「当事者中心主義の視点から読み直すコロニー論」

紙
上
最
終
講
義
「当事者中心主義の 視点から読み 直すコロニー 論
」
一日本で最初にコロニーきつくった 登丸 福寿の理論と 実践を通して
天理大学
一
登丸
寿一
はじめに
このたび、 編集 干 より、 退任に際して 何か書いてほしいとの 依頼があ りました。 私は心のうちで、
定年を迎えたときは 静かにこの大学からフェイドアウトしようと 考えていましたので、
した。 しかし、 考えてみればあ
無碍 @こ 断ることはできず、
少々戸惑いま
りがたい話で、 このような、 去り行くものに 対する専攻からの 好意を
引き受けさせていただくことに 致しました。
私は、 天理大学に社会福祉専攻が 創設された 1992 年 (平成 4 年 ) に呼んでいただき、 本年で丁度
17 年になります。 私は、老大学で主に 障害者福祉論を 担当させていただきました。
この紙上を借りて、
障害者の福祉について 最後の講義をさせていただきたいと 思います。
私が障害者福祉論の 制度の発展を 講義するとき、 少しばかり カ がはいるのは、 コロ ニ 一の歴史のと
ころです。 それはわが国で 最初にコロニーをつくったのは 私の父、 登 丸 福寿であ るからです。 そして、
そのコロニーは 障害者福祉制度の 発展の歴史の 中ではわが国の 高度経済成長期に 咲いた 1 つの徒花の
ごときものでもあ ったと思われます。
それだけに、 そこをど
う
話せばよいのか、 力がはいるというわ
けです。
日本の社会福祉はその 時代のニーズに 基づいて、 それを段階的に 充足する形で 進められてきました。
今、 問題とされている 障害者自立支援法の 見直しもその 一つです。 今般の見直しの 最大の問題 は
「
応
益 負担」 としての「 1 割負担」がひどすぎるというものです。 何故このようなことになるのか、 それ
は当事者の視点を 欠いたことに 他ならないといえます。 つまり制度をつくる 時、 一番大事なことは、
当事者の視点からものを
考えるということではないかと 思います。 いつも、 当事者はど
う
思っている
のか、 そのことによって 当事者はどうなるのかということを 第一に考えてやっていくことではないで
しょうか。そ う しないと、この度の自立支援法の
見直しみたいなことが 起こってくるのだと
思います。
ほいうものの 当事者の視点といいましても、 それは簡単にとらえられない 側面をもっていると 思わ
れます。 過去の歴史においても、 それぞれの時代において、 いつも当事者のためということで 障害者
と
福祉制度が展開してきたと 思いますが、 必ずしも当事者の 幸せにつながったともいえないのです。 そ
こで、 ここでは当事者のニーズとは 一体何であ り、 それはど
う
したら実現するのか、 そのことを知的
障害者福祉制度の 発展の歴史の 中から、 主にコロニー 論は ついて 登丸 福寿の実践と 理論を振り返りな
がら述べてみたいと
思います。
1 、 寮丸 福寿のこと
私の父は、 京都大学を出た 後、 満州国に渡り 官吏となり、 敗戦で捕われてロシア 軍の捕虜収容所に
入りました。 ロシア革命の 記念日の宴のあ と、 酔いしれて眠り 込んでいる見張り 兵の目を盗んで、
こ
のときとばかり 夜陰にまぎれて 脱出したそうです。 その後、 2 歳の私と生後間もない 弟と 家族 4 人で
引き揚げてきました。
帰国後、 父は同胞援護 会 に入り、 群馬県庁の東宅地区担当の 児童福祉司となり
ました。 終戦直後のことですから、 多くの戦災孤児の 世話をしていたそうです。
25
その中には何人もの
知的障害のあ る子どもも混じっていたそうです。
しかも、 彼らが何も手を 尽くされずに 放置されてい
る状態を目の 当たりにしたとき、 満州で捕虜収容所を 脱出する際「一度失った 命だから、 余生は何か
社会に役に立つことをしょう」と
考えたことが 蘇り、 この子達の人権 を守ることを 終生の仕事としよ
そして児童憲章ができた 1951 年 (昭和 26 年 ) に群馬県で最初に 設立された精
神薄弱児施設「県立しろがね 学園」の園長となりました。
ぅと 考えたそうです。
続いて、 1956 年 (昭和 31 午 ) に、 当時まだ制度化されていない 成人のための 自由契約施設「 こが
ね 寮 」を私費を投じて 創設し、 その後、 全国に先駆けて、 1958 年
(昭和
33 年 ) に榛名山のふもと 群
馬郡箕郷町に、 地域から土地の 無償提供を受けて「コロニーはるな 郷 」きつくることになったわけで
す 。 また、 全国の知的障害者施設連盟であ る財団法人愛護協会
協会 ) の仕事にも、 若い頃 から関わっておりました。
(現在は財団法人日本知的障害者福祉
戦後、 復興間もない 愛護協会の例会が 県立しろ
がね学園で開かれ、 そのときに機関紙「愛護」の 復刊を決定し、 登 丸は編集実務の 担当となり、 その
後 予算対策委員長、 副会長を経て、 1968 年
(昭和
43 年 ) から 1977 年
(昭和
52 年 ) まで、 まさに大
学民主化闘争の 最中、 施設も障害者の 人権 獲得の改革の 嵐が吹きすさんだ 時期に 10 年間日本精神薄
弱者愛護協会の 会長を務めました。 多年にわたり 知的障害者の 福祉に貢献した 功績ということで 1978
年
(昭和
53 年 ) 度の朝日社会福祉賞を 受賞しているというようなことであ ります。
2 、 登丸 福寿の実践から 戦後障害者福祉の 制度の歴史をたどる
(1) 障害種別対策の 始まり
の 知的障害児の 動向
さて、 話を制度の歴史に 戻しますと、 わが国の障害者福祉制度の 歴史はご存知のように、
主だった
ものとしては 戦後から始まります。 第 2 次世界大戦の 敗戦は、 わが国に大変な 混乱と国民生活の 貧困
