(P.2) 2004年(平成16年) 8月11日発行 会報第32号 岩崎 宏 7月 14 日講演要旨 日比ビジネスクラブ(JBCP) 『フィリピン旅行業 26 年の思い出』 <フィリピンの美女> その方によると「フィリピンの観光業はこれからど んどん伸びるのでクルーザーがあるならグアムより フィリピンの方が儲かりますよ」ということでした。 私はそれまではフィリピンという国には全く関心が なかったのですが、その方が同伴されたスタイル抜群 で美人のフィリピンの奥様を見て、世の中には随分綺 麗な人がいるものだな、フィリピンもいいなと思うよ うになりました。 その女性の魅力も手伝ってか私たちはその場で「わ かりました。参りましょう」と急遽、グアム行きをフ ィリピン行きへ切り替えたのです。 そしてまずは私が先発隊としてひとりでマニラの 様子を見に行って、船主の友人はあとから合流すると いうことになりました。その頃、成田―マニラ間を飛 んでいたのはスターリング・エアラインというチャー ター専門の航空会社で、こんなに小さな飛行機で本当 に大丈夫かなと不安一杯で搭乗したものです。 岩崎 宏 (いわさき・ひろし) 1954 年(昭和 29 年)栃木県生まれ。東京でビジネス専門 学校を卒業後、家電販売メーカーに勤める。79 年に退社し、 フィリピンへ渡航。その時 24 才。旅行社でアルバイトの後、一 旦帰国。その後フィリピンに戻り、重機のリース・販売、濾過 器販売などを様々な事業に手を染め、 82 年フレンドシップ ツアーへ入社。現在同社のフィリピン支店長。として、主に日 本人のフィリピン国内ツアーを主催。WINS テレビのレギュラーメ ンバーとして出演。 <フィリピンへ来たきっかけ> 私がフィリピンに来たのは、1978 年、偶然知り合っ たAさんという人がきっかけでした。奄美出身で実家 が民宿を営んでいるというその方の誘いを受けて初 めて奄美を訪れました。私は栃木育ちですので初めて の奄美の自然、美しい珊瑚礁が目に焼きついて、いっ ぺんで南国の海のとりこになりました。その奄美から 帰る船の中でAさんが実は商売に失敗していて財産 をすべて処分した結果、クルーザー2隻だけが残った と打ち明けてくれました。そして、その船がグアムに 係留してあるので一緒に行かないかと誘われました。 私は当時 24 歳で、一旗揚げたいという気持ちが非 常に強かったものですから勉強でも遊びでも何でも いいから2、3年でも海外経験を積みたいと思ってい たところでした。 そこでその話に乗ってグアム渡航の準備をしてお りました。そうしたときにたまたま切符を依頼してい た旅行会社から連絡があって、マニラでツアーを受け 入れているオペレーター会社の社長が来ているので 会ってみないかというのでした。そこで私たち二人は その社長に東京青山のアジア会館というホテルでお 会いすることになったのです。 <マニラでの生活の始まり> 最初の夜はホテル・ミラドールという今では閉鎖し てしまったホテルにチェックインしましたが、フィリ ピンは始めてでしたので、右も左もわからず、Aさん の案内がなければ一歩も出られない状態でした。けれ ども一人で部屋にいても面白くないので、おそるおそ るホテルを出て、毎日行動範囲を 10 メートルずつ距 離を伸ばしながら近所の地理や様子を覚えていきま した。 さて、ツアーオペレーター会社のお手伝いというこ とで、最初はマイクロバスの運転手でもすればいいか と思っていましたが就労ビザもないままあまり目立 つこともさせられないということで、結局、お客様の 世話、つまり空港の出迎えからホテルのチェックイン などを手伝うことになりました。 当時は日本人をまず街の両替商へ連れて行って、そ れから拳銃射撃、カジノなどに案内したりしていまし た。私はツアーオペレーターの手伝いをやって、とに かく業界のひどい実態を見せてもらいました。最初は 本当に驚き、一体こんなことをしていていいのだろう かという疑問に陥りながらも、結局、自分も一緒に遊 んでしまいました(笑) 。 <ヤクザの人質に> マニラには酒、博打、女、それに拳銃、麻薬など何 でも揃っておりますので、日本から来るお客さんには ヤクザのお客さんも多かったわけです。