ブラックミュージック誕生の過程

ブラックミュージック誕生の過程
‐近代資本主義と奴隷制の発展から見る歴史‐
福田邦夫ゼミナール 19 期 松本武士
【目次】
Ⅰ、はじめに
Ⅱ、ブラックミュージックとは
Ⅲ、ブラックミュージックとアメリカ史
(1)奴隷制度の発展と三角貿易
(2)近代資本主義の発展
Ⅳ、黒人達の反抗
(1)戦争と差別
(2)公民権運動がもたらしたもの
Ⅴ、ハーレム・ルネサンス、そして現在のブラックミュージック
Ⅵ、終わりに
Ⅰ.はじめに
日常生活にどれほどのブラックミュージックが浸透しているのか考えてみた。朝、起き
てテレビを付けるとニュース番組のBGMとして流れているのは、雰囲気のよいジャズ音
楽、音楽番組でもクラブでも流されている音楽は最新のヒップホップであったり、R&B
である。そして自分自身も通学時間などを利用して、これらの音楽を聞き過ごしている。
お洒落なレストランに行けば、BGMとして使われているのは落ち着いた雰囲気の古いジ
ャズ音楽である。調べてみると、ブラックミュージックの起源としては、アメリカ社会の
奴隷制度から始まった黒人達の辛い歴史と文化によって生まれ、世代を超えて受け継がれ
てきたものだと知った。また、今から数百年前、奴隷として連れて来られたアフリカ人達
は厳しい労働と環境の中で、現地の人々や文化と交わり、アフリカの文化をベースとした
独自の文化を作り上げたそうである。私はブラックミュージックの過去の裏側、主に悲惨
な奴隷制度、差別の実態、どのようにこれまで世間に浸透し、多くの人々に支持されうる
ものとなったのかに興味を持ったため、ブラックミュージックの歴史を研究テーマとする。
Ⅱ.ブラックミュージックとは
まずブラックミュージックの、BLACK_MUSIC、つまり、黒人(BLACK)発祥の音楽
(MUSIC)の総称を指す。特徴は、強いビート感・グルーヴ感にあるが、最近では、ダン
サブルな音楽、ノリのよい音楽も指す。具体的には、ゴスペル(教会音楽・賛美歌)
、ブル
311
ース、ジャズ、ソウル/R&B、ラップ/ヒップホップ、これらは、すべて、ブラック・ミュ
ージックに含まれる。そして、現在では、これら音楽を黒人がやる場合に限らず、ブラッ
ク・ミュージックと呼んでいる。白人がやる場合はもちろん、日本人がやる場合にも、ブ
ラック・ミュージックと呼んでいる。ここで私は、大きく分けてブラックミュージックの
代表的な存在であるR&B/ソウル、ブルース、ゴスペルについて誕生の過程を記そうと思
う。
①R&B/ソウルとは、ブラック・ポピュラー・ミュージックのことである。これは、
黒人歌謡曲と言い切ることも出来る。1940 年代までジャズはダンス・ミュージックとして
人気があったのだが、いつしかアートな鑑賞用音楽となってしまい、一般の黒人大衆には
興味の沸かないものとなってしまった。しかしその代わりに「ゴスペル、ビッグバンド・
スウィング、ブルースなど、ブラックミュージックのいくつかのジャンルが合体し、新し
いテクノロジー、特にエレクトリック・ベースの一般化を土台として登場した1」。これが現
在R&Bと呼ばれるジャンルの成立だといえる。60 年代になるとR&Bはさらにファンキ
ーになり、ソウル・ミュージックと呼ばれ始めたが、この 2 つのジャンルの境界線は曖昧
だ。そのため、R&B/ソウルと表記されることも多い。しかも、その誕生から現在に至
るまでの約 60 年間、
「歌は世につれ、世は歌につれ」の原則通り、R&B/ソウルも様々
に変化を遂げてきた。1945 年に第二次世界大戦が終わり、戦勝国アメリカは笑いの止まら
ない躁状態だった。所が黒人は相変わらずの二級市民扱い。子どもたちは白人と同じ学校
には通うことが出来ず、大人も選挙権はあったものの、投票を妨害されることの方が多か
った。そんな状況に我慢できなくなった黒人たちは、1950 年代に入ると、差別を無くし人
間としての尊厳を取り戻すための闘いである公民権運動を展開していった。多くのデモが
繰り広げられ、その度に白人や警官からの迫害を受け、それでもひるむことはなく運動を
続けていった。その甲斐があり、1963 年には差別を禁じる公民権法が成立したのだ。しか
し、偏見の目で固まった人々の心を一夜にして変えることは出来ないのが当時の現状で、
1965 年にマルコムX、1968 年にはキング牧師と、2 人の偉大な黒人運動リーダーが相次い
で暗殺されている。しかし、こんなにも苦しく緊張感に満ちた時代にも、黒人は音楽を忘
れなかった。彼らの心には、いつでも楽しいR&B/ソウルが流れた。それらの音楽は彼
らを勇気づけ微笑ませ、時には一晩中踊らせ、また涙ぐませもした。どんなに苦しい時代
であっても、いつだって楽しくいるためには音楽は欠かせなかったのだ。
②ブルースとは、ブルー(憂鬱)な気持ちを歌うからブルースと呼ばれていた。黒人のブル
ーとは、一体どんな憂鬱なのだろうか。 ブルースの生まれた地域の話を読んだのでその一
部を挙げる。あるじっとしていても汗が出る程に蒸し暑い日に、見渡すばかりの綿花畑の
間に横たわる埃っぽい道を、痩せた若い黒人の男が歩いている。その先には、ジューク・
1
ネルソン・ジョージ『リズム&ブルースの死』早川書房、1990 年、29 ページ。
312
ジョイントと呼ばれる粗末な小屋のような酒場がぽつんと建っている。その木造の少しみ
すぼらしい酒場に一歩足を踏み入れると、そこにはギターとハーモニカの音が渦巻き、人々
は歓声を上げ、板張りの床を踏み鳴らし、シンガーのかすれた歌声に聞き惚れている。こ
れがアメリカ深南部ミシシッピ州のデルタ地方で生まれたブルースだ。
③ゴスペルとは歴史は奴隷の歴史と共に始まる。北米にアフリカからの奴隷が初めて連
れて来られたのが 1619 年。それ以来、奴隷たちはアメリカ南部の農園で、炎天下の中、1
日中働き通しだった。食事も満腹するまで食べられることはほとんどなく、苦しい奴隷生
活を送っていた。そんなやりきれない思いを少しでも和らげるために、畑で働きながら歌
を歌った。白人奴隷主によってアフリカの部族語を使うことを禁じられていたため、シン
プルな英語で日々の生活の様子などを歌にした。コール&レスポンスによって独特のリズ
ムを作り出し、これらはワーク・ソング(労働歌)と呼ばれ、後の全ての黒人音楽の基礎とな
った。やがて奴隷主たちは、奴隷をキリスト教に改宗させていった。けれど、それは奴隷
たちに思わぬ自由を与えることになった。教会の中だけは、白人の監視下に置かれず、自
分たちだけで集える場所となったからだ。ここで黒人たちは祈り、そして歌った。それは、
普段畑で歌っているワーク・ソングを変化させたスピリチュアルという宗教歌だ。このス
ピリチュアルがさらに進化したものがゴスペルになる。そのためゴスペルは神への讃歌で
あると共に、自由への讃歌でもあった。
①、②、③のように、ブラックミュージックは、奴隷制、戦争、差別と大きな関わりがあ
るのだ。そしてより詳しく歴史を紐解くと、アメリカ社会の捻じ曲がった仕組みを知るこ
とが出来る。端的に述べると、黒人奴隷制とはまさに人種的なものではなく経済的なもの
であったのだ。皮膚の色の問題ではなく、ただ労働力として安価であったから。17 世紀初
期から始まる奴隷制度。そこから根付いた黒人に対しての偏見であったりマイナスの価値
観がその後およそ 400 年もの間、黒人達を苦しめることとなるのだ。
Ⅲ.ブラックミュージックとアメリカ史
ブラックミュージックとアメリカ史
ブラックミュージック発祥を記すに当り、アメリカ史の悲しい出来事を無視する訳には
いかない。本章では、代表的な出来事である奴隷制度について触れながら、近代資本主義
の構造の仕組み、ヒト、モノ、カネの動きを記す。約 400 年前に誕生した奴隷制、その裏
側では資本主義のからくりによって富を得る者が存在し、利益に目が眩んだ者達のマネー
ゲームが進む一方で、奴隷となる黒人達の人数は増加する一方であった。
