WIJC141123二人の息子を愛した父

題:二人の息子を愛した父 聖書:
聖書:ルカによる福音書
ルカによる福音書15
福音書15章
15章11-
11-32節
32節
序
論
●今日も
今日も先週に
先週に引き続き、ルカによる福音書
ルカによる福音書 15 章に載せられたイエス様
せられたイエス様の 3 つの譬
つの譬え話のうちの第
のうちの第 3
番目の
番目の譬えを通
えを通してメッセージを頂
してメッセージを頂きたい。
きたい。
●この譬
この譬え話の内容は
内容は、農業を
農業を営む富裕な
富裕な父親とその
父親とその二人
とその二人の
二人の息子の
息子の物語りである
物語りである。
りである。
1.初めは二人
めは二人で
二人で父親の
父親の農業を
農業を手伝っていた
手伝っていた。
っていた。
2.しかし、
しかし、ある日
ある日、突然、
突然、弟息子が父親のところにやって
父親のところにやって来
のところにやって来て、
(1)非常識
(1)非常識、
非常識、非礼にも
非礼にも、
にも、父親がまだ
父親がまだ健在
がまだ健在であるにもかかわらず
健在であるにもかかわらず、
であるにもかかわらず、父の死後に
死後に自分が
自分が受けるべき遺
けるべき遺
産の分与を
分与を求め、父親から
父親から奪
から奪うようにそれを受
うようにそれを受けると、
けると、家を出て遠い町へ行った。
った。
(2)彼
(2)彼はそこで、
はそこで、酒と女、その他
その他あらゆる放蕩
あらゆる放蕩に
放蕩に身を持ち崩して、
して、父から譲
から譲り受けた財産
けた財産のすべ
財産のすべ
てを使
てを使い果たしてしまった
たしてしまった。
(3)折
(3)折り悪く、その地方
その地方に
地方に飢饉が
飢饉が起こり、
こり、彼は食べるものにも困
べるものにも困り果てる状況
てる状況となっ
状況となった
となった。落ちぶ
れた彼
れた彼を助けてくれる人
けてくれる人もない中
もない中、やっと与
やっと与えられた仕事
えられた仕事は
仕事は「豚飼い
豚飼い」の仕事であった
仕事であった。
であった。
(4)目
(4)目の前の豚が食べるイナゴ豆
べるイナゴ豆で腹を満たしたいと思
たしたいと思うほど飢
うほど飢える中
える中で、彼は我に返り、父の
元に帰ることを決断
ることを決断し
決断し、遠い道のりであったが、
のりであったが、最後の
最後の力を振り絞るように家路
るように家路についた
家路についた。
についた。
(5)
(5)まだ家
まだ家からは遠
からは遠く離れていたのに、
れていたのに、父親は
父親は、彼の姿を認め、走り寄り、いくたびも口付
いくたびも口付け
口付けし
て迎え入れ、新しい洋服
しい洋服を
洋服を着せ、手には新
には新しい指輪
しい指輪を
指輪を、足には新
には新しい靴
しい靴を与え、
(6)最後
(6)最後には
最後には、
には、高価な
高価な子牛を
子牛を一頭、
一頭、惜しげなくほふって
しげなくほふって大
ほふって大パーティーを開
パーティーを開いて歓迎
いて歓迎した
歓迎した。
した。
3.一方、
一方、兄息子は
兄息子は、
(1)上述
(1)上述のように
上述のように、
のように、弟が父親の
父親の財産を
財産を不条理に
不条理に奪い取り、さっさと家
さっさと家を出て行き、遠い町で、そ
のすべてを放蕩
のすべてを放蕩に
放蕩に使い果たしてしまったと
たしてしまったと言う家庭事情の
家庭事情の中にあっても、
にあっても、その間
その間も変わらず、
わらず、
父親の
父親の元を離れず、
れず、黙々と
黙々と家業を
家業を支え、父親に
父親に従い、尽くした。
くした。
(2)そんな
(2)そんな彼
そんな彼がある日
ある日、一日の
一日の仕事を
仕事を終えて、
えて、疲れた体
れた体をいたわりながらも畑
をいたわりながらも畑から戻
から戻ったが、
ったが、家
に近づくにつれて、
づくにつれて、いつもとは
いつもとは全く違う様子がそこに
様子がそこに見
がそこに見えてきた。
えてきた。「何事か
何事か?」と使用人を呼
び出して聞くと、
くと、放蕩三昧
放蕩三昧をした
三昧をした弟
をした弟が突然戻ったというので
突然戻ったというので、
ったというので、父親が
父親が大喜びして、
びして、大パーテ
ィーを
ィーを開いているというのだった
いているというのだった。
った。
(3)兄
(3)兄は、それを聞
それを聞くと、
くと、カンカンになって怒
になって怒り、家に入ろうともしなかった。
ろうともしなかった。それを聞
それを聞いた父
いた父
親が出てきて、
てきて、兄息子を
兄息子を何とかなだめようと
とかなだめようと試
ようと試みた。しかし、
しかし、兄は父に言った。
った。「私は忠実に
忠実に、
まじめにあなたに尽
めにあなたに尽くしてきたのに、
くしてきたのに、あなたは私
あなたは私に何も特別なことをして
特別なことをしてくれ
なことをしてくれなかった
くれなかった。
なかった。し
かし、
かし、あなたの財産
あなたの財産を
財産を放蕩に
放蕩に食いつぶしたしたあなたの
いつぶしたしたあなたの息子
あなたの息子が
息子が帰ってきたというので、
ってきたというので、子牛
までほふっての大
までほふっての大パーティーとはどういうことですか?!
