産口 - 宗教法学会

法と宗教の起源についてーイェーすングによる三つの槍争{山口}
〈山
名
産
口
警
趣2
き
彦
大
法と宗教の起源について
ーイェ!ワングによる一一一つの論争
はとめに
め
論争との係わりにおいて近代詩本法学のなかでなされた法と宗教の起源に関する潔裁について報告することを目的
-99-
イェ!リングと近代昌本法学
法と宗教の起壌をめぐるイェ:リングの三つの論争
第一の論争をめぐって
乙
本稿は、法と宗教の起源に関してイェ lリングがおこなった数次に亘る論争について要約して報告し、これらの
i
ま
法と宗教の起灘をめぐる近代日本の法理論
第一二の論争会めぐって
第二の論争をめぐって
3 2 l
翻
とする。尚、本報告は、 一九九三年十 月一一十七百出鴬谷大学深背中校舎で開催された宗教法学会において﹁法と京
ログラムで行ったものである。
イェ lリングと近代日本法学!加藤弘之、馬場震務、西国湖、森鴎外、山県有閥、磯部間部、井上哲次館、金
mm叩喜仲
民話
∞叫悶)と鵠争の社会理論史
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防相昂吋
遺品﹀とクーランジェ批判および源郷問題
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H と と プ レ ン タ 1ノによる批判
gvcmm母mMNSFZ偽叩内需主時的 (混
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イェ iHソングと社会ダーウィニズム、キリスト教、ナチズム
︿ CH
想的げなげな仏
ロ待問箆
法と宗教の超源をめぐるイェ iリングの一一一つの論争
子堅太郎、一一一好選滋、明治天昼、仁保亀松、宇都宮五郎、鬼烏惟議、吉井政準、穂積練重、叙勲文書
1
2
(
3
) (
2
) (
1
)
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の
4
穂積煉重{祭龍と法律}︿∞
穂積糠震{祭龍と政治法律との関係}(づ∞トゆ)に見る祖先祭持の法理論
穂積入来︻希蝋及提馬ノ・古典ニ顕ハルル範先山周期拝ノ事跡}︿玄・念日・8
) に見る・古代法論
穂積入来{民法出テ¥忠孝滅フ}(宮白∞ふ)に見る祖先崇拝の法理論
大藤抵{姐先教は能く世教の基礎たるべきか}(宗い 0・mw六合雑誌)に見る穂積八束批判
規範の発生をめぐる日本の論争
-M)に見る祖先崇拝の法理論
Hhuv
穂積入東門家制及団体}(忍・器不)に見る畑出体論
法と宗教の起源をめぐる近代日本の法理論
4 3
5
-100-
教の起源﹂と題するパンフレットと同大五号館視聴党教室に設寵された最新の OHP装置を併用して大絡下記のプ
家教法第 1
3
号(19
9
4
)
大盟視{良心起源論︼(翠
﹀に見る規範発生の理論
EMMW
“
。 関民選舘論争!井上哲次掛から和辻哲郎へ
イデオロギーとしての祖先祭持論の終鴬
宗教起譲論から見た担先鏡葬論
イェ Iリングと近代日本法学
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g 宮崎付師砕いOロ10出戸
一
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明治期から今日に至るま明、ィェ iリングほど長裁にわたってわが罷の法学に影響を継続的に与え続けた西欧の法
まず明治十五年に天賦人権説から社会ダiウイニズムへと転向した加藤弘之は、転向後の著作マある﹁人権新鋭﹂
l)
のなかで問著の罵蝶に掲げた(富山湾の接気楼のうらに天賦人権の鴎つの文字に浮ぷ)口絵の一不すように、﹁優勝
︿
劣敗是天理失﹂との暴本思想にもとづいて﹁伊挨林﹂︿イぷ iリング)の﹃権利翻争論﹄を擾尽している。さらに、
十年の歳月を費やした加藤の著作﹁強者の権樹の競争﹄の加藤自身によるドイツ語版 AVR 烈努与問富岡〆出足宮
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a詰 宮 崎
C円
tp のドイツ語訳沢酔51dg略的む章。尽に由来す
円四居間皆寄 WS33 は、イェ!リングの主著湿り待相内知B1HH玖的見出口町広諺を直接的に想起させる。他方においてこの
︿
2)
イェ lけソングの著者は、ダlウインの生存競争
ると指摘されている。
加藤吋人権新鋭﹄出版と同年の明治十五年に、西題はイェ iリングの調書の翻訳に従事して訳稿﹁学士僅令氏権
-101-
8 7 6
学者は他にいないと思われる。
法と宗孝交のま霊源についてーイエ}リングによる三つの鎗争 (
U
J臼)
