は「祭大友江州直庵」(
『新集』p695)でも自ら
を「自謂覆盆」と卑下して表現している。
『淮南子』卷一二道応訓篇や『列子』八説符篇にみえる。以下、
『列子』によってその内容を以下に
紹介する。
『列子』説符篇
秦穆公謂伯楽曰、子之年長矣、子姓有可使求馬者乎。 伯楽対曰、良馬可形容筋骨相也。天下之馬者、
若滅若没、若亡若失、若此者絶塵弭轍。臣之子皆下才也、可告以良馬、不可告以天下之馬也。臣有
所与共担墨薪菜者、有九方皋、此其于馬非臣之下也。請見之。穆公見之、使行求馬。三月而反報曰、
已得之矣、在沙丘。穆公曰、何馬也。対曰、牝而黄。使人往取之、牡而驪。穆公不悦、召伯楽而謂
曰、敗矣。子所使求馬者、色物牝牡尚弗能知、又何馬之能知也。伯楽喟然太息曰、一至于此乎。是
乃其所以千万臣而无数者也。若皋之所観、天机也。得其精而忘其粗、在其内而忘其外、見其所見、
不見其所不見、視其所視、而遺其所不視。若皋之相馬者、乃有貴乎馬者也。馬至、果天下之馬也。
陳友氷「二十世紀大陸的宋詩総論研究回顧」p4 以下を参照。
(
『漢学研究通訊』94 期、二〇〇五年五
月)
「奪胎換骨」「点鉄成金」「以故為新」はいずれも黄庭堅が詩の創作について述べた有名な言葉であ
る。
奪胎換骨、『冷斎夜話』巻一「奪胎換骨法」に、「山谷云、詩意無窮、而人之才有限、以有限之才、
追無窮之意、雖淵明、少陵不得工也。然不易其意而造其語、謂之換骨法、窺入其意而形容之、謂之
奪胎法」とある。
点鉄成金、
「答洪駒父書」(
『豫章黄先生文集』巻一九所収)に「自作語最難、老杜作詩、退之作文,
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无一字无来歴、蓋后人読書少、故謂韓、杜自作此語耳。古之能為文章者、真能陶冶万物、雖取古人
之陳言入于翰墨、如霊丹一粒、点鉄成金也。」とある。
以故為新、『冷斎夜話』に「山谷嘗与楊明叔論詩、謂蓋以俗為雅、以故為新、百戦百勝如孫呉之兵、
棘端可以破鏃、如甘蠅、飛衛之射、此詩人之奇也」とある(
『山谷詩集注』巻十二)
。
「以故為新」こそ「奪胎換骨」の原理だとされている(黄啓方『黄庭堅与江西詩派論集』p16、台北
国家出版社外、二〇〇六年)
。
その全詩は次のようである。
「拾遺流落錦官城、故人作尹眼為青。碧鶏坊西結茅屋、百花潭水濯冠纓。
故衣未補新衣綻、空蟠胸中書万卷。探道欲度羲皇前、論詩未覚国風遠。干戈崢嶸暗宇県、杜陵韋曲
无鶏犬。老妻稚子且眼前、弟妹飄零不相見。此公楽易真可人、園翁溪友肯卜隣。隣家有酒邀皆去、
得意魚鳥来相親。浣花酒船散車騎、野墻无主看桃李。宗文守家宗武扶、落日蹇驢駄醉起。愿聞解鞍
脱兜鍪、老儒不用千戸侯。中原未得平安報、醉里眉攢万国愁。生綃舗墻粉墨落、平生忠義今寂寞。
儿呼不蘇驢失脚、犹恐醒来有新作。常使詩人拜画図、煎胶続弦千古无。
」
同詩の黄庭堅の真跡は、明の蔵書家や清王朝の宮廷の所蔵を経て、現在故宮博物館に所蔵されてい
る。
注 23 前掲書 p288 を参照。
中巌のように留学経験があり、中国で疏の作成に従事したことのある人間は、必ずしも蒲室疏法通
りに書かなくても、立派な四六文が書けたのであるが、留学経験のない多くの禅僧たちにとって、
約束ごとがはっきりしている蒲室疏法にのっとって書いたほうが安心できたのであろう。
絶海中津(一三三三~一四〇五)は土佐国高岡郡津野(高知県高岡郡津野町)を支配していた豪族・
津野氏の一族として生まれた。義堂周信とは同郷である。一三四八年に上洛して天龍寺に入った。
一三五〇年に剃髪し、翌年に夢窓疎石が死去するまで、その側に仕えたと言われる。一三六八年に
は明に渡海し、用貞輔良ら明の高僧らと出会い、これらの教えを受けた。一三七六年には明の太祖
である洪武帝(朱元璋)から謁見を許されている。一三七八年に日本に帰国した。この明への渡海
により、絶海中津は多くの高僧らと出会ったことで、俗的詩文の風と四六文の技法を身につけたの
である。また、このような明への渡海は、かつての師匠である夢窓と同じく、日本における政治家
や武将たちからも一目置かれる存在として見られるようになった。足利義満・足利義持などの二代
の将軍をはじめ、多くの有力な守護大名、また朝廷においても伏見宮栄仁親王らの帰依を受けた。
その存在は当時の仏教界でも大きく、義堂と並んで臨済宗夢窓派の発展に寄与したということで評
価は高い。後小松天皇や称光天皇らも中津に帰依した人物の一人であり、その死後に前者は仏智広
照国師、後者は聖国師という勅命による追贈を行なった。『絶海和尚語録』や『蕉堅稿』
(詩文集)
などの著作が伝わっている。
そのため、その故事の出典を知ることが読む人にとって必要となってくる。中世禅林で出現した多
くの抄物も出典の提示を中心に作成されているのは偶然ではない。
「咄嗟而辨」という表現は『晋書』卷三三石崇伝に「嘗為客作豆粥、咄嗟而辨」がもともとの出典
であるが、宋代以降熟語と化している。たとえば『東京夢華録』巻三に相国寺の斎会について、
「毎
遇斎会、凡飲食茶果、動使器皿、雖三五百分、莫不咄嗟而辨」と書かれている。
たとえば、宋宗賾『禅苑清規』の序文には「庄厳佛社、建立法幢、佛事門中、闕一不可。豈立法之
貴繁、蓋随機而設教」とある。
蔭木はこの疏の後半を取り上げ、
「明監来機、入門便知好悪、沢施群品、随機乃分多寡」については、
春屋妙葩は人材能力をば見ぬいて適材適所に登用する、人事管理能力をさしているとしているが、
筆者と違う理解を示している。(注 7 前掲書 p242)
現在貞治七年(一三六八)跋付きの五山版が残っているが、
『五山文学全集』第二巻『空華集』所収
の跋は同序と同文である。
義堂の杜甫認識については朝倉尚の「禅林における杜甫像寸見-「文章一小技」と「杜甫忠心」」
(
『岡
山大学教養部紀要』一一 p65~102 、一九七五年三月)を参照。
蘇軾については、
『空華日工集』応安五年二月十日、七月三日、永徳元年正月五日条などに記述が見
みえることからみると、尊崇していたことは明らかである。
蘇軾については本章第一節、杜甫については本章第三節を参照。
呉言生『禅宗思想淵源』
(p321~353、中華書局、二○○一年)によれば、
『円覚経』の示している修
行理論など、禅の思想と共通することが多いことから、中国で禅宗の確立期である唐代からすでに
宗密など有力な禅僧によって喧伝されていた。
注 192 前掲書 p329 を参照。
義堂の文学観については注 23 前掲書 p248 を参照。
『大方広円覚修多羅了義経』普眼菩薩問佛章( T17・915a)
、
「善男子、此菩薩及末世衆生、修習此心、得成就者、於此無修亦無成就。円覚普照寂滅無二、於
中百千万億不可説阿僧祇恒河沙諸佛世界、猶如空花、乱起乱滅、不即不離、無縛無脱。始知衆生
本来成佛、生死涅槃猶如昨夢。」
鄧紹基「元代僧詩現象平議」(『中国社会科学院研究生院学報』、二○○五年三期 p62~67)を参照。
150
197 現在日本には円至注、裴庾增注『增注唐賢三体詩法』三卷が一四九四年より一七○三年までの間の
七種類の刊本が知られる。
198『新集』(p526)では正宗と傍注を振っているが、
『禅学大辞典』
(禅宗法系譜 4708)では正庵として
いる。前者に従った。
199『夢窓国師遺芳』(天龍寺、二〇〇一年)に収録されているものだけでも三十四点に上っている。
200 注 80 前掲書 p18 以下を参照。
201 注 80 前掲書 p61 を参照。
202 心似鐡とは決心が固く、何事にも動かされないことを表す表現として、元代では熟語として定着し
ている。たとえば、有名な劇作家馬致遠の『双調夜行船』四「落梅風」に「天教你富、莫太奢。没
多時好天良夜。富家儿更做到你心似鉄、争辜負了錦堂風月。」とある。また、禅宗の語録では常用す
る語句では多くないが、
『円悟佛果禅師語録』
『密庵和尚語録』
『万松老人評唱天童覚和尚頌古從容庵
録』などに用例が散見される。夢窓がその孫弟子となる渡来僧無学祖元の語録『佛光国師語録』
(T80・150a- b)に「東福開山和尚訃音至上堂。昨夜虚空忽銷殞。東福山頭法幢折。盡大地人倶哽咽。
唯有建長心似鉄。何故。東山左畔老松樹。臘月華開在深雪。」とある。なお、中巌自身の木造をみる
と、荒削りで厳しい顔となっている。
203 原田正俊「日本中世における禅僧の講義と室町文化」(
『東アジア文化交渉研究』第二号 p31~45、
二○○九年)を参照。
204『国書総目録』に載せているものを一覧表にすると、以下になる。
書名
著者
所蔵
挿注参釈広智禅師蒲室集
中巌円月
蒲室烏焉集
足利学校史跡図書館
龍谷大学
蒲室疏解
仲方円伊
新纂禅籍目録
蒲室四六講時口伝
江西龍派
新纂禅籍目録
蒲芽
稀世雲彦講、正宗龍統抄訳
東福寺霊雲院
蒲室集抄
桃源瑞仙
足利本『蒲根』における枠内の本
文と注釈に相当する
尊経閣
蒲室集
月舟寿桂
蒲根(漢文)
月舟寿桂
尊経閣
足利、建仁寺大中院、両足院、
鹿苑寺
東大、京都府、鹿苑寺
蒲室集抄
仁如集尭
積翠文庫
蒲室集抄
月渓聖澄
駒沢
蒲室集抄
蒲孽
大谷大学
蒲室集疏翼講
駒沢
蒲室疏
建仁寺大中院
蒲室抄
輪王寺
蒲室集書問翼講
東北大学
蒲室集書問枝蔓略抄
此山玄淵
静嘉堂、駒沢
蒲室文集緒梗
此山玄淵
蒲室疏続考
高峰東晙
建仁寺両足院
蒲室秘旨四六口伝
高峰東晙
両足院
蒲室禅月見桃抄
