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「ノーベル賞の100 年」から考える 20 世紀の科学技術

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機構のリソース拡大欲求という自律的な面にも目を向けなけれ
の解説パネルは英語を主としていて日本語訳をつけたわけだ
ば、有効なオルタナティブは提示し得ないことになります(私は
が、デザインを統一するために文字が小さく、また、音声やパ
大学院のゼミで直接著者の講義を受けたのですが、この点は
ソコンでの展示に訳がつけられなかったので、来場者の展示
本当に繰り返し聞かされました)。そして、「技官の王国」を解体
に対する不満はそのあたりに多かった。しかし、パソコンの特
していくためには、やはり外部からの評価の目が不可欠で、そ
にゲーム等は子供が英語でも気にせず楽しんでいるのに少し
れを制度として構築していくことを著者は提案しています。その
驚いた。「創造性と文化:個人と環境」というテーマに沿った約3
方向を、市民の側からも積極的に肉付けしていくことが求めら
分×32人の受賞者「個人」のインタビュー中心の映像と約10
れていると言えるでしょう。土曜講座の皆さんには、ぜひ一読
分×8ヶ所の研究所や都市といった賞を生む「環境」のイメー
をおすすめします。■
ジ映像は日本語字幕がついて好評であり、関連して翻訳され
尾内隆之プロフィール
た図録もよく売れていた。
連れ合いと SOHO ワーカーとして日銭をかせぐ傍ら、修士論
日本では特に科学博物館が東大講師の岡本氏の協力で、
文の準備をする日々です(日本の社会運動と政治の関係につ
日本人受賞者10人の業績関係品や自筆史料、子供の頃の作
いて考えています)。最近はそこに「育児」という大仕事も加わ
文や工作を展示し、また、50年を経過した選考文書に見られ
り、毎日が東京ディズニーランドの STAR TOURS のようです。
る日本人の被推薦者の展示を加えた。初の受賞者湯川とその
あぁ、目が回る……。
同級生朝永について旧制高校時のテストの点数や朝永がライ
バル湯川を気にする滞独日記、最近の受賞者白川、野依の研
究内容を紹介するコーナーにスペースを割き、これらは多くの
第 141回土曜講座 博物館見学+研究発表
関心を引きやすかった。ノーベル賞推薦依頼を受けその意図
「ノーベル賞の 100 年」から考える
を汲んで的確な推薦をした長岡半太郎は科学博物館にコレク
ションがあり、その紹介ができたのもよかった。
20 世紀の科学技術 に参加して
ガイドツアーの1回の参加者は10名から15名のことが多く、
141 回の土曜講座は、上野の国立科学博物館に 10 人が集い
瀬川嘉之さんの案内で上記展覧会を見た後、東京工業大学で
科学史を研究・教育されている梶雅範さんにノーベル賞の
様々な側面ついて講じていただきました。■
途中で増えて20名を超えることもあったが見えにくいせいか、
結局10名程度に落ち着いた。来場者の少ない日に2、3名の
ことが1、2回あったがその方が質疑のやりとりしやすい利点も
あった。1時間のはずが毎回喋り過ぎて1時間半以上になって
しまうのが通例であった。ガイドする内容は解説パネルを読め
「ノーベル賞100周年記念展」のガイドより
瀬川嘉之
ば書いてあることが多かったにしても、おおむね好評だったの
今回、上野の科学博物館における上記展示会のガイドをする
機会が偶然に近い形であり、科学や技術と社会について考え
る上で、自分自身にとっては得るところが多かった。科学博物
館や科学館についても、「科学館プロジェクト」になかなか貢献
できないので、この経験が生かせればと考えている。3月の春
休みから6月の初めまでの土日を中心に、科学史を専攻する
学生3名と交代だったので、合計14、5日ほど、午前と午後に1
日2回、各1時間で2フロアにまたがる展示会場の映像シアタ
ーを除くほぼ全体のガイドツアーを行った。
この展示会は、スウェーデンのストックホルムに100周年でで
きたノーベル博物館が常設展とほぼ同じ物を世界各国への巡
回展示用に製作し、平和賞授与国のノルウェーに続いて日本
で開催、次は韓国ということになっている。授賞式や晩餐会の
雰囲気、金のメダルや賞状などで賞の格調を感じさせ、創設者
アルフレッド・ノーベルと各賞選考機関の紹介、この100年を1
0年ごとに実物と新聞記事と映像で紹介するコーナー、全受賞
者の顔写真と受賞理由の表示等で構成されている。展示全体
11
はすべてをいちいち読むよりは早く全体が回れ、実物を見るこ
とに集中できるからではないかと思う。
アルフレッド・ノーベルについて年配の方に子供の頃伝記を
読んで感動したという方が何人かいたのと、女性受賞者のコー
ナー等でやはり伝記で読んだのかキュリー夫人はどこ?という
声が女性に多かったのが印象的であった。賞金額を気にする
人、経済学賞をめぐる問題点を気にする人、日本の過去の受