化を招きました。 そして、 たくさんの戦災孤児や 浮浪児及び生活困難者を 生み出しました。
戦後の混乱の 中で、 障害児・ 者 対策はどうしても 当面の問題を 解決することにあ り、 それは行き場
を 失った障害児,者を保護収容するという
和 21 午 )
形で展開されていきました。 そのような最中の 1946 年 (昭
に日本国憲法が 制定され、 障害児・者の 福祉施策は公的責任によってなされるべきものと
表明されます。 それを受ける 形で、 戦災孤児や貧困家庭児童などの 緊急的課題に 対して、 1947 年に児
童 福祉法が制定され、 児童福祉施設の 一つとして精神薄弱児施設が 設置されることになります。
も前述したとおり、 群馬の地において、 障害児をもつ 親の強い願いのもとに、
に県立しろがね 学園の初代園長になります。
たまもなにせ む に
まされるたから
1951 年
施設の名前の 由来は山上憶良の「しろがねも
子にしかめやも
(万葉集
(昭和
登丸
26 年 )
こがねも
巻 5. 803)」からつけたと 言っており
ました。 私ども家族は、 敷地内の園長吉に 移り住むことになりました。
そして、 学園では独立自活に 必要な知識技能の 習得をめざして、 紙袋作り、 木工、 農産、 また新し
い職業課程として 軽石ブロ
ソク
の製造を取り 入れています。 そこでの教育法としてほト
一クン制度 (擬
似貨幣制度 ) を取り入れ園生の 意欲を喚起したり、 職業指導では 独立採算制をとり、 職業 寮 として 寮
舎 (若葉 寮 ) を他の寮から 独立させ、 その寮に自治組織を 置き、 社会的訓練の 場とする体制を 作るな
ど意欲的な試みをしています。 1953 年 (昭和 28 年 ) には園生に正規の 学校教育を受けさせるために
前橋市教育委員会から 2 名の教諭派遣を 受け、 しろがね学園全教室を 開設して、 施設内義務教育にも
力を入れた節がうかがえます。
以上 は 、 わが国の知的障害児の
制度的状況とそれに 対応した 登九 のしろがね学園の 実践のあ らまし
26
です。 では知的障害者の 制度の動きほどうであ ったでしょうか。
②知的障害者の 動向
障害のあ る大人への対応も 障害児のそれと 変わるものではなく
同じく保護的なものとなり、
その立
1949 年 (昭和 24 年 ) に身体障害者福祉法が 制定されることとなります。 敗戦によっ
法の必要性から
て 急増した身体障害者に、
緊急的に対応する 必要があ ったこともあ り、 まずは身体障害の 分野から立
法化が図られたものです。
この法律は、 わが国にとっては 大変画期的なものでそれは、 これまでの 救
貧 的な障害者対策からいわゆる
憲法の下に権 利としての障害者福祉施策として 位置づけられるもので
あ ったからです。 しかしながら、 身体障害に比べて 知的障害分野は、 知的障害児に 焦点を当てたもの
の、 知的障害者についてはこのあ
と
10 年近く手をつけられないでおかれることになります。
では、 そのような知的障害のあ る大人に対して 登丸 はどのような 動きをしたのかを 概観していきま
す。 登 丸の実践の系譜から
寮の開設の時期になります。 [ コロニーは
言えば、 しろがね学園からこがね
るな郷 20 年の歩み一コロ ニ 一のはるな 郷 設立までの経過
コ
( はるか 郷 1979 年 ) ではその辺の 事情を
以下のように 言ってます。
「しろがね学園の 入園対象者は 児童であ るが、 数年後には 18 歳になり、 自動的に学園から 出て行
かなければならない 人たちが出てきた。
家庭へ帰らされていた。
就職していく 人もあ ったがそれはわずかで、
中には帰るところがなくて、
ほとんどの人は
やむなく精神病院に 入院させられたケースもあ
った。 このような状況に 対して、 アフターケア 施設の必要性を 痛感して、 財団法人の知的障害者の
由 契約施設こがね 寮を開設した」。 前述した
" しろがねもこがねも…
"
の
自
" こがね " です。 「そこで、
登丸 はしろがね学園長とこがね 寮長を兼務した。 公立施設の施設長が 財団法人こがね 寮の長を兼務す
ることは禁じられていることであ るが、 精神薄弱児のアフターケアの 必要性を強く 説いた結果、 県知
事から特別の 許可 刀が 与えられた」。 そして、 新たに割られた、 今で言うところの 無認可成人授産施
設こがね寮では、 しろがね学園でやっていたブロック
生産を引き継ぎ、 同学園を卒園してこがね 寮に
ニ
八案した寮生によって、 いっそう生産を 上げ東京公園を 開設し、 ブロック壁の 施工をするほどになっ
ていきました。 私は 、 山と積まれたブロックを
見ながら、 しろがね学園からこがね
案内に移った 施設
長舎 で高校時代を 送ることになった 次第です。
前掲 書 ではさらに「こがね 寮は本来、 しろがね学園の 退前者を受け 入れる性格で 発足したが、 当時
は成人を対象とした 施設がないため 入寮希望者が 関東一円からあ いついだ。 しばらくしてから 東京の
青鳥養護学校卒業生も
入費してきた。 ・‥・最終的に、 成人の人たちを 対象とした総合施設の 建設の
必要性がさらに 高まってきた。 当時は法律もなく、 成人の人たちを 対象とした施設は『自由契約施設』
だけで、 全国的にも数はそれほどはなかった」。
そのようなことから
には群馬県精神薄弱児・
登丸 はこがね寮を 1956 年 (昭和 31 年 ) に開設して、 翌 1957 年 ( 和 32 年 )
日召
者総合施設コロニー 設置期成同盟を 設立しています。 つまり
精神薄弱児の
アフターケア 一の問題を、 総合施設建設の 方向で県に対して 働きかけていっているのであ ります。 そ