新纂禅籍目録
蒲室聞塵
両足院
蒲室鱗書
御茶ノ水図書館成簣堂文庫
205 注 7 前掲書 p222 を参照。
206 現存する五山版をみると、余白部分は非常に多く、刊行当初からそこに注の書きいれを予想してい
たようにさえ思える。
207 注 7 前掲書 p221 を参照。
208 龍谷大学蔵『蒲室烏焉集』によれば、
「中巌、参釈ト云、蒲室ノ抄ヲメサレタガ、全部(ハ)ナキ也、
カンヂンノ蒲室ノ疏ハナキソ」と、
『参釈』は疏の部分の解釈がないとある。ただ、詩文部分も途中
151
で終わってしまうのは、やはり納得しにくい。
209 足利蔵『補注参釈広智禅師蒲室集』の筆跡について、コピーを持って、根津美術館の菅原先生に鑑定
を依頼したところ、恐らく中巌筆ではなく、巻末の「円光寺常住元佶」の署名と同一人物だろうとい
うことだった。
210 国会図書館所蔵元佶手沢本については、宇津純「京都円光寺旧蔵 閑室元佶手沢本目録」(『参考書
誌研究』三○)、また足利学校遺跡図書館に伝存する手沢本については、川瀬一馬『増補新訂足利学校
の研究』(講談社、一九七四年)第二章を参照した。
211 『参釈』には参(語釈)には●をつけているのに対して、釈(解説部分)には▲と朱筆で記号をつけ
分けている。
212 室町時代後半期から『蒲室集』への関心は主にその疏の部分に向けられていた。それが、詩文のみ
を注釈した『参釈』の筆写が途中で中断したこととなんらかの関係があるのではないかと思われる。
213 『天柱集』「示中巌首座」(
『新集』p571 所収)
。
214 注 23 前掲書 p94 を参照。
215 厳註からの引用は合わせて十三ヶ所が確認されている。また、「箋」としている部分でも、実際は厳
註から引用している例も見られる。たとえば、「会曹伯珪」詩の「鄂」字についての注釈(巻二 十
葉表余白部分)には、「
『詩』
「常棣之華、鄂不韡韡」。鄂即萼、韡音偉。箋、承華者曰萼。(後略)」と
ある。下線の箇所を実際に調べてみると、鄭箋にはないかわりに、『詩緝』では「牋曰、承華者曰萼」
という記述が見つかった。
216 一字の解釈をめぐって、違う意味の用例を出して、妥当なものを取る作業はほかにも多々見られる。
一例を挙げる。
「佛智師帰仰山」詩「扶輿」についての解釈(巻四第二葉表余白部分)は以下のよう
である。「▲扶輿二字、祖出相如賦。「楚使子虚使於斉、々与使者出田(畋)。田罷、烏有先生問云、
田楽乎、獲多乎。使者対以楚国雲夢之事。於是鄭女曼姫、蜚
」注、襳衣之長帯。
襳垂髾、扶輿猗靡。
髾、燕尾之属、皆衣上假飾。扶輿猗靡、張揖曰、扶持楚王車輿相随也。顔師古駁之曰、非也。此自
言鄭女曼姫為侍従者所扶輿而猗靡耳。(□□□□)
今案、扶輿而猗靡耳之文、輿与猗之間有而字、故知由扶輿故、其衣裳猗靡耳。非謂扶輿即為猗靡之
義也。猗靡者、師古云、今人猶呼相撫掩容養為猗靡。
又案、賦曰、其南則有平原広沢、登降陁靡。注、師古曰、陁靡、旁袤也。□也、阤弋尓反。又案、
『上林賦』登降施靡、注、師古曰弛、音弋尓反、施靡、猶連延也、陁施同読、為戈尓反、皆与猗靡
同読也。韓文用相如賦扶輿而猗靡之語、故直做畳連之文耳。今吾祖述本文云、掖車輿也。広智師伯
与佛智翁拜別之時、挟助八十老師於車輿之上、拜而別之也。」
なお、
「扶輿」に関しては、
『文明軒雑談』三九○条(
『新集』p468~469 にも関連記述が見える。
217 清原宣賢(一四七五~一五五〇)は、室町時代・戦国時代の公卿・学者。宮中に仕えて講義を行い、
明経道を整理して和漢にわたる著作をおこなった。後に宮仕えから身を引き、剃髪して環翠軒宗武
と号し、学者としての活動に専念した。国学者・儒学者で歴史上屈指の碩学とされ、多くの著作が
あるが、そのなかでも各種の抄物は現在も多く伝わり、日本国学研究の基礎資料となっている。
218 注 23 前掲書 p170 を参照。
219 『新集』p659。なお、中巌が「志云」と断った上で引用している内容は『漢書』卷二一上「律暦志」
にある。
220 『漢書』引用に際して、師古曰と並んで、「蘇林曰」、「応劭曰」の形で注釈者の名前が見えるが、何
れも顔注に引用してあるものである。
221 注 23 前掲書 p199~208 を参照。
222 詳しくは武内義雄「日本における老荘学」
(
『武内義雄全集』巻六、諸子篇一 p226~238、角川書店、
一九七八年)を参照。
223 藤原頼長『臺記』康治二年九月二九日条を参照。
224 池田知久「林希逸莊子口義在日本」、『莊子鬳斎口義校注』所収(周啓成、中華書局、一九九七年)。
225 注 23 前掲書 p306 を参照。
226 注 23 前掲書p269~274。朝倉尚も「禅林における杜甫像寸見-「文章一小技」と「杜甫忠心」」
(p65)
で中巌について触れているが、中巌本人の杜甫観については考察していない。義堂が杜甫の影響を
受けていることの証拠として、義堂を杜甫に喩えている中巌の文章を引用しているのである。
227 笑隠詩をはじめ、当代中国文人の杜甫崇拝はそのまま日本禅僧の杜甫への関心を高めたことになっ
たであろう。
228 中巌が杜甫に傾倒する理由は、その文章のすばらしいことだけではなく、中巌自身もそうであるよう
に、常に国を憂い、民を憂う杜甫の政治参加的な生き方にもあると思われる。中巌と杜甫の共通性に
ついては、高文漢の「五山文筆僧中巌円月の世界」p73(
『日本研究』一八、国際日本文化研究センタ
ー、一九九八)に言及がある。
229 長沢規矩也『宋元版の研究』(汲古書院、一九八三年)を参照。
230 許総『杜甫論の新構想-受容史の視座から』p152~153(研文出版、一九九六年)を参照。
231 数多く存在した『蒲室集』注釈書のうち、疏の部分についての注釈がほとんどである。その詩文に
152
ついての注釈は中巌の注のほかに、わずか龍谷大学蔵『蒲室烏焉集』が確認されているのみである。
中巌の注と比べ一段と簡単なものである。
232 久須本「中巌の中国文学的背景」
(注 25 前掲)や、芳賀『中世の学問および文学に関する研究』
(注
23 前掲)には、陶淵明、李白、杜甫、韓愈、柳宗元、欧陽修、蘇東坡の影響が指摘されているが、
このほかにも、屈原、曹操、曹植、竹林七賢、司馬相如、揚雄、謝霊運、江淹、顧凱之、寒山、王
勃、顔師谷、孟浩然、賈島、廬仝、元稹、白楽天、劉禹錫、杜牧、陸亀蒙、司馬光、林逋、王安石、
蔡襄、黄庭堅、陸遊、範成大への言及が確認される。
233 たとえば、九世紀に編纂された『日本国見在書目録』儒家の条に「揚雄法言十三、楊子太玄経十三」
との記載がある。
234 たとえばその冒頭を飾る「和勵志詩」で「晞驥之馬、驥之乗、慕聖之人、聖之徒」とあるのは、
『法
言』
「学行巻」第一の「睎驥之馬、亦驥之乘也。睎顔之人、亦顔之徒也」を踏まえていると思われる。
235 『海蔵和尚紀年録』徳治二年条に「師曰、悪獲太玄。山廻函出玄曰、此書甚難得。後略」と見える。
236 『空華日用工夫略集』応安四年一二月二一日条を参照。
237 日本で揚雄の生き方に関心を持つようになるのは、現在知られているのは近世以降であり、江戸の
思想家の間で隠逸を基調とした揚雄像が類型化され、それへの仮託がなされたとされている。高橋
章則「蘐園古文辞学と揚雄-熊阪大州大田南畝を端緒として」
(
『文芸研究』一四一 p1~12、一九九
六年一月)を参照。
238 渡元前には「不敢以文詞干冒威重」だったが、帰国した今は「不可自棄」と自ら表現していること
からみれば、中巌は留学によって、虎関の推挙に値する文章力を身につけたと自己認識しているこ
とが分かる。
239 『漢書』巻八十七楊雄伝を参照。一例を挙げると、「以為諸子其知舛馳、詆訾聖人、輒為怪詭之辞、
以撓世事。雖云雲小辯、終破大道。」という部分は『漢書』の「雄見諸子各以其知舛馳、大氐詆訾聖
人、即為怪迂、析辨詭辞、以攙世事、雖小辯、終破大道而或衆、使溺于所聞而不自知其非也。」とい
う『漢書』の記述に拠ったものと思われる。
240 たとえば、韓愈「読荀」に「晩得揚雄書、益尊信孟氏。因雄書而孟氏益尊、則雄者、益聖人之徒也」
とあり、張籍「張籍遺公第十二書」に「執事聡明、文章与孟軻揚雄相若」とある。また、司馬光『資
治通鑑』巻三八では、
『漢書』の記述をもとに、肯定的に記事を構成している。
241 本節では、帰国初期に見える中巌の揚雄への言及を中心に、その揚雄観を見てきたが、中巌の揚雄
への憧憬は、その後も続いていたと思われる。たとえば、後年中巌は『自歴譜』を書いているが、
禅僧が生前に自分の伝記を書いたのは極めて稀なことであり、中巌のほかには今のところ、外に知
られていない。一方、揚雄も自分の伝記を書いたことがある。現在の『漢書』の揚雄伝は、多くそ
の「自序伝」に拠ったものである。影響関係が推測される。
242 注 23 前掲書 p277 を参照。
243 犬が輿に載せられ鎌倉へ送られるという事については、『太平記』にも記録され、批判されている。
巻五 関東田楽賞翫の事
(相模入道)これを愛する事骨髄に入りけり。あるいは正税・官物に募り、あるいは権門・高家に
ついて、これを責め仰す。されば、国々の守護・国司、処々の一族大名、十疋、二十疋飼ひ立てて
引き進らす。継ぐに金銀を以ってし、飼ふに魚肉を以ってせしかば、その弊はなはだ少なからず。
輿に乗せて路地を過ぐる日は、路を急ぐ行人も馬より下りて跪き、農を勧むる里民も、夫に取られ