利争闘争﹂を作成し中断した。西のこの訳績は従来、日沖憲郎、大久穣利謙、リチャ iド -H・マイニアらによっ
(
3
)
て八未刊行﹀とされてきたが、イェ lリングが罪著の序文で八東京・西の臼本能﹀と指摘したとおり、間間年後の間約
治十九年に学術雑誌に四回にわけで速報されたことが平成六年になって判明した。
(4
﹀
現法寮からフランスに留学した磯部四郎は明治十九年に﹃ローマ法の精神﹄をフランス語訳から十八分冊に邦訳
時行し、明治一一十五年には明治天皇一がイェ lリングを八勲一一等地日重光章﹀に叙するなどの事実があった。井上
(5
﹀
哲次部、金子悪太郎、一一一好退蔵らはイェ lリングと薮接に数次に直って会見した。後年には末附の民法学、牧野の
刑法学に対して強い影響力・をイェ!リングが及ぼしたことは周知であり、宮崎(遊)、前田(孝)などイぷ!リング
のもとに留学する括本の解釈法学者もあった。これらのなかで本稿のテーマとの関連において重一読されるのは、穂
積嫌章、八束兄弟による祖先袋持論である。︿後述)
日本におけるイェ iリングの影響は法律学にのみ限定される訳ではない。側、えば、皐一議哲学の唱護者であった住
一に吋法
藤清勝、西国学課に議した哲学者、山内得立の所有論、穂積の著作や井上折一 の訳業を通じた文化人類学における
援先山然拝論への影響など今後に検討されるべき課題は多い。
八九四年﹀である。
に吋権利能争論同(一八七一一年﹀、
法と宗教の起源・をめぐるイェ iリングの一ニつの論争
の論争をめぐって
感情発生論い︿一八八四年)、第三に吋インド・ヨーロッパ人前史﹂︿
法と宗教の起源をめぐってイェ 1リングが著した一一一つの書は、第
第
-102-
宗教法第 1
3
号(1
9
9
4
)
第一の書吋権利翻争論いは、
考察﹂(肘g
ωgnw
一八七二年にイ子!リングがウィーン大学からグッチングン大学に転授するに際し
て ウ ィ ー ン 法 律 家 協 会 で 行 っ た 訣 別 講 演 で あ っ て 、 も と も と の 演 題 は ﹁法心理学の
33ぎ Homぽ mM2MN8}呉服)であった。とくに有名な本容の冒頭部分は、五駿以降に書券改められた・ものであり、本
来はやや哲学的な叙述をもって始まっていた。 一九九ニ年にイェ;リング死後一段年を記念してニ婦の﹁権利髄争論い
(7
が覆刻されたが、かつて東ドイツ法学界をリードしていたヘルマン・クレンナi編集の﹁権利闘争十肥 は 初 版 の 積
﹀
刻であり、これに対してウィi ン大学のフザムリクス・エルマコ?ラは十八版を覆刻している。
﹀
﹀
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)
八七六年﹀、
i イェ iリング﹁権利勝争論﹂とシェ i
-103-
一八七二年に吋権利闘争議﹂が新憶の速記録から稿を起して出臆されると、次々にイェ 1リング批判が操関され
(8
た α シユミ!ドル吋ユダヤ教および麗始キリスト教に対する関係における権利罰争の理論﹂( 八 七 五 年 て フ ェ
リックス・ポアス吋権利闘争は義務的命令か、ルドルフ・フォン・イエ}リング教援への解答と反論﹂︿
︿
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方欝からイェ iリング批判が成されていった。
イェ lリング﹁権利醸争論﹂はその扉に﹁闘争のなかに汝は汝の権利を見い出すべし﹂とのモットーを掲げ、
ちの版で設作された本文冒頭部分もまた権利闘争に係る。このことが多くの賛否両論をよぴ起こすものとなった。
の
コ1ラ!の﹃法律学から見たシェークスピアい︿一八八三年)など、宗教学、法哲学、実定法学、文学といった多
(日)
争い(一一巻本、一八八一一年﹀、イぷ iリングによって教職に就きながらイェーリングと不仲であった多才なヨゼフ・
(刊同)
tN ・ヱミiル・フランツォス﹃権利のための或る闘
ング﹁権利調争議﹂からとった一一つの長い引用文そ掲げるカi
クスピア﹁ペニスの薦人いに関するひとつの研究の試み﹄︿一八八一年}、長篇小説でありながら冒頗にイェ 1 リ
(一八七九年)、地方裁判所所長A-ピッチャ!の携演記綴﹃法律家と詩人
{
ロ
)
法学者であると司時に文学者、詩人守もあった友人フエリックス・ダl ンの司法における理性ii法哲学の報基礎﹂
言語と宗教の起源についてーイェーリングによる三つの紛争(山口}
十九世紀後半のヨーロッパの近代的人間像にとって近代を実現する種々の人間行動は湾時に種々の側面における前
近代的なるものに対する破壊と翻争を不可避にせまるものであった。それはまた詞時に近代の生み出した相互に対
立する諸要素問のうちなる闘争をはらむものであった。﹁諸罰民の踏争、国家権力の劉争、諸身分の闘争、諸偶人
