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教養・文化論集
創刊号
巻頭言
現代版「教養主義」の確立 …………………………………………………… 稲 本 俊 輝
論 文
開戦前夜の居酒屋通い
― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ― …………………………… 福 山 裕
地方都市郊外住宅地における戸建住宅居住者にみる定住意識と
地域住環境の問題点
∼ 青森県八戸市是川団地、旭ヶ丘団地を例に ∼ ……………………………… 上 村 康 之
森鴎外『山椒太夫』を読む
― 家族の物語の生成 ― …………………………………………………………… 橋 元 志 保
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究
― プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって ― ………………………… 平 辰 彦
2006年3月
秋田経済法科大学総合研究センター教養・文化研究所
目 次
巻頭言
現代版「教養主義」の確立 ………………………………………………………………… 稲 本 俊 輝 (3)
論 文
開戦前夜の居酒屋通い
― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ―
…………………………………………… 福 山 裕 (5)
地方都市郊外住宅地における戸建住宅居住者にみる定住意識と
地域住環境の問題点
∼ 青森県八戸市是川団地、旭ヶ丘団地を例に ∼ ……………………………………………… 上 村 康 之 (27)
森鴎外『山椒太夫』を読む ― 家族の物語の生成 ― …………………………………………………………………………… 橋 元 志 保 (38)
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究
― プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって ― …………………………………………… 平 辰 彦 (46)
─1─
〔巻頭言〕
現代版「教養主義」の確立
教養・文化研究所長
経済学部 教授
稲 本 俊 輝
現代日本の「風景」を見てみると、極めて慨世の念を禁じ得ない。マンション耐震強度偽装事件や資金
洗浄疑惑が連日マスコミをにぎわしている。果ては、偽造メールとやらで国会までもが無駄な時間を費
やしている。
世はまさに利益優先の拝金主義がはびこり、無責任で権力志向の人物が次々と世間の注目を集めてい
る。さらには、品位に欠けた劇場型の政治が台頭し、目立ちたがり屋のコメンテーターやタレントがも
てはやされる時代である。
日本を、このように悲惨な状況が蔓延するまでに追い込んだ原因は、いったいどこにあるのであろうか。
よく言われるように、戦後教育の悪しき平等主義による、
「節度(を守る)
」や「分(をわきまえる)
」の
否定、あるいは「らしさ(男らしさ・女らしさ等)」の軽視などに見られるような、いわゆる教養主義の
崩壊にその一端があるのかもしれない。
そうだとすれば、いま改めて「教養」について考えてみることには意義があるであろう。特に、現代
的教養とは何であろうか。
確かに、世の中には、他人の領域に土足で踏み込んで不快感を与えても平気で生きている人間もいる。
これは、人間関係における距離感に対する鈍感さであり、節度の無さといってもよい。やはり、社会生
活を円滑に送るためには、相手の心の痛みを素直に受け止めることができるような感性を持っていなけ
ればならない。そしてこれは、ユーモアや「もののあわれ」を解する遊び心とゆとりにも通じるものであ
ろう。
しかし一方、民主主義社会においては、凛とした「個」としての尊厳性も持ち合わせていなければなら
ない。これは、品格といってよい。これが身についていれば、おごらず、高ぶらず、かといって卑屈に
もならずに、自律した立ち居振る舞い(作法)ができるであろう。
この感性と品格こそが、
「教養」の基盤なのではなかろうか。しかも、これらの特性は、決して素質的に
規定されるものではなく、生まれてから後に、現実の(バーチャルではない)社会の中で、人と人との関
係を通じて体得され成熟していくものである。
そして、この二つの特性を涵養することは、キャリア教育や生涯学習を含め、あらゆる教育活動の前提
となるものであり、ひいては自己形成を志向する人間としての「生き方」の基本なのではないかと思う。
─3─
開戦前夜の居酒屋通い ― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ―
〔論 文〕
開戦前夜の居酒屋通い
―― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ――
福 山 裕
Ⅰ.
ヘンリー・ヴォーン(Henry Vaughan, 1621 - 1695)はおもに『火花散らす燧石』(Silex Scintillans,
1650 ; 1655)の敬虔な宗教詩人として知られるが、彼の詩人としての出発点は、『詩集、ユウェナリス
の「諷刺詩第10番」英訳を含む』(Poems, with the tenth Satyre of Iuvenal Englished)[以下、『詩集』
と略記]と題する世俗詩集(1646)であった。これはオックスフォードやロンドンのような都会での彼
の若い頃の生活を伝える詩やアモレットという女性に捧げる恋愛詩を中心にした13篇の詩、及びユウェ
ナリスからの翻訳を収録したものであるが、本稿が取り上げるのは、この『詩集』の中に収録されてい
る“A Rhapsodie”と題する最も初期の作品である。
“A Rhapsodie”は、ロンドンの繁華街にある「居酒屋」の一室を舞台にしたものであり、「ヴォー
ンの最も都会的な詩 1)」と呼ばれている。
『火花散らす燧石』に収録された「自然」を題材に扱った数多
くの宗教詩と比べれば、この「都会的な」世俗詩である“A Rhapsodie”は、まったくの対極に位置す
る詩であるようにも見えるが、実はその冒頭に置かれたサブタイトルから、「自然」の中に心の平安を
求めていこうとする後の宗教詩人としてのヴォーンの一面が垣間見られ、またその諷刺的特徴によって
も後のヴォーンと共通するところを見つけることができる。
当時の「居酒屋」は、一般に「イン」(inn)、「タヴァン」(tavern)、「エールハウス」(alehouse)の
三つのタイプに分類でき、おもに「イン」は宿、「タヴァン」は食事、「エールハウス」は文字通り酒を
提供する場所であったが、そのようなタイプの違いということにとどまらず、「居酒屋」は、格式の高
さあるいは規模の大きさという点から、「イン」、「タヴァン」、「エールハウス」の順番で、階層の違い
としても捉えることができた。これらのうち、ヴォーンの“A Rhapsodie”の舞台となっているのは
「タヴァン」であるが、その多くは普通「羽目板、食器類、絵画などで飾った飲酒部屋」がいくつもあ
って、「一般にジェントリー、商人、詩人・劇作家などの上流・中流階層の人々2)」を顧客とし、そのよ
うな人々にワインと食事、そして商談や会合の場所を提供する施設であった。この「タヴァン」は、
1553年の法律によってロンドンでは40軒にその数を制限されていたが、しかし、1633年の調査ではシ
ティ及びリバティだけで211軒が確認されてその制限軒数を大幅に越えるような状況になっており、こ
の頃になると、「タヴァン」は比較的高い層に属する人々だけでなく、もっと下層の人々にまでその客
層を広げ、かなり評判の悪い「タヴァン」もあったらしい 3)。
こうした「居酒屋」、とりわけその中でも下層の人々を客層とした「エールハウス」は、宗教改革以
後、「教区教会」に代わって、娯楽のみならずさまざまな祝祭の場となり、民衆の伝統的共同社会の中
心的な役割を果たす極めて重要な場所となっていたが、しかし、「居酒屋」は、民衆の生活において極
めて高い重要性を示す一方で、とりわけ次第に台頭してきたピューリタン的問題意識から、犯罪や売春
─5─
などが横行するあらゆる悪徳の温床として、さらにまた、貧困と不信仰を生み出す要因として、「改革」
されるべき場所とみなされるようになっていた。Keith Wrightsonは、
「居酒屋をめぐる抗争」が、まさ
に十七世紀の「最も重大な社会劇の一つ」であった 4)と述べている。
本稿は、当時の「居酒屋」が抱えていた歴史的・社会的・文化的問題等を概観した上で、熱心な王党
派で敬虔な英国国教徒でもあったヴォーンの世俗詩“A Rhapsodie”の中にその激しい「抗争」の跡を
辿り、国内戦争の開戦を間近にしたロンドンにおいて詩作を開始した若き詩人がいかに抑圧された気分
の中にあったかを探ろうとするものである。
Ⅱ.
中世後期において「教区教会」とその境内は、神に祈りを捧げる場であると同時に、教区住民の楽し
い社交場であった。教区教会の献堂を記念する日には、エールを販売することによって教会の維持・修
復の資金を捻出したり貧民救済等に必要な資金を得るというような目的で、「チャーチ・エール祭」
(Church-ales)と呼ばれる大量の飲酒を伴う宴会が催され、住民は賑やかな音楽や踊りやゲーム遊びや
野外劇、そして熊いじめや牛いじめといったさまざまな民衆娯楽を楽しむ機会をもった。このチャー
チ・エール祭は、まさに教区教会が住民の伝統的共同社会生活の中心であったことを最も象徴的に示す
ものであったと言える。
ところが、教区教会が持つこうした共同社会的な機能は、宗教改革の展開の中で激しい批判と攻撃の
対象となり、教区教会は次第に地域社会の社交場としての役割を奪われてしまう。その結果、地域社会
の社交場を失った民衆が新たな拠点として見出した場所が「居酒屋」であった。居酒屋は民衆の伝統的
共同社会の活動の中心としての重要性を次第に増していき、さまざまな娯楽のみならず、さまざまな祝
祭までもが居酒屋で祝われるようになるのである。
しかしながら、この居酒屋も、教会から民衆を遠ざける存在としてもともと批判に晒されていたもの
であったが、ますます勢力を増大させていくピューリタンによってさらにいっそう激しく攻撃されてい
くことになる。実際に、この居酒屋は、とりわけピューリタン的な問題意識から見て、さまざまな問題
を抱えていたのである。まずここでは、これまでになされてきたすぐれた議論を参考にして、当時の居
酒屋が抱えていたおもな問題点をいくつか拾い上げてみることにしたい 5)。
なによりもまず、居酒屋が「犯罪の巣窟」となっていると考えられていた点があげられる。居酒屋で
はとりわけ若年者の飲酒と賭博(賭け事)が当時の最も深刻な問題の一つであり、それは、「本来は自
立した生活ができる人々をも貧困の泥沼のなかに引きずり込む危険性」を孕んでいたし、「青少年の浮
浪化を促進する危険性」を孕んでいた 6)。さらにまた、居酒屋は、質屋を兼ねることが多かったという
ことで、しばしば「盗品故買の場所になったり、窃盗と直接絡んだり、スリの学校になっていたり、犯
罪者の待ち合わせ場所になったり」した 7)。当時の劇やパンフレットなど、たとえばロバート・グリー
ン(Robert Greene, c. 1558 - 92)の『いかさまシリーズ』には、居酒屋を舞台にしていかに詐欺やいか
さまが横行していたかが描かれている 8)。ピューリタンの目から見れば、居酒屋は悪漢や浮浪者がたむ
ろする「あらゆる悪習や不正の温床」と映っていたのであり、「既存の社会秩序をひっくり返そうとす
る下層社会の要塞だというふうにみられていた」のである 9 )。
居酒屋での売春の増加 10)も、家庭を信仰及び統制の単位と考えるピューリタンを憤慨させるもので
あった。居酒屋での売春が増加した理由としては、1546年にロンドン近辺にあった専門の売春宿が閉
鎖されてしまったという点や、当時増加しつつあった浮浪者たちや地方から職を求めて家族と離れて流
れ込んできた労働者たちの高い性的需要があったという点などがあげられる。そのような事情から、特
─6─
開戦前夜の居酒屋通い ― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ―
にロンドンでは、居酒屋がかなり組織的な売春宿を兼ね、「…放浪している多くの貧しいカップルや地
元の人々の臨時の密通場所 11)」にもなっていたのである。そのような婚外交渉は、当時、特に下層の民
衆の間ではかなり寛大に見られていたのであるが、しかし、「貞節なる結婚」つまり「結婚して良きキ
リスト者の家庭を築くことこそが神に仕える理想 12)」と説いたピューリタンにとっては、「家族」は信
仰の単位であり統制の単位であったから、居酒屋に入り浸って家庭を顧みないということは、ピューリ
タン的な「モラルの改革」の拠点たるべき「家庭」を崩壊させるものにほかならなかったのである13)。
土曜日の仕事を終えた男たちが居酒屋に集まって深夜まで深酒をし、その結果、安息日である翌日の
日曜日の午前中の礼拝に出席できないという事態が増加し、さらにまた、安息日の午後にはさまざまな
民衆的娯楽が居酒屋での宴会とともに繰り広げられたために、午前中の礼拝出席を怠って朝から居酒屋
に入り浸って気勢を上げる若者たちも増加した。そればかりでなく、出席したとしても退屈な説教が始
まると教会を抜け出して居酒屋に殺到するというような事態も増加した 14)。「安息日厳守主義」を掲げ
るピューリタンにしてみれば、宗教的義務の遂行のためだけに捧げられるべき安息日に居酒屋でどんち
ゃん騒ぎをするというようなことはけっして許されるべきことではなかった。しかも、教会出席を怠る
若者たちのなかには、単なる宗教的無関心派だけではなく、懐疑派や無神論者もいて、教会の礼拝に出
席しないだけでなく、教会で結婚式をせずに婚姻する者たちや、生まれた子供に洗礼を受けさせようと
はしない者たちも増えてきたのである 15)。
安息日の飲酒だけでなく、さらには「聖月曜日」とか「仲間の日」(Jour des Camarades)と呼ばれ
る習慣、つまり労働者が日曜日だけでなく継続して月曜日も仕事をせずに仲間と痛飲するという習慣が
生まれ 16)、そのような「居酒屋通い」は職業労働を怠る傾向を生み出す結果となった。職業を「神の召
命」(calling)に他ならぬものとみなしたピューリタンにとって、怠惰を育てる居酒屋は、神の栄光の
ために労働する上での障害とみなされ、こうした若者たちの傾向は彼らの「モラルの改革」の土台をゆ
るがすものと考えられたのである 17)。
居酒屋はさまざまな自然的苦悩・社会的苦悩を発散解消する格好の場所であり、アルコールは「てっ
とりばやく苦悩を解消する手段」であった。衛生環境上の問題から当時は「水」の安全性が疑問視され
ていたが、エールやビールなどのアルコールは、水と比べれば安全で栄養価も高い飲み物であったし、
現世の生活がもたらす緊張・不安・苦悩を麻痺させるのに欠かせない「麻酔剤」であった。しかし、ピ
ューリタンにとっては、「苦悩こそ神への道を導く杖」であり、「苦悩を紛らすことは、神への道程を妨
げる」ことであった 18)わけである。
十六世紀後半から十七世紀初頭にかけて居酒屋の数が急増し、また、強くて安いエールやビールの普
及と貧困が重なって「泥酔」が増え始め、それらが失業問題や治安問題などと連動して大きな社会問題
となり、それを規制しようという気運が高まっていく。実際にこの時期には居酒屋や泥酔を批判する書
物が数多く出版されており、また、十七世紀初頭に集中して、居酒屋や泥酔を規制する議会制定法が数
多く成立している19)。
十六世紀後半以降の居酒屋に関する政策に対してかなり大きなインパクトを与えたのが、ピューリタ
ンによる「モラルの改革」あるいは「生活慣習の改革」(Reformation of Manners)を目指す運動であ
ったが、実際、そのような居酒屋を規制する議会制定法の成立過程においては、かなりの程度、ピュー
リタニズムの影響が認められることが指摘されている20)。
Ⅲ.
本稿が取り上げるヴォーンの“A Rhapsodie”という詩は、「居酒屋」あるいは「飲酒」をめぐるこ
─7─
のような歴史的・社会的背景の中で書かれたものであるが、“A Rhapsodie”の検討に入る前に、『火花
散らす燧石』
(Silex Scintillans)の宗教詩人としてのヴォーンがいわゆる(宗教上のあるいは詩作上の)
「回心」以前に書いた自分の詩をどのように見ていたかを簡単に眺めておきたい。
『火花散らす燧石』の初版(1650)に収められた“Idle Verse”21)と題する詩はヴォーンの数少ない
「詩作」をテーマとする詩であり、かつての世俗詩人時代に書いていた詩を自ら批判した詩である。こ
の中でヴォーンは、かつての自らの詩を「狡猾な愚言」とか「甘ったるい罪」と呼び、
「偉大な保護者」
(l. 6)である神と「契約」(l. 7)を結ぶことによって「みだらな詩」の「謀略」(l. 8)と対抗しようと
する決意を述べ、そのような詩からの決別を明白に表明している。一種の「取り消しの詩」
(“palinode”)
として読むことができるかもしれない。
Go, go, queint folies, sugred sin,
Shadow no more my door;
I will no longer Cobwebs spin,
I'm too much on the score. (ll. 1 - 4, M. 446 22))
(去れ、去れ、狡猾な愚言よ、甘ったるい罪よ、もう私の扉を陰らすな。私はもう蜘蛛の巣を紡ぎはしない。
私にはあまりにも多くの借りがあるのだ。
)
4行目の“I'm too much on the score.”(「私にはあまりにも多くの借りがあるのだ」)という表現は、
かつての自分自身が「蜘蛛の巣」のように装飾的で読者をその罠に陥れるような危険な詩を書いていた
ことを意味するものであるが、そこで用いられている“score”という語が、居酒屋で客の酒代のつけ
を刻み目で記した「割り符」、あるいは、居酒屋で黒板やドアにチョークで書いた「勘定覚書」を意味
する言葉 23)であったことに注目したい。
こうした居酒屋のイメージは、“Idle Verse”の特徴を述べた第4連にも見られる。
The Purles of youthfull bloud, and bowles,
Lust in the Robes of Love,
The idle talk of feav'rish souls
Sick with a scarf, or glove; (ll. 13-16, M. 447)
(若き血潮とはらわたからわき出た「渦巻く音」。愛の衣を着た肉欲。スカーフや手袋に恋い焦がれ、熱に浮かされ
た魂の空しい戯言。)
最初の行の“Purles”という語は、何か特別な意味を内包しているかのように大文字で始められ、しか
もイタリック体で強調されている。OEDは、「小川の渦巻いて流れる様子や音」という意味をあげて、
ヴォーンのこの箇所を初出例として引用しているが、この意味も含めて、Louis L. Martz 24)はこの語に
ついて4つの意味を提示しており、興味深いことに、そのうちの一つは「ニガヨモギなどの苦いハーブ
を加えて調味したビール」である。OEDがこの意味での初出例として引用しているのは実はヴォーン
のこの詩ではなく、サミュエル・ピープス(Samuel Pepys, 1633 - 1703)の1660年2月19日の「日記」か
らであるが、おそらくヴォーンはそのような語の多義性を意識的に利用しているように思われる。さら
─8─
開戦前夜の居酒屋通い ― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ―
に、同じ行の最後に置かれた“bowles”という語の多義性にも注目すべきであろう。French Fogleに
よれば、それは“bowels”の異形であり、
「感情や感覚がわき出る体の中心部」を意味するものである25)
が、そのままの綴りでみれば、その語は、当時よく行なわれていた「ローン・ボーリング」(lawn
bowling)などの「球技」という意味のほかに、「盃」あるいは「酒宴」というもう一つの重要な意味、
そして本稿の関心とも関連する意味を読みとることができる。
宗教詩集『火花散らす燧石』の再版(1655)の「序文」(“The Authors PREFACE To the following
HYMNS,” M. 388 - 392)によれば、宗教詩人としてのヴォーンの言う「まことの詩」とは詩人自らの
聖なる生き方を伝えるものであり、詩そのものに対する評価はその詩を書いた詩人の生き方とも密接に
関わるものであったから、当然、この“Idle Verse”のようにかつての詩について言及している時にも、
彼の脳裡にはかつての若い頃の自分自身の自堕落な生活態度が浮かんでいたであろうと考えられる。そ
うであるとすれば、「私にはあまりにも多くの借りがあるのだ」と述べる時にヴォーンが思い浮かべて
いるのは、借金をしながらも友人たちとの酒宴に身を投じて飲み騒いでいた自分自身の姿ではなかった
ろうか。しかも、「愛の衣を着た肉欲」や「スカーフや手袋に恋い焦がれ、熱に浮かされた魂の空しい
戯言」というような表現には、かつての居酒屋を中心にして繰り広げられた好色な世界で遊んでいた自
らの姿を思い浮かべている様子が窺がわれる。
宗教的「回心」を経験したヴォーンは、このようにかつての自分自身の生活及び詩作を厳しく批判し
ているが、ところが、“A Rhapsodie”を含む世俗詩を書いていたかつての若き世俗詩人ヴォーンは、
当時そのような生活あるいはそのような詩作を正当化するような発言をしている。彼の作品の創作・出
版の意図はそれに付けられた「献辞」や「序文」によってある程度知ることができるが、『詩集』に付
けられた序文「詩を愛する才能ある人々へ」(“To all Ingenious Lovers of POESIE”)の次の表現も、
“A Rhapsodie”などの世俗詩における彼の詩作の意図を理解するのに役に立つであろう。
I know the yeares, and what course entertainment they affoord Poetry. If
any shall question that Courage that durst send me abroad so late, and revell
it thus in the Dregs of an Age, they have my silence: only,
Languescente seculo, liceat aegrotari;
My more calme Ambition, amidst the common noise, hath thus exposed me to
he World. (M. 2)
(私はそうした時代を、そして、そうした時代がどんな下卑た楽しみを「詩」に与えているかを知っています。も
し遅ればせながらも敢えて私を外に送り出し、時代の「くず」の中でこうして飲み騒ぐこの「勇気」をだれか疑
問に思う人がいるとすれば、私はただ沈黙するだけです。「時代が衰退しつつある時、人は病むことを許される。」
日常の喧騒の中でより静かな私の「野心」はこうして私を世の中にさらけ出したのです。)
この中でヴォーンは、こうした世俗的な詩を書くということがある種の「病気」であるという診断を自
ら下している。のちの宗教詩人としてのヴォーンは『火花散らす燧石』の再版の「序文」において、
(自らのかつての詩も含めて)世の中にはびこっている「みだらな詩」(“idle poems”)を「伝染病」
(
“Epidemic diseases,” M. 388)にたとえて激しく非難することになるが、そのようなヴォーンからは、
居酒屋での友人たちとの会合の中で「飲み騒ぐ」ヴォーンが同一人物であるなどとはとうてい想像する
こともできないであろう。ところが、この世俗『詩集』の「序文」では、ヴォーンは、政治的あるいは
─9─
文化的に退廃・堕落した時代にはそのような病気もやむを得ないことであるとして、この『詩集』の出
版を正当化しているのである26)。
ウェールズに生まれ育ったヘンリー・ヴォーンは、1638年に双子の弟トマス(Thomas)とともにオ
ックスフォードのジーザス・カレッジで学び、その後、おそらく1640年の夏から秋にかけての頃にオッ
クスフォードを離れ、1642年 8 月の国内戦争勃発まで、国内法を学ぶためにロンドンにとどまっていた
と推測されている(ただし、ヘンリーの在学を証明する記録も、ロンドンの法学院で学んだという記録
等も残っていない)。故郷のブレコンシャーに戻ってからの1646年 9 月15日に出版登録された彼の最初
の『詩集』は、故郷を離れていた時期及び帰郷後に創作されたものであり、出版時にはすでにウェール
ズに戻ってはいたが、その中に示された精神及び内容において、まさに多感な若き詩人のオックスフォ
ードとロンドン時代の産物であったと言うことができるであろう。この『詩集』が出版された1646年
と言えば、国内戦争が始まって4年程が経過し、国王軍の敗北がほぼ決定的になった時期であり、ヴォ
ーンも含めて王党派に属する者たちはおそらく非常に抑圧的気分を強いられていた時期であるが、この
序文からも分かるように、この世俗的『詩集』が極めて強い時代意識の中から生まれてきたものである
ことは明らかである。
Ⅳ.
“A Rhapsodie”には次のような比較的長いサブタイトルが付けられている。すでに述べたように、
のちの『火花散らす燧石』に見られるような、「自然」にじっと目を凝らしているヴォーンを垣間見せ
る部分でもあるが、このサブタイトルについては、おそらく「検閲」という問題とも絡んで、「この詩
の実際の意味を隠そうとする」ために、つまりおそらくヴォーンの諷刺的・攻撃的意図を「隠そうとす
る」ために、「ヴォーン以外の誰か他の人物、たとえば、出版者」によって付け加えられたという推測
もなされている27)。
Occasionally written upon a meeting with some of his friends at the Globe
Taverne, in a Chamber painted over head with a Cloudy Skie, and some few
dispersed Starres, and on the sides with Land-scapes, Hills, Shepheards, and
Sheep. (M. 10)
(グローブ・タヴァンにて幾人かの友人たちとの会合の折に書かれたもの。天井には雲が浮かぶ空と四方に散らば
った幾つかの星々、側壁には丘や羊飼いや羊たちの風景が描かれた部屋にて。)
“A Rhapsodie”の40行目では「フリート・ストリート」や「ストランド」といったロンドンの実在
する通りの名前が言及されている。このサブタイトルの中で名前をあげられている「グローブ・タヴァ
ン(地球亭)
」
(“Globe Taverne”)もやはり実在するタヴァンであるとすれば、それは、仮にそのサブタ
イトルがヴォーン以外の誰か他の人物によって付け加えられたものであったとしても、この詩の背景に
ついての何らかの重要な情報を与えてくれるものであることが期待されるはずである。ところが、ロン
ドンには「グローブ」という名前のタヴァンがいくつか存在していたらしく、サブタイトルにある「グ
ローブ・タヴァン」が実際にどこにあったタヴァンに言及するものなのかははっきりわかっていない。
この「グローブ・タヴァン」のあった場所をシェイクスピアの劇場「グローブ座」のあったテムズ川
南岸のサザックとする説もある28)が、しかし、この詩の中で話者がタヴァンの外の様子を想像する時
─ 10 ─
開戦前夜の居酒屋通い ― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ―
(ll. 35 - 46)に彼が言及している通りが「フリート・ストリート」と「ストランド」であることを考えれ
ば、「グローブ・タヴァン」をサザックにあったタヴァンとするのは不自然であり、当然、「グローブ・
タヴァン」はそれらの通りの近くにあったとみたほうが自然であろう。
実際、E. L. Marillaは、
「水の詩人」として知られるジョン・テイラー(John Taylor, 1578 - 1653)の
Travels and Circular Perambulation(1636)にフリート・ストリートの「グローブ・タヴァン」が言及
されていることを指摘し、彼のエピグラムを引用している29)。また、それと同じ「グローブ・タヴァン」
かどうかは不明であるが、同じテイラーの A late weary, merry voyage, and journey(1650)にも、ス
トランドやフリート・ストリート近くのコヴェント・ガーデンのロングエーカー・ストリートの中ほど
にあった「グローブ・タヴァン」への言及がある30)。F. E. Hutchinsonも1647年のHollarの地図にフリ
ート・ストリートの「グローブ・タヴァン」が載っていると指摘している31)。さらにまた、London's
City: A Guide Through the Historic Square Mileというガイドブックも、地図付きで、シュー・レイン
近くのフリート・ストリートに十七世紀初期から最近まで「ザ・グローブ」という名のタヴァンがあっ
たという紹介を載せている32)。
もうひとつ、この詩の3行目の「タヴァンが必要とするのは看板のためだけの太陽」に暗示される
「サン・タヴァン(太陽亭)」(“Sun Tavern”)も、Marilla33)によれば、フリート・ストリートの「ザ・
グローブ」から遠くないホウボーン暗渠の近くにあったというから、やはりこの詩の舞台をサザックに
まで広げずに、フリート・ストリート近辺に置くのが自然である。
ヴォーンの“A Rhapsodie”の舞台となっているのは、すでに下層の人々にまで客層が広がっていた
頃の「タヴァン」であるが、こういった「タヴァン」はこの時代の文学シーンにしばしば登場する。
George Williamsonは、“A Rhapsodie”について、ヴォーンが「おそらくベン・ジョンソン(Ben
Jonson, 1572 - 1637)を心に留めながら」創作したのだろうと述べ 34)、“A Rhapsodie”のヴォーンをい
わゆる「ベンの部族」(“the tribe of Ben”)あるいは「ベンの息子たち」(
“Sons of Ben”)の系譜に置
─ 11 ─
いている。「ベンの部族」はその多くがいわゆる「王党派詩人」(“Cavalier Poets”)であったが、ジョ
ンソンを敬愛し、彼を「父」と仰いだ詩人や劇作家たちは、たとえば当時ロンドンのフリート・ストリ
ートにあった「デヴィル・タヴァン(悪魔亭)」
(“Devil Tavern”
)やブレッド・ストリートの「マーメ
イド・タヴァン(人魚亭)」(“Mermaid Tavern”)などでこの「父」の神託を聞き、酒宴を開いて飲み
騒ぎ、また、互いに影響し合ったと言われている。この時代には詩人たちの作品は友人や仲間たちの間
で手書き原稿のままで回し読みされるのが一般的であり、「タヴァン」で繰り広げられた彼らのサーク
ルは一種の知的・社交的雰囲気の場であった。その情景を、たとえばフランシス・ボーモント
(Francis Beaumont, 1584 - 1616)は「ベン・ジョンソンに寄せる書簡詩」(“A letter to Ben Jonson”)
の中で次のように書いており、それはまさにヴォーンの“A Rhapsodie”が描き出す「タヴァン」の雰
囲気を伝えるものであるかのように聞える。
... What things have we seen
Done at the Mermaid! heard words that have been
So nimble and so full of subtle flame,
As if that everyone from whence they came
Had meant to put his whole wit in a jest,
And had resolved to live a fool the rest
Of his dull life; ... 35)(ll. 43-49)
(われらは何とすばらしいことがマーメイドで行なわれているのを見たことだろう!かくも才知に富み、かくも繊
細な輝きに満ちた言葉を聞いたことだろう。まるで言葉を発したひとりひとりが、しゃれの中に自分の知恵の全
てをつぎ込んで、退屈な余生をばかなふりをして過ごす決意をしているかのように・・・。)
サブタイトルのあと、次のように始まるヴォーンの“A Rhapsodie”は、ロンドンの繁華街にある
「グローブ・タヴァン」という居酒屋で、話者が、おそらく「ベンの息子たち」の会合と同様に、仲間
たちと酒を酌み交わすという設定で書かれている。「真昼」であるにもかかわらず、天井や壁に描かれ
た夜の風景画によってまるで「夜」であるかのように錯覚してしまうように仕立てられた飲酒部屋の一
室で、話者は、「詩人の魂」である「極上の気の効いたサック酒」を飲みながら、「空想」を活発に働か
せていく。
Darknes, & Stars i' th' mid day! they invite
Our active fancies to beleeve it night:
For Tavernes need no Sunne, but for a Signe,
Where rich Tobacco, and quick tapers shine;
And royall, witty Sacke, the Poets soule,
With brighter Suns then he doth guild the bowl;
As though the Pot, and Poet did agree,
Sack should to both Illuminator be. (ll. 1 - 8, M. 10)
(真昼の闇、そして星!それはわれらの活発な空想を誘い、もう夜だと信じ込ませるのだ。タヴァンが必要とする
─ 12 ─
開戦前夜の居酒屋通い ― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ―
のは看板のためだけの太陽。たくさんのタバコの火と燃え盛るローソクの炎が明るく照らしているのだから。そ
して極上の気の効いたサック酒という詩人の魂が、実際の太陽よりも輝かしい太陽たちでもって大盃を金色に輝
かすのだから。まるで酒瓶と詩人とが、サック酒が両者にとっての照明となることに合意しているかのように。)
4行目で言及されている「タバコ」は居酒屋の雰囲気を醸し出す小道具の一つである。「タバコ」は十
七世紀初頭までには居酒屋で販売・喫煙されるようになっていたが、アルコールと同様に、とりわけ貧
困者にとっては生活の苦しみを忘れさせてくれる一種の「麻酔剤」的役割を果たすようになっていた36)。
しかし、それゆえに、「タバコ」はピューリタンの批判の対象となっていたのである。それについては、
たとえば、ベン・ジョンソンの『バーソロミュー・フェア』(Bartholomew Fair, 1614年初演)の中の
ピューリタンのジール・オブ・ザ・ランド・ビジーという登場人物のセリフの中にも見ることができる。
その中では「エール」も、ピューリタンのビジーによって「サタンの飲み物、サタンの飲み薬」と呼ば
れ非難されている。
... And, bottle-ale is a drink of Satan's, a diet-drink of Satan's, devised to puff
us up, and make us swell in this latter age of vanity, as the smoke of tobacco,
to keep us in mist and error. But the fleshly woman(which you call Ursula) is
above all to be avoided, having the marks upon her of the three enemies of
man, the world, as being in the Fair; the devil, as being in the fire; and the
flesh, as being herself. (Ⅲ. vi.)37)
(…エールとはサタンの飲み物、サタンの飲み薬であり、サタンはこれにより、虚飾に満ちた終末の世に生きるわ
れらをば、尊大に、傲慢に仕立てるべくもくろんでおる。それはあたかも煙草の煙がわれらを煙の霧に閉じ込め、
道を踏み誤らせるようなものなのだ。とりわけそなたがアーシュラと呼んでおるあの肉的な女に近づかぬがよい
ぞ。なんとなればあの女が身に帯びておる特徴は人間の三つの敵たる現世、悪魔、そして肉、すなわち祭りの中
にあるがゆえに現世的、火中にあるがゆえに悪魔的、そして己自身が肉的なのである。)38)
当時の劇作家たちの劇の中でも特にベン・ジョンソンの劇はピューリタンに対する攻撃が顕著である
が、もちろんジョンソンは、この『バーソロミュー・フェア』という劇においてピューリタンの偽善者
ぶりを諷刺・攻撃する目的で、ビジーというピューリタンを登場させている。そして、当然、そのよう
なピューリタンのビジーをからかう人物をも配して、次のようなセリフを吐かせている。
... Sometime the spirit is so strong with him [Busy], it gets quite out of him,
and then my mother, or Win, are fain to fetch it again with malmsey, or Aqua
coelestis. (Ⅰ. ii. )39)
(…[バンベリー出身の、老いぼれ長老[ビジー]は]…たまに聖霊の働きかけがつよすぎるせいか、調子に乗り
すぎて、息が切れちゃってね、しょうがないもんで、お母さんやウィンが高級白ワインや蒸留酒を飲ませて、や
っと息を吹き返させる始末ですよ。)40)
こんなふうに「酒を飲む」という行為を持ち出して、敵対するピューリタンを諷刺・攻撃するという
─ 13 ─
手法は、当時の劇にはよく見られる。その際に、しばしば「呑んだくれ」の登場人物がピューリタンを
からかったり、あるいは、ピューリタンに不満をぶつけるという形で書かれていることに注目したい。
たとえばシェイクスピアの『十二夜』
(Twelfth Night, 1601 - 02)にもそうした例が見られる。大酒飲
みのフォルスタッフの縮小版のような登場人物のトウビーが、独善的で自惚れ屋の「ピューリタンのよ
うな」マルヴォーリオに対して、「てめいがお上品ぶりてえばっかりに、ドンチャン騒ぎはやらせねえ
ってのか?」(第二幕第三場)というようなセリフを吐いたり、あるいは、伯爵の令嬢オリヴィアの侍
女マライアが「…時々あの人ピューリタンみたいなんですよ」と言うのを受けて、トウビーの飲み友達
のアンドルーが「そうと知ったら、犬なみにぶん撲ってやるんだったな」(第二幕第三場)41)というよ
うなセリフを吐くのは、実際、ピューリタンに不満を抱く側の正直な声を示すものであったろう。
また、十七世紀の詩人リチャード・ブレイスウェイト(Richard Braithwaite, c. 1588 - 1673)が、当時
最も熱狂的なピューリタンの町として知られていたバンベリの町に言及し、安息日にネズミを殺したか
どで、(しかも、安息日を避けてわざわざ翌日の月曜日に)猫を絞首刑にするようなバンベリのピュー
リタンの極端な「安息日厳守主義」を諷刺したのは、まさに『酔っ払いバーナビーの四つの旅』
(Drunken Barnaby's Four Journeys, 1638)においてであった。
To Banbury came I, O prophane one!
Where I saw a Puritane one
Hanging of his cat on Monday,
For killing of a mouse on Sunday.
42)
(バンベリにやって来たけど、ああ、なんて冒涜的な町!そこで見たのは、月曜日に猫を吊るしたピューリタン。
日曜日にネズミを殺した罪だって。)
もちろん、反ピューリタン側からのこうした陳述とは反対に、ピューリタン側が敵対する人々を語る
時にも、しばしば「泥酔」と結びつけられる。たとえば、ピューリタンのリチャード・バクスター
(Richard Baxter, 1615- 91)の場合も、ピューリタンの理想に敵対する人々について語る時に、「呑んだ
くれ」
(“Drunkards”)という呼び名を頻発させている43)。
「タバコ」の煙が立ち込める部屋の中で、“A Rhapsodie”の話者が飲んでいるのは、「サック酒」
(“Sacke”, l. 5)というカナリア諸島産あるいはスペイン産のワインである。もちろん、ここでカトリ
ック国であるスペインの「サック酒」が選ばれているのには、ピューリタンに対する諷刺の意図が明ら
かであろう。しかも、詩の中でこの「サック酒」は“royall”という語で形容されている。表面的には
「極上の」という意味であるが、おそらく、ピューリタンの支配する議会派ではなく「国王側の」とか
「国王にこそふさわしい」という含みも読み取ることができるに違いない。
“A Rhapsodie”の話者が酒を飲んでいる時間帯は「真昼」(l. 1)という設定であるが、彼は、太陽
の光の射し込まない暗い部屋の中で、タバコの火とローソクの炎だけで照らされた壁の「絵」がもうす
でに「夜」であるかのように思わせると述べている。どうやら、この時点ではまだ、話者は「真昼」と
いう現実の時間と絵の中に描かれている風景の時間との相違を意識できているらしい。
話者の目は続いてタヴァンの壁に描かれた「絵」に向けられる。彼の目には、「あの絵に描かれた雲」
が、まるで遅い時間まで飲み騒いでいることに眉をひそめてしかめっ面をしているかのように見える。
「よく見たまえ」と注意を促しながらも、ほろ酔い気分の彼の目には、おそらくまるで目の焦点が定ま
─ 14 ─
開戦前夜の居酒屋通い ― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ―
らなくなっているかのように、絵の中の「あまたの星々」の光が重なって「大きなひとつの星」に見え
てくる。
That artificiall Cloud with it's curl'd brow,
Tels us 'tis late; and that blew space below
Is fir'd with many Stars; Marke, how they breake
In silent glaunces o're the hills, and speake
The Evening to the Plaines; where shot from far,
They meet in dumbe salutes, as one great Star.(ll. 9 -14, M. 10)
(あの絵に描かれた雲は、その巻き毛になった眉で、もう遅い時間だと教えている。その下に広がる青い空間は、
あまたの星々で燃えるように輝いている。よく見たまえ、なんとそれらが沈黙の閃光を放って丘の上に現われ、
日没の訪れを平原に伝えていることか。遠くから放たれた星々が無言の挨拶をして結集し、大きなひとつの星と
なっている。)
次のパラグラフでは、「麻酔剤」的効果をもつタバコの煙がもうもうと立ち込めた薄暗い部屋の壁に
描かれたこのような絵に囲まれて、話者は、酔いが回るにつれて、現実の時間と「絵」の時間との間に
次第に意識の混乱を生じさせていく。そして、ついには、部屋の薄暗さと、羊たちを引き連れて家路に
つく絵の中の羊飼いの光景が、話者に今が実際に「夜」であると思い込ませるのである(l. 19)。この
パラグラフには、ヴォーンの宗教詩などにしばしば見られる伝統的な「隠遁のテーマ」(retirement
theme)を見ることができる。ヴォーンは、十七世紀中葉という混沌とした時代を反映して、のちの
『火花散らす燧石』の多くの作品で世俗の「喧騒」に対する激しい嫌悪を示し、また、『孤独の花』
(Flores Solitudinis, 1954)と題する翻訳散文集などで、都会の「喧騒」を逃れて田園の「静寂」と「孤
独」に隠棲しようとする姿勢を顕著に見せている。“A Rhapsodie”のこの部分でも、タヴァンの壁に
描かれた理想化されたパストラル的生活は、世の中の「すべての煩わしさ」とは無縁であるゆえに讃美
され、話者はそのような平和なパストラル的生活を非常に羨ましく思うのである。
The roome(me thinks) growes darker; & the aire
Contracts a sadder colour, and lesse faire:
Or is't the Drawers skill, hath he no Arts
To blind us so, we cann't know pints from quarts?
No, no, 'tis night; looke where the jolly Clowne
Masters his bleating heard, and quits the Downe.
Harke! how his rude pipe frets the quiet aire,
Whilst ev'ry Hill proclaimes Lycoris faire.