パーティーとはどういうことですか?!と
?!と。
(4)父
(4)父は、その兄
その兄に、「私
、「私はいつもあなたと共
はいつもあなたと共にいる。
にいる。私のものはすべてあなたのものだ。
のものはすべてあなたのものだ。しかし、
しかし、
この弟
この弟は、死んでいたのに生
んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見
いなくなっていたのに見つかったのだから、
つかったのだから、祝うのは
当然ではないか?
ではないか?」と言う。その父
その父の言葉への兄
への兄の返答を待たずに、
たずに、物語は
物語は閉じる。
●この譬
この譬え話の中で、イエス様
イエス様が、父親は
父親は神様、兄と弟の息子たちは
息子たちは私
たちは私たち人間
たち人間の
人間の姿を表していること
は明らかである
らかである。その中
その中でも、
でも、イエス様
イエス様は、特に、兄の姿を通して、
して、パリサイ
リサイ人、律法学者と
律法学者と呼ば
れていた当時
れていた当時の
当時の「宗教家
宗教家」たちのことを
たちのことを、
のことを、また、
また、そのような宗教
そのような宗教家
宗教家たちに「
たちに「罪人」として扱
として扱われていた
取税人、遊女、更には宗教儀式
には宗教儀式を
宗教儀式を守らない、
らない、宗教的でない
宗教的でない生活
でない生活をしている
生活をしている人々
をしている人々のことを
人々のことを「
のことを「弟」として
譬えられた。
えられた。
●先週の
先週の日曜日は、この譬
この譬え話、特に兄と弟の姿を通して、
して、私たちは、「
たちは、「人間
、「人間の
人間の罪」について学
について学んだ。
んだ。
(1)兄
(1)兄と弟は、その性格
その性格も
性格も、生活も
生活も、スタイルも、
イルも、すべてが全
すべてが全く正反対のように
正反対のように違
のように違った。
った。
(2)しかし
(2)しかし、
しかし、イエス様
イエス様は、この譬
この譬え話を通して、
して、その両
その両方が、父には同様な心の痛みであったこと、
であったこと、
なぜなら、
なら、二人ともが
二人ともが、
ともが、父の心とは遠
とは遠く離れていたことを指
れていたことを指摘してお
しておられるのである。
られるのである。即ち、
★弟が文字通
文字通り、物理的
物理的にも、
にも、精神的・
精神的・霊的にも
霊的にも、
にも、父親、
父親、すなわち神
すなわち神様から遠
から遠く離れていた(
れていた(ルカ
15:
15:13)罪
13)罪人であったことは
であったことは明
ことは明らかである。
らかである。
★しかし、
しかし、物理的
物理的にこそ、
にこそ、父親の
父親のそばにいた兄
にいた兄もまた、
もまた、その心
その心は、父親の
父親の思いとは遠
いとは遠く離れてい
た(パリサイ
リサイ人、律法学者:
律法学者:マタイ
マタイ15:
15:8)。
1
★即ち形は違ってもその本質
ってもその本質に
本質において二人
いて二人ともが
二人ともが父
ともが父の心から離
から離れ、その心
その心を痛めていたのである。
めていたのである。
(3)同
(3)同じことがパリサ
ことがパリサイ
リサイ人、律法学者たち
律法学者たちと
たちと言う宗教家
宗教家と、罪人と呼ばれる取
れる取税人、遊女達とについ
ても言える。
える。
★即ち、生活ス
生活スタイルや現
イルや現れは違
れは違っても、
っても、彼らは両
らは両方とも神
とも神から離
から離れた罪
れた罪人である。
である。
★イエス様
イエス様は言われる。
われる。「宗教家
宗教家たちよ。
たちよ。確かに、
かに、あなたがたが言
あなたがたが言うように、
うように、取税人、遊女たちは
罪人である。
である。しかし、
しかし、それと同
それと同じように、
ように、あなたがたも罪
あなたがたも罪人である」
である」と。
(4)この
(4)この譬
この譬え話を通して、
して、聖書が
聖書が人間の
人間の罪について宣
について宣言することは、
することは、
★罪の形や現れ方は、その人
その人の性格や
性格や生い立ち等で違っても、
っても、その本質
その本質に
本質においてすべての人
いてすべての人は罪
人である。
である。
★そして、
そして、その罪
その罪の本質とは
本質とは、
とは、神よりも自分
よりも自分を
自分を愛する「
する「自己中心」である。
である。(I first, God second)
second)
★父である神
である神を厭い、感謝することもなく
感謝することもなく、
することもなく、父から受
から受けたものをすべて
けたものをすべて我
すべて我が物として、
として、自分を
自分を喜
ばせるため、
せるため、自分を
自分を追及するために
追及するために使
するために使う弟の姿は、明らかな「
らかな「自己中心」としての罪
としての罪を現していた。
していた。
★同時に
同時に、兄も表面的には
表面的には、
には、父から離
から離れず、
れず、父に忠実に
忠実に仕え、誠実な
誠実な人生を歩んできたかに見
んできたかに見え
たが、
たが、実はその心
はその心は遠く父の心から離
から離れ、父に対する不
する不平、不満、
不満、弟に対する妬
する妬みと憎しみに満
ちていた。
ちていた。そして、
