研究会リポート No.

レイフ・ヴォーン ウィリアムズ
1872 年(明治 4 年)~1958 年(昭和 33 年)
日本ではあまり知られていないけど、欧米では
とても有名で、高く評価されているんだよ。
≪生い立ち≫
ロンドンの西のダウン・アンプニーで生まれた。3歳の
時に牧師の父が死去するとロンドン南のサリーにある母
の実家に引っ越した。母の曾祖父は陶器で有名なウエ
ッジウッド社の創始者で、また彼の大叔父は進化論で
知られるダーウィンである。由緒ある家柄に生まれなが
らもそれに甘んじることなく、生涯を通して民主、平等
主義の理想のために活動した。
≪音楽と友人との出会い≫
6歳で叔母からピアノと作曲の手ほどきを受け、7歳
でヴァイオリンを習い始めた。14歳からは音楽表現を
奨励していた私学寄宿学校のチャーターハウス校に通
った。その後、王立音楽大学、ケンブリッジ大学で学び、
23歳の時にホルストと知り合った。彼はヴォーン ウィリ
アムズが作曲家になるにあったって重要な影響を与え
た友人で、作曲中の作品を批評しあった。
≪民謡との出会い≫
1872
1875
1890
1895
1897
1904
1907
1910
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3
18
23
25
32
35
38
歳
歳
歳
歳
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歳
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1914 42 歳
1917
1919
1922
1934
45
47
50
62
歳
歳
歳
歳
1935 63 歳
1936
1939
1948
1951
1953
64
67
76
79
81
歳
歳
歳
歳
歳
10月12日グロスターシャー州ダウンアンプニーに生まれる。
牧師であった父アーサーが他界。サリーにある母方のウェッジウッド家へ移る。
ロンドンの王立音楽大学に入学。
ケンブリッジ大学の文学士を取得。王立音楽大学に戻りホルストと知り合う。
ベルリンにてブルッフの指導を受ける。アデリーン・フィッシャーと結婚。
イングランド各地を訪ね伝統的な民謡やキャロルを収集・保存することを始める。
モーリス・ラヴェルに3ヶ月間、作曲とオーケストレーションのレッスンを受ける。
トマス・タリスの主題による幻想曲 初演
海の交響曲(交響曲第1番)を初演し、初めて大成功を得る。
ロンドン交響曲(交響曲第2番)初演
第一次世界大戦勃発(-1918)。王立陸軍医療部隊に義勇兵として入隊し担架兵となる。
王立砲兵守備隊の少尉に任命され砲台の指揮をとる。翌年陸軍の音楽監督に就任。
王立音楽大学で作曲の教授に就任(-1939)。
田園交響曲(交響曲第3番)初演
親友グスタフ・ホルスト死去。
自著『民族音楽論National Music』を出版
グリーンスリーヴスによる幻想曲 初演
交響曲第4番 初演
メリット勲章を受ける。
『ドナ・ノビス・パチェム(Dona nobis pacem)』 初演
ナチス・ドイツのポーランド侵攻、第二次世界大戦勃発(-1945)。
交響曲第6番 初演
妻アデリーン死去。
アーシュラ・ウッドと再婚。
南極交響曲(交響曲第7番)初演
交響曲第9番 初演。8月26日にロンドンにて心臓発作のため死去。
25歳でアデリーン・フィッシャーと結婚。作曲家として
は遅咲きで30歳に歌曲「Linden Lea」を初出版した。 1958 86 歳
作曲家として成功するまでに指揮や講師、音楽編集や民謡収集などを行った。当
時のイギリスは階級社会で、下層の民衆の文化は中産階級の人々には知られて
いなかった。しかし、32歳の時にセシル・シャープらによる「英国民謡復興」という運