Rich, happy man! that canst thus watch, and sleep,
Free from all cares; but thy wench, pipe & sheep. (ll. 15-24, M. 10)
(部屋は(私にはそう思えるのだが)次第に暗くなる。そして空気はますますくすんで濁った色に染まっていく。
それともそれは酒場の給仕の腕前なのか。われらがパイントとクォートの区別もできないほどにわれらの目をく
─ 15 ─
らませて判断力を失わせてしまう術など彼が持ち合わせていないとしても。いや、いや、もう実際に夜だ。見て
ごらんよ、陽気な田舎者がメーメー鳴き声を上げる羊たちの群を呼び集めて丘を離れていく。聞いてごらん!彼
の素朴な笛が静かな空気を掻き乱し、おまけに丘という丘が「リコリス」を美しいと誉め称えているのを。豊か
で幸せな男だ!おまえの娘や笛や羊以外のすべての煩わしさから離れて、こうして羊の番をしたり、眠ったりし
ていられるのだから。)
続いて話者は、後で述べられる喧騒に満ちた外の世界と平和なタヴァンの内側とを隔てる「ドア」に
目を向け、そのドアの上に「月」が昇っているのを見つける。この「月」は、話者にとっては、本来な
らば壁の絵の理想的なパストラル的情景を構成する一つの要素となるはずのものであったかもしれな
い。あるいは、そうでなければ、その「月」は、外の世界の敵対者たちがタヴァンという自分たちの要
塞に侵入してくることを阻止する「歩哨」となるはずであるが、しかし、鼻を赤くした呑んだくれの下
手糞な「えせ絵描き」のせいで、酒飲み客たちを呼び込むためだけの「指標」の役目をさせられている。
前のパラグラフで述べられた話者の理想的なパストラル的生活は、まさにタヴァンの薄いドア1枚に守
られているようなものであり、「歩哨」として立つ「月」も、未熟な絵描きのために、呼び込みの役目
を果たしているだけに過ぎないと嘆かれている。
But see the Moone is up; view where she stands
Centinell o're the doore, drawn by the hands
Of some base Painter, that for gaine hath made
Her face the Landmarke to the tipling trade.
This Cup to her, that to Endymion give,
‘Twas wit at first, and wine that made them live:
Choake may the Painter! and his Boxe disclose
No other Colours then his fiery Nose;
And may we no more of his pencill see,
Then two Churchwardens, and Mortalitie. (ll. 25-34, M. 11)
(だが、見たまえ、月が昇っているよ。よくごらん、彼女が、あるえせ絵描きの手で描かれて、戸口の歩哨に立っ
ている。その絵描きは、金もうけのために、彼女の顔を酒飲み客たちの指標にしているのだ。この盃は彼女に、
あの盃は「エンディミオン」に捧げよう。彼女たちを生けるものとしたのは、まさにまずはウィットであり、そ
してワインだった。その絵描きはのどを詰まらせればいい!そして彼の絵の具箱が彼のぎらついた真っ赤な鼻以
外の色を外に出さないように。それから、二人の教区委員と死すべき定めの像のほかには、われらが彼の筆から
なる絵をもう見ることがないように。)
次のパラグラフにおいて、話者の「活発な空想」はタヴァンのドアを出て、外の世界へと向かってい
る。この詩行は、当時のロンドンの繁華街の様子を見事に伝えるものであり、初期の世俗詩の中にも
「良いものがあるということを我々に思い起こさせる44)」としてE. C. Pettetが引用している部分である。
現実の時間を「夜」であると思い込んでいる話者は、今度はタヴァンの外の「今」の様子、つまり「夜」
の「フリート・ストリート」や「ストランド」の賑やかな通りの様子を想像してみる。ドアの外の喧騒
に満ちた世界は、タヴァンの壁に描かれた理想的な羊飼いたちの世界とはまったく対照的である。
─ 16 ─
開戦前夜の居酒屋通い ― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ―
Should we goe now a wandring, we should meet
With Catchpoles, whores, & Carts in ev'ry street:
Now when each narrow lane, each nooke & Cave,
Signe-posts, & shop-doors, pimp for ev'ry knave,
When riotous sinfull plush, and tell-tale spurs
Walk Fleet street, & the Strand, when the soft stirs
Of bawdy, ruffled Silks, turne night to day;
And the lowd whip, and Coach scolds all the way;
When lust of all sorts, and each itchie bloud
From the Tower-wharfe to Cymbelyne, and Lud,
Hunts for a Mate, and the tyr'd footman reeles
‘Twixt chaire-men, torches, & the hackny wheels: (ll. 35-46, M. 11)
(今ごろ外に出て街をうろつけば、通りという通りで執達吏や娼婦や荷馬車に出会うはず。今は狭い路地や奥まっ
た街角や窪地や看板柱や店の扉がならず者たちに代わって悪事に誘う時。騒々しくも罪なフラシテンと喧しい拍
車がフリート・ストリートとストランドを闊歩する時。みだらな、ひだのついた絹の衣裳が静かに乱れて、夜を
昼に変える時。そして騒々しい鞭の音と馬車の音があたりをしかりつけるように走り抜ける時。あらゆる欲情と
むずむず欲しがる血気がタワーの埠頭からシンベリンやラッドまで相手を探し求め、疲れた従僕が駕籠かきと松
明と貸し馬車の車輪の間によろめく時。)
36行目の“Catchpoles”は借金の取り立てを迫る「執達吏」である。かつてのイギリスには借金を返済
できない者を収容する監獄として「債務者監獄」(debtors' prison)が存在したが、借金を返済できな
くなった者は、債務者監獄への収容の前に、まず「執達吏」(catchpole or bailiff)に身柄を拘束されて
金の調達を強いられた。債務者を拘束する「執達吏」の家はふつう「居酒屋」も兼ねており、俗に「ス
ポンジング・ハウス」(sponging house or spunging house)と呼ばれたが、そこはその名前が示す通
り「金を搾り取る」場所であり、せっかく調達した金も「宿泊費」や「食事代」や「酒代」として搾り
取られてしまうことが多かった。このスポンジング・ハウスにいる間に金の調達ができなければ、次は
「債務者監獄」への収容ということになるが、この債務者監獄の代名詞的存在が、このパラグラフに登
場する「フリート・ストリート」の近くにあった「フリート監獄」(Fleet Prison)であった。
さらにまた、「フリート・ストリート」の近くにあった「ホワイトフライアーズ」(Whitefriers)とい
う地域にも言及すべきであろう。この「ホワイトフライアーズ」は、ヘンリー八世による修道院解散ま
でカルメル派の修道院があった場所であり、別名「アルセイシャ」(Alsatia)と呼ばれ、十六世紀の頃
から十七世紀末の1697年まで犯罪者や債務者や売春婦たちの「サンクチュアリ」
(Sanctuary)となって
いた。この「サンクチュアリ」は、(反逆者や非キリスト教徒やユダヤ人や神聖冒涜者を除いて)そこ
に逃げ込めば教会法の保護のもとで逮捕されずに済む避難所であったので、それを悪用した犯罪者たち
のあらゆる違法行為の基地となり、いわば無法地帯とも言うべき場所であった。さらにまた、もちろん
ロンドンの監獄の代名詞とも言える悪名高い「ニューゲート監獄」(Newgate Prison)があった場所も
このすぐ近くである。すなわち、この“A Rhapsodie”の舞台となっている“Globe Taverne”界隈は、
まさにロンドンの裏社会を象徴するような場所であったと言える。
─ 17 ─
“A Rhapsodie”の話者は、そのような外の世界に出て行こうとしない。タヴァンの外の騒々しい
「フリート・ストリート」と「ストランド」の堕落・退廃した醜い世界は、彼にとって、まさに国内戦
争によってもたらされた社会的混乱の象徴と見えるからである。ロンドンの繁華街に象徴されるこの
「道徳的混沌と堕落状態 45)」は、ピューリタンの方こそが「モラル改革運動」の対象としたものであっ
たが、しかし、ヴォーンは逆にその堕落状態をピューリタンが支配する議会派がもたらしたものとみな
している。外の世界は、いったん外に踏み出そうとした彼の足を再びタヴァンの中に引き戻すのに十分
なほど嫌悪感をもよおさせる世界である。彼は仲間たちと共にタヴァンの中にとどまってなおも飲み続
けるのである。
続く詩行で、ヴォーンは三人のローマの歴史上の人物への「乾杯」を提唱している。“A Rhapsodie”
の中にローマの歴史上の人物を登場させたヴォーンの意図は、それらの人物について述べることにあっ
たのではない。おそらく彼の意図は、それをイギリス国内の政治的・社会的状況と重ね合わせることに
あったと考えられる。実際、ヴォーンは同様のことを“A Rhapsodie”と同じ『詩集』の中に収録した
古代ローマの諷刺詩人ユウェナリス(Decimus Junius Juvenalis, 67?-127?)の「諷刺詩第10番」の翻訳
において行なっている。Hutchinsonによれば、ユウェナリスの諷刺詩からのヴォーンの翻訳の「きっ
かけとなった、あるいは少なくともそれに影響を与えた」のは、国王チャールズ一世の側近であったス
トラフォード伯(Earl of Strafford)の処刑(1641年 5月12日)の光景である。この諷刺詩におけるセジ
ェイナス(Sejanus)とストラフォードとの間にはほとんど類似するところを見つけることはできないが、
セジェイナスの「騒然たる宿命」(“tumultuous fate,”l. 131, M. 131)についての記述はヴォーンの心の
中ではストラフォードと結び付けられて翻訳されており、「ストラフォードの名前を出さずとも、その熱
烈な王党派[ヴォーン]は眼識鋭い読者たちに議会と群衆の激情に対する彼の憎しみの表現を与えるこ
とができた」のである46)。実際、ヴォーン自身が『詩集』の序文「詩を愛する才能ある人々へ」の中で
次のように述べて、ユウェナリスの「諷刺詩」がヴォーン自身の時代への関心を込めて翻訳されたもの
であることをほのめかしている。「ローマ社会の悪徳と愚行のさまざまな局面 47)」をリアルに描き出し
たユウェナリスの「諷刺詩」全16篇のうちの第10番は「富や地位や名声という、人間にとって破滅の原
因となるようなものを欲する人間の望みのむなしさ48)」を主題にしたものであったが、ヴォーンがユウ
ェナリスの「諷刺詩」を翻訳したのは、ローマの道徳的腐敗・堕落を主題にしたその「諷刺詩」の中に
彼が1640年代における英国内のそれを重ね合わせて見たからにほかならない。
It is one of his, whose Roman Pen had as much true Passion, for the
infirmities of that state, as we should have Pitty, to the distractions of our
owne : ... (“To all Ingenious Lovers of POESIE”, M. 2)
(それは「ローマ人」のペンがその国の衰弱に対してまことの「情熱」を燃やしたものであり、私たちも私たち自
身の国の混乱に対して同じくらいの「哀れみ」をもつべきです。…)(M. 2)
さて、“A Rhapsodie”において話者が最初の「乾杯」を捧げるのは、ローマの皇帝カリギュラ
(Caligula, 在位37- 41)に対してである。
Come, take the other dish; it is to him
That made his horse a Senatour : Each brim
─ 18 ─
開戦前夜の居酒屋通い ― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ―
Looke big as mine; The gallant, jolly Beast
Of all the Herd(you'le say)was not the least. (ll. 47 - 50, M. 11)
(さあ、盃をとりたまえ。それは馬を元老院議員に仕立てた人への乾杯。盃のふちを私のと同じくらい大きくふく
らませよう。あの雄々しい一杯きげんの獣でさえ、すべての群れの中でも(君は言うだろう)最もつまらぬもの
なんかじゃなかった。)
これは、自分の馬を元老院議員にすることによって皇帝カリギュラがローマの元老院を侮辱したことに
対して祝いの「乾杯」を捧げるものであり、もちろん、ヴォーンが、議会をローマの元老院に重ね合わ
せ、特に動物のイメージを用いることで強調的に議会に対して軽蔑的言及をしたものとして読むことが
できるであろう。即位直後に精神異常をきたし、神人として崇拝を強要するといった暴政で知られ、一
般に評判の悪いカリギュラへの祝杯は、表面上、話者の「酩酊」状態を表わすものであるが、酩酊を装い
ながらそのような皇帝を支持するような振舞いは、議会に対する一層激しい侮辱であると言っていい49)。
第二の「乾杯」はローマの将軍カエサル(Gaius Julius Caesar, B.C.100 - 44)に捧げられたものである。
Now crown the second bowle, rich as his worth,
I'le drinke it to; he! that like fire broke forth
Into the Senates face, crost Rubicon,
And the States pillars, with their Lawes thereon:
And made the dull gray beards, & furr'd gowns fly
Into Brundusium to consult, and lye: (ll. 51-56, M. 11)
(さあ、彼の値打ちにふさわしいほど豊かな第二の盃に、溢れるくらいに酒を注ぎたまえ。乾杯を捧げよう、さあ
彼に!炎のごとく元老院の面前に突き進み、ルビコン川を渡って彼らの法律とともに政府の柱に逆らった彼に。
そして、協議し欺こうとするぐずな白髪まじりのあごひげどもと毛皮の外套どもを「ブルンディジウム」へと敗
走させた彼に。)
これは、軍隊を率いて任地を離れるという行為が元老院令を犯す行為であり大逆罪として極刑に処せら
れる行為であったにもかかわらず、ポンペイウス(Gnaeus P. Magnus Pompeius, B.C.106-48)と対立し
たカエサルが、紀元前49年、「賽は投げられた」として、軍隊を率いて任地ガリアとイタリアを分かつ
「ルビコン川」を渡り、ポンペイウスをイタリアの「ブルンディジウム」に追いやったことに言及する
ものである。この古代ローマ史上の出来事への言及は、おそらく、遠回しにではあるが、当時のイギリ
ス国内の政治状況と結び付けることを意図してなされたものであり、1641/2 年 1 月 3 日に下院の5人の
リーダーたちを大逆罪で告発することを上院に提案した国王チャールズ一世が、上院の賛成が得られな
かったためにこれを無視し、翌4日に彼らの逮捕を試みようと護衛隊を率いて自ら下院へと乗り込んだ
という事件に関連して解釈される50)。
最後の「乾杯」は、古代ローマの将軍で、恐怖反動政治で知られる「勇敢なスラ」(Lucius Cornelius
Sulla, B.C.138 - 78)に捧げられたものであるが、これは、ユウェナリスの諷刺詩の翻訳の場合における
セジェイナスと同様に、議会から弾劾されて処刑されたストラフォード伯を思い起こさせるように意図
されたものである。
─ 19 ─
This to brave Sylla! why should it be sed,
We drinke more to the living, then the dead?
Flatt'rers, and fooles doe use it: Let us laugh
At our owne honest mirth; for they that quaffe
To honour others, doe like those that sent
Their gold and plate to strangers to be spent: (ll. 57-62, M. 11)
(これは勇敢な「スラ」に!どうして死んだ者よりも、生きている者のほうのために乾杯すべきだと言われるのか。
そんなことはおべっか遣いや道化たちがすることだ。自分自身の正直な喜びに笑おうじゃないか。他人の名誉の
ためにがぶ飲みするやつらは、
金貨や食器を見知らぬやつらに送って使わせた者たちのようにすることなのだから。
)
ヴォーンのロンドン時代はおそらく1640年の夏から秋にかけての頃から1642年 8 月の内乱勃発の頃であ
ると考えられているが、この時期にロンドンにおいて吹き荒れた国王と議会との間の宗教的・政治的対
立の嵐は、多感な年頃のヴォーンの心の中に深い爪痕を残したことは間違いない。とりわけ、1640年11
月の、長期議会による、国王チャールズ一世の側近であったストラフォード伯の弾劾、そして、ロンド
ン塔投獄、そして、1641年 5 月12日の処刑といった一連の光景は、Hutchinsonが言うように、それは既
述のユウェナリスの諷刺詩の翻訳の「きっかけとなった、あるいは少なくともそれに影響を与えた」も
のであり、ヴォーンにとっては極めて衝撃的なものであったと思われる。“A Rhapsodie”のこの部分
で言及されている古代ローマの将軍スラとストラフォード伯との間に類似点を見出すことは困難であ
り、Marillaは「ヴォーンはこの箇所ではそれに対応する当時の人物を持ち出そうという意図をもって
いない」と述べている51)が、しかしながら、やはりHutchinson52)が言うように、ヴォーンにとっては、
スラが反共和主義者であったということだけで十分であったのかもしれない。このパラグラフの後半で
言及されている「金貨や食器を見知らぬやつらに送って使わせた」「おべっか遣い」とは、おそらく
1642年6月10日に議会が出した金、銀、食器や弾薬武器などの供出を求める法令に言及するものであり、
これもやはり議会派に与する者たちに対する批判を裏側に隠した表現であると考えられる53)。
このように、三度の「乾杯」の中にヴォーンは、議会派とそれを支配するピューリタンへの批判を潜
ませている。だが、この詩の中で「乾杯」を高らかに捧げるという行為自体がおそらくピューリタンの
神経を逆撫でする行為であったことにも注目すべきであろう。「乾杯」(toast)という行為自体はもと
もと「古代に神または死者のために神酒を飲んだ宗教的儀式」を起源とするものであったが、それが
「キリスト教の時代になってイエス・キリスト、聖母、聖人たちに乾杯する風習にかわり、イギリスで
は中世期ならびにその後まで宗教的祈りと酒盛で死者を追憶する風俗として伝わり、それがいつのまに
か生きた人間の健康を祝福する乾杯になった 54)」と言われる。このような「乾杯」という行為の起源・
沿革を見れば、ピューリタンが異教的・偶像崇拝的要素としてそのような「乾杯」の行為を排除しよう
としたであろうことは容易に推測できる。
実際、たとえば、ヴォーンの“A Rhapsodie”よりも少し時代が後の王政復古後ではあるが、サミュ
エル・ピープスは1664年 6月 6日の「日記」の中でこんなことを書いている。
... Here was at Dinner my Lord Sandwich, Mr. Coventry, my Lord Craven, and
others. A great dinner and good company − Mr. Prin also, who would not
─ 20 ─
開戦前夜の居酒屋通い ― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ―
drink any health; no, not the King's, but sat down with his hat on all the
while... 55)
(午餐会にはサニッジ卿、コヴェントリー氏、クレイヴン卿その他が出席していた。たいへんなごちそうで、お客
もよかった――プリン氏も出席していたが、彼はいかなる乾杯にも応じなかった。そう、国王のための乾杯でも
だめなのだ。その間帽子をかぶって、座ったままなのだ。)56)
これは、共和制が崩壊して王政が復活した後に、ピューリタンが批判した「乾杯」の慣習が普通に行な
われるようになっていたことを示すものであるが、同時にこの時期でも頑なに「乾杯」を拒絶する者が
いたことを証言するものである。この中で「プリン氏」として登場する人物ウィリアム・プリン
(William Prynne, 1600 -1669)は、1630年代にウィリアム・ロードによって迫害を受けて耳を削ぎ落と
されたりした有名な英雄的ピューリタンの一人であり、彼の数多い著作のうちの一つで、1628年に出版
された『乾杯病気論』(Healthe's Sicknesse, or A compendious and briefe discourse proving the
drinking and pledging of healthes to be sinfull and utterly unlawfull unto Christians)は、この時期に
数多く出版された酒場や泥酔を批判する書物の一つであり、そのような泥酔を生み出す要因にもなって
いた「乾杯」を厳しく批判した書物であった57)。
こうしてみると、“A Rhapsodie”において話者が「乾杯」の盃を重ねながら、次第に酩酊を深めて
いく様子は、まさにピューリタンの怒りを意識的に煽っているかのように見えてくる。確かにこの詩は
一見して表面的には解放感あふれる青年時代のヴォーンの姿を映し出しているようにも見えるが、こう
して当時の社会的・政治的状況に言及せざるを得ないほどに彼の抑圧的気分が高まっていたということ
が言えるであろう。
続く詩行で、“A Rhapsodie”の話者は、友人や仲間たちになおも「大いに飲もう」とすすめている。
彼にとって友人たちと酌み交わす「酒」は喜びの源であり、また、まさに詩的インスピレーションの源
でもある。
Drink deep; this Cup be pregnant; & the wine
Spirit of wit, to make us all divine,
That big with Sack, and mirth we may retyre
Possessours of more soules, and nobler fire;
And by the influxe of this painted Skie,
And labour'd formes, to higher matters flye;
So, if a Nap shall take us, we shall all,
After full Cups have dreames Poeticall. (ll. 63-70, M. 11-12)
(大いに飲もう。この盃に酒をなみなみと注ぎ。そしてワインをウィットの精神としよう。われらみんなを神聖にす
るために。サック酒と喜びに満ち溢れ、より優れた魂と高貴な炎の所有者となって隠遁できるように。そして、こ
の描かれた空の感応力と苦心のうえに作り上げられた形とによってより高きものへと飛翔するために。だから、
もし眠気がさしたら、みんな溢れる酒を重ねて詩的な夢を見ることにしよう。)
外の堕落した世界から逃れ、「より優れた魂と高貴な炎の所有者」となって「隠遁」し、「より高きもの
─ 21 ─
へと飛翔する」という願いを叶えるための唯一の方法は、「サック酒と喜びに満ち溢れ」、タヴァンの天
井や壁に描かれた「空」の絵や羊飼いの理想的な生活の絵の「感応力」に導かれることである。かつて
の平和な時代に詩がすべての「豊かで幸せな」
(l. 23)羊飼いの口から自然に生まれてきたのとは違って、
話者は、この荒廃した時代にあっては、「サック酒」によって「詩的な」心をかき立てて、それを「ウ
ィットの精神」とする必要があると考えている。彼にとっては、詩神ミューズに代わる「サック酒」と
いうインスピレーションの源となるべきものが必要であり、まさにFriedenreighの言葉を借りれば、詩
的インスピレーションは「大ジョッキの底から涌き出てくる58)」のである。
生まれ故郷のウェールズに戻ってからの詩ではあるが、「隠遁した友人に、ブレックノックへの招待」
(
“To his retired friend, an Invitation to Brecknock”in Olor Iscanus, M. 46 - 48)と題する詩においても、
酒は詩的インスピレーションの源である。この詩では、酒を飲んで「ライ麦と小麦の話をするだけ」
(l. 60)
の「非常識な」
(l. 61)田舎者は「居酒屋冒涜」(l. 63)であると嘆かれ、酒を飲む本当の目的は「詩神ミ
ューズ」
(l. 68)を甦らせることにあると強調されている。
Come! leave this sullen state, and let not Wine
And precious Witt lye dead for want of thine,
Shall the dull Market-land-lord with his Rout
Of sneaking Tenants durtily swill out
This harmlesse liquor? shall they knock and beat
For Sack, only to talk of Rye, and Wheat?
O let not such prepost'rous tipling be
In our Metropolis, may I ne'r see
Such Tavern-sacrilege, nor lend a line
To weep the Rapes and Tragedy of wine!
Here lives that Chimick, quick fire which betrayes
Fresh Spirits to the bloud, and warms our layes,
I have reserv'd 'gainst thy approach a Cup
That were thy Muse stark dead, shall raise her up,
And teach her yet more Charming words and skill... (ll. 55-69, M. 46-48)
(さあ!こんな陰気な状態とは縁を切ろう。ワインと尊いウィットを、いくら君のものが不足しているからといって、
死んだようにしていちゃいけない。「市場」にしばしばやって来る鈍感な「地主」は、群れなしてこそこそ出入りす
る小作人たちといっしょに、この害のない酒を汚らしくがぶ飲みするんだろうか。あいつらはサック酒を求めて酒
場の戸をどんどん叩いて、
「ライ麦」と「小麦」の話をしに来るだけなのか。ああ、そんな非常識な酒飲みには僕た
ちの「都会」にはいてほしくない。願わくは、そんな「居酒屋冒涜」を見たりとか、あるいは、ワインの「侵害」や
「悲劇」を嘆くような詩を一行たりとも書いたりするなんてことはしたくないものだ!ここにあるのはあの錬金術
の燃え盛る焔、それは血に新鮮な精神を与え、僕たちの歌を暖めるもの。僕は君がやって来るのに備えて、盃をず
っと用意しているんだ。その盃は、君の詩神ミューズが全く死んでいるとしても、彼女を生き返らせ、彼女にもっ
と魅力的な言葉と技巧を教示することになるだろう。)
これに続く詩行は、「喧騒と戦争のさ中」にあって、「(君と私が抵抗しようとも)なおも続く」「この時
─ 22 ─
開戦前夜の居酒屋通い ― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ―
代のばかげた惨状に心を悩ます」ことなく、親しい友人たちとの会合の中に時代の抑圧からの気晴らし
を求めようとするヴォーンの気持ちが実によく現われている。
Come then! and while the slow Isicle hangs
At the stiffe thatch, and Winters frosty pangs
Benumme the year, blith(as of old)let us
'Midst noise and War, of Peace, and mirth discusse.
This portion thou wert born for: why should wee
Vex at the times ridiculous miserie?
An age that thus hath fool'd it selfe, and will
(Spite of thy teeth and mine)persist so still. (ll. 73 - 80, M. 47)
(それならば来たまえ!つららがゆっくりと伸びて固く凍りついたわらぶき屋根から垂れ下がり、冬の凍てつく寒
さの激しい痛みがこの年を麻痺させる間に、愉快に(昔のように)この喧騒と戦争のさ中に平和と喜びについて語
り合おうじゃないか。君はこの運命のために生まれてきたのだ。どうして私たちはこの時代のばかげた惨状に心
を悩ますのか。こうして自らをもてあそび、
(君と私が抵抗しようとも)なおも続く時代に。)
“A Rhapsodie”の最後の部分が讃えるのは、まさにミューズの代用とも言うべき「サック酒」であ
る。話者にとっては、この「酒」こそが、「太陽」が作り出す日常の「時」というものを超越すること
を可能にし、不合理に満ちたこの世界の「昼」という時間を切り抜ける力をもっている。
Lets laugh now, and the prest grape drinke,
Till the drowsie Day-Starre winke;
And in our merry, mad mirth run
Faster, and further then the Sun;
And let none his Cup forsake,
Till that Starre againe doth wake;
So we men below shall move
Equally with the gods above. (ll. 71- 78, M. 12)
(「さあ高笑いして、ぶどうの酒を飲み干そう、眠たげな昼の星がまたたくまで。それから陽気に狂わんばかりに歓
喜して太陽よりももっと速く遠くまで走ろう。何人もその盃を捨ててはいけない、あの星が再び目覚める時までは。
そうすれば、我々下界の人間たちも天上の神々と共に歩むことになるだろう。
」)
ヴォーンは、「昼の星」である太陽が沈んで、また太陽が昇るまで飲み続ければ、
「天上の神々」
(もち
ろん異教の神々)と共に歩むことができるだろうと、まるでピューリタンの怒りをさらにいっそう煽り
立てるかのように、自らを神格化するような表現でこの詩を終えている。
─ 23 ─
Ⅴ.
過酷な現実社会から逃避して恋愛や友人たちとの飲酒といったこの世の快楽に耽るという態度は、紀
元前六世紀のギリシャの詩人アナクレオンの享楽主義の流れを汲むものであるが、ヴォーンの時代には、
とりわけベン・ジョンソンに私淑する「ベンの息子」と呼ばれる詩人たちの作品、あるいは、「王党派
詩人たち」の作品によく見られる態度である。無秩序な状態にある混沌とした国内情勢に不安を感じる
ヴォーンのような王党派の人間にとっては、「居酒屋」はまさに一種の「避難所」(shelter)的役割をも
つものであった。しかし、同時に、酒を飲むという行為は、言わば国王に忠誠を誓う世俗的な「儀式」
のようなものであり、また、議会派の権威を茶化す方法でもあった59)と考えられる。たとえば、実際に、
1643年に王党派のあるグループは、議会派の定めた断食の日の翌日を意図的に飲めや歌えのどんちゃん
騒ぎで過ごしている60)。つまり、ヴォーンにとっても、Lois Potterの言葉を借りれば、
「酒を飲む」とい
う行為は、議会派支配の不合理性に対する「唯一の合理的反応(the only rational reaction)61)」であっ
たと言えるだろう。
この詩のタイトルに用いられている“rhapsody”という語は、「即興性を重んじた楽曲の一形式」を
意味し、一般に「狂詩曲」と訳される。これはもともと、ヴォーン自身も『詩集』のタイトルページで
言及しているホメロス作と伝えられる『イリアス』(Iliad)や『オデュッセイア』
(Odyssey)の中の一節
に由来し、古代ギリシァの吟遊詩人たちによって朗唱された「叙事詩」を意味するものであった。また、
この語は「大きな喜び」や「歓喜」、そして、「有頂天」や「夢中」というような意味も持っている。し
かし、“rhapsody”のもう一つの意味は、現在では廃語になっているが、「言葉の寄せ集め、あるいは、
ごた混ぜ」(“a miscellaneous collection or medley”)という意味である。この詩のタイトルとしては、
即興的な「狂詩曲」ととっても、歴史上の事件や英雄的人物の事跡を扱う「叙事詩」ととっても、また、
「大きな喜び」ととっても、いずれもふさわしいように思われる。もう一つの「ごた混ぜ」という意味
も、Martinが言うように、この詩のもっている「支離滅裂さ」と関連性を持つものと考えられるであろ
う62)。
この詩は、まさにそのタイトルが表わすように、「支離滅裂さ」を装った時代批判、もちろん、とり
わけ敵対する議会派あるいはピューリタンに対する批判といっていい。「支離滅裂さ」を装うための舞
台として、ヴォーンは、当時支配する側にとっても支配される側にとっても最も重大な関心事であった
「居酒屋」を選んだわけである。
「支離滅裂さ」を装うという点については、当然、「検閲」とか「言論統制」という問題がからんで
いたに違いない。“A Rhapsodie”の創作時期は、ヴォーンのロンドン滞在時期や詩の内容から見て、
おそらく1642年から1643年以降であり、その頃も含めて、この詩を収録する『詩集』が出版登録(1646
年 9 月15日)された時期というのは、議会派当局による「検閲」が厳しくなっていた時期と重なる。「検
閲」というものがあれば、詩人がそれに対して何らかの「回避的行動」を取るのは当然であり、たとえ
ば、それは、古典作家からの引用を「隠れ蓑」にするとか、異国の過去の歴史的事件に置き換えるとか、
あるいはまた、エドマンド・スペンサー(Edmund Spenser, c 1552 - 99)の『羊飼いの暦』
(1579)や
『妖精の女王』
(1589, 1596)に見られるように、「パストラル」のような寓意的文学形式を借りるといっ
た手法になって現われる63)。ヴォーンがこの“A Rhapsodie”において用いたパストラル的手法はまさ
にそのような意図をもったものであったし、イギリス国内で起こっている事件をローマの古代史に置き
換えるという手法も、いささか見え透いたものではあるが、まさに彼の王党派としての信条を隠す手段
(であると同時に表現する手段)であったと言える。
さて、十六世紀から十七世紀にかけて伝統的な共同社会の中心的存在であった「居酒屋」をめぐる状
─ 24 ─
開戦前夜の居酒屋通い ― ヴォーンの飲酒の詩“A Rhapsodie”を読む ―
況も、とりわけピューリタニズムの嵐を受けて次第に変貌を遂げていくことになる。1649年にチャール
ズ一世が処刑され、共和制が始まってすぐの1650年にイギリスでは最初のコーヒーハウスがオックスフ
ォードに店を開く。その後、1652年にはロンドンにも最初のコーヒーハウスが誕生し、1656年にはヴォ
ーンの“A Rhapsodie”の舞台になったフリート・ストリートにも「レインボウ」という名のコーヒーハ
ウスができて、コーヒーハウスは凄まじい勢いでその数を増していく。
コーヒーハウスが急増した大きな理由の一つは、ピューリタン的モラルの規制が強いこの時代にあっ
て、コーヒーというノンアルコールの飲み物の方が酒よりもずっと好ましい飲み物だと考えられた点に
あるらしい。そして、今度はコーヒーハウスが文人や政治家たちの中心的な議論の場としての役割を果
たすようになっていくのである。一方、「居酒屋」もその後徐々に「リスペクタビリティ」(立派な社会
的地位)を獲得して、文字通り公の家である「パブリック・ハウス」へと変貌していくことになる。ヴ
ォーンの“A Rhapsodie”は、まさにそのような時代の流れの中の一こまであった。
【注釈】
1. Kenneth Friedenreigh, Henry Vaughan(Twayne Publishers, 1978),p. 76.
2. 佐藤清隆「シェイクスピア時代の酒場の世界」[明治大学人文科学研究所編『歴史のなかの民衆文化』(風間書房、1998)],pp.
131 - 132.
3. 佐藤清隆「エリザベス朝・初期スチュアート朝イングランドの酒場の世界」(『駿台史学』第65号、1985),pp. 63 - 64、及び「近世
前期ロンドンの「秩序」と「無秩序」――浮浪・酒場・騒擾を中心として――」[イギリス都市・農村共同体研究会編『巨大都市ロ
ンドンの勃興』(刀水書房、1999)
],p. 74.
4. Keith Wrightson, English Society 1580−1680(1982 ; rpt. Hutchinson, 1987),p. 167.[キース・ライトソン(中野忠訳)『イギリ
ス社会史1580−1680』
(リブロポート、1991)
、p. 279.]
5. 邦文献としては、今関恒夫『ピューリタニズムと近代市民社会――リチャード・バクスター研究』[(みすず書房、1989),pp.
174 - 177]と、常行敏夫『市民革命前夜のイギリス社会――ピューリタニズムの社会経済史』[(岩波書店、1990),pp. 165 - 186]
のほかに、佐藤清隆の一連の論文「エリザベス朝・初期スチュアート朝イングランドの居酒屋政策――議会制定法とその成立過
程の検討を中心に――」
[(『駿台史学』第74号、1988),pp. 21 - 83]、
「ピューリタンとモラルの改革――ウィリアム・プリン――」
[浜林正夫・神武庸四郎編『社会的異端者の系譜――イギリス史上の人々――』(三省堂、1989),pp. 98 - 118]、及び、すでに引
用した「エリザベス朝・初期スチュアート朝イングランドの酒場の世界」[(『駿台史学』第65号),pp. 55 - 122]、「シェイクスピア
時代の酒場の世界」[『歴史のなかの民衆文化』,pp. 125 - 191]、「近世前期ロンドンの「秩序」と「無秩序」――浮浪・酒場・騒擾
を中心として――」[『巨大都市ロンドンの勃興』,pp. 64 - 100]などを参照。また欧文献としては、Peter Clark,“The Alehouse
and Alternative Society”
[Donald Pennington and Keith Thomas(eds.),Puritans and Revolutionaries(Oxford Univ. Press,
1978),pp. 47 - 72]と、Peter Clark, The English Alehouse : A Social History 1200 - 1830(Longman, 1983)などを参照。
6. 常行敏夫,op. cit. , p. 176.
7. 佐藤清隆「シェイクスピア時代の酒場の世界」,p. 168.
8. 社本時子『インの文化史――英文学に見る――』
(創文社、1992),p. 42.
9. 佐藤清隆「シェイクスピア時代の酒場の世界」,p. 168.
10. Peter Clark, “The Alehouse and Alternative Society,” pp.59 - 61 and The English Alehouse, pp. 149 - 151.
11. 佐藤清隆「エリザベス朝・初期スチュアート朝イングランドの酒場の世界」,pp. 105 - 106.
12. 楠明子『英国ルネサンスの女たち』
(みすず書房、1999),p. 245.
13. 今関恒夫,op. cit. , p. 174.
14. 常行敏夫,op. cit. , p. 197.
15. 今関恒夫,op. cit. , p. 41.
16. 佐藤清隆「エリザベス朝・初期スチュアート朝イングランドの酒場の世界」,p. 104.
17. 今関恒夫,op. cit. , p. 176.
18. Ibid. , p. 176.
19. 佐藤清隆「エリザベス朝・初期スチュアート朝イングランドの酒場の世界」,pp. 65, 77.
20. 佐藤清隆「エリザベス朝・初期スチュアート朝イングランドの居酒屋政策」,pp. 63 - 64.
21.“Idle Verse”全体の解釈については、福山裕「ヴォーンの沈黙――宗教詩人と医師の詩論――」
(秋田短期大学『論叢』第 5 5 号、
1995),pp. 4 - 8を参照されたい。
─ 25 ─
22. L. C. Martin(ed.)
,The Works of Henry Vaughan( 2 nd ed. : Oxford Univ. Press, 1957)
,p. 446. ヴォーンのテクストにはこの
版を使用し、以下、
(M. 446)のように略記して本文中にそのページ数を示すことにする。
23. OED score sb. 9, 10, and 11参照。
,p. 505.
24. Louis L. Martz(ed.)
,George Herbert and Henry Vaughan(Oxford Univ. Press, 1986)
25. French Fogle(ed.)
,The Complete Poetry of Henry Vaughan(1964 ; rpt. New York: W. W. Norton & Company, Inc., 1969),
p. 205.
26. Graham Parry, Seventeenth-Century Poetry: the Social Context(Hutchinson, 1985),p. 96.
27. E. L. Marilla(ed.),The Secular Poems of Henry Vaughan(Uppsala, 1958),p. 127.
op. cit. , p. 128.
28. L. C. Martin(ed.),op. cit. , p. 701.
29. E. L. Marilla(ed.),op. cit. , p. 128.
30. John Chandler(ed.),Travels Through Stuart Britain : The Adventures of John Taylor, the Water Poet(Sutton, 1999),p.
257.
31. F. E. Hutchinson, Henry Vaughan: A Life and Interpretation(Oxford Univ. Press, 1947),p. 43.
32. Sidney Laurens, London's City: A Guide Through the Historic Square Mile(Marmot Publishing, 1994),p. 114.
33. E. L. Marilla(ed.),op. cit. , p. 128.
34. George Williamson, A Reader's Guide to the Metaphysical Poets(1967; rpt. Thames and Hudson, 1977), p. 178.
35. Hugh Maclean(ed.),Ben Jonson and the Cavalier Poets(W. W. Norton & Company, Inc., 1974),p. 422.
36. Peter Clark, “The Alehouse and Alternative Society,” p. 54 and The English House, pp. 134-135.
37. G. A. Wilkes(ed.)
,Ben Jonson: Five Plays(1981; Oxford Univ. Press, 1988),p. 552.
38. ベン・ジョンソン(大場建治・井出新訳)『浮かれ縁日――バーソロミュー・フェア』(国書刊行会、1992), p. 117.
39. G. A. Wilkes(ed.)
,op. cit. , p. 498.
40. ベン・ジョンソン(大場建治・井出新訳)op. cit. , p. 24.
41. ウイリアム・シェイクスピア(小津次郎訳)
『十二夜』(岩波書店[岩波文庫]、1960),pp. 48, 50.
42. Richard Braithwaite, Drunken Barnaby's Four Journeys To the North of England(J. Harding, 1805),p. 5.
43. 今関恒夫, op. cit. , p. 171.
, p. 191.
44. E. C. Pettet, Of Paradise and Light : A Study of Vaughan's Silex Scintillans(Cambridge Univ. Press, 1960)
,p.
45. J. D. Simmonds, Masques of God : Form and Theme in the Poetry of Henry Vaughan(Univ. of Pittsburgh Press, 1972)
128.
,pp. 41 - 43.
46. F. E. Hutchinson, Henry Vaughan: A Life and Interpretation(Oxford Univ. Press, 1947)
47. 松本仁助・岡道男・中務哲郎編『ラテン文学を学ぶ人のために』
(世界思想社、1992),p. 235.
48. Ibid. , p. 239.
49. E. L. Marilla(ed.),op. cit. , p. 132.
50. F. E. Hutchinson, op. cit. , pp. 43-44.
51. E. L. Marilla(ed.),op. cit. , p. 134.
52. F. E. Hutchinson, op. cit. , p. 44.
53. L. C. Martin(ed.)
,op. cit. , p. 701 ; and Alan Rudrum(ed.),Henry Vaughan : The Complete Poems(1976 ; rpt., Penguin
Books, 1983),pp. 451 - 452.
54. 『平凡社大百科事典−3』
(平凡社、1984)
,p. 1077.
55. R. C. Latham & W. Matthews(eds.),The Diary of Samuel Pepys, Volume V 1664(Bell & Hyman, 1971 ; HarperCollins,
1995),pp. 172 - 173.
56. 臼田昭訳『サミュエル・ピープスの日記第五巻1664年』(国文社、1989),p. 217.
57. 佐藤清隆「ピューリタンとモラルの改革」
,pp. 98 - 118.
58. Kenneth Friedenreigh, op. cit. , p. 79.
59. Lois Potter, Secret Rites and Secret Writing: Royalist Literature, 1641 - 1660 (Cambridge Univ. Press, 1989), p. 138.
60. David Underdown, Revel, Riot and Rebellion: Popular Politics and Culture in England 1603 - 1600(Oxford Univ. Press, 1985),
p. 257.
61. Lois Potter, op. cit. , p. 140.
62. L. C. Martin,(ed.),op. cit. , p. 701.
63. クリストファー・ヒル(小野功生・圓月勝博・箭川修訳)『十七世紀イギリスの文書と革命』
(法政大学出版局、1999)、pp. 83 - 84.