あるときこん なことがありました。私のボスが悪さをしましてお客 様から預かったお金をカジノで倍にしてやろうとし てすってしまったのです。私はそんなこととは露知ら ず、社長から「岩崎君。これをお客さんの部屋に届け てくれない。中身はお金なんだけれど」と言われて私 は素直にそれを届けに行ったわけです。 日比ビジネスクラブ(JBCP) そのお客様のお部屋はスイートルームでしたが、部 屋のドアを開けてみるとたくさんの方がずらーっと 並んでいて驚いたことに誰も背広に腕を通してない んですね。腕がないわけじゃないんですよ(笑)。こ れはまた場違いな所に来たもんだなと思っていると、 君はどこの人間だ。誰がボスだと尋ねるので正直に答 えると、「では君も一緒だな。君のボスが悪さをした ので君は人質としてここに残りなさい」と言われまし た。何で自分が人質にならなきゃならないんだと焦っ たのですが、ほどなく私の上司が来て無事入れ替わり、 事なきを得ました。そのあと上司がどんな目にあった のかは定かではありません。ただ彼は3日ばかり行方 不明になっておりました。 <騙されて無一文に> さて私は実は日本からなけなしの 50 万円の現金 を持ちこんでいて、それを社長の勧めで貸し金庫に預 けていたのです。社長からは結局、給料を一銭ももら えていなかったため手元の小遣いも底を尽き、仕方な く社長にそのお金を出してくれるように頼んだとこ ろ、「ああ、そのお金。ごめん。会社の支払いに使っ ちゃった」とあっさり言うのです。私は驚いて「黙っ て人のお金を使うということは泥棒ということでは ないですか」と食い下がりました。すると「岩崎君、 これから君がフィリピンで生きていくうえで僕がい なかったら困るだろう」と言われました。困るかどう かは別にしてそれは理由にならないでしょうなどと 反論をしたのですが、ないものは取れないわけで、泣 き寝入りせざるを得ませんでした。それからしばらく 経ったある日、ホテルに戻ったらフロントが鍵をくれ ないのです。よくよく話を聞いてみると何と社長から 家賃が支払われていなくて、今日限り出て行けという のです。私のいっちょうらの着物から国際免許証など 一切の身の回り品を全て置いたまま追い出される羽 目になりました。 <起死回生の一発> 要するに私は無一文宿無しになったのです。私は自 問自答しました。一体、自分は何をするためにフィリ ピンにきたのだろう。日本から来るはずだったAさん は一向に来ないし・・・。いまだに来ていませんが(笑)。 お金もない。これからどうしよう。などと頭を抱えて おりますと、よく来られるお客様から「岩崎君も大変 2004年(平成16年) 8月11日発行 会報第32号 (P.3) だね。今度私の友人が 10 人が訪比する。これを君に 任せるからそれで何とかしなさい」と言われました。 その手配を一所懸命やったところ3泊4日で 20 万円 もの利益が出たのです。当時の 20 万円ですから大変 なお金ですが、当時はツアーを手配するとそれくらい の利益が上がったのです。それでようやく一息つくこ とができたので一度日本に帰国して出直そうと思い ました。 ところが、登録していた旅行会社に半分取られたり、 義理を果たしたりで残ったのはわずか5万円になっ てしまいました。 <知人の情けでようやく帰国> さらには私の滞在ビザの延長手続も一切されてい ないことが判明しました。知らぬうちにオーバーステ イで大変な状況になっていたのです。これを見かねた 移民局のフィリピン人の知人が私の不法滞在を合法 滞在にアレンジしてくれました。さらにエア・マニラ というマニラ―日本間を飛んでいた航空会社のマネ ージャーが空席があるからということで、私は搭乗券 なし、つまり無料で飛行機に乗せてもらって無事帰国 することができました。 <マニラに舞い戻った理由> ほうほうの体で日本に帰国した私でしたが、再びマ ニラに舞い戻ることになったのは、「畜生。馬鹿やっ ていただけで、何も残っていないじゃないか。何かひ とつ、岩崎の「い」の字だけでもフィリピンに足跡は 遺せないものだろうか」という負けん気があったから です。そう言うと格好がいいのですが、実はその頃ち ょうどきれいな女性とつきあっておりました。