の蹄争﹂(イェ iリング)が政治調争、経済闘争、宗教臨争、文北翻争、軍事翻争、心理翻争などの様々の欝争と
してなされていった。
近代の多くの社会理識が︿爵争﹀をテi マにした理由もこの点に係る。たとえ司、ヘ 1ゲルは生と死をめぐる精
神の諸現象を精神の自己実現の闘争と見てとったし、マルクスは階級爵争を、ダlウインは生存競争令重視した。
社会ダーウィニズムにおいては、グンプロヴィツにみられるように人種髄争が集問問の闘争として説かれたし、カー
ル・シュミットは生死をめぐる自己と他者との額争としてかの敵i味方理論安説いたのであった。ゲオルグ・ジン
メルが大著﹃社会学﹄の一家を関争に割いたのも、ぞれが近代社会の重要なひとつの形式であるとの認識にもとず
いているからであるし、コーザi、ダi レンドルフによる蹄争の社会学的分析とか、パ i ソンズやルi マンといっ
た現弐の社会理論家たちの闘争をめぐる社会理論もまた向様の文採において考えることができるであろう。
社会騎争、イデオロギー髄争、労働闘争、平和的磁争など、同闘争は、その主体、客体、方法、規模程的などにお
いて多様であるが、法と権利をめぐる磁争もまた近代市民社会の葉婆な顕争形態のひとつであることは論をまたな
一場の講演であったことを大きく越えて、はからずも、近代社会理
ぃ。この点を正視し、カント倫理学における人格に対応して訣的人格による法的路争に対して倫理的な意義を与え
た点にこそ、イぷ iリング﹁権利闘争論いが、
論史のなかに法学審としてはほとんど唯一の地註を占めえた理由があったと患われる。
けれども、社会倫理的な意義をもっ怯的闘争が問符にまた宗教倫理上も是認されうるか苔かは、眼鏡な問題であ
-104
宗教法第 1
3
与
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19
鎚}
る。ィェ lリ ン グ が 同 容 で 指 摘 す る よ う に 、 将 校 に は 名 誉 が 、 農 民 に は 土 地 が 、 商 人 に は 議 用 が 、 全 人 絡 を か け て
も守るべき世俗的な銭債であるとしても、紛争解決へ向かう思認と行動は、当数の法的主体と客体が所属し信奉す
る宗教と宗派によって大きく指違する。たとえば歴史的な出告を開じくするユダヤ教徒、カソリック、プロテスタ
ント、イスラム教徒が、間一の法状祝においてそれぞれに違なる法行動をとるであろうことは十分に予想されると
ころである。ぞれ争え、法的髄争に倫灘的意義までも是認したイェ!リングの河容は、それぞれの世界宗教に対し
-105-
第ニの論争をめぐって
イェ i リ ン グ の 第 二 の 議 争 の 著 作 ﹁ 法 感 情 発 生 論 い は 、 吋 権 科 闘 争 論 ﹂ の も と と な っ た 講 演 に 続 く 第 二 講 演 と し
て悶門じ場所において十二年後にウィ i ン で 行 な わ れ た 。 こ の 講 演 の 記 録 は 、 寓 年 ウ ィ ー ン の ﹁ 一 般 法 律 家 新 聞 い に
五回に分載されたのち、当時公刊されないで終ったものである。
講演が主として健全な法感情の現象形
時間半以上に買ったこの講演は、まづ権利鱒争を論じた第
の主越すなわち法感情を取り扱うことへの表明から始まるが、第
オ ! ス ト リ1皇太子や法曹界重鎮の出席を得て
演と間
懇を論じたのに対して、第ニ講演は法感情の内容分析を主題とし、またこの法感情発生の由来を解明することが議
要な目的であることが表明される。法務情の発生は、生得的であるのか、それとも歴史的であるのかという銅題は、
綿密な準備草稿なしに簡単なメモに能って解明されていく。彼はかつては生得説に立っていたことを告白し、次い
で説を改めるに翠り、歴史説に転じた理由を説明する。設聞は﹁選徳的なるものの根源は、自然かそれとも壌史か﹂
と要約され、哲学者ロックの学説を知らぬまま間一の結論に遺したことが述べられる。
講
2
て難問問を提起したことになり、ぞれに対する反応がシユミ 1ドルの著作を始めとする多くの賛筏碍論であった。
リングによる三つの論争 (
U
J口)
イェ
法とま誇教の起源について
批判対象としての生得説はさらに一一一つの物繋主義的見解に大挺されて検討される。さらにイェ!リングは、自然
観察の観点、鰹史の観点、内なる心の心理的な観点の一一一点から生得説と康史説との対立を解こうとする。そのさい
M
イェ!リングは、新しい自然科学の成果に学びつつ、動物における本能の古典的理解を批判し、これに対して動物
0
・自然がそれらを教えたのだと
の学習能力を対撃させる。そして一定の文化段階に各氏族に見られる文字の発見、実幣の鋳造などを例にとり、ゆ
れらの観念を人間に教えたのは、自燃か、それとも、歴史かという課題を分析する