─ 26 ─
地方都市郊外住宅地における戸建住宅居住者にみる定住意識と地域住環境の問題点 ∼青森県八戸市是川団地、旭ヶ丘団地を例に∼
地方都市郊外住宅地における戸建住宅居住者にみる
定住意識と地域住環境の問題点
∼青森県八戸市是川団地、旭ヶ丘団地を例に∼
上 村 康 之
Ⅰ. はじめに
地方都市においては、高度経済成長期に大規模開発された30∼40年が経過した郊外住宅地の衰退現
象が都市問題となっていることが指摘されてきている(小長谷,2004;由井,2004;久保,2005;鈴木,2005)
。
これらの住宅地においては、人口減少、少子高齢化による人口構成の変化、商業機能や都市機能などの
利便性の低下などにより、住宅地としての住環境や魅力が低下し、地域の活力の低下も招いてきている
と考えられる。そのため、住民は長年住み続けた住宅地に愛着は持つものの、子世代が住宅地に戻り居
住する可能性が将来的にも見込みが薄いといった家族の問題に加え、衰退する住宅地の現状や将来に対
する不安感が増してきている。
これらの現象を実証した研究として大都市圏においては、すでに郊外の大規模ニュータウンが人口の
減少、高齢化そして空洞化などからオールドタウン化し様々な都市問題が生じていることを、福原
(2001)による多摩ニュータウン、香川(2001)による千里ニュータウンの論及にみることができる。
地方圏においては、原田ほか(2005)、手嶋ほか(2005)による福井県春江町の団地において土地利用
と土地所有の実態、居住者活動と高齢化への対応との観点からの研究がある。
本研究においては、青森県八戸市の是川団地、旭ヶ丘団地を事例として、郊外住宅地における戸建住
宅居住者住民意識調査の分析から、今日、地方都市の郊外住宅地が抱える一般的かつ具体的な地域住環
境の問題点について明らかにしていくこと、またほぼ同じような時期に開発された郊外住宅地でありな
がら住民による「生活利便性」「快適性」など「地域住環境」の満足度に差異が生じていることについて
も論及する1)。
本研究では、弘前大学教育学部住居学研究室を実施主体に、八戸市の是川団地、旭ヶ丘団地の戸建住
宅居住者を対象として、2004年12月から2005年1月にかけて「郊外型住宅地居住者の動向に関するアン
ケート調査」として実施した。サンプルは戸建住宅居住者全世帯数の50%を対象とし、是川団地の343
世帯、旭ヶ丘団地の227世帯に対して郵送により配布、回収を行った。回収は是川団地が189世帯、旭ヶ
丘団地が136世帯であり、回収率は55.1%と60.9%であった。合計では570世帯に配布325世帯の回収で回
収率が57.0%であった 2)。
Ⅱ. 研究対象地域の概要
本調査の研究対象とした青森県八戸市は、県の南東部に位置する人口約24万5,000人を有する青森県第
2の都市である(第1図)3)。八戸市は1929年に八戸町、小中野町、湊町、鮫村の連接する町村が合併し
て市制を施行した。戦時体制下から馬淵川と新井田川の河口部の低地に重工業が立地して工業化が進み、
─ 27 ─
さらに1964年に新産業都市に指定にされ青森県随一の工業都市として、また、1966∼1988年に八戸漁港
が水揚げ連続日本一を記録するなど日本有数の水産都市として発展してきた。
八戸市は工業都市として1960年代から1970年代にかけて伸張したがその人口増加に対応するため、
郊外の台地上に住宅地が広がっていった。10haを超える大規模な宅地開発は青森県住宅供給公社が事業
主体となり、新井田川東側に旭ヶ丘団地(1967年完成)、市東部鮫町の南に白銀台団地(1971年完成)、市
南部に是川団地(1975年完成)が開発された。また、新産業都市事業団が事業主体となり、市北部の百石
町に近い多賀台団地(1969年完成)など団地群が形成された。現在、これらの住宅地は完成後30∼40年
を経過し、人口減少や公営住宅の老朽化に見られるように住宅地としての持続が問題になってきている。
これらの住宅のうち、本稿では是川団地と旭ヶ丘団地を研究対象地域に選定した。八戸市の中心市街地
からは旭ヶ丘団地が約4km、是川団地が約5kmの位置にある(第2図)。旭ヶ丘団地は八戸市の団地群
で完成年次が1967年と一番古く開発面積は39haである。八戸市の市街地とも連担し八戸の動脈とも言
える国道45号にも近接し生活の利便性が高い。人口はほぼ横ばいで推移している。一方、是川団地は開
発面積が51haで一番大きい。人口の減少が著しく、住宅地内の買物や医療といった生活利便性が低く
なっている。
旭ヶ丘団地は1961年に開発がはじまり、入居開始は1964年である。人口の推移は1980年に4,490人を
ピークに減少し、1991年以降はほぼ横ばいで推移し2003年には3,857人となっている。是川団地は1969
年に開発がはじまり、入居開始は1971年である。人口の推移は1980年に5,409人(国勢調査)をピークに
一貫して減少しつづけ、2003年には3,194人となっている4)。是川団地は旭ヶ丘団地より開発面積が大き
く当初の計画戸数も1,760戸と旭ヶ丘団地の1,170戸に比較して多かった。人口は1994年まで是川団地の
方が多かったが、1995年に旭ヶ丘団地を下まわり、以後その差が拡大してきている。(第3図)。
第1図 青森県八戸市の位置
第2図 是川団地と旭ヶ丘団地の位置
第3図 是川団地、旭ヶ丘団地の人口推移
(住民基本台帳より作成)
─ 28 ─
地方都市郊外住宅地における戸建住宅居住者にみる定住意識と地域住環境の問題点 ∼青森県八戸市是川団地、旭ヶ丘団地を例に∼
Ⅲ. 居住者の属性分析からみた住宅地の居住者像
1.世帯の基礎的な属性
(1)回答者の性別と年代
回答者の性別をみると、是川団地は男性が85.2%(161件)、女性が14.8%(28件)、旭ヶ丘団地は
81.6%(111件)、女性が16.2%(22件)、無回答が2.2%(3件)である。両団地では男性が83.7%(272
件)
、女性が15.3%(50件)である。
次に回答者の年代をみると、是川団地は「60代」が46.0%、
「70代」が22.2%、
「50代」が18.5%、旭ヶ丘
団地は「70代」が47.1%、「60代」が33.1%、「50代」が9.6%となっている。最も多い年代は、是川団地
が60代、旭ヶ丘団地が70代と差異が見られ、開発時期の違いによるとものと考えられる。そこでこの年
代を20代であれば20、30代であれば30のようにすべての年代で加算し回答者数で除し両団地の平均を算
出すると、是川団地が57.86、旭ヶ丘団地が62.03と旭ヶ丘団地の回答者の値が高くなっている(第1表)
。
第1表 回答者の年代
(年代)
是川団地 (%)
旭ヶ丘団地
(%)
合計 (%)
20
2
1.1
0
0
2
0.6
30
4
2.1
2
1.5
6
1.8
40
13
6.9
9
6.6
22
6.8
50
35
18.5
13
9.6
48
14.8
60
87
46.0
45
33.1
132
40.6
70
42
22.2
64
47.1
106
32.6
無回答
6
3.2
3
2.2
9
2.8
合計
189
100
136
100
325
100
(アンケート調査により作成)
(2)世帯人員
世帯人員をみると、是川団地は「2人」が45.0%、「3人」が23.3%、旭ヶ丘団地は「2人」が34.6%、
「3人」が25.0%となっている。「1人」は是川団地が3.7%、旭ヶ丘団地が9.6%と旭ヶ丘団地の比率が高
くなっている。そこで「5人以上」を5人として1世帯あたり人員を算出すると、是川団地が2.85、旭
ヶ丘団地が2.90と旭ヶ丘団地が多くなっている(第2表)
。
第2表 世帯の人員
(人)
是川団地 (%)
旭ヶ丘団地
(%)
合計 (%)
1
7
3.7
13
9.6
20
6.2
2
85
45.0
47
34.6
132
40.6
3
44
23.3
34
25.0
78
24.0
4 35
18.5
24
17.6
59
18.2
5以上
18
9.5
18
13.2
36
11.1
合計
189
100
136
100
325
100
(アンケート調査により作成)
(3)子どものいる世帯
次に子どものいる世帯のみを抽出して、「就学前の子ども」「小学生」「中学生」「高校生」「大学・短
大・専門学校生」「その他」のカテゴリーで集計を行った。複数回答としている。是川団地では、「大
学・短大・専門学校生」が7.4%、「小学生」が5.3%である。旭ヶ丘団地では、「就学前の子ども」「小学
生」が5.9%となっている。これを「高校生」以下の子どもがいる世帯として算出すると、是川団地は
10.1%(19件)
、旭ヶ丘団地は14.0%(19件)に過ぎない(第3表)
。
─ 29 ─
第3表 子どもの居住の有無
就学前 小学生 中学生 高校生 6
10
6
7
3.2
5.3
3.2
3.7
8
8
6
4
5.9
5.9
4.4
2.9
14
18
12
11
4.3
5.5
3.7
3.4
是川団地 (%)
旭ヶ丘団地
(%)
合計
(%)
大学等 その他
14
67
7.4
35.4
2
45
1.5
33.1
16
112
4.9
34.5
複数回答であり合計して100%にはならない。パーセントはアンケート回答数、是川団地189、旭ヶ丘団
地136に対する比。子どものいる世帯数は是川団地90、旭ヶ丘団地62。
(アンケート調査により作成)
(4)高齢者の居住の有無
第4表 高齢者の居住の有無
65歳以上の高齢者について居住の
有無をみると、是川団地では42.3%、
是川団地
旭ヶ丘団地では69.1%、両団地では
旭ヶ丘団地
いる いない 無回答 80
105
4
42.3
55.6
2.1
94
38
4
69.1
27.9
2.9
174
143
8
53.5
44.0
2.5
(%)
(%)
53.5%となっている(第4表)。
合計
(%)
合計
189
100
136
100
325
100
(アンケート調査により作成)
2.現在の住居の状況
ここでは、是川団地、旭ヶ丘団地の住居の状況を、所有形態、居住開始時期、住宅の築年数、室数か
ら把握することとする。
(1)所有形態
住居の所有形態をみると、是川団地は「持ち家」が98.4%(186件)、「賃貸住宅」が1.1%(2件)、そ
の他が0.5%(1件)、旭ヶ丘団地は「持ち家」が97.7%(133件)
、「賃貸住宅」が2.2%(3件)となって
おり、戸建住宅のほとんどが持ち家という状況である。
(2)居住開始時期
現在の住居の居住開始時期をみると、是川団地は「1971∼1975年」が49.2%とほぼ半数を占め、次い
で「1996∼2000年」が13.2%、「1991∼1995年」が7.9%となっている。旭ヶ丘団地は「1965年以前」が
44.1%、「1986∼1990年」が13.2%、「1991∼1995年」が11.0%となっている。両団地とも入居開始時期に
移り住んだ世帯が最多のカテゴリーとなっている。そして、そのほぼ20∼25年経た時期が2番目に多く
なっている(第5表)。
第5表 居住開始時期
(年)
是川団地
(%)
旭ヶ丘団地
(%)
合計
(%)
∼1965
6
3.2
60
44.1
66
20.3
1966∼70
1971∼75
3
1.6
11
8.1
14
4.3
93
49.2
1
0.7
94
28.9
1976∼80
11
5.8
5
3.7
16
4.9
1981∼85
1986∼90
9
4.8
6
4.4
15
4.6
11
5.8
18
13.2
29
8.9
1991∼95 1996∼2000 2001∼03
15
7.9
15
11.0
30
9.2
25
13.2
12
8.8
37
11.4
11
5.8
6
4.4
17
5.2
無回答 合計
5
189
2.6
100
2
136
1.5
100
7
325
2.2
100
(アンケート調査により作成)
─ 30 ─
地方都市郊外住宅地における戸建住宅居住者にみる定住意識と地域住環境の問題点 ∼青森県八戸市是川団地、旭ヶ丘団地を例に∼
(3)住宅の築年数
住居の築年数をみると、是川団地は「30年以上」が34.4%、旭ヶ丘団地においても「30年以上」が
32.4%と最多のカテゴリーとなっている。しかし、第2に多いカテゴリーをみると、是川団地は「20年
以上30年未満」が26.5%、旭ヶ丘団地は「10年以上20年未満」が30.1%と差異が見られる(第6表)。
第6表 住宅の築年数
(年)
是川団地
(%)
旭ヶ丘団地
(%)
合計
(%)
5未満
20
10.6
12
8.8
32
9.8
5以上10未満
28
14.8
15
11.0
43
13.2
10以上20未満 20以上30未満
25
50
13.2
26.5
41
24
30.1
17.6
66
74
20.3
22.8
30以上
65
34.4
44
32.4
109
33.5
不明
1
0.5
0
0
1
0.3
合計
189
100
136
100
325
100
(アンケート調査により作成)
(4)室数
住居の室数をみると、是川団地は「5室」が28.6%、「7室以上」が27.5%、「6室」が24.3%、旭ヶ丘
団地は「7室以上」が37.5%、「6室」が28.6%、「5室」が22.0%の順となっている。これに3室未満を
3室、7室以上を7室とし、1世帯あたりの室数を算出すると、是川団地が5.59室、旭ヶ丘が5.88室と是
川団地の方が室数は少なくなっている(第7表)。
第7表 住宅の室数
(室)
是川団地
(%)
旭ヶ丘団地
(%)
合計
(%)
3以下
4
2.1
2
1.5
6
1.8
4
32
16.9
12
8.8
44
13.5
5
54
28.6
30
22.1
84
25.8
6
46
24.3
39
28.7
85
26.2
7以上
52
27.5
51
37.5
103
31.7
無回答
1
0.5
2
1.5
3
0.9
合計
189
100
136
100
325
100
(アンケート調査により作成)
Ⅳ. 居住者の定住意識
次に「今後の居住をどう考えるか」という設問により、いわゆる定住意識について明らかにする。
選択肢は「ずっとここに住むつもりである」「当面は現在のまま住むつもりである」「今は引っ越す予定
はないが考えている」「近いうちに引っ越す予定である」の4つである。
これを団地別に、年代と定住意識の選択肢でクロス集計を行った。是川団地では、全体で「ずっとこ
こに住むつもりである」が64.0%、「当面は現在のまま住むつもりである」が29.1%であり、両方あわせ
ると93.1%になる。これに対し「今は引っ越す予定はないが考えている」は4.8%、「近いうちに引っ越
す予定である」は1.1%であり、あわせて5.9%に留まっている(第8表)。旭ヶ丘団地では、全体で「ず
っとここに住むつもりである」が79.4%、「当面は現在のまま住むつもりである」が16.2%であり、両方
あわせると95.6%になる。これに対し「今は引っ越す予定はないが考えている」は2.9%、「近いうちに
引っ越す予定である」は1.5%であり、あわせて4.4%に留まっている(第9表)
。
─ 31 ─
第8表 是川団地住民の定住意識
引っ越す
ずっと住む 当面は住む 予定はない
が考慮中
20代
30代
40代
50代
60代
70代∼
無回答
合計
(%)
1
3
4
18
59
32
4
121
64.0
1
1
6
15
24
6
2
55
29.1
0
0
1
2
3
3
0
9
4.8
第9表 旭ヶ丘団地住民の定住意識
引っ越す
ずっと住む 当面は住む 予定はない
が考慮中
引っ越す
予定あり
合計
0
0
2
0
0
0
0
2
1.1
2
4
13
35
87
42
6
189
100
20代
30代
40代
50代
60代
70代∼
無回答
合計
(%)
0
0
7
11
36
51
3
108
79.4
0
2
2
2
6
10
0
22
16.2
合計右欄には60代、70代の無回答各1を含む
(アンケート調査により作成)
引っ越す
予定あり
0
0
0
0
3
1
0
4
2.9
合計
0
0
0
0
0
2
0
2
1.5
0
2
9
13
45
64
3
136
100
(アンケート調査により作成)
年代別にみると、是川団地において「ずっとここに住むつもりである」は「70代」が42件のうち32件
(76.1%)、「60代」が87件のうち59件(67.8%)、「50代」が35件のうち18件(51.4%)となっており、年代
が高いほど定住意識が高い。「50代」では「当面は現在のまま住むつもりである」が15件(42.9%)であ
り、今後について多少含みをもたせている数が多くなる。「40代」では「ずっとここに住むつもりであ
る」は4件に対し、
「当面は現在のまま住むつもりである」が6件と逆転する。
旭ヶ丘団地において「ずっとここに住むつもりである」は「70代」が64件のうち51件(79.7%)、「60
代」が60件のうち36件(60.0%)となっている。また、
「50代」が13件のうち11件(84.6%)とサンプル数
は少ないものの一番定住意識が高くなっている。旭ヶ丘団地では「50代」以下に「今は引っ越す予定は
ないが考えている」「近いうちに引っ越す予定である」がなく、「60代」に、「70代」に見られる。
両団地とも極めて定住意識が高いことが確認されたが、旭ヶ丘団地が是川団地よりも定住意識がやや
高くなっている。これは回答者の年齢構成から、旭ヶ丘団地が高いためこのような結果となったと考え
られる。また、是川団地では年代が下がるにつれて定住意識が下がる傾向にある。
次に、前問において「ずっとここに住むつもりである」「当面は現在のまま住むつもりである」の回答
者に対し、現在のまま住む理由について尋ねた。選択肢は「現在の住まいに満足している」「居住して
まだ日が浅い」「地域に愛着がある」「家族の仕事の状況から」「子どもの学校の状況から」「生活の利便
性に満足している」「周辺の住環境に満足している」
「住宅ローンがまだ残っている」の8者と「その他
(自由回答)
」であり、回答の形式は複数回答である。
是川団地においては「住まいに満足」が63.5%と最も高く、次いで「周辺の住環境に満足」が46.0%、
「地域への愛着がある」が39.7%である。そして少
し差が開いて「住宅ローンがまだ残っている」が
0%
20%
40%
60%
14.3%、
「生活の利便性」が13.8%となっている。
一方、旭ヶ丘団地においては「住まいに満足」が
0%
20%
40%
60%
63.5%
是川
39.7%
58.8%
旭ヶ丘
46.3%
14.3%
が58.8%、
「地域への愛着がある」が46.3%、「生
13.8%
活の利便性に満足している」が45.6%である。そ
①
⑦
③
⑧
⑥
して大きく差が開いて「住宅ローンがまだ残っ
住まいに満足
周辺の住環境に満足
地域に愛着がある
住宅ローンが残っている
生活の利便性に満足
80%
68.4%
46.0%
68.4%と最も高く、次いで「周辺の住環境に満足」
ている」が7.4%となっている(第4図)。
80%
45.6%
7.4%
①
⑦
③
⑥
⑧
住まいに満足
周辺の住環境に満足
地域に愛着がある
住宅ローンが残っている
生活の利便性に満足
第4図 是川団地、旭ヶ丘団地における現在地に住む理由
両団地とも「住まいに満足」は60%を超え高
─ 32 ─
(アンケート調査より作成)
地方都市郊外住宅地における戸建住宅居住者にみる定住意識と地域住環境の問題点 ∼青森県八戸市是川団地、旭ヶ丘団地を例に∼
率であるが、上位の3つの理由において旭ヶ丘団地が是川団地よりも高くなっているほか、「生活の利
便性に満足」では旭ヶ丘団地が是川団地よりも約30%以上うわまわり、大きな差になっている。
住居そのものの質による差異は小さいものの、「生活の利便性」「住環境の質」「地域への愛着」とい
った項目の差異が、旭ヶ丘団地と是川団地の現在の状況を示しているものといえる。住宅地としての完
成時期は、旭ヶ丘団地が1967年、是川団地が1975年、八戸市の中心市街地からの距離では、旭ヶ丘団地
が4km、是川団地が5kmと旭ヶ丘団地が近いなど若干の前提条件に差異があるものの、高度経済成
長期に青森県住宅供給公社という公的セクターによって開発された「地方都市郊外の大規模住宅地」と
しては同質ものとはいえるが、住民の評価により現れた差の要因を検証してみる必要があると考える。
Ⅴ. 居住者の住宅地に対する不満と不安
Ⅳ章では是川、旭ヶ丘の両団地に定住意識を持つ理由について論じたが、その反面、住居、住環境に
対する不満や不安要素も多く潜んでいると考えられる。この章においては、「現在地に住んでいて、住
居、住環境、日常生活の不安」についての自由記述の回答を中心に分析していくこととする。
その前にまず、Ⅳ章の定住意識に関する設問において「今は引っ越す予定はないが考えている」「近
いうちに引っ越す予定である」の回答者に対して、引っ越したい理由について尋ねた。回答者数は是川
団地が11、旭ヶ丘団地が6である(第8表・第9表)
。選択肢は「現在の住まいに不満だから」「家族構成
が変わったから」「地域に愛着がないから」「家族の仕事の状況から」「子どもの学校の状況から」「生活
の利便性に不満だから」「周辺の住環境に不満だから」「地域内の付き合いがわずらわしいから」「交通
が不便だから」
「郊外では老後の生活が不安だから」「その他」であり、回答方式は複数回答である。
是川団地では「交通が不便だから」「老後の生活が不安だから」が4、「現在の住まいに不満だから」
「家族構成が変わったから」「生活の利便性に不満だから」が2、旭ヶ丘団地では「現在の住まいに不満
だから」「地域に愛着がないから」が2、「家族の仕事の事情から」「周辺の住環境に不満だから」「地域
内の付き合いがわずらわしいから」が1となっている。是川団地11、旭ヶ丘団地6と少ないサンプルで
あるが、両団地を比較すると是川団地の引っ越し理由として、交通が不便、生活の利便性の低さが出て
きているのに対し、旭ヶ丘団地にはでてきていない。Ⅳ章の「現在のまま住む理由」で分析したように、
両団地には、交通も含み生活の利便性という差異が見られるといえよう。
次に自由回答をみると、記載があったのは是川団地が76件、旭ヶ丘団地が40件であり、記載率は是川
団地が40.2%、旭ヶ丘団地が29.4%である。これを団地についての不満、不安について記載されたもの
は是川団地では66件で不満、不安の記載率は86.8%、旭ヶ丘団地は24件で不満、不安の記載率は60.0%
である。記述内容において、満足度を示す記載と不満、不安を示す記載の両方あるものはこの記載率に
含んでいる。記述の分析であるため厳密な線引きは難しい問題であるが、この両方の記載してある回答
は旭ヶ丘団地が0であるが是川団地では目立ち、是川団地住民が満足度もある程度ありながら、団地で
の生活に不満、不安を抱えていることが伺える。
具体的な不満、不安を示す記載内容について、述べていくこととする。是川団地の回答内容からいく
つか示してみる(第10表)。自由記述のため、医療、買物といった生活利便性、交通、中心市街地への
距離といったことに関するものでほとんどを占めるが、団地の人口減・高齢化・少子化、コミュニティ
の力の低下、自身の加齢に伴う生活や将来に向けた不安、団地内の漠然とした淋しさ、公営住宅の景観
の悪さなどを指摘するものも数多い。回答者は60代、70代の団地開発期の1970年台前半が多数を占めて
おり、長年団地に居住しその変化を感じとり、団地の利便性の低下や団地そのものの持続性といった点
までに不安が及んでいる。
─ 33 ─
旭ヶ丘団地においては、是川団地のように医療、買物、交通、中心市街地への距離などを問題と考え
る回答が、医療、交通で若干見られるものの少なく、買物に関しては皆無であり、旭ヶ丘団地の利便性
の高さを表している。ただし、是川団地と同じように、
「住民の高齢化が進み、地域の活力が失われつつ
ある(50代、男性、1974年居住開始)」、「旭ヶ丘で育った若い層が八戸に帰ってこない。空き地が増え一
人住まいの老人宅が増えている。大げさにいえばゴーストタウンの感がしないでもない(60代、男性、
1986年)」といった地域の活力の低下を指摘するものや、
「老後のことについて漠然とした不安はあるが、
成り行きに任せるしかないというのが現在の心境」といった自身の加齢に伴う不安のような内容は共通
するものである。他に「住宅が古くなっているので地震が不安(70代、男性、1965年)」「住まいの老朽化
が心配である(60代、男性、1981年)」といった住宅の維持の問題が出ているが、この問題に関して是川
団地は記載された回答はない。
サンプル数が少なく一般的な特徴とはいいきれないが、旭ヶ丘団地では団地が完成したのが1967年と
是川団地より8年早いこともあり、その後、住宅の建て替えによる更新が数多く行われていると思われ
るが老朽化した住宅の問題は是川団地よりも顕著であるかもしれない。
第10表 是川団地における回答者の地域住環境に対する不満、不安内容
項目
記載内容【
(
医療
● )内は年代、性別、居住開始年】
病院が近くにないが、現在地が良い(60、男性、1974)。
現在地は静かな町で空気も良いが、病院が1軒しかなく、心配です(60、女性、1996)。
● 医療・交通・買物
● 商店がほとんどない、交通費が高い、医療機関が少ない(60、女性、1972)。
● 街の中心部に遠い。病院が少ない。買物に不便。交通の便が悪い(50、男性、1973)。
住宅環境には不満ありませんが、是川団地は生活環境に大いに問題があり不満です。例
● えば、農協ストア(団地内に一つしかありません)は営業時間が短く日曜日休業、医療
機関が少ない、商店数が非常に少なく不便、中心街までの市営バスの料金が高いなど
(60、男性、1973)。
医療・買物
四季を通じて住環境は良好である。加齢と共に日常生活に於いて買物、医療などに距離
● があり、不安を感じる(50、男性、1975)。
● 医療・コミュニティ
年もとってきたので病院やスーパーの近いところが良い(70、男性、1972)。
不安→是川団地の場合、高齢化に伴い若年層が減少し、子どもの声が消えてしまいまし
● た。この地を離れた若者は都会へ行ったきり帰ってきません。医療や介護に対する老人
団地の今後が心配です。
期待→今後は団地内の地域協同協力体制を確立しなければな
らないとの声が出てきています。行政だけに頼らない住民自らの組織作りが地域社会を
活性化する力であるとの認識です(60、男性、1986)。
買物
是川は買物をする場所がなく、今は自分で車を運転しているので、よそから買物をして
● 帰る毎日です。運転できなくなった場合の時を考慮中です(70、男性、1994)。
日常的な食品を扱う店(スーパーなど)が1店しかなく、しかも日曜日休業していること
● (70、男性、1994)。
買物・防犯・
防災
日常生活の食糧の買物、防犯、防災など高齢者に住みにくくなるのではないかと不安を
● 感じている(60、男性、1973)。
─ 34 ─
地方都市郊外住宅地における戸建住宅居住者にみる定住意識と地域住環境の問題点 ∼青森県八戸市是川団地、旭ヶ丘団地を例に∼
第10表 是川団地における回答者の地域住環境に対する不満、不安内容(続き)
項目
記載内容
交通
● 街の中に行くまでのバス代が高すぎる(60、男性、1998)。
冬期間及び急病などにより施設までの交通手段に不安がある(大雪の場合、半日は雪の
● 孤島になる)(60、男性、1973)。
バスの運賃を安くして欲しい(30、女性、2000)。
● 交通・買物
環境は市内では上の方と思うが、現在のようにマイカー時代になって市営バスが減って
● きていることを残念に思う。是川は空気も良く大変満足している。郊外へ大型店が移っ
ていき老人には不便になってきた。中央の資本に吸収されていき、地元の資本を考えな
ければならないと思う(70、男性、1972)。
交通・少子高齢化
中心街への交通費が高いこと。商店などが団地からなくなっていくこと。子どもが少な
● くなり閑散となり老人が多くなってきている(50、男性、1974)。
公営住宅の
交通の便が悪いのが欠点であるが、住環境は大変良く満足している。団地内の古いアパ
● ートに空室が多いので、新しいアパートを建てて、当地を充実した住環境にして欲しい
整備、景観
と考えている(70、男性、1974)。
県営、市営住宅は古くて空き家が多く老人が多いです。そのため店舗もなくなり寂しい限り
● です。早く新しくして若い人々が住んで欲しいと思っています(50、女性、1976)
。
現在、市営住宅等ほとんどが空き家で荒れ放題になり住環境が極めて悪い。人口減少に
● 伴って学校も空室が増え、地域も活力を失いつつある。分譲地が小規模(50∼70坪)だ
った為、広い土地を求めて引っ越して家を建て替える人も多く何とか出来ないものかと
日頃みんなで話している。今の市営住宅解体後は100坪位の分譲も是非組み込んで欲しい。
慣れた地域で暮らしたいのがみんなの意見です(50、男性、1973)。
団地の人口減少
● 団地内の高齢化(50、男性、2001)
・高齢化・
● 団地内の人口の減少が気に掛かる(60、男性、1975)
若者の減少・
● 最近の少子化に加え、成人した子ども達が団地を出て行くため、シルバータウンになりつつあ
る。若い人達が働ける場をもっと団地周辺にもつくるべきと思う(60、男性、1973)
コミュニティ
是川団地が高齢化している。隣人との協力がますます必要になってくる
(60、男性、1993)
● 現在住んでいる是川団地は自然環境がよく、永住したいところです。街なか居住は便利
● でしょうが、人それぞれの価値観の違いによるものと思います。若い人達が将来是川団
地から離れていくことが心配です(60、男性、1976)。
自身の加齢への
現在地に差しあたって不満はないが、高齢になった場合、各施設への遠距離が不安(60、
● 男性、1993)。
不安
主人に先立たれ、一人暮らしになったとき、車の免許がないので、そのことを考えると
● 街なか居住には非常に興味がある(60、女性、1975)。
是川は不便
● 車が運転できなくなった時のことを思うと、街なかの利便性を思う(60代、男性、1974)。
● 出来れば、もっと便利な団地に住みたい(60、男性、2005)。
(アンケート調査より作成)
─ 35 ─
Ⅵ. まとめ
地方都市の郊外住宅地の抱える今日的な問題点の把握のため、青森県八戸市の是川団地と旭ヶ丘団地
をとりあげ、定住意識と地域住環境という観点からその住民アンケートから分析を行ってきた。以下、
そのまとめについて述べる。
① 両団地とも団地が開発され30年以上が経過し、開発当初からの居住者である60∼70代が約70∼
80%を占めている。団地の開発当初から入居している世帯では住宅の築年数から推定すると、約
入居時からの住宅に居住しアンケート結果から推測すれば約70%が居住しており、住宅が老朽化
してきていると考えられる。また、住宅の室数は6室以上で約60%、5室以上まで含めると約80%
以上に達するが、世帯人員の数、世帯における子どもの有無を考え合わせると、住宅建築当初の
世帯構成から大きく変化していることが伺える。
これらの属性分析や住居の状況から、現在の郊外住宅地の抱える高齢化、少子化など人口構成
の変化や住宅の持続の問題など、本テーマの前提となる要件が確認できた。
② 両団地とも現在の団地での定住志向が極めて高く「現在の住まい」「周辺の住環境」に満足し
ており、
「地域への愛着」も高い。しかしながら、定量的な分析では出てこない部分で団地に住
み続けていての不満、不安が明らかになった。
③ 両団地を比較すると、旭ヶ丘団地が是川団地よりも「現在の住まい」
「周辺の住環境」
「地域への
愛着」に対する満足度が高く、とりわけ「生活の利便性」には大きな開きがある。自由記述を分析
すると、その差異は定量的な数値よりも大きい。医療、買物といった「生活の利便性」、中心市街
地との距離や交通といった点が不満、不安の大きな要因ではあるが、団地の高齢化、人口減少に
伴う活力の低下、景観の悪化なども要因である。また、回答者の約7割が60代以上ということも
あり、漠然とした自身の加齢による団地で生活が持続できるかという不安という要素も見逃せない。
地方都市において郊外住宅地の衰退の問題が問われてきているが、本稿はその実態の一端を主に地域
住環境の点から明らかにした。我が国では人口減少時代に入り、これまで各県において概ね人口増加を
してきた地方の県庁所在地級都市も軒並み人口が減少に転じはじめている。八戸市においても1995年
から2000年、2000年から2005年とこの3度の国勢調査で人口を減らしてきている5)。こういった人口減
少の時代において、高度経済成長期に大規模開発され30∼40年が経過した郊外住宅地の衰退、空洞化に
対する整備は、取り組んでいかなければならない重要な問題であろう。
今後の研究課題としては、是川団地、旭ヶ丘団地で起きている問題を政策面からもアプローチすると
ともに八戸市内の他団地あるいは秋田市、青森市といった東北地方の県庁所在地級都市と比較考察など
を行い、郊外住宅地の持続に向けた政策提言に結びつけていきたい。
謝辞
本稿を作成するにあたり、アンケートにご回答していただいた八戸市是川団地、旭ヶ丘団地の方々に深く感謝いたします。アン
ケートの実施から集計、現地調査に関しては、福岡優太氏(当時弘前大学教育学部住居学教室研究員)にご尽力をいただき、調査
票の配布にあたっては、弘前大学教育学部住居学教室の院生・学生諸氏にも大変にお世話になりました。アンケート分析では、石
田一生氏のご協力をいただきました。また、八戸市のデータに関しては、八戸市役所の小笠原剛氏、望月健太郎氏にご協力をいた
だきました。以上、調査にご協力していただいた方々に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
─ 36 ─
地方都市郊外住宅地における戸建住宅居住者にみる定住意識と地域住環境の問題点 ∼青森県八戸市是川団地、旭ヶ丘団地を例に∼
【注】
1)
地域住環境という観点での研究には、地方都市の郊外住宅地でなく大都市地域の住宅地のものであるが、小野ほか(2004)
による北九州市八幡西区の医生ヶ丘小学校区、光貞小学校区の父兄を対象にしたものがあり、「利便性」「快適性」「健康性」
「安全性」の4つの指標に基づき満足度を5段階評価により分析している。
2) アンケートの質問項目は、「1 回答者の属性」、「2 住宅の状況」、「3 定住意識」、「4 街なか居住への意識」、「5
60歳以上の居住者がいる家庭に対する街なかの複合集合住宅へのニーズ、現在地における住居、住環境、日常生活などへの不
安」、「6 自由回答」である。
このうち、本稿で用いた項目は以下である。1−1)回答者の性別(2者1択 2)回答者の年齢(10歳階級別の6者1択)
3)家族人数(5者1択) 4)子どもの就学状況(6者1選択)、5)高齢者との同居状況(2者1選択) 2−1)現在
の住宅の所有関係(3者1選択)、2)現在地の居住歴、3)住宅の築年数(6者1選択)
、4)室数 3−1)定住意識(4
者1選択)、2)現在のまま住む理由(複数回答、9者から選択)、3)引っ越したい理由(複数回答、10者から選択)、5−
1)現在地における住居、住環境、日常生活などへの不安(自由記述)
3) 八戸市は2005年3月31日に南郷村と合併した。2005年10月1日に実施された国勢調査速報値は2005年12月27日に公表され、
人口24万4,678人である。
4) 八戸市役所においては1970、1975、1980、1985年は国勢調査の町内別人口を用い、1990年以降は住民基本台帳の町内別人口
により集計しておりそのデータを用いている。
5) 八戸市の国勢調査による人口をみると、1995年において24万2,654人に達しこれが旧八戸市におけるピークである。2000年
には24万2,654人であり、1995年比で0.3%の減少となった。注1)では、2005年の国勢調査速報値を示したが旧南郷村分を差
し引くと23万8,408人であり、2000年比で1.5%の減少となった。
【参考文献】
小野直・劉青栄・城下直樹・北山広樹・高偉俊(2004):地域住環境に関する研究―その1北九州市における地域住環境の意識
調査 日本建築学会学術講演梗概集F-1分冊,575 - 576.
香川貴志(2001):ニュータウンの高齢化∼シルバータウン化する千里ニュータウン 吉越昭久編『人間活動と環境変化』古今
書院,139 - 154.
久保加津代(2005):住教育・住情報と参加型地域居住政策『これからの地域居住政策の展望』日本建築学会 建築経済委員会
9 - 14.
小長谷一之(2004) :内郊外問題はくるか『都市経済再生のまちづくり』古今書院,80 - 81.
鈴木 浩(2005):地域再生をめざす地域居住政策と多様な連携『これからの地域居住政策の展望』日本建築学会 建築経済委
員会,33 - 38.
手島源太・薬袋奈美子・菊地吉信・原田陽子(2005):地方都市郊外住宅地における居住の継続に関する研究(その2) 居住
者活動と高齢化への対応、日本建築学会学術講演梗概集F - 1分冊,1113 - 1114.
原田陽子・薬袋奈美子・菊地吉信・手島源太(2005) :地方都市郊外住宅地における居住の継続に関する研究(その1) 土地
利用と土地所有の実態、日本建築学会学術講演梗概集F - 1分冊,1111 - 1112.
福原正弘(2001):『よみがえれニュータウン∼交流による再生を求めて』古今書院,182p.
堀田報誠(2000):八戸市―小城下町と漁村から北東北の拠点都市へ 平岡昭利編『東北 地図で読む百年』古今書院,71 - 76
由井義通(2004):都市の内部地域構造―住宅地域 北川建次編『現代都市地理学』古今書院,115 - 135.
─ 37 ─
森鴎外『山椒太夫』を読む
― 家族の物語の生成 ―
橋 元 志 保
Ⅰ.
森鴎外の「山椒太夫」
(「中央公論」大正四年一月)の原拠が説経節「さんせう太夫」であったことは、
夙に知られている。
粟の鳥を逐ふ女の事は、山椒太夫伝説の一節である。わたくしは昔手に取つた儘で棄てた一幕物
の企を、今単編小説に蘇らせようと思ひ立つた(1)。
「歴史其儘と歴史離れ」(「心の花」大正四年一月)には、小説が執筆された経緯が記されている。そ
れゆえ、そのような構想や書き終えた後の鴎外の言葉と関連づけた批評や、また原拠である説経節「さ
んせう太夫」との比較を試みた論考が、先行研究には数多く見られる。
その中でも最も鋭く鴎外の小説と説経節との乖離を指摘しているのは、岩崎武夫氏の論であろう。岩
崎氏は、鴎外の「山椒太夫」においては説経節の持っていた支配する者とされる者の激しい相克が弱め
られ、支配される者の「いきどころのない閉ざされた情念の表出」や、運命の逆転が行われる「場の構
造と論理」、そして虐げられる登場人物と漂泊者である語り手が共有する「禁忌の問題」という「作品
の生命」ともいえる部分がすべて削除されてしまったと述べている(2)。
こうした岩崎氏の批判に応える形で提示されたのが、高橋広満氏の論である。高橋氏は、従来の比較
対象であった物語内容から離れて、説経節と鴎外の小説との語りの差異に注目した。前述の岩崎論が指
摘する三つの問題点は、「差別され抑圧された、芸能者としての語り手に密接に関わるもの」であり、
そうした「肉体の語り手を失った近代小説」としての「山椒太夫」が「中世説経のエキス」を喪失する
のはむしろ必然であると述べた。また高橋氏は削除された説経節の語り手の持つ「ドラマの深層」の代
わりに、
「別な深層が、新しい語りに見合った形で取り込まれているのではないか」と、指摘している(3)。
本稿の出発点としたいのは、この指摘である。語りの変容によって新たに生成された言説は、何を意
味しているのか。それによって生起される出来事は、たとえ同一のものでも改変以前とは違う物語内容
を持つのではないか。そしてそれが人物の形象にも少なからず影響を与えているのではないか。以上の
ような点に留意しながら、本稿では改変によって生成した新しい物語について考察していきたい。
Ⅱ.
