OYS000103

天理教伝道の理念試論
佐藤浩司
はじめに
親神が人間世界へ直々御現れ下されたのは,人間と此の世界についての真実を明ら
かにし,一れつ人聞を救うためであった。親神は,人聞がお互いに助け合い陽気に暮
らす様を見てともに楽しみたいと思召し,人間と此の世界を創造された。生命を始め
一切は親神からのかりものであり,心だけが自由に使うことの出来る我がの物である。
人間相互は,親神を親とする兄弟姉妹である等々,万一切の真理を明らかにすると共
に,人聞の創造の目的である陽気ぐらし世界実現のための,具体的な救済の方法とし
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て,つとめと互い救け(きづけ)を教えられた。教祖は,親神のやしろとして, 5
に亙り,口に筆に,また行為を通してこの真実を伝えられた。
教祖を通じて教示された真理を,人々に伝えることが,いわば伝道である。真理を
会得し,たすけられた喜び、を持った一人の人の誠真実によって,教えは順次伝えられ,
その結果として,今日,信者の集団である教会や教団が形成されている。天理教の信
者が果たすべき信仰箇条として,つとめへの参画,さづけの取り次ぎ,ひのきしんの
態度と共に,においがけ・おたすけの励行が挙げられる。このにおいがけ・おたすけ
の語によって示されているところが,天理教の伝道の理念を知実に語っており,事実
この語のもと,伝道活動が活発に展開されている。
信者の集団である教会ができると,国々所々の教会を中心に,組織的,積極的な伝
道活動がなきれるようになった。伝道の成果は,多くその獲得された信者の数となっ
てあらわれると考える傾向がある。先にも述べたように,助けられた喜ぴ,早〈多く
の人に真理を知って貰いたいという思いが,教えを伝える役割をになうようになるの
であって,決して信者を得ょうというものではない。あくまでも,教えにつながるの
は,結果であって伝道の目的ではない。本発表は,伝道の理念を,人聞の内的な,宗
)の面から,特に心に関する比喰に注目して検討する
教的成熟(天理教でいう「成人 J
ものである。
1 創造・人間・救済
当然のことながら,人聞の創造の動機(目的)と,人間存在のあり方と,救済の方
法とは,密接な繋がりがある。このことについては,詳述する必要があるが,取りあ
えずここでは,論旨を明確にするため簡略に述べておくことにする。
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親神の人間創造の動機は,①神を敬い拝する存在の必要,②人間相互に助け合って
陽気に暮らす様を見て共に楽しむの二点があげられる。その目的をもって創造された
人間は,①身の内は神からのかりものであって,心一つが自由に使うことの出来る我
がのものであり,②人間相互は,神を親として,生命的につながった兄弟姉妹である。
人間救済の具体的な方法として,①つとめと,②互い救けを教えられている。人間存
在の根本に,心の自由性があることは,重要で、ある。神を否定することの出来る徹底
した自由なる心で,神を敬い拝するように決断する事が大切で、あり,これが信仰の要
諦でもある。つとめの核心は,神名を唱えるところにあり,つとめこそ神を敬い拝す
る行為である。ーれつ兄弟姉妹で、ある人間お互いは,助け合って生きてこそ,その本
来性を全うできると教えられている。扶け合いが創造の目的であるとして,それが人
聞の本来性を全うできる,つまり救済の実現となるというのは,何故なのか。
2 心に関するこつの比轍
教祖は,真理を人々に伝える方法として,口に筆に行いにという形態的な面と共に,
言語表現の面でも,種々の方法を用いられた。中でも比鳴による方法は,教えの核心
を分かり易〈伝えるのに勝れており,多く用いられている。
人間存在の根底が,
「身の内かしもの・かりもの,心一つ我が理」にあるというこ
と,殊に心が我がの理として自由に使うことを許されているは,教えを理解するにも,
救済の問題を考えるにも重要で、ある。この心に関して,
つの比鳴を用いて,教えが説かれている。
「ほこり」と「水」という二
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ほこり」の比轍は,
「八つのほこり」と
して,天理教信者にとって人口に謄突きれている教理であり,親神の人間創造の目的
である,人聞が互いに立て合い助け合う,所謂陽気ぐらしに反する心遣いを,ほこり
に醤えられたものである。ほこりについては,
「積むな」とは仰有っておらず,人と
の交わりの中では積みやすいものであるから,
「払う」ことを求められている。教祖
の逸話に,その例を見ることが出来る。
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神が箸」としてほこりを払う行為は,広義
には親神の御教えに従ってということができるが,狭義にはつとめによるものと考え
られる。
一方,水に醤えられるものは,おふでさきに「澄む」と「濁り」の語で示されるよ
うに,当初濁り水であるものを澄んだ水に変えていく,つまり神の意志を解し得ない
混沌とした心から,神の心がうつる(単なる理解ではなく,如実に分かる)澄んだ心
となる,いわば宗教的な成熟(聖なるものの獲得),天理教で言う心の成人(成長)を
現している。知何にすれば心を澄ますことが出来るのか。比鳴の構造でいうなら「砂」
と「水嚢」による櫨過によって澄ますことになる。
「口」であるいわれ,
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砂」と「水嚢」とは,
「胸」と
「おふでさき註釈』によれば「悟り・諭し」であると記されて
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いる。この「悟り・諭し」こそ,互い救けの場面である。
おわりに
通常,聖なるものの獲得には,修行に身を投じたり,眠想に耽ったりと,どちらか
というと俗界から離れ,個を他から隔てて行われる。しかし,心の成人は,
日常の中
で,人の悩み苦しみを我が事としてとらえる,五い救けの場に身を置くによって遂げ
られるのである。
人を助けてわが身救かる」とか「里の仙人」とかの語句は,その
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辺の消息を示しているように思う。まさに,伝道の場に身を置くことこそ,救済の実
現に繋がっているのである。
本発表の折,原典すべてに一貫してこの論理が適用できるか,また比喰はあくまで
も比喰として捉える必要があるのでは, との指摘を受けた。これは,今後の課題とし
たい。
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