して同年に中央共同募金委員会のお 年玉附き年賀はがき
寄付金 2000 万円の配分を 受け、翌 1958 年 (昭
和 33 年 ) 上毛三山の秀麗榛名山の 東南 麓に 、 わが国最初の 精神薄弱児者総合施設コロニーはるな 郷
が 開設されることになるわけです。 精神薄弱者福祉法が 制定される 2 年前のことです。
まだ同福祉法
制定以前ということで、 開設当初のはるな 郷の成人施設の 名称は生活保護法の 救護施設、 更生施設に
仕分けされています。
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前掲書の中の 財団法人ほ ろな郷 設立趣意書 は その辺のところをかくのごとく
年度に児童福祉法による
精神薄弱児施設を 設置し 、 次いで生活保護法による
述べております。 「第一
救護施設、 更生施設を併
設した精神薄弱者総合施設を 設置運営し、 関東ブロック 内における精神薄弱児施設の 高年齢理及び 特
殊 学級、 養護学校中等部卒業者を 入所させて職業指導を 施し、 独立自活に必要な 知識技能を培い、 社
会に復帰し得る 見込みの者はさらに 授産指導を加えて 社会に送り出し、 自立困難なものは 救護施設に
おいて能力に 応じた仕事を 受け持たせ、 できれば家庭を 作りコロニー 形態をとった 部落の中で
,
・
,
・
(原文のまま ) 」。
このようにしてようやく、
成人施設をコロニーという
形で作り上げていくのです。
そして、 引き続
いて、 知的障害の成人のための
施設の法制化のために、 愛護協会の常任幹事として、 多くの人たちと
ともに精力的に 国に働きかけ、 その努力の甲斐あ って、 はるな 郷 設立 2 午後の 1960 年に精神薄弱者
福祉法の制定をみることになったわけです。 ちなみに、 精神薄弱者福祉法下ではコロニーはるな 郷の
精神薄弱者施設「あ すなろ 荘 」がいち早く 認可されています。
以上が、 わが国の障害者福祉制度の
践 であ
歴史における 障害種別対策の 始まりの時期に 対応した 登九 の 実
ります。 そして、 時代は高度経済成長期に 泣いり、
蔭害 者の問題は重度心身障害児音問題にス
ポットが当てられていくことになっていくのです。
(2) 「重症心身障害児・ 者 対策からコロ 三 一に至る道」
1960 年 (昭和 35 年 ) 代は重度障害者対策として 施設入所問題が 顕在化してきた 時期でした。 障害
種別対策を推し 進めていくとき、 身体障害と知的障害を 併せ持った人たちはその 谷間に入ってしまっ
ていて、何も手立てがなされていないことが 表面化してきたのです。いわゆる重症心身障害問題です。
これまで重度の 障害者に対する 取り組みとしては 1954 年 (昭和 29 年 ) の糸賀一雄による 近江学園で
の集団療育の 取り組みがあ ります。 また重症心身障害児の 施設としては 1958 年 (昭和 33 年 ) に秋津
療育園がつくられ、 続けて 1961 年 (昭和 36 年 ) に「島田療育 園 」が開設されています。 登 九も 1960
年 (昭和 35 年 ) に、 はるか 郷 内に重度棟を 完成させ、 重度 棟 としての先駆けとなりました。 なお、
重度 棟 に加えて、 はるな郷は 1976 年 (昭和 51 年 ) にはわが国で 最初の老人様としてのやまぶき 寮を付
鼓 して高齢知的障害者への
対応も始めていきます。
そのような中で、 重症心身障害児施設の 制度化の動きもいっそ う 高まり、 国もようやく 重症心身障
害児対策を重点施策の 一つとして取り 上げるよ う になり、 1963 年 (昭和 38 年 ) には児童福祉法を 改
正して、 児童福祉施設の
一 っとして、
重症心身障害児施設を 制度化したのです。
しかし、 しばらくするとこの 重症心身障害児施設にも、 当然のごとく
18 歳問題がでてきます。
こ
れに対して国は 同施設を医療制度上の 病院として位置づけることで、 18 歳を越えた成人の 障害者も引
き続き入所できることとしたのです。
しかしこのような 弥縫 策 的なやり方に 対して、 重度の障害のあ
る子を抱える 親たちは、 もっと安定的にわが 子が生活できる 障害児,者 一貫した施設を 国に求めていく
ことになります。 いわゆるコロニー 構想です。 その結果、 国は 1966 年 (昭和 酊年 ) にコロニー懇談
会を設置して、 準備を重ね 1971 年 (昭和 46 年 ) 群馬県高崎市に 重度の知的障害や 肢体不自由を 伴 う
重度障害者のための 550 人収容の「国立コロ ニ 一のぞみの 園 」を設置しました。 コロニーはるな 郷の
開設 13 年後のことです。 国立コロ ニ 一の設置に双後して 知的障害者の 複合施設としての 大型の「地
方コロニー」が 次々とつくられていったのです。 時期 は、 正に高度経済成長期で、
中でこのよ j な 施設中心政策が 進められていったといえます。
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順調な経済成長の
3 、 登丸 福寿のコロ
三 一誌
では、 上述のような 精力的な実践を 支えた理論はどのようなものだったのでしょうか。 登九 のコロ
ニー 論をぽ コロニーはるな
郷 20 年の歩み山及びⅠ愛護
コ
より、 1 、 はるな御霊園、 2 、
コロ 二 アンの
宣言、 3 コロニー形態、 の 3 つの資料からまとめてみたいと 思います。
霊園 一 はるな郷の生活共同体づくり
「元来コロニーという 言葉は聚落とか 村落とか言う 意味であ るが・・・社会福祉事業で 使われる
ときは弱いものが 集団になって 守られ育てられ 社会に出て行く 体制を言うわけであ る。・‥中略‥・