鴎外の小説「山椒太夫」は、次のように始まる。
─ 38 ─
森鴎外『山椒太夫』を読む ―家族の物語の生成―
越後の春日を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群が歩いてゐる。母は三十歳を踰えたばか
りの女で、二人の子供を連れてゐる。姉は十四、弟は十二である。それに四十位の女中が一人附い
て、草臥れた同胞二人を、「もうぢきにお宿にお著なさいます」と云つて励まして歩かせようとす
る。二人の中で、姉娘は足を引き摩るやうにして歩いてゐるが、それでも気が勝つてゐて、疲れた
のを母や弟に知らせまいとして、折々思ひ出したやうに弾力のある歩附をして見せる。近い道を物
詣にでも歩くのなら、ふさはしくも見えさうな一群であるが、笠やら杖やら甲斐々々しい出立をし
てゐるのが、誰の目にも珍らしく、又気の毒に感ぜられるのである。
言文一致体であるのに、非過去の叙述が続く。明らかにそれは、物語の出来事が「いま、ここ」で生
起しているかのように語る、説経節の語りからの影響であるのだろう。しかし冒頭部の物語内容は、説
経節のそれとはまったく違う。説経節ではまず奥州で「つし王」が父の汚名をはらそうと母に訴え、親
子主従四人で旅立つところから始まる(4)。しかし小説では、四人が直江の浦近くの地にさしかかったと
ころから始まるのである。
まず「越後の春日を経て今津へ出る道」という非常に明確な物語空間が記述される。そして「珍らし
い旅人の一群」として、この空間に現れた安寿と厨子王の名はいまだ語られない。まず「二人の子供」
として一括りに語られ、次いで「一群」の構成についての説明の際には、「姉」と「弟」であることが
明らかにされ、そしてまた「同胞二人」として一括される。
このように安寿と厨子王は「二人の子供」「同胞二人」「二人」「子供ら」「子供衆」と一括して語られ
ることが極めて多い。それはもちろん二人がまだ子供であることを強調しているのであろうが、説経節
の記述と比較した場合ある差異が浮かびあがってくる。説経節においては二人の名はすぐに明かされ、
「つし王」と「あんじゅ」は「兄弟」と呼ばれることはあっても、その他の呼称で一括して語られるこ
とはない。また四人の主従は、ただ「四人の人々」と呼ばれる。小説においては、四人はばらばらに存
在しているのではなく、「一群」の旅人であり、その中に親子がおり、またその中に「同胞」である
「二人の子供」がいることが、明確に記述されているのである。
これは安寿と厨子王の結びつきの深さを示すのと同時に、「子供らの母」として「三十を踰えたばか
りの女」を位置づけようとする語りのありようを示している。説経節における呼称であった「みだい所」
という呼称を「女」は失い、「母」「母親」「子供らの母」「子供の母」として語られているのである。
次に注目したいのは、母の最初の発話の場面である。
藁葺の家が何軒も立ち並んだ一構が柞の林に囲まれて、それに夕日がかつと差してゐる処に通り
掛かつた。
「まああの美しい紅葉を御覧」と、先に立つてゐた母が指さして子供に云つた。
子供は母の指さす方を見たが、なんとも云はぬので、女中が云つた。「木の葉があんなに染まる
のでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」
この母の発話はもちろん、歩きづめで疲れている子供たちの気持ちを紛らわすためのものであるだろ
う。しかし文化的コードで解せば、この母はひなびた田舎家とそれを囲む紅葉の美を理解する女性であ
るということになる。つまり失われた「みだい所」という呼称の代わりに、彼女の出自を表現する指標
が入りこんでいるのである。
説経節の語りでは「みだい所」、「つし王殿」、「あんじゆの姫」と呼ばれ、敬語表現を持って語られて
─ 39 ─
いた親子は、小説の言説においてはそのように語られることは一度もない。しかし代わりに入り込んだ
指標が、物語の最後まで明かされることのない親子の高貴な出自を暗に提示しているのである。
それはまた先に引用した物語の冒頭部分からも明らかである。繰り返しになるが、「近い道を物詣に
でも歩くのなら、ふさはしくも見えさうな一群であるが」と語られている。やがて物語の終末で登場す
る関白藤原師実によって明らかになるように、院政の始まった平安時代後期に、上流・中流階層の女性
達はめったなことでは外出などしなかった。それこそ「物詣」という神社仏閣への参拝や夫や父の地方
官就任や帰京などの旅に同行するぐらいである。ゆえに「笠やら杖やら甲斐々々しい出立をしてゐるの
が、誰の目にも珍しく、又気の毒にも感ぜられる」のであろう。
また一方で、小説の「母」は説経節の「みだい所」よりも、愛情深い女性として描かれている。母の
発話のほとんどは子供たちを気遣ったり、庇うためのものである。また子供たちも母を慕っている。野
宿をする場面でも、母が座ったとたん、「二人の子供は左右から縋り付いた」との記述がある。母にぴ
ったりと寄り添い、女中の姥竹に甲斐々々しく世話してもらい、「
やら、乾した果やらを食べ」る
子供たちの様子はいかにも楽しげだ。
一行が何故野宿をすることになったのかといえば、この辺りを治める「国守の掟」のためである。道
で偶然出会った潮汲女のいうことには、「此土地では旅の人を留めて上げる所は一軒も」ないのだとい
う。決して「人気が悪い」わけではなく、「信者が多くて人気の多い土地」だが、「国守の掟」だから仕
方がないと潮汲女はいう。そして一行は、橋の袂で「国守の掟」が書かれた高札を目にする。
荒川に掛け渡した応化橋の袂に一群は来た。潮汲女の云つた通に、新しい高札が立つてゐる。書
いてある国守の掟も、女の詞に違はない。
人買が立ち廻るなら、其人買の詮議をしたら好ささうなものである。旅人に足を留めさせまいと
して、行き暮れたものを路頭に迷はせるやうな掟を、国守はなぜ定めたものか。不束な世話の焼き
やうである。併し昔の人の目には掟はどこまでも掟である。子供等の母は只さう云ふ掟のある土地
に来合せた運命を歎くだけで、掟の善悪は思はない。
このような記述も、小説にしかない。「信者が多くて人気の好い土地」なのに「国守の掟」で旅人を
留めることができないという点では説経節と一致している。そしてこのことが逆に人買いの山岡太夫に
一行が目をつけられる契機となるのである。しかし、小説に提示された国守への批難はもちろん支配者
への批判、ひいては政治への批判である。水沢不二夫氏は、この語り手の批判は「政治の在り方に対す
る批判の普遍性を持っている。この政治のまずさが『山椒太夫』の悲劇の根源にある」と述べている(5)。
つまりこの語り手の指摘があることで、物語の構造がはっきりと見えてくるわけである。
岩崎氏が、鴎外がすべて捨象したと批判した「支配する者とされる者」の相克は薄れてはいるが、消
えてはいない。旅の一行は「国守の掟」に支配され、また女子供というその無力性のために、人買いの
山岡太夫の手からも逃げられない。小説の中には、「余儀ない」気持ちでずるずると山岡太夫の策略に
はめられていく「母」の心理が丹念に記述されているが、弱者である彼女にはおそらく選択の余地はな
かっただろう。逆らえば暴力で支配されていたはずである。
法が人の権利や財産を守るものであるのは、近代の概念である。「昔の人」はたとえそれがどんなに
理不尽なものであっても従うより他はなかった。ゆえに法も悪人と同じほど人を苦しめ、「人気の好い
土地」を悲劇の起こる土地に変えてしまっているのだ。
小説の語り手の言説は、説経節のそれよりも、この点を明確にするために自己の考えを表出させたの
─ 40 ─
森鴎外『山椒太夫』を読む ―家族の物語の生成―
だろう。またそのことによって語り手が近代的なまなざしを持つことも明らかにされた。先行研究でも
指摘されているように、「山椒太夫」の語り手はいわゆる「全知の語り手」である。しかし近代の語り
手に特有な「透明性」を持ちながら、説経節からの影響であるのか、感情を持ち、登場人物達の境遇に
同情さえみせる。また物語の発端では母に、次いで厨子王に主として内的焦点化し、彼らの内面を語り、
また彼らが他者の内面を見抜けないことが物語を動かす一つの軸となっている。こうした語り手の情報
統御の巧みさは、もちろん説経節にはないものである。しかしここでもう一つ指摘しておきたいのは、
語り手のもつ近代知と説経節から受け継いだと思われる感情の表出が、語られる人物たちの形象にも影
響しているのではないか、という点である。
Ⅲ.
鴎外が主たる依拠資料とした説経節は、現在東京大学鴎外文庫に所蔵されている「徳川文芸類聚」第
八『浄瑠璃』
(大正三年十月二十五日発行 国書刊行会)所収の「さんせう太夫」と見る説が有力である。
小説「山椒太夫」と語り物諸本との詳細な比較検討により、それまで通説であった説経節正本を依拠資
料とする説を根底から覆したのは、大島保彦氏・岸田俊子氏・高田ゆみ子氏による共同研究である(6)。
大島氏等が指摘する小説「山椒太夫」と語り物諸本との差異は、前述の冒頭部分を始めとして約三十箇
所にも上る。たとえば、人買いの山岡太夫に騙され、母と子が生き別れになる場面は次のようである。
母親は物狂ほしげに舷に手を掛けて伸び上がつた。「もう為方がない。これが別だよ。安寿は守
本尊の地蔵様を大切におし。厨子王はお父様の下さつた護刀を大切におし。どうぞ二人が離れぬや
うに。
」安寿は姉娘、厨子王は弟の名である。
子供は只「お母あ様、お母あ様」と呼ぶばかりである。
大島氏等の論が指摘するように、安寿の守本尊が地蔵様であるのは説経節と変わらないが、厨子王の
守りは説経節では「しだ玉づくりのけいづのまき物」である。また小説においてはこの場面で初めて安
寿と厨子王の名前が明かされる。
しかし母と別れた二人は、すぐにまた「子供」「二人の子供」「二人」と一括して語られ、ひたすら母
を恋い、泣きつづける様子が記述される。「紺青のやうな海の上」を、人買いの舟が行く。幼い二人は
抱き合って、「只悲しさばかりが胸に溢れて」「どうして好いかわから」ずに泣きつづけるのである。
二人はあまりに強い悲しみを共に抱いているために、一時も離れてはいられないかのように記述され
ている。目を見合わせては泣き、抱き合っては泣いているうちに、涙と共に溶け合って一つのものにな
ろうとするかのようだ。
やがて二人は丹後の由良の分限者山椒太夫に売られ、その奴婢となる。そこでも二人は決して離れよ
うとはしない。男女別々の小屋に引き分けられそうになった時、二人は「死んでも別れぬ」というので
ある。安寿は潮汲み、厨子王は柴刈りの労役に使われるのであるが、「姉は浜で弟を思ひ、弟は山で姉
を思」って日々を送る。もちろん父母を慕う感情の共有がそこには見られるのであるが、それぞれの自
立の前の段階としてこの強い一体化があるように思われる。
というのも、お互いに対する愛情もこの時期非常に強くなっていくのであって、たとえば厨子王は柴刈
りにやられた「山でさへこんなに寒い、浜辺に往つた姉様は、さぞ潮風が寒からう」と姉のことを案じ
る。また二人で掛けて寝るための薦を探しにいったり、厨へ二人分の餉を受け取りにいったりする。こ
─ 41 ─
の辺りはまったく小説だけに見られる記述である。おそらく厨子王はその愛情表現として母や姥竹の行
為を模倣しているのだろう。そして安寿の愛情表現はもっと強いのであって、父母に会いたがってその
話をしているところを山椒太夫の息子三郎に聞き咎められ、逃亡の相談をしていたものとして責められ
た時、安寿はすぐに厨子王を庇うように前へ進み出る。また実際に弟を逃がすために、その髪を切られ
ても山へ行き、事細かに逃亡のための知恵を弟に授けて、自分は後に残るのである。
弟だけを逃がそうとする理由は小説の中では明確には語られない。しかし父母に会いに行くことが非
常な困難を伴う、ほとんど不可能に近いものであることは、二人とも理解している。二人には既に、生
地である奥州から直江の浦を経て丹後まで辿りついた旅の経験がある。父のいる筑紫、母が連れ去られ
た佐渡までの地理的な距離の実感と、山岡太夫にだまされて、人買い舟に乗せられ、山椒太夫の邸で奴
婢として使われる境遇にまで落ちたために、自分達を取り巻く社会が厳しく危険に満ちたものであると
いう認識も生まれてきているはずである。それゆえ二人で常に庇いあい、抱きあい、父母の話をして互
いの心を慰めていた時期から、実際の逃亡の時期まで、冬を越すという時間的隔たりがあり、また特に
姉の安寿の様子が非常に変化したことが語られる。
逃亡の計画をしたものとして額に火 をあてられ、その痛みと創を安寿の守本尊が代わってその身に
受けてくれる夢を見た時から、安寿の様子はひどく変わっていく。その顔は引き締まり、「目は遥かに
遠い処を見詰めて」、厨子王にさえ物を言わないのである。これは明らかに安寿の心の変化を表してい
る。そして長い冬ごもりの間、同じ小屋で厨子王は藁を打ち安寿は糸を紡ぎながらも、やはり二人の間
に言葉が交わされることは少なく、以前のような無邪気な親密さが戻ることはないのである。そして厨
子王はこのことを「際限なくつらく思い」、「二人の子供の境界は、前より一層寂しくなつた」と語り手
は語っている。しかし、これは前述したように語り手が主として厨子王に内的焦点化しているためであ
る。
このような小説だけに見られる記述が、その後の安寿と厨子王の行為に大きく影響する。火 による
拷問を夢としたのは、その後の安寿の変化を促すためであろう。弟との精神的な癒着は「同じ夢を同じ
時に」見るという行為で頂点を迎えている。姉と弟で「父母に会いたい」と言葉に出して相談すること
は、逃亡という罪につながり、かえって現実化への道を妨げることになるのである。安寿のこうした認
識が彼女を変化させ、またその後の彼女の行為を生み出すのである。そして厨子王にとっては、姉とい
う他者を見出し理解できずに苦しむ期間となっている。しかし、春の訪れと共に彼は姉の本心を知るの
である。
Ⅳ.
小説の言説において安寿の死は明確には語られない。自らの長い黒髪と引き換えるようにして、厨子
王と共に山へやって来た安寿はまるで「神か仏」が語るように聡く賢くなって、弟に逃亡の方法を詳細
に話してきかせる。そして彼だけを逃がし、自分は後に残るのである。
安寿は泉の畔に立つて、並木の松に隠れては又現れる後影を小さくなるまで見送つた。そして日
は漸く午に近づくのに、山に登らうともしない。幸にけふは此方角の山で木を樵る人がないと見え
て、坂道に立つて時を過す安寿を見咎めるものもなかつた。
後に同胞を捜しに出た、山椒太夫一家の討手が、此坂の下の沼の端で、小さい藁履を一足拾つた。
それは安寿の履であつた。
─ 42 ─
森鴎外『山椒太夫』を読む ―家族の物語の生成―
隠蔽された安寿の死はテクストの中の空所となり、先行研究においても論点として取り上げられてい
る。山崎一頴氏は安寿が苦悩の末得た叡智が運命を拓く力となっていることを指摘し、また「安寿の生
は厨子王の生へ乗り移り、一人が二人となる」のであり、「安寿の精神は厨子王の中に蘇り」「転生」を
とげるのだと述べている(7)。また清田文武氏は、運命を拓くために「明視(知)の人」となった安寿が
「厨子王を見送った後直ちに入水した」のは、「自分を見切り、自分の務めと運命とを見定めていたから
に外ならない」と述べている(8)。またそうした安寿の中心に存在したのは、「献身の精神」に他ならな
いと指摘している。
鴎外の歴史小説のヒロインたちを読み解く上で欠かせないコードの一つは、「献身」という精神であ
ろう。『三四郎』の美禰子を始めとして、いわゆる「新しい女」を良く描いた漱石とは対照的に、鴎外
は特にその晩年好んで反動的な女性たちを描いた。『渋江抽斎』の五百、「安井夫人」の佐代、「最後の
一句」のいち等である。彼女たちはそれぞれ夫のため、父のために、献身的な人生を生きるのであるが、
その意志の強さと徹底した利他の心は共通している。弟だけを逃がし、自らは死を選ぶ安寿という少女
の像も、明らかにそうしたヒロインたちの系譜に連なるものであろう。
小説だけに見られる記述である冬から春にかけての安寿の変容と、熟慮の上の弟の逃亡への手助けは、
安寿という少女の像を読者に対して強く印象づける。対照的に説経節においては「あんじゆ」は弟の犠
牲となって責め殺され、山椒太夫親子の残虐さが際立つ場面となっている。そして物語は、その報いと
して山椒太夫親子への「つし王」による復讐劇の様相を帯びていくのである。
「山椒太夫」の原拠とされた説経節からの乖離のもっとも大きな箇所が、この復讐劇の削除であるだ
ろう。そのためにあらかじめ山椒太夫の残虐性を弱めて、二人の姉弟への虐待を夢の中での出来事とし、
安寿の死も入水という形を取ったのだという指摘が高橋論などに見られるが、その通りであろう。
また次に安寿の変容と死の意味を考える上で留意しなくてはならないのは、説経節と小説における仏
教のコードはまったく違うものだということである。説経節における仏教のコードは、中世的な霊験譚
の表現から指定されるものである。そして小説におけるそれは、奇跡を伴う表現を残しながらも、もっ
と仏教本来の姿に近いものであり、おそらく大乗仏教の教えであると思われる。
まず小説で明確にされたのは、安寿の守本尊の由来である。逃亡の際に安寿から託され、厨子王の持
っていた守本尊は彼の復権の契機となっただけでなく、彼の出自を語るものともなった。都に上った厨
子王が出会った関白藤原師実は、厨子王の持っていた守本尊が、実は高見王が持仏にしていた尊い放光
王地蔵菩薩の金像であることを見抜く。それは厨子王が陸奥椽正氏の嫡子であることの何よりの証とな
ったのである。高見王は桓武天皇の孫にあたるから、厨子王の出自は奈良時代の終わりか平安時代の始
めから続く、由緒のある家柄ということになる。そしてこれほどの守本尊を三百年近くも大事に所有し
ているのであるから、信仰心の厚い家でもあったと見ることができよう。
そうした家に育った安寿が、自らの守本尊が身代わりになってくれる夢を厨子王と共に見た時、何を
その心に思ったのか。夢を見たその次の日から、その様子がすっかり変わってしまったのは、彼女の中
の「仏性」が動きはじめたからではないだろうか(9)。
長い冬の間に、彼女がその心に何を思っていたのかは小説では語られない。しかし彼女が「遥かに遠
い処を見詰めて」物を言わず、一心に考えていたのは、真に自分と厨子王を救う道ではないのか。平安
時代後期といえば上流・中流階層の女性達の間では、自らの後世を祈るための仏道修行が非常に盛んに
なっている。しかし、安寿の行為とそれによって促された厨子王の行為は、正に大乗の教えである「一
(10)
切衆生の救済と社会全体の向上を目的とする利他主義」
を表象しているのではないだろうか。
守本尊のおかげで復権なった厨子王は、説経節の「つし王」のようにその権力を復讐のためには使わ
─ 43 ─
ない。丹後の国守となった厨子王は「最初の政として、丹後一国で人の売買を禁じ」るのである。その
ため山椒太夫の邸にいた多くの奴や婢たちも奴隷の身分から開放され、給料が払われることになった。
太夫の家の者たちは一時はその損失を嘆いたが、この時からかえって「農作も工匠の業も前にも増して
盛んになつて、一族はいよいよ富み栄えた」という。
厨子王は姉の死の意味を正しく読み解いたのである。安寿の死を知らされた厨子王の側にいたのが、
曇猛律師であったことを忘れてはならない。律師は説経節で語られる寺の聖とはまったく違う、真の叡
智と行動力を持った人物として形象されている。
以上のような点から、安寿の行為は守本尊の導きによる仏教的な叡智に裏打ちされたものと考えるこ
とは自然である。だが、厨子王を再び社会へと押し上げるために、自分という存在のすべてを賭け、そ
のために自己を支える力を失って沈んでいったのだと見ることもできよう。そしてそれは家の跡継ぎで
ある男子を立てるために、自らの身を犠牲にしていった無数の女性たちの姿とも重なるはずである。
説経節正本が成立した江戸時代初期は正に封建制度の確立期であり、特に武士階層においては家制度
がその生活の根幹となっていた。役職も禄も個人にではなく、家に与えられるものであり、従って家は
武家の人々の生活にとっては社会的・経済的基盤であった。そのため家の存続及びその継承に関わる男
子は、跡継ぎとして大事に養育されたのである(11)。つまり家の存続に直接的には関われない女子は、常
に二次的な存在でしかなかった。寛永末年頃刊の説経節正本においては、「あんじゆ」は「つし王」を
逃がそうとする理由を「女に氏はないぞやれ」と語っている(12)。一方小説が発表されたのは大正四年で
ある。家制度が国家を支える基盤として、法制化された近代においても、家の跡継ぎである男子は他の
子供たちとは差別化された。そのうえ困窮した家においては、家族の生活のために多くの娘たちが売ら
れ、また劣悪な条件の下で働く女工となったのは周知の事実である(13)。
つまり「献身」というコードのみで安寿というヒロインを読み解くならば、説経節の語る悲劇的な
「あんじゆ」との差異は僅少化されてしまうのである。本稿の冒頭に引用したように小説「山椒太夫」
の構造は、説経節「さんせう太夫」のそれとは似て非なるものである。「山椒太夫」の語り手は「国守
の掟」を批判し、「悲劇の起こった根源」としている。それゆえ復権なった厨子王は、善政を敷き、山
椒太夫の家さえ富み栄えてしまう。このことは小説「山椒太夫」が説経節「さんせう太夫」とは同じよ
うなプロットをもちながら、まったく違う物語であることを示している。つまり、小説「山椒太夫」に
おいて厨子王の復権の物語は弱められている。安寿の献身が強く読者に印象づけられた後、語り手の指
向性は厨子王の復権ではなく、母と子の再会の物語へと向けられている。
小説「山椒太夫」において中心的に語られているのは、復讐を伴う運命の逆転ではなく、むしろ母と
子の愛情、姉と弟の密接な繋がり、そしてそれらに仏教的な叡智が加わった利他の精神であろう。それ
ゆえ安寿の物語は悲劇性を帯びつつも、厨子王の物語よりも前景化し、母に再会する物語として「山椒
太夫」は閉じられるのである。
Ⅴ.
物語の終焉に、厨子王は直江の浦で人買いに騙され別離を余儀なくされた、母との再会を果たす。佐
渡に渡った彼は、ある晴れた秋の日大きな百姓家の庭先で粟を啄む鳥を追う、襤褸を着た盲の女に心を
牽かれる。女の呟いている詞を耳にした厨子王の身の内には「瘧病のやう」な震えが走り、彼はがむし
ゃらに女の元へと辿りつくのである。
─ 44 ─
森鴎外『山椒太夫』を読む ―家族の物語の生成―
女は雀でない、大きいものが粟をあらしに来たのを知つた。そしていつもの詞を唱へ罷めて、見
えぬ目でぢつと前を見た。其時干した貝が水にほとびるやうに、両方の目に潤ひが出た。女は目が
開いた。
「厨子王」と云ふ叫が女の口から出た。二人はぴつたり抱きあつた。
塩谷千恵子氏は、中世後期に成立した「山椒太夫」の物語が、時代の変遷と共に説経節、浄瑠璃、読
本、浮世絵等の題材となり、多くの人々に愛好されたと述べている。また「山椒太夫」の物語内容は時
代と共に変化しており、家族観の変遷を探る上でも重要な資料であるとしている(14)。鴎外の小説の原拠
とされた説経節「さんせう太夫」において強く打ち出されている家族観は、何よりも「家の再興」を重
視する姿勢であり、自らの出自を明らかにする「しだ玉づくりのけいづのまき物」を大切に所持してい
た「つし王」の復権が物語の中心となっていく。説経節とは対照的な小説における家族観は、物語の終
焉にも強く提示されている。母と子の絆の深さが前景化され、厨子王が所持している守本尊の地蔵様の
力でさえ後景化されてしまうのである。
母に再会する物語として「山椒太夫」が閉じられる時、読者に強く印象づけられるのは母と子の絆の
深さ、互いに対する愛情の強さであろう。そこに顕現するのは、冒険譚を含む運命の逆転劇というより
はむしろ普遍的な家族愛の物語なのである。
【注】
(1)『鴎外全集』第26巻(岩波書店 昭和48年12月)
(2)岩崎武夫『さんせう太夫考 ─中世の説経語り─』(平凡社 昭和48年5月)
(3)高橋広満「語り手の近代 ─森鴎外『山椒太夫』論─」(「日本文学」平成6年5月)
(4)森鴎外「山椒太夫」の原典の確定については諸説あるが、現在のところ「徳川文芸類聚」第八『浄瑠璃』
(国書刊行会 大正
3年10月)所収の「さんせう太夫」説が有力であるので主としてこれを参照し引用した。なお寛文末年頃刊の天下一説経
節与七郎正本を底本とする新古典文学大系90巻『古浄瑠璃 説教集』(岩波書店 平成11年12月)も併せて参照し、引
用の際にはその旨明記した。
(5)水沢不二夫「森鴎外『山椒太夫』の治者」(「日本文学」平成6年4月)
(6)大島保彦・岸田俊子・高田ゆみ子「森鴎外『山椒太夫』論 ─語り物諸本との対比に即して─」(「比較文学研究」第44号
昭和57年10月)
(7)山崎一頴「『山椒太夫』試論 ─情念の不毛を拓く─」
(『森鴎外 歴史小説研究』桜楓社 昭和56年10月)
(8)清田文武「『山椒太夫』の方法とその世界」
(『講座森鴎外2 鴎外の作品』新曜社 平成9年5月)
(9)大乗仏教を支える重要な理念の一つに「一切衆生 悉有仏性」がある。
「すべての生きとし生けるもの、すべての存在は悉く
仏性を有している」という意である。
(峰島旭雄他編『仏教思想の現在』北樹出版 平成6年6月)
(10)峰島旭雄他編 前掲書
(11)関口裕子他著『家族と結婚の歴史』
(森話社 平成10年3月)
(12)注(4)前掲書 新古典文学大系90巻『古浄瑠璃 説教集』
(13)村上信彦『明治女性史』中巻(理論社 昭和45年5月)
(14)塩谷千恵子「『山椒太夫』の成立 ─母娘の物語から姉弟の物語へ─」
(「昭和女子大学女性文化研究所紀要 第19号 平成
9年1月)
【付記】
「山椒太夫」本文の引用はすべて『鴎外歴史文学集』第3巻(岩波書店 平成11年11月)に拠る。なお、ルビは省略した。
─ 45 ─
〔論 文〕
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究
―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
平 辰 彦
Comparative Studies on “Orin- kuden” of Matsuda Tokiko and
its
Dramatized Works:With Special Reference to the Dramaturgy
of the Proletarian Literature
Tatsuhiko
Taira
目 次
はじめに
第一章 松田解子の戦前までの詩歌と小説の世界
第二章 松田解子の小説『おりん口伝』(正・続)と荒川鉱山
第三章 東京芸術座『おりん口伝』(正・続)のドラマ化作品の比較
おわりに
註
参考文献
はじめに
松田解子(1905−2004)は、明治三十八(1905)年七月十八日、秋田県仙北郡荒川村荒川(現・大仙
市協和)に父・松田萬治郎、母・スヱの長女として生まれた。本名は、ハナ。幼少のころ、解子(とき
こ)は、
「ハナ坊」あるいは「ゲホコ」と呼ばれていた。
「ハナ坊物語」によれば、
「ゲホコ」とは、秋田弁で額が前の方に普通以上に出ている「おでこ」のこと
である。この「ゲホコ」は、「外法なずき」の略でこの額の人は、「賢い」と言われた。「なずき」は、古
く「脳」の意味で文献にあらわれ、やがて「頭」全体の意味へと大きく意味が変化し、東北地方の方言
では、
「額」の意味をあらわす語として用いられるに至った(1)。例えば、
「オンヤ、マズ、コノ、ワラスコ、
ゲホタゴト!」と、言えば、「おやまあ、この子は、ひどいおでこだこと!」とたまげる風情である。
その「ゲホコ」の解子には、幼少のころ、荒川鉱山の鉱夫たちのいる飯場の囲炉裏の炉辺で「お父(ど)
さん」と呼ぶ飯場の親方に抱きかかえられている時の「一生忘れられない」ひとつの思い出がある。
解子の「お父さん」は、「こら、指っこがゆくぞ、指っこがゆくぞ」と、しゃがれ声を出しながら、
─ 46 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
その解子の鼻先に「指っこ」をやり、解子の顔をニタッと上から覗き込む。そして「お父さん」の「指
っこ」は、解子の「ゲホコ」につきささる。この「お父さん」の「鼻の上の太い指」は、解子の短篇小
説の題ともなる題材である。
また「ハナ坊物語」では、鉱夫たちによって「観音様」とも呼ばれる「虱」(しらみ)についての記
述がある。足あるいは手が六本あるから「観音様」と呼ばれた「虱」は、鉱夫たちの身体から根絶やし
にすることは絶対にできないと考えられていた。そしてこの「虱」に対して特別な感情を解子が抱いて
いたことが、次の一節からうかがわれる。
小鳥に対して樹木がねぐらを提供するよりも、もっとあたたかい、あたりまえな気持ちで、わたし
はわたしの小さなからだを虱たちの親子兄妹に食わせ、わたしの赤い熱い血を惜しみなく虱たちに吸
わせいた。
この「虱」に対する解子の特別な感情には、のちにプロレタリア作家として『おりん口伝』を書く松田
解子のプロレタリア作家としての視点が強く表出されている。
『おりん口伝』は、第一部が『文化評論』に昭和四十一(1966)年一月号と二月号に分けて発表され、
第二部は、『続おりん口伝』として『民主文学』に昭和四十二(1967)年一月から十二月まで連載され
た。ここに『おりん口伝』(正・続)が完成した。
この『おりん口伝』は、第八回の田村俊子賞を受賞し、昭和四十三(1968)年五月には、東京芸術座
によって第二十二回公演『おりん口伝』(大垣肇脚色)が、村山知義(1901−77)演出によって上演さ
れた。そして同年九月には、関西芸術座によって『おりん口伝』(作間雄二脚色)が、道井直次演出で
上演された。
昭和四十四(1969)年二月、『おりん口伝』
(正・続)で松田解子は、第一回多喜二・百合子賞を受賞
する。村山知義は、昭和四十七(1972)年十一月、東京芸術座の第三十三回公演として『おりん』(別
名『坑内(しき)に咲く梅』)と題して『続おりん口伝』を脚色・演出し、上演する。
この『おりん口伝』の舞台は、松田解子の生まれ育った秋田県の荒川鉱山である。時代は、第一部が、
明治三十三(1900)年から明治四十(1907)年まで、第二部は、その年の師走から明治四十五(1912)
年の年明けまでのあしかけ十二年間の時代が描かれている。
この小説の主人公おりんは、明治十一(1878)年、上淀川の地主の末娘として生まれる。おりんは、
明治三十三(1900)年、三菱の銅山、荒川鉱山の請負師の息子千治郎のところへ数えの二十二歳で嫁入
りし、以後、二児をもうけ、夫の千治郎の<死>に遭遇しながら、鉱山のおんなとして階級的意識に目
覚めていく。
本稿は、第一章では、
〈性〉の問題に焦点をあてた松田解子の戦前までの詩歌と小説を取り上げ、第二
章と第三章では、松田解子の代表作である『おりん口伝』
(正・続)の小説とそのドラマ化された作品を
比較し、松田解子の『おりん口伝』
(正・続)の世界がどのようなドラマの世界になったのかを明らかに
するものである。
─ 47 ─
第一章 松田解子の戦前までの詩歌と小説の世界
松田解子の自伝的エッセイ『回想の森』によれば、解子と文学との出合いは、小学校時代にまでさか
のぼることができる。解子は、明治四十五(1912)年四月、荒川村大盛尋常高等小学校に入学する。こ
の小学校の同級生の家にあったビクトル・ユーゴー(1802−85)の『レミゼラブル』の翻訳小説『噫無
情』(黒岩涙香訳)などを読み、翻訳小説の虜となり、以後、シェイクスピア(1564−1616)の作品も
坪内逍遥(1859−1935)訳で読む。大正九(1920)年三月、小学校高等科を卒業する。この年より三年
間、鉱山事務所のタイピストとして働きながら、次第に階級的意識に目覚め、大正十二(1923)年四月、
秋田女子師範本科二部に入学し、寄宿舎生活を送り、翌(1924)年三月、秋田女子師範本科二部を卒業
し、その年の四月、母校の教諭として赴任し、二年間勤めた。この間、解子は、『秋田魁新報』やガリ
版刷の文芸誌『煙』などに詩を投稿する。例えば、「太陽を恋する女のうたえる」と題した詩では、母
の生家のある部落の果ての西山へ落ちてゆく太陽を「生ける恋人」に見立て「おお、さらば/さ霧と夕
もやの衾(ふすま)かつぎませ、わが恋びとよ」と呼びかける。この詩歌の調子は、「八雲立つ 出雲
八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という『古事記』の須佐之男命が宮をつくり給いしと
き、詠んだ歌の調べを彷彿とさせるものであった。これは、『秋田魁新報』に投稿され、掲載された松
田解子の「はじめて活字となったもの」であるという。このことは、
『松田解子全詩集』
(未来社、1985)
の「あとがき」にも書かれている(2)。
また「スバルタのもののふ/悲しきもののふ/祖国は栄光に輝けど/あわれ そよ/乙女の胸の血は
枯れぬ」の五行詩は、解子、十九歳の時に書いた「初恋」をうたった歌である。これは、荒川鉱山で青
年有志らの手で発行されたガリ版刷の雑誌『煙』か、のちに改題して発行された『黒潮』に発表された
ものだと言う(3)。
大正十五(1926)年の春、秋田の鉱山から東京へ上京する。解子、二十一歳。年末に労働運動家の大
沼渉と結婚する。翌(1927)年師走、長男の鉄郎を出産する。昭和三(1928)年三月十五日、日本共産
党への大弾圧があり、解子の家から『共産党宣言』の書き写したノートが発見され、この「三・一五事
件」で解子は、生後間もない長男と共に検挙される。この年、解子は、『文芸公論』、『女人芸術』、『戦
旗』などに詩や短編小説を発表する。例えば、「乳房」と題する次の詩は、この年の四月号の『文芸公
論』に発表された(4)。
生れながらにプロ
生れながらに栄養不良
生れながらに父は留置場
だが、吾子よ
飢をうったえるお前の声に
私は新しい力を知る
お前の運命にしてお前の糧
今こそ復讐の意志にたぎるよ
干からびた二つの乳房は
この九行の詩には、「干からびた二つの乳房」をもつ母として「生れながらにプロ/生れながらに栄
養不良」の「吾子」の「飢をうったえる」声に「新しい力を知る」プロレタリア詩人の松田解子の精神
─ 48 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
が強く表出されている。
この年の五月号の『文芸公論』には、松田解子が「この世で自分が初めて書いた小説」である「逃げ
た娘」が掲載されている(5)。
この「逃げた娘」の主人公は、「うつくしく、貧しい」美恵子という「十七の春を迎えたばかり」の
「坑内の手子(てご)」である。父は、「二十年来の鉱夫」であり、母は、
「泥背負(どろじょい)」であっ
た。その美恵子は、「カンテラを下げて、十二番坑道にそって鉱車」を押した。と、「肥満した身体と脂
ぎった赤ら顔」の「色狂い」の主任の S が、「ときどきカンテラで光らせながら、まっすぐ近づいて」そ
の「ブッテリふくれた両手」を美恵子の肩にのせた。そして「ちょっと見張まで来てくれないか。」と
言われ、美恵子は、「襟元から爪先まで、さっと冷水を浴びせられたような恐怖の予感を、まざまざと
意識しながらも」、黙って彼の後に従わねばならなかった。突如 S は、「立ちどまって後をふりかえ」っ
た。その眼は、「肉に飢えた野獣の眼」であった。「うちふるえる少女」を S の「たくましい双腕」が、
「力限りかき抱いて」しまった。美恵子は、「声量と力のすべてを搾って暴れ叫」んだ。が、ダイナマイ
トの爆音が、
「雷のように呻いた」だけで人の声はなかった。
S は、「殺すぞ、黙れ!」と、「大きな唇を彼女の顔に突き出しながら」脅した。が、美恵子の「救い
を求める叫び」は、止まなかった。二つの肉体が、「醜く」も「もつれ合って」そこに横たわった。「憤
怒に狂った」S は、「とうとう身もがいている」美恵子を踏みつけて起きあがった。そして「畜生!強情
者!」と「ふるえる声」で叫んだ。しかし「蒼ざめた少女」は、「黙ったまま、呪いにみちた瞳」で男
を見かえした。
S は、「ガスカンテラ」を持ち上げて美恵子目がけて投げつけた。が、それは、「空しく岩壁にはねか
えって砕け散り、カーバイトの塊が、地下水の中でシュシュッと苦しげな声」を立てた。
S は、「あたかもその激しい憎悪の毒素を吐きちらすように」「誰にも言っちゃいかんぞ、から意気地
のない雌犬奴!失せやがれ!」と叫びつづけて見張のほうに歩き出した。美恵子は、「海綿のように、
濡れ疲れた、身体を、岩にもたせて」ようやく起きあがった。そして「あまりに恐ろしい侮辱」を思っ
て「いまさらのように涙」が溢れた。
美恵子が、十二番坑にさしかかった時、坑夫の戸沢や横田の声がした。美恵子は、小走りに走って鉱
車につかまった。その前には、戸沢と横田が、立ちはだかっていた。「あの……主任が……」と云い淀
んだ美恵子は、
「急に、何もかも堪えられないというように声」を出して泣きはじめた。
戸沢は、「わかった!気狂い奴!俺がいつか、明るい所であいつの面さ泥塗ってやるから」と、「自分
の娘でも辱かしめられたように」憤慨して、「骨張った頬をふくらませ、凄い眼付きで」、見張のほうを
睨みかえした。
やがて坑内では、「主任さんにほれこまれて、それを苦にして」美恵子が、十二番坑の竪坑から自分
で落ちて「死んだ」という噂話が語られる。この美恵子の自殺行為に対して「手子の秋ぼう」や「横田
の姉」は、「ほんとに」「何て、足りないこと」をした「馬鹿」だと評する。彼女たちは、主任に惚れら
れることが、
〈立身〉だと考えているのである。
二十三歳の作者が、この小説に「手子の秋ぼう」や「横田の姉」を登場させることによって、高橋秀
晴が指摘するように「ある弱者への横暴が他の弱者によって支持されている」ことを描いていることは、
特に注目される(6)。そして主任の S から受けた暴行場面で「畜生!忘れるものか!」とこころのなかで
叫ぶ美恵子のことばには、作者の義理の父から受けた暴力的な<性体験>が生々しく反映されている。
さらにその後の小説のなかでもこうした場面は、何度となく繰り返し挿入されている。
またこの小説では、後年の主要なテーマとなる「組合闘争」といったものが、しっかりと作品のなか
─ 49 ─
に埋め込まれている。
戸沢は、暗黒の中から、「手という手に」次のことばが書かれた一握の赤い紙片を差し述べた。
君たちは命がけで働いていながら、豚の糧よりひどい南京米をあてがわれている。
君達のクビは、いつまでもつながれているだろうか。
君達の嬶や娘が S 主任に弄ばれはしなかったか。
君達は、会社が銅価下落と産出銅の低下を理由として、今、大鉈を磨いていることを知って
るか!
手を握れ。眼をさませ!
力だ。団結の、組織の、力だ。
力で闘え!
御用組合××会を粉砕して、
真実の、俺達の、組合に入れ
……………
彼らは、刹那「かつて考えても見なかったほどの、新しい力を全身に感じながら、眼は眼をさがして
輝き、手は手を捜して握りしめた」のである。ここには、プロレタリア文学にみられるシュプレヒコー
ル(Sprechchor)の力強い描写が認められる。そしてこの小説は、次の一節で締め括られる(7)。
県下でも有名な、やっぱりM会社の経営にかかる××鉱山で、美恵子は、日本労働組合××会の組
合員として、果敢な闘争の渦中にあるということが、戸沢の口から、ひそかに洩れたのは。
この結びで語られている「日本労働組合××会の組合員として、果敢な闘争の渦中にある」美恵子の
姿には、
『おりん口伝』の主人公の姿がすでに深く刻み込まれている。
松田解子は、昭和三(1928)年六月、『読売新聞』女流新人短編募集に応募し、小説『産む』が入選
する。この小説では、ひとりの貧しい女が、<出産>という事態をめぐり、いろいろ迷いながら、長男
を「産む」経過が新感覚派を思わせる筆致で描かれている。そこには、前年の<出産>という自らの体
験が反映されている。
同年十月には、全日本無産者芸術連盟機関誌『戦旗』に松田解子の最初のプロレタリア詩といわれる
「坑内(しき)の娘」と題した次の詩が掲載される(8)。
私達は手子(てご)だ
坑夫の掘り出した鉱石を運ぶ
私達は運搬婦、私達は坑内(しき)の娘だ。
私達は暗黒の中を雌鷹の様に易々と飛ぶ。
監督も、坑夫も支柱夫も捲揚機械夫も
奈落に導く竪坑も恐れはしない。
ダイナマイトの唸は私達の心臓に
輝く未来を告げる声だ
昨日、十三番坑で君坊が死んだ。
─ 50 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
私は其の血を、其の魚肉の様に千切れた肉を、そして岩塊の重圧にむしり取られた髪の毛を見
た。なのに私は泣けなかった。
今日、監督や警官や鉱務署員が神主を連れて来て血の痕で祈祷させた。
なのに、私は泣けなかった。
私達は労働者だ。
私達は仲間の死を悲しむ。だが
私達は其の死骸を踏み越えて
進まなければならない。
彼女はいつも言っていた。
「花ぼう、おらあ死んだって泣くこといらねい。それよか生きてる時はうんと闘って、な」
そして、其の眼の優しかったこと
その行動の勇ましかったこと
そう思い出すと涙が湧く
けれど、私達は泣いてはいけない。
涙を地下足袋に踏みにじって
今日もまっすぐにすすまなければならない。
このガスカンテラで何も彼もを照らしてみよう。
監督の猛獣のような眼が
どんなに睨みつけようと
私たちは手を握ろう。ケージのなか、鉱車のかげで、
おたがいに結びつこう。
そして私たちの最初のたたかいを宣する日を創(つく)ろう。
私たちは、今日、鉱石を掘り出す。
だが、その日には
タガネで、ダイナマイトで
何を
打ちくだかねばならないかを
はっきり目論んですすもう
この「坑内(しき)の娘」には、小説「逃げた娘」と同じテーマが詩の形式で繰り返し表現されてい
る。特に「花ぼう、おらあ死んだって泣くこといらねい。それよか生きてる時はうんと闘って、な」の
ことばには、プロレタリア作家としての松田解子の強いプロパガンダが表出されている。尾形明子は、
この「坑内の娘」を引用し、「三菱が経営するこの銅山での生活こそが作家松田解子の原点」であった
と述べている(9)。
また同年同月の『戦旗』には、「母」と題された次の詩が掲載されている(10)。
母よ。
いつも私のために泣き悲しんでいる
私の母よ。
何があなたを苦しめ、何があなたをそうまで泣かせるのか
─ 51 ─
私はいまこそはっきり言おう
それは私ではないのだと。
私をこの搾取網のなかに追い込み
だからこそ私を、この苦難に向かって立ち上らせ
血をすすり骨をかみ取ろうとする彼らへと向わせたかを。
かれらだ。
そうだ。お母さんのいる鉱山にも
私のいる工場にも
兄さんのいる船の中にも
私達の血と脂で膨れた者達
憎むべき毒蜘蛛共が
飽く事なく搾取の網を張っている。
その者達こそ
母よ、私の母よ。
あなたと私との本当の敵だ!
