「中国家族主義の一側面」 『現代思想』(青土社)

中国家族主義の一側面
目次
はじめに
父母のためならば
父は、「父」か「臣下」か
家族のための復讐
注
はじめに
一般に、西洋社会が個人を社会の単位としているのに対して、中国は家族をその基礎単
位としていると言われる。その原因のひとつとされるのものに「祖先崇拝」がある。祖先
崇拝というのは、死者が生存する人間に影響力を持つとする一種の信仰であり、儒教の基
本理念でもある。だから祖先崇拝は、現世に生きる自分たちはその存在自体が祖先に負う
ものであると考え、それだけに祖先に対しては感謝と畏敬の念を抱き、祖先の霊を誠心誠
意祀ることによって自分たちに対する祖先の善意や守護を確保し、祖先が現世に生きる子
孫(自分たち)を守ってくれるはずだと確信するような、どこまでも現世が中心になった
考え方なのである。
しかしながら、そもそも中国人は祖先の霊が存在するかとか、死語の世界はどのようで
あるかなどということにさして興味を示さかったことは、あまりにも有名なことである。
『論語』に、孔子の弟子の子路が死者の霊魂や死について問うたのに対し、孔子は、
「未だ
人に事えること能わず。焉んぞ鬼に事えん」、
「未だ生を知らず。焉んぞ死を知らん」、生き
ている人間のこともわからないのに、死後の霊魂のことなどわかるはずがないと一蹴して
いる(先進篇)。これは儒教が死者の霊魂や死後の世界に至って冷淡であったことの例とし
てよく挙げられるところである。確かに孔子は死後の世界を想像することには冷淡ではあ
ったのだが、その一方では、同じく『論語』に、禹王が「飲食を菲くして、孝を鬼神に致
す」
(泰伯篇)、自分の飲食は粗末なもので済ましても、
「鬼神」を祀ることには事欠かない
ようにしたのを「間然する無し」、非の打ち所がないと言うのである。このように、孔子は
自分の死後を語ることはなかったが、自分の生活をも顧みずに「孝を鬼神に致」した禹王
を理想としたように、
「鬼神」を祀ることには極めて積極的であったと言わなければならな
い。この「孝を鬼神に致す」とは、祖先の霊魂に孝養を尽くすことを言う。すなわち、こ
れが「祖先崇拝」である。それに対して、死後の霊魂や死後の世界、あるいは死者の来世
を考えるのが、いわゆる「死者崇拝」であり、西洋の宗教は概ねそれに属すると言われる
が、中国ではそれとは逆に、死後の世界よりも現世を重視するのである。換言すれば、中
国人は祖先を、死者―生者―子孫(過去―現在―未来)という連続的な関係を持つもので
あると認識している、と言うことになろう。そのような、極めて現世的に祖先を崇拝する
信仰が、中国の家族集団の威信を強力にし、子孫を団結させて中国に氏族社会を作らしめ、
家族社会を強大にしたのである。そして、家族の団結はそのまま国家の結束につながり、
ひいては天下の平安を維持することになると考えられたのである。
『尚書』
「舜典」に、
「正月上日、終を文祖に受く」という記述がある。これは正月元旦、
舜が「文祖の廟」において堯から帝位を受け継いだ儀式(禅譲)の記録である。同じく「舜
典」に「月正元日、舜、文祖に格る」と、堯帝が亡くなった三年後、すなわち三年間の服
喪の後、正月元旦、舜が「文祖の廟」に出かけて正式に即位することを報告している。ま
た、禅譲した年の二月から舜は各地を巡守しているが、
「歸りて藝祖に格り、特を用う」と、
都に帰ると「藝祖(『禮記』では「祖禰」に作る)」に出向いて牛を供えて巡守の無事を報
告している。これは、譲位や巡守というような国家の大事は、必ず祖先の廟に告げておこ
なったことを物語るものである。ここにいう「文祖」とは、
「堯の文徳の祖廟」
(『尚書』孔
安国注)であり、
「堯の大祖」
(『史記』
「五帝本紀」)のこと、
「藝祖」は「文祖の廟」
(同上)、
「祖禰」もやはり先祖を祀った祖廟のことである。そしてこの祖先を敬い尊んで祀ること
が、中国にあっては、
「之れが宗廟を爲り、鬼を以て之れを享し、春秋に祭祀し、時を以て
之れを思う」
(『孝經』
「喪親章」)、父母が死んで三年の服喪を終えると、その位牌を安置す
る宗廟を立てて祀る、以後は春夏秋冬に必ず供え物をして父母の恩を思うことが「孝」で
あると言うように、「孝」と連続的に認識されており、また、「生事に愛敬し、死事に哀慼
す」
(同上)とも言うように、親の生存中は親を敬愛して仕え、死後はその鬼神を祭る宗廟
に哀悼して孝養を尽くすこととなるのである。そしてそれが、親は生存中は子供に慈愛を
施すように、