また、 そこから出て 社会自立したもののために け 心のよりどころとなり、
しようとしているのであ
丁
ふるさと
コ
になるように
る。 , ・・中略・・・ 若いときは都会に 働きに行って 年寄りになったら 老後
を 過ごすというのが『ふるさと
コ
というものであ る。 はるな郷の老人 棟 はもっと作っていか れは な
らない。 そしてその次はお 墓であ る。 はるな郷で生涯を 終わったものや、 就職先で亡くなったもの
などの共同霊園を
1974 年 (昭和 49 年 ) に、 はるな郷の自由が 丘の上に立てた。 ・・・中略・・・
墓 があ ってはじめて 私の言力生涯福祉ということが 生きてくる。 福祉は本当に 文字通りにゆりかご
から墓場まで 刀であ る。 象徴的にいさなら ぱ、 F コロニーとは 墓のあ る施設だコといってもいいと
う
思
。 はるな郷はここに 眠ることをのぞむ コロ ニ一のすべての 人の共同墓地であ る。 それこそ生活 共
同体の姿であ り、 共同社会のシンボルなのであ
る」
( コロニーはるな 郷 20 年の歩み ) 。
(2) コロニアン宣言
「今やほうはいとして 心身障害者などのコロニー けす) づくりが国民の 関心となってきた。 昭和 41
年度の初頭に 当たり早くから 之を主張し、 着手してきた 私達はるか 郷 コロ 二 アン ( コロニー住民 ) は
ここに『コロニアンの 宣言 コを 公にし、 私たちのコロニーづくりの 主張を明らかにする。 ・‥中略‥・
1 、 私達は心身障害者のための
コ
ロニアンであ る。 2 、 私達は自らパイオニアとなり
心身障害者のため
の 開放的コロニーを 作る。 3 、 私達はすべての 人間に与えられた 伸びる力を信じ、 これをコロ三一の
中で最大限に 生かすことにつとめる。 4 、 私達はコロ
二
一作りによって 社会福祉行政に 血を通わせ、
同事業に夢を 与えることにつとめる。 5 、 私達は正しいコロ 三一づくりには 絶対に国民の 参加が必要
であ ることを信じ、 これが一大国民運動に 発展することを 期待する」 ( コロニーはるな 郷 20 年の歩み ) 。
(3) コロ = 一の形態
「コロニ一の 形態 は 、 最終的なアフターケア 形態であ って、 ここに所属することによって
精神薄弱
者は終着駅に 到着したといえるのであ る。 コロ ニ 一では精神薄弱者はその 保護された世界でその 能力
に応じた働きをすることによって、 生涯安心して 暮らしていけるわけであ る。 しかし、 単なるユート
ピアとしての 存在でなく、 ここを中心として 施設も集団就職も 共同作業所も 包含されたいわゆる
アフターケアでなければならないと 考える」㎝愛護団
柳本 (1990
: 62)
総合
1953 年 6 月 ) 。
は「 登九 のコロニー構想には、 武者小路実篤の 目指した
ぽ
新しき村 、 雷同 幸助
刀
の家庭学校、 石井十次の友愛社などの 先例が基礎となっていた。 特に彼が傾倒していた 武者小路の思
想、 と相通ずるものがあ
り、 同士とともにユートピアとして 理想の村を築こ
29
う
とする活動に 共鳴し 、 そ
の 活動をコロニーづくりに 見立てていた。
1964 年 (昭和 39 年 ) の 5 月コロニーはるな 郷の入り
道の端に武者小路の 下この道よりわれを 生かす道なし、 この道を歩く
して、 登 丸は自己を含めて 職員や寮生たち、
ここを訪ねるすべての
コ
の碑を立て、
丁
の
ロ
この道の碑』と
人たちが、 それぞれの立場から
自
分 のやっている 天職を自覚し、 これが自分を 活かす唯一の 道なのだという 自信を持つ拠り 所としょう
とした」 と整理している。
また矢野 ら (1976: 10) によると「精神薄弱施設関係の 中で代表的なコロニー 論者は、 登丸 福寿 と
1968 年 (昭和 43 年 ) 9 月に亡くなった 糸賀一雄であ る」。 そして 登丸は ついては、 前述した形態論、
コロ 二 アン宣言に触れ、 糸賀一雄 は ついては「彼のコロニー 構想の発端は、 当時極めて困難な 社会情
勢下 にあ って、 児童の就職の 開拓に力の限りづくしてきた。
年たって 14 名ぼかり就職せしめた。
とにかく 1950 年 ( 和 25 年 ) 末 まで 4
しかし、 このこと自体がまことに
日召
偉倖 であ って、 大多数のもの
は幸運にめぐり 合わないままに、 翌年へ翌年へと 年を送って、 やがて施設に 沈殿する運命になる。
の " 沈殿者 " の間 題がコ ロニ一の必然性であ
った」という。 糸賀のコロニーは
丁
こ
沈殿していく 子供達
が安心して生産に 従事でき、 その力 一 ぱいを発揮できて、 教育的指導を 受け、 そして必要な 程度の保
護 が加えられるような 環境であ る 上, ・・中略・・・また 1966 年 (昭和 41 午 ) にようやく国でコロ
ニー懇談会ができ、 その結論が打ち 出されたとき
F どんな人でも 人と生まれて 人となるのであ る。 ど
んな心身障害者でも、 間違いなく人と 生まれ、誰もが歩んできた 同じ発達の道を 歩んでいくのであ る。
これほど確かなことはない。
そういう人間としての 発達の権 利を保障するのが 国家・社会の 義務であ
り、 そのために総合的に 体系的な施策が 立てられ、 それが実施されなければならないとする。 コロ ニ
一 がこういう発達保障の
一環として位置づけられたことはいわかる 差別観からの 近代的な脱皮が 試み
られていることの 証左とみたい』と、 彼が晩年
日
ぐせのように 説いていた " 発達保障論的コロニー 観 "
を述べている。 要するに金丸と 糸賀 は 、 ともに多くの 施設を育成してきたし、
コロニ一の発想の 発端
は 同じ重症児や 年長児の対策にあ るにしても、 前者はコロニーを 終着駅として 捕らえ、 後者はむしろ