(1)奴隷制度と三角貿易
この問題に触れるに当って、私はそもそもなぜ奴隷制度が生まれる必要性があったのか
という事に疑問を抱いた。しかし調べを進めると奴隷制度の起こりとは、一言で言うなら
313
ば 15,6 世紀頃にアメリカ大陸に植民地を有していたスペイン、イギリス、ポルトガルによ
るプランテーション経営の労働力不足が招いたものであったことが分かった。奴隷制度と
いうのは、アフリカから連れられた黒人達が奴隷主(プランター)によって過酷な労働条件で
働かされるというイメージであるが、初期の頃(17 世紀初期)は人種的には黒人ではなく過
程としてインディアン、その後に白人奉公人を経ていたのである。しかしインディアンは
過重な労働の強制、飢餓、新たな生活方式に対する適応能力の欠如などを理由に急激に減
少、続いて白人奉公人が奴隷として扱われたが労働力の供給が追いつかなかった事、積極
的に移住の希望を表明し、尚且つプランテーションからの逃亡が容易であった事などを理
由に白人奉公人を奴隷とする事は次第に困難になっていった。そこで注目されたのが黒人
である。インディアン、白人奉公人とは違い、過酷な労働条件に適応できる屈強な体で有
った事、労働力として圧倒的な安価であった事などを理由に、奴隷商人達にとっては正に
うってつけの人種として急激に需要が増した。それは当時のバルバトス総督が述べた「く
ろんぼ 3 人は一人の白人労働者よりも働きがよく、かつ安い2」という言葉が証明している。
また、当時の時代背景としては皮肉なことにプランテーションの労働力の不足が非常に深
刻な状況にあったのである。私は、黒人は人間として純粋で、労働力として優秀だったか
らこそ、奴隷にされたという現実が重いと感じた。労働力として優秀だったからこそ奴隷
にされるべきでは無く、アフリカ大陸の発展に尽力を注がれる人材達ではなかったか。
しかしなぜこんなにも長い間奴隷制が残っていたのであろうか。それはアメリカの経済
が奴隷労働に依存していたから、つまり、黒人の労働なしにアメリカという国はありえな
かったからだと思う。まさに黒人奴隷がアメリカを作ったのである。その根源的理由は、
イギリスの本国で産業革命が始まったこと。産業革命では、蒸気機関の発明により人間が
簡単な機械で布を織っていたのに対して、もっと大がかりな機械でどんどん効率的に、ま
た安く布を織ることができるようになったからだ。布(多くは綿製品)の原料は、綿花で
ある。アメリカの南部では、タバコよりも綿花が大量に栽培されるようになり、19 世紀初
め(つまり 1800 年代のはじめ)の綿花栽培量は、その 50 年後にはおよそ 30 倍以上になっ
た。奴隷の人口も、約 90 万であったが、やはり半世紀後には、400 万近くになっていた。
もちろん、綿花以外でも、それまで続いていたタバコ、サトウキビ、麻、米などをアメリ
カの南部ではずっと栽培していた。アメリカは現在でも世界最大の農業国だが、機械化さ
れる以前の農業大国の基盤のほとんどはアフリカ系アメリカ人によって形作られたと言え
る。
ところで、奴隷達はいかにしてアフリカ大陸から連れられ、奴隷として働くこととなっ
たのかについてという事に焦点を当てる。単語として奴隷船という言葉がある。まさしく
アフリカの黒人達は一隻の船に(動くスペースすら与えられないぐらいの収容人数である)
2
エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』明石書房、2004 年、28 ページ。
314
押し込まれ運ばれてきたのだ。奴隷を集める方法であるが、ヨーロッパ人は初めアフリカ
西海岸で自ら奴隷狩りをしたが、次第に巧妙な方法をとるようになった。海岸に黒人を一
時的に収容しておく砦を作り、対立している黒人同士の争いを利用して、砦まで黒人を狩
り出す仕事を黒人達にさせた。こうすることで、奴隷船は、砦に監禁されている奴隷達を
一括して積み込むだけで済むのだ。別の地域、スーダンの場合は、「部落を襲うと根こそぎ
処分した。老人と赤ん坊は惨殺され、中年女はなぶりものにされて殺された。少年少女だ
けが、奴隷として首に綱をつけられ、引き立てられた3」などのように、悪質極まりない手
口でのいわば『奴隷狩り』が繰り広げられていたようだ。奴隷売買という制度もある。「奴
隷売買は売り手が買い手と直接交渉するかたちで近所の者同士が行う場合も多かった。ま
た、新聞広告あるいは委託販売商、競売人、周旋屋などを通じて、地域の中から買い手を
「奴隷船は黒人の正規の芸術伝統をいちじる
求めるやり方もあった4」。近所の者同士また、
しく破壊した。白人はこのような文化的強姦をおこなったのだ。
『文化のない』民族とは記
憶を持たぬ民族である。歴史を持たぬということだ。奴隷にはそういう状態が一番良い。
主人の持ち物と同じように、物になることなのだ5」。しかし、その裏側では「三角貿易」と
いうビジネスが繰り広げられていた。奴隷船は三角形の航海をした。具体的には、ヨーロ
ッパ各国は、安価な品物を積んでアフリカ西海岸へ行き、奴隷と交換して中南米へ運ぶ。
そこで奴隷を売り、砂糖や好物を仕入れてヨーロッパへ戻る。一方で、北米の場合は、北
部の奴隷商人達がラム酒や日用雑貨品を積み、これをアフリカで奴隷と交換する。そして
奴隷を必要とする自国の南部へ運び、タバコ、綿花、砂糖などと交換して北部へ戻るとい
うシステムである。
図 1‐A 北米の三角貿易
図 1‐B
ヨーロッパの三角貿易
図1のように奴隷を正に商品として扱う事が当時の植民地宗主国にとっては一大ビジネ
スであり国の発展の礎であったようである。では一体、どのような国々により奴隷貿易(三
角貿易)は展開されたのか。奴隷貿易は様々な歴史を経て大きく発展したものであり、1498
年のバスコ・ダ・ガマによる喜望峰到達を皮切りに始まったものである。端的に述べると、
3
4
5
S・オカラハム『黒の奴隷貿易』大陸書房、1969 年、183 ページ。
ケネス・M・スタンプ『アメリカ南部の奴隷制』彩流社、1988 年、228 ページ。
リロイ・ジョーンズ『ブラックミュージック』晶文社、1975 年、258 ページ。
315
当初は香辛料を求めてイタリア、イスラムが中継貿易を行っていたがその後、上記に挙げ
たように、喜望峰回りの航路が開発されたことで、ポルトガル、スペイン、オランダ、フ
ランス、イギリスが直接にアジアに進出しプランテーションを経営するようになり、香辛
料の価格が相当に下落した。一方中国の紅茶、中南米のコーヒーの味を知ったヨーロッパ
人はそれに夢中になり、それに伴い砂糖の需要が急速に高まったという事実があり、その
裏側で奴隷の人々を対象とした売買が繰り広げられていたのだ。以降スペイン、ポルトガ
ル、イギリスの三国によって繰り広げられる三角貿易の歴史について触れていく。
●
ポルトガル
①1498 年バスコ・ダ・ガマはポルトガル王の支援のもと、喜望峰回りでインドのカリカッ
トに到着。香辛料をイタリア、イスラムを経由せずに直接入手。以後繁栄の中心は地中海
から大西洋海岸国家へ。
②当初は需要が高まってきた砂糖の栽培を、西アフリカ沿岸諸島の原住民にさせていた。
その後ポルトガルはブラジルを入手し、森林を焼き払い砂糖畑のプランテーションを始め
た。この時西アフリカから奴隷狩りをして運んできた。これによりヨーロッパ(スペイン)
~アフリカ~新大陸(ブラジル)の広域貿易が始まる。1570 年からの約 300 年間で 360 万
人が奴隷として運ばれた。
●
スペイン
①1942 年コロンブス(ジェノバ人であるがスペインのイザベラの支援を取り付けた)はカ
リブ海に到達。このとき 7 名のインディオをスペインへ連れて帰った。帰国後の報告を受
けて、スペインはコロンブスに 17 隻の船と 1500 名の乗組員を与えた。このとき彼はトウ
モロコシや綿花の貢納と金鉱採掘の強制賦役を課し、500 名のインディオを奴隷としてスペ