そして、そのまじ
そのまじめな人
めな人生を支えていた兄
えていた兄の心中の究極の
究極の目的は、弟同様に父ではな
かった。
かった。即ち神様ではなかった。
ではなかった。今に自分が
自分が認められること、
められること、自分が
自分が報いられること、
いられること、いつの日
いつの日
か、父のものが自分
のものが自分の
自分のものになること以外
ものになること以外何
以外何ものでもなかった。
ものでもなかった。
★この点
この点に関し、締めくくりに、
めくくりに、NYマンハ
NYマンハッ
マンハッタンの
タンの Church of Redeemer の牧師 Timothy
Keller の"放蕩する
放蕩する神
する神(Prodigal God)
God)”から引
から引用した。
した。Keller はモーツアル
ツアルトの生涯と
生涯とその余
その余り
に早い死にまつわる伝
にまつわる伝説の戯曲「
戯曲「アマデウス
アマデウス」の主人公とサリエ
サリエリの生涯の
生涯の中に、この兄
この兄の罪の姿
を見た。彼は誠実な
誠実なクリス
クリスチャンであった
チャンであった。
であった。彼は宮廷音
宮廷音楽家であったが、
であったが、神様に自らが優秀
らが優秀な
優秀な音
楽家になれるように祈
になれるように祈り、神様に誓った。
った。「神様。もし、
もし、あなたが、
あなたが、私をそのようしてくださる
のようしてくださる
なら、
なら、私はあなたのために何
はあなたのために何でもします。
でもします。清い生活を
生活を送ります。
ります。貧しい人
しい人に仕え、施します」
します」と。
しかし、
しかし、そのように
そのように祈
ように祈るサリエ
サリエリの心にあった究極
にあった究極の
究極の動機は
動機は、自分であり
自分であり、
であり、自分の
自分の栄光であった
栄光であった。
であった。
彼にとって神
にとって神も、貧しい人
しい人たちも、
たちも、そのための道
そのための道具でしかなかった。
でしかなかった。それが罪
それが罪なのであ
なのである
である。
●しかし、
しかし、この譬
この譬えが語
えが語るメッセージはそこで終
るメッセージはそこで終わらない。
わらない。むしろ、
むしろ、そのメッセージの中
そのメッセージの中心は、その罪
その罪
人である二人
である二人の
二人の息子、
息子、即ち、色々な形で罪を犯す私たちすべてを子
たちすべてを子として、
として、愛し、赦し、迎えいれ
る父の愛である。
である。
●先週のメッセージの
先週のメッセージの復習
のメッセージの復習に
復習に多くの時
くの時間を取ったが、
ったが、今日残
今日残された時
された時間、この父
この父の愛についてメッセー
ジをいただきたい。
ジをいただきたい。
本
論
Ⅰ.この父の愛は、惜しみなく与える愛であった。
A. この父親が彼に与えたものを見たい。
1.数字的に
数字的に言うと、
うと、この父親
この父親が
父親が、弟息子に
弟息子に渡した財産
した財産は
財産は、遺産相
遺産相続の決まりから言
まりから言って、
って、父親
の持っていた全財産
っていた全財産の
全財産の 3 分の1(兄が 3 分の2となる)
となる)だったと思
だったと思われる。
われる。
2.しかも、
しかも、この場合
この場合、
場合、それを、「
それを、「今
、「今すぐ」、生きているうちにしなければ
きているうちにしなければならなかったのである
から、
から、恐らく、
らく、父親は不動産の一部を即座に
即座に売却し
売却し、現金にするなどのややこしいことを
現金にするなどのややこしいことを含
にするなどのややこしいことを含
んでいたであろう。
んでいたであろう。
3.しかし、
しかし、彼はそれを実
はそれを実行し、それを惜
それを惜しげもなく息子
しげもなく息子に
息子に与えたのである。
えたのである。
4.しかも、
しかも、それが、
それが、息子のしたくだらない
息子のしたくだらない遊
のしたくだらない遊びのために湯水
びのために湯水のように
湯水のように使
のように使われ、
われ、あっと言
あっと言う間に
消えて行
えて行ったのである。
ったのである。
5.にもかかわらず、
にもかかわらず、彼は、その息子
その息子が
息子が帰ってきたとき、
ってきたとき、咎めることもせず、
めることもせず、
(1)最上
(1)最上の
最上の洋服を
洋服を与えた:
えた:(バークレー
クレーの注解から
注解から)
から)これは、
これは、栄誉の
栄誉の回復
(2)足
(2)足に靴をはかせた:
をはかせた:これは、
これは、奴隷・
奴隷・使用人としてではなく子
としてではなく子として迎
として迎えた
(3)手
(3)手に指輪をはめた
指輪をはめた:
をはめた:これはこの
これはこの息子
はこの息子に
息子に財産等
財産等の決断権
決断権(Power of Attorney)
Attorney)を与えたこ
とを意味
とを意味していた
意味していた。
していた。
(4)更
(4)更には、
には、子牛をほふっての
子牛をほふっての大
をほふっての大パーティーである。
パーティーである。
2
6.ここに描
こに描かれている父親
かれている父親の
父親の姿は、一体どこまでこの
一体どこまでこの父親
どこまでこの父親は
父親は、この子
この子に与えるつもりか?