また、 いつかは世に出て一国一城の主になりたいと言う気 持ちで貯めた虎の子の貯金が日本に残っていたので そのお金を持って性懲りもなくフィリピンに舞い戻 ったわけです。ここまではよくあるマニラにはまった 浜ちゃんみたいな(笑) 、そんな感じだと思います。 <別の職業を模索> さて、旅行業に携わってそのひどい実態を目の当 たりにして嫌気がさしておりましたので、いったんそ こから外れることにしました。そして中古の重機を輸 入販売やリースをしたり、道路工事を請け負ったり、 いろいろやってみました。 その中でも結構続いたのはウォーターフィルター、 つまり「ろ過器」のリースの仕事でした。当時フィリ ピンの水道は、茶色の水が出て、皆、それを煮沸して 上澄みを飲んでいました。ですから、これは当たると 思ったわけです。 順調に行っていたのですが、フィルター供給会社が 2年目くらいで倒産し、品物が入ってこなくなってき て撤退しました。 その頃妻と知り合いまして、小さな写真屋を買い取 ってマラテのマビニストリートのボーリング場のな かで営業するようにもなりました。家賃を差し引けば その日の食事くらいは稼げる写真屋を彼女がやって くれまして細々と仕事を続けていたのです。 (P.4) 2004年(平成16年) 8月11日発行 会報第32号 <旅行業界へカムバック> しかし、こんなことをしていても私の足跡など残ら ないし、このままではジリ貧もいいところ。年をとる ごとにやり直しもできなくなってしまう。彼女と結婚 することもできない。困った。日本に出稼ぎに行こう かな、などと思案しているころにまたオペレーター業 をやらないかというお誘いがあったのです。 そうして紹介されたの人物が今の私の上司です。私 はその会社に入社して今に至っているわけです。 けれども前に旅行社の手伝いをしてひどい目にも あっているものですからまたおかしなことになるの ではないだろうかという不安はありました。 日比ビジネスクラブ(JBCP) です。 <起き上がりこぼしのフィリピン> さて、私自身もようやく生活が成り立つようになっ てきて 82 年には無事に結婚へこぎつけたのですが、 良くなってくると何かが起こるというのがフィリピ ンでした。 私の勤めた会社はフレンドシップツアーという会 社ですが当時マルコス大統領の弟でパシフィコ・マル コスという医師が会長をしている会社で、日本からバ スを 13 台輸入して、そのうち3台観光庁に寄付する という景気の良い会社でした。でも経営に当たってい た華僑系フィリピン人の社長というのが非常にワン マンな方で、会社に立ち寄るたびに経理から現金を持 <売春ツアー> っていってしまう。そこで会社はいつも資金不足。儲 さて、旅行業界に戻って程なく、ある大事件が起こ かっているのに給料の遅配も度々で、とにかくデタラ りました。 メな経営体質でした。これではやっていけないという ある招待旅行で来られた何百人ものお客様がラマ ことで、四方に手を尽くしてその会社の株を彼らから ダホテルに宿泊することになりました。そしてホテル 全部買い取り、ようやく独自経営にこぎつけたわけで の大ホールで夕食を摂ったあと、主催者が「さあ、こ れからは日比友好親善の時間です」とアナウンスして、 す。 これで、何とかやっていける会社になったと思った カーテンをパッと引くとその奥にはひな壇がありま 矢先に大事件。83 年にベニグノ・アキノ上院議員が暗 して腰に1、2、3と番号の振られた女性がズラーッ 殺されました。その日私は飛行場に3組のお客様の出 と並んでいて、「お好きな方をお選びいただいて、お 迎えに行っていたのですが、その日の飛行場はとにか 部屋の方でどうぞ」などと派手にやったのです。もち くたくさんの人でごったがえしており、結局お客様に ろん、私の会社の企画ではありませんけれど。 は会えずじまいでした。今日はどうなっているのだろ それをある日本の新聞がすっぱ抜いて翌日の新聞 うと疲労困憊して事務所に戻ったところ、日本からの の一面トップを飾りました。その事件の主役になられ 電話でアキノ氏が暗殺されたのだと知らされたわけ た皆様が飛行機でお帰りになられるときの気持ちは です。 察して余りあります(笑) 。 