となるはずである。そうであるならば未開民族についても生得説が正しいことを替える
するならば、あらゆる民族、あらゆる時代、あらゆる段階についてそう震えるはずであり、思考法制問も道徳的心理
もいかなるところでも問
はずであるが、事実はことなる。由同然が支配者であるのなら来製民族は文化の発途した民族と同じことそ自然から
学びとるはずである。遊徳的観念は、言語や神話などと問様に、盤史のなかで徐々に形成されてきたものであるこ
とが、ギリシャ神話、文学作品、間約聖書などからの偶撃を縦横に駆使して立証されていく。
さらに道徳的観念の形成過程が、幼児における道徳的観念の体得過程を倒として分析される。道徳的観念は幼見
の発達に応立て幼兎を取り巻く外的環境から与えられていくが、しかし、幼児の詩語学習、表現の意味の知悉、物
の識別などは何故可能となるのか。ィェ iリングによればそれは人間精神の掛象力(﹀松守長けい。とに依るとされ
る。幼児は知らず知らずのうちに犬や猫の特徴を掛象化し、その結果犬と猫との識加を知る。だれも幼党に抽象的
な文法を教えはしないけれども、幼鬼は単語から文法を抽象化し、動請の活用を見事にやってのける。この意味で
幼児は、揺りかごの中のヘラクレスである。
イェ 1リングは︿ヘ iゲルのように﹀単純にも理性を真理の狼滋とみなすことを拒寄する。﹁自然か、それとも
歴史か、二つにひとつだ﹂と披はのベる。ィェ lリングによれば、根拠の究極は目的であり、この点に立てば、
-106-
宗教法第 13~苦(1 994)
﹁無限の蔑襲が学問に関かれる﹂との予測が立てられ、後期の主著吋法における話的﹄の主題へと接続して講演は
終わる。
の講演・をもっと敷街した形で山山競したい﹂との希望を講演
宗教や法といった規範発生の起源を麗史に求めるイェ iリングの立場は、短時間の講演という性質上着工γ論誌が
不十分にも怒われ、そのためかイェ lリング自身は
の中明、も述べている。この希望はのち米完ながら主務﹃法における自的]第二審において実現されていった。
イェ lリングによるこの第二講演﹁法感情発生論﹂に対して、現象学派の父と一習われる倫理学者フランツ・プレ
(
応
﹀
←
関する自然的サンクションについて﹂を行なった。
プレンタ iノのイェ lリング批判は、イェ!リングと碕じ主題︿社会規範の起源﹀に関して、展開される。ブレ
ンタ iノはイェ lリングとともに社会規範の生得的起源を否定するが、他方において普遍的妥当性を有する道徳律
をイェ iリングとことなって是認する。例えばピタゴラスの定理がそのことの一倒として挙証される。論理学など
の命題は、自然的に妥当する判断規尉であるから自然的サンクションが認められる。
倫理的な認識の起滋は、ブレンタ iノによれば記述的心理学によって与えられる。彼はイェ!リングとことなり、
人間にその本性上一種の本能的行動を認める。そして人間は社会へ向って倫理的に規定されている存在であるから、
この自由を制緩するための実定法が制制定される。これと同様、かつ実定法を補うものとして道徳の実定法典、すな
わち笑定道徳が存在する。実生活における最高替の存在を是寵するプレンタ Iノは、イェ Iリングの倫理的価儀相
対主義を﹁ニセ指対理性議﹂(司色問内言明洲市
…1
0
7
ンタ 1ノが?な年後に問一の場所において、直接にイェ iリングの立論に反駁する講演﹁法的と道徳的ということに
主義と空襲教の起源についてーイェーリングによる三つの論争(山口)
第三の論争をめぐって
夫一一婦制と死者供養の制度が存在したことを承認する。前世紀まであっ
g
m﹀という奇妙な風習を手掛りに、先史期においてたんに奏の身体が夫
産と家政権は子に移転し、長子が家長となった。これは肉体的力量の増減に対応した晋墳であったし、ギリシャ神
あると儲じられている。しかし事実はその避であると、被は説く。ァiリア人においては愛子の結婚により父の財
死者供養すなわち祖先崇拝の起源は、美しい夫婦愛とならぶア1リア人の美点として裁に対する子の孝順ゆえで
規範の壮大な体系を生み出すに一会った、とイェ 1リングは力説する。
観念が実在を生んだのではない。実・在が法と宗教と議鯨とを生んだのである。人間生活の実際上の必要こそが、務
代になってその意義を転じ特別の意味附与をされるという。連銀的観念ははじめから存在したのではない。道徳的
るに主ったか、を分析してみせる。ィェ iリングによれば、先史の時代に生活上の必要から形成されたことが、後
の所有物と河機に焼き払われるにすぎない事実が、 いかにして後代になって道徳的に評価される美風とたたえられ
g
-芝居雲母可申告
たインドの寡婦拘死 (
イェ!リングは、ァiリアン親族誌に
民族の移動という事実のなかに法、宗教、道徳などの起源を求めようとする。