てこれを舁ぐ。(後略)
244 『荘子』秋水篇に「惠子相梁、荘子往見之。或謂惠子曰、荘子来欲代子相。惠子恐、搜于国中三日
三夜。荘子往見之曰、南方有鳥名雛、発于南海而飛于北海、非梧桐不止、非練実不食、非醴泉不飲、
于是鴟得腐鼠、鵷雛過之、仰而視之曰、吓、今子欲以梁国而吓我耶。」とあるのを踏まえていると思
われる。意味は、一国の宰相の地位をも腐鼠として顧みない荘子を思えば、二鳥にも劣ると意気消
沈する韓愈は嘆かわしい。
245「蛣蜣之智在於転丸」は現存の『荘子』には見えないが、晋崔豹『古今注』魚虫、宋吴淑『事類賦』
三十虫部注、宋陸佃『埤雅』十、南宋羅愿『爾雅翼』二五、宋祝穆『事文類聚后集』四八、元陰時
夫『韵府羣玉』六、などの多くの書物に、荘子の言葉として引用されているように、荘子の言葉と
して広く信じられていたのである。
246 四十句からなる韓愈の「二鳥賦」は、大きく二つの部分に分けられる。
「非愚」までの前半部分では
自分の身の上の不幸を嘆き、挫折感や不満を強調している。
「昔殷之高宗」から始まる後半部分では、
傅説の例を引いて人材が重用されるかどうかは時運の問題だという論を導き、さらに「天が私に生
を与えた以上、きっと期するところがあるだろう」と結ぶ。自らを励まそうとする意図、将来への
希望を持ち、楽観的な態度が読み取れる。
247 注 23 前掲書 p288 を参照。
248『鎮州臨済慧照禅師語録』(T47・499c)に「乃至三乘十二分教、皆是拭不浄故紙。
」とある。
249 士大夫のうちにも、禅に傾倒する者と、それを危険視して、批判する者とに分かれていた。朱熹は
前者の代表で、蘇軾や黄庭堅は後者の代表である。禅宗内部から儒佛一致を唱えるようになったの
153
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は、士大夫のうちの賛同者たちの影響であると同時に、禅に対する批判者の立場を変えようという
意図もあった。たとえば、中巌の『中正子』でも言及されている仏日契嵩がものした『輔教編』は、
欧陽修ら儒教を信奉し仏教に批判的な科挙官僚たちの批判に応えて記した儒佛一致を唱えるもので
ある。
年代的にみて、円爾(一二三五年入宋)は栄西(一一八七年入宋)、道元(一二二三年入宋)に続い
て、禅宗を日本に伝えた三人目になる。
注 23 前掲書 p61-62 を参照。
注 23 前掲書 p63 を参照。
一方、政権との関わりを極力避け、黒衣の平僧で通そうとする隠遁の禅を実行する禅僧もいた。永
源寺派の開祖である寂室元光はそのうち有名な一人である。しかし、その寂室でさえ、権力者の帰
依を完全に拒否することはしえなかった。守護佐々木氏頼が近江の愛知川上流の地に建立した永源
寺に入り、そこで晩年を過ごしたのである。
鎌倉時代以降禅宗が受け入れられた理由としては、従来、①世俗身分の体系を反映し、御家人層が
容易に高度の伝法を受けることのできない旧仏教と違い、世俗身分と関係なく悟りを認める禅宗は、
新興階級の武士層の宗教的要求に符合した。②禅の思想と同時に禅僧によってもたらされた宋元文
化に人々がひかれた。③禅僧個人の人間性に魅了された、などが指摘されていたが、最近、仏事法
会の体系(原田正俊「五山禅林の仏事法会と中世社会-鎮魂・施餓鬼・祈祷を中心に」『禅学研究』
七七号、一九九九年;細川武稔「禅宗の祈祷と室町幕府-三つの祈祷システム」、
『史学雑誌』一一
三編一二号、二〇〇四年ほか)や、禅院東班の経済活動(武田和夫「公家領と五山僧」、
『五山と中
世の社会』
、同成社、二〇〇七年ほか)
、対外交渉における役割(川添昭二「鎌倉仏教と中国仏教―
渡来禅僧を中心として-」
『対外関係の史的展開』文献出版、一九八八年;伊藤幸司「中世日本の港
町と禅宗の展開」歴史学研究会編『シリーズ港町の世界史③港町に生きる』青木書店、二〇〇六年、
ほか)など、多様な社会活動の実態の解明がなされている。
五山制度は中国南宋時代にインドの五精舎制を導入して始まったと伝えられ、五山とは官寺の最上
位に列せられた五つの禅院を指した。五山の下に十刹、その下に甲刹(その州で最上位の禅院)が
組織されて、官界の権威を背景に、文化・思想界の指導的立場に立った。鎌倉末期に北条氏は一二
九九年に浄智寺を五山、一三三四年に南禅寺を十刹に制定する等、五山制度を導入したが、この時
期の五山はまだ官寺として確固たる地位を占めてはいなかった。建武年中に定められたらしい順位
配列は最も古いものでって、その位次は次の通りである。南禅寺、東福寺、建仁寺、建長寺、円覚
寺である。室町時代に入ると足利氏が帰依した禅宗は飛躍的な拡大を見せ、五山十刹諸山の官寺機
構も幕府権力を背景に改変された。一三四二年四月に、再び武家を中心とする五山の位次に改め、
京都と鎌倉それぞれ四寺ずつ、五山に収めた。第一建長寺・南禅寺、第二円覚寺・天龍寺、第三寿
福寺、第四建仁寺、第五東福寺、準五山浄智寺。尊氏・直義によって五山の公的保護が始まり、義
満の時代には五山は他の宗派を圧して第一位の勢力を持った。その順位も再度の改変を経やがて定
着した。五山之上南禅寺、五山第一天龍寺・建長寺、五山第二相国寺・円覚寺、五山第三建仁寺・
寿福寺、五山第四東福寺・浄智寺、五山第五万寿寺・浄妙寺。以上は、久須本文雄「五山制度史攷」
(『禅文化研究所紀要』七、一九七五年九月)
、玉村竹二「五山叢林の十方住持制度について」(『日
本仏教史学』二、一九四二年)、玉村竹二『五山文学-大陸文化紹介者五山禅僧の活動』(至文堂)
、
愈慰慈『五山文学の研究』(汲古書院、二○○六年)などを参照した。
玉懸博之「夢窓疎石と初期室町政権」p228~269(『日本中世思想史研究』、ペリカン社、一九九八)
を参照。
「上建武天子」の執筆のいきさつについては、大友貞宗の薦めによるものと中巌が後年回想してい
るが、上述の内容からみると、それは明らかに中巌自らの意志でもあったことが分かる。
「以天下為己任」については、
『南史』
「孔休源伝」の「休源风范强正、明練政体、常以天下為己任。」
が初出であると思われるが、朱子が范仲淹を評して「且如一个范文正公、自做秀才時便以天下為己
任、无一事不理会过。一旦仁宗大用之、便做出許多事業。」
(
『朱子語類』卷一二九)と言ったのが有
名である。現在でも熟語としてよく使われる。
士大夫とは、科挙により官の資格を得たもの、つまり官僚知識層のことである。特に宋代は士大夫
の時代といわれ、政治文化各方面で指導的役割を担っていた。これは、宋王朝は、歴史上の魏晋の
門閥的な政治、隋唐の集団的な政治及び五代の武人的な政治に鑑みて、それらを戒めようとする一
方で、政権自体は少しも「君権神授」という神秘なベールがかかっていない実情を踏まえ、広く士
大夫を篭絡するという政治的戦略を選択し、士大夫たちを政治に参与させて、その政権への求心力
を増強させ、簒奪によって立てた政権を合理化する必要があったためである。そこで、科挙の方式
で大規模な試験を行い、社会全体から有用な人材を吸収するやり方で、統治の基礎を広げていった。
一方、一応機会均等といえるの競争の下、頭角を表し、統治機構の一員になった読書人は「兼ねて
天下を済う」という志向を燃え立たせ、彼らが身を投じた政権の安危を自任し、朝廷に対する恩返
しの意識に支えられながら、政治に当たっていた。中巌が留学していた元代には、異民族支配の下、
科挙の制度も一時期廃止されるほど、宋代と比べ士大夫は政治から疎外された立場にあった。しか
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し、古典の素養(特に儒家の教え)をはじめ、作詞作文能力に加えて治国平天下の使命感などとい
った士大夫たる 条件はすでに読書人にとって骨に刻まれたものになっていた。
唐代に発展してきた禅宗が宋代以降、中国仏教の主流になりえた理由の一つは士大夫らの支持を得
たためである。そのため、儒禅一致が宋代以降の中国禅の大きな傾向となった。その影響をうけ、
鎌倉後期から室町後期の日本の禅僧たちも、大なり小なり士大夫的な条件を具備しているものが多
かったことはすでに研究者により指摘されている(西尾『中世の日中交流と禅宗』p195 以下、吉川
弘文館、一九九九年)。しかし、その研究の多くは義満以降の対明外交における役割に集中し、その
前の時代についての研究は必ずしも多くない。わずかに、竺仙梵僊をはじめとする金剛幢下の人々
の士大夫的教養が指摘されている。しかし、金剛幢下の人々は、教養を備えているものの、士大夫
と称されるのにもっとも重要な必須条件のひとつである「治国平天下の使命感」を持っていなかっ
た。儒学的教養を身につけ、使命感をもってそれを実際の政治に生かそうとした中巌こそ、鎌倉末
期から南北朝時代を通じて、最も士大夫的傾向の強い禅僧であろう。
吉田の上奏文については、玉懸博之『日本中世思想史研究』p180 (ぺりかん社、一九九八年)を参照。
注 19 前掲論文 p110 を参照。
『新集』p486 所収。
同書「猗蘭辞」の注釈(巻一第一葉表余白部分)に「釈曰、元朝文宗皇帝登位、以梁王出居金陵潜
邸、江南人懐其孝恭仁文之徳、且以為武宗聖子、天下大統当皈之主、故民間皆称太子、泰定年、奸
臣潜威、迫移湖北、勢甚急矣、当是時也、広智師伯住中天竺、切知天命人心之所皈、而以遠渉湘楚
