市史編さんこぼれ話 No.4「在りし日の範多農園を追って 20 年 余」

市史編さんこぼれ話 No.4「在りし日の範多農園を追って 20 年
余」
作成部署:企画政策部 市史編さん担当
◇ “越 前 さ ん の 蔵 ” と の 出 会 い
小平市内にかつて『範多(はんた)農園』と呼ばれる広大な農園があったことを知ったのは昭
和 62~63 年のことだった。小平市役所に勤務している方から「鈴木町2丁目にある日本
植物防疫協会の敷地は元範多はんた農園と呼ばれ、その敷地内に大岡越前守の屋敷にあっ
たといわれる白壁の土蔵がある。一度訪ねてみませんか」と誘われた。
その白壁の蔵は近隣には見かけない趣きで保存状態もいいとのことで、小金井カントリー
倶楽部北側一帯は、戦前まで貿易商をしていた範多(はんた)範三郎ことハンス・ハンターの
農園だったそうで、その蔵はハンター氏が麻布に構えていた別邸から移築したらしい。古
くからの付近の人々からは“越前さんの蔵”とよばれていたそうだ。ハンター氏は小金井
カントリーとも関係しているかもしれない。どちらも昭和 12~13 年頃に建設されている
という。
貿易商ハンス・ハンターといい、大岡越前守屋敷の蔵といい初耳のことばかりで、にわか
に信じがたい話だった。ハンス・ハンターは名前からするとドイツ人と思われたが、ラト
ヴィア人らしいとのこと。
当時、ラトヴィアはまだソビエト連邦のバルト三国の一つで、はるか遠い北の国というぐ
らいのおぼろげな知識しか持ち合わせてなかった私は“ラトヴィアの貿易商”だというハ
ンス・ハンターと“越前さんの蔵”との間に、どんなドラマが潜んでいるのだろうかと、
勝手な想像をふくらませた。
その当時、連続テレビドラマ「大岡越前」は「水戸黄門」や「遠山の金さん」と並んでお
茶の間の人気番組だったので、大岡越前守を歴史上の実在の人物というより、時代劇やテ
レビドラマの主人公ぐらいにしか受け止めてなかったが、歴史が身近にも感じられた。
◇大岡伝説の真偽を求めて
昭和 63 年当時、小金井カントリーのコース北側に接して、鈴木町二丁目住宅街の一角に東
側から(財)残留農薬研究所・(社)日本植物防疫協会小平分室 ・植物防疫資料館、農林
水産省農薬検査所が “ダンゴ三兄弟” のように並んでいた。その年の旧盆過ぎに“越前
さんの蔵”が保存されている日本植物防疫資料館長の古山清さんを訪ねることになった。
古山さんは第二次大戦後まもなくから同協会に勤め、生き字引のような存在だという。
“越前さんの蔵”が大岡越前守屋敷にあった蔵かどうか…鳶色の瓦屋根は晩夏の陽射しを
浴びて濡れたように光っており、蔵の姿形も小平近在農家に古くからある土蔵に比べてこ
ぶりで優美だった。
古山さんは昭和 23 年(1948)9 月、日本植物防疫協会の前身である『社団法人農薬協会』
の試験研究農場が当地に開設されて間もなく病理担当として勤務するようになった。当時
周囲は草茫々で人家は数えるほどしかなく、試験場敷地の一角の大小二棟の温室と白壁造
りの土蔵は目立っていた。
食糧不足が深刻で農作物の増産が急務にもかかわらず、全国の田畑は戦時中の酷使と肥料
不足で疲弊しており、各種各様の農薬や肥料が氾濫。それらの中には成分不足や悪質なも
のが少なくなかった。一方、アメリカから DDT や BHC などの殺虫剤や農薬が大量になだ