動と出会い、イギリス各地の民謡が、急速に失われつつあるのを知り、ホルストと共
に田舎を訪ねて民謡を収集、保存した。後年、自作の楽曲に歌曲や旋律の一部
を取り入れている。彼の功績によりイギリスの伝統的な民謡や旋律はより高い評価
を受けることになった。
ロンドンに、イギリスの伝統的歌謡、
舞踊、音楽に関する書籍等を収集した
施設として、ヴォーン・ウィリアムズ図書
館がある。この図書館は友人であるセシ
ル・シャープの書籍がもともとの蔵書であ
ったために、かつてはセシル・シャープ図
書館と呼ばれていた。
≪イギリス音楽復興の旗手≫
王立音楽大学ではドイツ音楽の基礎を徹底的に学んだ。25歳の時にベルリンで、
当時合唱音楽の分野で大きな名声のあったブルッフの指導を受けた。(ブルッフは
魅力的な旋律を生み出すことに長け、また民族音楽の要素を作品に取り入れてい
た。)エルガーの次世代の作曲家として、イギリス独自の音楽語法の創出を試みて
いたが、保存収集した民謡こそがイギリスらしい音楽である事を見出し、民謡を取り
入れた独自の語法によってイギリス音楽復興の旗手となった。また、35歳の時にパ
リでラヴェルからフランスの繊細なオーケストレーションを学ぶなど、様々な様式や技
法を融合させ、30代半ばに自分の作風を作り上げた。イギリスの田園風景を彷彿 ダウン・アンプニー
とさせる牧歌的な作風は、広くイギリス国民に愛されている。
サリー
≪第一次世界大戦への従軍と影響≫
1914 年、42 歳の年に第一次世界大戦がはじまった。兵役を免除されていた
にもかかわらず、自ら志願して王立陸軍医療部隊に入隊し、フランスやマケドニ
ア戦線に従軍。1917 年には王立砲兵守備隊に所属し、砲火の爆音に幾度と
なくさらされたことで、晩年には難聴に悩まされることになった。その後 1918 年には
陸軍の音楽監督に任ぜられ音楽活動を再開している。
第一次世界大戦中から戦後にかけて作曲されたのが、1922 年初演の「田園
交響曲(交響曲第3番)」である。壮絶な塹壕戦のソンム戦役で亡くした友人の
ジョージ・バターワースをはじめとする戦没者への追悼がこめられており、ヴォーン
ウィリアムズの「戦争レクイエム」とも称される所以である。なお、大部分が緩徐楽
章という珍しい構成であり、2楽章のトランペットのカデンツァは、彼が医療部隊にいたころに聴いた消灯ラッパを引用している。
≪2つの大戦の間の活動と功績≫
『民族音楽論 National Music』で彼は次のように
第一次世界大戦後の 1919 年に王立音楽大学の作曲の教授に就
書いている。「それ(民謡)が純粋に旋律的であると
任。1924 年頃から彼の音楽は新たな段階に入り、オラトリオ「聖なる
いう事実がある。われわれは近代音楽によって、あま
りに和声に慣らされているから、和声を考慮しない純
市民」など、荒々しいリズムや鋭い和声が特徴的な曲を生み出してい
粋な旋律がありうるということさえ、できにくくなってい
く。なかでも 1935 年に BBC 交響楽団によって初演された「交響曲第
る。(中略)5拍子とか7拍子の不規則な長さをもっ
4番」は従来の「田園風」な管弦楽曲とは異なり、大胆な不協和音と
た小節は現代作曲家だけの特権であるかのように考
緊張感がみなぎる内容であったため、聴衆は彼の作風の変化に驚い
えがちだが、むしろ現代作曲家たちの方が先人の享
た。第二次世界大戦直前のヨーロッパの不穏なムードを
受していた自由に復帰したのである。」また彼は、民
反映したものといわれるこの曲の傾向は、戦後に書かれ
謡を「共同体という幹をもつ個の開花」と定義づけて
いる。(塚谷晃弘訳「民族音楽論」雄山閣 より引用)
た「交響曲第6番」にも受け継がれていく。また、翌 1936
年には「Dona Nobis Pacem」が初演され、彼の戦争の
記憶や平和を願う気持ちが表れた作品となっている。