インに連行した。彼らの原住民に対する支配がいかに過酷であるかは、この第 2 回目の航
海の 1493 年からの 3 年間で約 300 万人いた住民の 2/3 が生命を奪われた事からも分かる。
彼はその後第 3、4 回目の航海をしたが、金鉱が発見されずに奴隷貿易を始めたが本国で告
発されるなどして、失意のうちに死んだとされている。
②スペインはポトシ銀山を初めとして相当量の銀をヨーロッパにもたらし、世界的な価格
革命を起こした。しかしスペイン繁栄の陰では、インディオは過酷な労働と征服者が持ち
込んだ天然痘により大半の人間が死亡した。そこで考え付いたのが西アフリカでの奴隷狩
りである。これによりスペイン~アフリカ~西インド諸島の三角貿易が成り立った。
③スペインのコルテスは 1519 年 550 人の兵士と 14 問の大砲、16 頭の馬で侵入、1521 年
アステカ帝国滅亡。(今まで見たことも無い火器や馬に恐れをなしたため)。更にスペイン
のピサロはインカ帝国を 1533 年に滅ぼした。この時はわずか 16 丁の火縄銃と 186 人の兵
による。この時皇帝をだまし莫大な金銀財宝を略奪した。
③スペインは奴隷を購入するために黒人王国(ダホメー王国、ベニン王国)に部族間戦争
316
に勝ち、奴隷狩りをし易くするように小銃を与えた。その他にラム酒、子安貝(現地の貨
幣)、安物の綿布などが挙げられる。
④スペインはオランダへの過酷な徴税と新教と弾圧により独立運動が起こり、更に 1588 年
には無敵艦隊がイギリスに敗れた。その後、海上の覇権はオランダに移ったが、最終的に
はイギリスになる。
●
イギリス
①イギリスは 16 世紀から始まるポルトガル、スペインの大陸間三角貿易を見ているだけで
あった。スペインからオランダの独立を援助し、スペインをマルマダ海峡で倒した後は、
オランダが当面の敵になり、その後、フランスとの戦いが世界中の植民地で行われた。そ
のほとんどで勝利したイギリスは産業革命を成し遂げ、更に産業革命による製品の力によ
り世界帝国に発展する。
②イギリスは 17~18 世紀は中国の茶・陶磁器・絹の代金を銀で払う完全なる片貿易であっ
た。そしてコーヒーや茶の飲用が広まっていくに従って砂糖需要も高まっていったが、こ
のような生活革命の風潮はほかのヨーロッパ諸国にも波及し、それらの国々でも砂糖需要
が増加した。それにつれて西インド砂糖プランテーションのもつ経済的比重はいよいよ高
いものとなっていった。18 世紀初めにおいては、イギリス領西インド植民地ばかりでなく、
フランス領西インドでも砂糖の生産が大いに繁昌した。そうなると、西アフリカからの奴
隷船によるニグロ奴隷の需要も多くなり、砂糖需要と奴隷船貿易の拡大を軸とした三角貿
易が、いよいよ活況を呈することとなった。このような三角貿易の発展によって、イギリ
スでは、本国と西インド植民地との経済的結合が強化され、それがイギリス重商主義帝国
の核心を形づくることとなった。しかし同時に三角貿易には、アメリカ大陸ニューイング
ランド植民地の商人たちが行ったものもあって、特に 18 世紀に入ってから活発に展開され
るようになった。これは西インド産の糖蜜をアメリカ 13 州に送り、これをラム酒に加工し
てその一部を西アフリカに送り、そこでこれを販売して奴隷を買い入れ、今度はそれを西
インドに送るというものであった。当然のことながら植民地商人たちは、イギリス領以外
の西インドとの取り引きに重点を置いたがために、これが本国重商主義政策の規制に触れ
ることとなり、のちのアメリカ独立戦争の要因の一つとなった。その意味ではイギリス本
国商人の三角貿易はイギリス重商主義植民帝国の形成に貢献したが、植民地商人の三角貿
易は逆にそれを掘り崩すことになった、ということができる。
以上三国によって奴隷貿易は形成され発展した。奴隷とされた数は 1550 年からの約 300
年間で 2000 万から 5000 万人といわれている。輸送中に劣悪な環境なので 1/4 から 1/3 は
死亡したといわれている。それでも各国々にとっては利益が生まれるという事実があった。
それは当時、本章冒頭でも述べたように、奴隷(黒人)一人当たりが、大変安価で引き取る事
が可能であった事、そしてイギリスにおける 7 人分の働きをするとまで言われていたこと
からも容易に証明できる。一体ヒトの命を何だと思っていたのか、現在の豊かさや富の裏
317
側にある、貧困問題や格差問題というのは近年生まれたものではないと考えるし、この時
代から引き継がれている正に人間の歪んだ資質が生み出した構造ではないかとさえ考える。
(2)近代資本主義の発展
産業革命とともに近代資本主義は始まったといえる。そして産業革命を準備したのが、
奴隷制度ならば近代資本主義は奴隷制を踏み台として始まったことになる。つまり産業革
命は近代資本主義の起点となりうるものだったのである。
まず産業革命というのは資本の本源的蓄積が必要であり、生産性の飛躍的増大に繋げるた
めには元手となる資本の準備が必要であった。そこでイギリスで先駆けて行われたのが、
毛織物業による「囲い込み」であり、土地を奪われた農民は無産労働者となり、収奪の機
会を得た大地主は資本家と成り、二分化が進んだ。そして産業革命に先行準備したとされ
る砂糖産業も、主導した綿織物産業も、いずれも黒人奴隷制に他ならない大農場経営あっ
ての物種、そして奴隷労働以上の公然、大量、長期にわたる搾取も収奪も無かったとすれ
ば奴隷達の血と涙の結晶が、本源的蓄積に繋がらなかったとすれば不思議といわねばなら
ない。
ここで私は、一度、イギリスの経済に焦点を当て、産業革命に至るまでの本源的蓄積、
その為の奴隷の数は必然的に産業革命前に爆発的に急増されたと仮定できると考えた。16
世紀から 19 世紀後半まで続けられた公然、長期、規模としても、史上最大の拉致、及び、
終身強制労働を強いられたアフリカ人の総数は具体的には一体いくらで時代的増減の大略
を知ることで自ずから答えを導くことが可能なはずだ。E・Eダンバーによる南北アメリ
カへの奴隷輸入推定という推計を用いて考える。
表 1 南北アメリカへの奴隷輸入推定
年代
輸入数
1500- 1525
12,500
1525- 1550
125,000
1550- 1600
750,000
1600- 1650
1,000,000
1650- 1700
1,750,000
1700- 1750
3,000,000
1780- 1800
4,000,000
1800- 1850
3,250,000
合計
(出所)E.E.Dunbar, “Commercial Slavery” より
Philip D.Curtin が作成したもの。Curtin, ibid, 7 ページ。
徳永達郎『奴隷貿易と産業革命』杉山書店、1986、17 ページ。
318
13,887,500
表2
新大陸の地域別奴隷輸入数 1451-1870(1部旧大陸をふくむ)
地域及び国
計
1451-1600
英
領
北アメリカ
領
1701-1810
1811-1870
348.0
51.0
399.0
292.5
578.6
606.0
1,552.1
カリブ海
263.7
1,401.3
1,665.0
ジャマイカ
85.1
662.4
747.5
135.4
252.5
387.0
44.1
301.9
346.0
スペイン領 アメリカ
英
1601-1700
75
バルバトス
リワード諸島
セント・ビンセント
セント・ルシア
70.1
トバコ・ドミニカ
仏
トリニダード
22.4
22.4
グレナダ
67.0
67,0
その他
25,0
25.0
領
カリブ海
155.8
サント・ドミング
74.6
789.7
マルティニータ
66.5
258.3
41,0
365.8
グァデループ
12.7
237.1
41.0
290.8
ルイジアナ
仏領
