ジャン・リューシュの考え

ジャン・ルーシュの証言
ここに、人類学の研究上必要な事象を残さず映像に収めることをめざし、そのため映画
をペンのように用いることを提唱したジャン・ルーシュの言葉から印象深い部分を引用し
ておこう。
「フラハティができたての映像を、最初の観客であるナヌークに見せたとき、参加観察
法とフィードバックの二つを発明した。カメラは”参加するカメラ”となった。ジカ・ヴ
ェルトフは、現実の小さい要素を記録することが課題であった。キノキすなわち”映画の
眼”を案出した」(1981:78 ー 79)。
「これらの先駆者は本質的な問題を発見した、それは、フラハティにしたように、フィ
ルムに現実(実生活の場面)を撮るべきか、あるいは、ヴェルトフがしたように、特別の
設定をしないで現実を撮るべきか(ありのままに撮った生活)ということである」(1981:80)。
「カメラを持って歩き回り、最も効果的な場所にもっていって、写されているひとと同じ
ように生き生きとしたカメラの動きを即座に造ることである。これはヴェルトフの「映画
の眼」に付いての理論と、フラハティの「参加するカメラ」の理論の最初の統合である」
(1981:86 ー 87)。
「カメラと録音器は、制作者が記録させたものだけを記録する。ある意味でシネマはマジ
ッカル・メジュウムである。ジガ・ベルトフによると、眼が見ることがないものを見る眼
である、耳が聴かなかったことを聴く耳である。そして、それはいつも引導され、指向さ
れる、これは制作者の役割であり、民族学の分野で特に難しい役割である。ここでは制作
者は真実より真実である記録を歪める機器を使って制作を試みなければならない。民族誌
家にとって、フラハティの言葉が参考になる。
”貴方が相手を知り、相手が貴方を知るまで
撮影をはじめてはならない”」(1970:4)。
「撮影者はもはや自分自身でなく、エレクトニックな耳を持った機械の耳となる。この奇
妙な変化の状態を、私は、みいられたような現象から類推してシネ・トランスとなづけて
いる」(1981:87)。
Rouch,Jean,1970, Sociology and Direct Cinema, PIEF Newsletter 2(2): 3-5
ルーシュ,
ジャン,1981, 「カメラと人間」 『映像人類学』所収, 映像記録