イノシシがブタになるまで

イノシシがブタになるまで
ドメスティケーションを探る
東京農業大学教職・学術情報課程 教授 黒澤弥悦
読者の方々は<写真1>をご覧になり、どのように
思われるだろうか。これは沖縄本島に生息する琉球イ
ノシシが一人の老人の呼びかけに近寄った瞬間であ
る。
18年前、
そのご老人が畑で昼食をとっていたところ、
数頭のウリ坊(子供のイノシシ) が森から現れ、それ
らに昼食の余りを与えたという。それがきっかけで、
餌付けを繰り返し続け徐々にウリ坊を畑に定着させ
ながら、その周りに緩やかに囲いを作り、飼育や繁殖
を達成させたことで生じたイノシシとの触れ合いであ
る。信じ難いような出来事だが、実際にあった話であ
る。
)は飼い馴らされた家畜ブタの
イノシシ(
野生祖先種である。すなわち野生動物を家畜にすると
いうドメスティケーション(domestication)について、
イノシシを対象として追究することが、私の研究テー
マである。
くろさわ やえつ
1953年岩手県生まれ。
東京農大農学部畜産学科卒。
農学博士。同大元・家畜血清
学研究所助手、奥州市「牛の
博物館」学芸員を経て、
現在、
同大教職・学術情報課程(博
物館情報学研究室)教授。
専門分野:家畜資源学、博物
館学
主な研究テーマ:家畜の遺伝
的多様性と文化史。
主な著書:世界家畜品種事典
(共著)東洋書林、アジアの在来家畜[家畜の起源と系
統史]
(共著)名古屋大学出版会、
地球環境学事典(共著)
弘文堂。
人間と動物との共生関係
ドメスティケーションは人間が動物や植物を自己の
管理下におくことで、動物では家畜化、植物では栽培
化の意味で使われる。およそ1万年前、それまで狩猟
採集依存の生活だった人間が始めた生活資源を恒常的
に確保する生業技術体系とされる。ドメスティケー
ションは、人間と動植物との長い共生関係で成立した
と考えられ、農学、人類学、民族学、考古学などの各
分野の人たちの関心の対象となり、多くの研究や議論
がなされてきた。しかしその全容は未だ明らかではな
い。これは自然系や人文系の各分野で研究手法が異な
り、それに対する見解の相違が見られることも背景に
ある。
私は家畜化で生じてきたブタの形態的・遺伝的変異
や、その飼育形態にも注目し、イノシシの家畜化の主
な起源地とされるアジア各地で調査を行ってきた。
イノシシは他の家畜の野生祖先種では見られない広
い分布域をユーラシア大陸、アフリカ大陸北部、及び
アジア周辺の島々に持つ。イノシシは雑食性であり、
農作物を荒らし、時には残飯や排泄物も漁るなど、人
間の居住空間にも侵入する。狩猟獣では美味な肉資源
となり、鋭い牙を持ち気性は荒いが、生け捕りされ飼
育も行われる。このように人間との親和性を持つイノ
シシは潜在的に飼育対象にされ易く、家畜化を考える
写真1.琉球イノシシの飼育。
(沖縄県国頭郡東村)
上で極めて興味深い動物なのである。
野生祖先種との連続性
これについて説明する前に、まず家畜の定義を示す
必要がある。研究者によっては多少の違いはあるが、
畜産大事典(1978)では「家畜とはその生殖が人間の
管理のもとにある動物である」と記されている。これ
は家畜の本質を示したものであり、家畜化の定義に照
らしてみると、それが明確に理解できる。同事典にあ
る家畜化とは「ヒトの側が初めは無意識的に、後には
それによる利益に気付いて意識的かつ計画的に、動物
の生殖を自己の管理下に置き、管理をより強化してい
く、世代を越えた連続的な過程である」となっている。
新・実学ジャーナル 2012.3
3