1,348.4
96.0
864.3
28.3
ギニア
2.0
35.0
1,600.2
28.3
14.0
51.0
500.0
オランダ領カリブ海
40.0
デンマーク領カリブ海
ブ
旧
ラ
ジ
世
ル
帯
計
年
平
4.0
均
460.0
24.0
1891.4
28.0
50
560.0
1,1454
3,6468
149.9
25.1
274.9
1,3411
6,0517
1,8984
9,5661
1.8
13.4
55.0
31.6
22.8
175.0
単位 1.000, 100 以下省略
(出所)Philip d. Curtin, The Atlantic Slave Trade : A Census (Madison, 1969), 268 ページ, 第 77 表から
作成。
池本幸三「18 世紀イギリス奴隷貿易の一考察」竜谷大学『経済学論集』第 11 巻、第 1・2 号、1971 年 9
月、294 ページ。
表 1 の特徴は、全体が 1400 万弱の総数中、
産業革命直前の 18 世紀の移入数が 700 万で、
ほぼ半数を占めていることだ。部分的に地域別分布を検討した表 2 の特徴は、ブラジルが
319
38%で単独首位を占めるものの、カリブ海諸島が 40%でこれを抜き、上記以外の南北両大
陸が 22%で、地域としてはカリブ海諸島がトップを占めていることだ。
以上の特徴を合計すると、18 世紀にカリブ海諸島において隆盛を極めた甘蔗栽培が本源
的蓄積を促進して産業革命への先行期を形成し、続いて合衆国南部で展開された綿花栽培
が 1、イギリス綿工業を勃興させ、鉄鉱・鉄道業等へと波及成熟させ、「世界の工場」とし
ての雄姿を輝かせていった史実が、奴隷貿易の実態に見事に浮き彫りになっているように
思われる。以上より産業革命が興るに当り、奴隷制は必然的なものであり、爆発的に需要
が増加した一大産業であったことが立証できた。同時に、奴隷制なしには現在の先進国の
発展は皮肉にも無かったといえる。
それは以下の事例からも明らかである。
奴隷取引の利益率の事例
「1730 年ごろ、… リヴァプールでは、利益率 100%というのは珍しくなかった。どう低
くふんでも 300% の利益をあげた航海もあった。878 隻のリヴァプール船により 1783 年
から 93 年のあいだに輸送された 303,737 人の奴隷を英貨に換算すれば、1,500 万ポンドを
上まわり、手数料その他の出費、艤装費および奴隷維持費をさしひいた平均年利益率は 30%
を上まわる。… だから、3 隻のうち 1 隻帰れば損はない、2 隻が帰ればぼろ儲け、という
言いならわしも頷ける。平均すれば、5 隻のうち 1 隻が失われたにすぎないのだから6」。
また一方で、産業革命は政治的・軍事的強権の裏付けあっての物種、つまり産業革命は
生産力の爆発的増大を主因としていたが、それは絶大な覇権の確立を伴ってのことであっ
たとも言える。最初に工業化されたイギリスの綿業は本質的に外国貿易と結びついていた。
その原料は一オンスにいたるまで亜熱帯または熱帯から輸入しなければならず、 その生産
物は圧倒的に海外で売られることとなるが、それが可能となったのは原料と市場の政治
的・軍事的支配、即ち、植民地化と軍事的征服に裏付けられたからである。1700 年までに
輸入禁止令をもって国内市場から優勢なインド製品を締め出し、逆に国外市場においては、
工業化を阻まれたインド亜大陸をランカシャー製品が席捲して 19 世紀初頭には完全支配下
に置いた。政治・軍事の両面における国家的介入を待って初めて( 奴隷貿易がその基礎を
築いた)商業と海運がイギリスの国際収支を維持(増大)させ、海外の一次産品とイギリ
スの工業品との交換に基づく経済体制が不動のものとなったのである。E・ウィリアムズ
も「大英帝国とは、アフリカを基礎としてそびえ立つアメリカ貿易と海軍力の壮大な上部
構造だった7」。と記している。
本章(1)、(2)を総じて言えることは、黒人奴隷労働が資本の本源的蓄積を促進し産業革
命を惹き起し、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)をもたらしたという事だ。イギリスの近
代資本主義の成立こそが各国の欲望の種に火をつけ、競争させ、利益しか見えなくさせた
6
7
前掲書、エリック・ウィリアムズ、46~47 ページ。
同上書、63 ページ。
320
のだ。そのお陰で(とはあまり言いたくないが)重工業、金融業、保険業、その他…の資金繰
りも潤い、今の世の中を司るシステムを組み上げたのだと言える。資本主義とは次々と変
革や革新を生むシステムだと思う。また、世界がこれから大きく進歩していくにはやはり
資本主義を抜きには実現しえない。しかし奴隷制度に依存し、奴隷制度を自国の発展の踏
み台にしたアメリカ、イギリスその他の国々は、過去の行いを恥ずべきだ。まさに奴隷制
度は人間の本質的欲求、(幸せになりたい、豊かになりたい、大金持ちになりたい…)の加熱
した果ての姿だと思うし、同時に、途上国の発展にもっと関心を示すべきだ。自分達の手
によって衰退させたアフリカの国々を復興させることを最優先に考えて欲しい。それは
我々日本も含めて世界規模での問題だと思う。
Ⅳ.黒人達の
黒人達の反抗
前章では奴隷制及び、近代資本主義と先進国の発展の過程などを記した。本章では悲し
くも犠牲となってしまった黒人達に立ちはだかる社会の壁、差別問題を中心に考察を進め
ていく。奴隷制が生んだ結末としての南北戦争、そして奴隷解放宣言。そこに本当の自由
はあったのか。その答えを探すと共に、歪んだ社会に立ち向かう黒人達の姿、あるべき社
会の姿を記していこうと思う。
(1)戦争と差別
19 世紀になり 15 世紀から続いた奴隷制及び、奴隷貿易もいよいよ終焉の方向に向かうこ
ととなる。当初、私はイギリスでは当時、産業革命の真っ只中にあり、奴隷需要は明らか
に高まっていたはずであり、なぜ奴隷制の必要性が無くなっていったのか疑問に感じた。
しかし奴隷制廃止には人道的見地と生産的見地の両方があり双方の見地をもってして廃止
の方向へ向かっていったようだ。まず、前者は啓蒙主義による目覚めから人種差別や黒人
奴隷を悪とする道徳的運動によりウィーン会議で奴隷貿易が禁止され 1860 年代にほとんど
の国で奴隷制度が廃止される。後者は奴隷では単純労働に限られ生産性が低かったからで
ある。産業革命と工業化(機械化)が進むと熟練した(少数の)労働者を必要としたが奴
隷ではこの需要に応えられない。また奴隷主は生活のすべての面倒をみなければならずコ
ストも高くなる。単純労働の場合も低賃金の日雇い契約労働者を雇ったほうが遥かに経済
的で暴動の危険もない。もちろん後年にはストライキなどの労働運動が起きるのだが、結
果的に工業化による労働者の質の向上が奴隷を生産現場から駆逐したと言っていいといえ
る。よって後進国では奴隷まがいの行為が未だに存在するのである。この段階で言えるこ
とは、自国の発展に奴隷を使うだけ使って、自国が発展したら用なしというわけだ。様々
な奴隷に関する禁止条例が試行されたことも奴隷制の廃止に向かう原因の一つではあるが、
先進国の工業化こそ奴隷制廃止の主たる原因であるのだ。ここで一旦同時期のアメリカに
目を向けてみる。ちょうどこの時期、奴隷制に反対する声が強くなっていた。
321
代表的な奴隷反対主義者の人物としてジョン・ブラウンの名を挙げる。ブラウンは南北
戦争が開戦する約1年半前、親族や支持者ら 21 人の部下と共に合衆国の兵器庫ハーパー
ス・フェリーを襲撃(ジョン・ブラウンの乱)した。ブラウンの意図は、自ら持参したシャ
ープス銃 200 丁・短銃 200 丁・長槍 1,000 丁とともに、兵器庫にある数万丁のライフル銃
を強奪し、それらをマリーランド州の奴隷たちに配り、やがて襲い来るだろう州兵・連邦