之阻、故憂君之念、不能抑止、感発於辞、私効楚騷招魂之躰、祷詞之誠、題曰猗蘭辞。陽以法喜禅
悦余暇及翰墨遊戯之楽、表而示之、陰用老杜謁玄元皇帝李老君廟詩、所謂仙李盤根大、猗蘭奕葉光
之句、陰翊王度祝僖之懇、含蓄在中。」とある。
『元史』卷三三、文宗本紀天暦二年(一三二九)三月の条に「己巳、命改集慶潛邸、建大龍翔集慶
寺、以来歳興工。
」とある。
『新集』p359 に「玄理、曩於前朝至元庚辰歳、先師東陽大和尚、進謝清規表。至金陵舟中言朝京、
時有日本月中巌書記、在百丈我会中辨事。其人聰辯過人、携之偕行、所至有題誇美、佳作甚多。今
記得通州蚤行一詩雲、黄牛肥健短轅輕、葛袂風清臥月明。行盡柳陰三十里、通州城外聽鷄鳴。別来
倒指巳三十六年矣。後聞開化大刹、師門不至寂寥。茲因聞溪上人回朝便、敬借前韻、述二首奉呈、
聊信弟兄拳拳向慕之意言。我師覲帝事非輕、重整清規翊聖明。当日侍行観上国、羨兄酬唱以詩鳴。
鯨涛来往片帆輕、慧日高懸海国明。消息遥伝天上使、関河雪盡鴈初鳴。
前住霊隠法弟比丘玄理載拜
建長堂上中巌法兄和尚禅師
洪武乙卯歳。正月鐙夕。書于普慈方丈西軒」とある。
中巌が政治権力と始めて接触したのは、正中二年(一三二五)二十六歳の時である。その年の夏に
大友貞宗に吉津亀之第で会っている。貞宗は禅宗の保護者として知られる人物で、
「祭大友江洲直庵」
(『新集』p694)によると、初対面にもかかわらず中巌を厚く遇したようである。
『自歴譜』
(
『新集』p615)によると、南禅寺には留学前の一三二一年(元亨元年)冬から一三三二
年夏まで仮住まいしていたことがある。
『漢書』卷二二「礼楽志」、
至武帝即位、進用英俊、議立明堂、制礼服、以興太平。会竇太后好黄老言、不悦儒術、其事又廃。
后董仲舒対策言、王者欲有所為、宜求其端于天。天道大者、在于陰陽。陽為德、陰為刑。天使陽常
居大夏而以生育長養為事、陰常居大冬而積于空虚不用之処、以此見天之任德不任刑也。陽出布施于
上而主歳功、陰入伏藏于下而時出佐陽。陽不得陰之助、亦不能独成歳功。王者承天意以从事、故務
德教而省刑罰。刑罰不可任以治世、犹陰之不可任以成歳也。今廃先王之德政、独用執法之吏治民、
而欲德化被四海、故難成也。是故古之王者莫不以教化為大務、立大学以教于国、設庠序以化于邑。
教化已明、習俗已成、天下嘗无一人之獄矣。至周末世、大為无道、以失天下。秦継其后、又益甚之。
自古以来、未嘗以乱済乱、大敗天下如秦者也。習俗薄悪、民人抵冒。今漢継秦之后、雖欲治之、無
可奈何。法出而奸生、令下而詐起、一歳之獄以万千数、如以湯止沸、沸(愈)甚而无益。辟(譬)之琴
瑟不調、甚者必解而更張之、乃可鼓也。為政而不行、甚者必変而更化之、乃可理也。
「上建武天子表」、
漢継秦之後、七十余歳、雖欲理之、無可奈何、法出而奸生、令下而詐起、則無他、以秦之遺民、習
俗薄悪、民人抵冒也。是故、董仲舒対策曰、如以湯止湯、沸愈甚。琴瑟不調、甚者必解而更張之、
乃可鼓也。為政而不行、甚者必変而更化之、乃可理也。
中巌は「与虎関師錬」(『新集』p384)という書簡で、王通を「子思・孟軻・荀卿・揚雄・王通」の
順序で並べ、また、『中正子』外篇一(
『新集』p407)で「請問文中子、曰、王氏後夫子千載而生。
然甚俏焉、其徒過之。亶夫子之化、愈遠愈大、後之生孰能跂焉。」と述べていることから見て、王通
を儒学者として高く評価したことが分かる。
「寄前大理藤納言実世」(
『新集』p329)
、
世運醍醐五百春、忻逢聖徳有賢臣。龍盤虎踞基依旧、鳳舞鸞翔儀転新。寂寂庭中無獄者、潭潭府
155
内聚文人。古来献替忠良事、豈棄蒼生辞逆鱗。
271 鎌倉時代における儒教的徳治論については玉懸博之『日本中世思想史研究』p153~175(ぺりかん社、
一九九八年)を参照。
272 森茂暁『後醍醐天皇』p141~144(中公新書、二○○○年)を参照。
273 民を農工賈士と四分類したことについては、近世の身分制度との関連という観点から、近世史の研
究者によって注目されている。植松忠博「士農工商論における中・日比較」
(『国民経済雑誌』173 ( 4 )、
p15 ~ 30、 神戸大学経済経営学会)や、小林茂「士農工商の源流」p287(
『大阪経大論集』第四二
巻第六号、一九九二年四月)がある。植松によると、中巌と同時代の北畠親房が日本政治史を記し
た『神皇正統記』の第五十二代嵯峨天皇記のなかに、四民という言い方こそはしていないが、民が
農商工士の順で表され、そしてそれぞれの特技に従って、職を求めるべき内容がある。
(岩佐正校注
『神皇正統記』岩波文庫、p102~103)
。この農商工士という順序は中巌の農工賈士とやや違うが、
四分類によって民すべてを職業による分類で代表したことは、この時代、一般的に受け入れられる
基盤のある言い方であることが窺がえる。
274『後漢書』(流布本李賢注)巻一光武帝紀上注一、
「礼祖有功而宗有德、光武中興、故廟称世祖。諡法、紹前業曰光、克定禍乱曰武。伏侯古今注曰、
秀之字曰茂。伯、仲、叔、季、兄弟之次。
」とある。
275 所功『日本の年号』p151・152(雄山閣、一九七七年)を参照。
276『太平記』巻一二「広有射怪鳥事」の項に、「元弘三年七月に改元有て建武に被移。是は後漢光武、
治王莽之乱、再続漢世佳例也とて、漢朝の年号を被摸けるとかや。
」とある。
277 網野善彦『日本社会の歴史〈下〉』
(岩波書店、一九九七年)を参照。
278 現在ほかに史料が確認されていないため、後醍醐が中巌の上表に触発されて、光武帝に思いを馳せ、
「建武」という年号を選んだとまでは言えないが、その可能性は考えられる。今後一層史料を精査
し、その解明に努めたい。
279 『天龍開山夢窓正覚心宗普済国師年譜』建武元年条(T80.489a~b)に「於是近臣欲勧帝廃禅宗而
相訾者多。帝以斯言語師。師奏曰。陛下若以叔末之不同正法故責今之禅侶不及古。則豈独吾徒得其
責而已哉。範金塑泥刻木彩畫之像亦以非真佛。黄卷赤軸之文亦以非真法故。破毀之可乎。陛下若欲
得福田。則只以剃髮染衣而為僧宝亦足矣。況稠人広衆中有修禅持戒者続佛祖慧命乎。於是帝欲驗其
行事及欲見宗社之規。十一月二十八日百官扈從入山半夜上親巡堂。禅侶坐如枯木。上甚悦之。次早
命師為衆入室。又入僧堂叡覽僧赴午斎。以為礼楽備矣。斎罷請師陞堂説法次命四頭首秉拂。龍顔大
歓嗟歎不止。由此疑謗斯蕩信心益深。」とある。
280 嗣法表明で宏智派と関係が悪化している間も、その派内においては不聞契聞をはじめとして、一部
の理解者を持っていた。それが、後年和解が成立する基盤であった。
281 竺仙梵僊(一二九二~一三四八)、古林清茂の法嗣。一三二九年六月大友貞宗の要請を受け、明極楚
俊に従って日本へ渡来した。翌一三三○年鎌倉に下り足利尊氏・直義の帰依を受けた。その後浄妙
寺・浄智寺を経て、京都南禅寺・鎌倉建長寺の住持となった。学識は一山一寧の次位とされ、各寺
において多くの弟子を養成した。公武の帰依を受け、五山文学発展の基礎を築いた。
読中正子(
『新集』p436)
有生幾何同一気、有頑囂兮有才芸。中正子特思無邪、吐語要作金擲地、謦欬嘘吸内外篇、上下出
入天与淵、荒凉海国渺煙草、桑華開此扶桑顛
建武乙亥二月十七日。書于浄智方丈
四明竺仙梵僊
282 無著の自筆写本が妙心寺龍華院に伝わり、その巻尾に那波伊藤両人の識語がついている。
283「中正子訓注」『中世禅家の思想』
(日本思想大系一六、市川白弦・入矢義高・柳田聖山、岩波書店、
一九七二年)所収。
284 注 23 前掲書 p74 を参照。
285 注 12 前掲書p137 を参照。
286 実際には、上表のときと違って、後援者を失い、遠い鎌倉の一禅寺にいる中巌の声が、後醍醐天皇
の耳に届くことはほとんど不可能である。
「王大喜、厚幣遣之、中正子、不受而去」という文章の終
わりからみれば、そのことは中巌自身も認識していたと思われる。しかし、それでも中巌は現実に
対する憂慮、また自分の主張を文章にせずにはいられないほど、使命感に燃えていたのである。そ
のような矛盾した気持ちは、叙篇において詳しく描かれている(第二章第四節「
『中正子』
「叙篇」
における楊雄認識」を参照)。
287 『国語』巻一周語上に「穆王将征犬戎、祭公謀父諫曰、不可、先王耀德不観兵、夫兵戢而時動、動
則威、観則玩、玩則无震。」とある。
288 説得力を増すために、
「假令有一家者、以仁義之経、普教諸児及臧獲。其児若臧獲、或有悖者、委其
長子可用者、叱之鞭之、而威懲之、則権謀之道也。若其諸児及臧獲、咸乎鞭撻、而叱則抗叱、鞭則
抗鞭、何威懲之有。而自以為吾家能武、則大乱之道也。大王以治家之喩、推而知之於国且天下、則
可也。」と、たとえ話を盛り込んでいる。
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289 この年の七月に関東では中先代の乱がおこり、八月には尊氏が鎌倉に入り、独自の判断で関東の秩
序の構築を始めた。
290 後年、義堂周信が関東管領家の執事、上杉氏憲の来訪を受けたときにも、
「其亡其亡、系于苞桑」を
ひいて、不動の根底を養うことの必要を説いている。
(
『空華日工集』応安六年三月九日の条)
291 両篇の相違点は、文徳と武略の関係を経権論によって整理している「経権篇」のほうがより哲学的
である。
292 井上順理『本邦中世までにおける孟子受容史の研究』