始発駅として 位置づけているし、
さらに 登丸 ははっきり、 『はるか郷は 全部が コ ロニ一ではなく、 コロ
ニーをもつはるか 概 だという方が 正しい表現であ ろ 列と 言っているのに 対して、 糸 償は仁近江学園
に 連なるもろもろの 施設が
コ ロニ一であ
ンスの違いがあ ることに注目したい」
る コと 考えている。 このように両者のコロニー
論にはニュア
と評しています。
確かに矢野らの 指摘は的を得ています。
しかし、 私は、 登 丸の終着駅は 単なる終着駅ではなく、
い
わば環状線における 東京駅や大阪駅のような、 始発駅であ りながら、 終着駅でもあ る、 またそこを始
点、 としていく っ もの支線が出ているターミナル 駅 と見たいと思います。 実際 登丸は 、 就労と高齢知的
障害者の問題に 大いに力を注いでもいたからです。
さて、 これまで障害者福祉制度の 変化の推移を 第二次世界大戦直後から 高度経済成長期まで 概観し
てきました。 それは施設整備の 歴史であ り、 施設中心主義の 変化の推移でもあ ったといえます。 戦後
の混乱期の保護収容の
時代から、 施設が障害種別ごとに 整備され、 その一つの到達点が
ったというよりも、 行き着いた先がコロ
そして、 「はるか 郷 20 年の歩み」より
ニ 一であ ったということだと
コロニ 一であ
思います。
10 年たった「はるか 郷 30 年の歩み」で 田ケ 谷は「日本的 コ
コニ一作りに 期待する」として 以下のようにコロニーはるな 郷を評しています。 以下にその一部を 抜
粋し 、 紹介したいと 思います。
1977 年 10 月に、 当時カリフォルニア 大学教授であ ったタージャン 博モ が 来日し、 伝統的な大規模
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居住施設の役割を 、 次のようにその 講演の中で列挙しています。
①取り扱い困難な 精神遅滞 児 ・者のための 学際的チームワークによるケアを 提供し得る
②重度,巌重度・ 重複障害者 受 入の適切な場足り 得る
③地域社会における 精神遅滞者福祉サービスのバック・ネットとして 機能し得る
④精神遅滞教育・ 訓練の専門職養成の 場足り得る
⑤精神遅滞に 関する広域臨床研究の
中心足り得る。 それは同時に 健常な全ての 児童の成長・ 発展
への貢献でもあ る
⑥強力な養護機能
登 先先生 (一発 丸 福寿 : 引用者 註 ) の画策されたはるな 郷のさまざまな 部門活動は、 見事なまで
にこの 6 つの役割を充たしているではあ りませんか。 しかもそれを、 単なる欧米の 古いタイプの コ
ロ 三一の後塵を 拝するようなこともなく、
変な表現かもしれませんが、 いわば『日本的コロニー』
を築き上げてこられたように 思います。 ・・・中略・・・ 必要だから、 コロニーを創る。 必要だか
ら、 コロニーをあ るべき姿に育てる。 周りで無責任などんなラッパを 吹こうが、 はるか郷は、 わが
国の精神風土の 中で精神遅滞の 人たちの生活から 発想、し 、 アクションしてこられたので、 その純粋
さ、 独自性、 土着性を、 「日本的コロニー」と 私は表現したいのです。 平成元年、 厚生省は初めて
全国百箇所のグループホームを 予算化しました。 これはものすごく 画期的なことです。 国が精神遅
滞の人たちの 訓練や更生復帰ばかりでなく、
生活そのものへの 援助に、 公的責任を表明したのです。
私は一つのコミュニティに 必要な『福祉姉点セット』があ るのではないかと 思うのです。
一 つは、
養護訓練サービスを 提供する居住施設です。 次は、 グループホームに 代表される生活援助サービス
であ り、 三つ目は福祉作業所 ( ミ ニ授産 ) などの庇護就労サービスです。
いう地域社会の 中でうまくお 互いに連携しながら 特色を発揮し 合
う
この三者が、 ニッポンと
、 そういう地域作りを 私達はこ
れまでやってきました。 ・・・中略・・・ 私達はこれを、 入所者・その 家族の方・われわれ 職員・
そ して地域社会の 住民の皆さんの 四者による「運命共同体作り」と
目しています。 そうです。 はる
な郷の創立以来の 三十年間というのは、 正に私達がやっと 模索の端緒についた ぼ かりなのに、 運命
生活共同体作りの 力強い先覚者としての 足取りであ ったよ
う
です。
以上の田 ケ 谷の「コロニーほ ろ な郷 30 年の歩み」への 寄稿文は 1989 年のものであ ります。 この年
は 1981 年の国際障害者年を 経て、 わが国にノーマライゼーション 思想が浸透してきて、
いわゆる 社
会 福祉関係人法の 改正により、 地域福祉への 制度的転換が 具体的になされはじめた 時期でもあ りまし
た。 この 回ケ 谷の記述は、 1966 年に国立コロニーが 割られて、 20 年近くたった 時期のわが国のコロ
二 一の位置づけや コロ ニ一に対する 一つの評価を 示しているとともに、
また当時の同業仲間の
コ ロニ一に対する 評価として大変に 興味深く読み 取ることができます。
地域福祉に転換しながらも、
依然としてコロニーはその 役割を上述されたような 形で保っていたという
登九の
日本の現状があ ったと考え
られます。
4 、 まとめ 一 コロ 二 一の歴史的評価と 施設中心主義政策の 光と影
ここで コロニ 一に対する全体的評価をしていきたいと 思います。 私の評価のメルクマールというか、
一つの問いは、
「本当にコロニーは 高度経済成長期の 一つの アダバナ に過ぎなかったのであ
ということからはじめたいと
思います。
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ろうか ?