さあ、あなたは老い、疲れたけれど、私は、若い、強い
私の後から来てくれ、私の手に掴まって来てくれ。
そして飽くまでも
この張りこめた搾取網、この竪牢な鉄鎖を噛み切って行くのだ。
涙をふけ
母よ、
私達は今に、すばらしい世界を産み落すんだ。
この詩で松田解子は、鉱山にいる「母」に「涙をふけ」と呼びかけ、「血をすすり骨をかみ取ろうと
する」相手こそ「本当の敵」だと述べる。そして「母」となった松田解子が、自分を産んでくれた「母」
に呼びかけ、
「私達は今に、すばらしい世界を産み落す」と結ぶ。
昭和四(1928)年一月に松田解子は、伊豆大島の差木地(さしきじ)尋常高等小学校の代用教員とな
る。そして同年二月、日本プロレタリア作家同盟に加盟した解子は、同年七月、『女人芸術』(第二巻第
七号)に「小林多喜二氏へ」と題した公開状を発表し、続く同年八月、『女人芸術』(第二巻第八号)に
「産む」の後日談として読むことができる「乳を売る」を発表する。
この短篇で松田解子は、女性作家として<母乳>の売買という行為を素材にプロレタリア文学に新局
面を切り拓いた。
この小説の主人公である光枝は、天皇のための「祝御大典」の中、ブルジョワの「若様」と呼ばれる
子に<母乳>を与えるためにわが子が飢えるという不条理な現実に直面する。そこには、生れながら
に<奪う>者と<奪はれる>者という二つの階級の子の<血みどろの闘い>が、次のように描かれてい
る(11)。
何時間も背中にくくりつけられた苦痛と空腹で、背中からおろすとまっしぐらに頭を母のふところ
に突き入れようとするのを、必死におさえて、光枝は胸前をかき合せた。
―売ってしまったのだ!
─ 52 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
そう思うと、涙が出ようとする。だが、すぐにも自分を嘲笑した。―この恥知らずな努力。―
子どもは全身で不服がりつつも、五勺に近い牛乳をのみほした。―それでいい。死にやしないん
だ!光枝は、脂のついた自分のくちびるに、熱っぽい子供の額を感じて寒気(さむけ)立った。
光枝は、血液検査に合格し、今、百二十グラムの乳を搾り出さなければならない。解子は、その場面
を次のように描いている。
右乳房からしぼりはじめた。息が弾む。だが一気に純白の汁が二十グラムの線上を突破した。大丈
夫だ!乳腺が、薄紅色を呈した乳房の表皮に青々とうかび上って、苦しいばかり張つてくるのをぎ
ゅっとつかんでおししぼると、わずかに直径半センチほどの乳首から十数本の乳条が、精巧なポン
プからのように噴出する。そのあいだは不思議な快感があった。
光枝は、一刻一刻、自分と自分の子の寿命がちぢめられてゆくような重さを感じた。生れながらにプ
ロレタリアの子は、<母乳>さえ奪われ、
「ブルジョアの牙」の餌食(えじき)になるというこの作品は、
松田解子の自らの体験に基づく初期の自伝的な作品のひとつである。
昭和四(1929)年十月、『女人芸術』が募集した「全女性進出行進曲」に応募した解子の詩が入選し、
昭和五(1930)年一月号の『女人芸術』(第三巻第一号)に山田耕作(1886−1965)が作曲した楽譜と共
に次の解子の歌詞が発表された。
鎖す雲 裂く陽(ひ)よ
荒れ狂う嵐よ
山脈(やま)とうねる怒涛(なみ)よ
起て! 燃えつつ行け!
双腕を指しのべ
われら炬火(ひ)をとりかかげん
産めるものわれら
育むものわれら
足枷のこの日ぞ
力もて砕かん
血潮もて浸さん
起て! 燃えつつ行け!
闘いのこの日ぞ
新たなる世をはらむ
世界の母われら
世界の母われら
この「全女性進出行進曲」は、コロムビアレコードから発売され、プロレタリア作家としての松田解
─ 53 ─
子の名を広く世に知らしめた。なおこの入選作品が発表された『女人芸術』の号には、松田解子の略歴
と子供を抱いた解子の顔写真があわせて掲載された。
この『女人芸術』は、『回想の森』でも述べられているように松田解子が「終生文学から離れずにい
る大きな機縁」となった雑誌であり、松田解子は、ここから女性の作家として出発することになるので
ある。
この昭和五(1930)年から松田解子の本格的な執筆活動が始まり、積極的に日本プロレタリア文化連
盟などの会合に参加し、宮本百合子(1899−1951)らと交わるようになる。そして同年四月、『戦旗』
に荒川鉱山を舞台とする「風呂場事件」を発表する。
この作品は、作者が自分の生れ育った荒川鉱山を題材とした、はじめての作品であり、そこには、三
千人の労働者が働く三菱鉱山の合理化による「クビキリ」とそれに反対する労働者の姿が描かれている。
題名の「風呂場事件」とは、経費削減のために設置された「電気風呂」によって起きた感電事故によ
って死んだ娘テルとその弟の<死>をめぐる事件のことである。作者は、この小説の中で次のような鉱
山の逃亡を企てた者の姿を描き、鉱山の体質が、本質的に昔も今も変わっていないことを読者に示して
いる(12)。
三十年前までは、逃亡を企てて見つけられた者は、先ず炭倉に投げこまれ、裸にされて百も二百も、
半殺しになるまでなぐりけりされてから、もう一ぺん坑内へほうりこまれた。それよりももっと前…
…明治の中頃までは、全身にコールタールを塗りこくり、背中に「忌中」と書いた日本紙をはりつけ
て、鉱山中を引きずり歩いたのだそうだ。
作者は、こうした鉱山の労働者の悲惨な歴史を、テルの無残な感電による<死>の運命と重ねあわせ
リアルに描いているのである。
またこの小説では、「ボーンと蹴上げられたような満月が赤禿山の上にかかっている」(三)鉱山の夜
景や、次のような「泣き声も溜息も、笑いの中に溶けこんでしまう」(五)風呂場の活気に満ちた様子
が描かれている(13)。
名物のおしゃべり婆さまがきまり文句で皆を笑わせている。青い職工シャボンを、湯槽の中で溶か
して手や顔になすりつけてゴシゴシやったり、思いきって子どもを引ぱたいたり、大きな孕(はら)
み腹を、ようやく人びとのあいだに押しこんだり、シャボンや垢でヌルヌルする上り床ですべり転ん
だり……泣き声も溜息も、笑いの中に溶けこんでしまう。
さらにこの小説では、次のように鉱山の会社側の話す共通語と坑夫たちの話す秋田方言とが対照的に
用いられ、この小説に独自の文体をもたらしている。
庶務課長本多は、とげとげしく高まった額の下から、刺すような目を相手に向けた。相手とは坑夫
の木村である。
(中略)
「旦那さん、おれア……」
「なぐれ!」
先刻からそばで待っていた下田守衛にそう命じると庶務課長本多は荒々しく靴を鳴らして椅子にも
どった。
(中略)木村の体はへし折られたまま下田の手でひきずられた。
─ 54 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
「娘百円でどこさ売ってやった?う?」
ほんとうに芋虫みたいに黙りこくった木村の頬を、ふたたび下田の剣のような平手がおそった。
「旦那さん。おら悪(わり)かったし。かんべんしてたもれ……」
「百円の金なんとした?」
「借金返したス、なにも無えス」
「あほう、テルっちゃ、きさまの娘だって、まだ会社のもんだ。いつお暇もらったど思ってそんた
らことした、う?」
この守衛の下田は、坑夫という『生きもの』を取りあつかう術をだれよりもよくわきまえており、
「ビール瓶みたいな肩を逆立てたり、八の字髭を吊り上げたり、なぐったり、けったり、まったくのとこ
ろ、(中略)会社専属のスパイであり、拷問係」であった。こうした登場人物の言動に鉱山の非人間的な
体質が浮き彫りにされている。
昭和七(1932)年十一月二十六日から『秋田魁新報』に関淑子をモデルに「女性苦」を連載し、昭和
八(1 9 3 3)年十月、『女性苦』が国際書院から刊行される。この昭和八年二月二十日、小林多喜二
(1903−33)が虐殺された。同年八月、
『中央公論』に解子は、おキヌという少女を主人公にした「飯場
で」を発表する。この作品は、坑内事故で父を亡くした幼いおキヌが、世界と日本の大きな転換期の時
代に個人の覚醒と自己形成をいかにしていくかを描いた作品である。
昭和九(1934)年六月に解子は、『文芸』に父親との確執を描いた「大鋸屑」を発表する。
この「大鋸屑」では、ヨネという少女の半年前に養父から受けた暴行未遂事件が、次のように描かれ
ている(14)。
その日、日暮れにかけてヨネは養父といっしょに、町の物持から頼まれて養っている赤班の牝牛が
裏の山からいなくなったというので探しに出かけたのであったが、どうしても牛は見つからず、時間
は経ち、二里の余も山奥に入っていることに気づいたその時、とつぜん養父から力ずくで体をつかま
れたのであった。はじめヨネはあまりの驚きに声も出なかったが、そのうち養父が、おれはおまえの
ほんとの父親ではないから、いまここで、このままおまえはおれのいうことをきかなくちゃならない。
きかなければころしてしまう、などという意味のことばも口から出してヨネの呼吸までも止めようと
したとき、ヨネははじめて、養父が何をしようとしているかを知り、そのあとは、ただ、無我夢中で、
「おらはお父(ど)さんの童子(わらし)だ、おらは、お父さんの童子だ・……」「ンだから、おらを助
けてけれ、……」そう叫ぶ一方では、ここで殺されてなるものかという意地も死に力も出して抵抗し、
とうとう養父を押しのけてしまったのだった。だが思い出すとそのときヨネにあったものは、ただ恐
ろしさだけであったような気がした。しかしそのとき、自分の背中にあたった木株の痛みや、足裏に
ぬらつく土の湿りまでが、そして、その奥山の夜空の上に、こぼれ落ちるまでに光っていた星までが
ヨネの記憶の奥から蘇(よみがえ)った。それがこのときも、よみがえった。……
ヨネは、その夜半のうちに、「山であったことの全部」を母に教え、その夜は、母と床を敷いて寝た。
このヨネという少女は、その後も、養父を憎しみつつも、大鋸屑背負いの仕事を言いつけられ、養父の
あとから歩き出した。やがて養父の「痛いッ」という声を聞いたような気がし、太股まで来ている大鋸
屑を泳ぐように足を進め、「お父さん……」と養父を呼ぶ。ヨネは、その養父を呼ぶ声が、「どうか、ほ
んとうの生みの娘のような声であってくればいい」と願う。養父は、手首を大鋸屑で傷つけ、『痛え…
─ 55 ─
…』とほとんど泣いていた。ヨネは、夢中で暗闇をかきわけ、養父の肩へ手をやり、それから腕をさぐ
り、手頸をつかみ、震えながらもっぺの紐に手をやって、その尖(さき)のところを夢中でむしり裂い
た。そしてヨネは、夢中で養父の手頸を巻きながら、はらの底から「大丈夫だか、お父(ど)さん!」と
呼びかけた。
この「大鋸屑」で描かれた養父からの暴行未遂事件は、作者である解子の実体験が反映されたもので
あり、その事件と養父との生活は、松田解子の文学にその後も大きな影響を与えた。
この養父を題材に解子は、『プロレタリア文学』(1933・1)に「父へ」と題する次のような詩を発表
している(15)。
歯をむいて叱ったあなた
槌ふり上げて追いかけたあなた
あなたの歯は不潔と腹立ちに蒼黄いろく
あなたの眼は爛々と、か弱で役立たずのわたしを焼く
その思い出のみで育てられたお父さん
お父さんの有難味がじりじりとわたしの血行に生きかえる日
この日
わたしはお父さんを泣きながら思い出している
吹雪と屈辱の冬の鉱山で
わたしは彼奴等に搾られた外に豚を飼った
お父さんを憎みながら股を埋めるは雪を踏み越えて
ああこの世の中で何よりも憎むべき者、刺しほおっても飽き足らぬものはあなたであると!
わたしの憎しみの目ざめと肉体のほころびに
おそくやって来た鉱山(やま)の春よ
その白銀の山脈をひび割らした焔の陽よ
若者の、若者の言葉よたくましの腕よ
わたしはふりすててただあなたの眼から逃れたかったのだ
お父さん
あなたには娘からさえ加えられた屈辱の幾千万日が
わたしのは悔、ただひとりで立ち向った彼奴等への憎しみが
いまなにを泣こう
あなたを、あなたをこそ呼びさまして闘いの悩みを抜こうとする……
お父うさんよ
くらしの切なさに、ただ勝つことを信じ
がむしゃらに命削ることを恐れなかった
あなたの歯
あなたの、槌ふりあげた腕
それを、それをこそ受けつごう
─ 56 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
この詩では、小説「大鋸屑」同様、作者の養父に対する複雑な心情が表白されている。作者にとって
「この世の中で何よりも憎むべき者」であり、「刺しほおっても飽き足らぬもの」である養父に「お父さ
ん」と呼びかけ、育てられた「有難味」を想い、「くらしの切なさに、ただ勝つことを信じ」ながら、
「がむしゃらに命削ることを恐れなかった」養父の「槌ふりあげた腕」を作者は、この詩で「受けつご
う」と結ぶのである。そこには、プロレタリア作家としての松田解子の強い資本主義に対する闘争心が
あらわれている。
─ 57 ─
第二章 松田解子の小説『おりん口伝』(正・続)と荒川鉱山
戦後を迎えた昭和二十(1945)年九月、松田解子は、史子を産む。そして四十歳となった解子は、そ
の年末に創立された新日本文学会に加入し、新たな気持ちで文学活動を再開する。翌(1946)年二月に
は、日本共産党に入党し、昭和二十二(1947)年四月、第二十三回総選挙に秋田二区から日本共産党公
認で立候補する。昭和二十六(1951)年九月、日米安保条約が締結される。この九月より十二月にかけ
て花岡事件を題材にして『人民文学』に「地底の人々」(第一章)を連載し、翌(1952)年四月から七
月には、同誌に「地底の人々」(第二章)を連載する。のちに第三章から第五章を書き下ろし、昭和二
十八(1953)年に世界文化社から『地底の人々』が刊行される。
昭和三十一(1956)年五月、プロレタリア作家として解子は、鉱山のおんなとして生きた自分の母を
題材にした『おりん口伝』の執筆のための創作ノートを取り始める。その後、『おりん口伝』の執筆の
ため解子は、鉱山研究、労働運動史、荒川村史、永岡鶴蔵研究など詳細に資料を収集し、この小説の舞
台となる荒川鉱山の時代背景を調査研究するのである。
昭和三十七(1962)年六月、松田解子は、花岡事件を題材にした小説「骨」を『文化評論』に発表す
る。そしてその翌(1963)年九月、松川事件に全員無罪の判決が確定される。
昭和四十(1965)年八月、新日本文学会の変質に反対して創立された日本民主主義文学同盟の創立に
参加し、翌(1966)年一月から二月、『文化評論』に「おりん口伝」を連載する。
松田解子は、「おりん口伝」の執筆のための創作ノートを取り始めた年(1956)から数えておよそ十年
の歳月を経て「おりん口伝」を発表するのである。
この「おりん口伝」は、母おりんとその子の悲惨な生活を通じて鉱山経営の<封建制>を指摘すると
共に作者自身のプロレタリア作家としての立場と信念を鮮明に打ち出した作品であり、プロレタリア作
家である松田解子の代表作である。
作品の舞台となったのは、作者の生れ育った秋田県の荒川鉱山である。荒川鉱山は、『荒川鉱山誌』
によれば、「仙北郡協和町(現・大仙市協和)の北東部に位し、雄物川の支流である荒川の上流、即ち
牛沢又沢の南端、周囲が標高四百米近くの山々に囲まれた山峡」にひらけている(16)。その古い記録で
は、荒川鉱山は、尾改沢(鵜飼沢)という名で呼ばれており、伝説では、元禄十三(1700)年に秋田の
商人、川村庄右エ門の発見にかかわると言われている(17)。
藩政時代の荒川鉱山の生産高は詳かではないが、藩内では、相当の地位を荒川鉱山が占めていたもの
と考えられる。やがて江戸から明治の時代になると、政府は、殖産興業を積極的に勧めるため鉱山開発
に力を注ぎ、明治六(1873)年七月には、日本坑法を布告し、鉱山はすべて官有にすることを原則とし、
以降、民間人が鉱業開発をする際、税を納め、期限を定め、政府から鉱山を借区して稼業することにな
ったのである。荒川鉱山は、採算の取れない鉱山であったためか、明治九(1876)年二月に官行を廃し、
民間人への移譲広告をなしている。そして同年十月、荒川鉱山は、「みちのくの鉱山王」と呼ばれた盛
岡の商人、瀬川安五郎(1835−1911)が三千五百五十五円七十二銭八里で払下げを受け、稼業するこ
とになったのである。この瀬川が荒川鉱山を引き受けてから生産高が上昇したものの、明治二十(1887)
年前後、銅価格が下落し、経営が悪化し、やがて生産も高めることが困難になり、明治二十九(1896)
年五月、瀬川は、三菱合資会社に三十五万円で荒川鉱山の権利を移譲した。こうして荒川鉱山は、大資
本の新しい企業体制の下に次々と近代的設備が取り入れられ、明治三十(1897)年には、荒川鉱山に水
力発電所が建設された。原動力が確保されると、電気捲揚機、排水ポンプの採鉱部門の近代化が進めら
れた。そして選鉱部門でも近代化され、鉱山の管理体制も整えられ、東京出身の経営陣のもとにその配
─ 58 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
下の主任、職頭のラインと、請負の組頭によって統制がとられていた。この鉱山の統制には、警察も関
与し、明治十二(1879)年に請願巡査が配置されて以降、「荒川鉱山に労働争議らしいものがなかった」
ことは、「他の鉱山よりも住みよい鉱山であったといい得る」が、それは、荒川鉱山の労務管理が徹底
していたことを意味している(18)。
また荒川鉱山集落には、鉱山関係の諸施設などの他に商業・サービス機能が他の鉱山よりも充実して
いたことが、斉藤実則の調査研究によって明らかにされている(19)。それは、荒川鉱山集落の近隣に地
方中心都市が存在しなかったためと考えられている。
「おりん口伝」の展開する明治三十年代から明治四十年にかけては、その後の荒川鉱山の最盛期を準
備する三菱合資会社の近代的設備や鉱山の管理体制が着々と土台をかためていった時期であった。
大正八(1919)年に至り、三菱合資会社は、三菱鉱業株式会社となり、荒川鉱山は、その配下に属す
ることになった。昭和初期までの鉱山の最盛期には、教育の面でも文化の面でも、如実に鉱山の景気が
反映され、その鉱山の長屋では、「気楽な生活の毎日」であったといわれている(20)。
が、昭和十(1935)年も過ぎる頃、荒川鉱山は、三菱鉱山株式会社尾去沢鉱業所荒川支所と縮小され、
昭和十五(1940)年七月二十六日、荒川鉱山は、閉鎖された。
「おりん口伝」は、日清戦争が終わり、日露戦争をなかにはさんで日本の資本主義が大きくその地歩
を固めていく時期をおりんの<口伝>を中心に描いた小説である。
「おりん口伝」は、自伝的要素の多い小説であり、作者の綿密な取材調査によって荒川鉱山の鉱山衆
の生活が<口伝>という形式として伝えられているのが特色である。
この小説「おりん口伝」の冒頭は、次の秋田弁によるダイアローグ(対話)で始まる(21)。
「和田の家のおりんさも、とうとう鉱山(かねやま)さ嫁(い)ったとな」
「ンだンだ、いった。境のかえりのから馬車でな。仲人の多吉おやじが手綱とって、多吉のかかァ
がつきそってよ」
「ふーむ、じゃ、和田の家からは、とうとう甥も甥嫁も送っていかなかっただな。ンでもからトロ
でよかっただ。石灰石(せっかい)の上さでものせられたら石の角コでつつかれて、嫁の着物もか
かァのも、行きつくまえに穴コだらけになったべよ、はは……」
この冒頭の一節では、田圃がえりの母たちが上淀川の元地主である和田恵之助の家の末娘おりんが鉱
山へ嫁いでいく様子が、秋田弁の文体で語られている。読者は、この秋田弁のダイアローグを通してこ
の小説の舞台となる秋田弁の言語空間に一瞬のうちに誘われてゆくのである。そしてこのおりんの嫁入
りの描写では、おりんが元地主の娘ながら、没落して「からトロ」で荒くれ者がいる鉱山へ嫁いでいく
という状況が、先ず設定されている。おりんが嫁ぐうわさの鉱山は、そこから東へ三里の奥にあり、そ
の鉱山からのびてきたトロッコレールの終点の境には、鉱山出張所が設けられ、そこには、「境の出張
所の旦那さん」と呼ばれる出張員が常駐していた。
この部落(むら)では、冒頭のダイアローグにみられるようにおりんの嫁入りが大きな話題となって
いることがうかがえる。さらにこのダイアローグは、部落の北端れの茶店で次のように続けられる(22)。
「それで、おりんさ、なに着ていったや」
「たいした嫁衣装でいったてば。どうせ鉱山の聟の家からでも届けておいたのだべがな。ちゃあ
んと島田あげて角かくしして嫁帯背負(しよ)ってな。……ンだども嫁の荷物ときたら柳行李が
─ 59 ─
一つっコよ、はは……」
「柳行李が一つっコ?」
「一つっコだと?」
腰掛台の母たちが大口あけて笑いこけていると、茶店の女房が舌をおしまず、言葉をつけ加え、弁じ
たてた。そして母親のひとりが、
「よくまず、あれだけの地主(おやかた)の末娘に生まれたおりんさよ。
ところもあろうに鉱山(かねやま)の馬肉貝焼(なんこかやぎ)さなど、嫁く気になったもんだてば」と
言うと、茶店の女房も首を大きくたてにふって「ンだてばよ。なんぼ相手が請負師だのなんだのといっ
たって、鉱山衆であるかぎりは馬肉貝焼(なんこかやぎ)にちげえねえべによ。どんたら地主も落ちぶ
れ果てればおら以下よ」と言う。
女房たちは、やがて「さァて大事の馬ンこが腹コすかして待ってるべな」「嬰児詰(えじめ)でびつ
き(赤子)が泣いていら」と、口々にいいながら腰をあげ、「背負った草束に鎌の刃をひからせ、体をく
の字に曲げて」かえりだした。
『おりん口伝』の第一章の最初の部分は、このように茶店の女房や田圃がえりの母たちが、落ちぶれ
果てた地主の和田家の末娘のおりんが、鉱山の「馬肉貝焼」(なんこかやぎ)の鉱山衆の請負師に嫁い
でいった日のことを話している場面で始まる。「馬肉貝焼」(なんこかやぎ)とは、「のめり死にした役
馬」の「死肉を帆立貝の殻で煮て食う」貝焼(かやぎ)を言う。鉱山では、坑夫たちが食うにも事欠い
てこの「馬肉貝焼」を鍋にしてつつくのである。
上淀川の村では、このおりんの嫁入りが大きな話題になっていたことが、この母たちのダイアローグ
を通して読者に伝えられている。
この『おりん口伝』のダイアローグによる導入部は、きわめて演劇的な手法によって描写されている
ということができる。
この導入部のあと場面は、一転し、馬トロに揺られているおりんを小説の舞台に登場させ、おりんの
不安な心理を次のように描写する(23)。
まだ見ぬ鉱山と、まだ見ぬ相手が気になった。それより以上に相手の家が、はたして仲人の言葉ど
おりの家なのか、また直きじきに一度は上淀川のわが家をたずねてきた相手の母の口上したとおりの
家なのか?
この描写には、おりんの不安な心理状態がおりん自身のモノローグ(独白)の形式で語られている。
そのあと馬トロの手綱をとる多吉、その女房、おりんの三人の会話が続き、険所のキントリ山を越える
時、おりんは、せなかに冷や汗をかきながら、上淀川の「きょうだい同様に育った」甥の庄蔵のこと、
生前の父の話、多吉が縁談をもってきた日の話、甥嫁ゆきの「胸に刃物でもかざされた」ような話、独
り寝の枕をくる夜もくる夜も涙で濡らして寝たこと、縁談相手の和田千治郎の母ヨネがたずねてきてお
りんに熱っぽく語った話などを想像した。
おりんは、和田千治郎がその母のように「熱っぽい目つきをしているんなら」、この母のように「情
をこめて、一生おらさ向かってくれるひとだったら」、という思いをこめて縁談に承諾し、この日、多
吉の馬トロにゆられてきたのである。
多吉の「あれ見っせや、おりんさ!」の声でおりんは、トロの上からのび上がるようにして目の前に
広がる次のような鉱山の風景を目にする(24)。
─ 60 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
おりから夕陽の照り返しで燃え立つかのように映える禿げ山と、その禿げ山につっ立つ煙突。その
煙突から入道雲のようにもりあがって禿げた山肌へくずれかかる旺盛な煙だった。その禿げ山の奥へ
左右へと重なり立つ、ぶこつな連山の測りがたい厚みだった。下界の広さがそこできわまったかのよ
うにむらがる山々の頂が夕空をもちあげて区切り、ふもとにたたまった建物が一色にくろく燻るよう
な、その判じがたい活気だった。
この鉱山の風景描写には、「燃え立つかのように」「入道雲のように」「きわまったかのように」「一色
にくろく燻るような」の比喩表現が多様されている。作者は、こうしうた直喩(シミリー)の表現を用
いて鉱山の風景を読者に強く印象づけようとしている。
おりんがトロを降り、多吉の女房の手にとられ、鉱山に来たとき、嫁見の人垣のなか、次のような子
どもらの歌声が、おりんの耳にはいってきた。
嫁コ来た
嫁コ来た
東畑家さ
嫁コきた
百一かかァ
つれてきた
この歌で多吉の女房は、子どもたちに「百一かかァ」と呼ばれているいるが、その「百一」とは、
「百に一つも、ほんとのことはいわないロクでなしにかぎって、つけられる綽名だった」のである。お
りんは、この子どもらの歌を聞いて内心「あの多吉夫婦にだまされて嫁てしまったのか」と思った。
おりんの見た鉱山の風景は初夜があけると、「慮外のざわめきぶり」であった。起床を告げる汽笛の
あと、一群の男たちが起きあがり、水屋(炊事場)へさっとうした。続いて舅の東畑吾作や小舅の婿た
ち、それに半裸の千治郎。おりんは、そこで千治郎と出会い、「燃えたつ顔」を伏せた。
水屋に続く台所では、千治郎の実姉のウメ、義妹のソノ、千治郎の母で姑のヨネらが忙しく立ち働い
ていた。まるで戦争のような鉱山の朝のざわめきが途絶えたあと、二階から三つばかりのソノの男の子、
それより大きいウメの男の子、続いて小学生の良造、トク子がおりてきた。
おりんは、水屋へ立って茶碗を洗いながら、自分が仕えなけらばならない相手をがぞえあげた。する
と、しゅうと夫婦(ヨネ・吾作)、ウメ夫婦と男の子、ソノと太一の夫婦と男の子、千治郎と自分、小
舅の良造とトク子、全部でこの家に家族だけでも十二人おり、それに年寄の東治とその子の「頬の赤み
が酢っぱい杏を思わせる十四、五ぐらい」の「アネコ」(娘)のサヨを入れて十四人。その他にあの
「若衆たち」が三十人もいる。おりんの嫁いだ家は、このように東畑組を名のる請負師・東畑吾作の采
配する飯場をかねていたのである。
良造とトク子が学校へ行ったあと、おりんが若衆部屋のふとんを片付けていると、「何か冷やりする
もの」が指に触れ、目をやると、それは、「白く光るハダカ身の刃物」だった。「匕首」(アイクチ)で
ある。おりんの顔から血がひき、「朝の起きぬけ水屋へさっとうした若衆がたの、肋骨(あばら)の浮い
たくろい胸が、さまざまにひかる目」がおりんの目に浮かんだのである。
姑のヨネは、おりんを一休みさせ、鉱山見物へ連れてゆき、いろいろ説明するが、おりんの頭には、
─ 61 ─
若衆部屋で見た匕首のことが気になっていた。おりんは、匕首のことを言おうと姑のヨネに「お母さん」
と呼びかけたが、「匕首の冷やりとした肌ざわりそのものが、りんの咽喉もとをとざすかのようだった」
ので、言えなかった。その夜、おりんは、千治郎に今日一日のことを話し、あれこれと想いが、おりん
の胸もとをかけまわり、涙があふれてきた。
千治郎は匕首のことでおりんが泣いているのを見て笑いだし、坑夫や土方は「切りつけなどはしねえ
だから安心せや、
」とおりんに言うと、おりんは、
「ンであんすか、それ、ほんとうであんすべな?」と、
ちいさく泣きじゃくりながらいった。
が、まだおりんの目の底には、その匕首と供給方でみた老婆の「かなしみにただれたような泣き顔」
が残っていたのである。
第一章は、「ごうごうという川音に、三番方の坑夫を坑内によぶ『ポー』が重なった。」という一文で
おわる。
この第一章の前半では、おりんが鉱山へ嫁いでゆく場面をはじめ、上淀川での嫁ぐ前までのおりんの
生活や千治郎の母ヨネのおりんの家への訪問などが語られ、後半では、おりんが鉱山の生活をはじめて
体験し、鉱山で生きる人間の苦しみや悲しみを目の当たりに見る。特に供給方でみた老婆に代表される
鉱山でのおんなの生活苦や悲しみ、坑夫や土方が匕首をもっていることへのおりんの慄きがよく描かれ
ている。
第二章でおりんは、匕首の持ち主が飯場衆の古参の宗方であることがわかる。宗方は、以前からソノ
に惚れていたが、ソノが太一の男ぶりに目がくらみ、太一と結婚したため、宗方は自分をさしおいてソ
ノと一緒になった太一を憎み、年じゅう匕首をはなさないのだということが千治郎によって語られる。
太一は、ソノにかしずかれて酒を飲むと、酔うにつけ、目がどろりと濁りながら、きまったようにおり
んの立ち居を舐めまわす。すると、ソノは悋気し、おりんにつらくあたり、その夜はソノが泣き声まで
張り上げる始末である。
またこの章でおりんは、千治郎から渡り坑夫の永岡鶴蔵という男の話を聞く。千治郎の話では、秋田
市(けんか)出の士族である藤田職工は、この永岡の弟子のような存在で、以前、永岡はこの鉱山にい
て「労働余暇会」というものを案じ出してそこで藤田や発句つくりの名人の桜井という鉱夫たちを教育
し、瀬川鉱山長に嫌われ、この鉱山を出ていったという。当時、秋田県では、鉱夫一人あたま一円五十
銭という鉱夫税というものがあったが、永岡はこの「鉱夫税撤廃」の旗がしら役をつとめ、その鉱夫税
を撤廃させた人物であった。千治郎は、おりんにこの永岡のことを「鉱夫の助け神」と呼んでいる。そ
して藤田は、いまでもこの永岡と手紙のやりとりをしているということだった。
おりんは、こうした鉱山の毎日の生活のなかで千治郎に鉱山で働かせてくれるように頼む。千治郎は、
「一生この鉱山(やま)離れないつもりであんす」というおりんのことばを信じ、「おまえが本心そうい
う気でいるならいうことねえだ」と、おりんが鉱山で働くことを承知した。
やがておりんは夫の寝顔にみとれているうち、宗方の匕首のことも永岡鶴蔵という渡り坑夫のことも
忘れていた。ただおりんには、「ごうごうと鳴る川音」が耳についたのであった。
第三章では、選鉱女として働くおりんの姿が描かれている。おりんは、そこで「岩谷のおっかァ」と
呼ばれる老女工にいろいろ坑内(しき)のことを教わり、せなかに汗をにじませながら働く。ときおり
ヨネから聞いた「からめ節」を仲間が唸るように歌った。
おりんは、その夜、千治郎から「岩谷のおっかァ」のことをいろいろ聞いた。やがて短い秋に冬が続
き、厳冬が鉱山を襲った。その頃、飯場の炉ばたや共同風呂では、足尾銅山の鉱毒問題で知られる田中
正造が直訴をはかったという噂が話題となった。千治郎が藤田職工から直訴の記事の載った新聞を借り
─ 62 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
てきたのでおりんは、その記事を飛ばし読みしながら足尾事件の中身を知り、田中正造という人物のこ
とをはじめて知った。おりんは、この記事に触れ、子どもの頃、父から聞いた佐倉宗五郎の話を思い出
した。
明治三十四(1901)年が暮れようとしていた頃、おりんは千治郎の子を宿す。翌年正月を迎え、四日
ともなれば、羽子板の音も消え、再び鉱山の暗い労働が始まる。吹雪の夜、千治郎は、交替で出る夜警
のため、夜九時過ぎ、家を出た。夜警は、逃亡鉱夫の警戒も含め何回か深夜の鉱山を見まわり、異常の
有無を事務所と門鑑の当番巡視へ連絡するならいだった。その夜半、おりんはふと目を覚まし、無意識
に暗がりに目をやると、闇より濃いものが動いたようだった。それは太一らしかった。おりんは瞬間に
起きあがり、「お姑(が)さん!」と叫ぼうとすると、その前に太一が一気におりんを押し倒し、おりん
の咽喉をおさえ、同時にりんの口へこぶしの中指を押しこんだ。これは、「計画された一瞬の行為」だ
ったのである。おりんは、呼吸さえつけない苦痛と憎悪で押しこまれた太一の中指へ思いきりかみつい
た。おりんは、「虫唾(むしず)の走る嫌悪」を感じた。やがて「生まぐさい湯のような太一の指の血滴
がりんの顎をつたわってしたたり落ち」て太一の悲鳴が太一の咽喉でふるえていた。そのときどこかで
「逃亡だっ」という声がし、太一は「助けてけれ」と頼み、おりんは太一をいきなりつきはなすように
してその場に立ちあがった。太一は、おりんの部屋から逃げだしたが、その太一をくらやみから匕首で
さした人物がいた。
おりんは、火のような怒りがこみあげ、「おまえのような人で無しは、いっそ土方に殺(や)られれば
いいだ!」と内心で思った。太一の指からしたたった血滴は、おりんの寝床の敷布にしみ、そこらのう
すべりにもこぼれていた。
ここでおりんは太一に暴行されそうになるが、松田解子の小説には、このような暴行未遂の場面が何
度か繰り返し、短編小説でも挿入されているが、それは、作者が義理の父から受けた実体験が反映され
たもので、その描写には妙な生々しさが感じられる。
おりんは、「太一がいるかぎり」この家や飯場にはいられないと自分にいいきかせるのであった。翌
朝、鉱山事務所では、千治郎が佐野巡視らに日陰の雪崩事故の当夜の足取りを詰問され、進藤家族の投
げ文の件で暴行を受けた。この暴行場面では、大曲町の巡査部長出に想定されている佐野巡視を通して
非人間的な行為をおこなう権力者の姿が描かれている。
第四章では、おりんが千治郎に太一の暴行未遂事件を語る。千治郎は、おりんからその話を聞くが聞
き流し、おりんと姑のヨネが「そっくりだべ」と言って笑った。千治郎によれば、ヨネの小娘時代に追
い剥ぎに会い、暴行されかけた時、追い剥ぎが口に入れたゲンコにかみつき、逃げた話と似ているとの
ことでだった。
おりんにしてみれば、命がけの抵抗であったが、千治郎は、そのおりんの気丈さに関心し、「似合い
の姑に、似合いの嫁」と言って笑いとばしたのであった。
千治郎には、そのことよりも藤田や桜井、宗方らを守ることのほうが一大事だったのである。おそら
く投げ文の書き手は、藤田や桜井のこどもらで、太一に傷を負わせたのは、宗方の仕業だった。
千治郎は、その夜、藤田職工の家へ行った。そして藤田の家で藤田から永岡の師匠の片山の書いた論
文を写した一冊の帳面を見せられた。そこには、「一人の労働者虐待さるれば」「全体が虐待されし如く
感じ」「一人の受けし恥辱は」「全体の恥辱と感ずるに至りて労働運動は始めて天下人無しとなるべし」
と書かれていた。これを読み千治郎は、藤田に「このとおりだスな」と言った。藤田は、「この鉱山(や
ま)」で永岡のあとを継ごうとしているんだ」と、千治郎は思った。
千治郎は、藤田を通じて次第に社会主義に目覚め、労働運動の思想に共鳴していくのであった。こう
─ 63 ─
した最中におりんは、日陰の雪崩事故で一人の赤子が死んだ年の夏、母となった。そのおりんの最初の
子は、ヨネによって「千太」と名づけられ、手塩にかけて育てられた。それから一年、この千太は、よ
ちよち歩きをはじめた。その年の師走、東畑吾作は、人夫募集の旅に出た。千治郎が藤田から聞きこん
だ話では、これは戦争が近づいた証拠だった。その翌年二月、対露宣戦布告があり、戦争が鉱山を襲っ
た。若い鉱夫たちは、母たちの涙に送られ、戦地に出発した。こうした戦争の中で千太も大きくなった
が、ソノがおりんに千太が飢えてホトケさまの菓子を盗んだと言った。そのことでおりんは、この家に
これ以上いることが我慢できないと千治郎に告げる。太一にああいう目にあってからおりんは、四年も
この家でがまんして過ごしてきた。その歳月の間におりんの「かつて初々しくふくらんでいた桃割はい
つしかつぶれた銀杏返しになり、もともといくらかつき出ていた頬骨はいよいよとがり、かつて潤いを
もち生気をもっていたその肌は鉱塵で青ぐろくすすけ、そのすすぼけた額には昆虫の触覚を思わせる淡
い縦じわが這っていた」のであった。一方、千治郎もこの四年のなかで「一、二本の横じわをくっきり
額に引き、父親らしい思惑をその陽に焦げた顔」に浮かべていた。
千治郎は、おりんの話を聞き、ふところから紙片を取り出し、おりんに見せた。そしておりんは、は
ぐらかされてなるものかと、思いつつそれを読んだ。それは、藤田の師匠の永岡が東京の片山という学
者に出した手紙だった。おりんは、それを読み、マルクス主義のために家族を犠牲にし、「主義の為に
己が身命を賭して」暴動を起こそうとする永岡の生きざまを知る。千治郎は、おりんに「このお母さん
と童子(わらし)がたはどうなるのだす?」と問いただされ、しどろもどろになり、やがて手荒くおり
んを抱いたのである。
第五章では、季節がふたたび夏をめぐり、一時危篤におちいったが、命脈をたもっている東治の姿が
描かれている。娘のサヨは、命たえだえの父をかかえつつも、気さくに千太の世話をしている。明治三
十七(1904)年夏、千治郎は、ヨネへの思慕と東畑への憎悪を炎天に焦がしながら、羽後境から荒川へ
むかった。藤田から聞いた話では、永岡の師匠である片山は、日露戦争に反対をとなえ、遠い外国にお
り、永岡は、足尾を中心に労働者の組合を作り、まとめあげようとしているということであった。
第六章では、戦局がひっぱくし、鉱夫の数も女工を含めて増えていったことが述べられている。そし
てその戦局の最中おりんのおなかには、二人目の子の胎動の自覚があった。四つになった千太も来年は、
「兄ちゃんになるだよ」と、おりんは眠っている千太によびかけ、その横へもぐりこみ、深い眠りへお
ちていった。そしてもういちど長い冬が鉱山へ訪れた。おりんは、二人目の子どもを産み落とした。女
の子であった。その子をヨネは、「日露戦争の日の字と露の字でひろ」と名づけた。
東畑飯場では、一人去り、二人去りし、土工が退山していった。千治郎は、母に「お前どうする?」
と問われ、「おら、この鉱山(やま)だの、離れねだ」と言った。そして千治郎は、吾作の口ききで事務
所の庶務係の直属の雑夫になった。吾作は、そのうち残った若衆に飯場の解散を言い渡した。そこへ宗
方が突然、匕首を手にもってあらわれた。その匕首は、吾作のあぐらの膝頭すれすれに刃先を五分ほど
うすべりへつき刺した。吾作と宗方が刺し違えるかもしれない。おりんは、共同浴場に千太をつれて行
っている千治郎に宗方のことを話しに行き、飛ぶように千太をおりんの背中へおぶり家へ駆けつけた。
すると、吾作が、「さァ宗方、勝手にせえ」と言い、宗方も「よしっ!」と匕首をふりあげた時、千治
郎が宗方の手を押さえ、匕首をもぎ取り、それを川底めがけて投げこんだ。その何分かあとにヨネの急
報で巡視頭の佐野と請願巡査の二人がそこへ踏み込み、若衆部屋の捜索をおこなったが、金の入った袱
紗は見つからなかった。宗方は佐野に呼ばれたが、寝ころがり、声も体も立てなかった。佐野が宗方に