(風間書房、一九七二年)においては、平安期
から室町期までの文献から『孟子』を出典とする表現が丹念に検出され、近世以前の『孟子』受容
の軌跡が克明に辿られている。中巌も取り上げているが、『中正子』序篇については触れていない。
293 注 23 前掲書(p133~139)には、蘭渓道隆、虎関師錬、夢岩祖応、春屋妙葩とその弟子、義堂周信
とその弟子、及び室町中期以降の諸禅僧の『孟子』受容が考察されている。
294 注 12 前掲書 p403 を参照。
295 小川剛生『二条良基研究』p450(笠間書院、二○○五年)を参照。
296 注 12 前掲書 p494 を参照。
297 箕子については、武王の召を受けた話は知られておらず、一般的には朝鮮へ行き、国を建てたとさ
れている。中巌が箕子も武王の召を受けたと書いたのは、なにか所拠があるのか、それとも単なる
誤記か、今後の課題としたい。
298 たとえば、
『孟子』万章篇では、
「人有言、伊尹以割烹要湯、有諸。」という弟子の質問に対して、孟
子は「吾聞其以尭舜之道要湯、未聞以割烹也。
」と答えている。
299 王莽政権は短命に終わり、早くから簒奪政権とされたことから、揚雄仕新については、中国で朱子
を始めとして、批判する人が多かった。また、揚雄を尊崇する人の間では、その評価を避けるのが
普通であった。それに対して、中巌は『中正子』叙篇で「然亦官為郎、給侍黄門、校書天祿閣。劉
棻従学新字、新室召為大夫」と、揚雄の履歴を列挙し、さらに「寔非微而不顯者也」と褒め称える。
これは無位無官の自分と対照をなすという文章構成上の必要からきているものであると同時に、仕
新という行動自体を中巌も認めていることの現れであることはいうまでもない。政権交代の際、新
政権への転身を是とする考えが思想の根底にある。
300 注 12 前掲書 p493 を参照。
301 意承室記『新集』p378。
小師浄業、求扁名於書室。会予観項安世周易翫詞、在蠱之初九。曰干父之蠱。象曰意承考也。項氏
伝曰、迹若不順、意則承之也。迹也者随時而遷、久則敝、猶器之久有虫。虫之於事、剥落蝕蛀、而
器質將殘之謂也。月也老矣、妖蟇欲食、幾乎既乎、蠱之極也。業汝初壯而才剛、当在蠱之初九、庶
幾乎。汝承以吾意、而不師其迹則可也、愼諸往哉。
302 『周易翫詞』
(叢書集成続編一、上海書店出版社、一九九四年影印本)p574、巻十革卦六爻次序の項
に、
「初九在事之初、居卦之下才、雖可為而時与位皆未可革、故曰鞏用黄牛不可以有為也。此伊尹耕
莘、二老居海浜濱之爻也。」とある。
303 注 12 前掲書 p494 を参照。
304 下川鈴子『北畠親房の儒学』p57 以下(ぺりかん社、二○○一年)を参照。
305 天龍寺創建の理由については、①後醍醐の鎮魂②幕府の禅宗保護・統制政策の一環③夢窓の建言な
どが指摘されている。玉懸博之「夢窓疎石と初期室町政権」
(
『日本中世思想史研究』p247~269、ぺ
りかん社、一九九八年)を参照。
306 実翁聡秀、臨済宗大覚派、葦航道然の法嗣。生国・俗姓不詳。壮歳入元して、古林清茂に参じ、帰
朝後、一三六三年頃、下野小山の長福寺に住し、のち鎌倉東勝寺に住し、さらに浄妙寺に昇住、ま
た建長寺を歴住した。
307 葦航道然、臨済宗大覚派、蘭渓道隆の法嗣。明因寺の開山。建長寺第六世・円覚寺第五世、勅諡大
興禅師。
308 注 5 前掲書 p271 実翁聡秀の条(講談社、一九八三年)を参照。
309『新集』p641 所収。
310 たとえば「祭晦谷和尚文 代小師」(『新集』p602)がある。
311 「奥州凶賊」というのは、おそらく北畠顕家の奥州勢を指しているのだろう。
312 玉懸博之「梅松論の著者と夢窓・親房」p311~316(
『日本中世思想史研究』、ぺりかん社、一九九八
年)を参照。
313 西山美香『武家政権と禅宗』p235(笠間書院、二○○四年)を参照。
314 時代は遡るが、鎌倉時代には親鸞や日蓮が、宗教的権威を至上視する立場から、かりに国王であっ
たとしても、正法を保つ者を弾圧したりした場合は仏の罰を受けて、その位を剥奪されてしまうこ
とになることを主張した。佐藤弘夫『神・仏・王権の中世』p416(法蔵館、一九九八年二月)を参
照。
315 中国では黄河の水は千年に一回清くなる。それは大いなる瑞兆であるとされている。
『左伝』や『拾
遺記』に出典があり、知識人の間で一般的に知られていた。
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漢の武帝が嵩山に登ったとき、山が万歳を叫んだという有名な伝説に基づく。
決まり文句。恐れ多く、非常に不安に思っているという意味。
大森志郎「百王思想」P1~9(『日本文学』21-7)を参照。
室町末期の禅僧桃源瑞仙が著した『史記』の抄物である『史記桃源抄』の「史記源流」の章に「又
妙喜中巌師私撰日本紀、有議論不行、惜哉。」とある。また、江戸時代の学者林羅山も「神武天皇論」
(『羅山林先生文集』二十五論下)で「論曰、東山僧円月、嘗修日本紀、朝議不協而不果、遂火其書」
としている。
『大日本史料』第六編之四十三 p84 に収録。
その最も早い出典はかの有名な『魏志』「倭人伝」と同じく三世紀に成立した頃に成立した『魏略』
である。(
『魏略』は亡びて伝わらないが、多くの書物に引用されている。その一つに、唐代に成立
した『翰苑』という書物の蕃夷部倭国条で引用されている『魏略』の逸文がある)。その後『晋書』
巻九七四夷伝や『梁書』巻五四東夷伝、『北史』巻九四倭伝などの正史にも取り入れられた。また、
宋末金初の歴史家金履祥(一二三二~一三○三)が著した『通鑑前編』吴亡の条にも「日本又云、
吴太伯之后、盖吴亡、其支庶入海為倭」
(日本いう、呉の太伯の後なりと。けだし呉亡んでその支庶
(傍流・後裔)
、海に入って倭となる)見える。上野武「倭人の起源と呉の太伯伝説」p327 以下(森
浩一編『日本の古代1倭人登場』、中央公論社、一九八五年)を参照。
太伯奔呉説は歴史的事実ではなく、呉が強国になってから生まれた伝説であることは、多くの研究
によって明らかにされている。代表的なものを挙げると、内藤湖南「支那上古史」
(
『内藤湖南全集』、
筑摩書房、一九六九年)
、手塚隆義「中国の虞と夷蛮の呉」
(
『史苑』第二二巻第一号、立教大学史学
会、一九六一年)
、白川静『稿本詩経研究』
(立命館大学文学部中国文学研究室、一九六○年)、吉本
道雅『史記を探る─その成り立ちと中国史学の確立─』(東方書店、一九九六年)
、白川静『中国の
神話』(中央公論社、一九七五年)などである。
『日本紀私記零本』に「師説。梁時宝志和尚讖云。東海姫氏国。又本朝僧善択推紀云。東海姫氏国
者。倭国之名也。今案。天照大神者、始祖陰神也。神功皇后者。又女帝也。依此等。称姫氏国。
」と
ある。
『日本書紀私記』丁本 p186(国史大系、吉川弘文館、一九三二年)を参照。
天皇との共通性をアピールすることを通じて、自身の政治的地位の優位性を示すという点は、親房
が藤原氏の身分の保証のために、天皇の神性を強調したのと一脈通じる。
たとえば、
『晋書』巻九七「四夷伝」倭人の章に「戸有七万、男子無大小悉黥面而文身、自謂太伯之
后。」とある。
注 321 前掲論文 p331 を参照。
建武二年後醍醐と対立した尊氏軍は、一旦新田軍を撃破し京都に向かったが、やがて北畠顕家や新
田に破れ、博多まで落ち延びざるを得なかった。その途上で下した重要な決断の一つは、光厳上皇
に院宣の下付を申請し、それを備後の鞆浦で受け取ったことである。これは「今度京都の合戦に御
方毎度打負たる事、全く戦いの咎に非ず、つらつら事の心を案ずるに、只尊氏の軍朝敵たる故也、
されば如何にもして持明院殿の院宣を申賜て、天下を君与君の御争いに成して、合戦を致さばや」
(『太平記』巻一五「薬師丸の事」
)という考えによるものだったとされている。
この一句については、歴史書に長く残される善悪の記述に恐れなければならないと戒めた文章だと
いう理解もあるが、それを取らない。
と同時に、
『日本書』に対する評価が分かれていることも暗示されていると思われる。
その中で有名なものは、今谷明の『室町の王権-足利義満の王権簒奪計画』 (中公新書、一九九○年)
や村井章介『東アジアのなかの日本文化』(放送大学教育振興会、二○○五年)などである。
たとえば、平山朝治は「足利義満は、子息義嗣の登極によって、易姓革命・王権簒奪を狙ったとさ
れてきた。しかし、異姓養子による家長位の継承を正統とするような法理や慣行がすでに確立して
いた当時の人々にとって、義嗣が小松天皇の猶子となって親王扱いされたのだから、それは同一王
朝内での正統な皇位継承手続きであって王朝交代・易姓革命を帰結するような出来事ではなかった
と考えるべき」としている。平山朝治「室町の十字架-足利義嗣と一休宗純」(『公家と武家Ⅲ 王
権と儀礼の比較分明史の考察 武家Ⅱ』p162、思文閣、二○○六年)を参照。
詳しくは第一章第二節で既述。
建仁寺には江戸時代朝鮮通信使の手になる文明軒という額が現在も残っている。
注 7 前掲書 p229 を参照。
注 7 前掲書 p249 を参照。
その内容は次のとおりである。
歳次壬寅秋九月二十八日、蘭洲芳公西堂和尚、以丁弟子前大理判官同弟金吾梭尉小祥之日、且以