えるつもりか?と私
たちに考
たちに考えさせる。
えさせる。答えは、
えは、持っているすべてであり、
っているすべてであり、どこまでも果
どこまでも果てしなくである。
てしなくである。
7.兄息子がイ
兄息子がイラ
がイライラするのも当
するのも当たり前
たり前だと感
だと感じるほどである。
るほどである。
8.父親の
父親の愛は、相手が誰であれ、
であれ、即ち、それが、
それが、反逆した
反逆した息子
した息子であれ
息子であれ、
であれ、放蕩した
放蕩した息子
した息子であれ
息子であれ、
であれ、
自分が
自分が持っている(
っている(否、持っていないものまで)
っていないものまで)すべてを与
すべてを与える愛であった。
であった。
1.ヨハネ 3 章16節
16節:神は実にそのひとり子
そのひとり子をお与
をお与えになったほどに世
えになったほどに世を愛された。
された。其れは御
れは御子を
信じるものがひ
るものがひとりとして
とりとして滅
として滅びることなく、
びることなく、永遠の命を持つためである。
つためである。
2.ローマ5
ローマ5章8節:しかし、
しかし、私たちがまだ罪
たちがまだ罪人であったとき、
であったとき、キリストが私
キリストが私たちのために死
たちのために死んでく
ださったことにより、
ださったことにより、神は私たちに対
たちに対するご自身
するご自身の
自身の愛を明らかにしてお
らかにしておられます。
られます。
3.ローマ8
ローマ8章 32 節:私たちすべてのために、
たちすべてのために、ご自分の
自分の御子をさえ惜
をさえ惜しまずに死
しまずに死に渡された方
された方
がどうして御
がどうして御子と一緒に、すべてのものを私
すべてのものを私たちに恵
たちに恵んでくださらないことがありましょ
んでくださらないことがありましょう。
4.これらの聖
これらの聖句が語るように、
るように、神様の私たちに対
たちに対する愛
する愛は、ご自分の
自分の最愛のいとし子
のいとし子であり、
であり、
ひとり子
とり子なるイエス様
なるイエス様の命さえ惜
さえ惜しまずに私
しまずに私たちに与
たちに与えられる愛
えられる愛である。
である。
5.それは私
それは私たちを愛
たちを愛するためなら、
するためなら、救うためなら、
うためなら、祝福するためなら何
するためなら何でもする愛
でもする愛、何もかも
する、
する、何をも惜
をも惜しまない愛
しまない愛である。
である。
6.だから先
だから先に引用した Tim Keller 牧師は
牧師は、彼のルカ15
のルカ15章
15章のこの譬
のこの譬え話に関する著
する著書の題名
を Prodigal God(
God(放蕩する
放蕩する神
する神)としたのである。
としたのである。
(1)Prodi
(1)Prodigal を辞書で調べると、「
べると、「無駄
、「無駄にする
無駄にする」「
にする」「浪費
」「浪費する
浪費する」「
する」「豊
」「豊かな」「
かな」「有
」「有り余る」「ぜ
」「ぜいたくな」
いたくな」
「物惜し
物惜しみしない」
しない」(wasteful, extravagant, spendthrift, profligate, generous, lavish,
liberal, unsparing)
g)
(2)この
ていたら、「
、「あなたは
(2)この父親
この父親の
父親の姿に顕された神
された神の愛は、傍(はた)
はた)で見ていたら
、「あなたは何
あなたは何と言う無駄をす
無駄をす
るのだ、
るのだ、馬鹿じゃ
馬鹿じゃないか
じゃないか、
ないか、そんなことにそんなにまでして」
そんなことにそんなにまでして」と言われてもお
われてもおかしくないほ
どの物惜
どの物惜し
物惜しみのない、
のない、ぜいたくと言
いたくと言いたい愛
いたい愛であった。
であった。
(3)私
(3)私たちのような罪深
たちのような罪深い
罪深い汚れた人間
れた人間を
人間を救うために、
うために、御座に
御座に座してお
しておられたお
られたお方、栄光に
栄光に輝
いた、
いた、罪も汚れもない「
れもない「神のひとり子
とり子」を十字架の
十字架の上で呪い殺すと言
すと言う犠牲は
犠牲は、「ぜいた
く」としか言
としか言いようがない。
いようがない。
1.弟息子は
弟息子は、そのような父親
そのような父親の
父親の愛を確信できず
確信できず、
できず、お金に、快楽に
快楽に幸せの確信
せの確信を
確信を求め、その中
その中に
迷い込み、自らを滅
らを滅ぼした。
した。
2.兄息子も
兄息子も同様であった。
であった。彼は父親のす
父親のすぐ
のすぐそばに生きていたが、
きていたが、彼もまた父親
また父親のこのような
父親のこのような大
のこのような大
きな愛
きな愛を確信できないで
確信できないで不
できないで不平と不満の
不満の中に生きていた。
きていた。
3.人間としての
人間としての幸
としての幸せ、クリス
クリスチャンとしての