軍らと戦いつつ、奴隷解放の革命を起すことにあった。事件そのものは、武装したハーパ
ース・フェリーの町民や周辺から駆けつけた州兵、連邦軍によって短時間で制圧されたが、
ブラウンの乱は、それまでもっぱら政治の問題・言論の問題と思われていた奴隷解放の主
張に、ついに武力闘争が持ち込まれたという意味で合衆国全土に激震を与えた。
「北部の奴
隷解主義者らは、ついに奴隷が武器を持ち主人らを殺すよう煽動を始めた8」と、南部の有
力政治家や農園主らの多くは恐れおののいた。当時、南部の黒人奴隷の数は 400 万人、そ
れを支配している白人農園主の数は約 50 万人。支配者にとって、自らに数倍する黒人奴隷
が武装して革命を起すという未来図は、まさに悪夢であった。
一方、ブラウンが絞首刑台の露と消えると、北部のキリスト教会は一斉に鐘を鳴らし、
ブラウンを奴隷解放の大義のために献身した現世のキリストであるかのように喧伝した。
ハリアット・ビーチャーの著書「アンクル・トムの小屋」が世に出て 7 年、南部黒人の悲
惨な生活は、小説という形を取って北部の民衆の間に広く浸透していた。そして、ブラウ
ンは、この頃、
「カンザス血の抗争」において、奴隷解放主義の側に立って戦う人物として、
世の中に知られている存在であった。ジョン・ブラウンの乱は、北部と南部の対決の構図
を深めたという意味で、南北戦争の開戦を早める効果をもたらした。
南北戦争の南北とは、米国の北部地域(首都ワシントン)と南部地域(仮首都リッチモ
ンド)を指す。米国の北部地域は「新興工業地域」であったため、最初英国等の先進工業
国の「安くて良質の工業製品」に対抗できる良質の「工業製品」を生産できなかった。そ
のため「大規模農業地域」であった米国の南部地域の人たちは英国等の工業国の「安くて
良質の工業製品」を購買したため、当然米国の北部地域の新興工業企業は「赤字」になり、
ために米国政府に圧力をかけ「保護貿易法」
(英国等の外国からの輸入工業製品に高い関税
を賦課)を成立させた。
結果、米国の南部地域の人たちは「品質の悪い米国の北部地域の工業製品」の購買を強
制されることになり、怒って「南部地域だけの州」が連盟して「独立宣言」を出し米国か
ら独立しようとしたが、北部地域の新興企業にとっては大事な販売市場である「南部地域」
の独立(正確には米国は「各州」が準独立している連邦制そこから南部地域の各州が離脱
しようとしたのであるが)を認めるわけにはいかず、「北部の州」の連合と「南部の州」の
連合が「戦争状態」に陥ったのだ。その時、米国の北部地域の新興工業企業の労働者は「黒
人」が多く、また一方米国の南部地域の大規模農業経営下で働いていた労働者も「黒人」
8
菊池謙一『アメリカの黒人奴隷制度と南北戦争』未来社、1984 年、132 ページ。
322
が多かったのである。とくに米国南部地域の大規模農業経営下の「黒人」労働者の待遇は
ひどく「債務奴隷」の状態の人たちが多かったので、時の米国の北部地域側の米国大統領
「リンカーン」はこの「南北戦争」においてかれら「黒人」たちの支持加勢を得んとして、
「奴隷解放宣言」を発し、
「南北戦争」を有利に進め勝利せんとしたのである。結果「黒人」
の人権は確立されるわけだが、
「黒人」たちも「戦争」に加勢し血を流して自分たちの力で
「自分たちの人権」を勝ち取ったわけで、別に「リンカーン」の恩恵で「黒人」たちの「人
権」が確立されたわけではない点が重要であると考える。それは上述したジョン・ブラウ
ンの言葉→それは上述したジョン・ブラウンの言葉→「私、ジョン・ブラウンはこの罪あ
る国土の罪業(奴隷制度)は流血によらない限り、決して洗い清められないだろうと、いまこ
そ本当に確信している。いまにして思えば、私は、おろかにも、これまで、多くの血を流
。からいかに奴
さずにそれがなされるだろうと、甘い考えで自分をいい気にならせてきた9」
隷制が確固として存在し続けたかが分かる。私はジョン・ブラウンのような勇気のある人
物に敬意を表したい。黒人の立場として明らかな劣勢の中で社会に異議を唱えることは容
易ではなかったはずだからだ。大衆の中で自分の考えを曲げずに主張を続けることが人々
に勇気とパワーを与えたのだと思う。
「黒人の人権の確立」ということで南北戦争は終結した。では、南北戦争が終わった 1865
年に奴隷が解放されて、黒人=アフリカ系アメリカ人への差別は本当に解決したのだろう
か。その答えは「NO」だ。アフリカ系アメリカ人が平等な権利を持つことを嫌う白人達の
抵抗が前面に出てくるようになっていったのである。それは次第に黒人達が取るべき行動
の規範が明確化され、最終的には白人との日常的接触さえも許されなくなる。また、1890
年までには白人はアフリカ系アメリカ人から、彼らが得たばかりの法的権利を事実上奪う
とことが出来る法や規則を新たに作り出した。例として、ミシシッピ州の参政権剥奪方式、
「特に読み書き、理解能力テストは、登録官の恣意による判断が可能であり、人種を条文
に明記せずに実際には黒人だけを選挙から排除する方式として好まれた10」。というもので
る。さらには、しばしば暴力に訴えてまで、人種差別と白人の優位性を堅固にしていく社
会的慣習を強要するようになった。これが「ジム・クロウ法」と呼ばれるものであり 19 世
紀後半から深く社会に根付いていくものとなるのだ。
ジム・クロウ法の歴史的事実として代表的なものがある。それは黒人用と白人用の学校
の分離、及びバスの座席の分離である。前者に関して言えば、白人用の学校には黒人のそ
れとは何倍もの予算が与えられ、結果として黒人の小学校の設備や教員の質は低くなり、
黒人の子供達は高等教育を受ける機会が全くなくなってしまったのだ。後者に関しては、
バスの座席は圧倒的に白人専用の座席が多く、黒人専用の座席は後方部のみと完全に駆逐
され、尚且つ白人か黒人かの見分けが付かない混血の乗客に対しては、バスの運転手が座
9
10
前掲書、菊池謙一、151 ページ。
上杉忍『公民権運動への道』岩波書店、1988 年、124 ページ。
323
席を指定するという有様である。また、黒人は白人の従属的奴隷であるということを社会
に浸透させるための手段として「リンチ」が挙げられる。些細ないざこざでも白人達は黒
人をリンチし、白人の優位性をリアルな現実として世間に知らしめた。過激な地域ではリ
ンチ集団KKK(クー・クラックス・クラン)が存在し、かつ「見世物としてのリンチ」「リ
ンチカーニバル」など白昼堂々とリンチを楽しむ機会が大衆に提供されていたほどである。
19 世紀の最後の 20 年に関してはリンチによって殺された黒人の数は 3000 人に上るとされ
る。このような社会システムに「自由」を手に入れたはずの黒人達が異議を唱え始めるの
にさほど時間はかからなかったようであるが、ある問題があった。ホーマー・A・プレッ
シーによって人種差別法が合衆国憲法に違反するとの裁判を起こした際に、最高裁の判決
は「もっぱら有色人種が好んでそのような構造を選んでいるからに過ぎない11」。との判決
文を出した事だ。これは「分離はすれども平等」という概念を基礎としていると同時に、
合衆国の最高裁でさえも各州が鉄道車両や公共施設において、人種による分離を行っても
違反ではないとしたのだ。要するにアメリカ政府自体がジム・クロウ法を始めとした、社
会的な慣習を支持し、人種による分離を、人種差別を、そして白人の優位性を公に認める
ことになったのである。これはアフリカ系アメリカ人達が、二流の市民に貶められ、彼ら
に白人と同じ機会を補償しない状況を作ったことになった事を意味したのである。
(2)公民権運動がもたらしたもの
南北戦争、奴隷解放宣言、このような過程を経てしても黒人達にとって本当の自由を得
られるという期待は儚くも崩れさり、更に過酷な状況は続いた。
公民権運動は、近年のアメリカ史のなかでももっともダイナミックな社会運動の一つで
ある。それはただ単に「起こった」のでもなく、またただの「歴史」でもない。形はさま