賞者が欧米に比べて少なく、どうしたら増やせるのか、環境を
改善しないと増えないだろうと言う人、が目立った。
ノーベル賞が科学分野だけでなく、文学賞や平和賞がある
ことが、科学や技術と社会の関係について考える上で役立ち、
ガイドもしやすかった。ノーベル賞の100年つまり20世紀は第
1次、第2次世界大戦、ベトナム戦争、冷戦、そして21世紀の
幕開けは昨年のテロと、人殺しばかりで、この展示とガイドが平
和を求めるささやかな「デモ」になっていれば、と願う。■
武井武教授のこと
に埋没してしまいました。ノーベル賞受賞にも大きな影響があ
後藤高暁
ったと思います。
20世紀の最高の人智を瀬川さんの説明を聞きなが振り返り、
しかし、武井教授はそれに関する恨み言や愚痴は、92才で
その後で梶さんの話を聞くことができて大変楽しい良い一日で
亡くなるまで家族にも弟子達にも一切言っていなかったそうで
した。瀬川さん・梶さんに感謝します。
す。私が卒業したのが特許問題の結末が出る直前でしたが、
人間の脳にある灰色の細胞の素晴らしさを再確認しました。
私達にも全く口に出されたことはありませんでした。1970年
私にも似たような数はある筈だが? 何倍も活かし方が違うの
に 世界フェライト国際会議 が作られ、武井教授は「フェライト
か? いや、比較はしませんが。
の父」と呼ばれるようになり、今では世界のその学会から功績を
成果が賞として認められる陰には、本人の努力や発想は勿
認められています。
論、先祖・先輩の研究の結晶があり、さらには当時の環境や運
学問的には大変恐い人だったそうで、梶さんからも恐かった
などがかなりあった事もわかりました。その例として梶さんから、
か?と聞かれましたが、我々には大変優しく接して、毎朝教授
私の卒論研究室での恩師 武井 武教授 の名前が出てきたの
の部屋で色々な心に残る話をされたことを思い出します。釣り
には驚きました。
がお好きでその話も何度も聞かされましたし、自宅に弟子を招
今電子器機は勿論、あらゆる部門に無くてはならない非金属
いて手作りの野菜などで歓待するなど個人としても良い先生で
の磁性体 フェライト の発明者です。その価値はどの受賞者に
あり、1992年に亡くなられるまでに多くの弟子から慕われてい
もひけをとらないものと確信しますが、武井教授はノーベル賞
ました。
どころか、学士院賞も文化勲章も受けていません。(文化功労
受賞のことはさておき、若いときから学究一筋に生きて功なり、
賞は受けていますが)。これにはいろいろな背景があったこと
家族や弟子達に囲まれて幸せな生涯を送られたと信じていま
を聞いていましたが、教授の名誉のために、手元にある松尾博
す。■
志著「武井武と独創の群像」という分厚い本から事情を少し紹
「ノーベル賞の 100 年」から考える
20 世紀の科学技術 に参加して
鳥山 敦
介しましょう。
梶さんは、もし教授と同期の物理学者 茅 誠司 の理論的協
今回初めて土曜講座に参加させてもらった鳥山です。土曜
力があったら、と言われました。しかし、当時は東北大学を中心
講座に参加したきっかけは、普段私は科学に関わる仕事をや
とする物理系の金属の王国といわれたが時代で、そこに突如と
っているのですが、どうも科学と現在の社会問題とがうまく結び
して非金属系・化学系のフェライトが現れても、王国の物理学
ついていないのではないかと感じています。そこで、科学と社
者達は殆どそれを無視してしまったのです。
会をテーマにしたこの講座にその解決の糸口があるのではな
武井教授とその師であるK教授がフェライトの特許を出願した
いかと思い参加してみることにしました。
のは 19300年でが、物理学会が後悔の念を表明しながらフェラ
今回は「ノーベル賞の 100 年」の展示を国立科学博物館に見
イトを組織的に取り上げたのは戦後のことというから当時の日
に行きましたが、博物館に行くのはかなり久しぶりのように思い
本の学問の世界の閉鎖性が想像できます。
ます。しかし私は博物館に退屈だった思い出しかなく行く前は
1935年にこの技術で東京電気化学(TDK)が発足し工業製
不安がありました。しかし行ってみると、丁寧な解説付きだった
品を出しました。それをフィリップス社が購入してから直ぐ後に、
こともあり飽きずに見ることができました。昔の小中学生だった
1942年にフェライトコアの特許をオランダで出願したのだから
頃も、このようなわかりやすい解説があれば印象は違ったもの
酷い話です。戦後にフィリップス社の特許が認められたのは、
になっていただろうと思います。
敗戦国という日本の事情も影響していたようです。1948 年にフ
講座の後、ノーベル賞から連想して色々考えました。今、私
ランスのネールがフェライトの磁性を理論解明したフェリ磁性論
はノーベル賞自体にはあまり興味を持っていません。それは、
を発表し、1949 年にフィリップス社が日本で武井・K教授の特
私は科学には携わっていますが、自分がノーベル賞をとること
許に類似したフェライトコアの基本特許を出願しています。TD