チャンとしての祝
としての祝福のすべては、
のすべては、神様が、私を、この信
この信じられな
いような、
いような、惜しみない大
ない大きな、
きな、豊かな愛
かな愛をもって愛
をもって愛していてくださることを確信
していてくださることを確信するところ
確信するところ
から始
から始まる。
まる。
4.一歩下がって言
がって言うなら、
うなら、弟息子、
弟息子、兄息子がそうであったように
兄息子がそうであったように、
がそうであったように、私たちも天
たちも天の父である神
である神様
のこのような大
このような大きな愛
きな愛が、分からなくなるとき、
からなくなるとき、確信できなくなるときがあるであろう
確信できなくなるときがあるであろう。
できなくなるときがあるであろう。
5.しかし、
しかし、そのときに
そのときに、不信仰に身を任せるなら、
せるなら、私たちは人
たちは人生に、信仰に破綻を
破綻を来たす。
たす。
B. このような惜しみのない愛が、まさに父なる神様の私たちに対する愛であると聖書は言う。
C. 私たちの不幸と人生の失敗はどこから来るか?それはこんな大きな神の愛を確信できない所からである。
ⅠI.次に学びたいことは、このような惜しみない、豊かな愛をもって神様が私たちに実際にして下さったことである。
A. 神様は愛をもって私たちを待ってくださった。
1.この父親
この父親は
父親は、その財産
その財産と
財産と使用人たちを使
たちを使って、
って、この息子
この息子の
息子の居所を
居所を探し出し、説教をして
説教をして、
をして、
「ほら、
ほら、私の思ったとお
ったとおり、言ったとお
ったとおりになった。
りになった。いつまでもこんなところにいるんじゃ
いつまでもこんなところにいるんじゃ
ない。
ない。もう一
もう一度息子として
息子として迎
として迎えてやるから、
えてやるから、さあ一
さあ一緒に帰ろう」
ろう」と言って、
って、連れ戻すことも
できたであろう。
できたであろう。
2.しかし、
しかし、この父親
この父親はそうしなかった
父親はそうしなかった。
はそうしなかった。彼は待ったのである。
ったのである。息子自身が
息子自身が気がついて、
がついて、自分で
自分で
戻って来
って来るまで待
るまで待ったのである。
ったのである。愛がすることの中
がすることの中で「待つ」ことほど難
ことほど難しいことはない。
しいことはない。
3.待つよりも、
つよりも、何かをすることの方
かをすることの方が易しいときが多
しいときが多い。しかし、
しかし、愛は待つのである。
つのである。
3
4.私たちは皆知
たちは皆知っている
皆知っている。
っている。
(1)誰
(1)誰かの間違
かの間違いに
間違いに気
いに気付いたとき、
いたとき、それを直接
それを直接言
直接言わないで、
わないで、その人
その人が変わるのを待
わるのを待つことの
難しさを。
しさを。特に、自分が
自分が正しいと思
しいと思えば思うほど、
うほど、言わなければ
わなければと心が募る。
(2)しかし
(2)しかし、
しかし、同時に
同時に、知っていることは、
っていることは、それをどのように言
それをどのように言っても、
っても、効果がないこと、
がないこと、か
えって悪
えって悪くなることさえあることである。
くなることさえあることである。
5.聖書は
聖書は言う:
(1)ヤコブ
(1)ヤコブ 1 章19-20節「だれでも、
だれでも、聞くには早
くには早く、語るに遅
るに遅く、怒るには遅
るには遅いように
しなさい。
しなさい。(なぜなら)
なら)人の怒りは神
りは神の義を実現するものではありません
実現するものではありません」。
するものではありません」。
(2)Ⅰ
(2)Ⅰコリント 13 章3-7節でパウロは言う。「たとい
。「たとい愛
たとい愛がなくても、
がなくても、人は自分の
自分の全財産や
全財産や
自分の
自分の命を与えることができるかもしれない。
えることができるかもしれない。しかし、
しかし、愛がなければ
がなければ、決してすべてを
がまんしたり、
がまんしたり、すべてを信
すべてを信じたり、
たり、期待したり、
したり、耐え忍んで待
んで待つことはできない。
つことはできない。」と。
(3)雅歌書
雅歌書8章4節「愛が目覚めたいと思
めたいと思うときまでは、
うときまでは、揺り起こしたり
こしたり、かき立
かき立てたりしな
いでください」。
いでください」。
6.この父親
この父親は
父親は、弟息子の
弟息子の中に、「我
、「我に返って」
って」自分の
自分の姿の惨めさと、
めさと、これまで彼
これまで彼がしてきたこと
の誤りに自
りに自ら気づき、
づき、自らでどうするべきかを決断
らでどうするべきかを決断し
決断し、自らで立
らで立ち上がるまで、
がるまで、彼はひたす
ら、愛の忍耐のゆえに
忍耐のゆえに待
のゆえに待ち続けたのである。
けたのである。(もちろん、
もちろん、信仰的には、