ざまであれ、その運動は今も続いているのである。何世紀にもわたる忍耐と、アメリカの
現実を少しでも良くしようという決意に動かされた一人一人の人間が、あらゆる法的、経
済的、社会的、そして教育的な手段を使って、自分たちの権利と自分たちに対する敬意を
長年認めようとしなかった社会制度を打破し、本当の権利と本当の敬意を勝ち取るために、
文字どおり血と汗と涙を流してきたのだ。公民権運動を導いてきた黒人指導者たちの力強
い人間性は、今もその当時も、多くのメディアをこの運動に注目させ、さまざまな角度か
ら分析されてきた。
しかし目を凝らしてみれば、何百という小さな市や町で、何千というごく普通の教会、
学校やその地域の公民館などでは、まったく違った指導者たちが活躍していた。小さな町
から外に出ればすぐに忘れられてしまうような彼らは、カリスマ的指導者のように注目を
浴びることも、その名前を語り継がれることもほとんどない。しかし平等を求める運動で
は、倦うむことなく働き、電話で語りかけ、家々を訪ねては理解を求め、集会を開き、歩
き、すわり込み、そして祈ったのである。この本はそんな普通のアフリカ系アメリカ人に
11
ジェームス・M・バーダマン『黒人差別とアメリカ公民権運動』集英社、2007 年、22 ページ。
324
ささげられるものである。彼らはほとんど白人の助けを借りることもなく、子どもや孫が
より良い人生を送ることができるように立ち上がり、自分たちが敬意と平等な扱いを受け
るに値するのだという確信を実現するために、何度も死に直面するような体験をしてきた。
あるときには、裁判所の判決がただ単に紙に書かれただけのものではなく、実際に効力を
持っていることを世間に示すために、自分の子どもたちの命を危険にさらすほど大きな勇
気を見せたこともあった。正義、自由、そして平等が合衆国憲法修正条項のなかに書き込
まれてから一世紀後に、そこに書かれたことを現実にしたのは、男だけではなく、勇気あ
る女や子どもたちでもあったのだ。ここからは詳しく歴史上の出来事を踏まえながら公民
権運動の全容を記す。
1955 年「モントゴメリー バスボイコット」事件について。アラバマ州モントゴメリー
で、仕事帰りにバスの黒人席に座っていた黒人女性ローザ・パークスが、混雑したバスで
白人に席を譲らなかったために逮捕される。バス運転手の命令によりしぶしぶ白人に席を
譲った同乗の黒人達に対し、差別待遇に抗議心を持っていたパークスは動かなかったわけ
だが、当時南部ではこのような些細なことで黒人は逮捕された。この事件に端を発し、当
時モントゴメリーでは新参者の牧師、若干 27 歳のマーティン・ルーサー・キングJr.を中
心に黒人たちの“バス・ボイコット”運動が起る。初めはパークスの裁判の日のみの予定だっ
たが、ビラの配布や新聞記事によってそれが成功を収めると、キングは運動の継続を決め
る。「モントゴメリーは人口 13 万人で、そのうち黒人は約 5 万人を越え、バスの使用者は
黒人達が 60 パーセントを占めていた。だからボイコットが成功して実現されれば、バス会
社は悲鳴を上げるに違いない。この時、まだ無名だった青年牧師マーチン・L・キングは、
もし黒人のうちの 60 パーセントの力が得られれば、この計画はまず成功と言えるだろうと
考えた12」。しかし、結果は彼の予想を大きく上回り、黒人達は徒歩や狭い車に同乗して通
勤し、町中のバスは空っぽになった。バス会社の収益は上がらなくなり、差別政策に反対
する世論も後押しすることとなった。指導者の家には度々嫌がらせが行われたが同時に、
全国からの激励の手紙、資金などが殺到した。また、この運動に対する連邦裁判所元判事
からの手紙がある。
「あなた方は、高い品位と勇気とがついに勝利を勝ち取るだろうという
ことをお示しになりました。―当面する問題についてはまだ勝利を勝ち取るには至ってい
ません。だが、あなた方がお示しになった誠実さと決意とは、必ずや勝利をもたらし、あ
なた方に迫害を加えてきた人たちは、彼らが残酷な―だが負けるに決まっている闘いを闘
っているということを知るに違いありません。国民は、こぞってあなた方にあいさつを送
り、あなた方ができるだけ早く救いと勝利とを手になさることを祈っています13」。ボイコ
ットを妨害する動きが少なくは無かった状況下で、このような黒人達の運動を支持する傾
向が現れてきた。そして、ついに 1956 年 11 月「バスの人種差別は違憲」とする最高裁判
決が下され、約 1 年に及ぶ運動は黒人に勝利をもたらした。運動の成功はまさに黒人指導
12
13
猿谷要『アメリカ黒人解放史』二玄社、2009 年、248 ページ。
同上書、249 ページ。
325
者たちの強い決意、自覚した黒人大衆が、非暴力という方法に徹底して、まるまる 1 年間、
黒人の歴史に全く画期的な団結ぶりを示したことにあったといえるだろう。この運動から
キング牧師による公民権運動は始まったのである。
1957 年 …『リトルロック・ハイスクール危機』について。1954 年の『公立学校における
人種隔離は違憲』とするブラウン判決にもかかわらず、白人学校へ黒人が通うという改善
は見られなかった。そこで NAACP(黒人向上協会)の女性運動家ジェシー・ベイツが中心
となり、事態打開に向けまずはリトルロックの黒人中学生のうち良いニグロと見られた、
後に『リトルロックの 9 人』と呼ばれる 9 名を白人学校、リトルロック・セントラルハイ
スクール、へ転入させる手続きをとった。しかし、9 月に黒人生徒が登校した際には白人暴
徒が入学阻止、9 人の黒人生徒は学校に入ることも出来なかった。その後、差別主義の白人
生徒達や暴徒達の規模は膨れ上がり、数千人単位での反人種統合運動が行われ、学校周辺
で繰り返される衝突は激しさを増していき、ついにはアイゼンハワー大統領によって 1000
人の軍隊が派遣され、学校周辺は軍事制圧される騒ぎとなった。当時の様子を 9 人の内の 1
人アーネスト・グリーンはこのように語っている。
「僕達の前にジープが 1 台、後ろにも 1
台走っていた。
その 2 台には機関銃が装備されていてライフルを持った兵士も乗っていた。
学校の前に着くと、学校全体が空挺部隊に取り囲まれていて、上空にはヘリコプターも飛
んでた。僕達は銃剣を下げた兵士に取り囲まれて階段を上がった。あの日階段を上ったこ
とが、たぶん今までで一番感動した瞬間だった。ついにやったぜ、と思った14」。9 人の黒
人生徒たちはその後、数え切れないほどの嫌がらせを受けながらも卒業するまで物々しい
擁護のもと学校へ通った。最終的に 1985 年には、連邦政府の要求に従った形の人種統合が
実現されることとなり、さらにはこの運動の模様は全世界にテレビ放送され、人種隔離政
策を疑問視する世論が高まるのである。9 人の勇気により歴史的な勝利を手にしたかに見え
る結果となったが、差別問題はまだまだなくなる気配すら見せなかった。奴隷制から続く
黒人に対しての偏見は我々の想像を遥かに凌駕するものであったし、9 人が受けた屈辱を考
えると胸が苦しくなるばかりである。
「1960 年 … 『グリーンズボロ シットイン』について。黒人専用大学、ノースカロライ
ナ州立農工大学に通う 4 人の男子学生が、大手雑貨チェーン店、ウールワースに入る。4 人
はランチカウンターでコーヒーを注文するがウエイトレスは、
「悪いけどここじゃ黒人の方
には出せないのよ15」の一点張り。さらには店から出て行くように言ったが、4 人は黙って
カウンターに教科書を広げ動こうとしなかった。そして連日のようにカウンターに座り込
み(シット・イン)多くの野次馬からの中傷もうけたが、この 4 人の行動に賛同する学生が続々
と集まり、あらゆる店において黒人が席を占領する動きが進んでいった。その後シットイ
ンは南部各地に広がっていき、
約 5 万人が参加するという大規模な運動に発展していった。