其母明網大師卒哭之忌在後二日、同取茲辰、羅列霊供、預先法華経金剛経普門品等、書且印。又
請山僧燒香、供養諸佛菩薩等、以追資三霊冥地之福也。乃拈香説偈云、
元方季方難兄弟、千載垂名在青史。本朝近江源氏子、廷尉校尉事相類。同家同気同一心、同力佐
国同条死。日月蹉跎不可系、貶眼忽値小祥忌。阿母沈痾終不起、卒哭之辰又茲蒞。老大師僧資冥
福、追薦三亡同霊機。或写或印妙蓮華、金剛普門多利済。請我借手爇此香、併為三霊證真際。
(
『新
158
集』p537 収録)。
337 『文明軒雑談』三八五条(
『新集』p468)を参照。
338 秉炬の全文は以下のとおりである。(
『新集』p540)
佐佐木源廷尉徳翁秉炬
以火把打円相、良久云、最勝楽邦好休歇、峭壁成幃浄界結。人生七十八年間、万念千懷付一瞥。
共惟、勝楽寺殿徳翁源公、修身肅忠、立志猛烈。奉君無貳、聽訟直決。於軍太勇健、挙世称豪傑。
屡策第一勳、宜乎高閥閲。家法不必森厳、子弟同遵軌轍。緩急允執厥中、奴隸敬畏忻悦。富寿康
寧天使然、洪範五福非虚設。禅叢見慣善知識、孰若今朝参勝熱。遂擲下火把。
339 天龍寺は、一三三九年、後嵯峨天皇の亀山離宮のあった場所に、足利尊氏が、後醍醐天皇の菩提を
弔うため建立された禅寺。開山は夢窓国師。京都五山でも、寺格「第一位」に位置する。足利尊氏
は、この寺の造営資金獲得のため、幕府公認・貿易船「天龍寺船」を運航させたといわれている。
340 月蓬円見(一二七五~一三七〇)
、宏智派東明の法嗣。寿勝寺、聖福寺、建仁寺を歴住。詳しくは注
5 前掲書 p165 を参照。
341 『太平記』巻四○の記事、
さても中殿の御会と云ふ事は、我が朝不相応の宸宴たるによって、毎度天下に重事起こると、人
皆申し習はせる事なる上、近臣悉く眉を顰め、諫言を上りしかども、つやつや御承引なくて、つ
ひに遂げ行はれにけり。さるに並せて、おなじき三月二八日、戌の剋おびただしく天変西より東
を指して飛び行くと見えしが、次の日二九日、申の剋に、天龍寺新成の大厦、土木の功いまだ終
へざるに、失火忽然と出でて、一時の灰燼と成りにけり、故にこの寺は公家・武家の尊崇他に異
にして、五山第二の招提なれば、聊爾にも攘災集福の懇祈を専らにする大伽藍なるに、時節こそ
あれ、不思議の表示かなと、貴賎唇をぞ翻しける。将軍御参内の事は斟酌あるべき由、再三奏聞
を経られしかども、この寺すでに勅願寺たる上は、尤も天聴を驚かすところなれども、
「かくの如
く災殃によって、期に臨んで宸宴を止めらるる先規なし。早く諸卿参勤せしむべきものなり。武
家何の斟酌じゃあるべき」と、強ひて仰せ下されしかば、この問答に時移りて、御参内も夜深け
過ぐる程になり、御遊も次の日に及びけるとかや。あさましかりし事なりけり。
342 龍湫周沢、甲斐国武田氏の出身。一三五六年甲斐国恵林寺の住持となる。夢窓疎石が没した後は、
兄弟子である春屋妙葩とともに夢窓派の中心的な僧となった。春屋が足利幕府の管領細川頼之と対
立して丹後国に隠遁した後は、夢窓派の中心として活動し、建仁寺・南禅寺・天龍寺・臨川寺の住
持を歴任した。頼之が失脚した後、一時春寧院に隠棲したが、その後南禅寺の住持として復帰して
いる。このように、後年、春屋と対立してしまう経緯もあるが、この時点では、両者は協力して火
事の事後処理に当たっていたと思われる。なお、その詩文集『随得集』に「和中巌悼晦谷二首」
(
『大
日本史料』第六編之四十三永和元年正月八日条に収録)があることから見て、中巌とは詩の唱和な
どの交流があったことが分かる。
343 『宋史』卷一七九、食貨下一会計の項に「(天聖初)時洞真宮、寿寧観相継災、宰相張知白請罷不急
営造、以答天戒 」とある。
344 『続資志通鑑長編』卷一一一仁宗明道元年八月乙丑の条
詔群臣直言闕失。先是、百官晨朝、而宮門不開。輔臣請対、帝御拱宸門、百官拜楼下、宰相呂夷
簡独不拜。帝問其故、曰、宮廷有変、群臣愿一望清光。帝挙簾見之、夷簡乃拜。丁卯、大赦。詔、
営造殿宇、宜約祖宗旧制、更从减省。時宦者置獄治火事、得縫人火斗、已誣服、下開封府、使具
獄。権知府事程琳辨其不然、乃命工図火所経処、且言、后宮人多、所居隘、其鍋竈近板壁、歳久
燥而焚、此殆天災、不可以罪人。
(後略)前半呂夷簡関係の内容は『宋史』呂夷簡伝にも記述があ
るが、程琳の事跡については 長編にのみ記述が確認された。
345 五山版や宋版は現存せず、同時代の記述にもその名は確認されない。
346 四三七条の内容は、『太平御覽』の命名の由来についての有名な話である。その記述は『太平御覽』
の序よりも『続資治通鑑長編』(四庫全書本p314)とほぼ一致する。
347 張知白の進言についても、表現などから見て、『続資治通鑑長編』の影響があると思われる。
348 西山美香の研究によると、天龍寺の創建は鎮護国家の象徴・拠点が東大寺から天龍寺へと移ったこ
とを示し、中世国家の中心点、すなわち「国体」そのものの劇的な変動を象徴しているということ
である。『武家政権と禅宗』p58(笠間書院、二○○四年)を参照。
349 田中博美「武家外交の成立と五山禅僧の役割」
、
『日本前近代の国家と対外関係』p45~51(田中健夫
編、吉川弘文館、一九八七年)を参照。
350 後年一三七四年鎌倉で円覚寺が火事に遭った際、義堂はこの貞治六年(一三六七)の天龍寺復興の
前例を出し、幕府に再建を助けるよう願い出たことからみて、火事の後すぐに復興するかどうかは
そのときだけではなく、その後の類似事件を処理する際の参考にもなった。このような点からも、
夢窓派としては再興をしたかっただろう。
351 『左伝』昭公二十九年
秋、龍見于絳郊。魏献子問于蔡墨曰、「吾聞之、虫莫知于龍、以其不生得也。謂之知、信乎」
。対
曰、
「人実不知、非龍実知。古者蓄龍、故国有豢龍氏、有御龍氏」。献子曰、
「是二氏者、吾亦聞之、
159
而不知其故。是可謂也」。対曰、「昔有
、有裔子曰董父、実甚好龍、能求其耆欲以飲食之、
飑叔安
龍多帰之、乃擾畜龍、以事帝舜。帝賜之姓曰董、氏曰豢龍、封諸鬷川、鬷夷氏其后也。故帝舜氏
世有畜龍。及有夏孔甲、擾于有帝。帝賜之乘龍、河漢各二、各有雌雄。孔甲不能食、而未獲豢龍
氏。有陶唐氏既衰、其后有刘累学擾龍于豢龍氏、以事孔甲、能飲食之。夏后嘉之、賜氏曰御龍、
以更豕韋之后。龍一雌死、潜醢以食夏后。夏后飧之、既而使求之、惧而遷于魯県、范氏其后也。
」
『史記』巻二夏本紀
帝孔甲立、好方鬼神、事淫乱。夏后氏德衰、諸侯畔之。天降龍二、有雌雄、孔甲不能食、未得豢
龍氏。陶唐既衰、其后有劉累、学擾龍于豢龍氏、以事孔甲。孔甲賜之姓曰御龍氏、受豕韋之后。
龍一雌死、以食夏后。夏后使求、惧而遷去。
352 注 7 前掲書 p255 を参照。
353 良基が仏法を喜ばなかったことについては、岩下紀之「二条良基の漢学の素養-「筑波問答」の引
用文をめぐって」p16(『国語国文』一九、愛知淑徳大学、一九九六年)を参照。
354『朱熹集注』梁惠王下の章に、「言晏子能畜止其君之欲、宜為君之所尤、然其心則何過哉。」とある。
なお、
『周易玩辞』p493(叢書集成続編一影印本、上海書店出版社、一九九四年)小畜卦「彖」の
条に「陰陽之理、畜極則亨通、畜之小者、雖未遽亨、及其成也、終有亨理、以六爻言之、一柔得位
五陽応之、能係其情、未能全制之也、故為小畜、以二卦言之、健而能巽、不激不亢、其勢必通、二
五皆剛中、同心同徳、其志必行、故有亨理、凡陰閉之極、則陽気蒸而成雨、密雲不雨者、陰方上往
未至於極耳、自我西郊者、方起於此、未至於彼也、此皆言所畜之小、然謂之尚往則非不往、謂之未
行、則非不行、亨固在其中矣、此於人事為以臣畜君、終当感悟之象。」とあることから見て、同文は
全体的に『周易玩辞』の影響下書かれたことが分かる。
355 注 295 前掲書 p61 を参照。
356 南禅寺と園城寺の衝突は一三六七年(貞治六年)六月からすでに起きている。園城寺僧徒、南禅寺
の関所を二箇所破り、禅僧を殺害したため、南禅寺はこれを幕府に訴えた。幕府は処置として園城
寺の領する四宮河原、松坂嶺、関山の三関を焼いた。その後延暦寺・園城寺、南禅寺との確執を興
福寺に牒し、訴状を北朝に奉ったが、八月八日には朝廷はそれを和解せしめた。
357 定山祖禅(?~一三七四)、臨済宗聖一派。入院の年代を詳らかにしないが、東福寺、南禅寺に住し
たことがある。
358 龍の出現というと、想起されるのは天龍寺の創建時に、やはり龍が出ていたことである。同じく龍
の出現ということから、中巌は龍を禅宗と結び付けたのかもしれない。
359 『周易玩辞』P469(叢書集成続編一影印本)を参照。
360 虞集については、中巌が『参釈』
「題程仲華西行集」の釈の部分(巻一第十六葉表余白部分)で「賢守
令者、未知為誰、旦恐趙子昂、虞伯生之輩、時或在蜀之官。当後考之、可補焉。
」と触れている。さら
に、
「送輝東陽往江西省佛智師」の「十五…」についての注釈(同巻一第十六葉表余白部分)で「虞伯
生撰『行道記』
、穎悟過常児、親□□出遊、至佛寺、必□拜、恋慕不能去、父母知其志、従伯氏為僧。
」
とある。中巌の師である東陽のために伝記を書いていることからみれば、虞集は大慧派と近い関係に
あることが分かる。
361 中巌は朱子の易書をも読んでいるが、自らの文章の中では、決してそれに同調せず、逆に「辨朱文
公易伝重剛之説」を製し、その説を批判しているのである。