この時期、彼はアメリカやイギリス各地を公演して回り、1934 年には民謡研究の集大成『民族音楽論 National Music』を出
版している。なお、過去にはナイトの叙勲を拒否したこともあるが、1935 年にメリット勲章を受けている。
≪第二次世界大戦から戦後≫
1939 年ナチスドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦がはじまった。67 歳になっていた彼は、ナチスの台頭によりドイツ
から逃れてきた難民のためにサリーの自宅を開放したりするなど積極的に支援を行った(1939 年にナチスは彼の音楽の演奏を
禁じている)。また、戦時映画にも音楽を提供している。第二次世界大戦下のイギリスは、彼に限らず国民全体が強いナショナ
リズムのもとに戦意高揚させ、銃後の守りに備えた時代でもあった。
このころ彼の作風はさらに成熟した抒情的な段階へと入り、牧歌的ともいわれる「交響曲第5番」が作曲され、生涯尊敬した
シベリウスに献呈された。その後 1944 年~47 年にかけて「交響曲第6番」
「トマス・タリスの主題による幻想曲」…16 世紀イ
が作曲され、大きな成功を呼び、初年度だけでも 100 回も演奏された。
ギリスの作曲家トマス・タリスの『大主教パーカーの
前半は不協和音が鳴り響く激しい曲想に「戦争交響曲」とも評されたが、
ための詩編曲の』の旋律を題材とした作品。1910
終楽章はほぼ pp で演奏され、静けさが強調されている。
年自身初演指揮をして大きな成功を収める。
「海の交響曲」(交響曲第1番)…(詞ホイットマン)
合唱付き交響曲で、環境に対する本能の勝利を
歌いあげている。1910 年に自身初演を指揮し、注
目を浴びる。
「ロンドン交響曲」(交響曲第2番)…ロンドンの街
の1日を描写した通俗的な曲。大成功を収めイギ
リスを代表する作曲家として地位を固める。1914
年初演。
ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス『揚げひばり』
…英国作家ジョージ・メレディスによる詩に触発。
第一次世界大戦従軍のため中断したが 1920 年
に完成し初演した。民謡風の旋律を用いた美しい
牧歌的な曲で現在でも演奏されることが多い。
「グリーンスリーヴスによる幻想曲」…歌劇「恋する
サー・ジョン」の第4幕の間奏曲を独立させたもの。
グリーンスリーヴスは緑の袖の着物を着た浮気な女
(一説には娼婦を意味するとか…)を歌った 16 世
紀末の民謡。1934 年初演。
「南極交響曲」(交響曲第7番)…1947 年に映画
『南極のスコット』のために作曲した映画音楽を再
構成して交響曲をつくった。1953 年に初演。
≪晩年≫
ヴォーン ウィリアムズは 1942 年に夫を亡くしたアーシュラ・ウッドを、合
唱作品の台本などの文学面の助言者としてサリーの自宅に住まわせた。
アーシュラは、妻アデリーンが 1951 年に死去するまで介助するなど彼女
に尽くし、その後 1953 年に2人は結婚してロンドンに移り住んだ。
彼は晩年に「南極交響曲(交響曲第7番)」、「交響曲第8番」、「交
響曲第9番」と3つの交響曲を作曲している。とくに交響曲第9番の初
演は亡くなる3ヵ月前であり、最後まで精力的に多くの楽曲を世に送り
出した作曲家であるといえる。ま
た種類も多様で交響曲や室内
楽、合唱曲、オペラを作曲するか
たわら、映画音楽にも関心をもち、
教会音楽とも関係が深かった。
1958 年、86歳で心臓発作の
ためロンドンで死去。その後アーシ
ュラは彼の功績を広める活動を
(ヴォーン ウィリアムズと妻アーシュラ)
続け、2007 年に亡くなった。今は
ウェストミンスター寺院の北の聖歌隊席の通路に共に眠っている。
(Wikipedia、RVW 協会ホームページ他を参考)