」
コロニーまでの 時代を通底していた 理念は、 リハビリテーションであ
てくる施設中心主義というやりかたで、
り、 またそこから 産み出され
そこにおいてほ 確かにコロニーは 光り輝いていたといえます。
しかし時代のニーズはノーマライゼーション
理念のもとに 地域重視に代わり、 利用者中心主義に 移っ
て 行ったときに、 コロ = 一は 光を失っていく 運命にあ りました。 元来、 施設は " 時代ニーズ " の所産
であ るからして、 それ以降コロニーは
" その時代のニーズ " に合わせるべく、 少しづつ「長期収容性」、
「総合性」、 「生活共同性」というコロ 三一の基本理念を 捨てて、 もしくはす げ 替えて、 矢野らが言 う
ごとく、 コロニーという 施設を始発駅として、
地域へ溶け込んで い く努力をしていったわけです。
そ
して現在は、 コロニー解体の 動きや 脱 施設化がかるいろな 形でもって進行している 状況と い えます。
しかしながら、 このような 脱 施設化の動きは 西欧福祉先進国においては、 わが国がコロニーを 建設し
始めた 1960 年 (昭和 35 年 ) 代には、 既に始まっていたことであ ります。 然るに、 そのような時期に
わが国がコロニーへの
道を突き進んだことは、 わが国のコロニー 建設がその時代において、 たとえ「 正
」
であ ったとしても、 そのことによって 世界の流れであ ったノーマライゼーション 思想の受 入 が遅れた
ということになり、 制度の発展の 歴史の側面からみれば、
あ る種の影の部分をもっていたということ
になるわけです。 つまり、 わが国がとった コロニ 一政策は光と 影の両面をもっていたということであ
り、 そのことを 咲 って「コロニーは 高度経済成長期の 一つの アダ バ テ にすぎなかったのか」という
問
いに対する私の 答えとしたひと 思います。
次に コロニ 一の歴史的評価をするときに、
す。 一つは歴史において 制度などのも
私たちが考えなければならないいくつかのことがあ りま
ゐ ごとが大きく 変わるときはどういう
時かということです。 そ
れは、 これまでのやり 方ではその問題を 乗り越えられない、 いわ める壁が出てきたときです。 障害者
福祉制度もその 壁を越える形で、 これまで発展してきたといえます。
その変化の推移をここで 具体的
に見ることにします。 まず終戦後たくさんの 生活困窮者が 出現しました。 それに対して、 ど う しょう
というのが最初の 壁でした。 その対応は、 まずは保護収容ということだったと 思います。 それはその
中にいた障害児、 障害者の保護収容であ
ったわけです。 それも緊急性の 高いものからの 保護収容です。
その壁を乗り 越える方策として 障害者福祉制度としては、 まず知的障害児施設を 作り対応しました。
そして、 しばらくすると 18 歳問題が、 そこにおける 新たな壁としてでてきます。 その壁を乗り 越え
る形で今度は、 障害者の施設が 作られていったのです。
そして次には、 身体障害者の 施設 は あ るが知的障害者の 施設はない。 知的障害者をどさするのかと
いう新たな壁に 対しては、 知的障害者福祉法を 作り、 知的障害者施設を 設置する。 さらに、 知的障害
と肢体不自由を 合併している 障害児の手立てがなされていないという
壁に対して、 重症心身障害児 施
設を作る。 そのあ と同施設を医療法上の 施設に位置づげて、 18 歳を越えた人に 対応する。 そして、 施
設変遷の歴史がここまで 進んできたときに " 時 7代" はこのような 重度の障害のあ る人に対する 不安定
な 施設状況を問題にしていったのです。 やがて、 そのような
" 時代のニーズ " は障害児・者が、 安心
して生涯生活できる 施設構想、 としてコロニーという 施設形態に結実していったというわげです。 この
ようにして、 そのときどきの 壁を乗り越える 形で制度に変化してきました。 換言すれば、 その時代の
ニーズに応える 形で制度は変化してきたといえます。
二つは、 先ほどから
" 時代のニーズ " という言葉を 多用してきましたが、
その " 時代のニーズ "
と
い う ときのニーズの 中身のことを 取り上げる必要があ ると思います。 たとえば、 これまで述べてきた
制度の変遷の 推移の中で私は 、 「・・・コロ 三一に結実していった
際のキープードであ る "安心して生
活できびという 時代のニーズ」と 表現しました。 しかし、 そのとき
32
" 安心できびとは
一体 誰 だっ
たのかということです。
その答え ほ 、 その時代においてはまぎれもなく
保護者 (親 ) であ ったのでし
ょう。つまり " 時代のニーズ " という言葉を 使ってはきましたが、 この場合のニーズは 単に保護者 (親 )
のニーズを代表していたということだったと 思います。 少なくとも、 知的障害のあ る人自身或いはそ
0 人たちのニーズに 対して直接的に 焦点を当ててはいなかつたことは 明らかなことだったと
でもそういえるのも、
そのときから
思います。
40 年近くたった 今、 新たなノーマリゼーションという 指標で過
去の事象をとらえてみるから、 そ う いえるのだと 思います。 そのときはリハビリテーションという 当