廷るヨーロッパの辺土への民族移動の結果、インド・ヨーロッパ人の各氏族が形成された。イェ 1リングは長期の
教の護史的起源の探究 -b意
E 味していた。 アジアの地に興ったア!リアン母族から分校した子族が何世紀もの長期に
イェ lリングは最晩年の一一年間をインド・ヨーロッパ人の援史的起源の研究に熱中した。それは同時に、法と宗
クの編集にかかる大部の遺著吋インド・ヨーロッパ人前史﹄︿一八九臨年)である。
{MH)
法と宗教の魁源をめぐるイェ iリングの第一一一の著作は、死後二年目に女婿の商法学者ヴィクトル・エ lレンベル
3
話にもその痕跡を残している。諸神の行為は、かつて人聞の行った行為を指示している。神話は原始時代における
-108-
宗教法第 1
3
管(19
9
4
)
社会観念の最古の淵源に他ならない。
死せる毅の墓前に供えられた供物は、予の亡き殺に対する追慕の念の表現ではないとイェ iリングは述べている。
アーリア人にあっては、老議殺申告の風習は欠如していたが、生産力を喪失した老殺の遺棄という風習はあった。ぞ
れならば、親の生存中に与えることを拒在したパンを、何故に死後になって纂前に供える必繋があったのか。ぞれ
は恐怖ゆえであった、と被は考える。アiリア入の思想によれば、死者は死後もなお幽鬼として生存するが争えに、
遺族は供物を俸げた。死者侠養の本来の動機は、亡毅への愛にではなく、生き残った者の死者に対する菱倶と恐怖
に求められる。このことはまた宗教の起源を示唆するものでもある。祖先議拝は古代人の宗教績からすれば神への
これらの点でイェ 1リングが批判の対象とするのは、 フェステル・ド・クiランジェがその箸﹁古代都市﹂︿一人
六留年)において説いた社会制度の宗教主義的理解である。かまど神にみられる家神への宗教的感情を基盤として
古代都市制度を解明しようとするクーランジェの試みはイェ iリングによればことごとく誤りである。死者供養の
理不離に形成さ
義務、相続制度、土地の個人的所有権などについて詳細にイェ!リングはクーランジェの所説を全部約に批判する。
たとえばクiランジェにおいては家神としてのかまど神は動くことがなく、このゆえに家庭神と
れた土地所有権は非譲渡性のものとなると説かれる。しかしイェ iリングによれば、ア 1リア人は土地への個人所
有権の観念を有しておらず土地は共有とされていたのであり、ア!リア人の家庭は石造ではなくて移動式であって、
牧衝を生業としていたアiリア人は事群の移動とともに家展を解体して移動したのであるから、︿かまど﹀自体、
国恕されることなく、クiランジェが非難する︿迷えるかまど﹀がかまどの実態であった。アーリア人は死者の慕
さえ遺棄して移動しなければならなかった。アーリア人の民族移動の一行進は、繁一解けを待って三月始めに行われた
-109
崇拝と向乙であり、恐怖こそが神安造ったのだ、と彼は考える。
法と安芸教の起i
畿についてーイェーリングによる三つの論争{山口}
が、出発に先立ち二月の末には祖先の墓に最後の供養をなした。移動中の渡海にさいして、老人は河神への供物と
法と宗教の龍源をめぐる近代日本の法理論
教﹀とは特殊日本的な宗教を意味することになり、西欧と日本という対立的諮式がその背景にあることに健意でき
という詩をあてはめた用語であることに気が付けば、︿ヰリスト教﹀とは西欧の宗教を一意味し、人束の言、つ︿祖先
︿今リスト教﹀という詩に対抗して八束が作成した用語であって︿キリスト教﹀の︿キリスト﹀の部分に︿祖先﹀
この諾がハパ iト・スペンサ!の説く説先崇拝が宗教の起源であるとの主張に対応した・ものであり、また他方で、
穂積八東が一言、つ﹁祖先教﹂という言葉は、日本人の語感にとって何かしらそぐわないものを有している。しかし、
臨
考慮すれば傾聴に値すると嘗いうるであろう。
考古学上はこの説がほぼ通説となっている。このことからすれば、イェ 1リングが提出した解答も百年の歳月を
{
時
﹀
(小丘の墳墓﹀文化の研究から、インド・ヨ!ロッパ入の原郷をウクライナ地方のステップ地帯に確定しており、
(げ﹀
リアに求め、第二の原郷をコ iカサス北方に求めた。現代アメリカの考古学者マリア¥キンブタス女史はクルガン
︿インド・ヨーロッパ人の源郷問題﹀の解明を試みている。彼は、第一の原郷(口吋苦言呉)を中央アジアのパクト
これらの法、宗教、祖先崇拝などの関認の他に、ィェ iリングは遺著﹁インド・ヨーロッパ人前史﹂において
等について考証そしている。
たことに起因するとされる。イェ iリングはアiリア入の法制度については、相続法のほかに財康法、一時法、刑法
して河中に投じられたのである。イエ 1リングによれば、 クーランジェの誤りは、アlリア人の移動に注目しなかっ
宗教法第 1
3号(19
9
4
)