れ込んできており、農薬による防除の推進や不良農薬や植物防疫の試験研究を目ざして社
団法人農薬協会は設立された。
職員は試験栽培や農薬殺虫剤の成分分析に日々追われていたが、古山さんは研究所用地が
範多(はんた)農園の跡地であったことを知る機会があり、さらに徹夜で泊まり込むこともあ
った蔵が、かつて父親が“越前さんの蔵”と呼んでいた土蔵だと分かって驚いた。戦後の
資材不足で施設建設は追いつかず、 温室も土蔵も研究施設としてフルに利用していた。
◇ 白 壁 の 蔵 と 父 子 の 不 思 議 な 縁 か ら 範 多 (は ん た ) 農 園 の 存 在 が
古山さんの父親は庭師をしており、東京帝大を初め府内の公園や政財界人の邸宅の庭を手
がけ、赤坂のアメリカ大使館の隣にあった範多(はんた)事務所にも、よく出入りしていた。
古山さんが少年時代に父親から聞いた話によると、ハンス・ハンターはイギリス人実業家
の父親と日本人の母親の間に生まれ、 日本名は範多範三郎(はんたはんざぶろう)と名乗っ
ていた。彼の父親は関西で一二を争う大財閥だった。
ハンス・ハンター自身も鉱山関係の事業を手広く営んでおり、その本拠としていた赤坂の
範多(はんた)事務所であった。二階のプライベート部分のベランダでは、趣味としていた洋
蘭や高山植物栽培の温室を設けていた。古山さんの父親はそれら栽培の相談役を務めてい
た。ハンター氏は麹町に本宅を、麻布周辺に別宅も構えており、 その別宅の庭に“越前さ
んの蔵” があったそうだ。
元々は大岡越前守屋敷にあったといわれる土蔵を、ハンター氏が惚れ込んで別宅に移築し
て、さらに小平に農園を設けるのと前後して、麻布区宮村町(現在の港区麻布十番) にあっ
た別宅から蔵も移築されたとのこと。それ以上詳しい話を聞く前に古山さんの父親は他界
してしまった。
◇範多(はんた)農園から予期せぬ展開が次々に
ハンター氏がどういう意図で小平に農園を設けたのか…。ここで情報の糸がプッツリ切れ
てしまったように思われたが、数日後、偶然にも「8 月 31 日午後 1 時 25 分からNHK
第1テレビの 『関東ネットワーク』 で、在りし日の ハンス・ハンターについて放映があ
ります」と、古山さんから知らせを受けた。
放映時刻にテレビのスイッチを押すなり画面に白い帆を張ったヨットが湖水を次々と滑る
ように横切って行く。ヨットレースや外国人のリゾート風景など信じられない光景に我が
目を疑ってしまった。「これが本当に中禅寺湖なの!?」。放映によると、ハンス・ハンタ
ーは 7 歳で英国に留学、ロンドンのロイヤルスクール・オブ・マインズで鉱山学を修めた
後、米国各地の鉱山を視察。同窓生仲間と朝鮮でソウル マイニングの経営に参加して金鉱
山で成功を遂げた。明治末期に日本に帰国して大分・鯛生(たいお)金山、宮崎・見立(みた
て)錫(すず)鉱山など
の開発・経営に手腕を発揮する一方、 本拠地を東京に移して中禅寺湖のリゾート計画にも
着手した。ラトヴィア出身で日本に亡命していた秘書や周囲から推されてハンター氏はラ
トヴィア総領事も務めており、その関係からハンス・ハンターはラトヴィア人だという噂
が流布されたらしい。
そのハンター氏の側近を務めていた伊藤徳造さんが、奇遇にも範多(はんた)農園の跡地であ