「てめえか、盗っ人は?」と聞くと、宗方は、その金の入った袱紗を太一が腹掛けにつっこむのを見た
と証言した。ヨネは、それを聞いて床板にぺたりとすわり、泣き出した。吾作は、巡査に詫び、巡査ら
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松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
が立ち去ると、若衆は大部屋へ去り、ヨネも座敷へ立ち去ったが、宗方だけが炉ばたへごろ寝したまま
だった。そして仰向けになり、夜闇をにらんで止めどなく笑うと、雷鳴がその笑いを飲みこんだ。
第七章では、飯場を解散した吾作が、子どものしゃぶるアメ玉などを置く店の帳場ですわっている姿
が紹介され、明年三月には、吾作の後継ぎの良造が秋田市の工業学校を卒業することになっていた。ま
た末娘のトク子は、小学校の高等科を卒業して佐野の女房から裁縫を習いに通っていた。ヨネは、千治
郎夫婦に「来年、良造がかえったら、おめえらも、鉱山から長屋でも借りて独立せ」ともちかけた。お
りんは、親子水入らずで世帯の張れる日が待ち遠しい思いだった。千太は、ことし五つになり、ひろも
二つになっていた。
千治郎は、藤田から岩谷宛の手紙と永岡宛の手紙を出すように頼まれ、それをふところへ入れた。永
岡宛の藤田の手紙には切手が貼られており、それを境駅の郵便箱に落とし、帰りに切手の貼っていない
岩谷宛の手紙を手渡すつもりだった。その日の正午近くにおりんは千治郎の<死>を知らされ、顔から
血が退(ひ)いた。「きちがいのように走る」おりんの影は、「レール道に短く落ち、それを追うように
正午のポーが鳴った」のである。役場前や学校下の長屋通りをかけぬけて、門鑑が目の前に迫ったとき、
おりんが最初に見たものは、そこに「脱線した客トロと、陽にはねかえるレールのきらめき」だった。
そしておりんが最初に聞いたのは、姑のヨネの「吠えるような声」であった。おりんは、「お母さん」
と叫んで駆け寄り、死んだ千治郎を抱き、姑同様吠え立てたが、千治郎は、呼吸も脈膊も絶えていた。
その額には、無残な打ち傷が残っており、内出血でもしたらしく、そこらが紫色に腫れていた。嫁と姑
は、千治郎を中に身を寄せ合い、「もういちど」息をふきかえしてくれぬかと呼びつづけた。
検死の結果、千治郎は持病の心臓マヒをおこして急にトロから手を離して、ここで急死したとのこと
であった。千治郎は、三十二歳だった。
おりんは、そう告げる佐野巡視に向きなおり、「このひとは殺されたのだスて」と、死体に折り重な
って泣いた。そして姑のヨネもおりんへ体をすりよせて共に泣いた。
どこかでじーんと蝉が鳴いた。煎りつけてくる太陽が、りんの腕のなかで刻々冷えてゆく千治郎をむ
なしくぬくもらせた。やがて人夫二人が、千治郎を担架へそっと寝かせ、かつぎあげた。
その翌日の午前、東畑家の家から千治郎の棺と葬列がくり出された。五つの千太が位牌を抱いてヨネ
と一緒に棺のうしろへつき、続いて二つのひろを抱いたおりんとウメ母子、弟妹たちがつづいた。
子どもたちは、見物人の群れを離れて次のような歌を歌い出した。
ジャランボン
ジャランボン
だみ(荼毘)コ出た
お寺の烏コ
カアカアカア
団子けれとて
カアカアカア
やがて棺と葬列は、浄勝寺前を突きぬけて墓地の奥へと駈け込み、その山門の丸柱の間をぬけ、境内
で三度左回りをくりかえして薄暗い寺のなかへ吸いこまれ、引導の鉦、太鼓が鳴りだした。子どもたち
の歌と烏の群れが、寺のまわりで墓地の奥でさわぎたてた。見物の母たちは、寺前通りの長屋の軒下へ
顔を寄せ、今がさかりという二十八歳の年のおりんを気の毒がったり、「ああいうあねさんなら、たと
─ 65 ─
え童子コ連れてきてもええ、おら欲しなあ」という白髪の老婆もいた。菅井のばばちゃだった。この菅
井のばばちゃは、四十前の息子が六年前に嫁に逃げられ、六人の孫を養っていたのである。
居合せた岩谷のおっかァは、そのばばちゃのさしはさんだ言葉を聞いて「おりんさの気持にもなって
みっせ。
」と言うと、菅井のばばちゃは、
「ンでもよ、」
「おら、そう思っただ」とつぶやいて下を向いた。
まもなく千治郎の亡き骸が寺から墓地へ運ばれた。
五つの千太が最初に土コひとくれかけ、続いてヨネがかけ、おりんが二つのひろのぶんまでわが手で
かけた。おりんは、両手で顔をおおって嗚咽(おえつ)した。それは、日露戦争の翌年の盆のことであ
った。おりんは、その夜、千太とひろへ添い寝しながら、声を殺して泣き続け、夜毎千治郎に語りかけ、
千治郎が死んで七日が過ぎた。そして翌日からおりんは、選鉱場へ通いだし、ハンマーをふりあげ、
次々と鉱石をからみ割った。そのつど鉱石は、あるか無しかの火花を散らしたのである。
第八章では、冒頭でおりんの千治郎の<死>への疑惑がいろいろ語られている。その後、おりんが鉱
山事務所の庶務主任のところへ行くと、クビだと言われ、おりんは、口惜し涙を流した。このおりんと
庶務主任の次のやりとりには、両者の立場の違いが鮮明に描かれている。
「今日からおまえに暇(ひま)出たんだ」
「ヒマときゃ、……」
「うム、三菱さまがおまえにひまを出されたんだ。
(中略)書類はこれだ。この書類を見て、今日の
午後でも明日の午前中でも東畑の者といっしょにハンコ持ってくるんだ。そうすれば会社はちゃ
んと出すものは出すからな。
(中略)あの家は、おまえ一人ぐらいやめたって、どうにでもなる」
「あの、わだしは、旦那さん、一人ではないんであんす。子が二人いるんであんす」
「二人いようが三人いようが東畑の孫だろうが。養育できんなら別として、東畑にそれぐらい出来
んわけない」
「ンでも……千治郎は東畑のお舅(ど)さんの義理の子であんして、……」
「それも鉱山ではようわかってる。義理の子なら、なおさら嫁や孫は大事にするだろう。そうだろ
う」
「はい。……それはそうであんすども(中略)選鉱が人余(ひとあま)ってどうにでもだめならど
こだってようごあんす。(中略)末始終(すえしじゆう)この鉱山で稼がせてたもればそれでよう
ごあんすから……」
「スエシジュウか」
このおりんと主任のやりとりでは、秋田方言と標準語とが、それぞれの立場をよくあらわしており、
おりんは、主任に「それでようごあんすから」と県南で使う秋田方言の敬語を使って話している。
主任は、このやりとりのあと、「蛇のようにきらつく目をまっすぐ」おりんへそそぎ、少し細声をお
さえるようにして千治郎の葬式の日のおりんの言った「オットウは殺された」と「まるで三菱さまがお
まえのオットウを殺したようなこと」を言った言葉を引き合いに出し、「とにかく三菱さまとしては、
そういう人間には、一人だって働いてもらわなくていいんだ。わかるかね」と言い聞かせた。
姑のヨネは、おりんの解雇通知を見て嘆き、その嘆きのことばには、「嫁にたいする絶望のひびき」
をたたえていた。その三日後、ソノたち夫婦が子を連れて帰って来てふたたび東畑の二階に住みついた。
ウメが一人っ子の高雄を連れてカラフトの権吉を求めて旅立つ前々日の夜半、サヨの父親である東治が
ついにこの世を去った。ウメたちは、友引の日を避けて立ち去った。以後、四月(よつき)、おりんは、
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松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
泣きじゃくりをしずめ、いつしか、幼児のように眠るサヨと、わが子の寝息を闇のなかから聞きながら、
物狂わしく一人悶えた。
多吉は、この四月(よつき)、何度となく訪ねてきておりんの再婚話の伺いをソノへ立てた。菅井豊
蔵というヨロケ坑夫で六人の子持ちだが、まだ四十歳だという。ソノがおりんにこの再婚話をもちかけ
ると、おりんは、「嫁(ゆ)かねんす、おら、どこさも!」と言い、泣きくずれた。そこへしゅうと夫婦
があらわれ、吾作は、泣きくずれるおりんに「明日にも、この家を出て行ってもらおう、
(中略)千太は
この家でひきとって将来千治郎のあとを継がせてやる。おまえはひろをつれて実家へもどる。」ように
と、冷たく言い含めた。
その翌日におりんは、長兄に手紙を出したが、その五日後には戻ってきた。受け取ったのは、吾作だ
った。おりんは、吾作の手で投げ出されたその手紙をふところに入れ、千太とひろを連れ、その日のう
ちに岩谷のおっかァの家へ駆け込んだ。
岩谷のおっかァは、おりんから今までの話を聞きおわると、おりんに菅井豊蔵との再婚を勧めた。そ
しておりんは、その年の暮れに泣き泣き東畑の家をあとに菅井豊蔵という男と再婚したのである。千太
とひろを連れての再婚だった。その日を境におりんは、八人の子持ちとなり、一人のヨロケ坑夫の後妻
となった。おりんは、菅井豊蔵との初夜、千治郎に詫びながら、豊蔵に抱かれた。が、その半年後、豊
蔵は息をひきとった。その直前の何日か前、豊蔵は、「岩石でも噛み切るように骨と皮の顎を空へつき
だし、紙のように薄くなった小鼻をふくらませ、歯をきしませて呼吸」し、
「童子共(わらしやど)たの
む、な、おりん」と言い残した。その一週間後、菅井の伯父があらわれ、五人の男の子を連れていった。
おりんの手もとには、蝶子という娘が残されたが、その半年もたたないうちに大量の血を吐いて父のあ
とを追って逝った。
第九章は、佐野が「長屋開けろ」とおりんのところへ日参している場面で始まる。おりんは、ふたた
び二人の子持ちにかえって長屋で針仕事をしながら暮らしている。
菅井が死んでから百二十日が過ぎた日、佐野がおりんの長屋へあがり込み、おりんの首を片手で締め、
もう片手はおりんの腰へまわした。その時、おりんは、「このクソ野郎の人殺しィ!」とわめきたてた。
すると長屋の両隣りから女房たちの声が飛び、岩谷のおっかァらがあらわれ、佐野は、「ふん!見て
ろ!」と捨てゼリフを残して外へ消えた。その翌日は、明治四十(1907)年の師走だった。おりんは、
その日、岩谷のおっかァへ千太とひろの守りを頼み、岩谷仁衛門の家を訪ねた。そこでおりんは、はじ
めて岩谷仁衛門と出会ったのである。
仁衛門は、おりんに千治郎の<死>の当日のことを語って聞かせ、その<死>に疑念があり、もしか
したら、キントリ山あたりで巡視らに待ち伏せをされ、暴行を受けたのではないかと言った。おりんは、
この老いた百姓の仁衛門こそゆく末自分ら不幸な鉱夫の「助け神」になってくれるのにちがいないとこ
の時思わずにおれなかった。仁衛門は、おりんの帰り際、おりんに「鉱毒賠償請求の書類の写し」を持
ち出して手渡した。
おりんが、鉱山へ戻ると、岩谷のおっかァがおりんに声をかけ、「とうとう、千治郎さんさ、佐野が
手ぇ下すとこ見たひとわかっただえ!」と言った。
また藤田職工が、おりんに「それが、小太家(こたえ)のばばでなんし」と話しだした。おりんは「歓
喜と感動」で爪先までふるえていた。千治郎の<死>から一年四ヶ月目のことであった。岩谷おっかァ
の話では、この小太家のばばの「ヨロケ息子もよ、とうとう今日、首切り言い渡されてよ、それで、ばば
もかっと来てしまって、さっき、仕上場さ行って、藤田さんさ喋ったスと!」言うことであった。
藤田があの日、千治郎に託した永岡鶴蔵宛の手紙は無事届いたが、藤田があの日、岩谷仁衛門にあて
─ 67 ─
た手紙への、仁衛門からの応(いら)えはまだなかった。
目の前の浄勝寺には、何千の鉱夫の墓がある。サキ山の桜井が、「さー、ゆくべーっ」と叫び、「ンだ
ンだ、それだば、……」と応(いら)えと嗚咽。はげましの叫び。佐野へ、鉱山長のワシ鼻へ飛ぶ悪態
や呪いの声がはずむ。「人垣は揺れ、いつしかそれは列になり、脛まで埋まる溜り雪をこぎながら、浄
勝寺へ浄勝寺へとうごきだした」のである。
そして「向き合いに迫る白い沢に、とまった鉄索の搬器が首吊骸(くびつりむくろ)のように白く垂
れ、寺のま上の白蛇のような山なみには、匕首さながらとがった三日月が光っていた」のである。
第九章は、「この鉱山に永岡鶴蔵らの血をひく鉱夫の組合が生まれたのは、なお年が明けてひと月も
経ったころであった。名をシセイカイ(大日本労働至誠会荒川支部)とよんだ。初代の委員に藤田や桜
井がなった。りんも入会(はい)った。」という文でおわる。
『おりん口伝』の正編は、この第九章でおわる。この章では、おりんが、はじめて岩谷仁衛門に会い、
千治郎の<死>の原因を示唆する話を聞かされ、「鉱毒賠償請求の書類の写し」を手渡され、鉱山へ帰
る。山腹に浄勝寺墓地の黒い点々が見えだすと、おりんの行く手の雪道に黒い人だかりが見えた。そこ
には、岩谷のおっかァや藤田職工らの姿もあった。そしておりんは、佐野の手で千治郎が殺された場面
を目撃していた小太家のばばの証言が得られたことを知る。
鉱山の人々が浄勝寺へ列を作り、動き出す場面には、千治郎の<死>に対する藤田職工らの強い「同
情の念」が沸き起こり、鉱山の人々の気持ちが一体となり、団結し、やがてそれが、ひとつの労働運動
となり、鉱夫の組合が生まれる兆しが認められる。
そして結びの四行でこの荒川鉱山に「永岡鶴蔵らの血をひく鉱夫の組合」が、「年が明けてひと月も
経ったころ」に生まれ、その名も「シセイ会」
(大日本労働至誠会荒川支部)といい、その初代の委員に
永岡のあとを継ごうとした藤田や桜井がなり、おりんも入会したという記述でおわる。
この結末は、第四章で藤田が千治郎に見せた永岡の師匠にあたる片山潜の論文で述べられている「労
働運動」が荒川鉱山で誕生し、おりんも階級意識に目覚め、労働運動に参加するようになったことを示
している。
松田解子は、この『おりん口伝』
(1966)の初版本の「あとがき」で『おりん口伝』が、おりんのよう
に生きた女性像をいつかは描いてみたいという「わたしの願望から出発した」と述べている。そしてこ
の小説には、現実にあった社会的な事件や運動をもとにしたフィクションの部分とファクト(事実)の部
分が巧みに融合され、まさに作者の「願望から出発した」いわゆる「プロレタリア文学」というジャン
ルの小説になっている。
『おりん口伝』の続編の第一章は、この正編の最終章の浄勝寺の集会の夜の場面の描写から始まる。
この集会では、藤田から千治郎の<虐殺>の経過が語られ、桜井は、永岡の師匠の片山の論文の一節
「労働者の強点」は「数なり」「しかして結合せざる数はだめなり」ということばをみんなに紹介し、藤
田は、そこにいる鉱夫らに結合して「鉱夫組合」を作ることを提案し、「至誠会」が誕生した。
第二章では、藤田によって佐野による千治郎の<虐殺>が鉱山事務所に告げられ、鉱山側がその佐野
の処分をどうするか、話しあわれる。またヨネがおりんを訪ね、千治郎の実父である千蔵が荒川に嫁や
孫の顔を見に来ることが告げられ、おりんや千太、ひろは、千蔵と対面する。そしておりんは、この千
蔵にいままでの経緯を説明した。
第三章では、鉱山事務所が、三ヶ条の掲示を出し、藤田らの作ろうとしている「鉱夫組合」を阻止し、
その日の午後の談判を回避しようともくろんだことが記される。またこの章では、藤田が仕事中に大怪
我をし、桜井が藤田を助け出す場面が描かれる。そして藤田は、病院に入院する。
─ 68 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
第四章では、佐野の依願退職の話が紹介される。おりんは、この章で東畑の家が火事になる夢をみる。
そして東畑のサヨからおりんの住んでいた長屋の荷物がみな雪の上に投げられ、それらを運んできたこ
とが告げられる。以後、一と月、おりんは、この東畑家で過ごす。この章のおわりの場面は、佐野夫婦
が箱ゾリに乗り、この地を去ってゆく場面だが、それを見ている母たちには、千治郎の幽霊が、そのあ
とを「まっしろいかたびら」でついてゆくように見えた。この描写には、死んでも許せない千治郎の<
怨念>が、強く表出されている。
第五章では、怪我から一ヶ月以上も経過し、藤田が快方にむかっている状態が描かれている。そして
藤田は、この鉱山の職工になったおかげで永岡の義にふれ、桜井の義によって<いのち>を拾い、また
岩谷仁衛門の、おのれを絶した情と義にふれ、「おれのいのちは、おれのもんじゃ、ないんだ。」と実感
するのである。
第六章では、事務所との再談判が効を奏しておりんが一時期にせよ再び選鉱働きにつけ、たとえ一時
期にせよ、この鉱山に「大日本労働至誠会支部」が根づいたことが語られる。そして千治郎の実父の千
蔵が、明治四十一(1908)年の夏に死去したことが述べられ、千太もすでに数えで七つになり、ひろも
四つになっていた。千蔵のとむらいは、すべて至誠会によっておこなわれた。至誠会は、すでに百人を
こす数になっていた。
第七章では、この至誠会の藤田、桜井が大曲署へ連行され、おりんが派出所で取調べを受けている様
子が語られる。藤田は、取り調べのなか、耳が一切聞えなくなってしまう。
第八章では、千治郎殺しを盾に至誠会にかたまりだした鉱夫組織をつぶすために藤田が「耳きんか
(つんぼ)」の半片輪にされ、桜井が「ヨロケ坑夫」にされ、それぞれ鉱山へ帰えされたことが述べられて
いる。おりんは、これらの責め苦のいちばん大きな原因をつくったのが、自分であったかのように考え
る。
この第八章では、山桜が花開く頃、おりんが盗伐犯として中根という男につかまり、雑木山で組み伏
せられ、暴行をうけようとする場面がある。幸いおりんの娘のひろと黒川という老人が、その現場を一
本きりの山桜の下で見ていた。
おりんは、そのひろを目あてに山ばらを駆け、逃げた。やがてひろは、おりんに飛びつき、「この花
コ、なに花コだァ?」と聞く。おりんは、危機を逃れた安堵から「これはサクラ。ヤマザクラ。ほら…
…みれ。きれいだこと。」と言い、抱きかかえた子の重みで尻をついた。おりんは、ひろを山桜の下に
離し、中根の立ち去った山ばらに光る鉈をひろって来て、「雪のように白い山桜の一枝」を折ってひろ
へもたせた。
このおりんとひろの山桜の場面は、昭和五十七(1982)年一月三日、「赤旗日曜版」に掲載され、の
ちに『山桜のうた』
(1985)に収録される「山桜のうた」で主人公の「わたし」と母が語る場面で再び
登場する。作者は、この「山桜のうた」で「わたしの目のうらにはあの日の盗伐山の若い山桜の幹の照
りと透きとおる花びらがうかび、母がうかびあがる。」と述べている(25)。
第九章では、盗伐山の一件が藤田夫妻の耳にも入っており、夫妻はおりんに三度目の結婚相手を考え
ていた。それは、おりんより年下の腕をもがれた田所であった。が、おりんは、この話を断り、まもな
く 背負い人夫となって働く。
第十章では、藤田や桜井の命数が読まれ、彼らの意志が鉱山事務所側の踏みつけにあっていることが
述べられている。岩谷仁衛門は、そうした状況を案じ、おりんに手紙をよこした。その手紙には、至誠
会のことも書かれ、それは、おりんの手から桜井の女房の手にわたり、そこから岩谷のおっかァの手に
わたり、最後に藤田夫妻の手にわたった。
─ 69 ─
第十一章では、東畑吾作の<死>が語られ、おりんはその葬式が済むまで三昼夜を東畑家で過ごし、
一年八ヶ月ぶりにひろと並んで千太の寝顔を見つめている情景が描かれている。おりんは、そこで良造
の結婚、トク子の嫁入り、千太の今後、サヨと岩蔵の結婚のことなどを考える。
第十二章では、東畑の家で良造へ嫁を迎えたことが語られる。そしてこの章では、八月十三日、仁衛
門を囲んでの元至誠会の一統の集まりの様子が語られる。ここで仁衛門は、「鉱毒被害賠償請求書」を
出し、みんなに見せたが、その請求人のなかに実家の甥である和田庄蔵の名をおりんは見つける。
終章では、 しょいのおりんたちがクビ切り通告を受け、事務所前におりんたちが集まる様子が描か
れている。そこには、仁衛門の姿もあった。聞き分けられもせぬ無数の男女の声が潮のように事務所の
窓ガラスへ打ち寄せた。この夜の交渉は深夜に及び、日陰の坑夫は異例の見舞金を受け取ったが、仁衛
門は、その年明けの明治四十三(1910)年春、ついに病死した。
藤田と桜井は、仁衛門の病死に先立って再び大曲署に連行され、釈放を待たずに二人は首を切られ、
藤田は再起の望みのない床につき、桜井は、十日と保たず、他界した。
この時、東京では、永岡の師匠である片山は健在で、社会主義政党の結成へと奔命していた時期であ
った。またこの明治四十三年春には、サヨと岩蔵が結ばれ、その年内には、東畑の末娘トク子が支山日
三市の社員見習へ嫁いだ。
年明けの明治四十四(1911)年と明治四十五(1912)年への冬の日々へかけおりんは、タンパン場へ
通いとうした。ある夜、おりんが夢から目を覚ますと、半鐘の音が遠くに聞え、その方向へ駆け出すと、
東畑の二階が燃えているのを見つける。おりんは、「千太ァ、生きててけれ、」と心のなかで叫び、突っ
走った。その時、おりんは、「お母(が)ァ」という千太の声を聞いた。千太は生きていたのである。し
かも良造の赤子の君雄までおぶって生きていたのである。が、良造の嫁は、その翌日、黒焦げになって
発見され、姑のヨネもその四日後、息を引き取った。良造は、母と妻の葬式を終え、そのあとまもなく
三菱を退社し、君雄と共にこの鉱山を去った。明治四十五年一月の厳寒の最中のことであった。
この章の最後の場面で長患いの藤田が、おりんに東京で市電「ストライキ」があったことを伝え、そ
の指導者が、「永岡の師匠」の「片山」であると告げる。おりんは、「ンだんすか」と返事をし、「なん
とか長生きして下(た)いよ、」と藤田へ言い、戸口で藤田の女房から焼きたてのメリケン粉餅まで貰い、
その包みを肌につけ、急いだ。そして「千太ァ、ひろーっ、今日はおみやげだぞーっ、おみやげだぞーっ。
東京では、な、東京では、ストライキだぞ、ストライキ、……千太ァ、ひろーっ」とつきあげてくるその
叫びを胸底にこらえ、帰りのおりんは、火になって「天地をこめて白くいどむ吹雪にさからって」急い
だのである。
『おりん口伝』の続編は、このように「永岡の師匠」である片山潜(1859−1933)によっておこなわ
れた東京の市電「ストライキ」の記述でおわる。片山は、この東京市電「ストライキ」の指導をおこな
ったために逮捕され、投獄されたが、大正三(1914)年、出獄後、アメリカに亡命する。その後、ロシ
ア革命によりマルクス主義に感銘を受け、日本共産党結党の指導もおこなう。昭和八(1933)年十一月、
モスクワで死去。遺骨は、クレムリンの宮殿に眠っている。
また『おりん口伝』の続編では、「永岡鶴蔵の消息は絶えていた」と記述されているが、中冨兵衛の
『永岡鶴蔵伝』によれば、永岡鶴蔵(1863−1914)は、日露戦争開戦にあたって非戦論を唱えたクリス
チャンの片山潜の思想に傾倒し、その後、労働運動に身を投じていく(26)。この鶴蔵は、明治十九
(1886)年に秋田の院内銀山の坑夫となり、「飲む、打つ、買う」の生活を送っていたが、明治二十
(1887)年夏、荒川銅山へ移り、人生の大きな転機を迎える。ここで鶴蔵は、キリスト教に触れ、明治
二十三(1890)年から約一年、東京に出てキリスト教を学び、明治二十四(1891)年には、再び荒川銅
─ 70 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
山に戻ってキリスト教の伝道をはじめ、次第に労働運動の指導者として成長していくのである。この時、
鶴蔵は、「労働余暇会」なるものを荒川銅山に組織し、キリスト教の伝道に努めたが、当時の荒川銅山
の経営者は、キリスト教を嫌い、この「労働余暇会」をやめさせたのである。その後、鶴蔵は、荒川銅
山を去り、再び院内銀山に戻り、労働組合の指導者となり、三日間の「ストライキ」を決行し、要求の
七割を鉱山側に認めさせることに成功した。明治二十五(1892)年十二月、秋田県は、「鉱夫税」を県
議会に提出し、可決された。が、この「鉱夫税」に鶴蔵は、反対運動をおこし、
「日本鉱山同盟会」を組
織し、明治二十六(1893)年十二月、この「鉱夫税」は、県議会において廃案となったのである。こう
して鶴蔵の指導した「鉱夫税撤廃闘争」は、勝利するのである。この鶴蔵の活躍は、
『おりん口伝』の
正編の第二章でも紹介されている。
その後、明治三十(1897)年に鶴蔵は、同志らと北海道の夕張炭鉱にゆき、労働運動に邁進しようと
決心する。そして明治三十五(1902)年五月、
「大日本労働至誠会」を結成するのである。この会は、片
山潜の社会主義の強い影響を受け、次第に社会主義的傾向を強めていくのである。
この永岡鶴蔵と片山潜が、お互いに相まみえたのは、明治三十六(1903)年十一月の夕張である。そ
してこの片山の来道を機に「大日本労働至誠会」は、鮮明に社会主義を標榜するに至ったのである。そ
して鶴蔵は、片山と話してから一ヶ月後の十二月「一身一家を犠牲にするも顧みず」夕張を立って片山
のいる東京に発ったのである。この鶴蔵の行動は、
『おりん口伝』の正編では、第四章で紹介されている。
鶴蔵は、その後、足尾銅山に足を踏み入れ、明治三十七(1904)年四月に「日本労働同志会」を結成
する。この「日本労働同志会」は、会員数を一千四百を数えたが、その妨害活動も活発になっていった。
日露戦争が始まり、その戦争に勝利すると、日本は国家的地位も向上し、独占資本主義の道を辿り、労
働者や労働運動に対する抑圧が強くなり、次第に「日本労働同志会」は、衰退していった。そこで鶴蔵
は、南助松の協力を得て明治三十九(1906)年十二月、「大日本労働至誠会足尾支部」を結成する。
明治四十(1907)年二月、足尾銅山で「暴動」がおき、鶴蔵らが検挙されると、一層、「暴動」は大
きくなり、検挙者は、四百六十人にも及んだ。この「暴動」の事件は、全国の鉱山労働者をはじめとす
る日本の労働者に対して大きな刺激と勇気を与え、各地で社会主義運動が浸透していった。
明治四十一(1908)年二月、鶴蔵は一年ぶりに娑婆に出て片山を訪ねた。片山は、その鶴蔵に全国の
坑夫を結集した労働組合の結成を勧めた。
が、鶴蔵は、足尾事件で無罪が決定すると、東京浅草で風船売りをはじめ、露天商を営み、明治四十
三(1910)年、玩具工場を経営し、明治四十四(1911)年には、露天商の問屋をなす。この明治四十四
年は、「大逆事件」を契機に社会主義者の弾圧が厳しく、片山も市電「ストライキ」を指導した罪で入
獄となる。鶴蔵は、大正元(1912)年、「貨幣偽造行使」の疑で起訴され、翌大正二(1913)年千葉の監
獄に収監され、大正三(1914)年二月、千葉監獄で死去する。五十一歳であった。
『おりん口伝』(正・続)は、このように明治三十三(1900)年から明治四十五(1912)年にかけての
十二年間にわたる労働運動の歴史を背景にしている。そしておりんは、この小説では、明治三十三年に
二十二歳で千治郎に嫁ぐ設定になっており、おりんの嫁ぐ様子を語るところからこの小説は始まってい
るが、おりんの生まれた明治十一(1878)年には、院内銀山で鉱夫らの暴動が起きている。その院内銀
山に明治十九(1886)年、永岡鶴蔵は坑夫として働いており、翌(1887)年には、荒川鉱山へ移り、明
治二十四(1891)年には、そこで「労働余暇会」を結成し、その後、「日本鉱山同盟会」を結成し、やが
て秋田県の鉱山の「坑夫税」の反対運動の指導者となる。おりんは、こうした鉱山の労働運動が秋田で
おこなわれている同時代に生きている上淀川の地主の娘として登場してくるのである。
この小説では、荒川鉱山においてもこうした労働運動を背景に片山を師匠とする永岡鶴蔵の意志を受
─ 71 ─
け継ぎ、藤田や桜井らによって「大日本労働至誠会荒川支部」が結成された設定になっており、その結
成に大きな力となったのが、千治郎の<虐殺>に対する鉱夫らの強い<怒り>であった。
主人公のおりんも苦しい生活のなかで千治郎の<虐殺>を通して次第に階級意識に目覚め、鉱山の労
働運動に参加し、社会主義へ傾倒していくのであった。
作者は、この小説で自分自身の母をモデルに<プロレタリア>の精神をもって苦しい生活のなかでも
力強くたくましく生きる一人の女性として、子の母として主人公のおりんを愛情を込めて描いているの
である。
─ 72 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
第三章 東京芸術座『おりん口伝』(正・続)のドラマ化作品の比較
村山知義(1901−1977)を中心とした東京芸術座は、昭和三十四(1959)年以来、正統なリアリズム
演劇の創造と普及に努め、現在に至っている。築地小劇場の舞台美術家として演劇界にデビューした村
山知義は、その後、心座、前衛座、左翼劇場を通して左翼演劇のプロパガンダとして活躍し、社会主義
リアリズムとプロレタリア演劇運動を提唱し、実践していく。その演劇理論は、昭和五(1930)年五月、
天人社より「新芸術論システム」の一冊として刊行された『日本プロレタリア演劇論』によく描かれて
いる。
先ず村山は、この演劇論のなかで戯曲を「プロレタリア・リアリズム的」に上演しなければならぬと
説く。そしてその「プロレタリア・リアリズム」とは、
「階級的客観的なリアリズム」であるという(27)。
次に日本のプロレタリア演劇運動の特徴を次のように要約する(28)。
1 極端な経済的窮乏。
2 職業的劇団の皆無。
3 劇場を有する劇団の皆無。
4 専門的(況んや職業的)演劇当事者僅少(或ひは皆無)。
5 非常に重い政治的壓迫。
6 労働者、農民自身の行ふ演劇の皆無(一時的の例外はあるにしても)。
このなかで村山は、2の理由として「我々の提供するプロレタリア演劇が<面白くない>といふこと」
をあげ、5の例として厳しい「脚本の検閲」をあげている。
また村山は、上演する戯曲が、内容の面から「正しくプロレタリアの問題を掴み」、その「仕事の発
達と勝利に助力する」ことの出来るものでなけらばならないとする(29)。そして村山は、プロレタリア
演劇運動では、「現実的で闘争的で、面白くて、大衆的な戯曲」を要求するという。ここで村山は、地
域的に限定される観客となるプロレタリア(無産者)にとって「最も切実な問題」を取り上げ、「簡単
明瞭」で且つ「面白いもの」を必要としているのである。
また村山は、そのプロレタリア戯曲の演出形式は、その戯曲を「最も力強く、最も印象的に、最も魅
力的に、しかも当の観衆に適して表現」するものでなければならないという(30)。このように村山の演
劇論では、その中心に「観衆」の問題が据えられている。
プロレタリア演劇の「観衆」は、プロレタリアの階級の人々であり、その演劇は、それを見る「観衆」に
とって「闘争の武器」ともなるものであり、
「解放戦線の一翼」を担うものであることが望ましいという。
さらに村山は、この演劇論のなかで『西部戦線異状なし』(レマルク作)の脚色者並びに演出者とし
て「現実の戦争の持つ惨禍」を描くため「可能な限りの能力と機構を駆使」するつもりであることを述
べている。
また『太陽のない街』(徳永直作)の演出者として村山は、この原作の小説を「画期的なプロレタリ
ア小説」であると述べ、その「演出者覚え書」でその種々の上演の意義を語り、『太陽のない街』の最
もすぐれている点がその「現実性」にあり、それを舞台の上に再現することを目指し、その一助として
開幕前に「共同印刷の争議」を幻灯にして写し出したことを記している。
以下、村山のこうした演劇論で語られているプロレタリア演劇の演出者としての立場から彼が、プロ
レタリア小説として評価が高い『おりん口伝』(正・続)をどのように演出したか、その上演台本の分
─ 73 ─
析を通して明らかにしていきたい。
『おりん口伝』の正編が、昭和四十一(1966)年の『文化評論』の一月号と二月号に分かれて掲載さ
れ、その続編は、昭和四十二(1967)年一月から十二月まで『民主文学』に連載された。
東京芸術座が、村山知義の演出でこの『おりん口伝』の正編を上演するのは、その続編の連載のおわ
った年の翌(1968)年の五月である。この上演台本は、大垣肇の脚色で、全体が四幕八場で構成されて
いる(31)。
第一幕第一場は、明治三十四(1901)年、秋に設定さており、舞台は、東畑の家である。この日は、
おりんを迎える日のため、この家の女衆は大忙しである。家の裏口からは、子どもたちの「嫁コ来た、
嫁コ来た、東畑の家(え)さ」という囃し声が聞えている。そこに女衆らが登場してくる。千治郎の実
母のヨネ、その実姉のウメ、ヨネの長女のソノ、東治の娘であるサヨ、それに手伝いで来ている寡婦の
小太家のばばやもんじ長屋のおきちの他、二、三人である。
舞台では、ソノやウメらの女衆たちが、おりんの嫁入りの様子を語り、そのおりんの生立ちなどを語
っている。そこへ仲人の馬トロ引きの多吉が、飛んで来る。その多吉に小太家(こたえ)のばばは、お
りんの家にどういう風に結婚話をもっていったかをたずね、多吉は多弁をふるい、その経緯を語る。そ
こへ多吉のかかァに連れられておりんが、花嫁衣装を身に着け、入って来るのである。
ヨネは、正装して二階から降りて来て千治郎と吾作を除く家族一同をおりんに引き合わす。そしてヨ
ネは、東畑の家風を語り出し、熱っぽくうるんだ眼で情を込めておりんを見つめ、「こんなめんこいひ
と来てくれて、もう、は、なんも云えねぐれぇ嬉しいス……おりんさ、わだすの気持、よーく分って下
(た)いや。
」と語る。
おりんは、このヨネの言葉に感動してかすかにうなずく。そのあと、ウメ、その婿の権吉、ソノ、そ
の婿の太一らがそれぞれ名乗り、ヨネは、吾作と親分子分の間柄にある身内同然の東治とその娘のサヨ
を紹介する。一同、二階へ散ったあと、裏口から古参土方の宗方を先頭に通称「佐渡おけさ」「札幌」
「皿回し」らが、ドヤドヤやって来て、ツルハシやシャベルなどの道具を片付け、順番に足を洗い、お
りんのうわさなど話している。
ヨネは、表戸口へ行き、おりんに鉱山の夕景色を指さしていろいろ説明する。そのヨネの語る鉱山の
様子をおりんは、ただ驚いて聞いている。そこへ佐野巡視とそれにまとわりついて来る白髪頭の老婆が
登場する。老婆は、佐野巡視に供給方に口きいて「二合でも一合でも」米を貰えるよう頼んで土間に座
りこんでしまう。佐野巡視は、この老婆を引きずって外へ出し、おりんに「また来るで。めんこい嫁コ、
今夜はたっぷり可愛がってもらうだな。あっ?ハハハハハ。」と笑い、出て行く。
紋付姿であらわた千治郎は、老婆と佐野巡視のやりとりを見ていて、「米コの五合やそこら、貸して
やってたらええに。」と母親のヨネに声をかけるが、ヨネは、「三菱さまに逆らっちゃ生きられねぇ。」
と千治郎に云い、おりんにも「よーく覚えておくだぞ。」と念を押す。千治郎は、黙って二階へあがり、
ヨネも大勢客衆が来たので、賑やかに応酬しつつ二階へあがる。
舞台は、溶暗となり、立ちつくすおりんにスポットがあたり、おりんは、「ああ、この家、……ンだ
ども、あのひとは、……千治郎さは、お母のように痘痕(じゃんか)あったべか?あってもええ、もし
千治郎さがあのお姑(が)さのように熱っぽい目つきしてるだら……そしてお母さのように情こめて一
生おらさ向ってくれるひとだったら……!」という「心の声」をひとり語り、溶明となる。多吉のおっ
かァがおりんの手を取り、おりんが歩み出す。そこへ「ハッパの轟音」がして溶暗となり、次のおりん
のナレーションが続く。
─ 74 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
それからふた月もたたぬ間(ま)に、この鉱山はすっかり雪っコにつつまれてしまったス。そのふ
た月の間にわだスが覚えたことといっだら、家族の人だちの顔と名前、土方衆を入れて四十余人の朝
餉夕餉や弁当つくりと拭き掃除のやり方ぐれえのものであんす。それも家の者の茶碗も若衆の茶碗も、
みんなごちゃくちゃと一つ碗かごさ盛り上げたりしてソノさにご性焼(しや)かれるのも毎々であん
した。そうしてあの夜の出来事が起こり、続いて思いもスなかった辛い事が、まるで雪崩のようにわ
たスら夫婦の上に、いえ、東畑一家の上にふりかかって来たであんした……。
第一幕第一場は、このおりんのナレーションでおわる。この第一場の場面は、原作の『おりん口伝』
の第一章を中心にまとめられている。おりんが嫁入りした「想い」が、「心の声」として独白的に舞台
で語られ、場面のつなぎにおりんのナレーションが挿入される。ここでは、おりんを迎え入れるヨネを
はじめとした東畑の家の家族の面々や、古参の宗方を代表とする土方たち、三菱さまを代表する鉱山事
務所側の佐野巡視や、その巡視に引きずられて外に出させられる老婆などが登場し、このあとの場面で
登場する人物たちが観客に紹介されている。特にこの場面で手伝いの寡婦として登場する小太家のばば
は、原作の『おりん口伝』の第一章には登場せず、その第二章ではじめてあらわれる。このばばは、
「モンジャ長屋でも最古老」の「鬼ばば」と言われ、第九章では、千治郎の<虐殺>を目撃した重要な
人物となるばばである。
第一幕第二場は、前場と同じ東畑の家で、時代設定は、明治三十四年の冬である。舞台に設定され
ている日は、勘定日の宵である。舞台の上手には、太一を中心にバクチ好きの土方たちが集まり、中央
には、権吉らが酒を飲んで車座になり、下手には、千治郎と宗方が、職工の藤田から借りた新聞を読ん
でいる。おりんは、その千治郎の横で縫物をしている。
上手で土方たちがバクチをする中、下手では、宗方と千治郎が藤田職工から聞いたという鉱毒事件に
ついて話している。それをおりんは、目を丸くして聞いていると、ヨネが奥で「ガス来たぞう……窓コ、
しめれや!おりん」の声がしておりんが窓を締めに飛び出す。バクチはひとかた済んで太一は、酒仲間
にわりこむ。そこへおりんが真蒼になって戻って来る。その後ろからソノとウメが登場。ソノはおりん
が真っ先に窓のない若衆部屋へ駆け込んだと言って笑うと、宗方がおりんに「逃亡ふせぎ」のために窓
がないことを教える。太一は、酔うにつけおりんの臀を蛇のような目つきで眺めている。それに気づい
たソノは、
「おりんさにでもついでもらえ!」と金切声をあげる。太一がソノに「なにい!」というと権
吉が意見し、太一が血相を変え、火箸を握る。千治郎がとめに入り、火箸をとりあげるが、太一は権吉
に飛びかかり、殴り合いになる。泣き伏すソノ。そこへヨネがあらわれ、吾作が登場し、一喝して部屋
へ引っ込む。
やがてソノと太一は二階へあがる。ヨネは、そのあと宗方に千治郎にへんな智恵をつけて、藤田職工
や桜井らとなにか謀反を企んでいるんではないかと聞く。が、宗方は、「何も心配はねえ」と言って外
へ出て行く。ヨネが去ったあとおりんは、千治郎に若衆部屋で匕首を見たことを告げるが、それが宗方