その翌日から日本からのツアーは全てキャンセル その記事をきっかけに社会党の土井たか子議員が になりました。また旅行業界を逆風が襲ったのです。 日本人男性の「売春ツアー」を国会でガンガン追及す その後長い時間を掛けて、徐々に日本人客が戻ってき るようになりました。それで日本からのお客様はパタ リと来なくなりました。さらに売春ツアー防止のため、 たところで、86 年に「二月政変」が勃発したのです。 「ピープルズパワー」だとかという民衆の蜂起の様子 旅行業法が改正され、旅行地の法令に違反するサービ が日本でつぶさに放映され、10 本ぐらい入っていたチ スの提供を受けることに旅行業者が関与した場合、業 ャーター便が全部キャンセルになりました。 者を罰する旨が定められたのです。それが 1982 年の そして 86 年に起こった若王子氏誘拐事件。これは 頃のことです。 は旅行業界にとっては駄目押しのようなものでした。 この改正によって、女性を目的にフィリピンに来る 事件の解決まで本当に長かったですね。大手の旅行会 観光客は激減し、成田のフィリピン航空 431 便9番搭 社は運輸省から指導があるとピタッとツアーをやめ 乗ゲートには誰もいなくなるというありさまとなり てしまうんですね。予約されていたツアーが翌日から ました。私も時々日本に帰国してフィリピンに戻ると 全てキャンセルになりました。 きにはとにかく恥ずかしいのでこの9番ゲートから そんな状態が、半月、一月と続いていくわけです。 遠く離れたハワイ行きのところなどに座っていて、搭 その間自分たちはどのように生活を繋くことができ 乗5分前のアナウンスが流れるとダダダーと搭乗口 たのか今でも不思議に思っています。東京本社の方も に向かうというそういう状況がしばらく続いたもの このときばかりは会社を閉めて自宅待機にしようか。 です。 とにかくここは我慢するしかないねとお手上げの状 そんな状況でしたから、日本人男性をあてにしてい 態でした。 たフィリピン女性たちは食べていけません。そこで増 日本ではフィリピンは危険であるということなの えたのが日本に出稼ぎに行く女性です。これが当時は に、報道陣だけは大勢やってきて、毎晩ナイトクラブ 日本人からの身元保証書があれば簡単にビザが発給 へ行ってはどんちゃん騒ぎということを繰り返して されました。それで日本へどんどん働きに行ったので いました。。それを経費として落とすために領収証を す。 我々に求める彼らの厚顔無恥を見ていて私はメディ でも我々旅行業者の方はどうしようもありません。 ア嫌いになったのです。 現地で「さあ、いらっしゃい」と叫んでもお客さんは 89 年にはバギオ大地震がありました。こちらでは大 全然来なくなってしまいました。いくらタガイタイが したことはありませんでしたが、日本では大変な大騒 いい、パグサンハンいいですよ。海がきれいですよ言 ぎになっていたのです。次に起こったピナツボの大噴 ってもお客さんはゼロ。とにかく我慢を強いられたの 日比ビジネスクラブ(JBCP) 火のときは、日本人に支障はないだろうと思っていた のが、飛行場に火山灰が堆積して一ヶ月も使用不能に なりました。とにかく空港が使用できないためお客さ んもゼロという状態が続き、いよいよ我々も生き延び るためにはアウトバンドに力を入れるしかないかな という状況でした。 <希望の星、パラワン島> さて、まともなツアーが少ない中、唯一の希望の星 はパラワン島のリゾート開発でした。当時、日新製糖 ㈱がパラワン島にジョイントベンチャーで開発した エルニドリゾートというのがありました。責任者の日 本人は私どもの会社を指定代理店にし、エルニド行き のお客様は絶対に夜遊びに連れて行ってはいけない。 買春が目的の方はうちのツアーに参加させないから と強く念押しをするほど真面目な考え方を持ってお られました。 エルニド・ツアーは当時一人 30 万円というとほう もない金額でしたが、至れり尽くせりの素晴らしいツ アーでして、お客さん全員に必ず満足して帰ってもら うという徹底したやり方を彼がとっておりました。 私はなるほどこういうツアーを伸ばしてゆかない といけないんだなと思いました。 