そして「平等な公民権を勝ち取るための新しい抗議方法として力強く始まったシット・イ
14
前掲書、ジェームス・M・バーダマン、112 ページ。
15
同上書、188 ページ。
326
ン運動が刺激となり、公立図書館での差別に抗議をする「リード・イン」
、公共のプールや
ビーチでの差別撤廃を求める「ウェイド・イン(水中歩き)」、娯楽施設の差別に反対する「ボ
ール・イン」や「スケート・イン」なども始まった16」。結果的にはグリーンズボローや南
部の商店は経済的な痛手を受け、ついには黒人の要求を受け入れることとなり、店のラン
チカウンターにおける差別は撤廃された。
このような黒人達の強い団結力、ブラックパワーによる差別撤廃運動のクライマックス
として 1963 年 8 月 28 日、アメリカ史上空前のワシントン大行進が始められた。このとき、
主催者の願いをも大きく上回る、白人も黒人も分け隔てなく 25 万もの人々が参加した。そ
して、彼らを前に、リンカーン記念堂前でリンカーン像を背にして、マーティン・ルーサ
ー・キング・ジュニア牧師による“I have a dream.”演説が行なわれたのである。この大行
進のあと、大会指導者 10 人はケネディ大統領と会談、大統領はこの大行進が全米 2000 万
人の黒人、及び全人類の主張を前進させたものとして賞賛の声明を発表するとともに、政
府は今後も黒人の要求する、雇用における差別撤廃に向かって努力すると約束を果たした。
これまで南部を中心とする黒人のデモは必ずといっていいほど流血事件・大量逮捕などを
引き起こしたが、上記のように、ワシントン大行進に関しては指導者達が徹底的に非暴力
を説いたため、これがかえって全国民に大きな感銘を与え、同時に黒人に自信と誇りを持
たせたという点で、画期的な前例となったといえるし、これほど黒人大衆の意識が高まり、
政府も改善に向けて積極的に歩み寄り、リベラルな白人大衆がその流れに合流したことは
アメリカ史上空前の出来事だったといえる。非暴力による大衆の直接行動という公民権運
動はもはや、これ以上を望み得ないほどの高まりと見事に完成された姿を示したのである。
「私には夢がある、つまりいつの日か、この国が立ち上がり、『我々はすべての人々は平等
に作られている事を、自明の真理と信じる』というこの国の信条を真の意味で実現させる
ことだ。
私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとか
つての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢が。
私には夢がある。今、差別と抑圧の炎熱に焼かれるミシシッピー州でさえ、自由と正義の
オアシスに生まれ変われる日が来るという夢が。
私には夢がある。私の四人の幼い子ども達が、いつの日か肌の色ではなく人格そのものに
よって評価される国に住めるようになるという夢が17」。
キング牧師の“I have a dream.”演説は黒人達全ての思いを代弁しているものであったと
思う。また、結果的にキング牧師は 1968 年に何者かに暗殺をされてしまうが、大行進後は
「1965 年 8 月には新公民権法が成立。1966 年にはR・ウィーヴァーが黒人として初の都
16
17
前掲書、ジェームス・M・バーダマン、122 ページ。
クレイボーン・カーソン『M・L・キング 説教・講演集』新教出版社、2003 年、103 ページ。
327
市住宅省の長官に就任、1967 年 6 月にはサーグッド・マーシャルが初の黒人最高裁判所判
事に就任、同年 9 月にはワシントン初代市長に黒人のウォルター・ワシントンが就任18」。
するなど黒人達の目覚しいまでの社会進出が為されている。それは全て何百という小さな
市や町、何千というごく普通の教会、学校やその地域の公民館など、多くの指導者や住民
が捻じ曲がった現実を打開したいという思いのもと勇気ある行動にでた事、そしてキング
牧師を始めとする、人々を引っ張るカリスマ的リーダーの存在があっての結果だといえる。
我々はキング牧師などのリーダー、そして名もなき人々の戦いの記憶を忘れてはならない
し私自身も彼らの行動、業績に敬意を表したい。現在、初の黒人大統領としてアメリカの
指揮を執るバラク・オバマ氏に寄せられる期待は大きいだろうし、歴史的意味も非常に大
きい。未だに、現代に残る黒人の問題は数多いと思う。それらの問題の解決、黒人の更な
る進歩にむけての今後の政策から目が離せない。そしてキング牧師の唱えた『夢』が全て
実現されることを強く望む。
Ⅴ、ハーレム・ルネサンス、
ハーレム・ルネサンス、そして現在
そして現在のブラックミュージック
現在のブラックミュージック
前章のように激しい差別や歪んだ社会構造の裏側では少しずつ、黒人の文化が発達しつ
つあった。まさにそれはハーレム・ルネサンス。現在のブラックミュージックの体系を形
成するのに大きな一歩となったのだ。そして日本にも少しずつブラックミュージックが伝
わり始めることとなる。
1920 年代、ニューヨークのハーレム地区は世界最大の黒人居住地区としてアメリカ全体
の好景気とともに大きく発展していた。第一次世界大戦のおかげでヨーロッパから回って
きた巨額の富は、白人社会だけでなく黒人社会にも少づつ行き渡るようになり、黒人文化
がひとつの形となって花開こうとしていた。食うや食わずの状況から脱した彼らは、それ
まで意識することのなかった自分たち独自の文化を再発見することになり、そこから新し
い黒人文化が次々と生まれ始めることになる。
ジェームス・ウェルドン・ジョンソンやラングストン・ヒューズらは、詩人として黒人
文化を讃え、人種差別の問題を社会に訴えかけた。さらに深くこの人種差別の問題に取り
組んだのは、思想家として名高い W.E.B.デュボイスやレゲエ・ミュージックの元祖ともい
える社会活動家のマーカス・カーヴェイであった。この時期にハーレムで青春時代を送り、
後にオペラ歌手、俳優として活躍するポール・ロブスンも、それまでの黒人芸能人たちと
は異なり黒人であることを自ら肯定的にとらえた先駆者となった。スポーツの世界ではい
ち早く黒人に門戸が開かれたボクシングの世界では、ジャック・ジョンソンが黒人初の世
界ヘビー級王座の座につき、黒人たちのスポーツ界進出の先駆けとなった。黒人エンター
テイメントの世界では、1921 年にブロードウェイで上演され大ヒットを記録した黒人ミュ
ージカル「シャッフル・アロング」(ユービー・ブレイク作、フローレンス・ミルズ主演)
18
前掲書、猿谷要、274 ページ。
328
もまたハーレムの文化を発展させるきっかけとなった。こうした人々の多くがアメリカの
中心ニューヨークのハーレムを活躍の拠点としていたこともあり、ハーレムは花開きつつ
ある黒人文化の黄金時代の発信地として知られることとなったのである。こうして誕生し
た黒人文化の黄金時代は、1929 年の大恐慌によって終わりを迎えることになってしまうが、
それまでの短くも華やかなその時代のことを人々は、
「ハーレム・ルネッサンス」と呼んだ。
1950 年代にアメリカで大爆発した Rock ミュージックは、海を渡りヨーロッパや日本でも
大ブレークし、若者を魅了した。日本では“ロカビリーブーム到来”とマスコミを賑わせた。
1960 年代に入ってもブームは衰えなかった。斬新な若者の文化は Rock の素となるブラ
ック・ミュージックにまで広がり、多様化していった。60 年代初頭のソウルやツイストが
それに当たる。白人が黒人ミュージックに興味を示したのだ。当時のヒットチャートを見
ても、黒人アーチストがズラリと並んでいる。この現象は白人と黒人の垣根が取れ始めた
と言っていいだろう。マービン・ゲイやオーティス・レディング、チャビー・チェッカー、
そして意外と思うかもしれないがジャズ界の大物“サッチモ”ことルイ・アームストロングも