には、それらができるのは、
それらができるのは、
神の恵みのゆえに働
のゆえに働く見えないご
えないご聖霊のお働きの故
きの故である)
である)
7.あのとき、
あのとき、もし、
もし、父親が
父親が誰かを遣
かを遣わすなり、
わすなり、自分が
自分が息子のところに
息子のところに行
のところに行って、
って、説教して
説教していたら
していたら、
いたら、
このような深
このような深い息子の
息子の悔い改めと回復
めと回復はなかった
回復はなかったであろう
はなかったであろう。
であろう。
1.ある精神
ある精神病
精神病理学者は、「もし精神的
もし精神的な
精神的な問題で入院している人
している人たちが、
たちが、過去の
過去の罪から来
から来る良心
の呵責から
呵責から解
から解放され、
され、赦されたという確信
されたという確信をもつことができたら
確信をもつことができたら、
をもつことができたら、半分以上の人が退院でき
退院でき
るであろう」
るであろう」と言い、私達にとって
私達にとって罪
にとって罪が赦されたという確信
されたという確信を
確信を持つことの重要
つことの重要性
重要性を強調した。
した。
2.過去に
過去に失敗の
失敗の経験と
経験と記憶を
記憶を持つこの息子
つこの息子がそれに
息子がそれに気
がそれに気づき、
づき、立ち直って再
って再出発しようとすると
き、どうしても必要
どうしても必要なことは
必要なことは、
なことは、過去の
過去の清算であった。
であった。即ち、過去の
過去の罪を全部赦してもらった
部赦してもらった
という確信
という確信である
確信である。
である。
3.赦しと言
しと言っても、
っても、現実には
現実には、
には、人からの赦
からの赦しは遅
しは遅れること、
れること、後になることもある。
になることもある。しかし、
しかし、私
たちの再
ちの再出発の為にはまず神
にはまず神様からの赦
からの赦しである。
しである。この父親
この父親の
父親の赦しはそれを
しはそれを意味
それを意味していた
意味していた。
していた。
4.確かに、
かに、この父親
この父親の
父親の口からは、「
からは、「あなたの
、「あなたの罪
あなたの罪を私は全部赦した
部赦した」
した」という具
という具体的な言葉は記され
ていない。
ていない。しかし、
しかし、そこに記
そこに記されている父親
されている父親の
父親の態度と
態度とことば
ことばは、十分過ぎるくらい、
るくらい、息子が
息子が
彼に対して犯
して犯した罪
した罪のすべてを、
のすべてを、父親が
父親が完全に赦したことを物語
したことを物語っている
物語っている。
っている。
5.イエス様
イエス様が、人殺しと強盗
しと強盗の
強盗の罪で、イエス様
イエス様と共に十字架に
十字架に付けられ、
けられ、最初は
最初は他の人と一緒
になってイエス様
になってイエス様のことをあざ
のことをあざけり罵
けり罵っていた男
っていた男が、その死
その死の寸前に心を変えて、
えて、自らの罪
らの罪
を認め、イエス様
イエス様を救い主と受け入れたとき、
れたとき、イエス様
イエス様は特に「あなたの罪
あなたの罪は赦された」
された」とは
言われず、
われず、一言、「
一言、「今日
、「今日、
今日、あなたは私
あなたは私と一緒にパラ
にパラダイスにいる」
イスにいる」と言われただけであった。
われただけであった。
6.この父親
この父親も
父親も同じであった。
であった。彼は、この息子
この息子を
息子を無条件で受け入れ赦したのである。
たのである。この息子
この息子が
息子が、
「私は、天に対しても、
しても、あなたに対
あなたに対しても罪
しても罪を犯しました」
しました」と言ったとき、
ったとき、もう彼
もう彼は何もそれ
以上聞くことを必要
くことを必要としなかった
必要としなかった。
としなかった。息子自身は
息子自身は、「私
、「私はもう息子
はもう息子として
息子として迎
として迎え入れられるとは
思っていません。
っていません。どうか雇
どうか雇い人として、
として、その条
その条件で良いですから受
いですから受け入れてください」
れてください」と言
いたかった。
いたかった。しかし、
しかし、父親はそ
父親はそんな
はそんな条
んな条件はいらないと言
はいらないと言わんば
わんばかりに、
かりに、それを言
それを言わせず
わせず、息
子の言葉を遮って、
って、最上の
最上の着物(
着物(子としての栄誉
としての栄誉の
栄誉の回復)
回復)、指輪(
指輪(子としての権
としての権威の回復)
回復)、靴
(子としての活動
としての活動の
活動の回復)
回復)を持ってくるように命
ってくるように命じた。これは、
これは、父親が
父親が無条件で息子の
息子の過去の
過去の
すべての罪
すべての罪を赦したことを意味
したことを意味していた
意味していた。
していた。
1.愛とは何
とは何か? 愛していると言
していると言葉で言うことか?