のだと千治郎に言われ、安心する。またおりんは、千治郎に「友子」の制度について質問する。千治郎
は、おりんに「友子」というのは、「頼り身寄りのない鉱夫(かねほり)がカタワになったり、年寄って
ヨロケて働けなくなった時は、奉賀帳授け全国どこの鉱山でも一食一飯や、わらじ銭出して助け合う」
仕組みだと説明する。
おりんは、熱心に千治郎の話を聞いていると、剣舞が飛びこんで来て皿廻しが酔いつぶれて夜廻りで
きないから、夜廻り番を代わってくれと言われ、千治郎が夜回りに出かける。おりんが縫物をしている
と、影のように小太家のばばがあらわれ、おりんに選鉱場で働くように勧める。ばばの出て行ったあと、
─ 75 ─
溶暗。真夜中。囲炉裏の残り火がボーッと明るい。(溶明)おりんが炉ばたに布団を敷いて寝ている。
そこへ太一が二階から降りて来て、おりんの寝床に近寄り、いきなりおりんにのしかかる。おりんは、
思いっきり太一の指にかみつく。そこへ「土方逃げた!」の叫び声がし、太一が奥へ走り去ろうとした
とき、白刃がひらめき、太一が匕首で刺される。突如、けたたましい半鐘の音。この一件はヨネの胸三
寸に収めることになる。千治郎が戻って来ておりんはほっとする。千治郎は、太一のしたことを知り、
「もう二度と…おめに仕掛けて見れ!息の根とめてやるだからっ。」とおりんに言うが、ソノがよけいに
カッカするからあまり騒ぐなと忠告する。それから千治郎は、上荒川の岩谷仁衛門が藤田職工に言付け
て寄越した手紙をおりんに見せる。また千治郎は、おりんに永岡鶴蔵のことや、田中正造のことを語る。
おりんは、この時、千治郎に鉱山で働きたいという気持ちを伝える。千治郎は、おりんの真意を知り、
鉱山で働けるようにすると約束し、おりんは安心する。そして千治郎におりんは、岩谷の手紙を焼くよ
うに言い、千治郎は、その手紙を炉の火にくべる。二人はそれを見つめ、おりんの「岩谷さの、モミガ
ラいつ届くすべな?おら、鉱山さ働くまえに枕だけでも縫い上げておけたらと思うどもなんし。」とい
うセリフを言って幕となる。
この第一幕第二場は、主に『おりん口伝』の第二章と第三章から題材がとられ、まとめられている。
ここでは、冒頭で太一を中心とするバクチ好きの土方のグールと新聞を読んで「鉱毒」問題を論じてい
る宗方と千治郎のグループが、上手と下手に置かれ、対照的に描かれている。おりんは、千治郎の横に
おり、千治郎と宗方の話を目を丸くして聞いており、この時点でおりんは、まだ階級意識に目覚めてい
ない。おりんは、千治郎から、鉱山の「友子」の仕組みのこと、若衆部屋の匕首のこと、鉱毒の賠償問
題のこと、永岡鶴蔵の「労働余暇会」や「鉱夫協会」のこと、秋田県の「鉱夫税撤廃」運動のことなど
を聞く。特におりんは、永岡鶴蔵のことを謀反人と思うが、千治郎は、おりんに鶴蔵を社会主義の人物
と呼ぶ。千治郎は、この鉱山で鶴蔵のあとを継ごうとしている藤田を通してこの社会主義に傾倒し、お
りんは、夫の千治郎を通してこの社会主義に次第に触れてゆくのである。そしておりんは、夫から田中
正造や幸徳秋水らの名を聞かされ、藤田らもその社会主義に傾倒していることを察する。
ヨネは、宗方、藤田、桜井らが千治郎を引き込んで何か三菱さまに謀反を企んでいるのではないかと、
疑っている。ヨネは、三菱さまに逆らっては、この鉱山では生きていかれないと思っているのである。
またこの場では、太一が、千治郎の留守に寝ているおりんにいきなりのしかかる場面があるが、これ
を知った千治郎は、先ずおりんが本当に大丈夫であったか確かめ、安心し、二度と太一がおりんに同じ
ことをしかけたら、「息の根とめてやる」と言うが、原作の小説『おりん口伝』の第四章では、千治郎
はおりんから太一に暴行を受けたことを聞き流し、同じような暴行を若い頃受けたときの母ヨネのした
命がけの抵抗と似ていると言って笑い飛ばす。おりんは、このあと太一のいるこの飯場にはいられない
と心のなかで思う。そして小太家のばばに忠告されたように選鉱場で働きたいと、千治郎に相談し、働
くことになる。
第二幕第一場は、明治三十五年二月に設定されている。幕があくと、舞台はまっくらで南部からめ節
のメロディが低く流れる中でおりんのナレーションが始まる。そこでおりんは、選鉱場で働けるように
なり、古参の岩谷ためよという上淀川の岩谷仁衛門の従兄妹について働いていることを語る。スポット
が仕事着姿のおりんとためよにあたり、ふたりは話しながら、ハンマをふりおろす。溶暗。以下の南部
からめ節の合唱が聞える。
からめ からめと
おやじ かかァせめる
─ 76 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
なんぼ からんでも
からみたてァ ならぬ
これで 三菱ァ
いつ 賃金(ぜんコ)上げる
あごコ 乾上る
からみたてァ ならぬ
舞台溶明。第二幕第一場は、藤田の家である。岩谷仁衛門を中心に車座で藤田、桜井、宗方、千治郎
らが進藤家の立ち退き問題のことなどを語りあっている。外は吹雪の音。そこへおりんが千治郎に進藤
の家族が佐野巡視らにつれていかれたことを伝えに来る。藤田は、千治郎に永岡鶴蔵の師匠にあたる片
山の論文の写しを見せる。千治郎は、その社会主義の論文に感銘する。藤田の女房は、千治郎におりん
が「おめだた」で「ややこ生まれる」ことを伝え、千治郎が喜ぶ。
第二幕第二場は、鉱山事務所の庶務係の室が舞台になっている。前場の翌日の昼、千治郎は鉱山事務
所に呼び出される。そこでは、流暢な標準語を使う「マムシ」と綽名される庶務主任の沖と佐野巡視が、
岩谷、藤田、桜井、千治郎らのことをいろいろ話している。千治郎があらわれると、沖が千治郎を詰問
し、佐野巡視が藤田や岩谷のことで千治郎に暴行を加える。千治郎は、床に伏し、失神したようになる。
そこへ岩谷が、「鉱毒賠償」の件で来るが、巡視らに突き出される。そして岩谷の「何百たびでも来る
ぞ」の言葉で幕となる。
この第二幕第一場と第二場は、小説『おりん口伝』の第三章と第四章が題材にされている。この二つ
の場面では、「鉱毒賠償」の件で闘っている岩谷仁衛門をはじめ、永岡鶴蔵のあとを受け継ぐ藤田、桜
井、鶴蔵の師匠である片山の論文に感銘する千治郎らの社会主義に傾倒するプロレタリアのグループと、
その社会主義の芽を非人間的な暴力や権力によって叩きつぶそうとする資本家を代表する鉱山事務所の
グループが、図式的に対比され、描かれている。
第三幕は、明治三十七年夏に設定されている。暗中に「天に代りて不義を伐つ」の軍歌が流れ、「万
歳!」「万歳!」の叫び声がひとしきり続く。その底から次のような南部からめ節の替え歌がはじめか
すかに、次第に強く流れてくる。
銅(あかがね)あっても
火筒でござれと
お前達(めだ) きいたか
からみたてァならぬ。
盆の十三日
三菱さまよ
おらさなんぼ呉(け)る
もらいたてァならぬ。
やがておりんのナレーションが始まる。そこでは、二年たってロシアとの戦争が始まり、毎日のよう
に若い鉱夫らが戦地に送られてゆく状況が語られる。またおりんにはじめて「千太」という男子(わらし)
─ 77 ─
が生まれ、昼はおりんが稼ぎに行く間、サヨがその子の面倒を見てくれるが、今日は、サヨの父親の東
治が具合が悪く、サヨの手が離せないので、おりんが仕事を休み、二階で千太の面倒を見て過ごしてい
ることが語られ、舞台が明るくなる。
第三幕第一場の舞台は、東畑の家で、時間は、昼である。そこで太一が角飯台で昼食を食べている。
まわりには、病気やケガで欠勤している者たちが、二、三人いる。ヨネは、炉ばたで食後の一服を楽し
みながら、多吉のムダ口の相手をしている。台所では、ウメとソノがあと片付けをしている。昼のポー
が鳴る。
多吉は、ヨネに戦争で鉱山も景気が出たと言い、藤田職工と千治郎が付き合っていることを告げて去
る。おりんは、二階から降りてくる。ヨネから若衆が逃亡したことを知らされる。そこへ吾作があらわ
れ、太一と権吉に逃亡者のあとを追うように命じ、千治郎には、そのことを派出所に届けて来いと言い、
奥へ消え、千治郎も出て行く。ソノは、おりんに千太が盗みっ気があるので、よく教育しておけと言っ
て出て行く。
おりんは、土方たちの食器を洗う。土方たちは、鉱山事務所のやつらが土方らを人間と思っていない
と吐き捨てるように言って部屋に戻って行く。
ヨネはおりんに千治郎の実の父親である千蔵のことを語り、それまでの経緯を話した。おりんは、そ
の話に感動する。
外で走る人々の声がし、太一らが逃亡した土工を荒縄で縛って連れて来て、納屋へ引きずりこむ。納
屋のなかから悲鳴や罵声が聞える。吾作は太一に戦争中の逃亡者は「ぶっ殺せ」のお達しが三菱さまか
らあったと言い、「やれ!」と合図する。納屋から悲鳴、絶叫が続く。ヨネは、「南無妙法連華経」を唱
える。表では、
「万歳!」の叫喚。
第三幕第二場は、鉱山事務所の前が舞台設定になっている。岩谷らが鉱毒の談判で事務所に来ている。
佐野が、岩谷らを事務所の入口から押し出す。そこへ藤田らが押しかける。田所が機械のベルトで腕巻
き取られたことを告げる。群集は、田所のケガを「公傷は公傷だ」と口々に言う。田所の老母は、「一
生のカタワ、なんとしてけるスよう」と言いながら、担架にのせられた息子について歩きながら、下手
に消える。佐野と桜井らがもみ合う中、庶務主任の沖らが姿をあらわす。藤田と岩谷が同時に立ちはだ
かる。沖が、「トロを出すんだ!」というと、千治郎が人垣を破って躍り出て「トロやるな!」と叫ぶ。
その後ろから太一やヨネが飛び出して千治郎をねじ伏せようとする。
群集の波が大きくゆらいで、たちまち、はげしい「石打ち」の雨となる。「ばりん!」「ばりん!」と
事務所の窓ガラスの割れる響きの中、藤田が「公傷だと云って下(た)い!」と絶叫する。トロが発車
し、藤田らあとを追う。群集が波立つ中おりんが走ってヨネをつきのける。千治郎が太一に抑えられな
がら、「藤田さあ!」と叫ぶ。裏で「藤田くくられたぞう」の叫び声がする。太一は、裏手を見て「非
国民!」と叫ぶ。裏手で「百姓達ァつかまったぞう」の叫び声を聞きながら、ヨネの意見に耳を貸さず、
千治郎は、「百姓と馬肉(なんこ)貝焼きとは一つだといった岩谷仁衛門さ心……土方とて同じだだ、
同じ……」と呟く。そこで急速に幕となる。
この第三幕第一場と第二場は、小説『おりん口伝』の第四章と第五章が題材にされているが、次の場
面は、小説と異なるところである。
それは、第三幕第一場で土方が逃亡し、その土方が捕らえられ、納屋へ引きずり込まれ、見せしめの
ため、吾作の命令で太一らによってヤキを入れられ、悲鳴や絶叫が納屋のなかから聞えてくる場面であ
る。そこでは、「三菱様から」の「お達し」として「トーボーはぶっ殺せ」というセリフが吾作によっ
て語られる。この場面は、納屋のなかでおこなわれ、実際の舞台では、観客にヤキを入れている場面を
─ 78 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
見せないが、その悲鳴や絶叫を通して権力者によって命じられたその暴行の非人間的行為の残忍さは、
観客の胸深くに伝わる。そして軍歌や「万歳!」の叫喚が観客の耳に聞こえてくるのである。
小説『おりん口伝』の第四章では、土方が一人この飯場から消え、逃亡したことがわかると、太一が
逃亡土工の届出を巡査派出所へかけだし、権吉が門鑑番の巡視へ知らせ、千治郎は、佐野の社宅へやら
される。が、千治郎は、佐野の社宅には、行かず、行ったふりだけしてすぐ、戻ってくるのだった。そ
のため逃亡人は逃げられ、おりんは胸をなでおろすのである。が、その後も逃亡事件はたびかさなり、
新規の鉱夫を募集するのである。
この変更された場面は、続く第三幕第二場の田所の「公傷」をめぐる群集の「石打ち」の場面と共に
プロレタリア演劇としての『おりん口伝』の見せ場となる場面である。この場面の演出に村山知義は力
を入れ、権力者の非人間的な行為とプロレタリアの団結による群集の真の姿を描いているのである。
第四幕第一場は、明治三十八年秋に設定されている。先ずおりんのナレーションから始まる。第三幕
第二場でおこった事件で岩谷は、大曲警察に連行され、投獄され、藤田は、鉱山事務所で巡視らによっ
て半殺しの目にあったが、いずれもほどなく釈放された。ロシアとの戦争もおわり、鉱山中が「万歳!」
と提灯行列で祝い狂っているが、岩谷のおっかァのひとり息子はとうとう帰ってこなかった。戦争がお
わり、不景気になると、三菱は鉱夫らの首を切り、東畑家の若衆も一人去り、二人去りして、見るまに
みんなやめていった。おりんは、「ひろ」というふたり目の子を生み、二人の子の母となった。おりん
は、「早く稼ぎに出ねばと思い出した矢先に……」と声を乱して「あっ!あの怖ろしいこと起こったス
で。……」と語る。
第四幕第一場は、東畑の家である。舞台は夜。炉ばたにあぐらをかいている吾作。そのわきにヨネ、
千治郎、ウメ。向い合う土方たち。そのなかに宗方らの顔が見える。少し離れておりんが赤子の枕元で
せっせと縫い物をしている。サヨは、土間で亡父と同じ格好で雪沓を編んでいる。
吾作は、土方たちに東畑飯場を解散することを告げる。それを聞いて土方たちの怒りが声になってわ
きおこる。宗方が、吾作に声をかけ、文句を言う。土方たちは、口々に罵言を吐きながら部屋に引き戻
る。ヨネは奥に引っ込み、ウメもしたがう。やがてヨネのお経を唱える声が聞える。宗方は、千治郎に
も文句を言って去る。おりんは、千治郎と話合い、夫が鉱夫の組合を作りたかったことを知る。二人は、
ヨネに鉱山を離れないことを誓う。サヨはおりんに自分の身の振り方を相談し、千治郎が選鉱で働ける
ように主任に頼んでみるとサヨに約束する。そこへ桜井が来て藤田から頼まれた二通の手紙を千治郎に
渡す。一通は、足尾の永岡鶴蔵宛、もう一通は、仁衛門宛である。桜井が去ったあと千治郎は、おりん
に「この三菱の鉱山(やま)に永岡鶴蔵や片山潜の血イひく鉱夫組合つくるまでは、おら達(だ)、石
さかじりついてでも……。な!」と語り、おりんも答える。そこへ表戸の外で「電報!」の声に二人は、
ぎょっとして顔を見合わせる。溶暗。溶明。舞台は翌朝の昼。ポーが鳴っている。おりんは、カラフト
へゆくウメや土方を見送る。宗方は、吾作の前にいきなり匕首を突き刺し、「こうなったら差し違えと
いこうじゃねえか」と吾作に迫る。吾作は、「おれも男だ。さァ宗方、勝手にせえ。」と開き直り、宗方
がうすべりの匕首を抜き取って振り上げる。おりんは、必死になって宗方をとめ、匕首をうばって小部
屋の窓から川へ投げこむ。そこへヨネがためこんだ金の入った袱紗を盗まれた、と言って半狂乱になっ
て出てくる。宗方はそんなヨネに盗んだ犯人は、太一だと告げる。そして出て行く。吾作とヨネは、無
言で二階へ行く。サヨとおりんが二人で話していると、ガラッと裏戸があいてためよが「大変だす!千
治郎が今……」と言って飛び込んで来る。おりんは、千治郎の<死>を棒立ちになり、聞く。二階から
ヨネが降りて来てサヨから千治郎の<死>を聞き、茫然となり、狂ったように戸口へ走る。そこへ千治
郎の死体が運ばれて来る。おりんもヨネも見るなり、死体にすがって号泣する。おりんは、夫が検死の
─ 79 ─
結果、心臓マヒで急死したと告げられ、佐野巡視に夫が「ぶっ殺された!」と叫ぶ。佐野は、逃げるよ
うに去る。溶暗。そこで「千治郎さの四十九日、すまねえうちに、おら鉱山クビになっただ。岩谷のお
っかァもおきちさも一緒によ。言い渡したのは庶務主任の、あのマムシであんした。(中略)おら、ク
ビだけはこらえてくれ、子どもらかかえて何処さも行くあてねえスから、と、口惜し涙たらしながら頼
んだス。ンだども、ンだども……とうとうダメであんした。そうして又、ふた月たって―」というおり
んのナレーションが入る。
第四幕第一場は、小説『おりん口伝』の第六章と第七章から題材がとられている。この前半では、吾
作が東畑の飯場を解散すると残っている土方たちに宣告し、宗方と吾作の間で刃物沙汰の騒動がおこり、
おりんがこれを必死でとめる。後半では、岩谷のおっかァ(ためよ)が東畑の家に飛び込んで来ており
んやヨネたちに千治郎の<死>を伝え、その死体の前でおりんとヨネが号泣し、おりんが夫の<死>に
疑いを持ち、佐野に夫は「ぶっ殺された!」と叫び、佐野が逃げるように去る。この二つの場面が、こ
の第四幕第一場では、演出的に重要な見せ場になっている。
小説『おりん口伝』の第六章では、宗方と吾作の間の刃物沙汰の場面があるが、その時、宗方の手を
おさえ、匕首をもぎ取り、川へ面した小窓から匕首を投げ捨てるのは、おりんではなく、千治郎である。
このドラマ化された作品で匕首をもぎ取った人物を千治郎からおりんに変更したのは、このすぐ後半
の場面で千治郎が死体となり、舞台に登場するからである。前半でおんなながらに勇ましい立ちまわり
を見せる主人公おりんの活躍を観客に見せ、後半で一転し、夫に死なれた悲劇の主人公のおりんを見せ
るという劇的な構成になっているのである。
このドラマツルギー(作劇法)は、アリストテレスの『詩学』にも見られる「発見」(アナグノーリ
シス)と「逆転」(ぺリぺティア)というものである(32)。リアリズムを探究するドラマは、現実の日常
生活から題材がとられ、それを凝縮的に劇的に再現するのである。そのドラマの構造は、主人公が願望
を持てば、持つほど願望から遠ざかるというものである。そして主人公の悲劇は、この「発見」と「逆
転」によって劇的なものになるのである。この「劇的」ということばは、その「劇」という漢字にみら
れるように虎と猪が牙をつきあわせて闘っている<状況>を示すものである。つまりAとBの二つの力
の対立から劇的なるドラマが生まれるのである。その劇的なるドラマの頂点は、Aが勝ってBが下降線
をたどるその瞬間である。そこに「カタルシス」(浄化)という<価値の転換>がうまれるのである。
プロレタリア演劇の場合、そのドラマには、ブルジョアジー(有産階級)とプロレタリアアート(無産
階級)という二つの階級的に対立する力があり、その「階級闘争」を凝縮的に劇的に再現したものがプ
ロレタリア演劇なのである。
プロレタリア小説である『おりん口伝』をドラマ化した東京芸術座のこの作品は、その意味で村山知
義の演出によってプロレタリアの観客に提供された典型的なプロレタリア演劇である。
第四幕第二場は、主に小説『おりん口伝』の第八章と第九章から題材が取られている。時代設定は、
明治四十年二月。舞台は、東畑の家である。この家は、造作変えの最中で、土工部屋はぶちぬかれ、間
口三間の店構えになり、文房具や菓子、ローソクなどの商品類が無造作に積み上げられ、近日、開店の
風情である。部屋の炉辺では、東畑夫婦と太一夫婦がいる。外は吹雪いている。
千治郎の四十九日から太一夫婦は、別子銅山から帰って来てかれこれ五十日あまりになる。ヨネは、
太一とソノにこのまま家にいるのか、どうかを聞くと、夫婦は、このまま家においてほしいと頼む。そ
こへ多吉が来ておりんの再婚話をもってくる。相手は、菅井という六人こどもがいる四十の半ヨロケの
男であるという。ヨネは、その話に乗り気でソノも賛成する。おりんは、この話を廊下で聞いている。
ヨネは、おりんにこの話をきりだし、おりんに再婚するように勧める。そして吾作は、「明日にもこの
─ 80 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
家出て行ってもらおう。」とおりんに告げ、「千太はこの家でひきとって将来、千治郎のあとを継がせて
やる。」と言う。皆が出て行ったあとおりんは、ひとり仏壇ににじりより、灯明をあげ、拝む。そこへ
岩谷おっかァ(ためよ)が漬物を盛ったドンブリ片手に入ってきておりんに声をかける。岩谷は、おり
んから菅井の再婚話を聞き、おりんにその再婚を勧める。そこへ桜井が来ておりんの再婚話を聞き、
「おりん、嫁(え)っちゃなんねぞ!」という。岩谷は桜井を連れ去り、おりんは、ひとり涙をぬぐって
ボロつぎをはじめる。そこへニヤニヤしながら、佐野がやってきておりんを視線でなめまわし、身をの
りだすと、おりんの膝前に片手を触れ、片手を首に巻きつけようとする。おりんは、血相を変え、持っ
ていた針をいきなり佐野の手の甲に突き立てる。そして「人殺しィ!」とおりんは叫ぶ。そこへ岩谷仁
衛門がぬうっと入って来て「人殺しはどこであんすな?」とおりんにたずねる。うしろには、藤田がい
る。やがて佐野は、すきを見て一目散に逃げ去る。岩谷と藤田は、おりんに千治郎の<死>の原因を証
拠はないが、と話す。そして藤田は、おりんに以前、千治郎に見せたいと思い、ついに渡しそびれた手
紙があると、片山潜にあてた永岡鶴蔵の手紙を読みだす。おりんは、その手紙を聞き、考えこみ、藤田
と岩谷に「千治郎さの恨み晴らすス!」と言い、
「おら、もう、心きめあんしたで。」という。そこへ裏戸
口から岩谷のおっかァ(ためよ)、おきち、サヨ、片腕の田所、ソノ、小太家のばばらが駆け込んで入っ
てくる。
岩谷のおっかァは、おりんに「千治郎さ殺したやつ分かっただ!」と伝え、おきちは、「佐野が手を
くだすとこ見たひと出たぞう!」と告げる。それが、小太家のばばである。ばばは、一同に「話すだ
よ!」と促され、千治郎の殺されるてんまつを語り出す。吾作とヨネは、その話を釘ずけになって聞く。
溶暗。店構えの一部が溶明。そこに影絵のように千治郎と、トビグチ握った佐野の姿が見える。殺害の
場面が、再現される。溶暗。明るくなると、ばばが「ばたっと倒れたス……おら、この目で見たスよ」
と語る。
岩谷は、「天の配剤だなンし。」と言い、藤田は、「みんな浄勝寺さ集めて、これからどうすっか相談
ぶつだぞ。」と言う。おりんは、「皆さ。これでうちの人も……」とお礼を述べる。そしておりんは、ヨ
ネの肩を抱きしめ、「おらと一緒に浄勝寺さ行くスべな!」と言うが、ヨネはおりんの手をふりほどい
て吾作のあとを追って二階へ消える。
群集は、口々に「ちきしょ!」とどよめき、かたまる。藤田は、その中心に立って「結合こそ稼ぎ者
の匕首だスべが!」というスローガンをかかげ、おりんが進み出る。南部からめ節、はじめかすかに流
れ、おりんは、「この荒川鉱山さ、永岡鶴蔵らの血ィ引く鉱夫の組合さ生まれたのは、ひと月立って…
…明治四十年の春まだ浅い頃であんす。名をシセイカイと呼びあんした。」と語る。背後の岩谷、藤田、
桜井らの群集は、「大日本労働至誠会荒川支部!!」と声をあげ、おりんが「初代の委員には、藤田と
桜井さがなっただす。岩谷のおっかァやおきち等も、もちろんおらも、入れてもらいあんした。理屈に
合わねえクビキリ取り消させねばならねえスからなっ。そっで、それからおら達(だ)は―」と語ると、
群集全員がかたまり、次のからめ節の大合唱となり、おりんの声をつつみこみ、幕となる。
むすぶ生き綱
坑夫のき綱
き綱かたけりゃ
明日は勝つ……
これが、東京芸術座の『おりん口伝』のラスト・シーンである。小説『おりん口伝』では、おりんは
─ 81 ─
菅井豊蔵という男と結婚するが、その豊蔵も半年後には息を引き取り、豊蔵の六人の子のうち五人の男
の子は親戚に引き取られ、ひとり残った蝶子という女の子は、半年とたたないうちに、大量の血を吐い
て死んだ。そしておりんは、菅井の長屋に千太とひろと暮している。佐野は「長屋開けろ」とそのおり
んの長屋へ日参している。
菅井が死んでから百二十日目、佐野が長屋を訪ね、おりんに乱暴しようとしたとき、そこへあらわれ
るのは、岩谷のおっかァはじめ長屋の女房たちである。が、そのドラマ化された作品では、そこにあら
われるのは、岩谷仁衛門と藤田であり、場所も、菅井の長屋ではなく、東畑の家になっている。その東
畑の家でおりんは、再婚の話をヨネからされ、仏壇で拝んでいるところへ岩谷のおっかァが訪ねて来て、
その再婚話を勧めるが、小説では、おりんが再婚話のあったあと岩谷のおっかァの家へ駆け込み、そこ
で岩谷のおっかァから菅井との再婚話を勧められるのである。また小説では、菅井とおりんが結婚し、
菅井の死後、おりんが岩谷のおっかァに千太とひろを預け、ひとりではじめて岩谷仁衛門の家を訪れ、
千治郎の<死>の原因を岩谷に聞き、夫の恨みを晴らすことを決心するのである。その帰り道、岩谷の
おっかァや藤田らから夫が殺されたところを目撃した小太家のばばの証言が得られたことを知り、喜び、
桜井はじめ群衆が列を作り、浄勝寺へと動き出し、この鉱山に組合が生まれ、おりんも入会したという
記述でおわる。
ドラマ化された『おりん口伝』のラスト・シーンの大きな特色は、小太家のばばが、千治郎が殺害され
る場面を一同に語っているとき、影絵のように千治郎と佐野が舞台にあらわれ、佐野が千治郎を殺害し、
千治郎が倒れる場面を再現しているところである。
この場面を観客に見せ、舞台では、おりんをはじめ、岩谷、藤田、桜井らが「結合こそ稼ぎ者の匕首
だスべが!」をスローガンに、鉱夫たちの労働歌とも言えるからめ節を大合唱しておわるのである。
小説『おりん口伝』でもからめ節は、何度も各章でこの小説の主旋律をなすように用いられ、鉱夫ら
の気持ちは、その替え歌で表現されていたが、このドラマ化された『おりん口伝』では、小説には出て
こないスローガンを藤田に永岡鶴蔵のことばとして言わせ、からめ節を大合唱することによって鉱夫た
ちが団結したことを観客に示し、「明日は勝つ」という希望を歌に乗せ、組合が誕生したこを観客に伝
え、この演劇は、幕となるのである。
この続編である『おりん口伝』は、『おりん』と題され、村山知義の脚色・演出によってこの『おり
ん口伝』が上演された四年後の昭和四十七(1972)年十一月に東京芸術座によって第三十三回公演とし
て上演された。
この『おりん』の舞台は、「プロローグ」と「エピローグ」がつけられ、全体の構成は、三幕八場にな
っている(33)。
先ず「プロローグ」は、暗黒の中、チェロとオーボエを響かせた序曲が流れ、カラーのスライドが、現
在の荒川鉱山へのまわりの山々や、鉱山の炭鉱のあとを示す。その間から次のようなおりんのセリフ
が、<声>のみで語られる。
「ごめんをこうむって、私の生れのことからいわせて貰いあんすども、秋田市から東南へ七里、上
淀川のほとりの、百姓の娘に生まれあんした。三里離れた上流には御一新前から、藩直営の銅掘(あ
かがねほ)りの荒川鉱山がありんしたが、日清戦争のすぐ後に、三菱合資会社に買いとられやんした。
それ以来、鉱山から流れ出る毒水が急にひどくなりやんして、それに時々の大洪水で、田畑は毒水を
かぶり、稲はだんだん腐り、私はとうとう、行季一つ持って、三里先の鉱山の嫁にやられやんした。
二十二の秋のことでやんした。鉱毒の青黒い川に沿って、キントリ山越えて、とうとう鉱山(やま)
─ 82 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
の人間になりやんした。」
スライドがおわり、B. G で鉱夫たちの「鉱山節」が聞こえ出す。
鉱夫するとて親うらめるな
親は鉱夫の子は生まぬ
一にたたかれ二にしばられて
三に荒川 水替(みずかえ)に
わたしや荒川 鉱夫の女房
坑内(しき)をこわがる子は生まぬ
一歳のひろを背負っている三十歳のおりんが、スポットに照らされて浮び出て「赤禿げの山、その禿
山に突つ立つ煙突、その煙突から濛々と出る亜硫酸ガス―川の断崖にもたれかかるようにしている坑夫
小屋の端っこに、坑夫三十人をあずかる東畑組がありんした。」というセリフを語る。ここでは、
『おり
ん口伝』の正編のあらましを語る。B. G. で子供達の「ウサギトカメ」の歌が、遠くから聞える。溶暗。
この「プロローグ」のあと、第一幕第一場が始まる。明治四十年の暮れの設定である。舞台後方に上
手から下手へ、一直線の道がある。これは、崖道や坑道ともなる道である。闇黒の中。採鉱副主任が一
人ポツンと座っている。遠くでハッパの音がする。そこへ藤田が、カンテラをさげて斜坑を降りてくる。
そして歩きはじめる。暗転。暗い中に水の音高まる。藤田は、梯子を降り、水が出ている十五番坑へ降
りる途中で落下した岩にあたり、落ちる。桜井が飛び出し、藤田を抱き起こすと、頭から血を流してい
る。桜井は、気絶している藤田の身体を背中にしばりつけ、梯子をのぼり、藤田を助ける。「藤田!死
ぬでねえぞッ!」の桜井の声で舞台が溶暗となり、藤田を励ます桜井の声が、停電の中、聞え、「もう
ちょっとだ。藤田―死ぬでねーぞっ。」の声の間に第二場となる。
第二場は、荒川の病院の廊下。季節は、冬。外は吹雪である。藤田は重傷を受けたが、桜井に助けら
れ、今、外科室にいる。藤田の女房と桜井の女房が心配げに佇んでいる。激痛に耐える藤田の吠えるよ
うな呻き声が聞える。外科室の戸が開いて桜井と年上の看護婦が出てくる。藤田の女房は、桜井に「一
生忘れねえす」と感謝の言葉を述べる。巡視の佐野と飯場頭の中根とが出てくる。佐野と桜井の言い合
いのあと、佐野は、「藤田の繃帯頭見ても仕方あるめえ。さて、小太家のばばの様子でも見てくるか。」
と言い、中根と二人で出てゆく。溶暗。
暗闇の中におりんが一人、ひろを背負って舞台の上手の端に照らされ、次のセリフを語り、舞台は転
換し、おりんの姿が消えると共に第三場が始まる。
「その日の正午に、千治郎殺しの件もみんなで要求するから、必ず事務所に来いといわれ、小貫飯
場にことわって、昼前出かようとしたら、二回、三回非常汽笛が鳴りやんした。私が走って行って見
たら、嗽沢の十五番坑で水出て、藤田さん大怪我して、もう病院につれて行かれてでやんした。私も
病院に行きたかったんでやんすが、事務所にはもう黒山のように人が集まって、マムシのような目の
庶務主任をつかまえようとして、もう、やり合いが始まっていたす。いつもこういうことでは一番働
く藤田も桜井もいないので、クロパトキンという仇名の鋳物職工が頑張っていたす。」
─ 83 ─
第三場は、荒川鉱山の事務所。前場に続く時刻である。下手に玄関があり、それに続いて廊下と庶務
室。クロパトキンが、
「藤田の公傷ハッキリきめさせろ!」「鉱山長出せ!」と、叫んでいる。その時、
庶務主任の沖が出てくる。おりんが、それを見て「庶務主任が出て来たァッ!」と思わず金切り声で叫
ぶ。突然、一同氷結し、凝固し、急に暗黒となり、その中でおりんの「一年四ヶ月前に、千冶郎がトビ
グチでころされた五日後に、私はこの沖庶務主任に呼び出されて、初めてこの部屋にはいって、このお
えら方に会いやんした。」のセリフが響く。暗闇の中、テーブルに腰かけた沖の前におりんがかしこま
って立っている。この二人だけがスポットに照らし出される。沖は、一年四ヶ月前の姿で、上ッ張りを
着ている。おりんは、赤ん坊を背負っていない。ここでおりんは、沖から「お前にヒマが出たんだ。」の
通告を受ける。おりんは、必死で沖に頼むが、沖はおりんに「和田!お前まだごねる気か!」と強く言
う。おりんは、床に両手を突き、三拝九拝する。溶暗。そしておりんの「一年四ヶ月前にこうしてクビ
になってから、再び沖の顔を見たのであんす。」という声がすると、溶明。再びその直前の情景に戻る。
クロパトキンが、
「人殺しの沖主任が現れたぞッ!」と言うと、坑夫たちが沖に「お前が人殺しをいい
つけたんだ!」「佐野巡視を引きずり出せ!」と口々に叫ぶ。そこへさっきの病院を出て来た桜井が、
背後からヌッと現れる。桜井は、みんなに大声で「藤田、助かったど!」と叫ぶ。一同から喊声(かん
せい)があがる。桜井は、沖に擦り寄り、
「貴様、千治郎を殺させて、和田りんを泣かせたぞ!」と言う
と、沖の手がふるえながら、さがってゆく。うしろから「しゃべれ!おりんさ。」のおんなの叫び声で、
おりんが涙をいっぱいに垂らし、現れる。が、口はきかない。背中のひろが急に大声で泣き出すと、お
りんは、
「あの人、もどせなっかたら、おらと子供等、鉱山の長屋さ置いといてたい!」と訴える。背後
からおんな達の号泣。桜井は、
「鉱山長に用あるだ。」と、鉱山長の部屋の方へ進む。大勢の声で「ゆく
だ!」
「ゆくだ!」の連呼。そこへ四、五人の巡査が入ってくる。
桜井は、巡査部長に「早く人殺しども取っつかまえろ!」と言うと、一同、それに同調する声があが
り、一同ドット押し寄せる。巡査部長は、「暴徒集める気かッ!」と、叫ぶ中、一同、鉱山長室へなだれ
込み、中から絶叫がおこる。「鉱山長、逃げたぞ!」「追っかけろ!」の叫び声がするなかで幕となる。
『おりん』の第一幕は、このようにスピーディーな場面転換のなかで進行し、藤田の鉱山での「大怪
我」(第一場)、それに続く荒川の病院での風景(第二場)、そして荒川鉱山事務所で桜井を中心とした鉱
山労働者たちたちが鉱山長室に一同なだれ込み、絶叫するなかで第三場がおわり、幕となる。特に第三
場では、一年四ヶ月前のおりんと沖のやりとりの場が、映画的な「フラッシュ・バック」の手法で挿入さ
れ、現在の時間と過去の時間が、舞台で交差する。そして幕になる直前の群集が鉱山長室になだれ込む
場面には、鉱山労働者たちの激しい怒りや力が強く舞台にあらわれている。
第二幕第一場は、翌明治四十一年正月二十日ごろの晩の設定になっている。場所は、藤田の長屋の内
で、そこでは、藤田の退院祝いが催されている。畳をひいた部屋には、囲炉裏があり、土間を隔てて水
屋と七輪がある。畳の一隅に戸棚、古箪笥、枕がある。枕の上には、紅梅が一鉢、白梅が一鉢、花を美
しく咲かせている。頭に繃帯を巻いた藤田が畳んだ布団によりかかって安静にしている。そこには、藤
田夫婦のほかに岩谷のおっかァ、桜井夫婦、クロパトキン、おりん、そのほか数人の坑夫らや、女房ら
が集まって狭い部屋は、ゴタゴタである。その中で藤田の三人の子供たちが走りまわっている。おんな
達は、土間と水屋で「タンポ餅」をつくる準備をしている。
クロパトキンは、藤田の子供たちに五銭玉をひとつづつやると、子供たちは、「ありがとッ」と口々
に叫び、「五寸釘 五寸釘 おりん長屋の五寸釘 あの釘ぬけば根雪も消えぬ」という「五寸釘の歌」
をうたいながら、外へ飛び出してゆく。おりんは、その歌を聞いて子供らに「その歌うたうでねえ!」
─ 84 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
と言う。この歌は、桜井の「りんの胸に打ったままなる五寸釘」という発句が、もとになっていた。桜
井は、この発句で鉱山事務所の会社が、おりんを長屋から追い出し、その戸に何本も五寸釘を打ちつけ
たことを題材にし、おりんの気持ちを短い詩型で表現したのである。が、この句は、発句というよりも、
寸鉄詩ともいえる川柳の詩形を用いたもので、子供たちの歌った「五寸釘の歌」は、そうしたおりんに
代表される鉱夫長屋に住む人々の気持ちがよく表現されている。
この「五寸釘の歌」は、原作の『続 おりん口伝』では、第五章に出てくるが、そこでは、この歌を
子供たちが学校でも歌い、朝礼のたびに校長先生から子供たちが叱られる場面が挿入されている。校長
先生は、そこで子供たちの歌う「五寸釘」は、「ゴシンクギ」ではなく、「ゴスンクギ」だと、秋田弁の
方言による発音を標準語の発音に矯正する指導をしているが、作者は、その発音指導をしている校長先
生が、子供たちに「よぐ気をちける」ようにと、訛って言っていることを記している。ここには、当時
の学校教育で方言の矯正指導が、学校教育の中で実際におこなわれていたことが反映されいる。例えば、
各種中等学校の教科書に充てるため昭和六(1931)年に秋田県教育会が発行した方言を標準語の発音に
矯正指導する教科書『言語教育教科書』
(秋田県地方適用)には、方言の発音を標準語の発音に矯正指導
する具体的な用例が記述されているが(34)、作者は、こうした学校教育のなかで方言を標準語の発音に
矯正指導する教育姿勢にも鋭い目を向けている。
第二幕第一場では、このあと上司のクビをすげさせたこと、藤田の公傷が認められたことなどが語ら
れる。上司は、藤田の枕元にある紅梅と白梅の鉢に気づき、近寄って匂いをかいでいる。この梅は、坑
内(しき)のなかで咲かせた梅である。桜井は、こうした坑内で咲いた梅を題材に「梅咲けど人まだ咲
かぬ嗽沢(うがいざわ)」の発句を披露した。クロパトキンは、この句に感心する。すると、桜井は、自
分の息子が校長先生に親父の発句を聞かれ、この句を正確に言えず、「うめえ酒人まだ呑めぬ嗽沢」と
いい加減に言ったら、校長先生が、お前のお父(ど)は、
「さすが、酒呑みだな、」と言ってほめられたこ
とを話す。
桜井の子供が校長先生に紹介した「うめえ酒人まだ呑めぬ嗽沢」の句は、「梅」の季語が「うめえ酒」
に置き換えられた酒呑みの作った句になっている。これは、今日、「サラリーマン川柳」
(サラ川)と呼
ばれる日常生活のひとコマを無季の「五七五」の形式に仕立てて詠う句になっているが、桜井本人の作
った句は、「梅」の季語を入れながら、「嗽沢」に生きる地底の人々の苦しい生活に耐えている心情が表
現された現代の「プロレタリア川柳」ともいえる作品になっている。こうした作品は、川柳史では、<
川柳界の小林多喜二>といわれる鶴彬(1909−1938)が昭和十二(1937)年十一月に『川柳人』(281号)
に発表した「手と足をもいだ丸太にしてかへし」という川柳に代表される「プロレタリア川柳」という
ものである(35)。作者は、『おりん口伝』や『続 おりん口伝』のなかで桜井の発句をいくつか披露して
いるが、その句の多くは、
「プロレタリア川柳」とも共通するプロレタリアの心情が表白された作品であ
り、そこに登場する鉱山労働者の心情表白の装置として桜井の句は、効果的にこの小説のなかで用いら
れている。そして村山知義の脚色・演出の『おりん』でも桜井の句は効果的に用いられ、村山知義の東
京芸術座上演台本の題名は、この桜井の句を題材にした『坑内(しき)に咲く梅』からとられている。村
山の演出意図が、この題名からも、桜井の句からも読み取れる。
藤田の長屋に東畑のサヨがおりんを訪ねてくる。おりんは、サヨを連れて小さな物置きへゆく。そこ
だけ溶明となり、他はうす暗くなる。サヨは、おりんに東畑の姑のヨネから渡されたふみへの着物と帯
を見せる。おりんは、サヨに「ええ人、見つけてあげる」と言いながら、心のなかでは、
「だが、これま
で、私の願ったことが、一つでも願ったとおりになったことがあっただろうか?サヨちゃに希望など持
たせて、しあわせにしてやることができるだべか?」と、傍白する。村山演出では、このおりんの傍白
─ 85 ─
は、テープを使い、おりんの心の声であることを観客に伝えている。そしておりんがこの傍白を述べる
前に「スッと小屋の中のライトが薄暗くなり、おりんにだけあたる」演出がなされ、おりんの心の声の
傍白が終わると、
「もとの小屋のうちの照明にもどる」演出になっている。