2004年(平成16年) 8月11日発行 会報第32号 (P.5) ていて料理はフランスの田舎料理です。おいしいです。 彼は貝の収集家としても有名な方で世界有数の貝を たくさんお持ちです。そこはWEBサイト以外では一 切宣伝をしていません。 パラワン島のコロンも低料金で出しているのです がここも素晴らしいですね。景観を見るだけだったら エルニドと変わらないです。 また最近は、ボホールが素晴らしくて、バングラオ という小さな島のアロマビーチだとかビーチがたく さんありまして、マニラから直行便が出ています。世 界の七不思議といわれるチョコレートヒルズの日帰 りを楽しむこともできますし、世界最小のターシャと 呼ばれているメガネザルも見られます。今ツーリス ト・スポットとして脚光を浴びてきているボホール島 です。 <観光立国への長くて遠い道のり> 今後は、健全な旅行をもっともっと催行していかな くてはならないのですが、問題は山積したままです。 例えば、国の玄関口である飛行場の問題、ブラックリ ストの問題、イミグレーションの高圧的な態度。観光 資源は素晴らしいものがあります。地理的に他のアジ ア諸国からも近いし、ヨーロッパからも来られる。そ の資源を生かせば観光立国として十分やっていける と思うのですが、それが全然生かされていない。観光 <日系企業が進出> 政策にもっと力を入れて日本のリゾート関連企業な タイやマレーシア、インドネシアと他の国では旅行 どをどんどん誘致し、リゾート開発とオペレーターに 客がどんどん増えているのにフィリピンだけが伸び は優遇税制を与えるなどしてほしいものです。開発し 悩んでいたのは、「危険な国」というイメージが日本 ても持ち帰れる訳ではないわけですから。 人には強かったからに他なりません。 フィリピンに来てナイトクラブ、カジノ、拳銃射撃、 それがフィリピンにも次々と工業団地ができて日 マビニの風俗街ばかりをドブネズミみたいにうろち 本から大手企業が進出するようになりました。彼らに ょろしながらやってきていうるうちにだんだんフィ 話を聞いてみると、フィリピンに来る前は赴任したく リピンが変わってきました。今後はフィリピンのため ないと考えていた。でも3、4年住んでみると結構い に何か役に立つことをしたいと思うようになって、自 いところではないか。それどころか会社を辞めてでも 分自身も少しずつ変わってきたのかなという気がし 残りたいくらいだという方が大勢いて嬉しくなりま ています。 す。フィリピンも「住めば都」で結構いい国ではない 私自身の反省も込めて、今後素晴らしいフィリピン かと理解されるようになってきたのです。 にしていくために、こちらにいらっしゃる方がどんど ん素晴らしい観光地を開拓してもらって、素晴らしい <お勧めのリゾート> 私の一番のお勧めはパラワンです。施設とサービス、 フィリピンを紹介してほしいと思っています。 (テープ起こし担当 屋良) どちらも文句なしに素晴らしいと断言できます。 そして穴場中の穴場としてお勧めしたいのがバレ シン島。マニラ湾から太平洋側に小型飛行機で飛び立 「フレンドシップツアー」のホームページ つこと 30 分。白い砂浜の別世界に到着します。 http://www.gyronet.com/friendship ミンダナオ島の北北東にシアルガオ島というのが ありまして、セブから毎週火土に飛行機が飛んでいま す。シーイエアという 19 人乗りの立派な飛行機が飛 んでいます。これはマニラから早朝便で行けば十分乗 り継ぐことができ直行でシアルガオに入ることがで きます。それ以外にスリガオから船で行くという方法 もあるのですが、一番便利なのはセブ経由直行便です。 有名になったのは毎年9月末サーフィンの世界大会 が催されているからです。3月~6月迄がバショウカ ジキ、セールフィッシュですね。サーフィンポイント をトローリングするだけでバショウカジキが間違い VISA コンサルタント、ニューオフィスベア なく釣れます。これは穴場中の穴場だと思います。 電 話 833-4070 (大森) パンスキアン、というリゾートはフランス人がやっ
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