る日本植物防疫研究所のすぐ近くに住んでいた。古山さんは伊藤さんと顔見知りであった
が、この放映の一件で初めて範多(はんた)農園関係者だと知ったそうだ。伊藤さんは当時
78 歳という高齢だったが壮健で、決して饒舌ではないが封を切ったような語り口で「鈴木
街道から小金井カントリー倶楽部との境界まで、この辺り鈴木町2丁目 772 番地一帯はそ
っくり範多(はんた)農園の敷地で、1万 6000 坪もあったんですよ!」
。私の想像をはるか
にしのぐ規模だった。
◇ 壮 大 な 範 多 ( は ん た )農 園 と そ の 所 有 者 ハ ン ス・ハ ン タ ー の 活 躍
1 万 2000 坪にのぼる農場は英国のカントリースタイルで、本格的に土壌改良を施して、
戦前にレタスやセロリなどの洋野菜を栽培したり、温室ではトマトの水耕栽培も試みてい
たという。
「約 4000 坪は宅地で、那須塩原の庄屋だった豪邸を移築した母屋は、ハンタ
ー氏が一切の事業を整理した資産と理想を注ぎ込んだものですから、それは素晴らしいも
のでした」と、伊藤さんは往時を今のように語るのだった。その母屋は昭和 12~13 年頃
完成直後に、東京市から迎賓館として使いたいから、譲ってくれないかと申し出があった
そうだ。二階四室はゲストルームで高級ホテル並みの仕様だった。
伊藤さんによると鯛王(たいお)金山は最盛期には東洋一の金の産出量を誇り、見立(みたて)
鉱山は日本では唯一の錫すず鉱山でどちらも日本の鉱山開発と近代化に大きく貢献を。鉱
山事業と平行してハンター氏が創設した奥日光中善寺湖畔に鱒釣りを中心とした『東京ア
ングリング・エンド・カンツリー倶楽部』は在日外交官や日本の上流階級の紳士的な社交
の場で、彼の理想郷でもあった。日英両国を母国とするハンス・ハンターには国際親善こ
そが日本の将来の目指す道だと、信じて疑わなかった。口先だけの平和主義ではないもの
を求め見果てぬ夢を抱いていたそうだ。同倶楽部は秩父宮、東久邇宮(ひがしくにのみや)、
朝香宮(あさかのみや)を賛助会員に、代表は佐賀藩主の家柄の鍋島直映(なおみつ)公爵、会
長は時の加藤高明首相、副会長には三菱財閥の岩崎小弥太男爵、会員には後の日銀総裁土
方久徴、古河財閥の古河虎之助男爵、樺山愛輔伯爵ら錚々たる人たちが名を連ね、ハンタ
ー氏の社会的地位と交際の広さ、財力を物語っている。
中善寺湖畔大崎にあった元トーマス・グラバーの別荘を譲り受け、改築して『西六番館』
と称してハンター氏は夏場を過ごし、
『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』 の
クラブハウスも兼ね、中禅寺湖畔で鱒の養殖も手がけていた。中善寺湖尻の出身でハンタ
ー氏の書生として、
『範多(はんた)事務所』で寝起きし身近に接してきた伊藤徳造さんの話
では、ハンス・ハンターはとにかくスケールがでかく、事業も遊びや趣味にも全力を注い
で最高のものを求めたという。昭和 4 年夏、中禅寺湖で繰り広げたヨットや和船レース、
湖畔で繰り広げた国際親善の和やかな風景をハンター氏は一六ミリ映画フィルムに収めた
が、その
後、日本は満州事変を契機に軍国化孤立化の一途をたどり、世界第二次大戦を目前に同倶
楽部は解散に追い込まれてしまった。
◇日本の軍国主義化で多大な事業は終止符を、戦火ですべてが灰燼に!