やがておりんとサヨは、土間へ出る。他の人々は、タンポ餅をつくりながら、談笑している。全体の
照明がもとに戻り、サヨが去ろうとすると、そこへ血相変えて桜井が、「佐野巡視、逃亡したぞ!」と、
叫んで飛び込んでくる。藤田は、「殺人犯とうとう逃がしただか!」と口惜しがる。サヨが去ったあと、
上司の女房がおりんに雪降る夕方、白かたびらの千治郎の幽霊を見たと語る。
この千治郎の幽霊の記述は、原作の『続 おりん口伝』では、詳細に伏線をはりながら描かれている。
先ず第二章でおりんは、「死者の世界から生者の世界を守るということができるものだろうか。」と自問
自答し、死んだ千治郎に「どうか、きょうは、お前さんもそこで、おらたち守って下(た)い。」と言う。
そして同じ章で、多吉が夢のなかで千治郎の幽霊から「もういっぺんおりんをちがう男さ抱かせたら、
こんどはおまえさ引導だぞ!」と言われ、多吉が千治郎の幽霊に夢の中で首を締められたことが記述さ
れている。
第四章では、おりんが東畑の家が火事になる夢を見る。そしておりんは、「おまえは、けっしてこの
家にいちゃいけねえよ。」という千治郎の声を聞くのである。そしてこの第四章の最後の場面で千治郎
の幽霊があらわれる。その場面は、次のように描写される。
「昼幽霊というものあるもんだべか、……」
「うすきみわるいこというでねえか、お母(が)は」
「おらよ。いまじいっと、あれ達(だ)のソリが門鑑出るとこみてたらよ。粉雪のむこうに、こん
どは白かたびらの千治郎さんが見えただ。……まだ見えるだ。……」
「まだ見えると?どれゃ……」
それは門鑑通りの母たちであった。みな門口(かどぐち)にとびあがって門鑑むこうへ目をこら
した。
もう佐野夫婦を乗せたソリは消え、天地をこめて降る粉雪が、はてのみえない雪世界の白幕をこ
まかくゆすっているだけであった。それでも母たちは目いろを変えていいかわした。
「な、……」
「ほんとだ!あれ、……千治郎さんが、まっしろいかたびらでよ。なんぼご性焼けてついてゆくだ
か、……」
この千治郎の幽霊の場面は、きわめて印象的な場面である。作者は、この場面に幽霊を挿入する着想
をどこから得たのであろうか。私は、シェイクスピアの『ハムレット』の幽霊からヒントを得てこの場面
に千治郎の幽霊を登場させたと考える。シェイクスピアの『ハムレット』に登場する幽霊は、演劇史上、
きわめて独創的な幽霊である(36)。シェイクスピアの幽霊は、復讐を迫る幽霊で、劇の進行に即しなが
ら、詳細に描かれている。特に幕あきの場に登場する幽霊は、複数の人間に目撃されながら、無言で姿
をあらわし、消えてゆく幽霊で、それ以後、劇全体を支配し、主人公に大きな影響を与える幽霊である。
作者が、この『ハムレット』をはじめとしたシェイクスピアの全集(坪内逍遥訳)を読んだのは、江
崎淳編の松田解子の「年譜」によると、大正十五(1926)年三月、東京に上京する以前で、特に大正十
三(1929)年三月、秋田女子師範を卒業後、四月より母校の小学校に教諭として赴任している期間であ
る。この頃、松田解子は、進歩的な青年グループと交流し、その会合場所の家の屋根裏に隠されていた
─ 86 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
ゴーリキーやトルストイなどの翻訳書を読んだという(37)。この頃、松田解子は、坪内逍遥訳のシェイ
クスピア全集を一年ががりで読んで感激したと、後年、当時のことを回想して述べている(38)。このこ
とから松田解子が、『続 おりん口伝』の千治郎の幽霊の場面を『ハムレット』からヒントを得て書いた
ことは充分に考えられることである。
シェイクスピアの『ハムレット』の翻訳が、日本の近代文学に与えた影響は、計り知れない(39)。例え
ば、志賀直哉は、『白樺』に「クローディアスの日記」(1912年9月)を発表し、小林秀雄は、『改造』
に「おふえりや遺文」
(1931年11月)を発表し、太宰治は、文芸春秋社より『新ハムレット』
(1941年7
月)を刊行している。
松田解子が、
『おりん口伝』『続 おりん口伝』を発表した昭和四十年代(1965∼1974)には、志賀直
哉や太宰治の『ハムレット』に依拠した作品が、それぞれの全集に収録されたり、小林秀雄の『ハムレッ
ト』に依拠した作品が文庫本に収録され、多くの読者の関心を集めた。
またシェイクスピア生誕四百年目の年にロシア版『ハムレット』
(1964)の映画が公開され、社会主義
の時代の大きな遺産とまでいわれ、話題となった。そして『おりん口伝』が発表された前年の昭和四十
(1965)年には、シェイクスピア生誕四百年を記念して上演された『オセロー』の映画が公開されたり、
『続 おりん口伝』が発表された年には、福田恒存訳の『ハムレット』が、平幹二朗主演で日生劇場で上
演された。その翌(1969)年には、歌舞伎俳優の尾上松緑主演の『オセロー』が、日生劇場で上演され
た。このように昭和四十年代は、シェイクスピア生誕四百年目の節目の公演が盛んにおこなわれ、映画
や舞台でシェイクスピアの作品が日本で大きなブームとなった年代であった。
『おりん』の舞台では、藤田が「千治郎の執念」が幽霊となって「当然残るべえよ」と語ると、そこへ
岩谷仁衛門が登場する。そして仁衛門は、藤田の前に座り、自分の師匠という永岡鶴蔵の手紙を読み上
げる。仁衛門は、この手紙を書いた永岡鶴蔵のうしろには、片山潜という先生がいることを告げる。す
ると、藤田は、興奮し、永岡から送られた片山論文の写しを、読んで聞かせる。そこには、次のような
一文が、記されていた。
「一人の労働者虐待さるれば、全体が虐待されるが如く感じ、一人が受けし恥辱は全体の恥辱と感
ずるに至りて、労働運動は始めて天下人無しとなるべし。労働者にこの感起こるまでは、互いに同情
の念なく、同情の念なき限りは、団体きわめて弱く、資本家は思うがままに之を取り扱うことを得べ
し。噫、同情の念!同情の念!こわ大いに説く所あらざるべからざる者なり。」
それを聞いて仁衛門は、これが、片山大師匠のお心持ちだと言い、永岡師匠の裁判の判決が無罪であ
ったことを告げると、一同から歓喜の声があがる。桜井は、その永岡が日清戦争前に荒川鉱山にもきて
藤田や自分を指導してくれたことを話す。次第にざわめき、酒が入り、忽ちみんなの中から次の「から
め節」が湧き起こる。
からめ からめと
おやじ かかァせめる
なんぼ からんでも
からみたてァ ならぬ
こんで 三菱ァ
─ 87 ─
いつ 賃金(ぜんこ)あげる
あごコ 乾(ひ)上がる からみたてァ ならぬ
小太家のばばが、そこへその息子にひき立てられて出てくる。おりんが、ばばに「どこにいたんす?」
と聞くが、ばばは答えない。その息子の話では、一昨日の朝から佐野の家にいたと言う。みんなに責め
られ、ばばは、ワッと泣いて佐野の物置に閉じ込められていたと言う。ばばは、佐野から黙っていれば、
息子のクビを許してやると言われたそうだ。ばばは、それから「おら、知らねえ―千治郎さんの殺され
るとこ、見たことねえ!」と喚きだす。おりんは、その言葉に耳を疑い、「え?見たことねえと?!」
と言うと、ばばは、「おら、見てねえ!―知らねえ!―知らねえ!」と土間の土を掻きむしる。ここで
暗転となり、第二場が始まる。
この暗転の間におりんの声が流れ、庶務主任の沖が転勤となり、おりんの暮していた長屋が取り壊さ
れたことが語られる。
溶明となり、第二場が始まる。おりんと上司の女房の二人だけの姿が照らし出される。おりんは、こ
こで上司の女房から藤田と桜井とクロパトキンの三人が大曲署に連行されたことを聞く。溶暗。おりん
は、その日の午後、荒川の派出所に連れて行かれ、尋問を受ける。舞台が明るくなると、そこは、大曲
署荒川派出所の中である。明治四十一年八月二十五日の設定となっている。おりんは、「背広の四十が
らみ」の大曲署の刑事から詰問を受ける。おりんは泣き叫び、刑事は、おりんをからみぐらに連れて行
く。派出所が溶暗となり、舞台下手のおりんのいる狭い部屋の戸口の外は溶明となる。おりんは、「あ
けてたい!」と叫び、土間に倒れる。それからおりんは、立ちあがり、板じきをはずす。そこには、深
い穴があいている。おりんは、その穴のふちに手をかけ、腹ばいになって、底の方をうかがい見る。す
ると、次のおりんの心の声がする。
「コールター!―ここだ。少し前まで、鉱山を逃げ出した鉱夫がつかまれば、この穴のコールター
にとっぷり浸けられて、やがて、引きずり出されて、鉱山中をねり歩かされた。そして、やがて、い
き絶えて、死んでしまった。―」
暗黒の舞台では、その中をスポットに照らされて、全身コールターだらけになった、背中に「忌中」
の紙を貼られた男が、巡査や飯場頭に縄で曳かれ、棒でこづかれ、見世物にされてゆく様が見え、やが
てその姿が、闇の中に消える。
おりんは、あわてて床板をもとに戻して穴を塞ぎ、その上に倒れる。短い暗転の間に舞台の上手が、
大曲署の取調べ室の設定になっている。そこには、散々拷問された藤田がうしろ手にされ、うづくまっ
ている。刑事は、藤田を竹刀でこづき、なぐる。隣りの部屋では、桜井の「人殺しい!」という絶叫が
聞える。藤田が、その桜井の声を聞き、「桜井!頑張れよッ!」と、声をだすと、取調べ官が藤田を蹴
飛ばし、刑事の竹刀が藤田の横顔を物凄い勢いで打つ。藤田の絶叫。その瞬間に暗転。
暗黒の中で千治郎の「おりん」という声がする。おりんもそれに応えて「千治郎さん!−お父(ど)
さん!」と呼ぶ。すると、千治郎は、おりんに「落ちつけ。千太もひろも大丈夫だで―いまに藤田も桜
井たちも、みんな大丈夫もどって来るで―」の声がする。溶明になるとおりんは、もとの荒川派出所の
中にいる。舞台の上手には、鉱山の女房たちがおり、大曲署の部長に泣きながら、「おりんさ出してた
いよう!」と頼み、叫けぶ。そのうちに暗転。
─ 88 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
第三場が始まる。この第三場は、明治四十一年十二月三十一日の大晦日の夜の設定になっている。舞
台は、装置もなく、ただ暗い中に藤田(上手)と桜井(下手)が並んで観客を向いて立っている。
桜井は、大晦日の三日前に大曲署から出されたが、藤田は、拷問のために全く耳が聞えなくなってい
る。藤田が、大声で「かかァ!」と呼ぶと、藤田の女房が下手からあらわれる。そのあとからおりんが
ついてくる。藤田は、大きな声でおりんに次の片山論文を朗々とゆっくりと読む。
「労働者が今後、一致団結の運動をなさんにはいきおい、政治運動ならざるべからず。将来の労働
運動をなさんとすれば、労働者は、一大政党のもとにおいて、一階級として、階級対階級のたたかい
をせよ。
」
藤田の女房は、夫が耳が聞えなくなってから、誰が来てもそこばかり読んで聞かせるとおりんに言う
と、おりんは泣き出す。資本家の階級と労働者の階級―「階級対階級」が闘うという言葉におりんは、
涙を惜しまなかったのである。
やがて除夜の鐘が聞え出す。桜井が、「浄勝寺の除夜の鐘すな」と言うが、藤田には、全く聞えない。
桜井が、藤田に鐘をつく真似をして見せる。だが、藤田にはわからない。桜井は、おりんと藤田の女房
に「明治四十一年が終ったっんやなァ―」と語る。藤田は、おりんに読んで聞かせた文が書いてある紙
を渡して、
「おらとこおいたら、あぶねえすて。やつら、大泥棒ですて。あはははは。」と笑い出し、幕
となる。
この第二幕の第一場では、鉱夫らが、改めて片山の論文を思い起こして心をさらに団結させ、みんな
で「からめ節」を力強く歌うが、第二場では、官憲の手によって藤田や桜井が拷問され、尋問され、お
りんまでも連行され、取調べられる。第三場では、その官憲の拷問によって藤田の耳が全く聞えなくな
り、除夜の鐘の音もわからない姿となっている。が、藤田が繰り返して言う「階級対階級のたたかいを
せよ。
」という言葉におりんは、胸を熱くし、涙を流すのである。
第二幕は、このようにスピーディーな場面転換の中でこの「階級対階級のたたかい」が舞台の上で再
現され、展開されているのである。
第三幕第一場は、翌明治四十二年の春の正午に設定されている。この明治四十二年に日本の資本主義
は、大陸進出に乗り出していた。舞台では、鉱山にも春が来たことを思わせる音楽が流れる。舞台の上
手から下手へ斜道。そこには、二、三本の山桜が花を開いている。初め舞台は、ぼんやり薄暗く、その
中に負い籠と鉈をもったおりんが客席に向って立っている。
おりんは、前場から四ヶ月近くたって春になったことを告げ、舞台が「盗伐山」と呼ばれる山の中で
あると語ると、舞台が溶明となる。時間は、正午の昼休み時間である。おりんは、下手の斜道の枝を鉈
で伐り、籠に入れ、舞台に降りてくると、上手から仕込杖を持った飯場頭の中根が出てくる。中根は、
おりんの「盗採」をとがめ、おりんのそばへよってグイとおりんを引き寄せ、おりんの手を握ると、不
意におりんを組み伏せ、暴行しようとする。おりんと中根はもみ合い、おりんが「人殺しいィ!」と絶
叫すると、下手からサヨが出てくる。サヨが「誰か来てぇ……」と叫ぶと、中根は上手へ逃げ去る。お
りんとサヨは、歩きながら、会話する。おりんは、サヨに千治郎が死んだあと、佐野に同じように暴行
されそうになったことを告げ、サヨも気をつけるように言う。おりんは、自分が嫁に行く気がないこと
をサヨに告げ、サヨに岩蔵のことをどう思っているか、尋ねる。すると、サヨの顔は、忽ち真紅になる。
そこへ岩蔵が姿をあらわす。サヨは、恥かしがって走り去る。おりんと岩蔵は、サヨについて話し、岩
蔵は、おりんにサヨを「欲しなァ」と言って、去って行く。
─ 89 ─
第三幕第二場は、明治四十二年十一月初めの秋の晩の設定になっている。溶暗の間、チェロを主とす
る音楽が流れる。おりんは、その年の夏にサヨと岩蔵が長屋を借りて新世帯を持ったことを語り、その
秋、東畑の家が飛んでもないことになったと言う。すると、半鐘の音が聞えはじめ、戸のパタパタとあ
く音や人の走る音が聞える。以下の会話が、声のみで観客に伝えられる。
「半鐘だ!半鐘だ!」
「直利橋だ!空が真赤だ!」
「東畑だ……東畑の家、火事だぞ!」
「燃えてるぞ!東畑の二階燃えてるぞ!」
「あや!いたましいこと!」
「千太!千太!ばばさーん!」
「お母ァ!」
「千太!よく出たな。お前!」
「お母ァ!」
「ばばさん、まだ出ねえ!」
「良造さんはよ?」
「夜勤だとよ!」
「嫁の姿見えねえとよォ!」
声と音は忽ち静まって行き、おりんの姿のみが、照らし出される。おりんは、この火事で姑のヨネが
死に、良蔵の嫁が焼け跡から黒こげになっていたことを語り、良造がその後、鉱山を去り、東畑の家は、
跡形もなくなくなり、今、自分は千太とふみと一緒に暮らすことになったことを告げる。溶明となり、
舞台は、岩谷のおっかァの長屋の内部となる。
舞台では、岩谷のおっかァと仁衛門が竜神さまの掛け図のことで話をしている。そこへ岩谷の息子に
連れられておりんが入ってくる。仁衛門は、リュウマチが良くなり、一人で歩けるようになったと言う。
そこへ藤田と桜井も入ってくる。桜井は、自分の作った「あわれ世界地底坑夫のタネ百万」の句の解説
を仁衛門にする。桜井の解説によると、「世界」は、桜井の上の子の名前で、「あわ」(粟)は、次に生
まれた子の名前であると、言う。その上の子が、もう十五になってどうしても坑夫になるといって聞か
ない。その時、作ったのが、この句だという。つまりたとえ親がヨロケて死んでも、その坑夫の子が後
を継ぎ、その後、何世代も何「百万」世代も坑夫となって「タネ」が尽きないという意味である。
仁衛門は、桜井の解説に耳を傾け、「良え句だす!」と言って「あわれ世界地底坑夫のタネ百万」を
朗誦する。その途中でサヨと岩蔵が入ってくる。サヨは、恥かしがりながら、笑いをたたえている。仁
衛門は、サヨに「地底坑夫のタネ百万」と言い、子を「たーんと生んでたい!」と声をかける。
仁衛門は、藤田に用向きを聞かれ、「鉱毒被害賠償請求書」を見せ、それを読みはじめる。桜井は、
その請求書は、ゆっくり拝見することにして先ず祝盃と言って銚子をつぐ。藤田は、涙を流しながら、
「階級対階級のたたかいだ!」と大声で言い、次の「からめ節」をうたい出す。すると、みんなもそれ
に和す。
金の牛コに 錦の手綱
─ 90 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
おらも引きたい
引かせたい
金が出る出る
しろがね こがね
鉄も 鉛も
あかがねも
その途中、仁衛門は、懐から新聞紙を取り出し、「伊藤博文公暗殺詳報」を読み上げる。藤田は、そ
の新聞に顔を近づけ、突然、叫び出す。そこへ藤田の女房が出て来ておりんの入坑の知らせを告げる。
おりんは、歓びの声をあげ、藤田の女房に礼を言う。仁衛門も喜び、「からめ節」の歌が藤田のかけ声
で始まり、溶暗となる。
この三幕では、原作の『続 おりん口伝』の第八章と第十章と第十一章と第十二章と最終章が題材に
され、そこから取捨選択し、場面を構成している。そして「からめ節」が、鉱山の労働者たちの労働歌
のような役割を果たし、この劇の主旋律となっている。
この劇の場面の前の転換は、すべて<声>のみのセリフやエフェクトで充填され、その間に舞台装置
が転換される運びになっている。
最後の「エピローグ」は、前場の翌日の設定になっている。場所は、荒川鉱山の坑内である。この
「エピローグ」は、原作の『続 おりん口伝』の第九章と第十一章から題材がとられている。
舞台では、暗い中でおりんと後家の手子の二人の対話する声が聞える。二人は十五番坑を歩いて細い
枝坑道に蝦腰になって入った。そこは、「鋳固めた虹でも穿ったかのような華麗な上鉱の洞門」であっ
た。さらにもぐると、「山吹いろ一色の大きな洞穴」に出た。ここは、十七番坑だという。溶明。舞台
は、坑道となる。おりんと後家が道を降りてくる間、舞台は溶暗となる。そこは、「一つの雁木梯子が
終ると次の梯子へ移って、岩の穴は果てるともなく」続いた。おりんの足元の底から人の声がすると、
溶明。そこは、採掘の現場である。そこでは、ねじり鉢巻、頬かむりの人々が、全裸、半裸あわせて七、
八人いた。カーボン電球が、あたりをぼんやりと照らしている。雁木梯子を後家が先に、あとからおり
んが降りてくる。そこには、桜井の女房、岩谷の息子の姿も見える。おりんは、桜井の女房に仕事の内
容の説明を受けた後、ハクを背負い、上手から下手へ帰る。その時、近くの現場で大きなハッパの音が
する。桜井の女房のあと、おりんは、斜道を這ってのぼり始める。次のおりんの声がする。
「千太!ひろ!おっ母は今日から坑内(しき)だども、大丈夫だぞ!―坑内(しき)のガマ何匹い
たって、みんな退治してけるからなあ―」
再び大きなハッパの音がする。「牙噛むだ!―牙噛むだ!」のおりんの声がする。舞台に低く音楽が
流れ、二人の姿が斜坑の上手へ消えて行く。やがて音楽が高まり、幕となる。
この「エピローグ」では、おりんの復職がかなっておりんの「牙噛むだ!―牙噛むだ!」という声が、
坑内(しき)の地底にいつまでも轟き、幕となる。「牙噛む」とは、秋田弁で「忍耐強くがんばる」の
意味である。
この『おりん』の舞台は、この「牙噛むだ!」の秋田弁で幕となる。この舞台の脚色・演出をした村
山知義は、この上演のパンフレット(1972)に「廃墟の牙」と題した一文を寄せている。そこで村山は、
─ 91 ─
「この一人の貧しい女労働者のおりんは、今から六十三年も前の、真ッ暗闇の坑道の中で、鉱石をしょ
った籠を首にかけて、頭のつかえる穴を這って歩きながら、『牙噛め、牙噛め!政党対政党のたたかい
だ!』と叫び続けていたのだった。」と記している。
この一文から明らかのように村山の演出意図は、夫の<死>を契機に「政党対政党のたたかい」に目
覚め、組合活動に「牙噛む」一人の貧しい女労働者が仲間に支えられながら、二人の子供を育て、たく
ましく生きる姿を舞台に再現することによって、プロレタリア階級の団結の強い力を示し、同じ階級の
観客にもお互いに「牙噛め、牙噛め!」と激励しているのである。
以上のように村山知義の演出した東京芸術座の『おりん口伝』と『おりん』は、プロレタリア文学の
原作を脚色した典型的な「シュプレヒコール」(Sprechchor)型のプロレタリア演劇なのである。
─ 92 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
おわりに
松田解子の『おりん口伝』と『続 おりん口伝』は、共に今日、プロレタリア文学の代表的な作品と
して考えられている。このプロレタリア文学とは、「プロレタリア・レアリズム」によって貫かれた文
学であり、その「プロレタリア・レアリズム」とは、「マルキシズムによって貫かれた労働者の芸術的
態度」(小林多喜二)をいう(40)。つまりプロレタリア文学とは、「何よりもまづイデオロギツシュな芸
術」(立野信之)ということである(41)。そしてそのプロレタリア文学運動の本質は、「階級闘争の一現
象」である、という意識である(42)。この意識によってプロレタリア文学は成立しているのである。
本稿で取り上げた松田解子の文学作品は、この意識によって書かれたものであり、そのドラマ化にあ
たってもこの意識が演出の主眼に置かれていた。おりんという鉱山で働く労働者の生活と闘争の歴史が、
そこには鮮明に描かれているのである。
が、松田解子は、『おりん口伝』の「あとがき」でこの作品の「底には、わたし自身、おりんの生き
た鉱山に、生まれ育った過去があった」と述べているが(43)、その過去が、自伝的に反映されている描
写もこの小説には、含まれている。特に印象に残るのは、『続 おりん口伝』の第八章に登場するおり
んとひろとの山桜の場である。この短い山桜の場は、のちに「わたし」を語り手とする一人称表記の小
説「山桜のうた」(「赤旗日曜版」、1982年1月3日付)に発展的に継承される。この「山桜のうた」で
は、山桜の場は、次のように描写されている(44)。
わたしが母親とたった二人、この鉱山の影の山―鉱夫が冬焚く柴を刈りにゆく盗伐山へ行ったのは
それから一年後の、春まだ浅いころであった。忘れもしない、その日はじめて、わたしは母から斧の
使い方を教わり、またなぜ柴は山に残雪があるうちに刈っておかなければならないかを教わった。そ
れは雪がすっかり消えてしまって雑木が枝を張ってからでは斧の刃にもかかりにくくなるからであっ
た。わたしは母の手ほどきで、「まだ枝の張ってない雑木」をみつけては不器用にその根方へ斧を打
ちおろした。そうしてわたしの刈った柴がようやく一把分にこぎつけたころだった。母が、もう刈り
終えた二、三把を背負ってこちらへ近づいて来て、わたしが刈りためた柴を足もとにみとめ、「まん
ず、おら家のハナぼうは初めてだっていうのにこんたに刈って」と、わたしをほめ、「さァもう昼だ、
飯(まんま)にすべ」という。そのあと二人は柴束をそこにおき離して、向こうの斜面に、ななめに
立った一本の山桜を見つけて、その根方で握り飯の包みをひらいた。(中略)「お母ァ、きれいだな、
この山桜の花コ」「うん、きれいだなァ、ハナぼう」と、母はしみじみ言う。それから二人はそこに
ひろげた新聞紙の上の握り飯を食べたが、わたしはその、まん中に塩鮭のはいった南京米の握り飯を
ほおばるうち、いつかの夕方あの塩鮭切り用の出刃をふところに橋桁の下に蹲んだときの自分が思い
出されて来てならなかった。そうして今この盗伐山に、たった二人差し向いになった母の顔から、足
袋も穿かない母の草鞋足へと目を移してゆくうち何となし涙がにじんだ。母の油気のない髪と、寒気
でささくれた顔の肌と、ぼろもんぺと、鬼の爪のように固く黒くなった手足の爪と、むざんなヒビ割
れと。そして、ただそこだけはヒビ割れても垢ずいてもいないやさしい、生真面目そうな母の目と。
……だのに、なんでこの、おらのお母ァはこうやって、ぼろだらけ、ヒビだらけになっていなければ
ならないのか、朝は四時前から起き出して髪に櫛の歯をいれるひまもなく働きながら、なぜあの「お
どさん」に、何かといえば火箸、灰ならしをふりあげられるのか。なぜ、夜は夜で、いきなり首をし
められかねない目にあっているのか―。
─ 93 ─
作者は、この描写できれいな「山桜」と自分の「お母ァ」を見比べて「お母ァ」の様子や「おどさん」
の振る舞いを的確に具体的に描いている。この描写は、素材を共通にする次の『女人回想』の描写と比
較してみると(45)、文学としての小説形式と回想形式の叙述の仕方の違いに作者の表現に対する作家と
しての姿勢の違いを読み取ることができる。
わたしは母のその姿を、いつしか山桜と見くらべ、見つめくらべているうちに、なんでおらのお母
........
ァはまだ三十なんぼという年なのに、こうなっていねばならないんだろう、こんなに汚なく?……そ
う考えているうちにわたしは、一途に決めてしまっていた。「これはきっと、あの飯場のお父さんの
せいなのだ、あのお父さんが夜毎日毎、お母ァをいじめるからだ」と。
『山桜のうた』で作者の「わたし」は、「お母ァ」が「可哀そう」でならず、「目からどっと涙があふ
れ出し」て「お母ァ」に何故、「おどさん」と「いっしょになったんだ」と言い、「おらァあんなおどさ
ん嫌だ。お母ァ、おらといっしょにどっかさ逃げてゆくべ、な、どっかさ逃げてゆくべ」と、「お母ァ」
ににじり寄る。すると、「お母ァ」の手が、しっかりと「わたし」の手をにぎりしめて、その「ささく
れた顔の肌が一条の涙でぬれた」とき、「ハナぼう、きいてけれ、お母ァの話、きいてけれ……」と全
身で泣きむせびながら、自分の半生を物語り、「わたし」も泣きむせびながら、その半生に聞き入った
のである。
「お母ァ」は、あたかも「遺言」のように次のように「わたし」に言った(46)。
な、ハナぼう、わかってけれ。ンだからな、ハナぼう、お前は、な、このお母ァみたいにならない
ように、いまから一生けんめい勉強して、腕さ力つけて、たとえ連れそう男がどういうことになって
も、吾ァ腹から、出した童子の一人二人は、吾ァ腕で育てられるようになるだ、な、……
「わたし」は、「お母ァ」が、盆の十三日に鉱山墓地へ「わたし」を連れてゆき、忘れがたい死者た
ちの墓に「お久しぶりであんす」と頭を下げ、無沙汰と忘恩を詫びる姿を見てこの鉱山から離れがたく
している「お母ァ」の心中をさとるともなくさとらされたのである。
「わたし」の目のうらには、「あの日の盗伐山の若い山桜の幹の照りと透きとおる花びら」が浮かび、
「お母ァ」が浮かびあがるのである。
松田解子は、『おりん口伝』と『続 おりん口伝』で書きつくし得なかった作者自身の「わたし」の
目に映った1910年代の「お母ァ」の姿をこの小説「山桜のうた」で描いているのである。
松田解子は、<母子>の関係を中心に昭和四十九(1974)年、『民主文学』に「おりん母子伝」を発表
し、昭和五十一(1976)年には、その続編である「桃割れのタイピスト―続おりん母子伝」を『文化評
論』へ十二回連載する。この二冊は、いずれもその後、新日本出版社より出版された。そして『松田解
子自選集』
(澤田出版、2006年)にも収録されている。
本稿は、東京芸術座で上演された村山知義の演出した『おりん口伝』と『おりん』の二つの作品をそ
れぞれ原作の『おりん口伝』と『続 おりん口伝』と比較しながら取り上げ、その作品のもつプロレタ
リアとしての文学と演劇の特質を明らかにした。
が、さらに、松田解子の『おりん口伝』と『続 おりん口伝』の創作テーマをより深く読み取るため
には、この『おりん母子伝』と『桃割れのタイピスト―続おりん母子伝』を補完して読むことが何よりも
重要であると考えられる(47)。
─ 94 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
註
(1)秋田県教育委員会編『秋田のことば』、無明舎出版、2000年10月、297頁。
(2)松田解子『松田解子全詩集』、未来社、1985年8月、310頁。
(3)佐藤好徳「初恋 松田解子さんに聞く」、『秋田民主文学』、第41号、1999年2月、6−15頁参照。
(4)松田解子『松田解子全詩集』、13頁。
(5)松田解子『松田解子短篇集』、創風社、1989年10月、349頁。
(6)松田解子『乳を売る・朝の霧 松田解子作品集』、講談社、2005年10月、246頁。
(7)松田解子『松田解子短篇集』、12頁。
(8)松田解子『松田解子全詩集』、16−18頁。
(9)尾形明子「『女人芸術』最後の人・松田解子ノート」、東京女学館大学紀要、第2号、2005年3月、230頁。
(10)松田解子『松田解子全詩集』、19−20頁。
(11)松田解子『松田解子短篇集』、29頁。
(12)松田解子『松田解子短篇集』、52頁。
(13)松田解子『松田解子短篇集』、70頁。
(14)松田解子『松田解子短篇集』、243−244頁。
(15)松田解子『松田解子全詩集』、61−62頁。
(16)進藤孝一編『荒川鉱山誌』、1974年3月、1頁。
(17)進藤孝一編『荒川鉱山誌』、17頁。
(18)進藤孝一編『荒川鉱山誌』、11頁。
(19)斉藤実則『鉱山と鉱山集落―秋田県の鉱山と集落の栄枯盛衰―』、大明堂、1980年11月、15頁。
(20)進藤孝一編『荒川鉱山誌』、12頁。
(21)松田解子『おりん口伝』、新日本出版社、1966年5月、3頁。
(22)松田解子『おりん口伝』、3−4頁。
(23)松田解子『おりん口伝』、6頁。
(24)松田解子『おりん口伝』、17頁。
(25)松田解子『山桜のうた』、新日本出版社、1985年7月、21頁。
(26)中冨兵衛『永岡鶴蔵伝』、お茶の水書房、1977年8月、1−377頁参照。
(27)村山知義『日本プロレタリア演劇論』(復刻版)、ゆまに書房、1991年5月、7頁。
(28)村山知義『日本プロレタリア演劇論』、16−17頁。
(29)村山知義『日本プロレタリア演劇論』、27−28頁。
(30)村山知義『日本プロレタリア演劇論』、29頁。
(31)本稿で使用する上演台本は、東京芸術座所蔵のものを以下、使用する。なおFPAP蔵書版の『おりん口伝』(東京芸術座上演
台本)は、三幕六場に短縮されており、登場人物やセリフ等にも所々カットが見られる。この『おりん口伝』は、秋田では、
昭和44(1969)年5月25日、県民会館で労演第1回例会において上演された。
(32)芸能史研究会編『日本の古典芸能 比較芸能論』、第10巻、1971年12月、297−299頁。
(33)松田解子原作『続 おりん口伝』・村山知義脚色・演出『おりん』(別題:『坑内(しき)に咲く梅』)の上演台本は、東京
芸術座の演出部資料を使用した。以下、引用は、この東京芸術座所蔵の上演台本を用いる。
(34)秋田県教育会『言語教育教科書』(秋田県地方適用)、三光堂書店、1931年10月、1−155頁参照。
(35)一叩人編『鶴彬全集』(1998年版)、有限会社 久枝、1998年9月、439頁。
松田解子は、このような川柳をいつ頃知ったのであろうか。昭和6(1931)年の『女人芸術』には、井上信子の選による「新
興川柳」欄があり、そうした作品に早くから接していたものと考えられるが、松田解子の大盛尋常高等小学校の教え子には、
のちに秋田の川柳作家として活躍する境田稜峰がいる。この稜峰の川柳作品を通して現代の川柳に松田解子が接していたと
考えられる。
(36)平辰彦『Shakespeare劇における幽霊―その演劇性の比較研究―』
、緑書房、1997年3月、62−73頁参照。
(37)松田解子『乳を売る・朝の霧 松田解子作品集』、259頁参照。なお大正14(1925)年5月27日(第12212号)と28日(第
12213号)付の「秋田魁新報」(秋田魁新報社刊)には、浦口文治が「ハムレット劇のうらおもて」と題して第一幕で語られ
るハムレットの独白とそこに登場する幽霊について述べている。この記事も松田解子は、読んでいたものと想定でき、
「ハム
レット」の幽霊についてこうした記事を通して関心を深めたと考えられる。
(38)佐藤好徳「初恋―松田解子さんに聞く―」、『秋田民主文学』、第41号、1999年2月、10−11頁参照。
(39)平林文雄『比較文学 受容 鑑賞 研究』、和泉書院、1993年12月、16−27頁参照。
(40)小林多喜二・立野信之『プロレタリア文学論』、ゆまに書房、1991年11月、36頁。
(41)小林多喜二・立野信之『プロレタリア文学論』、145頁。
(42)祖父江昭二・竹内好『プロレタリア文学』、岩波書店、1959年2月、8頁。
─ 95 ─
(43)松田解子『おりん口伝』、244頁。
(44)松田解子『山桜のうた』、15−18頁。
(45)松田解子『女人回想』、新日本出版社、2000年8月、39−40頁。
(46)松田解子『山桜のうた』、19頁。
(47)平成18(2006)年は、松田解子生誕101年目の記念すべき年であり、『おりん口伝』の文学碑がある大仙市協和の和ピア(大仙
市協和市民センター)にて10月22日(日)、松田解子の生涯を〈母子〉に焦点をあてた劇作家ふじた・あさや作・演出による一
人語りの舞台公演が、劇的朗読家の松川真澄主演によっておこなわれる予定である。
─ 96 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
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─ 97 ─
追 記
本稿を書くにあたっては、早稲田大学演劇博物館、秋田県立図書館をはじめ松田解子の長女・橋場史子氏、松田解子を語る会の
江崎淳氏、佐藤征子氏、秋田県立大学の高橋秀晴助教授、秋田県民俗学会の進藤孝一氏、大仙市協和公民館館長で協和市民センタ
ー所長の茂木優子氏、並びに担当の茂木敏彦氏、東京芸術座の北原章彦氏、郡司勇氏、そして日本民主主義文学会秋田支部「秋田
民主文学」の工藤一紘氏、佐藤好徳氏等には、貴重なご助言および資料の提供を受けた。ここに記して謝意を表したい。
─ 98 ─
松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
資料1
荒川鉱山全景(大正初年)
提供 尾去沢鉱業所 (『荒川鉱山誌』より)
参考資料集
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松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
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資料4
資料5
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松田解子の『おりん口伝』とそのドラマ化作品の比較研究 ―プロレタリア文学のドラマツルギーをめぐって―
資料6
資料7
(『荒川鉱山誌』より)
─ 103 ─
資料8
(『荒川鉱山誌』より)
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教養・文化研究所所員名簿
経済学部
稲 本 俊 輝(所長)
堀 川 静 夫(編集委員)
遠 藤 純 男
西 山 亨(編集委員)
ランディ・ケイ・チェケッツ
渡 部 勇
庄 司 信(編集委員)
上 村 康 之
法学部
伊 藤 護 朗
福 山 裕(編集委員)
和 田 寛 伸
佐々木 久 吾
豊 間 かな子
総合研究センター
橋 元 志 保(編集委員)
2006年(平成18年)3月1日現在
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執 筆 者 紹 介
福 山 裕 秋田経済法科大学法学部教授
上 村 康 之 秋田経済法科大学経済学部講師
橋 元 志 保 秋田経済法科大学教養部講師
平 辰 彦 秋田栄養短期大学商経情報学科助教授
(掲載順)
教養・文化論集 創刊号
2006年(平成18年)3月27日印刷・発行
編集・発行 秋田経済法科大学 総合研究センター 教養・文化研究所
秋田市下北手桜字守沢46−1
電話 0 1 8 − 8 3 6 − 6 5 9 2
FAX 0 1 8 − 8 3 6 − 6 5 3 0
URL http://www.akeihou-u.ac.jp/~center/
印 刷 秋田活版印刷株式会社
秋田市寺内字三千刈110
電話 0 1 8 − 8 8 8 − 3 5 0 0 ㈹
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THE BULLETIN
OF
CULTURAL SCIENCES
Vol. 1 , No. 1
March, 2006
CONTENTS
Foreword
Establishment of Modern“Cultivated Minds”……………… INAMOTO Toshiteru
Articles
Henry Vaughan the Tavern-Haunter :
A Reading of“A Rhapsodie” ……………………………… FUKUYAMA Yutaka
The“Settling-down”Consciousness and the Problem of Environment for
Citizens living in Private Residences in Cities and Municipalities :
A case study of Korekawa and Asahigaoka Residential areas
in Hachinohe City, Aomori Prefecture. ………………… UEMURA Yasuyuki
∧
∧
∧
A Reading of Ogai Mori's“Sansho - Dayu”:
On the Development of the Tale of Family ………………… HASHIMOTO Shiho
Comparative Studies on“Orin-kuden”of Matsuda Tokiko
and its Dramatized Works :
With Special Reference to the Dramturgy of the Proletarian Literature
………………………………………………… TAIRA Tatsuhiko
The Institute of Cultural Sciences
Akita Keizaihoka University, Akita, Japan