362 頼貴三『項安世周易玩辞研究』第六章「釈『易』之方法」
(p229 以下)及び第八章「結論」
(p410 以
下)(国立台湾師範大学国文研究所碩士論文自印本、一九九○年)を参照。
363 中巌の学問の特徴は博学さにあることは『中世禅林の学問及び文学』p426(注 23 前掲)を参照。な
お、氏の指摘によると、この百科全書的ともいえる傾向は、中巌のみならず室町期禅僧社会の学問
全体に見られるものである。さらに、当時の公家社会の学者や、
『太平記』などの歴史文学や実録物
にも共通するもので、当時の時代精神とも言うことができる。
364 中巌と義堂のほかに、良基は入元僧友山士偲(一三〇一~一三七〇)とも交遊があった。『友山録』
に「和二条殿下(良基)春遊韻」
(
『五山文学新集』第二巻 p152)という詩が見える。
365 注 295 前掲書 p57 を参照。
366 注 353 前掲論文 p21 を参照。
367 『中正子』「性情篇」
(
『新集』p423)に「孟子以善為性、非也、荀子以悪為性、非也、楊子以善悪
混為性、亦非也」とある。
368 時代は下るが、公家の儒学学習において禅僧が役割を果たした例として、韓愈らの議論を起爆剤と
する性情論が、禅僧の間で学ばれ、一条兼良さらに清原家の経学へと継承されていったことがある。
住吉朋彦「
『四書童子訓』の経学とその淵源」(
『中世文学』三九、一九九四年六月)を参照。
369 注 260 前掲書 p191 を参照。
160
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于谷『禅宗語言和文献』
、江西人民出版社、一九九五年九月
魏道儒『宋代禅宗文化』
、中州古籍出版社、一九九三年九月
厳紹棠『日本藏宋人文集善本
』、杭州大学出版社、一九九六
钩沉
高令印『中国禅宗史』
、宗教文化出版社、二〇〇四年七月
呉言生
①『禅宗思想淵源』中華書局二〇〇一年六月
164
②『禅宗詩歌境界』中華書局二〇〇一年六月
③『禅宗哲学象徴』中華書局二〇〇一年六月
朱伯崑『易学哲学史』
、解放軍文芸出版社、二〇〇五年四月
周双利『薩都剌』
、中華書局、一九九三年十二月
周裕楷
①『宋代詩学通論』、巴蜀書社、一九九七
②『禅宗語言』、浙江人民出版社、一九九九年十二月
③『中国禅宗與詩歌』
、上海人民出版社、一九九二年七月
孫昌武『禅思與詩情』
、中華書局、一九九七年八月
張中行『禅外説禅』、中華書局、二〇〇六年三月
鄭梁生『元明時代東傳日本的文献-以日本禅宗僧为中心』
、文史哲出版社、一九八四
楊澤波
① 『孟子評伝』
、南京大学出版社、一九九八
②『孟子與中国文化』
、貴州人民出版社、二〇〇〇
頼貴三『項安世周易玩辞研究』、国立台湾師範大学国文研究所碩士論文、一九九〇
劉真伦『韓愈集宋元伝本研究』、中国社会科学出版社、二〇〇四
劉澤華『中国的王権主義』、上海人民出版社、二〇〇〇年一〇月
論文
赤松俊秀「建治から応永まで―夢窓疎石と足利義満の時代」、
『禅文化』十二・十三号
朝倉尚
①「湯山聯句(鈔)の典拠詩―杜甫・蘇軾・黄庭堅の場合)、
『和漢比較文学叢書第五巻中世文学と漢
文学I』、汲古書院、一九八七年七月
②「義堂周信『空華集』の基礎的研究 :部類構成と作品配列を指標として」
、日本研究一八、広島大
学、二〇〇五年三月
安藤嘉則「中世林下の公案禅の一考察」
、
『駒沢大学禅研究所年報』九、一九九八年三月
飯塚大展「静居寺所蔵『五燈会元畧鈔』について-『五燈会元鈔』に関する覚え書き」
、
『禅学研究の諸
相—田中良昭博士古稀記念論集』、大東出版社、二〇〇三年三月
石井修道
①「大慧宗杲とその弟子たち(一)『五灯会元』の成立過程と関連して」
、
『印度学仏教学研究』三六(一八
-二)、一九七〇年三月
② 「大慧宗杲の看話禅と「磨
作鏡」の話」
、駒澤大学禅研究所年報第九号、一九九八年三月
③ 「宋代禅宗史の特色-宋代の燈史の系譜を手がかりとして-」、『東洋文化』八三、特集中国の禅、二
〇〇三年三月
④ 「中国禅宗史の研究動向」、『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』第十三号、一九七九年七月
⑤ 「大慧語録の基礎的研究」、
『駒沢大学仏教学部紀要』、一九四八年三月~一九五〇年三月
石川力山
① 「中世五山禅林の学芸について-『元亨釈書微考』の引用典籍をめぐって」、
『駒沢大学仏教学部論集』
七川田熊太郎教授退記念号、一九七〇年一〇月
②「『元亨釈書』考」、
『仏教学研究会年報』七、一九七三
岩下紀之「二条良基の漢学の素養ー「筑波問答」の引用文をめぐって」
、愛知淑徳大学『国語国文』
、一
九九六
植松忠博「士農工商論における中日比較」
、『国民経済雑誌』第一七三巻第四号、一九九六年四月
宇津純「京都円光寺旧蔵
閑室元佶手澤本目録」
、『参考書誌研究』第三十号、日本図書館協会
165
王端来「宋代士大夫の精神世界の一側面」
、『東洋学報』八二、
大隅和雄
①「『元亨釈書』の仏法観」
、
『金沢文庫研究』二七一
②「『太平記』における中国人名の分布」
、
『日本文学』三一-一○
太田亨「日本禅林における杜詩受容-禅林初期における杜甫評価」
、『中国中世文学研究』三九、二〇〇
一年一月
大森志郎「百王思想」
、日本文学二一-七、一九七二
緒方香州「禅宗史籍の註釈について
五灯会元抄を中心として」、
『禅学研究』五九号、一九七八
蔭木英雄「五山文学の和様化-高峰顕日・規庵祖圓・夢窓疎石について」、関西大学国文学会編『国文学』
四八、一九七三
加瀬達男「
『漢書』楊雄伝所収楊雄自序をめぐって」、学林二八・二九、一九九八年三月
上垣外憲一「寂室元光――孤高の入元僧」、平川祐弘編『叢書比較文学比較文化二
異文化を生きた人々』、
中央公論社、一九九三
川瀬一馬
① 増補新訂足利学校の研究』、一九七四
② 『円光寺蔵伏見版木活字関係歴史資料調査報告書』、京都府教育委員会、一九九一
久須本文雄
③ 五山制度史攷」『禅文化研究所紀要』七、一九七五年九月
④ 「中巖円月の中国文学的背景」、『禅学研究』五七号、一九六八
② 「中巌圓月の儒学思想」
、『禅文化研究所紀要』五、禅文化研究所、一九七三
③ 「虎関師錬の儒道観」
、
『禅文化研究所紀要』一一、禅文化研究所、一九七九
④ 「虎関師錬の中国文学観」、
『禅文化研究所紀要』一二、禅文化研究所、一九八〇
高文漢「五山文筆僧中巌圓月の世界」、
『日本研究』一九九八年九月号、国際日本文化研究センター
小林茂「士農工商の源流」、
『大阪阪大論集』第四二巻第六号、一九九二年四月
小峯和明「『野馬台詩』注釈・拾穂」
、『日本文学』五四、二〇〇五
阪田雄一「南北朝前期における上杉氏の動向-上杉朝定・憲顕・重能を中心に-」
、
『國史学』一六四号、
一九九八年二月
桜井好朗「乱世における隠者的思惟の展開」、
『日本文学』一二、日本文学協会
佐藤勢紀子「
『増鏡』の皇位継承観-三種の神器をめぐって」
、
『国家と宗教−日本思想史論集』、源了円・
玉懸博之編、思文閣出版、一九九二
佐藤達玄「勅修百丈清規にみる元代の叢林機構と性格」
、『仏教史学研究』、二六-一、一九八三年一一月
佐藤秀孝「
『五灯会元』編集の一疑点」、『印度学仏教学研究』五八(二九-二)、日本印度学仏教学会、一
九八一年三月
ささきともこ
① 「鎌倉在住時代の義堂周信」、『日本文学』第三二九号、一九八〇
② 「中岩円月ー行動・思想の変化と詩の展開、私詩から偈頌へ」
、『日本文学』三三九号、一九八一
③「虎関師錬の詩的基盤」、
『日本文学』
、一九七九年七月号
椎名宏雄
①「宋元版禅籍研究(7)──北礀語録・外集・文集・詩集・全集」、
『印度學仏教學研究』〈日本印度
学仏教学会〉33-1、一九八四
③ 「宋元版禅籍と五山版」
『宗学研究』二六、駒沢大学曹洞宗宗学研究所、一九八四
周清樹「日本所蔵元人文集珍本」、『東洋文庫書報』二三、一九九一
【弓巾】和順「揚雄「法言」における人物評論」、中國古典研究三八、三一~四四頁、一九九三年一二月
菅原昭英「江南における四川僧と日本僧の出会い」、『宗学研究』四〇号、一九九八年三月
166
住吉朋彦「
『四書童子訓』の経学とその淵源」
、
『中世文学』三九、一九九四年六月
孫容成
① 「金華智者寺における圓月の文学交流」
、
『比較文学』第四二号、一九九九
② 「挿注参釈廣智禅師蒲室集引用漢籍及び漢詩について」、
『禅学研究』第七十九号、二〇〇〇年一二月
③ 「中巖円月の楊雄観」、『日本・中国交流の諸相』、早稲田大学古代文学比較文学研究所、勉誠出版、
二〇〇六年三月
④ 「中巖円月の儒学的政治思想についての一考察-『中正子』経権篇を読む」、
『日本学論叢』、二〇〇
八年十二月
高木豊「鎌倉仏教における国王のイメージ−日蓮を中心に」、家永三郎教授東京教育大学退官記念論集、
「古代・中世の社会と思想」
、三省堂、一九七九
高橋公明「室町幕府の外交姿勢」
、
『歴史学研究』五四六号、一九八五
高橋章則「蘐園古文辞学と楊雄-熊阪大州大田南畝を端緒として」
、『文芸研究』一四一、一九九六
高橋秀英「鎌倉時代の僧侶と『首楞厳経』
」
、
『駒澤大学禅研究所年報第 7 号特集・道元入宋時代の宗教と
社会と文化(2)』、駒澤大学禅研究所、一九九六年三月、
武内義雄「日本における老荘学」
、
『武内義雄全集』巻六、諸子篇一、角川書店、一九七八