死後も子供に慈愛を施してくれるものであるという確信につながるのである。
あるいはまた『禮記』に、
「宗廟に之れを饗し、子孫、之れを保つ」
(
「中庸」
)、舜はその死
後、宗廟に手厚く祀られ、子孫は代々その祭りを絶やすことなく伝えたと言うように、立
派に生きた者はその死後も放置されることはないという、道徳倫理とも連続して認識され
ていたのである。
とまれ「祖先崇拝」とは、祖先は常に現世に生きる子孫の幸せな生活を願っているとい
う信仰なのである。同時にまたそれは、
「疫鬼を驅逐し、先祖を驚かさんことを恐る」ため
に「儺」という厄払いをしたように(『論語』
「郷黨篇」孔安国注)、祖先は自分たちが不幸
に見舞われることのないように注意してくれているという信仰でもある。更には、
「祖を尊
ぶ、故に宗を敬う。宗を敬うは、祖禰を尊ぶ所以なり」(
『禮記』「喪服小記」)と、祖先を
崇拝することこそが「宗」、すなわち同姓の一族を敬うことであると明記しているように、
祖先崇拝は必然的に子孫の団結を強固にし、家族社会を、ひいては氏族社会を存続させて
いったのである。氏族社会・家族社会とは、家の縦のつながりと横のつながりであるが、
これが縦横に合体結合しているところに、中国の家族制度が成り立っているのである。そ
れが最も端的に現れているのが「姓」と「氏」であろう。この「姓」と「氏」も、後漢の
大儒鄭玄が「姓とは百姓を統繋し、別たざら使む所以なり。氏とは子孫の出づる所を別つ
所以なり」(
『史記』「五帝本紀」集解引く『駁五經異義』)と言うように、本来は「姓」は
血筋を言うもの、
「氏」は家柄を言うものとして明確に区別されていた。また『通志』によ
れば、
「三代の前、姓氏、分かちて二と爲す。男子は氏を稱し、婦人は姓を稱す。氏は貴賤
を別つ所以なり。貴者は氏有り、賤者は名有るも氏無し。……故に姓は呼びて氏と爲す可
きも、氏は呼びて姓と爲す可からず」(卷一「氏族略」)とあり、姓は貴賎に拘わりなく誰
もがもっていたが、氏は家柄の貴賎を分かつものとして存在し、卑賎なものにはなかった
として区別されるのである。そして、『説文解字』は「姓とは人の生ずる所なり」
(第十二
下)、すなわちどの母親から生まれているかの血筋を言うものが「姓」であると言い、また、
「人の姓有る所以は何ぞ。恩愛を崇び、親親を厚くし、禽獸に遠ざかりて婚姻を別つ所以
なり」
(
『白虎通義』卷八「姓名」
)、
「姓は婚姻を別つ所以なり。故に同姓・異姓・庶姓の別
有り。氏同じくして姓同じからざる者は、婚姻、通ず可し。姓同じくして氏同じからざる
者は、婚姻、通ず可からず」
(『通志』
「氏族略」)と言うように、
「姓」は同姓・異姓・庶姓
の別を設けて婚姻を分かつものとして存在したのである。しかし、鄭樵が「三代の後、姓
氏合して一と爲る。婚姻を別ち、而して地望を以て貴賤を明らかにする所以」
(同「氏族略」)
と言い、顧炎武が「姓氏の稱、太史公自り始めて混じて一と爲る」
(『日知録』巻二十三「氏
族」)
、
「戰國自り以下の人、氏を以て姓と爲す。而して五帝以來の姓、亡べり」
(同上、
「姓」)
と指摘するように、姓も氏も共に血縁的つながりであるという認識からであろうか、後世、
区別しなくなったのである。そして、祖先を同じくする者がその共通の祖先を祀ることで
連帯感を強め、連帯感の強くなった同族は更に祖先への崇拝感を増していったのではない
だろうか。いずれにせよ、姓と氏とを区別しなくなったことで、家族の結束が一層助長さ
れたであろうことは想像に難くない。
では、このような「祖先崇拝」によって培われた中国の家族主義は、実際に中国人の精
神にどのように作用していたのか、またそれは現実社会ではどのような形で顔を出すのか
を具体的に見てみよう。
*
*
*
*
*
*
*
国家よりも家族、天子よりも家族が優先し、たとえ天子や皇后となろうとも家族関係は
君臣関係に凌駕されることはなく、家族のためとなれば復讐も許されるというように、中
国には徹底した家族主義が存在した。君臣関係が個人も家族も抹殺してしまうように見え
る儒教に、このような世界が現存したというのが事実なのである。そして、中国ではこの
ような家族主義が一般であると言ってよいだろう。ただし、
「家族」という枠組の中であれ、
国家よりも個人を尊んだ中国の家族主義が、人間個々人の批判精神や主体性をどれほど促
しどれほど育てたかの、あるいは逆にそれをどこまで阻むものであったのか、すなわち中
国人にとってプラスに働いたのかマイナスに作用したのかという問題は、この後の問題で
ある。