八束が﹃家制及冨体﹂︿明治一一十五年)のなかで﹁強先教ハ我国体ノ碁礎ナリ﹂と述べ ﹁民法出テも忠孝滅ブ﹂
(明治一二十三年)のなかマ立尚昆ハ祖先教ノ関ナリ﹂と述べるとき、その意味はわが国は誤てるキリスト教の支配す
る西殴諸国とはことなり、観先崇拝を最重要犠する闘で、西歎よりも優越する特殊な国家であるということにある。
八束が核拠したスペンサーの祖先祭持に宗教の起、諏・を求める思想は西洋宗教思想のなかにあっては通説とは脅え
ず、宗教の態滋については、様々な学説が提起怒れてきた。宗教の起源を、ブロスは呪物信仰に求め、ヴイコは儀
礼に、マックス・ミラフーは人間精神に、タイラiはアニミズムに、フレイザーは超人間的諸力への融和に、 デユ
ルケlムはトiテミズムに、フロイトは性本能に、ユングは神話に、ホワイトヘッドは個々人の経験に、ブランド
ンは人間の時跨認識に求めてきた。これら多くの宗教飽源識はいづれも人間における死の認識の形成を前提として
いる。そしてこれらは、死の認識 1不安 i人間のアイデンティ l喪失 i究への恐悔i死者供養i葬札1儀礼!死後
への保証 i儀礼の社会化!滋慾議経形成i宗教規範形成 i法規範形成 i規範の制度化というようないくつかの人間
題知のように、 一神教としての世界宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教においては可視的対象は偶像
乙であって神ではないとの教義から視先崇拝は否定されるのに対して、仏教においては祖先崇拝は習合され、
0
(日仏
その結来、現代の先進諸舗においては唯一自本においてのみ祖先崇拝が瞥俗として残存するに至っている。
法制約綾上、西歎とまったくことなるこのような日本釣特徴を的確に示しているのが、祭紀承継権に関する規定の
存在であり、祭杷承継擦は旧民誌においては家航路相続の特権に属すものとされたし、現行民法人九七条においても
祭悶︽等の承継は﹁横習に従って祖先の祭舵を主宰すべき品物がこれを継承するいと麓定され、祖先崇拝は読本の法制
-111-
る
精神の発達段階のうちのどの段階に着問討するかに対臨して異なる羽根論構成が採られていると考えられる。
法と宗教の起源についてーイヱ…リングによる三つの論争{山口)
度のなかにも取り入れられているのが現状である。
︿州問)
もともと明治憲法における天謀総も、﹁天泉ノ宝酢ハ之ヲ祖宗ニ承ケ之ヲ子採ニ詰フ留家統治権ノ在スル所ナリ﹂
(伊藤博文)というように、組先山時前持を議要な法的イデオロギーとして設定することによって成立するものであった。
リングに依拠しながら、ヨ i ロッパに定生後には西歌人はキリスト教徒となって祖先崇持そ苔定するに韮ったが、
L
興味深いのは、入来が後者の論稿において、モルガン、スベンサl、ポスト、 コiラi、ジロトロン、そしてイE
人東の主投は、キリスト教に帰依した西欧諸国とことなり祖先崇拝がわが岡聞の囲体の基礎たるべきことに存する。
月)である。これは明治憲法制定の二年後である。そしてさらに懇年にやや詳級な﹁家制及型体﹂を発表している。
近代日本の法学者のなかで最も早期に緩先崇持に一宮開設したのは八束の﹁民法出テ、忠孝亡フ﹂︿明治二十四年八
みのつれ 。
東であり、また人家に次いでスペンサーにならって扱先山崩指揮に法と宗教の鎧源を求めたのが八束の充、穂積篠震で
このような歴史的コンテクストのなかで、祖先祭拝の理論をもって日本公法の原理にまで昇筆させたのが穂積八
いて天皇が政治的権威のみならず現人神として宗教的権威にまで祭り上げられた理由はこの点にかかわっている。
教として人心を窓せしむるのカに乏し。我闘に号機軸とすべき議長室あるの情﹂と。明治重体制にお
せり。然るに我田に在りでは宗教なる者其カ微弱にしてi仏教は:・今日に東ては日に衰しい替に傾きi衿道は:・宗
治原理として採思したと、次のように率直に吐露している。﹁抑歓州に於ては:・宗教なる者ありてi 人心比に婦
治はできかねるし、日本の仏教や神道のカも又弱いので、宗教イデオロギーのアルタナティ 1ベとして天議制を統
かったからである。伊藤は、ある講演のなかで明治憲法原案起草について、わが鴎では西散のように宗教による統
明治憲法における天皇制の探用の理由は、伊藤博文らが強掴な劉家統治のイデオロギーを他に求めることができな
宗教記長第 1
31
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インド-ヨーロッパ人の民族移動以前には彼らにも祖先崇拝の習俗が存在したと指掃することによって、観先崇拝
が人類普遍の原議であるとの論統を試みていることである。
八束が﹁人倫忠孝ノ精神ヲ以テ社会ヲ維持セントスルトキハ祖先教ニ依頼スルノ外他ニ方業ナシ﹂とする点は、