多田伊織「楊雄論」、日本研究一一、一九九四年九月
田中浩司「寺社と初期室町政権の関係について―祈祷(命令)を中心に
北朝との関連を視野にいれつ
つ」、
『中近世の宗教と国家』、岩田書院、一九九八年六月
玉村竹二「五山叢林の十方住持制度について」『日本仏教史学』二~一、一九四二年
千坂げん峰「中巖圓月における「時」の意識」
、
『聖和』第二九号、聖和学園短期大学、一九九二年三月
手塚隆義「中国の虞と夷蛮の呉」
、
『史苑』第二十二巻第一号、立教大学史学会、一九六一
土岐善麿「中岩円月の二首―「杜甫周辺記」のうち」、
『禅文化』三十九号、禅文化研究所
内藤湖南「支那上古史」
、『内藤湖南全集』十巻、筑摩書房、一九六九
中砂明徳「士大夫のノルマの形成-南宋時代」
、東洋史研究五四(三)
、一九九五年一二月
永井政之「元明代の禅宗史の研究状況と問題」
、
『駒沢大学仏教学部論集』二〇、一九八八年一〇月
名波弘彰「夢窓疎石の偈頌と思想」、『日本文学』二八一六、一九七九年七月
西順蔵「天下・国・家の思想」、大倉山論集 2、大倉山文化科学研究所、一九五三年一〇月
野口善敬「元代禅門の苦悩-笑隠大訢の行状をめぐって-」
、『九州中国学会報』二三、一九八一年五月
長谷川昌弘「応庵曇華の思想」
、『印度学仏教学研究』七五(三八~一)、一九八九年一二月
原田正俊「五山禅林の仏事法会と中世社会―鎮魂・施餓鬼・祈祷を中心に」
、『襌學研究』第七七号、一
九九九年三月
樋口大祐「
「神国」の破砕-太平記における「神国/異国」」
、
『日本文学』二〇〇一年VOL五〇
深津睦夫「花園院の和歌観再考—宋学の影響の可能性をめぐって」、『皇学館論叢』二二(四)、一九八九
年八月
前田雅之「和漢と三国」-古代・中世における世界像と日本、『日本文学』五二、二〇〇三
松尾剛次「室町幕府の禅律対策―禅律方の考察を中心にして」、日本古文書学会編『日本古文書学論集七、
中世三南北朝時代の武家文書』、吉川弘文館、一九八六
吉本道雅「秦趙始祖伝説考」
、
『立命館東洋史学』二十一巻、一九九八
中国語
魏鵬挙「疎離体制化的書写」
、北京師範大学博士学位論文
清水茂「日本古代文学上的韓愈」
、
『韓愈研究論文集』一九八八、広東人民出版社
石暁寧「楊雄的明哲保身思想・文学創作和文論中的若干問題」、復旦大学博士学位論文
鄭梁生『元明時代東傳日本的文献-以日本禅宗僧為中心』
、文史哲出版社、一九八四
鄧紹基「元代僧詩現象評議」
、
『中国社会科学院研究生院学報』、二〇〇五年三期
167
郜林濤「五燈会元中以詩証禅挙隅」
、
『仏経文学研究論集』、陳允吉・胡中行・荒見泰史編、復旦大学出版
社、二〇〇四年一二月
馮国棟「五燈会元版本與流伝」
、『仏教研究』二〇〇四年第四期
劉保貞「楊雄研究」、山東大学博士学位論文
史料:
東京大学史料編纂所編『大日本史料第六編』、東京大学出版会
玉村竹二編『五山文学新集』巻一~別巻二、東京大学出版会、一九六七-一九八一
上村観光編・玉村竹二解説『五山文学全集』全五巻、覆刻版、思文閣、一九九二
中巌の作品:
『中巌円月集』、『五山文学新集』巻四
『東海一おう集』
、『五山文学全集』巻二
『蒲室文集烏焉集』、龍谷大学蔵
『挿注参釈広智禅師蒲室集』
、足利学校史跡図書館蔵
夢窓の作品:
禅文化研究所編『夢窓国師語録』
、一九八八
佐々木容道『訓註 夢窓国師語録』二〇〇〇年一一月
柳田聖山『日本禅語録七夢窓』、講談社、一九八一
夢窓國師語録、五山版、京都大学付属図書館蔵
川瀬一馬訳『夢中問答集』、講談社、二〇〇〇年八月
大慧の作品:
荒木見悟訳注『大慧書』
、筑摩書房、一九六九
石井修道訳『大慧普覚禅師法語』
、中央公論社、大乗仏典一二禅語録、
宋薀聞他編『大慧禅師語録』
、『大正大蔵経』四七
(宋)道謙『大慧普覚禅師宗門武庫』、『大正大蔵経』四七
『正法眼蔵』(宋)大慧、卍続蔵経一一八
その他の禅僧や禅宗関係の作品:
普済『五燈会元』
(全三巻)
、中華書局、一九八四年一〇月
文琇『增集続伝灯録』、『卍新纂
』NO. 一五七四
续藏经
赜藏主編『古尊宿語録』、中華書局、一九九六
虛堂智愚『虛堂和尚語録』、『大正新脩大藏經』四七
虎丘紹隆『圓悟克勤禪師語録』、『大正新脩大藏經』四七
『碧巌録』上中下、入矢義高(末木文美士他共訳)、岩波文庫、一九九二
荒木見悟訳注『中国撰述経典二
楞厳経』筑摩書房、一九八六
柳田聖山訳注『中国撰述経典一
圓覚経』
、筑摩書房、一九八七
宗賾『禅苑清規』
、中州古籍出版社中国禅宗典籍叢刊、二〇〇一年一〇月
念常『佛祖歴代通載』、『大正新脩大藏經』四九
笑隠大訢『蒲室集』、中文出版社、一九八五年一二月
笑隠大訢『笑隠大欣禅師語録』、『卍新纂続藏経』NO.一三六七
敬叟居簡『北礀詩集』九卷 、宋、中国国家図書館マイクロフィルム
月林道皎『大梅山月林和尚拈古洎頌古』、貞治二年刊本、建仁寺両足院所蔵、慶應義塾大学附属研究所斯
道文庫マイクロフイルム
虎関師錬:
『海蔵和尚紀年録』群書解題四−下(伝部二)
、続群書類従完成会編/塙保己一編
168
『済北集』
、『五山文学全集』巻一
竺仙梵僊『来来禅子集』
、『大日本仏教全書』、仏書刊行会、一九一七年八月
此山妙在『若木集』、『五山文学全集』巻二
春屋妙葩『智覚普明国师語録』、『大正新修大蔵経』八〇
義堂周信:
『空華集』
、
『五山文学全集』巻二
『空華日用工夫略集』、『改訂史籍集覧』
雪村友梅『雪村友梅集』、『五山文学新集』巻三
桃源瑞仙『史記抄』、京都大学図書館
東明慧日『東明和尚語録』、『五山文学全集』別巻二
明極楚俊『明極楚俊遺稿』、『夢窓明極唱和篇』、
『五山文学全集』巻三
友山士偲『友山士偲集』
、『五山文学新集』巻二
龍秋周澤『隨得集』
、『五山文学全集』巻二
瑞谿周鳳『臥雲日件録抜尤』、『大日本古記録』
師蛮『延宝伝灯録』、『大日本仏教全書』第一〇九巻
その他
『太平記』
① 長谷川端校注・訳『太平記』一~四(新編日本古典文学全集五四~五七)、小学館、一九九四
② 後藤丹治・岡見正雄校注『太平記』一~三(日本古典文学大系)
、岩波書店、一九六〇年一月~一九
六二年一〇月)
『梅松論』、『群書類従』巻第三百七十一
花園天皇『和訳花園天皇宸記』、続群書類従完成会、一九九九年一月~二〇〇三年五月
吉川幸次郎訳注『論語』上下、朝日新聞社、一九六五~一九六六年
金谷治訳注『孟子』朝日新聞社、一九六六
本田済『易』
、朝日新聞社、一九九七年二月
項安世『周易玩辞』、叢書集成続編一(影印本)
、上海書店出版社、一九九四
趙采『周易程朱伝義折衷』上海商務印書館、文淵閣本四庫全書影印、一九三四~一九三五
顧頡剛、劉起釪『尚書校釈訳論全四冊』
、中華書局、二〇〇五
李焘『続資志通鑑長編』、中華書局、二〇〇四
司馬遷『史記』、中華書局、一九五九
班固『漢書』、中華書局、一九六二
陆德明『老子音義 莊子音義経典釈文』、中華書局、一九八三
陳鼓応注訳『荘子今注今訳』
、中華書局、一九八三
黄華珍
日藏宋本莊子音義』、 上海古籍出版社、一九九六年九月
编『
杜預注、孔穎達疏『春秋左傳集解』
、上海人民出版社、一九七七
楊伯峻『春秋左傳注』
、中華書局、一九八一
沈玉成『左傳譯文』、中華書局、一九八一
顧廣圻校『韋昭注國語二十一卷』四部叢刊影印本、上海古籍出版社、一九七八
孫希旦『禮記集解』、中華書局、一九八九
王文錦『禮記訳解』、中華書局、二〇〇一
楊伯峻訳注『孟子訳注』
、中華書局、一九六〇
楊澤波『孟子性善論研究』、中国社會科学出版社、一九九五
嚴粲『詩緝』、四庫全書本
169
朱熹『詩集傳』、上海古籍、一九八〇
李守奎・洪玉琴『楊子法言訳注』、黑龍江人民出版社、二〇〇三
周振甫『詩経訳注』、江蘇教育出版社、一九八四
楊雄『法言』
、上海古籍出版社(続四庫全書)
、二〇〇二
房玄齢『晋書』、中華書局、一九七四
姚思廉『梁書』、中華書局、一九七三
李延寿『北史』、中華書局、一九七四
欧阳修・宋祁『新唐書』
、中華書局、一九七五
劉煦『舊唐書』、中華書局、一九七五
斉治平校注『拾遺記』
、中華書局、一九八一
班固『漢書』
、中華書局、一九六二
王先謙『後漢書集解』
、 商務印書館、一九五九
王先謙『漢書補注』、商務印書館、一九五九
楊樹達『漢書管窺』、科学出版社、一九五五
陳寿『三国志・魏志』
、中華書局、一九八一
司馬遷『史記』、中華書局、一九五九
李昉『太平御覽』
、中華書局、一九六〇(影印本)
李燾『続資志通鑒長編』
、中華書局、二〇〇四
脱脱『宋史』、中華書局、一九七七
宋濂『元史』
、中華書局、一九七六
陳鼓応『老子注訳及評介』、中華書局、一九八四
陳鼓応注訳『莊子今注今訳』
、中華書局、一九八三
陳鼓応『荘子今注今訳』
、台湾商務印書館、一九七四
荘子『莊子音義』弘文堂書房、一九二九
李善注『文選』、中華書局一九七七
呉文治『韓愈資料彙編』
、中華書局、一九八三
韓愈『韓昌黎文集校注』
、上海古籍出版社、一九八六
郭紹虞『滄浪詩話校釈』
、人民文学出版社、一九六一
孟元老『東京梦華録注』、中華書局、一九八二
王應麟『困學紀聞』、商務印書館、二〇〇五(四庫全書)
黄溍『金華黄先生文集』、商務印書館、一九三二(四部叢刊)
呉景奎『薬房樵唱』、胡宗楙編『続金華叢書』
、一九二四
景南葉顒『樵雲獨唱詩集』、胡宗楙編『続金華叢書』、一九二四
170
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