一方、そうした国際情勢をいち早く察知してすべての事業を整理して、日本国籍を復帰し
範多範三郎(はんたはんざぶろう)として自給自足的な暮らしで送るために設けた小平の範
多(はんた)農園も、時世に抗えず麦やサツマイモ、ジャガイモなどの供出を割り当てられ、
ハンター氏の描いた理想の農園とはかけ離れたものになっていった。母屋も昭和 20 年 4
月 19 日 10 時 10 分、P51 戦闘機の少数編隊が京浜地区上空に襲来して、機銃掃射を開
始した。この爆撃によって範多(はんた)農園母屋は焼夷弾の狙い撃ちを受け、茅葺屋根にブ
スリブスリと食い込んで炸裂した。
厚さ 60 センチ以上もあった茅葺屋根からたちまち火の
手が上がり、 家屋全体があっという間に炎に包まれてしまった! ハンター氏と入籍して
間もない妻子たちは逃げおおせたものの、母屋と長屋門は全焼してしまった。全く何も持
ち出せない状態で、ハンター氏の夢と資産を次ぎ込んだ調度や書画 骨董もことごとく灰に
なってしまった。英文で手記を綴っていたそうだが、それらも燃えてしまった。前後して
くハンター氏は脳軟化症を患い、失意のうちに昭和 22 年 9 月 24 日この世を去った。ド
ラマよりドラマティックな生涯であった。
範多(はんた)農園の宅地部分はハンター妻子に相続されたが、赤坂育ちの妻は「農業はした
くない」と売り払い、農地部分はGHQの推し進める農地改革で、敗戦当時農園で耕作に
従事していた使用人や元の所有者に払い下げられ細分化して、幻の如く消えてしまった。
耕作者は農業を続けることを条件に農地を払い下げられたが、数年後には引き揚げ者住宅
用地として売り払われてしまった。またタナボタの人や割りを食った人の間で反目があり、
互いに範多(はんた)農園のことには口をつぐんで歴史の谷間に長く埋もれてきたようだ。
◇範多(はんた)農園とハンター氏をめぐるロマンとミステリーは今も
なお、大岡越前守屋敷にあったと伝えられる白壁の蔵のルーツは現在の大岡家当主にも問
い合わせたが、真偽は定かではない。ただ、この蔵は麻布宮村町のハンター氏の別宅に移
築されるまでも、あちこち転々としたようで、“妾蔵”とか“さすらいの蔵”と呼ばれてミ
ステリアスを秘めた蔵のまま、日本植物防疫協会の敷地で『展示蔵』として公開もされて
いる。
また、範多(はんた)姓はハンス・ハンターの長兄竜太郎が係累の絶えた元与力の家柄・範多
(はんた)家を継承する手続きを経て名乗ることになったものである。ハンター氏に関する資
料は殆ど火災で失われており、直接関わった人もほとんど物故していただけに、古山さん
や伊藤さんから極力、聞き取りを重ねてきた。伊藤さんには覚書を作成してもらったが、
一方で「本当かナ?誇張や記憶違いがあるかもしれない」と疑う癖もあり、ハンター氏の
事業跡なども訪ねて確かめてきた。鉱山跡は予想以上に大規模で山奥の足の不便な場所ば
かりだった。
今年 2009 年 9 月 24 日、中禅寺湖畔西六番別荘跡で二回目のハンス・ハンターを偲ぶ会
が開かれ参加してきた。地元の有志「中宮祠・中禅寺 百年を語る会」によって 2008 年か
らハンス・ハンターの命日に開かれることになり、今回はハンス・ハンターが愛してやま
なかったスコッチウィスキーをテーマに、ハンター氏も操業を応援していたニッカウヰス
キーの栃木工場長や、スコッチウィスキーの醸造所巡りもしたことがある足利銀行日光支
店長のトーク、手回し蓄音器によるスコットランドの調べ、蘭の献花などが行われ、ハン
ター氏の存在と日本の近代化に果たした業績が見直されていることを実感してきた。
※「ハンス・ハンター」についてより詳しく知りたい方は、中込さんが研究した成果が下
記のホームページモグラ通信の「在りし日の範多農園を訪ねて」に掲載されていますので
ご覧ください。
モグラ通信 HP アドレス:http://www.h4.dion.ne.jp/~mogura1/