うことか? 何かプレゼントすることか
ントすることか?
することか? 相手の好
きそうなこと、
きそうなこと、相手のためになりそうなことをすることか?
のためになりそうなことをすることか? それらも確
それらも確かに愛
かに愛であろう。
であろう。
2.しかし、
しかし、同時に
同時に、それらは、
それらは、しばしば、見せかけだけ
せかけだけの
だけの愛で終わってしまうこともある
わってしまうこともある。
こともある。
B. 次に、神様は、愛をもって私達の犯したすべての過去の罪を赦してくださった。
C. 最後に、神様は、愛のゆえにご自分のすべてを私達に与えてくださった。
4
(1)その
(1)その良
その良い例が、しばしば、親たちと子
たちと子供たちの会
たちの会話に見られる。「
られる。「誰
。「誰のためにこんなこと
を言うか、
うか、分かる?
かる? あなたのためよ!
あなたのためよ!」と親は言う。しかし、
しかし、しばしば、それが親
それが親のエ
ゴからきていることも少
ゴからきていることも少なくない。
なくない。
(2)だから
(2)だから、
だから、すでに引
すでに引用したが聖書
したが聖書は
聖書はⅠコリント 13 章3節で言う。「たとい
。「たとい私
たとい私が持っている
物の全部を貧しい人
しい人たちに分
たちに分け与え、また私
また私の体を焼かれるために渡
かれるために渡しても、
しても、愛がなけ
れば何の役にも立
にも立ちません」
ちません」と。
3.愛の究極的・
究極的・本質的「
本質的「真髄」
真髄」とは何
とは何か? それは、
それは、たといそれが高価
たといそれが高価な
高価な物であったとしても何
であったとしても何
かを与えること
えることではなく
ことではなく、
ではなく、或いは、
いは、それがたとい困
それがたとい困難なことでも何
なことでも何かをすることではなく、
かをすることではなく、
「自分自身」
自分自身」を相手に与えることである。
えることである。
4.この父親
この父親がしたこと
父親がしたこと、
がしたこと、この父親
この父親の
父親の表した愛
した愛は正にその愛
にその愛であった。
であった。彼は、息子たちに
息子たちに何
たちに何かを
したという以
したという以上に、否、時には何
には何かをしなかったことの中
かをしなかったことの中に、「自分自身
、「自分自身」
自分自身」を息子たちに
息子たちに与
たちに与え
たのである。
たのである。これが彼
これが彼の愛であった。
であった。
(1)弟息子
(1)弟息子との
弟息子との関
との関係でそれが明
でそれが明らかになるのは、
らかになるのは、父親が
父親が息子に
息子に財産を
財産を分け与えたときではな
い。それは、
それは、むしろその弟息子
むしろその弟息子が
弟息子が帰って来
って来たのを彼
たのを彼が迎えたときである。
たときである。
●イエス様
イエス様は言われる。「
われる。「まだ
。「まだ家
まだ家までは遠
までは遠かったのに、
かったのに、父親は
父親は彼を見つけ、
つけ、かわいそうに
思い、走りよって彼
りよって彼を抱き、口づけをした」。
づけをした」。
●当時の
当時のユダヤ人
ユダヤ人の社会の
社会の中では、
では、立派な男が、やたらに「
やたらに「走る」などということは、
などということは、タ
ブーなことであった。
ーなことであった。父親の
父親の威厳を
威厳を損なう行
なう行為であった。
であった。
●ましてや、
ましてや、ここでは、
ここでは、親を親とも思
とも思わないで出
わないで出て行き、放蕩して
放蕩して戻
して戻って来
って来た息子を
息子を迎
えるときである威厳
えるときである威厳と
威厳と権威をもって迎
をもって迎えるべきときである。
えるべきときである。これは「
これは「パパは友
パパは友達」的な
物分りの
物分りの良
りの良い父がもてはやされる現
がもてはやされる現代社会では
代社会では考
では考えられないかもしれないことである。
えられないかもしれないことである。
●そんな父親
そんな父親が
父親が、息子が
息子が近くに来
くに来たときではなく、
たときではなく、まだ遠
まだ遠く離れていたのに、
れていたのに、走った。
った。
走った。
った。走った。
った。息が切れるほど走
れるほど走った。
った。と言うのである。
うのである。
●そのとき彼
のとき彼には、恥も外聞もな
外聞もなかった
もなかった。
かった。伝統も常識もな
常識もなかった
もなかった。
かった。威厳も
威厳もプライドもな
かった。
かった。そこには自分