時の指標でコロニーは 進行していたわけですから、 その観点からいえば、 まったく コロ ニ一の進んだ
道は " 妥当 " だったのであ ります。 つまり、 時間がたって、 指標が変わったことによるコロ
史的評価として、 そうなるということだと
ニ 一の 歴
思います。 そうだとすると、 そこから学 は なければいけな
い重要なこと @ま 何かといえば、 それはい つ の世においても 一番大事なことは、 そのニーズが 誰のニ一
ズ かということを、 その時々にきちんと
見定めなければならないということなんだと 思います。 それ
は正に " 当事者中,む" という視点であ ると思います。
以上が コロニ 一に対する私の 評価であ ります。 さて、 ではそのような 経緯の中で、 これからのわが
国の施設はどうなっていくのか、 大変気がかりなことであ ります。 2003 年に措置制度から 契約制度に
変わり、 現在は障害者自立支援法の 下に障害者施策が 展開されています。
しかしながら、 新法に変わ
っても、 依然としてわが 国には多くの 施設が、 新制度に合わせて 形を変えながらも 存在し続けていま
す。 今後わが国の 施設体系の行く 末やそのあ り方について、 最後に考えて 見たいと思います。
今後に向けて 一 障害者福祉制度の 弁証法的発展
これまで、 コロニー創設に 至るまでの障害者福祉制度の 発展の推移からコロ 三一の評価をしてきま
した。 しかし、 肝心なことは 何といっても、 施設も含めたこれからのわが 国の障害者福祉制度をどの
よ
う
に発展させていくのかということになると 思います。 それについて 私なりの提起をして 本 講義を
終わりにしたいと 思います。
先ほど制度が 大きく変わるのは " 時代のニーズ " によるものであ るということを 言いました。 しか
し、 勿論それだけではなく
他のいろいろな 要素が関係してきます。 とりわけその 時代を支配する 理念
は特に大きな 影響を与えるものです。
むしろ、 理念の下に制度が 作られるといってもいいくらいのも
のでしょう。 然らば、 その理念はどのように 作られ、 またその理念はどのようなときに 変わっていく
のか、 そのことを 1950 年代に デ、
シ マークで誕生したノーマライゼーション 理念のときのことをふり
かえって考えてみることにします。 それはもう 50 年ほど前のことになりますが、 人里離れた場所で、
巨大施設において、 隔離的に、 カストディアル・ケアー (食べて、 着せて、 寝かせるだけの 処遇 ) を
受けていた障害者の 親が、 何故わが子がこのような 目に遭わなけれ ば ならないのか ? と問題視したと
ころから始まりました。 そのような状況に 対して執達は " わが子をこのような 目に遭わせるのではな
く
" 、 障害のない人と 同じように「地域で、
もっと小集団で、 そしてきちんとした 処遇を」と国に 訴え
て 、 そのことを実現させようと 運動をしていく 過程でバンク
ン思想、 (理念 ) が誕生したわけです。
,
ミケ ルセンの下にノーマライゼーショ
いつも理念を 形づくるもとは
" 規寛であ
ります。 今 起こって
いるその現実の 中に 、 放っておけない 問題や深刻なニーズがあ って、 それをどのように 解決するか、
それが今までの 考えでは、 どうしても解決できないときに、
新しい形が考えられるということです。
その新しい形は、 今までのものでない 新しい考え方を 基盤にしています。
そして、 その新しい考え 方
が 普遍性を持ったときにそれは 理念に生まれ 変わります。 現実の中から 理念が生まれ、 また理念が現
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実を作り、 理念と現実の 交互作用によって、 制度は発展していくといってもいいのかもしれません。
そして、 このことは私たちが 障害者福祉制度のこれからを 考えようとするときに 大変重要なことを 含
私はそれを障害者福祉制度の 弁証法的発展として、
んでいると思っています。
意義についてここでまとめておきたいと 思います。
ラ
政策論の視点からその
ご存知のように 弁証法とは 正
・
ヌ
・
合 とい
プロセスで制度を 発展させていく 一つの手段ととらえることができます。 これまで述べてきた 制度
の 変遷を 、 へ一 ゲルのい
う
ところの弁証法に 当てはめて考えてみるならば、 今「 正 」とされている 制
度の中に潜む 暗黙的矛盾を 明解にしていくところにその 制度の発展があ るというものです。 全身全霊
をかけた コ ロニアン 登丸 福寿の実践はまぎれもなく、 その時代において「 正 」の行動であ ったといえ
ます。 その「 正 」は、 処遇の在り方がノーマルでないという
りから、 地域中心主義という「 合 」に止揚していったものであ
の中には「 正 」も「 反 」も含まれています。
定はしないのです。
「
反 」と内部矛盾を 起こし、 そのぶつか
るといえます。 しかし弁証法で 言
う
「
合
」
弁証法では「 合 」に止揚して 行くときに「 正 」の完全否
つまりコロニーは 完全否定されたものでないと 言うことでもあ ります。 弁証法的
発展は正・ ヌ ・合のステップを 踏みながらも 螺旋的に発展していくものです。 ですからその 発展の経