伊藤博文の憲法原案起草の擦の意図と合致する。八束の観先崇拝理論は、家 l血縁 j女系統︿母系制のこと)男系
続︿父系制のこと)への家制度の発達iniマ親族法などの分析を含むが、ぞれと何時に排外的な題砕主義を秘め
ていた点に注闘すべきであろう。仏教伝来があってもわが闘の誼先教が仏教によって滅びなかったのは、外部出の仏
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教人種が入居しなかったからだと彼は考える。﹁仏教ノ為メニ国体ノ基礎タル祖先教ノ廃絶セサリシ所以ハ仏教ハ
亡フ﹂の冒頭の
文﹁一利アレパ一窓口アリ﹂を除けば会く同一の文である。
は、平等な個人間の自
しているが、﹁耶蘇教以前の致問家制﹂(明治一一十四年八月、間家学会雑誌第四巻第五十翻号)は﹁民法出テ、忠孝
﹁閤家ト外宗教トノ関孫い(明治去十三年て辺家﹄の法理的制概念﹂︿明治一一一十一年)、などを向じ主皆のもとで発表
ながらも叙述は断片的で説得牲に欠けているように患われる。八東はさらにその墾先教理識をエスカレ iトさ位、
が留には逃してないとの主設であり、実証的でもなく、わづかにそムゼン、イェ!リング、クーランジェを引用し
由契約窓制服は博愛主義を基調とする‘キリスト教患想のものであって、家を重視する祖先教会古来からとってきたわ
に反対してセンセーショナルな表題によって今日まで有名な八束の﹁民法出テ、忠孝亡
西欧流の婚織自由契約思想をナポレオン法典にならって継受しようとしたボアソナiドの葱寧になる由民法草案
人種我国ニ入リテ外教判ノ布クトキハ古ノ仏法、捜来ノ有様ト大ニ結樹木ヲ異ニスルコトアルへと。
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したがって披はキリスト教をはじめとする外来の宗教を信衛する外国人の入歯と布教とを排撃する。﹁今若外教ノ
我国ニ入ルモ仏教人麓ノ我酪ニ入ラサリシニヨル、仏教ヲ伝へ仏教ヲ泰スルモノハ我祖先教ノ民ナルカ故ナリ﹂。
法と主義教の産量芸春、についてーイェーリングによる三つの論争 (
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当持、天患に対する御進講は和書、漢書、洋容について各一二十分間程度正月に行われていたが、弟の八東は合計
五関に一患って、ハンムラピ法典、ユステイニアヌス法典、タ存トス、祖先崇拝、アリストテレスについて御進講を
担当している。明治間十箇年の御進講﹁ギリシャ及ロ i マの古典に綴はるる祖先崇拝の事跡︺は、フユステル・ド・
ク!日フンジェの吋古代都市﹄の要約を骨子としたもので、霊魂不滅の信念、祖先崇拝、神火、家内宗教、家の観念、
婚婚、家の継続、系統に言及したのち、キリスト教がこれら吉代の祖先袋持の教義を禁止することに及んだことに
触れ、祖先崇拝がわが箆体の基礎たるべきことを主強しているの
このような没実葺的な八束の祖先崇持論に対して批判を難関したのは、早稲霞で倫理学を講とながら夫折した大
見視﹁祖先教は能く俊教の基礎たるべきか(穂積八東氏の論を競む)︺︿明治一一一十字、六合雑誌﹀であった。
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大西の主張は﹁予箪は祖先崇拝といふ如き単純なる思懇若しくは手段を以て、来してよく今日及び将来の民心を
満足せしむるに足るべき世教を振起し得るかを疑ふ﹂ことに要約できる。そしてこれらの論争は他方において明
治二十三年の﹁教育勅語︺以後に展開される皆民道徳論争に継続していくことになる。とりわけ忍翠叩街義﹄を執
筆した権力側のイデオローグ井上哲次郎を中心に、 一高不敬事件における内村鑑一一一らのキリスト考や対権力的に硬
軟各慌の仏教者の間に教育と家教の理念会めぐり大規模な論争が喚能されていく。そのさい、井上哲次臨﹃教育ト
宗教ノ衝突﹄(明治三十六年数業社﹀に一不された忠孝観念の麓視からするキリスト教排撃議は、 これら関民選権論
争に先行した穂積八束らの関家イデオロギーとしての墾先難拝重視の立場からするキリスト教排撃論によって準備
されたのと需一の論理をもっていたことが注尽される。
八束の児、穂積棟建は、鶴間損当した大正天皇に対する御進講のうち一一一回自にあたる大正八年の御進講吋祭舵と
政治法律との関係﹂で、議先崇拝を論とている。ここでもクーランジェ﹃古代都市﹄を引用しながら、被震は祖先
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崇拝の超源を追慕の念に求め、クーランジ之、スペンサ1、ラポック、ィェ iリングらの恐怖起源説を斥けている。
そして祖先崇拝との関係において婚姻とりわけ平リシャ時品川の三つの婚婚式や養子、相続などを考察し、担先崇拝