脚光を浴び、60 年代に生涯一となる大ヒットを飛ばしている。“ハロー・ドーリ”という曲
がそれである。さて、ソウルやツイストブームが落ち着きはじめた頃、4 人組の若者がイギ
リスから大西洋を渡ってやってくる。そう、ビートルズである。1963 年にデビューしたこ
の 4 人組は瞬く間に全世界のアイドルとなり、特に女性を魅了した。どこへ行くにも女性
ファンの人だかり。レコードは飛ぶように売れ、ライブは悲鳴めいたファンの歓声が鳴り
止まず、まともに音なんか聴こえない。後にポール・マッカートニーが語っていたことだ
が、あまりの歓声のすごさに他のメンバーの楽器の音が聞こえず、フレーズが全く合って
いないことが多々あったそうだ。ビートルズを初め、この頃はイギリスからのアーティス
トがアメリカでは圧倒的に人気があった。ビートルズのデビュー後ローリング・ストーン
ズやザ・フー、ハーマイン・ハーミッツなども海を渡り、本場アメリカ勢を押しのけてい
た。テレビに出演するのもイギリス勢が登場することが多かった。エド・サリバン・ショ
ーも例外ではない。ビートルズもストーンズも何度も出演している。この現象は彼等イギ
リス勢がアメリカの音楽を、特に黒人音楽を讃えた事が大きい。上にも書いたが、60 年代
に入ってからのブラック・ミュージックの台頭のことを考えるとこの流れは理解できる。
確かに彼らの音楽はほとんどがブラックに近いノリである。ビートルズもよく聞くとブラ
ックの要素が多く用いられているし、ブラックのカバーを好んで演奏し、またアルバムに
収めてられている。
さて本場アメリカ勢はというと、プレスリーの人気は確かに絶大ではあったが、彼は音
楽よりむしろ俳優としてのイメージが大きくなっていた。レコードを出してヒットはする
が、イギリス勢の前には完敗の形であった。他にはこの頃西海岸で沸き起こった“サーフィ
ン・ミュージック”がブームになっていて、ビーチ・ボーイズはその筆頭である。彼らは当
時の本場アメリカの代表であったが、イギリス勢にはプレスリー同様全く歯が立たなかっ
た。今でもそうだが、イギリス勢のおかげでどちらかというと地味な存在である。しかし
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彼らの音楽性はイギリス勢同様ブラックである。代表曲サーフィン・USAやファン・フ
ァン・ファンはあのチャック・ベリーの曲が源なのだ。イギリス勢に人気では圧倒されて
はいたが、本場アメリカのアーチストも黒人の音楽を崇拝していた。この後に出てくるア
メリカやイギリスのアーチスト、今では大物と呼ばれている人たちも皆ブラックである。
例えばクラプトンやジェフ・ベック、ジミー・ペイジが在籍していたヤードバーズも、ロ
ッド・スチュアートも、ジミ・ヘンドリックス、ドアーズ、ジャニス・ジョップリン、ス
ティーブ・ウインウッド、ジミーがヤードバーズ脱退後在籍したレッド・ツェッペリンも
クラプトンが在籍したクリームも、基本はブラックである。ブラックが愛され、脚光を浴
びた 60 年代である。そしてそれはビートルズを初めとするイギリス勢が全世界に広めたの
である。また、一方でブラックの代表的な位置づけであるラップはどうか。2 パック、エミ
ネム、50 セント、など日本で爆発的な支持を受ける彼らの音楽の歴史とはなにか。これに
は伝統的な文化メカニズムがある。
「意味を成すことよりも、韻を踏むことが大事だといわ
れる、ダズンズとサウンディングとかの言葉遊びや儀礼的罵り合戦。男は暇さえあれば、
女に近づきラップを仕掛けることができる。人に邪魔をされずに女に話しかけることが出
来る場合ならいつでもどこでもラップのチャンスだ。…男は女とセックスしたくてラップ
する。…ときには男は自分の話術を試す為…自分の名声を高め、才知を示すため…にもラ
ップする19」。こうした様々な伝統の中の語りが、現代のラップミュージックを生み出した
土壌だ。このように、ブラックミュージックは全世界の音楽の根源となっていることがわ
かる。私達は過去の文化を理解し、彼らに対しての敬意を忘れてはいけないと思う。
Ⅵ.終わりに
現在アメリカにおいては未だに黒人問題が噴出しているが、上記の歴史を振り返るなら
ば、ナチスのユダヤ人虐殺以上の罪を犯しているのではないか。産業革命は欧米列強が成
し遂げたが実にアフリカ、アメリカ、アジアの屍の上に成り立っている、とも言えないだ
ろうか。また同時にブラックミュージックも同様に多くの屍の上に成り立っているとも考
える。奴隷制こそが産業革命を呼び、近代資本主義をもたらし、今現在の社会を形成して
いるのだ。全世界、特に先進諸国の人々は現在の豊かさだったり、数多くの利便性が存在
するのはアフリカ系アメリカ人のこのような悲しい過去があってのことだと言う事を認識
して欲しいし、強いては教育の場においてもより多くの人々に伝えていかねばならない事
実である。そして奴隷制によって発展が遅れた途上国の開発、援助にもっと力を注ぐべき
である。しかし、逆に奴隷制度というのは一言で言ってしまえば自分の努力なしで他人を
犠牲にして心の弱さが招いてしまったものだと思う。よく最近中国で物が作られるように
なっている。それで、日本で売るものも中国で作って人件費を安くして売れば、日本で売
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辻信一『ブラックミュージックさえあれば』青弓社、1995 年、142 ページ。
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ればもうかるとかあるが人件費の安い中国で物を作って日本で売れば儲かるということは
なんの努力でもないと思う、安い人件費さえあれば、そもそもなぜ同じ人間が働くのに人
件費が安くできるのか疑問でしかたが無い。これだけ made in china が世界であふれてい
る。世界の途上国が中国で生産してもらい自国でそれを売って利益をあげているが、その
中国は未だに約 8 割の人が貧困、つまり先進国の奴隷になっているのだ。それを知らず知
らずのうちに自分も加担していることとなる。でもそんなことさえも、中国の貧困民は知
らないし、どこで売られているかもしらないぐらい。そしてそんな情報さえも持っていな
い。私は、人件費が安いのなら海外企業誘致を積極的にすすめていって、ある程度、貧し
い人たちを生活ができるレベルにまで上げることが必要だと思う。そうすれば、海外の企
業の情報または、海外の情報などを学べることで、途上国国民自体が、自分たちの国のこ
とをしることで、いずれ革命がおきるのではないだろうか。多くの人々が過去のことを知
り、現在のことをより深く知る事、そしてそれに伴った行動をしっかり行っていく事で世
界は大きく変わり、明るい未来が切り開けるはずだ。
【参考文献一覧】
参考文献一覧】
上杉忍『公民権運動への道』岩波書店、1988 年。
S・オカラハム『黒の奴隷貿易』大陸書房、1969 年。
エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』明石書房、2004 年。
菊池謙一『アメリカの黒人奴隷制度と南北戦争』未来社、1984 年。
クレイボーン・カーソン『M・L・キング 説教・講演集』新教出版社、2003 年。
ケネス・M・スタンプ『アメリカ南部の奴隷制』彩流社、1988 年。
猿谷要『アメリカ黒人解放史』二元社、2009 年。
ジェームス・M・バーダマン『黒人差別とアメリカ公民権運動』集英社、2007 年。
辻信一『ブラックミュージックさえあれば』青弓社、1995 年。
ネルソン・ジョージ『リズム&ブルースの死』早川書房、1990 年。
リロイ・ジョーンズ『ブラックミュージック』晶文社、1975 年。
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