緯からいっても 最早コロニーそのものに 戻ることはないのですが、 現在進行中の " 地域中心主義 " が
行き詰まりをみせ、
新たな「 合 」の必要性を 考えなければならないようなときに、 登丸 らが考えた コ
ロニーという 思想の中に、 その新たな「 合 」に向かって 貢献できる良き 部分がないものだろうかとい
うことを申し 上げたいのです。 少なくとも、 弁証法はそのことの 可能性を私たちに 示唆してくれてい
る よ う に思います。 何故そのようなことを 言
う
のかと申しますと 知的障害の人は、 その特性から 言っ
て、 生涯に 亘 って誰かの支えを 必要としているということです。 コロニーがなくなり、
コロニー的 支
援 がなくなったときに 私たちは、 それに変わる 新しい支援の 形をつくっていか れば なりません。 それ
は以前コロニーがつくられたときのような 保護者 (親 ) のニーズではなく、 知的障害その 人自身のニ
ーズに基づいて 知的障害のあ る人たちが
分 に学びながら、 作り上げていくことだと
" 安心して生活できる
" システムを
コロ
ニ一の思想の 良き部
思います。 それを 登丸は 、 園生とともにはるな 御霊園の中
からしっかりと 見守っていることと 思います。
も う 紙上講義の終わりの 時間が迫ってきてます。
最後に 、 私の父に対する 思いを述べさせていただ
きたく思います。 私が現在、 このような福祉に 関わる仕事をしているのも
父の影響を受けてのものだ
と思ってます。 私の父はとてもストイックで 一途な人でした。 父が作った「はるな 郷の指標」の 中に
「毎月の言葉」というのがあ
ります。 その中の 7 月の言葉では「施設け 寮生のためにあ る。 この原理
は施設の何物にも 優先するものであ ることを明記すべきであ
「
る」とあ ります。 そして、 同指標の中の
6 つの自問一職員の 反省のために」の 中で「自問 1 、 この人は今何を 求めているのだろうか。
この人杖何故そ
う
するのだろうか ?
のあ くなき知的障害児者への
」
- それを考えて 仕事をしなさい、
自問 2 、
という意味の 言葉の中に、 父
深い愛情をあ らためて感じる 思いです。 そして、 私も、 同じような思い
をもって、 学生の皆さんに 授業をしてきたつもりです。 うまく伝わったかどうかはなんとも
りません。 「教えるとはともに 希望を語ること
! 」フランスの 詩人ルイ・アラゴンの
自信があ
言葉です。 もっと
もっと、 学生の皆さんと 障害者のこれからについて、 その希望を語り 続け合いた い 気持ちです。
私の話 は 以上であ ります。 この度の最終講義はなにぶんにも、
肉親の話が多く、 お聞き苦しかった
とすれば、 心よりお詫び 申し上げます。 私の本意はあ くまでも、 コロ 二 一の歴史的評価にあ
ったこと
を 何卒 ご理解いただきたく 思います。
どうも最後まで 私の紙上最終講義をお 読み
(お 聞き )
34
いただきまして 有難
う
ございました。 また 天
理 大学には大変お 世話になりました。 そして、 未熟な私を支えてくれた、 同僚の仲間の 皆様には心よ
り感謝申し上げます。 そして、 拙い私の講義を 聞いてくれた 学生の皆さんには 心よりお礼を 言いたい
と思います。 本当にどうもあ りがと う ございました。 (完 )
ホ
文中の「 田ケ谷 」は 田ケ谷雅夫氏で当時
そ だち 園 園長
(現 ・山梨県ぶど
う
の 里 理事長) 。
前掲書の第
3
より抜粋。
ネ
紙上最終講義ということで、
引用,参考文献の表記は簡略にしました。
引用・参考文献
ェ
、
佐藤久夫・小澤
泥
障害者福祉の 世界
2007 年第 3 版 (平成 19 年 )
有斐閣
2005 年 (平成 17 年 )
2、
田坂宏志
3、
はるな 郷 創立 20 周年記念事業委員会
コロニーはるな 郷 20 年の歩み
4、
はるか 郷 創立 30 周年記念事業委員会
コ コニーはるな 郷
5、
柳本雄次
6、
矢野隆夫・富永雅称
7、
財団法人日本知的障害者福祉協会『サポート
使える弁証法
東洋経済新報社
群馬の障害教育を 創めた人々
凹
1989 年 (平成元年 )
あずさ書店 1990 年 (平成 2 年)
心身障害者のためのコロニー
申 そのほか日本愛護協会のⅠ愛護
30 年の歩み
1979 年 (昭和 54 年 )
論
財団法人日本愛護協会
1976 年 (昭和 51 年 )
2009.2,f1 2009 年 (平成 2 二年)
、 はるな郷の広報誌Ⅱ愛の
鐘はるな 御 ニュースコを 参考にしました。
編「寄稿」
き
口
鞭 Ⅱ 鏑告
@f
Ⅱは
苛
木・
叫
梢Ⅱ
肘即心
入
、
ふ
ミ・
捷
劣・
一 580m)
(緯度・北韓
36 度26 分,東経
138 度55 分 10 秒・標高 470m
帝理
由ヤ
石
の
の
道
Ⅱ
什日
の
み
ゆ
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年
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典
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霊
郷
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