が家、社会、国家の起糠であるとし、タルドの﹃模倣の法則いに依拠して人間生活において祖先の行為を模倣する
ことの意義に雷及し、皇室の祭寵と国民の祭杷との合一を説くに盗っている。
昭和五年になって穂讃練重は改めて犠先崇持に関する比較的詳細栴な論考を﹁祭器及礼と法律﹂にまとめた。基本
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的主張は前記﹁祭泥と政治法律との関係﹂と限同じであるが、学説の検討がやや深化されている。棟建によれば、
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ytE守口﹀説を斥け、さらにイェ iリング吋インド・ヨーロッパ入
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前史﹄のうちの死者供養に関する叙述を長々と四ページにわたって引用し、﹁恐怖が袴を作る(百円ロミ内部三吉凶岱 Om)
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般に裁に対する敬愛の情を欠き、之を虐待するを以て、常能を為すものと誤欝
とのイェ!リングやシユルツらの恐怖鋭に民対している。陳重はイェ lリング説について次のように考えている。
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したのであろう J また﹁イェ lリングの科己的生産的人生観は援に其根本に於て誤って居り、茶結果たる恐怖
点は﹁恐怖畿は不自然である﹂こと、第一一点は﹁霊魂船総務説は結果を以て塚陸
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説の当を得ないものであることも明かである J と
穂積陳震の根先山田剤拝起滋論の第
と為すもの﹂であり、﹁孝揖賞、供養するの事実は前に・在って、慈って報複するの事実は後に主る﹂こと、第一一一点は
﹁恐怖説は社会の起源および発展に関する事実と相容れぬものである﹂こと会脅子としている。穂積によれ誌、社
会の起源は人間の社交性、社交的本能に求められるとされる。穂積はここでゲオルグ・ジンメルの小冊子吋社会学
の根本問題 l個人と社会﹂を参照していないのだけれども、同情、問類意識に注目し、成員聞の心的義集カの結果
-115-
教の線源は、﹁生者が死者の震に対して為したる感情の表示﹂であるとし、誼先鍛拝の結穂をめぐり、ルポツ夕、
法と宗教の量霊源についてーイェーリングによるつの論争(山口)
により母系制社会ではトーテムが、父系制社会では観建が求心力の・中心となると考えている。
穂積は問書の附録﹁祭配と間体﹂(大正光年の講演)のなかでも祭認の起源に脅及し、スペンサ:、ィェ iリン
グらの懇寮鎖国娯説を批判し﹁祭ルハ在スガ如、ン﹂とか﹁すべての祭は愛敬の率一ちなりいとか述べ、﹁祖先山世間拝すな
わち祭﹂との見解に歪っている。そして﹁大日本帝国と万翻と異なる古川﹂を﹁担先崇拝を以てする菌体﹂に求めて
いる。こののち、穂積陳麓の祭龍論は、後続する新掴学としての柳田鶴男の祭認論に一筋の議をつけていくことに
なる。
法と宗教の起源をめぐるイェ 1リング、クーランジェ、スペンサーらの諸説、穂積八束、糠重と大西祝の問に行
われた祖先崇拝をめぐる論争、井上哲次郎を中心としてキリスト者、仏教者をまきこんで行なわれた国民議徳論争
は、これまで相瓦の連関に控意されることなく、各々に刷出備に切り離されて理解され論じられてきた。けれどもす
でに本稿において明らかとなったように、法宗教起源論!祖先議拝論i国民護観論争は有機的な連関においてさら
に解明されていくべきであろう。これら諸論争の有機的連関の解明作業は、講痩派による天皇制フアンズム論の流
し続けた学関の不毛化を大関にのりこえて、近代日本の実像と特質と的確に照射する実り豊かな作業となる可能性
を副総めていると怠われる。
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1) 綴猿弘之﹁人維新説﹄(吋明治文化会集い第一一巻﹁自由剛氏擁緩い一一一七六頁など。
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2) 方自鴨 gsmEW角 よく徐々各高。55z 雪手話戸国・言戸田弘同?の町立貯蓄
584・鈴木賊総訳、五四一賞。
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-116-
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