そこには自分がどう
自分がどう見
がどう見られるか、
られるか、どう言
どう言われるか、
われるか、それが後
それが後で自分の
自分の人生に
何を意味するかもなかった
意味するかもなかった。
するかもなかった。何もなかった。
もなかった。あったのは帰
あったのは帰って来
って来た息子を
息子を受け入れた
い、抱きしめたい、
きしめたい、それ以外
それ以外何
以外何もなかった。
もなかった。彼は一切の計算を
計算を捨てて、
てて、ただ自分
ただ自分の
自分の全
部をその子
をその子に与えて、
えて、息子を
息子を歓迎したかったのである
歓迎したかったのである。
したかったのである。
●人間が
人間が究極的に
究極的に自らの愛
らの愛として相
として相手に与えるものは何
えるものは何か? 自分自身である
自分自身である。
である。しかし、
しかし、
「自分」
自分」を与えるということの中
えるということの中心は「プライド」を捨てることである
てることである。
である。
●イエス様
イエス様に表された神
された神の愛は、ピリピ 2 章6-7節に「・・・・」
・・・・」とあるように、
とあるように、ご自
分とプライドのすべてを捨
のすべてを捨てて僕
てて僕(しもべ)
しもべ)として自
として自らを私
らを私たち与
たち与えられた愛
えられた愛であった。
であった。
(2)この
(2)この父親
この父親はまた
父親はまた兄息子
はまた兄息子に
兄息子にもこのように言
このように言った。「
った。「お
。「お前はいつも私
はいつも私といっしょ
といっしょにいる。
にいる。私の
ものは、
ものは、全部お前のものだ」
のものだ」と。
●誰かに「
かに「自分を
自分を与える」
える」ことの究極
ことの究極は
究極は、「その人
その人と一緒にいて共
にいて共に時間を過ごすことであ
る」。(
」。(家内は
家内は言う:バレンタ
バレンタイ
ンタインに「花」をもらうより、
をもらうより、しばらくの時
らくの時間を一緒に座って
話しを聞
しを聞いて、
いて、一緒に祈ることの方
ることの方が嬉しい)
しい)
●ユース・
ース・ミニス
ミニスターに聞
ーに聞いたことがある。
いたことがある。ユース・
ース・ミニス
ミニストリーの
トリーの鍵
ーの鍵は、説教するこ
説教するこ
とではなく、
とではなく、一緒に時間を過ごすことであると。
すことであると。
●マタイ
マタイ福音書 1 章 23 節は、イザヤの
ザヤの預言を引用してこのように記
してこのように記す。クリス
クリスマスに
乙女マリヤ
マリヤから生
から生まれる救
まれる救い主は、「イ
、「イムマヌエル」
エル」と呼ばれると。
れると。その意味
その意味は
意味は、「神
、「神が
共にいます」
にいます」である。
である。
●そして、
そして、同じ福音書の
福音書の締めくくり 28 章 20 節で、イエス様
イエス様は言われる。「
われる。「見
。「見よ。私は
世の終わりまでいつもあなたがたと
わりまでいつもあなたがたと共
がたと共にいる」
にいる」と。
●神の愛は、単に私たちを罪
たちを罪から救
から救うだけでなく、
うだけでなく、こんな穢
こんな穢れた私
れた私と、こんな問
こんな問題だら
けの私
けの私と、一緒にいてどのくらい楽
にいてどのくらい楽しいのかと思
しいのかと思うような私
うような私と、いつも一
いつも一緒にいてくだ
さるというのである。
さるというのである。
5
●これが神
これが神の愛である。
である。ご自分の
自分の全部を私たちに下
たちに下さったのである。
さったのである。
結
論
●今週は
今週は感謝祭
感謝祭の週である。
である。
●信仰の自由を求めて、
めて、ヨーロッパからここア
ッパからここアメリカに移住
カに移住して
移住して来
して来たピルグリム・ファー
ファーザーズたちが
一年の試練を乗り越えたときに、
えたときに、神様のご加護に
加護に対して、
して、また助
また助けてくれたインデアン
けてくれたインデアンたちに
ンデアンたちに対
たちに対して
感謝を
感謝を表したのが起
したのが起源だと言
だと言われる。
われる。
●すなわち、
すなわち、名前とおりに「
りに「感謝」
感謝」を捧げるときである。
げるときである。
●お互いにそれを実
いにそれを実行する週
する週でありたいが、
でありたいが、様々なことに
様々なことに対
なことに対する感謝
する感謝に
感謝に勝って、
って、イエス様
イエス様にあって現
にあって現さ
れた神
れた神様の愛への感謝
への感謝を
感謝を忘れない者
れない者でありたい。
でありたい。
6