2016 年 11 月 24 日(各務原) 「降りて出会った安心」 ルカによる福音書 19 章 1~10 節 名古屋新生教会 安達正樹 私が働いている教会の同じ敷地の中に保育園があります。天気の良い日は教会の外で子 どもたちが元気いっぱいに声をあげて遊んでいます。先日こんなことがありました。ある時、 仕事がうまくいかなくて、とても暗い気持で歩いていた時、遠くで私のことを見つけた3歳 くらいの女の子が遊びの手を休めて私の方に駆け寄って来ました。そしてとってもすてき な笑顔で『いえーい!』とハイタッチ(私はハイタッチにならないけど…)をしてきたんで す。いくら落ち込んでいるとはいえそれを無視するわけ行きませんから、私も「いえーい!」 と女の子に合わせてハイタッチをしました。女の子の小さな手と私の手がパチンと音を立 て、バイバイをして女の子と別れたとき、私は自分の心の変化に驚かされました。何かで固 く塞がれたようになっていた私の心が、いつの間にか、ほぐされ開かれていたのです。 自己嫌悪に陥っていた私に女の子は喜びをもって近づいてくれ、そして触れてくれまし た。その私を喜んでくれる姿によって私は自分を取り戻すことができたのだと思います。 私は、今日、読まれました聖書に記されていたイエスとザアカイとの出会いの出来事もそ れに似ている、いやそのもっと深いものだったのだと思います。 ザアカイの仕事は徴税人の頭でした。徴税人とはユダヤの民衆たちから税金を集める役 割を与えられた人です。それも既定の金額を集めるのではありません。当時徴税人には給料 が出なかったので彼らは既定の税金額より多く徴収してそれを自分の利益としていたので す。ザアカイはそのような徴税人の頭、トップだったのですから民衆たちからとても嫌われ ていました。3節でザアカイが、イエスがどんな人か見ようとしたとき群衆に遮られて見る ことができなかったとあります。群衆の中にザアカイのことを気にかける者は誰もいなか ったのです。また後の方の7節ではイエスがザアカイの家に泊まることになった時、人々が 「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやいたと記されています。ザアカ イは人々から罪人として後ろ指さされるような存在でした。 そのように人々から存在を肯定されずにいたザアカイがどのように生きたのか、想像で きるような気がします。彼は人々から嫌われれば嫌われるほど、余計に徴税の仕事に精を出 し、さらに金持ちになるために突き進んでいったのだと思います。イエスとザアカイが会っ た時、ザアカイはイチジク桑の木の上にいました。私はその描写がただその時の状況を記し ているだけではないと思います。認められていない自分を認めるために、また自分という存 在を保つために、 『おれはここにいるぞぉ!』という感じで、上へ上へと必死に登りつめて いく、そんなザアカイの人生が象徴されているように思うのです。 人びとに見向きもされないザアカイ、そして上へ上へと登りつめ、独り高いところにしが みついているザアカイをただイエスだけが見つけました。イエスはザアカイに近づいてい き、声をかけます。 『ザアカイ、急いで降りて来なさい! 今日はぜひあなたの家に泊まりたい!』 イエスはザアカイの名を親しみと喜びを込めて呼びました。そして「今日はぜひあなたの 家に泊まりたい」 、つまり『あなたと一緒に過ごしたい。あなたと友達になりたい』と語り かけたのです。このイエスの呼びかけと言葉が、ザアカイを今まで必死にしがみついていた ものから解放させました。聖書は、ザアカイが急いで降りてきて喜んでイエスを迎え、「主 よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていた ら、それを四倍にして返します」と言ったと記しています。 誰にも存在を認められなかった自分を喜ぶイエス、等身大の自分を慕い、友として一緒に 過ごしたいと願うイエスとの出会いによって、ザアカイはもう木登りはする必要がなくな りました。本当の喜びと安心を知ったのです。 今日の話を終えるにあたりぜひみなさんに覚えていただきたいことがあります。それは イエスとザアカイとの出来事を2000年前のエリコの町で起きたその場限りの出来事に 閉じ込めないでもらいたいということです。聖書は歴史書や事件簿ではありません。ヨハネ による福音書の終わりにこんな言葉があります。 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスが神の子メシアであると信じるため であり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」 聖書は私たちが愛であるイエスを信じて命を受けるために書かれたのです。 見えなくなっていたザアカイを見つけたイエスは今、私たち一人一人を見つけています。 喜びをもって「ザアカイ!」と呼びかけたイエスは今、喜びをもって私たちの名前を呼んで います。そして木から降りた等身大のザアカイを愛したようにイエスは今、そのままの私た ちを愛しているんです。 喜びをもって近づいてくれた小さな女の子によって、落ち込んでいた私の心は開かれま した。同じように私たちを喜ぶイエスの愛は私たちの心を奥深くから開かせてくれます。そ うして心開かれ、今度は私たちがイエスの愛を生きていく、つまり、見えなくなっている人 を見つけ、喜びをもって名前を呼ぶ者になっていくのだと思います。 掲載元:中部学院大学・中部学院大学短期大学部_チャペルアワー
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