は無理だと思っていますし、ノーベル賞を受賞した研究内容を
Kは 1954 年に特許無効の申請をしました。しかし、勝訴になる
見ても複雑でわかりにくいことによります。また、特に最近、進
と思われた直前で、TDKおよび交渉を委任されていたK教授
歩や発展が全ての問題を解決するという考えに大きな疑問を
はフィリップス社と妥協して控訴を取り下げてしまいました。な
抱くようになったこともあります。最近は「科学の発展が全てを
ぜ取り下げたかは会社の実質的な利害とかいろいろな考えが
解決する」と言う人はさすがに少なくなり「科学の発展で解決で
あったのでしょうが、時前に知らされていなかった武井教授は
きる問題もあるしできない問題もある」くらいになっています。し
これを聞いた時には激怒されたそうです。このことによって実
かし、現在の諸問題の解決の鍵は別のところにある様な気がし
質的な発明者である武井教授の名誉は公的世界からは完全
ます。それが何なのかは今私はわからないので、これから考え
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ていきたいですが。地球が丸いのは、自分の行ったことは結局
史博物館、ヴィクトリア&アルバート美術館という3つの大きな
はどこかで自分に帰ってくることを暗に意味しているのではな
博物館がある。
いかと思ったりもします。ノーベル賞で表彰されたことが、実は
ダイアナ妃が子供たちと暮らしていたケンジントン宮殿のあ
自分たちの首を絞める結果になったのではあまりに悲しいで
るケンジントン・ガーデンズは、ロンドン一の大公園ハイド・パ
す。ノーベル賞が科学の時代を象徴するものとして現在権威
ークと隣りあわせでほとんど一体のようにしてある。サウス・ケン
があり、また今後もあり続けるだろうと思いますが、科学の進歩
ジントンはその南の一帯である。SW という郵便番号が示すよう
とは違ったところにあるものにも価値を見いだすことも考えてい
にロンドンの中心部よりやや南西寄り。ヴィクトリア女王の旦那
きたいと思いました。■
アルバート公の尽力で、ちょうど150年前の1851年に世界最初
土曜講座・英国エコツアー報告
の万国博覧会がこのあたりで開かれて、その名残が博物館に
科学博物館訪問記
レス」は、いまは幻のようにどこにも存在しない。そのかわり金
なった。博覧会のメイン会場、ガラスと鉄の大建築「クリスタルパ
ぴかのアルバート公記念碑が赤い壁の円堂ロイヤル・アルバ
瀬川嘉之
ート・ホールと向かいあわせにそびえ立っている。94、5 年に私
昨年の「イギリス・エコツアー」からまもなく 1 年になろうとして
がこのあたりに住んでいたころ、記念碑は修復中でずっと覆わ
いる。楽しい旅行記を薮さんが前に連載していたので、英国の
れていたので、今回そのヴィクトリア朝的な悪趣味ぶりをはじめ
博物館や産業遺産について紹介するのが私の役目だったよう
て拝むことができた。
だが、すぐに書いたのが以下のような文章でみなさんの参考
になるような紹介になっていないので、書き直そうと思いつつ、
日が経ってしまった。
東京とロンドンという二つの都市が自分にとって何か特別な意
味を持ってしまって、それがうまくまとまらない。サウス・ケンジ
ントンの駅から科学博物館の前まで地下道があってそこに響く
サックスの音色が雑多なイメージを呼び覚まし、それはあまりに
個人的で人様には関わり合いのないことばかりのような気がす
る。
アルバート公記念碑
たとえ悪趣味でも、万博の10 年後たった42 歳で亡くなったア
ルバート公なる人物が女王をはじめ多くの人々に尊敬されて
いたからこそ、金をつぎこんだ記念碑が建てられ、ホールや美
術館にその名が冠された。その理由は万博を成功させたから、
ピカデリーで記念写真
というよりも、学芸を重んじ、国民、国家のため産業を振興した
●サウス・ケンジントンとアルバート公
からである。18世紀、ハノーヴァー朝のはじめの国王ジョージ1
日本からのロンドン直行便が到着するヒースロー空港、そこ
世はドイツ人だった。アルバート公もドイツから婿入りしてきた。
から地下鉄ピカデリー線がロンドン市内へ向かう。銀座を通る
そのことと学芸を重んじたことは関係がありそうだが、よくわから
から銀座線と言うように、ロンドンの中心、エロス(天使)像と日
ない。一説では外国人としてなかなか受け入れられないため
本企業の電飾広告が派手なピカデリー・サーカスを通るからピ
に、仕事や趣味に熱中したと言われる。しかし、それだけでは
カデリー線。地下鉄とは言いながら、ピカデリーより6駅手前の
なぜ科学や産業かの説明にはならない。ちなみに、アルバー
アールス・コートあたりまでは地上を走っていて、地下に潜って
ト公がドイツからとりいれた代表的なこととして、クリスマスを家
すぐ、サウス・ケンジントンの駅の最寄りに、科学博物館、自然
庭で静かに祝う習慣があると言われている。
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